またまた読書感想文の羅列で恐縮ですが・・・
株式会社 叢文社(そうぶんしゃ)刊
「 天武天皇の年齢研究」
ISBN978-4-7947-0633-1
著者:神谷政行氏
も読みました(2年前ですが)
豊田有恒氏の説は、大海人皇子を忍術の達人として、蘇我入鹿・古人大兄皇子・有間皇子・天智天皇の暗殺or死刑執行の実行犯としていることですが、
神谷氏説は大海人皇子の 「元より多の病有り」 という書記の記述を重視しており、豊田氏のとは相反する説だということです。
血気盛んな大津皇子の父をという視点からは「病弱」というイメージではありませんが、病弱な草壁皇子の父を視点からみれば、なるほど草壁皇子の病弱は父親譲りだったのか?ということもうなずけます。
以前私は、草壁皇子のみ天武の実子で、あとの皇子は血がつながっていなかったのでは?と疑っていました。
天武-草壁-文武-聖武とつづく系譜には病弱のイメージがつきまといます。
そこの系譜に挟まる、女帝系譜の元明・元正には堅実でしっかりしたイメージ、
その前の持統と、つづく孝謙(称徳)にいたっては、ヒステリックで破壊的なパワフルなイメージで飛鳥・奈良時代は締めくくられます・・・・
それとも天智天皇は病弱な弟(私説は義弟ですが)に自分の健康な娘4人を嫁がせて元気な子供を授かるように助力したのかもしれません。
しかし、一番頑強だったと思われる 鸕野讚良 (持統)の息子のみ忠実に父親の遺伝子をひきついでしまったとはなんという皮肉でしょう。
かねてより私は持統天皇と大田皇女が大化改新以前に生まれたことに対して天智実子ではないのではないかと疑問を持っています。
大田皇女の実の父親でなければ、大津皇子が天智実子の可能性は大いにあります。
通説は、「大津皇子」の名の由来は九州那大津であるとされますが、私は単純に近江の大津にちなんだとふんでいます。
それから持統天皇が自身の血統しか皇位につけないように尽力したのは、草壁皇子が天武の血をひく唯一の男子だったからではないか?
と推測すれば説明がつくかな?と・・・
では天武皇子とされるその他皇子の父は?
あくまで妄想ですので、お疑いの目でご覧下さい
高市皇子→天智・・・母は地方豪族の娘ゆえ皇位継承権が低かった
大津皇子→天智・・・大田皇女の父は孝徳天皇
磯城皇子→天智・・・施基皇子と同一人物
忍壁皇子→天智・・・施基皇子の兄
長皇子・弓削皇子・穂積皇子・舎人皇子・新田部皇子→藤原不比等
ではなぜ系譜上天武の皇子とする必要があったのでしょう?
天智の皇子を取り込んだのは、王家とのつながりを重視。
百済派に取り込まれた大友皇子のみ排除し、ダメージを最小限にとどめた。
長皇子・弓削皇子・穂積皇子・舎人皇子・新田部皇子においては、皆母親が天智皇女であったので、これも王家とのつながり重視。
う~んこれを推し進めると、以前舎人親王は天武皇子で天智孫ではないと言及したことに反します・・・・
整理します・・・
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