反カルトからの自由

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2010.08.10
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カテゴリ: カテゴリ未分類
ヨシュアくんは、しきりに「自分は裁判で勝訴した」ということで、過去の説得活動が正当なものであるかのごとく吹聴している。

むろん、裁判における判決は尊重されるべきだ。しかし、裁判は絶対ではない。誤審はいくらでも存在する。しかも、拉致監禁という事案は立証が難しい。家族や牧師たちが「拉致監禁なんてなかったよ」と口裏を合わせて証言すれば、拉致監禁被害者が立証することは極めて困難だ。

ブログ「火の粉を払え」の「勝訴の裏側」を読めば、物的証拠の少ない証言に頼る裁判における、立証側の困難さが見て取れよう。

勝訴の裏側1
勝訴の裏側2
勝訴の裏側3

だから小生は、ヨシュアくんが裁判の結果だけを持ち出して、拉致監禁がなかったかのごとく吹聴することは許さない。確かに物的証拠がない裁判だったかもしれないが、拉致監禁という事実があったかもしれない。否、「事実があった」と証言する人々がいるのだから、牧師としてもっと真摯にこの問題に向き合うべきだと考える。

実際に、ヨシュアくんも「証拠がないから事実がないとは言えない」ということを、自らのいじめ加害者体験を悔いながら、次のよう述べている。

ブログ「カルトからの自由」2007年11月21日


>わたしが幼稚園の頃のことです。
>わたしは罪をおかしました。
>その罪意識は今も消えません。
>それは一つ下の男の子をいじめたことです。

>でもいじめたことはよく覚えています。

>しかし、今になってその子が誰なのか、覚えていません。
>謝ろうにも相手が誰であったか思い出せないのです。

>証拠はありません。記憶も不確かです。
>だから、そのいじめの事実は実は存在しなかった・・・、
>などとは言えません。脳裏に焼き付いています。

>証言がなかろうと、あろうと、
>記憶があろうとなかろうと、
>現実があったということは、
>主観的なものには左右されません。
>客観的なものも実は左右されません。

>あり得ないと思います。

そうなのだ! 純粋に客観的な証拠などというものは存在しない。それぞれの人の主観的な内容に影響を受けているのだ。だから、ヨシュアくんが勝訴したという裁判も、ヨシュアくん側に「都合の良い」証人たちの証言や陳述書が、裁判官の主観を効果的に刺激したということだ。

陳述書そのものが、証人たちの記憶に基づくものである限り、客観的な証拠とはなり得ない。拉致監禁を立証する側にとって、こういう裁判は極めて難しいのだ。

裁判は、残念ながら事実を解明する場ではない。むろん、事実の解明に尽力するべきであるし、そうしている裁判もあるが、民事の場合はむしろ原告・被告の言い分を聞いて調停するような意味合いが強くなる。

さて、その裁判においてヨシュアくんは嘘をついていないのか? こういう証言がある。

「みさちのひとり言」より


>清水牧師が法廷で
>S藤君とのやり取りの内容を聞かれた時に
>彼はS藤君なんて知らない
>会った事もないと言いました。
>私が統一協会をはっきり辞めたことがわかった直後、
>清水牧師とS藤君の3人で
>食事に行ったこともありますし、
>監禁先にもS藤君は何度も訪れました。
>それ以外の拉致監禁活動にも
>多く牧師からの依頼で協力していたようです。
>そういった人物を全く知らない人間だと言うことは
>S藤君に対しても失礼な態度だと感じました。

同じページに、ヨシュアくんがみさち女史の監禁場所に現れたときの様子が書かれている。これは裁判で提出された陳述書だ。

>次の日の夜遅く脱会者を6人引き連れて
>清水牧師が現われました。
>統一教会の問題点を話していましたが
>そんなことを聞く気になれないので
>わざと目をそらしボーっと横を見ていたら
>突然怒り出しましたが
>気にせずそのまま無視しつづけました。

>それよりも清水牧師の言う事に
>何でも素直にうなずいている脱会者たちの姿が
>異様に映って私はああはなりたくないと思いました。
>その日から3日間連続で夜中に現われましたが
>同じ態度を取り続けました。
(中略)
>そして何も食べない私に対して、
>清水牧師は「いざとなったら
>入院させて点滴を打てば死なないから」
>といった事を覚えています。
>やはり死ぬ自由もないことを
>再確認して再度失望しました。

もし、上記のみさち女史の証言が「事実」であるならば、ヨシュアくんは謝罪するべきである。「裁判で勝訴したから」などということは、「牧師」として謝罪しない理由にはなるまい。証拠の有無など関係ない。証拠がなくても事実があると言っているのは、他ならぬ自分である。

幼いころのいじめ加害者体験を今も悔い、謝りたいと思っているのであれば、麻子女史やみさち女史たちに謝罪できるはずである。

裁判所で嘘を突き通せても、己が信ずる神やイエスの前で嘘を突き通せるのか? ホザナ幼稚園の園児や父兄たちに聞いてみたいものだ。





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Last updated  2010.08.10 11:23:47


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