2009/05/05
XML
カテゴリ: 古代史系の妄想
こんにちは

古代史妄想にお立ち寄りくださりありがとうございます。

前々回、おさらいぽく、「小野妹子」は男である的な記述をしました。
当時は「蘇我馬子」と「中臣鎌子」とか、「子」は男子への尊称でしたが、
平安期以降、特に皇室に嫁いだ藤原氏の女性の名前の最後尾に軒並み「子」がついているので、
「子」は女性につくものに変化していったようです。

私見では、女性の名前に「子」がつくのが一般的になったのは明治になってから、平民にも苗字がつくようになってからだと思いますがいかがでしょうか?

ところで、古代中国には「孔子」とか「孟子」とか「子」のつく偉人がおおいので、日本もその真似をしたのではないかと思っています。

くどくど言いましたが、もうタイトルからお気づきだと思いますが、


われわれの現代感覚からすれば、なんの疑問もなく女性なのですが、この当時「子」は男性であって母親が「子」がつくことはどうも腑に落ちないのです。

もちろん、「子」のつく女性がそれまで全く皆無かというとそうではありません。

26代継体天皇の妃で27代安閑・28代宣化両天皇の母親の目子媛(めのこひめ)は子がつきます。
その宣化天皇の妃は稚子媛(わくごひめ)です。

でもそのくらいです。

ということは、古代の女性で「子」がつく女性はなにか訳ありではないかと思うのです。

当ブログで盛んに述べているのでが、「分裂説」です。

あとは、貴人の場合、父親の名前+媛(つまり、だれだれのひめ)の場合もあります。

伊賀宅子実在説の方の言い分は、「いがの造(やっこ=知事)のひめだからだ」
ということになると思います。

しかし、だったら、「伊賀造媛」でいいではありませんか。


つまり、「伊賀造」は、当時の三重県伊賀地方に実在した知事だから書けなかったのではないでしょうか?

くどくどすみません。
おさらいですが、やはり大友皇子は卑母のうまれではなく、蘇我倉山田石川麻呂の娘で、持統天皇の母でもある、遠智媛(おちのいらつめ、別名造媛=やっこひめ)だったんです。

そうです。持統天皇こと「うののさららひめみこ」は実の弟と夫大海人皇子が壬申乱で争い、夫に最初から最後まで付き添ったのです。

通説では持統天皇は、天智天皇と遠智媛の娘。


しかし計算が合わないので、私見は
持統天皇は孝徳天皇と遠智媛(乳媛=ちのいらつめ)の娘。
大友皇子は天智天皇(金春秋)と再婚遠智媛(造姫=やっこひめ)との皇子。

です。

ですから、大友近江朝には蘇我氏のブレーンが多かったのではないでしょうか?
(しかし、半分以上蘇我氏は大海人皇子に寝返ってますけど)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2009/05/07 04:47:41 PM
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ
画像認証
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。


利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: