http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E5.AE.98.E5.88.B6
高句麗は淵蓋蘇文が665年に死去後、間もなく668年に唐・新羅連合軍の前に滅亡します。
その後、中大兄皇子を最後に、日本からは「大兄皇子」がいなくなります。
最初は17代履中天皇の「大兄去来穂別」ですが、その後継体天皇の長子の勾大兄皇子を皮切りに、欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子が登場し、その弟用明天皇はシンプルに「大兄皇子」、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子、聖徳太子の子「山背大兄王」、舒明天皇皇子の古人大兄皇子、最後は中大兄となります。
その定義は、とても曖昧で「皇太子」のように次期皇位を約束された地位でもなく、一族の長兄的な存在とされます。
では、なぜ中大兄即位後、大海人皇子は大海人大兄皇子にならなかったのか?
大友皇子がいたから?
天智が無理やり「大友大兄皇子」にしてもよさそうなものです。
ここは、単純に高句麗が滅亡したから高句麗官職の「大兄制度」が消滅したとするほうが、簡単でスッキリします。
では、上記大兄皇子たちは高句麗人だったのでしょうか?
それは違うと思います。
当時は三韓と倭国は王家断絶を防ぐために王族を融通し合っていたと見ます。
つまり行き来も頻繁で、次期皇太子候補が高句麗を訪問し、官位を得たとしても十分考えられることです。
私は、欽明王朝における蘇我氏の台頭を、百済系王族の倭国移住による制圧的併吞ではないか?
と疑問をもってきましたが、淵蓋蘇文(日本書紀では、いりかすみ)=蘇我入鹿とすれば、高句麗系王族であっても不思議はありません。
従来、蘇我氏は百済系渡来人説が有力でしたが、私は百済系の欽明を擁立した高句麗宰相クラスが倭国に乗り込んできたと見ます。
おそらく、もともと継体天皇は地盤が弱いことに加え、筑紫造磐井の乱平定などで、国力を消耗したスキをついたと思われます。
しかし、欽明系と継体系に戦闘があったとは考えにくく、旧雄略系と結びつき巻き返したと思います。
しかし、継体系も滅亡したわけではなく、宣化-石姫-敏達-押坂と非蘇我系王統もとぎれず続きます。
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