天智7年9月、同11月、8年9月、
9年9月 阿曇連頬垂を新羅に使わす
10年6月、同10月、同11月
以上 天智7年から10年まで6回にわたり、新羅は日本に貢物をしてくれます。
通説では、天智は百済びいきで反新羅ですが、戦勝国新羅が敗戦国日本(実質は倭)に4年間で6回贈り物とは異常です。
これは戦勝国と敗戦国の関係とはとても言い難い状況です。
そうです。元新羅王で現日本の天智天皇のご機嫌伺いとすればまったく無理なく説明できます。
そうです。
中大兄皇子は百済救援のため白村江に軍団を派遣しました。
そして負けました。
日本書紀の天智紀には「中大兄」なる人物は登場しません。
百済びいきで新羅嫌いの中大兄皇子は白村江大戦の敗戦で歴史上から退場し、
代わりに登場した天智(即位以前の呼称は皇太子)には、 新羅が足しげくご機嫌をうかがいに来るのです。
日本書紀はどこにも中大兄皇子が天智天皇になりましたとは書いてないのです。
皇太子が皇太子がという記述ばかりです。
従来は、この皇太子=中大兄としてきました。
天智紀の冒頭に、「天命開別天皇(天智天皇)は舒明天皇の皇太子である。母親は皇極天皇である」と明記されているからというのが理由です。
舒明の皇太子とありますが、父親が舒明とは書いてありません。
脱線しますが、天武紀にも「天武天皇は天智天皇の同母弟である」としかありません。
舒明紀には、のちの皇極天皇と結婚し、葛城皇子・間人皇女・大海人皇子をもうけたとあります。
従来、葛城皇子=中大兄=天智天皇でした。
しかし、日本書紀には3人が同一人物とはかいてありません。
つまり、葛城皇子が古人大兄薨去ご、中大兄に昇格したとしても、白村江大戦で敗北し、処刑されたか戦死したのでしょう。
新羅武烈王=金春秋が、斉明天皇の皇太子として入れ替わったのです。
斉明天皇は九州で本当に病死かもしれません。
斉明死去後、天智帝は「あなたの目が恋しいのです」的な、およそ実の母親あてには似つかわしくない、歌を贈っています。
天智帝は斉明帝を後宮にいれることにより倭国とのつながりの強化を図ったと思います。
しかしかなわず、娘の間人皇女を妻にします。
なので、系譜上実の兄妹が情を交わすという書きづらい状況が登場するわけです。
教訓。
ウソややましいことを隠そうとしても、やはりうまくはいかない。でした。
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