2009/05/18
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カテゴリ: 古代史系の妄想

こんにちは

古代史妄想くんです

前回は35代皇極天皇でした

30代敏達天皇の曾孫にすぎない宝皇女(のちの皇極)が聖徳太子の皇子・山背大兄王をさしおいて即位できたのはおかしい。というお話をしました。

即位できないどころか山背大兄王は入鹿に攻められ、自殺においこまれます。

この事件がさまざまな憶測を呼んだのはいうまでもありません

1.山背大兄は架空の人物である

2.山背大兄は聖徳太子の皇子ではなし

山背大兄実在派の人々は

A.新たな蘇我系の閨閥作成のため、古人擁立をはかったので山背が邪魔だった

(しかし古人大兄皇子は皇極の皇子ではないので、皇極などというリリーフを送らず、すぐに古人を即位させればよかったのです。若干年が不足していた説もありますが)

どうも苦しい言い訳です

ですから、この時代は女帝と男帝がペアで統治する、男女平等(いや若干女性上位)だったのです。

29代欽明紀などを見ると、欽明天皇は謙遜して、山田皇太后に政治のすべてを任せようとし、皇太后はこれを辞するくだりがあります。

つまりこの時代はややもすると、天皇より皇后の地位のほうが高かったかもしれないのです。

それをなぜ、あえて推古は敏達の皇后にとどまらず、天皇になったとしたのでしょう?

日本書紀は推古期の男帝を書けなかった理由があるのではないでしょうか?

聖徳太子?あめのたりしひこ?

日本書紀が天皇として認められない人物は?

蘇我入鹿?

推古期だと蘇我馬子、皇極期だと入鹿あたりが怪しいということになります

しかし、古来より、推古と馬子、皇極と入鹿の関係を疑う学者さんは多いです。

つまり、日本書紀は極悪人のはずの入鹿や、その祖父の馬子(崇峻天皇暗殺犯になってるし)を天皇格にはみとめられなかったのではないか?

それでやむなく、推古・皇極は皇后のみでなく、シングル天皇とせざるを得なかったのではないでしょうか?






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Last updated  2009/05/25 06:31:41 PMコメント(0) | コメントを書く


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