サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2015.01.18
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時間のスケール、記憶の痕跡


 私の場合、それは紛れもなく1995年の「阪神淡路大震災」であり、これを基点として一つの破局的崩壊というものが、いったいどのようにして鎮静化され、蓄積された記憶になっていったのだろうと考えてしまう。例えば震災後10年のスケールというのを、敗戦後10年と置き換えてみれば、それは昭和30年にあたっていて、かろうじて私の幼児期の記憶に引っ掛かってくるわけです。で、そのころの私のおぼろげな記憶では、いわゆる「戦争の痕跡」というのはまるっきり見当たらなくて、むしろ今どき描かれる「昭和オールウェイズ」風のノスタルジックな映像しか浮かんできません。
 では震災後10年の神戸の印象はどうだったのかといえば、もちろんそんなことはなくて、遅々として進まぬ復興という印象のほうが強かったのを覚えています。それは10年経っても、なお現実に震災の跡が残っていたということではなくて、破局的崩壊を直接ではないにしても「共時的に経験した」場合、10年経っても20年経っても「震災の痕跡」は、そこここにありありと見出せてしまう、という仕方で記憶に蘇って来るのではないか?

 とすれば逆に、戦争の痕跡を記憶のどこからも引っ張り出せない昭和30年代の私のそばには、生々しく戦争の臭いを引きずった人たちが数多くいたというか、周囲の大人は自分の親や学校の先生も含めて、全員「直ちに呼び起こせる戦争の記憶」を共有していたということになります。それは取りも直さず震災後10年も経てば、「震災の記憶を呼び起こせない子供たち」が、そこらじゅうにいくらでもいた、ということをも示しているのでしょう。
 さらに20年というスケールをあててみれば、それは敗戦後で言えば1965年にあたり、もうすでに東京オリンピックは終わり、新幹線も高速道路も普通の風景となっていた時代なのです。震災後20年の今年、神戸はそのような仕方で変わったと言えるのか?で、震災後に生まれ育って、成人しようとしている今どきの若い人たちに、この「震災」はどのように写っているのか?それはたぶん昭和30年代の私が見ていた、自身の記憶にはない「戦争の映像」と同じような仕方で写っているのではないか?

 こうした私のごく個人的な戦争と震災の記憶の違い(呼び起こせる、起こせない)というのは、いったいどこから来ているのかということを、いろいろ考えてしまうのです。そこで思い当たることというのは、結局先に触れた、大破局の時間帯を「自分もいっしょに通過したか、どうか」の違いだという気がする。大事なのは現実に戦争ないし震災に遭遇したということよりも、大破局が発生し、それが「今後どう推移していくのか、誰にも分らない時間帯」というのを共有していたかどうか、という違いなのではないか?
 私は震災当時、京都市内にいたので、確かにそれまで経験したことのない強い揺れを感じた一人ですが、もちろんそんなものは実際に被災した人たちの体験とは比ぶべくもない。神戸には個人的にも仕事の面でも友人知人がいたので、震災後話も聞き、被災地を訪れる機会もあったのですが、それでもなお「こればかりは、実際にあってみないと分らない」と被災した人たちに異口同音に言われるとき、これは簡単に「共有」とか「絆」などという言葉を口走るわけにはいかないな、と思ったものです。
 それは父が焼夷弾の降り注ぐ夜空や、高射砲の硝煙の匂い、あるいは青空に悠然と飛来する銀色のB29に、体当たりしてむなしく散っていく日本の戦闘機(当のB29はびくともせず、飛び去って行ったそうです)の話をするとき、「こればかりは、実際に体験してみないと分らない」という決り文句と同様の、他者には絶対に共有不能の経験である、という口吻をそこに感じたからでしょう。

 大事なのは、何も父や被災者に何らかの悪意(「体験していない奴に、それが分かるわけがない。だから黙って聞け」みたいな)があって、そう語ってしまうというのではなくて、実際のところこれらの感覚は、絶対に「共有不可能」な事態なのです。それはあえて言うなら、「他人の虫歯の痛みは、私には絶対共有できない」というのと同じぐらい、厳密に「個人的な感覚」のレベルに属するものなのではあるまいか?となれば、聞く側の私はそれらに関して、簡単に「分る」と口走るわけにはいかない、あるいは道徳義務的に、むりやり「分ろう」とする素振りも禁止されている、という立場に追い込まれてしまうのです。


 話がずいぶん逸れました。1,17ということで、さまざまな特別企画が(特に関西のマスコミでは)なされているのですが、さすがに簡単に「分る」ような仕方の報道は少なくなったものの、強迫的な「分ろう、分るべきだ」というような姿勢は相変わらずなので、何やら話が長くなっています。

 さて、それでも、父の戦争中の話と阪神大震災の被災者の声の間には、決定的に異なった印象があるのです。それは先ほども言ったように、こと「震災」に関しては、少なくとも当の「同じ時間帯」だけは、私たちは「共有」していたという点なのです。ここでの「同じ時間帯」というのは、震災直後第一報で入った午前6時半ごろのニュース映像だったと思いますが、そこで字幕で流される死者数(確か50人くらいだったと思います)と、延々と続く倒壊家屋のビデオ映像との乖離があまりに大きかった時間帯のことなのです(後に繰り返し放送され、阪神大震災の象徴的映像の一つともなった、大火災はまだあまり発生していませんでした。長田区や東灘区の大火災は当日のお昼ごろから本格的になり、翌朝以降まで燃え続けた)。
 今でもありありと思い出すのは、そこに映し出される倒壊家屋の多さからみて、とてもじゃないが50人100人の死者数で、これは収まらないだろう。そして「今、現に倒壊した家屋の中で、傷つき死に瀕した人たちが膨大な数でいるはず」という事実と、であるにもかかわらず、それを観ている同時刻の私たちには「何もできない、手も足も出ない」という無力感であり、この先どうなっていくのか見当もつかない、といった浮遊感のようなものであったかもしれません。
 で、これは今般の「東日本大震災」についても、同じような仕方で経験されているのではあるまいか?震災当日から翌日にかけて、連続した地震と津波の大破局に対して、誰も手も足も出ない「無力感」と、先が見えない「浮遊感」というのは、直接の被災者でなくても(特に関東の人たちは、その後出来した福島原発のメルトダウンと合わせて)記憶に強く刻印されているでしょう。こうした「同じ時間帯」を経過した人たちの記憶のされ方と、経過していない人たちの記憶には大きな隔たりがあるだろう、ということなのです。

 大破局を「共時的」に通過した人たちは、10年経っても20年経っても、その時生じた「無力感」とか「虚脱感」とか「浮遊感」を、居た場所、漂っていたある種の匂いまで含めて、「直ちに思い起こす」のです。

 70年とか20年といった時間のスケールと、歴史のようなことを話しようと思っていたのですが、しょっぱなから腰折れのような出だしになってしまいました。すいません。





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Last updated  2015.01.18 16:12:52
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TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

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