2015/02/18
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もしかしたらこの疑問をいだいたのは私だけではないかもしれないと思ったら、いらっしゃいました。

https://books.google.co.jp/books?id=p84BjgsnsTcC&pg=PA372&lpg=PA372&dq=%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E5%AE%9A%E6%81%B5&source=bl&ots=7yTBGE7hgd&sig=fvUkKSz5N36RFinFo4LiGCsNDSM&hl=ja&sa=X&ei=-4zkVPaIG-eymAXWv4GoDg&ved=0CDcQ6AEwBA#v=onepage&q=%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%20%E5%AE%9A%E6%81%B5&f=false

通説では天武天皇の生年は、622年とか631年が主流(?)のようですが、敬愛する神谷さんは644年説を採ります。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

定恵は643年生まれです。
キター!!!

天武天皇(大海人皇子)が歴史の表舞台に登場するのが、664年。
定恵の死去が666年。

しかし664年の記事は、天智天皇3年(664年)2月9日に、大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位26階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた、とありますからアリバイとしては弱いと思います。

天智天皇即位が668年で大海人皇子立太子が同年ですから定恵=大海人皇子と娘4人を結婚させ後継者にしようとしたのではないでしょうか?

余談ですが、定恵の出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」。


とすれば、天武の皇子で皇位継承資格のある皇子(天智皇女を母とする)は草壁・大津・長・弓削・舎人・新田部となり
高市・忍壁・磯城は除外されます。

あと、舎人親王の異常なまでの藤原よりの行動は不比等が叔父だったからです。

壬申の乱は大海人皇子vs大友皇子が通説ですが、実はうののさららひめみこ(持統天皇)vs大友皇子という姉弟戦争だったのではないでしょうか?

持統天皇治世は藤原不比等が重用されますが、夫の弟であれば当然ではないでしょうか?

私も一頃、持統天皇と藤原不比等がデキている説を支持していましたが、義理の弟とは考えにくいかなと思うようになりました。

私は、どうしても天武天皇は天智天皇より血統的に一段劣ると思ってました。

天智天皇は4人の養女(実の父親は倭国の大王である孝徳天皇)を定恵にめあわせ入り婿大王とさせようとしたのでしょう。

天智天皇本人も倭姫王をめとることにより入り婿大王であったわけです。

筆をおく前に、天武天皇夫人の五百重娘の父親は鎌足ですが、母親の違う兄妹は古代では婚姻可能であるということで逃げたいのですが、五百重娘は天武天皇死後藤原不比等に嫁いで麻呂を生んでいます。

神谷さんの説だと新田部親王も藤原不比等の子ではないだろうか?とされておられるので、天武天皇と五百重娘の結婚生活の実態はなかったのではないでしょうか。








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Last updated  2015/03/06 02:22:08 PM
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