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音楽と空間。その二つが幸福な出会いをすると、登場人物が不思議な魅力で輝きはじめる。『オー・ブラザー!』は、まさにそんな映画である。舞台は1930年代。ミシシッピー州の広大な大地だ。盗んだ大金を手に入れるため、エヴェレット(ジョージ・クルーニ)は、鎖で繋がれていたビートとテルマーを引きつれ脱走する。早くしないとお宝がダムの底に沈んでしまうからだ。それにしても、「脱走」ほど映画的な題材も珍しい。狭い空間から、広々とした自由空間を目指し、疾走するときの開放感!こればかりは演劇では表現できない。と云いつつ、話の腰を折るようだが、『オー・ブラザー!』は、数多い脱走映画とは毛色が違う。『大脱走』や『ショーシャンクの空に』は、綿密な脚本で脱走までの経緯を、サスペンス豊かに描かれているが、『オー・ブラザー!』には、そういう意味でのサスペンスは存在しない。その代わり脱出後の迷走ぶりを、奇想天外なエピソードで綴っていく。おまけに、この風変わりな作品には、奇妙な調味料がふりかけてある。映画の冒頭のクレジットに記された、この物語はホメロスのオデュセイアに基づかれている、というのがそれだ。だからといって、ジャン・リュック・ゴダールの『軽蔑』ではないから、肩肘張る必要はない。盲目の偉大な叙事詩人ホメロスを想起させる老人が、三人の逃避行のゆくえを預言めいた言葉で暗示してくれるからだ。というわけで、彼らは様々な人間と出会うことになる。ライフル銃をぶっぱなす小生意気なガキ。白い僧衣を纏う怪しげな宗教の信者たち。悪魔に魂を売った黒人のギタリスト。伝説の銀行泥棒ベビー・フェイス・ネルソン。川辺で歌いながら洗濯をしている美女三人。聖書販売の営業を騙って金を奪う乱暴者の大男・・・・・・。そんな奇抜な人物との遭遇と別離が、音楽と絡み合いクレイジーな笑いを惹き起こす。懐かしいカントリーとフォークソングが奏でる音楽と緩急の効いた空間。その戯れが、登場人物たちの醸しだす皮肉なユーモアを盛り上げてくれる。こういう人間図鑑を描かせたら、まさにコーエン兄弟の独壇場である。
2009年06月14日
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快作とはこんな映画のことをいうのではないだろうか。ラッセル・クロウ演じるマックスは、高度資本主義社会の最先端で、日々戦っている豪腕トレーダーだ。セレブのような生活。女好きの独身貴族。マックスの人生のすべては、ロンドンのオフィスの中にある。そこは現実というより、ヴァーチャルリアリティーと呼ぶ方が相応しい世界だ。羨望、嫉妬、憎悪で敷きつめられた人間関係。それらが醸す空気がマックスのまわりには常に漂っている。そんな彼のもとへ、名優アルバート・フィニー演じるヘンリー伯父さんの訃報が届く。少年の頃のマックスは、ヘンリーの住むプロヴァンスで夏休みを送っていたのだ。懐かしい思い出が頭をよぎるが、マネーゲームに明け暮れているマックスには、感傷に浸る時間も無い。彼は、莫大な遺産相続の手続きを済ませるために、陽光の降りそそぐ南仏プロヴァンスを訪れる。プロヴァンス生まれの画家セザンヌが描いたような、美しい風光の地に独身男がひとりでは似合わない。ここまで書けば、話の筋は見当がつくだろう。少年の頃、不思議な出会いをした少女と再会し、当たり前のように恋に落ちる。もちろん、ヘンリー伯父さんの娘だと名乗る若い娘も現れる。そんな場景を、リドリー・スコット監督は、軽快なワインを想わせるようなタッチで爽やかにつづる。ユーモアだって忘れはしない。天国のヘンリー伯父さんは、10年間も疎遠になっていたマックスにチャーミングな復讐をする。砂と間違い、鳥の糞をつかんだり、犬にはおしっこをかけられる有様だ。しまいには、水の入っていないプールに落ちて泥だらけになってしまうのだから、ロンドンのセレブも台無しだ。リドリー・スコットは、下品な通俗ドラマになりかねない題材を、カットバックを多用しながら爽やかに織りあげていく。するとどうだろう。イギリス人でありながら、プロヴァンスで悠々自適の生活を送っていた謎の多いヘンリー伯父さんと、マックスの将来が重なってくるではないか。
2009年06月07日
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秀作、ウェルメイドと評される映画がある。端正で、お行儀の良い映画。安心して観ていられる健全な映画。スクリーンを涙で滲ませてくれたら、もっと良いのにと観客はそう思う。1900年。アメリカへ航海する豪華客船。ひとりの黒人機関士が、ピアノの上のレモン箱に置き去りにされた赤ん坊を見つけるところから、主人公の物語が始まる。発見された年にちなんでナインティーンハンドレッド(1900)と名付けられた男の子は一度も船を降りたことなく育った。それだけのことなら、親探しの旅へと展開していったに違いない。だが、彼には天才的なピアノの才能があった。楽譜を見ずに即興で奏でられるメロディーは、船内のすべての人を魅了し、感動の虜とさせた。船で知り合い親友となったトランペット奏者のマックスは、世界の人々にその才能を披露するため、船を降りろと説得する。なぜなら、古くなりすぎた豪華客船は、長い航海に終止符を打ち、爆破されることになったからだ。自由と理想を求め、アメリカへ渡る乗客たちの開放感とは裏腹に、マックスの説得も虚しく、1900は豪華客船と共に滅びる。ところで、1900は、ひとり芝居の戯曲として書かれた原作の主人公だ。もちろん、実在の人物ではない。だから、この物語を平叙文では綴れない。どうしても真実味を欠いた絵空事になってしまうからだ。では、イタリア人監督のジュゼッペ・トルナーレは、どう描いたか?トルナーレは、トランペット奏者のマックスに狂言回しの役をになわせ、1900の回想をフラシュバックを織り交ぜながら語っていく。つまり、御伽噺の語り部というわけだ。オーソドックスというよりは、手垢の付き過ぎたこの手法は、時として観客の感情移入を疎外する。あまりにも説明過多だからだ。ジャズピアニストの巨匠とのピアノ対決など、けれんみたっぷりの場面を用意するが、逆にあざとさが目立ち、賞狙いの匂いも鼻につく。圧倒的に素晴らしいエンニオ・モリコーネの音楽と、ピアノのシーンを引き算したら、とても観れたものではなかっただろう。例えば、この作品を同じイタリア人監督のベルナルド・ベルトルッチが演出していたなら、「人生」を航海する術を知らない1900を、「生きるべきか、死ぬべきか」のハムレットを想起させるような、深みのある人物として造型していたに違いない。また、豪華客船という母の胎内で永遠の時を刻みたい、1900の無意識を繊細な演出で浮かび上がらせていたはずだ。残念ながら、ジュゼッペ・トルナーレは、その極みには達しておらず、観客は、いまひとつ酔うことができずに映画館という船から降りるしかない。
2009年05月31日
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両親の家から追い出されたマギー(キャメロン・ディアス)は、姉のローズ(トニ・コレット)のもとに転がり込む。といって、この姉妹の仲が良いかといえばそうではない。二人の性格は正反対。だから喧嘩といざこざは絶えることがない。一方、姉のローズは、頭が良くて几帳面。だが、男運には恵まれていない。その原因を自分が太っていると思い込んでいるからだ。恋愛に臆病なのだ。妹のマギーは、恋愛に臆病な姉とはまるで違う。彼女は、美貌を武器に男を誘い、もてあそぶ。いわゆる尻軽女というやつだ。しかし、彼女にもコンプレックスはある。難読症のため、自分の好きな仕事に就けないでいるのだ。そして、本当の愛にも恵まれてはいない。生真面目なキャリアウーマンと自由奔放で、おまけに盗癖まである妹。そんな二人の共同生活がうまくいくはずがない。案の定、姉が、愛情を育んでいきたい望んでいた上司を寝取ってしまう。こんな風に紹介すると、話の展開のおおよそは察しがつくかもしれない。が、物語は思いもかけない方向へと向かう。と同時に、映画の舞台はカリフォルニアに移る。マギーが、死んだと聴かされていた祖母のエラ(シャリー・マクレーン)に会いに行ったからだ。祖母は老人ホームにいたのだ。老人たちに囲まれた生活とカリフォルニアの陽光が、マギーの心をゆっくりと癒していく。そうした心の移ろいを、監督のカーティス・ハンソンはゆったりと綴っていく。「詩」への感応がもたらしたマギーの変化は、彼女を取り巻く人間たちの心を優しく溶かす。そして、それは観客の心まで上品に包んでしまうことに成功している。
2009年05月29日
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初めて、『クッキー・フォーチュン』を観たときの衝撃は忘れられない。グレン・クローズの顔のクローズアップが、しばらく目に焼きついて離れなかったほどだ。と同時に、ヒッチコックの『ハリーの災難』が頭に浮かんだ。退屈なぐらい何も起きない小さな町の住民が死体を発見し、右往左往するところに、似た物同士の匂いを嗅ぎつけたからだ。作品の基調にダークなユーモアが毒々しく流れているのも共通している。クッキーとは、この映画に登場する老人のことだ。彼女は、亡き夫への追慕の念が募り、拳銃で自殺してしまう。死体の発見者はクッキーの姪のグレン・クローズ。彼女は敬虔な、というよりは、狂信的なカトリック信者だったため、妹のジュリアン・ムーアと口裏を合わせ、彼女の自殺を偽装し、殺人事件にでっち上げてしまう。ついでに云うと、グレン・クローズ演じるカミールは素人劇団の演出家で、復活祭で披露する『サロメ』の演出を担当している。彼女の打った大芝居のおかげで、クッキーの一番の親友だったウィリスが逮捕される。つまり冤罪というわけだ。全員が顔見知りの長閑な町だから、緊張が駆けめぐるかというとそうではない。留置所の中でウィルスと警官、そして弁護士の三人でゲームに興じている始末だ。そこにショートカットの可愛いリヴ・タイラーが加わるとペーソスさえ漂う。一方、教会の掟やうわべだけの道徳を説くカミール。そんな欺瞞に満ちたカミールに、ロパート・アルトマンは、恐ろしい鉄槌をくだす・・・。現実と劇が入れ代わったような「劇中劇」を目の当たりにした観客は、ほのぼのとしたラストの魚釣りのシーンを眺めながら、重い苦笑いを浮かべるしかない。
2009年05月27日
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実をいうと、室内劇はあまり好きではない。セリフの妙味で物語が進行する映画ならなおさらだ。舞台だったら、ピーンと張り詰めた緊張感で漲っただろうに、とつい思ってしまう。ついでに言うと、啓蒙色の強い映画も好きではない。だが、『12人の怒れる男』は、別格だ。あえて、必見だと云っておこう。なぜなら、この作品は、怖さや危うさを孕んだ裁判員制度の問題点を浮き彫りにしてみせた唯一の映画だからだ。父親殺しの犯人として捕らえられた少年に、12人の陪審員たちが評決を下す。彼ら12人は、一面識も無い見知らぬ者同士だ。もちろん、名前や職業も明かされてはいない。ところで、この陪審員たちの顔ぶれが凄い。ヘンリー・フォンダを筆頭に、リー・J・コップ、ジャック・オーデン、マーティン・バルサムといった、思わず舌なめずりしたくなるような名優たちが、演技を競い、しのぎを削るのだ。野球のナイターを観戦したくて、心ここにあらずといったヤンキースファンの男。はやく家路につきたいと思っている男たち。そんな空気に促がされ、議長役のマーティン・バルサムが有罪、無罪の決を採る。有罪にためらうことなく手を上げる男たち。だが、ヘンリー・フォンダは、たった一人の反乱をこころみる。彼にしたところで、無罪の確信があったわけではない。スラム街の劣悪な環境で育った少年に同情を抱いたからだ。「もっと話し合いましょう。一人の少年の生命に関わる問題です」とヘンリー・フォンダは主張し一石を投じる。彼の熱意に打たれた老人が、ヘンリー・フォンダの賭けに乗るのをきっかけに議論に熱が帯びてくる。そこからは、ヘンリー・フォンダの独壇場だ。少年の弁護士が見落としていた疑問を鋭く投げかける。彼の投げた一石で波紋が広がり、12人の人物像が次第に浮かび上がっていく。特に、リー・J・コップとヘンリー・フォンダの感情的なあつれきは見逃せない。話し合うことで、事実と信じ込んでいた証拠に疑いを持ち始め、無罪へと主張を変える陪審員が少しずつ増えていく・・・。ラストで、ヘンリ・フォンダとジョセフ・スウィニーが名前を名のり、握手をして別れるシーンは、何ともいえぬ爽やかさと暖かさに満ち溢れた、余韻の残る美しい場面だ。『12人の怒れる男』・・・。シドニ・ルメット監督の処女作にして唯一の傑作である。
2009年05月26日
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深い陰影。琥珀色を基調とした照明。シルエットを多用した撮影技法。映画の冒頭、娘の復讐を哀願する葬儀屋の主人を、ゴードン.ウィルスのキャメラがクローズアップで捉える。一方、暗い室内とは裏腹に、陽光が降りそそぐ野外では、娘の結婚披露パーティーが盛大に繰り広げられている。金環蝕のようなマフィアの世界をたった二つのシーンで表現した見事な導入部だ。骨太な娯楽作品の醍醐味に観る者はしばし陶然とさせられる。云うまでもないが、「ゴッドファーザー」には、マフィアのボスを意味する尊称だけではなく、教会の名付け親という意味も含まれている。往年の大スター、ジョニー.フォンティーンもそんな名付け子の一人だ。祝福に訪れた彼は、新作映画の主役の座を射止め華々しくカムバックしたいと、ドン.コルレオーネに泣きつく。だが、ジョニー.フォンティーンに憎悪を抱くハリウッドの超大物プロデューサーは、コルレオーネの要求を一蹴してしまう。翌朝、豪壮な大邸宅の寝室に凄まじい悲鳴が轟き渡る。血塗れのシーツの上に60万ドルもする愛馬の首が惨たらしい姿で置かれていたからだ。闇の世界での隠然たる力を象徴するこのシーンを初めて観た時は、椅子から転げ落ちそうになったものだ。圧巻というのは、こんなシーンを指すのだろう。ドン.コルレオーネの暗殺を謀った4大ファミリーとの血に塗られた抗争に巻き込まれていく三男マイケル。彼の人生が、ファミリーの愛憎と共に綴られていく。レンブラントを想起させるゴードン.ウィルスのキャメラ、悲哀を帯びたニノ.ロータの音楽、そして、フランシス.F.コッポラの堂々たる演出が三位一体となった一大叙事詩である。
2009年01月28日
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骨張った相貌に宿る獣のような瞳。ときおり零れる、懐かしそうな笑顔。俳優緒形拳は、そんな両極端な雰囲気を醸し出すことのできる非常に稀有な役者だ。狂気を演じられる役者と言い換えてもよい。まるで役に取り憑かれたように、映画の中で緒形拳は存在していた。大方の人は、緒形拳の代表作を問われれば、『復讐するは、我にあり』や『鬼畜』と答えるだろう。もちろん、カンヌでグランプリを獲った『楢山節考』を挙げる人もいるはずだ。だが、あえて異論をはさみたい。「演技」という観点から緒形拳を見た場合、その極致は勝新太郎が撮った『座頭市』に表れていると思うからだ。まさかと訝る人も多いと思うが、未見の人は、是非、観ていただきたい。『座頭市』については、いまさら多くを語らないが、勝新太郎が監督を努めた『座頭市』には、いわゆる職人監督の撮った映画には無い不思議な魅力が溢れている。大胆というより、大雑把と呼んだ方が相応しい省略。きめ細やかという表現からは程遠い粗雑な構成。欠点をあげればキリがないのだが、不思議と「絵」が繋がっているのである。何故、そんなことが可能なのか?それは勝新太郎が役者の演技、いや、生理を熟知しているからだろう。真に秀でた役者は、自身の演技だけで、その場面に説得力を与えることが出来るものなのだ。水を獲た魚のように緒形拳は、自由な空間を泳ぎ切る。死に場所を求めて、現世を漂流する浪人。孤独な魂の奥底に何が沈殿しているのか?一切の説明は省かれている。緒形拳演じる浪人と座頭市が、紅葉の下を歩く。恍惚とした表情を浮かべた緒形拳がふと洩らす。「いろいろな色があるなあ・・・」「赤ありますか?」「ある、ある」「どんな色ですか?」哀感を滲ませた短いセリフにふたりの人生が影絵のように映し出される。座頭市の凄まじい居合いを目撃してしまった緒形拳は、宿場を牛耳るヤクザの元を訪れ、自分の「腕」を売り込む。旅籠で再会した座頭市の純粋な魂に胸を衝かれ、溢れ出て来た涙を手のひらで押さえる緒形拳。このシーンを観るだけでも、この映画を一見する価値はある。座頭市の竹筒に「落ち葉は風を恨まない」と筆書きした緒形拳演じる浪人が、落ち葉のような最期を迎えるのは云うまでもない。
2008年12月11日
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ことさら傑作と言いたてるつもりは無い。ウェルメイドな秀作と呼ぶのもふさわしくはないだろう。だが、是枝裕也監督が撮った、『誰も知らない』には、最近の映画が失いつつある「生きた顔」が確実に存在している。いとも簡単に消費されてしまう顔ばかりが氾濫している中にあって、『誰も知らない』に登場する子供たちの顔は、とても貴重だといってよい。殊に、夭折の雰囲気を漂わす主人公、柳楽優弥の顔が圧倒的に素晴らしい。素晴らしいといっても、映画の舞台は、現代の東京だから、アッバス・キアロスタミの映画に登場する子供たちの純粋無垢な顔とは違う。深い孤独と絶望感を受けとめられる強い意思を持った主人公の顔が、息を飲むような繊細さで観る者に迫ってくるのだ。カンヌ映画祭で審査委員長を務めたクェンティン・タランティーノに絶賛され、史上最年少の若さで最優秀主演男優賞を受賞した柳楽優弥の顔を瞳に焼き付けるだけでも、この作品を観る価値はある。冒頭から「顔」のことばかり述べてきたが、もちろん、『誰も知らない』にもストーリーは存在する。自由奔放な恋愛を重ねることでしか生きられないYOU演じる女性は、それぞれ父親の違う5人の子供たちの母親である。そして、柳楽優弥演じる明は、彼らの長男であるとともに父親代わりでもあるのだ。戸籍すらない彼らは、学校に行くことさえ禁じられている。社会的には「誰も知らない」、つまり「無」の存在なのである。ある日、母親は僅かなお金と書置きを残し、姿を消す。新しい恋人のもとへ去っていってしまったのだ。明たちを襲う極貧の生活。その後に訪れる幼い妹の突然の死。12歳の明は、弟、妹を守る責任をひとりで背負う。アメリカ映画なら、社会批判を織り交ぜた感傷的なヒューマンドラマに仕上がっていたであろう題材の危うさを、是枝裕也監督は聡明に回避して見せる。叙情性に流されたり、溺れたりせずに簡潔な描写で淡々と描くのだ。そこには大人の視線は全く存在せず、主人公、明の視線だけが存在する。「いつになったら、学校に行かせてもらえるの?」「お母さんは無責任すぎるよ!」と詰め寄る明に、「あんたのお父さんが一番無責任じゃない!」と言い返すYOU。この母親を倫理的に非難することは簡単だし、母親失格なのは言うまでも無い。だが、この女性からは奇妙な純粋さが匂ってくるのである。そんな母親を子供たちも恨んではいない。一歩間違えればジメジメした暗鬱な物語になりかねない題材を、是枝裕和監督は、乾いた筆致で綴っていくだけで、厳しい境遇に生きる子供たちに手を差しのべようとはしない。その代わり、明の成長が、四季の移ろいと共に丁寧に描かれる。変声期を迎え、身長も伸びた明。ゲームセンターで知り合った中学生たちとの束の間の「友達ごっこ」。登校拒否の少女との出会い。淋しさ、苛立ち、切なさ・・・。それらをひとつ、ひとつ乗り越え、幼さを残した明の視線が、大人の視線へと変貌するとき、明の心は雲ひとつ無い青空のように澄みわたり、力強い光で満ち溢れている。
2008年10月05日
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熟成した古酒のよう艶とエレガントな香り。エルンスト・ルビッチ監督の『天国は待ってくれる』は味わい深い美酒のような映画だ。傑作、名作と呼ばれる映画は星の数ほどあるが、まぎれもない傑作はめったに存在しない。『天国は待ってくれる』は、正真正銘の傑作なのである。「クローズアップ」が、リリアン・ギッシュの美しい表情を捉えるために映画の父グリフィス監督によって生み出されたという逸話は有名だが、事実、ソフトフォーカスで撮られた彼女の顔は息を飲むような美しさだ。以来、「映画」は女性を美しく魅せるための技法を次々と編み出していき、テクニカラーの登場でそれは最高潮に達する。『天国は待ってくれる』のジーン・ティアニーの妖艶な美しさがそれを完璧なまでに証明してくれる。バイオレットのドレスに身を包んだジーン・ティアニーの美しさは、この作品の最大の魅力のひとつだが、それにもまして驚くべきことは彼女を愛した夫(ドン・アメチー)の生涯を2時間にも満たない上映時間に収めてしまったところにある。もちろん、映画の神様エルンスト・ルビッチ監督の恋愛コメディーだから、一人の女性に忠誠を誓った男の純愛ドラマになるはずが無い。スクリューボールコメディーの醍醐味も十二分に堪能できる。誠実を絵に描いたような従兄から婚約者を奪って駆け落ちし、最愛の女性を射止めた後も男の女好きは直らない。カサノバのようなドンファンを気取ったドン・アメチーはひたすら女性を追いかけ浮名を流す。そんな男の70年の生涯をエルンスト・ルビッチは魔術のような演出で「ゆりかごから墓場まで」いや、死後の世界の地獄まで描いてしまうのである。ところで、「地獄の閻魔大王」と聴いて、人はどんなイメージを想起するだろう?というのは、この映画は地獄に送られた男の人生に閻魔大王が審判を下すという話だからだ。映画の冒頭、真紅の絢爛豪華なカーテンが吊るされた臙脂色の長い階段を地獄に送られたドン・アメチーがゆっくりとした足取りで降りてくる。彼を待ち構えているのが威風堂々貫禄たっぷりの閻魔大王だ。「あなたをゆっくり審査する時間が無かった」という閻魔大王に、「私の人生を語るのに女性のエピソードは欠かせません」と答えるドン・アメチーの告白から一挙に回想シーンへと遡る。母、祖母、そして洒脱で豪放磊落な祖父に溺愛された男の生涯。エルンスト・ルビッチ監督は、哀感を滲ませた文体で饒舌に綴っていく。ことに、銀婚式のダンスを最後に最愛の妻を失ったドン・アメチーの悲しみには誰もが心を打たれるだろう。「粋」を飾ったショーウインドウのような場面の数々。全編に染み渡る洗練された優雅さの極致。映画の神様エルンスト・ルビッチ監督の奇跡のような1本である。
2008年08月06日
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何度観ても怖いという形容は、この映画のためにある言葉かもしれない。いや、観直すたびに怖さが増幅すると言ったほうが正確か。『恐怖のメロディー』は、ご存知の通りクリント・イーストウッドの初監督作品だ。マカロニウエスタンで大スターの地位を不動にしたクリント・イーストウッドの初監督作品が、女性ストーカー物というのは誰もが意外に思うだろう。事実、映画会社も「誰がクリント・イーストウッドのDJを観たがるんだね」と冷たい反応だったらしい。イーストウッド扮する地方局の人気DJデイブは、行きつけのバーでイヴリンという女性と偶然出会う。といっても、実は彼女が待ち構えていたのである。デイブは、女に向かって、「どこかであったような気がする」と洩らす。女は、毎晩彼の番組にリクエストの電話をかけてくる熱心なリスナーだったのだ。「プレイ ミスティ フォーミー」・・・・と。「声」と「声」だけの関係だった二人の間に濃密な空気が溶け出し、一夜かぎりの男と女の関係を結ぶ。後くされの無い大人の情事。それで終わるはずだったが、終わらない。女は凄まじいストーカーに変貌する。(ジェシカ・ウオルターの鬼気迫る演技が凄い)影のようにデイブを追いまわし、恋人の存在を知った女は嫉妬に狂う。狂言自殺を図り、クロワゼットの洋服やソファーやベッド、それらをナイフで切り刻む。その行為はデイブの恋人にまで及び、彼女は命を狙われる・・・・・・。とにかく怖い。映画の中で仲間のDJから冗談交じりに、「女殺し」と揶揄される場面があるが、身につまされる男は多いだろう。いやそんな甘っちょろいものではない。とにかく怖すぎてどんなホラー映画よりも恐い。バーで初めてイーストウッドと黄色いドレスの女が出逢うシーンで、キャメラは縦の構図になる。手前でイーストウッドとバーテン(ドン・シーゲル監督が扮している)はゲームに興じ、その後方に椅子に座った女が入り込むのだが、それだけで不気味に恐い。女の正体が説明されることはなく、ひたすら「ストーカー」でしかないので余計に恐怖だ。風光明媚なカーメルの海岸沿いを舐めるように、ときおり俯瞰撮影が挿入される。その開放感がかえって主人公の追い詰められた閉塞感を際立たせ、全身に身の毛がよだつ。この映画を観た男たちは、女との危ない橋は渡るまいと固く誓うのである。
2008年07月02日
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末期がんに侵され、余命半年と宣告された人物が主人公だからといって、『最高の人生の見つけ方』は、黒澤明の『生きる』でもなければ、ましてやフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』でもない。しいて喩えるなら、マイケル・チミノの『心の指紋』や井坂聡の『象の背中』だろうか・・・。冒頭からこんな素っ気ない言い方をしたのには訳がある。僕の前に座っていた女性が眺めていたパンフレットを盗み見たからで、そのページには『生きる』という文字と『素晴らしき哉、人生!』という文字が躍っていたのである。キャッチ・コピー的な表現を借りれば、「末期がんに侵された老人ふたりの友情を描いたロードムービー」といったところだろうか。もっとも、移動に使われるのは車ではなく、自家用ジェット機だから「スカイムービー」と書いたほうがしっくりするかもしれない。それにしても、この邦題はひどい。HOWTO本が好きな日本人にはうってつけの題名なのかもしれないが、原題の『棺おけリスト(死ぬまでに実現したいリスト)』の方がすっきりしているし、含蓄もある。何より観る人に変な誤解や期待を与えることも無いし、この種の映画にありがちな啓蒙的テーマ、ーたとえば「死ぬまで前向きにしっかり生きる」ーに引きずられることも無い。そもそも、「死ぬまで前向きにしっかり生きる」などという仏壇にでも飾っておきたい立派な人生を送らなければならない必要なんてあるのだろうか?平々凡々な人生でかまわないではないか・・・。ところで、拍子抜けするほど創意工夫の無い脚本とはこういう脚本を指すのだろう。ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンという舌なめずりしたくなるような最高の素材が無かったら、さぞ退屈な映画だったに違いない。初共演の舞台は病院の一室である。末期がんで余命半年と宣告された大金持ちのエドワード(ジャック・ニコルソン)と自動車修理工のカーター(モーガン・フリーマン)。境遇も地位も全く異なるふたりが狭苦しい病室を飛び出し、棺おけリストに書いた項目をひとつ、ひとつ実現させるべく冒険の旅に出る。それは、スカイダイビングや入れ墨、カーレースを体験したりすることであったり、エドワードの豪華な自家用ジェットでエジプトのピラミッドやインドのタージマハル、ヒマラヤのエベレスト、北極海のオーロラなどの名所旧跡を観て回ったりすることなのだが(ロケーション撮影は良く撮れている)、そんな遊興三昧のはてに辿り着いた場所が、結局は家族の愛情や友情だったというお約束のエンディングで物語は終わる。監督によっては、ウエットで啓蒙的色彩の強い作品に陥りかねない『最高の人生の見つけ方』をロブ・ライナーは、湿っぽくならずに飄々と時に厳しく描いてみせる。涙を誘うようなあざといシーンも音楽も用意せず、二人の名優の演技を信じ、物語を淡々と綴っていく演出の呼吸はロブ・ライナーの手腕といえる。いや、むしろ演出を放棄してしまっているような印象さえ感じられる。感情を自在に操るジャック・ニコルソンの毒気を含んだ演技を、余裕を持って受け止めるモーガン・フリーマンの演技。素材のよさを引き立たせるには、余計な演出は無用というわけだ。そうであるなら、観客のほうも肩の力を抜いて(多少の欠点や物足りなさには目を瞑り)二人の演技が醸す情感と「荘厳な景色」に身をまかせればよいだけだ。最後に、この映画の隠れた魅力をひとつ付け加えたい。『最高の人生の見つけ方』は、ヒューマン・コメディーであると同時に「コスチューム・プレイ」でもあるのだ。ロブ・ライナーは、まるで二人が着せ替え人形でもあるかのように、様々なシーンで様々な衣装を付けさせる。殊に、最高級レストランでのモーガン・フリーマンの瀟洒なスーツ姿は、ハリウッド1だと断言したい。
2008年06月09日
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いまは無き六本木のシネヴィヴァンで単館上映された『ミツバチのささやき』を初めて観たとき、そのあまりの美しさに陶然とし言葉を失ってしまった。この映画には灰汁(あく)というものがまったく存在しないのである。初めて観たと云ったのは、この作品を上映期間中に三度観たからだ。ニューヨークタイムズは、「子供が主人公の映画の中で最高傑作。あらゆる映画の中での最高傑作」というふうに評したが、それが決して誇張でないことは、『ミツバチのささやき』を一度でも観たことがある人なら誰もが納得するだろう。そして、一回目より二回目、二回目より三回目と回数を重ねるごとに、その感動が驚きとともに深みを帯びてくるのである。それにしても、スペインの映画作家ヴィクトル・エリセの恐るべき才能には驚嘆するしかない。「繊細」などという月並みな表現では言いあらわすことのできない研ぎ澄まされた感覚で、幼い姉妹の心の揺らぎを叙情的に描いて見せる。だからといって感傷に流されるような描写は微塵も無いのである。スペインの寒村に、『フランケンシュタイン』の巡回映画のトラックがやって来る。その日の夜、映画を通して初めて「死」という感覚に触れたアナは、姉のイサベルに尋ねる。「どうして、怪物は少女を殺したの?・・・なぜ、怪物は殺されたの?」イサベルはささやく。「怪物は死んでいないのよ。映画の出来事は全部嘘だから・・・。怪物は聖霊なの。村外れの一軒家に隠れているのよ」子供特有の残酷さを秘めたイサベルの嘘をアナは何の疑いも抱かず信じ込む。物語は、現実と空想が交錯した虚構の世界に感応してしまったアナの視線で、恐ろしいほど繊細に綴られていく。映画の中で映画自体が重要なモチーフとして描かれている作品は少なくないし、大人が失ってしまった純粋無垢な魂への郷愁として子供が描かれている作品も珍しくはない。『ニュー・シネマパラダイス』は、その典型といえるだろう。だが、確信を持って明言するが、『ミツバチのささやき』は『ニュー・シネマパラダイス』より圧倒的に優れた作品なのである。実際、『ミツバチのささやき』を観てしまったあとに、『ニュー・シネマパラダイス』を観るとおそろしく通俗的な作品に思えてしまうのだ。大人が幼年期に失ってしまった純粋さを懐古趣味的な台詞で綴ったり、容易に思い浮かべられるような心象風景で繋いだ感傷的な物語を、主人公の子供がなぞるというような「あざとさ」や「けれん」とはまったく無縁な作品が『ミツバチのささやき』なのである。映画作家ヴィクトル・エリセは、気の遠くなるような繊細な技巧を駆使つつ、我々が遥か以前に失ってしまった遠い、遠い過去の記憶へといざなってくれるのだ。その場所は、通俗的な心象風景に還元されることの無い原風景とも呼べる場所だ。もちろん、それを喚起させてくれるのが幼い姉妹、ことに妹のアナの眼差しや仕草であることは云うまでもないだろう。省略と抑制の効いた脚本は台詞も少なく寡黙だが、視覚的なイメージの豊かさと音響の巧緻さは尋常ではない。汽車、駅、線路、馬車、井戸、・・・・。平原、地平線、曇天・・・。懐中時計のオルゴール、汽車の音、ミツバチの羽音・・・。それらは潮がゆっくりと満ちるように共鳴しあう。そしてフィルムには生々しい生気が漲ってくるのだ。怪物が隠れていると教えられた村はずれの一軒家を、はてしなくつづく丘陵から眺めていたアナとイサベルが、一軒家に向かって走り出すシーンを捉えた遠景ショットの比類の無い美しさ・・・!平原に伸びる線路に耳をあて、汽車の振動を聴くシーンに漂う豊かな詩情。その白眉は、スクリーンに映るフランケンシュタインを息をひそめて見つめるアナの澄んだ瞳だろう。そこには、映画史上最も美しい少女の顔が生々しく存在している。
2008年05月29日
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昔、といってもそんなに昔ではないのだが、東京には日本映画専門の映画館がふたつあった。ひとつは銀座の並木座。もうひとつは新宿の新宿昭和館である。並木座は、日本映画黄金時代を築いた巨匠、溝口健二、小津安二郎、成瀬己喜男、黒澤明などの作品を1年中上映していて、ここで彼らの映画をすべて観ることができた。一方、新宿の場外馬券場から程近い場所にあった新宿昭和館は、東映の任侠・ヤクザ映画専門の3本立て映画館で、平日の昼間だというのにいつ行っても、おじさんたちの人いきれと煙草の煙でムンムンしていたものだ。煙草の煙と述べたが、ロビーの休憩室ではない。客席のあちこちから煙草の紫煙がけっむっているのである。もちろん、暗い場内には禁煙の赤い表示板が灯っているのであるが、そんなことはお構い無しで、また、映画館の人たちもなにも云わない。大学時代の一時期、並木座と新宿昭和館。それに池袋の文芸座を含めた3館に通いつめ、日本映画の正統と異端にどっぷり浸かった僕が初めて煙草を覚えたのも新宿昭和館であった。ちなみに、昭和館の地下はポルノ映画館でときどきはそこにも出没していた。ところで、なぜ新宿昭和館について語ろうと思ったかというと、数日前にクエンティン・タランティーノの『キル・ビル』を観かえしたからだ。今は亡き深作欽二監督への最大級の献辞を捧げるために、『キル・ビル』を撮ってしまったクエンティン・タランティーノを新宿昭和館へ連れて行ったら、どんな反応を示すだろう?と興味が湧いたからだ。おそらく、新宿昭和館は日本で最もスクリーンと観客の空間的隔たりが少ない映画館であったのではないだろうか。スクリーンの主人公と観客たちが映画の中の空間と時間を共に生きているのだ。何しろ、あの高倉健が決め台詞を吐き、「義理」のために「人情」を捨て、独り決然と殴り込みに行こうとする刹那、客席のあちらこちらから「よしっ!!」という熱い掛け声が、スクリーンの高倉健に浴びせられるのである。この光景をもし、クエンティン・タランティーノが目撃したら、「グレイト!!」と叫び狂喜乱舞したに違いない。「ギャング映画」でも「フィルムノワール」でも無い「ヤクザ映画」は、日本映画独特のジャンルであり、また日本固有の美意識(義理・人情)を内包しているためか、アメリカの映画人には熱狂的なファンが少なくない。例えば、マーティン・スコセッシの『タクシードライバー』『レイジング・ブル』『最後の誘惑』『救命士』などの脚本を手がけたポール・シュレイダーは、「ヤクザ映画入門」というすぐれた論文を著しているので、興味をもたれた男性には一読をお奨めする。実は、『キル・ビル』を観たあとに深作欽二の『仁義なき戦い』を20年以上ぶりに再見したのだが、その映画の文体のスピードに改めて舌を巻いた。男心をくすぐるセリフの妙味やドロドロした腐臭の中に息づく笑い。まさしく「極道」という言葉でしか表現できないどす黒いエネルギーを、一気呵成に描き出すパワーとスピード。殊に、手持ちキャメラを駆使した冒頭の20分くらいの「絵」の息継ぎの長さは、どんなアメリカ映画よりも優っているかもしれない。
2008年05月12日
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僕の場合、さて、何を観ようかな?と「ぴあ」を立ち読みしながら思案するのだが、皆さんはどんな基準で選んでいるのだろう?お金を払って観るのだから、くだらない作品では困る。面白いのに越したことは無い。だが、これがなかなか難しい。そういうわけで今回は、この場を借りて僕の方法を少し披露したい。などと書くと、たいそう立派な方法があるかのように聴こえるが、いたって単純明快である。ちょっとしたコツという奴だ。だが、少しばかり奇抜なので、万人向けではないかも知れないが、星占いよりは当たると密かに自負している。さて、そのコツだが、まず「ストーリー解説」は読まない。そんな馬鹿な!と思われるかもしれないが、絶対に読まない。じゃあ、何をチェックするのかというと、まず、上映時間。それから映画監督である。2時間以上の作品は、この段階でふるいにかけられ落とされる。(勿論、才能のある映画作家の作品は別だが)なぜかというと、そんな長い尺をすぐれて映画的に撮れる映画監督は、そうザラにはいないからである。大抵の場合、あれもこれもと詰め込みすぎて、結局、弛緩したフィルムになってしまうのがおちだ。僕は、映画館でその種の作品に出会うと、心の中に忍ばせておいたハサミで、「ハイ、このカットはいらない!」「このシーンも必要なし!」と心の中で呟き、バッサリ切ってしまう。映画を観ながら「編集」をするというわけだ。すぐれた映画監督は、何を撮るか?ではなく、何を撮らずにおくべきかを心得ているものである。この方法は、まだ観たことのない映画監督や新人監督の作品を選ぶ際には、かなりの効力を発揮する。そして初めて「ストーリー解説」に目を通し、その中から興味の湧いた1本を選ぶのである。ストーリーだけで選んでいたら、絶対観なかったであろう作品に、思わぬ拾いものがあったりして、視界も広くなる。いたって簡単な方法なので、騙されたと思って一度お試しあれ!
2008年05月04日
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5年間の紆余曲折を経て、『2046』を完成させたウォン・カーウァイ監督が、ノラ・ジョーンズを主演にロードムービー的なラブストーリーを撮る。しかも舞台はアメリカで、初の英語作品だというのだ。この噂を耳にしたとき微かな戸惑いと一抹の不安を抱かなかった人間がいるだろうか?もちろん、この香港の監督は、そこらへんの凡百の映画監督とはわけが違うのだから、リドリー・スコットが、『ブラックレイン』で描いた大阪の町並み程度の絵なら、なんの苦もなく撮ることができるだろう。いや、それだけではなく、エキゾッチックな町の表情を、匂いとともに漂わせてくれるかもしれない。おそらく、クリストファー・ドイルのキャメラなら、それは可能に違いないし、ウォン・カーウァイ、お得意のスタイリッシュな映像作品に仕上がりもするだろう。だが・・・と鈍い不安がよぎる。アメリカを舞台にしながら、外国人の監督とスタッフがアメリカ人俳優で撮ったロードムービーという点で、ヴィム・ベンダースの傑作『パリ、テキサス』を想起させる『マイ・ブルーベリー・ナイツ』が、はたして『パリ、テキサス』のように、誰も観たことが無いような出来栄えで我々を驚かしてくれるのだろうかと。というのは、この映画作家は、ひょっとして誰も観たことが無いような、真に個性的な映画を創りだす才能よりも、コラージュの才能にたけた映画作家なのではあるまいか?という疑念にかられていたからだ。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を観て、その疑念は確信に変わる。この映画は、失恋したエリザベス(ノラ・ジョーンズ)が、彼の行きつけだったカフェを訪れ、ジェレミー(ジュード・ロウ)の焼くブルーベリーパイに傷心を癒されながらも、自分探しの旅に出かけることから物語は始まる。旅先のメンフィスやラスベガスで遭遇した人々とのエピソードを織り交ぜながら、喪失したものを探り、それを埋める新しい物を見つけて、ジュレミーのもとへ舞い戻ってくるという、あの有名なメーテルリンクの「青い鳥」を想起させる結末で物語は終わる。まさか、ウォン・カーウァイのことだから「青い鳥」にはならないだろう。そこには途方もない野心があって、さすがに『恋する惑星』のウォン・カーウァイ監督だと舌を巻くような意表をついたマジックが隠されているはずだという、淡い期待は物語の進行とともに裏切られていく。確かに、夜のバーで別れた女房のことを想いながら酒に溺れる警官アニーを演じたディヴィッド・ストラザーンの胸が張り裂けるような悲しみや、「他人の言葉を信じないで」と意味深長に語る女性ギャンブラー(レスリー)を演じたナタリー・ポートマンの、ハワード・フォークスの映画に出てきそうな男まさりの気丈さも悪くはない。ノラ・ジョーンズだって、現代版「青い鳥」を追いかける女性としては、それなりに魅力的に見える。女ふたり、ジャガーに乗って、はてしなくつづく青い空と広大な大地を疾走するシーンは、シネマスコープのスクリーンに爽快な躍動感を与えてもくれる。だが、それらは取りたてて傑出しているシーンでもなく、むしろ、ウォン・カーウァイの希薄さだけが印象に残る。それどころか既視感さえ纏わりついてくるのである。メンフィスの町は、ジム・ジャームッシュが『ミステリー・トレイン』で描いたメンフィスの臭いで立ち込めているし、時間と空間が紡ぐ挿話も『ミステリー・トレイン』の斬新なドラマツルギーに負けている。「ロードムービー」という観点から眺めると、既視感はさらに深まり、ひたすらヴィム・ベンダースの『パリ、テキサス』のイメージが蘇ってくるのである。音楽が、『パリ、テキサス』のライ・クーダー。エリザベスがメンフィスで働いていたバーの主人の名前が、『パリ、テキサス』の主人公トラヴィスなのは、まさか偶然ではあるまい。『マイ・ブルベリー・ナイツ』を観ながら、もう一本の映画を観せられているような錯覚に陥るといったのは、こういう理由からなのである。冒頭のエリザベスとジェレミーの会話。「何故、ブルーベリーパイは、いつも売れ残るのかしら・・・?何ごとにも理由が存在するはずよ・・・」「いや、パイは、なぜか売れ残ってしまうだけで、そこに明確な理由なんてないんだよ・・・」純文学を少しでもかじった事がある者なら、この特徴的な文体や形而上学的会話が誰の作家の影響による物であるかは云うまでもないだろう。ちなみに、その作家の卒業論文は、「アメリカ映画における旅の系譜」であったことを云い添えておく。起死回生の一本を撮ってくれることを祈り、ウォン・カーウァイの次回作を心待ちにしようではないか。
2008年04月23日
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カウンターで幸せそうに眠るエリザベス(ノラ・ジョーンズ)の唇に付いたアイスクリームをぬぐい、その唇に自分の唇をかさね合わせるジェレミー(ジュード・ロウ)。俯瞰ショットで捉えられた熱い、熱いラブシーンが、観る者の映画的記憶を、アルフレッド・ヒッチコックの『汚名』や『裏窓』の有名なキスシーンへと誘い、その既視感に酔いながら映画は終わる。確かに、悪くはないだろう。ウェルメイドな出来と言ってもいいと思う。しかし、我々が、ウォン・カーウァイ監督初の英語作品に期待していたものは、この程度のものだったのだろうか?『欲望の翼』、そして『恋する惑星』。以来、彼の新作を心ときめかせながら待つのが習慣となった熱心なファンのひとりとして、微かな失望を禁じえないのである。なるほど、空間と時間の戯れを、スタイリッシュな映像で操るマジックは、まさにウォン・カーウァイ監督の自家薬籠中の物といえるし、久し振りの現代劇となる『マイ・ブルーベリー・ナイツ』の軽やかな疾走感や爽快感に、『恋する惑星』や『天使の涙』への原点回帰を読み取ることも出来なくはない。だが、はたしてそうだろうか?我々が、『恋する惑星』に打ちのめされたのは、いままで観たこともないような斬新でスタイリッシュな映像と、その空間を生き生きと闊歩するレスリー・チャンやトニー・レオン・金城武の姿に魅了されたからではなかったか。誰の映画にも似ていない雰囲気に陶酔させられたからではなかったか。もちろん、ジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』が崩した映画の文法や撮影手法から大きな影響を受けているのは疑う余地はない。だが、その方法を踏襲して様式化し、洗練させたのはウォン・カーウァイだった筈である。初の英語作品に期待し、望んでいたものは、誰もが安心できるウェルメイドな作品ではなく、観るものの心を揺さぶる野心作であった筈だ。同じ主題の反復。予定調和的なドラマツルギー。イメージの進化というより衰退と呼んだほうが相応しい自己模倣。あげあしを取るつもりは、さらさら無いし、ましてや才能の枯渇と断じるつもりも毛頭ない。むしろ、誉めようと思えばいくらでも誉めることは可能なのである。だが、はたして人はウォン・カーウァイ監督の円熟を望んでいるだろうか?新作『マイ・ブルーベリー・ナイツ』は、既視的(デジャブ)シーンに溢れすぎているのである。『マイ・ブルーベリー・ナイツ』を見ながら、もう一本の映画を見せられているような錯覚に陥ってしまい、「スタイリッシュ」と評されるポップな色彩と編集がなければ、ウォン・カーウァイの痕跡を認めることができないのだ。そもそも、彼の作品を評する際に必ず形容される「スタイリッシュ」という言葉は、すでにステレオタイプの常套句になってしまっていて、創造的なイメージを喚起しない。『恋する惑星』の中で金城武が食べたパイナップルの缶詰のように賞味期限が切れかかっているのだ。 <前編~終わり>
2008年04月21日
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ウォン・カーウァイ監督が日本映画から大きな影響を受けている事実は意外に知れれていない。彼の作品の熱心なファンでもその事実を知っている人はあまり多くはないのではあるまいか。ウォン・カーウァイの作品をいちはやくアメリカに紹介したクェンティン・タランティーノの、深作欽二監督の東映ヤクザ映画への心酔ぶりは有名だが、それに対しウォン・カーウァイは、日活無国籍アクションの生みの親、鈴木清順監督の作品を浴びるように観たと公言している。なるほど、ふたりの類似性や作風の違いをあらわすエピソードではある。「宍戸錠が『殺しの烙印』で演じた殺し屋を北野武にやらせたい」と語ったウォン・カーウェイだが、彼の視線は鈴木清順だけに向けられているわけではない。『若き仕立て屋の恋』は明かに、あの増村保造監督と谷崎文学への目配せに他ならない。そもそも、『欲望の翼』のカリーナ・ラウのイメージは増村保造監督の『刺青』(谷崎潤一郎原作)のヒロイン若尾文子から由来していると語っているぐらいだ。「手を見せて、女を知らない手ね。いい仕立て屋になるには多くの女と触れなければ駄目よ」と囁きながら、若き仕立て屋チャン(チャン・チェン)の股間に手を伸ばし、まさぐり、愛撫する高級娼婦ホア(コン・リー)。「この手の感触を忘れないで・・・」 悲惨な最期を暗示するかのように彼女は言う。手を忘れることは、彼女をも忘れることなのである。主従関係のような献身的な愛の形でしかホアを愛せないチャン。純愛というよりも、隠微な愛と呼んだ方がふさわしい愛に自分自身を溺れさせることでしか愛を表現できないチャンの切なさが痛い。退廃的な官能美の物語に、ホアが纏うドレスのような光沢とドレープが加わり、時間と空間が耽美的に戯れる。その瞬間、フィルムには、熟成したスコッチのようなヌメリと艶が息づく。かといって、西洋的ではなく、すこぶる東洋的、アジア的な繊細さなのである。何かと精神分析に頼りたがるアメリカ人には、このての湿り気を帯びた性に対する感覚は理解不可能かもしれない。勿論、ウォン・カーウェイが初めて「エロス」と向き合った『若き仕立て屋の恋』は、増村保造監督の一連の谷崎作品ほど、魅惑的な細部や隠匿のエロティシズムに溢れているわけではないし、『ヘカテ』のダニエル・シュミット監督が撮っていたなら、涙腺を刺激してやまない官能性で、観る者を打ちのめしてくれただろうにという想いは残るものの、スタイリッシュな映像作家が、はしなくも古風な感性の持ち主であることを証明した意義深い作品である。
2008年04月16日
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現在、地元幕張メッセでは、「恐竜大陸」という展示会が開催されている。というわけで、今回は、『赤ちゃん教育』を取り上げる。題名を聴いて思わず微笑を浮かべた人には物語の説明は要らないだろうし、明日、婚約者との結婚式をひかえた男のコメディーと聴き、「ああ、この結婚は成就できないな」と閃いた方は、スクリューボール・コメディーの真髄を理解していらっしゃる人である。エルンスト・ルビッチの傑作『天国は待ってくれる』やフランク・キャプラの名作『或る夜の出来事』を持ち出すまでもなく、映画においては婚約者同志の結婚は結ばれない運命にあるのだ。博物館で恐竜の骨格を復元している動物学者のデヴィッド・ハクスリー(ケイリー・グラント)の四年に及ぶ努力も、最後の肋骨が発見されたことで実を結ぶ寸前だ。おまけに、明日は婚約者との結婚式なのだ。「嬉しいことがかさなってついてるぞ」と有頂天のデーヴィッドを意気消沈させるようにスーザン・ヴァンス(キャサリン・ヘップバーン)という女性が闖入してくる。映画においては、「ついてる」とは災難の前兆なのである。キャサリン・ヘップバーン演じるスーザンは、華やかでいながらたくましく、時には図々しくもあるのだが、それでいて憎めない奇妙な魅力に包まれている。どんなときでも、「万事、うまくいくは」と言ってあっけらかんとしているスーザンの天衣無縫ぶりは、現実離れしていると言えばそれまでなのだが、そこには既成のヒロイン像にはない自由奔放な明るさがある。特にヘップバーンが奇妙な笑い声を立てる場面はなかなかの見所だ。一方、ケイリー・グラント演じるデーヴィッドは、どうかと言うと、これがからっきし正反対。分厚い黒縁メガネをかけ、恐竜のこと以外は何も知らないといった風情で頼りなく、その不器用ぶりは危なっかしくて見ていられない。が、ケイリー・グラントの軽妙な身振り手振りには見惚れてしまう。ところで、スーザンは間違えることが趣味でもあるかのように次から次へと間違える。デーヴィッドと初めて会ったゴルフ場では、彼のボールを間違えて打ったかと思うと、彼の車を自分の車と勘違いしてしまう。偶然、再会したレストランでは他のお客のバッグを間違えてしまう有様だ。そんなスーザンのもとへ、「赤ちゃん」という名前の豹が送られてきたから大変だ。犬と音楽が好きな風変わり(?)な「赤ちゃん」と大事な骨をどこかに埋めてしまった犬が加わり、珍騒動が繰り広げられるのだが、下手糞なゴルファーのボールのように物語はあらぬ方向へと拡散し、とどまるところを知らない。例のごとくスーザンが、「赤ちゃん」とサーカス団から逃げ出した野生の豹を取り違えたことから交わされる、トンチンカンでスピーディーな会話の応酬が、ドミノ倒しのように騒動を巻き起こし、そのたびに関係のない人たちが、強引に巻き込まれ、仕舞いには警察沙汰にまで発展し、留置所にぶち込まれてしまう・・・・・・。というように書き出したらキリがないほど奇想天外なエピソードが疾風のように駆け抜け抱腹絶倒の面白さだ。だが、スーザンは恋のお相手だけは間違えない。男たちでも手出しの出来なかったサーカス団から逃げた豹の首に、どうしてそんなことが可能だったのかはわからないが、とにかく縄をつけて引きずって来るシーンさながらの厚かましさでデーヴィッドの心を射止めてしまう。スーザンは、まるで恋の調教師だ。婚約者にふられ、頬杖をついて黄昏ているデーヴィッドのもとへ骨を持ったスーザンが訪れる。デーヴィッドは、幸福を掌中に収めることになるのだが、その代償として4年来の夢を失うことになる。そのスペクタクル的なラストは、是非、ご自分の眼で確かめて戴きたい。動物、乗り物、男と女。それらが渾然一体となった物語を撮らせたら並ぶ者がいない、巨匠ハワード・フォークス監督の傑作スクリューボール・コメディである。
2008年04月12日
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自動車泥棒を生業としている、すべてが成り行きまかせのミシェル(ジャン=ポール・ベルモンド)。帽子をあみだに被り、くわえ煙草を燻らせながら、「俺は、アホだ」と自嘲気味に呟くミシェルは生粋の自然児だ。ツイードのジャケットにタイトなズボンとチェックのタイ。この洗練されたチンピラは、盗んだ車を走らせ、パリへ向かう途中、追いかけてきた白バイの警官を、まるで手のひらで蚊を叩くように事も無げに射殺してしまう。パリに着いた彼は、ベリーショートな髪型が似合うパトリシア・フランキーニ(ジーン・セバーグ)という名前のアメリカ娘をさがしだし、再会をはたす。「ローマ」が桃源郷でもあるかのように、「ローマへ行こう」と何度も囁く、ノー天気なミシェルの愛に、なんとなく窮屈さを抱いたパトリシアは、警察にミシェルの居所を密告する。おかげで、ミシェルは、警官によってあっけなく射殺されてしまう。死に際のミシェルは、微笑をつくり、「お前は最低だ」といって息絶え、パトリシアは、「最低って、何のこと?」と呟き、指先で上唇をぬぐう。もともとは、フランソワ・トリュフォーが小さな新聞記事から着想を得て書き上げた短いシノプシスが原案だが、ジャン=リュック・ゴダールが映画史上、最も「自由」な作品に仕立て上げた。「自由」をテーマにした映画作品は数限りなく存在するが、「映画」自体が、これほど「自由」であったことは、かって無かったのである。「映画」の本質は「映像」なのだが、トーキー以降、映画はその地位を文学(脚本)にあけわたしてしまう。「映像」が「脚本」の従属物になってしまったのだ。サイレント時代には確かに存在した人物の活劇性は、「物語」に絡め取られ、人物は「物語」という乗り物の乗客にすぎなくなってしまったのだ。『勝手にしやがれ』が、世界を震撼させ、映画史上、最も貴重な作品のひとつに評せられるのは、「物語」の呪縛から登場人物を解き放ち、彼らに生気を取り戻させたからだ。ラウル・クタールによる自然光のもとでの野外撮影。手持ちキャメラを多用した即興的な撮影と演出。映画にリズムと躍動感を与えたジャンプカット・・・など、言い尽された感があるので改めて語りはしないが、ゴダールの天才的としか形容のしようがない映像感覚と鋭利な批評感覚が結実した奇跡的な作品だ。「映画」の中を自由に生きるミシェルとパトリシアが、「物語」を駆け抜けていく疾走感。刹那的に刻まれる時間と耽美的なセリフの数々・・・。いつ観ても、何度観ても、斬新で色褪せることがない。『勝手にしやがれ』の登場以降、映画史はゴダール以前とゴダール以後にわかれる事になったのである。
2008年04月06日
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天国の母を慈しむように母の形見のピアノの鍵盤を指先で優しく弾くビリー。「ピアノ」は、母の遺品と同時に母の象徴でもある。父の命じるままにボクシングジムに通っていたビリーに運命を左右する偶然が訪れる。ボクシングジムの半分がバレエ教室のレッスンに使用されることになったのだ。父のグローブをはめたビリーが、スパーリング相手の少年と向き合った途端、バレエのレッスンに合わせて「ピアノ」の伴奏が流れ出す。リング上のビリーは、ダンスのようなぎごちないフットワークとステップを踏みはじめ相手の少年にあっさりKOされてしまう。コーチから居残り練習を命じられたビリーは、「ピアノ」の音色に吸い寄せられるように、バレエのレッスンに見入り、ウィルキンソン先生に勧められるまま女の子に混じりバレエのレッスンを受けてしまう。ビリーとバレエの運命的な出会い。ビリーをバレエの女神に引き合わせたのが、母(=「ピアノ」)であることはいうまでもない。『リトル・ダンサー』は、熱く厳しい父子愛と天国から我が子を見守る細やかな母子愛を描いた作品なのである。ビリーのバレエへの傾倒と情熱。炭鉱組合の激しいストライキ。父と兄の焦燥。それらのシーンをカットバックを駆使し躍動感溢れる絵に収めていくのだが、そこには希望へといざなう開放感は無く、閉塞感にあえぐ悲痛な叫びだけが強調される。クリスマスの夜。ビリーと親友の少年が雪景色の外で会う。「寒い」というビリーの手を少年が温める。彼はビリーが好きなのだ。少年は、「僕はオカマじゃない」と戸惑いの表情で呟くビリーの頬にキスをする。「誰にもいわないで」「もちろん」と笑顔のビリーがいう。切なさと優しさが溶け合った心温まるシーンだ。ビリーは、少年を誘いボクシングジムへ行くと、彼にチュチュを付けさせアラベスクのレッスンをする。その光景を偶然目撃した父の前で、ビリーは堂々と振舞い、喜びに満ち溢れたダンスを披露する。翌朝、父は組合のスト仲間を裏切り炭鉱へ向かうバスの人となる。組合の罵声が飛び交う中、兄によってバスから降ろされた父は、「ビリーの夢をかなえてやりたい!金が必要なんだ!」と叫び泣き崩れる。ロイヤルバレエ学院に見事合格し、ロンドンへと旅たつ朝。坂道を父と兄と連れ立って歩くビリーを親友の少年が呼び止める。「オーイ!ダンシングボーイ!」ビリーは、親友のもとへ駆け寄ると、少年の頬に別れのキスをする。ビリーを乗せたバスの滑走するシーンに15年後の父と兄を乗せた電車の滑走シーンが重なり、年老いた父が兄に促がされ駅のホームに降り立つ。長い昇りのエスカレーターに、後ろ向きに立った父が上へと遠ざかって行くシーンは、『リトル・ダンサー』の中で最も映画的なシーンだ。追憶に浸る父親の胸裏に走馬灯のように蘇る15年間の年月をワンシーンで表現した見事な場面である。
2008年03月26日
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1夢に向かって疾走するのはたやすいことではない。容易につかめる夢ならば、それは夢とは呼べないだろうし、実際、夢を持つこと自体、誰にでも出来ることではない。多くの人は、自分に相応しい夢を持つことが出来ずに人生をやり過ごす。まず、「自分に相応しい夢」というのが難しい。例えば、「ダンス」を愛したからといって、「ダンス」から愛されるとは限らないからである。『リトル・ダンサー』は、ダンスの神様から愛でられた少年ビリーの夢と希望を感動的に描いた愛すべき小品である。といっても、この作品は単なるアクセスストーリーではない。それが証拠に、スティーブン・ダルドリー監督は、一流ダンサーに成長したビリーが舞台で飛翔する姿をラストシーンでワンカット収めただけで観客のもっと観ていたいという欲望を潔く断ち切ってしまう。この映画は、夢をかなえた少年のロマンティックな御伽噺ではなく、ジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』を想起させるような骨太な、父子と家族の情愛を繊細な叙情性で綴った作品なのである。幼い頃に母を亡くした主人公の少年ビリーは、貧しい炭鉱夫で厳格な父と炭鉱夫組合のリーダーでもある兄に育てられ、「男らしいスポーツ」であるボクシングを習わされているのだが、あるきっかけからダンスに興味を持ち、熱中し始める。ビリーの才能をひと目で見抜いたバレエ教師のウィルキンソン夫人は、彼をロイヤルバレエ学院に入学させようとするのだが・・・・・・。スティーブン・ダルドリー監督の非凡なところは、少年ビリーの夢を「ボクサー」に設定しなかったところにある。もし、「ボクサー」であったなら、「ロッキー」のような何もかもがご都合主義的にハッピーエンドを迎える通俗的なサクセスストーリーになってしまい、感動的な父子愛を際立たせるような父と子の葛藤や対立、そして和解といった心理の変遷は生まれなかったに違いない。せいぜい、亀田親子の浪花節的なサクセスストーリーで終わってしまったことだろう。だが、「バレエダンサー」に設定したことで、性差がもたらす偏見、桎梏、そしてその呪縛からの解放という重層的なテーマが付与され、作品に厚みが加わったのである。『リトル・ダンサー』の物語は、単純な構成に見えて、実は非常に多義的な構成を持った物語なのである。なぜなら、父子愛を描いたこの作品は、至上の母子愛を描いた作品でもあるからだ。 ~この項つづく~
2008年03月23日
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これでも「映画批評」を標榜しているので、俎上に載せる映画は映画館で観た作品に限定している。「批評」を名乗っている以上、それが映画監督への最低限の礼儀だと思っているからである。たとえどんな駄作であろうが、安全地帯に身を置いて好き勝手なことを呑気に書いている批評家たちよりは、映画監督たちの方が遥かに多くの労力を映画に費やしているのは明らかだろう。それに、つまらない映画でも、DVDやテレビで観るより、映画館のスクリーンで観た方が絶対面白いからで、例外はない。身銭を切って映画館で映画を観る。それが「批評」をする側の最低限の倫理だと思っている。ところが、この3年ばかり映画館で映画を観るというあたりまえの行為が出来なくなってしまった。以前は、最低でも百本はクリアーしていたのに、ある理由からそれが不可能になり、一昨年、去年と大激減し、今年に至っては、潰滅状態である。仕方が無いので、過去に映画館で観た作品のDVDを借りてきて批評をし、お茶を濁すといった、なんとも情けない有様だ。どうして、こんなとりとめも無い話を書いたかというと、自分を叱咤するためである。「映画館に行こう!」と自分を鼓舞するためである。要するに、日記の場を借りて公約したかったのだ。と、朝令暮改の男は想うのである。
2008年03月14日
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どうしても映画を「絵」で観てしまう。映画は「絵」と「絵」の繋がりなのだから映画を眼で観るのは、至極当然のことなのだが、後からDVDで観直して、この映画はこういう物語だったのかと驚くことがままある。要するに字幕を読んでいないのだ。昔は、現在のような入替え制や全席指定などのシステムもなく、商業イズムが希薄でおおらかな映画環境だったから必ず2回は観ていた。最初は、「絵」だけ、2回目は字幕に視線をやりながら観るのである。ところが最近はそうした観賞法が出来なくなってしまった。というわけで、冒頭で述べたような現象が頻出する。勿論、最初からラストまで、字幕をまったく観ないわけではない。映画的なカットやシーンに魅せられ、ウットリとしてスクリーンを見つめていたその所々の物語の記憶が抜け落ちているのだ。この、『仕立て屋の恋』もそんな1本である。それまでは、緑の照明や日蔭のような陰鬱な照明しか当てていなかったのに、恋する女性とレストランでランチを食べるシーンあたりから、春の陽光のような暖かい照明がイール氏の顔に優しく降りそそぎ、彼の顔に生気が漲ってくるのだ。レストランを出たふたりは、戸外を散歩するのだが、レストランから散歩のシーンにかけてのストーリーがまるっきり抜け落ちており、しかも、この映画のかなり重要なセリフが交わされていた事実に気付き呆然としてしまった。つまり、照明による顔の推移に目を奪われ、彼の顔しか見ていなかったのだ。中年の独身男が、夜だというのに灯りも付けずに窓辺に立つ。イールという名前のこの男には秘かな愉しみがある。向かいのアパートに住む若く美しい女性を盗み見るという愉しみが・・・・・・。無表情で陰気。丸顔で禿頭。生理的な嫌悪をもよおすのに十分な彼の薄気味悪い容貌は、近隣の住民にも奇異な目で見られている。草むらで殺された若い娘の事件を追う刑事は、「どうして君は、みんなから嫌われているのかね?」とイールに皮肉を浴びせる。彼は殺人事件の嫌疑をかけられているのだ。「のぞき」と「殺人事件」・・・。こう書くと誰もがアルフレッド・ヒッチコックの『裏窓』を思い浮かべるが、アメリカ映画的な切れ味ではなく、イギリス的な乾いた筆致とフランス的な文学性が絶妙に溶け合って、非常に気韻のある恋愛サスペンスに仕上がっている。いつものように灯りを付けずに、向かい側のアパートに住む女を窓越しに眺めていた男の顔が稲妻の光に浮かび上がり、女は恐怖でギョッとする。背筋がゾクッと凍り付くような無気味なシーンだ。普通なら一日中、カーテンで窓を閉ざすはずなのに彼女は心を開く。彼女の魂胆は何なのか?その真の答えは、男を見つめる瞳の中にしかなく、セリフでは説明されず、また説明しきれない。繊細な心裡の駆け引きがサスペンスを静かに高めていく。アルフレッド・ヒッチコックにとっての「愛」が、「サスペンス」と同義語であるように、パトリス・ルコントにおいては両義語なのだ。女は男の住むアパートを訪れ、わざとトマトを落としてかがんでみせる。窓越しでしか女の顔を眺めたことのなかった男が、初めて女と視線を交わす瞬間だ。虚を衝かれた男の戸惑いを弄ぶかのように女は振舞う。「娼婦と寝なくなったのは、君に恋したからだ」と告白する男に、女はまるで目で犯されることで快感が渦巻いてくるかのように、恋人との媚態を晒す。即物的な愛から自慰的な愛へと変貌した男の幻想は、女との接触によって幻惑され、白昼夢を抱くまでになる。女は、手紙で男をランチに誘う。「見られるのは嬉しいわ」となに食わぬ顔でいう女は結婚を熱望する恋人がいるにもかかわらず、「同時にふたりを愛せるわ」と男をたぶらかす。実は、殺人事件の真犯人は、女の恋人で、その後始末を彼女が手伝っていたのだ。もしや、向かいの男は、その一部始終を目撃していたのでは?という予感が頭をもたげる・・・。恋人に見せるときの輝いた瞳とはうって変わって、男に対しての眼差しは冷徹で鈍い光を放っている。結婚を強く迫る女は、「そんな場合じゃない、刑事に追われているんだ!」と怯えた表情でいう恋人の煮え切らない態度に、「そのことは言わない約束よ」と、まるでマクベス夫人のような平静さを装う。狡知にたけた女の思惑。しかし、イールはそれを見抜いていたのである。男はいう。「あの晩のことを知りたいんだろう?・・・すべてを見ていた。・・・君を共犯者にしたくないから警察には黙っていたんだ」と。お互いの駆け引きが蔓のように絡み合い、ふたりは愛の共犯者へと堕ちていく。男は、女と彼氏のデートに秘かに寄り添い、電車の中で彼女の手をそっと撫ぜたり、ボクシング場では、胸元のボタンの隙間から指をすべり込ませる。フェティシュ的な愛しかたしか出来ない男の性が、恍惚感とともに悲しく描かれる。女とのあいだに「恋愛」という幻想を抱いた男は、外国で一緒に暮らそうとささやき、列車の切符を手渡す。だが、男とは違い恋人との幻想の中で生きている女は、最初の魂胆どおり男を殺人犯に仕立て上げてしまう。「恨んではいない、ただ、死ぬほど切ないだけだ・・・」やるせない想いを吐露した男は、刑事から逃れようとするが、建物の外壁から転落し非業の最期を遂げる。だが、ラストで、女は死んだはずの男から思いもかけない方法で復讐を受けるのである。
2008年03月09日
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アラブの歌謡曲に合わせてダンスを踊るのが好きな男の子が、髪が伸びてもいないのに理髪店に通い詰めるのは理髪店の女主人に恋をしているからだ。ある日、髪を切ってもらっていた少年は、彼女の胸元からのぞく乳房を盗み見し、その日は熱に浮かされたように一言も口をきけなくなり、大人になったら髪結いの亭主になることを決意する。早熟と言うよりは、爛熟と呼んだ方がふさわしい少年にとって、理髪店は魅惑的なローションの香り立ちこめる最も愛する空間なのだ。『髪結いの亭主』という人を喰ったような題名のこの作品は、馬鹿馬鹿しい魅力に溢れた映画なのだが、その現実感の希薄さが、快い浮揚感を漂わせ、この作品に官能性を与えている。中年を過ぎた主人公の少年時代の回想と現在をカットバックで見せる手法が、アラブの歌謡曲とマイケル・ナイマンの織りなすオリエンタルな情緒にうまく溶け合っている。この情緒はアメリカ人にはたぶん理解できないだろう。おそらく、アメリカ映画だったら設定は美容室になってしまい、リアルで通俗的なラブコメディーに変質してしまうに違いない。この作品に限らずフランスの恋愛映画の情緒には、日本人の深層に潜む性愛観に近いものがある。ところで、中年男となった少年は、惹き寄せられるように入った理髪店の若く美しい女主人と結婚をする。プロポーズは、客として初めて訪れた日、彼女にうなじを刈り上げてもらったときに発した「結婚してください」のひと言だけだ。少年の頃に誓った夢を中年になるまで果たせなかった男は、おそらく、何百軒、いや、何万軒もの理髪店をさすらったことだろう。しかし、彼の原光景ともいえるあの夏の暑い日の熱に浮かされたような体験には、遭遇できずにいたのだ。客の髪を切る美しい妻の後姿を眺めながら、本を読んだり、クロスワードをしたり、時にダンスをしたりと俗世に超然としている夢想的なこの主人公は、男から見ると、ある種の羨望の的らしく、この『髪結いの亭主』を好きだという男は多い。ハサミで調髪したり、シャンプーで髪を洗ったりなどのシーンも丁寧に撮られていて、しっとりしたエロティシズムでスクリーンが艶めいている。雷鳴と共に雨の降りしきる夜。ふたりはセックスをし、行為が終わると、妻は、店を駆け出し橋の上に来ると、激流の川に飛び込み死んでしまう。幸せの絶頂での死・・・・・・。主人公が、最初に愛した女も、突然の死で最期を遂げたのは、もちろん、偶然ではない。
2008年03月02日
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『レオン』を観ると、リュック・ベッソン監督がいかにアメリカ映画を愛しているかが良くわかる。全編、アメリカ映画へのオマージュで敷き詰められているからだ。スタンリー・キューブリックが大好きだというこの監督は、『時計じかけのオレンジ』を想起させるイメージをあからさまに引用してみせる。鉢植えの観葉植物を、「俺と同じ無口だから」と愛する孤独な殺し屋レオン。彼の大好物がミルクだったり、ゲイリー・オールドマン演じる悪徳麻薬捜査官が、ベートベンは好きか?と叫びながら、麻薬の売人の家族を惨殺するシーンは、『時計じかけのオレンジ』の中で、ベートーベンが大好きなアレックスが押し入った作家の屋敷で、その妻を惨たらしく凌辱するシーンを容易に連想させる。ニューヨークのリトルイタリーをねぐらに孤独な殺し屋稼業を続けているジャン・レノ演じるレオンが、その殺しのテクニックを披露し、敵に姿を見せずにひとりづつ片付けていくシーンは、あきらかに、クリント・イーストウッドの『ペイルライダー』からの引用だ。(映画の中でイーストウッドの名前が出てくる)特に、やるせない哀感を滲ませているレオンが、映画館で、スケートで舗道を滑走するジーン・ケリ-のミュージカル映画『いつも上天気』に、陶然とスクリーンを眺めるシーンは繊細な温かさで観る者を包む素晴らしいシーンだ。牛乳が好きで、朝になると陽の差し込む出窓に鉢植えを置き、ジーン・ケリーのミュージカルに瞳を輝かせるレオン。レオンは、純粋な魂を持った殺し屋なのである。そんな彼のもとへ幼い少女が訪れる。同じアパートに住むマチルダ(ナタリー・ポートマン)だ。麻薬の売人である父からの暴力や、母親の違う姉妹からの虐待に耐えているマチルダは、まだ12歳だというのに煙草を吸う姿はいっぱしの娼婦のようだ。マチルダを演じるナタリー・ポートマンの大人の裏社会に拮抗できる強い意思を秘めたクールな表情が美しい。ゲイリー・オールドマンに殺された弟の敵討ちを誓ったマチルダは、レオンに銃の撃ち方を教えてと、冷めた眼差しでいってのける。俺は、一匹狼だ、仲間はいらないというレオンに、「ポニーとクライドはふたりで仕事をしているじゃない」と『俺たちに明日はない』のふたりの名前をあげるマチルダ。レオンの空漠とした心に一滴の雫が零れ落ち、孤独な者同士の心が通い合う。一匹狼だった殺し屋は、初心者はライフルがいいと言い、愛人気取りの小生意気な少女は、殺し屋に読み書きのレッスンをする。「あなたみたいな優しい男もいるのね」と洩らすマチルダは、ベッドの上で大の字になり、「あなたに恋をしたい」と打ち明ける。純朴なレオンもピンクのドレスが入った白い手さげ袋を、プレゼントだと恥ずかしそうに云い不器用に差し出す。勿論、このふたりの親子のような、恋人のような関係が、チャップリンの『キッド』からの援用であることはいうまでもないだろう。映画の中で、ふたりが人物当てクイズをやる楽しいシーンがあり、マチルダはチャップリンやマリリン・モンローやジーン・ケリーに変装し、レオンもジョン・ウェインに扮するが、それらはアメリカ進出をはたしたリュック・ベッソンのアメリカ映画に対する献辞といえる。「アイ ラブ ユー」という置手紙を残し、ひとりゲイリー・オールドマンのもとへ向かったマチルダをレオンが追いかける。クライマックスの凄まじい銃撃戦の中で、レオンは、「君は、俺に生きる望みを与えてくれた。アイ ラブ ユー マチルダ」と告白する。嫌がるマチルダを逃がしたレオンは、悪徳麻薬捜査官ゲイリー・オールドマンを巻き添えにして自爆死する。哀切きわまりない悲しいシーンだ。何事も無かったように学校へ戻ったマチルダは、大地に根を張って生きていたいと語ったレオンの望みを叶えるように、学校の校庭に鉢植えの植物を植えかえる。中年の殺し屋と家族を失った少女。壮絶なバイオレンスの中に咲いた一輪の花のように甘く美しく、センチメンタルな描写に流されているシーンも無くはないが、何もかもが許される大人の寓話に似た味わいのある古風な純愛映画である。
2008年02月28日
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ちゃぶ台の前で髭を剃っている磯川警部(若山富三郎)は、金田一(石坂浩二)が発した言葉に激怒し、水を張った洗面器にタオルを投げつける。「リカさんは、二十年以上も苦しみ続けていたんだ!」この言葉は、リカ(岸恵子)への恋心を消さずに二十年以上も抱き続けてきた若山富三郎の告白でもある。人里離れた奥深い山村のひなびた温泉宿「亀の湯」。その女将が岸恵子だと聞いて不安を覚えない者はいないだろう。華麗な色香をあたり一面に漂わせた岸恵子が、古い民家が散在するだけで、あとは荒涼とした枯野と枯れ木ばかりが目立つ鬼首村に調和するとはとても思えないからである。あやうい均衡を辛うじて保っていられるのは、岸恵子への恋心を秘めた若山富三郎の存在があるからだ。強引に断定してしまうが、『悪魔の手毬唄』は、老年の域に達した男の片想いを水墨画のような筆致で描いた恋愛物語なのである。もちろん、この映画はミステリー映画だから古めかしい因習に閉ざされた寒村で、インセントタブーから腹違いの姉妹たちが次々と殺され、その犯人を石坂浩二演じる金田一が突きとめるという物語を持ってはいる。しかし、この作品には推理サスペンスとしての醍醐味は無い。なぜなら、よほど鈍感な人で無いかぎり岸恵子演じるリカが犯人であることは一目瞭然だからである。昭和二十七年の鬼首村に似つかわしくない華やかな岸恵子が、沼に入り全身を沈めてみずから命を絶つラストシーンの静謐な美しさ。たとえば、ニキータ・ミハルコフの『黒い瞳』で、正装したマルチェロ・マストロヤンニが、池に入っていくシーンなどより遥かに美しい。ここではじめて観る者は納得する。やはり、リカさんは岸恵子であらねばならないと。その意味でこの映画は、岸恵子の顔の推移を収めたドキュメンタリー映画ともいえる。『悪魔の手毬唄』が、金田一シリーズの中で一番の傑作と評価されているのは演出家市川崑の才能と彼を取り巻く演技陣の結集の賜物といってよい。第一作『犬神家の一族』でみせたケレン味は影をひそめ、ここでの市川崑は地味ながら非常に丁寧な演出をほどこす職人に徹している。実際、二十七年。鬼首村というクレジットがスクリーンに浮かび、落葉した林の中で抱き合いキスを交わす北公次と高橋洋子の火照った頬を捉えたファーストシーンから、温泉宿の亀の湯で石坂浩二と若山富三郎が四年ぶりの再会をはたす郷愁的なシーンまでが見事すぎるほど見事にキャメラに収められているのである。映画における登場人物。ことにミステリー物の場合は、とかくセリフが先行し映像がそれをなぞる役割を負わせられがちだが、さすがに市川崑は職人のことだけはある。簡潔でシャープなカット(それはおもに顔のクローズアップなのだが)をたたみ掛けるように挿入するだけで、登場人物たちの心理的な人間関係を人物の顔とともに説明してしまうのである。また、それによってサスペンスも生まれてくる。市川崑の際立った才能はほかにもある。自然描写の巧さである。古い民家に迫ってくるような山の斜面。ときおり挿入される落葉した白樺の枝。室内から戸外を映すときのキャメラ位置。こうした作品の雰囲気を醸す自然描写というのは誰にでも撮れそうにみえて、実はそうではなく、例えばマーティン・スコセッシなどは、しっかりキャメラを据えて風景を収める技量に欠けている。『悪魔の手毬唄』が他のシリーズ作品より傑出しているといえるとすれば、この作品がミステリーの形式を借りた重厚な人間ドラマに仕上がっているからだろう。それにしても、キラ星のように居並ぶ豪華な演技陣には、思わずため息が洩れる。芝居好きの人間なら、この顔ぶれを見ただけでゾクゾクしてしまう。新国劇から辰巳柳太郎。新劇からは円の中村伸郎。民芸の大滝修治。青年座の山岡久乃。文学座の加藤武。喜劇界からは三木のり平。そして極め付きは、アングラの女王こと早稲田小劇場の白石加代子。石坂浩二、若山富三郎、加藤武、辰巳柳太郎、白石加代子が同じ空間で場違いな遭遇をはたすシーンを目撃するだけでも、『悪魔の手毬唄』を観る価値があるといってよい。市川崑監督が彼ら俳優陣に対して、いかに敬意を払い深い愛情を抱いているか。それは、登場人物一人ひとりのファーストシーンを観ればよくわかる。魅力的な顔に収まった登場人物たちが、フィルムの中で艶かしく息づいているのだ。人物が映画を生きているのである。市川崑はクローズアップの撮れる映画作家なのだ。最後に。つかの間のひと時。岸恵子と若山富三郎が縁側に腰掛け、ふたりきりの会話を交わす場面でのバストショットから、俯瞰気味のフルショットへの連携が生み出す、郷愁を帯びた美しさは、非常に貴重だとだけ云っておく。
2008年02月24日
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トレードマークのくわえタバコで、煙を燻らせながら、手振り身振りで現場を仕切る。そんな演出風景が、日本映画界から喪失してしまったことに、一抹の寂しさを禁じえない。巨匠というより、偉大な職人と呼んだほうが相応しい市川崑監督が、92歳でその生涯に幕を降ろしたからだ。最近は、30年前の自作『犬神家の一族』をみずからリメイクし、その旺盛な創作意欲で、映画監督としての健在ぶりを見せつけたばかりだったので、突然の訃報には不意を衝かれた。黒澤明監督の陰に隠れがちではあったが、彼の作品は海外でも高く評価されていた。あの、フランソワ・トリュフォーも世界で最も権威のある映画批評誌「カイエ・デ・シネマ」で、この監督の『おとうと』を絶賛していたほどだ。傑作『東京オリンピック』では、ドキュメンタリー映画の定義を、実験的なキャメラワークで豊かに拡張してみせた。また、久里子亭のペンネームで、「金田一シリーズ」のような娯楽作品を手がけ、その作風は、まさに自由自在、縦横無尽で、実験精神の高さから映像の魔術師と呼ばれてもいた。『犬神家の一族』が、市川崑の遺作に相応しい映画であったかどうかは別として、おそらく、監督自身が一番愉しんで撮ったに違いないであろう「金田一シリーズ」の傑作『悪魔の手毬唄』のDVDを借りに、TUTAYAに駆け込み、その演出の見事さを堪能することを、お奨めして哀悼の意としたい。
2008年02月18日
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告白しますが、僕は恋愛映画が大好きなのです。呆れるぐらい溺愛しています。恋愛映画こそ、最大のサスペンス映画ではないかとも思っています。というわけで、「リュミエール通信」は、しばらく、恋愛映画特集にさせていただきます。とりあえずのラインナップです。『麗しのサブリナ』 ビリー・ワイルダー監督作品『勝手にしやがれ』 ジャン・リュック・ゴダール監督作品『カサブランカ』 マイケル・カーティス監督作品『レオン』 リュック・ベッソン監督作品『日の名残』 ジェームズ・アイボリー監督作品『素晴らしき哉、人生!』 フランク・キャプラ監督作品『奇跡の海』 ラース・フォン・トリアー監督作品『仕立て屋の恋』 パトリス・ルコント監督作品『愛人ラマン』 ジャン・ジャック・アノー監督作品『哀しみのトリスターナ』 ルイス・ビュニュエル監督作品『突然炎のごとく』 フランソワ・トリュフォー監督作品『恋する惑星』 ウォン・カーウァイ監督作品 (順不同)と、古い作品を中心にセレクトしました。生来の不精と気まぐれのゆえにラインナップの中断、変更もあるかと思いますが、何卒よろしくお願い致します。
2008年02月11日
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大富豪のお嬢様が、ふとしたきっかけで見知らぬ男と旅をする。初めは、お互いに嫌っていたのに、苦楽を共に分かつうちに、女は男に恋をし、男も女に胸を焦がす。そして、ふたりは身分の差を越え結婚する。通俗的といえば通俗極まりないこの種のラブストーリーの雛形を初めて映画にしてみせたのは誰だろう?おそらく、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』が最初ではあるまいか・・・。ニューヨークの大銀行家の娘クローデット・コルベールは、父の猛反対を押し切って、冒険飛行家と婚約を交わしてしまう。怒った父親は、彼女を専用ヨットに監禁してしまうのだが、彼女は監視の目を盗むと海に飛び込み泳いで逃げてしまう。クローデット・コルベールのじゃじゃ馬ぶりが愉快なシーンだ。ニューヨークの恋人のもとへ向かうバスの中で、新聞記者のクラーク・ゲーブルと出遭い恋に落ちるという筋立ては、『ローマの休日』を想起させるが、フランクキャプラの『或る夜の出来事』には、ウイリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』のような洗練された上品さは無い。その代わり、古き良きアメリカを体現したようなクラーク・ゲーブルの泥臭いあたたかさとクローデット・コルベールの気の強いお嬢様ぶりが、何とも魅力的な作品である。ニューヨーク行きのバスに乗り合わせたふたりが繰り広げる珍道中は、笑いあり、涙ありで飽きさせない。ヴィヴィアン・リーとの狂恋を描いた『風と共に去りぬ』のレット・バトラーで確立された、クラーク・ゲーブルの代名詞ともいえる男臭い色気を、この『或る夜の出来事』でも漂わせている。有り金が無くなり、バスに乗ることも、コテージに泊まることも出来なくなってしまったふたりは、野宿をしながらニューヨークへと向かう。わがままなクローデット・クロベールのために、文句を云いながら乾し草で仮のベッドをこしらえたり、泥のついた人参を手でこすって食べてしまう野卑で怒りっぽいクラーク・ゲーブルであるが、ときおり見せる愛くるしい笑顔と口髭がたまらなくセクシーだ。クローデット・コルベールにヒッチハイクの心得をとうとうと説き、「コツは親指だ」といった途端に、それまでただの一台の車も通らなかった道に次々と車が通り過ぎて行き、そのたびごとに彼は親指を立てるのだが、車はまるで止まらない。「私がやるわ」といって、道端に立ったクローデット・コルベールが、スカートの裾を上げ、脚線美で車を一発で止めてしまうシーンは、馬鹿馬鹿しいが映画的な面白さに溢れている。ニューヨークへ向かう旅の最後の日。コテージの部屋を真ん中から毛布で仕切り、左右に寝るクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベール・・・。感極まったクローデット・コルベールが、クラーク・ゲーブルに泣きながら愛を告白する。クラーク・ゲーブルもまた、胸が掻き乱されるほど彼女を愛していたのだ。冒険飛行家との結婚式の当日。クラーク・ゲーブルをひと目見ただけですっかり気に入ってしまったクローデット・コルベールの父親は、手を組んでヴァージンロードを歩く娘に「裏に車を待たせてある」といって愛の逃避行をそそのかす。もちろん、彼女は全力で走り去る・・・。この鮮やかなシーンは、ダスティン・ホフマンの『卒業』に形を変えて引き継がれるのである。
2008年02月05日
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チンパンジーによって、宇宙への夢を絶たれた伝説の宇宙飛行士チーム「ダイダロス」・・・。40年後、そのボス、クリント・イーストウッドにNASAが故障したロシアの通信衛星の修理を依頼する。クリント・イーストウッドは、「ダイダロス」の宇宙行きという破天荒な条件と引きかえに、その依頼を引き受ける。こうして、40年前の屈辱を晴らすべく4人の元宇宙飛行士は立ち上がる。童心のまま齢をかさね、宇宙への夢とロマンを消さずにいた老人たちの情熱に爽やかな感動を覚えずにはいられない。この作品は、時に『アルマゲドン』と比較されたりもするが、地球を滅亡の危機から救うというSFアクションとは違って、フランク・キャプラの映画を想起させるアメリカ独特の楽天的なユーモアが漂うSFファンタジーの秀作である。軽妙なユーモアの陰に隠れがちだが、「老い」と「死」という今日的なテーマもさりげなく用意されており、単なる娯楽作品に終わっていない。実際、クリント・イーストウッド作品の貴重な魅力のひとつに、「老人」の存在があげられる。洋画、邦画を問わず、スクリーンの中で、ときに渋く、ときにセクシーな大人の色気を醸し出す老人たちを目にする機会がめっきり減っているからだ。衛星の修理を頼みに来た若いふたりの技術者に対し、飲んでいるコーラの氷を噛み砕きながら、毒舌を吐き追い返すクリント・イーストウッドは相変わらず渋い。彼だけではない。『スペースカウボーイ』には、3人もの魅力的な老優が登場するのである。40年前、クリント・イーストウッドと取っ組み合いの喧嘩を繰り返し、試験用の戦闘機を三機も墜落させた『逃亡者』のトミー・リー・ジョーンズ。いくつになっても女好きで、女を口説くのが生き甲斐のような『M★A★S★H』のドナルド・サザーランド。空軍時代、神の目を持つ男といわれ、いまは牧師をしている『大脱走』のジェームズ・ガーナー。彼ら4人が、肩を怒らしNASAの建物へ入っていくシーンは痛快だ。NASAの若い女性スタッフと懐かしい話を交わすトミー・リー・ジョーンズが、「あいつは元気かい?」と尋ねる人物はみんな死んでいたり、ドナルド・サザーランドは、食事中にどうも入れ歯の噛み合わせが良くないなぁ、とぼやいてみたり・・・と彼らの老醜ぶりを面白おかしく描く。しかし、観る者は笑ったあとに、ふと、「人生」を感じ切なくなってしまうのだ。NASAの厳しい訓練に耐え、宇宙への旅立ちが目前に迫ったとき、トミー・リー・ジョーンズが、末期のガンに蝕まれていることが判明する。月へ行くことが彼の悲願であったことを誰よりも知るクリント・イーストウッドは、その夢をかなえるために、上層部の反対を押し切り、彼を同行させる。宇宙に飛び立った彼ら飛行士は、故障したロシアの宇宙衛星を見て愕然とする。核ロケットが搭載されていたのだ。トミー・リー・ジョーンズは、みずからの命と引き換えに地球を救うと言い張り譲らない。彼の決死の覚悟に胸が熱くなる場面だ。ラスト。胸に染み入るように、フランク・シナトラの「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」が流れ、月面に横たわるトミー・リー・ジョーンズの屍体が映し出される。月へ行く夢をかなえ、月で死ねたトミー・リー・ジョーンズ・・・・・・。映画史上、最も幸福でロマンチックな屍体のひとつである。
2008年02月03日
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ロジェ・ヴァディムの処女作『素直な悪女』で脚光を浴び、マリリン・モンローと並び称されるほどのセックスシンボルとなったブリジット・バルドーに、夫役の脚本家ミシェル・ピコリが、こう呟く。君を五分間も見ていたが、まるで初めて見るみたいだ。この言葉は、ジャン・リュック・ゴダールが生みだす映画を観てしまった人間の溜息にも似ている。あたしのお尻、可愛い?胸は好き?眼も、口も、鼻も?こう訊ねるカミーユ(ブリジッド・バルドー)に夫は、「ウイ」と答える。お尻を露わにして、黄色いシーツの上に寝そべるブリジッド・バルドーのこの世の物とは思えないほど美しい肢体に幻惑される。まるで、女性のお尻を初めて見たかのような感覚に捉われるのである。ジャン・リュック・ゴダールの映画は、観る者をそうした視覚体験へと誘う「美」に満ち溢れている。「美」といったが、スタイリッシュな映像美やミニマルアートのようなポストモダン的な感性を漂わす美とは、まるっきり異なるし、もちろん洗練された様式美でもない。その類の美は、一見、斬新に映るかもしれないが、同時代的なトレンドにたやすく消費されてしまう弱点も孕んでいる。今回、久方ぶりに、『軽蔑』を見直したが、その根源的な新しさに改めて打ちのめされた。脚本家の夫ミシェル・ピッコリは、アメリカ人プロデューサー役のジャック・パランスから脚本の改訂を頼まれ、妻のブリジッド・バルドーと共にイタリアのチネチッタ撮影所に来る。『オデュッセイア』というホメロス作の有名な英雄叙事詩の映画を撮影している最中なのだが、その監督は、フィルムノワールと称される傑作を数多く撮ったフリッツ・ラングで、その名前のまま監督を演じている。オデュッセイアは、トロイ戦争から10年ぶりに凱旋したオデュッセイウスが妻に求婚した男たちを倒す物語なのだが、『軽蔑』の物語と微妙に絡んでいく構成になっている。あの、『シェーン』で、アラン・ラッドの適役ガンマンを演じ、アクの強い存在感を評価されたジャック・パランス演じるアメリカ人プロデューサーが、小切手をひけらかし、新しいシーン、色っぽいシーンを付け加えてくれとミシェル・ピコリに頼む。ミシェル・ピコリが消極的ながら、それを引き受けるあたりから、夫婦の間はギクシャクしだし、カミーユの夫への愛は一気に冷める。と書いてしまえば、ありきたりのメロドラマなのだが、何故、突然、彼女が夫を軽蔑し、一緒にベッドで寝ることも拒むほどの嫌悪感を抱くようになってしまったのか、夫にはまるでわからないのだ。理由を教えてくれ!と執拗に迫るミシェル・ピコリに対し、ブリジッド・バルドーは、「それだけは死んでも言えないわ!」と意味ありげに言い放つ。だが、実際のところ、ブリジッド・バルドーにだってわからないのだ。確かなことは、ふたりに秋風が立ちはじめたのは、ジャック・パランスと会ってからということだけである。美しい女性を誘うのは、礼儀だといわんばかりにジャック・パランスはブリジッド・バルドーを自宅に招く。「タクシーで一緒に行きましょう」という妻に、夫は、「先に行ってていいよ、すぐタクシーで追いかけるから」と答える。プロデューサーに遠慮し、優柔不断な返事をしてしまった夫への失望から軽蔑へと変幻したのかもしれないが、心理的なセリフや、キャメラが、一切排されているばかりか、観る者を惑わすかのように、ふたりの会話が交わされるアパートメントの室内が、豊かな空間へと変貌していくのだ。そのたびごとに、我々は、「アッ!」と溜息を洩らし、瞳を凝らす。天才としかいいようのないシークエンスの繋ぎ方。不意に挿入されるショットの比類のない美しさ。画面における色彩の充実度・・・・・・。ブリジッド・バルドーに翻弄され、煩悶するしかないミシェル・ピコリは、フリッツ・ラングとの会話に答えを見出そうとして、自身の内面をオデュッセイアになぞらえて語るが、虚しさと砂を噛むような白々しさしか味わえない。そして、呆気無いふたりの死・・・。何事にも意味を見出せずにはおれない人間の宿命と不幸。そこには、神々の時代からの普遍のテーマ、「愛を信じられるか?」という根源的な問いが横たわっている。
2008年01月29日
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暗いトラウマを抱えたマイノリティーな存在に対する偏愛的な執着と憧憬。畸形でオブジェのようなキャラクターの博覧会。ティム・バートンの作品はどれもが、その存在への愛と憐憫で満ち溢れている。魔術のようなティム・バートンの映像世界を何かにたとえて語るのは、非常に難しいが、『バットマン』をはじめて見たとき、微かな既視感を覚えた記憶がある。幻想的で毒々しい原色とシュールな画面で物語を従属させてしまう、寺山修二の「天井桟敷」や唐十郎の「状況劇場」の舞台を連想したのである。実際、ティム・バートンが創出する世界は、言葉によって物語を紡ぐというよりも、瞬間、瞬間の映像感覚で成り立っている。『バットマン・リターンズ』は、それまでのティム・バートンの作品と比較すると、構成が整ってはいるが、細部は相変わらず破天荒で支離滅裂だ。資産家の家に生まれた畸形の赤ん坊が、川に捨てられる。33年後、「ペンギン怪人」と化した彼は、人間社会に対し強い怨念を抱いていた。一方、ゴッサムシティの支配を企む大物実業家マックス・シュレックは、その秘密を知った秘書セリーヌをビルから突き落とすが、彼女は猫によって甦生されキャットウーマンと化す。「ペンギン怪人」、「マックス」、「キャットウーマン」。彼ら三人の野望、怨念、復讐が絡み合い、ゴッサムシティに平和の危機が訪れ、バットマンが立ち上がる・・・。という具合にあらすじを書くことは容易だが、あまり意味をなさない。物語以前に、登場人物のキャラクターが破綻しているからだ。たとえば、何故、美味いコーヒーを入れることしか能のない秘書セリーヌが、キャットウーマンに生まれ変わり、悪の色香を放ちながら、ペンギン怪人やバットマンと戦わなければならないのか?バットマンは、何故、真の悪役マックスより、ペンギン怪人に敵愾心を燃やすのか?そもそも、彼は正義のヒーローなのか?観ている者は、バットモービルを自在に操るバットマンより、滑稽なアヒルのボートに乗っているペンギン怪人が漂わす悲哀に感情移入しているというのに・・・。だからといって、物語も破綻してしまうかというと、まったく正反対で、映像の魔術師ティム・バートンが織り成す原色と「漆黒」の世界に、まるで催眠術にでもかかったみたいに陶酔させられてしまうのだ。そう、『バットマン・リターンズ』は、何よりも「黒」の映画なのである。バットマンのマットな黒とキャットウーマンのエナメルのように輝く黒。ふたりの黒は、お互いの暗部、つまり心の闇を象徴している。と同時に、明るく健全な市民社会との偏差をも物語っているのである。人間社会との齟齬をきたしながら生きるしかないふたりは同類なのだ。ティム・バートンの市民社会から疎外された不幸な者への過剰な思い入れや共感は、同類のふたりが愛し合うことさえ奪ってしまう。ティム・バートンにとっては、成就しない恋愛こそが純愛なのである。しかし、この作品の最大のアンチヒーロは、バットマンでもなく、キャットウーマンでもなく、ペンギン怪人である。傷つき、命尽きはてたペンギン怪人が、ペンギンの子供たちによって水葬される悲哀に満ちたシーンに、ティム・バートンは、万感の想いをこめている・・・。
2008年01月23日
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雪はなぜ降るの?それはねぇ、長い長いお話なんだよ。・・・やっぱり、ハサミの話から始めなきゃならないだろうね・・・。クリスマスの雪の降る夜。寝室のベッドに横たわる少女とおばさんとの会話から回想へと遡る、痛ましくも悲しい愛の寓話だ。小高い丘の古い大きな城にひとりで住んでいた、手がハサミの青年エドワード(ジョニー・デップ)とキム(ウィノナ・ライダー)のかなわぬ恋をゴシック・ロマンスの文体で綴ったラブ・ファンタジーの秀作である。実は、最初の予定では、この役はトム・クルーズが演じるはずだったのだという。しかし、根っからの「大スター」であるトム・クルーズは、役作りの段階で、ティム・バートンを質問攻めにし、あげくのはてにはラストで、エドワードは白塗りのメークを落とし、素顔を曝すべきだと主張したらしい。その真偽のほどは定かではないが、いかにもトム・クルーズらしい逸話ではある。典型的な郊外の中流家庭に生まれたティム・バートンは、アメリカ的なコミュニティーにはまるでなじめず、日本のゴジラ映画やキングコングなどの怪獣映画に耽溺し、ホラー映画を浴びるほど観て育ったという。現実逃避といってしまえばそれまでだが、少年ティム・バートンには、異形の世界の方がよほど住みごこちが良かったに違いない。どんなホラー映画のキャラクターより、生身の人間の方が、恐ろしかったのだろう。人間にうとんじられ、疎外されるホラー映画のキャラクターに、彼がシンパシーを抱いていたのは想像に難くない。ティム・バートンが生み出す作品はどれも、彼の原風景や心象風景が形成した自画像が投影されており、その意味では、彼は私小説作家的な映画作家といえる。映画の主人公にもその片鱗が垣間見える。彼の作品には、「エドワード」という名前が頻出するのだ。『シザー・ハンズ』の主人公は、エドワードだし、『エド・ウッド』の主人公も正式名は、エドワード・D・ウッドジュニアである。また、『ビッグ・フィッシュ』の主人公もエドワードだ。「エドワード」という名前への執着が何を意味するのかはわからないが、なんとなく彼の原体験を想起させる。そんな内向的なティム・バートンの心性は、日本人の感受性と共鳴しあうものがあり、熱狂的なファンが多いのも頷ける。先ほど、ティム・バートンの映画は私小説的であると書いたが、勿論、彼の文体はリアリズムではない。そうではなく、シュールレアリズムで表現して見せるところに、彼の類まれな才能がある。過剰な自意識をメタファーに置き換え、ポップアート的な色彩映像でフィルムに塗りたくる。だから、彼の作品を愛する者は、映画作家ティム・バートンの自画像までも愛してしまうのである。それにしても、「手がハサミの男」という荒唐無稽なモチーフを題材に、これほどのラブ・ファンタジーを創出してしまう才能には驚嘆するしかない。身の置き所の無かったディズニーでは、到底、日の目を見る機会が訪れることは無かっただろう。少年のままの自我を肥大化させ、大人へと成長したティム・バートンが共感を覚える創造世界は、ディズニー製作の「白雪姫」や「シンデレラ」ではなく、「本当は怖いグリム童話」の世界なのである。小高い丘に聳え立つ古い大きなお城。そこから見下ろす下界には、色とりどりのパステルカラーで塗りつぶされたマッチ箱のような四角い家が整然と並び、そこの住人たち(もっぱら主婦だが)は、皆一様に暇を持て余し、ゴシップと男の噂だけで日がな一日を送っている。薄暗いダークな世界と不健全なぐらい明るい下界。親切なベグの家族によって下界に引き出されたエドワードは、まるで、ティム・バートンが少年時代に耽溺したキングコングのようだ。文明から隔絶した遠い小さな島で生け捕られたキングコングは、ニューヨークに連れて来られ、見世物として人気を博す。横暴で利己的な人間たちに憤怒し狂暴化したキングコングは、鎖を引きちぎり、愛する美女を抱え、ニューヨークの摩天楼エンパイアーステイビルの頂上へと登るが、軍隊の攻撃にあい転落死してしまう。ハサミの手で庭の植木をゴジラや恐竜の姿に刈り込み、犬の毛をトリミングし、それがこうじて女性のヘアカットまで引き受けるようになったエドワードは、またたくまに人気者となり、テレビにも出演する。しかし、キム(ウィノ・ライダー)のボーイフレンドに唆され、悪事に利用されてしまったエドワードは、写真を見て一目惚れしてしまった愛するキムのために罪をかぶる。住民たちの誤解と無理解に傷つくエドワードは、キングコングであり、人間のエゴで殺されたキングコングは、エドワードなのだ。愛するキムを抱くことさえままならない、手がハサミの青年エドワードは、自分をもそのハサミで傷つけてしまう。彼の顔に刻まれた無数の傷は、純粋無垢なエドワードの心の傷そのものなのである。もっとも、こう書き綴ると、『シザー・ハンズ』は、救いの無い陰惨で悲しい物語に映って見えるかもしれないが、実際は、ティム・バートン独特のB級映画的なユーモアが随所に散りばめられ、非常に洗練されたコメディー映画に仕上がっているのだ。何をおいても、エドワードを引き取ったベグとビルの一家の温かさが素晴らしい。手がハサミのエドワードを恐がるどころか、あっけらかんとしたユーモアと好奇心で受け入れてしまうヒューマンタッチ。特に、ベグの夫役のアラン・アーキンの惚けた演技がたまらなく愉快で面白い。エドワードのハサミを水で洗おうとした息子を、「おい、おい、水はいかんよ!せっかくのハサミが錆びちゃうじゃないか」と叱る場面など抱腹絶倒の面白さだ。しかし、この『シザー・ハンズ』が、広く愛されているのは、それがプラトニックな愛の究極を描いているからだろう。手がハサミのために、愛する女性を抱くことすら禁じられてしまったエドワードに出来る求愛の表現は、そのハサミで氷の彫刻を彫り、キムのために雪を降らすことだったのである。激しい勢いで吹き上げる氷の粉が雪になり、キムの身体に降りそそぐ。夜空を仰ぎ、舞う雪を両手で受け止めながら、求愛のダンスで応えるウィノ・ライダー・・・。クリスマスになると想い出す、最も美しいラブシーンのひとつである。
2008年01月19日
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才気溢れるという言葉があるが、『レオン』までのリュック・ベッソンは、まさしくそれに相応しい映画監督であった。モダンな中にも、クラッシックな香りがほのかに匂い、兇暴なバイオレンスの中にも、鋭利な繊細さが同居しているのである。リュック・ベッソン自身のアメリカ映画への傾倒ぶりとは裏腹に、彼の作品には、やはりフランス映画のDNAが息づいているのだ。初めて、『サブウェイ』を観たときは、その大胆かつデリケートな映像感覚に舌を巻き感嘆したのを、今でも鮮明に覚えている。そして、『サブウェイ』のスタイリッシュな美術を、あの偉大なアレクサンドル・トローネルが担当していたと知り、二度驚かされたものだ。麻薬中毒のイカレタ不良娘が、警官三名を射殺し、無期懲役の刑を言い渡される。しかし、彼女の素質に目をつけた政府の秘密組織員ボブが、彼女を殺し屋へと変貌させる。ニキータを演じる、アンヌ・パリローの本能を剥き出しにした野獣のような兇暴さに圧倒される。泣くことと怒ることしか知らなかったニキータが、教育係のジャンヌ・モローから女になる手ほどきを受け、ルージュの引き方や微笑み方を教えられ、女に目覚めていくシーンが印象的だ。「女」に変貌するといっても、勿論、レディーになるわけではない。「美しさ」は、女殺し屋の武器なのだ。23歳の誕生日。ボブとふたりだけのレストランでの食事が許される。黒のドレスと真珠のネックレス姿のニキータがボブからプレゼントを渡され、少女のようにはしゃぐ。喜びで胸をときめかせながら包みを開け、その中身が拳銃であることを知ったときのニキータの失意の表情が痛々しい。殺し屋としてのデビューを壮絶に飾ったニキータは、ジョセフィーヌというコードネームをもらう。ところで、彼女は、「女の武器」のもうひとつの使い方を身に付けてしまっていたのだ。まるで用意されていたかのように、スーパーのレジ係マルコと恋に落ち、当然のように同棲を始める。勿論、マルコは彼女の正体を知りはしない。殺し屋とスーパーのレジ係。ニキータは、いつ如何なるときでも殺し屋であらねばならぬのだ。浴室のドアを隔ててマルコと会話を交わすニキータは、その宿命に泣きながらも、浴室の窓から標的を狙い、ライフル銃で射止める。そして、マルコは何もかも理解する・・・。行方をくらましたニキータの身を案じるマルコとボブの男ふたりが、心理的な三角関係を匂わせながらも、センチメンタリズムを感じさせずに会話するラストシーンが哀感を漂わす。愛に目覚めた女が、愛することを禁じられる、切なくも厳しい罰である。
2008年01月14日
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さて、問題である。次の数字は、『椿三十郎』の上演時間である。森田芳光監督・織田裕二主演の完全リメイク版『椿三十郎』の上映時間を、(1)、(2)から選択せよ。(1) 98分 (2) 119分まともな感性の持ち主なら、(1)と答えるだろうし、実は、(2)が正解だと知れば、首を傾げたくなるだろう。時代が緩やかに流れた、『ALWAYS・三丁目の夕日』の時代に製作された、黒澤明監督三船敏郎主演の『椿三十郎』が、凄まじいスピードで滑走する超高度消費社会の現代で製作された森田芳光監督・織田裕二主演の完全リメイク版より、短いとは考えにくいからだ。まったく同じ脚本で撮ったにもかかわらず、21分も長いという事実が意味するところは何か?「ぴあ」を閉じ、いやな予感に駆られながら、場内を見渡すと、いくら平日の昼間とはいえ、都心の決して小さくはない映画館で、こんなにお客が疎らで大丈夫なんだろうか?などと映画関係者でもないのに、余計な心配が頭をもたげてしまう。ところで、森田芳光監督・織田裕二主演の『椿三十郎』は、面白かったのか?残念ながらというべきか、予想通りというべきか、危惧したとおりの陰惨な出来ばえなのだ。端的にいって、長すぎるのである。失敗の原因は、その一点に尽きている。前稿のリュミエール通信『椿三十郎』でも述べたが、黒澤明、小国英雄、菊島隆三の三人の名脚本家が凝縮させた98分の脚本は、完璧なまでに研ぎ澄まされており、無駄なセリフも、説明的なセリフも一切ない。だからこそ、森田監督も脚本には手をふれなかったのだろう。演技においても、三船敏郎以下、9人の役者がテンポよくセリフを吐き、快調なリズムを生み出しているのに対し、森田版のそれは、何を意図してのことかは分からぬが、役者がセリフを吐くたびに、意味の無いタメと間が生じ、黒沢版には息づいていた躍動感を奪ってしまうのだ。おまけに、間延びして締りのない説明的な演技(今どきこんな古臭い演技も珍しい)を、細かなカット割りでさらに説明するので、映画からテンポとリズムが削がれ、その結果、笑いも燃焼せず、活劇性をも殺してしまう。誤解しないで欲しいのだが、織田裕二をはじめとした若い俳優たちの演技を批判しているわけではない。むしろ彼らは被害者だ。ひとえに、森田芳光監督の時代錯誤的な演出に欠陥があるのだ。蜷川幸雄氏でも、唐十郎氏でも、野田秀樹氏でもいいが、舞台の演出家だったら、不自然な、台詞のタメと間を詰め、若い俳優たちの魅力を引き出せたに違いない。やたらニヤニヤしている織田裕二以下9人の俳優たちのスローテンポな演技は、『椿三十郎』のもうひとつの魅力、つまり、城代家老の奥方と娘が醸し出す何とも云えぬほのぼのとした笑いまで消し去ってしまう。黒澤明監督・三船敏郎主演のテンポの良い『椿三十郎』には存在していた、入江たか子と団令子の悠長な可笑しさが、まどろっこしいだけで、緩急を欠いたリメイク版では、まるで機能しないのだ。この映画の見所のひとつといわれている殺陣も、長回しのキャメラで撮ったのならともかく、編集でみせているだけだから醍醐味も無い。それにしても、製作総指揮の角川春樹氏は何をしていたのだろうか?何故、森田芳光監督に撮らせたのだろうか?最後に。森田芳光監督・織田裕二主演『椿三十郎』は、観るべきか?黒澤明監督・三船敏郎主演『椿三十郎』を観たことがない人なら、観るべきだとだけ云っておこう。
2008年01月12日
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『ローマの休日』といえば、オードリー・ヘプバーン。オードリー・ヘプバーンといえば、『ローマの休日』・・・。いつ観ても、何度観ても、みずみずしく、哀愁を帯びた暖かさに包まれる。ほろ苦く甘い香りを漂わせながら・・・。モノクロの映画なのに、どんな色彩よりも新鮮に輝いて見える。それでいて、すぐさま懐かしさが追いかけてくるのだ。それにしても、この作品ほど観ることの快楽をストレートに堪能させてくれる映画も珍しいだろう。ヨーロッパの親善旅行、最後の都市ローマ。王女としての公務に辟易し、大使館を抜け出すアン王女(オードリ・ヘプバーン)。舞踏会でのティアラと白のドレスを身に纏ったオードリー・ヘプバーンの気品溢れる美しさに陶然としたばかりなのに、白いシャツとフレアースカート姿でトラックの荷台に乗り込む彼女の愛くるしい可愛さに、もう胸を躍らせているのだ。男なら、誰もが、彼女の魅惑に秒殺だ。それなのに、一人だけ無粋な男がいる。暗い通りのベンチに横たわり意識朦朧のオードリー・ヘプバーンを邪険に扱う新聞記者のグレコリー・ベッグである。だが、彼女の魅惑の前にやすやすと陥落しないグレコリー・ベッグの無骨な振る舞いが、この作品を上品な大人のメルヘンに仕立て上げてくれているのだ。グレコリー・ベッグは、オードリー・ヘプバーンとは打って変わって、いっちょうら(?)のスーツで全編を通しているが、その飾り気の無いいでたちに、彼の誠実で寛容な人柄が垣間見える。「トレヴィの泉」のすぐそばにある理髪店に入り、一日かぎりの自由を謳歌するために、長い髪をバッサリ切り、ヘプバーンカットに変身した彼女の妖精のような可愛らしさを表現するのに、どんな言葉が必要だろうか?スペイン広場の階段で、髪を切ったオードリー・ヘプバーンが、愉しげにジェラードを頬張るときの、あの、あどけない笑顔にどんな形容が必要だろうか?ローマ市内をグレコリー・ベッグとスクーターを乗り回すときのオードリー・ヘプバーンの無邪気なはしゃぎよう。「真実の口」で見せた、怯えて首をすくめたときの表情・・・。船上パーティーでの大格闘から逃れ、グレコリー・ベッグの部屋で寒さに打ち震えているときの、オードリー・ヘプバーンの、あの弱々しい小動物のような瞳・・・・・・。彼女の立ち居振る舞い、その何もかもが、清らかで、美しく、可憐で、爽やかで、そのしぐさを眺めているだけで、観る者をあたたかい幸福感で包んでくれる。ローマでの、一日だけの思い出を胸に焼き付け、大使館へ戻ったオードリー・ヘプバーンは、冒頭で侍従たちを困らせたアン王女では、もはやなく、プリンセスとしての高貴な威厳に輝いている。少女が、女へと成長するように、妖精から天使へと変身を遂げたのだ。クライマックスの記者会見で、「・・・ローマです!」と答えた、アン王女の凛とした瞳を見つめるグレコリー・ベッグと見詰め返すオードリー・ヘプバーン。深い余韻に酔いしれながら、我々もまた、この、「一億光年の恋」を心に刻むのである。
2008年01月09日
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広大な麦畑と丘陵。どこまでもつづく長い、長い一本の道。その道は主人公の少女チャン・ツイィーと最愛の夫である小学校の先生との四十年以上にもおよぶ真っ直ぐな愛の象徴である。その一本の道には、彼女の喜び、感動、笑顔、涙、悲しみが散りばめられている。悲願の新校舎建設を目前にして、最愛の夫が急死してしまう。悲しみに暮れる彼女は、夫を担いで帰りたいと頑なに言い張り、息子や村長をてこずらせる。古くから村に伝わる、仏さんが家路を忘れないように担いで帰るという、現在では廃れてしまった風習に忠実でありたいからだ。なぜなら、家路=一本道は、彼女にとって亡き夫との人生そのものだからだ。彼女の顔に刻まれた見事な皺が、幸福で充実しきった人生を物語る。そんな年老いた妻の姿を映したモノクロの導入部分が、カラーに変わり回想シーンへと遡る。緩やかな丘陵の一本道を馬車がやってくる。黄金色に輝く草原を羊の群れが駆けていく。色鮮やかな風景に、可憐で、初々しいあどけない顔の中にも芯の強さを秘めたチャン・ツイィーのクローズアップが挿入される。馬車に乗ってやってきた先生を、まるでおとぎの国から王子様が現れたかのような感覚で見守る彼女の心は、幸福感で満たされ笑顔が弾む。若い先生と瞳が合い、顔を赤らめた少女は、一瞬にして先生の虜となる。そしてまた、我々もはにかんで俯いた彼女の笑顔に一目惚れしてしまうのである。笑顔の彼女が、振り返りながら、背中を可愛く揺らし、家路へと向かう姿を観ているだけで、我々の心は洗われ、暖かな陽だまりのような気持ちに包まれる。彼女のまわりには、甘酸っぱいレモンの香りが漂っているのだ。先生に一目惚れをしたその日以来、彼女の瞳は、彼を見つめるためだけの物となる。彼女は恋のハンターとなったのだ。初恋を成就させるための一途で強烈な想い。火傷しそうなくらい熱くて純粋な恋心には、気まぐれな愛の女神も応援せずにはおれないだろう。先生に食べてもらいたい一身で作った料理の数々。そのどれもに彼女の全霊がこもっている。先生が、家の遠い子供たちを送って帰ると知った少女は、途中の一本道で待ち伏せる。その健気な恋心が、やっと先生にも伝わり、「あの子は誰?」と生徒に尋ねる。「先生が、名前を聞いたよ!」と茶化す生徒の声に、ポケットに手を入れ、三つ編みの髪が弾む肩を小さく揺らし、うつむいて返って行く少女の後姿が輝いて見える。だが、彼女に小さな不幸が訪れる。先生が町へ呼び戻されたのだ。初めて先生を食事に招いたときに、彼から、「赤い袷に良く似合うよ」といわれ赤い髪留めをプレゼントされた少女は、先生の大好物のきのこ餃子を瀬戸物の器に入れると、町へ行く先生を乗せた馬車を何処までも追い駆ける。我々観客の間に合ってくれという祈りも空しく、少女は、丘陵の坂で転び瀬戸物を割ってしまう。そして、髪留めをなくしたことにも気付く。悲しみに暮れるチャン・ツイィーの涙は、スクリーンをも濡らしてしまう。来る日も、来る日も、彼女は先生を待って長く延びた一本道に立つ。彼女にとっては、地球のはてまでもつづいているような長い道に思えたことだろう。吹雪の中。朝靄の中。少女は待ちつづけ、そして立ちつづける。見ているものは、胸を締めつけられ、早く帰ってきて!と心の中で叫ばずにはいられない。無理がたたり、彼女は高熱を出して倒れてしまう。知らせを聞いた先生は、無断で町を離れ、村に戻る。翌朝、学校から、国語を朗読している先生の声が聴こえて来る。彼女は、朗読する先生の声が大好きなのだ。少女が、喜び勇んで学校へ駆けつけたのはいうまでもないだろう。それから、四十年余。夫婦となってからも一日も欠かさず、彼女は朗読を聴きに学校へ足を運んだのだ。清らかで爽やかな愛。一途で熱い愛。誰もが憧れる理想の初恋を、四十年以上のながきに渡って貫き通した奇跡的な、夫婦の愛の物語である。
2007年12月30日
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『椿三十郎』を観るのは三度目だ。初めて見たのは、銀座の並木座。二度目は、黒澤明監督が死去したときにビデオで。そして、9年ぶりにDVDで再見したという訳である。いまさらいうまでも無いが、やはり、黒澤明は傑出している。まぎれもなく、偉大な映画作家の一人といっていいだろう。実際、彼を師と仰ぐ、フランシスフォード・コッポラ、スチーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカスの三人や、その他大勢の黒澤崇拝者が束になってかかっても、黒澤明の前には跪くしかあるまい。それぐらい黒澤作品の活劇性は、ずば抜けている。どの作品も黒澤明にしか撮れない映画なのだ。今回、『椿三十郎』を観直してみて、あらためて黒澤明の卓越した演出力とシナリオの完成度の高さに舌を巻いた。もちろん、黒澤明の代表作に何を挙げるかは人によって異なるだろう。『七人の侍』を挙げる人もいるだろうし、『羅生門』を挙げる人もいるだろう。また、『生きる』を挙げる人もいるはずだ。だが、黒澤明の時代劇を観たことのない人に、おすすめは?と問われれば、僕は迷うことなく、『椿三十郎』を挙げる。98分という上演時間の短さ。軽妙なテンポと笑い。黒澤映画の入門にはもってこいだと思う。『スター・ウォーズ』を好きな人になら、その翻案である『隠し砦の三悪人』を薦めてみるのもいいかもしれない。現代劇なら、『天国と地獄』。この作品を観れば、『踊る大捜査線』の中で織田裕二がなぜ、「天国と地獄」と呟いたのかわかるだろう。薄暗い社殿で密談を交わす若侍の「やっりだめか?」から、大あくびを欠きながら、彼らの前に突然姿をあらわした三船敏郎演じる椿三十郎が、「盗みぎぎってのはいいもんだぜ。岡目八目、話している奴より話の本筋が良く見える」といって若侍たちを驚かす場面までの省略のきいた無駄の無い台詞と絶妙なカット割り。そうすることで物語と人間関係を説明し、躍動感とサスペンスを醸し出す。一瞬のうちに観客を惹き込む鮮やかな導入部は、何度観ても素晴らしい。非のうちどころが無いのだ。映画監督やシナリオライターを志す若い人には、この巧みな語り口はとても良い手本となるに違いない。隣の暗闇からヌッとあらわれた薄汚い浪人に、最初は全員が警戒感を抱き、立ったまま話をしていたが、浪人の話に説得力を覚えた数名の若侍が無言で座る。説明的な台詞を言わせず、浪人と若侍の関係性の変化を視覚的に説明してしまう旨さ。このシーンに限らず、画面における人物の配置と出し入れが絶妙なのだ。加えて、人物の造形も魅力的である。若さと正義感には溢れているが、知力に欠ける若侍九人。機略、才知に富んではいるが、人間的にギラギラしすぎた浪人、椿三十郎。そんな三船敏郎演じる浪人が、かっては自分にもあっただろう若侍の純粋さに打たれ、「十人だ!」と叫び、九人の若侍に的確な指示を与えていくさまは、とにかく痛快だ。そのほかにも、城代家老の奥方と娘が干草に寄りかかり、「ああ、気持ちいい・・・」と感に堪えぬ声を洩らすなど、黒澤映画に登場する女性としては極めて珍しい典雅な風情が、映画に彩を与えているし、捕らえられた小林桂樹演じる侍が、押入れを出たり入ったりする様は、観ているだけで可笑しい。しかし、この作品の最大の美徳は、98分という上演時間の短さにある。凡庸な、映画監督や脚本家であったなら、軽く2時間を超えたであろうこの作品を、黒澤明と菊島隆三、小国英雄という名脚本家三人は、見事に凝縮してみせる。テレビ局が製作する、どこを切っても金太郎飴のような弛緩したフィルムではなく、切れば鮮血が飛び散るような緊張したフィルム。観客は、そんな活劇性を娯楽作品に求めているのである。
2007年12月23日
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モロッコ。砂漠・・・。この言葉の響きを聴いた者は誰もが、マレーネ・ディトリッヒとゲーリー・クパーのふたりが謳い上げた、あの恋愛メロドラマ『モロッコ』を思い浮かべる。映画を知らない人でも、マレーネ・ディトリッヒが灼熱の砂漠を靴を脱ぎ捨て、ゲーリー・クーパーを追いかける伝説的な名シーンを目にしたことがあるだろう。ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の『モロッコ』が、灼熱の砂漠を象徴するかのような狂恋であったのに対し、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』は、はてしなく何処までもつづく乾いた砂漠で、実存主義的な愛と生を映画的に描いてみせる。気だるい陽の光を反射させた海に浮かぶ豪華客船を背に、ちっぽけなボートがこちらに近づいてくる。退廃的で陰鬱。虚無的で空虚。重く立ちこめた雰囲気を醸した坂本龍一の音楽が、絶望的な旅の始まりを予感させるかのように冒頭のシーンに被さる。車の中で病に冒されながら、「僕のことをダーリンと呼んでくれたのは一年ぶりだね」と劇作家の妻キッド(キャンベル・スコット)に弱々しく語る作曲家の夫ポート(ジョン・マルコビッチ)。『アイズワイドシャット』で描かれた、トム・クルーズとにコール・キッドマン夫婦の倦怠感には帯びていた湿り気や狂おしいほどの欲望も、『シェルタリング・スカイ』のふたりには、まるで存在しない。『アイズワイドシャット』が倦怠からの帰還をはたし、「ファック!」という台詞でハッピーエンドを迎える愛の物語なら、『シェルタリングスカイ』は、倦怠の向こう岸にあるかも知れない愛の世界に視線を注ぐ。ふたりは、『アイズワイドシャット』のふたりとは異なり、セックスを交わす。また、虚しさを埋めるかのように土地の女を買ったり、連れて来た若い男タナー(キャンベル・スコット)と一夜を共にしたりもするが、その行為は恐ろしいほど唯物的で性愛を感じさせはしない。この夫婦の心は、どこまでもはてしなく広がる美しい砂漠のように茫漠とし、残酷なまでに渇ききっている。小津の映画を想起させる、ふたりが真っ直ぐにのびた黄土を自転車に乗り、楽しそうに疾走する場面は痛々しいほどに切ない。これは限りなく贅沢な大人の愛の物語であると同時に、ヨーロッパ的な悲劇でもある。作曲をすることに意味を見出せなくなった夫と戯曲を書くことに意味を見出せなくなった妻。そして、二人はお互いの愛に、また生にさえ意義を見出せなくなっている。作曲家と劇作家という芸術家同士だからこそ追い求めてしまった愛と生への幻想。愛の形をまさぐる為に西洋文明から遠く隔絶したサハラ砂漠へ辿り着いた夫と妻。そして、キッドに好意を寄せる若い男タナー。フランソワ・トリュフォーなら、激しく熱い三角関係を、ルイス・ブニュエルなら、インテリのブルジョワ的な観念をシュールな手法で嘲笑的に描いたであろう愛の世界を、ベルトルッチは西洋的と砂漠(未開の地)の対比で描く。疫病で悲惨な最期を遂げたポートを失ってからのキッドは、まるで溝口健二監督の『西鶴一代女』で田中絹代が演じた夜鷹のようですらある。夫を失ったキッドは、広く大きな空と美しすぎる砂漠に独り取り残される。それは、彼女の心象風景そのものだ。その無限の世界に独り浸かったとき、彼女は初めて観念の呪縛から解き放たれ、無の存在となる。ただの、赤裸々な人間となったのだ。キッドは、過去の自分の残滓ともいえる戯曲を鋏で切り、その紙片を部屋中に吊るす。『西鶴一代女』の田中絹代のように、愛を失い、愛を模倣することでしか生を漂流できない女へと転落してしまうのだろうか?グランドホテルに連れ戻されたキッドは、タナーの姿をみとめると車から行方をくらまし、冒頭のカフェに現れる。その表情には何かを達観した女の意思が晴れやかに浮かんでいる。
2007年12月15日
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しかし、今年の冬は寒いですね。冷え性の私には、つらい、辛い季節です。というわけで、風邪を引いておりました。インフルエンザの予防注射をしたのに、情けなくてお話になりません。虚弱体質を恨みます。やはり、若い頃、スポーツをしていなかった人間は駄目ですね。初秋からはじめたこのブログも、どうにか師走を向かえ、歳を越せそうです。皆様、ありがとうございました。特に、僕のブログをお気に入りに登録してくださった方には、ただただ、感謝するばかりです。さて、年末に向けて、今後の批評ラインナップを発表させていただきます。 1 シェルタリング・スカイ(ベルナルド・ベルトルッチ監督作品) 2 仕立て屋の恋(パトリス・ルコント監督作品) 3 愛人 ラマン(ジャン・ジャック・アノー監督作品) 4 日の名残り(ジェームズ・アイボリー監督作品) 5 椿三十郎(森田リーメーク版)です。 どうか宜しくお願いいたします。
2007年12月12日
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スタンリー.キューブリック・・・。たぶん、真の意味で鬼才といえる映画作家は、彼だけだろう。しいて、もう一人あげるとすれば、現代作家の中ではティム.バートンぐらいか・・・。確かに、『2001年宇宙の旅』や『時計じかけのオレンジ』は、面白かったし、作品への賞讃も至極当然だとは思う。映画史の中でも傑出した作品だろう。もちろん、『カッコーの巣の上で』や『現金に体を張れ』だって素晴らしい作品ではあった。だが、個人的な嗜好で論じると、スタンリー.キューブリックの作品を僕はそれほど好きではない。いや、愛してはいないと評したほうが適切か。感覚的な表現で申し訳ないが、たとえば、スピルバーグの『E.T.』より、ロン.ハワードの『コクーン』の方が愛おしいと感じる性質の人間なのだ。ウィリアム(トム.クルーズ)のフロイト的な、男性優位(男根主義)の女性心理の分析に激怒したアリス(二コール.キッドマン)は、かって強い浮気心を抱いた男性がいたことを打ち明ける。その秘密の告白にウィリアムは、妄想の虜となり、真夜中のニューヨークをさすらうが、彼の脳裏に浮かぶ、妻と見知らぬ男との性交シーンを消すことは出来ない。男の勝手さ、単純さを、妻に対する盲目性を下敷きに簡潔なストーリーで綴っただけの作品に誤解されかねない、この『アイズ ワイド シャット』を、スタンリー.キューブリックの全作品の中で一番愛しているのである。もちろん、この遺作が彼の作品群の中で最高水準にあるなどと主張するつもりは無い。ベルナルド.ベルトルッチなら、倦怠期を迎えた夫婦の心の襞を乾いた筆致で厳しく描いてみせただろうとか、『ヘカテ』のダニエル.シュミットなら、たった一つのシーンでフィルムに官能性を帯びさせたであろうといった、物足りなさを感じたりもする。しかし、その物足りなさが、まぎれも無くスタンリー.キューブリックの作品に違いないという魅力を惹き立てもしているのである。流麗な音楽に乗って、キャメラがふたりの住むアパートメントの室内を舐めるように移動しはじめ、パーティー出席のため慌ただしく身支度を整えているふたりを的確に収めていく。全編を通し、これがスタンリー.キューブリックの作品かと思えるほどオーソドックスで静かな演出なのだ。だが、実はキューブリックらしいトリッキーな仕掛けは映画以前にほどこされている。それも用意周到なまでに・・・。トム.クルーズとニコール.キッドマン。実際の夫婦が、映画の中でも夫婦として共演し、しかも性愛が描かれる。予告編を観た者なら、誰もがそのまだ見ぬ性愛のイメージに想像力を膨らましたはずだ。本編に向けて肥大化する欲望。それは、妄想の虜となったウィリアムの相似形でもある。スクリーンを見開いた眼(アイズ ワイド)で凝視するしかない観客の好奇心を肩代わりしているウィリアムは、街を徘徊して買った娼婦とも、仮面を被った乱交パーティーでも結局、セックスを果たせず、妄想の呪縛から自分自身を解き放つことができない。迷宮を彷徨っていた数日間から、現実へ帰還したウィリアムは、まるで動物が自分の巣へ帰るように妻のもとへと戻り、すべてを告白する。娘のクリスマスプレゼントを買いに出かけたショッピングタウンで、二コール.キッドマンは、トム.クルーズにこう話す。「あなたを愛してる、だから・・・私たち大事なことをすぐしなくちゃだめ」「なんだい?」「ファック!」と同時にスクリーンが暗転(シャット)になり映画は突然終わる。はたして、アリス(二コール.キッドマン)が、ウィリアム(トム.クルーズ)に語った告白は真実だったのだろうか?夫は、妻の掌のうえで踊らされていただけだったのではあるまいか・・・。ラストでトム.クルーズの肩ごしに、二コール.キッドマンの顔をアップで捉える。僕には、彼女が心の中で、観客に向かってウィンクをしているような気がしてならないのだが、それは妄想だろうか・・・・・・。
2007年11月30日
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それまでは、どちらかというと映像美にこだわっていたラース・フォン・トリアー監督は、『奇跡の海』を撮るにあたり、その撮影手法と縁を切る。ヴィム・ベンダースやジム・ジャームッシュの作品で知られる名キャメラマン、ロビー・ミューラーを迎えた彼は、手持ちキャメラを駆使し、フィルムに荒涼とした魂を焼き付けようと試みる。もちろん、監督にその選択を迫らせたのが作品のテーマであることはいうまでも無い。『奇跡の海』で夫に対する、いびつともいえる純愛の極致を描いてみせたトリアーは、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では母性愛の極致を描く・・・。と、とりあえずはそういえる。1960年代。アメリカのミュージカルに憧れチェコから移住したセルマ(ビョ-ク)と息子ジーン。遺伝性の病のためほとんど視力の無いセルマが工場での危険な仕事に従事するのにはわけがあった。このままだと息子ジーンも彼女と同じ運命を辿ってしまうのだ。彼女は、内職までして息子の手術費用をたくわえる。そんな苦境に彼女が耐えられるのも、ミュージカルで踊る自分の姿を夢見ることで喜びに浸れたからだ。しかし、そのかけがえの無いお金を親切にしてくれていた隣人ビルが盗む。返して欲しいと激しく迫るセルマ。揉み合ううちにセルマはビルを銃で撃ち殺してしまい、裁判で死刑の宣告が下される・・・。悲劇を構成するのに事欠かないモチーフに敷き詰められたこの作品は、悲劇であることを拒絶する。それどころか、ラース・フォン・トリアーは救いのない人間の魂をまるであざ笑うかのように、絶望的に描いてみせる。ラッセ・ハルストレムやジェームズ・アイボリーなら、審美的なキャメラワークで、観るものの感情移入を沸き立たせ、詩情溢れるウエルメイドな作品に仕上げたであろうし、マーティン・スコセッシなら、キャメラの構図設計に演出を費やし、滅びの美と醜を内包した心理的な作品に仕上げていたかも知れない。が、『奇跡の海』の監督は、そのどちらをも否定する。潔いまでに叙情性を断ち切ってみせるのだ。なぜなら、この『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、前回とり上げた『ALWYS続・三丁目の夕日 』と最も遠い位相にある映画だからだ。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を語るのに、『ALWAYS続・三丁目の夕日』を引き合いに出すとは悪い冗談だといわれそうだが、冗談ではない。『ALWAYS続・三丁目の夕日』を批評した際、この作品は、大衆演劇の骨格を模倣した物だと述べた。そこにおける楽天的な善意は、大衆演劇に裏打ちされた物であったからだ。それに対して、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は、ドイツが生んだ偉大な劇作家ブレヒトの「異化効果」をそっくり援用し、換骨奪胎させた映画だからだ。つまり、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』に対する賛否両論は、ラース・フォン・トリアーの意図するところだったのである。その意味において彼のもくろみは見事に成功したといえるだろう。ゴダール流の、手持ちキャメラと荒々しいジャンプカットで観る者の感情移入を断ち切り、そうすることで物語を叙事的に表現していたかとおもうと、セルマと登場人物が一体となってミュージカルを繰り広げるセルマの幻想(白昼夢)シーンでは、うって変わって律儀なまでの固定キャメラで端正な構図と審美的で、躍動感溢れる絵をつくる。現代において、純粋無垢であることは、ある意味狂人に等しい。狂人という言葉が相応しくないなら、聖なるものに憑かれた人と言い直してもよい。この世界で、自分自身に潔癖であり続けることなど不可能であろう。人間は処世術を身につけることで現実世界と折り合いをつけ生きていく。それを頑なに拒む者は、ハムレットのように死を選ぶしかない。憑かれた人。憑かれた顔・・・。『奇跡の海』のエミリー・ワトソンや、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークの夢見るような表情はもちろん偶然ではない。聖なる愛に憑依された者だけが許される特権的な顔なのだ。『奇跡の海』で重篤の夫を自分の死と引きかえに救ったエミリー・ワトソンのようにビョーク演じるセルマは、息子ジーンの視力と引きかえに自身の命を捧げようとする。そこには、母性愛と自己犠牲の極致が存在しているようにも見える。子供に遺伝するのを知りつつ息子ジーンを生んだセルマは、その贖罪として自身の命を投げ出そうとしているようにも見える。しかし、相変わらずキャメラは怜悧な視線で彼女を客観的に捉えるばかりで、救い=和解の感情を些かも滲ませたりはしない。むしろ、母性愛でも自己犠牲でもなく、自己愛に陶酔しているかのようにセルマを描く。死刑執行の日。死の恐怖のなか、息子の名前を呼び、泣き叫ぶセルマ。現世での最期の歌を未来にとどかせようと悲痛な声で歌うセルマの歌声も途中で途絶える。公開執行を傍観するしかなかったセルマの友人たちの視線を遮断するように閉じるカーテン。あたかも、ブレヒトの芝居の幕が下りたかのようなラストシーンの構図と劇中劇を思わせる構成。突き放され、異化された観客の心に重い錨が沈んでいく。芸術至上主義的な純愛の極致が、はたして現実世界で可能だろうか?映画作家ラース・フォン・トリアーは、その問いと厳しく向かい会っている。
2007年11月23日
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世の中には、泣きたいから映画を観に、映画館まで足をはこぶ人が少なからずいるわけで、それはそれで否定するつもりはない。ただ、いい年をした大人はともかく、若い人が古き良き時代などといってノスタルジーに浸るのは、あまり健康的ではないのではなかろうか。どちらかというと退廃的ではないのか・・・。この作品を巡っては、お門違いな批評も見られるが、そう目くじらを立てるほどの物でもあるまい。そもそも、この作品から啓蒙的なテーマを生真面目に引き出し、論じようなどと思わないほうが良い。テーマを論じようとするから、「お金よりも大切な物があるじゃないか!」という茶川の台詞に青臭いだの、甘いだのと過剰な反応が起きたりもするのだが、山崎貴監督にその手の批評は届かないだろう。若い人は知るよしも無いが、大阪に吉本新喜劇や松竹新喜劇があるように、昔は東京にも、「デン助劇団」という浅草喜劇が存在していたのである。『続・三丁目の夕日』の舞台となった昭和34年からは毎週1回、10年の長きに渡って現在のテレビ朝日で、その舞台が生放送されていたのである。その舞台を大人も子供もテレビの前で噛り付くように観ては、泣いたり、笑ったりしていたのである。1時間程度の上演時間に笑いと涙を凝縮させ、しかも見事なまでの予定調和とハッピーエンド。もちろん、テーマが安直だとか、人物描写が不十分などという者など誰もいない。それはそうだろう。テレビの画面の中で繰り広げられている舞台は、歌舞伎や新派や新劇ではなく、大衆演劇なのだから。それでもケチをつける輩はいるにはいた。その当時の言葉で言い表わすなら「ハイカラ」な人々である。しかし、それは野暮である。なぜなら、「天ぷら屋」に入って、「トンカツ」を喰わせろといっているのに等しいからだ。無いものねだりである。この続編の中でも、成城からやって来たミカが、鈴木家のすき焼きを見て、「これはすき焼きじゃない!牛肉じゃなくて、豚肉じゃない!」と叫ぶ象徴的なひとコマがある。先ほど、山崎監督にはその手の批評は届かないだろうと書いたのは、この作品が、「デン助劇場」のドラマツルギーをなぞるように造られているからなのである。その時代には、その時代が要請するものがある。時代の雰囲気といってもいいし、大袈裟にいうなら時代精神というやつだ。高度成長期初頭の昭和は、平成の時代ほどには複雑ではなく、むしろ単純であったのだ。山崎監督は、『三丁目の夕日』を撮るにあたって、東京ではすたれてしまった大衆演劇の骨格を模倣することを選んだのである。泣かせどころになると、必ず流れる、あの耳にこびり付いて離れないメロディーは、大衆演劇のメロディーその物といえる。茶川は、ふたこと目には「純文学はな・・・」と口にはするが、実際この映画の中には純文学的要素はひとかけらも存在しない。それは、茶川が書いている文章がおよそ純文学とは程遠い通俗的な文章であることでも分かるだろう。最新のCG合成と手作りのミニチュアセット。そしてオープンセット。それらが作り出した空中楼閣に、蜃気楼を塗りたくったのが『三丁目の夕日』なのだ。もちろん、この映画が特筆すべき名作だとか傑作であると主張するつもりは無い。しかし、間違いなく愛らしい作品には仕上がっているのである。日本映画が元気だった頃に量産されたB級喜劇映画の手触りを感じさせてくれるのだ。老若男女で満員の映画館に湧き起こる笑いとすすり泣き。その熱気と吐息は、映画が大衆娯楽の王様だった頃の記憶を蘇らせてくれる。確かに、東宝ではなく、松竹が製作していたなら、より良質のホームドラマに仕上がっていたかもしれないし、(しかし、松竹では冒頭のゴジラシーンは観れないが)、亡き相米慎二監督なら子供たちの顔をもっと魅力的にキャメラに収めてみせただろうし、『愛を乞う人』の平山秀幸監督なら、カラーとモノクロを巧みに操ったかもしれない。都電だけではなく、トロリーバス(路面バス)も走らせて欲しかったし、劇中にインサートされた石原裕次郎の映画場面も悪くは無いが、映画の中で映画が流される手法がありふれた光景になってしまったいま、大衆演劇を劇中劇で流した方がよりこの作品らしさを演出できたのではないだろうか等など。こんな風に、欠点をあげようとすればキリが無いかも知れないが、惜しい・・・といわせるだけの魅力は十分溢れている。実際、『HERO』やら『象の背中』など、どうやっても魅力的な作品には仕上がるまい。そんな、『三丁目の夕日』と観客はどう付き合えばよいのか?その答えは、作中の人物が握っている。三浦友和演じるタクマ医師である。娘が好物だからと、土産に包んでもらった焼鳥を片手に家へと返る途中、彼は酔いつぶれて寝てしまう。空襲で失った、妻と娘の幽霊を見たタクマは、焼鳥が平らげられているのを見て、狸に化かされたのだと思い込む。この1作目の挿話が続編でも繰り返される。林の前で焼鳥を手に、狸を誘き出そうとするシーンである。失った物(過去)に注がれる郷愁と愛着。その視線は、観客の目線でもあるのだ。つまり、タクマが狸に化かされたいと懇願するのと同様、1作目に化かされた観客は、また化かされたいと映画館に足をはこぶ。だが、この続編では、タクマ医師はふたりに逢うことは出来ない。1作目で、茶川の漫画小説を読んで感動した淳之介と、淳之介の小説を読んで感動した子供たちと同じように、続編では茶川の書いた小説に鈴木オートはじめ、町内の大人たちが感動する。だが、茶川の小説も芥川賞の最終選考に残りはするものの、落選してしまう。前作では許されていた楽天性の喪失が、時代の変化を微かに予感させているのである。 〔了〕
2007年11月16日
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マンションの建築予定地を歩く役所広司の足元をアップで捉え、寂しそうに捨てられた地面の空き缶を拾うと、病院の診察室でのガン告知シーンへ繋ぐあたりの呼吸は、さすがに『HERO』の鈴木雅之監督のそれよりは、遥かに映画的な導入となってはいる。末期のガンで余命半年と宣告された48才の不動産会社部長藤山(役所広司)は、延命治療を拒否し、「死ぬまでは、生きていたい」と決意する。そして、喫茶店に呼び出した息子にその覚悟を明かす。まともな嗅覚の持ち主なら、この主人公のきざな台詞に臭さを感じてしまう。そもそも、その類の言葉は台詞で説明する次元の物では無いからだ。『HERO』でも、「命の重さ」という台詞が出てくるが、観る者の心にその重さは響かない。映画を観終わった客の心に、感動が余韻と共に湧いてきて、それを言葉にしたときに初めて、「テーマ」が浮かび上がってくるのであって、台詞で説明する物ではないからだ。「ガンで余命半年」 。そう聴くと、誰しもが黒澤明の『生きる』を思い浮かべるだろう。志村喬が演じる役所の市民課長が、その残された時間を公園の建設に傾ける、あの作品である。この『象の背中』でも、確かに自分が担当しているプロジェクトを成功させるために必死になっている主人公の姿は描かれているが、クリエーター、秋元康には「生きる」の焼き直しを撮るつもりはさらさら無い。むしろ、彼はパロディーを描こうとしているのだ。『生きる』の志村喬が、他人のために命を捧げようとしたのに対し、役所広司は、あくまでも自分自身に殉じようとする。役所広司は、志村喬と最も遠いところにいるのである。息子にガンを打ち明け、「死ぬまで生きていたいんだ」と語った後に、彼が誰を訪ねたかを見れば、それは明らかだろう。彼は愛人のもとへ向かったのだ。クリエーター、秋元康が織成す絵空事の始まりである。夜中に自室でアルバム写真を眺めている藤山は、記憶の中に生きている大切な人と直接会い、別れを告げようと思い立つ。何のことはない。ジュリアン・デュヴィヴィェの『舞踏会の手帖』である。降りしきる強い雨。高校時代の初恋の女性(手塚里見)がさす赤い傘を俯瞰で捉えたショットは、本来なら、その叙情的な視覚的効果を高めるはずであるのに、そのすぐ前の喫茶店の窓辺で交わされた二人の会話があまりにも平凡極まりない物であったために、その効果がまったく機能しない。30年以上も前の思い出を打ち明けられ、初恋の人だったと告白されただけでも、手塚里見は戸惑いを隠せないでいるのに、「私は、ガンなんです」と追い討ちをかけられても、途方に暮れるしかないだろう。その困惑は、監督井坂聡の困惑ぶりをも露呈させてしまっている。別れ際に赤い傘の手塚を振り返させ、「藤山君に逢えて嬉しかった」と言わせるのだが、監督自身がその台詞と喫茶店での平凡すぎる会話に確信を持てないがために、キャメラが曖昧に流されてしまっているのだ。その後、喧嘩別れした高校時代の野球部の友人や、藤山の会社が倒産に追い込んだ会社の元社長に会ったりするのだが、どれもこれもが今迄に、散々見たり聞いたりしたような平凡な逸話に過ぎず、『舞踏会の手帖』の焼き直しどころか、パロディーにも成りえていない。もちろん、同じ『舞踏会の手帖』をみずからの感性で見事に換骨奪胎させてみせたジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』の足元にも及ばない。「死ぬまでは、生きていたいんだ」という主人公の生き方は途方もなく女々しい。母の死後、亡き父の後妻に納まった愛人と父に対する反発と憎悪から家を飛び出し、絶縁状態にあった藤山が、兄のもとを訪れ遺産をせがむ。いまでは、亡き父と同じように自分も愛人を囲っているにもかかわらず、義母を許さず顔も見ないで帰ってしまう。優れた監督、脚本家なら、この挿話だけで見応えのある秀作を撮り上げてしまうだろう。しかし、この作品ほど徹頭徹尾、主人公の視点からだけ描かれ、相手側の心理が置き去りにされている映画も珍しい。「死ぬまでは、生きていたい」肺ガン患者、藤山は煙草をスパスパ吸いながらの余生を海辺に建つ豪華なホスピスで送ることにする。家族と共に生活するその場所へ愛人を来させ、見舞いに来た兄には自分の遺骨を愛人にも分けてやって欲しいと頼む。「死」が間近に迫り、藤山の顔は痩せ細り、目も窪み、くまも深くなる。衰弱しきった体を、波しぶきがたつ海辺のデッキチェアーに横たえる。そう、『ベニスに死す』のラストである。しかし、藤山は、穏やかで美しい奥さんと、優しいふたりの子どもに看取られベッドで息絶える。もし、この作品の主人公が、『ベニスに死す』での老作曲家(ダーク・ボガード)の醜い死のように、砂浜で遊ぶ子ども達や、妻に気付かれること無く、独り寂しい最後を迎えていたら、怖い作品になっていただろうに・・・・・・。 〔了〕
2007年11月10日
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木村拓哉と松たか子のキスシーンを背後から捉えたショットでエンディングを迎え、スクリーンにクレジットタイトルが流れ出す。邦画としては異様に長いそれを空虚な想いで眺めながら、この連中が映画を食い物にしているのかと静かな怒りがこみ上げる。なるほど、2時間10分もの尺が必要なわけである。彼らに等しく仕事を分配しなければならないのだから。斜陽産業の映画界とバブル崩壊後の不況で広告収入が激減したのテレビ業界との持たれ合い。つまり、『HERO』は談合映画というわけである。(まず、キムタク検事はそれにメスを入れるべきだろう)。しかし、出来損ないの作品を宣伝するために、木村拓哉がカンヌ映画祭に乗り込んだと聞くが、本当だろうか?悪い冗談ではあるまいか。テレビの『HERO』を一度も観たことはないが、もちろん、海外の映画関係者だってそうだろう。ということは、『HERO』は純粋に一作品として客観的な評価を下されるということだ。誰が何処へ行こうと自由だが、旅の恥はかき捨て的なカンヌ行脚は余りにもお粗末だ。いくら厚顔無恥だとはいえ、商才だけは長けているテレビ局が、この作品が世界に通用する商品かどうか判らぬはずはあるまい。ブランドに弱い日本人だから、カンヌという流通経路を経て日本に凱旋すれば、より興行収入を見込めると考えたのなら、日本の観客もずいぶんと見くびられた物である。才能のある監督の作品ならともかく、伸びたラーメンのような弛緩し切ったフィルムを2時間10分も見せられる観客はたまったもんじゃない。物語を進行させる上で、伏線的な役割を果たすのならともかく、見終わってから、あのシーンは何だったんだろう?と白けた気分で呟かざるを得ないダンスシーンをはじめとして、非映画的な細部が多すぎるのだ。この作品のモチーフとテーマを考えたら、その種の贅肉をそぎ落とし、せいぜい1時間45分に収めるべきだろう。そうすれば、少しは活劇性も生まれたであろうし、フィルムも引き締まった物になっていたはずだ。だが、飽きっぽい視聴者の顔色を伺うことに馴れ切った、テレビ局の人間はそうは考えない。1時間45分もの上映時間を、観客があくびを噛み殺すことなくスクリーンに瞳を凝らすためには、ギャグやら笑やらを随所、随所に振りまかなければと考える。要するにテレビにおけるCMの役割を負うことになるのである。皮肉にも、そうすることでフィルムの尺はさらに長くなり、2時間10分もの上映時間になってしまう。結局、映画は薄めすぎたカルピスのように平板な物になってしまったのだ。長髪で、スーツを着ない型破りな検事という設定も古色蒼然としていて、何の違和感も齟齬もきたさない。『HERO』をまったく観たこともない人間ですら、遥か以前から見知っていたような既視感すら覚えるのである。長髪でスーツを着ない検事ではなく、短く刈った髪を七三に分けリクルートスーツのような紺のスーツを着用している木村拓哉の検事姿の方が、よほど型破りに違いない。だが、そんなこは所属事務所が許すわけも無い。何しろ、特攻隊の映画でさえ、木村拓哉は長髪のままだったのだから。検察機構には抗えても、ジャニーズ事務所には抗えないということなのか。ありふれた傷害致死事件を木村拓哉が担当する。だが、容疑者は法廷の場で一転して無罪を主張する。しかも、彼の弁護人は無罪請負人と異名を持つ有名弁護士だった。何故、彼ほどの大物弁護士がありふれた傷害致死事件を担当するのか?実は、この事件の背後には、ある大物代議士の贈収賄事件が絡んでいたのだ。巨悪を追及するために、傷害致死事件を利用しようとする特捜部に対し、「命の重さ」を訴える木村拓哉はじめ、同僚検事たちは強い反発と憤りを覚え、真実を暴く決意を燃やす。ストーリーが通俗的だとか、テーマが紋切り型すぎる等と揶揄するつもりは毛頭ない。芸術性を論じるつもりもさらさら無い。あくまで娯楽作品としてのクオリーティーが低すぎるといっているのである。野次喜多道中のような韓国ロケと出張費の無駄としか思えない木村拓哉と松たか子のまぬけな聴き込み調査。タイミングを逸したためにインパクトを欠いたイ・ビョンホンの登場シーン。はっきり言って、韓国で撮影されたシーンは、「映画」として成立していない。脚本を形容する言葉は、安直、陳腐、凡庸、平板と事欠かないが、それにもまして演出の投げやりな手抜きぶりには眼を覆うしかない。寡聞にして、鈴木雅之監督という人物を知らないが、テレビの小さな画面と異なり、スクリーンの多きい画面がよほど嬉しいのか、或いは、観客の感受性を信用していないのか、やたらとキャメラを動かしすぎるのだ。おまけに、観客を飽きさせないために配されたギャグが活劇性をも殺してしまう。ヤマ場である法廷シーンで木村拓哉が、「この裁判は、命の重さを知るための裁判なんです!」と声高に力説するのだが、肝心の、婚約者を失った女性の悲しみが、脚本でもキャメラでも綴られていないため、説明的な台詞は虚しく空回りするばかりで、観る者の琴線に触れる物は何も無い。冗漫かつ散漫。厚みの無い人物描写。脚本の欠点がここでいっきょに露呈してしまう。サスペンスがまったく機能しないのだ。同じフジテレビ製作の映画『踊る大捜査線』の青島刑事なら、こう叫ぶだろう。「映画は、会議室で作るんじゃないっ!!現場で作るんだっ!!」 〔了〕
2007年11月07日
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何しろ、この作品におけるクリント・イーストウッドは、牧師(プリーチャー)という記号的な存在のままで自身の名前すら明かされはしないのだ。ひとり不可思議な位相にあるイーストウッドの存在を、さらに怪奇な位相へと変貌させる人物がスクリーンに現れる。鉱山主に雇われた保安官ストックバーンである。あの牧師を知っているか?と詰め寄る鉱山主に保安官はこう呟く。「別人だ・・・その男なら死んだ・・・」とその台詞と共にクリントイーストウッドの背中に刻まれた六発の弾痕が蘇える。生きているわけが無いと思いつつ、自分自身に言い聞かせるように呟く保安官の表情には、釈然としない陰鬱な翳が差している。因縁めいた二人の再会を待っていたかのように映画は不気味な様相を呈していく。亡霊映画のような雰囲気が、辺り一面に漂い始めるのだ。実際、『ペイルライダー』を『亡霊映画』だと断じてもあながち間違いではない。六発もの銃弾を浴びて死なない者などいようか?鉱山主一味が、最初にクリント・イーストウッドを目撃したシーンを思い起こしていただきたい。無謀にも一人で町に買い物に来たヘルが、鉱山主の手下たちに取り囲まれるシーンである。手下の一人が何気なく振り向いた視線の先に、白い馬に乗ったクリント・イーストウッドが映る。見慣れない男に曖昧な表情を浮かべて、ハルのほうに視線を戻す。そして次の瞬間、再び男のほうへ視線を向けると、もうそこにはイーストウッドの姿は無い。幽霊のように忽然と姿をくらましているのだ。大天使(神の化身)、牧師、ガンマンに加え、亡霊という位相を獲得したクリント・イーストウッドを視覚的に表現した場面がもうひとつある。汽車の到着シーンである。汽車が、それまでスクリーンに映っていた平原を覆い隠すように駅に停車し、駅員が車両と車両の連結部分を通して、汽車の向こう側にいる馬上のクリント・イーストウッドに気付く場面だ。駅員は、馬上の男をちらりと見やる。そして汽車が出発し、スクリーンに広大な平原が開けると、もうそこには、クリント・イーストウッドの姿が無いのだ。我々の心をサスペンスで揺らす、この思わせ振りなふたつのシーンは、「ペイルライダー」の視覚的メタファーそのものなのである。村人たちのため、悪漢どもに一人立ち向かうペイルライダー=クリント・イーストウッドは、『シェーン』のアラン・ラッドが代表する西部劇のヒーローや黒澤明の時代劇に見られるヒーロー、いやどんなヒーローとも似てはいない。なぜなら、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは、生身の人間ではないからだ。フィルムノワール的な黒い影に染まっていたクリント・イーストウッドが、やおら、『真昼の決闘』のような陽の光に自分を晒し、被っていた帽子を地面に置く。映画史上、最も静謐な決闘シーンの火蓋が切られるのである。ところで、映画監督クリント・イーストウッドと他の監督たちを隔てるものは何か?それは、別項でも指摘したが、恐るべき繊細さと息を飲むような大胆さが抗うことなく映画の中で同居している点にある。恐るべき繊細さだけなら、ヴィクトル・エリセの名前が浮かぶであろうし、息を飲むような大胆さなら、ベルナルド・ベルトルッチの名前をあげることも出来よう。しかし、このふたつを兼ねそなえた映画作家は極めて稀なのである。その稀有な才能は、ラストの決闘シーンでも遺憾無く発揮される。ペイルライダー=クリント・イーストウッドが単なるヒーローではなく、不可視な存在であることを「亡霊映画」を想起させる映画的なキャメラワークで説明して見せるのだ。保安官の部下が一人ずつ殺されていくとき、まるで必然のように不可視なペイルライダー=クリント・イーストウッドがそこにいるのだ。六人の部下たちは、ペイルライダー=クリントイーストウッドの姿を決して見ることは出来ない。それどころか、彼と対峙し闘うことさえ許されてはいないのだ。ただひたすら、見えない相手を捜し求め、眼にふれることも無く、クリント・イーストウッドにあっさりと殺されてしまうのだ。そうやって、一人また一人と殺されていく。家の壁に立てかけられた大きな板の背後から、あるいは古井戸の中から弾丸は発射されるが、我々もまた六人と同様ペイルライダー=クリント・イーストウッドを見ることは禁じられている。キャメラが、クリント・イーストウッドが推移する様をまったく映さないからだ。許されているのは、不気味で濃密な気配を感じることだけである。尋常でない静けさ。サスペンスで漲るで画面の充実。そこでの映画作家クリント・イーストウッドは、ヒーロー映画の常識、つまり善を代表する人物と悪を代表する人物が闘うさまをキャメラで映し、観る者のカタルシスを誘うような演出を施さない。むしろ、その常識から俯瞰した場合、ペイルライダー=クリント・イーストウッドは卑怯者とさえ言えるのだ。なにしろ、敵に姿を見せず騙まし討ちのようなやり方で相手を仕留めるのだから。それなのに観る者は、そのような感情を抱かないばかりか、緊張感の高まりを覚えるのは、クリント・イーストウッドの視線(主観キャメラ)から捉えられた絵が一切排除されているからだ。もし、主観キャメラで六人の敵を追い、そして不意討で相手を仕留める様子を見せられていたなら、我々の胸の内はまったく異なる感情に支配されていただろう。僕が、『ペイルライダー』は「亡霊映画」であると定義してみせたのは、映画監督クリント・イーストウッドが、ペイルライダー=クリント・イーストウッドを描く手法が「亡霊映画」におけるキャメラワークと酷似しているからなのだ。ラスト。ペイルライダー=クリントイーストウッドは、「亡霊」から「ガンマン」へと変身する。再びスクリーンに姿をあらわし、地面に置かれた帽子を頭に載せるプリーチャー。その気配に振り返る保安官。彼は唯一、クリント・イーストウッドに対峙する事を許された存在なのだ。銃に弾丸を込めながら悠然と保安官ににじり寄るガンマン、クリント・イーストウッド。驚愕の表情でクリント・イーストウッドを見つめる保安官の体に、彼は六発の弾丸を撃ち込む。彼が昔、六発の弾丸を打ち込まれたように。しかし、クリント・イーストウッドは保安官が「亡霊」となって蘇える資格を奪うかのように、保安官の額に7発目の弾丸を撃ち込むのである。 〔了〕
2007年11月05日
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どうもただ事ではない。クリント・イーストウッドの西部劇を観る者は、訝しげな表情でそう呟く。寡黙な画面には、それとは似つかわしくない饒舌な磁場が張り詰め、緊張で漲っているからだ。その気配の濃さが尋常ではないのである。『許されざる者』や『ミリオンダラー・ベイビー』を取り上げた際にも述べたが、クリント・イーストウッドの映画は難解である。物語の構造が単純であるにもかかわらず非常に語りにくいのだ。もちろん、そうした困難さを強いるのが、映画監督クリント・イーストウッドであるのは言うまでもない。だが、彼が困難さを強いるからといって、我々の想像力を根こそぎ奪ってしまう映像的ファシストでは決してない。むしろ、事情は正反対である。映像作家としての彼は、極めてリベラルで自由主義的な倫理の持ち主なのだ。なぜなら、彼の映画は作品自体が、何かの隠喩であったり、登場人物の存在が両義的であるばかりか、ときに多義的であったりするからだ。解釈は、観る者の想像力に委ねられているのである。その意味において、クリント・イーストウッドは稀にみるリベラルな映画作家であると言っているのだ。『ペイルライダー』には、よく比較される『シェーン』のような「悪」対「善」という単純で素朴で楽天的な図式が存在しない。アラン・ラッド演じる流れ者のガンマン、シェーンが、縁あって開拓移民のスターレット一家に厄介となる。卑劣で凶悪な牧畜業者に痛めつけられていた彼ら開拓移民たちに、シェーンは力を貸し、争いを収める。広大な山並みを湛えた風景の中を、馬に乗って去っていく後姿のシェーンに、少年が「シェーン!カンバーック!」と叫び、その声がこだまするあまりにも有名なシーンを持つ映画『シェーン』には、観る者の心を不安に揺らす要素はなにひとつ無い。アラン・ラッドが演じるシェーンは、スクリーンの画面に映し出されたそのままの、透明な人物であり、物語もそれ自身と等身大である。いささかも解釈を必要としないのだ。そこでは、物語に身をまかせ安心して感動できるという訳である。そういう意味で、『シェーン』と『ペイルライダー』は両極に位置する作品だといえよう。予定調和的な物語は、我々の想像力を抑圧するからだ。それに対して、クリント・イーストウッドは物語の衣装を纏うが、その衣装は借り物に過ぎない。実際には、彼が視覚化する映像には、「単純さ」と「過剰さ」という相反する表象が矛盾をきたさず存在してしまっているのだ。その抽象性が、クリント・イーストウッドの映画を難解な物としているのだ。どの映画の登場人物にも似ていないクリント・イーストウッドに対し、輪郭を欠いた言葉しか思い浮かばない我々は、鉛のような感動にたじろぎ、ただ「凄い」と呟くことしか出来ない。そもそも、『ペイルライダー』の中でイーストウッドが演じた「プリーチャー(牧師)」なる人間はいったい何者なのか?凄腕の孤独なガンマンなのか、プリーチャーなのか?保安官一味との対決の日の朝を迎え、牧師の証である真っ白なカラーを外したクリント・イーストウッドに、彼を慕う中年女性サラはこう訊ねる。「Who are you?」 「Who are you reary?」しかし、彼は言葉を濁して答えない。一方、サラの娘メイガンにとっては、プリーチャーは神秘的な存在として大天使のイメージと重ねあわされる。その象徴的なシーンが、鉱山主に雇われたならず者達に愛犬を虐殺されたメイガンが犬の墓前で奇跡を祈る場面だ。その象徴性と神秘性を醸し出すために、映画監督クリント・イーストウッドは、凡庸な監督には到底及びもつかない驚くべき繊細なキャメラワークを施す。メイガンが復讐を誓い、主に御加護(奇跡)を請うシーンから画面いっぱいに広がる山並みにショットが切り替わり、また次のショットで、メイガンが祈りを捧げる姿を再び映す。そうしたカットバックが数回繰り返されると、キャメラは、広大な山々を背景に従え、白馬にまたがったクリント・イーストウッドの姿を雷鳴と共に忽然と映し出す。祈りを捧げるメイガン。馬に乗り何処へと向かうイーストウッド。その二つのシーンをカットバックで交互に捉えたあとに、ふたりのショットがひとつの画面で融合し重なり合う。我々は、その「絵の繋がり」を見せられることで、クリント・イーストウッドに帯びた神秘性を視覚的に納得させられるのである。だからといって、我々は彼を神の化身として素直に受け入れるほど楽天的ではない。厄介なのは、プリーチャー(クリント・イーストウッド)の背中に惨たらしく刻まれている六発の弾痕である。その傷跡はプリーチャーのイメージとはあまりにもかけ離れているからだ。はたして、クリント・イーストウッドは、プリーチャーなのか?ガンマンなのか?それともそのどちらでもあるのか?その謎が宙吊り状態のまま物語は進捗し、謎はさらに深まる。何しろ、この作品におけるクリント・イーストウッドは、牧師(プリーチャー)という記号的な存在のままで自身の名前すら明かされはしないのだ。
2007年10月23日
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総合芸術と呼ばれることもある映画(絵画、写真、演劇、文学、音楽)を批評する方法を大別すると三つに分けられます。(1)物語=脚本=文学を論じる方法(2)映画のテーマ及び思想を論じる方法実は、ほとんどの批評は、その二つの枠組みに収まってしまうんです。(1)では、物語(あらすじ)、台詞、演技などを通して、もっぱら登場人物、特に主要人物の人間関係や内面を掘り下げるために批評的言葉が費やされます。そして物語が平板であるとか、人間が描ききれていないであるとか、台詞に厚みが無いであるとか、演技が稚拙であるなどといった表現が選ばれます。また、高い評価を下す場合は、その反対方向の語彙が選ばれるという訳です。たとえば、脚本が丹念に書き込まれているですとか、人物描写が優れている・・・などなど。つまり、映画作品の良し悪しを判断する要素として、文学の占める比重が非常に高いのです。そうすると、ちょっとした逆立ち現象が生じます。なぜなら、脚本が良ければ、誰が監督をしようが作品の出来は同じであるという事になってしまうのです。しかし、そんなことはありえないのです。たとえば、脚本のト書きにこう書かれていたとします。馬に乗った一団が、砂煙を巻き上げながら、大地を突進してくる。ある監督は、その突進してくる一団を俯瞰ショットで撮るかもしれませんし、また別の監督は、真正面にキャメラを据え、次のカットで真横から捉えるかもしれません。さらに言えば、ロングショットで収める監督もいるでしょうし、ミディアムショットで撮る監督もいることでしょう。カットとカットの繋ぎ方まで含めると監督によって、それこそ百人百様です。しかし、脚本(文学)を中心に論じようとすると、どの監督の作品もみな一様になってしまいます。同じ脚本で撮っているわけですからね。そうなると、監督による視覚的差異がきれいに零れ落ちてしまいます。しかし、その差異にこそ、実は映画の「本質」が在るんです。(2)のテーマや思想を論じる方法は、こういうことです。判りやすいので、戦争映画を例にあげてみます。すると、予定調和的に「反戦映画か、否か」という図式的なイデオロギーが浮かび上がってきます。徹底した反戦思想の持ち主なら、反戦思想が鮮明な映画ほど高い評価を下したくなります。あるいは、「俺は、君のためにこそ死にに行く」ことこそが、美しい国家の有り様だと思っている人には、反戦色一色の映画作品は、空想的で非現実的な作品として低い評価を与えたくなるでしょう。そこでは、映画と思想がすり替わってしまっています。映画は、思想を伝える「装置」というわけです。しかし、そのどちらの立場も誤りなのは明らかでしょう。だって、反戦映画にも映画として出来の悪い作品はありますし、好戦的な映画にだって出来のよい作品はあるんですから。(1)と(2)が教えてくれることは、そうした映画批評が、実は映画批評ではなく、文芸批評だという事実です。肝心の映画の「本質」がスッポリ抜け落ちているんです。では、「映画」を「映画」ならしめている本質とは何でしょう?引き算です。物語がなくても「映画」は存在できます。演劇がなくても「映画」は存在できます。音楽がなくても「映画」は存在できます。しかし、スクリーンに何も映っていないのでは、「映画」は存在できません。ですから、映画の「本質」は視覚的な構成要素、つまり絵画や写真の中に存在していることになります。ということは、(3)は、映画で最も重要で必要不可欠な、「視えている事象」を語るということになります。そこが、不可視な事象を語る文芸批評とは根本的に異なるところです。ただ、冒頭でも述べましたが、映画は総合芸術ですから、(1)や(2)を上手に語れれば、その批評はとても豊かな物になるのは言うまでもありません。でも、(3)を抜きにした映画批評は成り立たないのです。で、僕の流儀ですが、ほとんど(3)に偏っています。(1)と(2)を足し算して語れれば申し分ないのですが、その能力も根気もありません。正直言って面倒くさいのです(笑)ですから、それは、若い金比羅系さんに託したいと思います。僕の映画批評は、あらすじも無く不親切極まりない代物です。だから、「通信」を読んでくださる方は、僕にとっては奇特この上も無い人たちなのです。これはもちろん、感謝の言葉です。
2007年10月18日
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回顧編(1)1985年~1989年に引き続き、この5年間も中国、台湾、香港をはじめとしたアジア人監督の台頭が著しい期間でした。そしてアジア映画の水準が世界最高峰に在ることを誇示した年でもありました。 こうした気運の中で、日本の北野武監督が『ソナチネ』(1993年)で世界へと羽ばたくレールも敷かれていきました。頑張れ!アメリカ映画!!1990年1 『悲情城市』 ホウ・シャオシェン(※)2 『天国は待ってくれる』 エルンスト・ルビッチ 『霧の中の風景』 テオ・アンゲロプロス 『ホワイトハンター・ブラックハート』 クリント・イーストウッド 『冬冬の夏休み』 ホウ・シャオシェン(※) 『ニュー・シネマ・パラダイス』 ジュゼット・トルナトーレ 『サイドウォークストーリー』 チャールズ・レイ1991年1 『黄金の馬車』 ジャン・ルノワール2 『シェルタリングスカイ』 ベルナルド・ベルトルッチ 『コントラクト・キラー』 アキ・カウリスマキ 『髪結いの亭主』 パトリス・ルコント 『シザーハンズ』 ティム・バートン 『ミラーズ・クロッスイング』 ジョエル・コーエン1992年1 『人生は琴の弦のように』 チェン・カイコー(※)2 『ボンヌフの恋人』 レオス・カラックス 『ラヴィ・ド・ボエーム』 アキ・カウリスマキ 『欲望の翼』 ウォン・カーウァイ(※) 『ナイト・オン・ザ・プラネット』 ジム・ジャームッシュ 『裸のランチ』 デヴィッド・クローネンバーグ1993年1 『許されざる者』 クリント・イーストウッド2 『マルメロの陽光』 ビクトル・エリセ3 『こわれゆく女』 ジョン・カサベテス 『友だちのうちはどこ?』 アッバス・キアロスタミ(※) 『秋菊の物語』 チャン・イーモウ(※) 『オルランド』 サリー・ポッター1994年1 『戯夢人生』 ホウ・シャオシェン(※)2 『そして人生はつづく』 アッバス・キアロスタミ(※)3 『ゴダールの決別』 ジャン・リュック・ゴダール 『さらば、わが愛・覇王別姫』 チェン・カイコー(※) 『日の名残』 ジェームズ・アイボリー 『ギルバート・グレイプ』 ラッセ・ハルストレム 『トゥルー・ロマンス』 トニー・スコット1995年1 『エドワード・ヤンの恋愛時代』 エドワード・ヤン(※)2 『勝手に逃げろ人生』 ジャン・リュック・ゴダール3 『オリーブの林をぬけて』 アッバス・キアロスタミ(※)3 『恋する惑星』 ウォン・カーウァイ(※) 『エド・ウッド』 ティム・バートン 後記 : ※ は、アジア映画です。未見の方はご覧になってみてください。 眼から鱗の感覚を味わえます。
2007年10月11日
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