2019年10月04日
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カテゴリ: OPERA




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名古屋のおやじ様寄稿 ジェシー・ノーマンの思い出



 ジェシー・ノーマンというアメリカ出身の類まれな歌手の存在を、はっきりと意識したのは、彼女がクルト・マズアの指揮するゲヴァントハウス管弦楽団の伴奏で入れた、「4つの最後の歌」をメインとするR.シュトラウスの歌曲集のLPを聴いたときです。たっぷりとした豊かな響きのオーケストラを背景に、彼女の底光りするゴージャスな声と明晰なドイツ語が響く、その壮麗な歌唱に一気に魅了されました。先ほど、調べてみたら1982年の録音。国内に入ってきたばかりの新譜の輸入盤を購入した記憶があるので、学部の学生の頃ですね。「ジェシー・ノーマンというすごいアメリカの黒人のソプラノがいるんだ」と、音楽好きの知人たちに、力説したのですが、当時あまり相手にしてもらえませんでした。

 そして、1985年11月2日。東京文化会館で初めて彼女の実演に接しました。彼女の初来日公演の初日です。小澤征爾さんの指揮する新日フィルをバックに、『タンホイザー』のエリーザベトのアリア、イゾルデの「愛の死」、そして、R.シュトラウスの「4つの最後の歌」などが歌われました。期待を裏切らない見事な歌でした。でも、ジェシー・ノーマンという歌手のとてつもない能力に圧倒されたのは、アンコールに無伴奏で歌われた二グロスピリチュアル “He’s Got the Whole World in His Hands” 。ささやくように始まり、歌詞を繰り返し、インプロヴィゼーションを加えながら、歌がスケールを徐々に増し、大きなホールに広がってゆく。声による巨大な伽藍が眼前に立ち上がっていくような錯覚を覚えました。飛び切りの内容の演奏会でしたが、実は、当日ホールには、かなりの空席がありました。

 同じ年の11月14日。来日公演の最終日にもう一度、彼女の歌を聴きに出かけました。会場の昭和女子大の人見記念講堂の前には、当日券を求める多くの人たちがいました。彼らを会場に引き寄せたのは、おそらく11月9日の朝日新聞の夕刊に掲載された吉田秀和さんによる2日の公演を絶賛する長文の批評でしょう。今も手元にある1985年の来日公演のプログラムに、茶色に変色した紙切れが挟まっていたのですが、この時の評の切り抜きでした。その吉田さんの評は次のように始まっています。

 ジェシー・ノーマンという歌手は、私のこれまでの経験を超えた、桁外れの存在である。
 桁外れというのは、何も歌い手としての彼女の大きさ、優秀さだけをいうのではない。もちろん彼女の歌は傑出している。だが、そこから放射されてくるものは、大きさ、深さ、高さといった次元のどれかだけで計ったのでは正確に言い現わせず、充分にとらえられない。

 そして、この2つめの段落は、「この人は純粋に人間的存在でありながら、何か宗教的なものを思わせずにおかない」と結ばれています。14日のプログラムで、もっとも心を揺さぶられたのはラヴェルの「2つのヘブライの歌」のなかの「カディッシュ」。あのような深く峻厳な歌を聴いたのは、先にも後にも、この時だけかもしれない。宗教的な体験のようなものだった気もします。あまりに感動したので、この翌日、学校帰りに、銀座の楽器店へ「2つのヘブライの歌」の楽譜を買いに行きました。オレンジババロアのような色の表紙がついた薄い譜面をながめ、前日に耳にした、あのような歌が、ここから生まれるとはと、言葉を失いました。

 ノーマンの来日公演の少し前には、バーンスタインとイスラエルフィルとの例のマーラーの9番(お盆の休暇に読んだ、ハワイ大のヨシハラ・マリ先生が最近出されたDearest Lennyでもページが割かれておりましたね)やロンドンのロイヤルオペラの来日公演があって、バルツァ&カレーラスの『カルメン』なども鑑賞しているので、なんとも贅沢な体験をしていたものです。

 次にノーマンの歌を聴いたのは2年後の1987年の夏のザルツブルクです。当時、大学院の修士課程の学生でした。リサイタルとイゾルデの「愛の死」を聴きました。そうです。後者はカラヤンとウィーンフィルとの有名なパフォーマンスです。私にとっての最高の音楽体験のひとつは、間違いなく、聖母被昇天の祝日である8月15日に行われた、この演奏会です。CDや映像もあり、それらでも十分のその素晴らしさは分かるのですが、記憶の中にあるものとは、やはり違うのです。記憶は美化されがちなもの。しかし、CDや映像に収録されているものは、私にとって「影」に過ぎないのです。それを最も強く感じるのは、「愛の死」の終わりのあたりで、イゾルデの歌の鼓動が高まっていくときに、オケが何度か低い音を響かせる部分。ホールで実際に響いていたのは、どこまでも落ちていきそうな深淵ともいえる音。戦慄を覚えました。ヴィデオには映っていませんが、答礼に出てきたカラヤンが、舞台の隅でオケの高い山台にもたれて、歓声に応えたときの蒼白の顔も、脳裏に焼き付いています。ひとつの時代の落日を予感した瞬間でした。

 ノーマンの舞台に最後に接したのは、21世紀になってから。名古屋でのシェーンベルクとプーランクのモノオペラの舞台でした。

ジェシー・ノーマンさん、素晴らしく豊かな時間を本当にありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。

名古屋のおやじ


***

名古屋のおやじ様、ありがとうございます。





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最終更新日  2019年10月04日 20時40分09秒
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