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結審したようですが 被害者関係者の代理人が、傷害容疑で逮捕され起訴された裁判ですが、やっと結審したようです。検察の求刑は罰金刑だったとのことですが、論告求刑の内容はまだ明らかにされていません。それでも、弁護人最終弁論と被告人最終陳述が「糾す会」のホームページに掲載されました。弁護人最終弁論にあることは、誰が聞いても理路整然とした、極めて単純明解な、「傷害」事案に関する判断です。ことに、検索側の証人の証言に関しては、一つ一つ具体的に詳しく説明されて反論されています。 そして、弁護側の証人の証言に関しても、その信用性を明らかにされています。是非、皆さまも「糾す会」のホームページにある弁護人最終弁論をお読み下さい。そしてそれから、被告人最終弁論をじっくりお読みいただきたいと思います。検察側の証人が、何故あのような証言をしたかという理由が鮮明に浮かび上がってきます。そしてその後で、2011年3月3日に開かれた第4回公判での証人尋問をお読みいただくと、この「傷害」事案が本当に傷害であったかどうかということが見えてきます。 ですから、来る11月24日に開かれる判決公判での判決を聞く前にそうしたことをしっかりと記憶していると、判決が妥当であるかどうかも判断できると思います。裁判所の判決も人間がすることですから、時として間違いが起こることもありません。再審請求を繰り返して、最高裁で再審の判断が下されることがあるのはそのためです。「悪いことをすると警察に捕まる」ということをよく耳にしますが、「悪いこと」をしたかどうかを最終的に判断するのは、警察でも検察でもありません。裁判所が、原則として公開の裁判を開いてそこで十分に審理し、最終的な判断をします。それが判決です。この判決が出るまでは、被告人はあくまでも被告人であって、加害者ではありません。 ただ、最近耳にしていることは、日本聖公会ではこうしたことがまったく理解されていないのではと思えることも起こっています。日本は法治国家ですから、教会の中で起こったことでも、日本の法律が適用されるのですが、それを本当に理解できていない方々がいらっしゃるのかもしれないと思っています。「裁判にかけられるようなことをするのがいけない」とお考えになる方がいらっしゃるかもしれませんが、裁判の判決が確定するまでは、被告人はあくまでも被告人でしかないのですが、「被告人=犯人」「悪いことをしたから警察に捕まった」と考えないで頂きたいと思います。それが、法治国家であるということの具体的な意味なのです。
2011.10.30
奇妙なこと 風来坊さんのブログを読みました。 先に書かれてしまったなと思いながらこれを書いています。「ミッシオ・デイ=神の宣教」とは風来坊さんがおっしゃる通りだと私も考えて参りました。そこが教会であろうと、お寺であろうと、あるいは神社であろうと、そこに被災した方々がいらっしゃれば主はそこにいらっしゃいます。私たちはそのお手伝いをさせていただくに過ぎません。 あの良きサマリア人は、その名前も、職業も、素性もまったく記されていません。ただ、「サマリヤ人」と書かれているに過ぎません。そして、あのサマリヤ人は、自分がサマリヤ人だということを強盗に襲われた方にもその人を預けた宿屋の方にも告げていません。ただ、持っていたぶどう酒で消毒し、オリブ油を傷口に塗って差し上げたことだけが記されているにすぎません。当時、旅をする商人は必ずと言っていいほど、この二つのものを薬として持っていたそうです。そして、強盗に襲われた方がユダヤ人であったかどうかも記されていません。 関東地方や東北地方のの太平洋沿岸で災害に遭われ、苦しんでいる方々に対して、主は何をするようにとおっしゃっているのでしょうか。ご自分の弟子になる人々を集めるようにとおっしゃっているのでしょうか。それとも、主に与えられた勇気を持って、被災地に必要なものを運べとおっしゃっているのでしょうか。先程、どのような答えが返ってくるか判っていたのですが、天狗さんに「原発が落ちつくまで、東京に帰っていたらどうか」と電話しました。「どういう答えが返ってくるか判っていて、わざわざお電話して下さってありがとうございます」と言われてしまいました。 あってはならないことは、「起こらない」とは限りません。一人一人の生きる権利が大きく守られていくためには、私たちはまだまだ不断の努力を続けていかなくてはならないのではないでしょうか。うちの教会では、風来坊さんに「遊びに来て」頂いて、みんなでお話をお伺いしようと思っています。「謝礼は缶ビール3本でいい」と天狗さんがおっしゃっていました。そして、原発批判を書かれた方のこともお伺いしました。私のあの方のお話をお伺いしたことがありますが、そう言えば、原発のことは、今までにお話をお伺いしたことはありませんでした。天狗さんは何かご存じのようです。
2011.04.12
日本聖公会の管区は何故黙っているのですか? 昨夜、天狗さんのところで、近藤さんと沖田さんを交えてお話をして参りました。風来坊さんもいらっしゃりたかったそうですが、お仕事の関係でお見えになることが出来ませんでした。話題は勿論、日本聖公会京都教区のことです。既に、通信社があの刑事裁判も含めて、日本聖公会京都教区で起こった性的虐待事案とその後の対応に関して配信されたようです。日本聖公会京都教区もキリスト教を自称していらっしゃるのですから、当然のこととして、他の日本のキリスト教界も多かれ少なかれその対応に関する一般社会の批判を受けなければなりません。その為には、実際に何が起きてきたのかを出来るだけ正確に把握しなければなりません。 先日の裁判での被害者側の証人の証言が、実に奇妙なものであることは、既に何人かの方々がブログに書いていらっしゃいますので繰り返しませんが、しかし、何故そうした奇妙な証言が為されたのかに関しては、日本聖公会京都教区で起こった、当時は現職の司祭による性的虐待とそれに対する日本聖公会京都教区の対応、あるいはその後の審判廷での審判を考える上で非常に重要な意味を持っていると思っております。特に、日本聖公会京都教区の教区主教は、被害者のご家族の要望にまったく耳を向けていません。それだけではなく、被害者を貶めるような発言を繰り返したK司祭を、いまだに擁護し続けています。 そうした中で行われたあの裁判の奇妙な証言は、一体、誰が考えたことなのでしょう。「目の左の方で見ていた」とか、建物の北側にあるエントランス・ルームとの間にあるドアの「窓が明るくて見なかった」とかいう内容は、考えられたことでしかないように思えます。しかもあの日は、まったく陽が射していなかったそうで、磨りガラスの向こうのエントランス・ルームがそれほど明るくなることはあり得ません。日本の多くの教会の礼拝堂は、同じような造りをしていますが、曇っている時にそうしたことが起こるとは考えられません。また、先に述べた「目の左の方で見ていた」ということは、被害者と加害者、そして証人が立っていた位置を考えると、誰がどう考えてもあり得ないことです。 こうしたことが何故証言されたのかに関して、天狗さんも含めて、昨夜は四人でじっくり話をしました。想像の域を脱することのないことは記しませんが、しかし、何らかの共謀があった可能性を否定しきれません。しかし、もしそうだとしたら、そこにいた人々はそれなりの責任を課せられます。あの裁判は、民事裁判ではなく刑事裁判です。そして一番気になっているのは、こうした深刻な事態になっているにもかかわらず、日本聖公会の管区は何故沈黙されているのでしょうか。私が想うにはテレビのアフタヌーン・ショウなどは手ぐすね引いてこの裁判の顛末を報道すべく、準備しているのではないでしょうか。そして、あの裁判が起こされるまでには、日本聖公会京都教区で実際に起こっていた、当時は現職の司祭だった人物による女児への長期間にわたる性的虐待が深く関わっています。
2011.03.02
怖ろしいことになりそうです 最近送られてくるメールを読んでいて、日本聖公会京都教区で起こったという殴打事件の裁判が大変なことになってしまっているようです。先ほど天狗さんからお電話を頂戴して、「近藤さんと沖田さんがいらっしゃるので、ご一緒に夕食でもいかがですか?」と電話がありました。あの裁判のことについてお話しすることになるのでしょうが、今夜は予定が入っていませんのでお伺いすることにしました。そこで、日本聖公会のもっと詳しい内情をお伺いすることが出来るだろうと思います。 ただ、いままでに私が知り得た情報では、被害者側の証人尋問が行われていないので、何とも言いようがないのですが、被告人は罪状認否で、当該事件の事実を否定しているとのことです。ここに大きな疑問があります。「殴打された」という被害者の告発に基づいて、検察庁が被告人を起訴して、この裁判が始まったのでしょうが、あのお二人以外の方々には検察庁は何もお伺いにならなかったのでしょうか。他にも何人かの方々が礼拝堂に残っていらっしゃったことは公判でも明らかになっています。 少し前に沖田さんが書かれた「視野狭窄」のことなども非常に重要なことだろうと思います。また、被告人は1m程離れたところから、右手に持っていたナイロン製のカバンを被害者に振り下ろしたようだとのことですか、1mも離れていて、右手に持ったカバンが当たるものでしょうか。被告人の方がどれくらいの背の高さかは存じ上げませんが、男性の比較的背の高い方でも、腕の長さは1mよりもずっと短いのではないでしょうか。男物のYシャツの袖丈を考えるとそう思えます。それとも、非常に背が高い方か、腕の長い方なのでしょうか。 明後日の公判で、別の証人が証言されるそうですが、それも気になります。そして、第一通報者のことも気になって仕方がありません。現場を目撃したわけでもなく、現場にいらっしゃったわけでもない方が何故、通報されたのか。そして被害者が警察を訪れたのは、その通報があった翌日だと聞いていますが、間違いないのでしょうか。そして何よりも大きな疑問は、これだけの事件でありながら、何故、あれだけの長期間にわたり拘置されたのでしょうか。裏に怖ろしいことがなければいいのですが‥‥‥
2011.03.01
神様はすべてご存じです 風来坊さんと一緒に天狗さんと話をしてきました。もちろん、日本聖公会京都教区の問題に関して話をするためです。そして、例の「殴打」事件の真相を知るためでもありました。そして、天狗さんや風来坊さんから転送されてきた、裁判傍聴メモを一つ一つ検証してみました。おかしなことだらけです。 鞄を振り上げたところまでは見たが、それを振り下ろしたかどうかは見えなかったと言いながら、音が聞こえたと証言しています。しかし、その音が何故、被告人が鞄で殴打した音だと判ったのでしょうか。目を逸らせていたわけでもなさそうです。そして、何人かの人がいたところの背後にすりガラスの入った扉があったそうですが、そこから入ってくる光が強かったので見えなかったと証言しているのですが、気象庁のデータでは、2009年11月16日は、正午から17時までの間、まったく日が射していないことになっています。(これは天狗さんがインターネットで調べてくれました) そしてその扉は建物の北側にある扉だそうです。だとしたら、その磨りガラスの前に立っている人物の行動を見にくくなるほど明るくはならないはずです。非常に奇妙な証言であると言わなければなりません。ご不審の方は、気象庁のサイトに「過去の気象データ検索」があるそうですから、それでお確かめ下さい。要するに、あの日の午後、京都市内はまったくの曇り空だったということなのです。そして、その磨りガラスがはめ込まれた扉は、建物の北側にある扉でしたし、その向こう側にも部屋があるそうです。 たとえその外に面した入り口のドアが開いていたとしても、北向きの入り口から、曇っている時に差し込む光量など大したものでないことは、誰にでもお判りいただけると思います。まぶしくて、磨りガラスの前に立っている人の行動が見えないということはあり得ないのではないでしょうか。もしそれが事実であるとすれば、そうした方は家の中でも薄い色のサングラスをおかけになっていた方がいいかと思います。でなければ、部屋の窓のカーテンをすべて遮光カーテンにして、部屋の明かりを付けていた方が目にいいように思えます。どうしてこのような証言を証人はしたのでしょうか。当日の天候を記憶していらっしゃらなかったのでしょうか。実に奇妙なことです。
2011.01.28
奇妙なこと 昨夜転送されてきたメールに、日本聖公会管区小審判廷が昨日言い渡した審判が記されているサイトが載っていたので、早速読んでみました。私が関心を持ったのも、風来坊さんが「いいたい放題」というブログでおっしゃっている最高裁判所での「上告棄却」という表現です。私は「却下の決定」だと認識してきました。これは単なる言葉の使い方の相違ではありません。最高裁判所は裁判官が15名しかいません。これは裁判所法第五条で決められています。(最高裁判所長官+判事14名=15)ところが、最高裁判所に上告される民事訴訟が非常に多く、すべての審理を行うことが大変に難しくなってきてしまったので、民事訴訟法を改正して、特別な理由がない限り審理(法廷で)を行うことなく、裁判官が書面審査で「上告を却下」することが出来るようになりました。これは、「いいたい放題」に民事訴訟法の、そのことに関する部分が引用されてます。 それとも、あの日本聖公会京都教区で起こった女児への性的虐待(「セクハラ」などという生やさしいものではありません)に関する慰謝料請求裁判は、最高裁判所で審理が行われたのでしょうか。行われていたとすれば、被上告人(被害者)に最高裁判所から文書が届いていて、出廷が求められていたと思われるのですが‥‥‥そうしたことがあったということをどなたもご存知ないようだと天狗さんから電話がありました。この最高裁判所での上告審に関する部分も含めて、平成10年1月1日から施行されています。そして、上告人が最高裁判所へ上告したのは2005年4月15日のことです。そして、最高裁判所の「上告棄却」が出されたのはそれから約3ヶ月後の7月19日だとされています。平成10年は私の計算では1998年です。審理をせずに(法廷を開かずに)、上告棄却の判決をすることは出来ません。そして、最高裁判所が3ヶ月で審理を行い、判決を出せるとも思えません。 日本聖公会管区小審判廷の誤解なのでしょうか。それとも、最高裁判所は審理を行ったのでしょうか。風来坊さんにも電話でお伺いしましたが、あり得ないだろうとおっしゃっていました。それでも、このことに関しては大事なことですから、確認していただけるようにお願いしてあります。「上告棄却」と「上告却下」では意味がまったく異なると、ある法曹関係者の方がおっしゃっていました。言い換えると、はじめから「却下」されることが分かっていて、あえて上告したとも考えられるということだそうです。一般通念上は「民事は二審」というのが常識だとおっしゃっていました。そして、もしそうだとしたら、何か作為的なものがあるようにも思えます。「上告棄却」と「上告却下」に大きな差があることをご存知の方はあまり多くはないように思えます。それでも、「上告棄却」という言葉は、新聞やテレビから聞こえて来る言葉ですから、最高裁判所でも審理が行われたのだと考えてしまう方が多いように思えます。 私は教会でもこのことを皆さんにお話ししてきました。教会はどうあるべきなのかということを、皆で考え、祈り求め続けています。教会員の中には、はじめは「聞きたくない」とおっしゃっていた方もいましたが、いつ何時、この教会でも同じようなことが起きるやもしれません。そうした問題が起こった時に慌てふためくことがないようにしておく必要があると思っています。世界の教会はそうした対応を積み重ねることによって成長し続けなければならないのではないでしょうか。あってはならないことは、「起こらない」とは限りません。一人一人の人権が大きく守られていくためには、私たちはまだまだ不断の努力を続けていかなくてはならないのではないでしょうか。うちの教会では、風来坊さんに「遊びに来て」頂いて、みんなでお話をお伺いしようと思っています。「謝礼は缶ビール3本でいい」と天狗さんがおっしゃっていました。
2010.11.10
あまりにも愚かすぎます 日本聖公会京都教区はあまりにも愚かすぎます。同じ日本聖公会に属する司祭が、日本聖公会の司祭を告発したということが、どれほど世界もキリスト教界の歩みを無視したものであるかに何故、お気付きになられないのでしょうか。キリスト教会は、国家権力と対峙することはあっても、国家権力に依存することがあってはなりません。それが、「カエサルのものはカエサルに」という主イエスの御言葉の意味なのではないでしょうか。 告発された司祭さんは留置され、起訴され、拘置所に移されているそうですが、日本聖公会の他の聖職者の方々は何故、沈黙されているのでしょうか。もうかなり以前のことですが、日本聖公会の教会の付属幼稚園が学校法人化されようとした時に、かなり強く反対意見を主張していた方々がいらっしゃったのではないでしょうか。あれも単なるポーズだったのでしょうか。そして結局は学校法人化され、都道府県を通じて教会付属だった幼稚園に補助金が交付されたのですが、そうしたことがキリスト教会にとってどのような意味を持っているかということをどうお考えになられているのでしょうか。 それとも、あの時に「学法化反対」を主張したした聖職者の方々は、皆さん既に退職されてしまわれたのでしょうか。それとも、日本聖公会は英国国教会のように、国家の教会になることを目指しているのでしょうか。だとしたら実に悲しいことですが、日本聖公会は最早、キリスト教会ではなくなってしまったようですね。あの第二次世界大戦時に、教会に対する官憲の介入を拒み続けた聖職者の方々の苦しみをまったく忘れてしまわれたのでしょうか。そして、礼拝の中で何をどのように説教されているのでしょうか。そして、教会とは何かということを、あるいは教会はどこに立っているとお考えなのか、私にはまったく理解できません。 あの若い司祭さんは、拘置所で他の拘置中の方々と祈っていらっしゃるそうですね。日本聖公会の聖職者の方々は、一度、あの拘置所をお訪ねになって、あの司祭さんの爪を頂いてきたら如何でしょうか。そしてそれを煎じてお飲みになるといいと思います。福音を語るということは、単に口先で耳障りのいいお話をすることではなく、主イエス・キリストの十字架の道を生きることなのではないでしょうか。「行って、あなた方も同じようにしなさい」という主イエスの言葉は、日本聖公会では墨塗りされているのでしょうか。最近転送されてくるメールを読んでいると、日本聖公会京都教区はあまりにも愚かすぎるとしか思えません。
2010.10.28
何故、沈黙されるのですか? 日本聖公会の聖職者の方々は何故、京都教区の性的虐待事案に関して沈黙されるのでしょうか。日本聖公会京都教区の当時は現職の牧師だった司祭による長年の性的虐待が明らかになってから10年になります。この間に、この問題に関して発言した日本聖公会の聖職者の方は何人いらっしゃったでしょうか。ごく僅かの方だったのではないでしょうか。そして、日本聖公会京都教区は、ある意味では好き勝手に、捏造したとしかいいようがない文書を日本聖公会の全国の教会に配布してきました。 その中には、「糾す会」を攻撃する文章さえありましたし、まったく事実に反することも書いていらっしゃいました。ですから、日本聖公会の聖職者の方々が沈黙するということは、そうした日本聖公会京都教区の行為を容認していることにはならないでしょうか。私の知り合いの方々も日本聖公会京都教区での性的虐待事案は解決しているとお考えのように見えます。あるいは、既に審判廷が何回も開かれているにもかかわらず、そのことをご存じないようでした。何が起こったのか教会に知らせず、そしてその後どうなっているのかを知らせないということは、性的虐待事案を隠蔽することにしかならないということに、何故お気付きにならないのでしょう。 性的虐待の被害者の方が自殺未遂を起こされてから、来年で10年になろうとしています。そして、その性的虐待がどのようなものであったかということは、慰謝料請求裁判の裁判記録に残っています。高等裁判所は被害者がお書きになった「被害手記」をすべて事実として認定していますが、日本聖公会の聖職者の方々はそれをどのようにお考えなのでしょうか。まさか、他の教区のことは知る必要がないとはおっしゃらないだろうと思います。オキナワの問題に関しては積極的に発言されていた方もいらっしゃったのではないでしょうか。 今夜は、久しぶりに天狗さんと風来坊さんと三人でお話ししてきました。特に風来坊さんの鋭い質問が印象に残っているのですが、天狗さんは「知らない」「判らない」を貫かれることもありました。天狗さんが知らないはずがないことに関してもです。ただ、裁判記録に関しては、閲覧時のメモをコピーしておいて下さいました。主教制だからなのでしょうか、それとももっと深いところに理由があるからなのでしょうか。私も存じ上げている日本聖公会の聖職者の方々が何故沈黙していらっしゃるのか。70歳まで司祭職や主教職を勤め上げれば、その後には安定した生活が待っているからなのでしょうか。もしそうだとしたら、日本聖公会は「キリスト教会」の看板をお外しになるべきです。祭司やレビ人と同じような生き方をしていては、聖職の勤めを果たせるわけがありません。
2010.08.12
日本聖公会は謝罪するつもりはないのでしょうか 京都教区内の教会で行われた管区小審判廷の内容が記されたメールがたくさん届いていましたが、今日になってやっと、それらを読むことが出来ました。そして案の定、管区小審判廷も、ご自分達自身が謝罪しなければならない立場にあるということをご理解されていないのだろう、という印象が残りました。女児への性的虐待という事案がどのようなことなのか、そして被害者の女性はいまだにPTSDに苦しんでいるという現実をどれだけ理解されているのか。女性の人権ということに関して、日本聖公会もかなり積極的に発言してこられていたと記憶しているのですが、そうしたことがすべてどこかに消えてしまっているだけでなく、女児への性的虐待行為が行われたということを、日本聖公会京都教区自身が認めているにも関わらず、管区小審判廷はそれを重大なこととして認識していらっしゃったのでしょうか。 そもそも、日本聖公会は実に不思議な集団です。所謂「従軍慰安婦」問題に関しては、かなり積極的に発言してきたのですが、京都教区内での女児に対する性的虐待事案に関しては、『聖公会新聞』は沈黙を貫いているようです。何故なのでしょうか。他の教区の信徒があの事案を耳にしたら、大きなショックを受けるからなのでしょうか。それとも、他に何か大きな力が働いていて、新聞記事にすることを強権的に押さえ込まれているからなのでしょうか。もしそうだとしたら、「新聞」という名称をお使いになることはお止めになるべきです。確かにこうしたことは、日本国内の新聞でもそうしたがありますし、テレビ局などもニュースの時間で取り上げないことがあるようです。 「知る権利」という言葉が日本聖公会の聖職者の口から漏れ出たのを、しばらく前に耳にしたことがあります。しかし、そうした発言をしていた聖職者の方は、あの性的虐待事案に関してはまったく沈黙されてしまっています。先ほど、風来坊さんから電話があって、明日の夜、天狗さんと三人でまたお話をすることになりましたが、天狗さんは、「そんなもんだろ」とおっしゃっていたそうです。「司祭になったり、教師になったりしたら、誰もその立場を失いたくないのだろう」と風来坊さんがおっしゃっていました。もしそれが真実だとしたら、日本聖公会の聖職者は、聖職按手を受けた時に、主教に忠誠を誓う以上に、神様に忠誠を誓ったことをお忘れになってしまったか、初めから神様に忠誠を誓っていなかったのではないかと思えてきます。それとも、強盗に襲われたひとを見過ごしにした祭司のように振る舞うことが司祭として相応しいことだとお考えなのでしょうか。 日本聖公会京都教区の現執行部はもう、二度と立ち直れないだろうと思います。自らが犯した過ちを何とか覆い隠そうとしているのですから。それも、被害者がいまでもPTSDに苦しんでいるということを忘れてです。そして、日本聖公会の管区小審判廷がそれをはっきりと示さなければ、日本聖公会自身が自らの存在意味を失ってしまいます。ひとは、たとえ聖職者であっても過ちを犯します。しかし問題は、その過ちを認識し、悔悛するかどうかということであり、その悔悛するということは、はっきりとした結果を出すことでもあります。ジャーナリズムを集めて「謝罪の記者会見」を開いても、被害者とそのご家族に誠実に謝罪しなければ、謝罪したことにはなりません。日本聖公会の管区はそのことを十分に認識していらっしゃるのでしょうか。そして、日本聖公会ご自身が被害者とそのご家族に謝罪すべきなのではないでしょうか。
2010.07.13
あまりにも愚かなこと 情報が入ってきました。遂に日本聖公会京都教区は、裁判所での和解調停の場に出席してしまいました。それが、日本聖公会の歴史にとってあまりにも愚かなことであることにお気付きになっていらっしゃらないのだろうと思いますが、日本聖公会の他の主教さん方はどうお考えなのでしょうか。その場でどのようなことが話し合われようと、そこは日本という国家の裁判所でしかありません。教会にとっては、何の神学的意味も持たないところです。そこで、日本聖公会京都教区の当時は現職の牧師が犯した、性的虐待の被害者とそのご家族と和解しようとすることなど、狂気としか思えません。 教会は、信仰者が集い、神を礼拝し、神に祈りを捧げ、神の言葉を聴き、信仰者が再びこの世に遣わされるところです。そこで語られ、祈られる言葉は常に、教会のカノンである聖書に基づいたものでなければなりません。日本の国会が、聖書の教えに反するような法律を定めたり、政府が聖書の教えに反するような政策を決定し、それを実行しようとしたら、あらん限りの力を振り絞ってそうした法律や政策に「否!」を叫ばなければなりません。しかし、裁判所は常に、法律によって裁判を行い、法律によって判断します。法律に記されていないいないことでことで裁判所が判断することはありません。 裁判所は奉行所ではありません。義理人情が通用することはありません。そして勿論、私どもが信じている神の言葉である聖書を基準にして考えることもありません。にもかかわらず、日本聖公会京都教区は裁判所に対して和解調停を申請し、その場に望んでしまいました。そして、こともあろうに被害者の方の代理人が出席することを拒否されたとの報告が届きました。最早、日本聖公会京都教区にはこの問題を解決する能力はないとしか思えません。被害者の方はPTSDに罹患されているのです。その方を和解調停の場に連れてくることが、医学的に考えて正しいことであると日本聖公会京都教区はお考えなのでしょうか。 日本聖公会の管区の小審判廷が開かれる前に、何としてでも、被害者と和解したということにしたいという下心がはっきり見えているように思えます。それも、裁判所に提出した文書には、「糾す会」の方がS幼稚園の入園説明会に行き、入園を妨害するビラを保護者の方々に配布したと記されているそうですが、「糾す会」の方は入園説明会には行ってはいないとおっしゃっていると、知り合いの方からお伺いしました。今日の第一回の集まりの後で、そのことに関しては日本聖公会京都教区側の弁護士の方が取り下げる旨のことをおっしゃったと、先ほど知り合いから電話がありました。しかし、取り下げればそれで済むことでしょうか。この文書を書いたのがどなたかは存じませんが、弁護士さんが依頼人から聞いてもいないことを書くとは到底考えられません。日本聖公会京都教区は今までにも虚偽を記した文書を配布してきました。これは、知り合いが被害者のご家族から直接お伺いしてきたそうです。 こうしたことを考えると、今回の和解調停の申請が、これまで被害者とそのご家族に日本聖公会京都教区がしてきた二次的・三次的加害行為を、心から被害者に謝罪し、日本聖公会京都教区が自らの責任をおとりになるためのことではないことがはっきりしてきているのではないでしょうか。「和解」という言葉をり利用して、管区の小審判廷で有利になるようにしているとしか思えませんが、皆さんはどうお考えでしょうか。そして、もしそうだとしたら、日本聖公会京都教区の主教をはじめ聖職常置委員会はそれなりの責任をおとりにならなければならないだろうと思います。PTSDに罹患している被害者の方を、裁判所の調停の場に引きずり出そうとしていらっしゃるのですから。
2010.05.13
妖怪の正体が見えてきました 日本聖公会京都教区は何故問題の解決を引き延ばしていらっしゃるのか、まったく理解に苦しんでいます。まるで、女児への性的虐待行為は罪ではないとでも考えていらっしゃるかのように、日本聖公会の管区も、小審判廷の開廷を引き延ばしていらっしゃるようにしか見えません。京都教区は、いままでもそうでしたが、ご自分達を守ることしか考えていないように思えます。 最高裁判所の上告却下が決定されて、高等裁判所の判決が確定したのですが、その後、京都教区主教は、文書の中であの加害司祭による性的虐待はあったとお認めになっていらっしゃるのではないでしょうか。2007年11月30日の文書には、「元牧師が、真実に悔い改めて、被害者及び関係者に心からの謝罪をし、被害者及び関係者が癒されることができますように、今後も教区を上げて働きかけるつもりです。」と記していらっしゃるにも関わらず、あれから二年以上経っても、それらしいことをしたという報告も噂も聞こえてきません。あれは、あの時の単なる逃げ口上だったのでしょうか。 そして、「糾す会」や代理人の方々の悪口を今でも口にしていらっしゃるようですが、その悪口が事実を批判したものであるならば、まだ聞く耳があるのですが、根も葉もないことを口にされているように聞こえてきています。これは、最近になって為されるようになったことではなく、「糾す会」がその活動を始めた頃から、幾度となく、ご自分達の正当性を主張するために、好き勝手に捏造されたこともあるようです。何故なのでしょう。聖書の御言葉や教会の神学を越えて、主教が口にしたことが事実になるのでしょうか。被害者がいて、加害者もはっきりしていて、その加害行為をお認めになっていらっしゃる京都教区主教が、加害者を擁護するような言動はなさるべきではないのではないでしょうか。 それとも、日本聖公会では、聖書の御言葉や教会の伝統よりも、聖職者達の方が正しいとお考えなのでしょうか。今夜ははっきり書かせていただきます。被害者のお父様を怒鳴りつけたということを正当化出来る聖書の御言葉はありません。聖書の中にある「宮きよめ」のぺりこーぺの中で、商人や両替商を排除されたのは、主イエスご自身であって、弟子たちではありませんでした。仮に、使徒継承を認めたとしても、主教に被害者の父親を怒鳴りつける権威が与えられているはずもありません。日本聖公会はこうしたことをもう一度、根本から考え直す必要があるのではないでしょうか。
2010.03.09
管区小審判廷はどうされたのですか 日本聖公会の管区小審判廷はどうされたのですか?日本聖公会京都教区の審判邸の差し戻し審に対する異議申立が管区に届いてからかなり時間が経っていると思えるのですが、いつお開きになるおつもりなのでしょうか。そして、その教会法廷に被申立人である性的虐待の加害者である司祭を召喚するおつもりはあるのでしょうか。 日本聖公会では聖職者の離脱をお認めになられているのでしょうか。私が存じ上げている限りでは、既に何人もの聖職者が離脱していらっしゃるのですが、そちらはどうお考えなのでしょうか。そして、加害司祭は終身停職になっているのですが、これは確定したことなのでしょうか、それとも小審判廷の審判が出され、主教会が認めなければ確定しないのでしょうか。 日本聖公会の教会の信者さんには知る権利があると思えるのですが如何でしょうか。知り合いの方が日本聖公会の教会にいらっしゃるのでお伺いしたら、日本聖公会京都教区での性的虐待そのものをご存じありませんでした。毎主日ごとに礼拝に出席されている方なのですが、他教区のことは知らされていないようですが、如何でしょうか。 教会員を動揺させないために情報を操作することは、教会として本当に正しい道なのでしょうか。何も問題はないとすることに、何か意味があるのでしょうか。私には不思議でなりません。一番大事なことは、教会が被害者とそのご家族を守ることなのではないでしょうか。その為には、教会全体が祈らなければならないのですが、知らされていなければ信者さんは祈りようがありません。それとも、信者さんは献金だけしていればいいということなのでしょうか。それでは、あまりに理不尽です。
2010.02.21
教会と国家 聖公会の方は何か勘違いしていらっしゃいませんか?近藤勇さんのブログを読んで、風来坊さんに電話してみました。そして、近藤勇さんの所へ、あのブログの設置者から届いたメールの内容をお伺いしましたが、どなたがあのようなことをされたのでしょうか。パスワードを忘れることがあっても、IDを忘れるというのは考えられないことなのですが、どうしてそのことにお気付きにならなかったのでしょうか。 「違法アクセス未遂を犯した人物へ」という題で、土曜日に書き込みをされているのですから、近藤さんご自身がIDやパスワードを忘れていらっしゃったとは思えません。もし仮に、パスワードを忘れてしまっても、別の方法で新しいパスワードを申請することが出来ます。ですから、IDと本人確認のための文字列を忘れていなければ、パスワードは簡単に再取得が可能です。にもかかわらず、IDとパスワードを教えてくれというのは、考えられないことです。 近藤勇さんがどのように対処されるのかは判りませんが、あの問い合わせをした方がここをお読みになっていらっしゃるのであれば、近藤勇さんにすぐにお詫びされた方がいいですよ。近藤勇さんのブログもコメントが停止されているようなので、近藤勇さんと連絡をおとりになりたければ、このブログのコメントにメールアドレスをお書き下さい。私が近藤勇さんにご連絡いたします。そして、連絡したらすぐに、メールアドレスが記されたコメントは削除いたします。 明日の夜までに、コメントにお書き下さい。明日の朝、明日の夜までにコメントの書き込みがなければ、またコメントの書き込みを停止させて頂きます。よほど、インターネット社会の秩序に疎い方だと思いますが、情報化社会の最低限のルール(法的秩序)のことを勉強されることをお奨めします。IDとパスワードが判れば、あのブログを抹殺することも可能です。どのような宗教組織であれ、日本という国家の中に存在している以上、日本の法律の制約を受けているということを認識していただきたいと思います。神様のお導きがございますように。
2010.02.02
教会とは 新しい年が来てもう半月が立ちましたが、転送されて来るメールには、悲しい事態しか記されていません。一体、日本聖公会京都教区はあの性的虐待事案をどのようにお考えになっていらっしゃるのでしょうか。被害者のお父様が最初に申し立てた時に、当時の主教は何をお考えになられたのでしょうか。そして、現在の主教に交替された時に、あの事案に関しては何も引き継がなかったということを耳にしていますが、そんなことがあり得るでしょうか。 日本聖公会の教会は使徒継承を大切にしてこられた教会なのではないでしょうか。使徒継承というのは単なる形だけのことなのでしょうか。私も一度、日本聖公会の主教按手式を一番後ろの席で拝見させていただいたことがあるのですが、あの仰々しいセレモニーはいったい何のために行われているのでしょうか。主教はあらゆる権威を付与されているのだということを、すべての聖職者と信徒の方々に見せつけるためなのでしょうか。それとも、主教は教会がキリストの福音に立つために仕える奉仕職であるということを、按手を授ける首座主教以下の主教と、按手を受ける司祭が再確認するためのものなのでしょうか。 かつて、現在の主教の主教按手式が行われたときにはすでに性的虐待の被害者の方は、PTSDに苦しまれていたのではないのですか。そしてそのことを前任の主教も主教按手を受ける司祭もご存じだったのではないのですか。そして、被害者の方の苦しみや悲しみをまったく無視するような発言が相次ぎ、火に油を注ぐかのように被害者の傷口を広げてしまったのではないでしょうか。そしてこともあろうに、そうした事実を「時効」という意味不明の言葉で水に流してしまおうとされたのではないでしょうか。こんなことが、キリストの福音に立ち続けなけれならない教会の中で行われてもいいことなのでしょうか。 教会は、傷つけた人に悔悛を求め、傷つけた人が傷つけられた人に心から謝罪し、傷つけられた人の傷が少しでも癒されるように祈り、かつその働きをしなければならないところなのではないでしょうか。前回の京都教区審判廷における差し戻し審の審判は、傷つけた人を問題から遠ざけ、被害者の傷を逆撫でするようなことにしかなっていないのではないでしょうか。このことを現在の主教がお判りにならないのでしたら、教会の管理者としての本質的な資質を問われるように思えます。教会とは、何を語り、何をし、どのような人に顔を向けているかということが、日本聖公会京都教区の執行部の方々はお判りになっていらっしゃらないようですね。
2010.01.16
新しい年の朝に 新しい年を迎えて半日と少し時が流れました。けれども、日本聖公会京都教区の性的虐待事案の解決への道は、前進どころか、常に後退し続けてきました。被害者とそのご家族への謝罪がないまま、加害司祭を擁護した人々に対して、「時効」という審判が下されたのです。しかし、日本聖公会の審判廷というのは教会の審判をするところではないのでしょうか。聖書が告げている罪に時効はあるのでしょうか。聖公会の『綱憲』では、罪の赦しの宣言はサクラメントになっていませんが、本来、教会による罪の宣言は神の出来事なのですから、審判もまた神の出来事として考えられなければならないのではないでしょうか。 罪の告白と悔い改めがあってはじめて、そこで赦されるのですが、日本聖公会の『祈祷書』にある「聖餐式」の中ではそれが行われています。そしてそこでは、罪の告白の後に、罪の赦しの宣言が行われているのではないでしょうか。ですから、罪の告白と悔い改めがない限り、教会の審判廷もまた「時効」を持ち出すべきではないのです。教会の審判は極めて教会的な出来事であり、それ故に、神学的思考に補強されていなければならないのですが、私が目にした文書の中からは、そうした神学的思考はまったく見えませんでした。 と同時に、加害者を擁護することはあっても、被害者を守ろうとする意識がまったくないことは、「糾す会」のホームページなどに載っている文書から明らかなことです。中には、電話で怒鳴りつけたというようなことがあったように記されていますが、日本聖公会の聖職者にはそうしたことが許されている「権威」が認められているのでしょうか。あるいは、日本聖公会京都教区の聖職者の方々は、ご自身にそうした「権威」が与えられているとお考えなのでしょうか。もしそうだとしたら、どうして英国国教会の伝統を継承しているとおっしゃることが出来るのでしょうか。英国聖公会がローマ・カトリック教会から独立したのは、教皇に付与されている絶対性に対するアンチテーゼでもあったのではないでしょうか。 日本聖公会の管区小審判廷はこのことをお考えになって、聖公会の伝統に相応しい審判をされるように、日々祈らせていただいております。性的虐待を受け、その後も様々な誹謗中傷によって傷つけられた被害者とそのご家族のために、主のご栄光が讃美されているような審判をしていただきたいと祈り続けて居ります。日本聖公会だけでなく、日本のキリスト教会全体の教勢が落ち込んでいます。これはキリスト教だけではありません。仏教も檀家離れが進んでいるようで、仏式葬儀をせずに、戒名を付けていただくことなく「直葬」という形を採る方々が都会ではかなり増えてきているといいます。21世紀のキリスト教会のあり方を、いま真剣に考えない限り、教会もお寺もその存在意義が消えてしまうように思えます。必要なことはただ、主の御言葉によって生かされ、主の御言葉が示している道を生きることではないでしょうか。最早、過去の伝統の上に胡座をかいている時ではありません。
2010.01.01
何の解決もできていませんね このところ忙しくて、やっと今日になって先日の審判に関する文書に目を通すことが出来ました。そして、「何の解決もできていませんね」というのが、率直な私の感想です。加害司祭を終身停職にすれば、あとの被申立人の方々と被害者やそのご家族と和解できるとお考えなのでしょうか。もしそうだとしたら、審判長はあの裁判記録を読んでいないか、あるいは裁判で、自分の管理下にある司祭がどのような証言をしたかということに関して、まったく知らないとしか思えません。 原則として民事裁判では偽証は問われないそうですが、しかし、司祭が公の場で偽証したり、被害者には精神的な疾患があるかのように証言したのですから、これに対する教会としての判断は、日本の法律とは別の次元の問題です。法律では禁止されていなくとも、教会では禁止されていることがありますよね。それと同じことです。これは聖職者だけでなく、信徒も同じことです。そしてもう一つ大きな問題は、加害司祭は既に日本聖公会を離脱しているのですから、この終身停職という審判は、あの方に対して有効ではないということです。離脱した方がサクラメントを執行したからといって、それに対して実効性のある処分をすることは、現代社会にあっては無理です。 開拓伝道して、聖餐式を行ったり、あるいは依頼を受けて結婚式の司式をしたとしても、日本聖公会京都教区はあの方に関して何ら口を出すことは出来ません。そして、今後、何らかのきっかけで、あの方が同じ過ちを繰り返したとしたら、日本聖公会京都教区はどのように対処されるのでしょうか。再犯のおそれはまったくないのでしょうか。そこが一番気になっていますし、多くの方々がそれを心配していらっしゃいます。日本聖公会京都教区は、離脱したのだから責任はないとお考えなのでしょうか。 教会の審判廷は、一番始めに、聖書の御言葉によって審判されなければならないと思うのですが、何故かあの審判の中には聖書の御言葉はまったく出てきていませんでした。聖書の御言葉によって保証されていない審判は、教会の審判ではありません。それとも、日本聖公会では、主教は聖書の御言葉を越えて判断できるとお考えなのでしょうか。日本聖公会京都教区の審判廷は確実に教会法廷の原則を逸脱してしまいました。まるで、江戸時代の、長屋の大家さんが、店子のトラブルを私的な判断で両者に納得させようとしているとしか思えません。日本聖公会の『綱憲』にある「聖書」という言葉の意味は、歴史上の教会が聖書としてきたものとは異なっているのでしょうか。
2009.11.24
審判の内容が心配です 今朝、日本聖公会京都教区審判廷が来る11月16日に四件の審判申立に対する審判言渡をするという内容のメールが転送されてきました。「突然のことで、驚いています」と本文に書かれていましたが、日本聖公会京都教区のこの通知は、法的手続き上、問題がないのでしょうか。十分な審理を行ってきたのでしょうか。それも、一方的な通知が来たように思えますが、審判言渡の期日に関して、何故、日本聖公会京都教区審判廷は申立人や被申立人との事前協議をされなかったのでしょうか。 こうしたことを見ていると、日本聖公会というところは、本当に中世封建社会の組織構造や組織運営が続けられているように思えて仕方がありません。審判長は王権にも似た権威を持っているとお考えになっていらっしゃるのでしょうか。以前、知り合いの牧師が「日本聖公会の女性司祭按手に関して、女性差別反対の立場やフェミニズム的発想から考えている人々がいるが、何故神学的議論が出来ないのだろう」と訝しがっていらっしゃいましたが、日本聖公会京都教区での女児に対する性的虐待問題に関する対応の推移を見ていると、教会が一番大切にしてきた神学的思考がまったく欠如しているとしか思えません。 これもしばらく前に、「糾す会」の方々に弁護士事務所からの内容証明文書が届いていましたが、あの弁護士さんは日本聖公会の方なのでしょうか。まさか、クリスチャンでない方だとしたら、日本聖公会京都教区は神学を放棄しているとしか思えません。同時に、一方では、国家から自由になっているはずの教会で、弁護士という国家資格をお持ちの方々によって、自分たちの正当性を主張されようとしたのでしょうか。審判が申し立てられているのは、日本という国家の法律によってではなく、日本聖公会京都教区に対して、「法憲法規」という教会法に準拠して行われていることなのではないでしょうか。 そして、来る23日に言い渡される審判にないようが心配です。日本聖公会京都教区は、あまりにも道理や常識から外れたことをされ続けてきたので、この唐突な審判言渡の内容は予測不能です。キリスト教会として、教会法に関するコンプライアンスをしっかりとお考えの上の内容であることを祈ることしかできません。一つの教派の最高議決機関で制定された「法憲法規」を無視されるようなことがありませんように。そして、教会にとっては、教会法以上に大切な基準である、聖書の御言葉に適った審判であるようにお祈りしております。そして何よりも、被害者とそのご家族の傷の痛みが少しでも和らぎ、傷が少しでも癒されますように。是非皆さんも、毎日、そのことのためにお祈り下さいますよう、心からお願い申し上げます。
2009.11.11
日本聖公会はキリスト教の教会ですか? 「日本聖公会はキリスト教の教会ですか?」 そんな質問が聞こえてきそうです。最高裁判所で上告が却下され、高等裁判所の判決が確定した性的虐待に関する事案の審判廷で、あまりにも身勝手な申立却下を下したことが、管区の小審判廷で差し戻されたにもかかわらず、同じ審判員が差し戻し審を今度は引き延ばし続けています。毎日のようにメールで逐一、ご報告している方々に心から感謝いたしておりますが、私が知っている日本聖公会の司祭さんや主教さんは、何故、沈黙していらっしゃるのでしょう。 あの高等裁判所の判決は間違っているという確実な証拠なり、証言なりをご存じなのでしょうか。被害者とそのご家族が、審判廷ではなく、裁判所に訴えを起こされたことが気に入らないのでしょうか。もしそうだとしたら、もう一度、あの性的虐待事案の経緯をお調べ下さい。被害者とそのご家族はあの時、加害司祭が退職すればそれでいいと何回も口にされていたのではないでしょうか。それでも、「事実無根」という加害司祭の言葉だけを信じて、一旦は退職した加害司祭を復職させてしまったのではないでしょうか。ですから、被害者とそのご家族は、裁判所に慰謝料請求裁判を提訴したのではないでしょうか。刑事事件として告発しなかったのは、時効が来てしまっていたからではないのでしょうか。 にもかかわらず、日本聖公会京都教区の聖職者の方々は、その民事法廷でも、被害者には虚言癖があるとか、妄想だとかいうことまで言い出して、被害者の方に二次的加害を加えてきたのです。民事裁判では、偽証罪を問われないのを知っていて、ありとあらゆる攻撃を、被害者とそのご家族に加え続けていたのではないでしょうか。そして、最高裁判所の上告却下が決定された直後に、「最高裁判所に抗議する」という声明文まで発表されていたのではないでしょうか。 主よ、 あの性的虐待事案の被害者とそのご家族をお守り下さい。他の被害者の方々をお守り下さい。そして、被害者の方々とあなたがいつもともにいて下さいますように。 日本聖公会京都教区の聖職者を悔い改めさせて下さい。あなたの教会として正しい道に導いて下さい。主よ、日本聖公会には「残りの10人」がいらっしゃいます。主よ、日本聖公会をお救い下さい。そして、日本聖公会が聖書のみ言葉を歩むことが出来るようにして下さい。 主イエス・キリストの御名によって、アーメン。
2009.10.03
先日もお会いしてきたのですが、もう少しお話をしたかったので、鞍馬天狗さんをお訪ねしてきました。もちろん、日本聖公会京都教区の問題に関してです。あの事件の被害者の女性は、いまでも苦しんでいらっしゃるそうですが、当然のことだと思います。PTSDとはそうしたことです。にもかかわらず、日本聖公会京都教区は、審判廷を引き延ばせるだけ引き延ばそうとしていらっしゃるようですね。 日本聖公会は聖書の御言葉よりも、主教の権威の方が上位にあるのでしょうか。教会の聖職者を守るために、信徒の被害者は無視されています。本当にそれでいいのでしょうか。日本の多くの教団は、自分たちの中にある問題性を暴かれるのを恐れてか、日本聖公会京都教区での性的虐待に関して沈黙し続けています。それだけではありません。「糾す会」からのメールによれば、学校法人に対して支給された幼稚園の補助金で、礼拝堂の椅子を新調したというのは本当なのでしょうか。 日本聖公会京都教区の主教さんや司祭さんは、教会は何をしてもいいとお考えなのでしょうか。牧師館の火災保険料を幼稚園が支出していたりしたそうですが、学校法人と宗教法人の相異をご存じないのでしょうか。そもそも、いくら前身が宗教法人立の幼稚園だったからといって、幼稚園と教会の会計を「一体化」していたということは、日本の法律からすれば大問題なのではないでしょうか。そうしたことからすれば、宗教法人の代表役員が学校法人の理事長であることそれ自身が、非常に大きな問題を含んでいるように思えます。 日本聖公会の教会は気を付けないと、無政府主義的な組織になりかねませんし、天狗さんはそれなりの考え方から、日本聖公会京都教区は既にアナーキズムに陥っているとおっしゃっていました。日本の法律でそれは犯罪であると規定されていることを無視して、ただ審判廷を引き延ばそうとしているからです。管区の小審判廷であれだけの判決文が読まれていたのですから、日本聖公会京都教区の審判廷はこれに準拠して、差し戻し審を開かなければならないはずなのですが、一向に審判を誠実に進めようという姿勢が見られません。しかし、ここまで被害者を無視できるキリスト教の聖職者達は、本当に信仰を持っているのでしょうか。
2009.08.22
今日、日帰りである方にお会いしてきました。その方は日本聖公会の聖職者たちの実状をよくご存じの方ですが、あまりにも悲惨な情況であることを聞かされてきました。既に、何人かの方々がブログにお書きになっていらっしゃいますが、あの女児に対する性的虐待をし続けていたFH司祭が、日本聖公会を「脱会した」と宣言し、日本聖公会京都教区がそれを受理しているかのように思われている事案に、日本聖公会の多くの聖職者達の神学的レベルの低さを見ざるを得ないとのことでした。 日本聖公会は信徒が他の教派の教会へ転籍することさえ認めてきませんでした。「転籍状」を書いたことがある司祭もいるそうですが、しかし、教会員原簿から転籍による抹消は行われていないそうです。にもかかわらず、日本聖公会京都教区は本当に、FH司祭の「脱会」をお認めになられたのでしょうか。あるいは、今までに何人もの聖職者が日本聖公会を離れて他教派の牧師になられたり、あるいは独立されていらっしゃるのですが、日本聖公会はそうした事態をどのようにお考えになっていらっしゃるのでしょうか。そして、今日お会いした方は、そうしたことを信徒が知らされているかどうかが大きな問題ではないでしょうかとおっしゃっていました。 それだけではありません。日本聖公会の聖職試験に関して様々なこともお伺いさせていただきました。日本聖公会の聖職試験で、「聖書の中に出てくる人物で、あなたが一番好きな人は誰ですか」という設問があったそうです。かなり以前のことだそうですが、まるで教会学校で小学生に問いかける設問のように思えます。そして、その時の聖書神学の設問はそれ一問だったと聞きました。もしこれが本当であるとしたら、日本聖公会は根本から考え直さなければならないのではないでしょうか。でなければ、聖職者の「脱会」の意味を考えることは出来ません。そして、日本聖公会の法憲法規には、「脱会」もしくは「離脱」という表現はありませんから、早急にFH司祭の「脱会」宣言を神学的に検証しなければならないのではないでしょうか。 しかし、あの方はこうもおっしゃっていました。「脱会」宣言をしたということにして、審判廷を回避しようとしているのではないですか」「脱会すれば、審判廷で裁かれることはないはずですし、万が一、審判廷が『終身停職処分』という審判を下しても、国法上の法的拘束力はありません」「司祭でなければ出来ない仕事、たとえば結婚式場での司式などをすることが出来ます。これを日本聖公会京都教区が阻止しようとしたら、その阻止の仕方によっては『名誉毀損』が成立するかもしれません。」つまり、宗教法人法上の規定によって被包括団体が包括団体を離脱ことを宣言した後で、包括団体はそれを否定することが出来ませんし、被包括団体がそれを審議しているのを察知して、その審議に介入することもできません。あるいは、FH司祭が司祭按手を受けたことを取り消すことは出来ませんから、FH司祭の行動を規制することも出来ません。「日本聖公会京都教区はそれを狙っているのかもしれませんが、しかし、その『脱会』に関しては、教会として、世界の聖公会に対して、あるいは日本の社会に対して説明義務があるのではないでしょうか」とのことでした。 「要は、『脱会』ということによってFH司祭をこれまで以上に擁護しようとしていることがはっきりしてきましたね。日本聖公会京都教区は、一番しなければならない、被害者救済ということを、このことによって隅に押しやってしまったのではないでしょうか。」ともおっしゃっていました。「しばらく前から、世界の聖公会はローマ・カトリック教会と接近し始めていますが、少なくとも日本聖公会の内部では、古い時代の権威主義がいまだに消えていないどころか、大手を振って歩いているようです。しかし、それぞれの教会の中の信者さんは、そのことをどれだけご存じなのでしょうか。日本聖公会の聖職の方々の中にも、神学者はいらっしゃるのですが、昼間は幼稚園の仕事で忙殺され、夜になると晩酌をされているようでは、神学の学びをする時間どころか、説教の準備をする時間をほとんど作ることが出来なのではないでしょうか。土曜日一日で説教の準備が出来る程の神学的素養があるなのでしょうか。」ともおっしゃっていました。 もはや、日本聖公会の管区の中で、神学的に問題を整理して、世界の教会史におけるキリスト教会の信仰告白を踏まえて、FH司祭による性的虐待事案を裁き、被害者救済の手だてを考えるべきなのではないでしょうか。そして、退職された主教さん方のご意見をお伺いして、管区はもう一度考え直す必要があるように思えます。
2009.06.22
常識的には その2 日本聖公会京都教区の審判廷に差し戻された審判の審判員に関して忌避するかどうか、多くの方が議論をされていらっしゃるようですが、誰が考えても忌避される前に、K主教もM司祭も自ら身を引くべきなのではないでしょうか。このお二人は審判申立が為されていないだけで、今更、その責任の有無を議論する余地など微塵もないのではないでしょうか。 あのお二人が審判長や審判員になるいうことであれば、日本聖公会京都教区は、神学以前に常識的に問題があることを暴露するようなものです。管区の小審判廷の審判を聞いたら、誰もが「責任者はまだお辞めになっていらっしゃらなかったのですか?」とおっしゃるだろうと思います。先ほど、鞍馬天狗さんから風来坊さんを経由して、いろいろなメールが転送されてきたものを読みました。 マスコミ、特にテレビのワイドショーの恰好のネタになってしまうようなことを日本聖公会京都教区はしていらっしゃるようですが、責任者の方々は、審判廷をお開きになる前に、自ら辞表を出されるべきではないでしょうか。事は、女児への長期にわたる性的虐待であり、日本聖公会京都教区は加害者の「事実無根」という言葉だけを受容してしまい、被害者の方々のお気持ちをまったく無視してこられたのです。ですから、このままの状態をお続けになられたら、日本聖公会京都教区の主教や常置委員に対して慰謝料請求裁判が起こされても不思議ではない状況になっています。 日本聖公会京都教区には、常識は通用しないのでしょうか。主教は絶対王制下の王なのでしょうか。もしそうだとしたら、日本聖公会全体はもう、人権などという言葉を口に出来なくなってしまいます。それだけではありません。女性差別に関する発言も一切停止しなければならないのではないでしょうか。事は「単なるわいせつ行為」ではないのです。明らかに性的虐待行為なのです。そして、日本聖公会京都教区の主教や常置委員はそれをお認めになられたのではないでしょうか。主教だけではありません。常置委員の方々もそれをお認めになられたのではないでしょうか。常識的には、主教をはじめ常置委員経験者のすべてが審判員から身を引いて、まったくの第三者が審判員にならなければ、公正な審判が出来るはずがありません。
2009.05.24
日本聖公会京都教区はどうされるのですか?差し戻された審判を、教区審判廷でもう一度審判するおつもりがあるのでしょうか。日本聖公会の法憲法規からすれば、来月の初旬には差し戻し審をお開きにならなければならないのですし、申立人から提出された申立書を被申立人に通知した日から90日以内に最初の弁論期日を定めなければならないように思えます。だとすれば、もう時間はあまり残っていないのではないのでしょうか。 聞くところによると、日本聖公会京都教区主教はこの差し戻し審に関する主教調査をほとんどしていらっしゃらないとのことで、そしてその理由を「忙しい」ということにしていらっしゃるそうですが、法憲法規の規定は「忙しい」ということで変えられるようなものでないことを、主教がご存じないとは思えません。以前に、京都教区のある司祭が、主教は法憲法規を超えて判断できるという内容のことを口にされたことがあるのですが、日本聖公会には不文律があるのでしょうか。 風来坊さんのブログを読ませていただきましたが、日本聖公会京都教区が日本聖公会を離脱されるのはお止めになった方が賢明だと思います。信者さんの一部の方々は納得されるかもしれませんが、多くの信者さんは納得されないだろうと思います。日本聖公会の教会には、縁戚関係にある信者さんが多いと聞いています。おそらく、兄弟や姉妹が別の教派になってしまうことも起こりうると思います。あるいは、親子が別々の教派になってしまうことも十分に考えられます。 教会にあって、一番守らなければならないのは信者さんではないでしょうか。聖職者ではありません。主教や司祭が羊飼いであるというのであれば、羊のいない牧会者はいないはずです。それとも、日本聖公会の主教や司祭は牧会者である前に、神学徒なのでしょうか。あるいは幼稚園の経営者なのでしょうか。日本聖公会の祈祷書や法憲法規を拝見させていただくと、日本聖公会の聖職者は神学徒である前に牧会者であると思えるのですが、如何でしょうか。この世の常識からすれば、教区審判廷に懲戒申立が為される前に、加害司祭を終身停職にすべきであったと思われますし、教会の常識からすれば、加害司祭を擁護し続けた聖職者は、あの管区小審判廷の審判が下された段階で辞任しているべきだったのではないでしょうか。
2009.04.15
京都教区は何をしていらっしゃるのですか 日本聖公会京都教区は何をしていらっしゃるのでしょうか。「差し戻し」が管区小審判廷で言い渡されてから1ヶ月以上が過ぎました。期間が経てば経つほど、被害者やそのご家族の苦しみが増していっているのではないでしょうか。京都教区の司祭の中には、被害者に対して「虚言癖」とか「被害妄想」という言葉を投げつけていた司祭さんがいらっしゃるのですが、加害司祭と同時に、こうした発言をした司祭さんをも、あの管区小審判廷の判決にあるように、しっかりとその責任をお取りいただくべきでしょうし、被害者とそのご家族に心から、誠実な謝罪をすべきなのではないでしょうか。 しかし、問題の発言をしたのはこのお二人だけではありません。京都教区主教も教区の常置委員も、「冤罪」とか「事実無根」ということを口にし続けてきたと聞いております。児童に対する性的虐待行為は、殺人以上に悲惨な犯罪であるという理解が、最近はかなり強くなってきています。しかし、こうした発言をされた方々が、いまだに謝罪をすることもなく、誤った発言や行動をされてきたことに関して何の反省もなく、「被害者とその被害状況を特定できていない」という理由で、京都教区審判廷は申立を却下なさいましたが、管区小審判廷はそのことも非難されています。 常識的に考えれば、京都教区主教は自ら職務を停止し、他教区の主教が管理主教になって、補佐主教を任命してあの審判廷を開き、管区小審判廷の審判に従って教区審判廷を行うべきなのではないでしょうか。でなければ、どうして正常な審判廷を開くことが出来るでしょうか。審判長自身の決定が、管区小審判廷で退けられているのですから、審判長が替わらなければ、管区小審判廷の審判の内容を重んじた審判など出来るはずもありません。それだけではありません。あの確定した高等裁判所の判決の内容を考えれば、日本聖公会京都教区はあの被害者とそのご家族の想いを徹底的に尊重する必要があるのではないでしょうか。 あの管区小審判廷の中で発言された被害者のお父様のお気持ちを京都教区主教や常置委員はしっかりと尊重すべきなのではないでしょうか。いまさらここで引用するまでもないと思いますが、あのお父様の発言は、多くの人々の心の中にある想いと同じなのではないでしょうか。日本聖公会の主教制という教会制度が、中世封建社会における王制とは異なっているのであれば、あの現職司祭による女児への性的虐待行為に関して、あれだけ大きな過ちを犯し続けてきた主教が審判長を務めることは、あまりにも考え難いことなのではないでしょうか。私の回りには管区小審判廷の審判が為された段階で、京都教区の主教は何故、主教会に対して進退伺いを出さなかったのか不思議でならないという方々がいらっしゃいます。今の時代の常識で考えれば、誰もがそう考えることであろうと思います。それとも、主教の判断はいかなる状況にあろうとも無謬であると日本聖公会はお考えなのでしょうか。
2009.04.03
事件は終わっていません 「糾す会」のメール、第446号と447号が先日、私の所へも転送されてきました。そしてそれを読んで、私は本当に驚きました。日本聖公会という教会は、教会の法規を守らなければならないということを、まったく認識していらっしゃらないようです。3月3日の管区小審判廷の審判をまったく無視して、「もう終わったことを蒸し返すな、裁判も終わったことだろう。なぜ、蒸し返すのだ」とおっしゃった方がいるようですが、あの管区小審判廷の審判で、この問題の審判が終わったわけではありません。まして、最高裁判所の上告却下で高等裁判所の判決が確定したからといって、問題が解決したわけではありません。 女児に対する現職司祭の性的虐待事案に関して、一貫して加害司祭を擁護してきた人々の責任は、追求されないままで時が過ぎていますし、あの審判で審判が終わったわけでばないことは、「差し戻す」という言葉ではっきりしています。あるいは、高等裁判所の判決が確定し、慰謝料が支払われたということで、審判が終わったわけではありません。日本聖公会が、キリストの教会として、裁かなければならないことを、日本聖公会の法規に従って、きちんと裁かない限り、問題は終わっていないのです。教会の歴史は、日本聖公会京都教区の奈良教会で起こったようなこと、つまり事件を教会員にたいして隠蔽しようとすることを徹底的に排除してきました。それは、事件を隠蔽することが、被害者に対する2次的3次的加害行為になりかねないからです。 メールの第447号を読むと、あの教会は、「糾す会」の方々がビラを撒こうとされたら、警察をお呼びになられたことがあるそうですね。教会としてあるまじきことです。日本聖公会はいつから国家権力の庇護を得ようとされたのでしょうか。日本聖公会は、平和についても人権に関しても、積極的に発言してこられているのではないでしょうか。にもかかわらず、現職司祭による女児への性的虐待事案を隠蔽し、それに関する管区小審判廷の審判を告げるビラを配ろうとした方々に対して、考えられないような行動に出たそうですが、日本聖公会の、平和や人権に関する委員会は、何故こうした異常な行動を問題に為されないのでしょうか。 日本聖公会の管区小審判廷は、こうした事態をどのようにお考えになっていらっしゃるのか判りませんが、常識的に考えれば、「もう終わったことを蒸し返すな、裁判も終わったことだろう。なぜ、蒸し返すのだ」という発言に対する排除勧告をすべきなのではないでしょうか。でなければ、管区小審判廷の審判がまったくその力を発揮出来なくなってしまいます。少なくとも、こうしたお粗末な発言や行動が、被害者とそのご家族に対して、二次的に虐待していることは間違いありません。「被害者の家族をここへ連れてきなさい」と発言した方までいらっしゃったという情報も得ていますが、言語道断の発言です。被害者とそのご家族を裁こうとされているのでしょうか。やはり、日本聖公会の管区もしくは主教会が責任を持って、差し戻し審を指導しなければ、結局はまた、京都教区の審判邸で同じことが為されることにしかならないように思えます。
2009.03.18
審判廷の録音を聞いて 審判廷を録音したものが「糾す会」のホームページにあったのでそれを聞かせていただきました。その最後の方で、被害者のお父様のお話がございましたが、あのお話をお聞きになれば、あの現役司祭による女児への性的虐待に、日本聖公会京都教区がどのような対応をしたかを皆さまにご理解いただけると思います。最高裁判所の上告却下で高等裁判所の判決が確定した時にも、京都教区は「事実無根」というしたことが、被害者やそのご家族をどれだけ傷つけたかをご理解いただけると思います。是非、あの部分だけでも皆さまにお聞きしていただきたいと思っております。 管区の小審判廷の審判員の皆さまは、本当にご苦労さまでした。審判の録音をお伺いしていて、あの裁判記録をお読みになられたのだろうと感じました。そして、もし閲覧していないとしても、加害者側から裁判の文書を借りてお読みになられたのではないかと思います。そして、日本聖公会京都教区の審判廷に比べたら、まったく比べものにならないほど誠実に、あの性的虐待に関してお調べになられたのだろうと思われます。 お父様がおっしゃっていましたが、お父様は京都教区を信用していらっしゃいません。当然だろうと思います。被害者のご家族に、大声で「冤罪」とか「事実無根」と怒鳴られた方を、信用できることがあり得るでしょうか。やはり、日本聖公会京都教区は、人員を一新して、差し戻し審の審判廷を開くべきなのではないでしょうか。それだけではありません。加害者を擁護したことのある方々を審判員から排除すべきです。そして、日本聖公会京都教区の聖職者の中で、加害者を擁護し続けた聖職者の方々は、心から悔い改め、ご自分の進退をお考えになるべきであろうかと思います。 あの性的虐待事案で、加害者を擁護した方々は、他にも大勢いらっしゃったように聞いておりますが、これからでも遅くはありません。いまから、あの事案を真剣に学び、知り、そして被害者とそのご家族がどれほど辛い想いをされたかを考え、被害者とそのご家族と共に、主の聖餐に与れることが出来るように、涙が涸れるほどの悔い改めの祈りを捧げながら、教会の再建のためにお働き頂けるように、私も蔭ながら祈らせていただきたいと思っております。悔い改めの涙を、主は必ず拭って下さいます。何とか自分を正当化しようとする想いをすべて捨てた涙は、主が拭って下さいます。
2009.03.04
教区審判廷の審判を棄却、差し戻し 「京都教区の審判廷の審判を棄却し、京都教区審判廷に差し戻す」ということが、今日の午後、管区小審判廷において、審判長から言い渡されました。先ほど、電話で連絡が入りました。そして、被害者のお父様や申立人の方々や「糾す会」の方まで発言が許されたそうです。 京都教区審判廷が申立を却下したことは「言語道断である」とも言われたそうです。よかったですね、日本聖公会はこれでまた、新しい歩みを始めることが出来ます。差し戻し審は、前と同じ審判をすることは出来ません。管区の小審判廷の審判に拘束されます。でなければ、「差し戻し」は何の意味も持たなくなります。 そして、日本聖公会の管区小審判廷は、国家の裁判所の判決を重んじるべきであるということも述べられたそうです。確定した高等裁判所の判決のことであろうと思われますが、当然のことです。そもそも、教区審判廷の審判長である京都教区主教ご自身が、あの裁判記録をご自分で閲覧されていないということは、信じがたいことです。そして、最初にあの性的虐待が明るみに出た時に、京都教区の常置委員だった聖職者の方々には、加害司祭の復職を認めたという重大な過失があったのです。 先ほど、お電話でこの知らせを聞き、思わず涙ぐんでしまいました。よかったです。被害者とそのご家族のためにだけではなく、日本聖公会という日本のキリスト教の宗派が、これでまた神様のご用のために、神様の宣教の御業にお仕えすることが出来ます。このことのために、日々祈り、それぞれに出来るお働きをされた方々に、神様の癒しの御手とお恵みが豊かにございますように。そして、これから先に開かれる、差し戻し審が、主の福音に相応しく、主に導かれたものとなることが出来ますように。 皆さま、本当にお疲れさまでした。
2009.03.03
審判廷のための祈り全能の主なる神さま 私どもの日々の歩みをお守り下さいますことを心から感謝申し上げます。しかし、私ども人間の愚かさによって、時として弱い人々が苦しめられ、強い人々が驕り高ぶり、幼子らが虐げられ、ご婦人が辱めを受けています。そして、時として教会が、そうしたことから目を背けてしまうことがあります。 主よ、私どもに、そうした目を背けてしまうことから、目の前で起こっている出来事をしっかりと見つめる勇気を与えて下さい。 ひとは、ともすると安易な道を選びがちでございます。しかし主よ、あなたの御子、主イエス・キリストがお示しになられた信仰の道は、あるいはあなたが使徒として選び給うたパウロが告げ示している信仰の道は、決して目の前の出来事から眼を背けるようなことではなく、そこで起こっている現実を真剣に見つめ、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、痛んでいる人々と共に生きることこそ、信仰者の道であると聖書を通して示していて下さいます。 主よ、今こそ私たちに、あの十字架の愛を生きる勇気を、知恵を、信仰を与えて下さい。そして主の道を歩む力を与えて下さい。 主よ、どうか日本聖公会京都教区が悔い改めることが出来ますように。そのことのために、今もなお労苦していらっしゃる聖職者の方々、信徒の方々を強め、励まし、必要な知恵と力をお授け下さいますように。そして何よりも、あの性的虐待行為の被害者の方々とそのご家族と、あなたがいつも共にいて、慰め、励まし、心の傷を一日も早く消して下さいますように。そして、遠く離れていて、何のお手伝いもできない私共を赦して下さい。 主よ、あの加害者である聖職者の方が悔い改めることが出来ますように。日本聖公会京都教区が悔い改めることが出来ますように。そして、明日開かれる審判廷に、あなたが共にいて下さり、あの審判に関わる方々をお導き下さいますように。 私たちの主、私たちの罪の赦しのために十字架に死んで下さった、主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。
2009.03.02
一番の問題点 来週早々に、日本聖公会の管区小審判廷が開かれることになっていますが、あの日本聖公会京都教区での現職司祭の女児に対する性的虐待事案で、何が一番の問題であったかということを、日本聖公会の方々はお気付きになっていらっしゃるのでしょうか。このことに関して書かれている多くのブログでも、それは問題にされてきませんでした。しかし、お気付きになっていらっしゃった方は、それほど少ないとは思えません。また、日本聖公会の聖職者や信徒の方々の中にもお気付きになっていた方がいらっしゃったのではないかと思います。私には、被害者の方のお名前が判りませんので、一昨年の11月23日に、日本聖公会京都教区の教区会に提出された「常置委員会特別報告」に記されいるアルファベット表記を用いて、書かせていただくことにします。 日本聖公会京都教区で加害司祭による性的虐待行為が明らかになったのは、被害者Aさんの申立によるものでした。そして、この時に、加害司祭は一旦、退職していますが、しばらくして、加害司祭の「事実無根」という言葉だけを信じて、退職を撤回をお認めになってしまいました。記録上は、退職願いの返還ということになっているのかもしれません。加害司祭は、事実無根なのだから主教が退職願を返すべきだと主張されたそうですね。しかし、この退職願の返還ということは、まったく被害者Aさんやそのご家族の思いをお伺いすることなく決められてしまったとされています。ここが、この性的虐待事案の問題の始点だったのではないでしょうか。退職願の撤回であろうと、退職願の返還であろうと、加害司祭は現実にそれまでの仕事のすべてに復職してしまわれたのです。それも、被害者とそのご家族の思いを詳しくお伺いすることなしにです。 そして、最高裁判所の上告却下が決定されてもまだ、日本聖公会京都教区は「冤罪」「時事無根」を主張されていらっしゃいました。ところが、Aさん以外の被害者の方々が、被害を受けたことを申し立てることによって、日本聖公会京都教区は、Aさんに対する性的虐待行為もあったと認めることになったのですが、なぜなのでしょうか。Aさん以外の方が申し出られたら、性的虐待行為は事実だとお認めになられたということは、Aさんの申立をそれまではまったく退けていたことになります。なぜAさんお一人の申立を退けて、他の人々の申立があってはじめて、Aさんへの性的虐待行為を事実としてお認めになられたのでしょうか。その詳しい説明は、いままでに何も為されていないように思えますが、教会として非常に大切な問題がそこにはあるように思えます。 ところが、一昨年の8月になって、Bさんという新しい被害者の方が名乗り出られました。これも一昨年の教区会に提出された文書に記されていますから、間違いないだろうと思います。そして、このBさんは、加害司祭に「ぜひ会って話したい」と申し出られたので、日本聖公会京都教区は主教以下2名の司祭がBさんと「付き添いの方」をお連れして、「原田元牧師宅を予告なく訪問。直接面談を行い、約3時間の話し合い」をされました。これも、一昨年の教区会に提出された文書に記されています。そしてこの時、加害司祭は「被害者Bさんに対する性的加害の事実を認め、『申し訳ありませんでした』と口頭での謝罪を行った」とその報告書に記されています。「そこで、確認のためその場で、被害者Bさんに対する加害の事実と、謝罪の意を表す文書を書くよう求めたところ、(加害)牧師はそのようにし、署名捺印した」とも記されています。(個人名は別の表記に代えてあります) この被害者Aさんと、被害者Bさんに対する、日本聖公会京都教区の対応の差は、一体どこから出てきているのでしょうか。そして、Bさんに対しては、加害司祭にその場で謝罪文書を記させています。この場には、「冤罪」「事実無根」という文書を出した日本聖公会京都教区総務局長だけでなく、京都教区主教もいらっしゃいました。しかし、Aさんに関しては、加害司祭が「否認を続けている」と記し、「2001年当時の退職撤回時の経緯については、明確でない点も多く、今後も事実確認の積み重ねが必要であることを伝え」たと記されています。皆さまは、日本聖公会京都教区の、AさんとBさんに対する対応の仕方、その内容の差をどうお考えでしょうか。AさんとBさんへの対応の間には差はないとお考えでしょうか。日本聖公会京都教区の一番の問題性はここにあるのではないでしょうか。こうした差を容認することは、明らかに福音に反したことです。聖書のどこを読んでも、それを容認できる神学的根拠を見つけることは出来ません。日本聖公会が本当に、あの十字架に掛かり給うた主イエス・キリストの教会であろうとするのであれば、この問題性の解決を抜きにして、審判廷で審判を下すことは出来ないだろうと思います。どうか、神様が日本聖公会の管区小審判廷を導いて下さいますように。
2009.02.28
審判廷への提言 来る3月3日に日本聖公会管区小審判廷が開かれるそうですが、それに関して様々な憶測が流れています。開廷してすぐに、「時効」を理由に控訴棄却の審判を申し渡す可能性があるとお考えの方々もいらっしゃいますし、申立人と被申立人の双方の陳述を聞いたあとで、京都教区審判廷に審理を差し戻すだろうという予測もあるようです。あるいは、日本聖公会の管区は、児童に対する性的虐待に関して、世界がどう考えているかということを知っているから、理不尽な審判はせずに、加害者は終身停職、加害者を擁護し続けた聖職者は有期定職、この間、常置委員だった信徒常置委員は期限付きの陪餐停止処分にするだろうと考えている方もいらっしゃいます。ただし、信徒常置委員は被申立人にはなっていらっしゃいませんから、京都教区に対して有期の陪餐停止処分をするように勧告するだけに止まるだろうという予測も考えていらっしゃいます。 加害者が、被害者の「性器に触れた」と自白した時に、それが重大な犯罪であるということを認識せずに、その後、加害者の退職を撤回することに反対していなかったことは、常置委員としての責務を全うしていないばかりか、被害者を苦しめ続けたことになるという主張は、キリスト教会の考え方からすれば当然のことです。しかし、「聖職者人事に関しては、信徒常置委員は発言しない」という慣例があったようですから、そこには非常に難しい問題が潜んでいると思われます。 次に管区小審判廷は、審理を京都教区審判邸に差し戻すという予測に関しては、私はあり得ないだろうと思っています。理由は「差し戻し」に関する規定が、日本聖公会法規にないからなのですが、仮に差し戻したとしても、京都教区審判廷の審判長は京都教区主教しかできませんから、また同じように、申立そのものが却下される可能性が十分に考えられます。そして、差し戻しなどしたら、また同じように時間をかけてしまうわけですから、PTSDに罹患している被害者の現状を考えたら、マイナスにしかならないことは、管区小審判廷もご存じであろうと思われます。 そして、管区小審判廷が「時効」を理由に、「控訴却下」を開廷と同時に申し渡すことはあり得ないと思います。児童に対する性的虐待行為の重大性は、いま、世界中で認識されていますし、日本でも性的虐待の加害者をGPSによる位置確認が出来るようにすべきだという議論まで起こっているだけでなく、時効の起算日をPTSD発症確認の日にすべきだという議論もある程ですから、管区小審判廷が「時効」を理由に控訴却下したとすれば、日本聖公会は最早、女性の人権、子供の人権などと言うことに関する発言は出来なくなってしまいますし、いままで積極的に発言されてきた方々を排除してしまうことになってしまいます。それだけではありません。ジャーナリズムも沈黙を守るとは思えません。マスコミも取材されるでしょうから、それなりのニュースが日本全国に流れるのではないでしょうか。 3月3日には、私も傍聴に行ってみたいと思っておりますが、京都まで新幹線で日帰りするのは健康上難しいだろうと主治医から忠告を受けておりますので、東京で吉報をお待ち申し上げております。神様が、日本聖公会管区小審判廷をお導き下さいますよう、お祈り申し上げております。
2009.02.13
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2009.02.10
ローマ・カトリック教会でも、セクハラ事件が起きてしまったようです。新聞やテレビで報道されてしまいました。被害者からの告発があったようで、神父さんが逮捕されたと報じられています。悲しい出来事です。確かに、日本聖公会の事件と比べれば、質的に大きな差があるかもしれませんが、こうした被害者の方を一定期間放置してしまったのではないでしょうか。そして、こうした事件を放置せずに、真摯に教会がこうした問題と誠実に対峙していれば、もう少し異なった解決の方法があったように思えます。 そして、これから二度とこのような事件が起きないためのお働きを始めていただきたいと思っております。しかし、いままでにも、こうした事例に関する報告が一部には流れていました。私はそれを少しだけ読ませていただいたことがありますが、こうした教会としての課題を、一部の人々だけの課題として考えている限り、同じようなことが再発する危険性があると思います。これは、勿論、日本聖公会にも言えることです。日本聖公会の場合は、司祭さんや主教さんは独身誓願を義務付けられていません。しかし、京都教区でのあの悲惨な事案は、結婚している司祭さんの性的虐待事案でした。 「こうしたことは起こって欲しくない」という思いが、「こうしたことは起こらないだろう」という思いに変化するのは、実は簡単なことなのではないでしょうか。そして、いざ問題が起きると、多くの人々が「どうして起きてしまったのか」ということを考え始めます。そして、そうしたことを知っている方々は、問題が起きる前から声を上げていらっしゃるのですが、「こうしたことは起こらないだろう」とか「こうしたことは起こって欲しくない」という思いによって、様々なことが書かれた文書が、棚の上に上げられてしまって来たのではないでしょうか。 こうした事案は日本聖公会やローマ・カトリック教会だけではありません。様々な教派の中で起こっているようです。それが見えてこないのは、「隠し方が巧いからだ」ということも耳にしています。日本のキリスト教界は、真剣にこうした問題を考え、問題が起きないようにするにはどうしたらいいのか、そして問題が起きた時にはどのように対処したらいいのかを、しっかりと考えておくべきなのではないでしょうか。表面には見えてこない事案の中には、上手に握りつぶしたこともあるようです。しかし、それでは何の解決にもならないばかりか、被害者を苦しめ続けることにしかならないということを、教会が全体として再確認しておかなければならないのではないでしょうか。
2009.02.07
日本聖公会京都教区での、当時は現職だった司祭による複数の女児や女性に対する性的虐待の中で、唯一、慰謝料請求裁判を提訴された裁判の記録は、高等裁判所の判断で永久保存にされています。そして、その記録のすべてを、地方裁判所の支部で閲覧することが出来ます。日本聖公会京都教区の主教が閲覧しているかどうかをどうしても知りたかったので、ある方にお願いして、その地裁の支部で見てきていただきました。閲覧者の氏名は、閲覧申込書に記されていることがそのまま、裁判記録に添付されて残されているそうですが、その閲覧者の中には、日本聖公会京都教区主教のお名前はなかったそうです。また、京都教区の性的虐待が明るみに出た時の日本聖公会京都教区主教のお名前も載っていないそうです。 同時に、管区の小審判廷の審判員のお名前もないとのことで、非常に驚いています。それとも、京都教区主教は、裁判所に提出された控訴理由書あるいはそれに対する反論などは、加害者である司祭もしくはその弁護士の手元に写しがあるので、それをご覧になっているのでしょうか。しかし、判決全文も併せて閲覧するのであれば、当該地裁の支部で閲覧するのが一番確実であろうかと思われます。にもかかわらず、京都教区主教が閲覧していないということは、あの教区の審判廷の準備段階で、被害者の書いた正式な訴状やそれに添付された文書を読んでいないことになります。つまり、具体的にどのような性的虐待が行われたかということに関して、京都教区主教は誠実に調査を進めていないということになります。 閲覧者の中に、日本聖公会京都教区の常置委員経験者の2名のお名前はあったそうですが、そのうちの一人の司祭は、京都教区審判廷の審判員の中にお名前がある方です。私は、あの裁判記録の中にある被害状況を被害者が説明している部分の、写しを読んだことがありますが、そこに書かれていることは、セクハラなどという生やさしいことではありません。それは実に巧妙に考えられた性的虐待そのものであり、高等裁判所はそこに記されていることをすべて事実として認定しているわけで、ですからあの被害者側の全面勝訴判決が出ているのではないでしょうか。小学生あるいは中学生の女児にしていいことではありませんし、「夫婦でもせんようなことをしてはった」とおっしゃられた方もいらっしゃいました。 そして、他の被害者に関しても、ある教会の近隣には信じられないような噂が流れているようだと、ある方からお伺いしました。その方は、噂を直接耳にされたそうです。日本聖公会の管区の審判廷は、単に表面的なことではなく、こうした噂の信憑性についてもはっきりさせるべきではないでしょうか。問題の表面だけを解決し、隠れたところにある問題を見過ごしたら、これから先の教会の歩みがますます悲惨なものになりかねません。そして、一旦退職した加害司祭を何故復職させたのかということも、衆人の前に明らかにすべきではないでしょうか。あの時に、「牧師を辞めさえすれば」という被害者とそのご家族の想いを踏みにじったままでいることは、審判廷がどのような結論を出そうとも、問題の解決にはならないのではないでしょうか。
2009.02.06
先程、日本聖公会京都教区での、現職の聖職者(当時)の女児に対する性的虐待行為に関する審判邸を、非公開にするという通知があったことを知らされました。しかし、非公開にするということの範囲に関しては何の情報も入ってきていませんし、「非公開というだけで、その内容は明らかになっていない」という電話も、ある方から頂戴致しました。被害者の傍聴も許されないのでしょうか。被害者のご家族の傍聴も許されないのでしょうか。そして、何を、誰に対して、どのような理由から隠すために非公開にするのでしょうか。 まず「何を」ということですが、裁判になった事案に関しては、裁判記録が公開されています。身分証明書さえ見せれば、閲覧手数料は若干かかりますが、誰でもそれを読むことが出来ます。そこには法廷に立たれたすべての方々の本名が記されています。それを覚悟の上で、被害者とそのご家族は提訴されたのではないでしょうか。そして、高等裁判所の判決た出たあと、H司祭は最高裁判所に上告しました。民事裁判の場合、現在は特別な理由がなければ審理は行われず、最高裁判所の決定によって却下されるということをご存じなかったのでしょうか。しかも、あの高等裁判所の判決には「仮執行宣言」が付けられていました。「仮執行宣言」が付けられた判決を覆すことは至難の業だといわれていることをご存じなかったのでしょうか。既に、裁判に関する情報は一般にも流れています。いまさら、何を隠す必要があるのでしょうか。私にはそれがまったく判りません。 次に「誰に対して」ということですが、加害者を陪餐停止処分にした時に、日本聖公会京都教区は公開の記者会見を開いてそれを発表しています。いまさらジャーナリズムを排除することは出来ないのではないでしょうか。それとも、日本聖公会の他の聖職者や信徒を排除するためなのでしょうか。あるいは、被害者とそのご家族のために、いままで祈り続けてきた方々を排除するためなのでしょうか。日本聖公会法規第209条第二項のところには、「審判廷の審判員が全員一致で、懲戒を申し立てられた行為の被害者を保護するために必要であると判断したときは、審判廷を公開しないで行うことが出来る。ただし、審判の言渡は、公開の審判廷でしなければならない」と書かれています。しかし、私が知っている限りでは、被害者の方々に公開・非公開に関する意見を求めた形跡はないようです。だとすれば、この「誰に対して」秘匿しようとしてるのか判らない状況では、審判廷を非公開にすることは明らかに法規に抵触することだと思えます。そしてもし、これが主教会の以降であるのだとしたら、ここでもまた主教会は教会法を超えられるかという極めて神学的な議論の対象になるはずです。 そして、非公開にする旨を記した文書に、その理由が明確に記されていないとしたら、日本聖公会は正に、中世的な密室裁判をしようとしていることにならないでしょうか。これは、キリストの教会として由々しき問題だと思います。私の教会は加盟しておりませんが、日本キリスト教協議会の議長さんは日本聖公会の方だとお伺いしておりますが、だとしたら、日本キリスト教協議会に加盟している教会は、この問題に関してはっきりとした態度表明をしない限り、平和の問題や人権の問題に関する発言が出来なくなるのではないでしょうか。「キリスト教は密室裁判をしておきながら、人権を語ることが出来るのか」という批判が、キリスト教界の外から投げかけられてしまうのではないでしょうか。それぞれが生かされているところで、地道に人権の問題を考え、平和を作り出そうとされている方々の想いを踏みにじることにならないでしょうか。密室裁判は、その団体の崩壊宣言でもあるように思えて仕方がありません。
2009.01.30
今日、ある信徒の方から尋ねられました。それは、「日本聖公会というのはどういう教派なのですか?」という内容のものでした。それは、インターネットで、あるキーワードを入力して検索したら、「糾す会」のサイトに出会ったからでした。そしてそこに書かれていることを読み、リンクしているサイトを読まれたそうです。そして、「あそこに書かれていることが事実だとすれば、何故、NCCは大きな問題として取り上げないのでしょうか?」ということでもありました。女性の人権が著しく踏みにじられていることに対して、これまでNCCは盛んに主張されてきたにもかかわらず、何故沈黙しているのか。ある意味では、これは当然の疑問だといえると思います。 それも、この事案は、小学生の女子児童に対する明らかな性的虐待行為です。そして、民事裁判ではありますが、最高裁判所の上告却下で高等裁判所の判決が確定していることです。思想的あるいは神学的な事案ではありません。ことに、日本聖公会京都教区の主教さんに出された審判廷の申立に対して、被害者とその被害状況が特定されていないという理由で審判廷申立が却下されてしまっています。しかし、「被害者の人権を尊重して、その氏名や被害状況を公表していないのは、京都教区の主教さんご自身なのではないでしょうか。」というのもその方の大きな疑問でした。 一般の信者さんにとっては、極めて当然の疑問であろうかと思います。ご自身が公表していらっしゃらないことを、申立人が申し立てられないからという理由で、申立を却下するというのは、あまりにも理不尽なことで、まるで中世の裁判のようです。こうしたことが未だに通用する教会があるのかと目を疑うほどでした。「人権」ということを、児童への性的虐待行為を隠蔽するために利用しているように見えます。それでいながら、二度とこうした性的虐待事件が起こらないように活動していますと、あるところで報告されたそうですが、あまりに陰湿すぎます。これでは、被害者の方々の心を逆撫ですることにしかならないのではないでしょうか。 主よ、日本聖公会京都教区をあなたがお導き下さいますように。あなたの御旨を追い求めることが出来ますように。いましなければならないことを、主よ、あなたが日本聖公会京都教区に示して下さい。そして、日々、このことのために労苦していらっしゃる聖職の方々や信徒の方々を励まし、力を与え、お守り下さいますように。そして何よりも、被害者とそのご家族が癒される日が一日も早く来ますように。私どもの主イエス・キリストの御名によってお願いいたします。アーメン。
2009.01.04
日本聖公会の管区小審判廷の審判員の方々はもう、あの裁判の裁判記録をお読みになられたでしょうか。教会の審判には関係がないから読まないとお考えなのでしょうか。しかし、日本聖公会も宗教法人になっているのですから、日本の法によってその恩恵を受けているのですから、日本の法秩序に則って行われた裁判の記録をお読みになるべきだろうと思います。 確定した高等裁判所の判決では、被害者が提出した「被害手記」とも言える文書に記されたことはすべて、それが被告によって現実に行われたと考える合理的根拠があるとしています。そして、あの判決に至るまでの道のりは、被害者の方とそのご家族にとっては大変なものであったであろうと思われます。日本聖公会のそれも京都教区の内部で解決しようと思えば出来たにもかかわらず、日本聖公会京都教区は高裁判決が確定した後も「高等裁判所に抗議する」「最高裁判所に抗議する」「あれは冤罪だ」とおっしゃっていたのではないでしょうか。 事件は、女児に対する性的虐待です。そして、それを「冤罪だ」とすることは、二次的加害行為であることは誰の目にも明らかなことです。だからこそ、被害者とそのご家族が要求していた、二つ目のこと、つまり加害司祭の復職を決定した時の常置委員会議事録をせめて被害者とそのご家族だけにでも明らかにすべきだったのではないでしょうか。この問題の解決は、それなしにはあり得ないのではないでしょうか。 あの常置委員会議事録を開示することなく、この問題を解決しようとしても、まったく解決にならないはずです。「加害司祭の復職」ということ自身が、被害者の申立をすべて虚偽だとしているからです。あの常置委員会の議事録を公開し、あの決定をいまからでも覆さない限り、日本聖公会京都教区は取り返しのつかない汚点を日本聖公会の歴史に刻みつけてしまいます。そして、万が一にも、同じような事件が起こったときに、同じ過ちを繰り返してしまうことになりかねません。女性の人権やセクハラの問題を考える方々が新しい指針を作ることも大事ですが、過去の過ちをきちんと改悛しない限り、その新しい指針もまた踏みにじられることになりかねません。
2008.12.09
日本聖公会京都教区の方々は何故、他の教区や教会の声に耳を傾けないのですか?また、心理学などにお詳しい司祭さんもいらっしゃるのですから、何故、被害者やそのご家族の声に心を開かれないのですか?管区の審判廷にまで進む前に、何故ご自分達の手で、過ちを是正し、女児に対する性的虐待という途轍もない罪に対して、その過ちを明らかにしなかったのでしょうか。 そして、他教派の人々は、こうした日本聖公会京都教区に対して、あるいは日本聖公会そのものに対して、大きな不信感を抱き始めています。ことに、教会に託された幼児教育・学校教育という大事な場所で、日本聖公会京都教区の性的虐待事件によって、他教派でさえ少なからぬ迷惑を受けています。「『糾す会』などが世間に知らせるからことが大きくなってしまったのだ。日本聖公会京都教区以外の人は黙っていろ」とはまさかおっしゃらないですよね。日本聖公会京都教区自身が、かつて、県庁で謝罪の記者会見を開かれているのです。 そして、この問題は、女児に対する性的虐待という国法にも違反している罪ですから、他のキリスト教会もまた少なからぬ迷惑を受けているのです。情報化社会においては、あらゆる情報が光と同じ速さで伝わっていきます。ADSLであれ光通信であれ、インターネット上では、基本的には光と同じ速さで世界中を飛び回ります。そして、この現職司祭による女児に対する性的虐待事件それも、長期間にわたる性的虐待のついて、その実態が人々に明らかにされないことによって、「もう赦してあげたらいいじゃないですか」などという、全く見当違いの意見まで飛び出してきている始末です。 日本聖公会は聖書に証しされた主イエス・キリストの教会ではないのでしょうか。「主教様」をご本尊として奉っている疑似キリスト教会なのでしょうか。もしそうではないのであれば、日本聖公会の管区がこの事件の加害者と事件への対処で大きく足を踏み外してしまっている人々を、キリストの教会として裁くべき義務を主から負わされているのではないでしょうか。それは、教会の聖職としての義務であるのではないでしょうか。日本聖公会の方々をほとんど存じ上げませんが、管区の審判廷の関係者の方々のために、日々祈り申し上げております。主よ、日本聖公会の審判廷に携わる方々をあなたがお導き下さり、教会として正しい道を示すことが出来ますように。主の御名によりて、アーメン。
2008.11.15
被害者や被害状況を特定できていないから申立を却下する、というのが日本聖公会京都教区の審判廷の結論だったようですが、誰がこれを聞いても不思議に思うのは、日本聖公会京都教区はあの最高裁の上告却下の後しばらくして、高裁判決を認める声明を謝罪の記者会で出されていらっしゃるのではないでしょうか。そして、この時になって初めて、日本聖公会京都教区ご自身が、他にも被害者がいるということを公にされたのではないでしょうか。そして、被害者の人権を考えて、被害者の氏名も住所も職業などの一切を秘匿されたのではないでしょうか。 ですから、審判廷を申し立てた方々が、他の被害者の住所・氏名・年齢などを知らなくても当然のことです。むしろ、知っていることの方がおかしいということになります。こうした不条理な判断が為されているのを、日本聖公会の管区はどのようにお考えなのでしょうか。審判廷申立を却下したのは当然だとお考えなのでしょうか。それとも、日本聖公会京都教区の判断は、明らかに理不尽だとお考えなのでしょうか。何しろ、自らが公にしていないことを申立人が知らないから却下するということは、誰が考えても理不尽なのではないでしょうか。 そもそも、あの確定した高裁判決と裁判記録を閲覧すれば、被害者がどのような被害を申し出ていたかを理解できます。そして、加害者がそれに対してどのように反論したのかも知ることが出来ます。審判員のお一人は、あの裁判記録を閲覧していると聞いておりますが、だとすれば、審判廷がその内容を知ること容易いことなのではないでしょうか。そして、申立人が申し立てていることも理科に出来るはずです。それを、被害者と被害状況が特定されていないということを理由に申立を却下したしたこと自体、常識的に考えて無理があります。 このままでは、日本聖公会ご自身の屋台骨が崩れてしなうのではないでしょうか。聖書の教えと教会の歴史をまったく無視して、どうして教会として建ち行くことが出来るのでしょうか。聖公会の「綱憲」には、主教は聖書を超えられるとでも書かれているのでしょうか。既にこの問題は、新聞や雑誌で取り上げられています。他教派のクリスチャンの方々だけでなく、教会とは関係のない方々も大勢読んでいらっしゃいます。私の首位にもそうした方々がいらっしゃいました。日本聖公会はいち早く、キリスト教に対する不信感を払拭していただきたいと思っております。
2008.10.28
日本聖公会京都教区の審判廷が、審判申立を却下した理由は、補正命令に従った補正が行われていないというのが理由だったそうですが、その内容たるや、実に理不尽なものでしかありません。申立人が、被害者の氏名を知らないのは当然のことです。それは、審判長であるK主教さんもM司祭さんも、聖職者として被害者に関することをすべて黙秘してこられたからです。言い換えれば、審判廷の審判員の半数は、この性的虐待事件の被害者である6人の氏名や住所などをご存じだということになります。 教区主教や常置委員長である審判員が、被害者の人権を守るために公表していない個人情報が補正文書に記されていないから、申立を却下するということは、まるで戦前の密室裁判です。狭山裁判に匹敵するくらいに理不尽なことだとお思いにならないから、審判の申立を却下されたのだろうと思いますが、日本聖公会の管区がこれを認めたとしたら、日本聖公会は二度とヒロシマやナガサキ、あるいはオキナワに口を挟まないで頂きたいと思います。勿論、狭山裁判にもです。すべての証拠を知っている審判員が、被害者の人権を守るということを理由にその証拠を提示することなく、審判申立を却下するというのは、近代法治国家にあるまじきことです。 結局は、日本聖公会京都教区は被害者を庇うことなく、加害者を庇護してしまっていることになるのではないでしょうか。あの「謝罪の記者会見」はどうするのですか。昨秋の「常置委員会特別報告」や「主教文書」は偽りだったのでしょうか。日本聖公会「法憲法規」などに定められている懲戒をすることに、何か不都合なことがあるのでしょうか。外から見ていると、実に不思議なことです。審判長と審判員の一人は、FH司祭による性的虐待行為は事実だったとお認めになっていらっしゃると同時に、その6人の被害者の住所や氏名をご存じなのですから、補正文書にそれが記されていなくても、十分に審理は可能なはずです。 日本聖公会は性犯罪をどうお考えになっていらっしゃるのでしょうか。民事裁判と刑事裁判は相互に不干渉であることが原則ですが、しかし、日本聖公会京都教区は既に、FH司祭による性的虐待はまちがいなくあったとお認めになっていらっしゃるのですから、「法憲法規」が規定する審判廷は速やかにFH司祭の性的虐待事件に対する審判廷を開廷すべだったなのではないでしょうか。そして、管区の審判廷は、こうしたことのすべてを考慮して判断されるべきだと思っております。教会の審判は聖書の御言葉から離れて考えられてはならないはずです。聖書が何を示しているかという視座からしか、審判をすべきではないと思います。
2008.10.07
「補正命令」について 審判廷の申立に対して、補正命令が審判長から出されていましたが、その中に極めて理解しにくい一節があるようです。それは「有罪とも無罪ともとれる形での証拠の提出」をするようにとのことですが、これは本当のことなのでしょうか。その「補正命令」の文面を読んでいないので、はっきりしたことは判りませんが、おそらく、内容的にはそうしたことが書かれていたのであろうと思われます。 通常の刑事裁判では、検察側は有罪を立証するための証拠を裁判所に提出します。民事裁判では、原告の主張を裏付ける証拠を提出します。ですから、「有罪とも無罪ともとれる形での証拠の提出」というのは、審判=裁判の原則を逸脱しているように思えるのですが、如何でしょうか。無罪を示し得る証拠を、原則として検察側が持っているはずがありません。(狭山裁判では大きな疑問がありますが)それとも、日本聖公会京都教区主教は、FH司祭は無罪である可能性があるとお考えなのでしょうか。 もしそれが事実であるとすれば、あの謝罪の記者会見は一体、何を意味していたのでしょう。謝罪の記者会見で、確定した高裁判決をお認めになったのではないでしょうか。だとしたら、無罪を立証する証拠など存在するはずがないとお考えになっていらっしゃるのではないのでしょうか。それとも、あの謝罪の記者会見の発言は間違いだったと訂正されるおつもりなのでしょうか。どちらにしろ、まったく意味不明の補正命令であることに変わりはありません。 そして、脳裏を過ぎることは、審判廷の回避です。審判廷を開くか開かないかを決定できる権威を教区主教は持っているようですが、もしそれが事実であるとすれば、日本聖公会が保持している主教制は、極めて危険な教会政治の在り方であるといわざるを得ません。しかも、司祭試験はあっても主教試験はありません。主教としての十分な神学的素養がないまま主教になりうる可能性があります。時代の趨勢を考えると、少なくとも神学修士の学位を持っていることを条件とするか、できれば博士号を持っていることを条件にすべきなのではないでしょうか。あらゆるモノやコトが加速度を増しながら進歩し続けている時代にあって、その時代を読みとれないようでは、「使徒継承」は単なるマジカルなものでしかなくなってしまうのではないでしょうか。修士号にしても、博士号にしても、それぞれの国が定めた規定をクリアしない限り、それを付与できません。そうした意味では、日本聖公会は神学部及び大学院神学研究科のある大学を創立するか、現在ある大学に神学部と大学院を開設すべきだと思って居ります。お詫びと訂正 「糾す会」の一斉メールに投稿したのは私ですが、ハンドルネームをミスタイプしていました。お詫びして訂正いたします。正しくは、TERA DREAM です。
2008.09.20
審判廷に関する申し立てが行われたそうですが、何故審判長である主教さんは、即座に審判をされないのでしょうか。おまけに、懲戒申し立てに対して実に奇妙な補正命令をだされたようでそうですが、項目だけを見ると、審判の意味がお判りになっていらっしゃらないように思えます。そしてそれと同時に、2005年12月9日に、H司祭による性的虐待行為は間違いなく起こっていたとお認めになっていらっしゃるからこそあの謝罪の記者会見をお開きになり、昨年の教区会では、「常置委員会特別報告を受けて」という文書をお出しになられたのではないでしょうか。 ですから、ご自身が判断した「陪餐停止」という処分では不当だから、審判廷を開いてきちんとH司祭に対する処分を為すべきだというのが、懲戒申し立ての趣意だと私には思えるのですが、「主教の事前調査前に弁論開始」「審判長の意に沿わない弁論内容は禁止」「審判長の意に沿わない事実記載は禁止」「有罪無罪の何れにも利用できる形での証拠提出を要求」ということを主教さんが文書で言ってこられたそうですが、弁論は書面によって前もって提出されていなければならず、その提出された文書によって弁論が行われなければならないことが審判廷規則に規定されているのではないでしょうか。また、「審判長の意に沿わない弁論内容は禁止」であるとしたら、審判そのものの存在理由がなくなるのではないでしょうか。これは「審判長の意に沿わない事実記載は禁止」ということにも当てはまります。 これでは、はじめに結論ありき、ということになってしまいます。中世の絶対王制下の審判ではないのですから、こんな理不尽なことはまかり通ったとしたら、日本聖公会は王政をいまでも望んでいるということになってしまうのですが、アングリカン・チャーチの共通した理解なのでしょうか。そして、「有罪無罪の何れにも利用できる形での証拠提出を要求」とありますが、これなども正に、はじめに結論ありき、でしかないように思えます。こうした審判こそが、絶対王政の特徴の一つであったと言えるのではないでしょうか。日本聖公会の主教制というのは、主教は絶対王政下の王的権力を持っているという制度なのでしょうか。 もしそれが事実であるとしたら、日本聖公会は正にカルトであると言わざるを得ないように思えます。児童に対する性的虐待の事実を認めていながらも、加害者を処分しないことが出来るのですから。それとも、主教さんは、あの謝罪の記者会見での発表を取り消すおつもりなのでしょうか。ある方は、日本聖公会京都教区の、最近の一連の動きは、H司祭を復職させるための布石ではないのかとおっしゃっていました。クリスチャンでない方から見ると、そう見えるのかもしれません。しかし、キリスト教会を名乗っている宗教法人の長がまさかそのような理不尽なことはしないだろうと私は信じています。聖書のどこを読んでも、児童に対する性的虐待を正当化できる個所は見つかりません。
2008.08.19
教会と国家 そして共生 日本聖公会京都教区に対する審判廷申し立てに際し、京都教区は糾す会を排除したそうですね。それも、教区の顧問弁護士からの糾す会に対する通達を理由にです。私が聞いている範囲では、この顧問弁護士さんは日本聖公会京都教区の信者さんでもなく、他教派の教会員でもないとのことですが本当でしょうか。日本聖公会京都教区は教会と国家の問題をどのようにお考えになっているのでしょうか。 東京をはじめ、沖縄やその他の地域で、反戦平和の運動が盛んに行われています。また、憲法第9条の「改正」に関しては、かなり広範囲でその反対運動が行われ、日本聖公会の諸教会の方々も積極的に関わっていらっしゃいます。これは政府という名の国家権力が、国民の意思を問う以前に、自らの恣意的な国際関係理解によって、日本の自衛権を超えて、海外派兵を容易にするための改正なのではないでしょうか。 しかし、聖書は「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と告げています。私は、日本の自衛権を認めないわけではありません。また、現在の自衛隊に海外侵略が可能であるとも思っていません。これは法的なことではなく、自衛隊の軍装そのものが海外侵略が出来る程のものではなく、また日本を守ることさえ危ういものだという認識をもった上でのことです。しかし、憲法第9条は世界に先駆けて、極めて崇高な理念を表していると思います。これは正に、「平和を実現する」ための理念であると思えます。確かに、世界情勢を鑑みると、いつどこで戦争が起こっても不思議ではないくらいに不安定な状態にありますし、アフリカでは「内戦」という名の少数民族の虐待が続いています。また湾岸戦争以来、アフガニスタンからイラクにかけては、麻薬の輸出の含めて、世界の火種が燻っているのは事実です。しかし、そうした中で、日本が二度と自ら戦争を起こさないために定めた憲法第9条を保持し続けることは、これからの世界には重要な意味を持っていると思います。 そうした視点から、様々な平和運動が教会と国家という視点をはっきりと維持しながら行われているときに、自らの過ちを指摘されたことを逆恨みでもしているかのように排除しようと、弁護士さんという国家権力によってその身分が保障された方を味方に、日本聖公会京都教区の不正を糾そうとされた方々を排除されるのはどう言うことでしょうか。そう言えばかつて、書状を渡しに糾す会の方々がある学校へお出かけになられた時、そのことだけで当時のチャプレンの方は警察に通報されたそうですね。こうしたことが大きな過ちであることを、日本聖公会はお気付きにならないのでしょうか。教会と国家の関係を、日本聖公会の方々はどのようにお考えなのでしょうか。英国聖公会が国家権力の内側にあるように、日本聖公会も日本の国家権力の内側にあるとお考えなのでしょうか。 いままで、あのH司祭による性的虐待事案に関する日本聖公会京都教区の対応や日本聖公会の聖職者の方々のご意見をお伺いしていると、ご自分達の為さることは間違っていないという思いを超えて、ご自分達の為さることはすべて正当化されるとお考えのように見えてなりません。これからは、私もできる限り、反戦・平和・人権に関する集会に参加し、そこに日本聖公会の聖職者が出席していたら、日本聖公会京都教区のあの事案に対する一連の対応をどうお考えになっていらっしゃるのか、公の場で質問したいと思っております。 同時に、日本聖公会は女性司祭按手を決定する過程で、女性の人権ということを大きな声で叫んでいらっしゃいました。また、最近は「共に食卓を囲む」というテーマで、ルター派の教会と合意文書を交わし、合同礼拝・聖餐式を行われたそうですが、日本聖公会京都教区の中では、その聖餐式から排除されている方々がいらっしゃるのではないでしょうか。そのことお忘れになっていらっしゃるのでしょうか。日本聖公会京都教区が真っ先に目指さなければならないことは、H司祭による性的虐待によって、あの「食卓」から排除されている方々を、心からの懺悔の祈りを捧げながら、「食卓」への招きを完遂することではないでしょうか。 キリストの福音は「排除の論理」でしょうか。それとも、「共生の論理」でしょうか。
2008.07.11
ここ数日、H司祭の性的虐待問題に関するネット上での議論が静かになっています。あの「[内紛]迷惑団体 聖公会 - 迷惑信徒 聖公会[出て行け]」というブログをお書きになっていらっしゃる方も書き込みをされなくなりました。何かあったのかと思い、京都の新撰組の方々やその他の方々にメールを出したのですが、どなたもその理由をご存じありませんでした。 ただ、あの<主日の御言葉>を書いている方は、何かを知っていらっしゃるようでしたが、お話下さいませんでした。日本聖公会京都教区は何をお考えになっていらっしゃるのでしょうか。あの裁判の原告になられた被害者の方は勇気を奮って証言台に立たれたのです。女性にとって、性的虐待の事案で証言台に立つ辛さを、日本聖公会京都教区の聖職の方々はどれだけ理解しようとされているのでしょうか。性的虐待行為を受けたと申し出ることさえ大変なことではないでしょうか。そして、それを申し宛てた後、一旦はH司祭を退職させておきながら、そのすぐ後でH司祭の「事実無根」という言葉だけを理由に、退職を撤回されてしまいました。その痛みを身に負って、「慰謝料請求裁判」を起こされたのではないでしょうか。 被害者が他にもいることをこの時点で、あの原告の方はご存じだったということも耳にしたことがあります。もう二度とこうした事件が起きないためにと、それ故に、あの被害者の方は法廷の証言台に立たれたのです。だとしたら、何故H司祭の退職を撤回したのかという疑問に対して、日本聖公会京都教区は、あの原告の方に、そしてそのご家族に詳しく説明するべきではないでしょうか。具体的なことを申し上げれば、退職撤回を決めた日本聖公会京都教区の常置委員会議事録をせめて被害者とそのご家族だけにでもお見せすべきなのではないでしょうか。 最近、毎日のように性的虐待事件が報道されています。18歳未満の女性がその被害に遭われています。おそらくそうした報道の水面下には、被害を申し出ていない方々が大勢いらっしゃるようにも思えます。教会では、こうした問題が起きると、二度と教会へは行かないとお決めになってしまわれる方がいらっしゃいます。そうした方々が、また主の晩餐のお恵みに与れるようにならなければ、教会は道を誤っているようにしか思えません。日本聖公会京都教区のために、毎日お祈りをしています。どうか、主の御栄光が日本聖公会京都教区の教会を通して顕れるために、聖職の方々を主がお導き下さいますように。
2008.06.15
高等裁判所がH司祭がしたと民事裁判で認定したわいせつ行為は、裁判記録の閲覧メモを拝見した範囲では、日本聖公会京都教区の内部問題ではないです。明らかに、日本という国家の法律である刑法に違反した行為です。だからこそ、慰謝料の支払い命令が判決として出たのではないでしょうか。そして、あのわいせつ行為に関して、日本聖公会京都教区はほとんど裁判記録を閲覧していません。特に、K主教はその立場上、あの記録を閲覧する義務があるように思えます。 にもかかわらず、K主教のみならず、常置委員の多くは裁判記録を閲覧しに行かないばかりか、「閲覧しに行くか行かないかは私の自由だ」とおっしゃった司祭がいたたそうですが、どうしてそのようなことが言えるのか判りません。日本聖公会京都教区の内部で解決しようとする意志がおありなら、すでに多くの聖職者が閲覧しに行っているのではないかと思えます。H司祭がしたわいせつ行為がどのようなものであったのかということを知らずに、この問題を考えることは不可能です。そして、主教や司祭、あるいは執事という聖職者であれば、閲覧した内容の中で個人のプライバシーに関する部分を生涯にわたって秘匿することはお出来になるはずです。 私は日本聖公会が消えればいいと思って、このブログを書いているわけではありません。日本聖公会の教会に集っている多くの方々が、この一連の出来事に関して心を痛めていらっしゃることが耐えられないのです。また、被害者そのご家族が京都教区に対して要求していらっしゃることが、いまだに何ら進展していないことを憂いています。事案が事案だけに、京都教区は誠実すぎるくらい誠実に対応しなければならないはずなのに、まったく誠実さに欠ける対応しか為さっていないようです。 このままでは日本聖公会は崩壊してしまうのではないでしょうか。神学的にも教会形成という視点からも、あるいは、教会組織と教会法の関係においても、大きな問題が燻り続けているようですが、教会が崩壊したら困るのは信徒の方々です。日本聖公会京都教区はそれをご存じなのでしょうか。明治以降、代々、日本聖公会の信者さんであり続けて来られたお宅の方もいらっしゃるでしょうし、最近になって信仰を持たれた方々もいらっしゃると思いますが、もし日本聖公会が崩壊したら、そうした方々の信仰生活も崩壊せざるを得ないのではないでしょうか。そうした意味では、日本聖公会の管区や主教会の責任は重大だと思い続けておりますが、日本聖公会はどのように考えていらっしゃるのでしょうか。
2008.06.12
こんなビラ配りは、教会にとって初めてのことだったのではないでしょうか。私も若い頃に、ベトナム戦争で傷ついた南北ベトナムの子供達に医薬品を送ろうという運動のビラを撒き、募金活動をしました。東京の都心に近いJRの駅前でのことでした。教会の牧師さんと信徒達あわせて20名くらいでしたのですが、何せ一日の乗降客が30万人を超える駅ですから、ビラなどはアッという間になくなってしまいましたが、募金箱を手に声を張り上げていました。牧師は幼稚園の園長もしていらっしゃいましたから地元では有名人です。今から40年くらい前で、千円札を入れて下さる方々もいらっしゃいました。国立大学の授業料がなんと1ヶ月500円だった時代です。 しかし、「糾す会」の方々がビラ配りをしたのは、わいせつ行為を女児にし続けていた司祭である園長が、自分が理事長でもあることから、園長の退職金として700万円という大金を支給し、その後に赴任した理事長兼園長は、「S幼稚園時代には何もしていない」という理由で、退職金の返還を要求していないからです。おまけに理事会では、「騒ぐ人たちがいるから、返還要求するともしないとも決めません」と現理事長のM司祭っは言って、他の理事達の同意を得てしまったのです。そして、この理事会の時に、K主教以外の他の理事達は、H司祭が控訴され、翌月には判決が出るということを知らされていなかったと聞きました。地裁でH司祭が勝訴した時は、H司祭自身がS教会の人々に報告していたにもかかわらずです。 「糾す会」の方々は、今まで、さんざん京都教区のK主教や常置委員と話をして来たのですが、まったく埒が明かないので、仕方なくビラを配って、京都市民や京都府民の方々にこの問題を考えていただこうとされていたのではないでしょうか。ある時には、半ば脅しのような電話があったとも聞いています。あの電話の主が、私が知っている方でなければいいがと心配しています。何故こうしたビラ配りが始まったのかをよくお考えになれば、「すぐにやめろ」とはおっしゃれないはずですし、判っているだけでも被害者が6人もいる(京都教区はこれを認めています)性的虐待行為をしていたH司祭に、退職金を支給したことは、現代社会にあっては、極めて重大な問題であろうと思われますし、S幼稚園のM司祭は「S幼稚園時代は何もなかった」とされていますが、裁判記録にはS教会の司祭館でも性的虐待行為が行われていたことが記されています。 M司祭は裁判記録を「閲覧するかしないかは私の自由だ」とおっしゃったそうですが、この発言だけでも、重大な問題です。M司祭は日本聖公会京都教区の常置委員です。誰がどう考えても、あの裁判に関してM司祭は熟知しなければならない義務があるとお考えになられるのではないでしょうか。日本聖公会京都教区の現常置委員長は閲覧に行かれたそうですが、たった一日でした。昨日天狗さんに確かめたのですが、地方裁判所と高等裁判所の記録を併せると、一人で閲覧したら、3日は掛かるだろうとのことでした。それにしても、何故K主教さんは裁判記録を閲覧しにいらっしゃらないのでしょうか。閲覧すると何か都合の悪いことでもあるのでしょうか。最高責任者が、あの裁判の内容と判決を正確に認識しないで、何故、問題に対処することがお出来になるのでしょうか。あまりにも無責任に思えるのは、私だけでしょうか。
2008.05.21
H司祭による性的虐待事件の様子がかなり明らかになってきました。そして、その中のいくつかの行為については、教会の外にまで噂として広がっていました。口にしない方は大勢いらっしゃるのでしょうが、その噂を聞いたことがあるという方の数は、相当に大きい数字であろうかと思います。これ以外にも。S教会でもご存じの方は多いのではないかと思います。ただ、教会の中では話題にしてなかったのだと思います。ですから、時々しか教会にいらっしゃらない方の耳には入らなかったのでしょう。よくあることです。 祈りの有無というブログを読むと、子供ではない方が性的虐待の被害を受けていたことは間違いないようですね。これも、明らかに教会の規範に違反した行為です。そして、司祭がこれをしたのであれば、主教は断固とした処罰をしなければならなかったのではないでしょうか。にもかかわらず、主教も常置委員会も一切このことに関しては、H司祭を裁こうとしていませんでした。6人目の被害者が現れた段階で、その被害状況がはっきりしていたのですから、「陪餐停止」という法規にない「処分」を取り消し、審判廷を開くべきだったのです。しかし、日本聖公会京都教区は、2001年にあの裁判を提訴した被害者のお父様から被害手記を渡されても審判廷を開きませんでした。それどころか、一旦自主退職したH司祭を、H司祭の「事実無根」という言葉だけを根拠にH司祭を復職させてしまいました。そして、最高裁判所の上告却下(棄却以前に裁判官の「決定」で出される最高裁判所の判断)によって高等裁判所の判決が確定した後も、「冤罪」あるいは「高裁や最高裁に抗議する」という声明を出していました。 根拠は「キリスト教の聖職なら、裁判所が認定したようなことをするはずがない」という判断だったとアエラには記されていました。おそらくこれは、取材時の発言であったのだろうと思います。しかし、こうした想いは、高等裁判所や最高裁判所の判決や決定を覆せるものではありません。こんなに簡単なことを日本聖公会京都教区は何故理解できなかったのでしょうか。しかも、K主教はこの取材の時点でも裁判記録を閲覧していらっしゃらなかったようです。女性問題で辞任した総理大臣はいらっしゃらなかったでしょうか。学校の教師の性的虐待事案はまったくないのでしょうか。アメリカではどのようなことが起こっていたかご存じないのでしょうか。一般紙はもとより、キリスト教界の新聞などでも、こうしたことが報道されていました。 6人目の被害者への加害行為があったのは、間違いなくS教会時代であろうと思われます。それも、女子児童に対する性的虐待行為の慰謝料請求裁判の係争中だったのではないでしょうか。もしそうだとしたら、大変な問題です。日本聖公会京都教区はそれに気が付いていらっしゃるのでしょうか。これで、日本聖公会京都教区のH司祭による性的虐待事件に対する京都教区ご自身の対応の過ちがはっきり見えてきました。あの裁判を提訴した被害者とそのご家族は、今も痛み苦しんでいらっしゃいます。この問題をどのようにして解決し、あの被害者とそのご家族から日本聖公会京都教区対して出されている要求を、日本聖公会京都教区は誠実に受け止め、対処しなければならないと同時に、一連の対応の過ちに関して、日本聖公会京都教区の責任者の方々は、それなりの処分を日本聖公会の管区から受けるべきなのではないでしょうか。
2008.05.01
<祈りの有無>というブログに「理解できない主教の説明」というタイトルで書き込まれていることに関して、私なりの説明をさせていただきたいと思います。(何で、風来坊さんや近藤勇さんは私に白羽の矢を立てたのですか?鞍馬天狗さんの方が詳しいと思うのですが。メールを頂いて困惑しました) 教会には"ex opere oprerato" という考え方が歴史の中に存在し続けてきました。これは「(それが)為された業から」という意味で、"ex opere operantis"「(それを)為した人から」という言葉の対局にあるものとして考えられています。神の御業であるサクラメント(日本聖公会では「聖奠」ローマ・カトリック教会では「秘跡」、他のプロテスタント教会では「聖礼典」と訳されています)を執行する司祭や主教がどのような人であれ、教会が定めた仕方によって為されたサクラメントは、サクラメントとして成立しているという考え方です。ですから、H司祭が授けた洗礼は今も変わりなく、サクラメントとしての洗礼であるわけです。 しかし、問題はそれ以前にあります。女児への性的虐待行為という犯罪を犯した人が、司祭でい続けることが可能かということです。そして、「汚れた手」で執行された聖餐式や洗礼式(日本聖公会ではこの二つだけが聖奠です)を、教会は取り消すことは出来ないのですが、その性的虐待行為が明らかになった時点で、司祭としての働きを教会は一切停止させるべきであるということは、至極当然のことなのです。アメリカのローマ・カトリック教会では、これをはっきりさせています。大司教でさえ辞職させられたのではないでしょうか。H司祭は、法律に違反したからということではありません。H司祭は妻がありながら、他の女性(女児)に対してはっきりと「愛している」という書簡を記しています。単に法律に違反しただけなら、たとえば急病人を運ぶために、聖餐式でワインを飲んだ直後に車を運転したということで刑事罰を受けたとしても、教会は必ずしも懲戒しないかもしれません。救急車がすぐに来られないこともあり得ます。あるいは、日本が戦争をしようとした時に、国会議事堂の前で座り込みをして逮捕されたとしても、教会はその牧師を懲戒するでしょうか。 H司祭が復職出来るか出来ないかの議論は、する必要がありません。教会の歴史からしてあり得ないことです。「神学的に何も問題がない」とK主教がおっしゃったそうですが、K主教ご自身に神学的問題があるのです。女児に対する性的虐待行為が明らかになった時に、H司祭を即座に終身停職にすべきだったのです。教会は聖職按手を取り消すことは出来ません。洗礼も同じです。しかし、聖職按手によって可能になった職務を停止することは出来ます。にもかかわらずK主教は「陪餐停止」という、日本聖公会の法憲法規ではまったく規定されていないことを恣意的に行ってしまいました。これは、日本聖公会の法憲法規からすれば、重大な過ちだと言わざるを得ません。ただ、私が心配しておりますことは、この<祈りの有無>というブログの設置者の方が、聖餐をお受けになっていらっしゃらないということです。クリスチャンにとって、一番大切なことは、聖書の御言葉を聞き、主が定められた聖餐に与ることですから、どこかお近くの教会で、聖餐に与ることが出来ますように、毎日お祈りさせていただきます。最後にもう一度繰り返します。H司祭がサクラメントを執行することは、教会としてあり得ないことです。そしてもしこれが行われるようなことがあり、日本聖公会がそれを認めたとすれば、日本聖公会は最早キリストの教会ではなくなります。
2008.04.29
知り合いから、先程電話がありました。用件が終わった後で、FH司祭問題を駁すを読んで欲しいといわれ、読んでみましたが、あの方は日本聖公会京都教区の関係者の方ではないですか。日本聖公会京都教区の問題性に関しては一切何も書いていらっしゃいません。 1.ビラを子供が見ると困る 「卒園生である子供たちの心への影響」 「何の配慮もなく情報にふれる子供たちのこころ」 「幼いこころの平安も、そのなかで考慮される」 2.ビラは暴力だ 「表題とは矛盾した、配慮に欠けた行為」 「正義をふりかざした手段を選ばない情報による暴力」 3.「私は偽ることなく、卒園児の母」 「園を擁護する者の政治的な書き込みでは、と邪推さ れるのは自由ですが」 子供を純粋培養のように育てるのは危険です。そもそも幼児教育は、子供の社会化(socialization) を目指して始められました。生まれた時から子供は家庭という社会の中で育ちます。言葉を覚え、行動様式を身につけ、時として自分で判断しなければならないことを教えられます。そして同時に、近代社会においても「公園デビュー」という言葉に象徴されるように、家庭から近隣の社会に接し始めます。ある意味ではこの「公園デビュー」で仲間に出会うわけです。公園で、この様子を観察しているのが好きです。まだ歩くことの出来ない子供が、それでも他人を認識しています。他のお子さんに母親が近づくと泣き出すお子さんもいらっしゃいます。 そして、この状態は歩けるようになるとまた大きく変化します。他の子供が持っているものを興味を持ち、時として、それを奪おうとします。別に悪気があるわけではありません。それまでは家の中にある触っては行けない物は、すべて高いところに上げられてしまっています。最近の過疎化の問題はこうした「公園デビュー」がなくなってきていることでもありますし、都会でも、公園が近くにないところでは、ある意味では過疎化と同じ状態を作り出しているかもしれません。 そして、その「公園デビュー」から数年間は、家庭という社会的枠組みから、「公園」という広い世界に子供は対面せざるを得なくなります。過疎化・少子化が進む前は、兄弟姉妹のいる子供はその兄弟姉妹によって村や隣組の世界に連れ出されましたが、それが小学校に入学するまで続いていました。しかし、日本でも幼児教育が始まり、幼稚園というまったく新しい世界に子供達は入ることになりました。3歳から4歳の子供達です。この場は、公園ではありません。一定の秩序と規範のある社会です。そこにはそれなりの約束事がありますし、ある意味では日本の文化を支えている究極的価値体系(ultimate value system) に出会う場と時でもあります。幼児教育が始まる前は、年長の子供がそれを教育する責務を負っていましたが、現在はこれを幼稚園や保育園が受け持たなければならなくなりました。 そうした意味では、幼児教育というのは当該社会にとって非常に大事なものです。ですから、幼児教育に携わる人々は社会の規範を熟知していなければなりません。そして、その規範をしっかり受容している人でなければならないのですが、いつの頃からか、この子供の社会化過程の重要な部分の中に「のびのびと、自由に育つ」という社会規範無視の教育論が普及してきてしまいました。実に危険なことなのですが、テレビや講演会などでそうした話を聞いた若いお母さん達は、かなり影響を受けてしまったようです。 S幼稚園の元園長であったH司祭は、こうしたことをどこまで認識していたでしょうか。S幼稚園に勤務していた時も性的虐待行為を続けていたと聞いていますが、これは問題になりません。幼稚園という世界で、その後に出会う社会の規範を身につけなければならないのに、園長が性的虐待をしていたのでは、幼児教育の一番大事な部分が消えてしまいます。しかも、性的虐待は重大な犯罪です。言い換えれば、日本という国家の社会規範に明らかに反する行為です。こうした問題をこのビラは主張しているのです。 1.ビラを子供が見ると困る まだ漢字をほとんど読めない幼児がこのビラを理解できるとは思えません。小学校の高学年になれば理解できるかもしれませんが、もし理解できれば、その時こそその子供と一緒に話し合いをし、事件の問題性を明らかにすることが教育なのではないでしょうか。 2.ビラは暴力だ FH司祭問題を駁すに、ビラ捲きは暴力だと書き込みをされた方は、一から熟考し直すべきだと思います。子供を純粋培養的に教育することは、極めて危険なことです。子供の主体性を無視してしまうことになります。性的虐待がどれほど重大な問題かを考えるためには、社会が持つ規範を教え込んでいかなければなりません。「ビラは暴力だ」という理屈は明らかに日本聖公会京都教区の過ちを隠蔽しようとするものでしかないように思えます。 3.「園を擁護する者の政治的な書き込みでは、と邪推さ れるのは自由ですが」 邪推ではないと思います。そして、S幼稚園の卒園生の母親でない方が書かれたのだとすれば、重大な問題があるのではないでしょうか。「業務上横領罪と背任罪」で告発を考えていらっしゃる方々もいらっしゃるようです。
2008.04.24
聖光教会の司祭さんにお願いいたします。幼稚園の園庭に車を止めることは止めて下さい。駐車するところが園庭でなくても、園庭を車で通ることは止めて下さい。万が一のことがあったら、大変なことになります。子供の命は帰ってきません。いつどんな事態が起こるか判らないのです。幼稚園の園庭で事故が起きて、それを園児が目撃したとしたら大変なことになります。たとえ幼稚園がお休みの日であっても、何がそこで起きるか判りません。 日本聖公会では、こうした極めて常識的なことを理解出来ていない司祭さんが大勢いらっしゃるのでしょうか。それともこれは、例外中の例外なのでしょうか。だとしたら、日本聖公会で専門家にお願いして、幼稚園長マニュアルをお作りになるべきです。事故が起こってからでは遅いのです。こんなことは、誰にでもお判りいただけることだと思います。小学校の先生が乗ってきた車を校庭に止めるでしょうか。校庭を走るでしょうか。 こうした現実を見ると、被害者に対して日本聖公会京都教区が誠実に対応していないことも理解できます。誠実に対応しないどころか、まったく無視しているのではないでしょうか。高等裁判所の判決が確定した後も、そしてH司祭が他の5人のうち4人に対して謝罪文を書いた後、どれだけH司祭に働きかけてきたのでしょうか。そして、あの加害行為がどのようなものであり、政府がどのようにそれに対応しようとしているかということをご存じなのでしょうか。 もう一度お願いします。 幼稚園の園庭で車を走らせないでください。幼稚園は子供達の場所です。園長はじめ教諭はすべてその子供達に仕えている人々です。そうした理解なくして、健全な子供も、そして健全な親も生み出すことは出来ません。幼児教育は、子供の教育だけではありません。若い親御さん達に親とは何かということを、聖書を通して語り伝えることです。新聞やテレビやインターネットで、園庭で子供が交通事故にあったニュースを目にしたくありません。
2008.04.11
聖光幼稚園の理事会のことを聞きました。その席上で、2005年以降、被害者とそのご家族の想いは変わっているという説明があったそうです。本当でしょうか。鞍馬天狗さんと電話で話をしましたが、少なくとも去年の12月のはじめにお父様とお会いした時は、そのような様子はまったくなかったし、公正証書のある代理人のホームページにはそれらしいことは書かれていないです。お父様が原田文雄司祭を無視していることに関しては、代理人のホームページ「被害者側代理人公式ページ」の冒頭にある「加害者本人の問題について」というところをクリックしていただけると、詳しく書かれています。繰り返しますが、この代理人の方は公正証書のある法的代理人です。あのホームページに書かれていることは即ち、被害者のお父様のご意見です。 その中に次のような一文があります。 「加害者の謝罪は迷惑なので、お断りしている。会いたくもない。」 ご自分の娘に性的虐待を繰り返していた男性、それも現職の司祭が、未だにご自分伸された過ちをお認めにならないのですから、こうした想いが出てきても仕方がありません。原田文雄司祭はまったく謝罪していません。「謝罪」書簡を送付していますが、そこで謝罪している加害行為は、被害者とその家族にはまったく記憶にないことです。 こうしたことを「被害者とその家族の考え方が変わってきている」として、退職金の支給の是非を考える材料にしているとすれば、最早日本聖公会京都教区は完璧なまでに原田文雄司祭を擁護しているとしか考えられません。前述のホームページの「加害者本人の問題について」というところには、次のような三項目が記されています。 教区は原田を懲戒して追放するべきである。 赦しや和解はありえない。 道義的に考えれば、永久に追放するのが適当な処分である。 少なくともこれを発言した方は、こうした代理人の表現を無視しているとしか思えません。そして次のようにも記されています。 「2001年当時、被害者が教区に求めたことは加害者を 退職金無しで辞めさせることだけ。 現在、被害者側は教区の対処を問題にしている。 虐待者に何の処分もなく、元の職に戻して平然としてい たことについて責任を問う。 話し合いもせずに一方的に訴えを退け、加害者を擁護し た理由を聞いている。」 ごく最近まで、日本聖公会京都教区の主教も常置委員も、裁判記録をお読みになっていません。以前に古賀司祭は1日だけ閲覧したようですが、私が知っている範囲では、あの裁判記録は1日で精読できるような分量ではないそうです。そして、ごく最近になって三浦司祭が閲覧に行かれたそうですが、やはり1日だけでした。こうしたことを知れば、誰もが日本聖公会京都教区の不誠実な対応と問題の隠蔽をはかっていることをご理解いただけると思います。 もう一度お尋ねします。 日本聖公会京都教区はキリストの教会ですか?
2008.04.06
お気に入りにある 桂小五郎さんのブログを至急読んで下さい。 こちらでも情報が入り次第、ここに一文を記します。 ※この文は転写可です。 それぞれのブロガーは是非連絡しあって宣伝して下さい。
2008.04.06
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