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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ ここに一人のヤコブという孤独な男のことが書かれています。彼は、今、両親の家を離れて、家のない孤独な放浪者であり、ホームレスです。このヤコブという人は、狡猾で悪賢い方法で兄のエサウをだましてその相続権を手に入れたような罪深い男であります。ヤコブは、兄エサウに憎まれ殺されそうになったので、母リベカが彼を逃がしたのであります。そして、自分の妻をめとるために母の故郷へ一人旅をしていたのですが、その日はもう太陽が沈みかけたので、その寂しい荒野に伏して夜を明かすことにしたのであります。 その夜は、そこに野宿することに決めたヤコブはただ一人、石を枕にして、荒野に伏して横になりましたが、なかなか寝付かれなかったに違いありません。後ろを思えば恐怖があり、行き先には不安があり、その孤独な姿は、罪人である私たち一人一人の姿でもあります。疲れきった体と心。流浪の旅の寂しさ。天涯孤独のルズの旅。まさに、これは、現代の私たち人間の姿そのものではないでしょうか。世の中の繁栄と、文明の進歩について行くことができず、情報化社会に翻弄され、社会の歯車の一つとしてはめ込まれてしまって疲弊しきっている自分の体と心。この人生の流浪の旅で、多くの人々が癒しがたい孤独感を味わっているのではないでしょうか。 しかし、このような我がままで罪深い男にも、神の愛の眼差しが注がれていたのであります。そして、現代の私たちのような何の価値もないと感じているような孤独な者たちにも神の愛の眼差しが注がれていることをあなたはご存じでしょうか。あなたは、「自分を理解してくれる者はだれもいない。私は一人ぼっちだ!」と、将来を悲観したりすることはありませんでしょうか。しかし、聖書が示す愛の神はあなたの理解者であり、あなたのすぐ近くにおられる御方なのです。聖書の神は愛の神であり、どこにでもおられる遍在の神でもあり、また全能の御方であります。 ヤコブが孤独と寂しさの中にあり、無力と困窮のどん底にあったときに、神はご自身を彼に啓示してくださったのであります。ヤコブが神を求めたのではなく、神がヤコブを求めておられるのです。もし、神がご自身を現してくださるのでなければ、人はどうして神を知り得るでしょうか。あのエデンの園で、アダムが罪を犯して木の間に身を隠していた時、神はアダムを捜し求めて、彼に呼びかけて、「あなたは、どこにいるのか。」と尋ねられたのであります。これは、決して神が人(アダム)を見失ったのではなく、人を捜し求めることばであります。愛の神様は、いつも、人生の道に迷っている孤独な人たちを捜し求めておられるのであります。 新約聖書のルカの福音書15章には、イエス様が語られた例え話ですが、100匹の羊を飼っていた羊飼いがたった1匹の迷い出た羊を血眼になって捜し求め、ついに発見して肩にかついで連れて帰る感動的な話が書かれています。また、家出をした放蕩息子に対する父親の愛の話もあります。父親は、来る日も来る日も断腸の思いで、息子の帰りを待っていたのですが、お腹を空かして乞食のようになって、ボロボロになって、帰って来た息子を父親は走りよって抱き寄せ、何度も何度も口づけして抱擁する感動的なシーンもあります。人は多くの場合、孤独の中で、あるいは逆境と苦難の最悪の状況の中で神に出会うのであります。 ヤコブは、その夜、石を枕に寝ていた時、夢を見ました。彼のそばには高い梯子が立てられ、その頂は天に達していたのであります。救いとは、苦しい現実から逃れて空想の世界に行くようなものではありません。人間はだれでも苦しい現実から逃避したいという思いがありますが、聖書が語る「救い」とは私たちの今の現実の中に天に達する梯子が立てられることであります。神は空想の神ではなく、天地を創造され、私たちを日々生かしておられる力強い生ける神であります。この神との出会いを経験する時に、人生は180度の転換(好転)をするのであります。 さて、ヤコブが見た夢の中の梯子は、実はイエス・キリストを示しているのであります。この梯子は天と地、神と人を結ぶものであります。イエス・キリストは受肉によって、神を人にもたらし、その十字架と復活によって人を神に導かれたのであります。ヤコブがこのような不思議な夢を見たのは、それは単なる夢ではなく、神と人との間に道が開かれる時代が必ず来ることの予表(予告)として起こったのであります。そして、それは新約時代において、イエス・キリストによって成就したのです。 今、天の門はすべての人に開かれています。神が人のところに下られ、人が神のところに上って行けるように天の門(入り口)があり、人が神と出会う道が開かれているのであります。ですから、ヤコブの時と同じように、今も、天へ行く梯子(すなわち道)が私たち罪人の足下に立っているのです。それが、今の新約時代の恵みなのです。神と人を結ぶ道はキリストであります。神の救いはあなたの前にすでに備えられており、その現実の中で見出すことができるのです。聖書はすばらしい書物です。是非、お読みになってくださいますようにお勧めします。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/26
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2010/04/25
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2010/04/23
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2010/04/23
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2010/04/22
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2010/04/21
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2010/04/20
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○万有引力の法則を説明したニュートンはある時太陽系の立派な模型を造ってもらいました。太陽を中心にして六つの惑星の速度の割合は実物と同じような比率で加減され、お互いの惑星間の距離も実物と同じ比率で造られていました。ただHandleを廻すことだけで、ちょうど実際の太陽系のように動きました。ある日、無神論者である友人A氏が部屋に入って来ました。彼は、驚きの目をもって模型の方へ行ってハンドルを廻しました。非常に感嘆した彼は言いました。「おぉ~、これはすばらしい!!一体だれがこれを造ったんですか?」とA氏は質問しました。それに対して、ニュートンはある意図があって「だれが造ったのでもありませんよ。その材料は自然に集まって来て、この模型が出来たのですよ。」と答えました。 「君、私をからかわないでくれないか。私は馬鹿ではありませんよ。もちろん、だれかがそれを造ったはずです。造った人は天才です。是非、造った人を教えてください。」と、友人のA氏は言いました。それから、ニュートンは彼の肩に手を置いて、「これはあなたのよく知っている広大な『太陽系』のつまらない模型に過ぎません。このおもちゃのような物には、設計者も造り主もいないとは信じられないでしょう。しかし、この模型よりはるかにすばらしい太陽系が自然に出来たとあなたはいつも言っています。どうしてそんな非常識なことを考えるのですか。」と天地万物の創造主を信じていたニュートンは尋ねました。その話を聞いて、その時まで無神論者であった彼は、すぐ今までの考えを捨てて聖書に書かれている「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)ということばを堅く信じるようになったというエピソードが残っています。 みなさんも、今までの先入観を捨てて宇宙の神秘的な事実を真正面から正直な心で考えましょう。地球のことを研究すると不思議な事ばかりです。まず、太陽からの距離はちょうど適当な距離になっています。今の二倍なら、水はすべて凍ってしまうし、その半分の距離なら、あまりにも暑くて動物も人間も生存不可能です。また、地球の自転の速度を10分の1に減らした場合、昼と夜の長さは10倍になり、やはり生きることができません。地球の表面積の陸と海の割合を逆にしたなら、雨はほとんど降らず、地は砂漠になってしまうのです。地球に23度の角度の傾きがなければ、春、夏、秋、冬の四季もなくなってしまい、赤道に近い所だけに野菜や果物が出来るのです。地球と月との間の距離を4分の1にすると、非常に激しい海の潮によって陸はなくなってしまいます。 このように書くならきりがありませんが、私たち人間は広大な宇宙、地球のすばらしい景色、美しい花、五感を持っている不思議な人体などを見て、これらのものがすべて進化論者が言うように「偶然の産物」であると考えることができるでしょうか。これは、まことに非理性的、非科学的な考えです。適当な例えではないかもしれませんが、印刷所が何かの原因で爆発して、それによって、偶然にすばらしい百科事典が百冊もできるなどということがあるでしょうか。また、ピアノの鍵盤の上を猫が行ったり来たり往復しているうちに、すばらしい名曲が生まれるというようなことがあるでしょうか。しかし、この広大な宇宙や霊魂があり思考力を持った人間が偶然に出来るということを信じることはそれよりもはるかに困難なことです。創造者の存在の事実を認めるということは、人生のすべての問題に優先して真剣に考えるべきことです。 人々は人間に命を与え、人間を生かしておられる神に背を向け神に反逆しているために現在の世の中は何もかも狂ってしまったと言えるのではないでしょうか。国家間の争い、人命を軽視する風潮、凶悪犯罪の急増、地球環境の悪化、目を覆うばかりの不道徳、人間は神中心に生きるべきであったのに、人間の自分勝手な自己中心の罪の結果、今のような堕落退廃した汚れた世の中になってしまったのです。みなさんも今までの人生を振り返ってみて下さい。なすべき正しいことを知りながら、何度もそれをしなかったことがありませんか。また、してはいけないとよく知りながら、それをしてしまったことはないでしょうか。聖書によると、そのことは罪なのです。人間には良心がありますから、当然それを知ることができるはずです。 しかし、神様はこのような罪深い人間に救いの道を開いてくださいました。自分の努力によって自分を救うことはできませんが、約2,000年前、神はご自分のひとり子であるイエス・キリストを救い主としてこの世に遣わしてくださいました。キリストが十字架の上で死なれたのは、私たちが受けるべき刑罰の身代わりだったのです。それによって神はご自分の大いなる愛を人間に示してくださったのです。キリストは十字架で死なれましたが、預言通り、死後三日目の墓よりよみがえられました。神の前に、自分の罪を認め悔い改めて、キリストを個人的な救い主として信じ受け入れるならば、だれでも例外なく救いを受けることができるのです。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/19
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○人間は、ある一つの知識を持つと、知らず知らずのうちに自分は何か他人よりすぐれているような錯覚に陥ってしてしまう存在ではないでしょうか。私たちは、しばしば「この目で見なければ、信じられない。」ということばを聞くことがあります。しかし、一人の人間がどんなに世界中を廻って、いろいろなものを見たり聞いたり勉強したりして見聞を広めても、そこには必ず限界というものがあります。人間の目は確かにすばらしく出来ていますが、すべてのものを見ることができるわけではありません。人間の持っているすべての器官には限界があり、能力にも限界があります。目と同様に耳もそうであります。私たちの耳はどんな音でも聞くことができるわけではありません。ある限られた周波数の音しか聞くことができないのです。 たとえば、昆虫のトンボや海中を泳ぐ魚の目は、かなり広角に見えるらしいですが、人間の目で見える範囲は、360度に対して120度くらいだと聞きました。そういう意味においては、人間の目はトンボより劣っていると言えるかもしれませんね。また、あまりにも速度(動き)が早すぎるものや、遅すぎるものも(その動きが)見えませんし、あまりにも大き過ぎるものや小さ過ぎるものも見えません。それでも、人間は「私はこの目で見るものしか信じない。」という人がいます。そして、いろいろなものを見たり聞いたり学んだりしながら成長し、ある年齢に達すると、その限られた知識の中で自分の思想や人生観や哲学を持つようになるのです。 そして、ある一つの知識を持つとそれだけが正しいと思い込み、その虜(とりこ)になってしまうのであります。ここに、人生の落とし穴があるのではないでしょうか。その人は他の人の話に耳を傾けなくなるのであります。この世の中には多種多様な考え方がありますが、絶対を振りかざす権利はどこにもありません。若い頃、人生の先輩に「客観的にものを見なさい。」と、よく言われたことが何度かありますが、たとえ、客観的にものを見たとしても、あるいは見る角度を少し変えたとしても、それが人間の目で見るのであれば、やはりそこには限界があり、これが唯一正しいものであるとは言い切れないのであります。たとえ、視点を変えても、人の目から見たものでありますから大差ないのです。 しかし、絶対的な権威を持って人生のすべてに解答を与える唯一の書物があります。すなわち、それは「聖書」(BIBLE)であります。「聖書」は人間的な目ではなく、全知全能なる神(創造者)の視点から、記されている永遠の真理の書であります。ですから、100%間違いのない書物であります。パウロが聖霊に導かれて書いた冒頭の「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。 」という聖句は、人はどんなに知識を蓄えても、私たちは、神の前に謙虚になる必要があることを教えているのではないでしょうか。ですから、自分が見聞して得た僅かばかりのスプーン一杯ほどの知識で「神の存在」を否定してしまうのは、実に愚かなことであると言わざるを得ません。次の聖書のみことばは厳粛であり、事実そのとおりなのです。 宇宙の存在を考える時、現代の進化論には、多くの矛盾があることが分かります。「ゼロ」から宇宙は存在しません。したがって、現代の進化論者は、初めを「ゼロ」としないのです。エネルギーか、微粒子か何かが宇宙に存在したところから始めざるを得ないのであります。とすると、その最初のものは、どうして存在したかを説明しなければならないのですが、それを説明し得ない矛盾があります。現在、地球の周囲には、2万個近い人工衛星が遊泳していると言われています(正確な数字は分かりません)。そして、人間は宇宙や地球について多くの知識を持つようになりました。また、コンピューターの技術も驚くべきものがあります。現在の卓上で使うパソコンの機能は、以前であれば四階建てのビル一杯になるだけの機械がなければ計算できなかったものだと言われています。 しかし、現代の多くの人は、科学によって人間を無限に幸せにするかのように考えている人はほとんどいないと思います。科学は決して人間の罪や死などの根本的な問題を解決することはできないのです。科学の進歩は決して人間を救うことはできないのであります。人間の脳は、140億に上る細胞から出来ています。その一つ一つが記憶装置の役割を果たしていて、人間が作り出したどんなコンピューターも及ばないのであります。人間の脳の記憶量は、「100万の記憶素子を持つコンピューターの一億台分ほどもある」と聞いて驚いていしまいます。そして、現に活動している人間の脳の構造と機能は、まだその2%ぐらいしか分かっていないのです。人間は自分の脳のことすら、これくらいのことしか知らないのです。 ですから、人間は自分自身のことですら、まだほんの少ししか知らないのです。その僅かな知識で神の存在を否定することは決して賢いこととは思われません。ですから、かつての謙虚な科学者の多くは神の存在を認める敬虔な人たちであったのです。彼らは、謙虚に真理を探究したのであります。たとえば、ガリレオや、地動説を体系づけたコペルニクス、惑星の運動を研究したケプラー、そして著名な物理学者ニュートンなど、みな創造者(神)の存在を認めた敬虔な人たちであったのです。彼らは、自然界の背後にあってそれらのすべてを貫いている神の美しい秩序と法則があることを認め、また、それらを読み取ることこそ神に仕える道であることを確信していたのであります。創造者の存在を知ることは、人間が最初に知らなければならない知識であり、人が生きるための知恵なのです。 どうか、あなたも人間の知識にも、経験にも、能力にも限界のあることをお認めになられて、謙虚に神の存在を神じるところから始めなければ、人生の根本的な問題も悩みも何一つ解決し得ないことをお知りになられますように。人間の知恵によっては、愚かに見える「キリストの十字架の福音」のことばにこそ、人間の真の救いがあることを、どうかお知りになってください。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」詳細→・
2010/04/18
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2010/04/17
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2010/04/16
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2010/04/15
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2010/04/14
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○さて、日本人はよく日常の挨拶で、「今日はいい天気ですね!」とか、「暑い日が続きますね!」とか、「今朝はシバレますね~!」(北海道弁)などと言います。ちなみに、中国人は挨拶で「飯は食いましたか。」と尋ね ることが多いと聞きました。また、日本人の手紙の書き出しは、まず「時候」の挨拶から始まるのが普通ではないでしょうか。初対面の人と、何から話を始めたらよいか分からないような時にも、天気の話から始めることが多いのが日本人です。 また、日本では、マイクの感度のテストをする場合にも、たとえ雨天であっても、「本日は晴天なり。本日は晴天なり・・・・」を繰り返すのが一般的です。このように、日本人ほど、天気を気にする民族、天気を話題にする民族も珍しいのではないかと思います。テレビやラジオでは、一日中繰り返し、「天気予報」を流します。これは、日本人の民族性や気候風土と何か関連があるのかもしれません。 かなり古い新聞に面白い記事が載っていたので、私のスクラップブックに挟んでおいたのですが、それによると、天気予報が日本で初めて登場したのが明治17年(1884年)6月1日であったそうです。その歴史的な第一回天気予報は、「全国一般、風ノ向キハ定マリナシ、天気ハ変ワリ易シ、但シ、雨天ガチ。」というものであったそうです。「風ノ向キハ定マリナシ」と言っているので、どの風向きでも心配はありません。また、「天気ハ変ワリ易シ」と断っているので、どんな天気になっても誰も苦情を言うこともできません。全天候型の天気予報なのです。 このような天気予報であれば、あってもなくてもいいようなものですね!しかし、現在のように科学が格段に進歩して、気象衛星を使い、コンピューターを駆使して、行われている現在の天気予報でも、時々、その予報が外れる事があります。最近は、地球環境が温暖化し、急激に変化しているので、これは私の推測ですが、特に長期予報の場合は、益々、高い確率で天気予報を出すのが困難になって来ているのではないでしょうか。 さて、神のことばである聖書は、人間の意志によって書かれた書物ではなく、神の霊感によって記された書物であります。ですから、聖書はこの世界と人類の未来について多くのことを語っていますが、その預言(神のことば)が外れるということは絶対にないのです。聖書の預言は100%の確率で成就するのです。キリストの生涯について、旧約聖書には108位の事柄について預言されています。そして、現在までに成就すべきことは、確実に成就しているのです。 また、イスラエルの民が離散する事や再び故国に帰って来ることなど、イスラエルの長い歴史についても、数々の多くの預言があります。例えば、旧約のダニエル書には、世界の四大帝国(バビロン・メディアとペルシャ・ギリシャ・ローマ)の興亡についての預言が記されていますが、すべてその通りに成就したのであります。その他、聖書に書かれた時点ではまだ起こっていない未来についての多くの記事(預言)がありますが、それらは確実に成就し、聖書は真実であることを証明しています。また、世界の終末についても、人間の死後のことについても、聖書は明確に断定的に語っています。また、「預言」とは神のことばのことであり、「未来の予言」の意味だけでなく、過去のことも現在のことも含んでいます。 人間は時間に拘束され、それに従属しています。時間に対して、人間はどんなに抵抗しても無力です。ですから、人間は、未来のことを知ることはできません。人間は、時間の流れの中に生かされているので、常に「現在」というものを起点として、「未来」と「過去」というものを考えるわけです。しかし、神は時間の外におられる方であり、時間を超越して存在されるお方です。ですから、神にとってはすべてが現在であるが故に、人間の側から見て未来に属することも正確に予知できるわけであります。未来について正確に予知するのは、全知全能の神以外には決してできないことであり、また、「聖書」によってそれを人類に知らしめることができるお方なのです。 神様は、人の口を通して未来に起こることをあらかじめ、人々に知らせることができる方です。そして、その預言者が真の預言者であって、神からのことばを語っているかどうかのテストは、その語ったことばがその通り実現するかどうかによって、判別することができるのであります。しかし、悪魔は預言を実現させたり、不思議なことをしたりして人々を偶像の神々に導こうとします。終末の時代には、サタンは何か不思議なことを行って、人々を惑わそうとすることが聖書に予告されてあるので、十分に注意しなければなりません。今も、多くの異端者や偽教師が現れているのは事実です。今の時代は、聖書が完結され、聖書の中に神のみこころがすべて啓示されているので、聖書と矛盾するようなことを語る「預言者」(?)が表れたら要注意です。イエス・キリストは次のように言われました。 聖書は神のみことばであり、その中心は、イエス・キリストです。キリストはあなたの罪のために十字架上で身代わりに死んでくださり、三日目(日曜日の早朝)によみがえられました。どうか、あなたも、偽りの教えに騙されることのないように、神のみ前に自らの罪をお認めになられ、悔い改めて、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じて救われるようにお勧めいたします。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/13
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2010/04/12
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2010/04/11
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2010/04/10
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2010/04/08
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ この箇所には、「真の神」と「偶像」との違いがはっきりと書かれています。ベルとかネボというのは、ともにバビロンの偶像であり、これらは征服者の前に伏し屈み、これらの偶像は分捕り品の中に加えられて運び去られるというのです。征服者に負い、運び去られるバビロンの偶像の無価値なことを言っているのであります。これらの偶像は、民の重荷を負ってくれるのではなく、むしろ、民の重荷となってしまうというのです。真の神様は、「負う神。かついでくださる神。」であり、偶像というのは、「負われる神。かつがなければならない神。」であります。日本の多くの偶像の神々は、祭りのときに神輿(みこし)で担がれていますが、これは、何か日本の神々の無力さを象徴しているのです。 人間が作った多くの宗教は、人間の重荷を負ってくれるのではなく、逆に人間の重荷となるものが多いのです。多くの日本人は、ある信仰宗教に入ったために、心が安らぐどころか、その反対にそれによって苦しみ、大きな苦しみと負担を抱え込むことになるのです。ここで、「・・・胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」と書かれているように、真の神様は母親の胎内にいるときから、白髪の老人になるまで、背負ってくださる神であるというのです。神は、私たちの人生の全生涯において、ご自身のみ力で責任をもって支えてくださる方なのです。何と偉大な愛に満ちた神ではないでしょうか。 イスラエルの民は、彼らの不従順のゆえにたびたび神の試みを受け、苦難と試練を通ったのですが、神は彼らと共に苦しみ、イスラエルの民の歴史の中で、ご自身の愛とあわれみを表してくださたのです。「昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。不従順なご自身の民に対して、神はこのようにわが子を背負い抱く母親のように真実の愛を示してくださいました。人間には、生きている限り必ず、苦しみがあり、悩みがあります。しかし、愛なる真の神は、その苦しむ人間の側に立って、いっしょに苦しんでくださる御方なのです。そして、私たちの生涯の間、私たちを背負ってくださるというのです。 ここに、人生の重荷のゆえに苦しみ、疲れ切っている人たちを招いておられる神の御子イエス・キリストのおことばがあります。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し。」との徳川家康の遺訓がありますが、波乱万丈に満ちた生涯を送った徳川家康の心中が察せられる重みのあることばではないでしょうか。現代の私たちも同じように、人生は苦しみと悩みに満ち、重荷を負いながら、遠い道を歩み続けているのです。孤独で寂しい道であります。そして、その行き着くところは「死」であることを考えると、人は不安と恐れに満たされます。その重荷は益々重く感じられるのではありませんか。しかし、イエス・キリストは、私たちの重荷も私たち自身もいっしょに負ってくださる方なのです。 私たちの人生において最も大きな重荷は自らの「罪」と「死の不安」であります。しかし、主はこの耐え難い重荷を負って解決してくださる方なのです。神の人類救済の方法はただ一つ、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の贖罪のみわざによるものであります。これ以外に救いの道はないと、聖書は明確に語っているのです。キリストは、全人類、すなわち私たち人間一人一人の数え切れないほど多くの罪をご自身が十字架上で身代わりに負って死んでくださったのであります。どうか、信仰によって、真っ赤な血潮に染まったイエス様の十字架を見上げて下さい。イエス様はあなたの身代わりとなられたのであります。これは、神話でもなければ、フィクションでもありません。歴史上の事実なのです。 イエス様が語られたこの例え話において、この羊飼いは迷ってしまい、疲れ果てている羊を肩にかついで帰って来たのです。私はこの箇所を読むたびに、この羊飼いの愛と優しさに触れて感動を覚えるのです。この迷い疲れ果て、傷ついた羊の首に縄をつけてグイグイと引っ張ったり、杖で追い立てて来たのではありませんでした。優しく腕(かいな)に抱き、肩に担いで連れ戻したのであります。当時のユダヤの律法学者たちについて、イエス様は「彼らは重い荷をくくって、人の肩に乗せ、自分はそれに指一本触ろうとはしません。」(マタイ23:4)と言われましたが、今日の多くに宗教家は同じように疲れている人たちを勧誘し、彼らにさらに重い荷を背負わせるのです。しかし、イエス・キリストは、そのような人たちとはまったく違う愛に満ちた御方です。どうか、あなたも偶像ではなく、本当の真の神様の愛の中に安らぐ人生に導かれますように切に祈ります。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/07
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ 終戦直後は、日本中が飢餓の時代でした。誰も彼も日本人みんなが、来る日も来る日も空腹を満たすことだけを求めてさ迷い歩いたのです。そして、経済成長の時代には、物質的な豊かさを求めて一生懸命に働きました。物質的に繁栄し、豊かになることが幸福とバラ色の未来を約束するものであると信じたからです。そして今、日本人は物質的に恵まれ、食べたいものを食べ、したいことは何でもできるような飽食の時代を経験しているのです(しかし、今日世界の各地で一日に何万人もの子供たちが飢餓のために死んでいることもまた事実です)。 しかし、日本人の多くは物質によってお腹を満たすことだけが人生の幸せではない、「心の満たし」こそが必要であることに気づき初めているのです。ある人は、今の時代を「心の時代」と呼んでいます。心の時代に入った日本人は、音楽や絵画などの芸術やスポーツ、旅行などによって満たされた人生を送ろうと思って、いろいろ試しています。そして、お年寄りたちは、自分たちが若かった頃、貧しさのためにできなかったことを楽しもうとしていろいろなことを試し、挑戦していることが分かります。若者たちもまた、常に新しい趣味や娯楽やレジャーを求めてあちこちと歩きまわっているのです。 しかし、食べ物や着物によって埋めることのできなかった心の空洞は、果たして、芸術やスポーツや旅行などによって埋めることができるのでしょうか。あなたは、心の中に何ものによっても埋めることのできない、ぽっかりと空いた空洞を感じることはないでしょうか。「人生の意味が分からない。死にたい。」と悲痛な叫びを上げている若者が日本中にあふれているのです。若者だけでなく、定年を迎えた高齢者も毎日のように自殺しています。何と、日本の一年間の自殺者は3万人以上にも達しているのです。隠れた自殺志願者は、その10倍もいるのではないかと推測されています。人々の心は非常に病んでおり、いろいろな歪みが生じているのです。 孤独感や寂しさを紛らわすために、主婦が台所の片隅でお酒を隠れて飲むところから名づけられた「キッチンドリンカー」が増えていると言われています。 最近では核家族化が進んでいるため、母親が1人で育児や家事に追われることも少なくないのです。また、育児に関して相談できる人もなく、マニュアル本しか頼ることが出来ずに、育児ノイローゼになる若い母親も急増しています。それと共に、子育てが終わって目標が無くなったための喪失感、家庭内の事情によるストレスなど、これらのことが原因でお酒で空虚な気持ちを解決しようと飲み始めるパターンで20歳代後半から50歳代の主婦に多いと言われています。この日本は今、一体どこに向かって進んでいるのでしょうか・・・・。 あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と言いました。真の神(創造者)との交わりによってしか埋めることのできない私たちの心の空洞を埋めて下さるために、神の御子イエス・キリストは天から人となって下って来てくださいました。そして、神と私たちの交わりの障害となっていた人間の罪を取り除くために、罪人の身代わりとなって、十字架の上で神のさばきを受けてくださったのであります。イエス・キリストだけが、あなたの心を喜びと平安と希望で満たすことのできる御方なのです。 神は創世の初めに、人(アダムとエバ)を造られ、「エデン(歓喜)の園」を設け、人が住むために必要なあらゆる環境を整えられ、そこに彼らを住まわせられたのですが、彼らはサタンの誘惑に負けて、神のご命令、すなわち「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)との禁令を破ってしまったのです。そして、アダムとその妻エバは主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠したのです。そして、冒頭の聖書のみことばは、その時に神が人に語りかけられたことばなのです。 「あなたは、どこにいるのか。」との神の語りかけは、神が盲目になって人間を見失われたのではありません。人間が神との交わりから脱落したので、愛なる神は人との交わりの回復を切に求められて、人に呼びかけて言われたおことばであります。聖書は、実に、人がもう一度神との交わりを回復するためにあらゆる面から記されているものであって、この長い長い聖書66巻のすべては神の人類に対する偉大な愛の手紙であり、人類救済のために神がどのようなご計画を立てられ、また、それを実現されたかを語っているのです。 人類の歴史は、アダムの罪以来、神に対する反逆と罪の歴史であると断言しても過言ではありません。しかし、神はその神から離れてさ迷い、神に帰る道を捜し求めている人間を、今日までずっと捜し求め続けておられるのです。今日も、神はあなたの心に、「あなたは、どこにいるのか。」と語り続けておられるのです。そのために、神はご自身のひとり子イエス・キリストを人間の罪の身代わりに十字架につけて罰しなさったのです。この救い主イエス・キリストは、死後三日目によみがえられ、今も生きておられる御方なのです。 あなたに必要なのは、「私は何をするか?」ではなく、「私はどこにいるのか?」を真剣に考えることではないでしょうか。神から遠く離れた危険なところにおられますか?それとも、救い主イエス・キリストを信じて、神様の近くにおられますか?神様の近くにいることこそ、心の空洞が神で満たされた喜びと平安に満たされた幸いな生活なのです。 旧約聖書の小預言書アモス書の中に次(下記)のような警告のことばがあります。パン(食糧)の飢饉よりも、もっと恐ろしいのは、「心の飢餓」すなわち、「主のことばを聞くことの飢饉」ではないでしょうか。今こそ、心を静めて聖書のみことばに耳を傾ける時ではないでしょうか。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/06
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2010/04/05
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2010/04/04
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2010/04/03
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2010/04/02
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2010/04/01
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ みなさんの中に、今、辛い悲しい試練に遭遇して、失望と落胆のうちに沈んでおられる方がおられるでしょうか。でも、そのような方に少しでも励ましと慰めを与えることができればと心から願って書いてみました。 熱帯地方は一年中暖かく、植物を育てるには理想的な地域だと考えていましたが、実際はそうではないことが最近分かりました。ほとんどの温帯性の木は、熱帯ではそれほどよく成長しないのだそうです。同じことが、スイセン、チューリップ、ヒヤシンスといった春咲きの球根植物にも言えるのです。これらの植物は、熱帯だと最初のシーズンはうまく育つように見えますが、葉や花が散ってしまうと、一種の冬眠状態に入り、それっきり再び目覚めることはほとんどないのだそうです。 もし、ナシやモモの木を冬の間、暖かい室温にずっと保っておいたとしますと、致命的な害をこうむってしまうのだそうです。このことは、温帯植物にとって「寒さ」が重要な意味を持っていることをはっきり示しています。温帯植物は明らかに寒さを必要としているのです。落葉樹や球根類は、秋に葉を落としたあと休眠に入りますが、再び成長を始めるには、必ずその前にある程度の寒さにあわなければならないのです。 私たちの人生においても「厳しい試練の冬」を経験することがあります。試練の寒さもいろいろです。難病に苦しみつつ病床に伏しておられる方もあれば、癌を宣告されて途方にくれておられる方、他人から酷い中傷を受けて傷ついておられる方もおられるでしょう。私の知人(まだ、30代半ばの女性ですが)で、最近二度の離婚を繰り返して、今、二人の子供さんと三人でこれから生きて行こうとされておられる方がいます。ご本人にとっては、とても辛く悲しい寂しい経験だと思います。これから先のことを考えると、私も同情の涙を禁じ得ません。 しかし、聖書の中には、かつて五人の男性と結婚し、その後、6人目の男性と同棲している女性の話が出て来ます。砂を噛むような空しい日々を送り、人目を避けるようにして生活していたその女性は、ある日、水を汲みに行った井戸の側で休んでおられたイエス様と出会うのです。しかし、イエス様は、彼女を一人の女性として暖かく受け入れ、接してくださいました。そして、イエス様はその女性にやさしく言われました。 彼女は、イエス様を信じて永遠のいのちを受け、幸福で、積極的な女性となりました。そして、イエス様と出会ってから、彼女の人生は180度変わってしまったのです。イエス様による救いの喜びを周囲のみんなに証しする人に変えられたのです。人生の試練の冬は、神に立ち返る絶好の機会として、神様が備えられた恵みではないでしょうか。新約聖書の中に次のようなみことばがあります。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/04/01
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ 南国では、もう梅の便りが聞かれる季節なのでしょうが、北国では氷点下の厳しい真冬日の寒さが続いています。このような寒い季節に、病床に伏して呻吟(しんぎん)する日々を送っておられる方にとっては、病気の癒されることは当然ですが、なおさら春の暖かい季節が待ち遠しいことと思います。私の家内も、現在、重い病気があり闘病中なのです。 「病床は人間最大の学校である。」ということばを聞いたことがありますが、辛い病床の背後に神様の摂理のあることは確かだと思いますけれども、病床が人生を学ぶ学校であると考えることはそれほど簡単なことではないと思います。しかし、その苦しい困難のあとに必ず更に幸いな何か得るものがあると信じて、どうか、未来に希望をもって前向きに今の試練を乗り切ってくださいますようにお願いいたします。 「寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る。」とは、ホイットマン(アメリカの詩人)のことばです。病床に伏している時は、人生のすべてが暗く思われ、悲観的になりやすいものですね。しかし、朝の来ない夜はなく、春の来ない冬もありません。また、止まない雨もありませんし、出口のないトンネルもないのです。暗いトンネルの中を車で普通に走ることができるのは、必ず出口があると信じているからではないでしょうか。 人間は、だれでも健康な時には何でも自分の力でやって行けるような自信に満たされているものですが、一旦病気になると、別人のように無気力になるということがあります。そして、それが人間の正直な姿ではないでしょうか。人間は、決してそれほど強いものではありません。そして、病床は人が孤独になるところでもあります。人は何かを失った時に、その失ったものの価値が分かることが多いものです。健康を失って病気になったとき、その健康の有難さや価値が分かるということもありますね。 人間みな、お金、財産、地位、健康など、何かの目的をもって生きているわけですが、人生の目的を、もし「健康」と考えた場合、病床にあるあなたは今は不幸であることになります。そして、悲しいことですが、その目的と定めたことの反対の結果が出ることが多いのが人生ではないでしょうか。そして、その反対の結果が出たときには、惨めで絶望的になり、あるいは無気力になり、またその逆に周囲に当り散らしたりしやすい弱さを露呈してしまいます。 しかし、人間の絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことが多いというのもまた事実ではないでしょうか。あなたの病床のすぐ側に神様が立っておられるのです。あなたは、決してひとりではありません。どうか、そのことを忘れないでいただきたいのです。If winter comes can spring be far behind?とありますね。「冬来たりなば、春遠からじ」と同じような意味でしょうか。今、あなたに必要なのは、忍耐です。そして、真の希望があれば、忍耐も出来るのですね。 実のところ、「不幸」は複雑なものですが、「幸福」は単純さの中にあります。あなたは、今、その病床で、母親の腕の中に抱かれた幼児のように、神の懐(ふところ)に身をゆだねることができるのです。そこに真の平安と幸福があります。聖書には、次のような幸いなみことばが多くあります。 このイザヤ書53章のみことばは、キリストについての十字架を中心とした旧約聖書の預言であります。そして、その約700年後、このみことば通りにすべてが成就しました。キリストがこの地上に来られたのは、人々の病気を癒すためではありませんが、ご自身が神の御子であり、神から遣わされた救い主であることを示すために病気に苦しむ多くの人々を癒され、ご自身の愛と恵みと力を示されました。そして、やがて33歳の時に十字架で私たちの身代わりに死んでくださり、三日目によみがえられたのです。 そして、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れた者は、死後には永遠の慰めに満ちた天国が用意されているのです。そこには、もう病気の苦しみはありません。人の死によって涙を流すこともありません。悲しみや痛みもありません。いかなる苦痛も味わうことはないのです。この地上の苦しみや悲しみは、もう永遠に過去のものとなるのです。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/03/31
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2010/03/30
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2010/03/29
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2010/03/28
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2010/03/27
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○イエス様は、よみがえられたのち、疑い深いトマスに対して、「‥‥信じない者にならないで信じる者になりなさい。」と優しくおっしゃって下さいました。人間はだれでも、疑う心があります。しかし、逆に言えば、人間には信じる能力があるからこそ、疑うこともできるのです。動物は何かを信じることはありませんが、また疑うこともしないのです。人間は、時と場合によっては疑うことも必要であります。聖書は、決して何でもおかまいなしに信じるようには教えていません。盲目的に何でも信じることは正しいことではありません。特に最近は世の中暗いニュースばかりで、詐欺的な行為で人を騙して金儲けの手段にしたり、善人の顔をしながら悪意と汚れた下心をもって子供に近づいて危害を加えたりする人も多いので、このような人に騙されないように細心の注意を払うことは必要なことであります。しかし、それにもかかわらず「信じる」ということは人間が生きることにおいて基本的に大切なことではないでしょうか。 よく考えて見ますと、私たちは無意識のうちに本能的に実に多くのことを信じて生きていることに気づきます。例えば、必要な切手を貼って封書を投函すれば必ず相手に届くと信じます。書留にすれば確実に、そして速達にすれば通常より早く届くと信じて出すのです。また、キップを買って電車に乗れば目的地に着くと信じるのです。食堂で前払いで食券を買うと必ずその目的の食べ物を食べることが出来ると信じます。医者に行くのも医者を信じるからであります。あまり評判の良くない医者には行かないのです。土地や家などの不動産などの売買など、何かの契約を結ぶ場合においても、互いに相手を信頼して、契約書を取り交わすのであります。しかし、これらのことはみな相手が人間ですから、事故もあれば間違いもあり、騙されて悲惨な結果になることもあり得るのです。 しかし、それでも私たちは日々何かを信じて生きている存在であります。人を信用するのも度合いがあります。通常、いつも約束を破る人はあまり信用されません。また、誠実に仕事をする人に対しては、「あの人に仕事を任せておけば安心だ。」と信用して任せます。頻繁に約束したことを破ったり、時間を守らなかったり、いい加減な仕事をする人を私たちはあまり信用しないのではないでしょうか。ですから、何を信じてもいいというのではありません。正しいことを信じなければならないのです。信じる価値のあるものを信じなければならないのです。しかし、私は神は100%信頼できる真実な御方であることを確信をもって断言することができます。 そして、愛なる神は人類の救い主としてご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、旧約聖書の預言通り処女(マリヤ)の胎を通して誕生されたことが書いてあります。そして、罪の全くない聖よい生涯の後に、十字架で身代わりに死んで墓に葬られ、三日目に復活されたことが書いてあります。そして、昇天された主イエス・キリストはやがて再び来臨されることが書かれています。信じる者をご自身のみもとに携え挙げ、信じない者をさばくためであります。これらのことを信じるように聖書は勧めているのです。 ある人は「死ぬ直前に神(キリスト)信じればいいのではないか。」といいます。確かにそれでも天国に行くことはできます。天国に行くにはそれで十分であります。でも、こんな質問をする方の動機を考えて見ると、何か大きな思い違いをしているのではないかと思います。その間違いというのは、次の三つです。◆(1)「クリスチャン生活は退屈でつまらないものである。」と考える間違い。天国に入るまでのクリスチャン生活は暗くて退屈で、何の楽しみもないもので、良いことは何もないと思っておられる方がいます。だから、なるべくその期間を短くしようとして、それまで好き勝手な罪の生活を送ることを考えるのです。しかし、それは大変な誤解であります。キリストを信じて受ける救いの恵みは、ただ死んでから天国へ行けるというだけのものではないのです。この世に生きて限りキリストと共に生きる人生であって、いつも愛され、守られ、導かれているので、こんなに喜びと平安に満ちあふれた幸いな人生は他にないのです。年を取ってからキリストを信じたある人は、「キリストを信じた今、私はたった一つ後悔していることがあります。それは、なぜ、もっと早くキリストを信じなかったのかということです。」と述懐していたそうです。◆(2)死の時はいつ来るかだれも分からないという事実を忘れています。若い人は、みな自分は70~80歳位まで生きられると思い込んでいます。しかし、あなたの命を握っておられ、ご支配なさっておられるのは全能の神様であります。「死の直前になってから神を信じよう。」という人生の計画を立てて、その通りになることが果たしてあるのでしょうか。もちろん、神様の憐れみはあると思いますが、私はそのような話を聞いたことがありません。信じるに必要な福音の知識と理解がありながら、何十年も信じないままでいることなどできないのです。また、もし、福音の知識なしにいるなら、死ぬ直前になって「早く教えてくれ~。何をどうやって、信じたらいいのか早く教えてくれ~。」と叫んでも多分間に合わないと思います。そして、加齢と共に人は益々頑固になり、信じることが難しくなるのであります。◆(3)信じることができるのは、神様の恵みであるということを忘れています。ある人は、自分はいつでも信じたい時に信じられるとお考えかも知れませんが、救い主イエス・キリストを「信じる」ことは、神様の恵みであり、聖霊の助けがなければ、決して信じられないのです。人間の心は頑なであります。そして、年と共に益々人の心は頑なになります。 それでは、いつ信じるべきでしょうか。できるだけ、早い方がいいのです。いや、今こそ信じるべき時であります。明日、あなたが生きているという保証はないからであります。どうでしょうか。今日、今夜イエス様を受け入れる決心をなさいませんか? ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/03/26
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2010/03/25
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2010/03/24
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2010/03/23
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2010/03/22
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○つづき・・・【2】祭司とレビ人。 この二人は旅人が道端で倒れて苦しんでいる姿を見て、うめき声を聞きながら、向こう側をそっぽを向いて行ってしまいました。これは、愛のない冷たい人たちです。祭司は、エルサレムの神殿で神様に仕え、人々を助ける人であったのです。レビ人というのは祭司の手伝いをして、やはり人々を助ける役目の人であったのです。しかし、神殿で神様に仕えていた彼らが、いったん自分たちだけになってエリコへ下る道を急いでいた時に、苦しみ呻いて助けを求めていたその旅人を見ながら、見て見ぬふりをして、通り過ぎてしまうのです。この祭司とレビ人の中にいざという時には頼りにならないこの世のものの姿を見ることができます。この世の中には、まことの愛というものがいかに稀であり、少ないものであるかを示しています。 これは、この世の宗教家だけに限ったことではなく、学校の先生、医者、政治家であるかもしれません。彼らは、あまりにも利己的で、またあまりにも多忙なために最小の援助さえ提供しようとしなかったのです。彼らは、「私とは関係のないことだ。このようなことにかかわっている時間などない。」と心の中で考えたかもしれません。ですから、祭司もレビ人も「この人を見ると、向こう側を通り過ぎて行った。」のです。この世は、本質的に自己中心的であり、これが人間の本当の姿なのです。この世の多くの宗教をよく調べるならば、利己的で愛のないものであることが分かります。大部分がお金や利権によって動いているのです。 ”本当に利己的でない純粋な愛を見出すのは、ゴミ箱の中にダイヤモンドを発見するよりも困難なことだ!”と言った人がいますが、この世の中に真の愛を求めても決して満たされることはないということも事実なのです。しかし、この祭司やレビ人を私はさばくことができません。なぜなら、これは、自分自身の姿でもあると気づかされるからです。私は、今日まで幾度となく、困っている人、傷つき悩んでいる人、助けを必要としている人の側を通り過ぎてしまったことでしょうか。あなた自身はどうでしょうか。「自分には愛がある人間だ。」と言い切れる自身がおありでしょうか。私たちは、他人のことは「あの人は愛がない冷たい人だ。」と「簡単に口では言えますが、他人の中にあるものは、また自分の中にもあるということも事実なのです。 【3】親切なサマリヤ人。 最後に、その見捨てられた男のところにさまりや人がやって来ました。この人は、家畜に乗って来たのですが、彼のうめき声を聞いた時、心から同情して、その傷ついた男の人の所へ駆け寄ったのです。このサマリヤ人は、その哀れな旅人の前に跪いて、じっとその傷口を見ました。そして、自分が持っていたぶどう酒で傷口を消毒し、オリーブ油を注いで包帯をし、自分が乗って来た家畜にその男を乗せて、わざわざ宿屋まで連れて行って、自分のお金を取り出して、「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら私が帰りに払います。」とまで言いました。彼は、持っているすべてを与えて、この見知らぬ旅人に対して自分の命の危険を冒してまで愛と親切の限りを尽くしました。”人生は出会いで決まる”ということばがありますが、この旅人がこのサマリヤ人に出会ったことは本当に幸いなことでした。 そして、この「親切なサマリヤ人」の姿こそ、実はイエス・キリストご自身の姿なのです。サマリヤ人がこの傷ついた旅人の所に来てくださったように、イエス・キリストは、私たちを罪と滅びから救うために、大変な犠牲を払って天から来てくださったのです。そして、その33年間のご生涯の最期に十字架の血潮というぶどう酒で私たちの罪の傷口を洗い、聖霊の油をもって私たちの罪の傷を覆ってくださった御方なのです。イエス・キリストは、私たちを責めることもなく、ただ黙って十字架でご自分の血潮を流して、私たちの罪を赦し、「アガペーの愛」によって包帯をしてくださったのです。このサマリヤ人の自分を忘れ、自分の危険を顧みることもしない打算のない愛はキリストの純粋な愛を示しています。 このサマリヤ人が、そのお金も労力も、物も時間もすべてを犠牲にして旅人を助けたように、キリストは私たち全人類のために十字架で、ご自分の命までも犠牲になさったのです。傷の手当てをし、介抱する姿 ----- ここに、キリストの無限の愛と優しさと思いやりとが余すところなく、表されています。”包帯を巻いてあげられなければ、他人の傷口に触れてはならない。”とのことばを読んだことがあります。私は、他人の傷口に触れてかえって、結果的にその傷口を広げてしまうことのある愚かな人間です。しかし、イエス・キリストの愛は違います。イエス・キリストは、十字架の血潮に染まった愛の包帯で私たちの傷口を覆ってくださるのです。 私たち人類もまた、神に対して長い間敵対していた者たちであります。しかし、イエス・キリストは、そのすべてを乗り越えて、無条件で私たちを一方的に愛してくださいました。これは、まさに「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3:19)です。この親切なサマリヤ人の姿の中にキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」のすべてが表わされています。十字架はそのクライマックスです。私たちは、あの強盗のように人を傷つけたことはないでしょうか(言葉でも、精神的にも)。私たちは被害者意識を強く持ちやすいのですが、自分が加害者になっていることを忘れやすい者です。また、祭司やレビ人のように助けを必要としている人の側を故意に通り過ぎたことはないでしょうか。私たちは、自分が傷つき倒れているみじめな罪人であることを素直に認めているでしょうか。 私たちは、主から遠く離れ過ぎていて、助けを求めることができない時、あのサマリヤ人のようにイエス様の方から近づいてくださるのです。心のうめき声を聞いてくださるのです。イエス・キリストがあなたを助けるために、天から下って来られました。私たちの声にならないようなかすかな呻き声をも聞いて、同情して近づいてくださるのです。どうか、キリストが差し出しておられる愛の御手を拒まないで下さい。そして、キリストは例え話の最後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。キリストを信じて救われた人は、今度はほんとうに隣人を愛する力が与えられるのです。真の愛は「私の隣人とは誰か。」と問わしめるような冷たいものではありません。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/03/21
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○ルカの福音書の中に、イエス様が自分は律法を守っていて正しい人間である考えていた一人の律法の専門家との対話の中で、「私の隣人とはだれのことですか。」との彼の質問に対して答えられた有名な「親切なサマリヤ人」の例え話がありますので、そこから少し書いてみたいと思います。 イエス様が語られたこの例え話は、多くの教訓を私たちに教えていますが、特にこの話に登場する三種類の人たちを通して、それぞれ私たちに大切なことを語っていますので、私たちの人生について考えてみましょう。(1)エルサレムからエリコへの道を下って行って、そこで強盗に会い、半死半生の目に遭った人、この人の中にこそ、私たち罪人の姿が描き出されているのです。(2)半殺しにされて倒れている人を見ながら、そっぽを向いて通り過ぎてしまった祭司やレビ人の中に頼りにならないこの世の姿を見ることができます。 (3)この傷つき倒れている旅人の所へわざわざ近寄って来て、介抱し、自分のお金を払ってまで、その人を宿屋まで連れて行って面倒を見たサマリヤ人の中に、私たちを救ってくださるために天から来てくださったイエス・キリストの姿が描き出されています。 【1】強盗に襲われた旅人。 一人の男(ユダヤ人)がエルサレムの都からエリコに下って行きました。そして、その「エリコへ下る道」で強盗に襲われたのです。私たちの人生においても、思いがけないこと、予期しないことが突発的に起こることが多いものです。自分の人生設計通りに生きることのできる人は皆無に近いと言っていいでしょう。ある方の話によると、エリコへ下る道は二つあったそうです。一つは遠回りですがあまり危険のない安全な道です。もう一方は近道であって早く着くのですが、曲がりくねった険しい道で、強盗に襲われることが多い道です。そして、彼は多分友人の忠告があったにもかかわらず、この曲がりくねった危険な道を選んで下って行ったのです。 そして、彼は強盗に襲われて、打ちのめされ、半殺しにされてされてしまったのです。この男の姿の中に私たち罪深い人間の姿が示されています。まず、私たちの前には、いつも選ぶべき二つの道があります。一つは神様に従って歩いて行く正しい道です。もう一つは、自分勝手に歩いて行く罪(自我)の道です。そして、その道は「下って行く道」なのです。エリコは地中海より250m低い所にあった町です。聖書の中で、「下る」という言葉が出て来ると、多くの場合(すべてではありません)、あまりよくない意味があります。アダムがエデンの園で罪を犯して以来、人類の歴史は常に下っていると言っても過言ではありません。自分では、教養を身に付け、修養して向上していると思っていても、神に従わない道は常に下っているのです。 そして、その道は曲がりくねった罪の道です。しかも、その道のあちらこちらに私たちに襲いかかる悪魔(サタン)が待ち構えているのです。自己中心のわがままな道は、最後には自分を滅ぼすことになるのです。この旅人は自分の持ち物を奪われて、着物を剥ぎ取られて、その上、殴られて半死半生の状態で道端に倒れています。私たち人間の姿がここにあります。もう自分ではどうすることもできないあわれな状態です。この傷ついて倒れている旅人は、放置しておけば間違いなく、死んでしまう絶望的な状態です。これは、あらゆる現代の人間の姿なのです。現代においても、世界の道端は霊的に略奪され、傷つき倒れて横たわっている人でいっぱいなのです。これがこの世の現実なのです。 あのパウロのことばは、パウロだけでなく、世界中のすべての人の心からの叫びなのです(たとい、自分で気づいていなくても)。あの使徒パウロをして、「私は本当にみじめな人間です。」と言わしめるほどに罪の傷は癒しにくいのです。このエリコに下る道で強盗に襲われた旅人にあるものは、《孤独と不安と恐れ》であり、《絶望と悲しみ》であったのです。人のために何か良い行いをしようとする前に、自分自身が救われなければならないみじめな罪人であることを、徹底的に知らなければ、キリストの十字架の深い意味も知ることができません。だれも、そこまで深刻に考えなくてもと考えている方も多いと思いますが、これが人間の本当の姿なのです。続き・・・ ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/03/20
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2010/03/19
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2010/03/19
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2010/03/18
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2010/03/17
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2010/03/16
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2010/03/15
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ようこそ!!..ご ゆっくりと、心ゆくまで楽しんでいってください。※ペット達をクリックで新たな発見・・??。 ?私の正体♪フリマ?! 愛・恋・友!▼・・・あしたばの選択・・・?。・・▼(・抄録・編集・自説の嘘半分本当半分のメモ学問です↓↓) ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ ♪♪○トルストイは、「人間が最後に必要とするのは自分の死体を埋める穴一つだ。」と人生を皮肉って言いました。しかし、これでは、私たちの人生はあまりにも孤独で淋し過ぎるとは思われませんか。私たちの魂はみな、もっと別な何かを求めて叫んでいるのではないでしょうか。私たちに本当に必要なのは、死体を埋める穴ではなく、心の「空洞」と「孤独」を埋める何かではないでしょうか。何年か前に自殺したハリウッドの有名な女優は、美貌の上に金持ちであり、この世が与えるすべての楽しみを味わい、人もうらやむ華やかな生活をしていましたがその遺書には、「私は耐え切れないほど淋しいのです‥‥」とあったそうです。人は、外見的にどれほど恵まれた環境にあっても、本心は「孤独」なのです。 そして、毎日職場に拘束され、時間に追われてあくせくと働く現代のサラリーマンも、家事に追われる家庭の主婦も、受験勉強に疲れている学生さんも、あるいは、間もなく定年を迎えようとされている方も、老後をどのように過ごそうかと考えあぐねて悩み、人生の最後の時が刻々と近づいているお年寄りの心の中の奥を覗けば、言い知れぬ不安と孤独感でいっぱいなのではないかと思います。一見すごく幸せそうに見える夫婦や家庭にも、お互いの価値観の違いなどで意思の疎通がうまく行かず、いつの間にか、すれ違いが起こり、気づいた時には深い溝が出来ていて、隙間風が吹いているということもあるのではないかと思います。人間の心はみな、心の奥底のどこかで深い孤独感を味わい、渇いて求めているのではないでしょうか。 聖書によれば、「孤独感」というのは霊の父である真の神様から、分離している魂の叫びではないかと思うのです。ですから、その孤独は、私たちの魂が神に帰るまで、この世の何ものによっても満たすことができないものなのです。あの有名なパスカルは、「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は神以外のものによっては埋めることが出来ないのだ。」と言いました。聖書の中に登場する人物の誰を見ても、神から離れた人間の心には、孤独の陰があることが分かります。今から三千年も昔のイスラエルのソロモン王は、この世の名声も地位もお金も快楽も、この世が与えることのできるあらゆるものを手にしましたが、その心の空洞を埋めることはできませんでした。 しかし、新約聖書には、心の空洞のすべてを満たしてくださる方が紹介されています。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)と言われたイエス・キリストであります。キリストは、神の御子でありながら、家畜小屋で誕生され、人の子としてひっそりと暮らされた30年の生涯の後、3年半の公生涯を送られました。そして、群集に近づかれたイエス・キリストは、心やさしく、温和で、忍耐深く、人々に対する愛に満ちておられました。病める者を癒され、罪人の罪を赦し、心の病んでいる者を慰め、貧しい者に希望を与え、苦しんでいる者を救うために食するひまもなく、枕する所もないほど質素で多忙な日々を送られたのです。 そして、その生涯の最後に、イエス・キリストは、あなたを孤独の深い淵に落とし入れた原因である罪を背負って、十字架で神のさばきを身代わりに受けて死んでくださり、しかも、三日目によみがえって、あなたが神に立ち帰る道を開いてくださいました。どうか、あなたもご自分の罪をお認めになられ、悔い改めて、キリストを信じ受け入れてくださることをお勧めいたします。そうすれば、世の何ものによっても満たされないあなたの心も、神の愛で満たされるのです。そして、キリストを信じる者には、罪の赦しと永遠のいのちが与えられます。そして、永遠の慰めに満ちた天国に向かって、希望に満ちた人生の旅を歩むことが出来るのです。 これが、聖書が語る救いであり、福音(良きおとずれ)であります。キリストを受け入れたならば、たとい、外見上は一人ぼっちであっても、キリストはあなたとともにいてくださり、もう孤独ではありません。それは、この上ない幸福であり、すばらしい平安に満ちた生活です。使徒パウロが、殉教直前に獄中で書いた手紙の中で、彼は人間的には大変孤独でしたが、次のように書いています。彼は死の直前の獄中にあっても、決してひとりぼっちではありませんでした。主が共におられるという確信に満ちていました。 ・・・・・hope to see you again・・・・・ !フリーター再生委員会?・・● 「すべての事をあなたがやろうとすれば、小さな事しかできない・・・。」☆「お問い合わせ」→・
2010/03/14
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2010/03/13
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2010/03/12
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2010/03/12
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2010/03/11
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