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私の生まれ故郷は三重県最北の桑名、歌川広重の東海道五十三次に描かれた歴史ある港町です。江戸時代東海道は参勤交代やお伊勢参りで利用される日本の大動脈でしたが、江戸から41番目の宮(名古屋市の熱田)と42番目の桑名の間だけは船に乗って渡るしか方法はありませんでした。伊勢湾にそそぐ木曽川、長良川、揖斐川の大きな三川で遮断されていたので静岡の大井川のようにはいきません。歌川広重が描いた桑名宿想像するに、雨が降ったり強風が吹いたら名古屋と桑名間の船は運行できず、桑名港で足止めくらった旅人たちは地元でとれる蛤を焼いてもらって恐らく船が出るまでチビチビやっていたのでしょう。「その手はくわなの焼き蛤」というフレーズはきっと東西からの旅人が広めたと思われます。江戸初期は関西方面の反幕分子への備えもあって徳川四天王の一人本多忠勝が初代桑名藩主に任命されました。桑名と陸路を結ぶ彦根の初代藩主は同じ四天王の井伊直政(人事異動の多かった中で井伊家は幕末までずっと彦根藩主)ですから、幕府は豊臣方の残党を非常に気にしていたのでしょう。桑名藩主はその後本多家から松平家に引き継がれ、幕末の藩主松平定敬(さだあき。最後の京都所司代)が実兄松平容保(かたもり。京都守護職)と共に薩長の官軍に抵抗、両藩の武士は新撰組土方歳三と共にに函館五稜郭で最後まで戦いました。悪く言えば、時代の流れを読めなかった殿様のおかげで多数の藩士が命を落としました。学生時代、私は地元選出の衆議院議員木村俊夫さん(佐藤栄作内閣で官房長官、田中角栄内閣で外務大臣を務めた政治家)と対談したことがあります。そのとき木村さんから「太田くん、明治以降桑名の人間は政府に登用されたことはないんだよ」と教わりました。木村さんは運輸省官僚時代の上司が長州の佐藤栄作さんだった関係で佐藤さんに閣僚重用されましたが、それまでは会津藩、桑名藩出身者は中央政府で冷遇されていたようです。養老町にある平田靫負像私は小学6年生の文集「最も尊敬する人」で、江戸中期の薩摩藩家老だった平田靫負(ゆきえ)の名をあげました。宝暦3年(1753年)幕府の命令で薩摩藩は木曽三川の治水工事を無理やり担当させられ、平田靫負はその普請奉行として現場を指揮、難工事で莫大な費用がかかり、多数の死者が出たことの責任をとって工事完成時点で切腹した(病死説もありますが)と郷土史で習いました。多額の工事費のために薩摩の人々は苦しい思いをした、平田は藩主に切腹をもって詫びたかったと教わりました。だから私にとって尊敬できる人は平田靱負なのです。いまも桑名には宝暦の治水工事で命を落とした薩摩義士を祀る海蔵寺があり、平田靫負の像もここにあります。近隣の養老町にも平田の像があり、私たちは学校の社会見学で訪れたことがあります。桑名の住人は江戸時代から今日まで宝暦の治水工事をしてくれた薩摩藩の恩を忘れていませんが、不幸にも幕末に藩主が京都所司代だったこともあって桑名藩士は戊辰戦争の最後の最後まで薩長軍と戦うことになってしまったのです。昭和13年に建立された治水神社さて、私の母校桑名市立光風中学校のすぐ裏には桑名市庁舎があります。現市長はわが桑名高校の後輩である伊藤徳宇(なるたか)さん。現在は桑名市民でもないのに、私は東京でも桑名でもたまに伊藤さんと会食することがあります。なぜなら不思議なご縁があるからです。桑名市長伊藤徳宇さん伊藤さんは桑名高校を卒業して早稲田大学政経学部に進学、フジテレビに就職。テレビ局では番組編成や報道部門ではなく営業部門に配属されましたが、5年後故郷に貢献したいと上司に辞表を出し、生まれ故郷にUターンしました。2006年に桑名市議会議員選挙立候補、初陣ながら当選して市議会議員を務めます。が、市議会議員の権限に限界を感じた伊藤青年は市議会議員を辞め2008年の桑名市長選挙に立候補。現職水谷元市長(1996年から2012年まで市長を務める)の壁は厚く、伊藤さんは選挙に破れて職を失いました。落選後は名古屋の生命保険会社に一時的に勤務したのち2010年再び桑名市議会議員に復帰、そして2012年再び現職水谷市長に挑戦、今度は見事に当選を果たしました。ちなみに17年間桑名市長の座にあった水谷元さんは桑名高校で私の2年後輩、しかも彼の義兄は私の祖母方の親戚であり、私の弟の結婚式では媒酌人をお願いした関係です。ずいぶん前に故郷を離れた私は、水谷元さんが長く市長であったことも、フジテレビを退職した伊藤さんがベテラン市長に勝ったことも知りませんでした。しかしながら、不思議なご縁があるのです。私の幼稚園時代からの友人中澤康哉くんは地元桑名信用金庫理事長であり、最近まで桑名商工会議所会頭でした。私がクールジャパン機構社長に就任した直後、中澤くんから「今度市長と一緒に東京に行くので紹介したい」と連絡がありました。中澤くんが連れてきた市長は30代、わが故郷にもこんなに若い市長が登場したのかと驚きました。が、もっと驚いたのは、伊藤さんが辞表を出したフジテレビの上司はなんと私のパートナーであるクールジャパン機構飯島一暢会長(サンケイビル社長)、これにはもっとびっくりでした。松屋銀座内のカフェで面談して別れてすぐ、ちょうど買い物にいらっしゃった飯島さんに松屋1階で遭遇、「さっきまで桑名の伊藤市長とお茶してました」と言うと、「伊藤はやっと市長になれたんですか、良かった。落選して職を失って奥さんは苦労したんですよ」。飯島さんは元部下が市長選に落選したことはご存知でも当選したことはご存知なかった。次回上京の際は3人で会食しましょうとなりました。ここから故郷の市長との交流が始まったのです。桑名には全国的に有名なすき焼きの「柿安」(デパ地下の柿安ダイニングで知名度高い)、蛤料亭の「日の出」もあり、うどん屋「歌行燈」は近隣県からのお客様でいつも賑わっています。最近は地元のタケノコが名産品だそうですが、桑名は肉も魚も格別美味しい場所。長島温泉(織田信長が一向宗徒を制圧するため島ごと焼き払ったことで有名な長島にある一大レジャーランド)もあれば、大型アウトレットパークもあります。しかし観光地としての魅力にいまひとつ欠けるのです。伊藤市長は桑名の魅力をもっと外に向けて発信したい、近年急増するインバウンド客も取り込みたい、とクールジャパン事業に携わる私を市のアドバイザーにしてセミナーを開催しました。年に一度は関東圏に住む桑名ゆかりの人間を集めた懇親会を都内で開いています。毎月市役所からは市民便りのような冊子が届き、めったに故郷に帰らない私たちに桑名情報を届けてくれます。故郷を離れて半世紀、でもこの冊子のおかげで故郷は身近な存在となりました。ZUMAドバイ店数年前帰省したとき、伊藤さんから紹介したい人物がいると出産のため帰国中のアラブ首長国連邦ドバイの高級レストランZUMA(ズーマ)の日本酒ソムリエと会食しました。ZUMAはロンドン在住の日本大好き英国人がロンドンでおしゃれな居酒屋を開業、香港、シンガポール、ニューヨークなどにも支店がある有名店。ロンドン1号店開業直後私は英国人オーナーと会い、当時社長をしていたアパレル企業の服を受付係のユニフォーム用に数セットプレゼントしたことがありました。また、クールジャパン機構の出資先候補のリサーチのためドバイ店を訪ねたこともあり、私には馴染のお店なのです。ドバイZUMAで働く女性ソムリエは市長の実家のご近所なので紹介されました。女性ソムリエは「飲んでいただきたい日本酒があります」と私たちにZUMAオリジナル日本酒をプレゼン。なんとそのオリジナル酒は和歌山県九重雑賀のもの。九重雑賀はお酢で有名な会社、上質なお酢を生産するために自社の田んぼで有機米を栽培、それから純米酒をつくって酒粕を活用してお酢をつくる一貫生産の超真面目な会社、私も醸造現場を視察したことがあります。彼女は九重雑賀のものづくりにこだわる姿勢に惚れ込み、ZUMAオリジナル純米酒を委託したと聞きました。赤酢が美味い九重雑賀HPより開業時にユニフォームをプレゼントしたお店、そのドバイ支店のソムリエが同郷、しかもプレゼンされた純米酒は前職クールジャパン機構時代に工場見学したお酢メーカー醸造と何から何までつながっていたのです。不思議なご縁の市長からこれまた不思議なご縁をいただきました。世間は狭いと言いますが、ほんとに狭いなあと思います。私の仕事のパートナーに辞表を出して故郷にÙターンした若者、すでに市長3期目ですが47歳とまだまだ若い。この先県知事なり国会議員に打って出る日が来るのか来ないのか私にはわかりませんが、伊藤さんにはわが故郷の発展にもっと尽力して欲しいと願っています。できれば広重の東海道五十三次にあるように港のそばにお城を再建したら観光客を取り込めるのに....。
2024.06.08
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あれは1994年2月後半でした。パリコレ取材に出かける直前、毎日新聞社でファッションデザインやワインなどを担当していた市倉浩二郎編集委員が珍しくきちんとアポを取り、カメラマンを伴って南青山5丁目にあったCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務局に来たのは。毎日新聞社編集委員だった市倉浩二郎さんCFD事務局には正面口と玄関口の2つドアがあり、いつも彼は勝手口からチャイムも鳴らさず入ってきてキッチンの冷蔵庫をゴソゴソ、ビールを見つけると議長室のソファにドカッと座って勝手にビールを飲んでいました。が、その日は事前にアポを取り、カメラマン同伴の正式な取材、正面口からやって来ました。取材中は友人であっても丁寧な言葉遣い、ちゃんと取材者として一定の距離を保ってくれる本物のジャーナリストでしたが、この日もジャーナリストの顔でした。取材が終わって雑談になると言葉遣いはガラリ変わっていつも通り友達言葉に。これから出かけるパリコレを自分としては最後にしようと思う。今後パリコレ取材は後輩記者か外部の専門家に任せ、自分は国内繊維産地を回ってデザイナーの背後にいる技術者やテキスタイルメーカーを取材して本を書きたい。「おまえ詳しいだろうから手伝え」。長く編集委員の職にあり、一般記者と違って自由になんでも取材できる立場、書こうと思えば何冊も本を書けたはずなのにこれまでワインやスコッチ、日本酒の専門家に遠慮して本を一冊も書かなかった男、それがやっとファッションデザイナーの背後にいる技術者の本を書きたいと言うのです。私は快く「いいよ」と返しました。3月23日、毎日ファッション大賞選考委員長だった鯨岡阿美子さんのご主人でエッセイストの古波蔵保好さんが銀座のフレンチ有名店マキシム・ド・パリに大勢の仲間を招待、数え85歳のお誕生会を開いたとき(沖縄では長寿をお祝いされる側が好きな人を招いて大宴会するとご本人から伺いました)、市倉さん、私も招待されました。鯨岡さん急逝の1年後毎日ファッション大賞に鯨岡阿美子賞を設立するため奔走した二人だから招待されたのでしょう。このとき、市倉さんはちょっと疲れた表情でした。そして4月1日、CFD主催の東京コレクション開幕。初日最終ショーのユキトリイに行こうと西武百貨店渋谷店の脇を通りかかったら、間口の狭いカフェで市倉夫妻や帽子デザイナー平田暁夫夫妻らを見かけて合流。ここで私は当時ブームになりつつあった「有機栽培野菜スープ」の効能を説明、市倉さんにも「あんたも健康に注意しろ、野菜スープ飲め」と勧めたら「あんな不味いもの飲めるか」と一笑。私の勧めですぐ飲み始めた平田先生とは大違いの反応でした。みんなでカフェから歩いてショー会場へ移動しユキトリイの新作コレクションを拝見。あとでわかったことですが、このショー終了後に市倉さんは奥様に「ちょっと寒気がする」と漏らし、鳥居さんの打ち上げパーティーには参加せずそのまま帰宅したそうです。市倉さんと私翌4月2日羽田空港整備場でのコムデギャルソン、どういうわけか市倉さんは現れませんでした。パリコレですでにコムデギャルソンのコレクションを取材しているはず、都心から遠いので今日は来ないのかなと思いました。ところが、ちょうどその頃、市倉さんは意識不明で救急搬送されていたのです。4月4日、美登子夫人から電話がありました。市倉さんがパリコレ取材で書いてたはずの原稿が見当たらない、これからデザイナーをインタビューして書き上げなくてはならないタイアップ企画は誰かと交代しなくてはならない、もし新聞社から連絡があったら助けてあげてと頼まれました。容体に変化なく未だ意識不明とこの電話で初めて深刻な状態だと知りました。東コレ終了後の週明け、入院先の西国分寺にある府中病院に飛んで行きました。集中治療室の前には毎日新聞OBや同僚、仕事仲間が集まり、治療室から出てくる看護師に取材しては私たちに状況を教えてくれる方もいました。府中病院の中庭には立派な八重桜があり、私たちは喫煙所でその桜を眺めながら花が全部散る前になんとか眼を覚ましてほしいと願いました。4月23日、美登子夫人から許可が出たので私は初めて集中治療室に。鼻から口からたくさん管を入れられ全く動けない市倉さんを見てショックでしたが、彼の名前を連呼し、脚を摩って励ましました。すると市倉さんの目から涙が溢れ出ました。「おまえが来たことはわかってるぞ」というサインだったのでしょう。午前中に何か食べるものを差し入れし、夕方には病院に戻って奥様を励ます、連日このパターンを繰り返しました。そして4月25日、寿司屋で握ってもらった寿司を持って病院に到着するやいなや看護師から救急治療室に入るよう促されました。まるでドラマのワンシーンのように血圧計の数値が急降下、ゼロになったところでドクターからご臨終の宣告。人の死に立ち会ったのは生まれて初めて、ショックでした。今日であれからちょうど30年、早いです。2代目CFD議長を引き受けてくれた久田尚子さんと市倉さんパリコレ取材で疲れたからでしょうか風邪の菌がなぜか脳に入ってしまい、ドクターはその菌の特定がなかなかできないために処方できず、最後の最後まで原因不明のまま亡くなりました。山登りが趣味の頑丈な男があまりに呆気ない、享年52歳は若すぎます。やっと本を書こうと準備を始める寸前に倒れ、結局1冊の本を書く時間すら残されていなかった、誰にも人生にTHE ENDはあると教えてくれました。控え室で美登子夫人が言いました。「イッちゃんが、太田は本当はやりたいことがあるからやらせてあげたいといつも言ってたわ」と。ひとまわり年少の私を弟のようにかわいがってくれた友は私のことを心配してくれていたと奥様から聞いて嬉しかったです。そして、友の死で私は決断しました。やりたいことをやらずには死ねない、CFD議長を退任してアメリカで学んだマーチャンダイジングの仕事をやろう、と。縁あって百貨店でもアパレル企業でもマーチャンダイジングを指揮し、数百人の社員たちにゼミ形式でマーチャンダイジングを教えました。最近は中国のファッション業界人にマーチャンダイジングを講義する機会が増えました。学生時代からやりたかったマーチャンダイジングの仕事を30年間続けたきっかけは、大親友との別れで人生観が変わったからです。救急治療室で意識不明ながら涙を浮かべて応えてくれた友の姿、一生忘れられません。毎年やってくる4月25日、私にとっては特別な日。合掌。
2024.04.25
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昨年9月上海の「佐吉企業管理コンサルティング」創業者アーロン・ジン(金 時光)さんらが率いる訪日研修団でセミナーを頼まれて以来、私は中国ファッション流通業界人に講演する機会が急増しました。12月には杭州で、2月は上海、蘇州、広州で、そして今回は東京で訪日団へのセミナー、来る7月にも再び訪日団と中国出張でそれぞれセミナーの予定があります。今回ジンさんらが引率してきたのは主にアパレルメーカーの経営者。ヤング向けファッションブランドで成功している経営者、アパレル事業で上場企業の創業者、SPA企業幹部やテキスタイルのプロなど30人余が受講者でした。中国は人口多く市場規模が大きいのでかなりの売上を誇る会社の経営者や幹部が多かったようです。初日午前中のカリキュラムは私が担当した「東京コレクションの変遷」と「ブランドビジネスの成功条件」の2テーマ、午後はVMD指導の会社を経営している元部下Hくんのヴィジュアルマーチャンダイジングの基本。そのあと銀座で市場調査に同行したあと品川の焼肉店に。私はブランドビジネスには創業時から継承するDNAを守る姿勢、ブレないものづくりが重要であり、昨今DNAを軽視して失敗した欧米有力ブランドの事例を紹介しました。私のセミナー聴講3回目の大手ニットメーカー人事責任者Hくんが部下だった時代、私は社員にマーチャンダイジングの基本を教え、VMDにも大きく関わる「定数定量管理」をうるさく指導しましたが、Hくんは定数定量をおさえた上でいかに魅力的な商品陳列をするのが店頭では効果的かを丁寧に説明。社内MDゼミで教えたことをベースに、Hくん自らの経験から積み上げた方法論を紹介、非常にわかりやすかったです。研修2日目はミナペルホネンのデザイナー皆川明さんの講演。朝のラッシュアワー時に電車が事故で停止、通訳さんの到着が遅れるので日本で暮らした経験のあるジンさんのパートナーが冒頭の講演を通訳してくれました。皆川さんのものづくりの話はこれまで数回聞いたことありますが、いつ聞いても職人さんたちへの優しい目線、弱者への配慮を感じます。小さな機屋さんが安心してテキスタイルづくりができるよう、ミナペルホネンは原料の糸を事前購入して機屋さんに渡しているという話、感動します。トレンドが変わるたび、気持ちが変わるたびテキスタイル生産地をコロコロ変えるファッションブランドは少なくありませんが、ミナペルホネンは小規模な機屋さんに継続してロングランで同じような織物を注文しています。通訳を通してのスピーチですからどこまで正確に皆川さんの話が伝わったのかはわかりませんが、受講者には皆川さんのものづくりに込めた情熱、技術者への思いやりは十分伝わりました。皆さん、夕食の居酒屋でやや興奮気味に口を揃えて「皆川さんの話は感動しました」、と。2日目講師のミナペルホネン皆川明さん参加者の多くは翌日ミナペルホネンの南青山スパイラル5階のショップ「CALL」を視察、ミナペルホネンは中国市場で展開すればきっと現地消費者に受けると話していました。余談ですが、ひとつ面白い出来事が。通訳が遅れたために急きょ臨時通訳をしたジンさんのパートナー劉さんが、午後8時帰宅ラッシュで混雑するJR品川駅コンコースで皆川さんとばったり遭遇したのです。2日前に出会ったばかりの中国人とセミナーで講師を務めた日本人が雑踏の中でお互い認識できたというのはまさしくご縁です。2日目午後は皆川さんの母校文化服装学院の視察でした。受講者が学院長と面談している間、ジンさんとファッションビジネスにおける彼のパートナーで元アリババ幹部、ジンさんを私に紹介してくれたビジネススクール教え子の齋藤孝浩さんと私は京王プラザホテルで将来の人材育成プログラムの打ち合わせを行いました。かつて我々がIFIビジネススクールを立ち上げるまで、そのカリキュラムや育てたい人物像についてどれくらい時間をかけて議論したか(議論開始が1989年、試験的な夜間開講が1994年、全日制は1998年の開講)、齋藤さんたちが参加した夜間プロフラムで教え方やカリキュラムの実験を何度も繰り返したのちに全日制プログラムを開講できたことなど、人材育成は焦ってはいけないと説明しました。中国ではファッションビジネスが急速に成長、マネジメントできる人材の育成が急務なんだそうです。ほかにもツアー参加者はコンビニの業務革新をした経営者やショッピングモールの実務責任者、SPA型ブランドビジネスのマネージャーや新製品のネット通販セミナーを受け、6泊7日の東京研修を終えて帰国しました。セミナーに連日の打ち上げご飯、これとは別にジンさんらとの打ち合わせとちょっとハードなスケジュールだったのでさすがにタフな私も疲れがドッとでました。初日講義終了後に全員で記念撮影この先、秋までに再び別の訪日研修団の計画があり、中国に出張してセミナーの構想もあり、ジンさんとテキスタイルの達人と一緒に羊毛産地視察の話もあり、ジンさんは諸々の打ち合わせのため来月も来日します。中国ビジネスマンはセミナーで的を得た質問を連発、探求心は日本人に比べてすごいです。また、教わったことをすぐ実行するスピードは半端ない。こういう人たちに頼りにされるとついつい協力したくなります。利用価値がある間はどうぞ利用してくださいって心境です。講師のひとり元ワールド金田有弘さん(中)とジンさん(右)
2024.04.27
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シャープがテレビ向けの液晶パネル工場「堺ディスプレイプロダクト(SDP)」(堺市)の生産を停止することが14日、わかった。同社の液晶事業は市況の低迷によって赤字が続いており、中国勢との競争が厳しいテレビ向けの大型パネルの生産をやめることで、収益を改善する狙いがある。同日午後に開く会見で発表する。SDPは国内でテレビ用の液晶パネルを生産する唯一の工場で、稼働を停止すると国内生産はゼロになる。(産経新聞から抜粋)数日前のショッキングなニュース、ついにこの日が来てしまいました。小泉政権後半の2004年、ひょんなことから内閣府の知的財産本部におかれたコンテンツ専門調査会、日本ブランドワーキンググループの専門委員になったとき、担当役人から「近い将来日本は電気製品で外貨を稼げなくなる」と説明がありました。当時はシャープ亀山工場で生産された液晶テレビAQUOS亀山モデルがトップブランドとして全盛期、近未来日本の電気製品は競争力がなくなると聞いても、そんなバカなと正直ピンと来ませんでした。三重県亀山工場では需要を満たすことができないとシャープは堺市にも大きな液晶工場を建設、AQUOS増産にチャレンジしました。しかしながらAQUOSは急速にブランド力を失っていき、気がついたら会社ごと台湾メーカーに買収されました。一世を風靡した亀山ブランドは工場閉鎖とともに消滅、最後の液晶パネル製造拠点だった堺工場もついに閉鎖が決定、日本から液晶パネルの製造が消えることに。内閣府担当役員の見立て通りになりました。シャープ液晶テレビの地盤沈下が始まった頃から世界の主要ホテルの部屋にある大型テレビはサムソン、L Gの韓国勢が主役になり、ビックカメラなど家電店のテレビ売り場にはハイセンスなど中国メーカーの超大型テレビが並ぶようになりました。日本の多くの電機メーカーが手掛けていた携帯電話もスマホ時代になると一気に市場競争力を失い、日本ブランドの存在感はないに等しい様相に。ノートブックPCもしかり、N社、F社、T社、SH社の陰はどんどん薄くなり、S社はPC事業部をさっさと身売りしました。ウォークマンが世界で大流行、世界中で若者が日本製大型ラジカセを肩に乗せて歩くことが街のトレンドだった時代もありました。ビデオカセットもテレビ受像機も日本製は高品質として重宝された時代もありました。しかしデジタル社会になると日本のエレクトロニクスは主役の座から滑り落ち、事業縮小や事業部門の売却、会社ごと身売りや上場廃止と「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は儚く短い夢で終わりました。早くから日本製エレクトロニクスの衰退を予測していた役所や知識人は、ハードウエアに代わる日本製商品としてソフトウエア産業に着目、ジャパンコンテンツを世界に広めるために知的財産本部にコンテンツ戦略会議を設置して議論を開始したのです。今日久しぶりにその知的財産本部コンテンツ専門調査会の古い議事録をネット検索、いま一度当時の委員会のやりとりを読み返しました。委員会は2003年にスタート、最初はマンガ、アニメ、ゲームソフトや映画などコンテンツ分野で議論が始まり、途中からファッション、食と地域ブランドが議論の対象に加えられ、私も2004年から参加させてもらいました。パリ恒例のJAPAN EXPO当時の議事録にはまだ「クールジャパン」の文字はありません。すべてが「コンテンツ」ひとくくりに扱われ、それぞれの分野の専門家が自分たちの領域の課題や将来性を論じていました。このときファッションの世界のみならず、最も重要なのは人材育成ではないか、そのための教育制度を是正すべきと議事録に自分の発言が記載されていました。思い返せばあの頃そんなこと言ってたなあ。マンガ、アニメ、ファッション、食の領域では長らく大学設置が認められず、それぞれ専門学校で教育するしか道はありませんでした。音楽の世界でも、クラシック音楽は芸術大学や音楽大学で教育されてはいましたが、ロックンロールやジャズとなると専門学校任せ、ロックシンガーやドラマーを目指す若者は大学の選択肢はなく専門学校に通うしか道はありませんでした。政府内での様々な議論の末、制度改革が進んでいまではファッションデザインやマーチャンダイジングを学べる4年制専門職大学が認可され、かつて専門学校法人が運営してきた女子大学から「女子」の文字が消えて男子学生も進学できるようになりました。個人的な意見ですが、東京芸術大学に映画監督を養成する学科が生まれたから日本映画は輸入洋画以上の興行収入を得られるようになったと思います。それ以前は洋画が圧倒的に強く、日本映画ではしっかり収益あげられず「邦画暗黒の時代」が長かった。言い換えれば、東京芸術大学に映画部門が設置されどんどん人材が輩出されて日本映画全体がレベルアップ、海外有名映画賞を受賞するまたはノミネートされる映画監督や俳優が増え、邦画は洋画に伍して稼げるようになりました。私が専門委員として参加した会議は小泉政権から第一次安倍内閣、福田内閣。麻生内閣とおよそ4年間続き、麻生内閣のときに最終的提言がまとまりました。でも当時の議事録に「クールジャパン」の文字はまだ登場しません。提言がまとまって私たち専門委員はお役御免、政権交代した民主党時代に新たな委員たちによってさらに議論が深まったらしく、やっと「クールジャパン」という文字が登場したようです。私は民主党政権下でどんな議論があったのか詳しく知りませんし、コンテンツがいつの間にクールジャパンという名称になったのもわかりません。そして再び政権交代で第2次安倍政権になってすぐの2013年春、国としてクールジャパン事業を推進するために官民投資ファンド「海外需要開拓支援機構(通称クールジャパン機構)」設立の法案が自民、公明党と野党だった民主党の賛成多数で成立。もう専門委員ではなかったので他人事のようにこのニュースを聞いていました。友人だった元伊勢丹の藤巻幸夫さんは所属政党みんなの党が法案反対だったので国会採決時は欠席したとは聞いていましたが。クアラルンプールの商業施設にてそして2013年8月米国西海岸視察旅行中、私をクールジャパン機構社長にという申し入れがわが社長に届きました。かつてコンテンツ専門調査会の委員として議論には参画しましたが、まさか自分が仕事としてクールジャパン政策の推進に関わるなんて考えもしませんでした。まさに青天の霹靂。会社として政府の要請を受けることになり、私は2013年11月設立のクールジャパン機構初代社長に就任しました。日本のカッコいい、美味しいを海外市場に売り込む、そしてしっかり日本側が儲ける仕組みづくりをサポートするのがクールジャパン政策、食で言うなら日本茶、日本酒、和食に限らず日本企業が手間暇かけて作るコーヒーや紅茶も、ワインやウイスキーも、日本のシェフが創作するイタリアンやフレンチだっていい、純日本である必要はないと私は解釈しました。アニメ、マンガも米国エージェントやアジア諸国の海賊版制作者が儲けるのではなく、日本の制作者が世界に売り込んでキチンと稼ぐ、決して中途半端な値引きはしない、そして制作現場で働く人々に利益を還元する(いまも制作現場はブラック企業状態)のが本当のクールジャパン事業と考えました。だから啓蒙セミナーなどで何度も「おまけしないニッポン」「かっこいい日本商品の普及」を訴えました。クールジャパン機構発足式(2013年11月)官民投資ファンドですから各政党、マスコミ、一般人からもいろんな矢が飛んできました。ラーメンの一風堂のフランス進出に出資したときはクレーム電話で「ラーメンが和食か!」「社長は豚骨ラーメンが好きなのか!」と怒鳴られました。遣隋使の時代から日本との繋がりが深い中国寧波市に建設する阪急百貨店の大型商業施設に投資したときは野党議員から「ハコモノに投資するのか!」、開店時には「欧米ラグジュアリーブランドをたくさん導入してどこがクールジャパンか!」と非難されました。地元富裕層の集客のためにはどうしてもラグジュアリーブランドをずらり並べてショッピングモールの格を印象づける必要があります。多くの日系百貨店が中国で失敗する要因はラグジュアリーブランドの集積ができず、館全体の格が低いこと。 富裕層をたくさん集め、その上で日本の美味しい、カッコいいを訴求していく、これしかクールジャパン普及の方法はありません。クールジャパン機構が出資した寧波市のショッピングモールこのところ日系百貨店の中国市場からの撤退ニュースが続き、私自身は中国商業施設を歩く機会が増えました。そこで思うことは、いまこそクールジャパン事業を本格的に後押しして世界に販路を求めないと日本は埋没してしまう、世界市場は広く日本の生活文化や美意識をもっと世界に広めるべき、と。役所の見立て通り電気製品はダメになりました。次はEV車で中国より遅れをとる自動車産業かもしれません。日本は製品を売るのではなく日本のソフト、文化、精神性を売ることにもっと心血注ぐべきでしょう。でないと近い将来世界市場で日本の存在感はさらになくなります。シャープ堺工場閉鎖のニュースでそんなことを思った次第。
2024.05.19
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1年に2回開催されるJFWプレミアムテキスタイルジャパン展がいつもの有楽町国際フォーラムで今週開催されました。エントランスを入ってすぐ元経済産業省繊維課長だったKさんと久しぶりに再会、しばし中国業界のことなどお話ししました。Kさんはこれまで4回もパリ駐在を経験、役人人生の半分以上はパリという珍しいお役人、頭が柔らかい人です。私がクールジャパン政策を推進していたときはJETROパリ所長、投資先のファッションブランド45Rのパリショップ開店時に奥様ともども来てくださったことを思い出します。現在はJETRO本部の大幹部、その国際経験を活かして日本の優れもの、美味しいもの、カッコいいものをもっとたくさん世界各国に売り込んで欲しいですね。会場でKさんや業界関係者に中国事情をお話ししたのは、日本素材はこれからいったい誰に売るのかをマーケティングし直す時期が来たのではないかと伝えるためでした。プレミアムテキスタイル展の回数を重ねるうちに業界事情は大きく変化、市場環境も変わりました。そろそろどういうバイヤーを戦略ターゲットに売り込む素材見本市にするべきなのか再検討する時期に来ていると思うからです。長い間、ファッションデザインの世界ではパリコレや同時期開催の見本市参加がブランド側の大きな目標でした。テキスタイルの世界ではプルミエールヴィジョン展あるいはインターストッフ展への参加が世界への扉だったでしょう。こうした日本のヨーロッパ重視の構図はいまも変わらないのでしょうが、私たちは中国市場の規模の大きさやファッション事業化に目覚めた中国新興アパレルの成長力、そして彼らのものづくりにおける上昇志向つまりもっといいものを作って世界市場に攻めたいという思いを注視すべきではないでしょうか。消費市場でも、ロンドン、パリ、ミラノ、ニューヨークのラグジュアリーブランド直営店やハイエンド百貨店で大量のブランド商品を購入しているのはアジア系ツーリスト、彼らの購買力は現地消費者以上にすごいものがあります。日本でもコロナ禍が終わって復活したインバウンド消費が国内景気に大いに貢献し、都心部の消費回復は彼らの存在が大きいと言えます。この数か月の動向を見るとアジア系はなにも中国本土からの旅行者のみならず、香港、台湾、韓国からの旅行者の消費パワーは大きい。でも、依然日本は欧米偏重のまま、アジアを低く見ていますよね。果たして今後もこれでいいのでしょうか。(以上4枚、プレミアムテキスタイルジャパン展)中国の業界事情も変わりつつあります。この数か月交流してきた中国アパレルメーカーの経営者たちの中には、もっと上質な素材を起用して付加価値性の高い商品を開発、将来的には欧米市場や日本にも販路を広げたいと考える経営者は少なくありません。また、私がセミナーでよく口にする「ブランドDNA」を真剣に受け止め、その糸口を見つけたいと何度も質問する経営者が何人もいます。彼らは安いものをたくさん作ってただ売上を狙うだけの経営者タイプではありません。もっと魅力的な商品を開発して将来世界に打って出たいと考える中国アパレルの経営者たち、実は案外日本素材の素晴らしさをきちんと認知していません。もし彼らが日本国内の素材見本市に参加するテキスタイルやニットメーカーの製品に触れたら理解は早いでしょうし、どこに行けばそういうものを手にすることができるのか情報提供すれば喜ぶのではないでしょうか。昨年後半から再び中国業界首脳の訪日研修団が急増していますが、彼らに日本製素材の情報を伝えたら、訪日スケジュールを素材見本市に合わせて組むことだって可能でしょう。(広州発祥の婦人服ブランドは海外進出を積極的に推進)欧米のラグジュアリーブランドは日本製素材をたくさん使っています。ヨーロッパの素材見本市で依頼のあったサンプル生地をたくさん渡す(中にはサンプル収集だけで注文に至らない例はたくさんあるでしょうが)のも悪くはありませんが、ものづくりに前向きな中国アパレルの経営者や企画責任者を日本の素材展にどうしたら迎えることができるのか、具体的アクションを起こすべき時期が来ているのではと思います。このところ中国人ビジネスマン相手に東京で、中国でセミナーを続け、彼らと意見交換する機会が増えたので、そろそろ日本は欧米偏重からアジア強化にシフトすべきタイミングでは、と考えるようになりました。人口多いからマーケット規模は相当大きく、経営者は結構真面目で研究熱心な人が多いんです。セミナーだって質問は量も質も日本企業の比ではありません。いかがでしょう、中国市場に日本素材を思い切り売り込んでは....。
2024.05.11
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日本ファッションウイーク推進機構で3月開催されたRakuten Fashion Week Tokyoを総括する実行委員会が行われました。各委員が今シーズンの運営についてどのように感じたか、今後に向けて改善すべき点は何かを論じ合うミーティングでした。SOSHIOTSUKIコロナウイルスの3年間はショー形式で発表しにくい状況でしたが、2024年秋冬シーズンはショー形式で発表したブランドが増え、見応えのあるコレクションも多かったというのが大方の意見。もちろん反省点、今後に向けて検討すべき点はいくつか出ましたが、これらを受けて事務局は参加ブランド関係者と共にいろんなことにチャレンジしてしてくれると思います。委員の感想でもあり、私自身も気になっていたのは、開演時間の遅れ。開演まで40分も待たされる欧米コレクションと違って、東京は日本人気質なのか大幅な遅れはこれまであまりなかったと思います。が、今シーズンは大幅に遅れて(あるいは意図的に遅らせてか)開演するコレクションが少なくありませんでした。過密スケジュールでモデルのヘアメイクに時間がかかることも遅れの原因かもしれませんが、観客入場も開演時間ギリギリのショーが多かった。私が東京コレクションの運営責任者を務めていた頃、大幅にショーが遅れるとメディア関係者からきついクレームが寄せられたものです。事務局もなるべく開演時間を遅らせずに開演してほしいとブランド側に協力をお願いしたものです。近年は遅れるのが当たり前、時間通り始めないのが普通になってきたのではとちょっと心配。ブランドやそのプレス担当者、演出家にはなるべくオンタイムで開演してほしいですね。私が百貨店にいた頃、ニューヨークコレクションで人気のマークジェイコブスが1時間ほど開演が遅れ、主要メディアに批判記事を書かれたことがありました。翌シーズン、マークジェイコブスはなんと招待状にある開演時間オンタイムでショーをオープン、のんびり会場にやってきた多くの主要プレスやバイヤーはショーを観ることができなかったという事件がありました。オンタイムでやろうと思えばできないことはないという事例ですが、ショーに関わるみんながその気になればオンターム開演は実現可能です。開演予定時間通りとは言いませんが、ぜひ東京だけは大幅遅れだけは是正してもらいたいです。観客の入場整理についても再考すべきかもしれません。東京コレクションを始めた頃は"PRESS"と"BUYER"そして”STANDING"と当時のパリコレに習って入場を整理、雑誌編集長クラス、新聞編集委員クラスの主要プレス関係者がずっと行列で並ぶということはほとんどありませんでした。が、このところベテラン記者やメディアの役職者が行列で放置されたままという光景をよく見かけます。招待状の封筒につけた色別シールで分類、そのシールの色分けの意味が観客にはよくわからず、主要エディターも新人スタイリストもブランドのインフルエンサーも皆同じく長時間行列に並ぶというのは改善できないものかと思います。かつての入場者分類のように分けて、優先的に場内に案内して着席してもらういわばVIP扱いというのがあってもいいかもしれません。JUN ASHIDA数十年もファッションショーを続けてきたジュンアシダなどは1日3回大勢のお客様を招待しているにも関わらず、毎回会場入口が混雑することなくスムーズに入場整理されています。受付でカテゴリーごとにお客様をわけ、案内係がしっかり個別対応しているので混乱はまずありません。各国大使館関係者の出席も多く失礼があってはならないという配慮もあるでしょうが、毎回伺うたびにスムーズな会場案内に感心させられます。他のブランドにもあの方法を研究してほしいです。コレクションを観る側は人間ですから、なかなか入場できなかったり、長く待たされてよく見えない席に案内されたりすると主要メディアの関係者は内心穏やかではありません。本来ファッションショーは気分よく観ていただくもの、開演前から内心ムカムカ状態ではせっかくのコレクションがブランド側の意図通り伝わらず、結局それがブランドにば悪影響になることも。特にベテランのエディターさんはイライラさせないケアをショー会場ではすべきかな、と。一度ブランド側の担当やプレス会社スタッフ集めて、エントランスのケアや時間厳守について講習会をしてはどうでしょう。私も1970年代からたくさんのファッションショーを拝見してきました。入場の際に日本人に対する人種差別じゃないかと頭に来たこともあれば、プレス担当の横柄な態度にブチ切れてイヤイヤ取材したことも少なくありません。しかし、そんな入場対応で気分悪くてもショーはショー、感情移入してはいけないとコレクション評では絶賛したブランドも中にはありました。が、やっぱり人間ですから、穏やかな気分でファッションショーは観たいですね。
2024.04.23
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数日前I.F.I.ビジネススクールの教え子で「ユニクロ対ZARA」の著者齊藤孝浩さんと会食、テキスタイルデザイナー須藤玲子さんが出演したテレビ東京の番組「新美の巨人たち」のDVDを託しました。齋藤さんは中国アパレル関係者にセミナーのため杭州に出張予定があり、セミナー主催者の佐吉事業コンサルティング代表金時光(アーロン・ジン)さんに手渡ししてもらうためです。今年3月金さんが来日した際、私は六本木AXIS地下にあるショップNUNOを案内、須藤さんが創作したテキスタイルの数々を見せながら、前職クールジャパン機構のオフィス応接室のカーテンやクッションなどをなぜ須藤さんデザインにしたのかを説明しました。そして、この秋に金さんチームが予定している中国アパレル経営者たちの訪日研修ツアー第2弾ではぜひ須藤さんのレクチャーをお願いしようとなりました。その事前資料として須藤さん出演のテレビ番組DVDを届けました。丸亀市猪熊弦一郎現代美術館での「須藤玲子:NUNOの布づくり」展中国アパレル経営者は売上至上主義者だけではありません。もっと魅力的な商品を作りたいという人もいれば、上質な素材を日本から調達したいと考える経営者もいます。私がよくセミナーでお話する「ブランドDNA」に真剣に耳を傾け、自分たちの仕事に何が欠けているかを自問自答する経営者は少なくありません。そういう経営者にテキスタイルの差別化、特徴ある独自のテキスタイルをつくることの大切さを説いてきました。単純にNUNOのテキスタイルを起用しましょうとは言いません、日本には優れたテキスタイルのプロがたくさん存在することを中国の関係者に伝えたいのです。金さんチームが企画した4月の訪日研修ツアーでは、独特の世界観のテキスタイルを多く開発してきたミナペルホネン皆川明さんに講演してもらいました。皆川さんがどういう思いで日本のテキスタイルメーカーや布づくりの職人さんたちと仕事をしてきたのか、どういうプロセスでテキスタイルを作り上げているのかを話してもらいましたが、参加した経営者たちは皆川さんの話に共感、通常のセミナーよりたくさん質問がありました。その夜品川の居酒屋で参加者たちと会食したときも、彼らは皆川さんの講演のことを興奮気味に話してくれました。4月の訪日研修ツアーで好評だった皆川明さんの講演コロナウイルス以前も私はこうした中国業界関係者向けセミナーを何度もさせてもらいましたが、このときも彼らが日本のテキスタイルに関心が高いことを実感しました。あるツアーでは、本郷のセミナー会場から団体バスで銀座方面に移動する途中、婦人服アパレル女性経営者に「どこに行けば日本のテキスタイルサプライヤーの情報を得られるのでしょうか」と質問されました。ちょうど有楽町国際フォーラム前を通過するとき「現在こちらでプレミアムテキスタイル展を開催している。入場パスを差し上げますから、時間あればこれを持って視察してください」と私のパスを渡したこともありました。国際フォーラムでのプレミアムテキスタイル展上海のテキスタイル見本市には毎シーズン日本のメーカーがブースを出してはいますが、婦人服アパレルが集積する杭州や広州のメーカー関係者には情報が行き届いていないのかもしれません。聞くところによれば見本市では現地アパレルメーカーよりテキスタイルメーカーにサンプル生地の注文を受けることが少なくないようですから、日本のテキスタイル情報をアパレルブランド関係者に訴求する仕組みを考えた方がいいかもしれません。昨晩、金さんからWeChatメッセージが入りました。杭州に入ったばかりの齋藤さんと同行者の金田有弘さん(同じくI.F.I.受講者の元ワールド)と会食する写真が添付されていました。今日から2日間、二人は中国アパレル業界人に現地セミナーをします。昨年12月杭州でのセミナー齋藤さん経由で佐吉事業コンサルティング主催訪日研修団にセミナーをしたのが昨年9月。このとき金さんから中国での講演を依頼され、12月杭州を初めて訪問しました。ここで中国アパレル経営者から社内研修を頼まれ、上海と広州でそれぞれ研修したのが2月。さらに4月には訪日研修ツアー参加の経営者に再びセミナーを。来月には再び杭州に出張、今度はマーチャンダイジングではなくブランドビジネスの問題点と解決策を講演することになっています。加えて、佐吉事業コンサルティングからはさらに2つ日本における研修プログラムの組み立てを頼まれています。1つは2月に社内研修をしたばかりの大手アパレルの日本研修、いまひとつは今年の訪日経営者研修ツアー第2弾です。前者が8月お盆明け、後者は9月中旬開催予定。大手アパレル社員研修では、上海から東京経由でそのまま地方都市入り、産地の繊維メーカーの見学から始めます。他社とは違うものづくりをどうのように進めているのか、糸から製品までの一貫工場でなぜ自社ブランド事業を推進しているのか、やり手社長からものづくりの過程を見せてもらいながら教わるプログラム。工場見学後東京に移動、翌日はユニークな活動をしているデザイナーや若者文化を牽引してきた企業元幹部ら数名の講師にレクチャーをお願いしました。最後に日本研修の総括を私自身が担当します。経営者研修第2弾では前述須藤玲子さんの講演とNUNO店舗視察をはじめ、かつて対談したことあるデザイナーや店頭展開の創意工夫を奨励するプロの事例研究、ブランドショップの視察などを計画。現在金さんらに代わって交渉しています。2月上海でのセミナーかつて日本で量販店がまだ整備されていなかった時代、多くのスーパーマーケット経営者は米国流通業に詳しい大学教授らに連れられ米国市場を歩き、米国企業からマーチャンダイジングやサプライチェーンマネジメントを学び、自分たちの小さな店を大きな量販店チェーンに伸ばした例がいくつもあります。日本のGMSもコンビニも元々は米国研修で学んだ当時の若き経営者らのやる気が実を結んだものでしょうが、日本流通業界の黎明期の意欲と同じものを現在の中国アパレル経営者に感じます。いま中国のアパレル業界人の勉強熱心な姿勢を目の当たりすると、流通業の先駆者たちのイメージがダブるのです。昨年9月以降、中国でも日本でも中国業界関係者に向けたマーチャンダイジングやブランド戦略の研修がコンスタントに続いています。現時点でパリコレで世界のファッショントレンドを左右しそうな中国デザイナーはまだ登場していませんが、近未来はきっと70年代のケンゾーやイッセイミヤケ、80年代のコムデギャルソンやヨウジヤマモトのようなブランドが中国から登場するはずと信じレクチャーしています。ニューヨーク出張のたび私はパーソンズデザイン学校で何回も特別講義をしましたが、クラスの大半は中国、台湾、韓国などアジア系学生でした。だからでしょう、20世紀末から今日までアナスイにはじまり、ヴィヴィアンタム、デレックラム、フィリップリム、アレキサンダーワン、ジェイソンウーなど中国系デザイナーがニューヨークコレクションで大活躍。ロンドンのセントマーチンはじめヨーロッパのファッションスクールもパーソンズ同様留学生の多くはアジア系です。彼らをサポートする、クリエーションを受け止めることができる経営者や投資家が増えたら、中国人スターデザイナーがパリコレで脚光を浴びることはありえる話でしょう。日本で活躍する中国人デザイナーブランドVIVIANO6,7年前広州で齋藤さんのセミナーに参加していた経営者のひとりは、現在急成長中企業として注目されているSHEINの創業者。売上規模を誇るSHEINのような大企業の誕生も重要でしょうが、世界からクリエーションで一目置かれる中国ブランドの誕生も重要なことだと思います。それに向けてやる気のある現地経営者にはものづくりとクリエーションの探究をしつこく説きたいです。
2024.06.01
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蘇州研修2日目は同行の齋藤孝浩さんが終日担当、私はひと足先に次の目的地広州へ向かいました。蘇州のホテルから上海虹橋空港までは佐吉コンサルティングの金さん運転で移動。虹橋空港で金さんは部下に車を手渡し、私たちはチェックインカウンターに。ところが金さんに電話が入り、彼は慌てて降車した場所に戻っていきました。何と蘇州から虹橋空港まで金さんは車のキーを差し込むことなく、スマホだけで運転してきたのです。部下のスマホでは車が動かない、金さんはリュックサックの奥にしまってある車のキーを渡しに行ったのです。この間たった5分くらいの出来事、しかし駐車違反の切符を切られました。キーなしでEV車を蘇州から長距離運転していたとは驚きです。広州空港では私を招聘してくれたアパレルメーカーの社員が大きな花束を持ってお出迎え、空港で花束なんて初めての経験、照れくさかったです。空港から市内に向かう道路は美しい花壇が続き、市内に入ると今度は道が狭く車線は描いていない凸凹の道、昔から交易で栄えた歴史ある町ですから昔の道路幅のままというのも少なくありません。創業祭では永続勤務表彰も行われたちょうどその日はアパレルメーカーの創業祭、社員たちは部署ごとにかくし芸を披露し、会社から臨時ボーナスや永続勤務の発表もあってかなり盛り上がりました。勤続20年の社員食堂コックさんにも感謝のハグと記念品が社長からプレゼントされましたが、ややもすると陰の存在になりがちな人にまでちゃんと大勢の社員の前で感謝する、いい会社ですね。翌朝は広州市内の店舗視察。同行する社長や幹部たち10名ほどに什器台数やその形状、マネキンに着せる服の飾り方から定数定量管理まで気がついたことを売り場で指導。ファッションビルやショッピングモールの大型ショップのほかに、歴史的建造物の小型ショップがユニークでした。地元の美術大学の学生にスペースを解放し彼らの作品展示をしたり、半世紀以上前はこの場所は有名な写真館だったそうで、若いお客様がレトロな雰囲気の中で記念撮影していました。古くからの繁華街の目抜き通りにある「北京路225ビル」その上層階にあるギャラリースペースかつては有名な写真館だったビルでブランド創業者とそして次の日の午前中は幹部と海外戦略に関する意見交換、午後は社員150名にセミナーでした。午前中の幹部たちとの意見交換では、創業から29年間取り組んできたことが説明され、海外戦略について社長から構想が発表あり、これについて私はどう思うか意見を述べました。海外展開でキチンと収益をあげるのはいかに大変か身にしみているので調子のいい話はせず慎重に進めた方が良いとアドバイス。一昔前と違い、ネットで通販も発信もできる時代ですから、海外主要都市の一等地に店を構える必要はなくなり、場合によっては家賃の安い裏通りでもビルの上層階でもビジネスはできるとも申し上げました。すでにオーストラリアやシンガポールに出店しているので海外出店を加速させたいのでしょうが、海外は簡単ではないので慎重に計画を立てる方がいいでしょう。午後は本社スタッフに向けてマーチャンダイジングの基本を説明。どういうお客様に向けて、どんな商品を企画し、これをどのように売るのか、そしていくつ販売するつもりなのか仮説を立てて仕事しましょう、とこれまで日本で教えてきたことを3時間ほど講演。最後は質疑応答でしたが、空間演出担当の若手社員と私とのやりとりに創業社長がイラつき、その社員に私が指摘した高すぎるハンガーラックを再検討するよう指示していました。什器の高さが高いのは什器製造メーカーに押し切られたらしく、社長はそんな仕事の仕方ではダメ、しっかり話し合って再考するよう命じました。セミナーの質疑応答で講師から指摘のあった問題点を社長自らすぐ現場に改善の指示を出す、このスピード感がいいですね。この会社は自社工場でアパレル製品を生産し、自分たちの直営店で社員が販売している製造小売業。もっと上質な商品を開発して海外に販路を広げたい意向ですが、社長と社員の間の距離が短く、幹部の意思決定はスピーディというところが業績を伸ばしてきた要因でしょうね。社長ら幹部は昨年10月東京での社員研修、12月の杭州市での業界セミナー、そして今回の広州本社での研修と意見交換と短期間で三度も私の話を聞いてくれました。やる気のある経営者の会社、当方もセミナーのやりがいがあります。
2024.03.11
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初日上海での講演を終えると上海西方の蘇州市のホテルに移動、そこで最大手ニットメーカー「恒源祥」の新年祝賀会に参加しました。翌日は終日セミナーで私が、その翌日は今回も同行した齋藤孝浩さんが担当、丸2日間の長い研修でした。研修会場のHENGLI HOTELロビーかつては手芸用の毛糸を販売していた1927年創業の歴史ある会社、中国政府の解放政策によって民営化され元国営大企業です。フランチャイズ含め中国全土に約6000店の販売網、どんな家庭にも1枚はクローゼットに入っている有名ブランドと教えてもらいました。系列ニット工場や染色工場もたくさん傘下に有しているのでしょう、セミナー参加者は上海本社の社員のみならず、フランチャイズ店や系列工場の経営者も。新年早々こうした社内セミナーを開催とは、人材育成に力を入れている経営者です。私の講演タイトルは「マーチャンダイジングの基本」。顧客分類、商品分類、定数定量管理など長年日本の学校や社内MDスクールで教えてきた「誰に、何を、いくつ売るのか仮説を立てる」をお話しました。上の写真は、常日頃国内の研修で最初の講義で話している「マーチャンダイジングの語源であるマーチャンダイズ(=商品)を掌握するのが最も重要」と投影画像のMERCHANDISINGを指差しながら説明するシーンです。昨年12月杭州セミナーでお世話になった同時通訳の張さんが今回もサポートしてくれ、丁寧に翻訳してくれたようなので助かりました。張さんには国内のMDスクールで受講生に配布しているテキスト全編を事前に送ってあり、私が何を言おうとしているのか十分把握していました。海外セミナーはなんと言っても通訳さんの出来次第、日本語も上手な通訳さんでありがたいです。最後に「意図のある発注方法」と「全員が共有する販売計画」を説明して約6時間の講義は終了。するとリチャード・チン社長から受講者に提案がありました。1テーブルごとに全員で討論して質問を1つに絞り、私が評価する良い質問をした3つのグループには全員にご褒美を提供する、と。15分ほどの短い時間ですがテーブルごとに真剣に議論、各テーブルから1つずつ質問があがりました。顧客年齢が年々高くなるのに対してブランド側はどう対処すべきか。思い切って一気に若返りを目指すべきなのか、それとも現状を維持しながらゆっくり軌道修正すべきなのか。私が奨励するメリハリある発注をしたら売れ残りが出るリスクはないのか。フランチャイズ店(ブランド直営店よりフランチャイズ契約で販売してもらっている店舗の方が多い)の販売員人材に関する問題など、みなさん具体的な質問でした。私が良い質問だなと感心した3つのグループを社長に伝えましたが、果たしてどんなご褒美なのかちょっと気になります。日本視察研修という案も出ていましたから、実現したら素敵です。最後の最後にサプライヤーなのでしょう、家庭用洗濯機で洗えるカシミヤの特許を持つニット工場の若い社長さんから「自分たちが作ったカシミヤセーターを着てほしい」とプレゼントの申し出を受けました。齋藤さんはブラック、私はチャコールグレー、共にクルーネックをお願いしましたからもうすぐ日本に届くと思います。本社所在地は上海ですが蘇州は創業者が生まれた場所、目の前には景勝地でも有名な太湖がある高級ホテルで新年会も含めて3日間の合宿とはかなりの出費でしょう。そこに日本人講師を2人も招聘して研修するんですから素晴らしい試みです。3年後は記念すべき創業100年、ぜひまた来てみたいです。
2024.03.08
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中国の上海、蘇州、広州各都市でそれぞれセミナーや研修をして帰国、休む暇なくすぐに東京コレクションが始まりました。中国出張の疲れからか珍しく発熱、前夜祭イベントは急きょ欠席、翌日からは熱と咳、鼻水に悩まされながらどうにかショーを視察しました。周囲の客席の方々に風邪をうつしてはいけないので客席では無口、熱が高いときは無理せずショーを欠席、今シーズンは最悪のコンディションでした。それでもそれなりの本数ショーを拝見、写真撮影できる席ではたくさん写真を撮ることができました。その中から自分なりに評価したいなと思った5つのコレクションをここにアップします。5つに共通するのは、あれもこれも見せようとする欲張りコレクションではなく、ひとつのディレクションを徹底して突き進む姿勢と服自体の完成度。あくまでも個人的な見解、メディアの方々とは視点が違うかもしれません。HIDESIGN(ハイドサイン) このようにオープニングからモデルが多数ステージに登場、迫力あるワークウエアでした。HARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ) まだデビューして数年しか経過していないのに貫禄すら感じました。FETICO(フェティコ) デビューからずっとブレないディレクションが素晴らしい。MURRAL(ミューラル) 予想以上に見応えのあるコレクション、ショーを見ることができて良かった。SUPPORT SURFACE(サポートサーフェス) いつも細かいところまで目がいき届いた安心して見ていられるコレクション、今回もさすがでした。そして、RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO公式スケジュールの翌日夕方に立教大学キャンパスで開催されたKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、写真下)も面白いコレクションでした。バッグ代わりにランドセルを持った無表情なモデルがちょっとシュールで可笑しかった。ほかにも気になるコレクションはいくつもありましたが、残念ながら撮影しにくい客席での撮影は諦めました。誰でも客席でビデオや写真をスマホ撮影できる時代ですから、やっぱりコレクションはランウェイに近いポジションで拝見できればありがたいですね。
2024.03.27
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デザイナーのヨーガン・レールさんが石垣島での交通事故で亡くなってもう8年、会社ヨーガンレールはビギグループから独立し、ヨーガンさんの意志を継いだスタッフたちがそのナチュラル路線を守っています。今日は久しぶりに江東区清澄の本社での展示会にお邪魔しました。このオフィスはずっと社員の福利厚生策として社員食堂でベジタリアンランチを提供し続けていますが、展示会期間中は我々訪問客もご馳走していただけます。ヘルシーで美味しいランチをいただき、新作を拝見してきました。個人的には晩年ヨーガンご本人が力を入れていた「ババグーリ」(以下の写真すべて)にもっと伸びる可能性を感じました。あくまで会社側にビジネスを拡大する気があればの話ですが。服だけでなくリビング雑貨のバリエーションもあって、ヨーガンが確立したかったババグーリ独自の世界観が理解しやすいですよね。できれば衣食住をトータルに訴求する実験、ポップアップや他ブランドとのコラボを仕掛けてもらいたいし、このブランドにはあまり価格のことなんぞ考えずに上質素材をどんどん使って日本のちょっと贅沢で素朴な暮らしの提案をして欲しいですね。スタッフの方々には「こんなことやったらどう」と余計なことをアドバイスしてきました。
2022.10.04
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昔から、これと決めたブランドとはかなり長く付き合い、同じブランドのものをずっと買い続けてきました。アンダーウエア(カルバンクライン)や靴下(ラルフローレン)からカーディガン(プレイまたはオム・コムデギャルソン)、コート(ジルサンダー)、カジュアルパンツ(バナナリパブリック)、バッグ(プラダのナイロン製)、靴(トッズ)、四半世紀ほぼ同じブランドで通してきました。セットアップとシャツは1980年代から長らくコムデギャルソン・オムを愛用してきましたが、ブランド側のシルエット変更(丸くゆったりだったのがタイトフィットになった)があってからギブアップせざるを得なくなり、セットアップとシャツは自分用のものを特別に誂えるようになりました。だから、自分の服を新しく買うためにブラブラ紳士服売り場を歩くなんてことはほとんどありません。売り場に行くときはマイブランドの売り場に行って必要なアイテムを買ってすぐ帰ります。マーケティングのためレディース関連の売り場は頻繁に歩きますが、正直言ってメンズ売り場をウインドーショッピングすることははほとんどありませんでした。4半世紀以上浮気することなく靴はずっとトッズでしたが、adidasスニーカーを履くようになってその快適さにいまごろ目覚め、スニーカーと調和が取れる服を探す必要に迫られ、最近はまめにメンズ売り場を回るようになりました。スニーカーもadidas以外のブランドにもチャレンジしてみようと手を広げ、初めてNIKEをネットで購入。一消費者の目線でメンズ売り場を歩いて気がついたこと、「値段が随分上がってるなあ」です。先月某百貨店メンズ館で気になったジャパンブランドのシャツ、お値段が58,000円の表記に「高いっ」と思いましたが、よく見るとこれはピンク色値札、つまり秋冬セール価格。プロパー価格を見てさらにびっくり仰天、なんと繊細な細番手素材でもないのに97,000円でした。複数の素材を縫い合わせているデザインですが、数年前ならこの種のシャツは50,000円未満だったはず、それがプロパー価格97,000円とはあまりに高すぎます。セールでも私には高すぎる、試着する気力もなくなり売り場を離れました。ジャパンブランドがこんなに高騰してるのであれば、円安の影響を受ける海外人気ブランドのシャツはどうなっているんだろうと某イタリアブランドのネット通販サイトを調べると「フリンジ付きプリントコットンシャツ」がなんと638,000円。正直、こんな値段のシャツを誰が買うんだろう、です。私には値段と価値のバランスが異常としか言いようがありません。円安の影響もあるんでしょうが、この価格をつけて日本市場で売り出すジャパン社の勇気(あるいは自惚れ)、すごいですねえ。考えてみれば、海外ラグジュアリーブランドのキャンバスバッグでさえ円安影響を受けて昨年からとんでもない価格に設定されています。レザーじゃなくブランドロゴが入ったキャンバスバッグがほぼ50万円。顔見知りのイタリアブランドの販売スタッフがこんなことを漏らしていました。「キャンバスですよ◯◯さん(フランスのブランド名)、このお値段で販売していいんだろうかと正直思います。でも、うちもそこまで高くはありませんが、もうエントランス価格とは言えないお値段なんですよ」、と。しかしながら、とんでもない価格になろうが海外ラグジュアリーブランドは順調に売上を伸ばしています。コロナ禍で減少していたインバウンドの売上はほぼコロナ以前に戻り、インバウンド客の旺盛な消費もあって価格高騰は特に問題視されていません。果たしてこの上り調子はしばらく続くのでしょうか。海外ラグジュアリーブランドの小型バッグ、若い消費者のために20万円を切るエントランス商品を用意していた数年前が懐かしいですね。中国景気が悪いと言われていますが、中国からの若年層インバウンドは有名ブランドの大きなショッパーを抱えて歩いています。今日も銀座の歩行者天国の主役は完全に中国系の若いお客様、本格的な春節(今年は2月10日)バカンスはこれからですから、中国は報道の通り本当に不景気なのかどうか今日の銀座を見ると疑問に思います。日本ではこの1年生活必需品が相当高騰していますが、ファッション商品の価格の上昇はそれ以上に値上がり、ジャパンブランドであれ外資ブランドであれちょっと異常レベルではないでしょうか。2020年新型コロナウイルス騒動の前のほぼ2倍になった商品は少なくありませんから。「売れてるからいいんじゃないの」と言われそうですが、本当にこの状態でいいのかどうか。ここは、価格高騰についてこれない消費者にはユニクロもGUも無印良品もあると理解すべきなんでしょうかね。私、最近履きやすいスニーカーに目覚めて結果的には良かったのかもしれません。普通のadidasならトッズの値段で5足以上買えますから。(写真は全て2023年12月中国杭州、寧波で撮影)
2024.02.03
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