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蓮如 その教えと生き方 早島鏡正【中古】 蓮如 その教えと生き方 / 早島 鏡正 / 日本放送出版協会 [新書]【メール便送料無料】【あす楽対応】 仏法は、 思うままにならない苦なる私の人生を、思うままになる私の人生に、百八十度転換していくことが仏教の目的です。 だから生きているこの世も、そして来世も思うままになる私になることです。 その思うままになることは、我執で思うままになるのではなく、我執を超えた境地を目指して歩み、そして思うままになる私が実現したとき、それを解脱とか自由というのです。 それは安らぎの世界ですから、それを「涅槃」ともいうのです。というように私が180度転換することが重要だとする。 それがさとりということだというのだ。 ところが我々凡夫は高僧のように容易にさとることはできない。 そこで易行である南無阿弥陀仏にたよるのである。 南無阿弥陀仏はそれそのものが仏の姿であり私が往生浄土する姿だという。 180度の転換は何があっても念仏するということなのだそうだ。 その念仏は、 念仏は、我執の凡夫を、さとりの自己たらしめていくはたらきです。 お釈迦さまのさとりは、つきつめていえば、我執のわれわれをさとりの境地に導くものであり、南無阿弥陀仏の本願の心も実はさとりのはたらきにほかなりません。というものであり具体的には、 われわれの生活は仏法を聞くことにあります。 そうなってくると、毎日毎日の生活は、仏法を聞く=聞法の生活でなければなりません。 それをさして蓮如は「人生は念仏生活だよ」といっているのです。 つまり、念仏の教えの中に生きる生活が人生の生活であり、毎日の生活でなければなりません。ということなのだそうだ。 つまり南無阿弥陀仏を聞け!ということになる。 それがスタートでありすべてだということ。 ただただ念仏。 こうなると道元禅師の只管打坐に似てくるね。 只管念仏ということか。
2022.09.16
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よくわかる浄土真宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] さていよいよここまで来て私は今浄土真宗に傾倒していく。 これまでも何度か浄土真宗本を読んだし最近はほとんど真宗の本を読んでいるけれどもなかなか理解しがたい。 ただただ称名念仏しているだけなんだ。 ここまで何度か書いている通り五劫の修行のエビデンスが解決しないので悩み続けていた。 ところが五劫とは数値化するものではなくただただ永劫ということ、つまり数え切れない長い期間ということなのだ。 それは相対的なものだからたしかに法蔵菩薩は限りなく長い間修行をしたのだろうけれどもそれは五劫という言葉をとにかく長い時間と理解するとエビデンスなど不用になってしまうのだ。 そもそもとにかく人類を救済するという意思であるところの阿弥陀様は目に見えるものでなし、ただ南無阿弥陀仏と称名することでそこに阿弥陀様が私のために存在するという非常にすばらしい話なのだ。 本書は門徒が書いたものでない。 歴とした仏教学者が書いたものだ。 だから信憑性が高い。 南無阿弥陀仏のおかげで死んだらそれまでではないということ、それを信じようが信じまいが仏の方から信心賜り往生浄土してまた現世に戻ってくるということ。 それが信じられるとしたら死はこわくないということ。 もう一度復習すれば法蔵菩薩は相対的に長い期間修行をしそしていかなる人々をも救わないではおれない仏になったということ、それがこの宗派の醍醐味なのだ。 とにかく南無阿弥陀仏、それは仏の方から語られるもの。 難しいと思いつつ私は今なんとか築地本願寺に思いを馳せている。 また新たな私の門出である。
2022.09.15
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ただ今救われて下さい 宮田秀成 さて人生は、 浄土往生をする身にして頂いた人生は、阿弥陀仏より与えられた人生です。 どんな人生であってもそれは、阿弥陀仏から与えられた人生ですから、命の限り生き抜いてください。 浄土に向かう人生はむなしくすぐるものではありません。というもの。 そして、 では南無阿弥陀仏とは何かといえば「ただ今お前を助ける」という阿弥陀仏の喚び声です。 「ただ今お前を助ける」という言葉を聞いて「ただ今私が私が救われる」となったことを「第十八の願をこころうるなり」と言われています。なのだそうだ。 私はここまではわかったのである。 その以前の例えば五劫におよぶ修行の末に願成した阿弥陀様のことについて今少し科学的な根拠(エビデンス)がないとつまり私自身が真宗を人に語ることができないというジレンマに陥ってしまうのである。 私は毎日称名念仏をしている。 そのことがただ私が称名念仏をしているのではなくまずもって阿弥陀様が私を喚んでいる声なのだということを徐々に徐々に理解してきているのである。 例えばこの肉体は私の思い通りにならないことがたくさんあるのだ。 心臓は私が動かしているものではない。 そのような中例えばそちこちを歩き回ることとかプールを泳ぐなどの運動についてはこれは私が行っていることに違いない。 このことは最近気づいたことだ。 つまり私と思われる肉体は私ではない大いなるものの自然の力と私に分類される意識とが一緒に棲んでいるものなのである。 その私というものつまり歩いたり泳いだりする私の方であるがこちらのカテゴリーに私という意識が含まれているのでありそれはいったいこの先どうなるのだという不安がいよいよ歳とともに芽生えてきたのである。 そこで私は南無阿弥陀仏により往生浄土させてもらう人生なのだということに気づかされ生きているのである種のつまりこの先がまだあるということがわかる。 だからその前のいわゆるエビデンスの部分が明らかになれば私は安心できるということになるのだ。
2022.09.14
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あなたのままを生きる 前 赤澤英海 さて真宗に言う信心とは、 阿弥陀さまとは、私たちの自力は何の役にも立たないと見抜かれた上で、「至心信楽の願」を誓われた仏さまです。 そして、そのお誓いが成し遂げられたままに、名号南無阿弥陀仏となって「必ず助ける」とはたらき続けておられます。 その阿弥陀さまのお心を素直に聞かせていただくままを信心と言います。ということだそうだ。 つまり単純に南無阿弥陀仏という言葉そのものがその文字そのものが阿弥陀仏であり今そこにいて私を救ってくれるというものでありそれをしっかり聞くということが信心だというのだ。 そして阿弥陀様は、「摂取」という言葉について、親鸞聖人は「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」と説明されております。 あらゆるいのちを救うというはたらきそのものが阿弥陀さまでありますから、どこまでも追いかけて決して捨てることはありません。 そのおはたらきを摂取というのであります。という仏なのだ。 信心は、 私は、この親鸞聖人の言葉こそ、煩悩を抱えて生きる悩ましい私への励ましの言葉のように感じております。 もしも、浄土真宗の信心が私のはからいによるものならば無くなることもあるでしょう。 しかし、信心は阿弥陀さまより賜ったものであります。 どうしようもない私であることを見抜いた上で、その私をすくい取るために、私の信心までお誓いくださったのですから、決して無くなることはありません。 必ずお浄土に生まれさせていただきます。と阿弥陀様から賜ったもの、どうしようもない私が必ず往生浄土できるというものであり、人生の究極の目的は、 阿弥陀さまより信心を賜った即時(まさにその瞬間)に、迷いの世界を断ち切り、間違いなくお浄土に生まれさせていただけることがわかります。 それこそまさに明確な目的地のある人生です。 阿弥陀さまのおはたらきを聞かせていただくことは、ただむなしく終わっていく人生ではなく、お浄土に参らせていただく人生を歩むことです。 ただ阿弥陀さまにお任せして力を抜いて「アッホ〜♪」という意味のある人生を送らせていただきましょう。ということになる。 まあまずは、迷い苦しむな、究極の目的は往生浄土だということなんでしょうなあ。 ここのところはよく分かるのだが、私には最初の五劫もの長い間という修行期間と私自身がなぜ私であると自覚しているのかがわからないままで疑団が大きくなるのだった。 まあそれにしても往生浄土するのであればこの私はなくならないのであるからあまり深く考える必要はなくなるか。 そうすると五劫の件が解決すればいいんだよなあ。
2022.09.13
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あなたのままを生きる 後 赤澤英海 浄土教系の難しさは現代においては例えば仏教という世尊の教えでないということからつまり根本から仏教ではないと否定されるからである。 にもかかわらず浄土教系とりわけ真宗においては、信、ということを第一義に上げる。 だから難しい。 それはともかく、 ここで、お浄土に往生し、さとりを開いて仏となったならば、迷いの世界に還らせていただき、あらゆる方々をを自由自在に救う活動をさせていただくことが示されております。 そして、そのような救済の活動をさせていただけるのは、「本願力の回向をもつてのゆゑなり」と示されているように、阿弥陀さまのおはたらきによるからであります。というように称名念仏すれば浄土往生は必定にしてそこで悟りを啓かせていただき仏としてこの迷いの世界に帰らせていただいて衆生を救う活動をするという、還相回向が語られる。 ここには、 これらはすべて如来より回向された心であるので、疑いがまじることはありません。としてすなわち徹底他力の回向が語られるわけだ。 ここで疑いが混じることがないとしていることと断じているということはようするにそれが、信、というものだということだろうか。 阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいたならば、ただちにこの上無い仏のさとりを開かせていただきます。 この徹底他力の境遇に自己がなれるのかどうかについてもまたなるのではなく決まっているのだという尽十方無碍光如来の願力なのだと言う教えは本当に素晴らしいのだけれど冒頭の疑団がどうも晴れなくて大変困っている私なのである。
2022.09.12
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いったい私はどうなりたいのだろう:真宗入門 渡邉晃純 久しぶりの仏書しかも真宗本である。 仏書を読んでいないと言っても毎日坐禅を組んでいるし勤行しているし念仏している。 その中でそもそもこの私は一体何なんだと思いつつまずこの体のどこに自分があるかと言ったらないのだ心臓は誰が動かしているのだ私ではないということがわかりさらにそのような〇〇から頂いた体が作り出した私は私ではないということに気づいた。 生物学的には私は生まれ落ちその時のことは何も覚えておらずその後本書にも書いてある通り2、3歳の頃から自我が芽生え始める。 ここを著者は第二の誕生と捉えるのだ。 そしてさらに第三の誕生を浄土に帰ることという。 ではどのようにして帰るかというと 私どもが聞法して、唯一教えられることは、「念仏申せ」ということです。 念仏申すのは、「私はまた世間体をやっている」と、さっと帰る場所を与えられることです。 南無阿弥陀仏は私が帰る場所ですね。 だから昔も今も浄土は故郷と言います。 そこへ帰れば本当に安んずることができる、それが故郷でしょう。 だから南無阿弥陀仏はふるさと、故郷です。 南無阿弥陀仏。 たった六文字です。 意味が分からないと念仏申せないですね。 あれは法事のときの言葉だ、葬式のときの言葉だ、という方もおられましょうが、南無阿弥陀仏は尊い言葉です。 私が本当に帰るところをあらわしている言葉なのですから。なのだそうだ。 南無阿弥陀仏こそが帰るところなのだけれどここのところが未だにわからないのが私なのだ。 ただ私は否私と思われるものは 人は死ぬのです。 じゃあ、死んで悔いのない命をいただかなくてはならないのではないですか。 この身体(器)の命は死んでいきますが、意味があるのです。 死ぬ命をいただくことによって、死なない命、無量寿という命に目覚めていきなさいよと。 それが最も豊かな生の内容なのです。 そういう命を私たちは生きているのです。 ところが、私の知(人間の知の闇の中)ではそれが見えないのです。というように死んでは行くけれどその前に死なない命すなわち無量寿に目覚めなければならないと著者は言うのだ。 ここでますます混乱してしまう。 もう一度整理すれば今まで私とばかり思っていた私は私ではないのだからその死は何も怖いものではないという理論が成り立つがそうもいかない。 この私と思っている意識を作り出した私(という肉体)の先にある無量寿、むむなるほどそういうことか。 先に書いた〇〇とは無量寿のことだったのだ!
2022.08.21
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人生後半こう生きなはれ【電子書籍】[ 川村妙慶 ] 読んでみたら、要するに定年退職後どうする、どうすべき、というテーマに対する著者独自の見解を述べたものだった。 しかしそれにしても世の中いろいろ、人それぞれ、現役時代に未練を持つ者、現役時代が不消化だったと感じている者、などなど引退後も悩みは多いのだ。 幸い私は仕事に関しては何の未練もない。 やり切った充実感でいっぱいだ。 そして今、自分の専門性という部分でほんの少し世の中に貢献させてもらっている。 著者は僧侶だ。 ゆえに人生相談を受ける。 その結果、引退後の夫婦間のトラブルが実に多いということを感じているようだ。 その都度、僧侶としての適切なアドバイスをしている。 最終的に不仲と思われた夫婦が二人してニコニコしながらウォーキングをすることになるのだから、著者の法力はすごい。 そんなこんなを読み進めていくと、私は私で生き切っているんだけれど、ここまで生きると、いよいよ最後の結末をどうするか、なんてことに迷い込んでしまっている。 それが余計なことだと分かっていても、それが道理である以上、逃げることはできない。 しかしそこで著者は言うわけだ。 生き切れ、生き切れと。 それ以外の道はない。 人間、たまには本書のような人生論を読まなきゃダメだ。
2022.07.21
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【POD】釈尊から親鸞へ 他力と悪人の自覚 悪人正機とは何か [ 鈴木正臣 ] 本書もわかりやすい仏書だった。 まず十二縁起。 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死について① 何も分からないところから ②生まれ出て ③識が生じ ④色、声、香、味、触、法(六境)という環境に ⑤眼、耳、鼻、舌、身、意(六根)という感覚器官が ⑥接触して ⑦感受し ⑧それに執着することで ⑨各種の欲望という意識作用が起こり ⑩我が行動の判断材料として ⑪生活し ⑫老いてついに死すというのはいままでで一番わかり易い十二縁起の解説だった。次、 このように、あるがままのすがたを観察すれば、全ては他力だということに気付かれるはずです。 このことを多くの人は勘違いしているのです。 自分で生きていると錯覚しているのです。 自分の体も自然現象と同じで、全て自分の意思と関係なく、量り知れない時間の中で、宇宙の普遍的な法則に従っているのであります。 この量り知れない時間のはたらきを無量寿(アミターユスAmitayus)と言います。 阿弥陀仏の本願力なのです。 無限の時間であります。ということのうち自分自身で生きているという錯覚については私も感じていて、私自身が生きているなどと思えないのである。 先の十二縁起とこの無量寿についての考えに関しては、幼い頃自分の自我が出始めてから現在までのことについては、執着、欲望、意識に間違いなく、また、恐れ多くも私がこの肉体をコントロールなどはできていないという事実もそのとおりなのだ。 そこまではわかったが、じゃあこのおれは一体何モノ、という部分につまずく。 それがわからないから迷い続けている。 そこを、そんなものはない、とできるか。 そんなことは軽々にはできない。 ならばどうするか。 難しい問題ではあるが、十二縁起に基づけば、死にて終わり、無量寿の考えによれば、全ては他力、ゆえに私はない、とすればまず今の環境を楽しめ、ということなのかもしれない。
2022.06.20
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NHK「100分de名著」ブックス 歎異抄 仏にわが身をゆだねよ【電子書籍】[ 釈徹宗 ] 本書は今後座右の書になりそうだ。 非常にわかりやすい。 いわゆる腑に落ちた。 まず真宗の肝だがそれは ところが親鸞は、南無を「おまかせします」ではなく、「まかせてくれよ」と仏に呼ばれているのだと領解します。 自分の称えた「南無阿弥陀仏」が、仏の呼び声となって聞こえてくる、それが他力の念仏なのです。 「称える」ことは、すなわち「聞くこと」である。 「称名」は、すなわち「聞名」である、ここが親鸞の念仏の本質です。 「聞名」という思想は、『無量寿経』にも繰り返し出てきます。 親鸞はそこに注目したのです。 浄土真宗の教学では、「称即聞」「聞即信」──「称えること」「聞くこと」「信じること」の三つが一つであるとされています。 浄土真宗の大きな特徴です。 親鸞の念仏と信心を考えるうえでも重要です。ということである。 親鸞聖人の上記お考えの前に そうした社会状況を背景に、法然が説いた平易な念仏の道筋はあらゆる階層の人々のあいだに広まっていきます。 法然の教えはシンプルで、「阿弥陀仏の本願によって誰でも浄土に往生できる。厳しい修行などできない凡人は仏の名を称えよ(称名念仏)」というものでした。 誰もが実践できる「易行(* 17)」であることが大きなポイントです。という法然上人のお考えがある。 浄土教系というのはそういう流れである。 ことここにいたり私などはとても厳しい修行にはついていけそうにない。 そこまでほったらかしにしてきたということなのだが、なにをいまさら真宗に親鸞上人に救いを求めようというのだと言われそうだが、そうだからこそ、南無阿弥陀仏、なのだ。 それがわかってきたから南無阿弥陀仏なのだ。 そのことが実にわかりやすく書いてある書だ。 易行、難行を龍樹菩薩が唱え、自力、他力を曇鸞大師が唱えたのだとか。 そこから法然上人、親鸞聖人にいたり今日に至る。 そして私は今南無阿弥陀仏である。 なぜ私は今南無阿弥陀仏を称えるではないかというと冒頭の親鸞上人の教えによるからである。 ここが真宗の醍醐味なのだと思う。
2022.06.19
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三浦真証 阿弥陀経を読む 久しぶりに仏書を読んだ。 なかなか難しい。 まず浄土真宗から再開した。 西方浄土の考え方について本書では ですから、西方に浄土があると教えるのは、私たちの死は単なる終わりではなく、浄土に生まれていくことであると教えるためだと言えます。 ではなぜ釈尊は「死」を「生まれること」と教えたのでしょうか。 それは、いまここに、死を遠ざけ恐れる私がいるからです。なのだそうだ。 そうなると死を恐れる必要がなくなる。 さらに これは西方に生まれると思わなくてもいいと言っているのではありません。 思わなくてもいいのではなくて、思えなくてもいいということです。 阿弥陀さまが西方に極楽を設けられたのは、死は終わりではなく、生まれることだと教えるためです。 そして、いまを生きろということです。 しかし、死の間際に浄土に生まれると思う暇がなくとも大丈夫なのです。 なぜなら、西方を思うことすらできない者をこそ目当てにして、本願が建てられたからです。 私は、釈尊が西方に浄土があると示された意味をそのように味わっています。 ということでつまり来迎を待って往生浄土をするのではなく、今を大切に生きよ、然る後に浄土に往生せよ、それは願っていても願っていなくともすでに決まっていることなのだ、ということなのでしょうなあ。 この来迎について親鸞聖人は、来るのは阿弥陀様ではなく私達が浄土に来るのだとし、迎えるのは我々ではなくて阿弥陀様が浄土で迎えてくれるのだ、と説明する。 この辺の解釈は実に見事だ。 究極すべてが決まっているのだから何も取越苦労する必要もないということになろうが、そうなると本願ぼこりと言われてしまう、実に難しい状況になる。 久しぶりに仏書を読んだら、随分錆びついているなあと感じた。 私がである。 常時仏の教えに触れていなければ錆びついてしまうんだなということを痛感している。 しかしこのような私をすくい取ってくださるのが阿弥陀様なのだということなのである。
2022.06.17
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こころ自由に生きる練習 良寛88の言葉【電子書籍】[ 植西聰 ] 悟りとは良寛によれば 良寛は、冒頭の言葉で、「愚かさもダメ、賢さもダメ、その両方を捨て去ってしまうことが、『悟り』なのです」と述べています。 この場合の「悟り」を詳しく説明すると、「現状を静かに受け入れる」ということだと思います。 飛ぶことができない飛行機を飛ばせとガンコに主張するのでもなく、よけいな心配をしてストレスをためるのでもなく、「今日は飛行機が飛ばない」という事実だけを冷静に受け入れることです。ということだそうだ。 この話をもっとわかりやすくいうと悪天候で飛行機が飛ばないという事実の元飛行機会社になんとしても飛ばせという愚か者とこの悪天候がずっと続いてこのまま永久に飛行機が飛ぶことがなくなるという心配をするのが賢者だとして、ようするにどうしようもないことだとわかることが悟りだとする。 だとしたら悟りなどいらないのではないかなんて私は天邪鬼だから考えてしまう。 わかっていながら当たりどころがなくて飛行機会社のCAに当たるだろうしあるいはいわゆる取越苦労をするだろうし。 良寛のようにぼうっとしておれないのが人間なのだ。 次、人生論。 人生の意義について考えることは多い。 私の場合はこの私は一体何者?という疑問が解けずにいる。 「なぜ生きるのか。何のために生きるのか」と考えることは、雑念となって、幸福感や充実感を見失う原因になるかもしれません。 良寛のように無心となって生きていくほうが、幸福感を得られると思います。 この文章を読んで私は良寛が無心でいられるのはつまり人生の意義も自分が何者であるかもきちんと理解したからであって決してそれがわからないまま無心でいたのではないのだと考えた。 さて著者は知客職だという。 禅宗で6段階ある職の4番目とか。 当然仏教の髄を知り良寛和尚をリスペクトしての本書なのだろうが仏教を知らない人には誤解されてしまう内容になっているのではなかろうか。 私は良寛和尚のスタンスは仏教徒として悟った後の自然体だと思う。 前提としての悟りがなければ全編絵に描いた餅でしかない。
2022.05.14
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大事なことから忘れなさい 迷える心に効く三十の「禅の教え」【電子書籍】[ 松山 大耕 ] 本書で一番ショッキングなところは ここで、ブッダの逸話をひとつ紹介しましょう。 ブッダが菩薩として修行していたとき、500人乗りの船に乗っていました。 ブッダはそのとき、人の心を透視することができました。 そして、1人、とても悪い心を持っている人が乗っていることに気づきました。 その人は、499人の人を殺して、船に載っていた宝を独り占めしようとしていたのです。 それで、ブッダはその男を殺しました。 物事の判断をするときには動機が非常に重要です。 ブッダは、499人の命を救うことと、1人の悪人が恐ろしいカルマを背負うことから救われることを願って、その男を殺しました。 動機は善です。 でも、だからといって、ブッダが人を殺したというカルマから逃れられるわけではありません。 ブッダはそれを背負わなければなりません。 でも、それは、ふつうに人が人を殺したというカルマと比べて、はるかに小さなものとなります」と世尊が殺人を犯した事が書いてあることだ。 このことは今まで長きに渡り仏教を研究してきた私にとって全く初めての知識でこれこそ青天の霹靂だ。 なにはともあれ殺人は最大級の戒だ。 たとえ世尊であれ赦されることではない。 しかしあえてそのことをやった世尊の行動から読み手はどう考えればいいのだろうか。 戒は守らずとも良いのかいやいやどんな事があっても守るべきなのかはそれぞれが考えなければならないことなのだろうが少なくとも絶対的なことではないと言えると思う。 もっと極端に言うと、ひろさちや先生が書いていることだが、どっちでもいい、ということなのだと思う。 ところで著者は、妙心寺退蔵院の副住職だが、その退という字に深い意味があったことも本書によって知ったことだ。 私がおります退蔵院の「退蔵」とはどういう意味かというと、「退」の一字で陰徳を表します。 陰徳とは人に知られないようにひそかにする善行、隠れたよい行いのことです。 それを「蔵」のようにたくさん積み上げなさいという教えを表しています。 ということで、退、というどうしてもネガティブなイメージになってしまうが実は、陰徳、という実に素晴らしい行動を意味するということがわかった。 この、退、もしくは、陰徳、については、実は私自身これまで心がけてきたことでもあるのだが、仏書で読んだのはこれが初めてだ。 世尊の殺人と退という2つの新たな仏の教えを知ることができ今回の読書は実に有意義だった。
2022.05.10
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ビジネスZEN入門【電子書籍】[ 松山大耕 ] 著者は東京大学卒業後修行を経て妙心寺退蔵院副住職になられた方である。 昭和53年生まれだそうなので今年44歳ということになろうか。 つまり私が大学4年生の時で就職活動もさることながら卒業できるか否か非常に迷っていた時代でもあり阪神タイガースが史上初の最下位に沈んだ年でもあった。 つまり著者と私は親子ほども年が離れているということになる。 しかしながら本書は素晴らしい本で文章を読んで泣いたのは本書が初めてである。 なぜ泣けたかと言うと最終盤に至り著者は埼玉県新座市の道場でしかるべく修行を積んだ後約1ヶ月かけて歩いて京都の妙心寺まで帰ったのであったが、その途中ホテルなどには泊まるわけにいかず宗派の違うお寺に泊まらせてもらうことになったそうで、その際に受けた厚情に対し思わず著者自身も涙が出たということでその際ありがとうということはこういうことなんだということも悟ったと言うことで、それに私はもらい泣きしてしまった次第である。 というような内容でなぜ本書がビジネスZENなのかなどということは考えない方がいい。 この題名もおそらく買い手狙いの題名なのだろう。 そのせいで著者は海外のビジネスマンやらキリスト教のお偉いさんを登場させているのだがこのことは私は本書においてまったく別な話ではないかと思うのだ。 むしろ著者の属する臨済禅の分かりやすい解説書だと考えた方が本書のポリシーがわかりやすい。 さて臨済禅においては何故厳しい修行をするのであろうか。 それは 一つ目は、仏陀と同じ体験をするということ。 同じ体験をしないとその気持ちはわからないからです。 それは先に述べた通りです。 そして二つ目については、こうおっしゃいました。 「無意識の意識」だと。 これはたとえば、人間は、「ご飯の食べ方が汚いから直せ」と言われれば直せます。 「姿勢が悪いから姿勢を正せ」と言われたら、そのようにできます。 それはすべて意識のレベルで行いを直すということです。 老師がおっしゃったのは、本当にやるべきことはそういったことではないということです。 つまり、人間を、無意識のレベルから正していかないといけない、そのためにこの修行をやっているのだ、ということです。 しかし、そう聞いたとき私は、老師の意味するところははっきりとは理解できずにいました。 ところが、修行を終えて何年もしたあるとき、はっとひらめいた瞬間がありました。 「そうか、老師がおっしゃったのは、そういう意味だったのか」と。だからである。 これは、赤肉団上有一無位真人看看、につながる話だと私は直感した。 つまり無意識とは一無位真人のことなのだ。 ここで概念的に競合するのが不随意な臓腑例えば心臓がひとりでに動いていることと無意識の真人である。 不随意臓腑は神あるいは仏のレベルであり私とは違うものと理解しているので私は不随意な臓腑と無意識の真人は別モノであると今のところ思う。 これについて著者は 私たちが、普段自ら意識的に働かせることができているのは、自分たちの能力の中のわずか五%ほどに過ぎないといいます。九五%は無意識の世界です。 人間が本当に極限までいくとこの無意識の部分が働き始める。その部分に働きかけるために、自らを極限の状態へと持っていく修行をするのだ、ということなのです。とさらに重ねて述べている。 次に公案について例えば、瓢鮎図では すなわち、大切なのは論理的な答えではありません。 この問題がそもそも何を言いたいのか、修行者に何を気づかせたいのかということが重要なのです。 たとえばこの鯰を自分の夢や悟りと考え、瓢簞を自分自身と考える。 するとこの問題は、悟りはどうやったら得られるか、夢はどうやったら得られるか、人の心はどうやったらつかめるか、ということになります。 そしてそんなことに論理的な答えはありません。 ですから、自分自身でしっかり修行して自分の力で気づきを得てそれを導き出さねばならないのです。 つまり、禅問答というのは、何事にもとらわれず、論理を超えることを求められるのです。 表現の方法はいろいろあります。 しかしそこに自分の信念や筋がなければいけないということを禅問答は教えてくれます。とする。 鮎と書いて中国では鯰を意味するのだとか。 公案は、自分が持っている小さな瓢箪で川の中を悠然と泳ぐ鯰をどうやって捕まえるかというものだ。 私なんざあ鯰を切り刻んで入れればよろしいなんて考えてしまったけれど、これはお粗末でしたな。 上記の通りこの公案は悟り(大きな鯰)をどうやって自分自身(小さな瓢箪)に取り込むかなのだということに気付かなければならないのだ。 今まで読んできた公案を上記観点からもう一度見直さなければなるまいということそれからこのコロナ禍が収束し次第私はもう一度妻と京都の地を踏みたいと願っておりその際もう一度妙心寺を訪れることになりそうだということを付記してこの記事を閉じたい。
2022.04.25
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一冊でわかる! 「仏教」って何?【電子書籍】[ 三田誠広 ] たしかに本書1冊で仏教を知ることができる。 駆け足ではあるが仏教の真髄を語っている。 仏教仏教といってもいささか範囲が広いが本書で取り扱っているのはナーガルジュナ以来の大乗仏教である。 大乗仏教の極意は 影絵芝居では、さまざまなドラマが展開されます。 歴史が語られ、恋愛があり、人の生死があり、観客の感性にうったえます。 そのドラマから喜怒哀楽が生じ、観客は興奮するわけですね。 しかしどんなに興奮しても、それは影絵にすぎない。 ああ、影絵なんだ、と思えば、興奮も一挙に冷めてしまう。 悟りの境地というのは、要するにそういうことです。 ああ、影絵なんだ、と思って冷静になる。 それでオーケーです。というものである。 しかしそこからの始末が手に負えない。 「不二法門に入るということを言葉で語ることはできない」 こう言いきった文殊は、「言葉で語ることはできない」と言葉で語ってしまっているので、噓つきクレタ人と同じパラドックスに陥っているのですね。 それで、最後の維摩は、黙っている。 これが正解です。 言葉で語ることができない、という真理を、言葉ではなく、沈黙によって表現したのです。 でも、これって、ちょっとずるいやり方ですね。 三十一人の菩薩による対立概念の提出があり、それに続いて文殊が言説不能のパラドックスを口にします。 そのあとに沈黙があるから、その沈黙に意味があるのですね。と嘘つきクレタ人というパラドックスに陥るのだ。 私は今まで人生とは影絵だということを仏書を読む度理解したつもりなのだが実は深いパラドックスに陥っていてその時はわかったつもりでも又すぐに仏教の意味がわからなくなる繰り返しだった。 これを読むと仏教とは言葉ではないということになる。 ではなんなのか。 沈黙が仏教の難題のすべての解答ならば真言宗という宗派は一体何とすればいいのだろう。 この世は影絵テレビの画面とわかりつつただ沈黙に入ればなんの解決にも至らない。 ああこれこそが輪廻というやつではないのか。 なあんてね、たしかにわかりやすい書ではあったがさりとてそれが全てではないということにまさに沈黙がキーワードであるということを通じて今気づいたのだった。
2022.04.14
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禅的 持たない生き方 金嶽宗信 さて家を建てて11年も経つといらないものがたくさん出てくる。 しかしそれを要らないものとして捨てることができないというのは、断捨離あるあるだろう。 それでもいままで数回車にいらないものを積み込んで廃棄物処理業者に持ち込んだことがある。 それにしても結局収まりがつかない。 そもそも部屋を整理整頓すべく物の本を読んで百均から整理箱を買ってきたものの、その整理箱そのものがいらないものに変化しているのだ! それはともかく本書は仏教書なのだが断捨離の本でもあり、断捨離の心得としてまず、 一つ目に大事なことは、これまでもお話ししてきたことではありますが、「所有とは執着である」と考えることです。ということで、ものに執着しないということ、逆に言うとこれは何でも捨ててしまえ、ということでしょうな。 次、 「持たない生き方」をはじめるうえで重要になる二つ目の心得は、「物がある」のが当たり前だと思わない、ということです。 実は、物を持たないほど、幸せな世界が広がるのです。と、仏教書だけに精神論が続き、 三つ目の心得は、「物がなければ何かで代用しようと考える、その工夫を楽しむ」ということです。となって、周りにはなにもない状態にすること、と続くのだ。 たしかに創意工夫を続ければなんとかなるでしょうが、その創意工夫の時間が悩ましい。 つまりそこに時間を取られるのが嫌なのだ。 でも私は思う、先述の整理箱くらい無駄なものはなかったと。 その整理箱そのものの中身は結局1年以上使っていないあるいは見ていないものなのだから、もう整理箱ごと捨てても構わないのではないのかと。 ようするにとにかく捨てきる勇気が断捨離には必要なのだと。
2022.03.04
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絶望しそうになったら道元を読め!〜『正法眼蔵』の「現成公案」だけを熟読する〜【電子書籍】[ 山田史生 ] 本書を1回読んだくらいで知ったかぶりするのはそりゃあ、バカというものだ。 逆に全くわからない、ちんぷんかんぷんだなどというのもよろしくない。 そりゃあ、そうでしょう、何かは私に身についているのではないのか。 それはともかく臨済臨済なんて言っているうち、道元禅師の魅力にどっぷりハマってしまう私だった。 いずれにしろ一回読んだくらいで真髄などわからない。 しかし例えば不生不滅について、 薪が灰になったら、ふたたび薪にもどることはありえない。 だから灰が後で薪が先だと、つまり灰になるのは薪だといいたくなるが、そのように見てはならない。 薪は薪であって、そのあり方には前があり後がある。 だが前後があるとはいっても、その前後は断絶している。 灰もまた灰であって、そのあり方には前があり後がある。 薪についていえば、灰になったら薪となることがないように、人も死んだら生き返ることはない。 そうではあるが、生が死になるとは仏法ではいわない。 だから不生というのである。 また死が生とならないことも仏法によって定められている。 だから不滅というのである。 生は今のあり方であり、死も今のあり方である。 譬えてみれば、冬や春のようなものである。 冬が春となるのではないし、春が夏となるのでもない。 などというのは、薪は薪、灰は灰、それを不生不滅だというその感覚がすごいと思うのだ。 生は生だから不生であり、死は死だから不滅なのだという。 わかったようなわからないような…。 いずれにしろ、 水を究めたあとで泳いでやろうとか、空を究めたあとで飛んでやろうとかいうのは、その料簡からしてダメです。 それを究めてから、それをしようというのは、甘えです。 もうちょっと上手くなってから練習しようなんていってるようじゃ見込みがありません。 いったい「究める」なんてことは、どだい無理なのです。 仏道の修行もそうです。 究めようとしても、どこまでいっても完成はありません。 存分に生きていれば、そのつど完結しているのです。 ということである。 このいまここで決着をつけなければならないのだが、これもまたかなり窮屈なことで…。
2022.02.22
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はじめての「禅問答」〜自分を打ち破るために読め!〜【電子書籍】[ 山田史生 ] 本書をすべてマスターすれば禅のことはほとんど分かるような気になりそうなのだが、そんな事を言ったら祖師方からとんでもない棒を喰らう事になりそうだ。 それはともかく、 「外見はたいそう立派だが、いかんせん内実がともなっておらん」と指摘され、無業は「文字に書かれたことはガリ勉してきましたが、じつは即心是仏ということがサッパリわからんのです」と素直にみとめる。 その謙虚な態度を受けて、馬祖は「そのサッパリわからんという心が、とりもなおさず仏なんだよ」といってやる。 迷っている心のほかに悟りの心があるわけではない。迷っている心が悟りの心に変わるわけでもない。 現に迷っている心がただちに仏としての心にほかならない。 せっかく馬祖が親切にいってくれたのに、無業はわからない。 「ダルマが伝えたものはなんですか」と問わずもがなのことを問う。 馬祖は「うるさいやつだ、出直してこい」と追い払う。 すごすご立ち去ろうとする無業の背に、馬祖は声をかける。 おもわず無業はふりむく。 その刹那をとらえて馬祖は問いをぶつける。 「なんだ」と。 いまふりむいたのはなんだ、と。 迷っている心か、仏としての心か、と。そして、 よばれてふりむく当のものこそが仏にほかならない、などと理屈を説明したいわけではない。 よばれてふりむくという、その「いま・ここ」のはたらきそのものが仏であることを、ふりむいている当人自身にわからせたいのである。 よばれてふりむくというのは、他者からよびかけられることによって出てくるはたらきである。 他者のはたらきに無為自然に呼応するはたらき、それがポイントである。とする。 ここでわかった振りをするでない、とまた棒で打擲されそうだ。 だが、ここに至りやっと禅に言う仏=心がわかりかけているのも事実だ。 さあもう少しだ。 などということもまたおかしなことでしょうな。 それがないのが禅だろうし、あるのもまた禅、うーむ、難しい、でも、仏とはその心だということに間違いはなさそうだ。
2022.02.15
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【中古】禅語十三夜 公案コミック /地人館/秋竜山(単行本)秋竜山の公案コミック 仏が笑う十三話 また趙州狗子の話になるが、本書では、 犬に仏性があるとかないとかそういう余計なことを決めつけると天真無垢の犬がかえって汚れてしまう。 犬でいいわけだ。 犬は犬そのもので絶対価値そのものだ。 釈迦にも寸分劣らない犬の絶対価値である。と説明する。 秋先生、実にわかりやすいですな。 つまりこの趙州狗子という公案はそういうことなのであり、そもそも犬に仏性があるかないかなどということを聞くな、と言う話であることを見つけなければならなかったのである。 つまり、本気で犬の仏性を考えるのではなくそもそものその問がナンセンスだったという仕掛けに気づかなければならない公案だったのだ。 次、倶胝竪指。 和尚さんの真似をしてわかったふりをしていつも指を立てていた小僧の指を切り取ったという有名な話だ。 これについて本書は、 要するに童子の指の痛みと和尚の立てた指とが一体となったのだ。 どうやら受け取る側の心のあり方がポイントだね。とか。 それよりも私は大事な指を切り取られたことに対する義憤が取れず、それに執着してしまう、なんのために禅を勉強しているか全くわからなくなる状態に気づいてしまったのだ。 次も有名な、南嶽磨磚。 これは瓦をいくら磨いても鏡にならないと言う話のことだ。 本書では、 君は坐禅をして何をしようとしておる。 仏になろうとするのです。 ゴシゴシゴシゴシ 何をなさるんですか。 磨いて鏡にしようと思う。 いくら瓦を磨いたからとて鏡になりましょうか。 坐禅をしたからと言ってどうして仏になれよう。と説明する。 形ではありませんぞ、中身ですぞということでしょうか。 禅を勉強していると、仏とは心のありよう、心とは仏の別名ということがわかってくる。 まずは本書のようなわかりやすい本から入っていくのがよろしいかと私は思った。
2022.02.05
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田村昇士 糞掃衣:禅の公案の答え 有名な公案に趙州狗子がある。 これは犬に仏性ありやなしやという問いで、 仏教の常識としてこの世に生きるものは全て「仏の心」を持って生まれていると説かれています。 それがなぜ、犬に仏性がないのでしょうか。 これは趙州和尚が単に「有る・無し」の「無し」と言っているわけではないことをよく認識しましょう。 質問をした僧侶の分別を取るためにあえて「無し」と答えたのです。 禅の世界は何よりもこの分別を取るということをその第一目標に掲げます。 ですからこの趙州の無の問答が有名になると、今度は別の僧が尋ねてきた時、趙州和尚は「犬にも仏の心がある」と全く反対の答えを返したりしているのです。 「有る」とか「無い」ではない。 そこのところを坐禅して見て来いという問題なのです。と著者は解説する。 そもそも公案の解明には修行僧でも3年はかかるそうで、趙州狗子と並んで有名な隻手音声に関して著者は、 「趙州狗子」にしろ「隻手音声」にしろ、この第一関門の公案を透るには修行僧でも三年間はかかるそうです。 「趙州狗子」の工夫は「あると思ったらない、ないと思ったらある」これを「あると思ったらある、ないと思ったらない」という当たり前、あるがままの認識へ立ち返らせる作業と言えるかもしれません。 何を言っているかわからないかもしれませんが、言葉にするとおかしくなるのが禅なのです。 一方で隻手音声の方は、片手で手を叩いても音などならないのですが、その音を聴いてこいという公案です。 この公案をもらった団子屋だか、八百屋だかの主人が坐禅ばかりして働かなくなってしまったので、見かねた和尚が「片手の音を聴くよりも、両手叩いて商売繁盛」と諭したというエピソードがあります。と解説する。 このあと著者は解答を書いてもあなたのためにならないから、あとは自分で解明しなさいというわけだ。 さて、趙州狗子はどのように考えたらよろしいのだろうか。 そして隻手音声は。 上記著者の解説にある、あるものはある、ないものはない、に何らかのヒントが隠されているように私は思う。 今の私の考えは、犬には仏性があり、隻手でも音がする、かな。
2022.02.04
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井上貫道 げんにーび:正法眼蔵「現成公案」提唱録 さていよいよことここにきて仏教に関しても私のうちで何らかの形でまとめなければなりますまいな。 日記に毎日毎日、僧侶になる、などと書き置きながらいつまで経っても修行すらしないで、一体いつになったら僧侶になれることやら、それでもとにかく、菩提である新義真言宗の勤行を毎日こなし、坐禅を組み、念仏申してはいる。 最近禅の方に興味があり、そこそこ読んでいるが、ガツンとやられたのはここをおいてほかに仏の世界はないのに他所に極楽があるなどと考えていること自体間違いだのようなことを目にしたときだ。 それはともかく亡き父が、常に自覚していろ、と言ったことの意味がこの頃やっとわかり始めてきたかな、と言う感じで、更に次の一文 最終的にはどうしても「自覚の不可欠と確かさの必要性」ということになります。 自覚ということが欠かせない。 他人が悟ったんではだめなんですね。 私たちは誰も、自分でわからないかぎりは納得しないでしょう。 例えば、自動車を運転している時、他人の「大丈夫だから発進していいよ」という言葉で発進する。 これだって自覚をしているわけです。 言ったその人をきちっと信じている。 そういうことがあるから、自分で左右を確認しなくても、その人の言ったことをまともに受けて発進する。 もしこれが不自覚だったら恐くて発進できない。 このようにすべては自分自身が自覚してやっている筈です。が、そのことに似ているかなと思ったところだ。 しかしそれにしても禅の世界は徹底して自分なのだな。 他力を認めない厳しさがあるけれど、そのような絶対的な自力では救われないぞ、というのが浄土教系の考えであって、こうなると本当に真逆なんだなと思わざるを得ない。私の理解力が乏しいんだろうが、 ほかのものは無いんですから、他の言い方をすればもう一つの様子がない。 一つも比べるものがない。 いつも生活している事実はですよ、今の灰なら灰の様子、薪なら薪という様子、それしかないでしょ。 自分の事実は、今この場所にいるっていえば〈この場所にいる〉という事実しかないでしよ。 さっきまで道路で遊んでたということはもう今ないでしょ、本当に今ここにいる様子だけしかない。 それが事実のとらえ方でしょ。 もしそのことが本当に理解(その通り)できたならば人は救われるはずです。 なぜかといったら人間はいつも「どうにかならないかなあ」って思って過ごしているから、そうでしょ。 事実を見ないんだもの、事実がどのようになっているかを見ないで「どうにかならないかなあ」というほうばかりを見て過ごしているんだもの。などと言われるとそうかなあと思ってしまう。 そうするとやはり死後の世界があろうがなかろうがこの今の世界しかなくて、場面が変わるなどということもないのだ。 つまり不連続なのだ。 いやあ、禅って本当に難しい。
2022.02.02
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井上貫道 真実、悟り、禅修行とは ようするに 悟るって言ったって、何のことはない。 自分自身の本心に目覚めるだけなんですね。というのである。 それに徹底して 或いは人をして」って、誰を指すのか人の名前は挙げていませんが、「心外の正覚を求め」るというふうな教え方をしている人。 要するに、「自分の今生活していることよりも他のところに真実がある、本当のものがある」というふうにして教えている人。 もう一つは、「他土の往生を願わしむ」、彼岸へ渡ったら救われるとか、西方十万億土、西の方に行くと極楽浄土があるとかいうような教えを示したのでしょう。という。 そして 道元禅師の『坐禅箴』を見ると、「不思量にして現じ、不回互にして成ず」。 坐禅のときの様子ですね。 「不思量にして現ず」、思いもしないのに、自分で思うと思わないのに、聞こうと聞かないのに、見ようと見ないのに、見えたり聞こえたりする。 「不回互にして成ず」、向こうとこっち、自他の関係なんか全くなしに、いきなりものが成立する。 要するにこういうふうになるということですね。 向こうにある衝立が向かうと見える。 あそこに積んである坐蒲とか座布団とか色んなものが、こうやってなんか向かうと見えるって、普通理解をするのでしょうけれども、そういう自他の関係を飛び越えて、いきなりこのようになるということですねということだから坐禅こそ仏の姿だというのだ。 つまり徹底して自分を磨け、磨けば自己が見えてくるこの自分以外に仏はいない、と言う徹底した而今のスタンスですな、だから、浄土教系は成立しない、自己を超えて仏の世界は成立しないということを本書では徹底して論じているわけだ。 その違和感は半端ない。 なぜなら徹底他力で弥陀の世界を信仰してきた者にとって、ありえない自力の世界とでもいうのだろうか、同じ仏教でもこれだけ風景が違うのである。 さてどっちを取ったものか。 それから自分を磨いたってそれは瓦を磨いて鏡にするようなものだとまた禅家から馬鹿にされるだろうし。 ただ、仏というのは今ここにいる自分の本心自己そのものなのだということ、ゆえに自分とは一体何なんだなどというより前にその本心を見いだせ、つまり、赤肉団上有一無位真人、看看、ということなんだろう。 雲のような妄想は早くに吹きとばせ。 とにかく本心を見い出せ、それが仏家のミッションなのだと言うことなのだろう。
2022.01.25
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青空禅 ただあることの幸せ [ 伊東充隆 ] 自分というものを雲と青空に比定して、この心身を雲とし、その奥に青空があるという考えはとてもわかりやすい。 臨済禅において、坐、というものを土の上に坐る2人と解説してくれた。 一人は自分もうひとりは真人。 それが実にわかりにくかった。 本書において、雲と青空、に比定してもらい、パッとわかった気分だ。 その概念は あなたの主観である「私」ですよね。 それが無かったら、客観的世界は有るも無いもありません。 ただここで、主観の私を心身(雲)だと錯覚していると、全くピンと来ないでしょう。 そうではなく、心身に気づいている、認識している源(青空の私)です。 つまり、客観的世界を現実のように見せている力は、主観的世界(雲ではなく青空としての純粋主観)の側にあるのです。 眠っている間は、夢が現実のように見えているのと同じです。 故に、青空の私は時空の世界に一度も生まれたことはないし、死ぬこともありません。というものである。 この一文に、あの、坐、というものの意味、それからこのところ私がこだわっている、赤肉団上有一無位真人、の極意がある。 この世あるいは我が夢幻だという真意もこの一文に収斂される。 さてこれから私はこの雲をいかに処理していくべきなのだろうか。 実はこれほど厄介なものもない。 それから臨済禅との兼ね合いも難しくなる。 なぜなら、心身一如、だからだ。 その意味は青空論とは違い、この身体を離れて心はない、心と体は一体のものだ、というものだからだ。 しかしそれも、雲は心と体のことであり、その奥にある真人を意識しなければならないのだ、ということと、雲があるから青空を意識できるのだということ、すなわち、心身一如のうちの心は、身体のうちに生ずる心と青空部分の心の両方を表すものなのだと私は今理解している。
2022.01.21
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禅語事典 より良き人生への二百五十のことば【電子書籍】[ 平田精耕 ] 久しぶりの仏書である。 私は今毎朝坐禅を組んでいる。 曹洞宗道元禅師の言葉に只管打坐があり坐禅の姿こそ仏だと言われ、自分は仏だ、などと高慢ちきになっていたが、日本禅宗のもう一つの宗派である臨済宗の言葉に、赤肉団上有一無位真人、という言葉がありつまりこれは つまり、「赤肉団上にまったく人間の階級や枠を無視した自由な人間というものがちゃんといる。その男は別に特別なものではなく、目や耳や鼻から出たり入ったりしているではないか。その真人がわからないものは、とっくり看るがよい。(そこで説法を聞いているではないか。おまえさん自身だよ)」という意味です。ということであり、さらに続けて、看看(看よ、看よ)という言葉が続くもので、この、赤肉団上有一無位真人、を探すことが坐禅の一つの目的であると私は感じた。 坐禅あるいは何か一つのことをしているとふと我を忘れていることがあるし、またぼーっとしている時もあるわけで、そのぼーっとしている時というのは完全に我も真人もいないと言うことだと思う。 一方物事に集中し我を忘れている時にふと私にアドバイスしてくれる、つまり働きかけてくれる人がいるが、これが真人ではないのかと思う。 あるいはメタ認知とでも言うのだろうか、私を天井の方から見ている人がいてそれが真人ではないのかなんて思ったりもしているけれど、未だどれが真人なのかはわからない。 ただ、ぼーっとしていてはいけない、それは分かる。 ところで私は赤肉団上有一無位真人のことを読みたくて本書を読み始めたのだけれど、本書はあまりにも禅臭くて鼻持ちならないとでも言うのだろうか、私自身かなり苦しみながら読了した。 ただ、 そこのところを仏教では、肉体と霊魂、物質と精神というものをふたつに分けるということ自体が、そもそもの間違いであると考えます。 そういうものは元来ひとつのものであって分けることのできないものだ、というのが「身心一如」なのです。というようなところ、つまり、心身一如、の考えが仏教の根底だと言うことが重要なことなのだという新たな教えを得ることができ、また新たな仏教上の旅立ちとなった一冊だったのである。
2022.01.20
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知的な仏教のすすめ 宮本正夫 本書は本当に難しくて、我ながら本当によく読了したものだとほとほと感激しているのだ。 しかしながら難しいからこそ本書で特に気に入って感動を受けた点、それは臨済禅が、 一つは、「坐禅主義の否定」。 座禅・瞑想は悟りへ至る為には必要不可欠な要素とする見解の喝破。 あと一つは、『 Here & Now』で見聞きしている・何ものにも束縛されることのない・自由奔放なる『一無位の真人』の看破。 後者はさらに臨済自身の『見性体験』と結びつくようだ。 すなわち、解脱とは、止むことなき修行にあって、『一無位の真人(何の位もない一人の本当の人間)』を、ある日突然、ハッと、見性するもの・悟るもの。というものだということがわかったこと、そして、 「この肉体には無位の真人がいて、常にお前たちの顔から出たり入ったりしている」、と臨済は語る。 「無位の真人」とは、『人』とか『己』とかと思えてしようのないもの。 でも、人でもなく・己でもない。 それは、瞬時の冷たさ、固さ。 瞬時の音、香り。 瞬時の執着、嫌悪などなどなど。 まさしく、今・ここにあって、生起・消滅しているもの。 マコト「無位の真人」を見届けたいと思うなら、それは、単なる現象の連なりでしかないと観・証せ!「まだこれを見届けておらぬ者」。 「さあ見よ!さあ見よ!」さて・さて・さて、ここまで言っても、それらを観ることのできぬ奴らは、ホント、「カチカチの糞の棒」。 まったくもっての役立たず。であるということ、 つまり臨済禅の真髄ですな、これが明確にこの難しい本の中に語られていて、もう私はこれから臨済禅に向かってしまうだろうという予感がしてならず、僧侶になりたいなりたいといつも思っていた私は、あの、臨済宗妙心寺派の定年退職後僧侶の道に向かいたいと思った。 道元禅師の曹洞禅は只管打坐である。 臨済はそれをまず明確に否定する。 つまり坐禅によってすべての思考を停止する、その姿こそ仏だ、とするのではなく、坐と言う文字が土の上に人が2つあることをもって、無位の真人を見極めることが坐禅の本意だということで、ものすごい教えだと深く感じ入った私である。
2022.01.06
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心配事がスッと消える禅の習慣【電子書籍】[ 松原正樹 ] 著者は松原泰道師のお孫さんだ。 泰道師のお子さんが哲明師だから、正樹師はそのお子さんということだ。 しかしそれにしても親子三代でこれでもかというほどの名著を次々と著されるのだからものすごいものだ。 ところで、次の文章は本書で一番気に入った部分だ。 しかし、人は生まれてから死ぬまで、孤独なときは一瞬たりともありません。 土の上に人と人が座り、対話している姿を表している坐禅という字。 誰が対話しているの?というと、自分と誰かではなく、自分ともう一人の自分が対話をしているのです。 自分が自分がという「自我」と、本来の自分である「自己」との対話です。 ですから、坐禅をするかぎり、もう一人の自分と常にある。 絶対に一人ではないのです。 昭和時代の禅僧である山田無文老師は『臨済録』(臨済宗の開祖・臨済義玄の言行をまとめた語録)の中の「一無位真人」という禅語について、自分の中に、位も性別も年齢も能力も超越した、世間の価値判断で価値を決めることのできない仏性、本来の面目がある、と解説しています。 立派な主体性、絶対的な尊厳、平等にある純粋な人間性というものが生まれながらにして誰の中にも備わっているのだとおっしゃっています。 これこそが、本来の自分「自己」です。 この文章で私はハッとしましたな。 一体今まで私はなんの坐禅をしていたのだろう。 どうやら私は只管打坐という言葉に惹かれて、ただ坐っていればいいのだという誤解の元、禅の世界で言うところの、野狐禅、に陥っていたらしい。 なんということだ、私はもうひとりの私と一緒に坐っていたのだ。 そんな事に気づかず今まで只管坐禅を続けてきた。 うーむ、何を今更…。 いえね、本書を読んだから全てが解明したのではない。 むしろ本書のおかげでようやくスタートできたのだ、という感覚だ。 つまり私はこれから松原正樹師に導かれいくことになるのだ。 正樹師の場合は、臨済宗らしい。 ようやく自分が行く道が見えてきた。 しかしそれにしても今まで私は本当に何をしていたのだろうか。 私は本書を大事にしたい。
2021.12.28
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現代坐禅講義 只管打坐への道【電子書籍】[ 藤田 一照 ] 仏教はますます難しくなってきて私は半ノイローゼ状態だ。 最近私が感じていることは 意識でできないことをわたしたちは日常的にやすやすとやっているのです。 消化吸収、排泄、呼吸、血液循環、免疫、重力場での姿勢調節、運動の制御などわたしたちが生きていることを支えている様々な働きは、そのほとんどの部分が意識的コントロールではないかたちで維持・運営されています。 思いの発生それ自体は意識によるものでないことも忘れてはなりません。 実は、生きているという地盤から見直せば、意識は自分がそう思い込んでいるような主人などと言えるものではなく、生きていることの副産物の一つくらいに考えておいた方がいいものなのです。 精神科医の頼藤和寛氏によると、われわれがそれが全てだと思い込んでいる意識の領域など富士山の山頂の噴火口付近くらいのサイズでしかなく、脳の活動から立ち現われてくる作用を全部ひっくるめても雪冠部くらい、さらに脳がその一部になっている身体やそれと交流している環境や微妙なかたちで影響を与え合っているさらに広い地球や宇宙を考えていけばその裾野はどんどんひろがっていって無限の果てまで伸びていきます。 わたしたちは、自分の内部だけで自分を支え成り立たせているのではなく、逆に意識的な自分というのは全世界、全宇宙が寄ってたかって担ぎ上げている「御神輿」みたいなものだということになりますということで、この肉体は私が関与できないほど複雑で緻密であり到底私などではないということだ。 そのうちの自分あるいは自己または我と言っていることについて著者は、全宇宙がよってたかって担ぎ上げている御神輿と表現する。 けだし名言だ。 私はこの肉体は自分ではないと思う。 最近親ガチャなどという言葉が大手を振っているが、まさに親ガチャ私が私と思っているこの肉体は私ではないということになぜ気づかないのか、つまりこの肉体が私ではないことに気づけば親ガチャは成立しないことになるのだ。 一日どれくらいの坐禅をすべきかということについて著者は こういう坐禅を普通は三十分から四十分くらい続けます。 あまり短い時間だと坐禅の醍醐味を味わう前に終わってしまいます。 せっかく坐禅のフルコースが用意されているのに前菜を食べるだけで終わるというのはもったいないことです。 でも、かと言って自分の限界をはるかに超えるほど長く坐ろうとすると坐禅ではなく我慢大会になってしまいます。 まあ、やはり三十分から四十分くらいはゴソゴソ動かないで坐っていられるような身心を時間をかけて丹念に練り上げていくことを目標にされたらいいと思います。 坐る時間の長さを決めたら極力その時間を守るように、途中で中断しないように努力します。 釈尊が菩提樹の下で坐っていたときに悪魔が様々な手段を弄して坐から立たせようとしたように、坐禅中には様々な誘惑がやってきて中断させようとするからです。 もう一つは坐禅を毎日の日課に組み込んでいくことをお勧めします。 時間を決めて何があっても必ず坐るようにするのです。 坐禅を中止にする口実や理由はすぐに十や二十見つけられますが、する理由はたった一つ、「そう決めたから」、しかありません。 坐禅する三十分という時間を捻出するためには限られた二十四時間のなかから、無駄、無為に過ごしている時間をここから五分、あそこから十分というように少しずつかき集めてこなければなりません。 それは本当に貴重な時間になります。 こうして坐禅へのコミットメントが自ずと日常生活に規律や秩序をもたらしてくれます。などと言っている。 この辺はとても難しいところだけれど道元禅師はつまり坐禅そのものが仏とおっしゃっているわけで、これまた名言ですなあ。 私はこの辺からもう一度やり直さなければならない。 自分に合うのは坐禅か念仏かということでもある。 少なくとも坐禅でぶっ飛び、冒頭のような結論に至ったことは間違いのないことだ。 これからの私の課題はこの自己または我の処分だ。
2021.11.26
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智慧と慈悲の開発レッスン アルボムッレ・スマナサーラ 昨日書いた損得勘定についてアルボムッレ・スマナサーラ師は 「損得勘定をする」ということは、「自分の得しか考えない」という意味ではありません。 これは「自分の感情をコントロールして理性を働かせ、他人にも自分にも損を与えないように気をつける」という意味なのです。と規定する。 そしてそれは このように「自分」「他人」「生命全体」のいずれかに一つでもマイナスが入ると、それは悪行為になります。 マイナスは一個でも入ってはならないのです。ということだと言うのだ。 つまり私から生命全体まで普遍的にくまなくマイナスが入ってはいけないとおっしゃる。 そもそも自己つまり我はないのだから議論されている損得勘定はようするにこの全体に関わって損か得かということだということになろう。 まあそれにしても何処から湧き上がった我は何処へともなく流れていく。 その間この肉体に宿り少しは計算をし人生を送り肉体の死とともに雲散霧消してまたいつかどこかで集まり来て我をなすのかどうかまでは定かではない。 この議論は不毛だ。 そもそも我がないのだからまた何処かから湧いてくるなどということはないのだ。 大切なことはこの60兆の細胞からなる私と思われる肉体が私ではないということだ。 これは仏教では仏からの預かりもの、他の宗教では神様からの預かりものであり断じて我ではないのだ。 まずはこの事に気づかなければならない。 それではこの我は肉体臓器の1つである脳みそが作り出しているものなのだろうか。 だとすれば脳みそこそが我ということになるのだけれど、その脳みそは我以上に緻密で精密な動きをしているのであり、我と思われる感情を作り出しているものではない。 それではこの我は一体何処から来て何処へ向かっているのか。 少なくとも仏教ではこの我は一切否定し去っているわけだから、来るものでも行くものでもないということになる。 ただ一時このときここに滞在しているものが我だ。 とにかく我は不思議な存在だ。
2021.11.24
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【中古】何が平和を壊すのか?—争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 (初期仏教の本) アルボムッレ・スマナサーラ【中古】 仏教の極意は当たり前のことを当たり前に感じることにある。 特別なことはなにもない。 だがそうは言ってもそれができないのだ。 それではどうするか。 「嘘をついてはいけない」という道徳が真理だと私たちにも発見できる方法があります。 自分は嘘をいうべきか、言わざるべきかと冷静に損得の基準で考えてください。 ある人々の考え方に乗せられて嘘をついてしまうと皆に批判されます。 すぐ社会的な信用を失い、自分の幸福がなくなる。他人にも迷惑をかけてしまう。 これはとんでもない損ばかりです。 しかも万が一、来世というものがあったならば大変な結果になるでしょう。 ですから無難で疑問が成り立たない選択は、自分が悪を止めて善行為をすることであり、悪事を勧める人々を信仰しないことだと分かります。 このように「損得の基準」で考えていけば私たちにも真理が発見できるとブッダは教えたのです。 というようにそのことが自分にとって損なのか得なのかということを基準にすれば自ずと真理がわかるというアルボムッレ・スマナサーラ師の話なのだ。 例題として怒りについての考証が次のものだ。 試みにお釈迦さまに逆らって、怒った人に怒り返してみてください。 その結果として平和、平安が訪れますか? 始めは一人だけが怒っていたのに、今度は二人が怒っている。 二人とも怒りで苦しむことになる。 怒りを返すとその人の怒りの炎がさらに燃え、相手の怒りもより強く燃え始める。 これは一方的に怒りが増える道になります。 苦しみが増える道になります。 周りの人々も参加して同調するなら、怒りが制御できない規模にまで広がる。 「相手が殴ったのだからこちらにも殴る権利がある」という教えは苦しみを無くすための真理ではありません。 それで人が不幸になる。 ですから怒りを正当化する理屈を聞く必要さえもないのです。 ここまで燃え盛ればそれは戦争状態というものだろう。 本書では最後のまとめに世尊が説いた八正道を用いている。 しかしこの八正道こそ曲者で容易に理解も実践もできない性格のものなのだ。 それが今回私が冒頭に書いた当たり前のことを当たり前にするということだ。 その実践のための方策の1つが損得の基準とアルボムッレ・スマナサーラ師は独自に説く。 損得という言葉を使われるとそこから仏教から漏れてしまいそうな感覚にとらわれる。 私達はこの損得という部分に早急に慣れなければならないのかもしれない。 なにより私というものの危うさよ。 そもそもこの私と思い込んでいるものの正体は何処より湧いてくる感情であるから、それはまるで雲の如きものであり、ふわふわして実体のないものだから、危ういのだ。 ではこの現実この瞬間に私だと感じているこの感覚は一体何なのだろうか。 それがわからず冥府魔道に迷っている。 ただこの肉体は私ではないということは少しずつ分かり始めてきたところだ。
2021.11.23
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心を整える最高の坐禅と瞑想法【電子書籍】[ 川野泰周 ] 最近また坐禅に凝ってきた。 そんなことで坐禅の本を読んでいる。 坐禅と掃除は◎ 掃除に集中する 塵ひとつ、葉っぱひとつ残さないのが禅修行の掃除です。 あまりに徹底的にやるので修行僧が通ったところは通る前よりも綺麗になっていると言われるほど。 もちろん、掃除中は掃除のことしか考えませんが、そうして徹底することで精神が研ぎ澄まされ、やりきったという達成感が心を満たしてくれるといいます。 家の掃除も「今日はここを徹底的に綺麗にするぞ!」というテーマを設けることで同様の効果をもたらしてくれます。 例えばドアなら、扉もガラスも全て磨き上げ、一つの箇所をきちっとやりきることが重要です。 そうすることで成功体験として刷り込まれ、新しいことに挑戦しようとする前向きな気持ちが生まれます。 こういった掃除の方法は、心の診療においても、うつ病の人が臥床状態から少しずつ回復していく過程で実際に推奨されていることから、健やかな心を保つために大切であるということがわかります。 というように切っても切れない関係だ。 私自身引退後自宅の清掃を毎日欠かさずやっている。 このことは禅的にも必要なことだが神道上も必要なこととされている。 神道の場合は穢を払うためだ。 坐禅で重要なことは呼吸法だ。 その呼吸法に4・7・8呼吸法というものがあるとのこと。◎ 瞑想状態に近づく4・7・8呼吸法 ポイント ○口を閉じて4つ数えながら鼻からゆっくりと息を吸い込む ○息を止めて、下腹部に力を込めた状態で7つ数える ○8つ数えながら肺の空気を全て出すイメージで口から息を吐く ○上記の動作を1サイクルとして、3回繰り返すというものだ。 坐禅には数息観がある。 1から10まで数えまた1から10というふうに繰り返す方法だ。 本書で紹介された上記の4・7・8呼吸法というのは面白い。 たとえば20〜30分の坐禅をしようと思ったらさまざまな数え方をしてみるといい。 私は24飛びの数え方をして3000まで行ってみた。 つまり24、48、72、96、120…3000というものだ。 素数をかぞえることもある。 2、3、5、7、11、13、19、23、29…71というように。 それに4・7・8呼吸法を入れることも考えてみたい。 とにかく坐ること、只管打坐である。
2021.11.21
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【POD】一遍 その鮮烈な生涯 [ 望月宏山 ] 本書では一遍上人、時宗、時衆の魅力が余すところなく語られている。 その基底は 諸仏の光明も及ばぬほど偉大な阿弥陀仏、別名無量寿仏の名号は、迷悟善悪を超越した法であるから、自ら難思光仏、衆生の思慮が及ばぬ光の仏とほめ讃えられています。 名号を信じるときは仏も衆生も隔てはなく、ということは、仏の身口意も衆生の身口意もひとつになるので、さまたげるもののない光の仏とお呼びするのである。 されば、われら衆生は、生賢しらな思量を断ち切り、仏を仰いで一切を任せて、息のある限り南無阿弥陀仏と申さねばならない、と説かれているのです。 という、南無阿弥陀仏の不可思議光である。 それは本当に不可思議である。 名号が仏であるのだから。 そして そもそも私たちの生死は執着心にとらわれた迷いの心であり、悟りは専ら迷いや悩みからの解放です。 生死は本来実体のないものですから、いくら学んでも悟りには到達できませんし、その悟りさえも本来実体がないのですから、いくら行を進めてもつかむことができないのです。 そうはいっても学ばない者は、ますます迷いの世界にはまり込むでしょうし、行を進めなければいよいよ流転するばかりです。 從って、身命を捨てて行を進め、心の限り学問を修めねばなりません。と断ずる。 そうなのだ、実体の無いものが実体のない中で生きているのだが、だから何もしなくてよろしいということにはならぬというのだ。 ここで浄土教は、南無阿弥陀仏と申せ、ということになる。 実体のない世界に生きるということは二河の上の白道にいるということで、その白道は実に細いのだけれどとにかく、南無阿弥陀仏を申せ、 お分かりの通り、火の河は憎しみ怒りの心を表わし、濁流は貪りの心を表わしています。 東岸はいま、私どもが住んでいる迷いの世界、向こう岸は仏の世界・彼岸です。 一遍上人語録巻下86ページに「中路の白道は南無阿弥陀仏なり。水火の二河は我等が心なり。二河にをかされぬは名号なり」という言葉があります。 この細い白道こそ私たちの命の綱です。 いまや「名号を称えるよりほかに、私たち凡夫が彼岸へ到達できる方法はない」という浄土の教えを、二河白道図は見事に表現していると、南無阿弥陀仏こそ白道だ、というのだ。 かなり抽象的で概念的ではあるが、私達が南無阿弥陀仏を申さなければならないわけが何となく分かる話でもある。 南無阿弥陀仏という細い白道がなければ私達は火の河か濁流に飲み込まれてしまう。 それがどうでもいいという生き方ということになる。 この世の不条理がわかるからこそ南無阿弥陀仏を申さなければならない道理である。
2021.11.10
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ニセ坊主 柳衛法舟 著者は学習院出身、実家が神道ゆえ得度の際かなり悩み、最初に就職した東山浄苑で神道出身者などの理由から同僚からにニセ坊主などと揶揄されたりしたが、その後真宗大谷派に移り正式に教師の資格を取った人である。 その間の心の葛藤を描いた本である。 浄土真宗の難しいところは大谷派が親鸞聖人の血を引く大谷家が関与していることであり、それゆえ争いも起きているようだ。 そして著者はニセ坊主と揶揄されながら真宗の真髄を極め教師になった 。 重要なことは真宗もまた仏教であるということ。 それは阿弥陀様と世尊の二尊が存在することを忘れてはならないというのだ。 法蔵とは我が心の在り方を示すものという考えが面白い。 なるほどそうすると法蔵は誰の心にもいるということになる。 そうなると法蔵菩薩の話は荒唐無稽の話ではなくなるのだ。 つまりまず法蔵の如く誓いを立てる。 それが叶うことによりわが心は阿弥陀様になる。 こういうことか。 それを説いたのが世尊である。 空が心とすればすなわち空は法蔵菩薩ということになる。 真宗をはじめとする浄土教を荒唐無稽な夢物語と捉えてはならない。 実は我が心の在りようなのだということに気づかなければならないのだ。 そしてそれが仏教の真髄なのである。
2021.10.28
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真宗 富士川游 本書は宇宙論から始まり世尊の仏教を論じて、弥陀教すなわち浄土教系に入り真宗でまとめる作りになっている。 その順序立て作りは実にわかりやすい。 ただし一回読んだだけでは理解はできない。 だから座右の書にする必要がある。 それはともかく本書を読んで少しは仏教と弥陀教の関わりがわかってきた。 それは直覚的なものだけれど、まず仏教の三法印、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の原理が大宇宙の原理であり故に我というものはどこにもないのだということ。 つまり我は宇宙の成員として様々な縁、かかわりによってなっているものであり無我であるとともに無常、つまり転々流転するものなのだ。 そのようなことが分かった時に弥陀教に入ると、阿弥陀様というのはすなわち大宇宙の事だということが分かるのだ。 だから南無阿弥陀仏というのはすなわち三法印そのものだということになる。 なるほど阿弥陀という言葉は無量の光、無量の寿命なのだから大宇宙に違いないではないか。 つまり法蔵菩薩の誓いは宇宙の成り立ち以前の意思であり、その後その誓いに基づいて大宇宙が成り立ったということであって、我はその成員で無我にして無量なのである。 弥陀教に関し目の前の現象にばかりとらわれていてはいけないのだ。 阿弥陀様を大宇宙と捉えなければならない。
2021.10.25
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よくわかる日蓮宗 重要経典付き【電子書籍】[ 瓜生 中 ] 日蓮宗は 日蓮はこの久遠実成の釈迦如来を至上の存在と考えた。 彼は自著『観心本尊抄』の中で「一念三千の法門は、法華経の如来寿量品の文底に沈めたり」と説き、一念三千の法門、すなわち全宇宙の存在現象が個人個人の心の中に具わっている。 そのことをしっかりと認識することが「観心」であると説いた。 そして、「一念三千の仏種に非ざれば、有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実なり」と続ける。とするものである。 すなわち 日蓮はあらゆる経典を読破し、その思想を理解した。 その上で「一乗真実」「久遠実成の釈迦如来」を説く『法華経』を絶対の教えと確信した。 つまり、『法華経』の説に従えばすべての教えは方便であって、けっきょくのところ絶対的な真実である『法華経』に帰一する。 ここに『法華経』のみによる日蓮のユニークな思想が展開されるのである。というものである。 法華経が説く世尊は久遠実成の世尊であり現世に存在していた世尊は仮の姿だというのだ。 法華経が優れているところはこの現世に現れた世尊の一生を史実に基づいて構成したところにある。 だからその話は自然に人々に信じられることになるのだ。 従って日本においてはこの法華経や日蓮宗をもとにした立正佼成会やら霊友会それに創価学会などが新興宗教として現れたことになる。 こうした中で日蓮は 『法華経』には、すべての仏菩薩や天(神々)が帰依すべきことが説かれている。 この記述に基づいて、日蓮は日本の神々も『法華経』に帰依すべきと同時に、『法華経』に帰依してそれを弘めようとするものをしっかりと守らなければならないと考えた。 「龍口の法難」の折、日蓮が護送される途中に鶴岡八幡宮の前で八幡大菩薩を激しく𠮟責したのは、今述べたような理論によるのである。 つまり、『法華経』の持経者、行者を護れない神は本当の神ではなく大きな仏罰が当たるというのである。と神をも畏れぬ行動である。 日本の神々も釈迦如来を守護するべきものなのだと言っているわけだ。 ここにおいて日蓮は自分が例えば瀧口の法難のような経験をした法華経の護持者であり、釈迦如来を守るべきものである日本の神々も法華経、日蓮宗を護持すべきだと神々に訴えているのであり、日連はしっかりと神と仏の違いを自覚していたということになる。 つまり日蓮は偉大な宗教者だったのだ。
2021.09.20
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テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え新装版 [ アルボムッレ・スマナサーラ ] 長い間自分とはなんぞやと悩み続けてきた私だったが事ここにいたり 五蘊とは、「生命とはなにか」「私とはなにものか」という問いに対するブッダの答えです。 「『私』なるものを分析してみると五つの塊が見つかる。 それ以外は見つからない」という研究結果なのです。 塊といっても山のようにじっと止まっているのではなく、滝のようにずーっと流れ続けて絶え間なく変化しています。 人々は変化し続けるこの五種類の塊を「私たるもの」「私という実体」(我・魂)と誤解して執着することで、悩み苦しみ続けるのだと、ブッダは説かれました。というアルボムッレ・スマナサーラ師の教えを読んで少しだけ腑に落ちた。 つまり そういうわけで、初期経典では、頭ごなしに「無我」を断言するのではなく、五蘊それぞれについて立証しつつ、無我を説いているのです。 それは決してお釈迦様がひそかに「永遠の魂」を認めていたからでも、また不可知論の立場だったからでもないのです。 五蘊の観察によって、「我は見あたらない、成り立たない、証拠がない」と証明する理性的なアプローチこそが、人間の自由を尊重する慈しみの実践であると、ブッダが身をもって示されたのです。と、我は見当たらない、成り立たない、というのが自分というものの正体だったのだ。 この辺がつまり仏教の肝なんだろうな。 まずなんとなく腑に落ちたあたりからの出発でいいのではなかろうか。
2021.09.01
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業(KARMA)は直線ではない チャンディマ・ガンゴダウィラ長老 ようするに生前善を積んでいても死ぬ間際に邪見を抱けば地獄に堕するという教えだ。 逆に邪見にまみれていても死ぬ間際に正見を抱けば天界に行ける。 だからKARMAは直線ではない。 だからとにかく善を積むこと。 そして死ぬときには安らかに正見を抱くこと。 つまりそのことはまさに浄土教系の話につながるのではないのか。 南無阿弥陀仏を称えれば阿弥陀様が観音様と勢至様を率いて臨終時お迎えに来てくださる。 まさに上記テーラワーダの教えにピッタリするではないか。 つまりテーラワーダと浄土教系の乖離は計り知れないと思っていたことがここに来てぴったりはまった。 すごいことですな。 これらの例からおわかりになるように、死のときに正見を持つか、邪見を持つか――これは次の「生」を決めるのに非常に重要な鍵になります。 私たちは、いつ、どこで、どのように死ぬかはわかりません。 自然死か、事故死か、病死か、若くして死ぬのか、中年で死ぬのか、寿命をまっとうして死ぬのかは、わからないのです。 そこで、ブッダは私たちに「常に正見を保つように」とおっしゃいました。 正見を保つことは、優れた善行為なのです。 ときどき、「死のときに何を考えるべきですか?」とか「どのような思考を持つべきですか?」と質問されることがあります。 多くの指導者がこれについてさまざまなことを述べています。 では、ブッダは何をすすめているのでしょうか? 正見を持つことです。 自分の見解を清らかにすべきである、と教えているのです。 ということであり 死後のことは知りえないのですから、それを心配することは無意味なことであり、無駄なことです。 そこで大切なのは、生きているいま、つねに善い心で善い行為をすることです。 このとき同時に、正見を持つようにしてください。正見を持って善い行為を積むのです。 これが私たちにできることであり、最も安全で、最も安心できる方法です。なのである。 そして浄土教系では善について念仏にまさるべき善なしとしている。 善行を積むことは実に大切なことである。 そのことについてはずっと私も思っていたことだ。 つまり私の考えは正しかったのだ。 本書を読めば善のすごさがわかる。 なぜ善行を積まなければならないかがわかる。 素晴らしい教えだ。
2021.08.31
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「心の疲れ」が消えていく瞑想のフシギな力。 (王様文庫) [ 地橋秀雄 ] フシギな瞑想とはヴィパッサナー瞑想のことだ。 そのうちでもサティ瞑想法が最高峰の瞑想とのこと。 サテイとは気づきのことだ。 つまり今私はタイピングしているわけだがこのタイピングを味わって後、タイピング、と気づきつまりサティを入れるただそれだけのことだ。 このことについては著者以外の他の本でも書かれている。 それが実に難しくて理解不能だった。 著者の書いていることはわかりやすい。 著者によればこのほか五戒瞑想法などというのもあるという。 それは、 パートナーがいても、素敵な人が現われてくることはあるものです。 「ああ、素敵な人だ」とハートをワシづかみにされた瞬間に気づくのが「サティ(気づき)の瞑想」です。 そして、「いや、でも私は不倫をしない」と決める瞬間に気づくのが「五戒の瞑想」です。というものだ。 いずれにしても私はサティ瞑想法を求めていた。 アルボムッレ・スマナサーラ師等テーラワーダ仏教の本にもサティのことは書かれていたのだが、本書ほどピンとくることがなかった。 つまり私は地橋秀雄という人の書いた本を以前読んだことがあり、たしかこの人がサティについて書いていたはずだと思い出しその著書を探していたのだ。 それがやっと見つかりこうして読んでブログにアップしたというわけだ。 タイピングをして、音がする、とラベリングをする。 そういうことの繰り返しを毎日10分続けることというのが著者の主張だ。
2021.08.29
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今、ここを生きる 新世代のチベット僧が説くマインドフルネスへの道【電子書籍】[ ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェ ] さて本書はじっくり読んで心の在処をしっかりと確認するためのものだ。 しかしなかなか難解で一回読んだくらいでは理解しきれないだろう。 何より瞑想による経験が必要だ。 それにしても人間は 仏教者として最初に教わったのは、一切衆生――人間だけでなく基本的な意識の感覚を備えているもの――は、三つの特性を備えているということです。 それは身体であり、言葉であり、心です。 身体というのは、もちろん私たちという存在の物理的な側面を指しています。 身体は常に変化しています。それは誕生し、老齢となり、やがて死に至ります。 言葉とは、私たちの話す能力をさすだけでなく、音、言語、表情、身振り、そして哺乳類が分泌して他者の行動に影響を与えるフェロモンのような化学物質をも含む情報の交換を指しています。身体のように、言葉もまた変化しやすい。私たちがお互いに発する言葉は、時間の中で起こり、時間の中に消えていきます。 身体が死ねば、言葉を話す能力も失われます。と身体と言葉と心でできているというところから本書の基本は始まる。 そして時間の概念にまでいたり心の特徴から時間というものが実は幻なのだということに気づかされるのだ。 身体と言葉以上に心は厄介だということに気づかされる。 本書では自分の心と会話をしその心の在り処がわからないということに気づくことが大事だという。 本書で特に象徴的な話は、悩んだ若者が師に悩みを消滅するための秘訣を聞きに来た時師は、まずお茶を一杯飲みなさい、と言ってお茶を出してくれたのだが、そのお茶がいつのまにか湖のほとりに変わり湖のほとりで若者は恋をして家族を持ち幸せな生活を育んだけれど子供や妻と死別することになり自分も死のうと湖のほとりに来て 身を投げようとした瞬間、若者は師の前にいて、ちょうどお茶を飲もうとしていることに気がつきました。 ほとんど一生分の時間を過ごしたのに、実際はお茶はまだ温かかったのです。という話である。 つまり 「おわかりであろう。すべての現象は心から生まれる。心は空である。心を離れて存在する現象はない。しかしそうした現象が無である、ということでもない。これが教えじゃよ」というのが私は今回本書を読んで本書の肝だと思った。
2021.08.28
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正信偈講義Ⅰ 藤場俊基 浄土教系と上座部は仏教といいつつまったくちがうものと考え理解しなければならない。 しかし著者は だから、菩薩の名である「法蔵」ではなく、敬意をこめて如来の名でもって「南無阿弥陀仏」と称したのです。 つまり法蔵の本願は、「南無阿弥陀仏」とその名が称されることで成就する、そういう仕組みになっているのです。 そのことから本願成就ということを考えますと、諸仏が称する「南無阿弥陀仏」の声を聞いて、私たちが同じように「南無阿弥陀仏」と称するときに、本願が成就するのです。 私たちがその名を称することに先だって、本願が成就して阿弥陀如来が私たちを救うために現れてくださるというわけではないのです。 そのような発想は、阿弥陀如来が実体的に存在するという考え方になり、仏教の縁起の道理に反します。 如来として名が称されなければ、如来は現れない。 名が称されると同時に如来が現れる、これならばまさに縁起の道理にのっとった出来事です。として浄土教系の道理を先に阿弥陀様が存在するのではなく、この世の縁起の法理により阿弥陀様は名が称されて同時に現れるのだとする。 理屈といえばそれまでの話だ。 ところが、曇鸞は菩提流支から「阿毘跋致は努力の結果として得られるものではない。努力して達成しようとすること自体が迷いに過ぎない」と指摘されたのです。 つまり今迷っている者が、何をどのように努力精進しても、迷いを積み重ねるだけに過ぎないのです。 偽物を百個集めても一万個集めても本物にはなりません。 それが従因向果です。 これと逆の考え方を「従果向因(果従り因に向かう)」と言います。 従因向果の場合、可能性はあるけれども、必然ではありません。 果が実らなければ、その種は因とは言えないからです。 果なくして因なし、です。 しかし、果から因を見る従果向因の場合は必然です。 果には必ず因があります。しかもその因は必ず一つであり、他の何かに置き換えることはできません。 因がなかったり、縁がなかったりしたのでは、この結果は生じません。 つまり果が生じているところには、必要なものは全部あったし、それを妨げる縁はなかったのです。 必ず唯一無二の因と、必要十分な縁がありました。 現にある果がそれを証明しているわけです。 仏道を、「因から果に到達する可能性がある」という従因向果の視点で考え実践しようとするのが、難行道あるいは聖道門です。 自分が何かをすることが、果に対して何らかの効果や影響がある(縁になる)とする考え方です。 この発想を自力といいます。 逆に、自分が何かをすることは、果に対しては一切何の効果も影響もないという考え方が他力になります。 当たり前のことのようですが、私は、従果向因の視点の重要性を曇鸞から学びました。そしてこのことは私の浄土教理解の基本になっています。 などという言葉は何度読んでも難解でわけがわからない。 私なりの解釈は今の結果が全てだと言うことかと言うようなあたりに落ち着いてしまう。 本当に難解である。 フーっ!
2021.08.27
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私の瞑想体験談 1年半で1500時間以上瞑想し続けた結果と効果 坪井一真 つまり世尊は次のように言った。 「痛みは痛みや。それ以上でも以下でもないねんで。ごっつ痛かったらな、その痛みを観察したったらええねん。ただ観察するだけやで。痛みを追い出そうと思ったりしたらあかんのやで。ただ、痛みを客観的に観察する。そしたらな時期に痛みは消えてくねんで。なぜなら、それがこの世界の法や。諸行無常や。世の中の者はな例外なく、生まれては消えゆく。ただそれだけが真実や。」 そして 「自分、いま心地ええ感覚追い求めたやろ。あれほど追い求めたらあかんゆうたやん。心地ええ感覚を追い求めるんは執着に変わんねんで。報われない恋ほど辛なるものってないやん。そういうこっちゃ。渇望するから辛いねんで。追い求めたら辛いだけやん。世の中の者はな例外なく、生まれては消えゆく。ただそれだけが真実や。諸行無常や。いづれ消えゆくものを追いかけてもしゃーないやん。これがこの世界の法やねんで」とも言った。 ということなんですがそれでいいんでしょうか。 人間は人生はそれだけのことなんでしょうか。 だから大乗が生まれたんだと思います。 こういう救いのない言い方をするから凡人はついていくことができない。 それゆえの大乗なんだと思います。 本当に世尊がそういったのか。 たしかに関西弁になっているがそれでも世尊がそう言ったとは私には思えない。 テーラワーダでもそれは違うと言うんじゃないのか。 著者の考えには仏教徒としてすごい違和感がある。 少なくともテーラワーダには慈悲の考えがあるものねえ。 上記にはその欠片もない。
2021.08.26
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セルフケア チャンディマ・ガンゴダウィラ長老 上座部仏教の本を読むうち大乗とは随分違う仏教だと近頃感じるようになった。 基本的に上座部仏教は心のケアを中心に述べられている。 まさに本書の表題、セルフケア、ということになる。 セルフケアというのはつまり自己をケアするということだろう。 それについて著者は、 「自己がまもられていない人」とはどのような人でしょうか? 「身体と言葉と心(思考)で悪い行為をする人」です。 たとえその人が象軍や馬軍、車軍、歩軍に護衛されていても、身体と言葉と心で悪い行為をしている人はまもられていないのです。(略) 「それはなぜか? それは外側のまもりであり、内側のまもりではないからです。それゆえ、かれらにとって自己はまもられていないのです。」とする。 つまりセルフケアというのは身体と言葉と心で良いことをするということだろうか。 その方法論は、 そこで、対象にとらわれないよう、感覚をよく制御するようにしてください。 自分の感覚(眼・耳・鼻・舌・身)をよく制御することによって、心は対象(色・声・香・味・触)に支配されなくなるのです。 ブッダは、「自分の感覚を観察し、制御してください」と説かれました。 感覚をまもれば、結果として自己がよくまもられるのです。というものである。 眼、耳、鼻、舌、身のコントロールつまりそれらの暴走を制御することで、その対象に溺れることがなくなるから自己が守られるすなわちセルフケアになるということだろう。
2021.08.22
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自己愛から慈しみへ 我から無我へ チャンディマ・ガンゴダウィラ長老 先に読んだ本でもテーラワーダの髄は無我ということであるが本書でも ブッダは、「我はない。無我である」と説かれました。 この無我を、どのように理解できるでしょうか? 自分も、他人も、あらゆるものごとは、たえず変化しています。 毎秒毎秒、毎瞬毎瞬、変わりつづけています。 そこに、固定して変化しない実体は存在しません。 すべてのものごとはつねに変化し、変わりつづけるプロセスにあるのです。 ですから、「これこそ私だ」「これは私のものだ」とつかめるものや指し示せるものはないのです。と説明する。 その前提として あたりまえで些細なことですが、「だれにとっても自己がいちばん愛しい」の意味について、ご説明いたしましょう。 「愛」ということに関して、多くの方は自分以外の人を愛そうとしますが、実際はなかなかうまくいきません。 愛するどころか、逆にストレスがたまったり、いらだったり、落ち込んだりしているようです。 なかには、「こんなに愛しているのに……」「こんなに尽くしているのに……」と疲れ果てて自分を傷つけてしまう人もいるほどです。 だからこそブッダは私たちに、「他人を愛そうとする前に、まず自分を慈しみ、大切にしてください」とおっしゃったのです。 と自己愛を推奨する。 この辺で読み手は混乱する。 ないはずの自己を愛せといわれてもピンとこないのだ。 ここの理解が実に難しいということになる。 無我を知るために我を愛する作業が必要だということなのだが、この話はすでに論理的に破綻しているはずなのにテーラワーダの長老たちは仏教こそ現代科学そのものだと言い切るのだから混乱になお拍車がかかるのだ。 さあ落ち着いて考えてみよう。 我を愛することによって我がなくなることがわかればいいのではないのか。 我は絶対ではない。 なくなるものだ。 しかも一瞬一瞬だ。 その期間は一秒よりもずっとずっと短いのだそうだ。 今こうして書いている私はもういないのだ。 ただそれがいるような錯覚に陥っているのは脳が捏造しているからなのだそうだ。 したがって愛しているはずの我がいないのが尊いということになるのだろうか。 まあ一気にこの話に決着がつくわけがなかろうからゆっくりと読み進めようではないか。
2021.08.10
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「忙しい」を捨てる 時間にとらわれない生き方【電子書籍】[ アルボムッレ・スマナサーラ ] 自分は捏造であるというのがテーラワーダの主張であるが、概念的に実に難しくてよく理解できなかったけれど次の 人を奴隷にしてしまう様々な概念のなかで、いちばんタチが悪いのは「自分」という概念です。 これは、仏教だけではなく、最新の脳科学でも指摘されていることです。 脳が様々な概念を処理する際に、便利な概念として「自分」という存在を仮構してしまう。 例えば、手が痛くなった、足がかゆくなった、といった感覚のデータが生じたときに、脳の理解を助けるために「今、私は手が痛くて、足がかゆい」と「私」という概念を捏造する。 「私」という概念を作ることによって、脳が膨大な計算をするのを抑制しているのですね。 それはそれでいいんですけど、今度はそうなると「私」という本来は存在しない、概念に過ぎないものに人間が支配されることになってしまうんです。 そこに、人間の苦しみの原因があります。 時間にしても同様です。 私たちは、便利を追求して実際には存在しない概念を作り、今度はそれの奴隷となってしまうのです。というのを読むとうっすらとその概念が見えてくる。 しかしながら世尊は著者によれば無我を知るにはまず我をしれというわけで上記のように捏造された吾から無我にたどる道程を探れとおっしゃるわけだ。 それにはまず自分を愛さなければならないのである。 その自分は一瞬たりとも同じ自分はいないということそれが真理であるということこれも理解しなければならないのである。
2021.08.09
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妄想の対処法 チャンディマ・ガンゴダウィラ長老 ようするに人間の脳は妄想だということだ。 だから しかし、怒りや憎しみ、嫉妬など悪いネガティブな思考が生じたとき、それにすぐに気づくなら、増殖しないよう、その思考をストップさせたり、管理したりすることができるでしょう。 また、「眼・耳・鼻・舌・身・意」に「色・声・香・味・触・法」が触れ、「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」が生じたとき、あるいは何かしらの感覚を感じたとき、それらに客観的に気づくなら、思考や妄想は起こらないでしょう。ということになる。 そしてその妄想の本質は、 パパンチャとは、感覚器官から入ってきた情報をねつ造して、自分だけの主観の世界をつくることです。 頭の中であれこれ考え、思考が事実から離れて増殖し、膨らんでいくことです。 ある意味、これは自然に起こるプロセスで、無秩序に、ひとりでに増えていく性質があるのです。なのである。 だから そこで、私たちがすべきことは、眼で色を見るとき、耳で音を聞くとき、鼻で匂いを嗅ぐとき、舌で味を味わうとき、身体で何かに触れるとき、意で何かを考えたり感じたりするとき、よく注意して、それらに気づくことです。 苦しみをもたらす原因を作らないよう、気をつけるのです。と、気付きにより妄想を断つ努力が必要だというのである。 そうだねそろそろ妄想にやつされる人生からおさらばしようじゃないか。 そういう生き方にチェンジしようじゃないか。
2021.08.06
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【中古】 頭が突然鋭くなる瞑想法 ブッダが悟りをひらいた人類最高の英知 / アルボムッレ スマナサーラ / スタープレス [単行本]【ネコポス発送】 本書を読むと何より大切なのはヴィパッサナー瞑想法だということになる。 ヴィッパサナー瞑想法についてはこれまでも何回も読んだがほぼ理解はしていなかった。 ただサティということそれは気づきという日本語に訳されるが、今私が例えばこうしてブログを書いていることについて心の中であるいは言葉に出して書いている書いている書いているという風に言葉を発してみる、それをラベリングと言うのであるが、そのようにしてする瞑想法をヴィッパサナー瞑想法というのだということが本書には書いてあるのだ。 また、目に入る色や形、耳に触れる音、鼻で感じるにおい、舌に触れたもの、身体で触れるもの、を認識して何かを感じたときに、心に生じた感覚を確認する。 たとえば「きれいな花」「大好きな音楽」「おいしい味」「おいしく感じる」「寒くてつらい」「寒いのがイヤだ」などなどの心のなかの動きも、それぞれなるべく細かく気づいて、「感じている」「嫌っている」「好んでいる」「分析している」「考えている」などと言葉で確認する。 それがサティの基本的な実践方法です。 言葉を三回繰り返すのは、別に重要な意味はありませんが、三回ぐらい言葉にする(これをラベリングと言います)と、よく確認できるからです。 というようにヴィッパサナー瞑想法におけるサティと言う方法は、つまりラベリングに集約されるということである。 そして 自分に気づいてラベリングをすること(サティの実践)は、いきなりというか、突然その人間の生き方のプロセスをカットするのです。 つまり判断しないでありのままを観るということをさせるのです。 耳に音が入ったらただ単に「音だ」と、それ以上判断せずにそこで止める。 「イヌの吠える声だ」「クルマのブレーキの音だ」「子どもたちの声だ」などの判断はカットしてしまうのです。 身体に何かが触れたら「触れている」というだけで、そこで止める。 なぜならば、人間の認識判断は非常にわがままな好き勝手放題の間違った判断であるのにもかかわらず、人はそのことに気がついていないのです。 いい例が、ラーメン一つ取ってみても、自分は日本でいちばんおいしいラーメンだと思って人に勧めても、その勧められた人にとっては、ぜんぜんおいしくない、ということはよくあるでしょう。 自分が正しいのか、相手のほうが正しいのか、それとも二人とも間違っているのか、ほんとうのところはわかりっこないのです。 ですから、自分にきちんと気づくことが何よりも大切だということを、人はまず理解する必要があります。 つまり判断のカットがヴィパッサナー瞑想法なのだ。 これにより余計なことを考える必要がなくなる。 そのような瞑想法がヴィッパサナー瞑想法ということになり、これは脳にとってもとてもいい方法で脳の養生になると著者は力説する。
2021.07.28
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日本人が知らないブッダの話 アルボムッレ・スマナサーラ 上座部仏教の本を読めば読むほど大乗仏教との差異に気づきわけがわからなくなって混乱してしまう。 アルボムッレ・スマナサーラ師によれば大乗仏教は世尊の教えではないということが主張はしないまでも、そちこちに語られていることが分かる。 そして大乗仏教が作り出した数々の仏についても否定する。 仏はブッダのみだと言うのである。 ブッダの偉大性は奇跡に頼ったことではないのです。 心を自由自在に管理できる能力なのです。 ですから、奇跡の十七のリストのあとに、「最後の奇跡」として、心を自由自在に管理できることが語られています。 これはブッダの教えを実践する誰にでも達することができる能力なのです。 ですから、現代人にも、奇跡の話をパスして、心を育てることこそが大事だと、理解することができると思います。 ここまでアルボムッレ・スマナサーラ師の本を読んで思うことは、ブッタ・世尊が話された真理というものはつまり自己の心のコントロールのあり方なのだという事に収斂される。 渇愛という真理を知ったところで、「では、我々はどうするべきか?」という次の問いが生まれます。 そこで、お釈迦様は三番目の真理「苦滅聖諦」という答えを出すのです。 生きていきたいという衝動が滅した境地(涅槃)を目指すべきであると発見するのです。 そこではじめて、苦=無意義なものにすぎなかった我々の生に、解脱・涅槃という「生きる目的」が成り立つのです。 苦というものは思い通りにならないことであるというのが基本である。 その苦の内で渇愛というものが最も大きな煩悩だ。 それについて苦滅聖諦というもの出したわけだというのが上記の話である。 そして苦を滅するためには八正道を生きるということになる。 この八正道というのも実に極めてシンプルな生き方なのであるが、そのような生き方ができないから我々は苦労するのでありだからこそ他力本願なのである。 他力に頼らざるを得ないようにしかならない私は大乗に頼らざるを得ない。 それが上座部と大乗の大きな差なのではなかろうか。 私にはまだまだ仏教について分からないことが多すぎる。 まだまだ仏教の本を読まなければならない。
2021.07.27
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怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む (「パーリ仏典を読む」シリーズ) [ アルボムッレ・スマナサーラ ] ようするに上座部はアンガーマネジメントなのである。 とにかく怒らないこと。 すべての始まりはそこだ。 「怒り」は猛毒です。 心に「怒り」が入ってしまうと、すべての行為が汚れて悪行為になってしまいます。 怒っていることに気づいたら、すぐにその場で心から怒りを追い出さないと、大変危険なことになります。 怒りは心の時限爆弾です。 チクタクという音を聞いた瞬間に、解除しないと危険です。 「怒り」は心にとって悪性の癌です。 できるだけ早く切って捨てないといけません。悟りを開くまでは、我々の心には「怒り」がしょっちゅう生まれます。 「怒り」といっても、誰かに殴られて怒ってしまった、というような派手なものに限りません。 気がつかないほど微妙な怒りが心の中に潜んで、四六時中人格を蝕んでいくのです。 わかりやすく言えば、「笑えない精神状態」が「怒り」なのです。 軽々と笑う心には「怒り」はありません。 というが怒りに気づくのはなかなか難しいのではないか。 自分が怒っているか否かをその時々に立ち止まって確認する作業が必要になるのだ。 自分が軽々と笑っているかどうかというのは大きな判断材料だ。 アルボムッレ・スマナサーラ師の本を読むようになってから私はよく笑うようになった。 いい兆候だ。 そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。――私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ――と。 パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。 仏教特に上座部は様々な戒律がありそれはそれは七面倒だというのが私の印象だ。 しかしアンガーマネジメントにポイントを置くとすべて氷解する。 すなわち怒らないこと。 怒らないことで慈しみが出、悪い言葉も吐かないということになる。 比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるのこぎりで手足を切断しようとします。 そのときでさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。 比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。 すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。 また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。 比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。 上記がノコギリのたとえである。 究極のアンガーマネジメントだ。 これが単なる比喩なのかそれても世尊が大真面目に語られたことなのかはともかくノコギリで脅されても怒らず慈しむ覚悟が必要だということだ。
2021.07.24
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原訳「法句経」一日一話 [ アルボムッレ・スマナサーラ ] 上座部仏教にも念仏があってそれは お釈迦さまは、わたしたちの偉大なる指導者、師匠であり、慈愛をたたえた母親のような存在なのです。 お釈迦さまは雲の上の人ではありません。 人間として生まれて人格を完成された人なのです。 どんなことで悩みがあっても、お釈迦さまはみごとに答えをだしておられるのです。 だから、わたしたちはお釈迦さまという人格を尊敬し、生き方を学び、教えを実践するために礼拝しているのです。 お釈迦さまが歩んだ道は、わたしたちの模範になるのです。というもの。 つまり世尊そのものを念ずるものであって大乗の浄土教系にいう阿弥陀様を称名する念仏とは異であるとする。 世尊がおっしゃった自己を拠り所にするという意味の自燈明の教えは大乗の特に浄土教系の他力の教えと大きくかけ離れた部分で私はとても疑問に思っていたが、上座部仏教では明確に 「わたしは道を説くけれども、それを実践するのは、あなた方一人ひとりの自由意志です。みずから実践して、そして体験としてつかめばよい」 これがお釈迦さまの基本的な姿勢です。 つねにみずからを拠り所とするのが、仏教の教えの根本なのです。とするわけだ。 自己の幸せを自己に求めずしてどこにあるのかということであり、そこには神秘主義も他力主義も毛頭ない。 ここに上座部と大乗の違いははっきりしたということになる。 上座部つまりテーラワーダと大乗ではもともとその基本的な考えが違うのではなかろうか。 テーラワーダはまず個人が努力することを求めるが、大乗は努力してもどうしようもない私を救済してくれる仏教なのである。 個人は神秘的に救われるのではなく自己の心の修練によって救われるのだというのがテーラワーダだとすると、自己の力ではどうしようもなくなった個人を救ってくださる仏が存在するからそれに従えというある種神秘的な考えが大乗なのだということなのだろうけれど、そのことについてはもっともっと学究しなければ簡単には結論づけることができない分野だと私は思う。
2021.07.22
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善に達するチカラ アルボムッレ・スマナサーラ上座部仏教の本を立て続けに読むと今まで勉強してきた大乗仏教というのは一体何だったのだろうと思えてくる。 上座部仏教は大乗仏教からみた小乗仏教なのだが世尊の教えそのものだという自負を持っており、その核心には大乗非仏説があるとおもう。 それはともかく目の前にある心のもやもやをいかになくすかという点にも焦点を当てている。 たとえば いつでも何かしようとするとき、「これは善いこと? 悪いこと?」と自分に問うてみる。 ただそれだけです。 それだけで人間は直ります。 そんなに難しい理屈も、哲学も要りません。 ただ、いつでも「これは善いこと? 悪いこと?」と自分に聞くだけです。 いとも簡単に、立派な人間になれます。というようなこと。 そして、khantī paramaṁ tapo titikkhā忍耐・堪忍は最上の修行である Nibbānaṁ paramaṁ vadanti buddhā涅槃は最高のものであると、仏陀たちは説きたもう Na hi pabbajito parūpaghātī他人を害する人は出家者ではない Samaṇo hoti paraṁ viheṭhayanto他人を悩ます人は沙門(道の人)ではないとする。 忍耐、堪忍の概念は我慢するという概念ではない。 ただひたすらその道を突き進むという意味であり、そこに辛さはないと著者は言うのだが、書いてあることは簡単ながら理解するのはとても難しい。 忍耐のポイントは落ち着いて行動することだそうだ。 よりも険しいハードルが待っています。 ひとが人格向上の道を歩む。 様々なハードルに遭遇する。 文句ひとつ言わず、やる気を失わず、冷静に落ち着いてハードルを乗り越える。 それが「忍耐」ということです。 要するに忍耐さえあれば、人格向上の道のりは解脱という山頂に達するまで問題なく進むのです。 khantī・忍耐は最上の修行です。 ハードルにめげず、落ち着いて対応することが khantī・忍耐です。 落ち着いている、ということがポイントです。 一般日本語では、忍耐には「我慢する」というニュアンスが入っていますが、そのように理解しないほうがいいと思います。 「我慢する」には、自分の気持ちを抑える・潰す、という意味あいもあります。 人格向上を目指す人は嫌々、何かの気持ちを抑えて潰す必要はありません。 明るく目標をめざして進むだけです。 という一文に著者の言う忍耐の概念が全部含まれている。
2021.07.20
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原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章【電子書籍】[ アルボムッレ・スマナサーラ ] ようするに悟りとは怒りを鎮めることなのだと本書を読み込んだ。 体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、 生まれた怒りを速やかに制する修行者は、 蛇が脱皮するように、 この世とかの世とをともに捨て去る。 つまりアンガーマネジメントである。 怒るな、怒りが生じたら脱皮せよ、と著者はいう。 というか、世尊がそのようにおっしゃったというのだ。 怒りを瞬時に消すこと」ができるならば、それ自体が悟っている証拠なのです。 というように、怒りを瞬時に消すことが重要であり、それができたら悟った人ということになる。 そもそも仏教では、われは幻という論理であるから、 そうやって存在の次元で見ると、基準が一つも成り立ちません。 とてもわかりやすい論理です。 それを理解すれば、怒りは消えてしまうのです。 主観が消える、という状況になるのです。 主観が消えたら、残るのは客観的な理解だけであって、そうすると心には何も怒りが生まれてこないのです。 そういうシステムができた人を、ここでは「比丘」と言います。涅槃・解脱とは、そういうことなのです。というように悟りそのものもこの世には存在しないということになる。 そもそもないものなのだとその時瞬時に思えるかどうかが悟りと悟れないの重要な切り替え場面になるのだと思う。 怒りって本当に消すのが難しいもんねえ。
2021.07.19
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「宝経」法話 アルボムッレ・スマナサーラ ことここに至り上座部仏教はさらに難しくなった。 そもそも上座部仏教は霊などというものについては考えないはずだと思ったのに、本書では霊の話も盛られているのだ。 それが本書をさらに難しくしているのである。 マントラでない祈り。 それは、 Suvatthi hotu(スワッティ、ホートゥ)――幸福でありますように。これは祝福の言葉です。 しかし神秘的な力で人々を祝福してくれるのだとしたら、仏教も他の祈祷師たちと同じことをやっているようになります。 幸福でありますように、という祝福文句は、人間から誰に対してもいうべき、挨拶の言葉になるべきものです。 互いに祝福しあうと皆幸福になるのは、神秘的な力ではなく現実的な働きです。 周りが応援することで、人は頑張る気になって、力を発揮するのです。 一切の生命が幸福でありますように、という祈願をもって生活することが、仏教の推薦する生き方です。 それは仏教の修行でもあります。 もしある人が、「如来は最上の宝物なり。この真理によってすべての生命が幸福でありますように」と念じるならば、その人は修行しているのです。 ブッダの道を歩んでいるのです。 ですからこの経典は、他人を祝福する祈祷的な経典というより、一人一人に修行することを促す経典として、敬うべきだと思います。と、人の幸福を祈ることなのである。 それはマントラではない。 そして幸福は、 幸福の秘密は、慈しみです。 何回受験しても落第する人にも、他の受験生を応援することはできるのです。 「私は頭が悪くてまったくダメですが、あなたは何としてでも合格して欲しい」という場合は、相手に対して慈しみがあるのです。 祝福を受けた人に、頑張らなくてはいけない、という意欲が沸きます。 病気に陥っている人にも、「私はこのような生き方をしたので病気に陥ってしまった。あなたは私のような生き方をすぐ止めて、健康で長生きできるように励んでください」という場合は、相手が病気に陥る生き方を戒めることになります。 人々の幸福を願って経典を唱えるときも、その慈しみの気持で唱えるべきだと、注釈書で厳しくアドバイスされています。 神秘力、言霊、マントラなどの迷信は、仏教ではありません。 人を有効に祝福する力は、慈しみです。 言霊の力ではないのです。と、慈しみなのである。 本書では、とにかく他人のために祈れ、他人が幸せになれますようにと祈れと説いていた。 そして著者はそれが仏教なのだというのだ。 上座部仏教のスタート地点は実はこのへんなのかもしれない。
2021.07.16
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