パクス・ジャポニカ Vol.2

パクス・ジャポニカ Vol.2

PR

×

プロフィール

たけB777

たけB777

コメント新着

清酒東京大阪出張Gleezy:top7340@ Re:秋山翔吾がカープに来る(06/27) 清酒東京大阪出張Gleezy:top7340 Gleezy…
たけB777 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) 掛川城の記事、興味深く拝見しました。 棋…
ヴェルデ0205 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) お久しぶりです。 コメントありがとうござ…
たけB777 @ Re[1]:烏山城(下野国)~その1(02/04) araiguma321さんへ 与一温泉ってあるので…
araiguma321 @ Re:烏山城(下野国)~その1(02/04) 参考にさせて頂いてます。 ありがとうござ…
背番号のないエース0829 @ Re:首里城(琉球王国)~その2(12/10) 「沖縄summitから20年」に、上記の内容に…

お気に入りブログ

弁松のお弁当、ホビ… New! ヴェルデ0205さん

リベンジドライブ New! よっけ3さん

秋田市は「つつじ」… Traveler Kazuさん

元祖吉野屋☆彡白玉饅… Belgische_Pralinesさん

さくらんぼ 2026.5.… araiguma321さん

お寺メイト5 西念寺… マキ816さん

日々の出来事など しなの1707さん
京都観光をご案内し… スマイルフェイス8971さん
swang blog swangさん
ナンのこれしき観戦記 ナン65さん
2011/06/07
XML
テーマ: 城跡めぐり(1303)
防長には戦国時代の城郭が極端に少ないように思うのですが、北条氏とそれに対抗する武田氏・上杉氏・里見氏・佐竹氏など、戦国時代を代表するような面々が争奪戦を繰り広げた関東に比べると、案外こんなものなのかも知れません。

ところで防長二ヵ国(山口県)の戦国大名と言えば毛利氏の名前が挙がってきますが、毛利氏が防長に移ってきたのは関ヶ原の戦い以後のことで、萩城の築城に至っては江戸時代に入ってからと、すでに戦国時代は終わりを告げていました。


それでは戦国時代の防長(山口)はどうだったのかと言うと、鎌倉時代からの守護として、山口を「西京」と呼ばれるほどの文化都市に発展させた、大内氏が君臨していました。

「大内文化」とも呼ばれるほどの栄華を誇った中で、戦国時代の下克上的な動きを見せたのが、大内氏の重臣であった陶晴賢(隆房)です。


その陶晴賢の本拠地が周南市にある若山城で、標高217mの山頂に本丸を持つ山城です。

山上に至るまでの間には陶晴賢と若山城の賛辞が並んでおり、この評価には意外な感じがしました。
若山城碑 (500x375).jpg
登城道入口の碑

山上までは荒れているものの、アスファルトの道が続いており、自動車で登ることができます。

「防長最大規模の山城」とありましたが、戦国山城としては普通な感じがしました。
若山城縄張 (500x376).jpg


若山城二の丸 (500x375).jpg
二の丸と三の丸の曲輪
縄張図でも二の丸と三の丸は地続きになっていますが、曲輪の間に堀切などの跡はありませんでした。

若山城二の丸より周南 (2) (500x375).jpg
二の丸から見た周南の瀬戸内海


二の丸から本丸に至る間には曲輪がよく残っており、「壇床」と呼ばれる段々状の腰曲輪がありました。
若山城壇床 (500x375).jpg
一つ一つの曲輪の面積は狭いため、城兵を配置するというより、本丸を攻めにくくするために造られたように思います。

壇床の周囲の斜面をみると、同じように腰曲輪の跡を見ることができました。
若山城腰曲輪 (500x375).jpg
微妙ですが、斜面に沿って削平地があります。


本丸には土塁や堀切があるでもなく、ただ山頂部に削平地が広がっている感じです。
若山城本丸城跡碑 (500x375).jpg
本丸の城跡碑
これも築城主の性格なのでしょうか。


若山城は1470年頃に陶氏7代の陶弘護が、津和野城の吉見氏の進攻に備えて築城したとされています。


大内氏の中でも主導権を握り、繁栄を支えてきた陶氏でしたが、陶隆房(のちに晴賢)の時代の1551年に、主筋にあたる大内義隆に対して謀反を起こし、大内義隆を自害に追い込みました。
陶晴賢は謀反に備えて、この時に本拠地の若山城を改修しています。

謀反の理由としては、大内義隆が文化に傾倒する中で、武断派の陶晴賢が先を案じて蜂起したと言われていますが、文治派との対立の中で讒言に乗ったとも言われています。

いずれにしても陶晴賢の人物象としては直情的で独善的な印象がありますが、謀略にかかって主筋を滅ぼしてしまったことに気づくと、大いに嘆いて悔んだともいいます。
(文治派と対立するところなども、福島正則みたいな人物だったのでしょうか)



陶晴賢は毛利元就の謀略にかかり、1555年の 厳島の戦い で数に勝る陶軍は敗北を喫し、陶晴賢も最期を遂げています。

陶晴賢が毛利元就に敗れた後、若山城も廃城となって、防長二カ国は毛利氏の支配下となっていきました。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022/02/02 12:07:42 PM
コメントを書く
[城跡と史跡(山口編)] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: