2010/03/12
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『自分を不幸にしない13の習慣』1ケ月お試し







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○聖書をお持ちの方は、創世記16章をお開き下さい。そこには、エジプト人の女奴隷ハガルの、読む人の涙を誘う話が書かれています。彼女は、アブラハムの妻サライのつかえめとして雇われたのですが、サライは不妊の女で子供がありませんでした。それで、ハガルは女主人に代わってアブラハムの子をはらむようになったのです。その後、彼女が高ぶってサライを見下げるようになったのですが、そのことによって、彼女はいじめられて、ついに、いたたまれずに、女主人のもとを避けて家から逃げ出したのです。アブラハムとサライの不信仰によって家庭不和が起こり、三人三様の不幸に苦しむことになったのです。いろいろな家庭の問題は神様に対する不信仰と不従順によって起こることが多いのです。

 ハガルは荒野をさ迷い、シュルへの道にある泉のほとりに来た時に、主の使いに会って、「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」との勧めを聞いて、再び、様々な苦しみが待っているサライのもとに帰って行くのです。もし、サライが「自分に代わってアブラハムの子をはらみなさい。」などと言わなければ、ハガルはいつまでも、つかえめとして平穏無事な生活を送ることができたでしょう。ですから、迷惑なのはハガルであり、彼女はサライの犠牲になったようなものです。もちろん、彼女自身にも高ぶりの罪があったのです。人生には、自分の失敗によって招く苦しみもあれば、他人の犠牲になって苦しむ苦しみもあります。 

 しかし、彼女は、そのような涙の谷において、神に出会ったのです。多くの場合、涙と悲しみの中で、人は神との出会いを経験するのです。そして、彼女は、自分に語りかけられた主の名を呼んで「あなたはエル・ロイです。」と言いました。「エル・ロイ」とは「私を見ておられる神」という意味です。ですから、「エル・ロイ」とは、辛く苦しい状況の中にある人々を顧みてくださる神を意味しています。彼女は女主人の冷酷な扱いと、荒野の孤独の中で、「自分を見ておられる神」に出会うことが出来たのです。私たちの人生は、いろいろな苦しみで満ちています。また、悲しみと叫びと涙に満ちているのが大部分の人の人生でなのです。それは、人間の罪と不信仰の結果でもあります。

 しかし、そのような暗い現実の中で、いつも私たちをご覧になっておられる神がおられることを知ることは何と幸いなことではないでしょうか。ハガルは、女主人のいじめを避けて、その苦しみから逃げようとしまして、家出をしたのです。しかし、「私を見ておられる神(エル・ロイ)」を知ってから、また女主人のもとに帰って行く決心をしました。私たちが、この世の中で生きて行くことは確かに大変なことです。人はだれでも現実の苦しみから逃げたいという思いがありますが、現実から逃避しても何も問題は解決しないのです。しかし、その現実の中で、私たちを見ておられる神を知る時に、再びその現実の中に戻って行く勇気と力が与えられます。

 目先の苦しみを避け、できる限り、安全で都合のよいような生き方を求めるのは、私たちの常であります。暗い所を避け、明るい方へと逃げたくなるのは、だれでもが持っている衝動ではないでしょうか。しかし、そのような消極的な生き方を求めるならば、ハガルのように、「私を見ておられる神」、すなわち、エル・ロイの神を告白し、その幸いを経験することができないのです。そうではなく、苦しい現実の中でも生きて行くことのできる神を知り、それを体験できることはもっと幸いなことなのです。

 人間というのは、いろいろな時に孤独感に襲われることがあります。結局、自分を分かってくれる人はだれもいないのではないかという、そのような思いはどなたでも持ったことがあると思います。子供も、夫も妻も、お年寄りの方も、だれでもそのような孤独感を持つことがあると思います。しかし、このような暗い現実の中で、神だけは絶対に私を見捨てることはない、という信仰を持つことができるのは何と幸いなことでしょうか。そして、聖書の神は、私たち一人一人を見ておられるだけでなく、私たちと共に苦しんでくださり、また、守り導いてくださる方なのです。

 このみことばは、旧約聖書のイザヤ書の中にある慰めに満ちたことばで、愛なる神は、苦しむ私たちと共に苦しんでくださる方であることを教えられますが、また新約聖書のヨハネの福音書には、次のようなみことばがあります。

 この時、弟子たちはガリラヤのテベリヤ湖畔で、漁をしたのですが、その夜は何も獲れず、非常にがっかりし、失望していました。しかし、よみがえられたイエス・キリストは、岸辺に立ってその弟子たちの様子を見ておられたのです。人生において、だれでも失望の朝を迎えることがあると思います。しかし、主イエス様は「夜が明けそめたとき、岸べに立って」見ておられる方なのです。イエス・キリストは、人々の罪のために十字架で死んでよみがえられ、今、私たちをご覧になってなっておられる「エル・ロイ」の神なのです。「弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。」と書かれていますが、私たちの霊の目が開かれ、今、現実に生きておられ、私たちをご覧になっておられるイエス・キリストを信じて、罪と孤独から解放された人生に入ることができますようにお祈りしています。




 ・・・・・hope to see you again・・・・・

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最終更新日  2010/03/12 10:16:16 AM
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