1

大学を卒業して就職せずすぐに渡米、ずっとフリーランスのライターとしてニューヨークのデザイナー周辺を取材してきた私は日本の役所や役人とは全く無縁、仕事で顔を合わすことはありませんでした。米国商務省の「BUY AMERICAN」(米国製品を世界に売り込む事業)のお手伝いをしていた関係で米国商務省繊維部門マネージャーと数回面談したことはありましたが。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立に奔走、その事務局責任者になった直後に当時婦人服専門店チェーン最大手鈴屋の鈴木義雄社長の紹介でCFD事務局を訪ねてきた通商産業省繊維製品課渡辺光男課長(みつおの字が間違っているかもしれません)が初めて出会った中央官庁官僚。課長の要請でファッション関係の検討委員会に参加、そこから繊維製品課長やその上司である生活産業局長と面談するようになりました。ファッション繊維業界各団体の責任者らが名を連ねる検討委員会に初参加したとき、弱冠32歳でなおかつ帰国したばかりで日本の業界事情をよく知らない私が発言を許されたのは会議の最後の最後。それまでほかの委員の面白くもなんともない発言に疑問を感じながら、私は2時間じっと我慢して拝聴するしかありません。会議後渡辺課長に直談判、「発言の順番は年齢順なのでしょうか」と。委員会の構成メンバーに30代はおろか40代も見当たらず、ほとんどが50代後半か60代の協会理事長や組合長さんばかり、若輩者は最後の最後というのがどうにも我慢できません。座長が指名する順番ではなく、年齢に関係なく挙手制にしてもらえませんか、と生意気なことを申し上げました。そして次回からは挙手制、私にも早く順番が回ってくるようになりました。その次の次の課長が林康夫さん、のちに中小企業庁長官やJETRO理事長をされた方です。林課長はよくCFD事務局に足を運び、真摯に意見を聞いてくれました。CFDは役所の認可団体でもないみなし法人でしたが、どういうわけか何度も面談、「局長がデザイナー側の声をヒアリングする機会を設けましょう」と岡松壮三郎局長(のちの通商産業審議官、タフネゴシエイターとして日米構造協議で米国側と渡り合ったことで有名)とデザイナーの意見交換会までセットしてくれました。以来いまも年賀状のやり取りをさせてもらっています。林康夫さんCFDとほぼ同時期に東京商工会議所主導で設立された東京ファッション協会事務局メンバーから「通産省課長がわざわざ訪ねていくなんて考えられない。我々は役所に出向く、あんたたちは特別扱いなんだよ」とよくからかわれたものです。この頃繊維製品課は直近の「繊維ビジョン」(わが国繊維産業の方向性を策定した白書のようなもの)に盛られた「ワールド・ファッション・フェア」という大型イベント開催と「ファッション・コミュニティー・センター」という発信拠点を全国に建設する事業の具体化を進めていました。このとき大型イベントや拠点建設よりも人材育成を最優先すべきと私は発言、その流れでCFD事務局でボランティアの塾「月曜会」をスタートすることになったのです。月曜会の様子を見に来てくれた同課員らに当時区役所移転を計画していた墨田区商工部長を紹介され、私は「立派な仏壇を建設するよりもどんな仏様をそこに入れるかが重要でしょ、人材育成を柱にした施設を墨田区につくりませんか」と進言。そして墨田区にファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長だった松尾武幸さんを座長に議論開始、まとまったところで松屋の山中会長に理事長をお願いしてさらに議論を重ねました。言い出した自分が座長にならなかったのは、年齢が若過ぎるから。年功序列社会で若輩が座長では角が立つ、ここは恩師でもある松尾さんにお願いすれば丸く収まると墨田区部長に推薦しました。松尾さんとコルクルーム代表安達市三さんと三人で頻繁に集まり、カリキュラムの構想を練りました。しかし、不思議なことに墨田区戦略会議は解散、議論は通産省繊維製品課に移されて議論再開。このとき墨田区戦略会議メンバーで委員継続を頼まれたのは私一人、区役所レベルの案を国は採用しないという意思表示なんだろうと委員一同受け止めました。そこで、林課長の次の繊維製品課長に面会を申し込み、墨田区が考えた理事長案は却下しないで欲しい、でなければ自分は委員を引き受けないと長時間交渉、山中さんは理事長含みで委員になりました。理事長就任の際「俺のハシゴを外すなよ」と言われ、山中理事長が亡くなるまで私はフルに新設IFIビジネススクールで指導に当たりました。IFIビジネススクール夜間コース終了式、前列中央が山中理事長その後しばらくの間私は役所と完全に無縁に。民間企業2社を掛け持ちで超多忙、ビジネススクールの指導も難しくなり、誰が繊維製品課長や生活産業局長に就任したのか全く興味ありませんでした。それから4年後、ビジネススクール立ち上げでお世話になった業界人から社内中堅幹部研修の講師を頼まれ、そこでもう一人の講師だった繊維課(それまでの繊維製品課)山本健介課長と名刺交換、気がつけば山本さんに乗せられて中小繊維事業者自立支援事業の面接官や内閣官房のコンテンツ事業戦略会議(のちのクールジャパン事業)委員に。山本さんの「お手間取れせませんから」は真っ赤なウソ、目が痛くなるほど大量の申請書類を読むことになり、長時間事業者の面接に立ち会い、最後はコンテンツ会議で4年も委員をすることになりました。これがのちに官民投資ファンド株式会社クールジャパン機構に繋がります。ちょうどコンテンツ戦略会議の議論に加わった頃、繊維課長に宗像直子さんが就任、さっそく会食に誘われました。内閣官房コンテンツ戦略会議でどんな議論をしているのか、そして繊維課に期待することは何かのヒアリング。このとき数多い繊維関連の協会、団体の集約とCFDが担ってきた東京コレクションへの支援の話をしました。宗像さんはすぐに東京コレクションへの支援と新しい受け皿の設立に奔走、日本ファッションウイーク推進機構(馬場彰理事長・オンワード樫山会長)がスタート。この時点で私はCFDに代わる新たなファッションウイークには全くノータッチ、完全な部外者でした。宗像直子さん私がCFDで10年、後任議長久田直子さんの下でも10年CFD自主運営東京コレクションは続きましたが、資金的にそろそろ国の補助や大手企業の援助がなければコレクション運営は継続できそうにない状況でした。宗像さんの尽力で新たな組織が2005年に生まれ、東京コレクションは官民事業のファッションウイーク推進機構が主催者として運営するようになったのです。宗像さんのアパレルやテキスタイル業界への根回しがあったからこそ今日のRakuten Fashion Week Tokyoがあります。現在はRakuten Fashion Week Tokyoに FETICO@Rakuten Fashion Week Tokyo国が主導する事業ですから特定団体や特定のデザイナーだけを支援するわけにはいきません。CFD側からは会員デザイナーを優遇して欲しいという要望がありましたが、国の予算(当初3年間は国から補助金が出る約束)である以上CFD会員デザイナーだけ支援するわけにはいかない。結構ゴタゴタしました。ファッションウイーク推進機構実行委員長だったTSI会長三宅正彦さんから頼まれ、私は2006年10月第3回からコレクション担当理事を引き受け、再び東京コレクションに協力することになったのです。デザイナー有志と共に1985年に立ち上げた東京コレクション、これを新組織で大手アパレルの会長たちが一生懸命世話している様を見て自分が部外者のままでは申し訳ない、それが三宅さんの要請を引き受けた理由です。当然報酬ゼロ、推進機構会費は自腹、こうして18年間ファッションウイークをお手伝いし、若手デザイナー育成に力を注いできました。2011年私が松屋に復帰した直後に東北大震災、原発事故で電力不足、銀座の街は夜真っ暗に。このとき銀座の競合店三越銀座と共に銀座を元気にするファッションイベントを仕掛け、両店共同の銀座ファッションウイーク、そして歩行者天国での屋外ファッションイベントGINZA RUNWAYを企画。でも初の歩行者天国でのファッションショーは警視庁からなかなか許可が下りません。このとき警視庁に何度も掛け合ってくれ、最後は経済産業大臣の協力を引き出してくれたのが経産省に新設された生活文化創造産業課(クールジャパン)の渡辺哲也課長。松屋の販促課長と共に渡辺さんは警視庁に出向き、六法全書を見せながら「どこに歩行者天国でイベントをやってはいけないと書いてあるんですか」と交渉してくれ、それでも許可が下りないとなると経産大臣に相談して警視庁の許可を取り付けてくれました。渡辺哲也さん震災から1年後の2012年3月渡辺課長と課員たちの協力で歩行者天国初のファッションショーを開催。私は課長の計らいで経産大臣に会い「被災地のちびっ子と一緒に大臣もモデルとして参加しませんか」と申し上げ、フィナーレに東北被災地のちびっ子と大臣が手を繋いでランウェイを歩くショーが実現。その日の夕方全テレビ局がニュースで取り上げ、翌日全ての全国紙とジャパンタイムズが写真付きで1面掲載、大きな話題になりました。私自身もたくさん取材され、このことがのちの官民ファンド社長就任に関係します。歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYコンテンツ事業戦略会議の一員として4年間議論した政策は民主党政権下でも議論が継続され、自民党に政権交代した2013年国会でクールジャパン戦略を推進するため官民ファンド設立が可決されました。そのときは委員でもなんでもないので国会で新会社設立が決定とは全く知りませんでした。そして8月米国西海岸市場視察に出かけたちょうどその日、経産省商務情報政策局富田健介局長らが松屋の秋田正樹社長を訪ね、新設するクールジャパン機構社長に私を指名したいとびっくり仰天の話があったのです。富田局長は私をお役所の委員に引き摺り込んだ山本健介さんの同期、何人かの社長候補者に断られたのかもしれません、私は最後の頼みの綱だったのでしょう。松屋に復帰して楽しく仕事をしている上に投資の世界には全く興味なく、正直「なんで俺なの」でした。秋田社長は総理大臣の安倍さんとは祖父、父と三代続きの深い関係、秋田社長に頼みやすかったのかな。帰国して秋田社長と相談、会社として正式に引き受けることになりました。クールジャパン機構開所式のミナペルホネン2013年11月に発足したクールジャパン機構(正式には株式会社海外需要開拓支援機構)には経産省と財務省からそれぞれ数名出向、社長の私を補佐してくれました。5年間社長を務めましたが、任期の最後に経産省から出向してきた若い役人がユニークな熱血漢でした。ある事件があってその解決を先輩から引き継いだ新任はある日突然坊主頭で出社、どうしたのと訊ねたら「先方に誠意を見せるため頭丸めて交渉に行きました」。着任する前の事件、彼に責任はありませんが、自らの判断で坊主頭になって当事者を訪ねたのです。なかなかできることではありません。私が正式に社長退任を発表した夜、私は彼だけ連れて食事に出かけました。部下を坊主頭にさせてしまった上司として最後に美味しいものをご馳走せねばと思ったから。赤坂の寿司店から西麻布の居酒屋をハシゴ、たまたま2軒目に居合わせた前ヨウジヤマモト社長大塚昌平さんらと一緒にかなり盃が進みました。その佐伯徳彦さんは西海岸での勤務も経験し、今回の人事異動でなんとクールジャパン戦略及びファッション政策を所管する課長に就任。この熱血漢には課長在任中にクールジャパン関連事業が世界市場でしっかり旗を立てられるよう頑張って欲しいです。佐伯徳彦さんフリーランスで役所や役人には無縁だった私でしたが、気がつけば熱い官僚たちと共にファッションでもクールジャパンでも仕事する立場になっていました。クリエーションが重要な柔らか産業に従事しているのに不思議なもんです。
2024.07.09
閲覧総数 12069
2

昨日まで6泊7日で中国の上海、杭州、寧波の3都市それぞれ2泊ずつの旅から戻りました。杭州で中国ファッション業界人向けセミナー、寧波で最大手企業の社員研修をさせてもらいました。中国は歴史長いし、人口は多い、領土は広いので毎回たくさんの学びがありますが、今回もいろんなことを勉強、驚いたことがたくさんありました。一番の驚きは中国における蒋介石の扱いです。第二次大戦後、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党は激しい覇権争いを演じ、劣勢になった蒋介石とその支持者は中国のお宝をたくさん携えて台湾に移住(台北の故宮博物館と北京のそれとでは展示物の希少性で大きな開きがあり、台湾は素晴らしいお宝を多数展示しています)、以来中国と台湾の対立関係は続き、米国ニクソン大統領の電撃訪中で台湾は国連安保理国の権利を取り消され、世界の表舞台から消えました。中国共産党の方針として将来台湾を統合する計画だそうですが、台湾と中国政府の関係は年々微妙になり、いまにも台湾海峡を中国が進軍するのではないかとも噂され、緊張が高まっています。そんな中、私にはちょっと信じられない光景を寧波市郊外の観光地で目にしました。簡単に言えば蒋介石の復権です。蒋介石旧邸宅関連施設の案内図「蒋氏故居」は蒋介石が台湾に渡るまで暮らしたお屋敷旧邸宅エントランスの表示蒋介石一家の施設を示す道案内蒋氏経営の塩販売の店舗毛複梅夫人が日本の空爆で亡くなった場所毛福梅夫人を祀るお寺毛福梅夫人のお墓蒋介石は浙江省寧波市出身、彼の生家(塩問屋を営み、裕福な家庭だった)、居住していた屋敷、日本軍の空爆で亡くなった最初の夫人のお墓や菩提寺、貴重な文献や写真展示場などがあり、セミナー主催者が息抜きに連れて行ってくれました。最初蒋介石の旧邸宅一帯が観光名所と言われたとき、台湾と中国の昨今の情勢からピンときませんでした。炎天下でも多くの中国人がここを訪れていたのには驚きました。世界大戦後、毛沢東らに敗れ台湾に逃げた蒋介石の名が中国で普通に語られる、中国共産党もそれを許している、明らかに中国における復権と言ってもいいでしょう。文化大革命時代はこんなことは許されなかったようですが、現在は蒋介石の再評価が進み、現在の台湾と中国政府の緊張関係からは想像できない構図がここにはありました。両巨頭の歴史的ツーショット1939年、蒋介石の邸宅を狙って日本軍は空爆、毛福梅夫人は屋敷の外に逃げようとして倒れてきた壁の下敷きになって死亡した、と。日本人のひとりとしてなんとも複雑な思いでその解説を伺いました。のちに蒋介石は浙江財閥の大金持ち宋家三姉妹の三女宋美齢(次女は孫文の夫人、宋慶齢)と再婚、一族の資金的バックアップがあったと聞いています。そして蒋介石は中国進出する日本軍に抵抗、宿敵中国共産党の毛沢東と手を組むいわゆる「国共合作」で共産党と共に日本軍と戦いました。そのときの貴重な写真も古いギャラリーに掲示されていましたが、中国共産党の英雄毛沢東とライバル蒋介石のツーショットが中国出張で見ることができるとは全く想像できませんでした。こんな関係の時期もありました現在の台湾は蒋介石の流れを組む国民党がどちらかと言うと中国共産党寄りの政策、一方政権与党の民進党は中国と距離を置く政策を掲げています。このことと蒋介石一家の邸宅を公開して観光地にしていることとは少なからず関係があるのかもしれません。私たち日本人はついつい台湾が中国共産党政権と敵対しているように感じますが、どうやら両国の関係はそう単純ではなさそうです。歴史5千年の中国は奥が深い。
2024.07.26
閲覧総数 9298
3

金曜日の夜、元部下だったNさんの退職送別会があり、70人余が集まりました。送別会と言うよりはむしろ結婚式の二次会のノリ、販売員のほかにパタンナー、人事担当、ブランド営業など本社スタッフやこの送別会のためにわざわざ大阪からやってきた社員、海外出張からトランクさげて空港から直行した幹部などと賑やかな会でした。送別会参加者全員集合Nさんは2009年入社の新卒、当時社長だった私が採用した人です。色気のない男の子みたいなルックス、社長の私に友達感覚で話しかけてくるおかしな子だったのでよく覚えています。最近はわが職場から歩いて数分の場所にあるショップの店長、たまに彼女らと飲みに行きました。ある晩ご飯を食べていたら「会社辞めようかと思っています」とポツリ。転職先は決まっているのか訊いたら、これから職探しすると言う。ここまで頑張ってきたんだから再考してはと言いましたが、一度切れた心の糸は修復できませんでした。2009年入社組、後列中央が主役のNさん彼女と同期2009年採用のT店長からお別れの寄せ書きメッセージを私は求められ、そのメールには送別会の日時と場所、会費情報が書いてありました。Nさんへのお別れメッセージを返信したので送別会出席と考えてくれるだろうと思っていましたが、私は欠席と判断されていたようです。会場に着いたらかなりの大人数、来ないだろうと思っていた元社長が現れたのでちょっとした騒ぎに。でも大半は私が知らない若者たち、名前がわかる社員は10数人のみでした。私の退任後に入社した若手社員にとっては「このおっさん、何者?」だったでしょうね。仲間言葉に涙を流す主役先日もSさんが退職したばかり。入社2年後に私が新店長に抜擢した彼女は出産、子育てしながら仕事を続けたベテラン社員、後輩のNさんと同じショップで彼女をサポートしてきました。が、お子さんの中学受験が終わって勤務形態の変更を申し出たところ、会社規定の前に継続を断念せざるを得なくなり退職してしまいました。Sさんは最後に「もう一度就職するなら同じ会社を選びます」と仲間に挨拶したそうですから会社愛が強い社員でした。しかしそんなS先輩が退職の道しかなかったこともN店長の心にぽっかり穴があいた要因かもしれません。勿体ないです。社長時代私は販売員の業務改革と処遇改善に力を入れました。店長自ら売らなくていい、売りすぎる店長は不要と教えてきました。販売業務は若手販売員に、店長はスタッフが仲良く元気に働けるようショップのマネジメントが役割、そしてバイヤーとして意図のある発注、これが店長の仕事。優秀な店長あるいは店長補佐には本社勤務を打診、本人が嫌と言わなければ本社総合職であるブランドMDや販促担当に多数抜擢しました。つまり総合職、販売職と分ける必要があるのかという考えでした。多くの社員にマーチャンダイジングの基本と大胆な発注方法を教え、販売職の待遇改善を推進しました。販売員は簡単に育つものではなく、会社が時間をかけて育成すべきなのです。意図のある発注と綿密な販売計画を立てることができる販売員はマーチャンダイジングを修得したプロ、会社にとって貴重な戦力です。簡単に退職されては困ります。結婚、出産、子育てをしながら仕事続けてくれる女性社員が働きやすい環境を整える、企業としてとても重要でしょう。金曜日の70人もの仲間が駆けつける大きな送別会の場にいてつくづく思いました。先日のSさんといい今回のNさんといい、新卒採用からずっと経験を積んきた会社愛の強いスタッフは退職する以外に道はなかったのか、と。まして自分が「面白い人物」と思って採用した人たちが退職していくのは悲しいです。最後に主役がご挨拶現在のマネジメントは私の元部下たち、販売重視政策を貫いてきた私のやり方を肌で感じているはず。しかも販売職から役員に4人も大抜擢している経営陣、素晴らしい会社になったと思います。だからこそ優秀な販売員は定年退職まで安心して働けるような仕組みを作り上げて欲しい。新卒予定の学生さんに向けた会社説明会では10年間毎年言い続けました。「創業者にもしものことがあってもびくともしない会社」と。びくともしない会社にするため問題点の改革をいくつも進めました。プロパー消化率の改善、半端ない数値を維持できるようになりました。在庫をため込まない、旧在庫は全部処分、とにかく在庫を積まない会社にしました。海外は卸売中心から小売業中心に事業転換、代金を払う気のない小売店との取引を止めました。国内は脱百貨店(全ショップ自社販売員が販売)、百貨店に主導権のある取引を是正。雑貨構成比率を上げる、爆発的なヒット商品が軌道に乗りました。これらの改善策を進めることができ、私は安心して退任しました。おそらく一般社員は業務改革の詳細は知らないでしょうが。販売重視策は定着しるはずなので送別会に参加してちょっと複雑な思いでした。これ以上退職連鎖が続かないことを期待しています。<追記>送別会のことをSNSに3本アップしたら、なんといずれも過去最高の閲覧数トップ3。彼女の仲間がアクセスしてくれたんでしょうが、それだけみんなに人気があった社員だったということだと思います。こういう人が退職ってのはほんとに勿体ないなあ。
2026.04.12
閲覧総数 964
4

これまで多くの方々からお子さんの進路相談、とりわけ留学相談を受けてきました。一番記憶に残っているのは突然訪ねてこられたご近所Kさんの奥様。大学受験勉強をしていた高校3年生の娘さんが総合大学ではなくデザインの勉強をしたいと受験目前に言い出したので相談でした。ご自身は若い頃保守的な親の論理で好きな勉強をさせてもらえなかった、娘の希望はなんとか叶えてやりたい、できれば最高の教育機関で学ぶ機会を与えてやりたいというお話でした。デザインの総合大学パーソンズ相談を受けたちょうどそのタイミング、私はニューヨークのデザイン総合大学パーソンズ・スクール・オブ・デザイン名物ファッションデザイン学部長をセミナー講師に招聘していたので親子に引き合わせました。多くの米国デザイナーのメンターであるフランク・リゾーさんと都内で面会したら、親子はパーソンズを目指して当時金沢市にあったパーソンズ分校の基礎課程を選択、そのあと娘さんは渡米してパーソンズ本校に入学しました。私の隣が当時学部長フランク・リゾーさん彼女が在学中K夫人は娘さんを訪ねて何度も渡米、あまりの宿題の多さにびっくりされていました。フランク・リゾー式教育は「美しく描け」ではなく「たくさん描け」、一つのコンセプトを膨らませて大量のデザイン画を描くことで構成力、創造力が身に付くという教育方針、母親がびっくりするくらい大量の宿題を連日抱えていました。ハードな宿題、体調のこともあって途中何度も卒業を諦めかけた(パーソンズは卒業できずに転身する若者が多い)ものの最後まで頑張り、娘さんは卒業して有名米国ブランドのアトリエに就職。その後米国人と結婚、出産したので日本には戻ってきません。最高の教育をとおっしゃるのでパーソンズを紹介しましたが、日本に戻ってこない状況がKさんには果たして良かったのかどうか。ファッションビジネスの総合大学F.I.T.お子さんの留学相談を受けるたび、ファッションビジネスやマーチャンダイジングを学びたいのであればF.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)を、デザイナーの道に進みたいということであればパーソンズ、あるいは(同じ英語圏だから)ロンドンのセントラル・セントマーチンズを勧めてきました。ベルギーにもイタリア、フランスにもデザイナー育成の優れた学校はありますが。マーケティングやマーチャンダイジング、あるいは工場経営などを体系的に学ぶにはなんと言ってもF.I.T.が講師、カリキュラムとも一番充実しているでしょう。あれはI.F.I.ビジネススクール全日制2年間マスターコースの学生募集を始める直前でした。アトリエサブ田中三郎社長が「息子の留学のことで相談に乗ってくれませんか」とわがオフィスに。息子の康真くんは名古屋の南山大学4年生、ファッションの世界にも興味を持ち始めた頃でした。田中さんはニューヨークのF.I.T.かパーソンズかどちらかに留学させようとお考えだったのでしょう。息子さんに学ばせたい分野を伺って、私はいつものようにF.I.T.の方がいいでしょうと申し上げた上で、来春東京にも大学院のようなマーチャンダイジングを教えるビジネススクールを開校予定、F.I.T.留学ではなくI.F.I.ビジネススクール2年間マスターコースでも良いのかしれませんと説明しました。留学経験あるいはニューヨークで生活すること自体は人生のプラスアルファになるでしょうから、あとは親子で話し合ってみてはとアドバイス。半年後田中康真くんは東京のI.F.I.全日制1期生として私の前に現れました。なんと言っても1期生ですから我々指導する側は熱を入れて手厚く教え、放課後は何度も飲みに連れて行き、2年間濃密に付き合いました。卒業してユナイテッドアローズに就職、ものづくり部署で経験を積んでから独立して自分のブランドを立ち上げました。田中くん同様一般大学卒業寸前に突然「ファッションの道に進みたい」と言い出したのが留学経験もあるわが実弟の息子。弟から相談あったとき「I.F.I.で勉強させろ」。その頃I.F.I.全日制マスターコースは1年制に期間短縮されていましたが、ファッションビジネスの基礎を学ぶにはそれでも十分。甥っ子はI.F.I.のインターンシップカリキュラムで働かせてもらった会社に就職、現在も同じ会社で働いています。残念ながら採算面の問題からでしょうか、1998年から始まったI.F.I.全日制マスターコースは終了してしまいました。なので、業界関係者からお子さんの進路相談を受けるときは従来のようにビジネスなら F.I.T.へとアドバイスしています。かつてニューヨークに出張するたび、私はパーソンズのマーケティング担当主任ディーン・ステイドルさんに頼まれ、同校シニア(4年生)に特別講義をしておりました。たとえデザイナーであっても売り場を歩いて生きた情報をどのように集め、分析して次の商品企画にどう生かすかと話し、「そのことを私に教えてくれたのはパーソンズの夜間コース、私が学んだのはこの同じ教室です」と言いました。元WWD編集長J・ウィアーさん(中央)とD・ステイドルさんそして「米国ブランドのみならず、ヨーロッパに渡って現地ブランドで働く道もあるのではないか」と聴講生に勧めたら、のちにディーンさんが「あんたに影響されて優秀な学生はどんどん海外に行ってしまうじゃないか」と笑っていました。トム・フォード(パーソンズ卒業生)はヨーロッパに渡ってグッチで大成功したんですから、パーソンズの優秀生はもっと海外に修行に行くべきですよね。余談ですが、フランク・リゾーさん退任後の学部長ティム・ガムさん(米国TV番組「プロジェクトランウェイ」の教授)の勧めもあって、2001年度最優秀学生は米国トップデザイナーの誘いを振り切って私が当時社長だったジャパンブランドに就職しています。さすがに最優秀学生、彼女がデザインしたものは力強く、すぐに誰がデザインしたか判別できました。近年東京コレクションあるいはパリコレで頭角を現す若手デザイナーには日本のデザイン系学校を出て海外留学、インターンシップで現地メゾンで経験積んでからデビューする人が増えています。自国以外でいろんな経験を積むのは将来きっと役立つと思います。若者にはどんどん海外に飛び出して欲しいですね。
2025.08.12
閲覧総数 2388
5

これまでブランド路面店、百貨店やファッションビルでブランド衣服や雑貨のショッピングしていて「この接客はないだろ」と気分を害したことが何度もあります。ファッションビル内の人気ジャパンブランド、オフホワイトのハンドニットプルオーバーを試着しようとしたら「試着できません」と若い女性販売員に止められました。手編みだから試着で首まわりが伸びて緩くなるからなのか尋ねたら、ただ「規則です」としか答えない。このファッションビルの規則なの、それともあなたの会社の規則なのと尋ねても、ただ「規則です」。カチンときました。私は、購入するからとクレジットカードを販売員に渡し、その場で試着して鏡を見ました。ニットのシルエットは思ったよりも丸いシェープでちょっとブカブカ、鏡に映る自分の姿に納得いきませんでした。が、カード決済を約束したので購入。ほとんどこのニットを着ることはありませんでしたが、以来このブランドで買い物したことは一度もありません。愛用ブランドの地方店、ショップに入るやずっと若い男性販売員がピタリと私の後ろに張りつきました。白無地の普通のシャツを手に取った瞬間、「お客様、それは定番です」。愛用しているブランドですから「知ってるよ」と答えたいところですが、私は黙ってました。男性販売員はその後もずっと私の背後についてきて商品を手に取るたびにひと言解説、落ち着いてショッピングできないので何も買わずに店を出ました。販売員がブランドの社員なのか販売代行のスタッフなのか分かりませんが、買い物客と距離を取らずいちいち商品説明する接客スタイル、私的にはあり得ないです。ハンガーラックに少なく商品を並べるミラノブランド都内店では、ラックからコートを抜いて一点ずつディテールをチェックしたあとラックにハンガーを戻すと、後方にいた女性販売員がすぐにハンガーの間隔をキチンと正します。店頭を美しく守りたい気持ちはわかりますが、どれを試着しようか迷っている客のすぐ横でハンガーの間隔を正すのはあまりに几帳面というか失礼というか。クールな表情でこれをすぐ横でやられて興ざめでした。都内百貨店ラグジュアリー系バッグを集積したオープンスペース(ブランドごとに壁を立てない売り場。昔の用語では平場)ではこんなことが。百貨店女性社員にイタリア人気ブランドバッグの色違いの在庫を尋ねたら、彼女はストック場に消え、しばらくして別の販売員が色違いの商品を持って現れました。しかし私はこの色に満足できなかったので、今度は隣の棚にあったフランスブランドのバッグを手に取って別色の在庫を尋ねました。販売員は百貨店社員ではなくイタリアブランドから派遣された人だったのでしょう、露骨にイヤな顔されました。同じ売り場の競合フランスブランドのことを質問されても彼女は答えようがなかったんですね。ここでも何も買わず退散しました。複数の人気ブランド商品を集積する売り場には百貨店社員のほか各ブランド側から派遣された販売員が売り場に立っています。私が最初に声をかけた百貨店社員がずっと接客してくれたら私は気分を害することはなかったし、自社以外の商品ストックを尋ねられたイタリアブランドの販売員がイヤな顔することもなかったはず。百貨店がこの売り場形態で複数ブランド展開するのであれば、全て百貨店社員かアルバイトが対応すべきでしょう。一般のお客様には販売担当の仕組みが分かりませんから、接客トラブルのもとです。販売最前線のちょっとした振る舞いでお客様は心地よく買い物する気分にもなりますし、逆に嫌気がさして帰ってしまうこともあります。販売員はそれぞれのブランド創作者の化身、代弁者、とにかくお客様からブランドそのものが嫌われないよう注意を払って接客すべきです。良い店長が育ちました@最後の全国店長研修私は在職中「お客様の方を見て仕事しよう」、「お客様の目線で考えてみよう」、会社のスローガンとして「お客様本位の企業目指して」と何度も訴え続けました。自分がショッピングで嫌な気分になったことが自社の店頭で起きて欲しくないから。概して人気ブランドの販売員は新規のお客様から見ればなんとなく上から目線を感じさせがち、これはあってはならないことです。そのためにまず接客で心がけるべきはお客様との間の取り方。お客様が商品説明を求める前に一方的にグチャグチャ説明してはいけない。お客様が商品に手をかけたりハンガーを抜いたあと整理整頓するのはお客様がその場を離れたあと、決してすぐ横からハンガー間隔を正してはいけない。試着室から出てきたお客様になんでもかんでも「お似合いです」なんて心にもないこと言わない。なんとか売上を立てようと何度も何度も商品をお勧めしない。そしてもうひとつ大切なことは最初に接客に入った販売員が最後まで接客し続ける、ストック場やレジに走るのは接客しているスタッフではなく手の空いている別のスタッフがやるべき。「接客中のお客様の前から姿を消すな。販売はチームでやれ」とよく言ったものです。だから店頭のスタッフ個々の売上データを本社サイドは一切管理しない、賞与などの査定には使わない、査定はショップ全体の成績重視、チーム全体の評価を基準に査定する仕組みに変えました。こうすることで店長の仕事は自ら売ることではなく、チームワークをリードするマネジメント力評価に改善しました。もちろん最初は一部社員に反発もありましたが、お客様にちょっとでも失礼のない接客を推進するにはチームを査定する制度に変え、店長の仕事領域を明確にすることが不可欠です。NYセレクト店JEFFREYは間の取り方がうまかった訪日中国人経営者に視察を勧めている南青山CALL(ミナペルホネン)中国出張時にVMDをアドバイスしたブランドLovete以前にこのブログで触れたことありますが、全国店長研修で成績優秀ショップ店長パネル討論会でステージに上がった若い地方店店長は「何も特別なことをやっているわけではありません。社長に教わった通り仕事してます。私とサブはなるべく後方の仕事(ストック場や集合レジに走る)を、接客して売るのは主に若いスタッフがやってます」と発言。会場の後ろで討論会を聞いていた私は涙が出そうになりました。目指してきた店頭の姿がやっと実現したと嬉しくなりました。それから数年後私は百貨店に復帰、今度はお取引先(ファッション、雑貨、化粧品など)店長の希望者に向けてMDスクールを始めました。ここで人気ジャパンブランドの店長が言いました。「あの店(私が10年指導したブランド企業)はスタッフの動きがどこか違うと前から疑問だったんですが、やっとその理由がわかりました」、と。このときも嬉しかったですね。先日の中国杭州セミナーで日本でよくお買い物される女性経営者からお客様との間の取り方をお褒めいただきました。どうして店頭重視の経営をしてきたかを書きました。
2026.04.04
閲覧総数 389
6

前述ジャンポール・ゴルティエを発掘した中本佳男さんから伺ったたくさんの話の中で特に印象に残った1つにオンワード樫山創業者の樫山純三さんとのエピソードがあります。中本佳男さん樫山さんのパリ出張、駐在オフィスから中本所長と部下がシャルル・ド・ゴール空港に出迎えに行ったら、創業者は「君たちはそんなに暇なのかね」と。自分でタクシーを拾うので今後出迎えは無用とおっしゃった。さすがです。パリのオフィスに案内してお茶を出したら、今度は「君たちは普段からこんな良いお茶を飲んでいるのかね」。日系の海外駐在オフィスならどこも日持ちする日本土産のお茶、羊羹、煎餅、あるいは梅干し、昆布佃煮は在庫過多状態、土産の玉露は毎日使っても底をつくことはありません。でも、樫山さんは贅沢を戒めたのでしょう。 樫山純三さん樫山さんはオンワード牧場を創設、オーナーブリーダーとして競走馬を育てたことでも有名。単なる馬主ではなく、馬を生産し、牧場で育て、馬主としても登録する本気のホースマンでした。桜花賞、オークスを勝った牝馬や天皇賞、有馬記念を勝った牡馬など名馬も送り出し、フランスではダービー馬の馬主です。1972年持ち馬ハードツービートがフランスダービーを優勝したときだったか、それとも翌年凱旋門賞で3着になったときだったか。パリ郊外の競馬場で樫山さんが駐在員の小型車に乗り込んだところを目撃した記者団は、馬主は外の駐車場で大型リムジンに乗り換え戻ってくるから取材はそのときと考えました。ダービー馬の馬主が小型大衆車に乗って競馬場に来るとは誰も思いません。しかし、樫山さんはそのまま小型車で帰ってしまい、記者団は馬主インタビューできませんでした。1974年、樫山さんは姻戚関係でもない、役員に昇進したばかりの馬場彰さん(38歳)に社長をバトンタッチ、世間をアッと言わせます。そして、所有する自社の株式や不動産など私財(確か時価総額200億円以上だった)を提供、1977年人材育成のために樫山奨学財団を設立しました。また、番頭だった杉本一幸さん(代表取締役副社長)も3年後の1980年故郷の奈良県大淀町に杉本教育財団をつくり、町立杉本記念文化センターが奈良県の山奥に誕生しました。生家が貧しかった杉本さんは大学に進学できなかったので地元の子供たちのためにと増資でかなり膨らんだ自社の持株を処分、20億円を財団に提供しました。設立20年以上経過してから私は杉本さんに伺いましたが、さも当然のことをしたって表情に感動したことを覚えています。創業時から会社が急成長して持株が増えたとは言え、創業者も番頭さんもそれぞれ人を育てる社会貢献、誰にでもできることではありませんよね。さて、オンワード樫山がそもそもジャンポールゴルティエ事業を立ち上げた背景に触れます。樫山純三さんは中本さんに、「うちも大きな会社になったので、そろそろヨーロッパでビジネスを始めたい。SEHM(当時ヨーロッパで有数のメンズ見本市)に出展する」と指示を出しました。SEHMはそれなりにキャラクター性のあるメンズブランドを集積した見本市、当時海外では無名の日本企業が普通のビジネススーツを並べても話題になることはまずありません。そこで、中本さんは来場者にせめて会社の名前くらいは覚えてもらおうと、SEHMのブースでシャンパンのボトルを山積みしてバイヤーらに振る舞いました。シャンパンは来場者にたくさん飲んでもらえたものの予想通り注文はゼロ。帰国して厳しい結果を報告したら、樫山さんは「紳士服がダメなら次は婦人服でどうだ」。本業の紳士服でも難しいのに後発の婦人服ではもっと難しいと反論した中本さんに対し、「じゃあどうすれば婦人服で市場を開拓できるんだ」。フランス人の生活価値観を理解したフランスのデザイナーを起用する以外に方法はありませんと答えたら、樫山さんからフランスのデザイナー採用命令が出ました。パリに戻った中本さんはさっそく仲の良い現地ジャーナリストやスタイリストに若手デザイナー情報をもらい、30人以上の面接を行って起用デザイナーをほぼ決めていたところ、最後の最後に飛び込んできたのが20代半ばのジャンポール・ゴルティエでした。当時のパリはケンゾー風、クロードモンタナ風、ティエリーミュグレー風が蔓延、若手デザイナーはその影響を強く受けていました。しかし、最後に面接にきたゴルティエは誰にも似ていないデザインをプレゼン、中本さんは「これだ!」と閃きました。1977年、ゴルティエが企画したコレクションはサンジェルマン・デ・プレ教会の向かい側のお店で販売開始されました。このショップの真ん前にバス停留所があったのでショップ名は「バスストップ」、のちにオンワード樫山は複数の海外ブランドを集めたセレクトショップ「ヴィアバスストップ」を日本全国で展開したのはご存知の通りです。創業者が「海外市場でも売りたい」と漏らしたことから、パリ駐在所長が無名の若きデザイナーを発掘、本社も多額の資金援助をしたことでゴルティエは不動の世界的人気デザイナーに成長、オンワード樫山は各国の若手や新人デザイナーが支援を求めて集まる会社になりました。米国マーク・ジェイコブスも、パーソンズ・デザイン学校卒業後就職した会社はオンワード樫山USA社、ミラノのドルチェ&ガッバーナも創業期はオンワード樫山の多大なサポートを受けていますから、世界のファッションデザイン界への貢献度はかなり高いです。中本さん写真はミラノ在住ジュエリーデザイナー小川健一さんSNSより抜粋参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/樫山純三
2022.09.05
閲覧総数 340
7

前職官民ファンド社長に就任したとき、たくさんのメディアの取材を受けました。このとき所管官庁の経済産業省記者クラブ関係の記者さんたちよりも取材が多かったのは、それまで勤務していた松屋の広報を通じてのインタビュー。当時広報課長だった矢吹直子さん(現部長)の人脈で新聞の「顔」欄や会社発足当日のテレビニュースなど取材は目一杯でした。会社設立の準備に関わったお役人が「矢吹さんを広報担当にスカウトできませんか」と言うくらい彼女のネットワークで大きく取り上げてもらいましたが、松屋にとっても貴重な戦力、「スカウトは絶対にできない」とお役人には諦めてもらいました。ちょうどその頃、矢吹ネットワークで「マスコミ女子会」なるものが始まりました。新聞記者やブランド広報担当者など数人の女性たちと私が一緒にテーブルを囲む会。昨日久しぶりにその女子会が開催されました。幹事役の矢吹さんは夏風邪で直前キャンセル、もう一人の新聞記者は出張先から遅れて駆けつけるはずでしたが、夕刻神奈川県で発生した地震で新幹線がストップ、結局2時間も新幹線に閉じ込められて欠席となりました。須藤玲子さん松屋銀座8階NUNO今回初めてゲストに招いたのはテキスタイルデザイナー須藤玲子さん。松屋銀座7階「布」ショップでも長年お世話になっており、私にとっては毎日ファッション大賞選考委員会の仲間、今秋中国から来るアパレル経営者研修団に向けてセミナーをお願いしている方でもあります。会食の冒頭、須藤さんに「太田さん、素敵なシャツですね」と数年前に買って着古した綿シャツをほめていただきました。松屋5階に売り場がある「Re:made in tokyo japan」、縫製工場出身の若者たちが良質素材を使って他社より安く日本製アパレル商品を提供しようと立ち上げたファクトリー系ブランドです。たまたま以前私が社長をしていた会社の優秀なショップ店長だった女性が子育てを終えて社会復帰した会社がここなので目をかけています。私はスーツに合わせるシャツだけは全て個人的オーダーメイドですが、カジュアルシャツはこの日本製をうたうブランドのものを愛用しています。昨日の濃紺シャツはもう3年ほど経過しているので生地は少しくたびれ、色落ちしていますが、シャツの素材の良さを見抜くとはさすが専門家。テキスタイルデザインの第一人者からほめられたぞと元部下に報告せねば。女子会で話がはずむうち、須藤さんが意外な会社の名前をあげました。スポーツウエアのゴールドウィンには格別の思いがある、と。前職投資ファンドが出資している山形県の「スパイバー」を早くから取り上げ商品化している企業がゴールドウィンですが、須藤さんの思いの原点はなんと1964年東京オリンピック女子バレーボール金メダルの「東洋の魔女」(二チボー貝塚バレーボール部)。須藤さんは東洋の魔女に憧れ、中学生時代部活にバレーボール部を選んだとか。その東洋の魔女たちがオリンピックで着用していたのがゴールドウィン製造のユニホームでした。1964年東京オリンピック女子バレーボール決勝戦表彰式の東洋の魔女たち東洋の魔女の必殺技は回転レシーブ、相手からの強烈な攻撃をコートの上を転がりながら受け止めるんですが、化学繊維のユニホームだとコートとの摩擦で熱くなるためわざわざコットンを使用していたそうです。彼女たちが所属する会社ニチボー(現ユニチカ)は紡績会社、回転レシーブしても摩擦に耐えうる丈夫なコットン糸を製造するのはお手のものだったかもしれません。テキスタイルデザインの第一人者から東洋の魔女とゴールドウィンへの熱き思いを聞くとはちょっと意外でした。投資ファンドにはいろんな方が相談にいらっしゃいます。海外ビジネス展開を計画する日本企業もあれば、日本の生活文化産業やコンテンツ産業を自国で展開したいという海外の方もいらっしゃいます。お客様をお迎えする接客スペースだけは日本の優れものを並べようと、ロールカーテンやソファクッションなどは須藤さんデザインの意匠性のあるものでした。ニューヨークの近代美術館に永久保存されているテキスタイルデザイナーがデザインした布をさり気なく見せる、クールジャパン戦略を標榜する会社としてこれくらいは訴求せねばという思いでした。須藤玲子さんは桐生市を世界的なテキスタイル産地として広めた新井淳一さんの流れをくむデザイナー。1980年代初頭、世界の多くのファッションブランドが新井さんがつくるテキスタイルに関心を持ち、桐生をはじめ新潟の亀田、兵庫の西脇、愛知の一宮などを訪れて俄かに日本製生地ブームが起こりました。そして1984年、六本木AXIS地下にNUNOショップがオープン、ここに行けば全国の伝統的繊維産地の技術を組み合わせた独創的なテキスタイルをたくさん見れるようになりました。先駆者として道を拓かねばならなかった新井さんを表現するなら「動の人」、ちょっと余計なことを発言してファッションデザイナーたちとひと悶着あったとも聞いていますが、須藤さんは周囲の職人さんたちをうまくつなぎ合わせる「静の人」、ご自身のちょっとしたアイディアを彼らに伝え、これまでの技術を活かしながらありそうでなかったものを生み出すクリエイター。彼女が生み出すテキスタイルにはその優しい人柄がよく表れています。須藤玲子:Making NUNO Textile@丸亀市猪熊弦一郎美術館須藤さんは国内外でテキスタイル展覧会に参加していますが、私も昨年は金沢市の「ポケモンX工芸展ー美とわざの大発見ー」と丸亀市「須藤玲子:Making NUNO Textile」を見るために出かけました。特に後者の展覧会はものづくりのプロセスがよくわかり、見学者を感動させる内容でした。丸亀のあと今年は水戸芸術館現代ギャラリーでも開催されたので、彼女のデザインとものづくりを体感なさった方は大勢いるでしょう。私は昨秋から中国ファッションビジネスの経営者たちに何度もセミナーをさせてもらっています。今秋には別の経営者研修団が来日しますが、彼らに日本のテキスタイルデザインの話を聞いてもらおうと須藤さんに講師をお願いしました。日本の布づくりは歴史ある伝統産業ですが、それをベースにいかに現代的なテキスタイルを生み出すか、ファッションデザインにおいてテキスタイルがいかに重要かを中国の経営者たちに伝え、中国製テキスタイルのアップグレードに役立ててもらうのが狙いです。先日杭州でミナペルホネン皆川明さんのものづくり話に感動した中国の人々、皆川さんと須藤さんはどこか似た世界観がありますから、きっと喜んでくれるのではないでしょうか。いまから楽しみです。
2024.08.10
閲覧総数 12230
8

弾丸中国出張から戻りました。3月に続いて今回も浙江省杭州市、中国文明発祥の地とも言える都市です。人口1,200万人の大都会ですが、近くに巨大都市上海市があるので日本人には知名度が低い場所かもしれません。アリババの本拠地があり、近年婦人服アパレルがどんどん誕生、いまでは中国ファッションビジネスの中心地と言っても過言ではりません。人口多く、ファッションビジネスの新しい中心地なんですから、東京から杭州に直行便が誕生すると便利になって良いのになあと思います。杭州市中心部中国東方航空のこのフライト画面、SHAとあるのが上海。その西方が蘇州(この近くに上海蟹の陽澄湖)、杭州湾の奥が杭州、そして上海の南方は前職で多額出資した阪急百貨店の寧波(にんぽう)。寧波は紳士服製造の中心地です。杭州には有名な景勝地「西湖」があります。最初に杭州に出張したときのんびり遊覧船に乗り、散歩したことを思い出します。これとは別に「湘湖」というのがあり、今回初めてこの湖畔のレストランで会食しました。湖があるということは飲み水を得やすい地域、だから5,000年前この地で文明が生まれました。私たち日本人は学校で世界史を学んだとき「殷」からのスタートでしたが、それ以前にこのあたりには人間が住んでいました。(4枚とも湘湖の湖畔)今回の出張はセミナー講演ではありません。中国アパレル大手企業が計画する新規事業に対するアドバイス、仲介する佐吉事業管理コンサルの金さんからの出張要請でした。創業20数年で売上3,000億円以上、海外にもショップを何店も持ち、海外事業でも黒字と言いますから立派な会社です。日本のアパレル企業のほとんどは海外事業赤字ですから、一体何が違うんでしょうね。金さんの紹介でほかに2つのファッション企業を訪問しました。ひとつはスポーツウエアブランドを展開している老舗繊維会社、もうひとつはライブ配信でブランド品をオンライン販売している新興企業、どちらも経営者は40歳に満たない青年実業家です。前者は夏さん、父上から引き継いだ2代目。後者は余さん、スナイデルの中国販売権を取得して売上を伸ばし、最近金さんの紹介で日本の大手セレクトとオンライン販売契約を結んだばかり。ライブ配信のスタジオを見学左から金さん、私、余さんお茶を入れてくれる夏さん若手経営者には共通していることが。社長室に大きなテーブルがあり、ここで社長自らお茶を入れて我々を接客してくれました。日本のように秘書さんが客人にお茶を出すのではなく社長自らお茶を入れるのです。棚にはたくさんの種類の中国茶の缶が並んでいました。この日2代目夏さんは緑茶、若い余さんは烏龍茶を何度も配りながら接客。こういう風習、アットホームでフレンドリーでとても良いですよね。湘湖の湖畔にある中華料理店、エントランスにワインを並べた大きなケースがありました。私はどんな銘柄のワイン、シャンパンがあるんだろうとほんの数秒だけケースの中を覗きました。それをたまたま目撃した夏さん、私がワイン好きと想像したのでしょう外部のワイン専門店にワインを発注、なんと木箱に入った赤ワインがレストランに半ダースも届いたのです。中国人に好きな料理やお酒の話をするとすぐ手配してくれるのでこの日も気をつけていたんですが。ディナーの後2軒目に移動したら私の好物バーボンがお店に1本もありません。中国人はアメリカの酒は飲みたがらないのかも。すると金さんが舎弟分の余さんに電話連絡、半時間後余さん自身がバーボンをわざわざお店まで届けてくれました。中国人の過分なおもてなし、いつも申し訳なさを感じます。夏さんに「これから毎月杭州出張しませんか」と言われました。魅力的な街ですからその気になってしまいます。
2026.05.26
閲覧総数 136
9

クールジャパン機構時代、ちょっと風変わりな訪問者がオフィスを訪ねてきました。ベネチア建築ビエンナーレで会場エントランスに柱のないガラス建築をセットすることになっていた大阪在住の建築家平沼孝啓さん。ビエンナーレ首脳陣に評価されたものの大型ガラスの移送費用が半端なく、これを捻出する方法はないものかとの相談でした。クールジャパン機構は官民投資ファンド、いくら素晴らしいクリエーションでも投資した資金が将来回収できない事業には出資できません。これは投資の話ではなく何かの補助金を探す以外にないのではと助言し、サポートしてくれそうな役所を紹介しました。しかし補助金が足りず、結局この面白いプランはベネチアでは実現しませんでした。平沼さんは新国立競技場のデザインで話題となった世界的建築家ザハ・ハディッド女史が教鞭をとっていたAAスクール(英国建築協会附属建築学校)出身、近隣セントラルセントマーチンズ校のアレキサンダー・マックイーンたちと交流があり、彼らの卒業ファッションショーの舞台美術は平沼さんらAAスクールの学生が担当したことから、ファッションデザインにも関心が高い建築家です。その平沼さんが面倒を見ているNPO法人AAF(アートアンドアーキテクトフェスタ)が実にユニークな団体なのです。基本的には各種イベントを運営するのは大学生、大手代理店のサポートは一切ありません。若手建築家のコンペ「U-35」や安藤忠雄さんら有名建築家のレクチャーシリーズ、建築を学ぶ大学生や大学院生のコンペ「建築学生ワークショップ」、これらは全てAAFの学生たちが仕切っています。大手代理店でもここまでスムーズにイベントを仕切れるのかと毎回感心しますが、これを平沼さんら建築家や建築関連大学の先生たちが背後から支えています。「建築学生ワークショップ」では、先生たちが学生の中に入って一緒に作業したり、技術的アドバイスしたり、学生プレゼンには厳しい表現ながら温かい講評をされます。先生たちの熱血指導のほかにも、大手ゼネコンや地元施工会社の皆さんが技術アドバイザーとして学生の作業をサポート、作品づくりを手伝い、まさに実学そのものです。比叡山延暦寺や高野山金剛峯寺など「聖地」との交渉は平沼さんがマメに通い、その情熱の前に聖地の関係者はつい協力を約束するという構図です。今年も8月末「建築ワークショップ2022宮島」に参加してきました。平沼さんに声をかけられて4年前の伊勢神宮大会から私も参加し、出雲大社、東大寺、明治神宮と続いて今回は広島県宮島の厳島神社でした。例年全国から参加を申し込んだ建築を学ぶ学生が8グループに分かれ開催地に相応しいフォリーを建てますが、今回は申し込みが多かったのか10グループ、宮島の歴史や生活文化などを調査してフォリーのミニチュアをまず作り、7月の中間講評で審査されて修正を加え、現地合宿してフォリーを制作します。講評者は厳島神社界隈のフォリーを見て回り、次にプレゼン会場で各グループとの質疑応答、その後採点します。ワークショップ冒頭の講評者紹介で「美しいものにはワケがある」という視点で採点させていただきます、と宣言した私は10グループの中から4つを選び、最後に3グループ(全員3グループにのみ加点がルール)に点数を入れました。最後の最後まで悩んだグループは、建築の世界では珍しい材料と言える蝋燭を溶かしてバームクーヘンのような柱を何本も作ったフォリーでした。発想は面白い、材料は建築資材としてはレア、朱色の厳島神社に真っ白な蝋は目立ちますから「美しいものにはワケがある」に該当します。しかし、眩しい夏の太陽の熱で果たして自立できるのかどうか疑問を感じ、最終的に小さな建築として役割を果たせないと判断、私は加点対象から外しました。ところが、このグループのフォリーが最優秀賞に選ばれたのです。建築家や構造のプロの方々のお眼鏡に適ったということでしょう。私は建築分野の門外漢ですから、採点の視点が違っていたのかもしれません。(最優秀賞フォリー)でも、表彰式の後、挨拶に立った湯崎英彦広島県知事のコメントを聞いて驚きました。我々が各グループのプレゼンを受けている間に県知事は10箇所のフォリーを見て回ったそうですが、蝋燭フォリーは残念ながらすでに倒れていたとか。壊れたフォリーが最優秀賞だったので県知事もびっくりされた様子でした。ファッションコンテストに例えるなら、グランプリを獲得した服をモデルが着た瞬間生地が破れてしまった、あるいは袖がとれてしまったということでしょうか。デザイン画のコンテストなら最優秀賞でも良いでしょうが、実際に服を作って見せるファッションコンテストであれば、生地がすぐに敗れる、袖がすぐとれるようなら減点対象でしょう。この蝋燭フォリー、建築や構造の門外漢である私たちが「カッコいいね」と最高点数をつけるのはありかもしれませんが、門外漢の私が最後まで悩んだフォリーを建築専門家の先生たちが高く評価したのです。意外な気がします。東京大学の腰原幹雄さんや佐藤淳さんら毎回熱血指導してきた構造家のプロたちはどのように評価したのか、素朴にご意見を伺ってみたいと思って平沼さんにメールを送りました。構造家の先生たちが「いいんです」とおっしゃるなら、蝋燭フォリーを外した私の採点基準は間違い、来年の京都・仁和寺大会で(講評者に指名されるならば)考え方を変えねばなりません。(第2位)(第3位)学生さんはこれからプロを目指すのですから、現時点で発想や創造力を重視、作品の機能性、耐久性は度外視して採点してもいいのかもしれません。ファッションで言うなら、クリエーションが全てであって、学生のうちは素材、パターンメーキング、機能性はつべこべ言わないという採点もありなのかもしれませんね。感性、創造性を評価するのはとても難しい、過去5年間建築学生ワークショップに参加して毎回感じることです。そしてまた、平沼さんら建築家や大学の建築学科の教授たちの熱い指導(毎回厳しい講評をなさる構造家の佐藤淳さんは今年暑い中で早朝作業を手伝ってくたくたで発言が控えめでした)、施工会社の皆さんの献身的な協力を目の当たりにして、ファッションの世界でもこのような学校の枠を超えた業界全体がバックアップする実学ワークショップができないものかと思いました。こういう人材育成プログラムが実現できるなら、日本のファッションデザイン界は人材の宝庫になると確信しています。ちなみに、建築界のノーベル賞とも言われる「プリツカー賞」、日本人建築家の受賞は突出して多いんです。建築学生ワークショップから将来のプリツカー賞受賞者がでるかもしれません。
2022.09.06
閲覧総数 1306
10

先月カッシーナ・イクスシー社長の森康洋さんから携帯番号変更の案内を受け取り、なんの疑問も感じずアドレス帳を書き換えました。そして数日前、WWDジャパンが森さんの社長退任記事、こういうことだったんですね。退任理由は「一身上の都合」、詳しくは分かりません。アクタス社長からカッシーナに移って10年余、コンランショップジャパンなども傘下におさめて事業を拡大した功績は大きいです。ご苦労様でした。 上の写真は数年前に建築学生ワークショップを主宰する建築家の平沼孝啓さん(右)と森康洋さん(左)と一緒に南青山のレストランで会食したときのもの。このとき、カッシーナ青山直営店を若手デザイナーのイベントに利用させて欲しいとお願いし、ビューティフルピープル熊切秀典さんを紹介。以下の写真は熊切さんとのコラボが実現した模様、コレクションでも使った小さな粒入り服と同じクッションが予想以上に売れたと森さんは喜んでいました。私が森さんと初めて会ったのは、彼がレナウン米国法人社長だった頃でした。松屋の若手社員を連れてニューヨーク研修する際、森さんには当時レナウンが提携関係にあったJ・クルーの直営店視察をお願いし、開店時間前に大型ショップを案内してもらっていました。私の部下だった松屋ファッションディレクター関本美弥子はニューヨーク州立ファッション工科大学卒業後米国レナウンに就職、森さんは関本の上司でもあり、少なからずご縁のある方です。あれは1999年だったでしょうか、私はレナウン副社長に就任したばかりの小野寺満芳さんから突然電話をもらいました。レナウンのメインバンク住友銀行からアパレル名門企業再建に送り込まれた剛腕経営者というふれ込みでした。「レナウン再建でご相談したいことがあります」と言われ、私は明治通り沿いのレナウン本社に出かけました。「会社整理するために銀行から送り込まれたとあなたは思っていらっしゃいませんか」、これが初対面の挨拶でした。住友銀行が常務クラス以上の人材を送り込んでマツダやアサヒビールを建て直したように、レナウンを再建して来いと頭取に命じられての出向と小野寺さんからは伺いましたが、失礼ながら私は会社を整理するために送り込まれた人物だと思っていました。そして1枚のメモ書きを渡されました。そこにはレナウンが販売している全ブランドの名前が書いてあり、「今後レナウンに不要と思うブランドに印をつけてください」。私は「全部」と申し上げました。ブランドの名前しか書いていないリストを手に無責任に答えられるはずありませんから、あえて「全部」と答えたのです。続けて、私は「明日からパリコレ出張、1週間ほどで帰国しますから、それまでにリストにある全ブランドの当初想定したターゲットと現状の顧客像をまとめてくれませんか」とお願いしました。せめてそれくらいの情報がなければ求められた答えは出せませんから。さらに、私は小野寺さんにこう申し上げました。「ニューヨークにレナウンらしくない面白い男がいるじゃないですか。どうしてああいう人材を海外に駐在させているんですか。あなたが本気で改革するのであれば、ニューヨーク駐在所長のような人材を本社に集めるべき。前回ニューヨーク出張で森さんに会ったとき、米国グリーンカードを取得し、会社はゴタゴタしているので辞めて米国で転職しようか悩んでいると彼から相談されましたよ」、と。パリコレ出張から戻って再び小野寺さんを訪ねたら、もう森さんはニューヨークから呼び戻され、本社で仕事をスタートしていました。このスピード感があるならレナウンは再建できるかもしれない、小野寺さんに協力を約束し度々会って友人のファッションディレクターやデザイナーを紹介しました。森さんは当時ニューヨークで人気急上昇中の新人デザイナーブランド、レベッカテイラーとの契約締結とその日本展開が担当業務、すぐに執行役員に指名されました。小野寺さんには「レナウンの売上を展開ブランド数で割ってください。平均値はかなり小さい、つまり小さい売上規模のブランドそれぞれに多くの人材が関わっている。これでは利益は出ません。多くのブランドを大胆にスクラップ、人材と資金を集中させるべきです」、さらに「(習志野の)大型パワーセンターを処分すべき。倉庫が大きいとどんどん在庫が膨らみ、いつの間にか在庫過多が平気になります。倉庫は小さければ小さいほど良い」とも言いました。小野寺さんも副社長着任直後に東西の大型パワーセンターの視察に出かけ、あまりの在庫の多さにびっくり仰天だったとおっしゃっていましたが、アパレルメーカーの破綻の始まりは過剰在庫に鈍感な体質、そして低いプロパー消化率に社員の多くが「売上取るためには仕方ない」と慣れきっていることだと思いますが、レナウンの在庫も半端なかったようです。さらに、柱になるブランドの発掘、育成は急務、そのためには外部の人材を活用して時代に合った魅力あるブランドを1つでも2つでも作ることだと薦め、いろんな人材を紹介しました。ところが、銀行から再建を託された小野寺さんは口が悪かった。あえて強烈な言葉を発することで社員を刺激したかったとも言えます。しかし、これが原因で会社は意外な方向に向かいます。アドバイスを求められる我々の前でも覇気のなさそうな男性社員のことを「こいつらバカなんだ」、「うちにはバカしかいない」、「若い女性の方が優秀なんだ」と強烈な言葉を連発、いまならパワハラ発言に当たるキツい言い方でした。発言の裏にある愛情は確かにあったと私は思うのですが、これに耐えられない社員と組合がグループの長老やOBたちに働きかけ、小野寺さんを銀行に戻す画策を仕掛けたようです。詳しい背景は分かりませんが、結局小野寺さんはレナウンを追われ、小野寺さんに希望の光を見ていた森さんはこの動きに失望、レナウンを退職してインテリア業界に転じました。もしもあのまま小野寺副社長が大改革の指揮を取り続け、森さんたちのようなファッションビジネスに不可欠な面白い人材が手足となって動き、我々が紹介した外部のプロ人材が活かされていたら、名門企業は別の道を歩んでいたかもしれません。カッシーナの経営で手腕を発揮した森さんを見ていると、こういう人材があのまま改革に従事していたらなあ、と思います。倒産してしまったレナウンは日本のファッションビジネスの真のリーダーでした。自社のノウハウを惜しげもなく同業他社に公開、優秀な人材もたくさん在籍しました。米国人気ブランドだったペリーエリス事業、米国のホンモノよりもレナウン製のライセンス商品の方がクオリティーが高かったし、それに関わった人材はほんとに優秀、米国サイドもペリー本人以下みんながリスペクトしていました。そんな企業があっけなく消滅するんですよね。1978年のVAN倒産時、創業者石津謙介さんはレナウン中興の祖である尾上清さんに相談に行きました。再生あるいは破産、どちらを選択するべきか悩んでいた石津さんの問いに対して、「石津くん、ファッションは虚業だよ。潔く散った方が良い」と破産をアドバイスされた、と石津さんご本人から伺いました。尾上さんが指揮した名門企業も儚くも完全に消滅してしまいました。虚業なんですかね、ファッションビジネスは....。
2022.10.14
閲覧総数 7305
11

昨年末と今年2月に続いて三度目の中国研修から戻りました。上海から杭州に入ってファッション企業幹部に丸1日、翌日ミナペルホネン皆川明さんの講演を聴いてから一緒に上海に移動。そして次の日は皆川さんと別れて上海の対岸にある寧波に。ここで中国最大手紳士服メーカーYOUNGOR(ヤンガー)創業者や経営幹部と会食、翌月曜日は午前と夕方の二部制で社員研修をさせてもらいました。ブランドDNA確立と継承が今回のテーマ最もDNAを継承しているブランド事例を説明過去2回の中国研修では主にマーチャンダイジングの基本的を中心に、ファッションをいかにロジカルに受け止め計画的に市場展開するか、言い換えれば「儲ける方法を共に考えましょう」でした。が、今回は直接的に儲ける話ではなく、ブランドビジネスの観念論、ブランドにとって重要な他社とは違うDNAをいかに作り上げことの重要性と、それを長く継承することの難しさが主題、果たして中国のビジネスマンに響くのかどうかちょっと心配でした。儲け話ではないのでしらけるのではないか、と。しかも2日目はデザイナーの皆川明さん、ご自身の展覧会で表明した「百年つづくブランド」を目指してどういう種まきをしているのか中国で話してくださいとお願いしたので、ミナペルホネンの成功体験でもなければ儲ける話でもありません。ところが意外や意外、会場の雰囲気からはセミナー参加者にはかなり響いたみたい、嬉しかったです。初日終盤の休憩時間中、ひとりの男性が通訳さん(同時通訳レベルで丁寧に解説してくださる方)に何やら長々と話していました。通訳さんに尋ねたら、いかに重要な話を聴いたか、自分はどれくらい感動したかを延々と感想を語ったとか。聴くうちに身体が熱くなり、将来が明るくなった気がする、と私も言われました。講演後参加者とのパーティーでも、ブランド経営者たちはやや興奮気味に感想を私に話してくれました。決して直接的な儲け話ではなかったのに。オリジナル素材を紹介しながら講演する皆川さん講演後皆川さんは多くの参加者から質問攻め地球環境を考え無駄なことはしない。余った生地はホームソーイング用に測り売り。織物工場が安心してものづくりできるよう何度も同じ技法の素材を発注するだけでなく、生産量と工場の空き具合を考えながら素材発注。アトリエのスタッフには刺繡にどれくらい時間とコストがかかったのかを報告させ、ものづくりのコスト意識を持たせる。生地の重量とコートの長さの両方のバランスからコートの最終デザインを決定する等々、ミナペルホネンのものづくりの姿勢を淡々と語る皆川さんの話、素晴らしかった。日本の一般アパレル経営者にも聴かせたいと思いました。私は「唯一無二」を連発、ブランドDNAは何もシャネルやクロエのようなデザイナー系ブランドに限ったことではなく一般アパレルメーカーにも必要なこと、それがないとブランドはお客様の信頼を徐々に失い、市場での存在感はどんどんなくなるという話をしました。米国GAPはどのタイミングから日本製デニムを使わなくなって低価格アジア製デニムに切り替えたか、それがどういう結果を招いたのかも詳しく話しました。一方、ユニクロは商品タグにわざわざ「カイハラデニム」を表記、それを使用している理由を消費者に訴求している。またユニクロはパリを代表するブランドと同じウールジャージーを起用していることも伝え、単純にコストカットしているわけではないと説明しました。ブランドDNAはデザイン、アイテム、色や柄の伝承などのではなく、ものづくりの精神性にあるとも説明、これが参加者のハートにそこそこ響いたようです。初日講演後参加者と記念撮影講演後、会場からすぐの場所で直営店舗を構えるブランド(経営者は集合写真で私の左)ショップを訪ねました。洋服をかけるハンガーの使い方に関して「どうして中国のブランドは服をこのように掛けるのが好きなんでしょう」と質問しました。トップスは普通にハンガー掛け、ボトムは長いフック(金具)をセットしてそれにハンガーを掛け、トップスの下にボトムがくるように並べる方法、個人的にはこの方法は反対、トップブランドの多くはこんな余計なことしていませんと説明。翌朝このショップを覗いたらハンガーラックにたくさんつけていた長いフックは全て撤収されていました。中国の人はアドバイスに納得したら即行動、そのスピード感はのんびり日本とは大違い。だから中国ではアドバイスのしがいがあります。全国オンライン参加もあったヤンガー者の社内研修寧波では日曜日にも関わらずヤンガー創業者や経営陣が出迎えてくれ、皆さんと楽しく会食しました。ちょうど今年は創業45年、私の講演午前の部と夕方の部の間に創業祭イベントが組み込まれていました。いまやグループ売上は2兆円の大企業、かつてアトリエサブの田中三郎さんら日本や欧米業界人が長く顧問としてアドバイスした会社だそうです。一代で2兆円規模に導いた創業者李如成さんのリーダーシップはさすが、「私の言うことは聞いてくれないので先生から話してもらいたい」と謙遜なさってましたが、でもどう見てもワンマン社長タイプ、彼の強烈なキャラクターが成長要因でしょう。ヤンガーでは午前の部でマーチャンダイジングの事例をお話しました。誰に、何を、どうのように、いくつ販売するのか仮説を立てて仕事しましょう。発注はギャンブルみたいなもの、リサーチを十分に行って思い切り大胆に発注すべき。ちまちました発注は機会ロスを生むだけ、しかも機内ロスの回数はカウントできない、コンピュータのデータにあがってこない。ファッションバイイングは一種のギャンブル、楽しまなきゃ。いつも日本で教えてきたことを会場150人、全国各地の営業所からオンライン参加も入れると300人の幹部が参加してくれました。午後の部は杭州セミナー同様「ブランドDNAの確立と継承」をテーマに講演。質疑応答にたっぷり時間をとって欲しい、私をヤンガーにつないでくれた中国コンサル企業からそう言われていたので話をコンパクトにまとめました。ところが、事前に聞いていた質疑応答はなくそのまま終演、ちょっと拍子抜けでした。オーナー社長の前で社員は下手な質問できないだろうと幹部が忖度して切り上げたのか、それともブランドDNAなんて観念論は最大手企業幹部には面白くなかったのかは不明です。杭州セミナー、寧波のヤンガー社員研修の結果はそのうち2つのプログラムを企画した佐吉事業コンサルティング社の金時光さんから連絡が来るでしょう。儲ける話でない中国でのセミナーが実際参加者にどのように受け止められたのか、本音の意見を知りたいです。
2024.07.27
閲覧総数 14271
12

東京ファッションデザイナー協議会から百貨店のシンクタンク部門に移籍した直後、館内のイッセイミヤケショップは販売スタッフ4人、売り場面積22坪、全国百貨店インショップでは売上3位でした。すぐ上のポジションにいたのはスタッフ7人、面積45坪の西武百貨店池袋本店、スタッフ数が多く売り場も広いから簡単には抜けそうにありませんでした。われらのイッセイミヤケ男性店長Sくんには大胆な発注方法を伝授しました。Sくんに「これまで1マークで最大何枚発注したことあるの?」と訊いたら、おそらく松屋銀座では1マーク30数枚程度と答えたので、展示会場で1マーク150枚、しかも2マーク発注してくれとお願いしました。Sくんに「これまで最高いくら売上があったの」と訊ねたら、月に2,000万円に少し満たない、と。そこで大胆な発注を試みたのだから月3,000万円の売上を目指せ、超えたら自腹でショップスタッフ4人をフグ屋でご馳走すると約束しました。月2,000万円未達のショップにいきなり3,000万円超えを賭けたのです。1997年11月でした。ありがたいことにお客様に支持され売上は順調に伸び、11月中旬を終えたところで私はフグ屋の出費を覚悟しました。ところが11月最後の週末、大手証券会社山一證券が経営破綻、あの有名な涙の社長記者会見がありました。この会見ニュースからデパ地下高級食材の売上は急ブレーキ、天然マグロも蟹も高価格商品は売れません。婦人服フロアの売上もピタッと止まりました。そして最終的に過去最高2750万円を達成しましたが、目標の大台3,000万円には届かず、フグ屋というわけにはいきません。フグはまた次の機会、それでも過去最高売上なんですからご褒美にすき焼きレストランに招待しました。この話をイッセイミヤケグループの母親役だった小室知子さんに話したら、「あんたケチやな。私がおごるからみんなでフグ屋に行こう」となって私も含めみんなで小室さんにフグをご馳走になりました。この月以降百貨店ショップ売上第2位になったのです。フグ屋でご馳走になって2年半後、私は当のグループのアパレル企業経営者に。このとき一番最初にグループ移籍のことを打ち明けたのはS店長でした。「キミに教えた発注方法を全国の店長に教えてみないか」、私は彼を本社に異動させました。もうひとり館内のメンズショップ店長だった男性店長Ḿくんものちに本社に異動させ、マーチャンダイジング指導の補佐を命じました。Ḿくんは7年間私の社内ゼミに立ち会わせ、ときには講義を担当させて育てました。私が退任したあと社内ゼミを継続し、私に代わってḾくんが講師となり社員にマーチャンダイジングの基本や意図ある発注を指導しました。私が抜けたあとも高いプロパー消化率を維持できたのは継続した社内ゼミのお陰、そして若手社員でさえ「定数定量」を普通の会話の中で口にする会社になりました。私がマーチャンダイジングを教え始めた当初、幹部社員は顧客分類や定数定量の話をすると下を向いてクスクス笑っていました。たぶん「うちはミヤケだぞ。この人、何を言ってるの」という意味の笑いだったでしょう。就任2年後プロパー消化率が劇的に改善すると彼らは笑わなくなり、3年後には社員の多くがやっと「定数定量」を当たり前に使うようになりました。Ḿくんは私の後継講師としてその後8年ほど社内ゼミを続け、次に子会社に出向してマーチャンダイジングの指導を継続、グループに大きく貢献しました。再び百貨店に復帰した私は、今度はお取引先の店長たちから希望者を募って百貨店営業本部主催MDスクールを始めました。化粧品、外資ファッションブランド、大手アパレル、国内ブランド企業の店長たちに加えファッション専門媒体の記者さんにも門戸を開きました。ショップの店長が定数定量や顧客分類を考えて仕事する会社はほとんどなく、宿題を与えるとイッセイミヤケ社の店長だけが満足な回答を持ってきました。当然と言えば当然なんですが。お取引先店長に向けたマーチャンダイジング指導は2年続けました。しかしながら私は政府系投資ファンド経営者に転籍することになってしまったので指導継続はできなくなりました。もしもお取引先の店長たちにマーチャンダイジングの指導を継続していたら、発注やVMDでもっと精度の高い仕事をするブランドショップが増えていたのではと思います。もう一点、百貨店に復帰してすぐ私は店舗開発担当だったSくんを呼び出し、館内4箇所に分かれてショップを構えていたグループ婦人服4ブランドを大型ショップひとつに集約するよう提示、百貨店売り場では珍しいブランド統合大型ショップを立ち上げました。売上目標は既存4ショップの合計金額ではなく大幅な予算アップ。目論見通り4ブランド合計売上はすぐ1.5倍になり、現在は3ブランドながらかつての約3.5倍に。前職政府系投資ファンドで親交のあったH2O(阪急阪神百貨店)椙岡会長が上京された際、私はこの統合ショップを案内し、外資ラグジュアリーでなく日本ブランドでもやり方ひとつで大化けする、外資トップブランドにも売上は負けていない、大阪でもお考えになったらどうですかとアドバイスしました。もちろん売り場をただ大きくしただけではこんな効果は出ません。百貨店側もショップ側もマーチャンダイジングの基礎を理解していなければ結果は生まれませんが。かつてスタッフ4人、売り場面積22坪だったショップは、現在スタッフ約30人、売り場面積80坪、ブランド3つで全国でもダントツ優良店舗になりました。同時に百貨店側にも全商品カテゴリーすべてのお取引先の中でもトップランクのベンダーに成長し、ウインウインの関係になりました。行動目標を与え、地道に人材育成すれば企業は変わります。多くの経営者の皆さんには考えていただきたいですね。
2026.05.02
閲覧総数 317
13

あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
閲覧総数 9509
14

中国から日本研修にやってきた27人との怒涛の1週間が終わり、今日は一息ついています。2月恒源祥本社にて。左:陳会長、右:齋藤孝浩さん昨年末杭州での中国アパレル経営者セミナーに参加した最大手ニットメーカー恒源祥の陳(リチャード・チン)会長から「あなたの話を社員にも聞かせたい」と社員研修の申し込みがあり、2月に2日間上海近郊の蘇州のホテルで社員研修をさせていただきました。その後陳会長から日本での研修の提案があり、6日間のプログラムを組みました。同社は国営企業時代も含めて歴史あるニットメーカー。欧米列強諸国の統治や日中戦争、国民党と共産党の対立混乱が続いたこともあり、中華人民共和国で100年続く企業は少ないと言われていますから、今年創業98年はレアな会社。グループ社員総数は4万人の巨大企業です。オリンピック中国選手団ユニホームやIOC(国際オリンピック委員会)幹部、聖火ランナーのウエアも提供しているオフィシャルサプライヤーでもあります。佐藤繊維佐藤社長が工場を案内しながらレクチャー佐藤繊維直営セレクトショップでお買い物も陳会長はパリオリンピック視察から上海に戻ってすぐ日本に。研修初日は山形県寒河江市の佐藤繊維工場見学。紡績からニット製造、自社ブランド販売まで行っている珍しい一貫工場です。佐藤正樹社長から差別化商品をどのように創作しているか、工場を見学しながらレクチャーを受けました。まるで織物のようなウールジャケットや家庭用洗濯機で丸洗いできるセーターに研修団は驚いていました。東京に入った翌日、午前中は私の講義。2月にマーチャンダイジングの研修を終えていますから、今回は東京で注目すべき小売店とビジネス形態を説明。午後は渋谷パルコの売り場を歩いたのち、同社元常務泉水隆さんから渋谷店改築時のブランド導入の考え方について具体的な説明がありました。渋谷パルコ2階beautiful people3日目はニットデザイナー村松啓市さんから、自身のブランドmuucを展開しながら彼が主宰する社会貢献プログラムAND WOOLの説明。この事業に陳会長は中国でも同じような社会貢献事業ができるのではないかと興味津々、さっそく村松さんに早い訪中を勧めました。村松啓市デザイナーからAND WOOLの説明新宿伊勢丹5階muucとAND WOOLポップアップその後スパイラル5階CALL(ミナペルホネン)を皮切りに、南青山ブティック街を視察。イッセイミヤケ8店舗、コムデギャルソン、ヨウジヤマモト、ビューティフルピープル直営店のほか、編み物サークルも開く毛糸店ウォルナット東京にも足を伸ばしてリサーチ。ウォルナットではスタッフの丁寧な説明に耳を傾けていました。4日目はMAKUAKE視察後、EZUMIデザイナー江角泰敏さんのシーズンテーマ設定のプロセス講義とワークショップ。ロンドンのセントマーチン校で学んだ江角さんは学生時代に訓練されたテーマ設定のプロセス「Mind Map」を一緒にやってみましょうと面白い講義をしてくれました。江角泰敏デザイナーのワークショップ5日目は元部下だった堀田健一郎さんがヴィジュアルマーチャンダイジングの事例紹介、特に店頭とネットを繋げお客様とのタッチポイントをいかに魅力あるものにするかを話してもらいました。その後幹部だけ両国に移動して世界のトップブランドに特殊なニット糸を販売する丸安毛糸を訪問、岡崎博之社長らにオリジナル商品の説明をしていただきました。トップブランドが同社のニット糸を採用している理由に納得、陳会長から将来一緒に商品化したいと発言ありました。丸安毛糸ショールームにて中:丸安毛糸 岡崎社長、右:陳会長今回山形の工場見学にも都内ショップまわりも同行、私がお願いした講師のレクチャーにも付き合いました。陳会長とは東アジアファッションビジネス連携や企業経営の理念から、ものづくりに何が重要か、さらには新たな商品開発構想まで連日いろんな話をすることができました。昨年末私のセミナーを聞いてすぐアクション、2月社員研修と8月日本研修を実行するなど早い決断とすぐ行動する経営者ですから、帰国して日本素材での商品開発やデザイナーとのコラボ企画を進めるのではと期待しています。来月下旬には恒源祥創業98年記念イベントがあり、さっそく訪中を再び促されました。手ぶらでは行けないので、幹部に向けて中身のあるレクチャーの準備をしなければなりません。スピード感ある経営者と付き合うにはこちらもスピード感ある対応をしないと。中:陳会長、右:佐吉事業管理コンサル金代表昨年9月I.F.Iビジネススクール教え子である齋藤孝浩さんに佐吉事業管理コンサル金代表を紹介され、金さんが連れてきたアパレル経営者訪日研修団にセミナーをしたことから中国と私の関係が始まりました。12月杭州で経営者セミナー、2月恒源祥の幹部社員研修、4月佐吉コンサル主催訪日研修団の経営者たちにレクチャー、7月杭州で皆川明さんとのデザインセミナー、寧波の大手紳士服メーカーでの研修、そして今回の恒源祥日本研修と続きました。9月には上海で創業祭に参加予定、10月には三度目の訪日研修団セミナーがあり、11月も金さんから訪中を誘われています。たった1年で中国関係でこれだけいろんなことが起きました。中国経営者はとにかくやることがほんとにスピーディー、これは日本のファッション流通業界が学ぶべき点ではないでしょうか。セミナー終了後に「いいお話聞きました」と言うだけでは何も始まりませんから。
2024.08.25
閲覧総数 11277
15

いったいどこから書いたらいいんだろう、いろんなことがありすぎて頭の整理がつきません。三宅一生さんの背後にいてほとんど表舞台に出てこなかった三宅デザイン事務所創始人の小室知子さんが4月13日亡くなりました。ファッション業界で一番尊敬してた大先輩であり、姉のような母親のような大きな存在、私にはとてもショッキングな訃報です。コロナ禍中に突然呼び出され、ホテルオークラの山里でランチをご馳走になったのが最後でした。三宅一生さんの背後にいてほとんど表舞台に登場しなかった人、その存在すらご存知ない業界人は多いでしょうし、社歴の短いイッセイミヤケグループの社員たちは名前くらいしか聞いたことない人でしょう。ちょっとだけどんな人だったのかここ記します。娘さんのSNSに上がったご遺影小室知子さん(1941年生まれ)は若い頃美容関係の学校に留学したくてロサンゼルスに渡りました。が、いまで言う留学詐欺にひっかかり、現地に到着したもののそんな学校はなかった。せっかくアメリカに来たのだからと1年間西海岸遊学、帰国後当時伊勢丹のオーダーサロンデザイナーだった母上の口利きで講談社の女性誌で仕事を始めました。雑誌「若い女性」巻頭カラーページのファッション担当、このとき多摩美術大学を卒業したばかりの若き三宅一生さん(1938年生まれ)と出会います。その後三宅一生さんは業界リーダーのひとりだったアミコファッションズ鯨岡阿美子さん(毎日ファッション大賞初代選考委員長)の勧めでパリオートクチュール組合の学校に留学、就業後吉田ヒロミさんがアシスタントをしていたジバンシィーに入り、のちにギラロッシュに移ってアシスタントとして働きました。資生堂サンオイルの伝説ポスター一方の小室知子さんは天才CM作家とも言われる杉山登志さんやカメラマン横須賀功光さんのスタイリストとしてコマーシャルや宣伝ポスター撮影をサポートしていました。貼っても貼っても盗まれることで話題となった前田美波里モデルの資生堂サンオイルのポスター(アートディレクションは石岡瑛子さん)は横須賀さん撮影、動画CMは杉山さん演出、スタイリストが小室さんでした。旭化成のベンベルグも確か同じチームだったと思います。旭化成CMロケのとき、小室さんに「どうやったらスタイリストになれますか」と尋ねた若い女性がいます。当時旭化成宣伝部勤務だった川久保玲さん、コムデギャルソンを立ち上げる前のことです。パリ五月革命で時代の変化、生活価値観変化を実感した三宅一生さんは富裕層相手のオートクチュールの将来に疑問を抱き、既製服の本場ニューヨークに渡ります。その頃三宅さんは一時帰国、湘南海岸に海水浴に行ったところで小室さんとばったり遭遇。このとき三宅さんは彼女に近々帰国して自分のブランドを作りたいと夢を語りました。小室さんはさっそくカメラマン仲間に出資を求め、1970年自分のアパートで株式会社三宅デザイン事務所を起業、海外から戻る三宅さんを待ちました。三宅さんが帰国して赤坂に物件を見つけ引っ越したマンション、その上階には偶然にもすでに旭化成を退職してコムデギャルソンをスタートした川久保さんがいました。「どっかで見た顔の人やなあ」と思ったそうです。御三家ファッションブランドの2つ、出発点は同じ赤坂のマンションでした。どちらの部屋も相当狭くて生地屋さんとの商談はマンションの階段でやったと聞いています。会社設立の翌年早くもイッセイミヤケはニューヨークでショー開催、1973年にはパリコレデビュー、創業時は相当資金繰りに苦労したはず。当時既婚者の小室さんは妊娠中で大きなお腹を抱えて大阪まで出張、某大手資材メーカーに資金の融通をお願いに行きました。他方コムデギャルソンのパリコレデビューは1981年、こちらは国内市場でしっかり経営基盤を固めてからでした。三宅デザイン事務所の社長は三宅さん、裏方の副社長は小室さん、社長はシーズンを追うごとに世界で才能を認められますが経費概念はほとんどありません。三宅さんの評価が上がるにつれ事務所の出費はどんどん膨らみますから、当然実務担当副社長はやりくりに苦労します。創業直後は資金稼ぎのため一般企業とライセンスビジネスをいくつも締結、子供服、紳士フォーマルウエア、タオル、ハンカチ、ネクタイ、水着などいろんなジャンルの商品を専業メーカーと協業。また、サントリーのCMに三宅さんがジャズの渡辺貞夫さんと出演したこともありました。資金集めの策として小室さんはCMの話を進めざるを得なかった。当の三宅さんは渋々出演、「小室が言うから出ましたが、もう二度とCMには出ません」、三宅さんから直接聞いた話です。「パリコレが終わるたび小室に電話して、会社は潰れずにまだありますか」と毎シーズンこんなやり取りをしていたとも聞きました。デビュー直後からパリコレ参加、しかもシーズン追うごとに評価上昇ですからどうしても規模はどんどん大きく経費は膨らみます。マネージャーの小室さんにはかなりのプレッシャーがかかったと想像しますが、「三宅の夢の実現、これが私たちの仕事」、三宅さん本人には苦労する姿をなるべく見せずケロッとしていました。六本木ミッドタウンのデザインミュージアム構想も「三宅の夢の実現」でした。防衛庁跡地を獲得した三井不動産とは商業施設開発で関係が深かった北山孝雄さん(建築家安藤忠雄さんの弟)と小室さんの二人は構想の具体化で奔走、ようやく三井不動産がミュージアム建設を了解しました。六本木の21_21デザインサイトは三宅一生さんと設計をした安藤忠雄さんが初めから動いていたかのように世間に伝わっていますが、実際には北山さんと小室さんが根まわし勉強会を始め、構想が実現しそうになった段階で三宅さんと安藤さんが登場したのです。私は北山さんから呼び出され、「あんただけは誤解せんといてや」と直接建設経緯を伺っています。とにかく「三宅の夢の実現」、これが副社長小室知子の行動指針でした。私が初めて小室さんとお会いしたのは1985年5月、果たして東京に欧米のようなファッションデザイナー組織が設立できるのかどうか疑問を感じながら業界を奔走していたとき。私に帰国を促した三宅さんは私の帰国とすれ違うように海外出張、「あとはうちの小室と話し合ってください」と言われ、当時六本木にあった三宅デザイン事務所を訪ねました。現れた女性の名刺のタイトルは副社長、「初めてお会いするのであなたのことはよく存じ上げません。しかし三宅は時々面白い人を連れてきます。三宅が信用しているのなら私も信用します」と冒頭に挨拶されました。ややこしい言い方するおばはんやなあ、これが第一印象でした。「私にやれることがあったらお手伝いしますから何でもおっしゃってください」と言われ、「私は東京に住んでいないので事務所物件を探すのは無理です。物件探しはやっていただけませんか」とお願いしました。すると小室さんはワイズ(現ヨウジヤマモト)林五一専務(山本耀司さんの小学校からの同級生)と新組織の事務所物件探しを連日やってくださいました。途中良さそうな物件があると電話で呼び出され、のべ数十軒をチェックしてくれました。かなりの時間と労力だったと思います。CFD東京ファッションデザイナー協議会が正式に活動開始すると小室さんはいろんな場面で私を支えてくれました。小室さんが主導して出版された唯一の書籍(1985年旺文社)1985年11月第1回東京コレクション最終日前日夕方、私はちょっとしたことで三宅さんともめていました。三宅さんに連れていかれたレストランで「こんなところでのんきに晩飯食べている場合じゃないんです。私は早く特設テントに戻って舞台美術の作業員たちに温かいご飯を作ってやりたい」ときつく話したら、三宅さんは店内公衆電話で秘書に差し入れを命じていました。夕食を早く済ませて特設テントに戻ったら、翌日のイッセイミヤケショーのステージ施工作業していたスタッフにたくさんの差し入れが三宅デザイン事務所から届いていました。翌日本番後CFD東コレ全体の打ち上げで小室さんに声をかけられました。「あんた、昨日三宅に説教したらしいね。三宅は偉くなってもう私たちでさえ強いこと言えなくなったから、これからも間違ってるときははっきり間違ってると三宅に言ってやってちょうだい」と薄っすら涙を浮かべて。このとき初めて「日本に帰ってきて良かった」と私は実感しました。4年後三宅さんとショースケジュールの件で激しくやりあったあと、夜9時過ぎに三宅デザイン事務所を訪問。現れた三宅さんは素直に「ごめんなさい」と詫びてくれまたので和解しました。が、翌朝小室さんから電話があり、「あんた昨夜うちに来て三宅を許してやったの。私はあかん、なんで太田さんをいじめるんか問いただすわ」。小室さんは副社長辞表を持って三宅さんと面談したそうです。また、三宅さんと二人で会食した際「うちに来てくれませんか」と誘われたもののお断りして帰った翌日、小室さんが勤務先の松屋の売り場に現れ、「昨日三宅に変なこと言われたやろ。あんたも知っての通り三宅とは意見違うこと多いけど今度は一緒なの。早くうちにおいでよ」、尊敬する小室さんに説得されたら私は断れません。私は素直に「考えてみるわ」と返しました。CFD時代もイッセイミヤケ時代も、私が三宅さんと衝突するたび小室さんは創業パートナーではなく私を守ってくれました。「三宅の夢の実現」の実行責任者ですが、3人の間では常にニュートラルなスタンス、私は何度も救われました。概してデザイナー企業の幹部スタッフは内外問わずカリスマデザイナーの方を見て仕事をする人が多いのですが、小室さんは違いました。カリスマに全く忖度しない、ときには辞表を懐に忍ばせて対峙する強いパートナーでした。逆に言うと三宅さんはそんな忖度なしの面倒なパートナーをうまく使った、だからクリエーションに専念して世界的ポジションを築くことができたとも言えます。イッセイミヤケグループの扇の要でありみんなのおっかさん、会社を去ったたくさんのデザイナーたちを叱咤激励し続けた優しい人でした。業界に元イッセイミヤケのデザイナーが多いのはこの方の存在が大きいんです。まさしく業界の真のメンターでした。心よりご冥福をお祈りします。合掌
2026.04.25
閲覧総数 2063
16

創業から270年以上続く名古屋の名門繊維会社タキヒヨー、滝一夫社長と双子の兄弟祥夫さん(学校法人滝学園副理事長)は小室知子さんのことを「オカン」と呼んで慕ってきました。実の母上が早く亡くなったこともあって彼女は母親代わりでした。兄弟の父上は同社元社長、米国でダナキャランを起業して上場した滝富夫さんです。在米の富夫さんは長くイッセイミヤケUSA会長、私もいろいろアドバイスをいただきました。滝富夫さん(中央)出版記念会にてかつてタキヒヨー東京支店は原宿のとんかつ屋まい泉の前にありました。CFDから東京生活研究所に移籍した私が商談に行ったとき、オフィス内でひときわ大きな声でテキパキ仕事する若い女性の存在が気になりました。「元気な子ですね」と東京支店伊藤茂秀さんに言ったら「小室知子さんの娘です」、オカンそっくりパワフルでした。小室登子さんはオカンが三宅デザイン事務所を自宅で起業した翌年1971年生まれ、誕生日は三宅一生さんと1日違いの4月23日です。ボストンの大学に留学中彼女は一度病で倒れ、さすがの小室さんも心配でボストンに飛んで行きました。「登子が白眼むいてたからもうあかんかと思ったわ」、このときだけはごく普通の母親でしたね。創業の翌年三宅一生さんはニューヨークでデビューコレクション開催、新人デザイナーがいきなり海外デビューですから資金繰りは大変。登子さんがお腹にいるとき小室さんは大きなお腹をかかえて資金調達に大阪出張した話は前述しましたが、小室さんの顔を見るなり大手資材メーカー幹部のHさんは「要件はわかってる、言わなくていいよ」とすぐに融通してくれたそうです。このHさん、のちにハナエモリ取締役に就任した方でした。三宅さんに誘われイッセイグループの仕事をすることになった私は小室さんに「娘さんを会社に引き抜けないか」と相談したら、「それだけはあかん」、幹部の縁故関係は採用できない不文律があり断念しました。デザイナー企業ですが、1本筋が通ったちゃんとした会社でした。晩年の小室さん小室さんにとって男性社員は息子、女性社員は娘、みんなの面倒をよく見ていました。時々自宅に呼んでご馳走を振る舞い、彼らの悩みを聞き、相談に乗っていました。また彼らの人材育成にも非常に熱心、わが私塾「月曜会」にも私が指導していたIFIビジネススクールにも若手社員を派遣していました。CFD設立1年後、私はニューヨークで身につけたマーケティングやブランド戦略を実学形式で後進に伝えようと私塾を開きました。毎週月曜日夕方開催、授業料は無料、社会人であれ学生であれ参加希望者は論文試験、外部からデザイナー、編集者、ビジネスマンら一線級の特別講師を招聘、中身の濃い勉強会でした。小室さんから若手社員を参加させもらえないか相談があり、特別に毎回1名だけ受け入れました。日頃CFD運営でお世話になっていたので。のちに独立してバッグデザイナーを始めた伊藤卓哉さん、イッセイミヤケで主に雑貨デザインを担当していた小此木達也さん、インテリアデザインでいまや有名人になった吉岡徳仁さんなどみなデザイン事務所の若手社員。大ヒットのバオバオ・イッセイミヤケの松村光さんも受講生でしたが、彼はまだ三宅デザイン事務所に入社前の武蔵野美術大学助手でした。IFIビジネススクールにはイッセイミヤケや関連会社エイネットの若手社員を毎回送りましたが、デザイナー系企業で外部の勉強会に社員を積極的に参加させるのはイッセイグループだけでしたね。グループから離れた元社員の展示会には頻繁に顔を出し、励ますために個人オーダーを入れ、外部の方を紹介するなどあれこれ支援。エイネットから独立した桑原直さん(元I.Sやsunao kuwaharaデザイナー)、前出バッグの伊藤卓哉さんや松村光さんの展示会にマメに出かけていました。だから多くの息子たちはオカンの訃報を聞いてかなりショック、悲痛なメールが私にも届きます。最晩年彼女は体調が悪くひとりで元部下の展示会を回ったり散歩に出るのはややリスキーだったのでしょう、元エイネット幹部の帯川正之さんが息子のように寄り添っていました。帯川さんは現役時から彼女が特に可愛がったひとりでしょうが、実の母親でもそこまで面倒見切れないところ献身的、帯川さんには頭が下がります。10年間アパレル事業を率いて退任した後も私は小室さんによくご馳走になりましたが、現役時代に大量の在庫処理やプロパー消化率の向上、百貨店から主導権を取り戻すなどいろんな業務改革をしたことを説明すると「私、そこまでは知らんかった。色々苦労させてたんやね」。諸先輩への批判と取られたくないので当時会社で起こっていたネガティブな話は報告しないようにしていましたから。生前、ひとつだけ褒め言葉をいただきました。「社員に自腹切ってご馳走してたんはあんたと私だけやった」、ちゃんと見ててくれたので嬉しかったです。資生堂池田守男さんと小室さん@丸亀市猪熊弦一郎現代美術館仕事一筋で離婚2回。享年84歳、考えたら三宅さんも同じく84歳でした。三宅さんよりも長生きしたらあかんと思って息を引き取ったんじゃないか、と私は思います。登子さんによれば、この秋にしんみりお別れ会ではなく、明るく「オカン大あっぱれ会」を開くつもりだそうです。オカンに世話になったみなさん、秋に集合ですよ。
2026.04.29
閲覧総数 1107
17

このBLOGの交友録でご紹介してきた方々のほとんどは私よりも年長、ファッション流通業界でも比較的知名度のある先輩たちですが、今日は私よりずっと若い元部下、高橋直子さん(旧姓飯田)のことを書きます。かつて日本橋堀留町界隈には織物販売会社がたくさんありました。京都の室町、東京の堀留、伝統のキモノ卸売から次第にビジネスの軸をテキスタイル事業に移して大きくなった会社がいくつもありました。が、いまはその多くが廃業あるいは倒産、かつての堀留の面影はありません。その堀留の織物商組合で後進にテキスタイルの基礎を実学形式で教えていたのが野末和志さん、ファッション専門学校や大学でも指導されていました。その野末さんから紹介された女子大生、それが高橋さんです。彼女は大学卒業後ロンドンに留学、そして私が経営者だったブランド企業に新卒入社しました。留学経験者ゆえ海外事業部で長く活躍しました。同じ職場の男性と結婚、二人のお子さんにも恵まれましたが、お子さんのひとりは身体の一部に障害があって母親のサポートは不可欠。幸か不幸かコロナウイルスの数年間は自宅リモートワークだったので側にいられましたが、通常勤務に戻るとお子さんに十分寄り添う時間が取れず、残念ながら退職しました。野末さんが長年応援しているテキスタイル見本市「テキスタイルネットワークジャパン展」の視察時に私は久しぶりに彼女とバッタリ、そこで退職に至った経緯を告げられました。その後我が子にも着れる子供服ブランドを立ち上げたいと相談がありました。ものづくり部署ではなかったので、私は独立してものづくりに携わっている元部下たちを紹介しました。やがて子供服ブランドzutto matsurikaを立ち上げたと連絡があり、数日前には品川区創業支援事業の補助を受けて武蔵小山駅前の路面スペースで販売開始しますとメールがきました。新卒採用した元部下が家庭の事情もあり思い切って起業、区の補助を受けて小さな売り場を確保できたというので、私は初めて東急目黒線武蔵小山駅下車、路面店に向かいました。午前中とは連絡したものの正確な時間は伝えてなかったのに、律儀な彼女は表で私が来るのを待っていました。品川区小山3.27.5 (駅から徒歩2分)品川区が提供するポップアップスペース、武蔵小山ゆえ「MUSAKO HOUSE」という名称。この小さなスペースをほかに2人の女性たちとシェア、開店時間から閉店時間までずっと店頭に立てない事情がそれぞれにあります。ひとりは午前中自宅で洋菓子を仕込み、お昼頃からここで洋菓子を販売しています。高橋さんはお子さんが帰宅する前にはどうしてもおうちに戻らなければなりません。3人で協力し合って交互にここのお留守番と接客する仕組みです。開店時間直後でまだお客様もいなかったので、高橋さんとはいろんな話をしました。ネット時代のブランドビジネスは卸売主体ではなく、ネット販売も含めて小売を軸にすべき。小売なら直接お客様からいろんな意見も聞け、代金回収は確実。ネットのお陰でかつてのようにショップを目抜き通りに構える必要はなく、裏通りでもビルの上層階でも集客できる。その好例がミナペルホネン、南青山スパイラル5階Call店の衣食住をトータルに提案する方法は参考になります、と。また、前日「FABRIC NIPPON展」に参加していた村松啓市デザイナーが主宰する知的障害者らの手編み機ニットプロジェクト「AND WOOL」のことも説明、その活動がどんどん拡大している話をして村松さんにコンタクトしてみてはとアドバイスしました。さっそく高橋さんから村松さんとコンタクトが取れ近々彼自身のブランドmuucの展示会にお邪魔しますと連絡ありました。村松さんのAND WOOL活動と何か新しい試みが生まれたら良いなと思います。高橋直子さんと社長退任してからもう随分時間が経ちますが、これまで何人もの元部下たちの相談に乗ってきました。「退職しようか会社に残ろうか悩んでいます」の進路相談、「バイヤーさんを紹介してもらえませんか」、「ポップアップできそうな小売店はないでしょうか」、高橋さんのように「新しくブランドを立ち上げたいんですが」など相談内容はさまざま。先日もかつて新卒採用した元部下から突然SNSにメッセージをもらいました。退任してかなり時間が経過していても声をかけてくれる元部下がたくさんいるのは本当にありがたいことです。私のアドバイスが少しは役に立ってそれぞれの道で活躍してくれるといいなと思います。zutto matsurikaはお子さんのために子供服から始まりましたが、親子お揃いで着られるよう最近は大人女性服も手掛けています。「私は専門的なファッションデザインの勉強をしていないので」と彼女は謙遜しますが、「コムデギャルソンの川久保玲さんだって最初は旭化成の一般社員だよ」。専門的な勉強をしていなくても努力すれば素敵な商品企画は無理ではないので頑張れ!、と言って帰りました。まだ世に出たばかりの小さなブランドですが成長を期待しています。ブランドサイトはこちら↓https://zuttomatsurika.com/
2026.03.06
閲覧総数 1606
18

数年前、有機野菜農場を経営する息子から相談されたことがあります。近々グランドオープンする大型商業施設で良い区画をもらった飲食店に自分たちが生産している野菜や蜂蜜を全面的に提供しようと思うがどうだろう、と。彼はこのお店にかなりコミットするつもりという話でした。「ひとつだけ懸念材料がある。飲食店リーシングが下手な大手不動産会社がディベロッパー、おそらく飲食店は集客ままならずうまくいかないと思うよ」とアドバイスしました。先日、その飲食店の閉店告知SNSに目が留まりました。昨秋私も周年行事にお邪魔したことがあるユニークな飲食店、早々の閉店は残念であり気の毒とも言えます。鉄道や地下鉄の駅から雨に濡れることなく入れる好立地大型商業施設、鳴り物入りでオープンしながらも期待通りに集客できないテナントがどんどん退店する、そんなケースは都内にいくつもあります。中には早々と運営を諦め第三者しかも外国資本にビルごと売却した東急プラザ銀座(GinzaNovoに名称変更)のような例も。Ginza Novo(旧東急プラザ銀座)この東急プラザ銀座が2016年にオープンしたとき、会社の月一度の朝礼で私は全社員に言いました。「商品分類ができていないから絶対失敗する。賭けてもいい」と。駅ビルや百貨店あるいはショッピングセンターなどの新設または大改装で一番重要なことは、顧客になりうる方々の顧客分類とどこにどんな売り場を作るか商品分類(および展開分類)。これをしっかりしないとどんなに資金力がある大企業であっても失敗しますから。これまでマーチャンダイジングで商品分類、展開分類を教えるとき、なぜそれが小売業にとって重要なのか説明してきました。また売り場を設計するときは大分類(各階の位置付け)、中分類(フロア内の方向性)、小分類(個別ブランド編成)の順に検討すべきであり「大分類と中分類は経営マター、現場責任者に任せてはならない」と。大型商業施設のリーシング、ゾーニングの失敗は分類を徹底的に議論せず安易に出店交渉したことに起因しています。東急プラザ銀座オープン直後視察したときも(関係者には申し訳ないんですが)商品分類なきリーシングにびっくりでした。素晴らしい立地条件にもかかわらず館内あちこちに化粧品コーナーが点在、フロア違いにもあって意図がわかりません。インバウンド消費を想定したのでしょうか(韓国ロッテの免税フロア招致あり)、外国人が喜びそうな小さなお皿類と和風ハンカチを販売するショップがあちこちにあり、「なんで同じようなものばかり売ってるんだろう」と疑問でした。ここが開店直後、当時建設中だった近隣の銀座シックス開発に参画していた大手不動産会社副社長がわがオフィスに。「東急プラザ、どう思いますか。うちも近々オープン予定なので心配」とおっしゃったので、「東急はリーシングを早くやり直さないと存続は難しいでしょうね」と分類が中途半端である点を説明しました。「御社もちゃんと分類やってくださいよ」という意味を込めて。かつて東京メトロ副都心線が開通する際、すぐ下に新宿三丁目駅がある伊勢丹本店は婦人服フロアの大改装を計画していました。横浜からも埼玉方面からも乗り継ぎなしで新宿三丁目にお客様が来てくださるのですから、理想はメトロ開通に合わせて改装完了でした。が、改装案答申がなかなか武藤信一社長(当時)に及第点もらえず、結局大改装は大幅に遅れました。その間婦人服部長クラスには大分類、中分類改装案が全く漏れて来なかったと聞きますが、最良の案がまとまるまで現場に下ろさない、さすがマーチャンダイジングに定評ある百貨店です。百貨店も含め大型商業施設の大改装は経営者が大きなヴィジョンを示し、館全体の大分類と各フロアの中分類は経営トップが主導して計画を進め、案がまとまった時点で現場に下ろしてどのブランドにどの区画をどれくらいの広さで交渉するのか小分類を決めるべきです。概して現場責任者はいくつかの主要お取引先と密な関係にあるので、大きなディレクション議論に最初から入れてはニュートラルな計画は完成しません。息子たちが協力した飲食店が入居する大型商業施設、もしもディベロッパーが緻密に戦略的に分類してリーシングしていればもっと集客でき、テナントは当初の期待通りの売上計上できたのではないかと思います。これとは別の新しい駅ビル物件も館内ガラガラ、この先退店するテナントがおそらく増えるだろうなあ。インバウンドが急増したからか東京の新規開発はイケイケどんどん、「商品分類を軽く見るな」と言いたくなります。大手不動産会社のリーシングチームにマーチャンダイジングの原理原則を教えたいな。
2026.05.15
閲覧総数 271
19

今日代官山で開催中の松村光くんのバッグブランド52 by HIKARUMATSUMURAの展示会にお邪魔しました。松村くんと最初に会ったのは彼がまだ武蔵野美術大学にいた頃、のちに私のファッションビジネス塾「月曜会」の受講生でもありました。武蔵美の小池一子教授の紹介で三宅デザイン事務所に就職。中国アパレル経営者訪日研修団でセミナーしたときの松村くん私が松屋の東京生活研究所時代、三宅一生さんから頼まれて、松村くんのデビューブランドGOOD GOODSの発表寸前の最終チェックの場に呼ばれました。ユニークな素材の機能的バッグ、面白かったけれど想定ターゲットの女性たちの気持ちがわかっているのか疑問になり、その場で「帰宅した女性がバッグからものを出して折りたたんでクローゼットに仕舞うとでも思ってんの?もうちょっと女性の行動、生活様式を調べて来なさいよ」と辛口アドバイス。でも、松屋でデビューコレクションの売り場を作りました。その後イッセイミヤケのプリーツプリーズ企画リーダーになり、そのとき発案したのが現在内外で爆発的に売れているBAO BAO ISSEYMIYAKEでした。そのデザインの源泉であるスペインのビルバオグッゲンハイムミュージアム(フランク・ゲイリー設計)の建物を一緒に見に行ったこともあります。彼が考案した形があってないようなバッグ(中にものを入れたら形になる)、基本は三角形の小さなピースを貼り合わせたデザインでした。「死ぬまでキミは三角形、絶対に他の形に手を出すな」と言いました。このデザインで小物からトート、手袋やサンダル、トランクまで研究してみてはとアドバイスしました。紆余曲折あってプリーツプリーツから分離独立してBAO BAOとして売り出したところとんでもない大ヒットに。最初はタイ人、その次は中国人がショップ開店前から行列を作り、都内百貨店では閉店時間と同時に翌日開店を待つ行列ができたほど。日本のお客様からも行列しても品切れで買えないじゃないかとクレームが百貨店に届き、いまも連日行列ができて品薄状態のままです。イッセイミヤケグループから独立し、自分自身のブランド52 by HIKARUMATSUMURA(52=ゴジュウニ=ご自由にという意味だそうです)を6年前にスタートしました。退職するかそれとも残るべきかを相談にきたときは、「将来独立する気があるんだったらいまだろ。BAO BAOが人気あるうちに辞めろ」と私は退職を勧めました。おそらく背中を押して欲しくて訪ねてきたんだと思います。松村くんは一般的なバッグデザイナーと違い、どちらかと言えばプロダクトデザイナーですね。だからBAO BAOが誕生しました。今回展示会で見たバッグも松村くんらしいディテールとフォルムのこだわり、これに珍しくかわいらしさが加わりました。元塾生のバッグ、販路拡大を祈ります。みなさん、応援してあげてください。
2025.02.21
閲覧総数 4392
20

日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までの51ヶ月。株式取引に全く縁のなかった一般市民が電電公社民営化で売りに出されたNTT株に群がり、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収して世界を驚かせたのも、バブルの象徴的な出来事でした。過剰な経済拡大期のあとには当然大きな反動、バブルがはじけて資産下落や不良債権処理が一斉に始まりました。ファッション業界におけるバブル崩壊は日本経済のバブル崩壊よりも一足早く起こりました。1980年代前半デザイナーブランドを扱う百貨店、ファッションビル、セレクトショップが急増。大手から中堅アパレルメーカーまでがこぞって有力デザイナーブランドの下で働くアシスタントや装苑賞などコンテストで認められた学生を青田刈り、ブランドデビューさせるケースが増えました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した頃が青田刈りデビューのピーク、ファッション業界はバブルそのものでした。経験がほとんどない若手デザイナーに高額ギャラを約束、それなりの規模のファッションショーでデビューさせる。港区、渋谷区に立派なプレスルームと立派な直営店舗を開設。ブランド立ち上がりから素材の大半はオリジナル、先駆者たちが生地屋でありもの素材を調達してブランドを開始したことを考えると随分贅沢でした。しかし世の中そう甘くはありません。デビューして2年ほど経過すると、出費だけが増え、在庫が膨らみ、売上がついてこない企業側は焦り、デザイナーとの関係はギクシャク、ブランド閉鎖が始まりました。CFDが誕生すると、どういうわけかブランドの後始末相談に来る企業や若いデザイナーが増えました。彼らが持ってくる当初事業計画書を見ると、デビュー3年後には売上10億円程度でちゃんと利益が出るプラン。しかし実際には売上は計画の半分以下で在庫は7~8億円、しばらく黒字化が見えない「机上の空論」ばかりでした。このときつくづく思いました。日本にはファッション専門学校が才能あるデザイナーをたくさん輩出してきたけれど、デザインマネジメントやマーチャンダイジングできる人材がいない。日本にもファッションビジネスのプロを育てる教育機関を作らないといけない、この思いがIFIビジネススクール設立に向けて走り出した大きな理由でした。青田刈りで失敗した例はたくさんありますが、その中で個人的に最も印象深かったのは文化服装学院出身の石川ヨシオさんです。1981年の第50回装苑賞を受賞して注目された石川さんは大手アパレルのイトキンからブランドデビュー。ところが、デビューしてすぐプロジェクトは打ち切られました。文化服装学院の小池千枝学院長に石川さんの再デビューを頼まれたのが、新規デザイナーブランドで急成長した中堅アパレルN社でした。石川さんとの交渉がとんとん拍子で進んで契約寸前になって、N社の下で既にブランドデビューしていた文化服装学院の同級生デザイナーがオーナー社長に直談判、結局石川さんの再スタート計画は見送りになりました。このブランドの責任者になるはずだったN社幹部から頼まれて、私は石川さんと面会することに。このとき、出版されたばかりの旺文社「一生たち」(三宅一生さんの三宅デザイン事務所で働くアシスタント全員が仕事への思い、ものづくりの姿勢を綴った書籍)を石川さんに手渡し、こんな話をしました。野性のライオンは束縛されることなくどこへ行くのも自由だが、日々のエサは自分で獲得しなければならない。一方、動物園のライオンにはオリの外に出る自由はないが、エサは毎日提供される。どちらのライオンになりたいのか、この本を読んで自分の進む道を考え、次回答えを持ってきてください、と。当時CFDを訪ねてくる若手デザイナーや専門学校生は、行動の自由は欲しい、エサの提供も受けたい若者が少なくなかったので、私はテキストとして「一生たち」を渡していました。石川さんの思いを聞いて、私が業界人に出資をお願いして小さなデザイン会社を作り、あとは周囲を説得してアパレル販売事業を計画してください、となりました。1口100万円で業界仲間に呼びかけ、石川デザイン事務所は西麻布に誕生しました。中立でいなくてはならないCFDの私自身は出資できませんから、親交のある小売店、メディア、アパレル工場、繊維商社の幹部たちを説得して資本金を集めました。この交友録13に登場するリッキー佐々木氏からは「(アパレル会社は)俺にやらせてくれないか」と声をかけられました。旧知のビジネスマンからは「息子をこのプロジェクトで育ててくれるなら」とアパレル会社に出資する話もありました。が、石川さんがアパレル事業のパートナーとして連れてきたのは、日本橋堀留町の織物会社国洋の奥井新一社長(ファッションコーディネイター西山栄子さんのご主人)でした。クリエーションを発信するデザイン会社を母体に、商品化して販売する別会社を起こすのが私の構想でしたが、奥井さんは発足したばかりのデザイン会社を買い取ってアパレル販売会社と一本化する形を希望。石川デザイン事務所に出資してくださった方々には私から事情を説明、奥井さんへの株譲渡をお願いし、私がお手伝いする必要はなくなりました。それから1年後だったでしょうか、久しぶりに石川さんと奥井さんが訪ねてきました。「僕たちは別れることになりました」、私の目の前で両者は互いに目を合わせることなくブランド事業からの撤退を宣言したのです。やっぱりダメだったか、と思いました。デザイナーが代表になるデザイン会社と、ビジネスマンが代表になるアパレルメーカーとは利害もスタンスも違います。両社を一本化して経営権を出資者が握るとどうしても軋轢が生まれます。互いに我慢の限界を超えたのでしょう、石川ヨシオの事業化はまたしても実を結びませんでした。その後石川さんはパリに移り住み、帰国してからは専門学校で指導しているらしいと聞きました。才能のあるデザイナーでしたから、正直もったいないと思います。石川さんと学生時代にファッションコンテストを競い合ったデザイナー予備軍には才能ある人が多く、アパレルメーカーに次々とスカウトされましたが、そのほとんどはブランドビジネスとして成果を上げることなく表舞台から消えました。(成功事例の1つマイケルコース)欧米ではデザイナーとビジネスマンが団結して売上を伸ばしている例がいくつもあります。マイケルコースのようにマネジメント側が提示した「雑貨90%、服10% 」の商品構成比(それまでは服90% )をデザイナーが理解し、大きく成長してジミーチュウやヴェルサーチを傘下におさめた成功事例もあります。ダナキャランやラルフローレンのように株式上場を達成、創業時に共に苦労した仲間に利益還元した例もあります。経営側のデザインマネジメントとお互いが立場を尊重し合う構図、クリエーションとビジネスのいい関係が日本でも増えると良いんですが。
2022.12.18
閲覧総数 6565
21

前項では文化服装学院ファッション流通専攻過程(3年制)を卒業した元部下たちのことに触れましたが、今日は文化学園を大きな学校法人に育てた前理事長の大沼淳さんとのやりとりを。大沼淳さん(1928-2020年)東京ファッションデザイナー協議会議長をだった頃、繊研新聞社編集局長の松尾武幸さんからちょっと変わった忘年会に誘われました。松尾さんの業界仲間で映画鑑賞が趣味の人との親睦会にゲストとして来ないか、と。メンバーは西武百貨店渋谷店長だった水野誠一さん(のちに社長)、オンワード樫山専務の高田健治さん(のちに副社長)、店舗システム協会専務理事の高山れい子さん、文化学園秘書室長の相澤たまきさんと松尾さんの5人。同じ映画をそれぞれ映画館で観て後日集まり、その映画をサカナに会食する会、忘年会はそれぞれがゲストを同伴する特別企画でした。このとき文化学園大沼理事長と初めてじっくり話ができました。第二次大戦直後、マッカーサー司令官のGHQは日本の官僚システムを是正するため若手官僚を集めて地方合宿、そこで米国式の民主的な組織運営を叩きこんだそうですが、人事院の役人だった大沼さんもそれに強制的に参加させられ、組織マネジメントの教育を受けました。その後、当時労働争議で激しくもめていた文化学園の争議鎮静化に尽力、人事院を退職して文化学園の理事に就任したのが28歳、1960年には創業一族でもないのに理事長に。以来亡くなる前年の2019年まで59年間ずっと文化学園理事長でした。教育者と言うよりもむしろ経営者タイプ、だから文化学園の事業を大きく伸ばせたと思います。余談ですが、この交友録46で触れた文化出版局の久田尚子さんは「私も赤旗振って(学園職員の)デモに参加してたのよ」。人事院から来た大沼さんに向かって「バカヤロー」と叫んでいたそうです。中央の眼鏡かけたスーツ姿が若き大沼理事長忘年会の前後だったと思います。私は文部省管轄ではない官民協同の産業人育成機関をつくろうと奔走し始め、主宰していたファッションビジネス私塾「月曜会」を墨田区役所の職員が見学に来ました。この私塾に賛同してくれた墨田区によって繊研新聞の松尾さんが座長を務める墨田区ファッション人材育成戦略会議が発足、専門学校と競合しないプロ人材を育てるビジネススクールの議論が始まりました。どういう対象者に、誰が、何を、どう教えるかを議論、構想がまとまったところで松屋の社長だった山中さんに理事長をお願いしようとなり、山中さんも加わってさらに議論を深めました。墨田区で議論していた人材育成プランが通産省(現在の経済産業省)マターとなったところで、私は大沼理事長に人材育成機関の説明に行きました。前項で触れたように、この席で「教育は我々に任せてくれ」と言われ、マル秘の在校生の高校時代の成績一覧表を見せてもらいました。在校生の偏差値レベルがいかに高いかをわかって欲しかったからでしょう。優秀な若者がファッション専門学校に集まっていることは東京コレクションの学生アルバイトから感じていましたし、これまで専門学校がどれだけデザイナーを輩出してきたかは十分認識していました。しかし、企業に入った若手社員に実践教育でマネジメントを教える人材育成機関を業界の力で作りたいんです、と申し上げました。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐、合計50億円の財団法人としてIFIビジネススクールは誕生。IFIの夜間プログラムを始めたのが1994年9月でした。アパレルマーチャンダイジングのクラスは墨田区戦略会議メンバーだった岡田茂樹さん(ジュンコシマダ)、小売マーチャンダイジングは私が主任講師として週1回半年間の授業を回しました。そのうち夜間プログラムは月曜から木曜日まで4つのクラス全体を私が面倒をみる形になり、さらに全日制プログラムが1998年4月に始まり、私の負担はかなり増えました。ちょうどその頃、高校3年生の息子が「文化服装学院に行きたい」と言い出したので、大沼理事長に「文化には二次募集ってあるんですか」と質問しました。真面目に高校に行かない息子には高校から卒業見込書は発行されない、頼みは見込書不要の二次募集だったからです。大沼さんは「うちでいいの」とおっしゃるので、「将来やりたいことがあってどうしても文化なんです」と説明すると、「教務に言っておくから二次募集でなくすぐ応募するように」と言われました。IFIビジネススクール設立に奔走した私が息子を文化服装学院にお願いするんですから、決してファッション専門学校に敵対する立場ではないと理解してもらえたと思います。が、それでも大沼さんは教育は専門学校が担う、業界は産学交流、奨学金制度や就職受け入れなどでもっと学校を支援して欲しいというお考えでした。文化学園内に新たに「文化ファッション大学院大学」を作ったり、文化女子大学を男子学生も入学できる「文化学園大学」に改編したのも、ファッションにおける教育は専門学校マターであって業界マターではないというお考えだったからだと思います。もう一点、大沼さんにお願いしたことがあります。東京ファッションデザイナー協議会議長を退任するにあたり、文化出版局の久田尚子さんを後継議長にしたいのでご承認ください、と。議長退任の条件は後任を決めることでした。久田さんは私と違って組織の人間、上司である文化学園理事長の許可が必要でした。大沼さんの快諾を得て、私はやっと議長から解放されました。さらにもうひとつ、大沼さんには「高田賢三プログラムをデザイン科のカリキュラムに入れて欲しい」とお願いしたことがあります。高田賢三回顧展@文化学園服飾博物館文化服装学院からはたくさんのデザイナーが世に出ていますが、最初に世界的に有名になったOBは「花の9期生」の一人、高田賢三さんです。賢三さんは時々日本に長期滞在して全国各地を旅していると長年のパートナー鈴木三月さんから聞いていたので、賢三さんの目の黒いうちに賢三クリエーションを後輩たちに体感してもらったら、とカリキュラムを考えました。1)ジャーナリストや鈴木三月さんからレクチャー。2)賢三さんのデザイン、世界観を徹底的に調べる。3)アシスタントのつもりでコレクション企画、テーマを決める。4)企画マップ作成、デザイン画を描き、制作サンプルを決める。5)シーチングでサンプルを組み、パターンチェック。6)賢三さんに1回目プレゼン。(オンラインで講評もあり)7)アドバイスを受けて修正する箇所はパターン修正。8)生地調達、サンプル制作にかかる。9)サンプル完成したらプレゼン、最終講評をもらう。文化服装学院の学生たちによる賢三コレクション、賢三さんご本人あるいは所縁のジャーナリストや研究者のレクチャーとサンプルづくりを通してクリエーションを伝える構想でした。説明を終えると大沼さんは「この先は担当者と進めて」と窓口になってくださる方を紹介してくれました。が、残念ながら賢三さんも大沼理事長も相次いで亡くなり、結局この構想は実現しませんでした。文化学園の卒業生でもない私の願いをよく聞いてくださった恩義のある方、「僕は100歳まで生きるんだ」といつも背筋をピンと伸ばして仰っていたのを思い出します。
2023.02.27
閲覧総数 4016
22

セブン&アイのそごう西武売却の話が再び延期されたニュースに驚いています。売却予定先の投資グループが傘下のヨドバシカメラ出店を池袋西武に計画していることに対し、豊島区長らが猛反対、ビルの地主である西武鉄道も反対表明、セブン&アイは簡単に売却できそうにないようです。が、長期政権だった高野区長が先日急逝し、この先売却の話はどう進むのかわからなくなりました。業界の若手の方はご存知ないでしょうが、1970年代からヨーロッパのトップブランドをライセンス提携の日本製でなく直輸入オリジナル品を販売していたのは西武百貨店だけ、ほかの百貨店はロゴをつけた日本製ライセンス商品でした。エルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミッソーニ、アルマーニ、ジャンフランコフェレ、ウォルターアルビニ、池袋西武にはオリジナル品の人気ブランドショップがズラリ、当然価格は飛び切り高く、私のような豊島区在住の一般人にはちょっと高嶺の花でした。いまは本国が日本法人を直轄経営していますが、日本上陸当初は西武百貨店がジャパン社設立をサポート、エルメスジャポン社はじめ西武の関係者が日本法人の代表を務めていました。だから西武百貨店はまさしく日本のファッションリーダーだったのです。その西武百貨店の売り場の複数階にドーンとヨドバシカメラが入る、区長でなくてもちょっと抵抗があります。豊島区民として私もこの話には反対です。アムステルダムの中心地ダム広場にあるバイエンコルフ投資ファンドが売りに出ていた百貨店を買収するケースは欧米ではたくさんあります。かつてニューヨーク五番街サックスフィフスアベニューはバーレーンの石油系投資会社、ロンドンのハロッズは同じく中東カタール投資庁が現在も所有しています。投資ファンドが買収して大改革を進めたら滅茶苦茶な状態になった事例も少なくなく、その典型的な事例がオランダ首都アムステルダムのバイエンコルフです。投資の世界では有名な米国投資ファンド(そごう西武売却のニュースの際にも売り先候補として名前があがった会社)がバイエンコルフを買収、人員整理も含め徹底的にコストカットを進めた結果、従業員のやる気は失せ、お客様の信頼はなくなり、ブランド側は取引をやめ、見るも無残な状態に陥ったとオランダ人の元従業員たちに聞きました。買収した投資ファンドは恐らく百貨店を早くブラッシュアップして高く売却するつもりで買収したのでしょうが。そのボロボロのバイエンコルフを引き継いだのが、英国セルフリッジ百貨店を傘下に持つ資本でした。かつて古臭い大衆店だったセルフリッジをファッションに強いおしゃれな百貨店へと再建したグループが登場したことで、バイエンコルフは見事に立ち直り、いまではヨーロッパの主要ブランドをズラリ並べる高級百貨店として繁栄、アムステルダムに進出してきた北米の巨人ハドソンベイを駆逐しました。ドリスヴァンノッテン、バレンシアガなど展開する婦人服フロアサカイの名前もありました気持ち良いフードコートのフロア壁面にはLED栽培の野菜も池袋駅にあった小さな百貨店を受け継いだオーナー社長の堤清二さんは文字通り日本の流通業の革命児でした。他社がライセンス商品を販売している中でオリジナル商品を直輸入して西武百貨店の地位を固め、「おいしい生活」をはじめ多くのシンボリックな広告を打ち出し、パルコを創設して若者文化を牽引、西友ストアでは無印良品を誕生させ、WAVEやLOFTのような新業態にも着手、セゾンカードを大きく伸ばし、セゾングループは一大流通企業に成長しました。しかし、いろんな不幸が重なり、西武セゾングループはあっけなく崩壊しました。グループの中核そごう西武はセブン&アイに引き取られましたが、セブン&アイの物言う株主の圧力で再び売却されることになり、投資ファンドが登場することになったのでしょう。日本の生活文化をリードしてきた企業がいつの間にかマネーゲームの中で道具のように扱われ、セゾングループの功績には全く興味なさそうなゲームプレイヤーたちが走り回る。従業員やベンダー、テナントの人々はどんな思いでいるかは軽視、無視なんでしょうね。なぜそごう西武の売却が再度延期されたのかは知りません。最終的にどういうグループの手に渡るのかはわかりません。が、世界には小売業に愛着のないファンドが参入してボロボロになった、あるいは消滅した事例が少なくないことを訴えたいです。バイエンコルフがよみがえったように、西武百貨店を再び光り輝く小売店にしてくれるホワイトナイトの登場、ひとりの豊島区民として期待したいです。
2023.04.01
閲覧総数 7199
23

前項で触れたバーニーズニューヨークの日本買い付けチームの定宿はホテルオークラでした。ちょうどオークラの向かい側のマンションには赤峰幸生さんが企画ディレクターを務めるグレンオーヴァーのオフィスがあり、私はジーン・プレスマン副社長に「アメリカントラディショナルを作っている会社だから発注はしないと思うけど、セイハローだけはしよう」と言って赤峰さんを訪ねました。 以前はアメトラを標榜するアパレル企業マクベスの企画担当だった赤峰さん、グレンオーヴァーのショールームにお邪魔するとマネキンにはダッフルコートが飾ってあり、いかにもアメリカントラディショナルという雰囲気。バーニーズにとっては自国で見慣れたアメトラですから最初は関心を示しませんでした。 ところが、グレンオーヴァーの親会社テキスタイルコンバーターのシャツスワッチを多数見せてもらうとジーンの目の色が変わりました。グレンオーヴァーの縫製は丁寧で質感があり、親会社が素材を安く提供してくれたらバーニーズオリジナルのブラウスを製造できる。アメトラの代表格ラルフローレンよりも素材、縫製仕様が上質で価格が半額なら競争力ある、さっそく特別注文することになったのです。後日バーニーズはデザインをグレンオーヴァーに送り、スワッチ台帳から素材を選び、クオリティーは高いがリーズナブルなブラウスが出来上がりました。アメトラのグレンオーヴァーのオリジナル商品そのものには興味を示さず、その代わりシャツのスワッチからバーニーズP B商品の生産を思い付く、ジーンは目利きの商売人でした。 私が赤峰幸生さんと最初に会ったのは、彼がマクベスの企画責任者だった頃です。マクベスは服飾評論家の伊藤紫朗さん兄弟が経営する会社、胸にMBのロゴが入ったスタジアムジャンパー(写真下)がヒットアイテムでした。トラッドファンに人気があったマクベスのスタジャンマクベスをはじめ多くのアメトラブランドに1978年大きな転機が訪れます。日本のメンズファッションを牽引してきたVAN JACKET(ヴァンヂャケット)が思いがけず倒産、日本のアメトラ市場にポッカリ空白ができたのです。日本には本国アメリカ以上にアイビールックを熱狂的に愛する消費者が多く、リーディングカンパニーVANが消滅したことでアパレルメーカーは一斉にアメトラ強化に走りました。大同毛織はアメトラの元祖とも言える「ブルックスブラザーズ」を、紳士服専門店三峰はブルックスのマジソンアベニュー本店の並びに店を構える「ポールスチュアート」を、大手アパレル企業オンワード樫山はブルックスの向かい側「J・プレス」を導入してそれぞれアメトラを強化、マクベスはJ・プレスの横にあるCHIPP(チップ)と提携して販路拡大を狙いました。私がニューヨークに渡って記事を書くこと以外に最初に携わったビジネスプロジェクトは、マクベスとマジソンアベニュー東44丁目のチップとの提携でした。加えてマクベスはチップの米国内リソースから商品直輸入を計画、私がニューヨークでベンダー各社との交渉を担当しました。 20世紀初頭コネチカット州ニューヘイブンで開業したJ・プレスの従業員が独立してトラッド激戦区のマンハッタン東44丁目にオープンしたのがチップ。2代目ポール・ウインストン氏と交渉してチップの日本展開が決まりました。また、マクベスはポロシャツ専門の老舗キューナート社、アメトラ路線のバッグやベルトのトラファルガー社、紳士傘のアメリカンアンブレラ社などから直輸入を始め、マクベスアメリカとしてトラッドショップに販売しました。 私はポールに頼んでチップの地下倉庫の中にマクベスとの連絡用テレックス(当時はまだファックスもネット通信もなかった)を設置してもらい、発注フォローや出荷情報をマクベスに送っていました。そのときチップの視察と買い付けのためニューヨークに来たのが赤峰さんでした。かつてのグレンオーヴァーを着る赤峰幸生さん(繊研新聞より)グレンオーヴァーの織りネーム数シーズン後チップの契約とマクベスアメリカの直輸入は私の手から離れ、赤峰さんはマクベスを去ってグレンオーヴァーに参画、そしてマクベスの倒産、日本でチップがどのような足跡を残したのか詳しくは知りません。が、赤峰さんとは個人的にやり取りが続き、前述のようにバーニーズPB商品で再び繋がりました。PBのブラウスはクオリティーと価格のバランスがよく、バーニーズのお客様には好評でしたが、全て赤峰さんらのお陰です。CFD設立のため1985年に私が帰国すると、どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、アメトラの申し子だった赤峰さんはクラシコイタリアの伝道師になっていました。出張先はニューヨークでなくフィレンツェ、イタリアの職人的ものづくりに惚れ込み、アメリカのことよりもイタリアのデザインや伝統文化、テキスタイルや縫製技術のことを熱っぽく語る赤峰さんにはびっくりでした。イタリア大使館との繋がりもあったのか、当時都内で人気のイタリアンレストランのアドバイザーも務め、イタリア人従業員の労働許可の世話までしていましたから。1994年にIFIビジネススクールの授業が始まり、夜間プログラム「プロフェッショナルコース」ディレクターだった私は赤峰さんに指導協力をお願いしたので、赤峰さんのものづくりの話に強く感化された受講生はたくさんいます。現在もコンサルティングあるいは顧問デザイナーとして活躍されていますが、生涯現役でファッションの楽しさ、奥深さを若者たちに伝え続けて欲しいです。
2023.05.11
閲覧総数 6556
24

昨年秋に出会って以来懇意にしている中国コンサルティング金時光さんから「ニュージーランドの羊牧場に行ってみませんか」と誘われ、初めてニュージーランドに出かけました。Lake Wanaka湖畔のホテル裏庭オーストラリアのシドニー空港まで9時間、乗り継いで南島クイーンズタウンまで3時間のフライト。残雪の山脈に囲まれたクイーンズタウン、そこから車で1時間の近隣ワナカ湖畔の景色は実に美しく、まるでスイスアルプスに来たような印象でした。宿泊したワナカ湖畔のエッジウォーターホテル、部屋のテラスを出るとすぐ目の前はワナカ湖、庭にはカモが飛来、湖面を照らす日の出と山に沈む夕日を見ることができ、ひと言で言うなら楽園、バカンスなら最高気分だったでしょう。翌朝ワナカ湖から車で1時間くらいの所にあるFOREST RANGEという名の牧場主エマーソン一家を訪問、まずは羊の毛を刈り取る作業場を案内されました。1日一人約200頭の毛を刈るステージ1頭ずつ塊で陳列してありますエマーソン一家は創業150年の牧場、3代目ラッセルとジャネットご夫妻、4代目ご子息デイビッドから牧場のこと、生産しているメリノウールのことを詳しく説明がありました。おそらく一家の管理する土地は八王子市全域の広さとほぼ同じでしょうか、とにかく広いんです。彼らが管理する羊は現在14,000頭、最盛期には70,000頭いたと言いますからかなりの減産状態。が、減産してはいますがメリノウールのクオリティーを上げて量より質向上の努力をしていることがよくわかりました。年号ごとに毛の細さの進捗状況を表記作業場の壁にはGENETIC PROGRESS(遺伝的進捗)の表記、1982年から毎年メリノウール糸の細さがどのように推移してきたかがわかります。1982年が19.56マイクロメートル(1ミリの1000分の1の太さが1マイクロメートル)、現在は11マイクロンに到達したそうです。カシミヤの太さが約14から16マイクロン、一般的ウールが約19から24マイクロンですから、エマーソン一家が生産するメリノウールはかなりの極細繊維です。彼らのメリノウールがカシミアよりも細いとは想像していなかったので驚きでした。近年は羊毛の管理はバーコードとコンピュータ。飼育する羊の耳には全頭バーコードを付け、刈り上げたあとはそれぞれの羊の毛がどれくらい細いかを検査してデータを残します。下の写真のデータには、総重量が4.25kg、太さは11.0MICRONとありますから、この羊の毛はかなり上質だとわかります。この毛の塊からは超極細の糸が生まれます羊毛生産の現場もいまやコンピュータ管理ラッセルさんに聞きました。メリノ種の羊は毛を刈り上げた後24時間ほどで厚い皮下脂肪ができ、丸裸になっても寒さに耐えられる習性があるそうです。出なければ羊は風邪をひいてしまいます。春に気温が上昇する頃、この牧場では一斉に刈り取リます。そんな説明を受けていざ広大な牧場へ。我々が到着すると、遠くで群れをなしていた羊を牧羊犬(シープドッグ) ウエルシュ・コーギー・カーディガンが我々の目の前まで誘導してきました。飼い主さんが何を求めているのか理解している、実に賢いワンちゃんなんです。4代目デイビッドがさらに檻の中に羊数頭を追い込んで表の毛をガバッとめくって中の暖かくて白い毛を触らせてくれました。賢いワンちゃんが群れを誘導よく見ると1頭ずつ顔が違いますそのあと丘陵地帯をランドクルーザーで肌寒い山頂まで登り、眼下に広がる羊牧場や放牧するための山々を見せてもらいましたが、とんでもなく広くてびっくりでした。1,000メートル級の山頂付近にもたくさんの羊の排泄物が転がっていましたから、羊はこんな高い山頂まで登り、その寒さに備えるためもっと毛が生えてくるんだろうと素人の私にもわかりました。山から羊を追うのはワンちゃんだけでなく、時々小型ヘリコプターを使って麓まで下ろすそうです。左は3代目ラッセルさん、右は息子のデイビッドさん久しぶりに目にしたウールマークかつてウールを世界に広めるための広報宣伝部門IWS(国際羊毛事務局)という機関がありました。羊毛公社が牧場から羊の毛を買い上げるとき1頭につき1ドル(ポンド?)をプール、その資金を使ってウール製品を製造する会社にIWSは補助を出し、アパレル製品にはウールマークの下げ札が付いていました。1980年代後半中国解放政策で中国人がオシャレをし始め、将来の中国需要を見込んで羊毛公社は羊毛増産を計画。ところが天安門事件で需要が一瞬鈍化、大量の原毛在庫が増え、IWSが補助金を出すことが難しくなってウールマーク下げ札は売り場から消えました。当然原毛生産現場では減産が始まり、オーストラリアやニュージーランドの生産者は窮地に。おそらくエマーソン一家が70,000頭を飼育削いていたのはこの頃ではないでしょうか。その後もリーマンショックやコロナウイルスの不景気もあり、さらに地球環境の変化で天候不順もあったでしょう、150年の間には山あり谷ありだったと思います。近隣牧場主は牛の飼育を開始してリスクヘッジしましたが、エマーソン一家は牛の生産には手を染めず、先祖から受け継いだ広大な土地で羊だけ飼育する道を選び、少しでも良質なメリノウールを生産しようとこれまで努力してきました。山を登る羊たちそして、ニュージーランドの国立大学大学院を卒業後ニュージーランドの羊毛洗浄機械の最大手に就職してから母国に戻った中国人エンジニアと信頼関係を結び、エマーソン一家は原毛の大半を中国に出荷するようになったと聞きました。今回牧場視察を勧めてくれたのはこの中国人エンジニアとビジネスパートナーの金さんです。エマーソン一家の上質メリノウールをアパレル製品化し、世界に販売したいというのが彼らの夢なのです。先祖代々の仕事を守る純朴なニュージーランド人、それを支援する中国人エンジニアとビジネスパートナー国籍を超えた友情を目の当たりにして、日本人の私もお手伝いできることがあると思いました。素晴らしい景色に癒され、真摯なものづくりと友情に触れ、短い滞在でしたが充実した出張でした。
2024.10.22
閲覧総数 8672
25

かつてフランス経済団体コルベール委員会が日本百貨店協会に加盟する全国の百貨店経営者をパリに招いたときのこと。シャネルはちょうどパリコレ開催中だったのでファッションショーに、エルメスは自社バッグ工場の視察で参加者を歓迎、そして別のブランド企業はベルサイユ宮殿の一室で晩餐会をセットしました。 ありし日の古屋さん(左)このときホスト役C E Oの隣席は私のボス、松屋の古屋勝彦社長(=当時)でした。松屋は銀座本店と小型の浅草店の2店舗だけの「東京にある地方百貨店」、ほかの参加者は全国にたくさん店舗を有する大手百貨店、しかもこのブランドショップを5店舗以上手掛ける百貨店が数社ありました。が、主賓席は銀座店のみショップ展開する松屋社長、帰国するとボスは「主賓席だったのでびっくりしたよ」と笑っていました。 おそらく出店交渉時にC E Oと古屋社長は直接やり合ったからでしょう。概して欧米企業のトップは会社の規模や展開店舗数でものごとを判断しません。喧嘩したあとの握手は強いとよく言いますが、C E Oとの信頼関係ができていたからの席順だったのでしょう。 長年ニューヨークファッション業界のユダヤ人社会(バイヤー、メディア、デザイナー、アパレル経営者の大半がユダヤ系)で揉まれた私、喧嘩したあとの握手は強いということをたっぷり経験しました。彼らは名刺にある会社名や肩書きで人を判断しません、あくまでも個人そのものを見ます。提携先、出店先の選択も単純に企業が大きい小さいではありませんから。 大学卒業してニューヨークに渡った私、最初にできた友人はニューヨーク市郊外のガーデンアパートに住む隣人ユダヤ人夫妻スティーブとタリーでした。米国生まれのスティーブの父親はミリオネラー(百万長者)、母方祖父はビリオネラー(億万長者)、つまり大金持ちユダヤ人家庭、イスラエル生まれのタリーは結婚寸前までイスラエル軍の女性兵士でした。 彼らのアパートにディナー招待された日のこと。その日はたまたまユダヤ人にとって重要な宗教記念日「パスオーバー」でした。エジプトで奴隷だったイスラエルの民たちがモーゼに導かれてパレスチナに脱出した(チャールトン・ヘストン主演映画「十戒」で海が突然割れて逃げ道ができたシーンは有名)という聖書「出エジプト記」の故事を再確認する日でした。出エジプト記の映画「十戒」 数千年前のエジプトからの集団脱出を決して忘れない、私たちと同世代のユダヤ人がパスオーバーの儀式を現代も継承しているのです。私のためにヘブライ語ではなく英語でやってくれた特別な祈りの言葉、「あのとき流した涙を忘れるな」、「あのとき流した汗を忘れるな」、「あのとき流した血を忘れるな」、この文言には正直びっくりでした。 そして、ディナーのあと彼らの書棚を見て再びびっくり。そこには日本の童話「一寸法師」、「花咲か爺さん」、「猿かに合戦」などの本が数冊並んでいたのです。どうして日本の童話がここにあるのかスティーブに尋ねました。 長い間ユダヤ人には国がなく、住んでいる場所をいつ追われるかわからない生活を強いられてきた。いつ追われても次の居住地で子供達が現地の子供の輪に入っていけるよう、いろんな国の童話や民話をユダヤの子は学ぶ、スティーブはそう説明してくれました。これがユダヤの伝統なんですね。 日本人ビジネスマンは名刺の肩書きや会社名で人を判断しがち、だから初対面には必ず丁寧に名刺交換しますし、もらった名刺は大切に保管します。しかしながら転職することもあるでしょうし会社が合併または倒産することだってあります。さらに肩書きや部署はコロコロ変わりますから、名刺情報はその人の単なる名札みたいなもの、人物評価できるものではありません。 名刺ではなく人物そのものを見る。ビジネスの交渉は下手に妥協しない。とことんやり合って握手もあれば決裂もある。ニューヨーク時代ユダヤ人ビジネスマンに教わったことです。 だから各国有力ブランドと交渉する際、私はボスに進言しました。ジャパン社を通さずに本社経営者とトップ同士サシで交渉してください。仮に決裂しても良いじゃないですか、しっかり条件闘争しないと相手に尊敬されませんから、と。また社内研修では「企業の価値は規模ではない」、「弱気なビジネス交渉はしないように」と多くの社員に伝えてきました。 最近交流が始まった中国ビジネスマン(言い換えれば華僑)もユダヤ人によく似ていると感じます。名刺情報よりも相手との会話から人柄をはかり、人物評価します。ほとんどの中国経営者は名刺を持っていませんが、話が弾んで相手が気になればWeChat(LINEのようなもの)交換。だから最近私も名刺を持たずに中国出張します。 会社名や肩書きで人を判断しない、日本人にはなかなか馴染めない仕事の流儀。
2025.08.19
閲覧総数 2220
26

一昨日、毎日新聞社元出版局長だった仁科邦男さんがセットしてくれ、30年ぶりに大住広人さん(元社会部記者)と上杉恵子さん(元ファッション担当記者)と4人で会食しました。大住さんはかつて毎日新聞社が経営危機に陥り、旧会社と新会社に分離して再スタートを切る非常に厳しい時期に毎日労働組合委員長として経営陣とやり合ったリーダー、カーリング競技で有名になった北海道北見市出身です。上杉さんは北見北斗高校の大住さんの後輩、仁科さんは大住さんの部下だった社会部記者、3人とは私の盟友だった市倉浩二郎さん(毎日新聞編集委員)繋がりです。右から大住広人さん、私、仁科邦男さん、上杉恵子さん話は直近の総選挙結果、高市内閣の方針、中国政府の動向、32年前に急逝した市倉さんや毎日新聞OBのことなどで大変盛り上がりました。そして32年前の出来事が克明に蘇りました。1994年4月1日金曜日、わがCFD(東京ファッションデザイナー協議会)が主催する東京コレクション初日、イッセイミヤケのプレゼンは小田急線代々木上原駅の同社オフィスでした。初回は主にマスコミ関係者向け、私は2回目のプレゼンに出かけました。終了後私は渋谷に移動、西武百貨店B館脇にあるカフェを通りかかったらたまたまそこに帽子デザイナー平田暁夫ご夫妻と市倉さんらの姿が見えたので合流しました。海外出張中ストレスからお尻に大きな腫れ物ができて切開手術したばかりの私は、健康のため有機野菜だけを煮た野菜スープを飲み始めたところだったので市倉さんと平田さんに「絶対に飲んだ方が良いよ」と勧めました。市倉さんは「あんな不味いもの飲めるか」と却下でした。カフェのあと私たちは次のユキトリイのファッションショーに向かいました。このショーの数ヶ月前に行われた鳥居さんの紳士服コレクション発表のとき平田さんを各席からエスコートして市倉さんは素人モデルのひとりとしてステージに上がりました。このときの写真がこちらです。メンズショーに素人モデルとして参加した市倉さんユキトリイのショー終了後関係者の打ち上げがあり、市倉夫妻、平田夫妻も参加するはずでしたが、美登子夫人(元文化出版局ミセス編集長)に「寒気がする」と告げたので市倉夫妻は打ち上げに向かわずそのまま帰宅しました。翌2日土曜日夕方は羽田空港整備場でコムデギャルソンのショー。ところがどういうわけか出席するはずの市倉さんは欠席、私はどうしたんだろうと思いました。後日聞いたら、ショー開催時間の頃市倉さんは意識を失って西国分寺の府中病院に救急搬送されていたのです。入院数日後奥様から連絡をもらい、私はこの日の予定を全てキャンセルして府中病院に飛んで行きました。なんと市倉さんは集中治療室、意識不明でした。原因は風邪の菌がどういう経路か脳に入ったらしい、それ以外のことはわかりませんでした。それから連日私は朝一番に病院に駆けつけ快復を待ちました。このとき集中治療室前を通る看護師さんを呼び止めて容態を取材し私たちに教えてくれたのが、社会部記者時代の市倉さんの上司だった大住広人さんでした。4月24日、奥様の許可を得て私は集中治療室に入りました。意識不明のままベッドに横たわる市倉さんに声をかけると、微動だに動かないけれども彼の目から涙が溢れました。「わかってるぞ」というサインでしょう、私の呼びかけに精一杯応えてくれました。4月25日夕方、私は馴染みの寿司屋に奥様への差し入れにお寿司を握ってもらい、府中病院に向かいました。集中治療室前に到着したらドクターから全員病室に入るよう指示があり、数分後に市倉さんは息を引き取りました。テレビドラマのご臨終シーンと全く同じ、脈拍数がどんどん低下、最後に0になったところでご臨終宣告でした。享年52歳、あまりに若すぎる死でした。市倉さんと私社会部記者としてロッキード事件を取材、当時の三木武夫総理大臣を降板させようと策を練る田中派と福田派幹部がホテルの一室で密談している場面をスクープし、田中角栄事務所から猛烈な抗議があったことで社会部から異動せざるを得なかった生粋のジャーナリストは原因不明のまま亡くなりました。私は大住さんと話し合って奥様に提案しました。「自分の死因もわからないなんて新聞記者として絶対に納得していないはず。奥様は辛いだろうけど司法解剖して原因追求してみませんか」と。美登子夫人の了解のもと死因を探るために解剖しましたが、結局原因不明のままでした。翌日からお通夜と告別式の準備。毎日新聞関係は大住さんが、ファッション関係は私が担当。大住さんから「毎日新聞は社長が弔辞を読む、ファッション村からはあんたがやれ」と命じられましたが、私にはしっかり弔辞を読む自信がありません。そこで平田暁夫さんにお願いしたところ、「あんた、(心臓の悪い)平田を殺すつもり!」と平田夫人に叱られました。でも平田さんが引き受けてくださり、大勢の参列者にも来ていただいた立派な告別式でした。亡くなった翌日、ユキトリイのショーを長年演出してきた木村茂さんから恒例の木村家での誕生会を中止した方が良いだろうか相談がありました。「市倉だったら絶対にやれと言うに決まってる」と助言、私も参加しました。このとき酔っ払った私は「なんで市倉が死ななきゃいけないんだ」と人生で一番の大号泣、参加者の皆さんに大変ご迷惑をおかけしました。市倉さんはパリコレ出張の直前に取材のためCFD事務局に来ました。このとき「今回を最後にパリコレは後進に譲り、俺は国内でデザイナーを陰で支える技術者や生地屋、縫製工場を取材して本を書きたいんだ。おまえ、手伝え」と言われました。編集委員歴が長いのにまだ1冊も本を書いていない男がやっとその気になったと思っていたら時間は残されていませんでした。友人としてはせめて1冊著書を残す時間を与えてやりたかった。私は自分自身のことも考えました。マーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後渡米したのに、帰国してずっとデザイナーのサポート業務と東京コレクション運営、もしこのまま死んだら死にきれない。市倉さんのように人生の終わりは突然やってくる、その前にやりたい仕事をやらなければとCFD議長辞任を決意。その決意のほどを書いたレポートをたまたま読んだ松屋の古屋勝彦社長に誘われ、1年後私は百貨店に移籍しました。CFD議長退任記者会見当日、市倉さんの1周忌に合わせて私が編纂した遺稿集が記者会見場に届き、あのご遺影を表紙に配した本の最終チェックをしてから壇上に上がりました。直前に市倉さんの遺影を見たものですから涙が溢れ、言葉に詰まってまともな記者会見は無理でした。壇上で泣き崩れる私に集まった記者団から「がんばれ!」の声援が飛ぶなんともおかしな記者会見でした。遺稿集1周忌の遺稿集「新聞記者市倉浩二郎さんはこんな人」、執筆を嫌がる大住広人さんに「あなたは書かなきゃいけないだろっ」と言って書いてもらいました。部下思いの大住さんから預かった原稿を読みながら、私は涙を流して赤ペン入れたことをいまも覚えています。
2026.02.20
閲覧総数 1350
27

1999年当時松屋銀座にはパリコレ人気上位ブランド20傑のうち導入していたのはイッセイミヤケのみでした。銀座に本店がありながら、これはあまりに寂しい。社長に大改装と人気上位ブランド一括導入を進言、賛同を得て2001年オープンに向け社内で議論が始まりました。まず最初に導入交渉を始めたのはマーク・ジェイコブスがディレクターに就任して人気急上昇中だったルイヴィトン、日本で最も品揃えの良い大型店導入をジャパン社ではなくフランス本国の経営トップに打診しました。最初にこの大型LV店が先行オープン、ちょうどその日は読売ジャイアンツ優勝パレードの日と重なり、銀座通りは見物客とLVオープン記念商品をお求めのお客様でごった返しました。最後列のお客様が店内に入れたのは閉店時間寸前だったことを覚えています。LVのほかディオール、セリーヌ、フェンディ、ジャンポールゴルティエ、ドリスヴァンノッテン、マルタンマルジェラ、ヨウジヤマモト、マルニの単独ショップを一斉にオープン。フセインチャラヤン、アンドゥムルメステールなどを扱うセレクトゾーンも開設するなど、ミラノ、パリコレ人気ブランドが勢揃い、松屋銀座は大変身しました。1999年オープンしたRita's Diaryショップ入口VP通路でもイベント開催4階VPスペースでも告知このときもうひとつの改革、それは若い女性社員のバイヤー登用でした。2階に国内ブランド中心と海外ブランド中心の2つの自主編集自主販売セレクトショップを作り、女性バイヤーやコーディネイターに品揃えを託しました。前者がRita's Diary(リタズダイアリー)、後者は当時ニューヨークで注目されていた新しい消費者の呼称に因んでPark Avenue Princess(パークアベニュープリンセス。パークアベニューに住む富裕層のお嬢様たち)。リタズダイアリーは品揃えのみならずショップの名称、ショッパーのデザインも若手女性社員に「自分たちで考えてごらん」、と。そして彼女たちが付けた名前がこれ、仮想リタちゃんの生活価値観を表現するショップを作りたいという話でした。私は施工業社のありきたりの什器やショップデザインをやめ、ここだけはリタちゃんの生活感がある空間演出、家具を什器として使って商品陳列するよう命じました。現場から「アンティーク家具でも良いでしょうか」と質問。米国映画やテレビドラマで女優が出てきそうなバスタブにタオルやソープなど雑貨を並べる、クローゼットには服を並べる、大きな籐のカゴにアクセサリーを入れる、アンティーク家具が欲しいと言うお客様が現れたらそのままお分けする、とにかくリタちゃんの日常を感じさせる雰囲気を演出するよう言いました。彼女たちはアンティーク家具屋さんから壊れそうなクローゼット、使い込んだソファやキャビネットなどを購入、これを什器としてリタズダイアリーはスタートしました。展開ブランドの中核はミナペルホネン(皆川明さん)、これにミントデザインズ(勝井北斗さんと八木奈央さん)、ソックスとTシャツのアンティパスト(この3つは現在もお付き合いあります)、そのほか小規模メーカーや若手ブランドを中心に展開。地下ウインドーのミナペルホネン展示銀座線地下通路のポスターあれから4半世紀、現在25周年記念イベントを開催しています。会社として紆余曲折あり、現場は何度も挫折を味わい、フロア移動も改装もあってオープン時の面影は薄くなりました。が、経営者の理解もあってどうにか25年周年記念イベントを迎えることができました。銀座線地下通路のウインドーを眺めながら、正直言って「ここまでよくもったなあ」と思いました。あのときバイヤーに指名した若い女性は成長して執行役員本店長に、25年前オープン時には想像だにしなかったことです。どの百貨店もお取引先は20世紀末とは大きく変わり、ブランドショップ展開が増え、百貨店社員が販売する売り場は極端に減少、リスクの大きい自主編集自主販売型売り場はほとんど姿を消しました。この先自主編集自主販売売り場がゼロになれば、もう業態として「百貨店」ではなくなり、単なる場所貸し不動産業になってしまいます。いくらファッションが大好きな学生を採用しても、彼らを配属できる売り場は多品種すぎて全てをお取引先に任せられないデパ地下か、お取引先が販売員を出せない家具、インテリア雑貨売り場しかありません。百貨店業を継続するためにも、生き残った百貨店は自主編集自主販売セレクトショップ売り場を維持しなければなりません。でないとファッションに興味ある若者はもう百貨店には就職してくれませんし、大改装に向けた各フロアのブランド編集をプランできる人材は社内にいなくなります。人材育成のためにもこうした自主セレクトショップは仮に完全買取のリスクがあろうとも守らなければならないのです。百貨店に就職したらデパ地下に配属されるだけ、なんてことにならないよう自主セレクトショップに関わる百貨店スタッフは敵情視察で競合店などをよく調べ、できるだけ多くの展示会やショーに顔を出し、1点でも多くの商品に実際に触れて欲しい。加えて、マーチャンダイジングの基本を疎かにしない。マネキンにかける服を何の法則もなく無造作に選ばない。販売計画はできるだけ綿密に立てる。お客様と一定の距離感を保った心地良い接客を心がける。ぜひ実践して欲しいです。
2026.06.03
閲覧総数 556
28

私が入学した明治大学は過激派学生がキャンパスを占拠したため一般学生は校内に入れず、経営学のテキストをたくさん購入させられたものの授業は休講でした。入学直後に経営学で学んだのは「フォード大量生産方式」、それ以外授業を受けた記憶がほとんどありません。私たちよりひと世代年長の経営者たちも学生時代はおそらくフォード大量生産方式を学習、トヨタ看板方式を学問として学んだ人はまずいなかったでしょう。だから昭和期のアパレルメーカー経営はたくさん生産して原価を少しでも下げるのが本流だったと思います。我が校の大先輩でありメンズファッション界では神様だった石津謙介さんの大手アパレルVANの経営破綻は大量在庫が原因。VANのアメリカントラッドは流行に大きく左右されるスタイルではなく、主力はベーシックなジャケットにボタンダウンシャツ、大量生産しても比較的不良在庫になりにくい商品。一度にたくさん作れば生地代、付属品代、縫製工賃を抑制することができ、需要以上に作り過ぎたのでしょう。経営破綻時の負債総額と在庫の数字にはびっくりでした。VANが倒産した1970年代後半アパレル経営者はトヨタ看板方式を正しく理解していません。だから作り過ぎや超過在庫は業界では当たり前、アパレルメーカーの倉庫には段ボール箱が積み上げられ、箱にはシーズン名が書いてあるけれど社員の多くは気にかけない、そんな状態でした。エルメスはアウトレット店を持たない数少ないブランドミナペルホネンは直営店で期末セールをしない昭和期が終わっても当時のパソコンソフトでは正確な在庫量が不明、しかも委託販売取引もあって本社では正確な在庫量を把握できない。さらに悪いことに、ブランド責任者は自分たちの業績を上層部にアピールするため在庫を正しくレポートしない、気を許すと倉庫に在庫ダンボールがどんどん積み上がる、上層部が気付いたときは手遅れでした。メインバンクから最大手レナウン改革に出向した役員さんから、大倉庫を視察して腰を抜かしそうになったと聞いたこともありました。食料品と違って衣料品は物理的に腐らない。倉庫に段ボールを積み上げてほったらかしにしておいても箱の中から嫌な匂いは出ません。生鮮食料品のように腐るなら誰もが気にしますが、匂いが出ないから始末が悪い。化粧品も同じ。資生堂創業家の福原義春さんが社長就任直後、全国の花椿チェーンから戻ってきた化粧品の大量在庫(私の記憶では6百億円以上)を一気に廃棄処分。このときある経済誌がどういうわけか「お坊ちゃま経営」と嫌味な記事を書きました。私は福原社長の英断と批判記事をいまもはっきり覚えています。自分がアパレル経営者になったとき、資生堂池田守男社長(=当時。福原社長の秘書室長だった方)に福原さんの英断と経済誌の批評記事のことを話したら、「福原の処分から10数年、また在庫は増えました」と嘆いていらっしゃった。化粧品も衣料品と同じ、物理的には腐らない。アパレル企業に転じてすぐ、それまでの決算書を見ながら私は疑問を持ちました。在庫金額が怪しい、と。アパレル業界ではあるある話「在庫はどうにでも操作できる」。漠然と疑問を持ちました。製造してから5年経過しようが商品はほとんど経年劣化しません。腐らないから古い在庫を「正規在庫」として保有することは可能です。これから経営するのに現状を正しく把握したいと思い、各部門責任者に現時点の在庫の正確な一覧表提出を求めました。ところが誰も聞いてくれません、外部から来た経営者の要請なんて無視。ご多分に漏れず操作しているのかもしれない、彼らの無視に私は不信感を持ちました。ずっと経営トップには隠し通してきたのかもしれません。そこで生産管理部門にいたIくんを呼び出しました。全ブランドの当該シーズン以前の全品番の在庫リストを作成してくれないか、と。しばらくしてIくんが何枚にも及ぶ在庫一覧表をもってきました。品番、枚数、在庫金額の一覧表、その最後の合計欄の数字にびっくり仰天、3年間は新しく商品を生産してはいけないくらいの在庫でした。倒産したBarney's New Yorkマジソン店Iくんの在庫一覧表の中にとりわけ異常に多い在庫金額の品番が3つあったので、ここに3品番の現物商品を持ってきてくれないかと頼みました。仮にそれぞれ3色展開ならば3品番3色で9枚の商品が来るはずでした。ところがIくんがもってきたのはなんと1種類、色はベーシックな黒、白、グレーの3色。つまり同じデザインのトップスが別々に3品番に分かれていたのです。色はベーシックカラー、アイテムはシーズンレス定番、大量に製造しておいても不良在庫にはならないと責任者やMDは判断したのか、それともそれ以外の事情があったのかはわかりません。ほかにもシーズンレス商品を中心に意図的に品番振替してあたかも新しく別の商品を作ったかのように処理されているものも。アパレル企業なら多くの会社がやっている手口なのかもしれませんが、在庫の全数量と金額に私は恐怖感を抱きました。そこで片腕の常務取締役に、「これから3年以内に全部旧在庫を処分する。今後品番振替は禁止。いくらベーシック商品であろうとも過分な作り置きはするな」と命じました。次に、ベテランの女性技術者を呼んで3品番に分かれた異常に多い在庫の3色トップスに後加工を施しデザイン変更可能かどうかを訊ねました。彼女はすぐに黒と白の後加工を提案、デザインを変えて販売することに。しかしグレーだけはデザイン変更の妙案なくそのまま販売しました。製品在庫のほかにテキスタイルの在庫も多く、染め直しできるものは後加工、処理できないものは廃棄処分、とにかく3年間で在庫ゼロ、適量生産を目標にみんなで頑張りました。通路に大量のセール品が並ぶSaks Fifth Avenueサンフランシスコ店3年目決算は酷いものに、グループ内の誰も評価してくれませんでした。わかってもらえず馬鹿馬鹿しいので退任しようかと考えていた矢先、取引銀行支店長が飛んできました。その大手銀行の査察に入った金融庁係官が3年間の我が社の決算書を見て「よくやったね」と褒めてくれた、と。この係官のおかげでもう少し頑張ってみようと退任を思いとどまりました。それがなければ私は3年で退任していたでしょう。そして雇われ経営者丸10年、正式に社長退任する日の全体終礼で集まった社員に就任当初の在庫がどういう状況だったのか、それを工夫してどうデザイン変更したか、現在会社には古い在庫はない、と詳細を初めて説明しました。私が退任した後も作り過ぎはしない、在庫は余分に持たない、肝に銘じて仕事してくださいと訴えました。これまでみんなに黙っていたのは外部から来た経営者の矜持、そんなつもりでした。その後の後継経営者たちの手腕もあって現在素晴らしい経営状態にあると漏れ聞いています。あのときIくんが正確な在庫レポートをまとめてくれたおかげで旧在庫がない、創業者の名に恥じない健全な会社になりました。Iくんは寡黙な職人タイプ、実直でありがたい部下でした。数年前に退職した彼の訃報が先日届きました。若すぎます。心からご冥福をお祈りします。
2026.06.26
閲覧総数 276
29

今回メリノウール施設視察ツアーをアレンジしてくれたラッセル&ジャネット・エマーソン夫妻の勧めで、クライストチャーチ市に本社があるニュージーランドを代表するファッションブランドuntouched word(アンタッチドワールド)を表敬訪問しました。マルベリージャパンや八木通商で活躍した馬場宗俊さんからも「ニュージーランドに行くならぜひ創業者のペリさんに会ってください」と言われ、馬場さんが事前にPeri Drysdaleさんにメールを入れてくれました。私はてっきり男性ビジネスマンだと勝手に想像していましたが、現れた創業者は立派なブランド哲学をもつ女性でした。創業者ペリさん本社横の本店奥のカフェも賑わっていましたuntouchedの日本語訳は「手付かず」、他国のファッション企業が手を付けないニュージーランドならではの独自路線を歩むブランドということでしょうか。ニュージーランド先住民マオリ族と英国移民との間にはかつて壁あるいは差別があったそうですが、ペリさんが起こしたブランドはマオリ族文化との融合をうたっています。また、ブランド立ち上げ時から持続可能なものづくりとMade In New Zealandに徹底的にこだわり、サステナブルとオーガニックな暮らしを提唱しています。なのでブランドのシンボルマークはマオリ族の伝統的な凧のモチーフ、服には凧が刺繍され、店内のあちらこちらに凧のオブジェがあり、オーガニックカフェで出されたカフェラテのカップの中にも凧が描かれていました。マオリ凧は壁にもカフェラテにも同行の中国テキスタイルエンジニア田さんがエマーソン家が作る極細メリノウールを用いたニットサンプルや生地見本をカフェで見せ始めると、ペリさんは隣接アトリエからデザイナーたちを呼び寄せしばしメリノウール談義。ペリさんとデザイナーたちは田さんのスワッチに触れながら「素晴らしい」を連発。でも、ニュージーランド製にこだわるアンタッチドワールドですから、メリノウール自体は自国産でも中国で紡績する糸に果たして興味を示したかどうか、私にはわかりません。とにかく自国生産にこだわり続ける信念の会社ですから。ワナカの直営店での子供服展示なぜかオバマ元米国大統領が広告に一役買っています翌日訪れたワナカ地区の直営店でも、翌々日訪れたクイーンズタウン市のセレクトショップでも商品は丁寧に美しく陳列され、ブランドの基本的コンセプトを消費者に知らせる文字が目を引きました。商品は基本的にベーシック路線、素材の質感が十分に伝わります。メリノのニットやTシャツ、個人的に欲しいものがいくつかありました。ニュージーランドのメリノウールの素晴らしさは田から教わり私もそれなりに承知していますが、ニュージーランドの紡績、撚糸、織物や縫製技術がどこまでなのか知識があるわけではありません。が、アンタッチドワールドの商品に触れる限りはブランドビジネスに耐えうるレベルでした。日本から遠く離れた国のファッションブランドですが、やり方次第では日本市場でもしっかりビジネスできるのではと思いました。明確なブランドコンセプトと使命感、ものづくりの信念を持って自国生産にこだわる姿勢、日本のアパレル関係者にも見習って欲しいと思いました。本社エントランスのシンボルマークの前でペリさんと記念撮影untouched worldの詳細は以下にhttps://www.untouchedworld.com/
2025.04.08
閲覧総数 4781
30

来日した中国アパレルの経営者を案内して百貨店の売り場を歩いていたとき、ヨウジヤマモト婦人服ショップでロングコートに目が留まったようなので紳士服フロアのヨウジママモトに案内、よく似たメンズコートを勧めました。背が高い方なのでたっぷり分量のロングコートはよく似合っていました。試着したあとお買い上げ。決済に銀聯ゴールドカードをショップスタッフに手渡すと、銀聯ゴールドカードは10%割引があると販売員が説明してくれました。銀聯カードにはそんなサービスあるんですね。もしも同じコートを中国内で購入するとなると日本より高い消費税(内税)が加算されるので日本価格の2倍ほど。日本の消費税免税、銀聯ゴールド割引、さらに為替円安もあるので中国人には本国の半値という感覚でしょう。彼はお金持ちなので価格は意識しないでしょうが、相当安いと感じたはずです。バオバオイッセイミヤケのショップに移動したらいつもの長い行列、多くは海外客、中には日本在住の「転売ヤー」に雇われたアルバイトもいるでしょう。このショップ、2010年にオープンした全国1号店、当時は3階にありました。たった3坪の小さなショップでしたがお客様が殺到して通路に行列、一般のお客様の妨げになるので1階に移設。以来ここで10数年間連日行列です。BAO BAO ISSEY MIYAKE@松屋銀座10年前クールジャパンの取材に来日したタイのニュースキャスターにインタビューされたとき、「タイのほとんどの家庭には必ずあるバッグ、うちにも3つあります。猫がひっかいても壊れない、丈夫で長持ち」と言ってました。「もしも東京でタイ人が旅行中に困ったことがあればバオバオのショップに行けばその場にいるタイ人が助けてくれるという風説があるの」とも。バオバオは最初タイでブームになりました。国民に大変人気がある王女様が雑誌なのかネット記事なのかバッグを持った写真が注目され、タイ航空CAの間で評判になって徐々に一般消費者に拡散、気がついたらタイの転売ヤーが一人で数十個も購入してネット販売を開始、あっという間に人気が拡がりました。かつて英国ダイアナ妃がディオールのハンドバッグを持った写真が出て大ヒットしたことも、米国クリントン大統領夫人がイタリアG7サミットの際に買い物したトッズの婦人靴写真が拡散され人気急上昇した例もありますが、消費者に人気ある方が愛用すると評判は一気に拡がり、そしてすぐに転売ヤーが現れます。PLAY Comme des Garcons@三越銀座プレイコムデギャルソンもここ数年間大変なことになっています。転売ヤーとそのグループは直営店、百貨店インショップ、ファッションビルそれぞれのデリバリー日を熟知しています。例えば木曜日にA百貨店内ショップ、土曜日にブランド直営店、火曜日にB百貨店内ショップと回って一人で何枚も商品を買い集めて自国に送ります。私もショップによく出かけますが、デリバリー日は夕方でもショップに入れず商品を手にすることができないこともあります。トム・クルーズの映画の影響でしょうか、銀座3丁目アップルストア1号店がそうでした。新型ノートブックMacやiPhone発売日、アップルストアの裏、横、前にはアルバイトから新製品を回収する転売ヤー元締めが待機、アルバイト全員から新製品を何台も受け取っていました。人気ファッションブランドも同じ、元締めがアルバイトから商品を回収して転売します。転売ヤーが問題とは思いません。我々がヨーロッパブランドをfarfetchで注文して現地から送ってもらうのと同じようなことですから。中国で市場調査したとき、日本のファッションブランド商品やタイガー、象印の炊飯器は日本国内店頭価格の3倍弱でした。日本で買えば中国内価格の3分の1、転売ヤーはそれなりのマージンをとっても正規輸入品より安く売ることができました。一時期空港で大量の炊飯器をキャリーしている映像がよくニュースで流れましたよね。ONITSUKA TIGER銀座4丁目店銀座地区の路面店や百貨店インショップでは現在も開店前から行列あるいは開店時から大混雑のブランドがいくつかあります。プレイコムデギャルソン、バオバオイッセイミヤケ、そしてこのところ開店前行列が長くなっているオニツカタイガー、インバウンドに人気のジャパンブランド3傑ではないでしょうか。円安の影響でしょう、低価格ゾーンではユニクロとGU銀座通りストアも海外からのお客様で大変混雑しています。ブランド商品を購入するお客様とはタイプが違うかもしれませんが。これから外国人客の行列ができるジャパンブランドがもっともっと増えるといいですね。それがたとえ転売ヤーであっても。
2025.11.30
閲覧総数 2854
![]()

![]()