売り場に学ぼう by 太田伸之

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Nobuyuki Ota

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2022.09.06
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どのコレクション会場でも気になる年配の男性がいました。紬のキモノ姿の方がいつもランウェイ最前列に座り、開演前は穏やかな表情の好々爺、ショーが始まると目線がキラリ鋭くなる不思議な人物、仲間に名前を聞いたら現代構造研究所の三島彰所長でした。会場で名刺交換する際、「現代構造研究所とはどういうお仕事をなさっているんですか」と質問したら、「一言では言えませんね」でした。

1985年ゴールデンウイーク明け、ニューヨークコレクションの取材を終えて私は再び帰国。そこへ新しいデザイナー組織を設立する話が持ち上がり、結局そのあとニューヨークへは戻れませんでした。新組織CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の正式発足が7月8日、私は事務局長として運営を託され、私を補佐するアドバイザーに読売コレクションを陰で支えたファッションプロデューサー大出一博さん、文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、無印良品を立ち上げたクリエイティブディレクター小池一子さんの3人と、スタイリスト原由美子さん、そして三島彰さんを加えた5人にお願いすることになりました。


(三島彰さん)

CFD発足後アドバイザーの皆さんとはよく話をする機会がありました。三島さんは経済誌でジャーナリストとして活躍していましたが、出身の東京大学繋がりで西武百貨店の堤清二社長に声をかけられて転職。格式を重んじる三島家には江戸時代の士農工商みたいな古い考えがあり、「どうして三島家の人間が商人なんだ」と最初は家族から猛反対されたそうです。

三島彰さんのお別れの会は千代田区三番町にある二松学舎大学で行われましたが、三島さんは江戸末期から大正時代まで活躍した漢学者で二松学舎の創立者三島中洲の子孫。学者一族としては日銭を扱う商人をよしとしなかったかもしれません。その風貌といい、執筆される記事といい、三島さんは学者肌でしたが、それは三島中洲がルーツだからでしょう。

三島さんが書くコレクション批評は多くのファッションエディターたちとはちょっと異なり、アカデミックでありながら根底にはデザイナーのクリエーション讃歌、美しいアート作品を愛でる喜びのようなものを行間に感じさせ、決して批判的な目線ではありませんでした。全国の織物産地にもよく足を運んでいらっしゃったので、デザイナーにテキスタイルのことを詳しく訊ね、マッチングできそうな織物工場をデザイナーにアドバイスもされていました。


1995年私の松屋入りパーティーで乾杯音頭をとってくださいました

1970年代前半、三島さんは西武百貨店渋谷店に伝説の売り場「カプセル」を作り、当時デビューして間がない若手デザイナーの山本寛斎さんや菊池武夫さんなどを売り出した元西武百貨店婦人服部長です。自主編集自主販売のとんがったセレクトショップ、内装は当時新進気鋭のインテリアデザイナー倉俣史朗さんと聞いています。寛斎さんによれば、自作の服を着てディスコで踊っていたら突然「その服面白いね」と声をかけたのが三島さん、寛斎さんはすぐにカプセルの注文をもらいました。あの頃の寛斎さんは非常にエキセントリックなデザイン、こうしたデザイナーの強い個性を消費者に訴求する画期的ショップでした。



戦後経済史に残る東急西武戦争、西武百貨店は1968年開店の渋谷店のみならず1973年には渋谷パルコを公園通りにオープン、東急の牙城である渋谷の街に食い込んで攻勢をかけます。渋谷パルコはデザイナーブランドのショップをずらり揃え、パルコ劇場でユニークなイベントを企画、強烈なイメージのポスターやテレビコマーシャルを連発、渋谷の人の流れは大きく変わりました。が、パルコより一足先にファッション文化を強く打ち出し、おしゃれな若者を渋谷に集めたのはシブヤ西武、その革新的売り場の象徴がカプセル。ここは作り手にも消費者にも夢を提供するファッション黎明期の発信拠点と言ってもいいでしょう。

シブヤ西武にカプセルがオープンしたとき、管理部門は実際よりも売り場面積を少なめにカウント、ちょっとでも坪効率の数値が上がるよう三島チームをサポートしました。西武百貨店のイメージアップのためには必要、でもデビューしたばかりの若手デザイナーたちの斬新な服、そう簡単に売れるものではありません。売り場面積を過少カウントして人気に火が着くのを待ったのでしょう。当時の百貨店はいまよりもおおらかでしたね。

1970年代日本の多くの百貨店は海外有名ブランドと提携してそれぞれプライベートブランドを立ち上げましたが、そのほとんどはライセンス契約、ブランド側からデザイン画や生地スワッチをもらって国内アパレルメーカーに製造委託、オリジナル商品の販売ではありませんでした。しかし、西武百貨店だけは違いました。パリのエルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミラノからはジョルジオアルマーニ、ジャンフランコフェレ、ミッソーニ、ウォルターアルビーニなど輸入オリジナル商品を販売、他の百貨店とは全く異なる豪華なマーチャンダイジングでした。

CFD時代、西武百貨店常務の松本剛さんが教えてくれました。バイヤーとして初めてエルメスのパリ展示会に行ったら、ネクタイ1本の値段が初任給以上、値段を見て誰が買ってくれるんだろうと不安になり、震えながらオーダーシートに発注を書き込んだとか。半年後エルメスのオープン日に開店と同時に来店して買ってくれたお客様の顔、松本さんは「ずっと忘れられません」とおっしゃっていました。

いまでこそどの百貨店でも海外ラグジュアリーブランドの高額オリジナル商品を販売していますが、1980年代前半まで多くの百貨店はライセンスビジネスがほとんど、オリジナル商品とはデザインもクオリティーもほど遠い別物を売っていました。そんな中でいくら値段が高くてもラグジュアリーブランドのオリジナルをズラリ並べて販売する西武百貨店(テッドラピドスやラルフローレンはライセンスでした)のチャレンジ精神は際立っていました。それは、値段が高くてもブランドがまだ無名でも新しいファッション商品の導入に果敢にチャレンジするカプセルから始まったのではと思います。

他店よりも海外ブランドのオリジナル商品をダントツに多く扱い、LOFTやWAVE、SEEDなど新しい切り口を次々打ち出し、パルコ、無印良品など新業態を軌道に乗せた堤清二さんが西武セゾングループから外れると、グループの様相は大きく変わりました。気が付けばコンビニ最大手セブン&アイHDの手に渡り、渋谷の若者文化を牽引したパルコは大丸松坂屋のJフロントリテイリング傘下に。そして現在、セブン&アイHDがそごう西武の身売り交渉で苦労している、三島さんら西武セゾングループで活躍した人々はどんな思いなのでしょう。

西武百貨店黄金期を知らない世代には、「西武セゾン=ファッションの担い手」だったなんて想像つかないでしょうね。ほんと、凄くクリエイティブなグループでした。​​





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Last updated  2023.08.18 17:53:07
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