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小学校4年生から6年生が、夏休みに、エコライフに挑戦した模様を書いた日記を読ませてもらいました。 区の主催で、コンテストとして実行されて、賞が出ます。 一部の学校は、夏休みの宿題にしていたようです。 日記は、たくさん集まって、コンテストのためにたくさんの人が日記を読んで、審査をしています。 私もその審査に入れてもらいました。 読んでいて楽しいし、勉強になります。 最初は意気込みが大きかったのでしょう。細かい字でいっぱい書いていましたが、夏休み最後の方になると字が大きくなって、文字数が減っていった子がいます。これけっこう多いです。疲れたかな、とおもいます。 中には、日記のスペースでは足りず、調べてきたものと一緒に別のノートにまとめている子もいました。読ましてもらうのも時間かかりました。 こういう子のノートは、写真、イラストも入れて、すばらしいです。 環境マークを集めていた人がいて、こんなに環境のマークがあるのだ、と感心しました。 中には、がまん、がまんと、この夏、ぜったいにクーラーはつけないと決めて頑張っている子もいました。 そういう日記を読むと、エコ活動は我慢大会ではないよ、と言いたくなりました。 でも、考えてみると、省エネ活動は、どこか我慢大会の感がします。 トイレを1人で使って、水を流すのは1回にした。 できるだけ早く寝て、電気を消すようにした。 習字の勉強に新聞紙を使った。 手紙に裏をメモ用紙にした。 水とうをいつも持って出かけている。 エアコン、せんぷうきは使わない。うちわを使う。 お父さんがコンセントから電気ぬかないので、何度も注意した。 食べ残しはぜったいにしないようにする。 歯磨きは、コップに1ぱいの水だけに決めた。 なにか、少し寂しくなります。 こどもたちよ、もっとのびのびいこうよ、という思いもしてきます。 日記には、指導者(先生)のコメントがあります。夏休みが終わって先生は読んだのでしょう。コメントを毎日少しずつ書き込んでいる先生、花丸ばかりつけている先生、まとめて最後に一言コメント書いている先生。先生もいろいろです。毎日の文章にコメント書く先生、えらいな、と思います。 いろいろ考えさせられて、時間がアッというまに過ぎていきます。
2008.09.20
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内藤新宿の復元模型の一方の端が、四谷大木戸です。現在でいえば、谷4丁目交差点のあたりです。四谷の方から見ると、左側に四谷地区センターがあります。そしてその先に新宿御苑があります。ついでに書くと、右手にサンミュージック・ビルがあります。昭和61年(1986年)4月8日、タレントの岡田有希子さんが、飛び降り自殺をしたところです。今でも私は覚えています。でも、年年、道に置かれていた花も少なくない、以前あったお地蔵さんも撤去されてしましまいした。もう一つついでに、四谷地区センターには、図書館がありよく行きます。そして、4月30日には、新宿区が昨年に続いて行う「みどりのカーテン」イベントで、ゴーヤの苗を配布するお手伝いをしました。その時、NHKが取材に来ていたのですが、その放送が、6日の8時45分からのニュースで流れました。(ちなみに今日はゴーヤの日です。5-8ですね)。テレビには私の姿も少し映っていました。その四谷区民センターの交差点側に、「四谷大木戸跡」と書いた少し小ぶりな石碑と、通りに面して「水道碑」という大きな石碑が建っています。 大木戸とは、江戸から地方に向かう主要街道に設けられた検問所のことです。四谷見附、赤坂見附、といった「見附」と同じような機能を持っていますが、見附は城内へ入る検問所であるのに対し、大木戸は、江戸市街地へ入る検問所です。ですから、半蔵門から四谷抜ける道で、江戸は、この四谷大木戸までだったわけです。今では、新宿駅の方まで江戸だったのでは、と思えてしまいますが。大木戸は、江戸はここまで、という境界をはっきりさせるものでした。江戸から西へ向かう人にとっては、この場所で江戸を離れることになり、甲州街道や青梅街道を旅してきた人たちは、ここが江戸の入り口でした。四谷の大木戸は、江戸開府後間もなく、元和2年(1616)に設けられました。大阪夏の陣の直後で、軍事的にも緊張していた時です。明け六つ(午前6時頃)から暮れ六つ(午後6時頃)まで通行人や出入り物資を検問し、夜間は木戸を閉ざして通行を禁止しました。しかしその後、夜間木戸を閉めるほどの必要もなくなり、寛永4年(1792)に、木戸は廃止されました。また、この一帯は、玉川上水を管理する「水番所跡」でもありました。 多摩川の羽村から取水された水は、開渠のままここまできて、そこから先の江戸市中には地下に埋設された木製又は石造りの樋によって、江戸の各地に配水されていました。そこで、ここに水番所がおかれ毎日時刻を決めて水位を計測し、羽村の取水口と連絡と取り合って水量の調節を行っていたわけです。 ここから江戸市中には地下に石樋あるいは木樋を通じて配水をしました。 「四谷大木戸跡」の碑は玉川上水の石樋を利用しています 水番所は、給水量の調節とその出入りを管理する重要な役目を持たされていました。 四谷区民センターの裏側に玉川の水路の一部が残されています。 いつ完成かしりませんが、玉川上水が新宿御苑前に一部復興されることになっています。江戸名所図会に、四谷大木戸が描かれています。これは大木戸が廃止されたあとの様子を描いたものです。 なお、内藤新宿は、この大木戸をぬけて、もう少し追分の方へ歩いた所から始まります。
2009.05.08
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「東郷青児」という画家について、今の人はどのくらい知っているでしょう。 「損保ジャパン東郷青児美術館」の研修会、今日のテーマは「東郷青児」についてでした。 NHKの「日本モダニズムの見た夢」と東京テレビの「美の巨人」のビデオを見せてもらい、その後、東郷青児の作品を、時代を追ってスライドに映して、解説をしていただきました。 私は、かつて、二科会の絵の先生を知っていて、東郷青児というと、まず、その二科会の最高位の人だということを思い出します。娘さんの東郷たまみさんにも、その人の縁で1度お会いしたことがあります。 そして、次に、自由が丘のモンブランというケーキ屋さんで、「東郷青児」が思い浮かびます。 ここのケーキはおいしくて有名ですが、包装紙に東郷青児の絵が描かれています。 そして喫茶室もあるお店に作品も飾られています。 東郷青児の絵を飾ってある喫茶店は他にもあります。 成城にある洋菓子店で喫茶室もある「成城アルプス」や京都の乙女喫茶「ソワレ」などが有名です。 そしてもう一つ「美の巨人」にも出てきた吉祥寺南口にある喫茶店『ボア』も有名でした。「美の巨人」の放送は2004年でした。しかし、この 喫茶店『ボア』は、残念ながら、昨年の2008年9月に閉店になりました。 喫茶店『ボア』があった敷地が吉祥寺駅南口駅前広場の整備区域に指定されたうえ、建物老朽化したことで、半世紀の歴史の幕を降ろしたのです。 せっかく今回、また縁ができたので、一度行ってみたいと思っていたのですが、残念でした。 喫茶店『ボア』は東郷青児がプロデュースした店です。 そして、お店の壁面いっぱいに東郷青児の優美な女性の絵が飾られていました。 「ボア(Bois)」は フランス語で「森」の意味です。井の頭公園をパリのブーローニュの森に例えて東郷青児が名付けたということです。 「美の巨人」を見た後、それを聞きました。 そして、この絵、つい先日のお宝鑑定団に出たのだそうです。 大きな絵で、なにせ50年、お店に飾られていたので、たばこのヤニとか、紫外線が当たるとか、ほこりとかで、かなり痛みが激しく、それでも600万円といった値段がついたのだそうです。 お店の人を知っている方がいて、その人の情報では、まだ絵は、売れていないとのことでした。 時代は過ぎます。 いろんなゆかりの店、早く行ってみないと、と思っています。 「エレベーターに描かれた東郷青児の絵」というのもありますが、これは日本橋の高島屋です。 モンブラン、本当にここしばらく行っていないな、と思います。昔はよく行ったのですが。
2009.01.31
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ヨーガの広池秋子先生が亡くなって1年。今日、京王プラザホテルで「広池秋子先生に感謝する集い」が開かれました。 第一部が、「思い出の集い」で、作家の津村節子さん、岩崎邦枝さん、出版の海竜社社長・下村のぶ子さん、歯科医の高橋英登さん、健康ファミリーの寺島雄さんが思い出を話されました。 津村節子さん、岩崎邦枝さんは、広池ヨーガ健康法の受講生でもあります。 みなさん口を揃えて言われることは、広池秋子先生はヨーガを始めてから、すっかり別人のなった、と言うことです。 別人になった、というと、何か悪くなったように聞こえますが、逆です。やせて、いつも下をむき、ぼそぼそとしか話さなかった人が、若々しく、シャキッとして、はっきりものを言う人になったのです。みんなビックリしたようです。 ヨーガの指導をはじめる前の広池秋子先生は作家でした。 大正8年生まれで、『オンリー達』という作品で芥川賞候補に、『零下の群れ』で直木賞候補にもなりました。 作家のころは、生来の虚弱体質で、病気の宝庫みたいにたくさんの病いを抱えていて「50歳まで生きられない」と確信していたそうです。 それが、48歳の時、ヨーガに出会い、人生が変わりました。 ヨーガによって、すべてが変わったのです。ヨーガによって助けられた。とおっしゃっておられました。 そのヨーガで、心身ともに救われたという体験を生かして、ご自身でヨーガをまとめられ、完全健康法として世間に広げた方です。 会場には、そのお弟子さんにあたる人を中心に1000名近くの人がみえていました。 ヨーガの指導者になられたのが昭和51年です。 その最初から、続けておられる方もおられますが、多くの方が10年~20年と続けておられます。 思い出を語られた、津村節子さんは30年、岩崎邦枝さんは20年、広池ヨーガを続けておられます。 津村節子さんは、80歳ですが、白髪は一本もないそうです。50肩、60肩といったこともなく、腰痛もなくいたって健康だということです。これもヨーガのおかげと話しておられました。 この会場にみえている方の多くは、どこかで、ヨーガを教えておられます。 広池秋子先生、作家としての仕事はやめてしまわれましたが、ヨーガを通して、多くの人に「元気」と「生きる喜び」を与えて来られました。 広池秋子さん、津村節子は丹羽文雄さんの同人誌『文学者』に参加していたお仲間です。そのお仲間の一人に、瀬戸内 寂聴さんがおられます。その瀬戸内さんは「作家は人の役にたつことはできないが、広池さんは、ヨーガで多くの人を助け、社会の役にたっている。すばらしいこと」とよく言っておられたそうです。 会場の目頭をあつくした多くの人を見て、そうしたことばを実感しました。 第二部では、各自が、先生がお好きだった紫色のカードに、「感謝の気持ち」を書いて、花に囲まれた先生のお写真の前に一人ずつ置いていきました。 私も、なにかと先生にお世話になりました。本当にありがとうございました。
2008.11.27
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神楽坂は、大正期に入ると、山の手第一の盛り場になります。 神楽坂の近くには、明治期、リーダー格の文士が住んでいます。 横寺町の尾崎紅葉、余丁町の坪内逍遥、早稲田南の夏目漱石。 尾崎紅葉に師事した泉鏡花も、神楽坂に住んでいました。 坪内逍遥関係では、島村抱月、松井須磨子などの名前がすぐ浮かびますが、二人も神楽坂には来ています。 夏目漱石の家には、つぎつぎと漱石を慕って人が訪れるので、会うのは毎週木曜日の午後3時以降と決められ、それは「木曜会」と呼ばれるようになります。そこには、高浜虚子、寺田寅彦、芥川竜之介、内田百間、鈴木三重吉などそうそうたる人たちが訪れていました。 ですから、神楽坂には、そうした多くの文士、あるいは文学志望の青年がたくさん来ていたのです。 そして、多くの人が立ち寄ったレストラン「田原屋」が、神楽坂の中程にありました。「東京のかおり」などを参考に「田原屋」のことを書いておきます。 1階はフルーツパーラー、2階はレストラン、高級果実を店頭に並べるかたわら、西洋料理専門のハイカラなレストランでした。 明治の初めは牛鍋屋でしたが、西洋レストランになりました。 漱石もこの「田原屋」はお気に入りで、晩年、純一、伸六の息子を連れてやってきて、洋食をごちそうし、その食べ方やテーブルマナーなどを教えていたとお店の人が後年語っています。 また、伸六が風邪をひくと、ポタージュスープとメンチボールをこの田原屋から取り寄せたとも言われます。 「田原屋」には、他にも永井荷風、菊池寛、佐藤春夫なども通い、また島村抱月、松井須磨子もよく訪れていました。 その田原屋は残念ながら、2002年に閉店しました。現在残っている文士ゆかりの場所としては、旅館「和可菜」があります。 ここは、いわゆる<ホン書き旅館>で、作家が作品(ホン)を生み出すために逗留する旅館です。昔の旅館のたたずまいのまま残っている<ホン書き旅館>は神楽坂の和可菜だけでしょう。有名なところでは、「寅さん」の山田洋次監督。『火垂るの墓』の野坂昭如が有名です。野坂は近くの新潮社のカンヅメ部屋から抜け出して、よくここに来たのだそうです。 「和可菜」の女将、和田敏子は女優木暮美千代の妹です。「常連の作家から宿泊の予約が入ると、80歳を越えた今でも、女将がそれぞれの部屋を整える」(『神楽坂あるき』)ということです。心意気です。 神楽坂のお店もだんだんとどこでも見られるお店に変わっていきます。 どこの町に行っても、同じチェーン店のお店が出ていうというのは、寂しいです。
2010.03.05
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昨日の駒込冨士に続いて、十条冨士に行ってきました。 JR東十条駅から歩いたので、十条冨士神社に着くまでは、寂しい道でした。 ところが、十条冨士神社に着くと、一転して、にぎやか、JR十条駅に向かう道は、露店がずらり並んでいました。 地元では「お冨士さん」として親しまれ、昨日から、今日、十条冨士神社脇の道路には、約200の露店が出店しているそうです。 まさに活気あふれる、お冨士さんです。こんなに大々的に祭礼をする所は、少ないと思います。露店は、駒込冨士より多いです。 十条冨士塚は、十条地域の人々によって結成された冨士講「伊藤元講」が、江戸時代以来の冨士信仰にもとづく年中行事を繰り返してきた場所です。 まさに由緒ある、冨士塚です。 塚には、伊藤元講などが建てた石造物が、30数基あります。 「丸参十条伊藤講」の結成時期はいつ頃かは定かではないですが、僅かに十条冨士の塚上に立てられている講碑の銘文にこの講が最初に登場するのは盟和2(1766)年6月吉日と冨士塚の頂上に建てられている石祠に刻まれているそうです。 かつての登山道と、中ほどにある小御嶽神社 有吉蓉子さんの『ご近所富士山に「謎」』(講談社)によると、「目立つ『伊藤』の文字は、食行身禄の娘、花(一行)の弟子『参行』のことであり、身禄(伊藤伊兵衞)の名を継いだ三代目伊藤伊兵衞と言われている。」ということです。 境内では、十条富士講の皆さんがお揃いの浴衣を着て入口で、お線香や縁起物を販売していました。 有吉蓉子さんの『ご近所富士山に「謎」』(講談社)によると、「目立つ『伊藤』の文字は、食行身禄の娘、花(一行)の弟子『参行』のことであり、身禄(伊藤伊兵衞)の名を継いだ三代目伊藤伊兵衞と言われている。」ということです。 境内では、十条富士講の皆さんがお揃いの浴衣を着て入口で、お線香や縁起物を販売していました。 お線香を買って、あたらしく出来た階段を上がり、頂上の石祠(せきし)前で、その線香の束を火中に投じ、参拝します。 とても由緒を感じます。奥の院
2009.07.01
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