本題とは無関係ですが、本日は9.11です。
イスラムにはイスラムの正義があろうかと思いますが、罪なき人の命を無作為に奪うことは、人として外れた道だと思います。
法治国家においては、オウムを始め人命を軽んじる宗教は弾圧されるべきです。
しかし、3.11の場合は自然があいてなので、どこに怒りをぶつけていいのやら。
トヨタ自動車のCMでビートたけし氏が海に向かって「バカヤロー」と叫ぶシーンは実に深い。
ところで本題ですが、以前1990年中旬、山科誠氏の「日本書紀は独立宣言書だった」を読み、目からウロコの部分が多かった、しかし賛同できない部分もある。と言及しました。
ふと読み直すと、蘇我氏は天皇だったという、最近ではそんなに奇抜ではない記述がありました。
そして、蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿と天皇であったと書かれています。
そのことを日本書紀は隠ぺいするために、
架空の天皇、欽明-敏達(崇峻・推古)-舒明-皇極をあてはめたとします。
読んだ当時は若干こじつけ(お前が言うか?といわれそうです(^^;)かと思いましたが、
最近はこの説を発展させたら面白いと思うようになりました。
つまり架空ではなく、舒明の事績を欽明に、天武の事績を敏達に、孝徳の事績を用明に、皇極&斉明の事績を推古に持っていき、蘇我王朝の穴を埋めたのではないか?
とすれば、山科氏の説と符合します。
私は、常々高句麗の栄留王を殺害した、淵蓋蘇文は日本書紀では (伊梨柯須弥、いりかすみ)と記録されるので、蘇我入鹿と同一人物ではないか?と言及してきました。
蘇我稲目の父は文字通り「蘇我高麗」ですから、ここにも証拠があります。
ところで、 崇峻天皇は蘇我馬子に殺されたと日本書紀は堂々と記録しています。
592年のことです。
臣下が天皇を殺害したら大逆罪でそれこそ・・・・なのですが、このことは蘇我馬子=聖徳太子=本当の天皇という説も生みだすことになります。
それらの意見を尊重し、蘇我馬子が天皇だったとして、それでは日本書紀に見える馬子に殺された「 崇峻天皇」はどのようなポジションにいたのでしょう?
もしかしたら、蘇我氏祖国高句麗を任された高句麗王だったのではないでしょうか?
栄留王が淵蓋蘇文のクーデターによって落命するのは642年です。
この事件をスポッと馬子の代へもっていったら、こうなった?
このころ、641年に舒明天皇が崩御、百済武王が薨去と各国の王があいついで亡くなっています。
すくなくとも舒明天皇は百済宮で亡くなられたので、百済王も兼ねていた可能性は高いわけです。
栄留王と 崇峻天皇と舒明天皇に共通点は見いだせません。
ただ、栄留王の諱は「建武」なので、百済「武王」とかぶっています。
また三段論法になってしまいますが、建武王=武王=百済王=舒明天皇という図式になります。
そのうち、栄留王=建武王は「」に殺害されます。
崇峻天皇は蘇我馬子に弑されます。
つまり栄留王=舒明がいりかすみ=入鹿に殺された記録を蘇我王朝隠匿のため過去へ当てはめたら、馬子の時代になったので入鹿が馬子に変わったのではないか?
ということになります。
ただ、崇峻天皇の和名は泊瀬部皇子か長谷部若雀天皇ですから、舒明・欽明系の名前でなく、雄略天皇(大長谷若建命、大泊瀬幼武尊)か武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊、小長谷若雀命)に近い名前を持っています。
雄略が「大」で、武烈が「小」、崇峻が「なし」
仮に3人を同一人物とすると、雄略&武烈天皇は7世紀の人となり、倭の五王の「武」とは別人ということになります。
または、倭王武=雄略とし、武烈天皇をその直系子孫とすれば、継体天皇出現後も、武烈天皇は生きていて、高句麗から進出してきた「蘇我氏」に滅ぼされたことになります。
つまり、雄略王朝は百済から進出してきた継体王朝に併吞された。
(武烈は生きていたが、姉タシラカヒメミコや春日山田皇女、 橘仲皇女 を継体・安閑・宣化に拉致された)
しかし、その継体王朝も高句麗からの蘇我氏に呑みこまれ、武烈は馬子に殺害された。
これで蘇我氏系天皇全盛期を迎えますが、白村江大戦で惨敗を喫し、新羅王武烈王=金春秋に蘇我氏系大王は滅亡に近い打撃を受けます。
滅亡したわけでは、ありません。石川氏として子孫は残ります。
そう考えれば、舒明王朝と欽明王朝に名前の酷似した皇子・皇女が顔をそろえていることにも納得できます。
それで乗り込んできた金春秋(天智)&金庾信(鎌足、後の天武)によって日本国が建国されたのです。
古代史妄想 総括 2018/04/17
三田誠広氏の小説「白村江の戦い」を読み… 2017/09/07
2016年1月5日のつづき 天智天皇暗… 2017/03/17 コメント(1)