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2007年3月に退職して、4年になります。 退職したらああしよう、こうしようと思っていたことは、ほとんど実現していません。 そのかわり、思ってもいなかった展開をして、2011年の4月を迎えようとしています。 そうした時に起きた東日本大震災。 私自身、直接的な被害は受けていませんが、3月期末の「予定」がすべて中止になり、おかげで家にいて、少し考える時間ができました。 仕事が終わったすぐの時にもそういう時間があったのですが、その時はまだ仕事を引きずっていました。しかし、なんとか自分の暮らしを築こうと、時間割りを作って、自分らしい時間を持とうとしていました。夏休みの季節が終わるころ、誘われて環境の講座を受講し、その縁で、環境のNPO団体の手伝いをすることなりました。さらに、9月に美術館で開催されていた対話型鑑賞会に応募して参加したことから、美術館でのボランティアをはじめることになりました。もうひとつ、2008年の正月に近所にある歴史博物館のボランティアガイドの募集があるのを区報で見て、その研修を受けてボランティアガイドを始めました。 それらは、よく考えるとずっとやっていた「仕事」に通じるものがあったので、ごく自然に入ることができました。 やっていた仕事のいいとこ取りといった感じもしました。 でも、そのようによくばったことで、会社に勤めていたときよりもスケジュール表が黒く埋まってしまいました。忙しくなってしまいました。 東日本震災のテレビ報道を見ながら、今、思うのは、これでいいのか。もう先がないのに、忙しく動いて、それはただ自分の現実から逃げているだけではないのか。本当にしたいことをしているのか、そんなことを考えます。 そうした思いもまた、日常が戻れば、元に帰ってしまうかもしれませんが。 このブログ「美作」には、仕事を終えて4年の記録があります。できるだけ毎日という思いから、短時間で書いて載せ、誤字脱字、意味不明、ただどこからか引っ張ってきただけではないかといった文書ばかりです。一度見直して修正したいです。 「美作」は、ちょうど写真が容量いっぱいで使えなくなったところなので、これはここで終了します。 「美作」を見てくださっていた方、本当にありがとうございました。御礼申し上げます。 なお新しくと言っても相も変わらぬ同じスタイルですが、下記で新しくカフェ「道みち」を開いています。よろしかったらお立ち寄りください。 http://uzo800.blog.fc2.com/
2011.03.21
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「シジミから考える地球温暖化」という講座の進行をしました。 講師は、シジミ博士と言われる、学習院女子大学教授の品川明さんです。 品川講師のとてもユニークです。前掛けをして、動きながら手を動かしながら講義をすすめます。質問を出して、良い答えだと手をパッチンと鳴らします。いい音です。 学習は体験学習、講師は教えるのでなく、答えを引き出す、それが講座と言われます。 知っている知識を披露する講座は古い、身にならないということです。 体験学習については次の言葉があります。 「聞いたことは忘れる。」 「見たことは覚える。」 「体験したことは理解する。」 聞くだけの講座は古いし、身に付かないのです。特に若いというか子どもにとっては「体験」が大事です。 今日の講座は、体験にはなりにくいものでしたが、シジミとハマグリを持ってこられ、それを茹でて、汁にして味わうことをしました。 手に持って、じっくり観察することもしました。 ハマグリの口はどこか、わかりますか。 品川講師は、冷凍のシジミを持ってこられました。 それを茹でたのですが、冷凍の前に何をしたか。 つまりは美味しいシジミの料理に結びつくので、箇条書きにします。 (1)水洗いをしっかり行う。このときに貝が開いているものは取り除く。 (2)洗ったシジミを皿に広げて、水に濡らしたクッキングペーパーをかぶせ3時間温室に置く。 (これは、空気中に置いておくと呼吸が出来ず、シジミの旨み成分が増すのだということです。) (3)シジミを軽く水洗いして、保存パックに入れ冷凍する。1晩冷凍させておけば良いとのこと。 (冷凍することで旨み成分、オルニチンを増やすことができるとのだそうです) シジミを味わいながら、講座を受講すると、お話も身になるような気がします。 この講座は、エコの講座なので、そのことはしかっかり受けとって欲しいです。 すごく簡単に言えば、「シジミは、窒素やリンなどを体内に保持してくれるので、干潟や湖の環境になくてはならない存在。それを人間が食べることで、間接的に人間も環境保全に協力できる」というものです。 さらに「シジミはおいしいから。グリコーゲン含有量も横綱級で、アラニンなどアミノ酸も多く含まれているし、美肌効果も期待できるので、もっと食べた方が良いですよ」ということです。 これはシジミに限らず、食べるとき、その食材が「どうしてこんな味なんだろう」、「どうしておいしいのだろう」ということをちょっと考えてみてほしい。「食べる」ことは、単にお腹いっぱいにすれば良いのではなく、その食材の持っている味のこと、シジミが豚などのその生き物だったら、生き物が育った環境のこと、さらに生産者さんのことなどを、考えながら食べることが大事だと品川講師はお話されたのです。 この考え方を感じることが、この講座の目標だったと思います。 とても面白い、それこそ血糖値が下がる、楽しい講座でした。
2011.02.24
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環境の講座で「まちづくりから考える」を受講した人が、そのことをブログに書かれていて、それを読んで、少し触発されました。 まちがあって(ここで言うまちは、都市のまちですが)、都市に向かって人が増えて、それで郊外に家が出来、そこに大きなお店が出来て、どんどんまちが拡散していきました。 そうして商業は、郊外をめざすようになります。 そして、それを可能にしたのは、「車」です。 「車」については、自動車産業が落ち込むと日本経済は破綻する、そいう空気があって、厳しい論調は少ないです。 環境問題で少し問題にされた、排気ガスについても、ガソリンから電気自動車になって、環境にもやさしくなるから、自動車はますます安全でそして必要、そういう感じです。 いまだに郊外に大きなショッピンセンターが出来、近くにマンションが建ちます。近くでなくても車で買い物に行く人は多い。郊外に買い物に行くため、もともとあった商店街はすたれ、シャッターを下ろし、寂しいまちになる。 都市は大きくなって、移動は車、そうすると、人の出会いも薄い。縁が結ばれないのです。 まちは、車中心に作られます。歩道橋。今でこそ少なくなって来ましたが、車が通るから人はその車を避けて、上を歩きなさい。車の量が多くなると、歩道は狭くなります。 移動が便利になるように、道が作られます。自動車のための道です。 新宿も新宿御苑の脇を抜けて渋谷の方へ抜ける道がも何年もかかって作られています。 以前、三鷹の先の玉川上水を歩いた時、道路予定の所がありました。この自然はなくなるのか。また歩くのが大変になる。 「歩く権利」ということを言われました。 「歩く権利」を主張しよう。歩ける範囲の、コミュニティ溢れるまちを作ろう。そうすると、人との縁がまた生まれて、血の通ったまちが出来る。 拡散するのでなく、減小するまちづくり。 歩くことは健康にも良いのです。 人間の復活は、車から、人間の権利を取り戻すことではないかな、と思います。 そういう、車を少し追い出すまちづくり。 高速道路はなくしましょう。 高速道路がなくなると、その下によくある川やお濠が、キレイになってよみがえります。よく見えるから、高速道路がなくなり見晴らしが良くなるので、水辺もキレイになるのです。水辺がキレイになるとまちがいきいきしてきます。まちがいきいきしてくると、人もいきいきします。 車に少し遠慮してもらう。自転車の道を作って、自転車の移動を安全にする。歩道を自転車が走るのを止めるわけです。 「車」から、人の権利を勝ち取りたいです。 都市はどこまで自動車を減らせるか、それが、都市の大きなテーマです。
2011.01.25
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対話式鑑賞会、今日は、私の担当の生徒は3名でした。学校は4名で組んだようですが、1名が風邪でお休みでした。 3名と絵を見ながら回ったのですが、勉強出来る生徒らしくきちんと話をしてくれて、70分でしたが、アッという間に時間が過ぎました。 良かった、鑑賞会でした。 あと2回あります。 一応これで、終わりにしようかと思っているのですが、迷います。 こうした絵画鑑賞をしているので、絵画に興味が行って勉強をします。 止めると、それがなくなる気がします。 細々でも入れていただこうか、という気がしますが、みなさん一緒懸命勉強されて、勉強会も開かれているのですが、私はそれに参加できません。 そうした態度で、子どもとの対話の鑑賞会に参加するのは、やはりまずいだろうな、と思います。 迷います。 でも何か止めないと、どれも中途半端になります。 止める。捨てる。それができないので、だらだら人生を送ってしまます。
2011.01.24
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今朝、NHKテレビ「日曜美術館」を見ました。「千年の花を咲かせたい~小泉淳作・東大寺ふすま絵に挑む~」といった内容でした。 小泉淳作さんは86歳です。 昨年、5年がかりで奈良・華厳宗大本山、東大寺本坊のふすま絵を完成させた、そのドキュメントでした。 実は、小泉淳作さんを知りませんでした。 先日、冬の旅で京都に行った時、まず建仁寺に寄りました。日帰りの旅だったので、特別公開だけを見るつもりで行ったのですが、最初でよく分からす、誘われるまま建仁寺本堂の方へ入りました。 そこで、天井画の「双龍図」を見ました。白と黒のとても迫力の絵だと思ったのですが、最近描かれた絵だと思ってあまり、深くは見ませんでした。 京都へ行くとついつい、歴史のある、古いものを求めてしまいます。 描いた人の名前もよく見ないできたのですが、龍の絵は、印象に残っています。 この龍が実は、小泉淳作さんの作品だったのです。 びっくりしました。もっとしっかり見てくると良かったと後悔しました。 天井に大きく描かれていたのですが、畳108枚分の大きさがあったのです。それも一人で仕上げたのだそうで、その縁から、東大寺のふすま絵に結びついたのです。 小泉淳作さんは、美術団体に属することなく、一人独自の画境を切り開いてきた「孤高の画家」だということで、最後に、作品にサインもしない、私が描いたと主張することはキライだと話しておられました。 そういうことで、どちらかというと、あまりポピュラーではない人なのかもしれません。 でもこのふすま絵で、昨年、高島屋で展覧会もされているし、私が知らないだけかもしれません。 小泉さんは、東大寺、本坊40枚分のふすまを、桜や蓮(はす)の花々で埋め尽くす作品に挑まれました。 86歳高齢です。一度途中で入院もされています。 桜は描いた事がない、嫌いだと話されます。桜の絵、どれも誰が描いたか分からない。同じように見える。特色が出せない、そんな風に。 蓮の花は好きで、40代から何枚も何枚もスケッチをされています。 細かく観察して、そして描く。深い絵です。 最初文学にあこがれて、慶応大学の仏文科へ入学。安岡章太郎さんなどと出会い、その安岡章太郎さんの作品を見て、文学はダメだ、それで好きだった絵の方へ変わられたのだそうです。 芸大を出て、しばらくはデザインの仕事をしながら絵を描いてこられ、そのデザイナーの仕事を辞めることができたのがもう50台。 「画家としてやっていけるようになったら、70歳を過ぎていた。」 正座してテレビを見ました。
2011.01.23
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朝、8時過ぎに、損保ジャパンビル42階の東郷青児美術館へ行きました。 窓から外を見ると、東京湾の水が金色に光っていました。こんなにすっきりと見られることは珍しいです。だいたいこんなに早く美術館には来ません。 東京タワーがあってその向こうに海が見えるのです。 左を見ると、東京スカイツリーも、はっきりその姿を見せます。 東京が一望といった感じです。 中間あたりに千葉の幕張も望めます。 そして、近くの新宿御苑もよく見えます。 家も見えそうです。 気持ちが良くなります。 広く見渡せる、気持ちが晴れます。 今日は、小学4年生の美術鑑賞会です。 展示は「櫃田伸也展―通りすぎた風景―」です。 具象と抽象の間。何か話してくれると良いのですが、話してくれないと、困ると思っていました。 今日はおとなしい子たちでした。特に3人の女の子があまり話をしないのです。 対話式鑑賞が終わって、その女の子は、気に入った作品の感想を書くのですが、その絵で選んだのは、グランマ・モーゼスの作品。今日、見なかった作品です。 少し落ち込みます。反省ですね。 窓からの景色も見せたのですが、印象に残ってくれれば、いいのですが。
2011.01.17
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14日、京都へ行き、知恩院で、三門に上り、中を拝観し、境内を歩きました。 知恩院は、承安5(1175)年、法然上人が浄土宗の総本山として開基したお寺です。 山号は華頂山といい、「華頂山知恩教院大谷寺」(かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)が正式名称です。 華頂山というには、東山連峰の1つの名称です。そこにあるということでしょう。 法然上人がこの地で入滅したときには、簡素な庵があるだけの寺だったようですが、後に秀吉や家康の庇護を受けて、現在の壮大な堂宇が構築されました。 特に、徳川幕府は、ことあらば戦用の城郭に転用すべく多大な援助を惜しまなかったようで、境内の至る所に「丸に三つ葉葵」の紋所が目につきます。 紅白が終わって、NHKの「行く年来る年」知恩院の除夜の鐘はよく映されます。 大鐘楼です。 三門から、御影堂にお参りして、大鐘楼に行きました。 大きいな、と話をしてぐるりと回ると、山道が続いて、そこに「ほーたるのいわや1丁」と道標がありました。 この奥で、ホタルが出るのかなと思って、帰ろうとすると、一人の男性がやってきて、「せっかくここまで来たのだから、この先の<ほーたるのいわや>まで行った方が良いよ」と言われます。 そうですか、と一緒に山道を少し登りました。 左手に「法垂窟」と刻まれた大きな碑が見えてきました。 そこに至る石段をのぼると、碑の手前に三体の石仏を祀った洞窟がありました。 洞窟の中には水がわいていました。「吉水」ということです。「 吉水 」 とは 清水が湧く泉の地ということです。 案内してくれた男性の説明では、「比叡山で修行を終えた法然が、この洞窟で夢枕に現れた唐の善導大師から浄土の教えを授かり、吉水の草庵を結んで念仏往生を広めた」というとても大事な場所というkとでした。 法然と善導が夢の中で対面したという「圓光大師善導大師真葛ケ原御対面之図」の石碑、があり、さらに「法然上人・親鸞聖人御旧蹟」の石碑もありました。 この2人の憎の出会いは、1201年です。 「たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません」(歎異抄の現代語訳)とあります。このとき、法然上人69歳、親鸞聖人29歳でした。 自力修行の道を断念した親鸞聖人は、他力本願こそが自らが救われていく唯一の道であることを、この吉水で法然上人から学びました。 後で調べるとこの「法垂窟」は、青蓮院の飛び地境内だそうです。 法然 は比叡山での修行を終えると、法垂窟 に 「 吉水草庵 」 ( よしみずそうあん ) を結び、「 専修念仏 」 ( せんじゅねんぶつ ひたすらに念仏を唱えると阿弥陀様に救われる ) を説いて 庶民の救済 に力を注いだということです。 そうするとこの法垂窟は、浄土宗・浄土真宗の聖地ともいえるところなのに、忘れられたかのようにひっそりとしています。ついつい本当なのかな、という気持ちもしてきますが、信じたいと思います。 法然は美作国で生まれました。 岡山から津山に走る津山線の津山よりに誕生寺という駅があり、そこが法然誕生の地です。何度も汽車で通ったのですが、一度も降りたことがありません。 今度、誕生寺へ行ってみたいと思っています。
2011.01.16
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初釜へ行きました。 正月が来たという思いがします。 別世界です。女性はほぼ100%着物でした。男性は黒いスーツ。 私はチャコールグレイのスーツ。 作法は、まったく知らいないで、やはり疲れます。 薄茶点前は、干菓子がくばられ、早めに食べてしまいました。 失敗。でもこれは、お菓子の分配が早すぎたと思います。 作法を知らない男性が出るのは、あまり良いことではありません。 どういうわけか、男尊女卑の性格が生きています。 男性が、少数ということがあるのでしょうが、正客の席につかえられます。 これはかなりつらいです。作法を知らないなとみなすぐ分かるので、見ている人はいないのですが、見られているような気がして冷や汗ものです。 茶道、習っておきたかった、とつくづく思います。 でもずいぶんお金がかかっただろうな、とも思い、やはりやれなかったなと納得しています。 今日の正客の人は、とても感じの良い紳士でした。穏やかな笑顔で、ああゆう風に歳がとれてたら、と思う人でした。ビルを持っていて社長さんでした。 うさぎの干支にちなんだ道具が並んで、それを拝見するのも楽しかったです。 場違いの感はああるのですが、とてもありがたい時間を持つことができました。
2011.01.08
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損保ジャパン東郷青児美術館で、「櫃田伸也展-通りすぎた風景- 」という作品展が開催されています。その内覧会に、今日7日に行きました。 櫃田伸也さんは、70歳ぐらいです。すっと風紀を中心に描いてきておられます。 最初見たときは抽象画かなと思ったのですが、どうも、具象画と抽象画の間といったところの独自の表現です。 櫃田伸也さんは、愛知県立芸術大学、東京藝術大学絵画科油画専攻で教鞭をとり、数多くの若い才能を育て、 世に送り出してきた、よき教育者でもあったようで、内覧会の後、ボランティアガイドのみんなに、作品を丁寧に語ってくださいました。 損保ジャパン東郷青児美術館の第1室には最初に小学校1年の時の家の絵があります。 この時の家の描写と、ひらがなのサインが、後の作品につながっていると話されました。 それから、この室には、アメリカのポップアートに惹かれて描いた作品が並んでいます。 1960年代の「平凡パンチ」のカットや、ダビンチの足の素描などが貼り込められて作品もありました。 このポップアート的作品は次の平面の表現と色彩感覚がその後の作品へつながります。 2室から独自の風景画世界へ入ります。 まずは壁面です。その平面に、蔦が絡んだり、壁の凹凸があったり、といったぐらいの奥行きで、平面を描いておらえます。 この時から見られる、小さな花は、とてもリアルで綺麗です。 絵画の表現における遠近法を極端に排除して描いてみたと話されました。 画面に色のにじみのような所があるのですが、せれには、水墨画の影響ということも言われました。水墨画はずいぶん意識されていたようです。 この平面から、凹凸の表現へ向かいます。 まず、凸の「山」。山といっても、自然のそびれる山だこではありません。工事現場でのゴミの山というのも山です。遠望する木々のもつ、葉の山もあります。そうした山を抽象化します。 どのように思索していったか、メモが、近くの柱に貼ってあります。メモといっても文字ではありません。ちょっとおもいついた落書きのような線とか、仕事場から見えた樹木の写真とか、雑誌の切り抜きとかです。 仕事場、あるいは自分の住居の近所の風景などから、壁、草、地面、草、フェンス、山、工事現場などからヒントを得てそのイメージを切り取り、実際にそれらを絵の中に再構成し表現していく手法がかいま見え、このメモ展示はとても嬉しいです。 山の次は池です。くぼんで水がたまります。極端な水たまりは洪水になります。 そして、その先にあるのは、広場でした。 一人の作家の作品の軌跡が丁寧になぞらえる作品展です。とても楽しいです。 最後の広場は、できあがってみると、子供時代に空地や川縁で遊んだ広場を描いていたといったお話をされていましたが、懐かしい風景といった感じがしてきます。 最初のとっつきは、「抽象画?」という感じで、逃げ腰になる人がいるかもしれませんが、じっくり観ると、とても楽しい、展覧会です。 作品展は2月13日までです。
2011.01.07
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今年最後は、暗い話。朝日新聞に「孤族」という記事が連載されています。高度成長時代、みな「個」を求めました。家族、ふるさとといったしがらみから自由でありたいと、東京に出て、個人で動けることの開放感を味わっていたような気がします。あのころは、世の中は豊かに暮らしやすくなるものだと思っていました。そうじゃないんだ、と気がついたときは、もう遅かったのです。私自身、高校まで暮らした「田舎」の重さを後になって感じています。その小さい時のつながりを大事にして生きる、それが本来の生き方ではなかったかと。もちろん優秀な人は都会に出て、出世し、という生き方が出来でしょうが。そうでない人間は、ふる里を捨てるべきではなかったのではと。それなら、帰れば良いではないか、と言われるかもしれませんが、ここまで勝手に生きてきて、そうは簡単に問屋がおろしません。それに一人帰ってもつながりは切れてきまっているし、また、今頃帰っても取り戻せません。東京でのつながりは薄いです。一歩間違うと、この新聞の特集に出てくる人たちのように、、一人、人知れず死んでいた可能性も大きくあります。たまたま運がよくて、生きています。でも、行き着く先は、必ず、孤独死です。死んでいても、誰にも気付かれない、死んでいるその姿が目に浮かびます。生まれた所で暮らす、これが、一番だったのではないかとそういう姿を想像しても、思えるのです。地縁というやつです。血縁も、東京よりはあります。なんとかしてくれるのではないか、と思うのです。そんな思いの中、「孤族」の連載は、身にしみます。「高齢になったら、病気になったら、職を失ったら、という孤立のわなが。血縁や地縁という最後のセーフティーネット、安全網のない生活は、時にもろい。」 そのもろさだけは、しみじみと感じるのです。「希望」はあるのでしょうか。
2010.12.31
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家の掃除をしているのですが、なにせ家にモノがありすぎて、掃除ができないというのが実態です。 出来るのはせいぜい窓ふき、お風呂掃除、トイレ掃除ぎらいです。電球も替えると良いのですが、今年は止めました。LEDに替えることを研究してからにしようと思います。 で、何もしていないかと言えばしうではなくて、袋につめたモノを、右に置いたり、左に置いたりして掃いて拭いたり、いろいろしています。 夜は、袋のものを点検して捨てられるものはないかと探すのですが捨てられません。 「断捨離」が流行っています。 「家のガラクタを片づけることで、心のガラクタをも整理して、人生をご機嫌へと入れ替える方法」。 ガラクタかな、なんて考えることが間違っています。「今」の自分に必要かどうか、その基準で考えてどうかということです。 「今」、いろいろやっています。 まず、歴史博物館でのガイド。江戸関係の本がかなりあります。昔から好きだったので、少し買っていて、ガイドを始めて、さらに買い集めています。講演会へいった資料もあります。 それから美術館。これも本です。これには、美術館のカタログが大きくて、買ってきては処理に困っています。とうとう、この前観た「蔦屋」の展覧会では、カタログを買う許可が、奥さんから出ませんでした。 自然観察。これは、観察したときの資料。講師の先生がいろいろ持って来てくださって、その整理が出来ていません。 エコ関係。これが最も書類等が多いです。新聞に切り抜き、講演会のチラシ、資料。それにやはり本です。 ダンス。これは覚えるダンスで、テープに録って、紙に書き取りためています。MDはたくさんたまっています。 前の仕事関連。これも止めないで、いまだに執着しています。これは資料関係の紙がたくさんあります。 いろいろなことに手を出している、まずこれを「断捨離」するのが先だろうなと思います。 先がないのですから、すっきりさせないといけないな、と思いながら、とにかう掃除をしています。
2010.12.29
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活動のお手伝いに行っている環境の団体が、「生物多様性」をテーマに、いろいろな活動のパネルを展示をしたいということで、「自然クラブ」の方にも依頼がありました。 例によって、安請け合いをしてしまい、2枚の模造紙に「自然クラブ」の活動を仕上げるのに、多くの時間をかかってしましました。 昔は、模造紙1枚くらい、数時間でできたのですが、その思いは、高齢になるとまったく役に立ちません。もっと跳べた、早く走れたはずだ、と思うのと同じです。 何とかもう仕上げなくてはダメだと昨日は夜2時ごろまで頑張って1枚仕上げ、今日は朝から3時までかかってもう1枚を仕上げました。 1枚目は、12月のある日「木」を取材(写真を撮って)して、それをまとめました。 いろいろな木の姿と、落ち葉の季節だったので、落ち葉の効用といった視点でのまとめです。2枚目は、ブログに書いていたものを生かすことをしました。 いろいろな花を取り出し、その解説を入れました。歴史的観点、名称の観点、役割の観点、花によって、違います。最後は雑草の魅力を入れました。自然観察をしていると、花屋で買う花より、雑草の方に魅力を感じるということです。 ブログをきちんと整理していないので、それらしい記事を探して開けて、編集をしました。ブログが役立ったなと、初めて思いました。 書いていて良かったです。 ただ読んで見ると、誤字脱字、どこかのHPから引っ張ってきたのか文章に統一感がありません。だいたい、植物については知らないわけですから、あちこち検索して、それを継ぎ合わせています。 でも、おさらいはすべきだなと思いました。 もっと書いているつもりがそれほどではありませんでした。 このブログに写真が載せられなくなって、以前の記事から写真を削除しようかと思ったのですが、写真も大切です。 特に自然観察は、写真がなければ、わかりにくいです。 やはりどこかに引っ越すべきなのでしょうね。
2010.12.21
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「がすてなーに ガスの科学館」へ行ってきました。 がすてなーには、文字通り、「ガスって何?」なのですが、イタリア語のように発音してください、ということでした。 そして、そのコンセプトは。 <「がすてなーに ガスの科学館」は、今後も暮らしを支えるエネルギーとしての天然ガスの役割・特長を分かりやすくご理解いただけるよう「エネルギーの?(はてな)を学び!(なるほど)を実感」をコンセプトに運営しています。> 見学に行ったのはエコの活動をしている人たちのグループの人たちと行きました。 展示は、子どもが来ればとても楽しいだろうなと思ったら、やはりそうでした。 東京ガス(株)が、20年前に創立100周年を迎えたときに、豊洲の地に「子どもたちの科学教育に役立つ校外学習施設」として初代「ガスの科学館」を1986年3月にオープンしましたが、「豊洲土地開発整備事業」に伴いそこを閉鎖することとなり、今の建物は、5年前に新しく移転して出来たもののようです。 「豊洲土地開発整備事業」というのは、元の建物が例の築地の移転予定の場所にあったということのようです。 「がすてなーに ガスの科学館」のことです。 入るとすぐ、2層吹抜けのエントランスホールにはガスで温められた空気で上昇する大型熱気球を展示してあります。 ガスの炎で、風船が燃えないのが不思議に思いました。 展示室の導入部となる「プロローグ」ではサーモグラフィにより、全体の黄色の画面に熱を持った所が赤く色がついて写り出され、ウン熱を持っているなと分かります。 エレベーターも下から押し上げられていて、風船スタイルなのか、つり上げる紐などがないので不思議な感じです。 屋上は、芝生で、まわるい傾斜になっていて、東京湾や、羽田、天気が良ければ富士山も見えるようです。 中の展示は、ガスから電気が簡単にでき便利に使ってもらえる時代になったこと、ガスは省エネで安全に使えるようになって来ていること、地球温暖化防止でも天然ガスは大きな役割を果たしていること、そういったことを感じてくださいということのようです。 ちなみに、この「がすてなーに ガスの科学館」は、使用電力を抑えるために燃料電池を使用していて、総電力量の約半分をその燃料電池でまかなっているのだそうです。 私の一番印象に残っているのは、「ガスはどこから来ているの?」でした。 天然ガス、北海道や千葉でも地下を掘れば出てくるのだそうですが、いかにも少ない。 それで、結局学国からの輸入に頼っています。 その輸送の方法なども興味を持ちました。容積を小さくするため液化するのですね。 すごい技術です。 でも、すべて輸入というところにちょっと不安を感じました。
2010.12.16
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「老後を心配しすぎていませんか」「江戸五街道の不思議と謎」「踊る、認知症予防と店頭予防大作戦」「にっこりぽっくり、おしゃべり健康マジック」「高齢者のための記憶術」「笑って学ぶ、悪質業者から身を守る法」 ある集まりで、「シニア」の人が、こうしたタイトルで、約10分間の話をされました。 その目的は、こうした内容の講師ができますので、声をかけてください、ということです。 みなさん、うまいです。おもしろ。すごいなと思いました。 10分にまとめる、これは苦心されたのだろうと思います。 中に、大学の先生もいましたが、正直に書けば、日頃話なれているからか、まとめに迫力がありませんでした。他の人は一所懸命で練習もされたのでしょう、言いたいことがきちんと話されていました。 でも、どこか寂しいです。つい、歳を感じてしますのです。聞きながら歳を取りたくないなと思っていました。 私自身、人の前に出て話すことをしていますが、こんな感じ、つまりなんとなく寂しい感じで受けとられているのでは、と思いました。 女の人はまだ良いですが、男性はちょっと無理をしている感じが出てしまいます。 それを照れては、いけないのですが。 「老後を心配しすぎていませんか」では、「よく月に37万円はいると言われていますが」、「私は15万でやっています」と言われましたが、15万円はないだろうと、聞いていました。 年金では暮らせないことは確かで、毎月貯金を喰っています。 やはり心配です。 「江戸五街道の不思議と謎」で、甲州街道では、「ずいずいずっころばし」の唄に謎をがあります。その謎を知りたければ、本講座でと予告編で終わりました。 調べてみようと思いました。 「高齢者のための記憶術」は、子どものころの記憶法をとっているから記憶できない、もっと能動的な、創造的な記憶法を取る必要がある、といった話でした。 というように興味はわくのですが、どこか、気持ちに寂しさが残ります。 それは、あるいは、講師ができます、採用してくださいと売り込みをしているということにから生まれる感情かもしれません。 普通にどこかの教室で、受講すれば、ああためになった、と単純に楽しいかもしれません。
2010.12.14
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浦和の「十二日まち」へ行きました。 十二日まちは、明治時代から続く大歳の市です。 調神社(つきじんじゃ)の境内を中心に駅から旧中山道にかけて、縁起物の熊手や食べ物などの露店が約1,000店も立ち並びます。 露店の多さには驚きました。 露店は食べるものが多いです。その中で、一番多いのは、「広島風お好み焼き」です。朝のドラマ「てっぱん」の影響があるのかもしれません。それにB級グルメ。津山の「ホルモンうどん」まで店があるのには驚きました。 熊手は、調神社境内で売っていました。境内には「お化け屋敷」が出ていました。昔ながらの露店のにぎわいが感じられます。 熊手の縁起物というので、酉の市を思い出しますが、ここは、うさぎの神社で、お酉さまは関係ありません。 大宮の氷川神社で十日市が開かれ、12日に十二日まちが開かれます。これはお酉さまでなく歳の市です。 歳の市は、歳の暮れに、新年の飾り物や正月用品を売る市のことです。十二日まちは、明治時代から続く大歳の市と呼ばれています。 それにしては、正月用品は目に入りませんでした。 狛犬ならぬ狛兎が鎮座するのは調(つき)を月にかけて。また、社名から「ツキ」に恵まれる神社として信仰されている。 調神社(つきじんじゃ)の創建は、この地に神宮(伊勢神宮)に献上する調(織物や地元産品で納付した古代の税)を納めるための倉を建てたことに始まります。 調は、租庸調の調、税金の調です。この神社には鳥居がないのですが、これは調の運搬に便利なためです。 正式には「つきじんじゃ」ですが、地元では「つきのみや」「つきのみやじんじゃ」と呼ばれています。 その「ツキ」を「月」にかけて、中世ごろから、調が月と同じ読みであることから月待信仰と結びつき、兎を神使とみなす兎信仰が行われるようになりました。 ここには、狛犬ならぬコマウサギがいます。 来年の干支はうさぎです。来年は「ツキ」をいっぱいもらいたいです。
2010.12.12
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「442日系部隊」という存在を知りませんでした。先日、TBSドラマ「99年の愛」を見て、初めて知りました。 ハワイに従軍していた日系兵士や、米本土の強制収容所から兵士が集められ、1943年に結成された日系の部隊です。 その442連隊戦闘団の映画を、今やっているからぜひ見なさいと、知人が切符を贈ってくれました。 映画になっていることも知りませんでした。 また、正直に言えば、あまり積極的に見たい映画ではありませんでした。 最近映画が少し苦手に感じるのは、時間通りに行って席を取るといった計画性が必要という所にあります。思い立った時に、映画は見たいのです。 それに、こうした戦争の映画は、何か重くて・・・・・。 でも、せっかくチケットを送ってもらったのだかららと、同封のチラシで時間を見ると、新宿K's Cinema で4時30分からという時間がありました。この時間なら、見たいテレビもないし、あまり影響がないので、と出かけました。 でも、この新宿K's Cinema という映画館が分かりません。昔ならこんなことはなかったのですが。映画館と本屋と古本屋はだいたい、どこでも知っていました。映画館はどんどん閉鎖になり、残っても名前が変わります。 「甲州街道沿いのドコモショップの隣」とあるので、甲州街道へ行くとドコモショップはどこにもありません。電話で聞くと、大塚家具を駅の方へ向かってください、そして、ここでもドコモショップの近くと言います。わかりません。ここらは昔昭和館という映画館があって、東映の任侠映画3本立てといった映画をよく観に来たな、と思って柱を見ると、442のポスターが貼ってあります。 ああ、ここだったのだ、元昭和館と言ってくれ、と思いました。と言っても昭和館と言ってわかる人は、少ないでしょうが。 中に入って、席などの確保してもらっているとそこに電話で場所の問い合わせが入っていました。みなわからないのですね。 この「442日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」という映画は、この新宿K's Cinema と横浜の映画館と2つでしかやっていません。しかし、この映画少しずつ知られて、多くの人が見に来ているようです。だから、映画館の場所確認の電話が入っているのでしょう。 どんな風に広がっていったのか、今日も88席ぐらいですが、前1列が空いているぐらいで、この時間にしては人が入っています。 脚本家の橋田寿賀子さんが、<遺言>と意気込んだ5夜連続ドラマ「99年の愛~JAPANESE AMERICANS~」の影響もあるのかな、と思いました。 高い視聴率でしたから。 チケットを送ってくれた知人には悪いのですが、こんな、かなりいい加減な態度で映画を見に行ったのですが、映画はもっと多く日本の人が見るべきだと思って帰って来ました。
2010.12.11
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やはり年をとったのかな、と思います。たいしたことをしていないのに、あわただしい。まさに忙しい感じで、毎日がすぎます。 今日のことを書くと、朝起きると、洗濯をしました。初めて洗う黒いズボンがあったので、白と色物と分けて2度洗濯しました。 新宿にある歯医者の予約が10時半だったので、9時45分に出かけました。 歯医者が、30分ほどで終わり、ちょっとビックカメラで、プリンターのインクを購入しました。年賀状の印刷の準備です。 と言っても、だいたい、年賀状をまだ買っていません。 何人に出そうかな、少なくしなければ、とそのことばかり考えています。 帰ると、郵便局の人が来て、預金の整理をすすめてくれました。 話しを聞いて、昼食です。 それから、エコプロダクト2010の会場東京国際展示場ビックサイトへ向かいました。 東京駅からバスです。 長蛇の列なのですが、バスがなかなか来ません。 やっと来て、ビックサイトへついた時は、3時近くになっていまいました。 入場は、先に登録していないと、当日だと時間がかかります。私は、特別招待の券を持っていたので、スムーズに入れました。 たくさんの企業が、このように環境に取り組んでいますという展示。たくさんの人です。みな黒いスーツで、会社の人が圧倒的に多いです。 各ゾーンがクイズのようなものを出していてそれに答えると粗品をくれます。 何か欲しくて、クイズをし、エコバック、携帯箸、ペンシル、軍手、紙ばさみなど、もらいました。それと、各ゾーンの資料も頂いて、かなり重かったです。 6時近くになったので、あわてて、外に出、バスを探しました。もう暗くなっていて、いつもの景色と違うので、うろうろしてしましました。 やっとバスを探して乗り、豊洲で降りました。豊洲から銀座一丁目まで行き、三越へ行きました。お歳暮で、一人送っていない人がいたので、その手続きです。 そうこうして家に帰ると、7時30分でした。 かなり疲れて、もう何もする気がおきません。 エコプロダクツの資料でも見ようと思って広げてみたのですが、もらった粗品の点検の方が、熱が入ります。
2010.12.10
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区から委託されて企画運営されていた、寒極講座を4月からお手伝いして、2日で終わりました。 1年目は受講して、2年目から運営にかかわらせてもらいそれが3年になりました。 今年で最後と思っているので、自分の出来ることを1つ入れてもらいました。 江戸に入る前の玉川上水跡を約2キロ歩く講座です。 このことは、このブログにも書いています。 単なる歴史探索でない、まち歩きをしたいといろいろ考えたのですが、天気も雨、それに内容も思うようには行きませんでした。どうしても歴史探索中心になってしまいます。 でも、最後に区長がみえて、町の記憶を呼び戻してのまち作りをしていくといったお話をされたので、玉川上水を中心に江戸の「記憶」を呼び覚ます発端にはなったかなと思います。 この、まち歩きの時、ちょうど今年、元の内藤新宿を中心とする地域、四ッ谷地区協議会が地域に住民によびかけて栽培していた「内藤とうがらし」のことを話したのですが、これが記憶に残ったようで、新宿ブランドの1つの核として、内藤とうがらしを栽培していろいろなイベントを組んでみようといった話しが出たので、これは大変嬉しいことでした。 もうひとつ、新宿のエコスポットを大きな新宿白地図に、写真とか絵とかで貼って行こうという提案があり、白地図ができきたので、見本にと思って、街路樹や神社の大きな木、や、自転車置き場など写真を撮って貼りました。 少しだけと思っていたのですが、みんなが、よく意味をつかめなかったのか、出て来ないので、歩くたびに、気にして探し、デジカメで撮って、貼りました。 私の写真が一番多くなりました。 意識して探すと、エコスポットらしい所はけっこうあります。 特に街路樹が面白かったです。 講座がすすむうちに、この白地図に、いろんなコメントを貼り込むことが出てきて、ちょと変わった白地図になってきました。 それで、最後の日、タイトルが「新宿 体験・発見・ほっとけん!地図」になっていて、なるほど、<ほっとけん>もあったのか、とそうした写真を撮らなかったので、意思の疎通欠けていたな、とちょっぴり反省したのですが、自分としては、「エコポイント地図」として、自分で挑戦してみようと、意欲が出たので、これも大変良かったです。
2010.12.03
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今日は、自然教育園の自然観察でした。写真が載せられないので、残念なのですが、覚えておきたいことを記録しておきます。 今日のテーマは、果実と実でした。鳥に見つかるように、木や草が赤や紫の果実を実らせています。自然教育園はそうした植物が多くてとても楽しいとこです。 マンリョウやセンリョウの赤い実を見ました。 ムラサキシキブの紫の実も見ました。 今日の一番の収穫は、サネカズラです。赤い実を塊で実らせていました。 肉質の果托(かたく)に球形の赤い液果がたくさんついて、全体としては球形でとてもきれいです。見事なかたまりでした。 マツブサ科の常緑藤本(とうほん)ということで、緑の葉との対象がとても良いです。 赤い皮を剥いでつぶして水を加えるとネバネバした液体になります。これは、髪につけて整髪料になったそうで、別名にビナンカズラ(美男葛)と言われます。 良い名前です。 『万葉集』にも詠まれていますから、古くからある植物です。もちろん整髪料として使われたのは、ずいぶん昔のことでしょう。 万葉集の歌を2首。 玉くしげ みむろの山の さなかずら さ寝ずはつひに ありかつましじ」 藤原鎌足 核葛(さねかずら) のちも逢ふやと 夢のみに 祈誓(うけひ)わたりて 年は経(へ)につつ」 柿本人麻呂 もうひとつ、かずらで、ヘクソカズラという少しかわいそうな名前の植物を見ました。 アカネ科の藤本(とうほん)ということで、サネカズラと同様、つる植物です。 少しもむと強烈な悪臭があり、それが屁糞(へくそ)の由来です。 この植物も万葉集に出てきます。 皀莢(さいかち)に延(は)ひおほとれるくそかづら 絶ゆることなく宮仕へせむ 高 宮王(たかみやのおおきみ) ここに出ているように最初はクソカズラでしたが、いつのころか「ヘ」をつけてヘクソカズラと呼ばれるようになりました。 ヘクソカズラは、葉や茎をさわったり、揉んだりしなければ悪臭も無く、その花はとても可憐で、実や根は薬用にもなり、秋から付ける実は冬の野鳥の貴重な餌となります。
2010.12.01
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新宿中央公園で、木々の紅葉(もみじ)を鑑賞しました。 紅葉と打ち出しましたが、色つきとしては黄色が圧倒的に多いです。黄葉と打つ方が正しいかもしれません。 なぜ、緑の葉が美しく黄や紅に色づくのでしょうか。 葉緑体はクロロフィルという葉緑素と、黄色のカロチノイドが8対1の割合で含まれています。このクロロフィルは、紫外線によって分解され目立たなくなり、緑色は消えます。 つまり黄色の葉は、「カロテノイド」が目立って出てきた色です。 一方、紅の葉は、色素「アントシアン」に由来します。アントシアンは春から夏にかけての葉には存在せずに、秋に葉に蓄積したブドウ糖や蔗糖と、紫外線の影響で発生するのです。 もうひとつ、褐葉と呼ばれる葉があります。 これは、黄葉と同じ原理ですが、タンニン性の物質や、それが複雑に酸化重合したフロバフェンと総称される褐色物質の蓄積が目立つため褐色になります。。 一番多いのは、黄葉です。イチョウのような黄葉は、この赤い色素を作り出す機能を持っていないのです。 「万葉集」の歌に詠まれる「もみじ」は、ほとんど「黄葉」と書かれます。「紅葉」はごくわずかです。その理由は分かっていないようです。 以前、韓国に行ったとき、韓国の木々は、圧倒的に黄葉でした。奈良時代、大陸とのつながりもあり、黄葉が目立ったというか注目されたのではないかと思います。 「もみじ」ですがどういう意味があるかです。 古代では秋が深まり草木の葉が「もみだされるように」赤や黄色に変わることを「もみつ」と言ったようです。その「もみつ」が名詞になって「もみち」さらに「もみぢ」と変わっていったようです。 今日の「もみじ」は草木の変色をさすと共にイロハカエデを中心としたカエデ類の樹木名としても使われています。 イロハモミジは、紅が多いですね。だから今、字として多く使われるのは、紅葉なのかもしれません。 今日、公園で「もみじ」をみたのですが、黄、緑、そして紅と入り交じってキレイでした。 万葉人も、黄色や赤一色になることよりも緑なども混じった景色を好んだようです。 こんな歌があります。 経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず少女(おとめ)らが 織る黄葉(もみちば)に 霜なふりそね 巻8の1512 大津皇子(天武天皇第三皇子) この歌はもみじの美しさを織物に見立て、歌っています。<縦糸もなく、横糸も決めずに 乙女たちが織るもみじに錦に 霜よ降らないでおくれ> 木々を見上げての秋の散策でした。
2010.11.30
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みんな、退職した会社とどういうつきあいをしているのでしょうか。 会社にいるとき、やめた人が訪ねて来たとき、あまり歓迎という気持ちはなかったように思います。 だからできるだけ、会社に行くのはよした方が良いのだろうと思っていました。 でも、自分がその立場になると、すっかり縁を切るのは寂しいなという気持ちもあってしばらくは、近くに行った時は寄っていました。 それもなくなりました。 人の話を聞くと、退職と同時に会社とはすっかり縁を切ったと言われます。 離婚となにか似ています。 ながく人生をあずけたのに、何かおかしいという気もします。 今日、かつての会社の関連の所に用があって行き、退職後の会社との関係は難しいな、と考えました。 それで、なんとなく、吉野弘さんの詩を思い出しました。 退職した人が会社を訪ねる詩です。 退職した人が訪ねてきて、会社の人間が、それをなんとなく非難するような詩だったかな、と好きな詩だったのにはっきり思い出せません。 本棚から詩集を引っ張り出して見てました。 そうではなく、仕事を辞めた人が、また仕事を見つけて喜んでいる、それで良いのかといった「仕事」に囚われた人を哀れむ詩でした。 今の私は、せっかく「仕事」を辞めたのに、忙しくしています。 詩を読んで、「会社」との関係ではなく、「仕事」のことを考えました。長いけどその吉野弘さんの詩「仕事」を引用します。仕事停年で会社をやめたひとが-ちょっと遊びにといって僕の職場に顔を出した-退屈でしてねえ-いいご身分じゃないか-それが、一人きりだと落ち着かないんですよ元同僚の傍の椅子に坐ったその頬はこけ頭に白いものがふえている。そのひとが慰められて帰ったあと友人の一人がいう。-驚いたな、仕事をしないと ああも老けこむかね。向かい側の同僚が断言する。-人間は矢張り、働くように出来ているのさ聞いていた僕の中の1人は肯き他の1人は拒むそのひとが、別の日にこにこしてあらわれた。-仕事が見つかりましたよ 小さな町工場ですがねこれが現代というものかもしれないがなぜかしら僕はひところの彼のげっそりやせた顔がなつかしくいまだに僕の心の壁に掛けている。仕事にありついて若返った彼あれは、何かを失ったあとの彼のような気がして。ほんとうの彼ではないような気がして。
2010.11.29
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新宿歴史博物館が、改装のため、2ヶ月間休館になります。 その最後の日の案内役でした。 若い二人が来て、珍しく「内藤新宿}のことを少し教えて欲しいというので話をしました。 内藤新宿のことを話し、玉川上水のことを話すとそちらの方が好きなようで、渋谷川の暗渠の道を歩いたことがあるということで、話が弾みました。 若い人と話ができるのがこのボランティアガイドの喜びの1つです。 正直に言えば、年輩の人は少しコワイです。知っていて知らないふりをする人がいたりします。 でも年輩の人はものをよく知っているので、教えてもらうこと多いです。 今日も、年輩の人に、信濃町の俳優座の所に、宮内庁関係のエライ人の屋敷があっただろう、何と言う家だったか、と聞かれました。知りませんでしたので、謝りました。 しばらくして、どこかで調べたのか、「柳原家」だったよ、と言いながら帰って来られました。 ありがとうございます。 歴史博物館では今日まで、戦前の新宿を写した写真展が開かれていました。 昨日「昭和の新宿」を歩いたので、その道を写真と会場にある地図で確認しました。 丁寧に見ると、本当にいろんなことが見えて来ます。 歩いて実感して、そして写真とか地図とか見るのが正しいようです。 例えば、昨日まで分からなかった、新宿2丁目の喫茶店「白十字」は、かつて東映がった前にありました。 明治通りの映画館も松竹、東宝などきちんと確認できました。 味のデパート三福もです。 今日で、歴史博物館、2ヶ月休みになります。
2010.11.28
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午前中は、昭和の新宿ということで、新宿2丁目から、西口の淀橋浄水場跡まで歩きました。 このコース、前にも書きましたが、自分のものにしたいと思っています。 大名の屋敷跡が原っぱになり、そこに家が建って、どんどん都会になっていくそのいきさつをダイナミックにとらえられたら面白いと思います。 例えば、内藤新宿から始まって、「牛屋ヶ原」と呼ばれていた空き地に移転が命じられて、大正10年にはそこに新しい「新宿遊郭」ができます。 その「牛屋ヶ原」は、元牧場で、芥川龍之介の実父新原敏三が明治21(1888)年から大正2(1913)年まで経営していたところです。芥川龍之介も明治末から大正2年まで、一高へ通うためここに住んでいました。 その牧場のことも面白いし、内藤新宿から、遊女屋(正式には貸座敷)が移ってくるまでの原っぱのことも、興味深いです。 今書いた、「貸座敷」は少し時代が戻ります。 明治6(1873)年、「貸座敷渡世規則」が施行され、遊女屋は娼妓に座敷を貸す形での営業が認められる事となったため、それまでの飯盛旅篭は「貸座敷」と呼ばれるようになっていたのです。 当時の内藤新宿には53軒の貸座敷が軒を連ねていました。 それが、大正10年までにすべて移動したのです。 移動の理由は、電車の走る表通りに娼妓の家があるのはいけない。また新宿御苑に高貴なお方が来るのに失礼。皇太子が学習院に通う道筋にあたるなどの理由からでした。 新宿2丁目は、いつのころからかゲイ・タウンと呼ばれています。 今日も歩いていて、着物姿のゲイがいました。 このいきさつも面白そうです。 そこから、ゴールデン街へ行き、歌舞伎町を見て、新宿通りを抜けて三越裏のかつての繁盛ぶりを見たいです。 映画館という切り口は1つあると思います。 戦前の映画館、戦後の映画館。 喫茶店もあります。 喫茶店としては、新宿駅前の東京パン、中村屋の喫茶部、白十字から始まって、風月堂です。 デパートも三越、ほてい屋、伊勢丹、三福、松屋などたくさん出来て、消えていきました。 調べることがたくさんあります。 午後は、夏休みに子ども達が書いたエコ日記やエコのポスターの優秀作品の表彰式があり、そのお手伝いに行きました。
2010.11.27
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23日、父と母の法事をしました。田舎に帰り、その帰り、奈良に寄ろということで、奈良に行きました。 帰りなので、あまり余裕がなかったので、奈良はならまちの元興寺(がんごうじ)に行きました。 元興寺の前身は末蘇我馬子によって開かれた法興寺(飛鳥寺)です。平城遷都に伴い今の地に移転され名も元興寺と改められました。 かつては南都七大寺の一つとして威勢を振い、現在のならまち全体を占めていました。 現在では僧坊の一画が唯一現存しています。 極楽坊はかつての元興寺僧坊の一部で、鎌倉時代に極楽堂〔国宝〕と禅室〔国宝〕に改築されたました。 ここは、随分前に、万葉旅行で来たことがあります。 とても素朴な感じで、好きになりました。 特に感動したのは、飛鳥時代からの屋根の瓦です。 今回も見ましたが、やはり素敵です。 極楽堂と禅室は「行基葺(ぎょうぎぶき)屋根」と呼ばれますが、この行基葺の瓦の中には飛鳥時代創建の「法興寺」の屋根に載せていた瓦、すなわち、1400年も遠い昔に作られた瓦が混じっているのです。 微妙に色のついた瓦がそれです。。 と、ここで写真を載せたいのですが、このブログでは、もう写真が載せられません。 やはり写真が載せられないと、書いていてもつまらないです。 引っ越しをして、詳しく書きたい気持ちがしています。 ここからならまちを歩いて、新薬師寺まで歩きました。 元興寺も新薬師寺も萩が黄色く色づいていました。花の時も良いのでしょうが、この黄色い萩も良いですね。 秋を満喫しました。
2010.11.25
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五木寛之のエッセイ集『風に吹かれて』につぎのようなことが書かれています。「...当時はまだ今のようにモダン・ジャズの店が流行つていなかったので、私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。<モン・ルポ>という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の<どん底>のちょうど向かい側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウエイトレスは女子美のアルバイトの娘で、これもツイギ一風のなかなかの美人だった。私たちはその店で、『ブラマント通り』だとか『枯葉』だとかいつた曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。私たちはその頃、どんなことを話し合っていたのだろう。記憶の底からよみがえってくるものといえば、どれもまとまりのないナンセンスな会話の断片ばかりである。『地獄』の作者の名前が、バルビュスであるかバビュルスであるかなどと、ある友人と大喧嘩したりしていたのだから、たあいのないことおびただしい。」 場所は新宿3丁目、末広亭の近くです。 残念ながら「モン・ルポ」はすでに無くなっています。 でも「どん底」は今でも店があります。 外壁に紅葉した蔦が巻いて、外見は、とても風情のある店です。 中には入ったことがありません。 「どん底」は、昭和26年2月4日、役者志望の青年たちによって、今の場所から少し離れた所に開店しています。 今の場所へは昭和28年10月に移転してきました。 一度火災に遭って現在の建物は昭和30年9月に3階建てで建設されています。 記録によると、安物のカクテルを飲みながら、アコーディオンに合わせ「ロシア民謡」を歌い、人生と社会を語り合ったようです。 当時、三島由紀夫、金子光晴、黒木和雄、倉本聡、越路吹雪、山下洋輔、そして石原慎太郎、といった人物が出入りしていたということが言われています。 若い息吹が感じられます。 この「どん底」には行ったことはないのですが、同じように文化人が行っていたと言われている、風月堂には何度か行きました。確か今の丸井の後ろ側あたりです。 60年代後半に滝口修造、白石かずこ、谷川俊太郎、寺山修司といった人が行っているという風聞がたち、70年前後からアングラ、反戦運動、新左翼の拠点として注目をあびました。私が行ったのは70年代です。 そのころ、いろいろな週刊誌にも取り上げられ、全国から若者達が押し寄せ、何時間も店にたむろするといった感じで、言われているような雰囲気はなかったように思います。 ベ平連の反軍・基地解体の運動の拠点にもなっていて、本当かどうか知りませんが、脱走したい兵士たちは風月堂へいけばなんとかなる、ということも確か言われていました。 もうもうとしたたばこの煙と喧噪、そこにも確かに、熱い若者がいた思いがします。
2010.11.21
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「昭和の新宿を訪ねて」という町歩きの下見に参加しました。 掲示されている主なコースは四谷地域センター(新宿区内藤町87)(集合)~花園アパート(青山二郎・中原中也旧居)跡~都電軌道跡~ほてい屋跡~旧京王線始発駅~ムーランルージュ跡~淀橋浄水場跡(解散)<行程約3.5キロ>になっています。 これを見て参加する人はどのくらいいるかなと思います。 あまり興味を惹きません。 もう少し、昭和30年代、40年代に焦点をあてて、タイトルも「思い出の昭和30年代の新宿」なんてタイトルにしたらどうだろうか、などと思いました。 歩き初めの<花園アパート(青山二郎・中原中也旧居)跡>は、現地に立ってもそれこそ、そうした案内もないので、白州正子で衆目の青山二郎、興味持つ人多いと思います。 私にとっては、中原中也が、小林秀雄、安岡昇平らといた、というのが、とても感慨深いものがあります。 これは近いですが、もう歴史的資産です。 その次に、新宿二丁目に行ったのですが、有名な赤線跡。これもすでに遺跡です。 内藤新宿から強制移転を強いられた「牛屋の原」。元は、芥川龍之介の実父が経営していた牧場があった所です。 新宿の繁華街の歴史として、とても興味深いです。 そこから花園神社に行ったのですが、そこでは、唐十郎の「紅テント」が話題の中心に。 ここは、思い出につながります。 唐十郎の「状況劇場」は当時、若いものにとって魔力を持っていました。 私も花園神社の紅テントへ行きました。 たしか『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を見たと思います。 ゴザの上に座って見たと思います。200名ぐらいしか入らないので、いっぱいでした。 どんな話か、何をセリフとして話しているのか分からないまま、見たという事実を興奮してかみしめていました。四谷シモンがとても印象に残っています。 こうして思い出をかみしめて、その場所に立つと、ひとしおの感慨があります。 歌舞伎町やゴールデン街は、お酒が飲めないので、ほとんど縁がなかったですが、映画とか、本屋とかアングラ劇場とか喫茶店などはそうしたかかわりで、見られます。 伊勢丹の前の町、三越の裏の通り、まさに記憶の新宿街です。 おもしろい町歩きコールになるな、と確信しました。
2010.11.20
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日本橋高島屋へ「特別展 東大寺 近現代の名品」を見に行きました。 光明皇后1250年御遠忌(ごおんき)記念という題が付いていましたが、平城遷都1300年記念でなく、御遠忌記念というのも少し気になりました。(ただ気にしただけですが、華厳経のいわゆる「昭和大納経」が展示されているからですかね)。 展覧会は、期待以上に楽しかったです。 まず気にいったのは、素朴で、なんとなくかわいらしく描いている杉本健吉の絵でした。 集印帳のようなつづられた和紙に、東大寺の様々な年中行事や季節の風情を軽いタッチで描いた作品には魅入りました。さすが、吉川英治の平家物語などの名品の挿絵を描いた方だと思いました。 そして、「華厳経」。最初は写経かと軽く見たのですが、昭和55年(1980年)の大仏殿昭和大修理の完成を記念し奉納されたもので、上條信山、金子鴎亭といった当時の書壇を代表する書家による写経と、東山魁夷、平山郁夫、高山辰雄ら日本画壇の巨匠による見返し絵によって構成されていて、素晴らしいものです。 作家の名前はほとんど知っていますし、もう30年たって、確かな価値を確率していると思いました。 東大寺は「華厳宗」の総本山であり、華厳経はもっとも重要なお経として奈良時代から伝わり、守られてきたものということで、この展示は、本展覧会のメインになるものなのだと気がつきました。 昭和大納経とともに松田権六監修の「経篋(きょうばこ)」も展示してあり、これもとてもキレイでした。 最後の部屋でビデオが写されていていましたが、「お水取り」に代表される「修二会」のドキュメントでした。たくさんの人で、どうしようかと思ったのですが、全て見てしまいました。 だいたいこの行事としては、「お水取り」だけしか知らなかったのですが、お水取りはこの「修二会」の一部にしかすぎず、前年の12月から翌年の4月まで、様々な行事が連続的に行われているのだということを始めて知りました。 大木のような松明に火をつけて二月堂の廊下を走ったり、火を振り回して火の粉を飛ばしていたり、みんな、火事など大丈夫なのかしら、と声を発していました。 一度、「お水取り」だけでも見たいと思っているのですが。 特別出品という、江戸時代の六曲一双「大仏開眼・大仏殿落慶供養図」もとても惹きつけられました。
2010.11.19
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先日、川本三郎さんの『いまも、君を想う』(新潮社)を読んで、何か読みたいと思っていたら、近くの本屋で川本三郎著『東京の空の下、今日も町歩き』(ちくま文庫) があったので、買いました。文庫は、2006年10月10日発行ですが、川本さんが歩いたのは2001年から2003年です。 歩いた町は、行ったことがある程度ですが、とても面白かったです。こんな風に、本を読んで、町に興味が持てる文章はあまりないです。 川本三郎さんが住んでいる近間の町でも、一泊しています。これも、良いですね。 遠くに行かなくても旅はできます。見習いたいです。 目次を拾ってみます。 映画が輝いていた頃の遠い日の記憶が甦る町「青梅」 「池上」「千鳥」「蒲田」慎ましく懐かしい、水郷の町の面影 新旧の顔が混ざり合う練馬区の素朴な町 歩くほどに意外な顔が見える「八王子」の町 線路のない町「武蔵村山」と多摩湖を抱く「東大和」 新緑に萌える玉川上水が流れる町「羽村」「福生」 東武東上線沿線、川と工場と田園の町、板橋区 清朗な暮らしが町の隙間に息づく「赤羽」「王子」 子供時代の思い出と歩く「阿佐谷」「荻窪」 越中島貨物線がつなぐ川辺の町「砂町」「亀戸」「新小岩」 酎ハイを傾け下町の郷愁にひたる町「柴又」「亀有」「金町」 東京郊外の懐の深さに心打たれる町「調布」 失われた東京の幻影が浮かび上がる「町屋」 川と運河と町工場がある「大井町」「大森」「羽田」 東武線、京成線が寄りそう町「押上」「業平橋」「曳舟」 多摩川と秋川に挟まれた郊外の町「あきる野」 「池上」「蒲田」「大井町」「大森」には仕事で行きました。 「阿佐ヶ谷」には2年ばかり住んでいました。「荻窪」には、お世話になった人が住んでいてよく訪ねました。「柴又」「亀有」「金町」は、連れ合いのお父さんがよく連れていってくれました。「亀戸」もそうです。 「調布」へは、その近くへ今、月に1回行っています。 玉川上水に興味があるので、「羽村」にはぜひ行きたいと思っています。 それで、こんな風に歩いてみたいと思います。 郊外、下町を歩く時、昭和30年という時代が1つのキーになっています。 そして、その当時の映画も。それもそんなに有名な映画でなくて。 私も、東映や大映、日活の映画をたくさん見たのですが、土地と結びつきません。 残念です。 歩き方で、同感なのは、1つ、 いきなり目的地へ行くのはもったいないから、少し遠回りする。駅なら一駅手前か一駅先で下りる。2つ、目標とする場所のだいたいの方角を確認したら、うろうろと歩く。3つ、古本屋を見つけたら、必ずのぞいてみる。これは昔からの習慣です。でも古本屋少なくなりました。まったくできないこと。 居心地のよさそうな居酒屋を見つけて入り、ビールを飲む。 私は、コーヒーですね。 最近は安いコーヒー屋しか入りませんが。 古本屋で本を買い、コーヒー屋で、その本を読む。 それが楽しみです。 本を持って歩いて、この歩き方、文章の書き方など勉強したいと思います。
2010.11.15
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生物多様性年ということもあって、「いきものみっけ」ということで、何かいきもの見つけたら写真を撮って集めようということに、私の関係している会も呼びかけています。 早速に温暖化で、北上している、ツマグロヒョウモンの写真を提出しようと思ったら、もう何名か出ているよです。 「いきものみっけ」のある統計を見ていたら、そこでも1位は、ツマグロヒョウモン。2位はアオスジアゲハ。3位はニホンカナヘビ。4位はアメリカザリガニ。5位はナガサキアゲハでした。蝶が多いです。 アメリカザリガニの上にニホンカナヘビが入っていますが、これは知りません。 そういうことで、他にも何かと、いろいろ話していると、動物になりますが、 ハクビシン を見たという人が多かったです。(特に落合の方の人が多かったです) ハクビシンは、白鼻心とか書き、40センチぐらいで、写真で見ると、かわいらしいですが、 有害鳥獣類だそうです。 調べてみると、東南アジアからアフリカに広く分布するジャコウネコの仲間で、本来は暖地系の獣です。頭胴長約50cm、尾長約40cm、体重2~3kg程度。体は黄褐色で、鼻すじに白い?があり、それが名前の由来になっています。 長い尾は樹上でバランスをとるのに役だっています。 明治時代からときどき捕獲の記録がありましたが、戦後、神奈川・静岡・愛媛など、国内各地で捕獲され、最近では東京での繁殖も確認されているということです。 電線の上を走っていたという人もいました。 生ゴミなどの餌が得られること等の理由で増加しているそうで、かなりの人が見ているようです。夜行性ということですから、よほど注意してみないとみつからないと思います。 人家の屋根裏などを巣にすることも少なくなく、屋根裏には大量の糞尿をしますので、病原菌や寄生虫の媒介なども心配されています。 いずれにせよ地球温暖化の影響で、これからますます亜熱帯気候に近づいていけば、日本はハクビシンにとって好都合の国となっていくことでしょう、ということです。
2010.11.14
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環境の研修旅行で、山梨県富士吉田市の方へ行きました。富士山を期待していたのですが、あいにく雲が垂れ下がって、見られませんでした。 まず、山梨県環境科学研究所で、どういう研究をしているか、火山の台地の仕組みそして、火山の恵みなどの話を聞いて、研究所の回りの、森を探索しました。 この研究所の1つの方針に、<山梨の将来を見据え、「自然と人との共生」をテーマとした研究を進めることにより、地域の自然と人との生活とが調和し、自然が持つ浄化能力が十分発揮できる地域づくりを支援する>というテーマがあって、ここでの自然をとても大事にされているようでした。 探索といっても、木材でできた遊歩道があり、赤松と紅葉の自然を楽しく歩きました。 ここでは、富士山が800年代に噴火して出た溶岩の上に樹木が生えています。特に赤松がキレイです。 溶岩のトンネルも出来ていて、神秘です。 次に、バスで、「環境庁生物多様性センター」へ行きました。 建物の外観は、単なる研究施設に見えますが、中に展示室があり、自由にみる事が出来ます。着くと、研究所の人が、生物多様性の話をやさしくしてくださり、その後、見学をしました。 子ども用に展示してあり、子どもを連れて来ると楽しいかな、と思いました。 そこから忍野八海という所へ向かい、昼食です。 忍野八海は<湧池、出口池、お釜池、濁池、鏡池、菖蒲池、底抜池、銚子池>の八つの湧水池から成っています。その昔、忍野村は「宇津湖」という湖だったそうですが、延暦に富士山が大噴火し、そのとき流れた溶岩流によって、湖は山中湖と忍野湖に分かれてしまいました。忍野湖は富士五湖と関連する一つでしたが、川の浸食や掘削排水のため枯れてしまいました。 忍野八海は、その時残った富士山の伏流水の湧出口の池として、今日存在しています。 その湧水は、富士山の高地に降った雪や雨が、古いものは、20年以上の時間をかけ、地下水としてロ過されてきたものです。 少ししか見られませんでしたが、池の水はキレイに澄んでいて、「神の泉」と言われるのが分かる気がしました。 その池のそばのお店で、富士山の名水で作るほうとうを食べたのですが、なかなか出来てこなくて、その分、見学が出来ませんでした。 朝9時出発して、新宿に帰ってきたのが5時半でした。
2010.11.12
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宮脇 昭さんの『鎮守の森』(新潮文庫)を読むと、阪神・淡路大地震で「ふるさとの木」すなわち神社の森は、鳥居や社殿が崩壊しても倒れていなかった事例がたくさんあった、と出ています。 宮脇さんのいう潜在自然植生の木(その土地に最も合った木)は,防火の役目も果していたのです。 そして、倒壊した家の屋根と柱が庭木に引っかかり。隙間が出来てそこから抜け出すことができた事例も出ています。 宮脇さん「日陰になっても落ち葉が落ちても家のそばに木を植えていらっしゃったところは、木に屋根が引っかかって隙間ができ押し潰されないで命を失わずにすんだのです。」というお話もされていますが、落ち葉などで隣近所と諍いになることもあるので、こうしたことみんな知ってもらいたいと思います。 とにかく、防災という面からも木は、重要な役割を持っています。 その土地に最も合った木というものが大切で、それは、各地の神社やお寺や、古い屋敷、山の尾根、急斜面、渓谷沿いに今なお残されている土地本来の森です。 「鎮守の森」という言葉は、植生学、植物生態学の世界で国際的にも通用しているそうです。 「昔からある鎮守の森の生態系はみごとだ。土地にあって自生できる木が高木から低木,草木まで複雑で合理的なシステムを作り,伐採や管理をしなくても豊かでみごとな林を形づくり,しかも人々を地震や火災から守っている。」 神社などに見られる、樹齢500年といった木をもっともっと大事にしたいと思います。 高田馬場駅近くに諏訪神社があります。神社の由緒によると極めて古く、およそ1180年前に小野篁によって大国主命、事代主命(恵比須を祀ったことに始まるというものです。 伝説として次のよなものもあります。 <在原業平が妻と共に東国へ下った時、2人はこのあたりで道に迷って分かれてしまい、一夜を大木の下で過ごし、夫は妻を思い、妻は夫を慕い、思いが神に通じたのか、夜が明けると2人は諏訪の森で逢うことができ、森内のすぐ近くにある杉の大木下に休んでいたのであった。 これに因んで「思いの森」「恋の森」と名付けられたという。> 通常、このあたり諏訪の森と呼ばれていたようです。 そして社殿の西側にその杉の枯れた株が残っているということでしたが、分かりませんでした。 それで、境内で一番に目にしたのは夫婦楠(相生楠)でした。りっぱな楠です。
2010.11.11
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中央防波堤埋立処分場見学に行きました。東京竹芝小型船ターミナルから「新東京丸」で東京港をぐるりと回りました。 とても良い天気で、風もなく、海から東京を遠望しました。 これは、築地市場が移転する予定の場所です。 そして、この写真には左側に現在の築地市場が写っています。 そして、今回南極観測船「しらせ」が停泊していました。この「しらせ」は4代目です。何をしているのか分かりません。また南極に行くのですかね。 南極観測、昔ニュースで、家族に送られて出発する映像を見ましたが、今は、観測員の人tち、オーストラリアまで飛行機で行き、そこから南極観測船「しらせ」に乗るのだそうです。もちろん南極観測船「しらせ」は、必要なものを積んでオーストラリアへ向かいます。 中央防波堤埋立処分場は、東京23区から出されるごみを最終的に埋立てる、埋立処分場のことです。午前中は船から中央防波堤埋立処分場を望み、午後からバスで巡りました。
2010.11.10
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以前買った自転車の空気入れが乞われてしまい、近くの道路に「自転車空気入れ」が設置されているので、それを利用しています。 こうした道路に自転車空気入れ、他で見たことがないのですが、もっとあって良いと思います。 とにかく、自動車優先の時代です。道は完全に自動車のためにあります。少なくなってきてはいますが歩道橋など人間より自動車大事の象徴です。。 そもそも、自家用車など、あれだけの(車の)空間を独り占め、あるいは2・3人で使っているのも許せない気がします。 移動手段としてもっと自転車を活用したいものです。 そう思う人も多いのでしょう、ひところより自転車が増え、それだけ自転車が走っています。そこで問題になったのが放置自転車。 その対策がいろいろ立てられ、監視の人も増えました。 駅前は1年契約で、自転車を置かせてもらえるということですが、毎日例えば通勤で乗っていて毎日置くのなら契約しますが、時々載ってそこに置くのだと、それは出来ないです。 と思っていたら、2時間無料。24時間100円というシステムができました。 これなら、ま、この駐車場使えそうです。 でも、駐輪には困ります。町中の買い物などでちょっと置くだけで放置自転車になります。 そえに、車道を自転車で走るのは恐いです。 だから歩道を走るのですが、これも危ない。 なかなか自転車の時代は来ないようです。 韓国のように、自転車を見直し、道幅を広くして、歩道と車道の間に自転車道を作ってもらえれば、走りやすいのですが。 これまた、東京で、道を拡げることは、ますできないでしょうね。 一方で、自転車シェアリングという方法も少しずつ増えて来ているいるようです。 置き場がない、駐輪場がない、そうしたことの対策です。 少しずつでも自転車の時代が来ているのかもしれません。
2010.11.09
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友と語らん 鈴懸の径 通いなれてる 学校(まなびや)の街 「鈴懸の径(すずかけのみち)」。昭和17年に佐伯孝夫が作詞し灰田有紀彦(灰田晴彦)が作曲し弟灰田勝彦が昭和17年に歌ってヒットした歌謡曲です。 どんな曲か思い出せませが、「鈴懸の径」という言葉には覚えがあります。 通常プラタナスと呼ばれます。 プラタナスは、スズカケノキ(鈴懸の木),アメリカスズカケノキ(亜米利加鈴懸の木),モミジバスズカケノキ(紅葉葉鈴懸の木)の3種類があります。 「鈴懸の木」というのは,落葉後に集合果がつり下がっている様子をたとえたものです。 3種類、それぞれ実のなり方が違います。 スズカケノキは果軸に 3 ~ 5 個つきます。この種類は少ないです。 アメリカスズカケノキは果軸に 1 個ずつつきます。 モミジバスズカケノキは、集合果が果軸に 2,3 個(まれに 1 個か 4 個)つきます。 日本で街路樹などに植えられいるのは、ほとんどモミジバスズカケノキの木です。 そしてこのプラタナスの街路樹も新宿御苑から始まっています。 新宿御苑のプラタナスは明治30年に種子を輸入し栽培をはじめ、明治39年に東京市より街路樹の研究を委託され、切り枝を東京市に提供しました。 新宿御苑のフランス式整形庭園には総勢156本のプラタナスの並木があります。 秋深まると、黄金色に染まります。
2010.11.08
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新宿のエコポイントを、地図に落とし込もう、ということを提案されていて、少しそれをします。 第1回は、街路樹から「ユリノキ」です。 いまユリノキの街路樹は全国的に多いです。その元となった母樹は、実は新宿御苑にあります。イギリス風景式庭園にあって、新宿御苑のシンボルツリーと言われています。 ユリノキの原産地は北アメリカ東部です。日本には明治初期に公園樹として移入されました。 明治初期の新宿御苑は、海外からさまざまな有用植物を移入し、農業試験場として栽培研究を行っていました。 明治39年に東京市より街路樹の研究を委託され、ユリノキの種子を東京市に提供しました。 これがユリノキの街路樹の始まりです。 今では、現在全国で街路樹と見ることができます。 それはすべて、新宿御苑のユリノキを母樹としています。 このユリノキ、 川端康成の『山の音』(1954年)に出てきます。そしてこの『山の音』成瀬巳喜男監督で映画化され、多くの人に記憶されています。 その一説。 『新宿御苑で待ち合はせるという菊子の電話を、信吾はあまり気にかけなかったが、来てみると異様なことに思へた。 芝生のなかにひときは高い木があって、信吾はその木にひかれて行った。 その大樹を見上げて近づくうちに、聳え立つ緑の品格と量感とが信吾に大きく伝はって来て・・・・・・(中略) それは百合の木だった。近づくと三本で一つの姿をつくってゐるのが知れた。 花がチュウリップに似てゐるので、チュウリップツリィともいふと、説明書きが立ってゐた。 北アメリカ原産、成長が早く、この木の樹齢はおほよそ五十年。 「ほう、これで五十年か。わたしより若いね。」と信吾はおどろいて見上げた。 広い葉の枝が二人を抱き隠すように広がってゐた。』 そしてこのユリノキの街路樹の なお、街路樹で日本一美しいと有名な迎賓館前の並木は この新宿御苑からのユリノキです。
2010.11.07
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内藤家下屋敷は、当時の資料に「広さは十数万歩、庭園の景勝、山林の幽すい、村落民居、田畑や町外れの景色がある」と記されていて、広さとしては、現在の新宿御苑とあまり変わらなかったとみて良いと思います。 東よりの「玉川園」付近を除けば、江戸時代の田園風景をそのまま生かした、荘内で農民が田畑を耕す姿が望める、殿様と住民との一体感のある荘園だったようです。 内藤唐辛子もその農家で作られていました。 玉藻池は新宿御苑東端に位置し、玉川上水余水吐きに近い所にあります。 玉藻池の水はほとんどが玉川上水由来で、湧水はわずかしかなかったとも言われています。 この池の水が隠田川(その先が渋谷川となります)へ流れていたと言われていますが、これも、それほどの水がないので、 新宿御苑西端の弁天池が源流だったという説もあります。 とにかく穏田川(渋谷川)の源流はいろいろあるわけで、この玉藻池も源流の1つだっただろうと推測されます。 さらに言えば、以前書いている、玉川上水の余水吐き吐の水路とも結ばれていましたわけです。 写真は、御苑に沿ってある玉藻池近くの穏田川(渋谷川)暗渠です。 玉藻池のそばの小道にシロシキブ(白式部)が実をつけていました。 コムラサキ(小紫)の白実種で、ムラサキシキブ(紫式部)の異変種です。民間療法では、寄生性皮膚疾患の治療用の薬草として知られているそうです。 休憩所の近くには、コムラサキが紫の実をつけていました。
2010.11.06
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ドガ展を見た後、元町まで足を伸ばして、県立神奈川近代文学館の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)展を見ました。 ドガ展の横浜美術館からはみなとみらい線に乗って、元町・中華街駅へ出て、港の見える丘公園へ歩きました。2010年APECのため、駅には警備の人がいて電車の中など調べていました。ゴミ箱は1つも見られませんでした。 県立神奈川近代文学館のある港の見える丘公園は登るとキツイです。歳ですかね。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)展は、とても充実していました。 小泉八雲の生誕160年、来日120年を記念する展覧会でした。 八雲の人生を追う形での展示でしたが、その人生がよく見られました。 まさに「ラフカディオ・ハーンが如何にしてヘルンさんになり、小泉八雲として全うしたか」といったことが理解できる思いがしました。 ギリシャに生まれ、2歳のときアイルランドのタブリンに移ります。そして6歳のとき両親と離散、16歳で片目を失明します。預けられた乳母からアイルランドの怪談や妖精物語を聞かされます。 日本の民話、怪談への興味はアイルランドの血に乳母からの話が大きな要素になったと思います。 成人して、アメリカのニューオリンズのジャーナリストになるのですが、そのとき、綿花万博があり、日本館の展示に心惹かれます。これが日本へ行ってみたいというきっかけになります。 そして明治23年、特派員として2カ月の予定で横浜に上陸します。 そのとき、横浜を歩き、鎌倉に行き、円覚寺、建長寺、大仏、長谷寺等を回り、江の島、そして藤沢などにも寄っています。 会場入り口に当時の横浜の写真の映像が流れ、昔の横浜が偲ばれてとても良かったです。 八雲は、そのあと再来日し、日本に住むことになりますが、まず、万博で知りあった文部省役人の斡旋で松江の師範学校の教師となりました。 この松江、1年少ししかいなかったのですが、小泉八雲と言えば松江と言われるほど深い結びつきが生まれます。 それは、松江で、生涯の伴侶となる妻節子を得たこと、そして出雲にこそ失われて行く日本の文化が残されていると感じたことなど、八雲にとっても特別な地となったのです。 ちなみに、日本名小泉八雲の小泉は夫人の姓であり、八雲は出雲の枕詞です。 松江は今でもしっかり八雲をつかまえています。 八雲は、寒さで耐えられなかった松江から暖かい熊本(五高)へ移り、その後、神戸、そして東京(帝大)と移り住みます。東京の住まいは、新宿区の富久町と大久保です。 八雲は、大久保の家で妻節子の協力のもと『怪談』を書いています。 東京では、東京帝国大学文学部で英語の教師をしていましたが、その時の生徒の講義ノートも展示されていました。これがまた、英語でびっしりきれいに書かれていて、驚きます。 會津八一もその東大で、何ヶ月か八雲から習った生徒だったのですが、その會津八一が小泉家の子供らを教育したということが出ていて、これにも感心しました。 小さな「虫かご」が展示されていました。 八雲は熱心な虫収集家でもあったといいます。 「虫の音を理解する日本人こそが美的感覚の優れた民族だ」とも言っていまし。そして「虫の声を理解するのは、日本人とギリシャ人だけだ」とも語っていて、生まれたギリシャへの思いも大きかったのだなと思いました。 松江の宍道湖の夕景にこんな言葉ありました。 「日本には熱帯の、ああいうどぎつい日没はない。夕陽の光が、夢の光のように静かだ。そこには、色の強烈というものがひとつもない。・・色彩や色合いの点における日本人の繊細な趣味は、あの美しい織物の染色にあらわれているとおり、きらびやかなものはひとつもない。それは、この中庸をえた自然の色調の、じみで、繊細な美しさに負うところ、大なるものがあるのだと思う。」 また、小泉八雲は、「日本の将来は、日本人のシンプルライフを維持し、自然との共生を続けられるかどうかにかかっている」と説いています。 日本は、多くのものをなくしてきたな、と小泉八雲展を見ながら思いました。
2010.11.05
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環境共生型コーポラティブハウスを手がけているコーディネーター/コンサルタンの甲斐徹郎さんの講座がありました。 先日も住宅関係のシンポジュームでお話を聞いたばかりで、も5~6回はお話を聞いていると思います。 同じ話を聞いて、すごく納得してきましたが、実践には至らず、という不肖の受講生です。 今日みんなが納得していていたのは、エゴからエコという考え方です。 最近、眉間にシワを寄せて、苦行のように環境運動に取り組むのは長続きしないから止めましょうと、よく言われますが、甲斐徹郎さんは、エゴから出発しよう、と言われます。<「自分が気持ちよく暮らしたい」。そんなエゴを追求するうちに、家も街も住みやすくなり、ヒートアイランド現象だって解決。まずあなたの部屋からはじめよう!> これは、甲斐さんの『自分のためのエコロジー』(ちくまプリマー新書)の本の裏表紙の言葉です。 「街づくりとか、環境共生という話をすると、隣近所の人とまず仲よくなろう、お互いを理解することから始めなければ街全体は作れないと思っている人が多いような気がします。それはすごく意味があることだけれども、あまり精神的な部分にとらわれすぎても、かえって何も前に進まない。」 というところから、「自分のために、環境を手段として活用する」と設定し、エゴからエコへ移行する考え方。合意形成、「他人とのエゴ合わせ」を軸にしよう、と。感情は調整不可だけど、利害は調整できる、というのは、なるほどと納得されます。 でも隣近所とそんなにうまくいくものなのか、と、自分のことを思うと、理想論だと言ってしまいたくなるのですが、甲斐徹郎さんは、理論だけでなく、実践があるので、反論は出来ません。 むしろ、実践から生まれた理論だということもできるのです。 とにかく、甲斐徹郎さんは、話が上図だし、人をうまく引き込ませます。人柄か腕か、そこが、違うのと思います。 講義をしながら、受講生に語りかけますが、その時きちんと名前を言います。 名札をきちんと見ているのですね。 そうして、共感を呼び、「つながり」がつながっていくのです。 結論的なところメモ的に記しておきます。 「便利さ」というのは自立するための技術であり、「豊かさ」というのは共生するための技術です。これからは、「便利さ」と「豊かさ」を併せもつ「自立型共生」をめざす必要があります。高齢で、身体が動かなくなった時、つまり自立ができなくなった時、「自立的共生」を築いていないと、身を助けてくれる「共生」にあずかることはできないからです。 これもなんだか身にしみて、考えさせられます。
2010.11.04
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今日は日展へ行ったのですが、主な作品だけ見てきました。主なというのは、評議員先生の作品です。昔は知った先生がたくさんいて、作品を探すのが大変でした。そういうことも懐かしです。 日展の会場の新国立美術館では、今ゴッホ展が開かれています。10時半ごろ入ったのですが、すでに入場に20分待ちでした。 この展覧会もぜひ見たいと思っているのですが、いつならゆっくり見られるのでしょうか。 作戦を立てないといけないようです。 日展、現在の作家の人たちの作品です。そうした作品もしっかり鑑賞出来ればいいのですが、なかなかそれは難しいです。 評価の定まってきた作家の作品の方が、「鑑賞」できます。 で、昨日のドガの作品のことをまだ思っています。 「エトワール」はパステルでしたが、油絵で明るく、惹きつけられたのが、「バレエの授業」です。 「エトワール」に黒い影のように描かれたパトロンではないでしょうが、こちらに杖をついた年輩の男性がいます。この人はどういう人だろうと、お思います。 ドガが踊り子を主題として描いていたのは、主として1870年から90年代です。そのころ、オペラ座では、隆盛を誇ったロマンティック・バレエの時代が終わろうとしていました。 1875年1月15日、後に<パレ・ガルニエ>と称されることになる豪華絢爛の偉容を誇る新オペラ座がオープンしています。 そうした時代のオペラ座の踊り子たちをドガは描いています。 中央の男性は、バレエ教師のようです、名前も分かっています。 ジュール・ぺローです。 ジュール・ぺローは、パリ・オペラ座ではタリオーニのパートナーとして活躍した後、サンクトペテルブルクなどでバレエ・マスターを務め、振付家としても『ジゼル』や『エスメラルダ』を振付けたことで知られています。 ドガはぺローの肖像画も描いているそうです。ドガはオペラ座の定期会員だったので、バックステージへ行ったり、時によってはクラスやリハーサルを見る機会もあったので、そういうシーンをしばしば描きました。 今回の展覧会では、デッサンを含めてオペラ座の踊り子たちがバックステージでみせた何気ない表情を描いた作品が数多く展示されていました。
2010.11.03
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横浜美術館でエドガー・ドガの大回顧展が去る9月18日から、今年いっぱい12月31日まで開催されています。これだけは見逃したくないので、今日行って来ました。 中学校のころから、一番好きな画家はだれかと言われると、ドガと答えていました。 家に、ドガの画集があり、バレエの絵などキレイだなと思って見ていました。 パステル画を始めたのも、ドガが好きだったからかもしれません。 朝9時にでかけたのですが、横浜美術館に着いたのは、10時30分になっていました。たくさんの人です。 とにかく「エトワール」と「バレエの授業」を見ておこうと、<第2章:実験と革新の時代>にまわってみました。ここはまだ少なかったです。 バレエ関連の作品を見てもう一度、入口に行きました。少しすいていました。 最初からゆっくり見ることにしました。 第1章は古典主義からの出発 「木陰で死んでいるキツネ」を見て、死んだ愛犬ムクのことを思い出しました。 ここでは死んだキツネですが、姿が寝ているムクによく似ていました。 後ろの樹木は簡略に塗られて、素敵な絵です。 ここのセクションの見所は何と言っても肖像画です。 肖像画は確かにマネに強い影響受けているようですが、マネとはどこか違います。 マネと奥さんを描いた作品、奥さんの所がマネによって破られてしまいました。気にいらなかったらしいです。そこに新しいキャンバスが貼ってありました。 第2章は実験と革新の時代 ここは最もドガらしい、というか、最も親しみのある「踊り子」の作品です。 入ると「14歳の踊り子の像」があります。 写真で見ていたのと大分印象が違いました。やはり本物を見なければと思います。 「エトワール」は、今回初来日ということです。会場ではライティングも素晴らしく、パステルならではの繊細な風合いがよく見てとれました。 いろんな解説を聞いているので、黒くたたずむ男の姿などじっくり見ました。 「バレエの授業」は、練習風景の作品ですが、ドガが通ってその風景をまとめて描いたのかと思っていたのですが、実際には、アトリエで踊り子たちにポーズを取らせて完成させたということで、あくまでリアリズムを追求したのでしょう。 後で出てくる、写真の活用にもその姿勢はうかがえます。 第3章は綜合とさらなる展開 ここが、本回顧展のメインです。 パステルを中心とした描法で、洗濯に勤しむ女性や入浴する女性といった生活感が全面に押し出された作品がずらりと展開されます。 ここはスゴイです。 だいたい、パステルを使ったのは目が見えなくなってきたからだということ。パステルは溶液を用いないので素早く描け、目を近づけて制作できるので、視力の衰えていったドガにとって欠かせない画材だったといいます。 ドガのパステル画の持つ意味は重いです。 「浴盤(湯浴みする女)」は最高の作品だと思いました。 最期は彫刻でした。 アトリエで発見された塑像は、ドガの死後、鋳造されたそうです。 見終わると、12時を過ぎていました。 立ち去りがたかったです。
2010.11.02
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身体のあちらこちらにガタが来て、そのうちガンの宣告を受けることになるのだろうな、となんとなく思っていることがあります。 歯の虫歯をそのままにしていたら、とうとう歯が欠けてしまいました。それでも歯医者に行くのを伸ばしていたら、また欠けました。とうとう、お医者に行きました。 治療を受けると、何かホッとします。それなら早く行けばいいのですが。 川本三郎さんの『いまも、君を想う』(新潮社)を読みました。 奥さんを亡くしてからの暮らしの心情を、丁寧にたんたんと書かれています。 しみじみと感ずるものがあり、いろいろと考えさせられます。 そういう年齢ということでもあって、身にしみます。 本を読みながら、どうしても自分のことと比較してしまいます。私も子どもがいません。二人の暮らしを40年ぐらい続けています。 どちらかが先に死ぬことは確かです。 『いまも、君を想う』 <奥さんは、スペイン・オムレツが得意だった。夫の服装をいつも決めていた。隅田川の東岸の居酒屋で煮込みを一緒に食べた。猫が好き。紫陽花が好き。二人でした旅行の思い出がある。> 食事のこと。 私たちにも思い出になりそうな店、いくつかはあります。連れ合いと同じ店を思い出すかどうかはわかりません。いつか話をしてみようかな、と思います。 川本三郎さんは、一人になっても食事をきちんと作っておられます。 私はどうでしょう。 いくらか今でもやっているのですが。一人で作って食べるということはあるかな、と考えると、料理はしていない可能性の方が大きいと思います。 服装のことが出ています。 私も、あまり服装を気にしないので、いつも叱られています。 着たきり雀か、とにかく、だらしなくなりそうです。 犬を飼っていました。 今も犬を飼いたいな、という話をします。 紫陽花は好きで、このところ毎年紫陽花を見に出かけています。 二人で旅行をしたか。 今、とにかく外国旅行に連れて行くようにと連れ合いに言われています。 それに対して、私は、ボランティア活動にかまけて、家を留守にすることが多く、外国旅行をしようという気持ちを持っていません。 きっと後悔する、と言われています。死んだとき連れて行けば良かったと。 とにかく、予定表は3分に2が埋まっていて、外国旅行の余裕はありません。 そうなると私自身、旅行はあまり好きではないのかな、と思ったりします。 確かに行くと、良かったときっと思うのでしょうが。 葬儀式についても書いてありました。 人間の暮らしに日常とは別に流れる「儀式」が必要だと書いて「葬儀はその儀式の中で最も厳粛なもの。死という圧倒的な不条理を前に『形式』は必要だと思う。悲しみという生まの感情を形式によって一度冷却する」とあります。 葬儀はできればしなくていいと思っていたのですが、少し考えてみたいと思いました。 他にもいろいろ考えさせられました。
2010.11.01
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東京都庭園美術館で開催中の「きらめく装いの美 香水の世界」に行って来ました。 チケットをもらっていたので、行ってみようぁという程度、あまり期待していませんでした。だいたい、香水は遠い存在です。 会場に入って、素晴らしい、とすっかりその美しさに魅了されました。 とにかく、アールデコのこの美術館にぴったりの企画です。 この美術館には。会場に入ってすぐの所に、白磁の大きなオブジェがあります。これは「香水塔」と呼ばれています。もとは噴水として造られたものらしいですが、宮邸時代には、この塔から香りを漂わせてお客様をお迎えしたことから、後に香水塔と呼ばれるようになりました。 とにかく、この庭園美術館に香水瓶。これ以上みごとな組み合わせはないと思います。 会場に、パステル画が飾ってありました。このパステル画がまた素敵でした。 パステル画が好きなことがありますが、女性の肌がとても息づいていました。作者は、エルネスト・ルオーという人でした。 そして、香水瓶を見るとその細工、その色、とてもキレイです。香水の香りはしませんが。 丁寧にズームを覗いてみました。ガラス絵など小さく細いのにどのようにして描いたのだろうと思いました。 ヨーロッパでは18世紀に「魔除け」の意味から携帯されるようになった香水瓶です。 その昔から言えば、<「香水(perfume)」の語源が「煙によって」とあるように、当初は芳しい薫香を神に捧げ、願いをその煙に託すもの>ということです。 20世紀に入ると一気にファッションと結びつき、現在よく知るところのブランドが主役となって、差別化を図るためにますます、さまざまな意匠の香水瓶が現われます。 時代の流れも分かるようになっています。 会場に美術館ニュースが置いてありました。そこに「夜間飛行」の瓶が出ていました。 「星の王子さま」のサン・テクジュベリの小説になんだ香水です。今も続くゲラン社の作品で、3代目ジャック・ゲランが、同名の小説に触発れて制作されたものです。 写真を借ります。 遠い存在ですが、こんなにキレイなものがあるのか、と思いました。
2010.10.31
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台風が近づき、雨が強く振り、それにとても寒かったのですが、「江戸名所図会で歩く高田馬場」という「まち歩き」にでかけました。 60名参加の予定が、47名でした。もっと集まりが悪いのではと思ったのですが、集まりました。 私は、このコースで、山吹の里を担当しました。 雨のせいにするわけにいかないですが、車の音と雨の音で聞こえないだろうといろいろ頭を巡らしているうちに時間が過ぎ、まともな案内ができませんでした。 山吹の里というのは、文字通り山吹が咲いている里ということでしょうが、穴八幡から高田馬場あたりから南へ神田川一帯までは山吹の里だったと言われています。 川辺にはたくさんの山吹が咲きます。 昔は、神田川だけでなく、穴八幡から早稲田大学の方に金川(かに川)という川もあり、現在の甘泉園の泉もあったので、あたりいちめん山吹が自生していただろうと思います。 そこに、太田道灌が鷹狩りに来て、雨にあい、そこの農家に簔を貸してくれないかと願いに行くと、その家の娘が、咲いていた山吹を差し出します。太田道灌は、その意味が分からなく、後で、それは「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだに咲かぬかなしさ」という古歌になぞらえて、簔がないこと言っていたのだと知ることになります。その逸話が残されていて、山吹の里が有名になったのでしょう。 太田道灌は江戸城を造ったということで有名ですが、その最期は、仕えていた扇谷上杉に殺されてしまいます。その最期が哀れなので、いろいろな伝承が、まちに残っています。 神田川にかかる面影橋のたもとに、山吹の里の碑があります。元禄9(1696)年建立の供養塔を再利用して造られた碑です。 碑のある場所は、豊島区です。でも、本来は、新宿区側にあってよいものだと思います。 太田道灌が穴八幡近く、金川(かに川)あたりに鷹狩りに出掛けました。その時鷹が三島神社の方向へ飛んで行ってしまします。 この三島神社は、今の甘泉園公園あたりにありました。(現在三島神社は、小さな祠として水稲荷社の境内にあります)。 太田道灌は鷹を追って、三島神社の方へやってきます。 すると、雨が降って来ました。 そこで、近くの農家で少女に蓑を貸しほしいと頼んだわけです。 その時出てきた娘は何も言わずに山吹の枝を折って道灌に差し出しました。 (なお、この娘は、紅皿という名前があり、大久保の大聖院に墓が伝えられています。) 娘が差し出した山吹は、八重咲きの八重山吹でなければいけません。 山吹には、5弁から成る一重山吹(金碗喜木)と八重咲きの八重山吹(金黄花)の2種があります。 一重の山吹は黒い実がなりますが、八重には実がつきません。 山吹の里に関しては甘泉園のことも話さなければいけません。 甘泉園にはひょうたん池と呼ばれる大きな池があります。この池に泉として水を出していたのが山吹の井です。 山吹の井としては、近くにその跡という場所があるようですが、今回は巡りませんでした。池の後ろが高台になっていてここを三島山と言います。三島陣社はここにありました。 そして、面影橋を通って南蔵院へと抜ける道、面影橋から高田馬場へと抜ける道、これは鎌倉街道で、交通の要衝でもありました。 また、昭和63(1988)年の発掘調査で中世遺跡(下戸塚遺跡)も発見されています。 今日喋れなかったので、思いつくまま書いてみました。
2010.10.30
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火曜日に中央公園の自然観察をしました。そこから、「イヌ」を3つ。 「イヌビワ」 商物学的に言えば、クワ科イチジク属の落葉小高木です。 ビワの名がありますが、イチジクのなかまです。 イヌビワとイヌビワコバチは共生関係にあります。 イヌビワコバチの子どもはイヌビワの雄果嚢の中で卵から生まれます。 雄のイヌビワコバチの子どもは生まれながらに羽はありません。 生まれて間もなく同じところで生まれたイヌビワコバチの雌と交尾をしたあと果嚢から外へ出ることもなく生命を終わってしまいます。 雄と交尾をした羽がある雌のイヌビワコバチの子どもは雄果嚢の中で咲いているイヌビワの雄花の花粉をいっぱいつけて生まれた果嚢から外に出ていきます。 そして、雄のイヌビワコバチは他の果嚢を探して飛んでいき、見つけた果嚢の中へ入っていきます。 「イヌホオズキ」 ナス科ナス属の植物です。畑や道端に普通に生える雑草ですが、ソラニンなどを含む有毒植物であり、発汗、下痢、腹痛などを起こすといいますから気をつかたいです。 イヌホオズキのそばに咲いている赤い花は、アカマンマです。 正式名「イヌタデ」。 花期は6月~11月と長く、いつも咲いている印象があります。子供のままごとによく使われ、それでアカマンマと呼ばれます。
2010.10.29
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行政の話を聞くことは、いつも行政は、正しいことをしているという前提があるので、どうも、何か、少し落ち着かないものを感じます。 製作に、首長の考えが大きく反映されていることも分かります。 だから、首長が変わると、極端に言えば、まったく逆になることさえあります。 (民主党はだんだん、昔の施策に帰っていっているようですが) そういうことがあるので、ぜったいに今の施策が正しいということではないはずなのですが、、そこは、触れないように、話をされます。 補助金というものがけっこう出ています。特に今は「環境」に関することでは、補助金の大判振る舞いといった感があります。 保護樹林という制度があって、何千本という樹木の保護に援助しています、という話を聞いて、それでは家の庭の木にも、保護のための補助金を、と願いに行くと、いろいろ条件があって、たぶんダメです。 話はそこまではしません。質問して聞けば、きちんと話してくれます。 友好都市と提携して、カーボンオフセットということで、植林をしています。 というのも、今、これだけ、環境が大切、CO2削減をしなければ、ということで必要なことということで、お金を使います。お金というのはもちろん税金です。 いったいどのくらい使っているのか、調べないと分かりません。 植林に学校の生徒が何百人と行って、学習する、この意義は高い、といったこと付加価値として説明されます。 それだけの人間が、バスを使って、わざわざ行かなければ、環境における「みどり」の学習ができないものか、そう考えます。 太陽光のソーラーパネルへの大きな補助金。この意味は何なのか、ソーラーパネルの普及が国家の繁栄に欠かせない。その支援のための補助金。というようなことを言われていましたが、ソーラーパネルの製造は、世界に上位に返り咲いたのでしょうか。 風力、地熱利用、そちらはcおうなっているのでしょうか。 あまり、詳しくないのですが、行政の取り組みの話をタダ聞くのは、すっきりしません。 という、今日は行政の人の、施策の話を聞きました。
2010.10.28
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今日は、区の補助を受けながら、30年にわたって、学習してきている団体の、歴史博物館への見学会がありました。 平均年齢は、70歳を超えているということです。 会員は100名いて、今日の出席は50名でした。 2班に分かれ、25名ずつ、ガイドをしました。 90分あったのですが、少し自由時間をということで、75分案内しました。 文学者の所から、少し、説明を省きました。 内藤新宿の模型と、藏づくりのお店、そこは少し丁寧に話ました。 冨士講は、忘れています。 出来は、60点ぐらいですかね。わずかに50点を超えたかな、という印象です。 この会もしだいに高齢化していき、人数が減ってきているのだそうです。 でも、60代、70代は熱心です。 施設見学や、史跡探訪、そして座学と、外に出るのが、40%ぐらいだと話していました。 1時間ぐらいで、もうしんどくなったのか、少しばらけました。椅子に座っている人もいました。 こうした団体の人にガイドをすると、勉強になります。 知識がまだまだ身についていないな、と言うことを実感します。
2010.10.27
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歴史博物館で、小学3年生25名を案内しました。多いですね。でもみんよくまとまって話を聞いてくれました。 できるだけ、質問を入れながら、大きな声を出して話しました。 こちらは、会話ではなく、ガイドです。 古代から、昭和まで。古代は少し興味あります。でも一番の興味は、今日もチンチン電車でした。この復元模型は、運転台に乗ることができます。 どこの学校の生徒もここが一番好きです。 そして、その次にある、「文化住宅」。昭和初期の、和洋折衷の最初。洋間の応接室がついた家です。玄関から上に上がることできます。 入って、卓袱台のご飯を見ます。今月は魚料理でした。 社会見学ということで、午前中に染色の現場を見学し、エコギャラリーに立ち寄って、教室で弁当を食べ、歴史博物館に来ました。 1日外の授業の日なのですね。 「社会見学」。教室だけでない勉強、とても良いと思います。 今はほとんど分からないにしても、何か残ると思います。 「<大久保百人町>の鉄砲隊の行列見たことのある人?」は半分ぐらいの人が見ていました。 狂歌のコーナで、短歌のようなものと言ったら、「短歌作っている人知っている」とう子がいました。 「だれ?」と聞くと「石川啄木」と答えました。 「夏目漱石の作品、何か読んだことのある人?」と聞くと、「我が輩は猫である」、という声が返ってきました。 「荒川線のチンチン電車に乗ったことにある人?」ほとんどの子どもが乗っていました。 「中村屋のカリー食べたことのある人?」これはいなかったです。「カリー?」「そうこの中村屋は、カレーのことをカリーと言うんだよ」 やはりできるだけ対話しながら、回りたいですね。
2010.10.26
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美術館で、小学4年生と話をしながら絵を見て回る鑑賞をしました。環境のことが忙しくて、事前学習に行かれないことから、美術館の鑑賞は、少し下がって、見学をしていたので、今日は久しぶりです。 8名と少し多い人数ですが。面白かったです。 やはり見学するより、一緒に見て回る方が良いです。当たり前ですが。 作品に黒い幕の切れ目から鼻だけ出している自画像があります。その鼻で、自画像としているのです。 作者は、マリー・ルイーズ・ド・ギール・ベルエンストラーレです。 長い名前だと思ったら、ド・ギールは最初の夫の名前、ベルエンストラーレは2番目の夫の名前だということです。 スエーデン出身で、主にストックホルムで活動していて、元はダンサーそして画家として活躍、さらに今はというのは現在も活躍しているということで、映画関係のことをしていて、衣装デザイン、出演、監督もしているというマルチな人です。 それだけに評価が高く、王立美術大学の学長、また、王立劇場のディレクターにも就任しています。 もちろん、子どもはそんなことを知りません。 「どうして鼻だけ描いたのでしょうね」と聞いてみました。 女の子が「顔に自信がなくて、鼻だけ描いたのだと思う」と答えました。 「他にない?」と言ったのですが、みんな「私もそう」と言う答えでした。 つられているのかもしれませんが。 この鼻の自画像は「私がだれだか分かりますか」というメッセージが込められているのだそうです。そうなら、タイトルをそうしてもらいたかったなと思いました。 そのタイトルがあれば、マルチで活動している人の自信というものが、感じられます、鼻だけ描いた意味が感じられます。 これ実は先日、テレビでもこの絵の鑑賞をしていて、その番組名は忘れましたが、そこでは、「<何にでも鼻をつっこむ私>という感じの絵だな」というコメントがあり、それを聞いた人が「スエーデンでもそんな言葉あるかな」と笑って終わりました。 このコメント、おもしろいですね。 これを使ってみようかな、と思ったのですが、画家のことを詳しく説明しないといけないので止めました。 この鼻の自画像と、自分のイニシャルだけを描いて自画像とした作品、強い印象を与えます。私には。でも、子どもとの対話にもっていくのは、少し難しいです。
2010.10.25
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我孫子の手賀沼へ第10回「ジャパンバードフェスティバル」に行きました。 ジャパンバードフェスティバルは、鳥をテーマにした国内最大級のイベントとして、毎年手賀沼湖畔で行われていて、今年で10回です。 私はバードカービングコンクールを見るのが主たる目的で、今回で4回目です。 会場には、行政・NPO・学生・市民団体などによる、鳥のお絵かきやミニ工作、双眼鏡やスコープの体験、ミニライブやトークショー、小・中学生、高校生が自然観察の成果を発表する環境学会、鳥学講座、手賀沼バードウォッチングツアー、野鳥撮影体験、抽選によるプレゼントつきスタンプラリー、野鳥の写真展・絵画展、野鳥関連グッズの販売、全国各地からの自然や野鳥保護団体の展示、軽食コーナーなどいろいろなブースが出ていて楽しめます。 歩いて、消しゴム版画や、ぬり絵など、ちょっとやってみたいものがありましたが、少し太めの枝を鉛筆に削る工作に参加しました。枝はイヌサクラの枝でしたが、先を削って、マジックで色を塗り、色鉛筆にします。その後ろに○ねじを指して、ぶら下げられるようにするものです。 簡単ですが、何か応用できるだなと思いました。 クイズに答えて、ファイルや「ハカラメ」という芽が出てくる葉っぱをもらったりしました。 楽しい1日でした。
2010.10.24
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山に囲まれた盆地に育ったというのは良いわけで、母親の料理のせいだと思うのですが魚が苦手で、肉をよく食べました。 刺身も積極的に食べる気はしないのですが、これは、例えばパーティなどでは、刺身が食べたくて並びます。 最近は、年も考えて、魚を食べなくては、と思います。 ということで、夜、百貨店の閉店間際に、魚売り場を通り、りっぱなカツオのたたきが、半額になっていたので、買って帰りました。 カツオのたたき、旬は初夏でしょう。 晩秋、秋刀魚なら旬ですが、後で、旬ではないな、と考えました。 食の問題を考えるとき、とにかく旬のものを食べましょう、ということをよく言われます。旬、なくなっています。カツオのたたきは今、年がら年中食べられます。 でもこのカツオのたたき、少しあぶられているのが魅力です。 岩波新書の「旬の魚はなぜうまい」を読むと、はじめに、にカツオのたたきのことが出てきます。 そこで、俵万智さんの歌と言葉を引いてあります。 1分で燃えつきる火にあぶられて輝く魚をタタキと呼べり 「刺し身のうまさに、焼き魚の薫り。思えばじたくな1品である」 まさにそうだと思います。 カツオのたたき、刺身プラス焼き魚です。 それにしても「たたき」というのはどうしてだろうと思いました。 東京ガスの食の生活110番Q&Aによるとカツオのたたきに次の解説がありました。 「かつおのたたきは、火であぶったかつおに塩や酢をまぶして包丁の腹や手の平でペタペタと叩き、味をしみ込ませて作ります。 包丁や手の平で叩くことから<たたき>と呼ばれています。 かつおのたたきは土佐地方の代表的な郷土料理で、沖たたきと皿鉢料理のたたきがあります。」 やはり叩くのですね。 カツオのたたき、季節外れですが、美味しかったです。
2010.10.23
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