2009/03/02
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カテゴリ: 古代史系の妄想
なんか今回とりとめがありません
また補足しますm(__)m 
(1)一説に天智天皇は甥の大津皇子をことのほか可愛がったとききます(出典忘れました)命名根拠も近江の大津であり、九州の那大津はこじつけがすぎると考えます。
なぜ那大津皇子でなく、那だけとったのでしょう?
従来、大田皇女は天智実子とされてきましたから、大津皇子は天智実子ではありえないという解釈だと思います。
(2)なぜ斉明天皇は死後、孫の建皇子と合葬するように遺言したのか?
  たけるのみこ=推古天皇の皇子(たけだのみこ) で、天皇になれなかった皇子、合葬依頼のくだり、孫であることよりも子であるほうが、現実感があります。
おいおい説明します。推古天皇は斉明天皇と同一人物です。
(最初に唱えたのは言語学者加治木義博先生です) 
日本書紀は系譜を斉明-天智とつないだために、天智の子である必要性がでてきました。
敏達と推古の子竹田と、斉明と天智の子(?!またオカシナ妄想をしているな!!とお叱りをうけそうです)建・・・・同一人物である可能性は高いです
(3)長、弓削皇子のみならず、系譜上天武天皇の皇子とされる人々はみなさん非業の死(若年死)をとげています。
逆に実子と私が言及する、草壁皇子は若く病死しましたが、舎人皇子・新田部皇子は天寿をまっとうしました。
このあたりが、日本書紀編纂時は天智系が疎外され、桓武天皇になって意識的に天武系を疎外というに変化したからではないでしょうか?
これでは答えになっていませんね。
生没年問題がクリアされれば、大江姉弟・新田部皇女は天智の娘ではない(孝徳の娘とはいいきれませんが)
ことの証明になるとも思います
(4)壬申の乱以降、何らかの理由で天武天皇は大友以外の天智皇子を全員(しかも大友の子まで)引取りました。
当時の系譜上は川嶋・志貴(=磯城)すべて天武の子とされていたと思います。
川嶋は大津を裏切り、35歳で若死にしています。
だから天武系譜からはずされた元に戻されたのです。
志貴親王は藤原百川らの光仁天皇擁立策略もあり、必要以上に天智系であることの強調が迫られました。
(5)当初なぜ天智天皇崩御58歳説だったのかに立ち戻る必要があると痛感しました。
神谷さんのおかげです。こちらのブログです。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/profile.htm 
それまで私は天武65歳崩御の固定観念にとらわれていた気がします。
で、大体弟は5歳くらい下だろう説が天武65歳説の始まりだったと思います。
(6)一連の考察からすると日本書紀は系譜上天智-大友とつなぐ必要が生じたと思います。
十市皇女を天智娘とすると、大友は婿になります。
実際に戸籍上は親子と認めたかもしれません。
大友と川嶋・志貴・持統らがじつの兄弟姉妹であれば、みすみす十市・高市ともども逃げられるでしょうか?
 ところでかねてから、天智天皇には側女しか子女がいなかったのか疑問でした。
 間人皇后の存在が邪魔をしたというのが通説ですね。
 皇后崩御後、天智天皇に即位したことになっています。
 通説は藤原不比等と持統天皇が互いの父の業績を誇大広告するためとなっていますが、
 上記のような考察からもっと裏がある気がしてなりません。





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Last updated  2009/03/11 04:49:44 PMコメント(0) | コメントを書く


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