2012/07/25
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カテゴリ: 古代史系の妄想

という疑惑です。

人質という表現は的確かどうかは、わかりません。

私説では、新羅王、金春秋(武烈王)はもともと九州南部の小国「日本国」の国王で祖国新羅国の危機に際して暫定的に新羅国王に就任します。

ただ、彼はあまり朝鮮半島統治に興味がなく661年に突然日本(倭国)に舞い戻るのです。

斉明天皇の死を待っていたかのように現れます。

これも私説ですが、当時の倭国というか、倭・高句麗・百済・新羅の国王は倭国連邦の皇帝を持ち回りで務めていました。

いまわれわれが知りうる天智以前の歴代天皇は倭国のみの王ではなく、日本列島と朝鮮半島の国家群を統括する「倭国連邦」の皇帝だったということです。

斉明天皇は最後の連邦皇帝ということです。

天智天皇は小国「日本」の王ですから、残念ながら連邦皇帝になる資格を有していませんでした。

おりしも朝鮮半島は本家筋にあたる新羅が唐と連携し半島統一をめざしていました。

これに乗じて、金春秋(天智)は日本国の領土拡大(つまり倭国を併合)を画策しました。

金春秋は新羅筋なのに、天智即位後の近江朝の官僚は百済帰化人が多いのはそのためです。

金春秋に忠誠をちかっていた金多遂(天武)ですが、あまりの百済遺民厚遇に面白くなかったことでしょう。

また、新羅国本体は高句麗との最終決戦&半島統一後に唐の圧力をどれだけはねのけるかに注力し、日本列島介入のひまなどありません。

倭国併合に成功した日本国ですが、トップの新羅系は少数派で、実際の政局運営は倭国出身(蘇我氏物部氏)豪族、百済出身豪族(藤原氏)にゆだねるしかありません。

日本天皇に就任した天智ですが、このように地位は不安定なものでした。

結局天智の死後、新羅につくか唐につくかで国内を2分した壬申の乱は金多遂(天武)の勝利に終わり、

大友(文武王)は新羅へ追放です。山前で自決したのは影武者です。

天智皇子の川嶋・施基は金多遂(天武)の人質になりました。

 ここで悩ましいのは、金多遂は王族のはしくれであっても傍系です。

天智の娘(じつは孝徳の娘、持統)の婿でも、新羅・唐の反発は押さえられません。

つまり天智の子たち(皇子=川嶋・施基、皇女=持統、元明、新田部等)は天武にとっていざという時に皇位継承させ、新羅唐に対してのいいわけにしようとしていた&新羅に対しての人質の意味合いもかねていたのではないか?ということです。

新羅半島統一後、当然唐は半島も手中におさめるべく、仕掛けてきます。

この時に天武は新羅と手を結び対唐の防波堤の役割を新羅におしつけ、交換条件に新羅王金春秋(天智)血統に皇位を約束したのです。

あくまでも新羅的には金多遂(天武)は臣下であり、王にはなれません。

暫定的に日本国支配者となりましたが、その地位は不安定でした。

その後の天皇家私的菩提寺の泉湧寺に天武の血をひく天皇が祀られていないのはそのためだと考えます。 

天武皇子がことごとく皇位継承から排除されたのも新羅のスパイの暗躍があったからかもしれません。

新羅的には武烈王金春秋(天智)の血統しか天皇になることを許さなかったのです。 

その新羅も唐駆逐には成功したものの、渤海国の台頭や後百済・後高句麗などの建国があいつぎ日本列島干渉どころではなくなったことでしょう。

そのうち唐も勢いが衰え、894年遣唐使も白紙になりますが、確立した天智王家はこのあと300年めんめんと続いていきます。

藤原氏の暗躍に助けられて・・・・・・・・・・・・・






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Last updated  2012/08/11 01:47:38 PMコメント(0) | コメントを書く


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