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成田に着いたのは、午後8時。久方ぶりの祖国です。空港に着いて携帯にまず入って来たのは、芸能関係のゴシップニュース。64年間の平和な時間が、こうした状況を生み出しています。こうした状況を良いとも、悪いとも言えませんが、一つだけ言える事は、自分たちの、そして自分たちの祖先が行って来た歴史に対してしっかりと向き合うことが出来なければ、未来はない、ということです。今回のフィリピン行きは、その事を強く感じさせられる時間でした。数々の問題に翻弄された遺骨収容のことも、今後取り組んでいかなければなりません。行って、見聞きしたことを、広めることも大事な仕事です。まずは、高知に帰って出来ることから、始めたいと思っています。この遺骨収集の日記も、今日で最後ですが、空援隊の収容団で出合った全国の仲間は、本当に人生において良き財産です。地域の神社のお祭りに参加する中で、神社の楽団で縦笛を演奏することになったKさん。神社に残っていた70年前の記録をたまたま目にした時、今のKさんと同じ縦笛をフィリピンで戦死した叔父さんが吹いていたことがわかったことをきっかけに収容団に参加。叔父さんの戦死したオルモックの方を向いて、涙ながらに縦笛を吹いていた姿を忘れることが出来ません。本当に北は北海道から南は九州まで、色々な仕事をし、色々な思いを持った皆さんが集まり今回の収容団を形成していましたが、思いは一つ。「何としても遺骨になった先輩方をふるさとに連れて帰りたい。」夜な夜な語り合った同志の皆さんとの時間は、本当に貴重なものでした。今度はそこで得た経験を自分の周りにも広めて行きたい、心から思います。また明日からは、高知での生活に戻ります。
2009年11月26日

本来ならば、大使館で封印作業を行うはずであったこの日。昨日の一連の騒動で、封印が出来なくなったため、少し帰国の飛行機まで時間が出来ました。その時間を利用して、フィリピン米軍墓地へ行ってきました。マニラで一番綺麗な場所にあると言われるこの米軍墓地。そこで見たのは、広大な敷地の中に、芝生を張り巡らし、教会や戦没者の名前や戦闘地図を標記してあるメモリアルホール、そして戦没者一人一人の名前や生年月日や所属部隊名など個人情報の刻まれた白い十字架を建てている姿。(教会)(メモリアルルーム)国のために亡くなった兵士に対する思いがひしひしと伝わります。ここに来て、本当に考えさせられました。同じように、国のため、ふるさとのため、家族のために戦い、倒れながら、歴史から忘れ去られようとし、未だに野ざらしになっている日本将兵と、このように国を挙げて祀られているアメリカ将兵。この違いはなんでしょうか。ただ、勝利した国と負けた国だからという理由で片付けられない何かがあります。歴史に学ばない国は、いずれ滅びます。教科書に載っていないこうした事実に、胸を締め付けられながら、米軍墓地を後にしました。とうとう、帰国です。(毎日多くのフィリピン人スタッフが芝を刈り、花を植え、墓地を管理しています。)
2009年11月26日

今日は朝から緊張状態。大使館が正式な政府派遣団でない我々空援隊が持ち込む遺骨の引取りを拒否している、という情報が入ったからです。しかしここまで来て帰国させることが出来なくなるなどというおかしな話はありませんので、予定通り大使館へ。入り口のゲートを通過するまでの数分間が長く、長く感じましたが、ようやく館内に入ることが出来、御遺骨も敷地内にバスから移動していただくことが出来ました。前にも書きましたが、大使館敷地内は日本領土と同じ。帰国に向けて一つ歩みを進めました。しかし、大使館側の反応は、すったもんだの末、「政府の派遣団の持込ではない」ことから「封印」をして日本に連れて帰る手続きをすることは出来ない、とのこと。ここで譲歩案として、せめてもう一度フィリピン国内に持ち出すことはせずに、大使館預かりという形を取っていただきたいと申し入れ、大使館の「物置」に安置することになりました。最後の最後で、残念です。「物置」に御遺骨を運び入れながら、遺骨になった皆さんに申し訳ない気持ちが込み上げて来ました。ちなみに、大使館職員は、知る必要がないのか知らせる必要がないのか、一連の作業の手伝いには一連の動きに対応した二人の幹部以外誰も出て来ませんでした。わずかに、指示があったのであろう、大使館のフィリピン人スタッフが運び入れを手伝ってくれた程度。業務も多忙でしょうし、色々と行政上の手続きが難しいことは理解しますが、気持ちで出来ることもあるはず、と思っていたのは私だけではないと思います。この御遺骨をいかに早期帰国させることが出来るか、また新たな宿題が出来ました。(大使館入口)※昨日の焼骨式の様子はフィリピン国内のメディアで多数報道をされていました。現地の関心も高いようです。
2009年11月25日

徹夜明けの体を引き摺りながら、焼骨した御遺骨と共に、朝六時、イフガオを出発。昼食以外は走りっぱなしの移動の末マニラへ向かいました。この移動、まずは山道をジプニーを連ねてバスのあるバナウエまで行く必要がありますが、この道中では、先頭のジプニーに日の丸を掲げ、64振りの帰国に向けて、スタートを切りました。ホテルに入ったのは午後9時。 焼骨した4370柱の御遺骨も一緒です。御遺骨のカウントから始まり、徹夜で行った焼骨式までの、22日からの2日間は非常に中身の濃い時間でした。バスで寝ていても、夢にまで見るほど。もの言わぬ御遺骨、遺品の数々と対面して、胸が締め付けられるような思いで一杯です。ついさっきまで使っていたような、名前が刻まれている水筒。今でも使えそうなモルヒネ。戦地で色々な思いを綴ったであろう万年筆。もう使えない眼鏡。日本から持って来たであろう歯ブラシ。命の盾であったであろう鉄兜。使えぬまま錆付いていた銃弾、手榴弾。何より衝撃を受けた遺品があります。 この遺品は、御遺骨の傍で見つかったそうです。長い歳月を経て不思議に朽ち果てることもなく見つかった黒い布。くるまって見つかったのは、二つの御遺骨です。手を合わせているように見えるこの御遺骨、喉仏の骨だそうです。状況から推測されるのは、戦友の喉仏の遺骨を抱えたまま亡くなられた兵隊さんの姿。 何とか遺族のもとに、ふるさとに帰そうとしたのでしょう。言葉がありません。早く、早くこの皆さんを帰国させるさせることこそ、日本人に産まれた私達の責務だと痛感します。明日はこの御遺骨を日本領土である大使館に持ち込みます。
2009年11月24日

とにかく、色々とトラブルの多い今回の収集団。結局、何故か突然湧いて出た住民の反対運動(しかも理由は公害!!※フィリピンでは、特に山岳地帯であるこの地域で公害という概念は元々希薄、何かの扇動かという疑念も・・・・)により予定地での焼骨をあきらめ、またバナウエに舞い戻り、またも町の町長以下の許可を取り直し、22日昼過ぎから23日朝4時半までかけて雨の降る中、諸事情により残念ながら離脱した政府派遣団以外の空援隊隊員と現地の子ども達で4370柱の焼骨をやり終えました。そもそも4370柱という数は、ここ数年国が行ってきた収容数の約7年分にものぼる数字。空援隊自体、これだけの数を焼骨したのも初めてなら、徹夜で、そして雨の降る中行ったのも初めて。焼骨式をするには、山の頂上近くにある式場まで御遺骨を運ぶことはもちろん、焼くための薪を運び、焼いて終わった後の御遺骨を拾う作業まで、言葉にすると簡単ですが、大変な重労働を力を合わせてしなければなりません。(山道を薪を運ぶ)(薪を組んで準備)何度も壁にぶち当たりながらも、最後まで誰もあきらめず焼骨をやり遂げたのは、小西理事長や倉田事務局長、現地の冨田本部長の必死の行動を見て隊員みな発奮したこともありますが、何よりも、「60年以上お待たせした先輩方をこれ以上待たせるわけにはいかない。」という強い意志だったように思います。(焼骨の前に杉若和尚が供養に廻ります)(もの言わぬ御遺骨。まだまだ沢山の皆さんがそのままに・・・・・)(焼骨開始 皆涙が止まりませんでした)(灰になった御遺骨を拾います)粘土質の土がぐしゃぐしゃに足にまとわりつき、冷たい雨が一晩中体を打ちつける悪条件の中で、20代から60代までの隊員全員が、共に徹夜で黙々と作業をしたことは、何物にも代えがたい経験だったように思います。そもそも我々空援隊メンバーは全員が自費での参加。「どうしても日本にお連れしたい。」という、ただそれだけの純粋な思いを持って集まったメンバーの強さを感じました。二度目の焼骨の直前、思いが通じたかのように突然雨が止み、満天の星空が現れた時のことは一生忘れることが出来ません。煙は立ち昇り、日本の方へ向かっているように見えました。焼骨が終わった後、灰になった御遺骨を一つ一つ丁寧に拾いながら、それぞれの隊員が思い思いに御遺骨に声をかける姿も・・・・・(どうか安らかにとの思いでいっぱいです。言葉がありませんでした。)最初の焼骨式では、丁度旅行でたまたま近くに来ていた日本人のカップルも驚いた様子で手伝ってくれました。日本にいるもっともっと沢山の人にこの現場に来て欲しい。この現実を見て欲しい、知って欲しいという思いに駆られます。日本に帰って、動くこと沢山あります。今日は寝る間もなく、そのままバスでマニラへ向かいます。
2009年11月23日
遺骨収集団も6日目。20日から21日にかけて収集地のセブから全島から集まったご遺骨を安置しているイフガオへ移動。昨日1日かけてご遺骨の選別作業を終え、今日は朝から焼骨式の予定です。宿舎から移動中ですが、通行許可証が届かず足止め中です。イフガオは美しい棚田が世界遺産に認定されている素晴らしい景観を誇る町で、「天国への階段」とも呼ばれていますが、太平洋戦争中、フィリピン方面軍総司令官であった郷土の先人、山下奉文大将が最後に立てこもった場所もこのあたりです。山下大将は、大豊の出身ですが、見れば見るほどこのイフガオの景観は大豊をはじめとした高知の中山間地にそっくりです。この地を最後に降伏した山下大将は、その後故郷高知の地を踏むことはありませんでした。高知とイフガオ、何か不思議な力でつながったような気がしています。
2009年11月22日

マニラから11時間程で、イフガオ州バナウエに到着。ルソン北部にあるイフガオ州は、1500m以上の標高を誇り、その山肌に連綿と整備されている世界最大の美しい棚田は世界遺産に登録されています。バナウエはその棚田観光のベースキャンプとして有名な街です。バスが到着したのは国立のバナウエホテル。世界遺産を一目見ようという観光客で賑わっています。ここからジプニー(小型乗り合いバス)に乗り換えて30分程山道を走ると、遺骨の安置所の近くにあるこれから二日間の宿泊所、ラグッド・ラーニングインに到着です。このラグッド・ラーニングインは、現地青少年(カバタアン)の育成・自立・生計向上を目的として、イフガオで植林事業を行っているNGO IKGSとJICAの提携プロジェクトで出来た施設です。イフガオは棚田で有名な土地ですが、第二次世界大戦での爆撃や戦闘、そしてその後の伐採などで森林が大幅に減少し、地盤がゆるみ、棚田を維持するのが難しくなってきたそうです。そこで立ち上がったのがIKGS。(HP http://www.geocities.co.jp/NatureLand/5172/kuzu/)このNGOで現地調整員として活躍していたのが、現在空援隊のルソン統括事務所長を務める冨田一也さんです。冨田さんはイフガオで植林に取り組みながら、山を出歩く度に日本兵の遺骨と出会うことに心を痛めていたそうです。そうした何か居た堪れない気持ちでいた時に、空援隊の初代理事長である杉若恵亮さんに出会い、倉田事務局長を紹介され、一も二もなく空援隊に参加することになったそうです。(杉若さんは、京都で日蓮宗のお寺の住職を務めながら、ラジオのDJやテレビ出演、月一回の街角座談会など行う、多趣味多才、温厚な人柄のお坊さん。出会ってすぐにその懐の深さに感銘を受け、大好きになりました。活動紹介はこちら→http://www.higan.net/blog/bouzu/activity/media/sugiwaka_1/)その時空援隊は、結成して間もない時期。どうしても必要なのは、現地の日本人スタッフだと思い始めた頃だったようです。まさに運命。今では、冨田さんが精魂込めて立ち上げから関わったこの施設の近くに御遺骨の安置所が出来るまでになりました。着くなり沢山のカバタアンが出迎えてくれ、山の上にある施設まで大きい荷物をどんどん運んでくれます。聞くと、接客から料理、食材の買い出しや、食材を育てる(豚やどじょう)ことまで全てカバタアンが責任を持って行っているとのこと。(宿泊棟 イフガオ民族の昔ながらの住居)感嘆しながら、小高い山の頂上にある施設に到着するとすぐに朝食をとりながらミーティング。ここでまた衝撃の事実を知ることになります。ここまで一緒に行動してきた政府派遣団団長に、「空援隊が当初見つけて来た焼骨場所については、現地の保険局の許可が下りない公算が高くなったので、作業を中止するように。」と大使館から連絡があったとのこと。ここまで来て、焼骨までも出来なくなる最悪の事態に・・・・。何かセブの嫌な思い出が頭をチラつきます。納得行きませんが、とりあえず出来る作業を始めることに。遺骨収集から焼骨までの間の流れは以下の通りです。1、 収容2、 収容場所の記録3、 フィリピン国立博物館員による鑑定作業4、 個体数の記録5、 収容場所ごとに安置所に保管6、 焼骨ほとんどの御遺骨は既に鑑定を終え、安置所に運ばれていましたが、施設にも少し残されていましたので、その分を博物館員が鑑定するお手伝い。出て来た遺品の数々が胸を打ちます。一連の作業も終わり、一息ついていると、倉田事務局長から、「別の場所で焼骨が出来るように検討をしている。しばらく待って欲しい。」との話。別の場所での焼骨に一縷の望みを託して、待つことに。じりじりする空気を察してか、カバタアン達が、素敵な踊りを見せてくれました。イフガオ族に昔から伝わる踊りだそうですが、この施設が出来てから、こうした民族独自の文化も伝承出来る機会が大幅に増えたそうです。民族の誇りを持って自立しようとするカバタアン達。知らず知らずみんな引き込まれていきます。気がつけば隊員同士でお返しに日本の歌を歌っていました。よさこいを歌おうかと思いましたが、みんなで歌ったのは、「ふるさと」。最初は笑いながら歌っていましたが、この近辺でふるさとに帰れず亡くなった日本兵の皆さんのことがやはり思い浮かんで、全員涙を流しながら歌いました。僕自身、特に涙もろいわけではありませんが、ここに来て、思いがけず涙が溢れて来ることが多くなりました。そのまま夜は更け、一人、また一人と床に着く中、隣町の町長が協力してくれる、しかもその町長が今この施設に向かってくれているとの情報が入り、冨田部長、杉若理事他何人かの隊員で、寝ずに待つことに。待つこと数時間。一時を過ぎた頃、冨田さんの盟友でもある町長が本当に現れましたので、残っていた隊員みんなで拍手で出迎え。一時間程度の話し合いの末、二時過ぎに全ての書面による許可取得。これで明日焼骨が出来る!!隊員皆で興奮状態。町長と何度も握手をし、お礼をして、見えなくなるまで頭を下げて見送りました。まさに地獄に仏。これで明日はとうとう焼骨式です。
2009年11月21日

この目で遺骨を確認しながら、収容出来なかった事実に悶々としながら次の目的地、イフガオへ。今更ですが、そもそも今回の遺骨収集団は、三つの目的を持っています。一つ目は、言わずもがなこの地に眠る御遺骨を見つけ、収容すること。二つ目は、今回収容した御遺骨及び、これまでに空援隊が収容し、イフガオの安置所にある御遺骨を焼骨すること。(焼骨は供養のためと、検疫を通過するため二つの理由で行っています。)三つ目は、もちろんその焼骨した御遺骨を日本に連れて帰ることです。※二つ目に関しての新聞記事(毎日新聞より転載)遺骨収集:フィリピンで今年4305柱 「空援隊」発表 フィリピンで戦没者の遺骨を収集しているアルピニストの野口健さん(36)らNPO法人「空援隊」(京都市)の役員が12日、東京都内で記者会見し、今年はこれまでに4305柱を収集したと発表した。同国全域で調査した結果、約3万柱の遺骨があることが分かり、一部を仮安置しているという。今月17日から政府派遣団として再訪問し、仮安置した遺骨など約2000柱を持ち帰る予定。 太平洋戦争でフィリピンでは日本兵約52万人が死亡し、うち約38万人の遺骨が未帰国とされる。国による遺骨収集は遅々として進まず、会見で野口さんは「国のために亡くなった方に対して冷たい国はいずれ滅びる」などと訴えた。 鳩山政権は「国の責務として遺骨収集をしていく方針に変わりはない」と表明している。=転載終了=つまり今回、残念ながら一つ目の目的は達することが出来なかったことになります。しかし、悔しがる暇もなく、これまで空援隊がフィリピン全土から収容した4300にも及ぶ御遺骨を焼骨し、日本へ連れて帰るという大きな仕事が待っています。隊員一同気を取り直して、朝6時出発。二日間待たしていた船に乗り込み、ポロ島を後にしました。必ず迎えに来ますと心の中で約束をしながら・・・・・船から島を見つめる隊員全員が同じ気持ちです。三時間半の船旅でセブ着。それからすぐに空港に向かい、マニラへ。丁度ポロ島を出発してから12時間でマニラ着。これからイフガオまでバスで夜通し向かいます。つまり、今夜は車中泊。空援隊、朝は早く夜は遅い、移動も体育会系です(笑)(上:カモテスでの戦闘の記録を報じるマニラ新聞 下:遺骨収集の中止を報じるマニラ新聞)
2009年11月20日

ポロ島二日目の朝は、快晴。突き抜けるような青空ですが、昨日の収集中止という事実が重くのしかかります。やはり一日待っても、収集許可は下りず。悔しいですが、小西理事長、倉田事務局長以下隊員は気を取り直して、全員一致で「情報収集」を継続することを確認。(収集、は出来なくても「遺骨」を探す「情報収集」は可能との判断)昨日収集を行った海岸線の現場における新たな情報がありましたので、政府の収集団が、近くで慰霊祭を行うのを横目に、再度昨日の現場へ。(政府収集団は、この時点で「許可の下りていない」現場に近づくことさえ禁止に・・・・)現場に着くと、土地のオーナーの息子さんが待ってくれていました。そこでまた新たな事実が・・・・息子さんの話によると、この海岸一帯に転がっていた日本兵の無数の死体、しばらく放置されていたようですが、あまりの悪臭に耐えかね、何箇所かに集めてガソリンで燃やし、埋めたり、骨はセメントに混ぜたりしたそうです。その後埋めた目印に、骨を混ぜたセメントを墓標代わりに!?置いていたそうですが、日本軍の財宝を狙うトレジャーハンター(山下大将の財宝がまだどこかにあると信じられているフィリピンでは未だ良く聞く話です)が掘り返したりしてまた海岸一帯に散らばったとのこと。そして20年くらい前に、ココナツが沢山植えられ今のような形になったそうです。実は、昨日も収集の途中、そこら中に転がっているコンクリートの塊に混ざっているのは骨じゃないか?と隊員の中で噂になっていました。(骨片の混ざったセメントの一つ)これで全ての説明がつきました。そこまで歴史に翻弄された遺骨を、この目で見つけていながら、自分達の手で収容出来なかったことに今更ながら悔しさが募ります。合わせて、すぐ近くにも遺骨が多数眠っている場所があるとの情報を手に入れますが、知らない土地所有者の土地でしたので、近づけずこの場所での任務は終了。日本人の手で収容出来ないことに不合理を感じながら、涙ながらに現地のスタッフに後を任せて町役場へ。当初から予定が入っていた表敬訪問ですが、一連の収集中止の理由を確認するためにも全隊員で向かいました。この訪問には、今回の遺骨収集団の取材ということで、地元マニラ新聞の記者も同行することに。対応して下さったのは、町長の公室長。日本のイメージで言うと、官房長官か副町長といったところです。そこで聞いたのは、耳を疑うような言葉。「町としては、16日の時点で全ての申請に許可を出す準備は整っていた。しかし突然セブの州知事から連絡があり、許可を出さないようにと言ってきた。理由は、日本側の約束したプロジェクトが進まないから、そちらの要求も聞けないということだ。」会話の合間に申し訳なさそうに首を振る公室長の姿を見ながら、改めてやるせない思いが込み上げて来ます。そんな気持ちを察知してか、公室長から、「実は遺骨がありそうな場所を知っている。案内しましょう。」との申し出。沈んでばかりもいられないので、早速その申し出を受け、現地調査へ。現場は小高い山の中。ポロ島の住民に先導してもらい、しばらく山道をえっちら、おっちら。すると斜面や道路脇に、ほら穴が沢山確認出来ます。まさに今でも日本兵の皆さんが立て籠もっていそうな所ですが、現場を見た倉田事務局長が残念そうに一言。「この場所なら去年収集を完了したところです。」また情報収集は振り出しに戻りましたが、これも良くある話。遺骨を集めるためには、こうして行ったり来たりしながら精度の高い情報を足で稼いでいかなければなりません。まさに、知力・体力・そして運も総動員しなければなりません。この日は、これで日没のため時間切れ。割り切れない気持ちのまま、明日には次の目的地イフガオに向かうことになりました。
2009年11月19日

約3時間半の船旅を終え、カモテス諸島最大の島、ポロ島へ。(右側の島がポロ島、左側がサンフランシスコ島)フィリピンらしく!?準備万端のはずの船に何故かガソリンを積んでなかったようで、出発が1時間程遅れましたがそれはご愛嬌。船旅、と書くと随分優雅な感じですが、実際に乗った船は、いわゆる現地民の漁船。蜘蛛のように長い足がついているのは、昔から海の民として知られているこのあたりの漁民の知恵だそうです。船旅の間中、天気は快晴、これ以上ない青い空、青い海。観光で来たのなら、最高のロケーションです。しかし60年前、その時も同じように青い空、青い海であったであろう楽園のようなこの地を訪れた日本兵の皆さんは、紛れもなく戦争をしに来たのです。セブからレイテへ向かうこの海域も、激戦が行われ多くの将兵が命を落としていることを思えば、何か青い海を見ても、やりきれません。戦争をしに来る、という理由でなく、この地に来ることが出来れば・・・・・・今回収集予定のご遺骨も、日本の命運を決したとも言われている、1944年10月末に行われたレイテ沖海戦での戦没者だと言われています。レイテ島は太平洋戦争中最も過酷な戦場の一つとして知られていますが、レイテのすぐ近くにあるこのポロ島も生還者わずか4名という激戦地。(※この戦闘については、徳間文庫から「万死に一生」という題名で学徒動員兵であった柳井乃武夫さんの手記が出版されています。)これまでも空援隊の調査・収集により多くのご遺骨がここから帰還を果たしています。今回も・・・・という決意を胸に上陸。日本人が珍しいのか、沢山の島民がお出迎え!?早速バンに分乗し、収集現場に向かいます。収集現場は目が覚めるような白砂のビーチのすぐそば。この現場は、調査を続けている空援隊のスタッフが現地のお年寄りに、1944年のレイテ沖海戦の時、2隻の軍用艦(バトル・シップという言い方、どのクラスの船かは不明)がこの沖合いで沈没、逃げ出した日本兵が多数上陸して来たため、不安に駆られた現地人が水際で全滅させたことがある、という話を聞いたことをきっかけに発見したものです。案内してくれる現地の皆さんの祖先に、我々の祖先が、と考えるとある意味複雑な気分になりますが、それが戦争ということなのでしょう。どちらが悪いということではありません。着くなりそれぞれ手分けして、そのあたりの地面を掘り返しましたが、5分程で早速ご遺骨が出てきました。驚くべきことに、掘れば掘るほど、どんどんご遺骨が出て来ます。ほとんどが小さな骨片になっていますが、時には頭蓋骨や大腿骨がそのままの形で・・・・歯がついたままの顎の骨も・・・・歯は今まさに抜いたばかりのような真っ白なままで出てきます。若者のものなのでしょう、どれも立派なものばかりです。参加者全員が一心不乱に作業を行い、午前中の作業が終わる頃には、驚くほど沢山のご遺骨と対面することになりました。あらためて、未帰還のご遺骨が多くあるという現実を突きつけられました。休憩に入り、昼食をとっていると、一旦宿泊場所に向かった空援隊倉田事務局長が悲痛な面持ちで帰ってきます。不思議に思っていると、開口一番、「今回の遺骨収集に関して、問題が発生し、残念ながらこのまま収集をすることが出来なくなってしまった。本当に残念だが、一旦収集したご遺骨ももう一度埋め返さなければならない・・・・」とのこと。元々難局続きと言われている遺骨収集、何が起こっても不思議ではありませんが、せっかく60年振りに帰国していただけると思った矢先、やはり割り切れない思いが残ります。事の顛末は、セブ州を預かる州知事が、政治的圧力をかけて市長の出した発掘許可を取り消させたことにあります。遺骨収集をするには、五つの許可が必要です。一つ目に、土地の所有者の許可。二つ目に、当該市の保健所の許可三つ目に、当該地区の区長(ここは町長)の許可四つ目に、当該市の市長の許可五つ目に、博物館員の許可(文化財の持ち出しを防ぐため)空援隊では、この全ての許可を事前にとっていましたが、突然権限のない州知事から横槍が入りました。理由は色々考えられますが、来年選挙を控えた州知事が、許可と引き換えに何らかの日本からの手土産を求めていたが、動かない日本に圧力をかけるために許可の取消しに動いた、という情報も入ったりして何とも難しい状況です。何にせよ法的根拠がなくなった以上、遺骨収集は出来ませんので、泣く泣く見つけた遺骨を埋め直して、作業を中断し、やるせない思いのままホテルに帰りました。こうした状況である以上、明日も許可の出る見込みは少ないと思いますので、明日は情報収集作業が主になる予定です。今日は一日色々なことがありましたが、やはり百聞は一見にしかず、現場に来てわかったことが多くありました。まずは多くのご遺骨の収集が未だ果たされていない現状。そしてもう一つは遺骨収集を取り巻く情勢の複雑さと難しさ。共に、国家としての考え方次第。言い換えれば、本気でこの問題と向き合う覚悟があるかどうかだと思います。その答えも、自分なりにこの旅を通じて考えていきたいと思います。(手伝いに来てくれている島民がココナツをとって振舞ってくれました。なかなか美味。)(上:収集現場、つまり戦闘地から海を臨む。この沖合いに沢山の日本の艦船が沈んでいると言われています。)(下:海辺から上陸地点を写す)
2009年11月18日

朝4時半出発で今回の収集地であるカモテス諸島、ポロ島へ。セブからはこの船で3時間の船旅。カモテス諸島は激戦地としても知られていますが、日本軍と住民の関係も最悪で、今回の収集は隣の島で日本軍に同胞を皆殺しにされた現地人が今度は逆に船が損傷し島に泳ぎ逃げてきた日本海軍を海岸で皆殺しにした場所で行うもの。六十年の歳月は、まだまだそうした事実を色あせさせるものではありません。複雑な気分です。
2009年11月18日

実は、今朝9時成田発マニラ行きの飛行機に乗って、フィリピンに来ています。今回フィリピンに来た目的は、太平洋戦争で亡くなられた日本人戦没者の方々のご遺骨を収集し、日本に連れて帰ることです。きっかけは、新聞記事でした。その記事には、京都にある戦没者遺骨収集調査を目的としたNPO団体が、民間として始めて遺骨収集が認められたということと共に、太平洋戦争で亡くなられた英霊のご遺骨の多くがまだ海外で供養もされずひっそり眠っているという事実が書かれていました。太平洋戦争に召集され、海外で亡くなられた方の総数は約240万人。実はそのうちご遺骨約116万柱が未だ未帰還という現実があります。今回訪問するフィリピン戦線では、約52万人が戦死し、うち約38万人が未だ帰国出来ず、ご遺骨が野ざらしになっています。そもそも戦後戦没者の遺骨収集は国家事業として、厚生労働省だけが行って来ましたが、近年大きくそのスピードはダウンし、今では帰国されるご遺骨の数は年平均600柱ほど。そんな状況に業を煮やした民間有志が設立した先のNPO団体「空援隊」が、独自の調査に乗り出したところ、その地域に根ざした強力な調査活動で大きな成果が挙がり、ついに厚生労働省も重い腰を上げ、実績を挙げている「空援隊」に限って遺骨収集を認める、としたのが昨年末。そして今年度、空援隊はこれまでにフィリピンで4305柱を収集。その他にも3万柱の遺骨があることが調査によりわかっています。こうした事実を知って、あまりにひどい遺骨収集の現実に怒りを覚えるとともに、何とか自分も出来ることがないか、と考え、気が付いたら空援隊への入会申込書を書いていました。以前もブログに書きましたが、私の祖父も沖縄に出征していました。フィリピンには、有名な山下奉文大将をはじめ、沢山の郷土の先輩達が出征しています。少しの違いで、祖父も南方に出征した可能性は大いにあります。とても他人事とは思えません。恥ずかしながら、遺骨収集団への参加が決まってから、初めて県戦没者のことについて色々と調べました。県遺族会の皆さんの活動なども、初めて詳しく知りました。太平洋戦争では、ビルマやフィリピン、果ては硫黄島まで沢山の郷土の先輩が亡くなられています。最後に浮かんだのは、ふるさと高知の景色であったのでしょうか。そんな戦没者の皆さんが、未だ海外で野ざらしになっているという現実。戦後も戦後、戦争を知らない2代目の世代にあたる我々こそ、深く噛み締めなければならない現実です。平和とは何か、この現実を避けて話すことはで来ません。今日は6時間のフライトの後、マニラで国内線に乗り換え、セブ島へ。日本軍の重要な軍事拠点であり、特攻隊第一号の関行男大尉が出撃した基地としても知られたこの島も、今では南海のリゾート地として世界中から沢山の観光客が訪れる島になっています。(セブの夜景)空港近くの今夜の宿も、クリスマスのイルミネーションで綺麗に飾りつけられ、中庭ではRAGE AGAINST THE MACHINE のナンバーをコピーするアマチュアバンドのライブが行われ、まさにお祭りのような雰囲気です。戦争の爪あとを最早感じさせないこの街でも、まだまだ沢山のご遺骨が眠っていると言われています。明日からは早速セブ近くの島、カモテス諸島にて収集作業が始まります。(空援隊打ち合わせ)
2009年11月17日
10時から議会基本条例制定小委員会が行われ、最終案をまとめました。これでこの小委員会は解散、案を一旦議会運営委員会に預けます。はじめて条例作りに関わりましたが、その醍醐味と難しさと両方を感じながらの毎日でした。ただ、あくまでも基本理念を謳ったこの条例、これから議会運営委員会でその理念を実現する運用方法について議論せねばなりません。議会が変われば、地域が変わる、地域が変われば、議会が変わる。そんな思いで、今後も議会改革に取り組みたいと思います。
2009年11月16日
今日から2日間に渡って、年に一回の民主党議員研修会「四国自治体議員フォーラム」に参加します。毎年1回、四国4県持ち回りで幹事を決めて行うこの研修合宿、今回は愛媛県今治市での開催です。総務政務次官に就任した小川淳也衆議院議員からは、新過疎法の行方や民主党の掲げる一括交付金をはじめとした本県にも関わる非常に重要なお話をいただきました。明日は今治の基幹産業であるタオル工場を視察する予定です。
2009年11月14日

12日夜に行われた土佐民主塾に東京から来てくれた大学時代の先輩、株式会社幕末代表取締役の明石智義さんを連れて高知市内各所を視察に廻りました。学生時代に起業し、ベンチャー起業家にスポットをあてた雑誌を作っていた明石さん、今では経営者向けの雑誌も創刊し、社員20名を抱える経営者です。起業に関する著作もある明石さんに、県内の色々な産業を見てもらいながら、最新のビジネスの現場の話を聞かせていただき、共に高知県の産業について議論しました。取材を通して数多くの事例を見てきているだけあって非常にためになる話を聞くことが出来ました。高知県でも知事が精魂込めた産業振興計画が出来上がりましたので、後はその計画を「チャンスに変えていける」人材を増やしていくことが求められています。こうした時代だからこそ、「起業」のチャンスも広がっていると思いますし、若い世代が積極的にこうした手法で新たな市場を切り拓いていくことが、高知県の活性化につながります。今後もこうした縁をいただいた先輩と良い連携を築いていければ、と思っています。
2009年11月13日
政権交代後初めての全国幹事長会議が召集されましたので、党本部へ。今回の議論の目玉は、小沢幹事長が打ち出した「要望・陳情の一元化」についてです。簡単に言えば、地域の要望・陳情はまずそれぞれの県連で受けて、県連から党本部幹事長室へ、そして政府政務三役へ伝えていく流れを作るということです。目的は、中央集権制の最たるものであった地域の「霞ヶ関もうで」をやめ、地域主権国家にふさわしい地方の政策提言能力の強化、そして族議員が出来ることを廃止することなどですが、趣旨には大いに賛同し、理想に共鳴するものの、まさに権力と付き合うわけですから、ある程度透明化したルール作りをこれからしなけばならない、ということで、ずしりと責任感が増しています。特に、全国で唯一衆議院議員のいない本県、県連の機能強化にも早速取り組まなければなりません。しっかり取り組みたいと思います。
2009年11月12日

四万十源流、西土佐で活動するデザイナー、迫田司さんのご自宅にお伺いしました。数年前に知り合ってからしばらく連絡をとっていませんでしたが、最近とあることで再会、その時に趣味の音楽の話で意気投合してから親しくさせてもらっています。迫田さんは熊本出身、四万十川に魅かれて!?この西土佐に移住して来られたそうですが、新たなビジネスとして全国に注目される四万十ドラマの仕掛け人として、そして地域に根ざしたデザイナーとして、今ではこの地域に、そして高知にとって欠かせない人になっています。最近はこんな著作も・・・・・この日は迫田さん曰く奇跡的に天然うなぎが仕掛けにかかり(本来は時期を過ぎているそうです)、ラッキーなご相伴に預かりました。迫田さんのキッチンは竈はもちろん、ピザ用の竈まで全て自作。(ちなみにこの家、木賃ハウスという名前。洒落ではありませんあしからず)究極の地産地消、近くの山の炭で焼いたうなぎのその味は・・・・・・今まで食べてきたうなぎは何だったのか、というぐらいの衝撃を受けました。暴風雨!?の中、木賃ハウス屋根のトタンが音楽を奏でる中で、楽しい楽しい一夜でした。
2009年11月11日

事務局次長をつとめる「高知県スポーツ振興議員連盟」の総会を行いました。本日の議題は2つ。1、 県内野球場への夜間照明の設置について2、 高知FDを支える「県民会議」への参加について夜間照明については、5月に知事に議連として要望、その後県が取り組みをはじめていますが、その経過報告について。県民会議、はおらんく球団であるFDを支える仕組みを構築しようということで、県や市町村、各種団体や議会(議員連盟)、そしてファンのみなさんまで入れた経営支援会議を立ち上げる構想の中で、正式に議連が参加することを意思確認したものです。最後に、優勝報告と今期の経営状況、来期の経営計画についてFDから武政球団社長と定岡監督にお話いただき、色々と意見交換もしてから散会しました。午後からは、今年も高知キャンプに来てくれた韓国SKワイバーンスの金星根監督も県庁に来ていただき意見交換が出来ましたので、スポーツ一色の一日になりました。
2009年11月10日

大津で行われた防災に関するワークショップに参加後、室戸市で行われた道路整備の充実を求める四国東南部大会に参加して来ました。四国8の字ネットワーク、早期整備を以前から国に求めていますが、なかなか進まないのが現状です。東西に長く、大きな国道が一本しかない本県にとって、災害対策の意味でも8の字ネットワークは重要です。また、新政権の掲げる高速道路無料化の恩恵を受けるためにも、高知県だけが突出して多い「ミッシングリンク(未整備区間)」の解消は喫緊の課題です。夜は小学校の時の剣道のチームメイトの結婚式がありましたので、室戸からとんぼ帰り。慌しい一日になりました。
2009年11月07日

先日独立リーグ日本一に輝いた高知ファイティングドックスの納会に参加してきました。今朝、メインスポンサーである株式会社日本トリムさんの継続支援も決まり、来期の経営に向けて明るい兆しも見えたこともあって、会場は非常に良い雰囲気でした。水を扱うメーカーである日本トリムの森沢社長は土佐清水出身、南国市にも製造拠点を置いていただいている他にも、こうしたスポーツの支援をはじめとした故郷高知県に対しては多大な貢献をしていただいています。本当に、県民の一人として感謝・感謝です。県外にいる大先輩に負けないよう、地元をしっかり盛り上げていきたいと思います。
2009年11月05日

未来のF1ドライバー!?一緒に活動することの多い長尾和明高知市議のご子息、朔太郎氏の雄姿です。
2009年11月04日

独立リーグの日本一を争うグランドチャンピオンシップを争う四国IL王者の高知ファイティングドックスが、BCリーグ王者の群馬ダイヤモンドペガサスと戦っていましたが、2勝2敗のタイで最終戦を迎えましたので、いてもたってもいられず応援に行ってきました。結果は2対1での勝利!!見事独立リーグ日本一に輝きました。常に存続問題に揺れる高知FDですが、経営陣、選手ともに最高の結果を残してくれました。スタンドの雰囲気も家族連れが昔に比べて大幅に増えるなど、着実に地域に根付いて来ているこのチーム、これからも地域活性化の重要な資源として応援していきたいと思います。何より、最終戦のスタメンにリーグの出来た2005年から在籍している選手が多く含まれていたことに何とも言えない感慨を感じました。2005年入団の彼らは、昭和55年生まれの僕と同級生も多く、そんな彼らの活躍が自分の励みにもなっていましたので、こうした大事な場面で、長くリーグでもまれながら培ったであろう経験も見せながら溌剌とプレーするもはやベテランのおっさん?選手達の頑張りには目頭が熱くなりました。来年も熱い戦いを見せてもらえるよう、期待をしています。
2009年11月03日
一日かけて、各省庁や議員会館を廻りました。忙しい国会議員の皆さんとも、何人か意見交換が出来て良い出張になりました。政権交代後、初めての上京でしたが、今の政治の雰囲気が良くわかりました。四国香川選出で政務官に抜擢され大忙しの小川淳也衆議院議員にも会いましたが、補正の見直しの件も含めて相当な覚悟で事にあたっている様子を見て、自分なりにまた気が引き締まりました。言いにくいことでも、正すべきところは正す、しかしその判断を下すまでにはしっかりと調査し、議論しなければなりません。地域主権の時代、地方県連も、しっかりしなければ・・・・・・
2009年11月02日

久々の東京出張です。二日間かけて、県の政策に関わる色々な分野について情報収集をしてくるのが目的です。空港に「空の駅」がオープンした、とのことでしたので、フライト前に立ち寄りました。「まほらショップ」と名付けられたこのショップ、お土産類はもちろん地元の皆さんが作ったお弁当やお菓子が並んでいます。手にとったのは手作り「土佐ジロープリン」一個420円と高価でしたので悩みましたが、試食のつもりで購入。味は確かに濃厚で非常に美味ですが、これだけの値をつけるのであれば、パッケージ等もっと工夫出来れば・・・・・とも思いました。商品の陳列や店全体の雰囲気、コンセプトなどまだまだこのショップもスタートしたばかりで、試行錯誤しているのでは、という感じですが、これからも創意工夫で龍馬空港の顔となってくれることを願っています。
2009年11月01日
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