キリスト教カルトを斬る

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TERA DREAM

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2007.04.08
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 昨日の夕方から夜にかけて、知人と知人の友人の方にお会いしました。


 キリスト教の暦にはローマの太陽暦とイスラエルの太陽大陰暦が混在しています。アドベントから灰の水曜日の直前までは太陽暦、そして灰の水曜日は太陽大陰暦で定められ、その後はその暦に続いていきます。そして、次のアドベントが来るまで続きます。しかし、エピファニーや主の洗礼の記念日は、イスラエルの習慣をそのまま採用しています。昨夜、知人が面白い話をしていました。思わず笑ってしまいました。「年賀状は神道のものだから、教会はクリスマスカードを出すべきだ」とまじめな顔をしていった方がいるそうです。日本聖公会のある教会でです。そしてそこには、管区の聖職試験委員長をした方がいらっしゃったそうですが、何もおっしゃらなかったとのことです。思わず笑ってしまったのは、日本聖公会の聖職試験委員長でさえ、年賀状の習慣がヨーロッパ・アメリカ的キリスト教に由来していることをご存知なかったからです。クリスマスカードには、"A Happy New Year"と書かれているのが普通ではないでしょうか。郵政省が葉書の売り上げを狙って作り上げた習慣だと聞かされています。最近はインターネットのメールが増えて、年賀状の売り上げが落ち込んでいるそうですが‥‥‥

 そして、一番驚いたことは、京都にあるウイリアムス神学館の説教学の教授は、ソシュールの本くらいは読んでいるだろうと思ったのですが、聞くところではソシュールを読みこなせるような方ではないとのことでした。日本聖公会は何を考えていらっしゃるのでしょう。礼拝の説教です。神の言葉を取り次ぐものです。しかし、それを教える方がソシュールをお読みになっていらっしゃらないだろうと聞いた瞬間、頭の中が凍り付きました。日本聖公会は、世界各国の聖公会と共に綱憲を持っていらっしゃいますが、その中でも聖書を大切にしています。もちろんカノン(正典)としての大切さです。聖書は言葉で書かれていますから、言葉とは何かということを考えずして、聖書の解き明しを語ることは出来ないのではないでしょうか。礼拝の説教というのは、単なるお話ではありません。まして、「みんなが喜ぶようないいお話」ではありません。福音書に記されている主イエスの言葉は、非常に過激な言葉です。「求めよ、さらば与えられん」などは、当時のユダヤ教のあり方に対する強烈なメッセージではないでしょうか。そして、日々の暮らしがやっとだという人々がほとんどの時代に、五つのパンと二匹の魚で数千人が満腹した奇跡物語など、一世紀の人々が耳にしたらどう感じたでしょう。
 日本聖公会はお金持ちの方々が多いようですから、なかなか理解が難しいかと思います。あるいは、マタイ福音書は弟子のマタイが書き残し、貴族や上流階級に読まれていたものだと教え込まれているかもしれません。しかし、マタイはナルドの香油が海泡石のような石で出来た壺に入れられ、密閉されたものであることを知りません。マタイには、「壺を割る」という表現がありません。貴族社会にいた人であれば、マタイはこれを知っていたはずです。マルコにも同じ記事がありますが、マルコはそれを知っています。マルコを底本の一つにしたはずのマタイが何故これを記さなかったのか。日本聖公会は、こうしたことをもっともっと聖職たちに勉強させるべきです。でないと、説教が主教や司祭の恣意的な聖書解釈になってしまうのではないでしょうか。

 こう言うと、「幼稚園とか学校とかの仕事が忙しくて、なかなか十分な時間がとれない」という声が聞こえて来そうです。だったら、幼稚園や学校の仕事は信者さんに任せて、一番しなければならない仕事をすべきではないでしょうか。そして、ベストリー(香部屋)ではなく、書斎が一番居心地の良いところであるようにして下さい。24時間、そこにいても平気だというくらいにして下さい。そして、お酒をお控え下さい。お酒に酔っている時間は、主も宣教の御業に携われません。酔っているということは、そういうことではないでしょうか。お酒に酔っている時間は無駄ではないですか?
 そして、アポストロス(使徒)もプレスブテロス(長老)も、その上に教会が建てられているのではなく、聖書と教会伝統の上に教会が建てられているのですから、聖書と教会によって定められた使徒(主教)や長老(司祭)は、その聖書と教会に仕える者でなければならないのではないでしょうか。ただ、心配なのは、教会という時に、それが建物を意味していたり、そこの集まってくる人々に心を奪われてしまわないことだと思います。未信者の方々を自由に振る舞わせていた教会を知っています。そして、教会の決定がその方たちの考えによって左右しているのを知りました。福音が福音でなくなります。自由な人間の意思で、聖書もサクラメントもないところで「教会」が運営されてしまいます。教会という社会的組織は、聖書の御言葉や教会の伝統によってはじめてキリストの教会になることが出来るのではないでしょうか。
 まず武藤主教と高地主教が被害者とそのご家族に謝罪して下さい。
 そして、関係したすべての司祭も謝罪して下さい。

 主は皆さんのためにも十字架に死んで下さっています。
 主の平安





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Last updated  2007.04.15 11:53:46


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