2012/09/10
XML
カテゴリ: 古代史系の妄想

我ながら、久々の大妄想(大暴走)で、古代史妄想看板に偽りなし。と行きたい所です。

早速ですが、この二人と密接な関わりあいがあるのは、天智天皇です。

天智天皇の即位前は、「葛城」「開別」「中大兄」と時代によって変遷します。

それますが、弘文天皇も「伊賀」「大友」と二つあります。

藤原鎌足は薨去の寸前「藤原の姓」を賜ったわけですから、生前はほとんど「中臣」「鎌子」「鎌足」と呼ばれていたことになります。

さて、天武天皇ですが、即位前は「大海人」のみです。または「皇太弟」と聞きなれない尊称で呼ばれます。

昨今、歴史学会を賑わせているのは、「斉明紀」における「はじめ用明帝の孫高向王に嫁して漢(あや)皇子を生めり」という記述と、一代要紀や本朝皇胤紹運録などの天武享年65歳説から、実は大海人皇子は天智の異父兄で「漢皇子」の別名である説を採用する学者様が増えています。

前置きが長くなりましたが、私は中大兄と鎌足の蹴鞠の出会いのシーンと新羅本紀の金春秋と金庾信(ユシン) との蹴鞠によるシーンの酷似、当時日本には蹴鞠がなく、新羅にはあった可能性が高いことから、このエピソードの出元は新羅本紀のほうではないかと疑ってきました。

古代史ブロガーさんも結構増えました。

ブログには「金春秋=中大兄、金庾信=鎌足」 とする説も多数見受けます。

ただ、金庾信は金春秋の娘を妻に迎えています。

しかし、鎌足には天智帝の皇女を妃に迎えた事実はありません。

むしろ、天智帝の皇女を4人も妃に迎えた天武帝のほうこそ「金庾信」に符合するのではないか?(新羅本紀上、金庾信は金春秋より年長です)

 新羅版大化の改新に符合する、647年びどんの反乱を鎮圧するのは金春秋・金庾信コンビです。そのことからは金庾信=中臣鎌足説もうなづけます。

と、いうことは鎌足=庾信=大海人という三段論法的図式は強引でしょうか?

冷静に日本書紀を読むと鎌足と大海人は同時に登場しないのです。

有名な説話、ある宴で、酩酊した大海人が槍を床に突き刺し、天智帝が殺そうとしたが、鎌足のとりなしで収まった。という説話があります。

日本書紀にはありません。藤氏家伝という藤原氏の歴史書に記述が見えます。

古代においては、「矛(ほこ)」のほうがスタンダードな武器でしたが、大海人皇子は槍の名手であったことから、槍で床を刺した =大海人、短気な皇帝=天智、それを諌める忠臣=鎌足という図式ですが、とても疑問があります。

1.その他には冷静な大海人がこのときだけ豹変した。

2.通常、皇太弟とはいえそのような狼藉を行って命が助かるわけがない。

3.そしていかに鎌足が帝の信頼を得ていたかの「どや?エピソード」。

つまり、私の妄想では大海人と鎌足を別称ではなく別人にするための策略と見ます。

ただ、元となる話はあると思います。

当時作り話という概念はなく、(竹取・源氏各物語は平安期)話を水増しするために別称を別人と誤解するように誘導する手法が多いからです。

しかし、今回の妄想には大弱点(アキレス腱)あります。

大海人皇子は鎌足の娘、五百重娘を妃に迎え、新田部親王をもうけています。

ただ、天武帝あまりに晩年の皇子ゆえ実の父親は藤原不比等ではないか?疑惑もあります。

鎌足は五百重娘の養父であり、形ばかりの夫ではなかったのではないでしょうか?

名より実をとる主義(No.2でおいしく寄生主義)に転換した藤原氏が、祖先鎌足=天武の事績を抹消し、(皇室菩提寺の泉湧寺からも除外)あくまでも主筋の天智系を表に立てたと考えると意外とその後の展開もうまく説明できるのですけど・・・ 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2012/09/10 05:18:06 PMコメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: