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「人生は、仕事も、遊びも、恋愛も、結婚も やみくもに進むのではなく、 全体をとらえてから進むと、 上手くいくことがほとんどです。」お仕事は、自分のお仕事を必要として下さる方がいるからこそ、お仕事になるものだと思うのです。遊びは、自分が遊びたいと思う何かや、その何かに関係するものを提供して下さる方がいるからこそ、はたまた、一緒に遊んでくれる相手がいるからこそ、遊ぶことができるものだと思うのです。恋愛は、「この人が好き♬」と思う相手がいる。。。「あなたが好き♬」と思って下さる相手がいる。。。お互いがお互いの特別の相手であり、お互いに愛情を感じて、恋い慕うからこそ、育まれるものだと思うのです。結婚は、「この人と結婚をしたい♬」「この人と一緒に暮らしたい♬」「この人といると心が安らぐ♬」「この人と同じ方向を見て生きていきたい♬」「何があってもこの人と生涯を添い遂げたい♬」と思える相手や、そのように思って下さる相手がいるからこそ、結ばれるものだと思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。お仕事も、遊びも、恋愛も、結婚も、相手の存在があるからこそ成り立つものだと思うのです。だからこそ、お仕事も、遊びも、恋愛も、結婚も、相手を思い遣る心を持たせて頂き、相手の立場になり、相手のことを考えさせて頂くことが大切だと思うのです。 お仕事を下さる相手(お客様)にお喜び頂けるように、 〇〇をしてみよう♬ 〇〇をさせて頂こう♬ 一緒に遊ぶ皆が楽しく過ごせるように、 〇〇をしてみよう♬ 〇〇をさせて頂こう♬ 恋人が「〇〇が好きだ」と言っていたから、 〇〇をして喜ばせよう♬ 喜んでくれるといいな♬ 妻(又は夫)が「〇〇が好きだ」と言っていたから、 誕生日には〇〇をして喜ばせよう♬ 子どもが「◎◎が欲しい♬」と言っていたから、 クリスマスには◎◎をプレゼントしよう♬全体を捉えるとはそういうことだと思うのです。相手の存在あっての自分のお仕事、遊び、恋愛、結婚だからこそ、相手を思い遣り、相手にお喜び頂けること、相手のお役に立つことは何かを考え、その相手を思う「愛」を「形」に表していく。。。その「愛」を「形」に表していく過程においては、様々なことに思いを巡らせて想像をしたり、「〇〇をしたら、◎◎になるかもしれない。。。」などの様々な想定をしたり、「◎◎をする為には、〇〇から始めよう。。。」「〇〇が上手くいかなかったら、◎◎をしてみよう。。。」などと計画を立てたりすると思うのです。その結果、相手のお役に立つことができ、相手にお喜び頂けると、自分も嬉しくなり、喜びで心が満たされると思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。相手を思い遣る心を持たせて頂き、全体を冷静に、客観的に捉えさせて頂くからこそ、相手にとっても、自分にとっても、良い結果が導かれるのだと思うのです。反対に、相手の存在あっての自分のお仕事、遊び、恋愛、結婚であるにもかかわらず、相手を思い遣ることをせず、相手の立場にもならず、相手のことさえ考えず、 自分さえ儲かればそれで良い。。。(相手が損をしようと関係ない) 自分だけ楽しく遊べればそれで良い。。。(相手が楽しく遊べなかろうと関係ない) 自分がしたい恋愛ができればそれで良い。。。(相手の気持ちはどうでも良い) 自分の結婚観通りにすればそれで良い。。。(相手の結婚観はどうでも良い)など、自分ではそのつもりがなくても、自分のことしか考えていない、ということがあると思うのです。表現を変えさせて頂くと、自分の欲を手っ取り早く満たすことができればそれで良いという、安易な発想の表れでもあると思うのです。自分の欲を満たすことしか考えていないが故に、視野が狭く、全体を見渡したり、見通すことがない。。。ただただ漠然と自分の欲を満たそうと、安易な行動をする。。。闇雲に進むとはそういうことだと思うのです。何も考えず、何らの想定もせず、何らの計画も立てずに、無暗に行動を起こす。。。無謀、無鉄砲だと思うのです。何も考えていないが故に、何かが起こった時に、何も対処できずに失敗してしまう。。。何も想定していないが故に、何かが起こった時に、何も対処できずに過ちを犯してしまう。。。何も計画を立てていないが故に、何かが起こった時に、何をどうすれば良いかが分からず、動揺してしまう。。。そのようなことにならないように、何ごとも、視野を大きく広げて、全体像を把握し、冷静、かつ、客観的に捉えさせて頂きながら、予め考えるべきは考え、予め想定すべきは想定し、予め立てるべき計画は立てさせて頂くことが大切だと思うのです。視野を大きく広げ、全体像を把握することに努めさせて頂くことによって、 自分一人で生かさせて頂いているわけではないこと。。。 いつもどなた様かのお陰様で生かさせて頂いていること。。。に自然と気付いていくと思うのです。その気付きが深まれば深まるほど、自分さえ良ければそれで良い、という利己心ではなく、人様を思い遣る利他心をもって生かさせて頂くことこそ、心ある人として大切な心のあり方、生き方であることを知り、そのような心のあり方で生かさせて頂くことによって、自分の心が喜びで満たされていくことを実感すると思うのです。普段からそのような心のあり方で生かさせて頂くことができるように心がけて過ごさせて頂くことによって、 しなくて良い失敗をしなくなる。。。 しなくて良い過ちを犯さなくなる。。。 しなくて良い動揺に苛まれなくなる。。。だけでなく、例え、不測の事態が生じても、過度に動揺することなく、今すべきことを冷静に、かつ、客観的に判断し、臨機応変に対処することができる自分を育ませて頂くことができると思うのです。お仕事も、遊びも、恋愛も、結婚も、相手の存在あってこそ成り立つもの故に、 自分勝手で我儘、自己中心的な言動をする。。。 自分の価値観を相手に押し付ける。。。という視野の狭い闇雲なことはせず、 お互い様の心、相手を思い遣る心を持たせて頂く。。。 相手の立場になって、ものごとを見たり考える。。。など、自分を取り巻く全体を俯瞰させて頂くことによって、ものごとが上手く運ぶようになるのだと思うのです。源光「最初の考えは単なる思い付きだから欠陥だらけ。 二度目の考えは、自己中心的でダメ。。 三度目の考えが、最善です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407190002/「最善のものを求めて、最悪のものに備えるのです。 これが愛と勇気と希望を運んでくる生き方なのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207160000/「そのときは無駄のように思えるかもしれませんが、 万一の備えというものは、日頃からしておかなければなりません。 蟻の一穴から、物事は倒壊するのですから。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310210000/「将来のための準備をしましょう。 そして今を楽しむことです。 このバランスがとても大切です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312170005/ 「地上での失敗のほとんどは、【勉強不足】に【準備不足】が重なったものです。 出たとこ勝負というものは本来するべきではありません。 機が熟していないからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303160000/「理想や夢に走って 基礎を創らず できることを未完のまま放り出し、 理解もしていないことをやり始めてしまう人が多いのです。 これは失敗して当然なのです。 しっかりと基礎を創ってから始めれば 半ば成功したも同然です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410130000/
2016.12.14
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「失敗してもその原因を追究したり、 欠点を反省して改善していくことで、 かえって成功に近づくことができます。」失敗。。。失敗を経験させて頂いた時は、その失敗そのものにフォーカスしてしまい、落胆したり、自暴自棄になってしまいがちですが、それらを経験させて頂いているのは、それなりの理由(原因)があるからだと思うのです。それまでの自分の心のあり方や言動に、 良心に背いていることがある。。。 すべきことをしていないことがある。。。 できることをしていないことがある。。。 割愛すべきでないものを割愛している。。。 ものごとの順番を大切にせず、気が急いている。。。 先走り過ぎて、大切なものを見逃がしている。。。など、何らかの点において、人としてあるべき正しい心のあり方に反していることがあるのだと思うのです。そのことに自ら気付くことができるように、そして、素直に反省・改善することができるように、失敗という機会を与えて頂いているのだと思うのです。失敗をした時は、失敗を生じさせたその原因や、その原因の元になっている自分の心のあり方や言動にこそ目を向けるべき時なのだと思うのです。見方を返させて頂くと、失敗という経験は、正すべきを正させて頂くことができる貴重なチャンス。。。というでもあると思うのです。失敗などの突発的なことが生じないと、自分のことを冷静に、かつ、客観的に顧みたりすることがない私たち故に、突発的な境遇を与えて頂くことによって、それまでの自分の心のあり方や言動に、 おかしな点はなかったか。。。 手抜きをしなかったか。。。 順番を大切にしていたか。。。 大切なことを省略しなかったか。。。 驕れていなかったか。。。 謙虚であったか。。。 自分から逃げなかったか。。。 自分に嘘を付いていないか。。。 自分を騙していないか。。。 自分を演じていないか。。。 諦めなかったか。。。 すべきことをしたか。。。 できることはしたか。。。 誠実であったか。。。 良心に背いていなかったか。。。などを自らに問い質し、素直に反省させて頂き、正すべきを正させて頂くことができるのだと思うのです。とはいえ、 「これが失敗の原因だ。。。」 「これが反省すべき点だ。。。」と自分なりに答えを出してみても、不完全で至らない点の多い私たちの答え故に、必ずしも、それが失敗の理由(原因)になっているとは限らないと思うのです。裏を変えさせて頂くと、簡単に気付けるような原因であれば、失敗する前に気付けると思うのです。問題なのは、 「これが失敗の原因だ。。。」 「これが反省すべき点だ。。。」と原因や反省点を見つけ出したことに自己満足してしまい、原因を追究しなかったり、反省すべきを正しく反省しないなど、安易に考えているその心のあり方が失敗を生み出していることに気付いていないことだと思うのです。 (それ故に、原因が追究されていない失敗や、 反省すべきが正されていないその心のあり方が、 更なる失敗を呼び込むことになるのだと思うのです。) 不完全で至らない点が多いが故に、修行をさせて頂いている私たちだからこそ、日頃から、自分の心のあり方や言動が、良心に従っているか否かを、自分で観察し、顧みさせて頂くことが大切なのだと思うのです。日頃から自分を観察し、自分を顧みさせて頂く。。。そういう習慣を正しく身に付けさせて頂くことによって、 手抜きをしなくなり。。。 順番を大切にするようになり。。。 大切なことを省略しないようになり。。。 驕れることが少なくなり。。。 謙虚であることが多くなり。。。 自分と向き合うようになり。。。 自分に素直になったり。。。 自分を尊重したり。。。 自分を信じたり。。。 自分らしくなったり。。。 自分の信じる道を歩むようになったり。。。 すべきことは、後回しにせず、その時にしたり。。。 できることは、後回しにせず、その時にしたり。。。 誠実で真面目に過ごすようになったり。。。 良心に従って過ごすようになったり。。。と、より良い人生を過ごさせて頂くことが、できるようになるのだと思うのです。それもこれも、失敗という突発的に与えて頂いた境遇があってこそ、なのだと思うのです。意味も無く失敗を経験させて頂いている、ということはないと思うのです。何らかの意味があって与えて頂いている失敗だからこそ、その失敗をどのように受け止め、その失敗とどのように向き合い、その失敗をどのように活かさせて頂くのか。。。が大切なのだと思うのです。それは私たちの心のあり方次第だと思うのですが、その心のあり方次第で、「失敗は成功のもと」になって、成功を手中に収めさせて頂くことができ たり、より良い人生を過ごさせて頂けるようになることもあれば、「失敗が更なる失敗を呼び込む」こともあると思うのです。この世的には、 辛さ、苦しさ、悲しさを齎す失敗。。。 不平不満、怒り等を感じてしまう失敗。。。であったとしても、人知の及ばない深遠なる天のお取り計らいは、私たちにとって、大きなチャンスになっている、ということを忘れてはいけないのだと思うのです。不完全で至らない点の多い私たちが失敗をするのは極自然なことだと思うのです。失敗したその時に、失敗を反省せずに、失敗したままにする。。。なぜ失敗したのか、その原因を考えない。。。その心のあり方や生き様こそ【本当の失敗】であり、【失敗】を生み出す大きな原因なのだと思うのです。失敗したその時に、 失敗をそのままにせず、素直に反省して、正そうとする。。。 同じことを繰り返さないよう原因を追究する。。。など、失敗という経験を糧にして、より良くしようと、努力、探究するからこそ、成功を引き寄せ、呼び込むことになり、未来が拓けてくるのだと思うのです。欠点。。。不完全で至らない点が多いが故に、修行をさせて頂いている私たち。。。それは、欠点のない人間はいない。。。ということでもあると思うのです。自分の欠点を自ら素直に認め、欠点が欠点である理由を正しく知り、それを克服させて頂く。。。その結果、当初は欠点であったものが、長所としてその姿を変えていくのだと思うのです。時に、不完全で至らない点、欠点のある人間であるにもかかわらず、「欠点は長所。。。」と仰る方がいると思うのです。自らの欠点を素直に反省し、良心に従って修正された方にとっては、修正された時点で初めて「欠点は長所」になると思うのですが、自らの欠点を認めず、反省もせず、正そうともしない方が「欠点は長所」と仰られても、自らの欠点を認めない、反省しない、正さない、というその心のあり方、言動、生き様こそ、その方の大きな「欠点」だと思うのです。それを自ら露呈しているに気付けないからこそ、「欠点は長所。。。」という自分に都合の良い主張をしてしまうのだと思うので す。それ故に、欠点は欠点のまま。。。何ら改善されないどころか、欠点を認めないことに意固地になっているが故に、かえって自ら欠点を強調し、欠点を増やしてしまっている、ことにもなりかねないと思うのです。それが長所であろうと、短所であろうと、欠点であろうと、自分を知ることに努めさせて頂き、どんな自分をも素直に受け留め、認め、反省すべきは、良心に従って素直に反省させて頂き、正すべきを良心に従って正させて頂く。。。それが長所をより長所たらしめ、短所を克服させ、欠点を長所にさせる心のあり方なのだと思うのです。魂の修正や成長をさせて頂くことを目的、目標として地上という修行の場で生かさせて頂いている私たちにとって、 自分の欠点を知ることができないまま。。。 自分の欠点を知ろうともしないまま。。。 自分の欠点を正すことができないまま。。。 自分の欠点を知っても、それを反省し、正そうとしないまま。。。天に帰還することになってしまっては、大後悔することになってしまうと思うのです。後悔先に立たず。。。大後悔しても時すでに遅し。。。ということになってしまわないように、ありのままの自分自身と向き合い、自分の欠点や至らない点と向き合い、それらを良心に従って素直に反省させて頂き、心正しく修正させて頂く。。。そのようにして成長させて頂いたとき、私たちの心は生まれ変わっていると思うのです。心の生まれ変わりと共に、今生という人生の新たなスタート地点に立った、ということでもあると思うのです。魂の修正や成長を目的として、地上で修行をさせて頂いている私たちにとって、心が生まれ変わることや、人生の新たなスタート地点に立つことは、大成功なのだと思うのです。失敗も欠点も、素直に認め、受け入れ、向き合い、反省すべきを素直に、正しく反省させて頂き、改善すべきを正しく改善させて頂くことによって、成功に繋がることに変わりはないと思うのです。ただその失敗や欠点を、成功への道標にすることができるか。。。それとも、更なる失敗や欠点を膨らませる道標にするのか。。。は私たちの心のあり方次第なのだと思うのです。源光「過去を振り返りましょう。 後悔するためではありませんよ。 これからくよくよしないためです。 「あのときはなんてばかなことをしたんだ」と思い出しましょう。 そして「あのときはこうすればよかったんだ」という解決策を考えましょう。 よりよい言葉、よりよい行動、よりよい考え方を、自分で発見するのです。 次からそれを具体的に実行しましょう。 頭の中だけで思うのではなく、必ず実行することが大切です。 こうして以前、失敗したことも、成功するようになります。 全てが好転してい きます。 欠点が長所となって輝き、理想的な人間へと修正されて 素晴らしい人生となって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312270000/「あなたが自分の最大の欠点を修正できるならば そこから、あなたの本来の人生が始まります。 それまでは助走期間に過ぎない人生です。 助走のみで還って来た人は、 一人の例外なく後悔の念にとらわれます。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501060000/ 「挫折、失敗、事故の原因は、 挫折、失敗、事故そのものよりも興味深いのです。 それを招いた原因を掘り下げてみましょう。 これからの人生を実り多いものにするために。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406240000/ 「原因のない結果はありません。原因を探求し続ける力が、 人を発見者にも偉人にも成功者にも覚者にもするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405040000/「身の回りで起こる、どんな良い事も悪い事も、 自分に無縁なものはありません。 全てに原因があるのですから、 今から善因の種を撒いて生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312200000/ 「過去の体験を「宝物」にするも、「ごみ」にするも 自分自身の「心」次第ですね。 みんな悩んで大きくなっていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209170000/「あなたの現在は、あなたの過去の総決算。 現在の自分を真剣に、反省してまだ欠点があるというならば、 それはこれからの人生において、学ばなければならない 宿題が残っていることを示すのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303170000/「事を行った結果の失敗は 成功の種となって、後で花開きます。 事を行わなかったことは、 後悔の種となって、後々まで無念の尾を引きます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501070000/「人生とは試行錯誤の過程である。 なんらの過ちもおかさない人は、何もしない人である。 汝は、失敗と挫折から学まねばならない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107260000/「人生は、ぶっつけ本番のリハーサル無し。。 これで失敗するなというのが間違いです。 失敗しない人間は皆無。 あなただけが失敗したのではありません。 大損したのでもありません!! 人は失敗から学ぶ動物です。 「あの時ああすればよかった。。」 そうです。ああすればよかったのです。 しっかり学び取って次に活かせば良いのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402100000/「人間は努力する限り失敗したり過ちを犯すのです。 しかし失敗から学び、過ちを修正して夢を叶えることもできます。 失敗なんかしたくないし、過ちも犯したくなければ、 努力しないでノンビリしていればいいわけです。 ただし夢が叶うことは決してありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406170001/「誰でも間違いを犯します。 なんでこんな間違いをしてしまったのか!! と悩み苦しむ人も多いのですが、 消しゴムを持っている人は、サッサと消してしまいます。 消しゴムは、それぞれ。。。 あなたも事前にお気に入りの消しゴムを 用意しておけばいいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201411290001/「人生は、三歩進んで二歩下がる。。 このくらいが一番いいのです。確実に前進しています。 寄り道をしたり、振り出しに戻ったり、失敗したりするのは、 決して無駄ではありません。 成長していくには、そういったことがとても大切です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311220000/「人生で遭遇するすべての出来事には意味があるのです。 生きていくこととは、その意味を理解することに他なりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407010000/
2016.12.13
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「混沌や絶望、無意味な破壊、災害は、 人々が思いやりを忘れ、 自己中心的に生きるようになったがゆえに 頻繁に発生するようになってしまったのです。 あなたの喜ぶ姿が私の喜びです。 こうして人も社会も平和に豊かになっていくのです。」自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。だからこそ、お互い様の心で、お互いを思い遣り、助け合い、支え合い、分け合い、与え合い、協力し合い、愛し合って生かさせて頂くことが大切だと思うのです。それにもかかわらず、 自分さえ良ければそれで良い。。。 人様のことなどどうでも良い。。。 自分が得をする為には、自分が損をしない為には、 他者を騙し、欺き、偽り、裏切り、傷つけ、苦しめる。。。 地球さんや大自然のお陰様で生かさせて頂いているにもかかわらず、 環境を汚染し、自然を破壊するなど、地球さんを傷つけ、苦しめる。。。そのような自分勝手で我儘な思考をしたり、我が物顔の言動をする。天からすれば、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いている私たちが、そのような心のあり方、生き方をしていては、 「魂の修正どころか、修正すべき点を増やし続け、 人としての心、光、愛を失っていくばかり。。。 このまま我が物顔で好き放題、やりたい放題にさせれば、 修行の場である地球さんが滅んでしまいかねない。。。 地上に生きる人々は、魂の修正が必要な存在。。。 いわば、魂の病を持つ患者のようなもの。。。 魂の病を自ら治癒できるように良心を授けたにもかかわらず、 その良心の声に耳を傾けないばかりか、良心に背く始末。。。 結果、魂の病を増幅させ、その病で自然や地球さんを汚染、破壊し、 傷つけ、苦しめているにもかかわらず、 自分には関係ないという無関心な姿勢。。。 魂の病を良心に従って治癒してもらいたいと願い優しく見守ってきたが、 自らの意思で良心に従い、反省すべきを反省し、 正すべきを正そうとしないのであれば、 もはや修行にはなっていない。。。好転の兆しもない。。。 放置し、悪化の一途を辿るのであれば、荒療治をせざるを得ない。。。」などのようにお思いになられると思うのです。魂の病の荒治療。。。それが天変地異なのだと思うのです。天変地異の恐怖や不安に苛まれ、辛苦し、悲しみに暮れ、自分の目から雨を降らせなければ(涙しなければ)、自分の心の過ちに気づかせて頂くことができない、 (気付かせて頂くことによって、地固まる。。。)などということのないように、 自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。 心ある人間同士である私たち。。。は、日頃から、お互いを思い遣る心をもって、生かさせて頂くことが大切だと思うのです。周囲との調和や協調を大切にしながら生かさせて頂くことが大切だと思うのです。そして、私たちは全てを与えて頂いていることを決して忘れてはいけないと思うのです。全てを与えて頂いている私たちは、「生きている」のではなく、「生かさせて頂いている」ということに気付かせて頂き、心から感謝させて頂くべきだと思うのです。私たちにとって天変地異と感じることは、地球さん等の自然界にとっては、破壊された調和を整え、癒し、元に戻す為、 (人類によって破壊された調和を整える為)自然が自ら生みだしている現象。。。と捉えることができると思うのです。それは、私たちが危険を察知した時に、咄嗟に身体が動く自己防衛本能や、感染したウィルスから身体を守ろうと、白血球などが活躍して下さるのと同じようなもので、それが私たちの身体か、地球さん本体か、の違いがあるだけだと思うのです。地球さん等の自然界の調和を破壊するようなことをしてきているのは、何を隠そう私たち人間だと思うのです。。。それ故に、天変地異が生じる原因になっているのは、私たち人間の利己的な心のあり方や、その心のあり方が齎す様々な行いにある、ということになると思うのです。「天変地異が起きたから、協力し合いましょう。」「天変地異が起きるかもしれないから、助け合いましょう。」という「天変地異」を理由にするのではなく、日頃から、「心ある人間同士」として、お互いを思い遣る心を持たせて頂き、助け合い、支え合い、分け合い、与え合い、協力し合い、愛し合って、生かさせて頂きたいものですね。助け合い、支え合い、分け合い、与え合い、協力し合い、愛し合って生かさせて頂くことは、 「人様のお役に立たせて頂きたい♬」 「人様にお喜び頂けることをしたい♬」という思いの表れに他ならないと思うのです。それ故に、私たち一人一人が、そのような心のあり方で生かさせて頂くと、修行の場である地球さんは、修行の場でありながら、平和で穏やかな心のオアシスにも、天国にも、極楽にもなるのだと思うのです。地上という修行の場に天変地異を生じさせて地獄にするも、お互いを思い遣る心をもって天国や極楽にするも、それは私たち一人一人の心のあり方次第。。。どちらを選択するかは自分次第。。。ということなのだと思うのです。源光「人は、もっと同期の地球人として、 助け合う術を学ばなければなりません。 さもなくば天変地異が収まる事はないでしょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206020000/「空を見て変ったことが現れたら、 地に変化ありということです。 注意しなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206190000/ 「着る、食べる、飲む、寝る、これこそ生きる原点。。幸せの原点です。 太古の昔から人類がしてきたことです。 家族で仲良く生きるために、狩に行き、海で魚貝を獲り、土器を作り。。 家族で働いたわけです。 横穴式住居や、竪穴式住居で、ファイヤーを囲んで、 獲物に貪りついて家族で楽しくワイワイやっていましたね。。 これが幸せというものです。 文明社会に慣れ切って、他人との比較ばかりして、 不平不満ばかり並べて、愚痴ばっかり言って、 原点を忘れてしまいましたか?」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402110001/「地上にあるものは、こちらから観ると古いものばかりですが、 古いものの中にも新しいものがあります。 人の心は縄文時代の人の方が現代人よりも 遥かに、優れていたのです。。」(ラクシュミーさん)「人の心は石器時代の昔よりも退化したのかも知れません。 日本の縄文時代、人は、貧富の差は無く、 互いに助け合い励ましあって生きていたものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211050000/「正義はひとつならば、あなた方はなぜ戦うのですか? 矛盾にもほどがあるのです。 好きなようにして共倒れになってもいいのですが、 ノアの箱舟で一気にカタをつけても一向に構わないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601130000/「人類が激変するに連れて、地球にも変動が起こります。 平和で明るい未来を構築しなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204270000/「地球は、子孫に伝えていく地球ですから、 欲しいままに、地球を扱ってはなりません。 国や社会も同じことです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206280000/「環境に優しい人、環境に負荷をかけない人。。。 自然を愛する人でありましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410040000/「ひとり一人の魂は、本質において宇宙の魂以外の何ものでもない。 人間はお互いに、頭、腕、胴、足となって補い合わなければならない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107170000/「人生は競争ではなく協調で切り開くのです。 偶然を装った必然で知り合った人と協調して、 互いに幸せを作り上げていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407080001/「何でも出来る人はいません。天界でもそうなのです。 それぞれの特技を活かして、協力し、助け合い、励ましあって、 暮らしやすい平和な世界を創造するところに 最高の喜びがあるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305220000/「有史以来、地上に完璧な人が生まれたことはありません。 みんな、みんな不完全。 だからこそ助け合って生きるのは当然ですね。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210150000/「今、地上に生ある人は全て同期生ですから、 いがみ合い争うのではなく、手を取り合って生きなければなりません。 自分たちの為、そして子孫の為に、平和で豊かな地上を 創っていかねばなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204230000/「子供達が大人になった時、幸せに暮らせるように、 少しでも世の中を暮らしやすく平和にして行くのが 大人達の勤めです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203260000/
2016.12.12
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「見たり、聞いたり、試したり。。。 この内、最も大切なのは 、【試したり】です。 見たり、聞いたり、【忘れたり】。。。 これが何も進歩しない人の 人生勉強のパターンです。」色々なものを見ることや、色々なことに耳を傾け、聞くことは、見聞を広げること故に、とても素晴らしいことだと思うのです。しかしながら、同じ「見る」「聞く」でも、 見て、興味を抱いて、自分で探究したり。。。 聞いて、疑問を抱いて、自分で調べたり。。。するのと、 ただ見ただけ。。。 ただ聞いただけ。。。では大きな違いだと思うのです。例えば、 「〇〇をするには、(〇〇ができるようになるには) ◎◎という本に書かれていることが素晴らしい。」という興味のある記事を見たり、聞いたりしたとします。ある方は、その見たり、聞いたりした本を 「ふぅ~ん、そうなんだぁ~。。。」として、興味があるにもかかわらず、その書籍名や著者名のメモも取らず、本も手にせず終わりにしてしまう。。。それでは、せっかく得た興味のある情報(書籍名、著者名など)も、さっさと忘れてしまうと思うのです。「忘れる」ということは、折角与えて頂いたチャンスを活かせず、無駄にしてしまう、ということでもあると思うのです。 (与えて頂いたチャンスを、チャンスと気付けないが故に、 そのチャンスを無駄にしてしまうような言動をしてしまう。。。 そういうことでもあると思うのです。)知らず知らずの内に、それが習慣になってしまうと、同じことを何度も何度も繰り返してしまうことになり、何も進歩しない。。。前進しない。。。という変化のない結果を自ら齎し続けてしまうことになると思うのです。与えて頂いたチャンスを無駄にしてしまうことのないように、見たり、聞いたりしたものが、自分の興味のあることや、「!!!」と感じたこと、「???」と感じたことは、メモを取るなどの初動に起こさせて頂き、その初動を次なる実践や試行に繋げさせて頂きたいものですね。別のある方は、その見たり、聞いたりした本を 「読んでみたいなぁ~♬」として、興味があるその本の書籍名や著者名のメモも取り、早速、本を手にして読む。。。本を手にして読む。。。という実践、試行についても、大きく2つのパターンに別れると思うのです。1つのパターンは、本を読んだこと。。。本の内容が頭に入ったこと。。。に自己満足し、 「もう分かった。」 「いつでも出来る。」と思い込み、何らかの実践や試行などの行動を起こさないパターン。。。本を読むという実践や試行をしていても、本から得た知識を実践・試行しなければ、その知識を本当の意味で知ったことにはならないが故に、時間の経過と共に、次第に本の内容を忘れてしまったり、自分の思い込みによって、その解釈が変わってしまったり、ということになってしまうと思うのです。それでは、本を手にせずに終わりにして、「忘れる」ケースと同じになってしまうと思うのです。そのようなことにならないようにする為には、見たり、聞いたり、読んだりしたことで過信することなく、更なる実践や試行に繋げさせて頂くことが大切なのだと思うのです。もう1つのパターンは、本で読んだことを、実際に実践してみる。。。試行してみる。。。など、何らかの行動を起こすパターン。。。実際に実践し、試行するという経験・体験を積ませて頂くことによって、身体で覚えることができたり、記憶に刻まれていくと思うのです。ダイエットの仕方を見ただけでは、自分のダイエットにはならないと思うのです。ダイエットの仕方を聞いただけでは、自分のダイエットにはならないと思うのです。ダイエットに関する本を読んだだけでは、自分のダイエットにはならないと思うのです。見たり、聞いたり、読んだりしたことの中から、自分に合った方法や自分にも出来る方法を見つけ、それを実践・試行をさせて頂くからこそ、ダイエットに繋がるのだと思うのです。お掃除の仕方を見ただけでは、自分の周りは整理整頓されないと思うのです。お掃除の仕方を聞いただけでは、自分の周りは整理整頓されないと思うのです。お掃除に関する本を読んだだけでは、自分の周りは整理整頓されないと思うのです。どんなにか見たり、聞いたり、読んでみても、実際に自分で整理整頓するという実践・試行をしなければ、決して綺麗に片付くことはないと思うのです。健康法を見ただけでは、自分は健康にならないと思うのです。健康法を聞いただけでは、自分は健康にならないと思うのです。健康法に関する本を読んだだけでは、自分は健康にならないと思うのです。不健康になった自分の生活スタイルや食生活を反省し、見直させて頂く。。。そして、見たり、聞いたり、読んだりしたことの中から、自分に合った健康法や自分にできる健康法を見つけ、それを自ら実践・試行をさせて頂くからこそ、自分の健康に繋がるのだと思うのです。自ら起こした実践・試行という経験・体験は、何かを大きく進歩、前進させるだけでなく、新たな見たり、聞いたり、実践したり、試行したり、という更なる進歩・前進への道を拓くのだと思うのです。見たり、聞いたり、読んだりしたことは、自ら何らかの行動を起こさせて頂き、実践し、試行させて頂くことを通じて、身体と心に刻まれて初めて、自分のものにすることができるのだと思うのです。だからこそ、「忘れる」ことを、実践・試行するのではなく、「実践・試行する」ことを、実践・試行させて頂きたいものですね。源光「あなたの人生のすべての出来事には意味があり、 生きていくこととは、その意味を理解することです。 理解が及ばないと不本意な人生に。。 理解が及べば潤沢で楽しい人生となっていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408290000/「人生とは試行錯誤の過程である。 なんらの過ちもおかさない人は、何もしない人である。 汝は、失敗と挫折から学まねばならない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107260000/「聴くことを多く。。 話すことを少なく。。 実行に力を注ぐのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407180001/「知識は、経験を超えるものではないのです。 人生経験の深さは何物にも代え難いものです。」(ラクシュミーさん)「あなたには自分でも気付かない 無限の可能性があります。 視野を広げて、さらに大きな体験をしてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201612050000/「汗と涙のなかから知恵を生みだしただけでは、まだまだの人です。 笑顔で実践しなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403100001/「人間の美徳はすべてその実践と経験によって身に付けるものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409110003/「他人から何度聞いたところで、 実際に自分の目で見る等 体験して事実を知るという方法には及ばないのです。 人生経験の豊富な人は人生大学の教授。。。 今世、得難い学習を積み重ねた人なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502260000/「人生の目的は行動です。 法則でも、思想でもありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201610020000/「あなたの人生は、 あなたの思い描いた通りになるのですが、 行動を伴わない想像力は、 何の意味も持たないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601050000/「人生とは日々の実験である。 実験を恐れる者に進歩は無い。 天は汝の実験が世の役に立つものであれば 手を貸すであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201180000/「知恵と愛という大切な安全ではなく、 安全という錯覚を求めている人がほとんどです。 これでは真の進歩はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310090000/「百の理屈は一の行動に劣るのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410180000/「価値を生み出すものは行動である。 汝はまず動かねばならぬ。」(ビシュヌさん)「事を行なう時に、いつから始めようかなどと考えている時は、 すでに遅れをとっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111070000/
2016.12.11
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「自分が幸福であることを知らない。 それを不幸というのです。」「幸せ」は、何かがたくさんあるから幸せ、というものではないと思うのです。「幸せ」は、追いかけるようなものでもないと思うのです。今の自分が置かれている環境や状況の中に、「幸せ」を見出させて頂くことができる。。。小さなことにも大きな「幸せ」を感じることができる。。。そういう豊かでゆとりのある大きな心があること。。。そしてそのような心で生かさせて頂けることが「幸せ」なのだと思うのです。私たちは、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生を与えて頂き、「生かさせて頂いている存在」だと思うのですが、「生かさせて頂いている」ことそのものが、既に「幸せ」なことだと思うのです。それにもかかわらず、その「幸せ」から目を背けたり、その「幸せ」を忘れたり、その「幸せ」に気付くことができずに、不平不満、愚痴、怒り、嫉妬などを生み出し、「自分は不幸だ」と思い込んでしまうことがある私たち。。。それは「不幸」なのではなく、「幸せ」から目を背け、忘れ、気付けないことを理由に、不平不満、愚痴、怒り、嫉妬を生み出すような心のあり方が、「自分を不幸」にさせているだけだと思うのです。「不幸」と感じることがあるのであれば、「幸せ」を見つける努力をさせて頂けば良いと思うのです。「幸せになりたい。。。」と言いながら、「自分は不幸だ」という不幸自慢ばかり。。。それでは「幸せ」になりようがないどころか、自ら「幸せ」を拒み、遠ざけているようなものだと思うのです。 (表現を変えさせて頂くと、不幸であることが幸せ。。。 劇のヒロインやヒーローであることが幸せ。。。 ということでもあると思うのです。)不平不満や愚痴を言う前に、恵まれていることに目を向けて、感謝させて頂くことが大切だと思うのです。怒りや嫉妬を生み出す前に、自分と他者を比べることを止め、「自分らしく」生かさせて頂けば良いと思うのです。自分が恵まれている(幸せである)ことが、分からないこと。。。気付けないこと。。。それが「不幸」なのだと思うのです。裏を変えさせて頂くと、自分が如何に恵まれているか(幸せであるか)を感じ、日々、それに感謝させて頂きながら生かさせて頂けることこそ、「幸せ」なのだと思うのです。意味も無く自分と他者を比べ、「自分らしく」生きることを自ら拒否していること。。。それが「不幸」なのだと思うのです。裏を変えさせて頂くと、他者の目を気にせず、自分を信じ、「自分らしく」生かさせて頂くことこそ、「幸せ」なことなのだと思うのです。「幸せ」は、決して隠されているものではなく、前もって、そこここに散りばめられているのだと思うのです。私たちは、誕生したその時から「幸せ」という環境の中で、生かさせて頂いているということだと思うのです。その「幸せ」という環境の中にいるにもかかわらず、「不幸」を感じるということは、その「不幸」は、自らが(私たちが)生み出している、ということなのだと思うのですそこここに散りばめられている「幸せ」を如何に多く見つけ出させて頂くか。。。「幸せ」を見つけることができる心を育ませて頂くか。。。 「幸せ」は、自分の心のあり方1つで、大きく変わるものだと思うのです。それまで「幸せ」を感じることができなかった境遇についても、心のあり方などがほんの少し変わるだけで、「幸せ」を感じることができるようになったりするものだと思うのです。朝、当たり前のように目覚めることができたこと。。。日々、当たり前のように生かさせて頂いていること。。。実は、とても「幸せ」なことだと思うのです。家族がいる幸せ。。。元気で健康に過ごせる幸せ。。。挨拶する相手がいる幸せ。。。お話をする相手がいる幸せ。。。一緒に食事をする相手がいる幸せ。。。共に仕事をする相手がいる幸せ。。。一緒に生活する相手がいる幸せ。。。一緒に遊ぶ相手がいる幸せ。。。共に喜び、共に悲しむ相手がいる幸せ。。。病を通じて健康の大切さを教えて頂く幸せ。。。晴天や夜空を見上げて美しいと感じる幸せ。。。道端に咲く小さなお花さんを観て幸せを感じる幸せ。。。鳥さんのさえずりや、虫さんの音を聞いて感じる幸せ。。。深呼吸をした時の空気の美味しさに幸せを感じる幸せ。。。などなど日々、それが当たり前になってしまっているからこそ、その当たり前が如何に幸せなことかに気づけなくなってしまっている、ということがたくさんあると思うのです。 (もしかしたら、殆どのことがそうかもしれません。。。)日々、当たり前になっている1つ1つのことも、実は、1つ1つの「幸せ」なのだと思うのです。日々、「当たり前」になっていることの中にも、それが「当たり前」でなくなった時に感じるであろう、「当たり前」であったことの「幸せ」が沢山あると思うのです。「幸せ」は、いつも自分の身近にたくさんある。。。そういうことだと思うのです。そういう身近なところに沢山ある「幸せ」を見い出させて頂くことができるような大きな心、豊かな心を育ませて頂きたいものですね。「幸せ」は、自分が感じるもの故に、自分の心の中にあるものだと思うのです。その自分の心の中にある「幸せ」を自分で見出させて頂くことができたとき、「本当の幸せ」という計り知れない大きな愛で包まれ、心が満たされ、 「生かさせて頂いている」ことに喜びや幸せを感じるのだと思うのです。自分が自分であれること。。。自分が一人ぼっちではなく、「全て=1つ(宇宙即我)」であること。。。心の安らぎや幸せを自分の内にある宇宙に見い出させて頂きたいものですね。私たちは、 「幸せになる為に、この世に生まれてきている。。。」そのことを忘れてはならないと思うのです。----「真の幸せ」。。。それは、私たちがこの世的なものごとの見方で、日頃考えているような「幸せ」とは異なると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂くことを目的として、その修行の場であるこの世に生まれる機会を与えて頂いている私たちにとっての「幸せ」は、魂の修正や成長をさせて頂くことこそ、「幸せ」なのだと思うのです。その「幸せ(魂の修正や成長)」は、人様のお役に立つことをさせて頂いたり、人様にお喜び頂けることをさせて頂くことを通じて、実現させて頂くことができるのだと思うのです。人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることをさせて頂く、といっても、そこに下心があったり、何らかの見返りを求めているような良心に背いているような心や、自分さえ良ければそれで良い、という利己心が見え隠れしていては、魂の修正や成長という「真の幸せ」を感じることはできないと思うのです。 しかしながら、この世的なものごとの見方で、日頃考えているような「幸せ」を享受することはできると思うのです。人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることが、表面的な見せ掛けであり、その実態は、人様の心を弄び、人様を騙すことから得ているこの世的な「幸せ」。。。それはこの世だけで通じる「見せ掛けの幸せ」であり、それを「幸せ」と感じているのは、欲に翻弄され、欲に支配され、過剰な欲によって穢れてしまった私たちの悪しき心なのだと思うのですが、それは、私たちの魂が喜ぶ「真の幸せ」ではないと思うのです。私たちの魂が喜ぶ「真の幸せ」は、私たちの心の中に潜む悪しき心、穢れた心や、それらによって自ら生み出してしまった業を、良心に従って生かさせて頂きながら、反省すべきを素直に反省させて頂くことを通じて、自分の心を磨かせて頂くことにあると思うのです。そのように生かさせて頂くことによって、心が磨かれ、美しい心、良い心が育まれ、「真の幸せ」を感じることができるようになるのだと思うのです。だからこそ、天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に、いつも素直に従って生かさせて頂きたいものですね。源光「自分は生きているのではなく、 「生かされている」という事実に気づきましょう。 本当の幸せは、あなたの心の中にあるのです。 幸せを追いかける人はいつまでも幸せになれず、 今、呼吸をしている幸せに気づく人が、 本当に幸せになれるのです。 まずは、生かされていることに感謝しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401020002/「人は、いつか必ず死ぬということを思い知らなければ、 生きているということを実感することもできないのです。 生きている。。。ただそれだけで幸せなのです。 足ることを知って今日も朗らかに生きていきましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509150000/「幸せが見つからないという人は、 見つけようとする努力を怠っている人なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510160000/「幸せは足下に生える雑草や朝日にきらめく花の露と同様、 無数にあるのです。今日も思い煩うこともなし。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409210000/ 「花は咲く場所を選びません。。 あなたの歩む道にも咲いています。 路肩に咲いている名も無い花に語りかけて下さい。 生きる意味を教えてくれることでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403070000/「誰も見る人もいないのに美しく咲く花。。。 人もそうありたいものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603060000/「人は足下に転がっている幸運は見過ごして、 手の届かないようなものばかり追い求めるものです。 幸運はあなたの足下に今もあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507170000/「不幸になっていく人は、自分の喜びばかりを考えているのです。 人を喜ばせることを考えて生きていきましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207180000/「不安、不自由、不足や不満の種は尽きませんが、 恵まれていることは忘れていませんか? 心が不安や不満でいっぱいになったら、 不平不満、不安,不自由から心を放して、 恵まれていることに感謝しましょう。 そうすれば、あなたを悩ませている問題は、 霧がはれるように少しずつ消えていきます。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312210001/「人は遠くへばかり行こうとするのです。 ただ幸福の迎え方を学べばよいのです。。 幸福はいつも目の前にあり、逃げることはないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408140001/「幸せも不幸も自分が招き入れたものです。 勝手に来たのではありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204060000/「小さな幸福を見つけたら、それをみんなに教えてあげましょう。 そうしたら、もう少し大きな幸福が見つかります。 同じことを繰り返すことですよ。 あなたと家族は最高の幸福に包まれることでしょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203040000/「自分自身を幸福だと思わない人は、 決して幸福になれないのです。 つまり自分は幸運だと思って生きればよいのです。 しかし人から見ると、 「なんで苦労ばかりしているあの人が幸運なんだろう??」 と不思議に思われるはずです。。 しかし数年経てば。。その結果は歴然です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408060001/「もしあなたが、不運な状態にあるのなら、 それはあなたがそうなるように仕向けた結果です。 あなたが幸運に恵まれているのなら、 それもあなたがそうなるように仕向けた結果です。 天は、全てを知っていますから、 自らを律して、良心に恥じない自分であり続けましょう。 開運の鍵はあなたの目の前にあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305020000/「幸せの基準が他人に尊敬されたり、認められたり、 地位や収入を求めたり、異性にもてたり、 快楽を求めたりするところにある人は、 たとえそれが手に入っても心の底から幸せを味わうことはできません。。 幸せの基準は、もっと自分の魂が喜ぶ、 心豊かなところにもちましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407230001/「愚者の楽園は、快楽に溢れ魅力的ですが、 誘われても決して入り込んではいけません。 本当の楽園は、身を律した世界の中にあるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601170000/「偽物の幸福は快楽を与え、醜悪と高慢を供えますが、 本物の幸福は歓喜を与えて、智慧と慈悲を具えるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206110000/「不平不満ばかり言う人や、人のあら探しが好きな人と一緒にいると、 自分もそういうレベルの人になって、望みもしない不幸を背負うことになりますから、 こういう人とは距離を置くことですよ。 幸福そうな顔をした人や、成長し人生を楽しむことに 関心を抱いている人に囲まれているようにすれば、 自然に幸せと、生き甲斐が手に入るのです。 幸せと、生き甲斐を手に入れた人は、不平不満ばかり言う人、人のあら探しが好きな人に 自分の経験から獲得した、「幸せになる法則」を話してあげてください。 自分が出来て初めて人の心を救うことが出来るのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402270000/
2016.12.10
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「過去の記憶は 現在の自分に喜びを与えるときにのみ、 思い出せばよいのです。 その他は全部、封印してしまうことですよ。 使うときが来る日まで。」「過去の記憶が喜びを与えるときにのみ、 過去について思いを馳せてください。 反省の済んだ過去をぶり返さなくていいのです。」過去の記憶。。。 嬉しかったこと。。。 楽しかったこと。。。 幸せだったこと。。。 感動したこと。。。 苦しかったこと。。。 辛かったこと。。。 悲しかったこと。。。 後悔したこと。。。など色々あると思うのです。過去の記憶は、「今」の自分の心のあり方や感情によって、その取り扱われ方が大きく変わると思うのです。----嬉しかったこと。。。楽しかったこと。。。幸せだったこと。。。感動したこと。。。を思い出し、それを「今」を明るく、元気に、笑顔で生かさせて頂く為の原動力にして、「今」を前向き、積極的、肯定的、楽観的に生かさせて頂くことはとても素敵だと思うのです。「今」の自分が嬉しくなったり、楽しくなったり、幸せになったりするような過去の記憶を思い出すことは、「今」の自分を明るく元気に、笑顔にさせるばかりではなく、心を若く保たせて頂くことにもなると思うのです。「今」や「未来」の自分を明るく、元気に、笑顔にさせるような思い出は、どんどん思い出させて頂いて、「今」や「未来」が笑顔一杯で楽しく、幸せになるように過ごさせて頂けば良いと思うのです。----苦しかったこと。。。辛かったこと。。。悲しかったこと。。。後悔したこと。。。を思い出し、それにフォーカスしてしまうと、今を生かさせて頂く為のエネルギーを、過去の思い出に吸い取られてしまい、「今」を暗く、陰鬱に、顔を俯けさせ、「今」を後向き、消極的、否定的、悲観的に過ごすようになってしまうと思うのです。「今」の自分が苦しくなったり、辛くなったり、悲しくなったりするような過去の記憶を思い出すことは、「今」の自分を苦しめ、辛い思いをさせ、悲しませるばかりではなく、心の老いを齎すことにもなると思うのです。過去のことは過去のこと。。。「今」や「未来」の自分を暗く、陰鬱に、顔を俯けさせるような思い出は、わざわざ思い出す必要はないと思うのです。「過去」の辛く苦しい思い出を、「今」の自分の心の中で再燃させることは、「過去」の辛く苦しい思い出に、「今」再燃させた辛く苦しい思いを上塗りするようなものだと思うのです。 (もともとは「1」だった辛く苦しい思い出を、 思い出しては、暗く、陰鬱に、顔を俯ける度に 「2」や「3」と、幾重にも積んでしまう、 ということになると思うのです。) 更には、与えて頂いたばかりの真っ新な「今」というキャンバスや、これから与えて頂くであろう真っ新な「未来」というキャンバスをも、「過去」の辛く苦しい思い出で塗り潰してしまう、ということになると思うのです。「過去」の経験や思い出がどのようなものであろうと、「今」や「未来」という真っ新なキャンバスを、「過去」の辛く苦しい思い出で塗り潰す必要はないと思うのです。裏を変えさせて頂くと、「過去」の辛く苦しい思い出を真っ新にして、(リセットして)笑顔一杯の素晴らしい思い出を育ませて頂けるような新しい人生を自ら描かせて頂く為に、真っ新なキャンバスを与え続けて頂いている、ということでもあると思うのです。----時に、「過去」の自分と「今」の自分を比較することがあると思うのです。「過去に比べると、今の方がずっと幸せ♬」という方もいれば。。。「今よりも、過去の方がずっと幸せだった。。。 どうしてこんな風になったんだろう。。。」という方も。。。両者共、過去の記憶は色々あると思うのです。過去の記憶も、今も、自分の心のあり方次第で、大きく変わると思うのです。「過去」がどのような「過去」であろうと、その「過去」のお陰様あっての「今」の自分であることに違いはないと思うのです。それ故に、どのような過去の記憶をも自分の人生というキャンバスを描く大切な思い出。。。と受け留めることができるような大きく豊かな心を育ませて頂くと、どのような過去の記憶も「宝物」になると思うのです。自分の過去を「宝物」にしているからこそ、「今」が「過去」より幸せなのだと思うのです。反対に、自分の人生というキャンバスに描かれた過去の記憶の内、自分に都合の良いものだけを「宝物」とし、自分に不都合なものは「ごみ」としてしまうことがあると思うのです。どのような過去の記憶をも、「今」の自分を形作っている一部であるにもかかわらず、それを「ごみ」としてしまうということは、自分の一部を「ごみ」と言っているようなものだと思うのです。自分の過去のみならず、自分自身をも「ごみ」にしているからこそ、「今」が「過去」よりも不幸なのだと思うのです。「今」と「過去」の自分を比べて、自分自身を「ごみ」にしてしまうような過去の記憶は、わざわざ思い出す必要はないと思うのです。「今」と「過去」の自分を比べてしまうのは、「今」の自分が満たされていないからだと思うのです。「今」が満たされている人は、「過去」よりも「未来」に思いを馳せると思うのです。----時の流れが、辛く苦しい過去の記憶を洗い流してくれる。。。辛く苦しい過去の見方を変えてくれる。。。そういうことがあると思うのです。辛く苦しい過去の記憶の元になった辛く苦しい過去の経験が、時が流れた今になって、 「あの経験があったからこそ、 今の自分があるんだなぁ。。。 あの時は、辛く苦しかったけど、 それが自分の人生の大きな糧に なっていたんだなぁ。。。 辛く苦しいことだったから、 思い出す度にもっともっと辛く苦しくなった。。。 だから思い出すことも止めた。。。 でも、あの辛く苦しい経験のお陰様と 思えるようになった今は、 思い出しても辛くも苦しくもない。。。 今になって見れば、あの時の自分に、 なぜあのような経験が必要だったのかが、 何となく分かるような気がする。。。 あの経験を与えて頂いたことは、 本当はとても有り難いことだったんだなぁ。。。 随分長い時間がかかってしまったけど、 辛く苦しい思い出が、良い思い出になるよう、 時が解決してくれたこと、そしてあの経験に、 今は心から感謝しています。」という感じで、辛く苦しい過去の記憶をも、自分の人生を構成する良き思い出の1つ、として受け入れることができるような時が訪れることもあると思うのです。時が解決してくれるであろう辛く苦しい記憶は、その時が来るまでは、わざわざ思い出すようなことはせず、そっと記憶の片隅にしまって封印させて頂けば良いと思うのです。封印したつもりでも、始めの内は、直ぐに思い出してしまうこともあると思うのです。そのような時は、それを思い出すことができないくらいに、、それを考えることができないくらいに、他のことに打ち込ませて頂けば良いと思うのです。そして、次から次へとやってくる「今」や「未来」という真っ新なキャンバスを、如何に、前向きに、積極的に、肯定的に、楽観的に描くか。。。明るく、元気に、笑顔で、楽しく生かさせて頂くか。。。に、自分の想念や思考、エネルギーを注がせて頂きながら、「今」この瞬間を生かさせて頂きたいものですね。源光「明日を生き抜くために必要なものだけを残して、 あらゆる過去を清算してください。 未来は、あなたの思いのままです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405030000/ 「過去は過ぎ去った時間です。 未来には無限の可能性があります。 未来を開くのは自分です。 それを知っているつもりでも、過去にとらわれ、 未来を限定して考えている人も多いのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311230000/「生きていれば、どうにもならないことにも遭遇する。 汝は、それを解決しようと考えるよりも、 忘れ去ることが幸福に繋がる。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201070000/「過去の体験を「宝物」にするも、「ごみ」にするも 自分自身の「心」次第ですね。 みんな悩んで大きくなっていくのです。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209170000/「過ぎ去った過去にとらわれず、現在をいかによくするか。 今を生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501160000/「あなたが過去の間違いを悔いてばかりいたり、 未来のことを心配ばかりしていると、 この二つは合体して、あなたから活力、洞察力、健康、 そして心の平安を奪うウイルスに変身してしまうのです。 過去は過去。。。過ぎ去ったことです。 未来は、あなたが笑顔を忘れない限り、 絶対に今よりも良くなるのですから、心配しなくていいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412220000/「失業、失恋、いじめや哀しみ、辛かったことなど 過去を振り返る作業はやめて、 これからの行動に対してエネルギーを注ぎましょう。 過去に束縛されていると、 また別れや哀しみと出逢い、辛い経験を繰り返すからです。 未来には幸せの出逢いが待っているのですから、 過去を忘れて明るく笑顔で過ごすことですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401080002/ 「遭遇した苦難の最もよい面に目を向ける習慣を身に付けましょう。 実は、失敗のようで成功。。苦難のようで、長い目でみるとラッキー。。 世の中の仕組みはこういうことなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409210001/「辛く悲しい時には、無理に紛らそうとせず、 自然に気持が落ち着くまで、思い切り悲しんだ方がいいのです。 あなたよりもっと辛く悲しい時代を乗り越えて、 今を明るく元気に生きている人もいますよ。 思い切り悲しんだ後に、あなたも大いなる光に到達してくださいね。 真実の光に。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312020000/ 「大いなる喜びに、大いなる悲しみが先立つのですから、 どんなに辛くとも、大いなる悲しみを乗り越えなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206150000/「禍福は、コインの裏表ですよ。 苦難が大きければ大きいほど、大きな幸せが隠れているのですから、 哀しまないことです。笑顔でコインをひっくり返しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310110000/「苦しみを恐れると、恐れた分だけ、苦しみが増えるのです。 悲しみを恐れると、恐れた分だけ、哀しみが増えるのです。 消えていくものを恐れる必要はありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207150000/「逆境の時に前向きな言葉を話す。 辛く悲しい時に笑うことは難しいのですが、それでもそうしなければなりません。 笑よく業を制す。からです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203150000/
2016.12.09
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「生きていく上で最も大切なこと。。。 それは自分は恥をかいても、 人生で触れ合う誰にも 恥ずかしい思いをさせないことです。」【恥ずかしい思いをさせられた立場にある時】他者によって、自分が恥ずかしい思いをさせられる。。。とても嫌なことだと思うのです。嫌な感情と同時に、自分に恥ずかしい思いをさせたその他者について、 「こういう人と友人・知人と思われることこそ恥ずかしい。。。 この人とは距離を置いて、疎遠になろう。。。」 「この人は、信用・信頼できない。。。許せない。。。 しかし、怒る価値もない。。。絶交しよう。。。」などのように感じてしまうと思うのです。時に、 「恥ずかしい思いをさせられたから、 恥ずかしい思いをさせてやる!」などと思い、仕返しをしたくなることもあるものですが、自分がされて嫌だったことは、例え、仕返しであったとしても、しない方が良いと思うのです。なぜなら、因果応報の法則が働くからです。自分が嫌がることをされたから、人様が嫌がることをする。。。人様が嫌がることをすれば、自分が嫌がることをされることに。。。いたちごっこの様なこの因果応報から解放される為には、例え、自分が嫌がることをされたとしても、否、自分が嫌がるようなことをされたからこそ、人様の気持ちを良く考えて、人様が嫌がるようなことはしない、ようにさせて頂くことにあると思うのです。自分がされて嫌だったことは、それを教訓にして、人様にはしない。。。自分がされて嬉しかったことは、相手に押し付けたり、無理強いすることなく、ただただお喜び頂けたらという気持ちで、人様にもさせて頂く。。。人様と接するときは、そういう心持ちを大切にさせて頂きたいものですね。----【恥ずかしい思いをさせた立場にある時】例え、悪気がなかったとしても、冗談のつもりであったとしても、その相手が、 「恥ずかしい思いをした」と感じてしまったのであれば、人様に恥ずかしい思いをさせた、ことに違いはないと思うのです。その代償は大きいと思うのです。 相手の信用、信頼を失う。。。 他者の信用、信頼を失う。。。 相手にされず、疎遠になる。。。 人脈を失う。。。 相手からの怒りや恨みを買う。。。 復讐、報復、仕返しをされる。。。など色々あると思うのです。 (Bさんに恥ずかしい思いをさせているAさん。。。 その様子を見ていた第三者は、 「Aさんは、人様に恥をかかせる人なんだなぁ。。。 かかわると、自分も恥をかかされるかもしれない。。。 Aさんには自分のことを話すのは止めよう。。。 自分の友人知人にも迷惑が及ぶかもしれないから、 Aさんに人様のことを聞かれても何も言わないようにしよう。」 などのように思い、Aさんを敬遠してしまうと思うのです。)その相手が、気心知れた人様であろうと、誰であろうと、 話題にされたくないこと。。。 触れられたくないこと。。。 他人に話されたくないこと。。。 公にされたくないこと。。。が多かれ少なかれあると思うのです。 (自分にもそういうことがあると思うのです。)そのようなことを、本人を目の前にして、第三者、他者の前で話題にし、触れてしまえば、その場で恥ずかしい思いをさせることに。。。そのようなことを、本人のいないところで、第三者、他者に話し、公にすれば、その話が巡り巡って、いつか本人の耳に入り、恥ずかしい思いをさせ、傷つき、苦しませることに。。。「人様に恥ずかしい思いをさせる」とは、そういう人様の立場になって考えることができない「人様を思い遣る心の欠如」にあると思うのです。人様に恥ずかしい思いをさせることは、人様に恥ずかしい思いをさせてしまう自分を自ら露呈しているが故に、結局のところ、その代償を背負うと共に自分が恥ずかしい思いをすることになると思うのです。親しき仲にも礼儀あり。。。親しき仲だからこそ、礼儀を大切に。。。ということだと思うのですが、相手が親しき仲であろうとなかろうと、心ある人間同士故に、礼儀礼節を弁え、相手を思い遣る心をもって接するよう心掛けさせて頂くことが大切だと思うのです。どんなにか心掛けさせて頂いていても、一人一人の価値観や尺度が異なるが故に、時には、人様に恥ずかしい思いをさせてしまったり、人様を傷つけ、苦しめてしまうこともあるものだと思うのです。そのような不完全な私たちだからこそ、 人様に恥ずかしい思いをさせることのないように。。。 人様を傷つけ、苦しめてしまうことのないように。。。相手を思い遣る愛ある心を育み、礼儀礼節を弁えさせて頂き、自分に恥じることのないように生かさせて頂きたいものですね。源光「最も優れた人脈を持っている人は、 誰にも恥ずかしい思いをさせない人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408170001/「言葉で人を教導するものは、自身もその様に行動せねばならぬ。 自分が出来ないことを、人に教えてはならない。 恥を晒してこそ人は、救われる。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201109260000/「自分の言動に責任を持つことです。 その責任の下に、本当の幸せと喜びが 横たわっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502100000/「世間や社会にではなく、良心に従って 自分に恥ずかしくないように生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160001/「言葉には魂が宿っています。心して話しましょう。 愛も勇気も希望も夢も、全て言葉の中に宿っているのですから、 美しい言葉を話すことですよ。。 邪悪な言葉を慎むことです。邪悪な言葉は不幸を呼ぶのです。 鳥や虫たちの歌声がいつも同じ調子にしか聞こえてこないというのは、 無頓着な人間の粗雑な耳だけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305140001/「言葉が堕落するので、精神が混沌とするのです。 まず、妬み、嫉み、恨み、ツラミ、足ることを知らない欲望、 怒りから発する、汚い罵り言葉を改め、 綺麗な思いやり言葉を話すことから始めるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407090001/ 「天は人間に言葉を与えました。 言葉は、触れ合う人を喜ばせることも、 生きる勇気を与えることも、できますが、 辛い思いをさせることも、哀しませることもできます。 誤解されそうなことは、先に話しておきましょう。 言う必要もなく、相手を不快にさせるだけの事なら、 黙っていましょう。 人の悩みに耳を傾けましょう。。 どのような人とも心と心で言葉を通じ合わせましょう。 辛い時も哀しい時も、愛の人でありましょう。 心温まる言葉を話す人でありましょう。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311040000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311050000/「人間の発する言葉は、そのまま心が表れます。。 相手が平和と幸せのうちに聞けるよう言葉を選び、 話さなければならないのです。 人の心を掴む人は、美しい言葉を話すものなのです。 しかし、人を騙すための、口当たりの良い言葉は、劇薬です。 善を装った悪の砲門は断固、粉砕しなければなりません。 間違った思想家、政治家ほど演説が上手なものなのです。 良心に恥じない「百発百中の砲一門」になりましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201301160000/「人が発する言葉にはそのまま心が表れます。 相手が、平和と幸せのうちに聞けるよう言葉を選び、 話さなければなりません。 重大なことを話す時は、相手と自分を、第三者の目で観て 十分に言葉を選び、何度も練習してから話すようにしましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402180000/「人から笑われようとバカにされようと、 自信を持って堂々としていればいいのです。 あなたが堂々としていると、あなたをバカにして 笑っていた人も恥ずかしくなって、 むしろ尊敬の念を持ってあなたに接してきます。 自分を卑下しているから、人にも軽視されるようになるのです。 あなたの素晴らしさ。天は全てを知っていますよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312040002/ 「自分で選んだ道ならば、 堂々と胸を張って生きていけばよいのです。 他人にとやかく言われる筋合いではありません。 ただ泣き言は止めなさい。見苦しい限りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501010000/
2016.12.08
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「人生に必要なのは、 素晴らしい思い出と精神的な豊かさ。。。 それ以外は、おまけのようなものです。」「人生の宝物は、素晴らしい思い出と 精神的な豊かさと健康です。 お金や財産、名声、権力ではありません。」私たちは「幸せ」になる為に生まれる機会を与えて頂いているのだと思うのです。「幸せ」になる為には、どうすれば良いのか。。。何をすれば良いのか。。。私たちの本質である魂にとっての「幸せ」は、地上という修行の場において魂を磨かせて頂き、心を美しくさせて頂くことにあると思うのです。もともと心が美しければ、修行の必要もないのかもしれませんが、不完全で至らない点のある私たちは、自ら犯した過ちや間違いを反省し、修正させて頂く必要があると思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち故に、自ら犯した過ちや間違いは、自分では気づいていなくても、他者を傷つけたり、苦しめたり、悩ませたりしてしまっていることが多々あると思うのです。その他者の気持ちを知る為に、因果応報の法則で、自分が 他者にしたことを、他者に自分がされることを通じて、反省心を養い、素直に反省させて頂く。。。他者のお役に立つことをさせて頂き、修正させて頂く。。。ことが必要にになるのだと思うのです。それ故に、辛く苦しい試練や苦難を経験させて頂くことがあると思うのです。その時に、「なぜ自分ばかりがこんな目に合うんだ!」と不平不満、愚痴を言い、怒りや嫉妬心を生み、被害妄想を抱くなど、感情に左右されながら生き続けてしまうと、折角与えて頂いた「幸せ」になる為の人生は、不平不満、愚痴、怒りだらけの辛く苦しい不満足な思い出と、被害妄想を頂くような視野が狭く、小さく、乏しい精神性、更に、自らのその心のあり方が招く心身の不健康など、不本意な結果を「自ら」生み出してしまうと思うのです。反対に、 「自分に与えて頂いている試練や苦難は、 自分の反省すべき点を見つける為。。。 反省すべきを素直に反省させて頂く為。。。 過去の過ちや間違いを正させて頂く為。。。 心を磨いて成長させて頂く為。。。 全て自分の為に与えて頂いているんだ! だから、試練や苦難から逃げずに向かい合って、 試練や感謝を与えて頂いていることに感謝させて頂こう。 そして、乗り越えて行こう!」という感じで、 不平不満、愚痴を言わない。。。 怒りや嫉妬心を生まない。。。 被害妄想 を抱かない。。。 自分を欺かず、騙さず、偽らず、裏切らない。。。 感情的になっても、直ぐに冷静さを取り戻せるような平常心を養う。。。 試練や苦難に左右されず、それらが生じている理由を 俯瞰できるような客観性を養う。。。 自分を信じ、誠実に、真面目に、良心に従って生かさせて頂く。。。からこそ、試練や苦難を乗り越えさせて頂くことができるのだと思うのです。試練や苦難を乗り越えさせて頂くことができたからこそ、 「あの試練や苦難があったからこそ、今の自分があるんだ。。。 その試練や苦難があったからこそ、人様の立場になって、 人様を思い遣ることの大切さを学ばせて頂いた。。。 人様のお役に立つことや、人様を喜ば せることが、 自分の心を満たし、自分を幸せにするということを知った。。。 あの時は、辛く苦しかったけど、良心に従って、 頑張って乗り越えようと努力してきて良かった。。。 今になって見れば、掛け替えのない素晴らしい思い出だ。。。 この試練や苦難無くして、今生の人生は語れない。。。 広く大きな視野でものごとを見ることができる 精神的豊かさを得ることができたお陰様で、 感情に左右されず、些細なことが気にならなくなった分、 今を生かさせて頂いていることが楽しくなった。。。 いつも心穏やかに過ごすことができ、身体を、そして自分を 大切にするようになって、心身が健康になった。。。」などのように素直に思うことができるのだと思うのです。お金さんや財産が沢山あれば、多くのことができると思うのですが、お金さんや財産で素晴らしい思い出や精神的豊かさ、心身の健康を買うことはできないと思うのです。 (名声も権力も同じだと思うのです。 それが「かたちあるもの」であろうと、「かたちなきもの」であろうと、 地上だけで通じるようなものは全て同じだと思うのです。)むしろ、お金さんや財産が沢山あることで、 それらに執着し、生きる目的がそれらになってしまう。。。 それらを失ったり、誰かに狙われているのではないか、 などと不安や心配に苛まれてしまう。。。 お金さんや財産以外は信用できなくなってしまう。。。ということがあると思うのです。お金さんや財産に振り回されてしまっては、どんなにかお金さんや財産があっても、生きていることに喜びや幸せを感じられなくなってしまうと思うのです。それでは、素晴らしい思い出も育めず、精神的豊かさどころか、精神を病んで、心身が不健康になってしまうと思うのです。反対 に、お金さんが少なく、できることが少なくても、「今を生かさせて頂いていること」に喜びや幸せを感じる精神的豊かさを育ませて頂けば、例え、平凡な毎日であったとしても、その平凡さが素晴らしい思い出になり、健康な精神状態、身体で日々を過ごさせて頂けることで、心が満たされ、人生を謳歌させて頂くことができると思うのです。そもそも、私たちが地上に生まれる時は、肉体という乗り物だけを与えて頂いて、何も纏わず、何も持たずに生まれて来ていることを考えれば、天に帰還するときも同じようになるのが極自然だと思うのです。お金さんや財産、名声、権力等の地上的なものは当然のこと、肉体さえも持ちかえることができない死。。。何も纏わず、何も持たず。。。私たちの本質の姿である魂(心)だけが、天に帰還させて頂く。。。人生において大切なのは、お金さんや財産、名声、権力、地位、肩書き、名誉などをどれだけ手中に収め、どれだけ多く残すことができるかなどの「結果」にあるのではなく、誕生から死に至るまでの人生の「過程」を、どのような心のあり方で、どのように生きたか、にあると思うのです。私たちの魂(心)が天に帰還させて頂くときに持ち還らせて頂くことができるのは、地上において与えて頂いた様々な経験と、その経験から得られた学び、気付き、そして、その経験に対して抱いた思い出など、心に刻むことができるものだけだと思うのです。素晴らしい思い出を心に刻ませて頂いて、天に帰還させて頂きたいと思うのであれば、修行の場である地上における人生を豊かなものにできるように、「生かさせて頂いていること」に心から感謝させて頂く心。。。「生かさせて頂いていること」に喜びや幸せを感じる心。。。を育ませて頂くことが大切だと思うのです。そう いう心を育まれて頂けば、育ませて頂くほど、 素晴らしい思い出がどんどん築かれる。。。 精神的な豊かさが大きく広がる。。。 心身の健康を維持できる。。。のだと思うのです。裏を変えさせて頂くと、そういう心が育まれていなければ、 素晴らしい思い出が築けない。。。 精神的な豊かさを得られない。。。 心身が不健康になる。。。ということだと思うのです。もし、今の自分が、 素晴らしい思い出が築けない。。。 精神的な豊かさを得られない。。。 心身が不健康。。。なのであれば、「生かさせて頂いていること」に心から感謝させて頂く心。。。「生かさせて頂いていること」に喜びや幸せを感じる心。。。を育ませて頂けるよう、心を磨かせて頂けば、 素晴らしい思い出がどんどん築かれる。。。 精神的な豊かさが大きく広がる。。。 心身の健康を維持できる。。。自分になっていくのだと思うのです。それは、いつ始めても遅い。。。ということはないと思うのです。自分の心のあり方の問題故に、始めたその瞬間から、着々と 素晴らしい思い出がどんどん築かれる。。。 精神的な豊かさが大きく広がる。。。 心身の健康を維持できる。。。自分になっていくのだと思うのです。源光「名誉も、地位も、名声も、権力も、学歴も、 収入、財産の多寡も、肉体も全てはこの世だけの預かり物。。。 この世を去る時に全ては煙となって消滅します。 持って還れるものは心だけです。 心を磨くこと。。 今世、もっとも大切な、あなたの修行です。 この世に出た時よりも美しい心で還ってくること。 それがあなたの最大の目標です。 成功やお金儲けではありません。 太古の昔、人に貧富の差は無く、 お金すら存在せず、人は助け合い、 いたわりあって生きていたのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603170000/「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/ 「生まれる前に決めていた自分のコースを 自分のペースで歩むのが、最高の幸せの道なのですが、 なぜか、人のコースが良いように見えたり、 人のペースが早い様に見えて焦るのが人間です。 人は人。。我は我。。コースはみんな違います。 本来のコースを外れた人生を送って、 名誉や地位や権力を手に入れたり、 学歴や肩書、財産などがあっても一つも面白くない人生を 歩んでいる人もいるのが世の中というものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312220000/「自分は生きているのではなく、 「生かされている」という事実に気づきましょう。 本当の幸せは、あなたの心の中にあるのです。 幸せを追いかける人はいつまでも幸せになれず、 今、呼吸をしている幸せに気づく人が、 本当に幸せになれるのです。 まずは、生かされていることに感謝しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401020002/「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「一生を終えて後に残るのは、 あなたが集めたものではなくて、 あなたが与えたものなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505190000/ 「要は心が満たされればいいのです。 収入や名誉や地位や名声、財産など、どうでもいいことです。 現状がどうであれ、心が虚しいのであれば、 大言壮語していてもやはり虚しい人生です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412120000/「幸せとは、よく笑い、楽しむこと。。 それ以外は、おまけのようなものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312110001/「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「豊かさには、三等あります。。 家の富、身の富、心の富の三等です。 心の富が一等である事は言うまでもありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204170000/「この世の富貴は完全な幻です。。 真実の富貴は天にあります。。 心美しき人は心の大富豪。。 降ろそうと思えば自在に富貴を降ろせます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408050001/「幸せの基準が他人に尊敬されたり、認められたり、 地位や収入を求めたり、異性にもてたり、 快楽を求めたりするところにある人は、 たとえそれが手に入っても心の底から幸せを味わうことはできません。。 幸せの基準は、もっと自分の魂が喜ぶ、心豊かなところにもちましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407230001/「今この瞬間のあなたの想い、そして生き方が、 あなたの明日を形成していくのです。 人生の紆余曲折、悟り間違いがなかったと 断言できる人生を送った人は皆無ですが、 この世を去る、その時。。 「あゝいい人生だった。。思い残すことは無い。。」 と思えるならば、それは最高の人生だったのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501240000/「平凡な人生が、最高の人生です。 虚飾や栄光、贅沢から遠く離れたとことにのみ、 真実があります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201610140000/「心満ち足らぬ人は、分不相応な品や贅沢品を持ちたがるのです。 心満ちた時、人は物に執着しなくなります。 ですから、物に執着しないようにすれば、 心満ち足りるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603010000/「愛するもの、輝くものを持っている人は、 心から幸せを感じて生きています。 物質的高価な物や、名誉や地位や財産、肩書きなど 他人がよいと思うものを持っているから幸せなのではありません。。 あなたは愛するもの、輝くものを持っていますか? まだ手に入れていない人もいますが、 それは、あなたの手の届くところに今もあります。。 そっと手を差し伸べてください。。そして愛おしんでください。。 あなたのために咲いた一輪の花を。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050004/
2016.12.07
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「多くの人は、問題を回避するために より多くの時間とエネルギーを費やしているのです。 解決するためにエネルギーは使うようにしてください。」問題は、自分の魂の修正や成長に繋がる必要なことだからこそ、与えて頂いているものだと思うのです。ただ無暗矢鱈と与えて頂いているものではなく、天の無償の愛による偶然を装った必然で、 その人にとって必要な問題を。。。 その人にとって適切な時期に。。。 その人にとって相応しい形で。。。与えて頂いているのだと思うのです。私たちの魂の修正や成長の為に与えて頂いている問題。。。それはその問題を解決させて頂く為に与えて頂いているもので、決して、回避する為に与えて頂いているものではないと思うのです。それにもかかわらず、私たちは自分勝手な自分基準のものごとの見方で、 都合が良くないこと。。。 やりたくないこと。。。 したくないこと。。。 目を背けたいこと。。。などと感じたことについては、何とかしてその問題を回避しよう。。。逃げよう。。。として弁解したり、問題を無かったことにしよう。。。気付かなかったことにしよう。。。などという思いを抱いてしまうことがあると思うのです。時に、その抱いた思い通りに、 回避することができた。。。 逃げる事ができた。。。 無かったことにすることができた。。。 気づかなかったことにすることができた。。。ということもあると思うのです。しかしながら、その問題を与えて頂いている理由は、自分の魂の修正や成長の為。。。裏を変えさせて頂くと、自分の魂の修正や成長の為に、解決しなければならない必要な問題。。。その問題を解決しない限り、魂の修正や成長に繋がらない。。。その時こそは、 問題を回避することができた! 問題から逃げる事ができた!と思っていても、その問題は、 解決しなければならない問題。。。 乗り越えなければならない問題。。。故に、自ら解決し、乗り越えなければ、何度でも同じような問題を与えて頂く、ということになるだけなのだと思うのです。つまり、与えて頂いている問題は、決して逃げ切れるものではない、のだと思うのです。回避することができた!逃げる事ができた!と喜んでいても、それは単なるぬか喜びに過ぎず、逃げ切れるものではないものから回避する為、逃げる為に、更なる苦悩や苦労をすることになる。。。その苦悩や苦労が無駄であることに気付くまで続く。。。そういうことだと思うのです。同じ労力であれば、問題を回避する為に無駄に浪費するのではなく、問題を解決する為に無駄なく活かした方が、効率的で、前進すると思うのです。決して逃げ切ることができない問題から逃げる為、回避する為に労力を費やしても、決して逃げ切れいないが故に、無駄な労力を増やし続けるだけだと思うのです。問題から目を背け、問題を回避、問題から逃げる為に労力を浪費することは、自分自身を貶めながら、魂の修正すべき点を増やす、ということになると思うのです。決して逃げ切ることができない問題なのであれば、逃げずにその問題と向き合う。。。そして、問題を解決する為に労力を活かす。。。例え、直ぐに解決できなかったとしても、諦めることなく、解決しようという前向き、積極的、肯定的な姿勢が、問題解決への道を前進させていると思うのです。そのような姿勢で問題を解決することができた時は、その解決の為に活かし続けた労力を超える喜びに包まれるだけでなく、自ら解決したという「経験」と「自信」というエネルギーが自分を包むと思うのです。その「自信」というエネルギーは、新たな問題を解決する為の原動力にもなっていくのだと思うのです。問題と向き合い、問題を解決する為に労力を活かすことは、自分自身を向上させながら、魂の修正や成長を促す、ということなのだと思うのです。問題を与えて頂いた時は「0」。。。労力「1」をどのように使うか。。。問題を回避する為に労力を浪費すれば「-1」に。。。問題を解決する為に労力を活かせば「+1」に。。。同じ労力「1」の使い方でも、その使い方が異なると、その結果「2」の差を生み出していると思うのです。それを繰り返していけば、その差はどんどん大きくなってしまうと思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場で生かさせて頂いている私たち。。。修行の場で与えて頂いている問題は、私たちの魂の修行の為に必要な問題故に、回避するのではなく、解決することに意識を向けさせて頂きたいものですね。そうしなければ、労力を無駄にしてしまうだけでなく、人生そのものを無駄にしてしまいかねないと思うのです。人生を有意義にさせて頂く為には、問題を与えて頂けることに感謝させて頂き、与えて頂いた問題と向き合い、問題を解決する為の努力を楽しませて頂くくらいの気持ちで過ごさせて頂くことが大切なのだと思うのです。問題という扉を開ける(解決させる)鍵は、その問題に対する自分の心のあり方にあるのだと思うのです。源光「苦しみや哀しみは、逃げたりせず、 同化することで和らぎ、 師とすることで、 真実の世界、輝く世界への道が 眼前に開けるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201608120000/「人生は、ハプニングが起きたときに 面白さが出るか、投げ出すか、自暴自棄になるかで 全く違う結果になるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605160000/「同じ現象でも 挑めばチャンス。。。 逃げればピンチ。。。 ただそれだけのことです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505300000/「過去を振り返りましょう。 後悔するためではありませんよ。 これからくよくよしないためです。 「あのときはなんてばかなことをしたんだ」と思い出しましょう。 そして「あのときはこうすればよかったんだ」という解決策を考えましょう。 よりよい言葉、よりよい行動、よりよい考え方を、自分で発見するのです。 次からそれを具体的に実行しましょう。 頭の中だけで思うのではなく、必ず実行することが大切です。 こうして以前、失敗したことも、成功するようになります。 全てが好転していきます。 欠点が長所となって輝き、理想的な人間へと修正されて 素晴らしい人生となって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312270000/「世の中の役にたたないことを いくら努力しても意味がありません。 ただ努力だけという人は、 エネルギーを無駄にしているにすぎないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412210000/「一生懸命やりますとか、頑張りますでは、 何をやってもうまくいかないのです。 この仕事や勉強は何のためにしているのか。 この仕事は、勉強はどういう結果に結びつくのか。 それを考えながら、具体的に行動しなければいけないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409180000/「苦難に直面したら嫌々耐えるのではなく、 現状を受け入れて、前向きに耐えるのです。 人は誰でも、逆転のエネルギーが内在しているのですが、 これを使わずに嘆いてばかり。。。 もったいないことですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312240000/
2016.12.06
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「真実は体験するもので、 教わるものではないのです。」「知識は、経験を超えるものではないのです。 人生経験の深さは何物にも代え難いものです。」「まだ見ぬ世界。。。 人が生涯に知り得ることはほんのわずか。。。 百聞は一見にしかず。。。 まずは見ることから始めてください。」「あなたには自分でも気付かない 無限の可能性があります。 視野を広げて、さらに大きな体験をしてください。」人様から何かを教えて頂けることは、とても有り難いことだと思うのです。教えて頂いた側は、教えて頂いたことについて、 「自分は良く知っている。」などと思い込んでしまうものですが、それはただ耳で聞いたことを【覚えている】だけで、その教えて頂いたことそのもの、つまりその「真実」を【知っている】、ということにはならないと思うのです。教えて頂いた何かの真実を知る為には、その何かを自ら体験させて頂く為の、何らかの行動を起こさなければならないと思うのです。自ら行動に起こし、自ら体験させて頂く。それは、その「何か」に心身が直接触れること、でもあると思うのです。自分で「何か」を体験させて頂くと、 「教えて頂いたことは、こういうことだったのか。」 「教えて下さった人は、〇〇と仰られていたけど、 自分は、◎◎のように感じるなぁ~。」 「教えて頂いた通りだったなぁ。 でも、実際に自分の目で見たり、肌で触れてみると、 教わった時の想像をはるかに超えていたし、 教わったこと以上に色々感じるものがあるなぁ~。」 「教わった時も、興味深いことだったから感動したけど、 (教わった時は、特に興味もなかったけど、) 自分で体験すると、何倍も心に響くものがあるなぁ~。」などと感じることがあると思うのです。自分で体験させて頂くと、ただ教わるときよりも何倍も得られるものが多いと思うのです。教わることは、教えて下さる方が感じたことや、教えて下さる方の主観、考え方なども添えられているものですが、必ずしも、それらが自分の感じることや主観、考え方と一致するとは限らないと思うのです。だからこそ、教えて頂いたことは鵜呑みにせず、単なる「序章」的に捉えさせて頂き、 「序章よりも先を知りたい!」 「序章の中身をもっと知りたい!」と感じた時は、自ら行動を起こさせて頂き、自分の心身で体験させて頂くことが大切だと思うのです。自分で体験させて頂くことを通じて、 自分の心で何かを感じる。。。 自分の肌で何かを感じる。。。 自分の心の中で何かが躍る。。。 感動を覚える。。。ことこそ、その「何か」の 真実を知る。。。 真実に触れる。。。ということなのだと思うのです。百聞は一見に如かず。聞いた千遍より見た一遍。論より証拠。と同じで、同じことを何十回、何百回も教わるよりも、自分の目や肌で一回体験させて頂いた方が確かで、自分の感性で自分だけが感じられることも多々あると思うのです。体験は、学校の授業や教科書、様々な書籍などでは決して得られるものではないと思うのです。学校の授業や教科書、書籍などを通じて学ぶこともとても素敵なことだと思うのですが、自分で体験することに勝るものではないと思うのです。 (経験を伴わずに、知識や理論ばかりで先走り、 「知ったつもり」「分かったつもり」になるのは、 ただの頭でっかちでしかないと思うのです。)体験こそ、人生の宝物だと思うのです。ただ、その体験を「宝物」とするか、「ごみ」としてしまうかは、私たちの心のあり方次第なのだと思うのです。折角、体験させて頂いたことは、自分の人生の一部故に、「宝物」としてその後の自分の人生に活かさせて頂きたいものですね。良くも良くなくも、自らの体験は、自分の心に刻まれ、今生の記憶として持ちかえらせて頂くことができるものなのだと思うのです。消極的になって、体験することから自分を遠ざけてしまうと、「後悔」が心に刻まれてしまうと思うのです。そのようなことになって、自分で自分を苦しめることのないように、 本当にやりたいこと。。。 興味のあること。。。 探究したいこと。。。 頑張りたいこと。。。などは、良心に従って、他者に迷惑をかけないように気を付けながら、積極的に体験させて頂いた方が良いと思うのです。体験そのものに大小はないと思うのです。 (もし、体験そのものに大小があるとすれば、 それは各々の価値基準に当てはめているに 過ぎないと思うのです。) あるのは、体験するか。。。しないか。。。体験する為の行動を起こすか。。。起こさないか。。。だと思うのです。この差は、心に刻まれるものが多いか、少ないか。。。になると思うのです。そもそも、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場を与えて頂いている私たち。。。裏を変えさせて頂くと、地上でしか修行という「体験」ができない、ということでもあると思うのです。全てを「体験」したくても、決して「体験し尽くす」ことができない。。。されど、無限の可能性を秘めている。。。それが「体験」だと思うのです。地上でしかできない「体験」だからこそ、「体験」させて頂く為の行動を積極的に起こさせて頂きたいものですね。「後悔」という体験を心に刻む頻度が、少しでも少なくなるように。。。源光「他人から何度聞いたところで、 実際に自分の目で見る等 体験して事実を知るという方法には及ばないのです。 人生経験の豊富な人は人生大学の教授。。。 今世、得難い学習を積み重ねた人なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502260000/「人生の目的は行動です。 法則でも、思想でもありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201610020000/「あなたの人生は、 あなたの思い描いた通りになるのですが、 行動を伴わない想像力は、 何の意味も持たないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601050000/「人生とは日々の実験である。 実験を恐れる者に進歩は無い。 天は汝の実験が世の役に立つものであれば 手を貸すであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201180000/「知恵と愛という大切な安全ではなく、 安全という錯覚を求めている人がほとんどです。 これでは真の進歩はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310090000/「百の理屈は一の行動に劣るのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410180000/「価値を生み出すものは行動である。 汝はまず動かねばならぬ。」(ビシュヌさん)「事を行なう時に、いつから始めようかなどと考えている時は、 すでに遅れをとっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111070000/「人間のできることは、小さなことかも知れません。 でも、小さな一歩を踏み出さない限り、次の二歩目、三歩目はなく、 大いなる成長も改革もありえないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305080000/「逆境が人を育てます。 真に知的な人は、他の人が知識として有しているだけのことを、 身体で体得しているのです。 日々使える知識。。。。。これが活きた学問です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403250000/「汗と涙のなかから知恵を生みだしただけでは、まだまだの人です。 笑顔で実践しなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403100001/「人間の美徳はすべてその実践と経験によって身に付けるものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409110003/「知恵と愛という大切な安全ではなく、 安全という錯覚を求めている人がほとんどです。 これでは真の進歩はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310090000/「聴くことを多く。。 話すことを少なく。。 実行に力を注ぐのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407180001/「人間が、目で見て感じることができるものは、真実の10%程度に過ぎません。。 氷山と同じでものごとの90%は、水面下に。。 経験を積み、試練を乗り越え、愛の心を知るならば、 縄文時代に生きた人々の心のレベルに戻って、心眼が開き、 ものごとの真実を観ることができるようになります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407140000/
2016.12.05
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「死は人生の終末ではないのです。。。 生涯の完成。。。 そして次への基礎。。。」「人は、生き方を学んでいるつもりで 最初からずっと、死に方を学んでいるのです。 いかに満足して死ねるか? 人類永遠のテーマです。」地上における「死」。。。「死」をお迎えしたから全てが終わり。。。ということではないと思うのです。何かの「終わり」は、何かの「始まり」でもあるのと同じように、「死」という地上における人生の終わりは、今生という新しい人生経験をさせて頂いた自分の魂の天(心の故郷)への帰還であり、次なる輪廻転生への「始まり」だと思うのです。「死」をお迎えして終わるのは、今生という人生を自分の魂と共に過ごしてくれた「肉体」や「地上という修行の場」での修業が終わるだけで、自分の魂は、新たな「始まり」に向けて存在し続けることを忘れてはならないと思うのです。魂は永遠であり、生き通しの命。。。私たちの本質は、魂だと思うのです。魂があるからこそ、地上という修行の場で「自分」という意識と肉体という生命をもって、人生を過ごさせて頂くことができるのだと思うのです。そして、生まれ変わる度に培わせて頂いている自分の能力や特技などの様々な糧を、今生に活かさせて頂くことができ、更に様々な経験を積ませて頂きながら、魂の修正や成長をさせて頂く機会を与えて頂いている、ということでもあると思うのです。裏を返させて頂くと、生き通しの命である魂が存在しないということは、「自分」という意識もなければ、肉体という生命をもって、地上という修行の場で生かさせて頂くこともできない。。。様々な経験を積ませて頂くこともできない。。。特技や能力、心を磨くこともできない。。。ということになってしまうと思うのです。しかしながら、そのようにならないのが、私たちの本質である生き通しの命。。。「生き通し」の字の如く、永遠に存在し続け、生き続ける。。。修行の場である地上において、生命の本体である肉体が死しても、魂は、肉体という乗り物を捨てるだけで、存在し続け、生き続ける。。。それが私たちの魂なのだと思うのです。それにもかかわらず、修行の場である地上で生かさせて頂いている私たちは、生き通しの命である「魂」が、私たちの本質であることを忘れ、 「死んでしまえばそれで終わり。 自分はいなくなる。。。 記憶もなくなる。。。 だから、人のことなんか考えずに、 自分の好き放題、やりたい放題に、 楽しく生きた方がいい。 それじゃなきゃ損をする。」などと考えてしまうことがあるものですが、死んでも終わらないことに気付くのが、死んだ後では「後の祭り」で、後悔してもしきれないと思うのです。 「死ねば終わり。。。 だから、人のことなんか考えずに、 自分の好き放題、やりたい放題に、 楽しく生きた方がいい。 それじゃなきゃ損をする。」自分一人で生かさせて頂いているわけではないにもかかわらず、否、むしろ、色々な人様のお世話になり、自分を取り巻く多くの人様のお陰様で生かさせて頂いているにもかかわらず、こういう「自分さえ良ければそれで良い」という我儘で自分勝手、利己的な心のあり方や生き方をしているからこそ、自分で自分を貶め、深い業を積んでしまうのだと思うのです。「死ねば終わり。。。」確かに何かが終わると思うのです。それは今生という「人生」の 「魂の修正や成長をさせて頂く為の とても貴重な修行の機会が終わる」ということだと思うのです。 (見方を変えさせて頂くと、この世の死後は、 この世の人生を終えた時の魂のレベルがずっと続く。。。 ということでもあると思うのです。 深い業を積んだ状態で死を迎えれば、 生き通しの命である「魂」は、深い業を積んだまま、 存在し続ける。。。生き続ける。。。 ということになるのだと思うのです。 そして、輪廻転生の機会を与えて頂き、 来世があるとすれば、その深い業を積んだままの 厳しい人生のスタートを迎えるのだと思うのです。)魂の修正や成長をさせて頂く為の修行は、この世という修行の場でしかできないことを考えれば、利己心や欲に翻弄されて、やりたい放題、好き放題をしていては、天に帰還してから(又は、天に帰還することができずに)、大後悔してしまうと思うのです。大後悔することのないようにする為には、地上という修行の場に生まれる時に天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に素直に従って、過去生から培ってきた自分の特技や能力を、人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることに、正しく活かさせて頂きながら、生かさせて頂くことが大事になるのだと思うのです。そういう心のあり方、生き方こそ、自分の魂の喜ぶ生き方なのだと思うのです。この世での生を終えて、天に帰還した時に 「良い人生だったなぁ♪」と感じることができるようになる為には、それこそ 「良心の声に従い放題♪」 「天が地上の私たちに無償の愛を 与え続けて下さるのと同じように生き放題♪」 「人様のお役に立つことをし放題♪」 「人様にお喜び頂けることをやりたい放題♪」 「人様を思い遣る心、利他心で生き放題♪」の姿勢で生かさせて頂けば良いのだと思うのです。そういう生き方をさせて頂くことによって心が磨かれ、生き通しの命である「魂」の修正や成長をさせて頂くことができ、その時の自分の心のあり方、魂のあり方に相応しい魂の世界に帰還させて頂けるのだと思うのです。従前(地上に誕生する前)よりも、少しでも美しく、凛とした、華々しい世界に帰還させて頂くことができるよう、良心に従って、心を磨かせて頂くこと。。。それが地上に誕生する前に、自分に約束してきた人生の目的であり、地上で修行をさせて頂くことの醍醐味なのだと思うのです。死は、 今生という人生の終わり。。。 天への帰還。。。 今生という修行の仕上がり(完成)、結果。。。 来世の出発の基礎、原因。。。ということになると思うのです。地上に誕生したその瞬間から死に向かっている私たち。。。その私たちの本質である魂は、 今生という人生を満足して終わらせることができるように。。。 従前よりも魂を向上させて天に帰還できるように。。。 来世に引き継がれ、来世の出発の基礎となる 今生の終わり・結果をより良く終えることができるように。。。という想いで肉体という乗り物に乗っているのだと思うのです。より良い死をお迎えさせて頂くことができるよう、いつ訪れるとも分からない死に向かって、生かさせて頂いている。。。いつ訪れるか分からない死だからこそ、自分を欺かず、偽らず、騙さず、裏切らずに、誠実に、真面目に生かさせて頂かなければ、今生という貴重な機会を無駄にしてしまうと思うのです。様々なことを経験・体験させて頂くことを通じて、学び、気付き、反省し、修正、成長させて頂く為に与えて頂いているのが、「今生という人生」であり、「生涯という期間」なのだと思うのです。それ故に、日々、死に向かって生かさせて頂いている私たちは、 「死まで如何に良く生きるか。。。」 「如何に良く死ねるか。。。」を意識させて頂きながら、 「何が正しいかその全てを知っている良心」に従って生かさせて頂くことが、とても大切なのだと思うのです。----「今日で自分の人生が終わる。。。」と分かった時、 その時にすべきことする。。。 その時にできることをする。。。のか。。。 他者への迷惑を省みず、 自分の欲を満たすことをする。。。 自分のやりたい放題にする。。。のか。。。それが自分の本質である魂のレベルや真の姿を知る物差しになると思うのです。私たちの本質が、魂であることを考えれば、修行をさせて頂く為の人生という機会は、泡沫の夢のようなものだと思うのです。その泡沫の夢から覚めるのが死。。。夢の中の自分(地上で修行をしている自分)が、良心に従って、自分の魂が喜ぶ生き方をさせて頂いていれば、例え、夢の世界では辛く苦しいことが多かったとしても、泡沫の夢から覚めた時、磨かれた自分の魂に相応しい、美しき世界へ導いて頂けるのだと思うのです。反対に、夢の中の自分(地上で修行をしている自分)が、良心に背き、自分の魂が不本意に感じる生き方をすれば、例え、夢の世界で、自分基準による幸福なことが多かったとしても、泡沫の夢から覚めた時、自ら曇らせた自分の魂に相応しい世界へ落ちていくのだお思うのです。そのような違いが生じるのは、夢の世界的価値観(地上的価値観)による幸福と、魂が感じる幸福の何れを選択しているか、なのだと思うのです。正しい選択をさせて下さるのは「良心」だと思うのです。夢の世界的価値観(地上的価値観)に翻弄されることなく、良心に従い、自分の魂が喜び、幸福を感じる生き方をさせて頂く。。。それが、生涯を満足させ、より良く死をお迎えさせて頂くことができる心のあり方であり、生き方なのだと思うのです。源光「死は全ての人に平等に訪れます。 いかにして死ぬかということは、 いかにして生きるのかと同意語です。(一部抜粋)」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201606050000/「生まれ変わるのは、地上に生ある時です。 還って来てからでは遅いのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209260000/ 「死とともに全ては無となるのですが残るものがあります。 それは心。。。 邪悪な心で生きた人は、暗く寂しく辛く哀しい 殺伐とした世界に住むことになります。 心の美しさ。。。磨いていますか? 死と生はコインの裏表。。。 今世の生き方次第で帰る場所が決まります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601290000/「人は、いつか必ず死ぬのです。 死を恐れるからこそ、人は生きているということを 実感することができるわけです。 死ねば終わり。。。 だから生きている間はやりたい放題でいい。。。 これが大間違いですよ。 業はしっかりと次の生で償うことになっているのです。。。 誰も見ていないからこそ、良心に従って 今を明るく人を喜ばせて生きなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509210000/「人は生き通しです。 身体は船。。心が船頭さんです。 船は朽ちても、船頭さんは下船して、 次の船に乗り換えるわけです。 悟り間違いは、来世の業となるのですから 今を悔いなく正しく生きることですよ。」 (ラクシュミーさん)「肉体は船、魂が船頭さんです。 人も動物も寿命が尽きれば、船を降りることになります。 船には耐用年数があるので仕方のないこと。 新しい船に乗り換えるまで、しばし休憩です。 人も動物も心の存在ですから心そのままの場所に還ります。 懐かしい心の故郷へ。。。魂の故郷へ。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201611070000/「今この瞬間のあなたの想い、そして生き方が、 あなたの明日を形成していくのです。 人生の紆余曲折、悟り間違いがなかったと 断言できる人生を送った人は皆無ですが、 この世を去る、その時。。 「あゝいい人生だった。。思い残すことは無い。。」 と思えるならば、それは最高の人生だったのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501240000/「物事は、途中色々、紆余曲折があったとしても 最後を立派にしめくくることを心掛けてください。 人生も同じことです。 最期の瞬間に後悔するようならば雲の迎えはありません。 眠れる魂を起こしてください。 あなたにはやるべきことがまだ残っているのですから。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502090000/「今日が人生最期の日と思って生きてみましょう。 何か新しい発見があるはずです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203290000/
2016.12.04
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「教えることはないのです。 学びに来たのですから。。。 常に学び。。。真実に近づくことです。。。」その不完全さ故。。。その至らない点があるが故。。。その正すべき過ちや間違いがあるが故。。。魂の修正や成長をさせて頂くべく、地上という修行の場を与えて頂き、生かさせて頂いているのが私たちだと思うです。そのような私たち故に、ただ地上という修行の場を与えて頂いても、その不完全さ、その至らない点の多さから、欲望や邪念に翻弄されてしまい、 何が過ちなのか。。。 何が間違いなのか。。。 何をどのように正せば良いのか。。。 何が正しいのか。。。さえ見失ってしまうことが多いと思うのです。折角、修行の場を与えて頂いても、それでは修行どころか、修行すべき点を増やし続けてしまうだけだと思うのです。そのようなことにならないように、天の深遠なる無償の愛とお取り計らいによって、私たちが生まれる時に与えて頂いているものが、 「何が正しいかその全てを知っている良心」なのだと思うのです。良心は、地上という修行の場で、心正しく生かさせて頂く為の心の羅針盤。。。生まれてくる時は、 「どのような境遇を与えて頂こうと、 どのような状況下であろうと、 良心に従って生かさせて頂くことを通じて、 魂の修正や成長をさせて頂こう!」と誰もが自分に約束していると思うのです。良心に従って生かさせて頂くこと。。。それは、不完全で至らない点の多い私たちが、天という永久不変の真理である師から、ご指導を頂き、学ばせて頂くことだと思うのです。天法の写しである良心から、ご指導頂き、学ばせて頂くことは、尽きることはないと思うのです。それにもかかわらず、不完全で至らない点の多い私たちは、それがほんの少しであるにもかかわらず、自分勝手な自分基準のものごとの見方で、「学んだ!」という実感があると、直ぐに、 「私は、多くのことを学び、多くのことを知っている。」 「私の言うことは正しい。」 「私の言うことを聞いていればそれで良い。」 「私はレベルが高い。」などと思い込んだり、勘違いしてしまうことがあると思うのです。更には、自分勝手な自分基準のものごとの見方で、 「この人は、自分よりレベルが低い。。。」などと感じた相手に対して、 「教えてやるから、ただ言うことを聞けば良い。。。」 「教えてやっているのだから、有り難いと思え。。。」などと、 上から目線で見下す。。。 恩着せいがましい言動をする。。。 押し付けがましい言動をする。。。ということもあると思うのです。ご指導頂いたり、学ばせて頂くことができたのは、天から授かった良心のお陰様だと思うのです。その良心にいつ何時も従うことができるか否か。。。その時の真の自分の心のあり方や姿を知る為に与えて頂いているお試しをはじめとする様々な境遇も天に与えて頂いているものだと思うのです。全ては与えて頂いたもののお陰様。。。私たちに良心を与えて下さった天。。。私たちの魂の修行の為に必要な境遇を与えて下さる天。。。天は、私たちを見下すことはないと思うのです。天は、私たちに良心や境遇を与えて下さっても、恩着せがましくすることはないと思うのです。天は、私たちに良心や境遇を与えて下さっても、それを私たちが受け入れるか否かは、私たちの自由とし、それを強制したり、押し付けることはないと思うのです。そのような天の私たちに対する姿勢や深遠なる無償の愛を与え続けて下さる姿勢こそ、私たちが学ばせて頂くべきことだと思うのです。それにもかかわらず、さも自分が天にでもなったかのように、さも自分は完璧な存在であるかのように、傲慢な言動をし、人様を見下し、恩着せがましく、押し付けがましくする。。。天から観れば、 何も学んでいない。。。 何も見えていない。。。 何も知らない。。。 何も聞こえていない。。。 自分で自分を貶めている。。。という感じだと思うのです。自分でも気付かない内に、そのようなことになってしまう程に、不完全で至らない点の多い私たち。。。自分ではレベルが上がっているように感じても、天から観ればそうでもない。。。自分では色々見えているように感じても、天から観ればそうでもない。。。自分では色々学び、知り、分かっているように感じても、天から観ればそうでもない。。。自分では色々聞こえているように感じても、天から観ればそうでもない。。。それが魂の修行をさせて頂いている私たちの実態だと思うのです。そもそも修行とは、「努力して学ぶこと」の意であり、「教えること」の意はありません。良心に従って、 努力して学ばせて頂くこと。。。 学び続けさせて頂くこと。。。が私たちがさせて頂くべきことなのだと思うのです。私たちは、自分に与えて頂いた境遇から、様々な経験、体験をさせて頂いていると思うのです。その経験、体験から、 何かを見る。。。 何かを知る。。。 何かを聞く。。。など、 何かを感じ。。。 何かを学び。。。 何かに気づかせて頂く。。。ということがあると思うのです。自分の経験や体験は、 「人様のお役に立つのであれば。。。」 「何かの参考になるのであれば。。。」という気持ちで、「分かち合う」べきものであり、「教える」ものではないのだと思うのです。各々の経験や体験のみならず、各々の特技や能力も同じだと思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。それ故に、何ごとも謙虚な姿勢で学ばせて頂き、自分が学ばせて頂いたものは、一方通行的に「教える」のではなく、傲慢な姿勢で「教えてやっている」などと、恩着せがましく、押し付けがましくするものでもなく、お互い様の心、思い遣る心をもって、分かち合い、共有させて頂くことを通じて、各々の学びの理解を深めさせて頂きながら、 自分はあなたであること。。。 あなたは自分であること。。。 全ては1つであること。。。という真実に近づかせて頂きたいものですね。源光「もっとも優れた人は、生涯を通じて、 自らを教育し続けた人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201604230000/「世の中には、これが最高だと思っても、 さらにその上の優れたものがあるのです。 人は永遠の生徒。。。 常に学び続けなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603120000/ 「愚かな人は、自分が賢いと考えるのです。 賢こい人は、自分が愚かなことを知っています。 この考え方の違いが、人生全てに、影響するわけです。 愚かな人は、後悔の多い人生に。。 賢い人は、豊かな実り多い人生に。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602280000/ 「世の中で知られているようなことを、 自分だけが知っていると思い込んで得意がる人もいます。 人は、どこまでも謙虚に。。。上には上がいるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501290000/「何かで有名になって、 偉くなったように思った時が アウトの時です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506290000/ 「熟達した人であっても、 時には自分より経験の浅い人や年下の人、 あるいは子供に、物事を教わることもあります。 今日も、謙虚に誠実に生きていくことを心掛けましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502230000/ 「中庸の道を歩むことですよ。 極端から極端に動かないことです。。 良心に従うことです。 なにも見えず、何も知らず、 何も聴こえないのが人というものなのですから。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201304290000/「自分の実力を知ることですよ。決して過信してはいけません。 過去の失敗を活かして大きな人物になってくださいね。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306090000/「自惚れは苦しみの源泉である。 自惚れが消えたときから、人生の幸福な時期が始まる。 自惚れに翻弄されている人間に、天恵が降りることはない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108100000/「実れば実るほど、勉強すればするほど、 自然に自分の至らなさに気づき 謙虚になっていくのが人というものです。 天から観れば、謙虚で無い人は、 まだまだ修行の足らない、子供に過ぎないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303020000/「大切なことは、 深慮をもって話すことです。 誤解を生むようなことは決して言ってはいけません。 根気よく相手に合わせて話すことです。 上から目線、下から目線やめましょう。 大人にも子供にも、どなたにも、 横から目線。。で話すのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603140000/「汝、道を解きながら学べ。 言い聞かせとは、 自分自身への問いかけと勉強である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111150000/「霊的な知識よりも優れた浄化力のあるものは地上にはない。 真実を語りなさい。義務を果たしなさい。真実から外れてはいけません。 奉仕し、強く強く探し求め、質問し、智慧を求めて研鑚しなさい。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107190000/「上の階に上がってみましょう。 視野が広がって新たな水平線が見えてきますよ。 人は自分の立っている場所より下の階のことはよく知っているのですが、 上の階のことは、さっぱりわからないものです。 あなたの心をコントロールしているのは上の階の住人です。。 直接会って話せる人は、古来稀ですが、 誰でも上がれる世界でもあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404250000/
2016.12.03
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「行動が自分を描きだし、 そして明らかにするのです。」行動を起こす。。。それは、自分の人生という名のキャンバスに、行動を起こしたことによって生じた今生の経験や体験が描かれて、私たちの本質である魂に、今生の記憶として刻まれていくことだと思うのです。時に、今生の経験や体験を生み出した行動が、今生の生きる目的や生き甲斐を明らかにしたり、思い出させたり。。。過去生から探究し続けている何かを明らかにしたり、思い出させたり。。。はたまた、それらのヒントになる何かに導いて頂いたり。。。引き寄せられたり。。。繋げて頂いたり。。。直観を与えて頂いたり。。。心が衝動に駆られたり、突き動かされたり。。。ということもあると思うのです。そのような自分の人生の変化や新しい流れを生み出してくれるもの。。。それが、「行動を起こす」ことに他ならないと思うのです。裏を変えさせて頂くと、「行動を起こす」ことがなければ、例えそのチャンスを与えて頂いていても、人生の変化も新しい流れも生じない。。。ということでもあると思うのです。私たちの人生にとって、「行動を起こす」ことは、それほどに重要なことなのだと思うのです。「行動を起こす」という、初動のきっかけは色々あると思うのです。何かを想像する。。。想像したことを考える。。。夢や希望を抱く。。。直観。。。きっかけは色々あれど、 想像を「想像」のままに留める。。。 考えを「考え」のままに留める。。。 夢や希望を「抱く」だけに留める。。。 直観を「感覚」だけに留める。。。だけで、何らの「行動」も起こさなければ、新しく幕開けする前に、自ら幕引きをしているようなものだと思うのです。想像も、考えも、夢や希望も、直観も、勇気をもって「行動を起こす」という心のやる気スイッチを自ら押して、実際に何らかの「行動を起こす」ことによって、自分の人生に変化が生まれ、新しい流れの扉が開かれるのだと思うのです。「行動を起こす」ことは、自らの想像、考え、夢・希望、直観という世界の中に、自分の魂を飛び込ませるようなものだと思うのです。自らの想像、考え、夢・希望、直観とはいえ、まだ見ぬ未知の世界故に、飛び込むことはとても勇気がいることだと思うのです。しかしながら、一度飛び込んでしまうと、その飛び込んだ世界は、自らの想像、考え、夢・希望、直観の世界の中だからこそ味わうことができる喜びや楽しさを、経験・体験することができ、心の満足感を得ることができると思うのです。その喜びや楽しさは、私たちの本質である魂が感じているものだと思うのです。なぜ、魂が喜びや楽しさを感じのか。。。それは、勇気をもって、「行動を起こす」ことによって、 今生の生きる目的が明らかになったり、 明らかになることに近づいたり。。。 過去生から探究し続けている何かが明らかになったり、 明らかになることに近づいたり。。。するなど、 本当の自分を知る。。。 本当にやりたいことを知る。。。 自ら構築した今生の人生設計を知る。。。ことが明らかになったり、明らかになることに近づいているからだと思うのです。裏を変えさせて頂くと、 本当の自分を知る為には、 本当にやりたいことを知る為には、 自ら構築した今生の人生設計を知る為には、「行動を起こす」ことが必要不可欠な条件、ということなのだと思うのです。だからこそ、「行動を起こす」ことを大切にすべきなのだと思うのです。とはいえ、何でも行動を起こせば良いか、というと、そうではないと思うのです。同じ「行動を起こす」でも、その「行動を起こす」のは、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場を与えて頂いている私たち故に、 良心に従う。。。 良心に恥じることはしない。。。ことをはじめ、 闇雲なこと、無謀なこと、無鉄砲なことはしない。。。 予め、全体を捉えて、何らかの想定や計画を練る。。。 行動を起こす前にすべきことは、行動を起こす前にする。。。 行動を起こしながらできることは、行動しながらする。。。ことが大切だと思うのです。守るべきを守りながら「行動を起こす」からこそ、 本当の自分。。。 本当にやりたいこと。。。 自ら構築した今生の人生設計。。。が明らかになり、思い出されていくのだと思うのです。否、明らかにして頂き、思い出させて頂けるのだと思うのです。源光「あなたの人生は、あなたの思い描いた通りになるのですが、 行動を伴わない想像力は、何の意味も持たないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601050000/「人生の目的は行動です。 法則でも、思想でもありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201610020000/「人生を劇的に変えるもの、それが勘やひらめき。。 そしてそれを実行する勇気!!です。 勘やひらめきはあっても、実行する勇気が無いから、 失敗もしない代わりに成功もしないわけです。 」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280001/「価値を生み出すものは行動である。 汝はまず動かねばならぬ。」(ビシュヌさん)「事を行なう時に、いつから始めようかなどと考えている時は、 すでに遅れをとっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111070000/「日々の忙しさに任せて後回しにしてきた 自分のやりたい事を大切にしましょう。 自分の中の「好き」を全面に出して行動することで、 生き甲斐も生まれ、本当の自分らしい行動が できるようになるのです。 即、行動する人こそ、自分らしく行動できる人なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401070000/「汝の未来の不運は、今の行動で幸運に変えることが出来る。 行動しなければ、不運から学ぶことができる。理不尽はない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112290000/「汝、小さな行動を積み重ねていけ。 いつの日か大きなことを成し遂げるであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111200000/「今いる場所から始めるのです。 自分の持っているものを全て使って、 できることをするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407050001/「将来を思い煩う必要は無い。 現在為すべきことを為せ。 その他は神の考えることゆえに。。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107220000/「汝、無心に勝る智慧は無きことを知れ。 無心に、ただひたすら無心に行動せよ。 決して見返りを求めず宝の蔵の前に立て。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111240000/「いくら考えていても思考が堂々巡りするばかり。。 具体的に動けば、具体的な答が出ます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404170000/「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 迷わず行けよ、行けば、分かる。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201202040000/「汝は、常に自分自身の選択によって行動することができるが、 良心の命ずるままに行動するのが天命を果たす道である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110060000/「一生懸命やりますとか、頑張りますでは、 何をやってもうまくいかないのです。 この仕事や勉強は何のためにしているのか。 この仕事は、勉強はどういう結果に結びつくのか。 それを考えながら、具体的に行動しなければいけないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409180000/「地上での失敗のほとんどは、 【勉強不足】に【準備不足】が重なったものです。 出たとこ勝負というものは本来するべきではありません。 機が熟していないからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303160000/「最初の考えは単なる思い付きだから欠陥だらけ。 二度目の考えは、自己中心的でダメ。。 三度目の考えが、最善です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407190002/
2016.12.02
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「最も難しい生き方は、 老いて尊敬されること。。。 老いて尊敬される人は、 人間として最も優れた人生を送った人なのです。。。」「老いた若者にならないでくださいね。 人様を騙して泣かせる悪知恵の働く若者の人格は老人です。。 人は、生涯をかけて人格を磨き続けなければなりません。。」「孫が聞きました。 おじいちゃん、おばあちゃん、大きくなったら何になるの? 仏さまになれればいいですね。 神にも女神にもなれますよ。。 神も仏も女神も実は誰でもなれるのですから。。。 生きている時の心掛け次第です。」尊敬されたい。。。ちやほやされたい。。。などと思うことなく、ただただ 人様のお役に立つように。。。 人様にお喜び頂けるように。。。 人様に笑顔になって頂けるように。。。 人様のお心が癒されますように。。。 人様のお心が平和になりますように。。。 世界が平和になりますように。。。などの想いで、日々、 自分にできることをさせて頂く。。。 自分がすべきことをさせて頂く。。。 自分を必要として下さる方の為に生かさせて頂く。。。ことを、他者の目や評価などを気にせず、極自然に、当たり前のように、地道に、コツコツと繰り返させて頂く。。。心ある人として、当たり前の心のあり方で、当たり前のことをさせて頂く。。。平凡な心のあり方で、平凡な生き方をさせて頂く。。。当たり前のことや平凡なことをただただ継続させて頂く。。。されど、言うは易く。。。行うは難し。。。当たり前のことを、当たり前のように継続する。。。これ即ち、当たり前にできることではないと思うのです。平凡なことを地道にコツコツと繰り返す。。。これ即ち、平凡ではない非凡だと思うのです。当たり前ではないことを当たり前のように継続し、当たり前のように極自然に振る舞うことができるほどに、経験を積まれ、心が磨かれ、身に着き、ぶれないからこそ、人様に尊敬されるのだと思うのです。平凡ではないことを、平凡のように継続し、平凡のように極自然に振る舞うことができるほどに、経験を積まれ、心が磨かれ、身に着き、ぶれないからこそ、人様に尊敬されるのだと思うのです。「自分にはとてもできないようなことを、 この方は当たり前のようにされている。。。」「長期に渡って、同じことをただただ繰り返す。。。 飽きもせず。。。ただただ人様の為に。。。 そんなこと普通にできる事じゃない。。。」「日の目を見ようと見まいと、 その前後で心のあり方や態度が変わらない。。。 そのぶれない心、生き様が凄い。。。」「常に落ち着きのある振る舞い。。。 何ごとにも動揺しない態度。。。 いつも綺麗な言葉遣い。。。」 自分には出来ないことをされている。。。自分の想像を超えることをされている。。。自分の想像の及ばないことをされている。。。見習わせて頂きたいことが沢山ある。。。など、その方が、長い年月、時間をかけて育まれ、様々な経験を乗り越えてきたその心のあり方や生き様、お人柄(品性)、優れた人間性(人格)に、人は自ずと心惹かれ、尊敬の念を抱くのだと思うのです。----時に、 尊敬されたい。。。 ちやほやされたい。。。という想いから、その時ばかり、これみよがしに、 「私は人様のお役に立つことをしています!」 「私は人様にお喜び頂けることをしています!」などとアピールする偽善者もいるものですが、そういう方を尊敬し、ちやほやするのは、類は友を呼ぶで、その方と同じように、 「尊敬されたい」 「ちやほやされたい」と思っている同じ穴の狢の方々なのだと思うのです。そもそも、 「尊敬されたいから、人様のお役に立つことをする」 「ちやほやされたいから、人様にお喜び頂けることをする」というのは、 「尊敬されたい」 「ちやほやされたい」という自分の欲望を満たす為に奸知を働かせ、人様を利用しているに過ぎないと思うのです。それにもかかわらず、それを 「人様のお役に立つことをしています!」 「人様にお喜び頂けることをしています!」として偽善行為を善行としてアピールする。。。陰徳あれば陽報あり。。。に反する陽偽善あれば陰業あり。。。だと思うのです。その表面だけの偽善行為を生み出す下心や邪念、薄っぺらな心のあり方や生き様を見透かしているのは、天だけではないと思うのです。見抜いていらっしゃる方は、そういう方を尊敬するのではなく、反面教師という戒めとして、参考にさせて頂くのだと思うのです。----尊敬されたい。。。ちやほやされたい。。。という方は、他者の目を気にしているが故に、自分と似たようなことをしている方がいると、自分とその者を自ら勝手に比較し、 自分の方が勝っていること。。。 他者の方が劣っていること。。。をアピールする為に、表面的には他者を称えつつも、他者を批判、誹謗中傷することが多いと思うのです。他者を批判、誹謗中傷するのは、尊敬に値するものではないと思うのです。もし、それを尊敬に値するとするのであれば、その方もまた、尊敬されたい。。。ちやほやされたい。。。という思いから、他者を批判、誹謗中傷する方と同じ穴の狢故に、同じことをされている方なのだと思うのです。反対に、尊敬されたい。。。ちやほやされたい。。。などと思うことなく、ただただ 人様のお役に立つように。。。 人様にお喜び頂けるように。。。 人様に笑顔になって頂けるように。。。 人様のお心が癒されますように。。。 人様のお心が平和になりますように。。。 世界が平和になりますように。。。などの想いで、日々、 自分にできることをさせて頂く。。。 自分がすべきことをさせて頂く。。。 自分を必要として下さる方の為に生かさせて頂く。。。ことを、極自然に、当たり前のように、地道に、コツコツと繰り返させる方は、自分は自分。。。人様は人様。。。という心のあり方でいらっしゃると思うのです。 「自分には、自分のできること、すべきことがある。。。 同じように、 人様には、人様にできること、すべきことがある。。。 人様にできて、自分にできないこともある。。。 自分にできて、人様にできないこともある。。。 各々が各々のお役目があるのだからごく当然のこと。。。 それ故、自分と人様を比較する必要はない。。。 自分ができること、すべきことをさせて頂いているのであれば、 人様のことを、とやかく言う必要もない。。。 人様のことは、ただ尊重するだけ。。。 例え、その人様が自分のことを何と言おうと気にする必要もない。。。 相手にすべきは、主観で語る人ではなく、天故に。。。 他者の目を気にして、他者に尊敬される自分を演じるのではなく、 自分がどうありたいのかに従って、自分らしく生きるからこそ、 自分ができること、すべきことを、 正しくすることができるのだと思うのです。」という感じだと思うのです。他者を批判、誹謗中傷するのではなく、他者を尊重する大きな心、豊かな心、温かい心、優しい心、愛の心のある方だからこそ、人は心惹かれ、尊敬の念を抱くのだと思うのです。私たちは他者に尊敬される為に生きているわけではないと思うのです。他者のお役に立たせて頂く為、他者にお喜び頂けることをさせて頂く為など、他者を愛する為に生かさせて頂いているのだと思うのです。他者を愛する利他の心で生かさせて頂くからこそ、心が磨かれていくのだと思うのです。「自分の魂で磨かれていないところを、 この方はピカピカに磨かれていらっしゃる!」そのように感じる魂の持ち主様に、私たちの魂が触れた時、私たちは自らの意思に関係なく、尊敬の念を抱くのだと思うのです。ということは、他者に尊敬の念を抱いて頂けるか否かは、自分の心を磨き続けているか否か。。。磨かれた心の美しさ、品性、人格。。。にあるのだと思うのです。源光「年齢を重ねるたびに、成長し、品位を身につけましょう。 還る日が近くなっても、足ることを知らず、 妬み、嫉み、恨み、ツラミ、不平不満で生きている 哀れな老人になってはいけません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312170008/「鏡に映る顔。 年齢を重ねるごとに、自分の顔を好きになって欲しいものです。 実はそれが心の成長と=なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209150000/「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。 これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。 いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/「死なないで地上で、生きられる人は皆無です。 人は、地上に命がある時だけ諸々の善行をなすことができるのですから、 せっかくの機会を大いに活かして、帰還されますように。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211090000/「今この瞬間のあなたの想い、そして生き方が、 あなたの明日を形成していくのです。 人生の紆余曲折、悟り間違いがなかったと 断言できる人生を送った人は皆無ですが、 この世を去る、その時。。 「あゝいい人生だった。。思い残すことは無い。。」 と思えるならば、それは最高の人生だったのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501240000/ 「物事は、途中色々、紆余曲折があったとしても 最後を立派にしめくくることを心掛けてください。 人生も同じことです。 最期の瞬間に後悔するようならば雲の迎えはありません。 眠れる魂を起こしてください。 あなたにはやるべきことがまだ残っているのですから。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502090000/「人生は有限です。 ですから他人の気に入るような行動をするよりも、 良心に忠実に、自分を尊敬し、 自分が満足できるような行動をとるべきです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312060000/「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「幸せの基準が他人に尊敬されたり、認められたり、 地位や収入を求めたり、異性にもてたり、 快楽を求めたりするところにある人は、 たとえそれが手に入っても心の底から幸せを味わうことはできません。。 幸せの基準は、もっと自分の魂が喜ぶ、心豊かなところにもちましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407230001/
2016.12.01
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「頑張っている時は、 「無理するなよ」 と自分に声をかけてください。 暇を持て余している時は、 「もっと頑張れよ」 と自分に声をかけてください。」目標や目的に向かって、ひたすら真っ直ぐに一点集中で頑張る!ひたすら真っ直ぐに進むことも、一点集中で頑張ることも、それを継続することは、とても容易なことではないと思うのです。それだけに、ひたすら真っ直ぐに一点集中で頑張ることは、とても素晴らしいことだと思うのです。しかしながら、最初からペースを上げて走り続けていては、 息が上がる。。。 疲れが溜まる。。。 ペースが遅くなる。。。動けなくなる。。。 意気消沈して諦めてしまう。。。 自暴自棄になってしまう。。。という結果になってしまいかねないと思うのです。時には、そのペースが速すぎて、 周囲にあるものが見えなくなってしまう。。。 大切なものを見逃してしまう。。。 見るべきものを見失ってしまう。。。ということもあると思うのです。折角、真っ直ぐに一点集中で頑張り、走り続けていても、周囲にある大切なものを見逃したり、見失ってしまうと、前進したくても前進出来ない状況に陥ったり、急いた心が邪魔をして、しなくても良い失敗や過ち、間違いを犯してしまいかねないと思うのです。当初は、やる気満々で取り組み始めたにもかかわらず、周りが見えなくなるほどに猪突猛進に真っ直ぐに一点集中で頑張り、心身に過度な負担を掛けて、無理に前進しようと努力した結果が、目標や目的を諦めたり、放棄してしまうことになってしまっては、本末転倒である上に、不本意だと思うのです。同じ真っ直ぐに一点集中で頑張るのでも、脇目も振らずに早く前進することが、最善ということにはならないと思うのです。心身が疲れを感じているにもかかわらず、目標や目的に少しでも早く到達したいばかりに、無理に前進し続けてしまうということがあると思うのですが、心身が本調子ではないが故に、進むべき方向を誤ったり、選択や判断を誤ってしまうなど、結果的に、非効率的になってしまうと思うのです。それならば、 「やるときはやる!」 「頑張る時は頑張る!」 「疲れたから休む!」 「集中できないから気分転換する!」 「無理は禁物!」 「休むときは休む♪」 「遊ぶときは遊ぶ♪」という感じでメリハリのあるやり方をさせて頂いた方が良いと思うのです。メリハリのあるやり方ができるということは、それだけ心にゆとりや余裕がある、自分の心身の状況を冷静に、客観的に見ることができる、ということでもあると思うのです。心身に疲れを感じる。。。そのように自己診断した時は、無理をしてまで真っ直ぐに一点集中で頑張ることをせず、少し立ち止まって適度な休憩をとったり、周りを眺めるなどの気分転換をさせて頂く。。。そのようにさせて頂くことによって、心身の疲れが癒されるばかりでなく、そこに到達するまでの自分の経緯を冷静に顧みることができて、それをこれから先の計画に活かすこともできる等、結果的に、効率的な流れに身を置くことができるのだと思うのです。どうしてもやり遂げたいという思いがあって立てた目標や目的に向かっているのであれば、例え、辛く苦しいことや上手く行かないことがあっても、好きなことをしていることを考えれば、ワクワクするなど、本当は楽しいはずだと思うのです。その一方で、目標や目的に向かって一点集中で頑張っていたつもりが、心が目標や目的に追い込まれて焦りを感じてしまい、本当は楽しいはずのものが楽しくなくなる上に、辛く苦しいことになってしまっては、もはや真っ直ぐに、一点集中で頑張ることなど出来なくなってしまうと思うのです。目標や目的に向かって、効率的に真っ直ぐに一点集中で頑張る為には、その目標や目的に向かって、気持ち良く努力したり、楽しみながら頑張ることができるような心身の健全が必要だと思うのです。心身の健全を守り、維持させて頂く為にも、 「やるときはやる!」 「頑張る時は頑張る!」 「疲れたから休む!」 「集中できないから気分転換する!」 「無理は禁物!」 「休むときは休む♪」 「遊ぶときは遊ぶ♪」というメリハリのある過ごし方をさせて頂けるようなゆとりのある心を育ませて頂きたいものですね。無理は、「理」に適って「無い」と書きます。「無理をする」ということは、道理に適ってないことをしていたり、「~をし過ぎている」ということでもあると思うのです。「~をし過ぎる」は、 過ぎたるは猶及ばざるが如しそのものだと思うのです。真っ直ぐ過ぎて、壁にぶつかってしまう。。。一点集中し過ぎて、周りが見えなくなってしまう。。。頑張り過ぎて、頑張れなくなる。。。「理」に適って「無い」と書くくらいの「無理」はしない。。。「~し過ぎる」のではなく、節度をもって「適当」にする。。。真っ直ぐに進むが、壁があった時は迂回する。。。一点集中するが、周りの景色も楽しみ、良い物は取り入れていく。。。頑張るが、いつでも頑張れるよう心身の休息をとる。。。そういう心のゆとり、豊かさをもって、無理なく、誠実に、真面目に、真剣に、勤勉な姿勢で、地道に、コツコツと努力する。。。それが、真っ直ぐに、一点集中で頑張ることを継続させる秘訣だと思うのです。自分の心身を守り、コントロールする気遣いができるのは、自分しかいないと思うのです。だからこそ、無理をすることによって、 自分の心身を害してしまうことのないように。。。 取り返しのつかないことにならないように。。。自分の心身だけでなく、自分自身という存在を気遣い、大切にさせて頂くべきだと思うのです。自分を大切にするのと同じように、人様も大切にさせて頂く。。。そういう自分でありたいものですね。----することがない。。。自分がしたいことが分からない。。。など、暇で時間を持て余してしまう退屈。。。魂の修正や成長をさせて頂く為に、この世という修業の場に生を与えて頂いている私たち。。。人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることをさせて頂くことを通じて、魂の修正や成長をさせて頂くことができる私たちにも拘らず、 「することがない。。。」 「したいことが分からない。。。」として、ただ、ぼ~~っと過ごしてしまうと、折角与えて頂いている今生という修行の機会を無駄にしてしまいかねないと思うのです。今生という長いようで短い限られた自分の人生の時間を考えれば、本当は、時間を持て余すような暇な時間などないと思うのです。無駄にできる時間はないと思うのです。それを私たちの本質である魂は良く分かっていると思うのですが、地上という修行の場における今生の目標や目的、生き甲斐を見つけられないでいる自分や、挫折や失敗をして挑戦することに恐れを感じている自分は、生きる意欲、目標、目的、生き甲斐を見失い、無気力、無関心になり、努力すること、頑張ることから逃げ、退屈している暇などないのに、自ら退屈や暇を作る。。。自ら作り出した退屈や暇であるにもかかわらず、その取扱いに困って持て余してしまう。。。退屈や暇の取り扱いに困って、退屈や暇を持て余しているくらいであれば、自分で自分を鼓舞し、応援し、信じ、 自分が本当にやりたいことを見つけられるように。。。 自分の生き甲斐を見つけられるように。。。 活き活きとした自分を見つけられるように。。。何らかの退屈しのぎの為の行動を起こさせて頂くことが大切だと思うのです。「退屈しのぎをしよう♪」という積極的な思いや行動が、退屈という暇を持て余している状況からの解放の第一歩になると思うのです。時には、退屈しのぎ」として何かをさせて頂いている中に、 「自分が本当にしたいこと」 「今の自分にできること」 「今の自分がすべきこと」などのヒントが隠されていることもあると思うのです。そのようなヒントに巡り合えるようになったのは、「退屈しのぎをしよう♪」という積極的な思いや行動があったからこそだと思うのです。だからこそ、それがその時の自分に出来るかどうかに関係なく、その時の自分が興味のあることや好きなこと、気になることに少しでも触れさせて頂くことが大切だと思うのです。暇がある時は、それを持て余して無駄な時間を過ごすのではなく、暇がある時にしかできないことに、時間を有効活用させて頂くことが大切だと思うのです。そのようにさせて頂くことによって、「今を無駄にしている暇な時間」は、「今を生きる有意義な時間」に、その姿を変えると思うのです。ほんの少しの行動を起こしたり、ほんの少しの行動を繰り返すことによって、知らず知らずの内に、それらに熱中したり、没頭したり、集中していたり、頑張っている自分がいる。。。ということがあると思うのです。何かに熱中したり、没頭したり、集中し、頑張っているときは、既に退屈という暇を持て余している状況から解放されているだけでなく、熱中することができる。。。没頭することができる。。。集中することができる。。。頑張ることができる。。。生き甲斐を見つけた、ということでもあると思うのです。そのような自分になるよう導いたのは、 「頑張ってみようぜ!」 「オマエならできる!」 「オマエを信じてる!」と自分で自分を鼓舞し、応援し、信じ、自分の背中を押した自分に他ならないと思うのです。だからこそ、どのような境遇下であろうと、どのような心の状態になろうと、 自分で自分を鼓舞する。。。 自分で自分を応援する。。。 自分で自分を信じ続ける。ことが大切なのだと思うのです。自分で自分を信用しているのであれば、何ごとに対しても 「努力しよう!」 「頑張ろう!」 「楽しもう!」とすることができる自分がいると思うのです。そのような自分になれるよう、自分を育ませて頂きたいものですね。そして、自分を鼓舞し、応援し、信じるのと同じように、人様を鼓舞し、応援し、信じることも大切にさせて頂く。。。そういう自分でありたいものですね。源光「シンプルで控えめに。。 身体にも、心にも、最善の生き方です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406130001/「無理をしてもトータルで失敗します。 真剣に生きる人ほど無理はしないものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408150001/「一点集中で行きましょう。 適度に休憩しましょう。 最初から、多くのことを成し遂げようとして 極端な努力をすると、 たちまちのうちに全てを放棄することになるからです。」(ラクシュミーさん)「しっかり休んでいますか? あまり毎日無理をしてはいけません。 少しでも、くつろげる時間を持ちましょう。 結局、その方が効率が上がります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509060000/「無理が一番いけないのです。 休める時にしっかりと休むことです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505280000/「努力して創造していく間が人生なのです。 人生を楽しんでください。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208140000/ 「この世で一番怖いもの。 それが退屈です。。 病気の時も、無職の時も、 とにかく何かをして心を退屈させないことです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406010000/ 「人間は、刺激があり過ぎても、無さ過ぎても ストレスを感じるある意味、贅沢な動物です。 ある程度の刺激がある方が幸せな人生となりますから、 人生が退屈でつまらなければ、 自分で楽しく、面白くすればよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312090000/「今日の目的、目標がある人は、 たとえ達成できなくても明日に希望が繋げますが、 無気力では明日への希望が湧いてきません。 ただ時間が過ぎていくだけの人生はむなしいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310050000/
2016.11.20
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「伴侶の「伴」という字は人が半分と書きます。 夫婦には、同等の役割があり、 それぞれできないことを補う関係を持つということです。」「二人で語り合ってください。 男女は太古の昔から協力し合って、互いの特性を生かして 人生を豊かにしてきたのですから。。。」伴侶。。。 一緒に連れ立って行く者。 配偶者。 仲間。連れ。の意だそうです。配偶者を伴う結婚。。。自分は愛する相手の為に、自分の人生を捧げている。。。そのように自分視点で見ることはあっても、相手の立場になってみることは中々ないと思うのです。相手の立場になってみれば、相手は自分の為に、相手の人生を捧げて下さっている。。。自分も相手も同じだということを忘れてはならないと思うのです。自分と相手の特技や能力の違いはあれど、各々の特技や能力を相手の為に活かしていることに違いはないと思うのです。自分が出来ないこと、苦手なことを相手がやって下さる。。。相手ができないこと、苦手なことを自分がやらせて頂く。。。お互いの得手不得手を補い合い、助け合い、支え合い、分け合い、協力し合い、愛し合いながら、一緒に生活を共にさせて頂くこと、それが夫婦というものだと思うのです。結婚して夫婦になった以上、今の自分があるのは、相手という大切な存在のお陰様だと思うのです。一緒にいることができる幸せ。一緒に食事することができる幸せ。一緒に散歩することができる幸せ。一緒に暮らすことができる幸せ。一緒にいる人を愛する幸せ。一緒にいる人に愛される幸せ。一緒にいる人の為に生きることの幸せ。 (それが自分の為にもなっている幸せ。)一緒にいる人のお陰様で自分の存在意義を感じることができる幸せ。などなど。多くの幸せを感じ、幸せで満たされている高揚感。。。 男性と女性。惹かれあう者同士。恋をし、愛し合う者同士。新たな生命(子供)の誕生に、家族の絆を感じる者同士が、一つ屋根の下で暮らさせて頂くのが「家庭」だと思うのですが、はじめの内は、お互いがお互いを思い遣り、助け合い、協力し合い、分け合い、支え合い、気遣い合っていた仲の良い関係が、時の経過と共に、それらが薄れていってしまうことがあると思うのです。自分のことを棚に上げるだけでなく、相手の良いところを見ようとせず、相手の欠点ばかりを見てしまったり、何でも欠点に結びつけるような見方をしたり。。。自分が相手の欠点にばかりフォーカスすれば、相手もまた自分の欠点にフォーカスしてしまい、お互いがお互いに対する不平、不満を募らせるばかりのいたちごっこになってしまうと思うのです。それではいつしか別れをお迎えすることになってしまうと思うのです。別れをお迎えすることがなかったとしても、「家庭内別居」という言葉があるように、形ばかりは夫婦関係が保たれていても、心は離れ離れ、ということもあると思うのです。それでは一緒にいても「幸せ」を感じることができないと思うのです。「幸せ」を一緒に築こうと夫婦になったにもかかわらず。。。一緒にいれるだけでも「幸せ」だったにもかかわらず。。。お互いがお互いの欠点ばかりにフォーカスすると、そのようなことになってしまうと思うのです。お互いが相手の欠点にフォーカスしたところで、自分も相手も不完全な人間には変わらないと思うのです。そもそも、不完全な人間同士が夫婦になるということは、お互いがお互いの魂の修正や成長の為に存在している、ということでもあると思うのです。そのように捉えさせて頂くと、相手の長所や欠点だけではなく、それらを含めた「相手」という貴重な存在は、自分の魂の修正や成長にとって、掛け替えのない存在なのだと思うのです。逆の見方をさせて頂くと、自分の長所や欠点を含めた「自分」という存在は、相手の魂の修正や成長にとって、お役に立たせて頂くことができる存在、ということでもあると思うのです。それならば、相手に何かを要求するのではなく、「自分の魂の修正や成長」の為に存在してくれている相手に対して、自分は 「何をさせて頂くことができるか」 「何を差し出すことが出来るのか」 「何を与えることが出来るのか」 「どんな形でお役に立てるのか」という、相手を思い遣る心、愛する心、奉仕の心をもって、生かさせて頂くことが大切だと思うのです。そのように生かさせて頂くことは、「自分の魂の修正や成長」の為に存在して下さっている相手に対する恩返しにもなると思うのです。相手の欠点を責めるのではなく、相手を思い遣る心、愛する心、奉仕の心をもって赦し、相手の欠点を補い、修正・成長のお手伝いができるよう、自分の長所を積極的に活かさせて頂く。。。そのような相手を思い遣る心、愛する心、奉仕の心を持って、お互いに補い合い、支え合い、助け合い、分け合い、協力し合って生かさせて頂いていれば、各々の欠点は少しづつ修正、改善され、各々の欠点の修正・成長の為に活かしてきた自分の長所は、より素晴らしい長所となって、相手の為だけではなく、人様のお役に立つことができるほどの長所にもなっていくと思うのです。相手の欠点は、自分の長所をより良くなるよう磨き、輝かせてくれるもの。。。相手の長所は、自分の欠点を補い、修正・成長させてくれるもの。。。 (とはいえ、自分の欠点を反省することなく、 自分を律することもなく、相手の長所に 甘んじてばかりでいては、自分で自分を 貶めているようなものだと思うのです。)そのように捉えさせて頂くと、相手の長所だけでなく、欠点でさえも有難いものになってくると思うのです。だからこそ、長所、欠点をも含めた相手の全てを、そして、生まれてくる前に夫婦になることを天で約束してくれた掛け替えのない相手の全てを愛し、全てを赦すことができるような大きな心、優しい心、愛の心、奉仕の心を育ませて頂きたいものですね。そして、相手の為に、家族の為に生かさせて頂きたいものですね。掛け替えのない「相手」や「家族」を欠いてしまってから、それが掛け替えのない「相手」や「家族」であったことに気付く、ということのないように、自分の心が安らぎ、自分の愛を惜しみなく与えることができる「相手」や「家族」を、そして、自分に安らぎを与え、自分に愛を惜しみなく与えてくれる「相手」や「家族」に日頃から感謝させて頂くことが、とても大切だと思うのです。「感謝」は、「いつもありがとう。」という相手に対する感謝の気持ちを自分の心の中だけで自己完結するものではなく、 「いつもありがとう。」という心の声を言葉や文字で伝えたり、何かをプレゼントさせて頂くなど、何らかの言動として表現させて頂くことによって、相手の心にも良く伝わるのだと思うのです。「いつもありがとう。」と思っているだけでは相手に伝わらない。。。伝わり難い。。。と思うのです。だからこそ、「いつもありがとう。」という心の声に、言葉や文字、プレゼントを添えさせて頂き、相手に伝わり易くさせて頂く。。。そういう相手を思い遣る心もまた、相手に対する感謝の気持ちの表れでもあると思うのです。「いつもありがとう。」日頃から発し合いたい言霊ですね。自分の至らない点や出来ないことを補ってくれ、かつ、自分の特技や能力を活かさせて下さる伴侶への感謝の気持ちを。。。源光「一人では、いくら努力しても、どうしても掴めなかった幸せを 彼(彼女)が持ってきた!!これが運命の出逢いですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407110001/「二人三脚で走る。。歩く。。散歩する。。語り合う。。 夫婦で力を合わせると素晴らしい世界が開けます。。 いつも二人三脚ではなく個人の時間も大切にしている夫婦は、 年齢を重ねるごとに幸せになっていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408160000/「互いを束縛しないことです。 互いを結ぶ紐は解けやすくしておいて、自由なのがよいのです。 豊かな心は、思いやりと愛を育みます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402220000/「互いを監視するのはやめましょう。 あなたが自由になれば、相手も自由になれます。 人は、相手を拘束した分だけ、自分も拘束されるのです。 愛とは、互いを信頼すること。。 拘束することではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402160000/「配偶者と出逢った時を思い出してください。。。 あゝ、この人と一緒になってよかった。。。 感謝の心が湧き上がってきたのなら、 あなたは配偶者とともに 天からご褒美を貰える時が来ています。 感謝を態度で表してください。。。 素敵な人生はこれからですよ。」(ラクシュミーさん)「運命の出逢いというものがあります。 何十億人もいる地球で、なぜこの人と出逢って 一緒に暮らすことになったのか? 考えてみてください。。。 出逢いが偶然を装った必然であったことに気づいてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201609060000/「偶然を装った必然で出逢い、愛を育み、互いを見つめ合い、 結婚後は、ともに同じ方向を見つめることができるなら、 一人では決して到達できなかった美しい世界に到達できるのです。 人生を大いに楽しんで、約束の子供と出逢い、 家族で幸せを謳歌してください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407040000/「いっしょに「いる」ということ。 それだけで幸せ。。。 これこそが結婚の本質。。。 家族の本質です。。。。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410310000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410310001/「人はエネルギーを蓄える場所が必要です。 毎日安心して戻れる場所があると 明日を生きることができるのです。 安心して戻れる場所。。あなたは持っていますか? 人には、悩みを共有して、一緒に悩み、 戦ってくれる人が必要なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312250000/「男と女は、互いに相手の長所と欠点を併せて愛せなければ、 いずれ別れることになるでしょう。 相手の全てを愛し、そして許してこそ 真実の夫婦になれるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401110000/『「愛」とは「理解」の別名です。 ですから、「理解」無き「愛」というものは存在しないのです。 別れも哀しみも、「理解無き」ところに発生するのですから、 互いを理解しようと努力することは、決して無意味ではないのです。』(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407210001/「価値観を共有しながらも、いつまでたっても新鮮な驚きのある人。。 これが約束の彼(彼女)なのです。 あなたはもう運命の人と出逢いましたか? 愛し合い、許し合い、助け合う夫婦。。 笑顔溢れる仲良し親子。。 永遠の家族。。 これが地上の幸せの極致なのです。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312270001/「夫婦、親子の礼儀は忘れがちですが、 幸せな家庭は心愛(しんあい)の礼儀が保たれているものです。 互いを思いやることを忘れてはなりません。(一部抜粋)」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312030005/「結婚は長い対話ですよ。 時折のいさかいがそれに色どりを添えて 互いに成長していくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505040000/ 「人間には誰でも できることと、できないことがあるのです。 ある人にはできても、ある人にはできない。 それでいいのです。 他のことはできるわけですから。」(ラクシュミーさん) 「他人ができることは自分もできる!! いいえ。できないこともあります。 それでいいのです。 万能の人など皆無です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603290000/
2016.11.19
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「不幸がずっと続いている人は 自分が不幸であるということを吹聴しているものです。 当分、不幸が続くでしょう。 不幸と友達だからです。 不幸と手を切るのはさほど難しくありません。 不幸自慢をやめること。 人に不快感を与えないこと。 幸運の種を蒔いて歩くこと。 つまり人を喜ばせて生きればよいのです。」自分の「不幸」を話題の材料にするのであれば、自分の「不幸」を自慢するのではなく、自分の「不幸」を笑いのネタにして、笑いながら話し、相手を笑わせ、喜ばせた方が、自分も相手も「幸せ」になると思うのです。【人様を明るく元気に笑顔にさせる=人様を幸せにしている】「幸せ」になる為の「不幸」の正しい活かし方だと思うのです。「幸せになりたい」と言いながら、その話をしている自分のみならず、その話を聞いて下さっている相手の気分をも暗く重くなるような「不幸自慢」を繰り返す。。。言行不一致していると思うのです。【人様の気分を暗く重くさせる=人様を不幸にしている】「不幸」になる為の「不幸」の正しい活かし方だと思うのです。不幸自慢をする方は、口を開けば、自分の不幸など暗く重い話題ばかり。。。自分の不幸などの暗く重い話ばかりをしていたら、話をしている自分の気分もより暗く、より重くなると思うのです。その話を聞いている相手や周りの人は、始めの内こそは、その不幸話を気の毒に思い、同情し、優しく耳を傾け、応援し、助けてくれたり、支えてくれると思うのですが、いつもいつも暗く重い不幸話に結び付くような内容では、聞いている側も暗く重い気分になってしまうと思うのです。それ故に、不幸自慢を幾度となく聞いている側は、不幸自慢をしている方のことを 「この人は、不幸自慢をしたいだけなんだなぁ~。。。 不幸自慢を聞かされて、こちらが暗く重い気分にさせられるのは、 もう嫌だなぁ~。。。少し距離を置こう。。。」 「この人は、悲劇のヒロイン(ヒーロー)を演じて、 自分が如何に可哀相なのかを知ってもらって、 同情を買いたいんだなぁ~。。。」 「暗く重くなるような不幸な境遇に遭遇して、 辛い。。。苦しい。。。といっている自分が好きなんだなぁ~。。。 本当に嫌だったら、自分暗く重くなるような話や、 人を暗く重くさせるような話なんかしたくないはずだもんな~。。。」 「【暫くするとみんな離れていってしまう。。。】と言ってたけど、 そりゃそうだよ。。。 相手の都合や時間も考えずに、 自分の不幸自慢ばかりをして、 【どうすればいいのかな?】と聞いてくるから、 みんな親身になってアドバイスしてるのに、 当の本人は、アドバイスを聞きたいのではなくて、 自分の不幸話を聞いて欲しいだけだから、 人の話なんか何も聞いていないんだから。。。 そりゃ、みんな【この人には何を言っても仕方ない。。。】 と思って離れていくよ。。。」 「散々不幸自慢をしてるけど、話を聞いていると 恵まれている面も色々あるんだよなぁ~。。。 その恵まれている面には目を向けず、感謝せず、 不幸にばかり目を向けて、不幸自慢をして、 暗く重い話を撒き散らしてしまうその心のあり方が、 本当に不幸なことなんだろうなぁ。。。 自分で不幸になりたがっている、ということだもんなぁ。。。 それじゃ不幸自慢は止められないよなぁ。。。 だから不幸のままなんだろうなぁ。。。」 「不幸の種を蒔いて、自分で刈り取るのは当たり前だけど、 不幸の種を周りに撒き散らすのは止めて欲しいなぁ。。。 撒き散らされた方は、嫌な思い、不快な思いを していることも分かって欲しいなぁ。。。 そういう相手の気持ちが分からないことこそ、 自ら不幸を招き、引き寄せている原因でもあると思うんだよなぁ~。。。 気付いて頂けるか分からないけど、距離を置いてみよう。 【何で距離を置かれたんだろう?】って考えて貰えたらいいなぁ。。。」などのように受け留め、次第に不幸自慢ばかりする方と距離を置くようになるのだと思うのです。 不幸自慢という名の愚痴。。。愚痴。。。 言っても仕方のないことを、くどくどと言って嘆くこと、の意だそうです。辛いこと、辛かったこと。。。苦しいこと、苦しかったこと。。。悲しいこと、悲しかったこと。。。理不尽なことをされること、されたこと。。。絶望感、不平、不満、被害妄想。。。などなど、今や今に至るまでに与えて頂いた不遇、不運と感じている境遇の数々。。。それに対して自ら積み重ねてきた自分の気持ちを聞いて欲しい、知って欲しい、分かって欲しい、理解して欲しい、優しくして欲しい、温かい言葉を掛けて欲しいなどの様々な思いや不幸自慢の捌け口として吐き出す愚痴。。。愚痴を言っているその時こそは、様々な思いを吐き出しているが故に、スッキリとしているつもりでも、その愚痴の内容がフォーカスしているものが、自分に与えて頂いている境遇を悲観的に見ている「自分の心のあり方」故に、「自分の心のあり方」そのものが変わることがなければ、本当の意味で心がスッキリすることはないと思うのです。「自分の心のあり方」を変えることなく、愚痴を言っていても何も変わらず、何も解決せず、何も進展しない。。。裏を返させて頂くと、愚痴を言っている間は、愚痴を言いたくなる「自分の心のあり方」だからこそ、何も変わらず、何も解決せず、何も進展しないのだと思うのです。それどころか、愚痴を言っている間は、ものごとが良くない方に変化しやすく、解決からは遠ざかり、進展のしようも無くなってしまうのだと思うのです。なぜなら、自らの愚痴という言霊を最初に聞いているのは何を隠そう愚痴を言っている自分自身。。。一見、ストレス発散をしているように見える愚痴という言霊を吐くその姿勢の実態は、より愚痴を言いたくなる悲観的な境遇を自ら生み出すように自ら仕向けているようなもの。。。将来言いたくなるであろう愚痴の原因は、今、愚痴を言っていることにある。。。そういうことだと思うのです。ということは、今、愚痴を言っている(愚痴を言いたくなる)原因は、過去に愚痴を言っていた自分にある、のだと思うのです。愚痴を言うことは、「愚痴を言うこと」というトラップに嵌っているのだと思うのです。だからこそ、愚痴を言っている間は、否、愚痴を言わなくなるまでは、愚痴を言いたくなるような境遇(修行)が続くのだと思うのです。そもそも、 「言っても仕方のないことを、くどくどと言って嘆くこと」という意の【愚痴】。。。「言っても仕方のないこと」を「言っている」ことそのものがおかしいのだと思うのです。 「愚痴を言っても仕方がない。。。」 「言っても仕方のないこと(どうにもならないこと)を、 いつまでも言っていても仕方がない(どうにもならない)。。。」 「何だかんだ言っても、 何とか生かさせて頂いている♪ 何とか生かさせて頂いているということは、 天にお救い頂いているんだなぁ~♪ 本当に有難いことだなぁ~♪ 感謝感謝♪」 「恵まれていないことに目を向けて愚痴るよりも、 恵まれていることに目を向けて感謝しよう♪」 (「恵まれていない」と感じていることこそ、 私たちの魂にとっては修行になっているのだと思うのです。 そのように考えさせて頂くと、「恵まれていない」と感じることを 与えて頂いていることそのものが「恵まれている」 ということなのだと思うのです。 「恵まれていない」と感じようと、「恵まれている」と感じようと、 何れにしても感謝させて頂くことが大切なのだと思うのです。) 「良かった頃の自分と、今の自分を比べても仕方がない。。。 今は今! 前は前! これからはこれから! 良かった頃の自分を顧みて、あの頃は良かったなぁ~♪ なんて言ってたら、今やこれからが良くなるわけがないもんなぁ~。。。 今やこれからが大事なんだよな♪ 前を向いていこう♪」などのような心持ちになったとき、「自分の心のあり方」が変わった瞬間だと思うのです。例え、その時の自分に与えて頂いている境遇が、辛く、苦しく、悲しく、嘆きたくなるような境遇であったとしても、愚痴という悲観的な言霊を自ら生み出さず、発せず、自らに言い聞かせないようにするからこそ、辛さ、苦しさ、悲しさ、嘆きの原因になっている悲観的なものごとの見方や考え方から解放されるのだと思うのです。悲観から解放されるということは、同時に、その逆の楽観的な見方や考え方が生まれるということでもあると思うのです。悲観的になりそうな境遇の中にいるにもかかわらず、楽観的な心のあり方で、明るく、元気に、笑顔で過ごしているその強く、逞しく、美しい「自分の心のあり方」に、天からの光が射し込みはじめ、次第にものごとが進展していくようになるのだと思うのです。私たちが魂の修正や成長をさせて頂く為に必要なこと。。。それは、 人様のお役に立たせて頂くこと。。。 人様にお喜び頂けることをさせて頂くこと。。。 人様が笑顔になるようなことをさせて頂くこと。。。などの利他心にあると思うのです。「愚痴を言う」ことは、魂の修正や成長をさせて頂く為に必要なことのどれにも該当しないと思うのです。それどころか、 人様の気分を重くしたり、暗くしてしまい、笑顔を奪ってしまう。。。 (愚痴を言っている当のご本人様もそうなると思うのです。) 愚痴を聞く人様の気持ちを考えることができない。。。 (いつでも愚痴を親身に聞いてくれる人もいますが、 それに甘んじてばかりいてはいけないと思うのです。)などの利己心が前面に出ていると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に必要な利他心に対して、利己心が前面に出るということは、魂の修正が必要な点をより増やしているということだと思うのです。魂の修正が必要な点を増やしてしまう愚痴を言う。。。だからこそ、同じような境遇(修行)が続くことになるのだと思うのです。同じような境遇(修行)から脱する為には、 愚痴(不幸自慢)を言わない忍耐強さ。。。 愚痴(不幸自慢)を言わないという人様を思い遣る心。。。 愚痴(不幸自慢)を言いたくなるようなことに目を向けず、 恵まれていることに目を向けて感謝する心。。。を育ませて頂くことが大切なのだと思うのです。そして、できるのであれば、自分の「不幸」を笑いのネタにして、笑いながら話し、相手を笑わせ、喜ばせることができるくらいの大きな心、豊かな心、温かい心、優しい心で人様と接することができる自分を育ませて頂きたいものですね。源光「毎日、涙がポロポロ流れる。。。。 それでも、愚痴一つ言わず、懸命に生きて、生きて生き抜く人。。 天は、こういう人を救わずして誰を救うのでしょう。 そうです。。必ず救いの手が差し伸べられるのです。 はっきり言いましょう。 愚痴を言っている間は永遠に修行が続くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510050000/「他人からの同情はあなたを満足させるかもしれません。 しかし、それは一時のこと。解決には繋がらないのです。 不幸自慢、傷のなめあい、すべてその場の気持ちを 満足させるに過ぎないのです。そこに成長はありません。 もがき、苦しみ、苦痛を抱えながらそれを克服する。 あなたの気持ちを理解し、なおかつあなたの欲しいものを 持っている人が世の中には存在します。 その人が語る言葉、姿勢、考え。 これがあなたの成長に大きな影響を与えるのです。 「薬」とは違う何かが。 「同情」とも違う何かが知ってください。 気づいてください。 あなたは、苦しむ人生を送るため に生まれてきたんじゃないと。 幸せに生きるために生まれてきたのだと。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405250000/「もし誰かが、自分の不幸な出来事について相談してきたら、 その人は、なにか心の中で楽しんでいるものがある、 と思って差し支えありません。 本当にみじめさだけしかない人は、 そんなことを人に相談する気力もないのです。 ですから相談者にアドバイスすることは、 もっと不幸を楽しんでください。これでいいのです。 突き放しているのではありません。 これが最高の解決策。人生大逆転の法則です。 その楽しんでいるものの中に大逆転のヒントが隠れています。 自分で見つけ出すしかありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601100000/「不安、不自由、不足や不満の種は尽きませんが、 恵まれていることは忘れていませんか? 心が不安や不満でいっぱいになったら、 不平不満、不安,不自由から心を放して、 恵まれていることに感謝しましょう。 そうすれば、あなたを悩ませている問題は、 霧がはれるように少しずつ消えていきます。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312210001/「不幸になっていく人は、自分の喜びばかりを考えているのです。 人を喜ばせることを考えて生きていきましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207180000/「愚痴や迷いは、それがたとえ高尚な内容でも、 天が手助けをする事は決してありません。 愚痴や迷いを心の中から一掃して下さいね。 その時、私達は、直接あなたに語りかけることが出来ます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210120000/「自分の置かれている境遇を嘆かないことです。 自暴自棄になって、嘆いたり怨んだりしている限り、 どんなに望んでも絶対に幸運とは波長が合わないのです。。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406100003/「自分は生きているのではなく、 「生かされている」という事実に気づきましょう。 本当の幸せは、あなたの心の中にあるのです。 幸せを追いかける人はいつまでも幸せになれず、 今、呼吸をしている幸せに気づく人が、 本当に幸せになれるのです。 まずは、生かされていることに感謝しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401020002/「人は誰でも 自分自身の心の飢えは知っていますが 人の心の飢えは知らないのです。 だからいつまでも飢えに苦しんでいるのです。 自分を責め、世間を責めて 心が寂しく哀しく、世間に八つ当たりして ますます堕ちこんでいくわけです。 苦しんでいるのは自分だけではないのです。 そのことに気づくことから始めましょう。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509090000/「たくさん苦しんでいる時に あえてよく生きることです。 世をはかなんで自暴自棄になれば、苦しみが長引きます。 なんで自分ばかりこんな目に会うのか!!と嘆いていれば さらに苦難が追加されます。 苦しい時こそ むしろ人を助けることですよ。喜ばせることですよ。 自分より苦しい人は、それこそ星の数ほどいるのです。。。 悩み多ければ多いほど、光に近い人。。 人を救う天命を持って生まれてきた偉大な魂なのです。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/20149110001/「深い憂いのわかる人になりましょう。。 ニコニコしている方に限って、 過去、深い憂いを経験している人だということに気付きます。 笑顔が苦難を乗り越える最高最強のパワーであることを 体得されているわけです。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410120000/「なぜ自分だけが、こんなに苦しまなければならないのか? と思わないことです。 試練は、その人が魂の向上のために、 自ら人生の途中に仕掛けておいたもの。 試練の傾向が同じです。 自分のメニューですから、当然、クリア出来るのです。 よく反省し、より良く生きようとするなら、 苦しんだり、悩んだりすることは、当然のことです。 これを乗り越えた時、大いなる安らぎの光に包まれます。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312170003/
2016.11.18
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「その人の人格を知るには、 その人が目下の人を どう扱うかを見ればいいのです。」目下。。。 年齢・立場・地位・階級などが自分より低いこと。の意だそうです。「目下」は、その言葉の意だけでなく、私たち人間の主観的、利己的視点から、はたまた、客観的、利他的視点から、 「自分よりも下の者」 「自分よりも弱い者」と判断する「目下」もあると思うのです。同じ「目下」と判断するのでも、主観的、利己的な視点と、客観的、利他的な視点とは、大きく異なると思うのです。人様を主観的、利己的な視点で、 「自分よりも下の者」 「自分よりも弱い者」という判断をする方は、 損得勘定。。。 上下関係。。。 自分に都合が良いか否か。。。 自分に有益か無益か。。。などが判断基準になっていると思うのです。主観的、利己的な視点で、 「この人は、自分の役に立たない。。。」 「この人は、繋がっていても得にならない。。。」 「この人は、(もう)利用価値がない。。。」 「この人は、自分にとって無益だ。。。」として、「目下」と決めつけた方に対する姿勢は、 手のひらを返したように態度が一変する。。。 言葉遣いが変わる。。。 態度が変わる。。。 威張る。。。傲慢、横柄な言動をする。。。 理不尽な扱いをする。。。 不義理をする。。。 恩を仇で返す。。。ようなことが多いと思うのです。 (表面的には、とても丁寧で、優しく、善人を装っていても、 その実態は、心の中で「(もう)あなたに用はない」などと、 上から目線で相手を見下し、目の上のたんこぶのように 邪魔者扱いするような方もいると思うのです。)一方、人様を主観的、利己的な視点で、 「この人は、自分の役に立つ!」 「この人は、繋がっていた方が得だ!」 「この人は、利用価値がある!」 「この人は、自分にとって有益だ!」という判断に至り、 「自分よりも上の者」 「自分よりも強い者」として、「目上」と判断した方に対する姿勢は、 相手に気に入ってもらえるよう媚びる。。。 相手の機嫌を取ったり、お世辞を言うなど諂う。。。 相手に付き従って追従する。。。 相手の顔色を見て行動する。。。 相手に盲信する。。。妄信する。。。依存する。。。ようなことが多いと思うのです。 (表面的には、相手を慕っているように装っていても、 その実態は、「相手を利用して自分が良い思いをしたい。。。」 という下心や邪念が渦巻いているということもあると思うのです。)損得勘定や上下関係。。。自分に都合が良いか否か。。。自分に有益か無益か。。。など、主観的、利己的な視点で、人様を判断する方は、 【相手によって自分の態度を変える。。。】 【同じ相手でも、その相手が、 その時の自分にとって有益か無益か、 役に立つか否かで態度を変える。。。】ということだと思うのです。その時の相手が、その時の自分の地位や権力、名誉、財産よりも上で、主観的、利己的視点による判断でも自分より上であれば、自分に有益な存在、役に立つ存在として媚び諂う 。。。その時の相手が、その時の自分の地位や権力、名誉、財産よりも下で、 主観的、利己的視点による判断でも自分より下であれば、自分に無益な存在、役に立たない存在として見下す。。。その時の相手が、ある面では自分よりも上。。。ある面では自分よりも下。。。であれば、有益で役に立つ面を利用するときは媚び諂い、それ以外の時は音沙汰なし。。。同じ相手でも、異なる相手でも、自分勝手な自分基準による主観的、利己的なものごとの見方でその時の自分がその相手よりも上か下かを判断し、それに応じて自分の態度や言動を変える。。。相手は「心ある人」であるにもかかわらず、「心ある人」として見るのではなく、相手の地位や権力、名誉、財産、肩書きや主観的、利己的な価値基準で判断し、それによって自分の態度や言動を変える。。。主観的、利己的な判断基準とは言え、その自分の信じる主義・主張を徹底して守っているような姿勢は、節操を貫いているように見えるものですが、相手や自分に何らかの変化がある度に、 「自分」がコロコロと変わる。。。 「言動」がコロコロと変わる。。。 「態度」がコロコロと変わる。。。のは、見方を変えさせて頂くと、「自分がない」と思うのです。「自分がない」ということは、自分の信じる主義・主張もない、ということ故に、そのような心のあり方や生き様は、節操がないのだと思うのです。節操がないが故に、「心ある人」を主観的、利己的な価値基準で判断してしまうのだと思うのです。自分が他者からそのようにされると、人一倍、不平不満、愚痴、怒りを露わにし、嫉妬、被害妄想を生み出すにも拘らず、そういう自分がいることに気付くことなく、他者にはそれをしてしまう。。。自分勝手な主観的、利己的な価値基準による、 「目上」には、媚び諂う。。。盲信する。。。 「目下」には、威張る。。。見下す。。。という、相手や相手の状況によって、自分の態度や言動をコロコロ変えるその様を、冷静に、客観的に見ている第三者や当事者からは、 不誠実な人。。。 不真面目な人。。。 狡猾な人。。。 さもしい人。。。 あざとい人。。。 信用できない人。。。 油断できない人。。。 偽る人。。。欺く人。。。 騙す人。。。裏切る人。。。などと、人格を疑われてしまうような判断をされ、距離を置かれたりしてしまうと思うのです。人様を客観的、利他的な視点で、 「自分よりも下の者」 「自分よりも弱い者」という判断をする方は、 「この方の為に自分ができることは何だろう。。。」 「この方はどんな助け、支えを必要とされているだろう。。。」 「この方のお役に立てることはどんなことだろう。。。」 「この方がお喜びになることは何だろう。。。」という相手を尊重し、相手を思い遣る心が、その判断基準になっていると思うのです。それ故に、その相手が「目下」であろうと、「目上」であろうと、誰であろうと、相手に対する自分の態度や言動が変わることはないと思うのです。そういう方にとって、地上的な地位や権力、名誉、財産、肩書きなどは、 【「心ある人」としての尊厳を超えるものではない】のだと思うのです。相手と自分を比較することも無い。。必要もない。。。それ故に、相手と自分の関係を、上下や優劣で判断することもないと思うのです。主観的、利己的な価値基準で人様を判断する方は、礼儀礼節を軽んじ、蔑ろにし、相手が「目上」か「目下」かによって、自分の態度や言動を変えるのに対し、客観的、利他的な視点で人様を判断する方は、礼儀礼節を弁えて、相手が誰であろうと、自分の態度や言動は変わらないその様を、冷静に、客観的に見ている第三者や当事者からは、 誠実な人。。。 真面目な人。。。 信用できる人。。。 信頼できる人。。。 安心できる人。。。 気が置けない人。。。 偽らない人。。。欺かない人。。。 騙さない人。。。裏切らない人。。。として、その人格を慕われると思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。だからこそ、「自分さえ良ければそれで良い」という考えは捨て、自分の他者に対する心のあり方や言動、態度を省みさせて頂きながら、反省すべきは反省し、正すべきは正させて頂く。。。そして、お互いを思い遣る心を持たせて頂き、お互いに助け合い、支え合い、分け合い、協力し合い、愛し合って生かさせて頂きたいものですね。「心ある人」して生まれてきた私たち。。。だからこそ、「心」や「心のあり方」「言動」を大切にさせて頂きたいものですね。お天道様が、地上の私たちに優劣をつけることなく、無償の愛を与え続けて下さっているのと同じように、どなた様に対しても同じように、愛の心をもって接することを心掛けて過ごしたいものですね。源光「本当に優れた人は、社会的地位や、 肩書きなどで人に接しないのです。 本来、社会的地位、肩書きと人間性の美しさは 一致しているのが当然です。 心の中で、人を見下しているようでは、 まだまだの人間です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201511030000/「実れば実るほど、勉強すればするほど、 自然に自分の至らなさに気づき、 謙虚になっていくのが人というものです。 天から観れば、謙虚で無い人は、まだまだ修行の足らない、 子供に過ぎないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303020000/「人の魂のレベルの差は、上位と下位では雲泥の差がありますが、 上位の人が偉いわけでもありません。 威張るような人は低レベルの人です。 心の世界は、この世の名誉や地位、権力、名声、 学歴、収入、財産、年齢差などとは全く次元の違う、 波長の乱れた地上とは違う高尚な真実の世界です。(一部抜粋)」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401100001/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401100002/「人によってお辞儀の角度を変えていませんか? 誰にでも深々とお辞儀する人。。 成功や幸せに最も近い人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605030000/「名誉も地位も権力も学歴も財力も収入も肩書きも 地上の小さな世界でしか通用しない煙のようなものです。 自分の才能をひけらかすことなく、笑顔を絶やさず、 周囲と同調してやっていける人こそ、立派な人です。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311130000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311140000/「自分より弱い立場の人には、トコトン強く、 横柄な態度で威張って、指図したり、 些細な失敗で怒鳴り上げたり、イジメたりする人は、 反面、自分より強い立場の人には、媚びへつらい、 卑屈な態度をとるのです。 男たるもの(女もそうですが)強きを挫き、弱きを助けるのが本質。。 弱いものイジメなど臆病者の所業情けない限りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507240000/ 「自分より弱い立場の人間には恐ろしく強く、徒党を組んで虐めるくせに、 強い立場の人間には平身低頭。。。 これが情け無い人間の行動パターンです。 将来、痛い目に会うのも当然です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506220000/「倒れた人を、そのうえ蹴りつける。。 世の中にはこのような無慈悲なことをする人もいるのですが、 よく観察してください。。 数年後に、自分と家族の身に大災難が降りかかっています。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408240001/「あなたが扱われたいように、他人を扱いなさい。 汝が隣人からされたくないことを隣人に行ってはならない。 隣人を自分自身として見ることで、 人は正しい基準を得ることが出来る。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107150001/「汝、強きものに媚びず、弱きものをいたわる。 それが計算ではなく自然にできれば、 幸運の女神は微笑むことを知れ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201020000/「弱き者、懸命に生きている者を助けるのが、 汝の勤めであり、汝の幸せである。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110020000/「あなたが、もっと精神的に強くなりたいと思うのなら、 弱い人をかばうことで強くなれます。 強い人のマネをしても弱くなるばかりです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406170000/
2016.11.17
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「明日の自分は、 今日の自分よりも1日経験を積んだ姿です。 満足のいく1日でありますように。。」今日を満足のいく1日にできるかどうかは、今日の自分にかかっていると思うのです。明日を満足のいく1日にすることができるように、明日を気持ち良くお迎えすることができるかどうかも、今日の自分にかかっていると思うのです。今日を満足のいく1日にする為には、 良心に従って過ごさせて頂く。。。 誠実に、真面目に過ごさせて頂く。。。 自分に正直に過ごさせて頂く。。。 人様のお役に立つことをさせて頂く。。。 人様にお喜び頂けることをさせて頂く。。。 それがやりたくないことでも、今日すべきことは今日する。。。 それがやりたくないことでも、今日できることは今日する。。。など、自分の魂が喜ぶ生き方をして、当たり前のことを当たり前にさせて頂く、という 「今を生きる」 「自分を生きる」姿勢で過ごさせて頂いていれば、満足のいく1日になると思うのです。同じ1日の中でも、時には、不本意なことや理不尽なこともあると思うのです。そこで、間違いや過ちを犯したとしても、それに気付き、直ぐに反省し、直ぐに謝罪し、直ぐに正したのであれば、満足のいく1日になり、気持ち良く今日の終わりをお迎えすることができると思うのです。そして、そのまま明日をも気持ち良くお迎えすることができると思うのです。反対に、 良心に背く。。。 不誠実、不真面目に過ごす。。。 自分を偽り、欺き、騙し、裏切る。。。 自分のことしか考えない。。。。 人様を偽り、欺き、騙し、裏切る。。。 やりたくないことから目を背ける。。。逃げる。。。 すべきことから目を背ける。。。逃げ。。。 やりたいことだけやる。。。など、自分の魂が喜ばない生き方をして、自分勝手で我儘な振る舞いをし、当たり前のことを当たり前のようにしない、という 「今を捨てる」 「自分を捨てる」姿勢で過ごしてしまうと、不平不満、愚痴、嫉妬、怒り、被害妄想を抱いたり、足ることを知らない欲望や邪念に翻弄されっ放しの1日になると思うのです。同じ1日の中でも、時には、間違いや過ちを犯すこともあると思うのです。良心のお陰様で、後ろめたさや後悔の念を感じて、間違いや過ちに気付かせて頂いたにもかかわらず、素直に反省、謝罪、修正することに努めなければ、不本意な1日になり、気持ち良く今日の終わりをお迎えできないばかりか、そのまま明日の朝をも気持ち良くお迎えすることができないと思うのです。その結果、前日から繰り越されてきた不平不満、愚痴、嫉妬、怒り、被害妄想に更なる不平不満、愚痴、嫉妬、怒り、被害妄想を上塗りし、更に足ることを知らない欲望や邪念に翻弄される、という悪循環の中に自分を置くことになってしまうと思うのです。そもそも、何かに対して抱いているつもりの不平不満、愚痴、嫉妬、怒り、被害妄想は、実は、良心に背き、自分や人様を偽り、欺き、騙し、裏切り、利己的で自分勝手な振る舞いをしてしまう不甲斐ない自分自身に対して抱いている弁解のようなものだと思うのです。足ることを知らない欲望や邪念に翻弄されてしまうのは、 「自分で自分を満足させる為に自分らしく生きよう!」という魂の叫びや良心の声に耳を傾けず、大切なことから目を背け、逃げようとしてしまう勇気のない自分。。。不甲斐ない自分。。。という隙間を自ら作り、その隙間を満たす為に、欲望や邪念で補填しまうからだと思うのです。 (本当の意味でその隙間を満たすことができるのは、 「自分らしく生きるぞ!」「良心に従って生きるぞ!」という 勇気ある決意、心のあり方、言動、生き様だと思うのです。)----「何があっても良心に従って過ごすことができた!」その達成感、充実感、満足感、自分に対する信頼が、自分を信じる力、自分を愛することをより強固なものとし、今日という1日を満足を持って送り出し、明日のスタートを気持ちの良いものにするのだと思うのです。「良心に恥じる酷い言動だと分かっていながら、 良心に背き、酷い言動をし続けてしまった。。。」「何が正しいかその全てを知っている」良心は、私たちの本質である魂に与えて頂いた心の羅針盤故に、「自分の魂=良心」ということでもあると思うのです。その良心に背き、良心に恥じる言動をするということは、自分を偽り、欺き、騙し、裏切る、ということに他ならないが故に、後悔の念に苛まれると思うのです。後悔の念を背負いながら、今日という1日が過ぎ去り。。。そのまま新しい1日である明日をスタートすることに。。。 (本当の意味でその1日が過ぎ去るのは、後悔の念の原因を 本当の意味で解消、清算した日だと思うのです。 その1日は「時」として過ぎ去っていても、 後悔の念を生み出した日として、 心の負の財産として蓄積され続けるのだと思うのです。)時に、地上的には、良心に背くことによって、 「満足のいく1日を過ごすことができた。」 「とても満たされた1日だった。」と感じることがあるものですが、私たちの本質である魂からすれば、 「良心に背くことは、自分を偽り、欺き、騙し、裏切ること。」 「心が満たされたのではなく、欲が満たされただけ。。。 欲を満たせば満たすほど、心は飢えに飢えるだけ。。。」ということ故に、残念でならないと思うのです。不完全で至らない点があるが故に、地上で修行をさせて頂いている私たち。。。間違いや過ちを犯さない、などということはないと思うのです。そのような私たちだからこそ、それが間違いや過ちだったということに気付き、分かっているのであれば、それを後悔の念として明日以降に持ち越すことのないよう、その日の間違いや過ちは、その日の内に良心に従って、素直に反省、謝罪、是正させて頂きたいものですね。そのようにさせて頂くことによって、後悔の念を生み出すような間違いや過ちという悪い経験が、反省、謝罪、是正によって軌道修正という良い経験になり、更には、後悔の念を明日以降に持ち越すこともなくなれば、今日という1日を満足して終えることができると思うのです。そして、気持ち良く明日を迎えることができると思うのです。このような小さな積み重ねを反復させて頂くことが、自分の心を磨き、輝かせていくのだと思うのです。心が磨かれ、輝いていけばいくほど、 「自分で自分を満足させる為に自分らしく生きよう!」という魂の叫びや良心の声に、素直に、当たり前に従うことができる自分になっていくのだと思うのです。そのような自分の魂が喜ぶ生き方で1日1日を生かさせて頂くことによって、満足のいく人生が築かれていくのだと思うのです。何もかもが目新しくてワクワクしていた子どもの頃の心で。。。何をするにも一所懸命だった子どもの頃の心で。。。今日という日を楽しませて頂きたいものですね。源光「今。。。この一瞬に、 あなたは5分後の自分を作ったのですよ。 嫌な顔をしませんでしたか? 嫌な言葉を発しませんでしたか? 人を中傷しませんでしたか?」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603020000/「まず自分自身を満足させるのです。 自分自身も満足させられない人に、 いったい何ができるというのでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410220000/「地上では、良心に従って進むと、損をして、 この世的価値観では、失敗のように見えるものが多いのですが、 実は、天の蔵に大いなる宝を積み上げていた!! こういうことはこの世を去るときに誰もが経験することです。 地上に肉体を持つのは、瞬きをするくらいの時間ですから、 欲に翻弄されて、自分を見失うほど時間の浪費はありません。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209060000/ 「昨日は心地よい一日でしたか? 昨日心地よい一日を過ごした人は、 今日も心地よい一日を過ごせます。 幸せとはこれの繰り返しですよ。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203240000/「あなたが、今日、良心に恥じない一日を生きるならば、 明日は、心にあたたかい太陽が昇ります。 今日、良心を裏切って生きるならば、 明日は、心に冷たい雨が降るでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211030000/「今日があるのは、昨日の想いから。 今日の想いは、明日の人生を形作る。 すなわち、人生は、心の創造物である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201250000/「あなたの現在の人生は、過去の選択の結果です。 同じことは、あなたの未来にもあてはまるのです。 良心に恥じない自分であればよいのです。 触れ合う人の喜びを我が喜びにして生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409140000/「人は、日常の生き方で未来が決まるのです。 普段の心のありようが一番大切です。 他を害さない、傷つけない、相手の心を痛めない。。ことですよ。 相手を苦しめれば、その行為によって自分が苦しむことになります。 さらに相手の恨みを受けて苦しみが増幅するわけです。 相手の心を害したときは、すぐに謝るなり償うなりして、 一刻も早く、清算しておくことです。 心は丸くおだやかに。。 これが未来を開き、日々を豊かに送るコツなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601180000/「汝は、常に自分自身の選択によって行動することができるが、 良心の命ずるままに行動するのが天命を果たす道である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110060000/「良心に従えば豊かになり、欲に従えば危うし。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108090000/「人間は、その人がどういう人生を歩んできたのか、 苦しい経験を積んできたのかではなく、事が起きた際に、 良心に従って正しく行動したかどうかで価値が決まるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410160002/ 「天と真っ直ぐに繋がっていれば、 道を踏み外して転落することはないのです。 人生の王道を胸を張って堂々と歩いて行けるわけです。 良心は、人間の創った人法の遥か上位にある天法です。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601140000/ 「天に従うものは栄え 天に逆らう者は亡ぶのです。 良心こそ天の光です。 あなたの生きる指針です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201508240000/ 「人が見ていようといまいと、正しき言動の出来る人でありましょう。 天は全てを知っています。 地上での勝ち負けは、大した問題ではないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310010000/「自分が心からやりたいことを見つけ出して自分らしく生きていく。。 これが最高の人生ですよ。。 人の価値観に振り回されることはありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408160001/「自分が望んだように生き、そして、それを続けることができるのならば、 それが最高の人生です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407200001/
2016.11.16
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「あなたの話は信じてもらえないでしょう。 しかし、あなたの行いは、誰もが信じざるを得ません。 だから行動してください。 良心に恥じない立派な行動を心掛けてください。 私はあなたをどのようなことがあっても守ります。 ですから正々堂々と生きてください。」未来のことを話す。。。想像したことを話す。。。夢を話す。。。希望を話す。。。要求したいことを話す。。。勧誘したいことを話す。。。「話す」ことは何でもできると思うのです。「話す」だけなら誰でもできると思うのです。しかしながら、「話」を聞いている相手の立場からすれば、「話」をされるばかりでは、信用や信頼を置くことができないと思うのです。 (口車に乗せられて、「話」だけで相手を信用し、 信頼してしまうこともあるものですが、 それは欲や邪念があったり、お人好しが祟って、 騙されているに過ぎないと思うのです。 表現を変えさせて頂くと、相手の「話」を信用したのではなく、 欲や邪念を生み出すような「話」の内容に翻弄され、 自分で自分を偽り、欺き、騙し、裏切った。。。 ということでもあると思うのです。)未来のことや、想像したことを話した人が、その未来や想像を実現する為の行動を何も起こしていない。。。夢や希望のことを話した人が、その夢や希望を叶える為の努力という行動を何も起こしていない。。。何らかの要求や勧誘したいことを話した人が、その要求し、勧誘することを自ら何もしていない。。。「話」を聞く側からすれば、 説得力がない。。。 口の達者な人。。。 口先の上手い人。。。となり、信用どころか、むしろ信用できない人と位置づけてしまうと思うのです。これは、何も「話」を聞く側だけのことではないと思うのです。「話」をしている当の本人も、あれこれと「話す」ばかりの自分について、 言行不一致な自分。。。 不甲斐ない自分。。。 意気地がない自分。。。 軟弱な自分。。。 説得力のない要求をする自分。。。 理不尽な勧誘をする自分。。。と思い、自分で自分の言葉だけでなく、自分さえも信用できなくなってしまうと思うのです。 自分で自分を信用できないのは、 自分で自分を偽るから。。。 自分で自分を欺くから。。。 自分で自分を騙すから。。。 自分で自分を裏切るから。。。 自分で自分の言葉を守らないから。。。 自分で自分の言葉に責任を持たないから。。。 自分で自分に恥じることをしているから。。。など、色々あると思うのです。信用できない自分。。。信用されない自分。。。を覆すのが、「行動」だと思うのです。未来のことや想像したことを話す。。。夢や希望のことを話す。。。例え、その「話」が実現していなくても、例え、他人にバカにされていても、それらを実現させる為の何らかの行動を起こし、誠実に、真面目に、自分を信じて、地道に努力を継続しているその様を見れば、その頑張っている姿から説得力が生まれ、人として信用、信頼できる、と思って頂けると思うのです。人様に要求、勧誘したことを、自分がお手本になって「やって見せる」からこそ、その要求や勧誘の内容に説得力が生まれ、人として信用、信頼できる、と思って頂けると思うのです。言うは易く、行うは難し。。。口自慢の仕事下手。。。Actions speak louder than words.「言うは易い」ことは自ら語らず、 「行うは難し」とされていることを自ら積極果敢に行為、行動として、お示しになられる方々の深く重みのあるお話やお志、ぶれることのない生き様にこそ、人様はついてくるのだと思うのです。そういう真実の人様に倣いたい。。。ついて行きたい。。。そういう真実の人様から学ばせて頂きたい。。。と私たちが思うように、私たち自身も、「言うは易く」を自ら語らず、「行うは難し」を積極果敢に行為、行動に起こそう、という心持ちと勇気をもって、日々を大切に生かさせて頂きたいものですね。自分に恥じることをしない。。。天から授かった良心に恥じることをしない。。。自分にも、他者にも、天にも、誠実、真面目。。。そういう心のあり方で、自分の言動に責任を持ち、言行一致に努める正々堂々とした生き様だからこそ、天は私たちをお守り下さるのだと思うのです。裏を変えさせて頂くと、 自分に恥じることをする。。。 良心に恥じることをする。。。 自分の言動に責任を持たない。。。 言行不一致。。。卑怯。。。など、自分にも、他者にも、天にも不誠実、不真面目な生き様であれば、天は私たちを守らない。。。否、守りようがないから、守れない。。。のだと思うのです。なぜ、天が私たちを守りようがないのか。。。守れないのか。。。天は、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場と肉体、生を与えて頂いている私たちに、間違った生き方や誤った生き方をしないように、心の羅針盤として、 「何が正しいかその全てを知っている良心」を授けて下さっています。それにもかかわらず、良心に背く。。。良心に恥じる言動をする。。。それは、間違った生き方や誤った生き方を自ら選んでいるということでもあると思うのです。良心に従うのも自由。。。良心に背くのも自由。。。良心に従う選択をした責任は自分にあり。。。良心に背く選択をした責任は自分にあり。。。天は、 「良心に従って生きることによって、 魂の修正や成長ができます。」という道標を与えて下さっているが故に、良心に従って生きる者は守ることができても、良心に背くという選択をした者は、自ら間違った道、誤った道を選び、その責任は因果応報の法則で、自ら背負うことになるが故に、守りようがない。。。守ることができない。。。のだと思うのです。何の為に、天は私たちに良心を授けて下さっているのか。。。それを良く考えさせて頂くことが大切だと思うのです。時に、良心に従い、言行一致に努めて生かさせて頂いていても、中には目には見えない行動や努力もあると思うのです。とかく人は、自分の目に見えるものから、ものごとを判断してしまうことが多いと思うのです。それ故に、目には見えない行動や努力に気付かず、 「何の行動も起こしていない。。。信用できない。。。」 「何の努力もしていない。。。信頼できない。。。」などと受け留められてしまうことも多々あると思うのです。例え、他者の思い込みや決めつけによって、そのように受け留められることになってしまっても、 「自分は良心に従って、堂々と生きている!」 「言行一致に努めている!」 「自分の言動に責任を持っている!」と自分で分かっているのであれば、気にする必要はないと思うのです。また、人様にも目には見えない行動や努力があることを忘れず、人様の表面的な言動だけで、安易に「この人はこう言う人だ!」と思い込んだり、決めつけたりすることのないように、気を付けさせて頂くべきだと思うのです。自分がされて嫌なことは人様にもしない。。。自分がされて嬉しいことは人様にもさせて頂く。。。それもまた良心に従った堂々とした生き様だと思うのです。~~~~自分では、人様にご納得頂けるような何らかの具体的な行為や行動を起こしたり、人様のお手本になるようなことをしていないにもかかわらず、 「〇〇すべきだ!」 「〇〇すべきではない!」 「〇〇して下さい。」 「〇〇してはいけない!」 「〇〇に決まりました。」 「〇〇には反対だ!」 「〇〇がお薦めだよ♪」 「〇〇をしてみたら♪」などとご立派なことを並べ立てて、あれこれと人様に要求したり。。。都合良く人様を使役しようとしたり。。。人様に何かを勧めたり、誘いかけたり。。。そのようなことを仰られる方の様子をご覧になられている人様からすれば、 「そんなに言うなら自分でやってみろ!」 「そんなに言うなら、説得できるような態度で示せ!」 「自分でやっていないものを勧めるな!」と思ってしまうと思うのです。「そんなに言うなら自分でやってみろ!」「そんなに言うなら、説得できるような態度で示せ!」「自分でやっていないものを勧めるな!」などのご指摘を頂いた時に、地位や権力、肩書きなどにものを言わせて、お達者なお口から出てくる言葉で、終始弁解に努め、結局、何もしない、何もできない、何も行動しない、という厚顔無恥な姿勢から生まれる言動では、信頼されず、信用されず、終いには、必要とされなくなってしまうと思うのです。「そんなに言うなら自分でやってみろ!」「そんなに言うなら、説得できるような態度で示せ!」「自分でやっていないものを勧めるな!」などのご指摘を頂いた時に、それを真摯な姿勢でさせて頂くことが出来るような自分であることができるように、人様が見ていようといまいと、ぶれることなく、「言うは易く」を、自ら多くを語らず、「行うは難し」を、自分でできる事から行為、行動に起こさせて頂きつつも、日頃から自分の言動に責任を持って、自分の行いを律し、自分の心を正しながら生かさせて頂きたいものですね。行為、行動として何かをやって見せるだけでも、とても素晴らしいことだと思うのですが、それをやらせて頂く時の心構えや、やり方なども、人様の立場になって、謙虚な姿勢でさせて頂きたいものですね。人様を思い遣る心を持たせて頂き、自分に与えて頂いた特技や能力を、良心という人としてあるべき正しい心をもって、人様の為に役立てさせて頂いたり、人様にお喜び頂けるようなことをさせて頂く為に、「言行一致」で活かさせて頂いていれば、認めて欲しい、注目して欲しい、などと自らアピールしなくても、認めて下さる方は、心で認めて下さるものだと思うのです。 (そもそも、人生の目的は、人様に認めてもらうことではなく、 人様のお役に立たせて頂くこと、人様にお喜び頂けるようなことを させて頂くことだと思うのです。)自分の言葉と行動を一致させる「言行一致」も大切だと思うのですが、自分の良心の声のまま、自分らしく、ありのままの自分で生かさせて頂き、更に、勇気をもって、言葉と行動を伴わせて一致させることが大切だと思うのです。言うなれば、【良心言行一致】で生かさせて頂くことが、人としてあるべき正しい心の道であり、人としてあるべき誠実な姿勢であり、この世の自分という身を守る術であり、自分の心、そして魂を守る術であり、魂の喜ぶ生き方であり、天に続く道なのだと思うのです。天に続く道を歩ませて頂いていれば、お手本としてもお役に立たせて頂くことができると思うのです。源光「あなたの人生は、 あなたの思い描いた通りになるのですが、 行動を伴わない想像力は、 何の意味も持たないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601050000/「人生の目的は行動です。 法則でも、思想でもありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201610020000/「人生を劇的に変えるもの、それが勘やひらめき。。 そしてそれを実行する勇気!!です。 勘やひらめきはあっても、実行する勇気が無いから、 失敗もしない代わりに成功もしないわけです。 」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280001/「人間のできることは、小さなことかも知れません。 でも、小さな一歩を踏み出さない限り、 次の二歩目、三歩目はなく、大いなる成長も 改革もありえないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305080000/「後世、人々がどのように、あなたを語ろうと 天はすべてを知っています。 日々、良心に恥じない言動で生きていきましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603240000/「いくら考えていても思考が堂々巡りするばかり。。 具体的に動けば 具体的な答が出ます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404170000/「人様に勧めたことは 自分も実践しなければ ただの法螺吹きですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510200000/「世間や社会にではなく、良心に従って、 自分に恥ずかしくないように生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160001/ 「世の中から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、 本当の意味でみんなの役に立ち、喜ばれる人になれるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407130001/ 「誰からも認められなくても、 真面目、誠実、勤勉に、コツコツと 責任を果たしていく人に、天は、 偶然を装った必然で、運命の転機である出逢いと、 幸運の鍵を用意しています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306100000/「人には誇りが必要です。。。 苦難の時も、悲運の時も、貧困に喘ぐ時も。。。少数派の時も。。。 誇りを失った時が全てを失う時です。 良心に恥じない、美しき人でありましょう。」(ラクシュミーさん)「少数派といえども凛として生きることです。 むしろ少数派であることを誇りに。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201609080000/「日々、手抜きなく、誠実に行動することが、 成功に達する最も確実な道です。」(ラクシュミーさん)「自分自身を裏切らないことですよ。 誠実な自分自身が、未来の結果として現れてくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201608100000/「この世を生きてゆくには誠実の一語です。。 誠実とは何をするにも真心を尽くす事、 すなわちいつわらない事、あざむかない事です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409190001/「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「人が見ていようといまいと、 正しき言動の出来る人でありましょう。 天は全てを知っています。 地上での勝ち負けは、 大した問題ではないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310010000/「天は、全てを知っています。 何を考えたか、心の中までも。。 ですから心正しく生きなければ、 この世を去る時に大後悔するのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209140000/「誰も見ていないようでも 全てを観ている存在があるのです。 あなたの日々の行動の全ては記録されているのです。 もちろん心の中で思ったことも。。。 良心に恥じることができるはずもありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506190000/
2016.11.15
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「人生において、多くの美しいものを手に入れた人は、 例外無く、多くの人を喜ばせた人なのです。 人生において、多くの汚いものを手に入れた人は、 例外無く、多くの人を苦しめた人なのです。」「最も多くの人を喜ばせたものが、 最も大きく栄えるのです。 最も多くの人を苦しめたものが、 最も大きく苦しむのです。」自分の人様に対する心のあり方や接し方、言動は、因果応報の法則によって巡り巡って、今度は、自分が人様にしたのと同じようなことを、人様からされるという形で返って来るのだと思うのです。人様に真心込めて親切にさせて頂けば、人様から真心ある親切をして頂ける。。。人様を下心ある表面的な親切で騙せば、人様から下心ある表面的な親切をで騙される。。。人様を思い遣り、優しくさせて頂けば、人様が気を遣って下さり、優しくして下さる。。。人様に不親切にすれば、人様から不親切にされる。。。人様を喜ばせて笑顔にさせれば、人様から自分が喜ぶようなことをして頂き、自分も笑顔に。。。 (相手が喜び笑顔になって下さったことで、 自分も喜びを感じ、笑顔になる。。。)人様を傷つければ、人様から傷つけられる。。。人様の悪口、陰口、批判、誹謗中傷をすれば、人様から悪口、陰口、批判、誹謗中傷をされることに。。。人様が助けを求めている時に手を差し伸べれば、自分が助けを必要としている時に人様が手を差し伸べて下さる。。。人様を偽り、欺き、騙し、裏切り、苦しめれば、人様に偽られ、欺かれ、騙され、裏切られ、苦しめられることに。。。人様に誠実に、真面目に、素直に接すれば、人様も誠実に、真面目に、素直に接して下さる。。。自分の人様に対する心のあり方が、人様の自分に対する心のあり方になる。。。自分の人様に対する接し方や言動が、人様の自分に対する接し方や言動になる。。。単純にそれだけのことだと思うのです。だからこそ、 自分がされて嬉しいことは、 人様にも積極的にさせて頂く。。。 自分がされて嬉しくないことは、 人様にも決してしないようにさせて頂く。。。という心持ちで生かさせて頂きたいものですね。----「今」の自分。。。それは、今生において、様々な境遇を経た過去があるからこその「今」の自分であると同時に、私たちの本質である魂の視点から見れば、幾度も輪廻転生を繰り返してきた過去生があるからこその今生の自分、「今」の自分なのだと思うのです。今生や過去生において与えて頂いた様々な境遇を、 どのような心のあり方で。。。 どのような言動をして。。。 どのような生き方をして、。。。 どのようなことをしてきたのか。。。その蓄積の結果が、「今」の自分の心のあり方、言動、生き方、行いや「今」の自分を取り巻く環境や境遇、出逢いの元、になっているのだと思うのです。「今」の自分は、今生における過去の自分や、過去生の自分そのものを表している、ということだと思うのです。それを因果応報というのだと思うのです。因果応報。。。それが善行であろうと、悪行であろうと、自分がした行いの報いは、巡り巡って自分に還って来る。。。自分が蒔いた種さんは、本人の意思に関係なく、自分で刈り取ることになる。。。過去の自分の行いの報いは、現在や未来の自分に還ってくる。。。現在の自分の行いの報いは、未来の自分に還ってくる。。。同じように、過去生の自分の行いの報いは、今生や来世の自分に還ってくる。。。今生の自分の行いの報いは、今生や来世の自分に還ってくる。。。のだと思うのです。 (過去生を生きてきた魂の兄弟の行いの報いは、 今生を生かさせて頂いている自分に。。。 今生を活かさせて頂いている自分の行いの報いは、 来世を生きる魂の兄弟に。。。 魂の兄弟は、6つで1つ。 代表的存在の本霊さんは、代表であるが故に、 残り5/6の分霊さんたちの行いの報いを受けることに。。。 そういうことなのだと思うのです。)過去の善行は、徳となって、現在や未来の良いことに♪過去の悪行は、業となって、現在や未来の試練や苦難に。。。現在の善行は、徳となって、未来の良いことに♪現在の悪行は、業となって、未来の試練や苦難に。。。人様が喜ぶ言動をさせて頂けば、巡り巡って、自分が喜ぶことが返ってくる。。。人様が嫌がる言動をすれば、巡り巡って、自分が嫌な思いをする。。。人様に対する自分の言動を覚えていようといまいと、その言動に相応しいことが巡り巡ってくる。。。因果応報は、単純にこういうことなのだと思うです。良心に常に従って天に続く道を歩ませて頂こうと、良心に背き、邪念や悪に心を支配されようと、どちらを選択するのも私たちの自由。。。自由であるが故に、自ら選択したことに対する責任は、自分でとらせて頂くことが筋。。。例え、責任逃れをしようとしても、この世的に責任逃れが出来たとしても、私たちの本質である魂が負うべき責任は、本人の意思に関係なく背負わせて頂くことに。。。天は私たちの表面的な言動ではなく、その言動の元になっている私たちの内面である心のあり方こそご覧になられており、その全てを見透かしていらっしゃられると思うのです。だからこそ、日頃から良心に従って、自分に恥じない生き方、良心に恥じない生き方、天に恥じない生き方をさせて頂くことを常とさせて頂きたいものですね。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。人様を思い遣る心を持たせて頂くことを忘れず、自分の心のあり方や言動に気を配りながら、過ごさせて頂きたいものですね。--------【善因善果】「良いこと」という善果は、善行という徳を積ませて頂くことから生まれるものだと思うのです。善行は積むもの。「積む」は、繰り返し行うこと、蓄えること、貯めること。。。繰り返し行うことも、蓄えることも、貯めることも、コツコツとした地味で地道な努力が必要な行いだと思うのです。地味で地道な努力が必要な行いをコツコツと積み重ねさせて頂くことによって、何ごとがあっても揺らがない心、ぶれない心が育まれ、更にゆっくりと磨かれ、美しい心が築かれていくのだと思うのです。同じ「善行」でも、色々あると思うのです。純粋な心から生まれる善意による善行もあれば、何らかの見返りを求める下心から生まれる「表面的」「見せ掛けだけ」の善行もあると思うのです。当初は、純粋な心から生まれる善意で善行をさせて頂いていても、時間の経過とともに、何らかの見返りを求めるようになってしまうことも、無きにしも非ずだと思うのです。人の心はそれくらいに移ろい易いものだと思うのです。それ故に、天の立場になって観させて頂くと、人の善行の真意をゆっくりと見極めさせて頂く時間が必要ということでもあると思うのです。それほどまでに天にお見守り頂いている私たちは、天に心から感謝させて頂きながら、天(天法)にも、自分にも恥じることのないよう、良心に従って、コツコツと、地道に善行を積ませて頂きながら、生かさせて頂いていれば、それで良いのだと思うのです。いつの日か、自分の行いの積み重ねを真の「善」として、天がお認め下さったときに「良いこと」が降ってくるのだと思うのですが、それは私たちが天に要求するようなものではないが故に、それを期待することなく、ただただ善行を積み重ねさせて頂いていればそれで良いのだと思うのです。--------【悪因悪果】「悪いこと」という悪果は、悪行という業を積むことから生まれるものだと思うのです。悪行は耽るもの。「耽る」は、一つのものごとに熱中すること。。。見方を変えさせて頂くと、周りが見えなくなる。。。見えなくさせられている。。。ということでもあると思うのです。自ら抱いた邪念や、その邪念によって引き寄せられた悪魔に心を支配され、悪行に耽ってしまう。。。悪行をさせているのが、自ら抱いた邪念や、その邪念によって自ら引き寄せた悪魔であったとしても、 その邪念を生み出しているのは自分自身。。。 悪魔を引き寄せるような邪念を生み出したのも自分自身。。。であることを考えると、悪行の責任の所在は、やはり自分にあると思うのです。例え、自分勝手な自分基準によるものごとの見方で、どんなにか「これは悪行ではない!」と主張しても、「これは悪行ではない!」とする言動を生み出した時の心のあり方が良心に背いていたり、天法に外れた言動であったことさえも見透かされていれば、もはや弁解の余地はないと思うのです。自分の悪行に対して、悪果という報いを受けるのは、過去に自分が人様にしてしまった言動により、人様を苦しめ、悩ませ、悲しませるなど、人様がどのような思いをされたのか。。。それを自ら体験させて頂くことを通じて、過去の自分が如何に酷いことをしてきたかを自ら知り、心から反省し、心のあり方を正させて頂くことに、その目的があるのだと思うのです。とはいえ、心から反省させて頂くことができ、心のあり方が美しく正しくなっただけでは、それは自分だけのことで、自分の言動により人様を苦しめ、悩ませ、悲しませた、という悪行から生じた業は償われていないと思うのです。その業を償わさせて(清算させて)頂く為には、その逆のことをさせて頂けば良いと思うのです。それが、 【人様のお役に立つことをさせて頂くこと】 【人様にお喜び頂けることをさせて頂くこと】なのだと思うのです。【人様のお役に立つことをさせて頂くこと】や【人様にお喜び頂けることをさせて頂くこと】は、人様の喜びを自分の喜びとさせて頂く、という利他心であり、奉仕の心そのものだと思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち故に、人様を思い遣る心を持たせて頂き、人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることをさせて頂く、という自らの善行によって、不完全な私たちが自ら積んでしまった業を、解消・清算させて頂くことができるのだと思うのです。だからこそ、天から授かった【何が正しいかその全てを知っている良心】に従って、人様にお喜び頂き、笑顔になって頂けるように、【人様のお役に立つこと】や【人様にお喜び頂けること】を積極的にさせて頂くことが大切なのだと思うのです。業を積んでしまうのは、良心に背き、「自分さえ良ければそれで良い。」という利己心で、自分がされて嬉しくない悪行を人様にしてしまうから。。。徳を積ませて頂くことができるのは、良心に従って、「人様に喜んで頂けたら自分も嬉しいなぁ♪」という利他心で、自分がされて嬉しいと感じるような善行を人様にさせて頂くから。。。積んでしまった業を解消・清算できるのは、改心と善行。。。そのことを忘れずに、日々の自分の心のあり方や言動に気を付けながら過ごさせて頂きたいものですね。 天や自分に恥じることのない心のあり方や言動をしているか。。。天や自分の魂が喜ぶような心のあり方や言動をしているか。。。天が地上の私たちをいつも観て下さっているように、自分で自分の心のあり方や言動を、冷静に、客観的に、俯瞰させて頂くことを通じて自分を観察し、自分を律し、正すべきを正させて頂くことが大切だと思うのです。源光「人は、他に対し善を行っている時、 自らに対して 最善を行っているのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206140000/ (裏を変えさせて頂くと、 人は、他に対し悪を行っている時、 自らに対して最悪を行っているのです。。。 ということになると思うのです。)「他人にしたことは、 思いもしない時に、全然違うところから 全部自分に返ってきます。 良いことも悪いことも。。。 このことがわかっている人が 人生を踏み外すわけがないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201609020000/「あなたが扱われたいように、他人を扱いなさい。 汝が隣人からされたくないことを隣人に行ってはならない。 隣人を自分自身として見ることで、 人は正しい基準を得ることが出来る。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107150001/「真心をもって人を助ければ、 必ず自分も人から助けられるのです。 嫌な思いを他人にさせれば、 必ず自分も人から嫌な思いを返されるのです。」 (ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408100000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408100001/「あなたの今は、過去の蓄積です。 今が良かろうと悪かろうと。。。 あるべくして今日の自分があるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201604220000/「原因なしに起きる結果は絶対にないのです。 蒔かぬ種は絶対に生えないが、 蒔いた種は必ず生えるのです。 種の種類によるのです。 善の種を蒔くことですよ。 悪の種など絶対に撒いてはいけません。 芥子の花が咲きますから。。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602250000/「身の回りで起こる、どんな良い事も悪い事も、 自分に無縁なものはありません。 全てに原因があるのですから、 今から善因の種を撒いて生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312200000/「原因のない結果はありません。 原因を探求し続ける力が、 人を発見者にも偉人にも 成功者にも覚者にもするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405040000/「人はある運命に出会う以前に 自分がその運命の種を蒔いているのです。 良運の種も、悪運の種も。。。。 過去の自分が蒔いたのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509100000/ 「あなたの現在の人生は、 過去の選択の結果です。 同じことは、あなたの未来にもあてはまるのです。 良心に恥じない自分であればよいのです。 触れ合う人の喜びを我が喜びにして生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409140000/「地上は、自由にしていられる場として創られたのです。 ですから善行をするも悪行をするも自由です。 ただ因果応報の法則が働く。。。 前世の善行や習得した技術は今世の才能として持ち越しています。 今世、修正出来なかった業は次に持ち越される。 ただそれだけのこと。。。全て自分の責任です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201508090000/「瑞々しい感性で生きて行く人は、 ずっと青春時代を生きることができます。 愛と勇気と希望を持って触れ合う人々を元気に明るくして行く人は、 ずっと幸運の時代を生きることができます。 妬み、そねみ、恨み、ツラミで、自己中心に生きて行く人は、 ずっと暗黒の時代を生きることになります。 どの道も自由に選択することが出来ますし、 途中で道を変更することも自由です。 神仏は静かに見守って、その人の自主性に任せます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310310000/ 「地上では、良心に従って進むと、損をして、 この世的価値観では、失敗のように見えるものが多いのですが、 実は、天の蔵に大いなる宝を積み上げていた!! こういうことはこの世を去るときに誰もが経験することです。 地上に肉体を持つのは、瞬きをするくらいの時間ですから、 欲に翻弄されて、自分を見失うほど時間の浪費はありません。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209060000/「悪と善。。両面を持つのが人間です。 悪が無ければ善の何たるかも分かりません。 また必要悪というものも存在します。 ある場面では悪い人と思っても、 違う場面では良い人のこともあります。 その逆もあり、善人悪人の区別はできるものではありません。 しかし誰もが持って産まれた良心という鏡に照らして行動するならば、 人は決して悪の道に迷い込むことは無いのです。 良心の道は天啓を得る唯一の道ですよ。 真っ直ぐに天に続く道を歩んでいきましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311100000/ 「現在うまくいっているとしても 本当は間違った事をしていると、 心の底で分かっているなら、すぐに止めることです。 現在うまくいかないとしても 良心に恥ない正しい事をしていると 心の底でわかっているなら、諦めず継続していきましょう。 正しい努力だけが真の幸せを運んでくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311210000/「この世で苦しむ人は、全て利己を図った為である。 この世を楽しめる人は、総て利他を望んだ為である。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201280000/「偽物の幸福は快楽を与え、 醜悪と高慢を供えますが、 本物の幸福は歓喜を与えて、 智慧と慈悲を具えるのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206110000/ 「人様の喜ぶ姿をイメージして無心に、奉仕して下さい。 それが限りなく天に通じる生き方ですから。。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209220000/「不幸になっていく人は、自分の喜びばかりを考えているのです。 人を喜ばせることを考えて生きていきましょう。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207180000/「触れ合う人達に喜んで頂く時、その人の心は最高の高みに達しているのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203300000/「最も残酷な罪は、宗教の名の下に行われます。 最も美しい行為は、愛の名の下に行われます。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205190000/「人を喜ばせたいし、助けたい。 そういう人間になれば、幸運が舞い降りるであろう。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108060000/ 「優しい心で生きる時に聞こえる声は真実の声ですが、 邪念を持った時に聞こえる声は、偽りの声です。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205030000/
2016.11.14
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「受け取る愛は、与えた愛に等しいのです。 何も与えていないから不幸せなのです。 一方的に与えているから幸せなのです。」「無償の愛なしに真の幸福は得られないのです。。。 見返りを求めない 無償の愛があれば永続する不幸はありえません。 絶対にあり得ないのです。」「光そのもの。。。 それが本当の神仏です。 あなたの笑顔が私の喜びです。 無償の愛に勝るラッキーがこの世にあるはずもないのです。」「愛」は、愛に始まり、愛に終わるのではなく、 いつ何時も満ち溢れているのだと思うのです。「愛」によって、この世という修業の場を与えて頂き、「愛」によって、この世に生まれる機会を与えて頂き、「愛」の下にこの世に生まれ、日々「無償の愛」によって、日々をお見守り頂いている私たち。。。私たちがそれを感じようと感じまいと、「愛」を常に与えて頂いている私たち。。。その「愛」によって愛されている私たち。。。自分に降り注がれている「愛」は、独り占めしようとする必要はないと思うのです。独り占めしようと思っても、独り占めできるような降り注がれ方ではなく、 常に「愛」の中で生かさせて頂いている。。。 常に「愛」で満たされている。。。ほどに降り注がれているが故に、どんなにか自分に注がれている「愛」を、人様や社会の為に活かさせて頂いても、「愛」は決して減ることはなく、常に満たされていると思うのです。むしろ、自分に注がれている「愛」を人様や社会の為に活かさないと、ただ「愛」を溢れさせてしまうだけで、宝の持ち腐れになってしまい、勿体ないことをしているだけだと思うのです。天から降り注がれている「愛」は、天から直接的に自分に降り注がれている「愛」もあれば、どなた様かに降り注がれた「愛」が、様々な人々の「愛」を経由し、様々な「愛」の経験を積んだ、様々な「愛」の形となって、自分に巡ってくることもあると思うのです。自分の「愛」を他者に与えているようで、実は、他者から与えて頂いている「愛」もあれば。。。他者から「愛」を与えて頂いているようで、実は、自分が他者に与えている「愛」もあり。。。自分が一方的に「愛」を差し出しているつもりでも、差し出すことが出来る「愛」があるということは、どこかから「愛」を与えて頂いているからこそ、差し出すことが出来る、ということでもあると思うのです。日頃、そのようなことを意識していなくても、そこここに愛の繋がりがあると思うのです。否、全てが愛の繋がりの結果なのだと思うのです。その愛の繋がりは、昨日今日に始まったものではなく、人知の及ばない遥か彼方から届いている夜空の輝きであるお星様の光のように、古くから「愛の光」として受け継がれている「愛」に、新たな一日を迎えると共に、お天道様によって降り注がれる「愛」が新しい息吹を吹き込んで、「愛」の繋がりを育んで下さっているのだと思うのです。それ故に尽きることがないのだと思うのです。尽きることがない「愛」だからこそ、自分に降り注がれている「愛」や、その「愛」から育まれた自らの「愛」は、人様や他の為にどんどん活かさせて頂けば良いと思うのです。それを「愛する」というのだと思うのです。人様を愛する。。。動植物さんを愛する。。。自然を愛する。。。全てを愛する。。。愛を形にする。。。「愛」は尽きることがないが故に、どんなにか多くの存在を「愛する」ことをしても、失うものは何もないと思うのです。だからこそ、何も心配せずに、私たちに降り注がれている「愛」を、他を「愛する」ことに活かさせて頂けば良いと思うのです。お互いがお互いに愛を与え、お互いがお互いによって愛を与えられるという「与え合う」その様を「愛し合う」というのだと思うのです。各々の「愛」を、各々を「愛する」ことに活かす「愛し合う」というその美しい心のあり方や美しい育みは、私たちに「愛」を与え続けて下さっている天が、地上で修業をさせて頂いている私たちに教えて下さっている愛の心そのものなのだと思うのです。愛をもって生かさせて頂く。。。何ごとをさせて頂くにも愛(心)を込めさせて頂く。。。何ものも愛させて頂く。。。という愛の心で生かさせて頂くことは、私たちの本質である魂が喜ぶ生き方であるだけでなく、天がお喜び下さる生き方でもあると思うのです。そして、それは、「愛の心」で生かさせて頂くことの美しさを、自ら「無償の愛」を降り注ぎ続けることを通じて教え続けて下さっている天に対する恩返しにもなるのだと思うのです。----天は、私たちに「無償の愛」を与え続けて下さりますが、私たちに恩着せがましくすることもなければ、出し惜しみをするどころか、与え続けて下さっている。。。見返りを求めるどころか、私たちの幸せの為に与え続けて下さっている。。。天が教えて下さる「愛」の姿だと思うのです。本当の愛は、 相手の全てを受け入れること。。。 何らの見返りも求めずに、与えること。与え続けること。。。 give & take ではなく、give & give で与え尽くすこと。。。をいうのだと思うのです。「愛」はただただ与え尽くすもの故に、相手の方がそれを受け入れて下さろうと、受け入れて下さるまいとそれは相手の方の自由。。。それ故に、愛の心をもって人様に接した時に、それが相手に伝わらなくても悲しむことはないと思うのです。自分が与えた愛を理解して欲しいという、「見返り」を求めている give & take の「愛」ではない姿勢故に、悲しむのだと思うのです。十人十色。。。千差万別。。。「愛」は、伝わる方には伝わり、 伝わらない方には伝わらないもの。。。それはそれで良いと思うのです。天は、地上の私たちがそれを知ろうと知るまいと、それを感じようと感じまいと、ただただ「無償の愛」を降り注いで下さっています。私たちも天と同じようにさせて頂けば良いのだと思うのです。ただただ愛の心で生かさせて頂く。。。ただただ愛(心)を込めさせて頂く。。。ただただ愛する。。。そういう心のあり方で、「愛」を実践させて頂くからこそ、天から降り注がれている愛を感じ、愛に満ち、愛に包まれて、生かさせて頂くことができるのだと思うのです。そして、天に帰還させて頂くときは、その心のあり方に相応しい「愛」に包まれた美しい場所に帰還させて頂くことになるのだと思うのです。----「与える」ことは、とても美しいことだと思うのです。ただただ 「お喜び頂ければ♪」 「お役立て頂ければ♪」という思いでさせて頂く「与える」という行為は、日々、私たちが絶え間なく与えて頂いている天の無償の愛と同じだと思うのです。天の無償の愛と同じだからこそ、美しい行為なのだと思うのです。そのような美しい行為をさせて頂くことは、天に通じる生き方故に、どんどん心が満たされ、幸せになっていくのだと思うのです。行為こそ美しく見えるものであったとしても、中には、「与える」ことについて、 押し付けがましくなったり。。。 恩着せがましくなったり。。。 半ば強制的になったり。。。 見返りを期待したり、要求したり。。。 感謝を要求したり。。。 言葉巧みに受け取らせようとしたり。。。する方もいらっしゃると思うのです。天は地上の私たちに絶え間なく無償の愛を与え続けて下さっていますが、無償の愛を与えて下さっているからと言って、地上の私たちに何かを要求することも無く、ただただ与え尽くして下さっていると思うのです。せっかく「与える」という素敵な行為をしていても、それが 自己満足の為。。。 相手からの見返りを期待する。。。 相手に何かを要求したい下心がある。。。などの思いが原動力となっていては、美しい行為とは言えないと思うのです。「与える」ときは、天が与えて下さる無償の愛のように相手を思い遣る純粋な気持ちで。。。 「与えて頂く」ときは、感謝の心で相手の純粋なお気持ちを汲ませて頂き、相手の美しい心と、その美しい心を乗せた「もの」を有り難く拝受させて頂く。。。そういう自分でありたいものですね。----私たちは、自分の魂の修正や成長の為、つまり、「自分の為」に生まれてきているのにもかかわらず、「自分の為」に何かをするのではなく、「自分の為」という利害から自分を切り離して、過去から培ってきた自分の特技や能力を、「触れ合う方」のお役に立つことや、「触れ合う方」にお喜び頂けることなど、自分に出来ることを「与える(差し上げる)」。。。人様を思い遣る優しい心、温かい心、大きな心、豊かな心を「与える(差し上げる)」。。。ことを通じて、真の「幸せ」を感じることができるのだと思うのです。そして、それが真の奉仕の仕方なのだと思うのです。「触れ合う方」のお役に立たせて頂けることや、お喜び頂けることをさせて頂くことによって、「幸せ」を感じているのは自分であれど、その「幸せ」を与えて下さっているのは、「触れ合う方」だと思うのです。「触れ合う方」の存在がなければ、お役に立たせて頂くことができない。。。お喜び頂けるようなことをさせて頂くことができない。。。自分の特技や能力を活かせない。。。など、「させて頂くこと」「与えること」が何もなくなってしまうと思うのです。「触れ合う方」が存在して下さっているお陰様で、「触れ合う方」のお役に立たせて頂くことができる。。。「触れ合う方」に喜んで頂けるようなことをすることができる。。。自分の特技や能力を活かさせて頂くことができる。。。故に、「与える(差し上げる)」ことや、「~をさせて頂ける」ことは、とても有り難いことなのだと思うのです。そのように考えさせて頂くと、 「~してやっている」などのような、押し付けがましい発想や言動は生まれないと思うのです。自分で「触れ合う方」の為に、何かをさせて頂いていたつもりが、「触れ合う方」が存在して下さっているからこそ、実は「幸せ」を与えて頂いている。。。ということを忘れずに生かさせて頂きたいものですね。とはいえ、 「触れ合う方の為に何かをさせて頂けば、 (触れ合う方の為に何かをしてやれば) 自分が幸せになれるんだ」等という下心や邪な考えをもって、 「触れ合う方」に何かをさせて頂くのではなく、 「触れ合う方にお喜び頂けたら自分も嬉しい。」 「触れ合う方のお役に立たせて頂けたら自分も嬉しい」」という純粋な気持ちや思い遣りの心や心配りで、「触れ合う方」に何かをさせて頂こうという姿勢でありたいものですね。「何かをさせて頂く(何かを与える)」といっても、見返りを求めるような give & take ではなく、与えつくす give & give の心で生かさせて頂くことが大切だと思うのです。なぜなら、自分が求めていなくとも、「喜び」を与えて頂いている、ということは良くあるからです。 (それに気づいていない自分がいる、 ということも良くあると思うのですが。。。)「今ある自分」というのは、「今ある自分」に至るまでに、触れ合いを頂いた多くの方々からの愛やお心遣いや智慧や知識や助けなどを与えて頂いてきたからこその「今ある自分」だと思うのです。つまり、「触れ合う方の為」に何かをさせて頂くという心持ちや行いは、一見「与える」だけに見えるものですが、実は、今まで自分が与え続けて頂いたことに対する「恩返し(報恩)」にもなっているのだと思うのです。 (報恩は奉仕でもあり、奉仕は報恩でもあると思うのです。)「今ある自分」が生き続けさせて頂いているということは、生き続けている間は、これから触れ合いを頂くであろう方々から沢山のものを与えて頂くことになる、ということでもあると思うのです。そのように考えれば、「触れ合う方の為」に何かをさせて頂く、何かを与える(差し上げる)という人様を思い遣る心やその心から生まれる行動は、過去の自分が与えて頂いたことに対する「恩返し(報恩)」としてだけではなく、未来の自分が与えて頂くであろうことに対する「恩返し(報恩)」を先にさせて頂く、くらいの気持ちで、「触れ合う方」のお役に立たせて頂けることや「触れ合う方」にお喜び頂けることをさせて頂きたいものですね。人様の喜びや幸せの中に、自分の喜びや幸せを見出す。。。人様にお喜び頂けたとき、その人様の喜ぶ姿や笑顔を見て、自分も喜びを感じ、自分も笑顔になると思うのです。自分に「喜び」を与えて下さっているのは、その人様の喜びですが、その人様の喜びが生まれたのは、「人様にお喜び頂けたら。。。」という思いで、その人様を思い遣り、その人様の為に何かをし、何かを与えた自分の心のあり方と行いがあるからこそだと思うのです。人様にお喜び頂けるだけでも幸せなのに、自分も喜びを感じて幸せに。。。人様の為に与えた愛や、人様の為に愛を以てさせて頂いたことは、巡り巡って、自分の喜びや幸せという、自分が受け取る愛になって、返って来る のだと思うのです。だからこそ、決して見返りを求めるような下心を抱くことなく、give & give の心で、愛の心や愛ある行いを与え尽くさせて頂きたいものですね。。。天が私たちに無償の愛を与え続けて下さっているように。。。源光「愛は幸運の財布です。 与えれば与えるほど中身が増えていく 笑顔と喜びと幸運そして財運の財布です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510180000/「一生を終えて後に残るのは、 あなたが集めたものではなくて、 あなたが与えたものなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505190000/ 「他人のための行いにこそ価値があります。 無償の愛。。それが人生の重要な秘訣のひとつです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406020001/「汝は、他人に幸福を分け与えることにより、 それと正比例して、自分の幸福を増加させることができる。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112300000/「これを人に与えれば、私は何も食べられない。 このように考える者は、利己で餓鬼に生まれる。 これを私が食べれば、人に何も与えられない。 このように考える者は、利他で神々に生まれる。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201310000/「人は、他に対し善を行っている時、 自らに対して最善を行っているのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206140000/「自分の幸福を人さまに分け与えましょう。。 この最高の手段を身につけている人は、 幸福を永久に持続させることができます。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404210000/「不幸になっていく人は、自分の喜びばかりを考えているのです。 人を喜ばせることを考えて生きていきましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207180000/「人の価値とは、その人が得たものではなく、 その人が与えたもので測られるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510260000/「与える手は、どの手も美しいのです。 与えることは、自らを輝かせます。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207050000/「触れ合う人に笑顔でプレゼントをしてください。 大切なのは、高価なものを与えたか。。 どれだけ多くを与えたかではなく、 どれだけ愛をこめたかです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405010000/「思い残すことなく人を愛してください。 愛に優る美しいものは世界に存在しないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605200000/「人が天から魂をさずかっているのは、 触れ合う人々を愛するためである。 全世界の人々を愛するためである。 憎しみ合うためではない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108020000/「他人のための行いにこそ価値があります。 無償の愛。。それが人生の重要な秘訣のひとつです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406020001/「人は心の美しさと、いかに生前、人様のお役に立てたか?で、 こちらの住む場所が決まるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210160000/「最も美しい行為は、愛の名の下に行われます。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205190000/「愛することによって失うものは何もないのです。 もっと家族を、そして人を、動物を、植物を、 自然を愛さなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404150000/「虚しいとは、誰も愛せないという苦しみ。。 地獄とは、自分を愛せないという苦しみです。。 とにかく愛することから始めるのです。。 それは動物でもいいのです。。 心の底から愛することです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407180000/
2016.11.13
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「運命を避けようとして 自ら選択した道で、 人は真実の運命と出会うのです。 先天的運命に流されないことです。。。 私の人生こんなもの。。。と諦めないでください。」「自分の心の中で成長するもの。。。 それが運命です。 最初から決まっているものでも 後から与えられるものでもありません。」「自分の運を信ずる人くらい 運の良い人はいません。 置かれている環境ではありません。 運は自分で引き寄せることができます。」「あなたの人生はこんなものでは終わらないのです。 あなたは諦めの境地のつもりかも知れませんが、 潜在意識は全く諦めていないのです。 眠りから覚めて行動するときは今でしょう!!」「自分の心と対話してください。 幸運も不運も、自分の心の中に住んでいるのです。。。 対外的問題ではありません。 正しい思考をしていますか。。。 自暴自棄になって自分を痛めつけていませんか?」「〇〇だから、〇〇できない。。。」「〇〇できない」という理由を、自分以外の「何か」のせいにしたり、自分で自分を納得させたり、自分で自分に弁解する為に、先天的運命のせいにすることがあると思うのです。しかしながら、「〇〇できない」本当の理由は、自分以外の「何か」のせいにしたり、先天的運命のせいにしてしまう自分の心のあり方そのものにあると思うのです。「〇〇できない」というよりも、むしろ「〇〇したい」と思っていても、それをしようとしない自分や、やってもいないのに、それをできないと決めつけている自分がいる。。。「〇〇できる」にもかかわらず、それをしたくない自分がいる。。。のだと思うのです。自分の「したいこと」や「できること」があるにもかかわらず、それを自ら「〇〇しない」ように仕向けたり、自ら「〇〇できない」ように仕向けたりしている自分がいるのだと思うのです。それ故に、したいことさえしなくなる、出来ることさえ出来なくなる、という悪循環に陥ってしまうのだと思うのです。ということは、逆の発想をさせて頂けば良いと思うのです。「できる」と思っているからこそ、「できる」と信じているからこそ、「できる」ということでもあると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為にこの世という修行の場を与えて頂き、生かさせて頂いている私たち故に、 「出来るかどうかわからない」という自分勝手な自分基準による判断で自分の無限の可能性の道を閉ざすことなく、 「とりあえずやってみよう!」 「やってみなければわからない!」という 心のあり方で生かさせて頂きたいものですね。「〇〇をやってみよう! やってみるべきだからこそ、 〇〇をする機会を与えて頂いているに違いない!」「自分にも出来るかもしれない! コツコツと努力していれば、いつかできるからこそ、 挑戦し、努力する機会を与えて頂いているに違いない!」「やらないで後悔しても道は拓けないが、 やって失敗して後悔したときは道が拓ける! 失敗は成功の元だから!」「やらない理由を考えて、自分に弁解する時間があるなら、 その時間を〇〇をやることに当てた方が楽しいはずだ!」数ある選択肢の中から、自分らしく、自分に正直な気持ちで、積極的、肯定的、前向き、楽観的な心のあり方で、自ら決意し、勇気をもって歩み始め、自由に羽ばたくからこそ、真実の運命に巡り合うのだと思うのです。反対に、数ある選択肢の中から、自分で自分の本心を偽り、欺き、騙すなど、消極的、否定的、後向き、悲観的な心のあり方で、暗い世界に逃げ込んだり、自分の殻に閉じこもるからこそ、先天的運命や他者に引きずられたり、「私の人生はこんなもの。。。」として、諦めてしまうのだと思うのです。 (諦めているのは、自分でも、 私たちの本質である魂は、決して諦めていないと思うのです。 なぜなら、魂の修正や成長をさせて頂く為に、 地上という修行の場に生まれるという、 貴重な機会を与えて頂いていること。。。 地上でしか修行ができないこと。。。 を私たちの本質である魂は良く知っているからです。どちらの心のあり方で生きるのか。。。どちらの道を歩んでいくのか。。。それは自分次第だと思うのです。自分次第だからこそ、自分の運命は、自分の心のあり方や努力次第で、自分の思い通りにすることができるのだと思うのです。 (同じ運命でも、生まれる前から決まっている「宿命」は、 自分と関わりのある方々との兼ね合いがあるが故に、 自分の意思だけではどうにもならないもの。。。 それ故に、宿命は変えられないものだと思うのです。)命を運ぶと書く「運命」。。。自分の命は、自分で運ぶものであるが故に、自分がすべきこと、自分ができることをする、ということを、良心に従って、地道に、誠実に、真面目に、努力し、信念を持って、取り組ませて頂くことによって、切り拓かれていくものなのだと思うのです。運命を切り拓いていく。。。同じ「運命」でも、切り拓いた従前従後では、その「運命」のキャパシティーが異なると思うのです。従前の運命を切り拓いたり、乗り越えなければ、いつまでも従前の運命のままだと思うのですが、従前の運命を切り拓かせて頂き、それを乗り越えさせて頂くことによって、従後の運命が新たに構築されるのだと思うのです。その新たに構築された従後の運命もまた、自分の努力次第で切り拓いたり、乗り越えさせて頂くことができるものなのだと思うのです。そのようなことを繰り返しながら、段階的に運命を切り拓いていくことが、運命を超える、ということなのだと思うのです。そうやって自分がすべきこと、自分ができることのキャパシティーが少しづつ広がったり、大きな心、豊かな心が育まれたりしていくのだと思うのです。更に、人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることをさせて頂けることのキャパシティーも大きくなっていくのだと思うのです。そしてまた運命を切り拓き、運命を超えていく。。。その繰り返しなのだと思うのです。 (反対に、自分がすべきことをしない。。。 自分が出来ることもしない。。。 何かを目指す「志」もない。。。 人様のお役に立とうとも立ちたいとも思わない。。。 人様に喜んで頂けることをしようともしたいとも思わない。。。 それでは、自ら運命を切り拓くことができないが故に、 他によって自分の運命が引きずられていくのだと思うのです。 附和雷同。。。 長い物には巻かれよ。。。 事勿れ主義。。。 人様の顔色を見て行動。。。 無関心。。。 などのように、「自分」という意識を 与えて頂いているにもかかわらず、 「自分」だけの特技や能力を与えて頂いているにもかかわらず、 「自分らしく」く生きていないからこそ、 自分の運命が引きずられる、のだと思うのです。)運命の過程において与えられる「運」は、 「運は天にあり」 「運を天に任せる」という言葉があるように、こちらから天に要求するようなものではなく、天のご意志にお任せするものなのだと思うのです。 (「神仏は尊し。されど神仏に頼らず。」(宮本武蔵さん) ~神仏は尊し。ゆえに神仏を頼らず。~)天は「天法」。。。天法の生き写しである「良心」。。。ということは、「運は天にあり」は、「運は良心にあり」。。。「運を天に任せる」は、「運を良心に任せる」。。。と言い換えることが出来ると思うのです。だからこそ、いつも良心に素直に従って、自分の信じる道、自分が志す道、自分の本質である魂が喜ぶ道を歩ませて頂きたいものですね。=良心に素直に従って生かさせて頂く==天に通じる道に導いて頂いている=ということなのだと思うのです。天に通じる道へ導いて頂けるよう良心に素直に従い、言行一致した誠実な生き方ができるよう努力させて頂くからこそ、真実の運命を歩ませて頂く準備が整うのだと思うのです。真実の運命は、 生まれる前に予め自分で決めてきた 人生設計の道に導いて頂いたり。。。 今生の目的を知ったり。。。 天から授かった使命である「天命」を知ったり。。。と色々あると思うのですが、何れも、私たちの本質である魂が自ら決めたり、望んでいたこと故に、真実の運命に出逢った時は、魂が喜んでいるのを感じながら、自然と腑に落ちるものなのだと思うのです。自分らしく生きる。。。真実の運命との出逢いを頂いた後が、本当の意味での「自分らしく生きる」になるのだと思うのです。本当の意味での「自分らしく生きる自分」になることができるよう、良心に従い、自分を信じる強い意思と、自分の本質である魂が喜ぶ選択と決意をもって、運命を切り拓いていきたいものですね。源光「あなたの人生が、喜びばかりなら、 決して、あなたは勇気と忍耐を学ばないでしょう。 勇気と忍耐。。。 これがあるから人は自ら人生を切り拓くことができるのです。 人生を大きく豊かなものにできるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409200000/ 「運命とは、幾つかの選択肢の中から自分で選び出す物で、 強制されるものでも、受け容れるものではないのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208030000/「運命の中に偶然はなく、 人間はある運命に出会う以前に、 自分がそれを作っているのです。 ただし運、不運はコインの裏表ですから、 ちょっとした心の転換で簡単にひっくり返るのは事実です。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405030001/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405030002/ 「あなたに出来ることは何でしょう。 それは運命を超える人になることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409190000/ 「誰にでも運命はあります。。 運命は、文字通り、「命を運ぶ」ですから、 運命は、志あるものを導き、 志なきものをひきずっていくのです。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405310000/「運命に過度の要求をすることによって、不満の種をつくるのをやめよ。 運命は、自ら切り拓くものゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108200000/「生まれてきた環境や後天的試練に左右されず、 誰もが、自分の運命を決定する権利を持っているのです。 貧乏な家庭に生まれたから生涯、貧乏なわけでもなく。 学歴がないから、生涯安月給のわけでもなく。。 心身の病だから生涯治らないわけでもなく。 今日、不幸せだから明日も不幸せとは限らないのが人生です。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407120000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407120001/ 「誰からも認められなくても、 真面目、誠実、勤勉に、 コツコツと責任を果たしていく人に、 天は、偶然を装った必然で、 運命の転機である出逢いと、 幸運の鍵を用意しています。。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306100000/「信じる道を真っ直ぐに。。 困難にぶち当たった時は、迂回してもいいのです。 ただ、逃げ道に逃げ込むことだけは避けて下さい。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403080000/「人生は、自分で切り開いてこその楽しみがあります。 切符を買ってレールの上を走っているエリートには 決して分からない妙味が、あるのです。 この妙味こそ魂を向上させる偉大なエキスなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403070001/ 「人は思い通りの人間になれます。 天はそのように人間を創ったのです。 あなたは、自分をどんな人間だと思っているでしょうか。 今の自分は、あなたの思いの通りの自分ですよ。 自分のことをどのように信じるかで、 自分も人生も変わってきます。 人生を変えるのは自分自身。。 置かれている環境でも人の評価でもありません。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050002/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050003/
2016.11.12
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「立身出世して高い地位につこうとする志よりも 行いを清くしようとする心。。。 こちらの方が高い志なのです。」立身出世。。。 高い官職や地位につき、有名になること。 社会的に高い地位を得て、世に認められること。の意だそうです。立身出世そのものは、それに興味がある方にとっては、とても素晴らしいことだと思うのです。しかしながら、 立身出世をしたいその本当の目的。。。 立身出世によって得た地位や肩書き、権力の活かし方。。。 立身出世する前後の人格、品格、態度の変化。。。が、人としてあるべき正しい心の道から外れてしまうが故に、立身出世した各々が立身出世を良くないものにしてしまっている。。。という実態も少なくないと思うのです。「世の為、人の為には、立身出世することが必要だ!」という高い志の元、そのような環境の中に自ら身を置こうとすること、又は、自ら身を置くことは、自分自身に対して、相当厳しく、決して揺らがない心がないと直ぐにその環境に飲み込まれてしまうと思うのです。 (「世の為、人の為」の立身出世が、 知らず知らずの内に、 「自分の欲を満たす為」の立身出世に。。。 「誰かの欲を満たす為」の独楽遣いに。。。 なっていることも多々あると思うのです。)「世の為、人の為」という真の目的の実現の為に、立身出世という手段を選択しているにもかかわらず、「何が正しいかその全てを知っている良心」に恥じる言動をしたり、自分や他者を偽り、欺き、騙し、嘘をついたり、欲や邪念に翻弄されることがあるとすれば、「世の為、人の為」という真の目的を見失っているばかりか、高い志からも遠ざかってしまっていると思うのです。当初の「世の為、人の為」という大義名分こそ立派でも、立身出世する前からその心のあり方が良心に背いていたり、立身出世した後の言動やその態度が良心に恥じるものであれば、もはや高い志はどこにもなく、高い志を貶めてしまった穢れた心の自分がいるだけなのだと思うのです。 (立身出世によって得た地位、肩書、権力の高さに対し、 心のあり方は反比例して低くなっている。。。 そういうことが少なくないと思うのです。)----「世の為、人の為」に、立身出世したい。。。高い地位に就きたい。。。権力のある肩書きを得たい。。。その為には「何でもする!」として、良心に恥じる言動をし、悪事を働き、自分や他者を偽り、欺き、騙す。。。それは、人としてあるべき心の道を歩んでいないと思うのです。「世の為、人の為」に、立身出世したい。。。高い地位に就きたい。。。権力のある肩書きを得たい。。。「その為には何でもしたい。。。」しかし、「良心に恥じることはしたくない。。。 否、良心に恥じることはできない! 自分に恥じることはできない!」とするのが人の道だと思うのです。良心に恥じる言動をしなければ、 立身出世できない。。。 高い地位に就くことができない。。。 権力のある肩書きを得られない。。。のであれば、そのような立身出世や高い地位や肩書き、権力は、良心に恥じるものであるが故に、 立身出世する必要はない。。。 高い地位に就く必要はない。。。 権力のある肩書きは必要ない。。。と思うのです。「世の為、人の為」の行いは、立身出世しなければできない、ということはないと思うのです。もし、立身出世により高い地位を得なければ、「世の為、人の為の行いが何もできない」というのであれば、その立身出世の地位は、お飾りでしかないと思うのです。「世の為、人の為」と言いながらも、そのお飾りが欲しいということは、「世の為、人の為」という大義名分を利用した「自分の為」と捉えることもできると思うのです。「世の為、人の為」の行いは、そこここに沢山あると思うのです。「世の為、人の為」の行いは、何も大きな事をしなければならない訳ではないと思うのです。例え、それが小さなことであっても、一人一人が、自分に無理なくできることをさせて頂く。。。そういう美しい心のあり方こそが、「世の為、人の為」になっていると思うのです。お互いがお互いを思い遣る心、利他心をもって、助け合い、支え合い、分け合い、協力し合い、愛し合って生かさせて頂く。。。美しい心と美しい心の繋がり。。。「世の為、人の為」になっていると思うのです。日頃からそのような心のあり方で、そのような習慣ができていれば、「世の為、人の為」という大義名分も不要で、いざ大きな事が起こった時も、手を取り合って、自分たちで解決することができると思うのです。日頃からその習慣ができていないからこそ、「世の為、人の為」という大義名分が必要になり、いざ大きな事が起こった時は、大義名分を掲げる方にお任せ。。。人任せ、無関心で自分は何もしない。。。ということになってしまうのだと思うのです。 (私たちの人任せ、無関心な姿勢が、 高い地位、肩書き、権力を持つ者を自分勝手にさせ、 責任を果たさない遣りたい放題を招くのだと思うのです。 そのしわ寄せが私たちに来るのは、 私たちの人任せ、無関心な姿勢が起因になっていることに、 いい加減気付かなければならないと思うのです。 私たちが、高い地位、肩書き、権力を持つ者に監視されるのではなく、 私たちが、高い地位、肩書き、権力を持つ者を監視する。。。 ことこそ大切なのだと思うのです。)そこここに沢山ある「世の為、人の為」に必要な すべきことに気付けない。。。 自らできることをしない。。。ような方が、立身出世をして高い地位や肩書き、権力を得たからといって、それが出来るわけがないと思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たちにとって、本当に大切なことは、 人様を思い遣る心、利他心をもつこと。。。 良心に従って、自分の特技や能力を 人様のお役に立つことに活かすこと。 人様と協力、協調し合うこと。。。 自分の言動に責任を持つこと。。。 自分を偽らない、欺かない、騙さないこと。。。 人様を偽らない、欺かない、騙さないこと。。。 無関心でいないこと。。。など、一人一人が自分の言動を自分で監視し、過ちや間違いは素直に認めて、正すべきは正し、良心に従って、自らの行いを清く正しくする努力をさせて頂き、自分に責任を持つことだと思うのです。良心に従って、行いを清くして生きようとするのであれば、清廉潔白さがなく、地位や肩書き、権力を手中に収める為の利己心が蔓延る環境の中に身を置こうとは思わないと思うのです。そもそも、自分の心が美しく、優しく、温かく、大きく、豊かでないにもかかわらず、 「世の為、人の為」と大言壮語しても説得力に欠けると思うのです。 (説得力に欠ける大言壮語を鵜呑みにし、 簡単に騙されてしまう者は、対極にあるとはいえ、 説得力に欠ける大言壮語をする者と 同じ心のあり方故に騙されるのだと思うのです。 騙す者からすれば、騙しやすいのだと思うのです。) そのような不完全で至らない点の多い私たちだからこそ、まずは、自分の心が美しく、優しく、温かく、大きく、豊かになれるよう、 自分を。。。 自分の心を。。。 自分の言葉遣いを。。。 自分の行動を。。。 自分の生き様を。。。清らかにすべく、良心に従って生かさせて頂くことが大切なのだと思うのです。それこそ、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場を与えて頂いた私たちにとって、高い志の表れだと思うのです。----時に、真の目的を果たす為に、自ら泥をかぶったり、泥をかぶらされたり。。。良心に従いたくても、背かざるを得ない状況があったり。。。悪事に加担したくなくても、真実を知る為に加担せざるを得なかったり。。。ということがあると思うのです。同じ「良心に背く」でも、同じ「悪事を働く」でも、利己心を満たす為に良心に背き、悪事を働くことと、世の為、人の為、という利他心と正義を貫く為に、自己犠牲を省みず、その真の目的の遂行の為に、やむを得ず良心に背き、悪事を働くことは、全くの別物だと思うのです。それにもかかわらず、前者も後者も、第三者から見れば同じに見えてしまうもの故に、後者はとても辛く苦しい思いをされると思うのです。極極僅かでも、中にはそういう方もいらっしゃることを、忘れてはならないと思うのです。それを見極めさせて頂く為には、表向きの情報を決して鵜呑みにすることなく、何が真実なのかを自ら調査、精査させて頂いたり、ものごとの真実を見抜けるよう心を磨きに磨き、心眼で観させて頂くことが大切だと思うのです。源光「正しい心で誠意を尽くして生きていく。。 今日も、ただそれだけでいいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409010000/「士(さむらい)の心、志を持ちましょう。 志は世のため、人のためという思いであり、 天の加護を得る道。 野心は私利私欲であり、邪霊の付く道です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402100000/「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「波長の乱れた修行の場である地上で 身を保って行くには、 あまり潔癖すぎてはならないのです。 一切の汚れや穢れも、 すべて飲み込むようでありたいものです。 人と交わるには、あまり几帳面すぎてはいけません。 一切の善人悪人、賢者愚者をも、 すべて包容することができるような 大きな度量を養ってください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505070000/ 「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。 これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。 いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/「現在うまくいっているとしても、 本当は間違った事をしていると、 心の底で分かっているなら、すぐに止めることです。 現在うまくいかないとしても、 良心に恥ない正しい事をしていると 心の底でわかっているなら、 諦めず継続していきましょう。 正しい努力だけが真の幸せを運んでくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311210000/「世間や社会にではなく 良心に従って自分に恥ずかしくないように 生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160001/ 「自分自身という財産を持っている人。。。 最終的に勝利者になる人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405020001/ 「心が悪い想念に流されることも、 嵐に巻き込まれることもあるでしょう。 しかし、そこで良心に従って反省すればいいのです。 その繰り返しで魂は向上していきます。。 あなただけの心のブランドを創り上げていくことですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407080000/「すべてが、心の働きの現われです。 強力な魔は、自我の盲信から生まれて、 残忍なる魔は、思考の仕組から生まれるのです。 それらを内から、良心に従って調伏するのが修行なのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205120000/「足ることを知らない欲望に翻弄されると、人生が、歪曲。。。 良心を忘却して人は、偽りの目標に突き進み、 生きながら地獄に堕ちていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403040000/「人間は、その人がどういう人生を歩んできたのか、 苦しい経験を積んできたのかではなく、 事が起きた際に、良心に従って正しく行動したかどうかで 価値が決まるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410160002/「人が見ていようといまいと、 正しき言動の出来る人でありましょう。 天は全てを知っています。 地上での勝ち負けは、大した問題ではないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310010000/「真の勇者とは、自分の欲望を克服した人のことです。 自らに勝つことこそ、最も難しい勝利なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407060000/「本当に優れた人は、社会的地位や、 肩書きなどで人に接しないのです。 本来、社会的地位、肩書きと 人間性の美しさは一致しているのが当然です。 心の中で、人を見下しているようでは、 まだまだの人間です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201511030000/「名誉も地位も権力も学歴も財力も収入も肩書きも 地上の小さな世界でしか通用しない煙のようなものです。 自分の才能をひけらかすことなく、笑顔を絶やさず、 周囲と同調してやっていける人こそ、立派な人です。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311130000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311140000/「知恵も智謀も、優れた人格には到底及びません。 優れた人格者は、人がうらやむ大成功しても、 決して、天狗さんにはならないものですよ。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306110000/「本当に優れた人は、笑顔を絶やさない、一見、 どこのおじさん?おばさん?どこのお兄ちゃん?お嬢ちゃん? という感じで違和感も威圧感も、存在感も全く無いものです。 でも観る人が観ればわかります。これが人の世というものですね。 」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210310000/「実れば実るほど、勉強すればするほど、 自然に自分の至らなさに気づき謙虚になっていくのが人というものです。 天から観れば、謙虚で無い人は、まだまだ修行の足らない、 子供に過ぎないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303020000/
2016.11.11
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「人にお世辞を言われた時、 いい気になって嬉しそうな顔をする者は傲慢な人。 人が他人の悪口を言うのを聞いて、 喜ぶ者は心のいやしい人です。」世辞。。。 ・相手に取り入ろうとして言う、心にもない言葉。 ・他人に対する愛想のよい言葉。 ・人に気に入られるような上手な口ぶり。の意だそうです。心にもない愛想の良い言葉で、煽てられたり、ちやほやされ、いい気になって喜ぶ。。。思い上がって偉そうになる。。。見方を変えさせて頂くと、 謙虚さがないことの裏返し。。。 人様からの評価を気にする人。。。 ちやほやされることが好きな人。。。 体裁を取り繕う人。。。 中身がない人。。。 乗せられやすい人。。。 利用されやすい人。。。ということでもあると思うのです。お世辞を言っている方や第三者からすれば、 「心にもないお世辞を言われているだけなのに、 真に受けて、本気にして喜んでるよ。。。 何を勘違いして、偉そうに思い上がっているんだろう。。。 これがこの人の真の姿ってことだ。。。 簡単に乗せられて、傲慢になるのは自由だけど、 その傲慢さのせいで、 人に見透かされていることに気付けない。。。 自分の愚かさが分からない。。。 というのは、とてもお気の毒なことだなぁ。。。」という感じだと思うのです。また、そう言う人に限って、煽てられたり、ちやほやされなくなると、 不平不満、愚痴、人様の批判、誹謗中傷、 悪口、陰口を叩き、被害妄想などを始める。。。 他者が自分よりもお世辞を言われたり、 煽てられたり、ちやほやされていると、 その他者を決して認めない上に、その他者に嫉妬する。。。ということが多いと思うのです。自惚れが激しく、傲慢。。。自分勝手。。。我儘。。。利己心の塊。。。他者からのお世辞、煽て、ちやほやが原因とはいえ、それらに簡単に乗せられてしまう自分自身こそが、大きな原因であることに違いはないと思うのです。自分自身に大きな原因があるということは、自分にお世辞を言った方や、自分を煽て、ちやほやした人を恨むのではなく、その経験を良い意味で活かさせて頂き、 お世辞を言われても真に受けない自分。。。 煽てられても調子に乗らない自分。。。 ちやほやされても謙虚な姿勢でいることができる自分。。。になれるよう、自分を改善させて頂けば良いと思うのです。時に、他者のことは、冷静に、客観的に観ることができても、いざ自分が煽てられ、ちやほやされると、何てことはない、自分も他者と同じになっているということもあるのが世の常。。。だからこそ、自分のことを棚に上げて、他者のことに口出しなどせず、他者を反面教師とさせて頂き、まずは、冷静に、かつ、客観的に、自分で自分の言動を監視する習慣をつけ、自分を律し、正すべきを正させて頂きながら、自分に恥ずかしくないように生かさせて頂きたいものですね。----人様の悪口を言う。。。自分がそれをすること自体、良いことではないと思うのですが、人様が他人の悪口を言っているのを聞いて、 それをコソコソと喜ぶ。。。 他者の不幸を喜ぶ。。。というのは、心が貧しく、品位に欠けた卑しい、陰険で質が悪い行いだと思うのです。そう言う人に限って、自分がコソコソと悪口を言われる対象になったり、自分の不幸を喜ぶ陰口を叩かれていることが、巡り巡って自分の耳に入ってくると、それらに強く反応し、誰が発端なのかを気にしたり、追及することが多いと思うのです。自分の悪口を言われて嫌なのであれば、他者の悪口も言うべきではないと思うのです。他者が自分に関する悪口を聞いて、喜んでいる様子を見て不愉快に思うのであれば、自分が他者に関する悪口を聞いた時は、その悪口に決して同調すべきではないと思うのです。自分の不幸を喜ばれると嫌なのであれば、他者の不幸も喜ぶべきではないと思うのです。もし、自分が悪口を言われ、傷つけられていたら、誰かに助けて欲しい、支えて欲しい、と思うのと同じように、悪口を言われて、傷ついている方がいたら、その悪口に便乗するようなことはせず、傷ついている方を助け、支えるべきだと思うのです。もし、自分が不幸な境遇に見舞われ、その悲しみや苦しみ、辛さから、涙に暮れ、思案に暮れ、途方に暮れていたら、 誰かにそっと側にいて欲しい。。。 話を聞いて欲しい。。。と思うのと同じように、他者が不幸な境遇に見舞われていたら、その不幸を喜ぶようなことはせず、愛の心、優しい心、温かい心、豊かな心、大きな心をもって、ただただその方の側にいて、お話を聞かせて頂くべきだと思うのです。 それが直接的であろうと、間接的であろうと、 自分がされて嫌なことは、人様に決してしない。。。 自分がされて嬉しいことは、人様に積極的にさせて頂く。。。自分がどういう境遇下にあろうとも、そういうことが当たり前のようにできる自分を育ませて頂きたいものですね。悪因悪果。。。善因善果。。。という因果応報の法則があるから、そうしようとするのではなく、心ある人として当たり前のことだから、そうさせて頂けるような自分でありたいものですね。源光「賞賛を求め、中傷に傷つく。。 これが普通の人ですが、 賞賛も、中傷も気にしない人にならない限り、 心の安らぎは永久に得られないのです。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403140000/ 「実れば実るほど、勉強すればするほど、 自然に自分の至らなさに気づき 謙虚になっていくのが人というものです。 天から観れば、謙虚で無い人は、 まだまだ修行の足らない、子供に過ぎないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303020000/「人は、心が荒んでくると、他人の不幸を喜ぶ以外に 楽しみが無くなってくるのです。 これが、どんどん不幸になっていく人の典型です。 人を喜ばせるのが大好き。。。 これが、どんどん幸せになっていく人の典型です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410270000/「人を必要以上に批判追求した瞬間に不幸が始まります 。 自分のことを棚に上げて、人を悪く言うものではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605130000/「人は、何を好ましく思うかということによって、 その人格のレベルを示すのです。 良心に、恥じるような行為でも、 ある人にとっては陰険に、 ある人にとっては、当たり前に、 またある人にとっては、むしろ好ましく思えるものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407070000/「思いやりとか、正直とか親切とか友情とか、 そんなあたりまえのことを黙ってすること。 これが道徳です。。 難しい学問ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312070001/「人は心の美しさ。。。 太陽が朝を連れて来るように、 心美しい人は、今日も愛の光を連れて来るのです。 あなたの喜ぶ姿が私の喜びです。 人はこうして幸せになって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405050001/ 「人間として一番大切なのは、頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「人は、他に対し善を行っている時、 自らに対して最善を行っているのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206140000/「触れ合う人々を思い遣る心を習慣にしましょう。 自然な行いこそ、最大の美徳なのですから。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201212120000/「小さな親切、小さな愛の言葉があれば 今日という一日、天と通じることができるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208100000/「他人に親切にするのは、断じて義務などではない。 それは、光栄であり、健康と幸福と歓喜をもたらす。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201202020000/「不幸になっていく人は、自分の喜びばかりを考えているのです。 人を喜ばせることを考えて生きていきましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207180000/「喜びは分かち合うことによって倍になり、 悲しみは分かち合うことによって半分になるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601090000/「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きましょう。 それが人というものですから。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204290000/「人の涙をもて遊んだり、人の悲しみをかえりみない。。。 これでは幸せから遠のくばかりです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405140000/「真心をもって人を助ければ、 必ず自分も人から助けられるのです。 嫌な思いを他人にさせれば、 必ず自分も人から嫌な思いを返されるのです。」 (ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408100000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408100001/「あなたが扱われたいように、他人を扱いなさい。 汝が隣人からされたくないことを隣人に行ってはならない。 隣人を自分自身として見ることで、 人は正しい基準を得ることが出来る。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107150001/
2016.11.10
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「今日の自分に「よし」と言ってください。 明日も「よし」と言ってください。。。 その次の日も。。。その次の日も。。。 天が「よし」と言ってくれるまで。。。」自分で自分を評価する。。。とても大切なことだと思うのです。しかしながら、自分で自分を評価する際に、自分を甘やかした評価をしてしまう。。。ということも良くあると思うのです。「本当はもっと頑張れるけど。。。 本当はもっと努力できるけど。。。 今日はもういいや。。。 昨日は頑張ったし。。。 明日また頑張れば良いし。。。 今日も良くやった!ということにしておこう。。。」などとして、自分に甘い評価をする。。。自己満足をする。。。昨日は昨日。。。今日は今日。。。明日は明日。。。だと思うのです。大切なのは、 「今どうなのか」 「今日どうなのか」 「今、頑張っているのか」 「今、努力しているのか」だと思うのです。過去の頑張りや努力を持ちだしたり、未来に頑張りや努力を持ち越そうとするのは、「今」の自分に、 「よし! 自分、今日も良く頑張った!」 「よし! 自分、今日も良く努力した!」と自信を持って自分に言えるほど、頑張っていない。。。努力していない。。。ことを心のどこかで分かっているからだと思うのです。白砂糖を使用した甘い食べ物に、中毒性があるのと同じように、自分を甘やかしたり、自己満足をすることもまた、楽な方、楽な方へと逃げようとする中毒性を秘めていると思うのです。自分を甘やかし、自己満足で終らせてしまったら、進歩はそこで止まってしまうと思うのです。手を抜かずに頑張る。。。手を抜かずに努力する。。。今すべきことを今する。。。今できることを今する。。。すべきことから目を背けない。。。逃げない。。。できることを後回しにしない。。。今日すべきことや、今日できることが終わっても、時間や集中力、精神力、体力に余裕があれば、明日すべきこと、明日できることに着手する。。。手を抜こうとしている自分を律することができる。。。自己満足せずに、その先に進もうとする。。。自分を甘やかしがちで、自己満足をしがちな私たちにとっては、そういう頑張りや努力こそ最高なのだと思うのです。最高の頑張りや努力を「10」とします。自分を甘やかしたり、自己満足で、まだできるであろう頑張りや努力を怠っているにもかかわらず、 「本当はもっと頑張れるけど。。。 本当はもっと努力できるけど。。。 今日はもういいや。。。 昨日は頑張ったし。。。 明日また頑張れば良いし。。。 今日も良くやった!ということにしておこう。。。」と自分を評価しても、その実態は「9」でしかないと思うのです。翌日、その人の目標は「9」になっていることが多いと思うのです。 (もし、「10」に戻せるくらいの方であれば、昨日の時点で、 はじめから手抜きをせずに「10」を達成していると思うのです。)「9」が目標になっているにもかかわらず、自分を甘やかし、自己満足する中毒性から、本来であれば、まだまだできるであろう頑張りや努力を更に怠ってしまい、 「本当はもっともっと頑張れるけど。。。 本当はもっともっと努力できるけど。。。 今日はもういいや。。。 一昨日は凄い頑張ったし。。。 昨日も頑張ったし。。。 明日、凄く頑張れば良いし。。。 だから今日も良くやった!ということにしておこう。。。」と自分を評価しても、その実態は「8」でしかないと思うのです。「良し!」と自分を評価しても、その実態が「悪し!」では、 頑張ることが嫌。。。 努力することが面倒。。。と感じてしまう自分になってしまうと思うのです。自分に甘く、自己満足的に自分を評価をすることが、自分の可能性の蕾を自らの心のあり方で摘み取り、自分を堕落させてしまうことになるのであれば、自分に対する評価は、正直に。。。厳しく。。。あるべきだと思うのです。自分に正直だからこそ。。。自分に厳しいからこそ。。。自分を律することができ、正すべきを正すことができ、前進させて頂くことができるのだと思うのです。「もっと頑張れる!」「もっと努力できる!」「もっと他にできることがあるはず!」「〇〇を終わらせてこそ、 頑張った、努力した、と自分を認めよう!」「まだ時間があるから何かをしよう!」「今日のことは終わった。明日のことをやろう!」そういう心持ちで今日という日を過ごさせて頂くと、 「よし! 自分、今日も良く頑張った!」 「よし! 自分、今日も良く努力した!」と自信を持って自分に言えると思うのです。時に、体調が優れない時もあると思うのです。そういう時は、無理をせずに休むべきだと思うのです。体調が優れない時に、無理に頑張ったり、努力しても、その頑張りや努力の効率が悪かったり、普段では考えられないミスを犯したり、ミスを犯していることに気付けなかったり。。。自分では、頑張って、努力しているつもりでも、それらが無駄になってしまう。。。体調が優れない時はそういうものだと思うのです。体調が優れない時に、頑張るべきこと、努力すべきことは、「休むこと」だと思うのです。「休む」ことで疲れが癒され、精神面、体力面が回復するからこそ、頑張って努力することができるのだと思うのです。頑張るべき時は頑張る!努力すべき時は努力する!休む時は休む!メリハリをもって過ごさせて頂くからこそ、心身の健康を保つことができ、頑張ること、努力することに集中し、継続することができるのだと思うのです。心身の健康を保ちながら、自分に正直に、厳しく、自分を律しながら、頑張って努力することを継続していても、所詮は修行をさせて頂いている不完全な私たち故に、自分に対する評価も、どこか視点が誤っていたり、評価の仕方がおかしいなど、不完全だと思うのです。例えば、同じ頑張っている、同じ努力しているでも、良心に従って頑張り、努力しているのと、良心に背いて頑張り、努力しているのとでは、大きな違いがあると思うのです。自分では良心に従っているつもりでも、天から観ればそうではない。。。そういうこともあるのが不完全な私たちだと思うのです。人知の及ばない深遠なる天や神仏のお取り計らいにより、「何が正しいかその全てを知っている良心」を授かり、魂の修正や成長の為に修行をさせて頂いている私たちが、頑張ったり、努力することはごく当たり前のことなのだと思うのです。それならば、 「自分は凄く努力している!」などと自己満足したり、自惚れたりしないよう。。。 「〇〇さんは本当に努力していますね♪」と他者からいわれて浮かれたり、驕ったり、安心しないよう。。。いつも天を相手にさせて頂けば良いと思うのです。良心に従って生かさせて頂く。。。とはいえ、その「良心」というものの受け止め方は、十人十色、千差万別であるくらいに不完全な私たち。。。だからこそ、 「自分は良心に従って生きている!」などと自信過剰になるのではなく、 「もし、天が今の自分の状況にいらっしゃられたら、 どうされるだろう。。。 どのような選択、判断をされるだろう。。。」という謙虚な姿勢で、良心の声に耳を傾けさせて頂きたいものですね。そのような心のあり方で生かさせて頂くことこそ、魂の修正や成長を促す魂の喜ぶ生き方であり、天に続く道なのだと思うのです。魂の修正や成長の為に良心を授かっているにもかかわらず、良心に恥じる言動をし、自分や人様を貶めるようなことを頑張ったり、努力しても、それは頑張りや努力ではなく、自分で自分を裏切る行いであり、修正すべき点を増やし続け、天から遠ざかる心のあり方、言動だと思うのです。天から授かった良心に素直に従い、言うこと、することが一致している良心言行一致の生き方で、誠実、真面目に頑張り、努力させて頂いてこそ、天に「よし!」と仰って頂けるのだと思うのです。=天が喜ぶ生き方==良心に従う生き方==自分の魂が喜ぶ生き方=この等式を、いつでも等式足らしめることができるような心を育み、その心のあり方を継続できるように、自分の心も磨き続けたいものですね。天に「よし!」と言って頂けるまで。。。源光「努力していると自分で思っているうちは まだまだ努力が足りないのです。 人から「あなた努力しているね。」 と言われてもまだまだ。 天から「あの人頑張っているね。」 と言われてようやく本物です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602140000/「働くこと、頑張ることを楽しみなさい。 寝る前に、今日一日頑張った自分を褒めてあげなさい。 汝は大いなる天啓を得るであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201109090000/『「今日も自分のベストを尽くした」 と思いながら、就寝する。。 そうですよ。 最高の1日だったのです。 よく頑張りました。 』(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602070000/「人は誰でも過ちを犯すものです。 犯さない人は皆無です。 ただ自分の中で過ちを正当化したり、 相手に責任を負わせたりする人がいます。 だから、いつまでも事態が改善されずに苦しむのです。。 自分が誤っていると悟ったなら、躊躇なく、すぐ改めるべきです。 即、行動しなければなりません。 いたずらに体面や人の思惑を考えて、改めるのを恐れてはいけません。 過ちては則ち改むるに憚ること勿れ と云うことですね。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312080000/「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/「自己満足に浸らない人は、成長し続けます。 自信がない人の方が、多くのことを学べるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207010000/「将来を思い煩う必要は無い。 現在為すべきことを為せ。 その他は神の考えることゆえに。。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107220000/「自惚れは苦しみの源泉である。 自惚れが消えたときから、人生の幸福な時期が始まる。 自惚れに翻弄されている人間に、天恵が降りることはない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108100000/「あなたの感性や情熱が本当に素晴らしければ、 偶然を装った必然で出逢いがあり、必ず評価してもらえます。 今は、心配せず、自分の技、能力を磨くことに専念しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310300000/「努力して創造していく間が人生なのです。 人生を楽しんでください。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208140000/「不器用な努力家こそ、天が愛してやまない人なのです。 幸運の女神はこの様な人に微笑みます。。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206250000/「眠りにつく前に、 その日にどんなに嫌なことがあっても 「今日はいい日だった」 とつぶやくのです。 そうです。。。 明日は良い日に変わるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501280000/ 「自分の顔に責任を持てるようになった時、 天はあなたを大人と認めてくれるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208230000/「自分の言動に責任を持つことです。 その責任の下に、本当の幸せと喜びが 横たわっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502100000/
2016.11.09
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「人は生き通しです。 身体は船。。心が船頭さんです。 船は朽ちても、船頭さんは下船して 次の船に乗り換えるわけです。 悟り間違いは、来世の業となるのですから 今を悔いなく正しく生きることですよ。」 「肉体は船、魂が船頭さんです。 人も動物も寿命が尽きれば、 船を降りることになります。 船には耐用年数があるので仕方のないこと。 新しい船に乗り換えるまで、しばし休憩です。 人も動物も心の存在ですから 心そのままの場所に還ります。 懐かしい心の故郷へ。。。魂の故郷へ。。。」「人は魂です。 人は生き通し。。。 肉体は船。。。魂は船頭さんです。 船はいずれ朽ちていきます。 今を真剣に生きることです。 良心という羅針盤に従って天命を果たして還ることですよ。 縁あって、現代に生まれてきたのですから。」「時代は変わり、時は流れても あなたはあなたであったのです。。 肉体は船。。。魂は船頭さん。 船は朽ちても心は永遠です。 心を磨いて生きていますか? お金儲けや名声などどうでもいいこと。。 足ることを知って、朗らかに、 良心に恥じない自分でありましょう。 触れ合う人たちの笑顔を我が喜びにして生きていきましょう。」「ある時は貴婦人。。。 ある時は庶民。。。 魂は同じです。 一つも変わりません。 ただ置かれている環境で それぞれの人生があるだけのこと。。 どちらも人生勉強です。」生き通し。。。地上という修行の場で魂の修正や成長をさせて頂く為に与えて頂いている地上における肉体こそは滅びても、その肉体を乗り物にしている私たちの本質である魂は、決して滅びることはないと思うのです。とある時代に、魂が肉体という乗り物に乗って、地上に生まれ、様々な経験をさせて頂く。。。時が経過し、肉体の老朽化による死と同時に、魂は肉体から抜けて天に帰還する。。。その後、それまで魂が経験させて頂いた全ての記憶や職業、本当にやりたいこと、趣味趣向、性格、思考などを引き継いで、また別の時代に、別の肉体という乗り物に乗って、地上に生まれ、引き続き様々な経験をさせて頂く。。。修行の場である地上に生まれる機会を与えて頂く度に、新しい肉体に乗り換えることを「輪廻転生」というのだと思うのです。肉体は、僅か数十年しか稼働できない乗り物であっても、私たちの本質である魂は、永遠に存在し続ける。。。その私たちの魂の在り方を「生き通し」というのだと思うのです。なぜ魂は「生き通し」であるにもかかわらず、肉体は「生き通し」ではないのか。。。魂の修正や成長をさせて頂くことができるのは、修行の場である地上のみであるが故に、肉体は、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場で生かさせて頂くに当たって必要なものなのだと思うのです。永遠に存在し続ける「生き通し」の魂に対して、魂の乗り物である肉体は、僅か数十年という短い期間だけしか存在することができないのはなぜなのか。。。肉体が魂と同じように「生き通し」であるのであれば、魂の修正や成長をさせて頂く為に地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いた意味を成さなくしてしまうことが多いのが、魂の修正が必要で至らない点が多い私たちなのだと思うのです。 (意味を成さなくしてしまうのは、魂の修正や成長が必要な、 不完全な私たちの魂にその原因があるのだと思うのです。)肉体が「生き通し」であるのであれば、地上という修行の場に存在していても、 「いつの日か、反省すればいいや。。。生き通しだから。。。」 「その内、正させて頂けばいいや。。。生き通しだから。。。」という感じで、修行の場であるにもかかわらず、甘えが生じ、反省すべきを反省せず、正すべきを正さない。。。むしろ、その怠慢な心のあり方や生きる姿勢や生き様が、修正すべき点を自ら増やしてしまうことにさえなってしまうと思うのです。そのような心のあり方や生きる姿勢が、至らない点が多く、魂の修正が必要な私たちの実態なのだと思うのです。だからこそ、肉体は、有効期限付きの乗り物になっていて、その有効期限付きの乗り物が稼働できる場所は、地上という修行の場に限られているのだと思うのです。裏を返させて頂くと、地上という修行の場において、魂の修正や成長をさせて頂ける機会は、僅か数十年という短い期間のみ。。。そのような短い人生にもかかわらず、いつ終わるとも分からない人生にもかかわらず、邪念や欲に翻弄されることなく、例え、邪念や欲に翻弄されそうになっても、理性と良心で自分をコントロールすることができる。。。いつも誠実に、真面目な姿勢で生かさせて頂くことができる。。。そして、その姿勢を継続することができる。。。何か1つのことに集中し続けることができる。。。自分のやりたいことをやり通すことができる。。。短期間であろうと、自分の置かれている状況に関係なく、いつ何時もそういう心のあり方、生き様で生かさせて頂くことができるからこそ、魂が磨かれ、修正すべきが修正され、成長させて頂くことができるのだと思うのです。もしくは、いつ何時もそういう心のあり方、生き様で生かさせて頂くことができるよう、自分で自分を律し、魂を磨く機会として与えて頂いているのが、地上という修行の場なのだと思うのです。とはいえ、不完全で修正すべき点の多い魂の私たちは、修正すべきを修正させて頂くにも時間を要することが多いと思うのです。修正すべき点は、なぜ修正すべきなのか。。。修正させて頂く為には、何をさせて頂けば良いのか。。。それをしっかりと理解させて頂くことにも時間を要してしまうものだと思うのです。しかしながら、しっかりと理解を深めさせて頂くその過程こそ、魂の修正が必要な私たちの魂には、とても大切なことなのだと思うのです。その過程は、十人十色、千差万別で、その過程における、職業、本当にやりたいこと、趣味趣向、性格、思考は、人それぞれ、魂の傾向によって異なるものだと思うのです。 (だからこそ、自分と人様を比較する必要もなければ、 人様のことを気にする必要もなく、 人様からの評価も気にする必要もないのだと思うのです。)とはいえ、とある時代は、1つの過程を経験させて頂き、また、とある時代は、別の過程を経験させて頂く。。。不完全で修正すべき点が多い私たちが、生まれ変わる度に、その過程や傾向が大きく変わってしまっては 折角、過去生で培ったものも、 今生で活かすことができない。。。 折角、過去生で修正すべききっかけを見つけても、 今生でそれを見失ってしまう。。。など、過去生における大切な過程や傾向を、今生に活かさせて頂くことができなくなってしまうと思うのです。不完全で修正すべき点のある私たちは、過去生において経験させて頂いた貴重な過程や傾向を、今生、来生と引き継がせて頂かない限り、その不完全さに磨きをかけることもできなければ、修正すべきを修正させて頂くことも、反省すべきを反省させて頂くことも、正すべきことも正させて頂くことも容易ではなくなってしまうのだと思うのです。だからこそ、「自分」の魂が過去に経験させて頂いた様々な過程や傾向である職業や、本当にやりたいこと、趣味趣向、性格、思考などを「生き通しの自分の魂の傾向」として、引き継がせて頂いているのだと思うのです。そういう不完全で至らない点が多い私たちの魂の傾向を見越して下さった上で、 「魂は生き通し」 されど、 「肉体(修行)は短期間」 でも、 「輪廻転生のチャンスあり♪」という無償の愛による深遠なるお取り計らいを私たちに与えて下さっている天や、天が私たち一人一人に与えて下さっている偶然を装った必然の様々な境遇や全ての現象にいつも心から感謝させて頂きたいものですね。源光--------私たちの人生は、木々に成る新芽が青々とした葉になり、枯れて地に落ち、次なる新芽の肥やしとなる為に土に還るのと同じようなものだと思うのです。新芽は、地上に生まれた私たちの赤子時代。。。青々とした葉は、幼少期から青年期、中年期。。。枯れた葉は、老年期。。。枯れ葉が落ちるのは、死。。。土に還るのは、天への帰還。。。新芽が、母体である幹から養分を頂き、青々とした葉になっていくのと同じように、一人で生かさせて頂いているわけではない私たちも、常にどなた様かのお陰様で生かさせて頂いていると思うのです。枯れた葉が、次なる世代の新芽の肥やしとなる為にお世話になった幹の下に落ちて土に還るのと同じように、常にどなた様かのお陰様で生かさせて頂いてきた私たちも、次なる世代の方々をはじめとする人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けるようなことをさせて頂くことが大切なのだと思うのです。この繰り返しは、私たち人間の「魂の生き通し」と「輪廻転生」と似ていると思うのです。否、そこから人生とは何かを学ばせて頂く為に、そのような繰り返しの中で生かさせて頂いているのだと思うのです。源光--------地上における「死」。。。「死」をお迎えしたから全てが終わり。。。ということではないと思うのです。何かの「終わり」は、何かの「始まり」でもあるのと同じように、「死」という地上における人生の終わりは、今生という新たな人生経験をさせて頂いた自分の魂の天(心の故郷)への帰還であり、次なる輪廻転生への「始まり」だと思うのです。「死」をお迎えして終わるのは、今生という人生を自分の魂と共に過ごしてくれた「肉体」や「地上という修行の場」での修業が終わるだけで、自分の魂は、新たな「始まり」に向けて存在し続けることを忘れてはならないと思うのです。魂は永遠であり、生き通しの命。。。私たちの本質は、魂だと思うのです。魂があるからこそ、地上という修行の場で「自分」という意識と肉体という生命をもって、人生を過ごさせて頂くことができるのだと思うのです。そして、生まれ変わる度に培わせて頂いている自分の能力や特技などの様々な糧を、今生に活かさせて頂くことができ、更に様々な経験を積ませて頂きながら、魂の修正や成長をさせて頂く機会を与えて頂いている、ということでもあると思うのです。裏を返させて頂くと、生き通しの命である魂が存在しないということは、「自分」という意識もなければ、肉体という生命をもって、地上という修行の場で生かさせて頂くこともできない。。。様々な経験を積ませて頂くこともできない。。。特技や能力、心を磨くこともできない。。。ということになってしまうと思うのです。しかしながら、そのようにならないのが、私たちの本質である生き通しの命。。。「生き通し」の字の如く、永遠に存在し続け、生き続ける。。。修行の場である地上において、生命の本体である肉体が死しても、魂は、肉体という乗り物を捨てるだけで、存在し続け、生き続ける。。。それが私たちの魂なのだと思うのです。それにもかかわらず、修行の場である地上で生かさせて頂いている私たちは、生き通しの命である「魂」が、私たちの本質であることを忘れ、 「死んでしまえばそれで終わり。 自分はいなくなる。。。 記憶もなくなる。。。 だから、人のことなんか考えずに、 自分の好き放題、やりたい放題に、 楽しく生きた方がいい。 それじゃなきゃ損をする。」などと仰られる方もいますが、死んでも終わらないことに気付くのが、死んだ後では「後の祭り」で、後悔してもしきれないと思うのです。 「死ねば終わり。。。 だから好き勝手に生きなければ損だ。。。」自分一人で生かさせて頂いているわけではないにもかかわらず、否、むしろ、色々な人様のお世話になり、自分を取り巻く多くの人様のお陰様で生かさせて頂いているにもかかわらず、こういう「自分さえ良ければそれで良い」という我儘で自分勝手、利己的な心のあり方や生き方をしているからこそ、自分で自分を貶め、深い業を積んでしまうのだと思うのです。「死ねば終わり。。。」確かに何かが終わると思うのです。それは、「人生」という、 「魂の修正や成長をさせて頂く為の とても貴重な修行の機会が終わる」ということだと思うのです。 (見方を変えさせて頂くと、この世の死後は、 この世の人生を終えた時の魂のレベルがずっと続く。。。 ということでもあると思うのです。 深い業を積んだ状態で死を迎えれば、 生き通しの命である「魂」は、深い業を積んだまま、 存在し続ける。。。生き続ける。。。 ということになるのだと思うのです。 そして、輪廻転生の機会を与えて頂き、 来世があるとすれば、その深い業を積んだままの 厳しい人生のスタートを迎えるのだと思うのです。)魂の修正や成長をさせて頂く為の修行は、この世という修行の場でしかできないことを考えれば、利己心や欲に翻弄されて、やりたい放題、好き放題をしていては、天に帰還してから(又は、天に帰還することができずに)、大後悔してしまうと思うのです。大後悔することのないようにする為には、地上という修行の場に生まれる時に天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に素直に従って、過去生から培ってきた自分の特技や能力を、人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けることに、正しく活かさせて頂きながら、生かさせて頂くことが大事になるのだと思うのです。そういう心のあり方、生き方こそ、自分の魂の喜ぶ生き方なのだと思うのです。この世での生を終えて、天に帰還した時に 「良い人生だったなぁ♪」と感じることができるようになる為には、それこそ 「良心の声に従い放題♪」 「天が地上の私たちに無償の愛を 与え続けて下さるのと同じように生き放題♪」 「人様のお役に立つことをし放題♪」 「人様にお喜び頂けることをやりたい放題♪」 「人様を思い遣る心、利他心で生き放題♪」の姿勢で生かさせて頂けば良いのだと思うのです。そういう生き方をさせて頂くことによって心が磨かれ、生き通しの命である「魂」の修正や成長をさせて頂くことができ、その時の自分の心のあり方、魂のあり方に相応しい魂の世界に帰還させて頂けるのだと思うのです。従前よりも、少しでも美しく、凛とした、華々しい世界に帰還させて頂くことができるよう、良心に従って、心を磨かせて頂きたいものですね。源光「本当は、生き通しの命以外に、 富などは存在しないのです。 死ねば終わり。。 好き勝手に生きなければ損だ。。 この考えがもっとも自分を卑しめる考え方です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201502250000/「自分は生きているのではなく、「生かされている」という事実に気づきましょう。 本当の幸せは、あなたの心の中にあるのです。 幸せを追いかける人はいつまでも幸せになれず、 今、呼吸をしている幸せに気づく人が、 本当に幸せになれるのです。 まずは、生かされていることに感謝しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401020002/「悟りとは、いかなる場合も平気で死ぬことではなく いかなる場合も平気で生きていること。。 生きて、生きて、生き抜く ことにあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409160000/ 「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/ 「汝は、死について考えねばならぬ。 そしてそこから死ではなく、 生について熟慮をはじめることだ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201120000/「汝、死がなければ、生を重んじることができず、 生がなければ道を見つけ出すことができないことを知ることだ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112250000/ 「死なないで地上で、生きられる人は皆無です。 人は、地上に命がある時だけ諸々の善行を なすことができるのですから、せっかくの機会を 大いに活かして、帰還されますように。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211090000/「生まれ変わるのは、地上に生ある時です。 還って来てからでは遅いのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209260000/ 「人間という舟を得たら、それで苦悩の大河を渡れ。 愚か者よ、惰眠を貪るな、この舟は、再び得がたい。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201290000/「人は過去世の自分と職業、趣味趣向、性格、思考、 異性の好み、失敗の傾向、顔形までソックリです。 時代 、場所が違うだけで同じ魂ですから当然のこと。。。 人は生き通し。。。決して死なない存在です。 誰も見ていなくても心正しく良心に恥じない自分でありましょう。 因果応報の法則は紛れも無い事実なのですから。。。」(ラクシュミーさん)「肉体は滅んでも、魂は、決して滅びません。生き通しです。 時代も場所も違っても、同じ心と趣味趣向を承継していきます。 人は自分の魂が喜ぶものをトコトン探求し続けるのが 一番幸せなのです。。。」(ラクシュミーさん)「人は生き通しなのです。。。 肉体は船。。。心が船頭さん。。。 船は乗り捨てて。。。心の旅は永遠に続くのです。 良縁は良縁として。。。悪縁は悪縁として次の船に引き継がれるのです。 今を良心に従って正しく明るく生き ることですよ。」(ラクシュミーさん)「誰もが生き通しなのです。 時代も場所も違っても性格は全く同じです。 しかしそれを実感として知っている人はほとんどいないのです。 それでも人はなぜか魅かれる国や装束があるものです。」(ラクシュミーさん)「運命は自分で切り開くことができますが、 性格、趣味趣向、癖、好きな勉強や仕事のジャンルは、 いつの時代もまったく変わらないので、 どの人も行動パターン、失敗の傾向は同じです。 いいところは伸ばし、悪いところは修正。。。それでいいのです。」(ラクシュミーさん)「人は誰でも、過去の生があり、今の自分があります。。 時代も空間も超えて今の生があるわけです。。 しかし性格、長所、短所、癖、趣味趣向、職業。。。全て同じ。。。 魂の鍛錬は、今日も続きます。あなたも例外ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507210000/「死とともに全ては無となるのですが 残るものがあります。 それは心。。。 邪悪な心で生きた人は、 暗く寂しく辛く哀しい殺伐とした世界に住むことになります。 心の美しさ。。。 磨いていますか? 死と生はコインの裏表。。。 今世の生き方次第で帰る場所が決まります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601290000/「人は、いつか必ず死ぬのです。 死を恐れるからこそ、 人は生きているということを実感することができるわけです。 死ねば終わり。。。だから生きている間はやりたい放題でいい。。。 これが大間違いですよ。 業はしっかりと次の生で償うことになっているのです。。。 誰も見ていないからこそ、 良心に従って今を明るく人を喜ばせて生きなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509210000/
2016.11.08
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「朝日は必ず昇ります。。。 夜が来て、朝が来る。。。 闇しかない人生などあるはずもないのです。 地下に住んでいない限り。。。」「苦難に耐えるプロセスが大切です。 苦難を受け入れ、むしろそれを愉しむのです。 苦難と栄光はコインの裏表ですから、 必ず反転することを信じましょう。」「春夏秋冬、季節は、天の法則により規則正しく巡っています。 朝が来れば昼が来て、そして夜が巡ってきます。 自然に逆らわないことですよ。 人知を超えた天の法則に逆らわない生き方こそ、 大切な人の道なのですから。」朝の来ない夜はない。。。春の来ない冬はない。。。止まない雨はない。。。苦あれば楽あり。。。ものごとは、いつか必ず良い方へ変わる♪という意で遣われる言葉だと思うのです。長いようで短い人生。。。短いようで長い人生。。。 良いこともあれば、悪いこともあると思うのです。 嬉しいこともあれば、悲しいこともあると思うのです。 楽しいこともあれば、苦しいこともあると思うのです。 健康な時もあれば、病気の時もあると思うのです。人生の過程において、色々あるからこそ、人生は面白いのだと思うのです。色々経験させて頂くからこそ、学べるのだと思うのです。正すべきを正せるのだと思うのです。少し見方を変えさせて頂くと、「良い」とはどういうものかを知る為に「悪い」を経験させて頂く。。。「悪い」とはどういうものかを知る為に「良い」を経験させて頂く。。。「嬉しい」とはどういうものかを知る為に「悲しい」を経験させて頂く。。。「悲しい」とはどういうものかを知る為に「嬉しい」を経験させて頂く。。。「楽しい」とはどういうものかを知る為に「苦しい」を経験させて頂く。。。「苦しい」とはどういうものかを知る為に「楽しい」を経験させて頂く。。。「健康」とはどういうものかを知る為に「病気」を経験させて頂く。。。「病気」とはどういうものかを知る為に「健康」を経験させて頂く。。。ということでもあると思うのです。「悪い」を知るからこそ、「良い」の有難みが分かると思うのです。。。「悲しい」を知るからこそ、「嬉しい」気持ちが一入になり、人様の気持ちも分かるようになるのだと思うのです。「苦しい」を知るからこそ、「楽しい」という喜びを実感することができ、人様の気持ちも分かるようになるのだと思うのです。「病気」を知るからこそ、「健康」の有難みが分かると思うのです。。。「良い」を知ったのであれば、「悪い」にならないように。。。「嬉しい」を知ったのであれば、「悲しい」にならないように。。。「楽しい」を知ったのであれば、「苦しい」にならないように。。。「健康」を知ったのであれば、「病気」にならないように。。。調子に乗ったり、傲慢になったり、無理をしたりすることのないよう、いつも良心に従い、自分の言動に責任をもって、生かさせて頂くことが大切だと思うのです。楽は苦の種、苦は楽の種。。。楽あれば苦あり、苦あれば楽あり。。。苦楽は相伴う。。。禍福は糾える縄の如し。。。今が良ければ、次は悪いことが。。。今が悪ければ、次は良いことが♪今が楽しければ、次は苦しいことが。。。今が苦しければ、次は楽しいことが♪ということだと思うのですが、 「今が良ければ、次は悪いことが。。。」 「今が楽しければ、次は苦しいことが。。。」の時は、今の良好で楽しい状態においても、増長することなく、傲慢になることなく、謙虚な姿勢で過ごさせて頂いていれば、過度に悪くなったり、苦しむことからは、回避されると思うのです。良いときであろうと、悪いときであろうと、楽しいときであろうと、苦しいときであろうと、その時々によって、心のあり方や生き様、言動がコロコロと変わることなく、いつ何時も同じ態度でいることができるような心を育ませて頂きたいものですね。そうすれば、自分に与えて頂いている全ての境遇について、 「有難いなぁ~♪」と思うことができる大きな心、豊かな心が生まれ、何が起こっても感情に左右されることなく、ものごとを冷静に、客観的に洞察することができ、大きな痛手を負うことから回避できると思うのです。 (良いこと、悪いこと等の基準は人それぞれで、 自分勝手な自分基準によるものごとの見方で、 「これは良い♪」「これは悪い。。。」と 決めつけているだけだと思うのです。 それ故に、同じ境遇でも、ある人は「これは良い♪」とし、 またある人は「これは悪い。。。」とするのだと思うのです。 自分に与えて頂いている全ての境遇は、 その時の自分にとって必要なこと故に、 必然として与えて頂いていることを考えれば、 実は全てが「良いこと♪」なのだと思うのです。 ただ、それを「(自分にとって都合が)良いか悪いか」で、 分けて考えようとしてしまう私たちの思考の悪癖が、 邪魔をしてしまっているのだと思うのです。 ということは、例え、その時こそは、 自分基準で「これは悪い。。。」と感じることであっても、 時の経過とともに、 『あの時思った「これは悪い。。。」という経験があったからこそ、 今の自分があるんだなぁ~。。。あの経験は良かったんだなぁ~。。。」 と素直に思うことができることもあると思うのです。 結果的に「良いこと♪」になる。。。 だからこそ、全ては「良いこと♪」なのだと思うのです。)中には、 「朝の来ない夜はある。。。」 「春の来ない冬はある。。。」 「止まない雨もある。。。」 「苦しかない。。。」と思われる方もいらっしゃられると思うのです。 (自分の心を地下に置いている人は、 このように思ってしまう傾向があると思うのです。 しかしながら、心を地下に置いているのは、 自分の意思であり、自分の選択の結果だと思うのです。 明るい地表で、心を日向ぼっこさせたければ、 そこに移動すれば良いだけ。。。 その移動ができるか否かは、地下から地表に出る 勇気があるか否かの差だけだと思うのです。)本質が「心」である私たちにとって、心のあり方が変われば、その捉え方も変わってくると思うのです。後向き、否定的、消極的、悲観的な心のあり方や言動が多ければ、どんなにか、 「朝の来ない夜はない。。。」 「春の来ない冬はない。。。」 「止まない雨はない。。。」 「苦あれば楽あり。。。」と希望や期待を抱いていても、自らのその心のあり方が不平不満、愚痴、怒り、被害妄想などの言動や、足ることを知らない欲望を生み出せば、 朝が来ないように。。。 春が来ないように。。。 雨が止まないように。。。 苦が続くように。。。させてしまっていると思うのです。 (不平不満、愚痴、怒り、被害妄想を抱くことは、 より悪く、より苦しく、より辛くなるように 自ら仕向けているようなものだと思うのです。 それでは、良くなりようがないと思うのです。)時には、 朝が来ているのに自ら夜にしてしまう。。。 春が来ているのに自ら冬にしてしまう。。。 陽が照っているのに自ら雨にしてしまう。。。 楽が訪れているのに自ら苦を選んでしまう。。。ということさえあると思うのです。それもこれも、私たちの後向き、否定的、消極的、悲観的な心のあり方や言動。。。つまり、自分自身に原因があるのだと思うのです。ということは、その逆。。。前向き、肯定的、積極的、楽観的な心のあり方や言動を多くして過ごさせて頂けば、例え、 「朝の来ない夜はある。。。」 「春の来ない冬はある。。。」 「止まない雨もある。。。」 「苦しかない。。。」と希望や期待を抱いていなくても、自らのその心のあり方や言動によって、自ずと自分を取り巻く環境や人が変わり、 夜が明けて朝がやって来る。。。 冬が明けて春がやって来る。。。 雨が止んでお天道様が照る。。。 苦を乗り越えて楽が訪れる。。。ようになるのだと思うのです。天のお立場になってみると、 苦難や試練を良心と理性に従って、 耐え忍び、心磨かれているところに、愛の光で応援を♪ 喜びや笑顔多きところに、幸運を♪ 期待と努力の継続あるところに、ご褒美を♪ 明日に夢や希望を抱き続けるところに、チャンスを♪というスタンスでいらっしゃると思うのです。良い時であろうとなかろうと、態度を変えることなく、いつも良心と理性に従う心のあり方や言動。。。喜びや笑顔が多くなる自分の心のあり方や言動。。。期待を抱きつつも依存せずに努力する心のあり方や言動。。。明日に夢や希望を持って諦めずに生きる心のあり方や言動。。。与えて頂いた境遇に逆らうこと無く、ただ有り難く受け留めさせて頂きながら、前向き、肯定的、積極的、楽観的な心のあり方で、 朝を待つ。。。(夜明けを待つ。。。) 春を待つ。。。(雪解けを待つ。。。) 雨上りを待つ。。。(青天白日を待つ。。。) 楽を待つ。。。(苦という嵐が過ぎ去るのを待つ。。。)という姿勢で、「今」を明るく、元気に、笑顔で生きようとするその生き様が、朝を招き、春を迎え、青天に恵まれ、人生を楽しみ、幸せになる道に導くのだと思うのです。源光「喜びましょう。 期待しましょう。 明日を見ましょう。 そうです。 明日は、晴れるのです。 寒い冬ももう終わりです。。 あなたの人生。。 春の陽射しがそこまで来ていますよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602090000/「明けない夜は無いのです。 あなたの人生も同じことです。」(ラクシュミーさん)「たとえ今は不幸な状況であっても、 じっと耐え忍んでいれば、いずれ幸せが巡ってくるのです。 いつまでも冬が続くわけではなく、春は必ず訪れます。 朝のこない夜もないのです。」(ラクシュミーさん)「暑さ寒さも彼岸まで、 残暑は秋の彼岸までに治まり、 余寒は春の彼岸までに和らぐので、 それ以後は過ごしやすくなるという自然の理です。 どのように困難な事態であっても、 やがては終わりが来て乗り越えることができます。 だから苦難の時も、諦めずに耐えることですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509140000/「待つ。。。ひたすら待つ。。。大切なことです。 農作物、人生。。。 育てることが上手な人は待つことが上手です。 待っていることに喜びや楽しみが感じられれば 今を充実して生きられるのです。 経済的苦難も、鬱も、病気も、慟哭も、 トラブルも事態の好転をひたすら待つ。。。 待つことが喜びであり楽しみ。。。 もはや好転したも同じです。 天はそのような人にご褒美を降ろします。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201511010000/「心の病、大病など、根性や、精神力、 お金ではどうにもならないこともあります。 自分の力のないことは天に任せて、自分の心がけをよくし、 根本から再生の努力をすることです。 天は心の美しさを求めているのですから。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408230001/「幸運の時も不運の時も、すべての現象に感謝しましょう。 感謝は最大の徳であるだけでなく、全ての徳の源なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406240001/「冬の時代にすべてを今すぐに知ろうとしても無理です。 心が春になって雪が解ければ観えてくるのです。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409050000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409050001/「不安、不自由、不足や不満の種は尽きませんが、 恵まれていることは忘れていませんか? 心が不安や不満でいっぱいになったら、 不平不満、不安,不自由から心を放して、 恵まれていることに感謝しましょう。 そうすれば、あなたを悩ませている問題は、 霧がはれるように少しずつ消えていきます。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312210001/『嵐が過ぎ去るのを、身を低くして、 「どうぞ、静かにお通り下さい」と、 過ごしたらいいですよ。 あなたは、必ず、元気になりますよ。 私はあなたを応援しています。』(グラ女神さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603100000/「大いなる喜びに、大いなる悲しみが先立つのですから、 どんなに辛くとも、大いなる悲しみを乗り越えなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206150000/ 「禍福は、コインの裏表ですよ。 苦難が大きければ大きいほど、 大きな幸せが隠れているのですから、 哀しまないことです。 笑顔でコインをひっくり返しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310110000/「なぜ自分だけが、こんなに苦しまなければならないのか?と思わないことです。 試練は、その人が魂の向上のために、自ら人生の途中に仕掛けておいたもの。 試練の傾向が同じです。自分のメニューですから、当然、クリア出来るのです。 よく反省し、より良く生きようとするなら、 苦しんだり、悩んだりすることは、当然のことです。 これを乗り越えた時、大いなる安らぎの光に包まれます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312170003/
2016.11.07
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「世界中の風景の中に 自分の心の故郷を発見してください。 あなたの心が安らぐ場所。。。 写真で発見できますよ。 悠久の時の流れ。。。 生き通しの魂を大切にすることの意味がわかるはずです。 何があろうと生きて生きて生き抜くことですよ。 いつの日か、その場所に佇んでください。 過去の記憶が蘇るかも知れません。」 「何も考えない。。。 ただ美しい風景に溶け込んでください。 それだけで救われることがあります。」実際に目にする大自然の風景や歴史的建造物、絵画。。。写真や画像等で見る大自然の風景や歴史的建造物、絵画。。。車窓の先に広がる風景。。。街並み。。。地形。。。など、様々なシチュエーションで出逢いを頂いたものの中に、強く心惹かれるもの。。。とても印象深いもの。。。既に知っていると感じるもの。。。心地良さを覚えるもの。。。懐かしさを感じるもの。。。等があると思うのです。時として、 「行ったことが無いのに見たことがある気がする。。。」 「初めて来たのに、懐かしさを感じる。。。ここにいた気がする。。。」 「この写真の風景、凄く惹かれる。。。懐かしい。。。行きたい。。。」 「この大自然の風景。。。この古い街並み。。。この気候、地形、風土。。。 この場所にいるだけで、なぜか心が安らぐ。。。心が落ち着く。。。」などと感じることがあると思うのです。そのように感じるのは、 今生では、行ったことが無いだけ。。。 今生では、初めて来ただけ。。。 今生では、初めて目にしただけ。。。であって、幾度となく生まれ変わっている自分、過去生の自分が そこを生活の拠点とし、定住していた。。。 旅の途中、縁あって、その地に長居していた。。。などの経験が、私たちの本質である魂に、その記憶が刻まれ、残っているが故に、心惹かれたり、懐かしさや郷愁を感じるのだと思うのです。自分や自分の分霊さんの過去の人生の様々な経験。。。それが、魂に刻まれているからこそ、 強く心惹かれたり。。。 とても印象深く感じたり。。。 既に知っていると感じたり。。。 心地良さを覚えたり。。。 懐かしさを感じたり。。。するのだと思うのです。見方を変えさせて頂くと、そのように感じた地域や環境の他、それらに関係する何かに、過去生の自分や分霊さんが携わっていた。。。関係していた。。。という可能性もあると思うのです。それは、過去の記憶や経験を今生の自分に活かす為のヒントや、今生の自分の特技や能力を開花させるヒントなどが隠されている可能性もあると思うのです。何度も読み返したり。。。何度も聞き返したり。。。何度も観直したり。。。何度も訪れたり。。。自分なりに調査、探究するなどして、より身近に感じられるようにさせて頂くと、偶然を装った必然で、過去の記憶が蘇るような新たな境遇や人様とのご縁を頂くことにも自然と繋がり、今生の自分の大きな変化(ターニングポイント)にも繋がる可能性があると思うのです。また、今生で郷愁を感じるものは、時として、 過去生において遣り残したことを 今生においてやり続けたい。。。 やり遂げたい。。。もう一度、挑戦したい。。。などの過去の思いを思い出させる為の境遇だったり、ということもあると思うのです。 (時には、過去生における深い思い入れを 解消、清算する為の境遇ということもあると思うのです。)だからこそ、 「行ったことが無いのに見たことがある気がする。。。」 「初めて来たのに、懐かしさを感じる。。。ここにいた気がする。。。」 「この写真の風景、凄く惹かれる。。。懐かしい。。。行きたい。。。」 「この大自然の風景。。。この古い街並み。。。この気候、地形、風土。。。 この場所にいるだけで、なぜか心が安らぐ。。。心が落ち着く。。。」と感じるときは、そのような秘めた可能性があることを大切にして、 「気のせい気のせい。。。」 「たまたま気になっただけ。。。」 「テレビか何かで似たようなもの見たから、そう感じているだけだな。。。」などと軽視して、流してしまうのではなく、 「もしかしたら、チャンスかもしれない!」 「もしかしたら、自分のルーツを知る手掛かりになるかもしれない!」 「もしかしたら、自分が本当にやりたいこと、 やるべきことが見つかるかもしれない!」という感じで、自分の純粋な気持ちをありのままに受け入れさせて頂き、心動かされたことについて、あれこれと調査、探究したり、可能であれば、その場所に足を運ばせて頂くなど、踏み込ませて頂くと良いと思うのです。例え、今、その場所に訪れることができなかったとしても、ネットなどでその場所、地域周辺の画像や動画を眺めたり、画像をプリントしてお部屋に飾って思いを馳せたり、その場所、地域に関する歴史や風土について、あれこれと調べることによって、その場所へ訪れる機会を自ら引き寄せ、訪れる準備を整えることにもなると思うのです。純粋な 「行きたい。。。(行ってみたい。。。)」 「訪れて、そこで少し過ごしたい。。。」 「心がそこに行きなさい、と言っているような。。。 その地に呼ばれているような。。。 居ても立ってもいられないこの気持ちはなんだ?」という気持ちは、その純粋さ故に、私たちの本質である魂の叫びでもあると思うのです。自分の魂の叫びに素直に従って、そういう場所に自分を連れて行ったり、気になる場所や見覚えのある場所を、気の向くままに散策させて頂くことは、その地やその地の気候、風土、習慣、エネルギー、歴史的建造物、食べ物などに直接触れるということ故に、過去(生)の記憶の琴線に触れ、何かが呼び覚まされることもあると思うのです。そのようにして、自分(魂)に正直に過ごさせて頂くことが、 「生き通しの魂を大切にすること」に他ならないのだと思うのです。そして、 「生き通しの魂を大切にすることの意味」は、私たちの本質である魂の構成、仕組みにあるのだと思うのです。【魂の構成・仕組み】について魂は下記のような構成になっているそうです。1/6は、本霊さん 1/6は、分霊さん11/6は、分霊さん21/6は、分霊さん31/6は、分霊さん41/6は、分霊さん5合計で、1/6×6 = 6/6 = 1つの魂。。。こういうことのようです。例えば、今、地上に生まれてきている魂が「本霊さん」だとします。本霊さんが天に帰還された後、次に地上に生まれてくるのは、「分霊さん1」になるそうです。同じように、「分霊さん1」が天に帰還された後、次に地上に生まれてくるのは「分霊さん2」。。。→ 本霊さん → 分霊さん1 → 分霊さん2 →→ 分霊さん3 → 分霊さん4 → 分霊さん5 → 本霊さんの繰り返しで、本霊さんと分霊さん1~5がそれぞれ、地上で修業をさせて頂くことを繰り返しているそうです。また、「守護霊さん」という存在は、「次に生まれてくる自分」だそうです。今、地上で生かさせて頂いている自分の魂が「分霊さん3」であれば、その守護霊さんは、「分霊さん4」ということだそうです。「分霊さん5」が地上にいれば、その守護霊さんは「本霊さん」。。。「本霊さん」が地上にいれば、その守護霊さんは「分霊さん1」。。。ただし、「守護霊さん」とはいえ、1/6の自分であることに違いはない為、地上の自分を指導する力は、決して大きくはないそうです。稀に、同時期に1/6の魂2つ(2/6)が、地上に降り立つことがあるそうですが、それは、本人の魂の浄化や進歩に適した時代に、例外としてありうることだそうです。本霊さんは、本霊さんというリーダー的存在故に、分霊さん1~5が蒔いた種。。。地上で犯した過ちや間違いなどの業で清算されていないもの全てを背負うことになっているそうです。それ故に、本霊さんが地上に生まれた時は、大きな苦難や大きな試練があることが多いそうですが、乗り越えられないような苦難や試練はないようです。 (本霊さんご自身が、業の清算を通じて、 魂の修正や成長を遂げて、天に帰還するぞ! という意気込みで、自分で自分に課したものが 大きな試練故に、乗り越えられないことはない。。。 そういうことなのだそうです。)裏を返させて頂くと、大きな苦難だろうと、大きな試練だろうと、それらを乗り越えられるような心の器があるからこそ、「本霊さん」というリーダーが務まるのだと思うのです。今生の自分の人生は、自分の為だけの人生ではない。。。今生の自分の行いが、次に生まれてくる自分に引き継がれる。。。ということが良く分かると思うのです。 (地上で修業をしている1/6の魂の 地上における心のあり方、生き方、言動は、 天界にいる5/6が、順番に地上に生まれてくるときに、 引き継がれて大きく影響するということ。。。)今生の自分が善き心で善き行いをし、徳を積ませて頂けば、次に生まれてくる自分には善きことが。。。(善因善果)今生の自分が悪しき心で悪しき行いをし、業を増やせば、次に生まれてくる自分はその責を背負う。。。(悪因悪果)善きことも悪きこともバトンタッチして引き継いでいく。。。その引き継ぎは、自分から他人様ではなく、1/6の自分から、1/6の自分へ。。。次に地上に生まれ立つ魂の兄弟が、地上で心豊かに幸せに過ごせるようにする為には、今、地上で修業をさせて頂いている自分が、 良心に従って活かさせて頂くことを常とする。。。 人様のお役に立つことや人様にお喜び頂けることを 良心に従ってさせて頂く。。。 自分で自分に課した試練を乗り越える。。。ことによって、魂の修正や成長をさせて頂いたり、徳を積ませて頂くことが大切なのだと思うのです。その反対のことをすれば、自分で自分を貶めるだけでなく、次に地上に生まれ立つ魂の兄弟をも貶め、巡り巡って再び自分が生まれる時も、より大変になってしまう可能性がある、ということでもあると思うのです。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。自分と人様の関係において、「自分さえ良ければそれで良い」として、利己心で生かさせて頂くことは、自分で自分の首を絞めるようなものですが、自分(1/6)と自分の魂の兄弟(5/6)の関係もそれと同じようなものだと思うのです。地上にいるのは自分一人であったとしても、天界には5/6の魂の兄弟がいることを忘れず、その魂の兄弟が地上に生まれ立つときに、少しでも心豊かに幸せに過ごすことができるよう、 「魂の兄弟の為に自分が頑張ろう♪」という魂の兄弟を思い遣る心や魂の兄弟の為にという利他心を持たせて頂く。。。世界でたった一人の自分。。。掛け替えのない自分。。。掛け替えのない魂の兄弟。。。そういう魂の兄弟がいる自分だからこそ、 自分(1/6)で自分(5/6)を信じる。。。 自分(1/6)で自分(5/6)を大好きになる。。。 自分(1/6)で自分(5/6)を愛する。。。 自分(1/6)で自分(5/6)を大切にする。。。ことが大事なのだと思うのです。「生き通しの魂を大切にすることの意味」とは、そういうことなのだと思うのです。源光「文化、歴史、自然。。。 ただ訪ねるだけでよいのです。。。 人は心の故郷というものがあるのです。。。 そこにはあなたの原点があります。。。」(ラクシュミーさん)「昔の思い出は、ただそれだけで、 現在手に入れうるすべての幸福よりも魅力があるのです。 たまには遠い遠い昔を思い出してください。 あなたの原点を。。。。。 今のあなたは日々の積み重ね。。。 あの日から、ずいぶん成長しましたね。。。 よくやったね。。。と自分を褒めてあげてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509220000/「人生の途中で、出会った心に響く 歌や本や映像は、運命的なものです。 歌詞や文章や映像の中に、 人生のターニングポイントが隠れています。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312130006/「行ったことがないのに。。。 写真だけで郷愁を感じることも。。。 象徴的建物そして街並みは記憶に残っているものです。」(ラクシュミーさん)「自分の好きな景色。。。 海派、山派、夏派、冬派 。。。。 いろいろあります。 人は無意識に魂の故郷と似た風景に 郷愁を感じるものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506040000/ 「人生は、途中で切り上げることができない 自分で決めた旅行であって、死は帰宅です。 素晴らしい経験を積んで、 土産話をたくさん持って帰ることですよ。 懐かしい故郷へ。。 そして次に出る用意をしている魂の兄弟姉妹に、 素晴らしいアドバイスを与えてください。 人生は楽しいよ。。笑顔を忘れないでね。。と。。」「真っ直ぐの道 それは良心の道です。 懐かしい、魂の兄弟姉妹の待つ 心の故郷へ真っ直ぐに続く道。。。 歩いていますか?」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509240000/「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/「生まれ変わるのは、地上に生ある時です。 還って来てからでは遅いのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209260000/「死なないで地上で、生きられる人は皆無です。 人は、地上に命がある時だけ 諸々の善行をなすことができるのですから、 せっかくの機会を大いに活かして、 帰還されますように。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211090000/「地上に生を受けることは、降りる前に自分自身で決定していた、 路線に沿って魂を磨くということです。 無意味に生まれてきた人は、ただの一人も存在しないのです。 自分自身に誇りと夢を持って、活きて頂きたいと思います。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310240000/「誰もが日々見ていながら、誰も気づかなかったことに気づくこと。 あなたの生涯研究の課題です。ゼロでもいいのですが、 心の故郷に三つも四つも持ち帰る人もいるのは事実です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403050000/ 「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。 これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。 いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/
2016.11.06
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「みんな同じ方向に泳いでいるのです。。。 でもほんの数匹。。。逆方向に。。。 はぐれ者か? 方向感覚がおかしくなったのか? しかし、何かをなさんとすれば、 あえて大勢に逆らって逆に動くことも必要です。 一匹に引きずられて一気に流れが変わることもあるのです。」「自分」という個性や意識を与えて頂いている私たち。それにもかかわらず、 自分の意見がなく、 自分の意見があっても主張できず、 人様の目を気にし、 人様との相違を恐れ、 仲間外れにされることを恐れ、はたまた、 何ごとにも無関心。。。 長い物には巻かれ。。。 事勿れ主義。。。 人様の顔色を見て言動する。。。 良心のYESを言動のNOに。。。 良心のNOを言動YESに。。。など、誰かに言われるがまま、指示されるがままで、 「みんながいるなら大丈夫!」という根拠のない安易な考えから、多数の者と同じ行動をすることや、多数派に身を置くことに安心や安全を覚える。。。ということがあると思うのです。そのような時でも、 「これはいいかもしれない!」 「これをしたら、もっと良くなるかもしれない!」 「これは人様のお役に立つかもしれない!」 「これが自分が本当にしたいことだ!」などのように、居ても立っても居られないような何かが、ふっと思い浮かぶことがあると思うのです。その思い浮かんだことについて、いざ何らかの行動を起こさせて頂くときに、 「何から始めよう?」 「何をすればいいだろう?」と思案したり、模索することがあると思うのです。僅かばかり思案や模索した結果、 「〇〇を自分がやる意味があるのか?」 「こんな小さなことをしても仕方がない。。。」 「自分だけがやっても何にもならない。。。」 「どうせ人にバカにされ、笑われて、 変人扱いされるに決まってる。。。」などと思ってしまい、せっかく与えて頂いた思い浮かんだことを直ぐに諦めてしまうことも良くあると思うのです。それは、これからしようとしている思い浮かんだことについて、自分勝手な自分基準によるものごとの見方から生じた不安や恐れによって、 「意味がない」 「小さなこと」 「何にもならない」などとに勝手に解釈し、勝手に思い込み、勝手に決めつけているだけだと思うのです。それは、自分がしようとしていることについて、 直ぐに何らかの「結果」となって現れて欲しい。。。 「結果」として現れることによって「満足したい」。。。 バカにされたくない。。。笑われたくない。。。などと思っているからだと思うのです。自分がしようとしていることや、自分にできることが、 どんなにか「意味がある」かも分からないことであろうと、 どんなにか「小さなこと」であろうと、 どんなにか「何にもならない」と感じられることであろうと、 それが直ぐに何らかの「結果」にならないものであろうと、 それが他者にバカにされ、笑われることであろうと、それを地道に繰り返させて頂くことが、巡り巡って、いつの日か、人様の為になるようなものの「布石」となる可能性があるとしたら、とても遣り甲斐があると思うのです。自分が思い描いてしまった 「〇〇を自分がやる意味があるのか?」 「こんな小さなことをしても仕方がない。。。」 「自分だけがやっても何にもならない。。。」 「どうせ人にバカにされ、笑われて、 変人扱いされるに決まってる。。。」という思いが、未来に生じるべき変化を止めてしまう可能性があるとしたら、 「思い浮かんだからには意味があるに違いない! 意味を持たせることができるよう頑張ってみるか!」 「こんな小さなことでも未来のお役に立たせて頂けるなら!!」 「自分一人でもやれるところまでやってやる!!」 「人にバカにされようと、笑われようと、 これが自分のやりたいことなんだ!自分の役割なんだ! 自分を、そして、浮かんだことを信じて、信じ続けて、 どこまでも突き進んでやる!!」と、遣り甲斐が生まれてくると思うのです。自分という「個」が思い描く 「〇〇を自分がやる意味があるのか?」 「こんな小さなことをしても仕方がない。。。」 「自分だけがやっても何にもならない。。。」 「どうせ人にバカにされ、笑われて、 変人扱いされるに決まってる。。。」は、「全体」から見たら、 「あの人がやるからこそ意味があること。。。」 「あの人にしかできない意味があること。。。」 「あの人だからこそ任されている意味があること。。。」 「なければならない小さなこと。。。」 「無くては始まらない小さなこと。。。」 「何にもならないところから始まったこと。。。」 「バカにする人、笑う人は、その重要性の意味が分からない人。。。 そして、それはそういう人にはできないこと、任せられないこと。。。」でもあると思うのです。それを欠いてしまうことは、パズルを完成させることができない、ということだと思うのです。重要なパズルの1ピースを担わせて頂いているにもかかわらず、自分勝手な自分基準によるものごとの見方や考え方で、無駄、無意味にしてしまうことのないように、 「意味がない」 「小さなこと」 「何にもならない」などと感じるようなことでも、大切にして生かさせて頂きたいものですね。否、「意味が見いだせない」ような「小さなこと」だからこそ、「何にもならない」という予想もつかないようなことだからこそ、大切にさせて頂くべきだと思うのです。「意味が見い出せないこと」の中に、「意味を見出す」努力をしなければ、意味を見い出すことなどできないと思うのです。 (意味を見い出す努力をさせて頂くからこそ、 自ら意味を持たせることができる。。。 ということも多々あると思うのです。)「小さなこと」を大切にしたり、成し遂げることができずに、「大きなこと」を大切にしたり、成し遂げることはできない、と思うのです。「何にもならない」と感じられることにさえ、取り組ませて頂く勇気と行動力があるからこそ、どんなことにも取り組ませて頂くことができるのだと思うのです。「意味がない」「小さなこと」「何にもならない」と感じるものであろうと、最初の 「これはいいかもしれない!」 「これをしたら、もっと良くなるかもしれない!」 「これは人様のお役に立つかもしれない!」 「これが自分が本当にしたいことだ!」という居ても立っても居られない様な感覚を大切にし、その感覚を行動に移し、地道に繰り返すことによって、「意味がない」ところに意味が生まれ、「小さなこと」を成し遂げるとができ、「大きなこと」に取り組ませて頂く器量が備わり、「何にもならない」と感じていたことから、「何か」を生み出すことができたり、新しい発見が生まれるのだと思うのです。だからこそ、 「何をすれば良いのか。。。何から始めれば良いのか。。。 良く分からないけど、とにかく、動きたい!何かをしたい!」 「これはいいかもしれない!」 「これをしたら、もっと良くなるかもしれない!」 「これは人様のお役に立つかもしれない!」 「これが自分が本当にしたいことだ!」という動くべき時期のお知らせ的な感覚を逃すことのないようにして、冷静に、かつ、迅速に、選択、判断、決意をさせて頂きたいものですね。例え、その道が、 大勢(多数派)と反対の方向であろうと。。。 自分一人しかいなかろうと。。。そのような道を与えて頂いているのは、 大勢と反対の方向を歩むことができるあなただから。。。 自分一人しかいなくても、その道を選ぶことができるあなただから。。。ということでもあると思うのです。一匹狼であろうと、否、一匹狼だからこそ、自分に自信と誇り、夢、希望、孤高の精神を持って、自分に与えて頂いた道。。。自分の信じる道。。。を自分らしく歩ませて頂きたいものですね。表舞台から人様を先導する方であろうと、裏方として実権を握り、人様を先導する方であろうと、人様を先導する方の生き様とは、異質なものなのだと思うのです。 (異質だからこそ為せる、ということでもあると思うのです。)時に、そういう方を、「神の賜物」の意のギリシャ語である「カリスマ」と呼ぶのだと思うのです。源光「世の中から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、 本当の意味でみんなの役に立ち、喜ばれる人になれるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407130001/ 「あなたの人生はあなたの人生です。 人に左右される必要はありません。。。 孤高の人であっても。。。それはあなたの人生です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506130000/「自分で選んだ道ならば、堂々と胸を張って生きていけばよいのです。 他人にとやかく言われる筋合いではありません。 ただ泣き言は止めなさい。見苦しい限りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501010000/ 「良心に恥じない自分であれば、思うままに生きればよいのです。 そして他人の生き方に口を出す必要はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409280000/「人生は有限です。 ですから他人の気に入るような行動をするよりも、 良心に忠実に、自分を尊敬し、自分が満足できるような 行動をとるべきです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312060000/「世間や社会にではなく、良心に従って 自分に恥ずかしくないように生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160001/ 「まず自分自身を満足させるのです。 自分自身も満足させられない人に、 いったい何ができるというのでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410220000/「一つの命を救える人は、世界も救えるのです。 一つの善行ができる人は、世界の光の源です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408150000/ 「世の中が暗いと不平を言うよりも、 自分で進んで一本の明かりをつけていきましょう。。 一人ひとりの心に燈った小さな明かりも何千本、何万本と集まっていけば、 この世の闇も消滅していくのです。 小さな一本の明かりでいいのです。 世の中に必要とされる人でありましょう。 この世で一番不幸なことは、飢えや病気ではなく、 この世で必要とされていないと感じるときなのですから。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407290000/「自分がやる意味があるか。 自分がやって人と違うものが残せるか? やってみますか? たとえ身が滅んでも。。 誰かのためになる何かを残すために。。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407130000/「何かをなそうとするのならば 一番重要なのは、今、持っている 信用と、人脈と、自分の能力と、資産で 何ができるかを考えることなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408260000/
2016.11.05
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「誰も、あなたを称賛してくれる人はいないでしょう。 だから自分のことは自身で称えればよいのです。 第三者の目で自分を観て、一所懸命に頑張っている。 あるいは、「今までの人生に悔いなし!!」と思えるのならば、 あなたは、誰が何と言おうと 人生の勝者への道を歩んでいるのです。」「誰の人生でもない、自分の人生です。 自分の気持ちに正直に生きればよいのです。」「他人がなんと言おうと 自分が本当の意味で幸せに感じる方を選びましょう。 そうすれば間違いありません。」私たちが、地上で生かさせて頂いているのは、他者に称賛される為ではなく、魂の修正や成長の為に修行をさせて頂く為だと思うのです。他者に称賛されることを望み、他者に称賛される為には、他者に気に入られるような言動をしなければならないと思うのです。 (他者に称賛されることを望まずに、 ただただ自分らしく、自分の能力や特技を 人様のお役に立つことや人様にお喜び頂けることに 真心込めて活かさせて頂くことで、 自然と他者に称賛されることは、 とても素敵で素晴らしいことだと思うのです。 そういう生き方こそ、私たちの本質である魂が 喜ぶ生き方なのだと思うのです。)それは称賛を得る為の他者の目を気にした言動であり、「自分」という意識を与えて頂いている「自分」を抑え、隠し、「自分」を偽り、欺き、騙している自分らしい生き方ではないと思うのです。 (自分を偽り、欺き、騙している、ということは、 他者を偽り、欺き、騙している、ということでもあると思うのです。 他者の目を気にして、他者からの称賛を得る為に、 自分も他者も偽り、欺き、騙す。。。 そのようにして得られた称賛もまた、 自分や他者を偽り、欺き、騙す称賛でしかないと思うのです。)「自分」という意識があるにもかかわらず、他者の目を気にし、他者からの称賛欲しさに、自分の人生や自分らしさを捨てている自分を、私たちの本質である魂(本当の自分)は、とても残念に感じると思うのです。私たちの本質である魂は、 自分らしく。。。自分にも他者にも正直に。。。 自分が喜びや幸せを感じる心のあり方で。。。 自分の特技や能力を人様の為に活かしたい。。。 自分に恥じることのない生き方をしたい。。。と思っていると思うのです。 自分の心のあり方や言動の責任の所在は、因果応報の法則によって、自分にあることは明確なことだと思うのです。他者の目を気にしたり、他者からの称賛を得る為に、自分も他者も 偽り、欺き、騙したその責任は、全て自分が背負うことに。。。そのようなことを「自分」は望んでいないと思うのです。他者の目を気にして、他者からの称賛を得る為に、自分も他者も偽り、欺き、騙している「自分」を、「自分」はどう評価するのか。。。そのような自分を、「自分」はどう思うのか。。。自分の評価は自分ですれば良いことだと思うのです。他者の目や他者からの称賛など気にする必要はないと思うのです。自分で自分を称賛できるほど、 努力していたかどうか。。。 頑張っていたかどうか。。。 その時にすべきことをしたかどうか。。。 その時にできることをしたかどうか。。。 楽な方へ楽な方へ逃げなかったかどうか。。。 自分を甘やかさなかったかどうか。。。 自分の評価を甘くしなかったかどうか。。。 欲望や邪念に翻弄されなかったかどうか。。。 自分を偽らなかったかどうか。。。 自分を欺かなかったかどうか。。。 自分を騙さなかったかどうか。。。 自分に打ち克つことができたかどうか。。。は、自分が一番良く分かっていると思うのです。表現を変えさせて頂くと、 他者には自分の心の内は分かりようもなく、自分の心の内を知っているのは自分だけであることを考えれば、他者が自分を評価することなど出来ようもなければ、自分が他者を評価することも出来るわけがない、と思うのです。他者の目や他者からの称賛など気にせず、自分の言動に責任を持たせて頂く為にも、自分で自分の心のあり方や言動を冷静に、客観的に観察し、自分の心のあり方や言動を反省し、律するなどの自己評価をし、自分に恥じることのない「自分」を育ませて頂くことが大切なのだと思うのです。自分に恥じることなく生きていれば。。。はたまた、自分に恥じることなく生きる努力をさせて頂いていれば、悔いを残すことはない。。。はたまた、 悔いがあっても小さく少なくて済むと思うのです。しかしながら、自分に恥じるような生き方は、自分の本質である魂が残念に思う生き方故に、悔いばかりが残ってしまうと思うのです。私たちは、 悔いを残す為。。。 悔いを来世に繰り越す為。。。に生まれてきたのではなく、過去生や今生における悔いを修正し、幸せになる為に、輝く為に生まれてきたのだと思うのです。私たちの本質である魂は、「自分」を愛し、「自分」を信じ、「自分」を大切に思って下さっていると思うのです。だからこそ、「自分」も「自分」を愛し、信じ、大切にしながら、自分が幸せを感じる道を歩ませて頂き、自分が幸せになる為の努力を欠かさず、自分で自分を称賛することができるよう、そして、自分の人生に満足できるよう、生かさせて頂けば良いと思うのです。相手にすべきは、他者の目ではなく、いつもお見守り下さっている天。。。そして、自分自身だと思うのです。どのような境遇や現象に遭遇しようと、天と自分に恥じない心のあり方で生かさせて頂けば、天に称賛され、その称賛に相応しい場所に帰還させて頂くことになるのだと思うのです。源光「誰からも認められなくても、真面目、誠実、勤勉に、 コツコツと責任を果たしていく人に、 天は、偶然を装った必然で、運命の転機である出逢いと、 幸運の鍵を用意しています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306100000/「自分で選んだ道ならば、堂々と胸を張って生きていけばよいのです。 他人にとやかく言われる筋合いではありません。 ただ泣き言は止めなさい。見苦しい限りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501010000/ 「自分自身という財産を持っている人。。。 最終的に勝利者になる人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405020001/「世の中から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、 本当の意味でみんなの役に立ち、喜ばれる人になれるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407130001/ 「年を取ってから心豊かに生きられるように、 若いうちに努力を惜しまないことです。 死後心安らぐように、生きているうちに 無償の愛を世の中に還元することです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412010000/「賞賛を求め、中傷に傷つく。。 これが普通の人ですが、 賞賛も、中傷も気にしない人にならない限り、 心の安らぎは永久に得られないのです。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403140000/ 「本当に自信のある人は泰然としています。 自分が他人にどのように評価されているか、 などということは眼中にないわけです。」(ラクシュミーさん)「何があろうと凛として 良心に従って生きていくことですよ。 自分を信じることです。」(ラクシュミーさん)「何があろうと 自分の確固たる城があればよいのです。 人は人。。。我は我。。。 人の評価など気にすることはないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510130000/「人生は有限です。 ですから他人の気に入るような行動をするよりも、 良心に忠実に、自分を尊敬し、自分が満足できるような 行動をとるべきです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312060000/「良心に恥じない自分であれば、 思うままに生きればよいのです。 そして他人の生き方に口を出す必要はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409280000/「自分で選んだ道ならば、 堂々と胸を張って生きていけばよいのです。 他人にとやかく言われる筋合いではありません。 ただ泣き言は止めなさい。見苦しい限りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501010000/ 「心が騒ついているから、苦しいのです。 人は人、我は我ですよ。 人の目や評価を気にしたり、 人と比較している限り心の平安は訪れないのですから。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507010000/ 「人は人、我は我ですよ。 人の目を気にしたり 人と競っている限り 心の平安は訪れないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507260000/
2016.11.04
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「あなたを必要とする人がいる限り、 生きる価値も、生きる意味もあるのです。 自分が必要とされていない。。。 誰一人、自分を認めないと感じていても、 応援している存在があることを忘れないでください。」それが家族であろうと、友人知人であろうと、他人様であろうと、自分を必要として下さっている方がいるのは、とても有り難く、幸せなことだと思うのです。だからこそ、自分を必要として下さる方には、その時の自分が無理なくできることを、懸命にさせて頂けば良いと思うのです。触れ合う方を愛する為に授けられた私たちの本質である「魂」が喜ぶ「愛」のある生き方だと思うのです。自分にできることをさせて頂いた結果、自分を必要として下さった方にお喜び頂けたら、自分も嬉しさや喜びを感じると思うのです。その嬉しさや喜びは、自分を必要として下さった方が、自分を必要として下さったからこそ、体験させて頂くことができた嬉しさや 喜びだと思うのです。自分を必要として下さった方の為に何かをさせて頂いたつもりが、実は、自分を必要として下さった方から、嬉しさや喜びを与えて頂いた。。。そういうことなのだと思うのです。裏をかえさせて頂くと、自分を必要として下さった方の為に、何もしなければ、相手の喜びも、自分の嬉しさ、喜びも生まれない。。。ということでもあると思うのです。自分を必要として下さる方がいる。。。というのは、その相手や自分が、喜びや嬉しさで包まれ、幸せを感じる機会として与えて頂いているものなのだと思うのです。反対に、自分を必要として下さる方がいるにもかかわらず、その方の為に自分ができることを何もしなければ、 「自分を必要として下さっていたあの方に。。。あの時。。。 親切にさせて頂けば良かった。。。 自分にできることをさせて頂けば良かった。。。 相手の立場、気持ちに寄り添うべきだった。。。 あの時の自分は、自分のことしか考えていなかった。。。 自分一人で生きているわけではないにもかかわらず。。。 自分も誰かに助けられ、支えられながら 生かさせて頂いているにもかかわらず。。。 自分を必要として下さる方の為に、 自分が無理なく出来ることをさせて頂くことは、 自 分をそれまで助け、 支えて下さった方々や、 自分をこれから助け、支えて下さるであろう方々に対する 感謝の心、報恩の心を行動に起こさせて頂くことができる 貴重な機会であることを忘れてはいけないなぁ。。。」という感じで、後悔の念に苛まれてしまうと思うのです。後悔の念に苛まれるということは、自分を必要として下さった方を傷つけてしまった、ということでもあると思うのです。相手を傷つけ、自分は後悔の念に苛まれる。。。双方が辛く苦しい思いをしない為にも、自分を必要として下さる方がいる時は、その時の自分が無理なくできることを、真心を込めて、懸命にさせて頂きたいものですね。自分が必要とされていないと感じるときは、いつか自分が人様に必要とされるときの為に、それが人様に評価されることであろうとなかろうと、人様に認められようと認められまいと、自分の特技、能力に磨きをかけたり、それに関することを向上できるよう、探究させて頂く為の時間。。。自分に出来ることを地道にコツコツと繰り返しさせて頂く為の時間。。。という心持ちで過ごさせて頂けば良いと思うのです。そのような心持ちで過ごさせて頂くことは、まだ見ぬ未来への無償の愛の実践だと思うのです。自分という意識を持っていても、自分として生かさせて頂いていても、特技や能力、長所が自分のものでも、自分以外の方が存在しなければ、「自分」を感じることができなくなってしまうと思うのです。裏をかえさせて頂くと、自分という意識を持たせて頂く為に、自分以外の人様が存在して下さっている。。。自分として生かさせて頂く為に、人様が人様として生きて下さっている。。。自分の特技や能力、長所を活かさせて頂く為に、それを必要とする人様がいて下さる。。。人様という存在のお陰様で、実は自分が救われている。。。ということでもあると思うのです。私たち一人一人は、この世に存在させて頂いているだけで、「意味がある」ばかりか、人様のお役に立たせて頂いている、ということなのだと思うのです。その「意味がある」ことを、「意味を活かす」に変えさせて頂く為に、得意なこと、特技、能力、長所があり、人生があるのだと思うのです。触れ合う方を愛する為に授けられた私たちの本質である「魂」にとって、自分の特技や能力、長所を必要として下さる人様の為に、お役に立たせて頂くことこそ、最高の喜びを感じる生き方なのだと思うのです。だからこそ、自分の特技、能力、長所をはじめとする自分らしさという個性に、良心や思い遣りなどの利他の心を添えて、人様のお役に立つことや人様にお喜び頂けることを積極的にさせて頂き、人様に必要として頂けるような自分を育ませて頂きたいものですね。時に、 「自分は誰にも必要とされていない。。。」 「自分は誰にも認められていない。。。」などと感じてしまうことがあるものですが、それは、消極的、否定的、後向き、悲観的なものごとの見方をしている自分が生み出している思い込みでしかないと思うのです。天のお取り計らいによって、存在させて頂いている私たち。。。一人一人が存在しているのは、一人一人の存在に「意味がある」からこそ、だと思うのです。一人が多くの方に必要とされる。。。多くの方が一人の方に必要とされる。。 。一人が一人の方に必要とされる。。。各々が各々を必要とする。。。など、色々なケースがあると思うのです。また、知らず知らずの内に、ご縁のない見えない人と繋がっていることも多々あると思うのです。例えば、 Bさんは多くの方に必要とされる存在。。。 しかし、Bさんが必要としているのはAさんだけ。。。 AさんなくしてBさんなし。。。 Bさんを必要とする多くの方は、 Aさんの存在を知らずとも、 Aさんの存在のお陰様で、 Bさんを必要とすることができる。。。そういうこともあると思うのです。天のお立場からすれば、 「誰にも必要とされていないのではなく、 社会や人様に必要とされる時期が来ていない。。。 必要とし て下さる人様との出逢いの時期が来ていない。。。 既に時期は来ているが、あなたも相手も気付いていないだけ。。。 あなたが活躍できる、又は、活躍すべき時期が到来していない。。。 など、何らかの理由があるだけ。。。 人それぞれ、必要とされる時期。。。必要とされる場面。。。 必要とされる内容は異なるもの。。。 同じように、どなた様かを必要とする人も、 必要とする時期や場面、内容は異なるもの。。。 必要とされていないと感じている時は、 必要とされた時に直ぐにお役に立てるよう、 準備をしておく努力と待機の時間です。 努力すること、待つことを楽しんでください。 時には、自分が必要とされる場所がないか、 自分で探してみてください。 ---- 誰にも認められていないのではなく、 あなたの隠れた努力を知らないだけ。。。 あなたの素晴らしい能力・特技に気付いていないだけ。。。 あなたの素晴らしい能力・特技を認められないだけ。。。 あなたの素晴らしい能力・特技の活かし方が分からないだけ。。。 など、何らかの理由があるだけ。。。 自分は自分、人は人です。 人様の目を気にして、人様に認められるように生きるのではなく、 自分らしく生きて下さい。 例え、誰にも認められなかったとしても、 自分の魂が喜ぶことを探求し、努力し、 自分で自分を認めることができるように生きて下さい。 天は、あなたが努力している様子を見て、 あなたの努力を認め、いつも応援しています。」という感じだと思うのです。自分の生きる価値や生きる意味は、他者に求めるようなものではなく、自分を信じ、試行錯誤を繰り返しながら自ら築き、育み、思い出しながら、予め決めてきた自分との約束事を遂行したり、与えて頂いた天命を全うさせて頂くことにあると思うのです。同じ地上で修行をさせて頂いている方々ではなく、自分を応援して下さる天を相手に生かさせて頂けば良いと思うのです。例え、地上において、 誰にも必要とされていない。。。 誰にも認められない。。。 としても、 天に必要とされる自分。。。 天に認めて頂けるような自分。。。になれるよう努力をさせて頂けば、 本当の意味で必要とされる自分。。。 本当の意味で地上でお役に立てる自分。。。になることができると思うのです。源光「人間は、自らが置かれている社会や隣人に 有用な存在となるために生まれてくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605090000/「あなたがそこに居ることで救われる人がいるのなら、 あなたは、そこに居るべきなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603250000/「意味もなく生まれてきた人はいないのです。 自分自身の、そして他の人々の人生に意味を見いだしましょう。 あなたの人生はあなたのもの。。(一部抜粋)」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312310000/「自分が社会の中で何か役立っている。。。 社会の中に自分の居場所がある。。。 自分を必要としている人がいる。。 なんて素敵なことでしょう。 お金があって、遊んで暮らしている人。。。 虚しさに心が張り裂けそうなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412050000/ 「個性的だからこそ、素敵なのです。 何か得意なことで社会貢献してください。 それで生活できるのが一番の幸せです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603050000/「世間が必要としているものと、 あなたの才能が交差しているところに、 あなたの生き甲斐と未来があります。 交差しないところに立っていると虚しく感じるものです。 無限の交差点がありますが、そのうちの一つが、 あなたのために用意された交差点です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408080001/「誰からも認められなくても、真面目、誠実、勤勉に、 コツコツと責任を果たしていく人に、 天は、偶然を装った必然で、運命の転機である出逢いと、 幸運の鍵を用意しています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201306100000/「地上に生を受けることは、降りる前に自分自身で決定していた、 路線に沿って魂を磨くということです。 無意味に生まれてきた人は、ただの一人も存在しないのです。 自分自身に誇りと夢を持って、活きて頂きたいと思います。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310240000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310250000/「生まれる前に決めていた、 自分のコースを自分のペースで歩むのが最高の幸せの道なのですが なぜか、人のコースが良いように見えたり、 人のペースが早い様に見えて焦るのが人間です。 人は人。。我は我。。コースはみんな違います。 本来のコースを外れた人生を送って、 名誉や地位や権力を手に入れたり 学歴や肩書、財産などがあっても 一つも面白くない人生を歩んでいる人もいるのが 世の中というものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312220000/ 「努力して創造していく間が人生なのです。 人生を楽しんでください。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208140000/「待つ。。。ひたすら待つ。。。大切なことです。 農作物、人生。。。 育てることが上手な人は待つことが上手です。 待っていることに喜びや楽しみが感じられれば 今を充実して生きられるのです。 経済的苦難も、鬱も、病気も、慟哭も、 トラブルも事態の好転をひたすら待つ。。。 待つことが喜びであり楽しみ。。。 もはや好転したも同じです。 天はそのような人にご褒美を降ろします。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201511010000/「どんな事にもタイミングがあります。 あせらず、その時を待ちましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201504210000/「ことが成るには、時を待たねばなりません。 焦らず騒がず、時を待つことです。 準備万端怠りなく。。半分の法則ですよ。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201504180000/
2016.11.03
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「為すべきことは、 熱を与えることではなく、 光を与えることなのです。」「死ぬということは、 神さまのもとに還るということ。 生きるということは、 神さまの心を地上に降ろし、 全ての人に愛の光を放つことです。」熱。。。何かに打ち込む。。。何かに精神を集中する。。。何かに夢中になる。。。熱意。。。熱中。。。熱心。。。情熱。。。「熱」は、時の経過と共に冷めてしまい易いもの。。。もし、どなた様かに「熱」を与えたいと思うのであれば、「熱」を与え続けなければならないと思うのです。 (途中で投げ出すようなことをすれば、 相手の方の心身にご負担をかけるなど、 何らかのご迷惑をお掛けしかねないと思うのです。 それ故に「熱」を与え続けようとするのであれば、 最後まで責任を持つことが大切だと思うのです。)本来、熱意、熱中、熱心、情熱などは、自ら生み出すものだと思うのです。自ら生み出すべき「熱」を、他者から一方的に与えて頂いても、他者と自分の「熱」の対象が、同じものや同じ方向を向いていない限りは、 押し付けがましい。。。 余計なお世話。。。などと感じてしまうと思うのです。他者は「熱」を与えて下さっているつもりでも、自分は「冷めた」気持ちになってしまう。。。心と心の繋がりが希薄で、意思の疎通がはかられていなければ、 「熱」も伝わりようがない。。。 「熱」を受け入れようがない。。。と思うのです。「熱」を与えたいと思う側は、自分が与えたい「熱」を与えてしまうことが多いと思うのですが、それは自分の価値観の押しつけであり、相手を利用して自己満足を得ているに過ぎないと思うのです。相手が欲している、又は、望んでいるような「熱」を与えて差し上げるのが、相手を思い遣るという「熱」だと思うのです。相手を思い遣る「熱」は、 優しさ。。。 温かさ。。。 豊かさ。。。 大きさ。。。 愛。。。など、色々あると思うのですが、相手を思い遣る「熱」があるからこそ、相手もその「熱」を感じて、受け入れて下さるのだと思うのです。「熱」を感じて受け入れる。。。それは、心に「光」が灯るということだと思うのです。「熱」が「光」を灯したのではなく、「熱」を与えようとしていた者の心に、「相手を思い遣る」という無償の愛の「光」が灯り、その「光」から、 優しさ。。。 温かさ。。。 豊かさ。。。 大きさ。。。 愛。。。が生まれ、相手を照らすることに。。。その「光」が相手の心の琴線に触れ、それを受け入れた相手の心に「光」を灯した。。。そういうことなのだと思うのです。心に「光」が灯るということは、 明るく、元気に、楽しく、笑顔になる。。。 自ら光を放つようになる。。。 自らの光を他者にお福分することができる。。。ようになったり、「光」が「熱」を生み出す原動力となって、何かに夢中になる熱意、熱中、情熱を生み出し、生きていく張り合いや喜び等の生き甲斐を感じて、生かさせて頂くことができるようになる、ということだと思うのです。蝋燭の「光」を他の蝋燭にお福分して灯すと、もとの蝋燭の「光」は衰えもせずに輝き続け、新しく灯された蝋燭も同じような「光」を放つと思うのです。それと同じように、私たちの心に灯っている「光」は、他者にお福分させて頂くことで新たな「光」となって引き継がれていく。。。それ故に、与えるべきは「光」であり、「熱」ではないのだと思うのです。相手の心に「光」が灯るまで、「光」を照らし、与え続け、相手の心に「光」を灯させて頂くことができたら、その後、相手が 「光」をどのように活かそうと。。。 「光」からどのような「熱」を生み出そうと。。。 「光」を灯し続けようと。。。 「光」がより輝きを放つように良心に従って生きようと。。。 「光」を消し去ろうと。。。 「光」が消えるような思考や言動をしようと。。。それは相手の自由だと思うのです。その後にすべきことは、「光」を必要としている他者を見つけ、「光」を照らし、与えて差し上げること。。。それを繰り返させて頂けば良いのだと思うのです。天は、私たちに無償の愛という「光」を与え続け、心の羅針盤である「良心」をも与えて下さっていますが、私たちが 無償の愛の「光」を浴びて、「良心」に従って生きようと、 無償の愛の「光」を拒否して、「良心」に背いて生きようと、その選択、判断は、私たちの自由としてお任せ下さっています。天のそのあり方は、私たちがさせて頂くべきお手本故に、それと同じようにさせて頂けば、それで良いのだと思うのです。源光「一つの命を救える人は、世界も救えるのです。 一つの善行ができる人は、世界の光の源です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408150000/ 「世の中が暗いと不平を言うよりも、 自分で進んで一本の明かりをつけていきましょう。。 一人ひとりの心に燈った小さな明かりも 何千本、何万本と集まっていけば、 この世の闇も消滅していくのです。 小さな一本の明かりでいいのです。 世の中に必要とされる人でありましょう。 この世で一番不幸なことは、飢えや病気ではなく、 この世で必要とされていないと感じるときなのですから。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407290000/「一人で出来ることなんて、たかが知れていますね。 でも一本の灯りも、何千、何万と集まれば、 世界の闇も消せるはずです。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209180000/「暗闇を暖かい光の世界に変えていきましょう。 一人一人の心に一本の灯りを燈しましょう。 小さな一本の灯りが何千、何万と集まれば、 きっと世界の闇を消すことが出来るはずです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204050000/「暗闇が怖いのなら、灯りを心に燈しましょう。 暗闇を呪う暇があるのなら光を探しましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407020000/「千本の蝋燭の火は、一本の蝋燭より得る。 火を分け与え、蝋燭が短くなることはない。 同様に分け与え、幸福が失われることはない。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201260000/「世の中から孤立してもいいと腹をきめて、 自分を貫いていけば、 本当の意味でみんなの役に立ち、喜ばれる人になれるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407130001/「光がなければ人は絶望してしまいます。 あなたも一本の灯りにぜひなってください。 触れ合う人を照らしてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506120000/「一つの命を救える人は、世界も救えるのです。 一つの善行ができる人は、世界の光の源です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408150000/
2016.11.02
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「先の先のことまでわかるのならば、 人は失敗も後悔もしなくて済むわけです。 明日のこともわからない人を導くもの、 それは無償の愛。。。 女神は手を取って心美しき人を導きます。」先の先のことまで分かる。。。とても便利なことだと思うのです。何が起こるか分かっていれば、予め対策を練っておくことができる。。。そして、いざ事が起こった時は、予め練っておいた対策をもって、適切な対応をすることもできれば、辻褄合わせで表面的に対処することもできる。。。自分に与えて頂いている境遇や現象が、例え、試練であろうと、苦難であろうと、スムーズに乗り越えさせて頂くことができ、失敗や後悔さえもしなくて済む。。。先の先のことが分かるとは、そういうこと故に、とても魅力的に感じるものですが、反面、弊害になるようなこともあると思うのです。例えば、 「〇月〇日、あなたの夢は叶います。。。」 「〇年〇月、あなたの希望は叶います。。。」などのように、自ら抱いた夢や希望について、 それらが叶う日のことが分かると、それはそれで嬉しさや喜び等、感極まるものがあると思うのですが、予め先のことが分かってしまうことによって、嬉しさや喜びが失われてしまうと思うのです。予見されている「夢や希望が叶う日」の当日を迎えたとき、予見通りに、夢や希望が叶ったとしても、そのことを予め分かっているが故に、 「予見通りだったな。。。」 「前もって分かっていたから、 思っていた程、嬉しさも喜びもないなぁ~。。。」 「今日起こることが分からない方が、 嬉しさや喜びは一入だったろうなぁ。。。」などと感じることも多々あるであろうと思うのです。いつとも分からない「叶う日」だからこそ、夢や希望を抱くことができ、夢や希望にに向かって努力、探究を継続することができるものだと思うのですが、「叶う日」が予見されることによって、夢や希望を抱き続けること。。。夢や希望に向かって努力、探究を継続すること。。。への情熱、生き甲斐が失われてしまうと思うのです。また、魂の修正や成長をさせて頂く為に地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いている私たちの魂にとっても、先の先のことが分かっていることが、大きな弊害になることが多々あると思うのです。試練は試練でなくなり、苦難は苦難でなくなる。。。先の先が分かっていることで、試練や苦難をスムーズに乗り越えたつもりでも、その実態は、乗り越えたのではなく回避しただけ。。。 試練や苦難を乗り越えるには、なぜその試練や苦難を与えて頂くことになったのかなど、自分の心のあり方の至らない点や間違い、過ちに目を向け、反省し、感謝し、修正する為の努力が必要だと思うのです。しかしながら、先の先が分かることによる試練や苦難からの回避は、それを乗り越えなければ次のステップに行くことができない魂の修行の為に与えて頂いている境遇や現象から、逃げたり、目を背ける為に必要な努力をしているだけで、魂の修正の為に必要な努力をしていないが故に、本当の意味での修行にならず、いつまで たっても試練や苦難を乗り越えることができず、次のステップにも行くことができなくなると思うのです。それでは本末転倒だと思うのです。失敗や後悔をしないで済むことは、一見とてもラッキーなことに見えるものですが、修行の場である地上において、失敗や後悔を経験することができないこと、失敗や後悔をしないで済む楽な生き方を選択してしまうことこそアンラッキーだと思うのです。 失敗や後悔という経験は、意味も無く、ただ闇雲に与えられているわけではないと思うのです。失敗や後悔をさせて頂くことを通じて、自分の過ちや間違い、至らない点や不完全な点を知ることができ、反省することができ、正すことができる。 。。裏を変えさせて頂くと、失敗や後悔の経験がなければ、 自分の過ちや間違いに気付けない。。。 自分の至らない点や不完全な点を知ることができない。。。が故に、 反省すべきを反省することができない。。。 正すべきを正すことができない。。。ということでもあると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場で生かさせて頂いているにもかかわらず、先の先が分かってしまうことで、 反省すべきを反省することができない。。。 正すべきを正すことができない。。。となっては、本末転倒だと思うのです。失敗。。。後悔。。。不完全で至らない点がある私たち故に、失敗も後悔もあるのが極自然なことだと思うのです。その失敗や後悔という経験こそ、修行をさせて頂く為に生まれてきた私たちには、必要なプロセスなのだと思うのです。失敗は、その失敗の経験を正しく活かすことで成功の種に。。。後悔は、その後悔の経験を正しく活かすことで夢や希望の種に。。。なると思うのです。その成功の種や夢や希望の種を自ら生み出し、掴み、育ませて頂く為に必要な経験が、失敗や後悔なのだと思うのです。それ故に、失敗や後悔をさせて頂けることは、とてもラッキーなことなのだと思うのです。 (ラッキーな 経験にできるか否かは、 私たちの心のあり方次第だと思いますが。。。)反対に、先の先を分かっていることで、失敗や後悔というプロセスがないということは、成功の種や夢や希望の種を得られず、修行にもならないが故に、修正すべき点も修正されることはない。。。魂の修正の為に修行をさせて頂いている私たちにとって、とてもアンラッキーなことだと思うのです。先のことなど分からない方が、私たちの修行になるが故に、先のことが分からないようにして下さっている。。。それが天の無償の愛によるお取り計らいなのだと思うのです。先のことが分からない私たちに与えて頂いている様々な境遇や現象は、修行の機会であり。。。その時の自分の真の姿を知る機会であり。。。自分の至らない点や不完全な点を知る機会であり。。。それを正させて頂く為の貴重な機会でもあり。。。自分の過ちや間違いを生み出す機会であり。。。それを正させて頂く為の貴重な機会でもあり。。。意味のないことは何もないのだと思うのです。感情や欲望、邪念に左右されることなく、常に冷静さ(平常心)と客観的視点をもって、「本質」を洞察できるような自分を育ませて頂く。。。魂の修正や成長をさせて頂く為の努力をさせて頂く。。。為に与えて頂いてるのが、自分を取り巻く様々な 境遇や現象なのだと思うのです。天のお取り計らいの下、私たちの魂の修行の為に与えて頂いている様々な境遇や現象とはいえ、天の深遠なるご配慮は、人知の及ばないもの故に、私たちが理解できるようなものでもないと思うのです。何も見えず。。。何も知らず。。。何も聞こえない。。。そのような私たちに与えて下さっているのが、 「何が正しいかその全てを知っている良心」という心の羅針盤なのだと思うのです。天は、無償の愛を以て、良心という心の羅針盤を分け隔てなく全ての人に与え、私たちを正しき道へ導く為にいつも手を差し伸べて下さっていると思うのです。ただ、 その手を掴んで、正しい道に導いて頂くか。。。 その手を払って、欲に翻弄され、邪念に支配されるか。。。は私たち次第。。。私たちの自由であり、私たちの責任。。。表現を変えさせて頂くと、 良心に従うからこそ、掴ませて頂くことができる天や女神の手。。。 良心に従うからこそ、引き寄せることのない悪魔の手。。。 良心に背いているからこそ、掴むことができない天や女神の手。。。 良心に背いているからこそ、自ら引き寄せる悪魔の手。。。ということでもあると思うのです。心の羅 針盤である良心を与えて下さっている天からすれば、 「あなた方を導きたくても、 あなた方を正しき道へ導く為に与えた良心に、 あなた方が従わないのであれば、 導くことができません。。。」 「私たちは、良心を通じて、あなた方に語りかけています。 良心に従う者には、私たちの声は届きますが、 良心に背く者には、私たちの声は届きません。。。」 「私たちが、あなた方を拒否しているのではありません。 良心に従わず、欲に翻弄され、邪念に支配されているあなた方が 私たち天や女神を拒否しているのです。 その代わりに、自ら生み出した欲や邪念によって、 悪魔を誘惑し、引き寄せているのです。。。」 「 良心に従うこと=心を磨き、心を美しくすること。。。 良心に背くこと=心を曇らせ、心を穢れさせること。。。 天は、心を磨き、心を美しくしようと決意し、 努力する者に手を差し伸べ、導きます。。。」という感じだと思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生まれる機会を望み、与えて頂いた私たち。。。そのような私たちに「良心」を与え、無償の愛を以て、常に手を差し伸べ、導き、応援して下さる天。。。良心に従って生かさせて頂くことこそ、 自分で自分に約束してきた生き方。。。 自分の本質である魂が喜ぶ生き方。。。 天が喜んで下さる生き方。。。なのだとおもうのです。だからこそ、良心に従って生かさせて頂き、差し伸べて頂いている女神の手を掴ませて頂き、正しき道へ導いて頂きたいものですね。源光「明日のことはわからないのです。 だからこそ、今。。 この一瞬を大切にして生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507070000/「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/「生まれ変わるのは、地上に生ある時です。 還って来てからでは遅いのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209260000/「死なないで地上で、生きられる人は皆無です。 人は、地上に命がある時だけ、 諸々の善行をなすことができるのですから、 せっかくの機会を大いに活かして、帰還されますように。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211090000/「今は一秒、一秒、過去になっています。 こちらに還ってくる時、一生は瞬きをする間だったなあ!!と、 ほとんどの人が感想を漏らします。 人は、今を心正しく誠実に生きることですよ!! この世を去る時に大後悔しないように!! 私は、全ての人に雲に乗って還っていただきたいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210200000/「人は心の美しさ。。。 太陽が朝を連れて来るように、 心美しい人は、今日も愛の光を連れて来るのです。 あなたの喜ぶ姿が私の喜びです。 人はこうして幸せになって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405050001/ 「常に天法である心と対話してください。 人法の遥か上の境地で生きれば、 間違いの無い正しい生涯を全うできるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204020000/「天は、理性と良心を持っている人を 決して見放すことはありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203060000/「汝、良心に恥じず堂々と背筋を伸ばして生きよ。 天は汝と共に生きるであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111230000/「汝は良心を友として生きよ。天に通じる道ゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112280000/「神は人を見捨てないのです。 人が神を見捨てているのです。 救いようがないのは当然です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605080000/「天使があなたを嫌っているのではなく、 あなたが天使を嫌っているのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603220000/「悪魔があなたを誘惑するのではなく、 あなたが悪魔を誘惑するのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403150000/「中庸の道を歩むことですよ。 極端から極端に動かないことです。。 良心に従うことです。 なにも見えず、何も知らず、 何も聴こえないのが人というものなのですから。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201304290000/「あなたの人生のすべての出来事には意味があり、 生きていくこととは、その意味を理解することです。 理解が及ばないと不本意な人生に。。 理解が及べば潤沢で楽しい人生となっていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408290000/「人生で遭遇するすべての出来事には意味があるのです。 生きていくこととは、その意味を理解することに他なりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407010000/
2016.11.01
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「自分の心を良心に従ってコントロールしている限り、 人は、決して間違った方向にはいかず、 正しい道を進んでいきます。 行きつく先は、天国、極楽、高天原といわれる場所です。 逆に、欲望に心をコントロールされれば、 闇の中を進んでいきます。。 行きつく先は、地獄、煉獄といわれる場所です。」「人に心あり。 心を磨いて生きていきましょう。。。 それがこの世に生を受けた意味ですから。。。」魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場を与えて頂き、生かさせて頂いている私たち。。。そもそも、なぜ魂の修正が必要なのか。。。それは、不完全で至らない点の多い私たちの過去生における自分の心のあり方や生き方が誤りや間違いを生み出したからに他ならないと思うのです。では、過去生における誤りや間違いの原因は何なのか。。。それは、 ・足ることを知らない欲望に翻弄される。。。(強欲) ・人の道に外れた考えである邪念や悪意による言動。。。 ・自分一人で生きているわけではないにも拘らず、 自分の利益だけを考え、他人のことは顧みない利己的思考、言動。。。 ・不平不満、愚痴、復讐心、嫉妬、恨み辛み、被害妄想。。。 ・自分がされて嫌なことを人様にする。。。 ・謙虚さを知らない高慢、傲慢な心のあり方、生き方、言動。。。など、様々な要因があると思うのです。これらの要因を生み出しているのは、何を隠そう、 ・心ある人としてあるべき正しい心の道から外れた心のあり方。。。 ・私たちの本質である魂(本当の自分)に恥じる心のあり方。。。 ・人様を傷つけ、苦しめ、悲しませ、辛い思いをさせる言動を生む心のあり方。。。 ・自分や人様を偽り、欺き、騙し、貶める心のあり方。。。など、過去生の私たち自身の心のあり方にあるのだと思うのです。 (中には、「そんなことはあり得ない!」として、 その要因が自分にあることを認めない方もいるものですが、 感情的になって、それを認めることができないとしている その動揺した様こそ、自分が要因であることを認めている証だと思うのです。 そして、それを素直に認めることができないその心のあり方や生き方、 言動こそが「要因」なのだと思うのです。 しかしながら、その「要因」に自ら気付いていない。。。はたまた、 気付いていても素直に認めることができない。。。が故に、 その「要因」を、自らより根深いものにしてしまうのだと思うのです。 それに気付けないようにさせているのも「要因」であり、 その「要因」を生み出しているのが、自分の心のあり方に あることにも気づけない。。。が故に誤りや間違いを犯すことを繰り返す。。。 という悪循環に身も心も置いてしまうのだと思うのです。)とはいえ、過去生における具体的な誤りや間違い、そして、それらの要因となった過去生における自分の心のあり方は、過去生のものであるが故に、今生の自分が知る由もないと思うのです。 (もし、それらを知った状態で、修行の場に生まれてきたら、 修行にならなくなってしまうと思うのです。 修正すべき点が何なのか。。。 その原因を自ら探し、気付き、認め、反省させて頂く。。。 その過程があるからこそ、本当の意味で修正させて頂くことが できるのだと思うのです。 原因を知って生まれてくることは、 「原因を自ら探す」「原因に自ら気付く」「原因を認める」 という過程を失うことに。。。 その状態で「反省させて頂く」といっても、 本当の意味での反省にはならないが故に、 本当の意味での修正にもならないと思うのです。 それ故に、 何も知らず、何も分からない状態= =本当の意味で修正できる状態 で修行の場に送り出して下さるのだと思うのです。 天の無償の愛に他ならないと思うのです。)今生の自分は、過去生のことを知る由もないが故に、過去生における誤りや間違いは、今生の自分の欠点や弱点として引き継がれているのだと思うのです。その欠点や弱点の原因(=自分の心のあり方)を探し、その欠点や弱点に自ら気付き、その欠点や弱点を素直に認め、その欠点や弱点を素直に反省させて頂く為に、試練や苦難などの境遇、環境、現象、出逢いを与えて頂いているのだと思うのです。不完全で至らない点があるからこそ、過ちや間違いを犯してしまう私たち。。。欠点や弱点を背負っている私たち。。。は、何をどうすれば正しいのか。。。何をどうすれば過ちや間違いを正せるのか。。。何をどうすれば欠 点や弱点を克服することができるのか。。。が分からないと思うのです。そのような私たちに、 「魂の修正や成長の為に必要だから。。。」ということで、様々な境遇、環境、現象、出逢いを与えて頂いても、かえって過ちや間違いを増やし、欠点や弱点を増幅させてしまい、結果的に、修正すべき点を増やしたり、修正すべき点の溝を深めてしまいかねないと思うのです。そのようなことにならないように、天は、無償の愛をもって、お取り計らい下さっていると思うのです。地上で修行をさせて頂いている私たちが、 誤った道や、間違った道を歩んでしまうことのないように。。。 心ある人としてあるべき正しい道、天に続く道を歩めるように。。。という想いで、 私たち一人一人が生まれる時に与えて下さっているもの。。。それが、 「何が正しいかその全てを知っている良心」という、修行の場における心の羅針盤だと思うのです。天は、私たちに良心に従うことを決して強制することなく、 「私は、良心を与えるだけです。。。 良心に従って生きようと、良心に背いて生きようと、 あなた方の自由です。。。」という感じで、私たちの自由意志、選択に任せて下さっているのだと思うのです。天からすれば、 「例え、良心に従うことが容易ではないような時でも、 何が正しいかその全てを知っている良心に従って、 自分の心を律し、自分の心を制して生きていけば、 間違いのない正しい道を歩むことができます。 自分の感情や欲望、他者の言動に左右されることなく、 ただただ良心に従って生きる。。。 自分に勝つことができるその強さ、逞しさ、 自分や良心を信じる力、心のあり方こそ、 自分の魂を磨き、向上させ、輝かせるのです。 そのような心のあり方で生き続けることによって、 生まれる前よりも高い水準の魂となって、 生まれる前よりも高い水準の場所に帰還するのです。 生まれる前よりも高い水準の場所に帰還することは、 まだ見ぬ未知なる光、愛のある場所に帰還すること故に、 あなたにとって、天国であり、極楽であり、高天原なのです。 修行の場である地上において魂が高い水準になっていくことは、 修行の場である地上をも、天国や極楽、高天原になっていきます。 同じ修行の場でも、魂の水準や波長の違いによって、 その存する場所が異なるようになるからです。 地上における境遇や環境、現象、出逢いに 左右されたり、騙されたり、翻弄されたり、鵜呑みにすることなく、 良心に従って、それらの中に隠されている【本質】にこそ、 目、心、意識を向け、隠されている真実を見出すことが大切です。 良心に従って、隠されている本質、真実を 自ら見抜き、気付く努力をするからこそ、 境遇や環境、現象、出逢いの真の意味を 見出すことができる自分になっていくのです。 地上的価値観では、 その生き方が不自由に見えたり、 損をしているように見えたり、 失敗をしているように見えるかもしれませんが、 そのように見えるだけで、実態はその逆です。。。 だからこそ、 「何が正しいかその全てを知っている良心」 に従って生きることを常として頂きたいのです。 そもそも、 「過去(生)の過ちや間違いを反省し、正して、 自分の魂を修正させ、成長させたい。。。 その為の修行が出来る地上に生まれたい。。。 その時こそは、同じ過ち、間違いを繰り返さないよう、 人としてあるべき正しい心、良心に従って、 生きて、生きて、生き抜いていくぞ!」 と純粋に望んでいたのはあなた方です。 その純粋な思いを実現させることができるように、 あなた方が生まれる時に与えたのが、 「何が正しいかその全てを知っている良心」 という天法の写しです。 それ故に、修行の場である地上で 良心に恥じることをし、良心に背いて生きる。。。ことは、 本来、考えられないことですが、 地上における誘惑に翻弄されたり、 自ら抱いた感情や欲望、邪念に支配され、 良心に恥じることをし、良心に背いて生きてしまう。。。 それがあなた自身の、あなたの心の真の姿です。 良心に従えば、誘惑に打ち克つことができます。 良心に従えば、感情や欲望、邪念に支配されず、 それらを自ら制することができます。 それにもかかわらず、 良心に背き、自分に負けてしまうその弱さ、 誘惑に翻弄され、感情や欲望、邪念に支配される弱さ、 自分や良心を信じきれない心のあり方こそ、 自分の魂を貶め、曇らせ、苦しめるのです。 そのような心のあり方で生き続けることによって、 生まれる前よりも低い水準の魂となって、 生まれる前よりも低い水準の場所に帰還するのです。 生まれる前よりも低い水準の場所に帰還することは、 生まれる前よりも暗く、陰鬱な、闇に近い場所に帰還すること故に、 あなたにとって、煉獄であり、地獄なのです。 修行の場である地上において魂が低い水準になっていくことは、 修行の場である地上をも、煉獄や地獄になっていきます。 誘惑に翻弄されるがまま。。。 感情や欲望、邪念に支配されるがまま。。。 自分の好き勝手に行動する。。。 利己心だけで行動する。。。 地上的価値観では、 その生き方が自由に見えたり、 得をしているように見えたり、 成功をしているように見えるかもしれませんが、 そのように見えるだけで、実態はその逆です。。。 天から観れば、生き地獄なのです。 天はあなたを尊重するだけです。 あなたが良心に従おうと、背こうと自由です。 良心に従って生きれば、 天国、極楽、高天原という光に続く道を歩むことになり、 良心に背いて生きれば、 煉獄、地獄という闇に続く道を彷徨うことになる。。。 ただそれだけのことです。」ということだと思うのです。極楽願うより地獄作るな。。。極楽や天国、高天原に帰還したいと願っているにもかかわらず、 良心に恥じ、良心に背くことをする。。。 誘惑に翻弄される。。。 感情や欲望、邪念に支配される。。。 人の道を外れた悪い行いをする(悪行)。。。など、自ら地獄や煉獄に落ちるような裏腹なことをしてしまうのが、不完全で至らない点の多い私たちなのだと思うのです。そのような私たちだからこそ 「何が正しいかその全てを知っている良心」を授かっていることを忘れずに、良心に従うことを常とさせて頂きながら、自らを律し、制し、心を磨き、輝かせることによって、光の世界である極楽、天国、高天原に続く道を歩ませて頂きたいものですね。。。~~~~良心は天法の写し。。。天法は、極楽、天国、高天原のもの。。。故に、良心に従って生きることは、極楽、天国、高天原に導かれ、招かれる生き方なのだと思うのです。表現を変えさせて頂くと、良心を授かるということは、極楽、天国、高天原に導かれ、招かれている、ということでもあると思うのです。裏を変えさせて頂くと、良心に背くということは、極楽、天国、高天原に導かれ、招かれていることを拒否するということ。。。それは、地獄、煉獄に落ちることを自ら選んでいるということだと思うのです。「過去(生)の過ちや間違いを反省し、正して、 自分の魂を修正させ、成長させたい。。。 その為の修行が出来る地上に生まれたい。。。 その時こそは、同じ過ち、間違いを繰り返さないよう、 人としてあるべき正しい心、良心に従って、 生きて、生きて、生き抜いていくぞ!」という純粋な思いから、生まれる機会を与えて頂いた私たちが選ぶべき道は、 良心に従う道なのか。。。 良心に背く道なのか。。。を、良く考えて、その日その日を大切に生かさせて頂きたいものですね。源光「汝の良心は全てを知っている。 誰が正しいかではなく、何が正しいかということを。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110220000/「あなたの現在の人生は、 過去の選択の結果です。 同じことは、あなたの未来にもあてはまるのです。 良心に恥じない自分であればよいのです。 触れ合う人の喜びを我が喜びにして生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409140000/「良心に従って生きてください。 他人の批判を恐れ、人生を台無しにしてはいけません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206220000/「汝は、常に自分自身の選択によって行動することができるが、 良心の命ずるままに行動するのが天命を果たす道である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110060000/「良心に従えば豊かになり、欲に従えば危うし。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108090000/「選択した道が正しいか、天は教えてくれないのです。 天は、全ての人に良心という羅針盤を持たせて地上に降ろしましたから、 その人の判断に任せているのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204200000/「その道が正しい道なのか、天は教えてくれないのです。 そのために天は、良心という羅針盤を人に与えました。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203050000/「汝は良心を友として生きよ。天に通じる道ゆえに。(一部抜粋)」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112280000/「天法は、人法の遥か上にあるのですから、 決して良心に逆らってはいけません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203250000/「常に天法である心と対話してください。 人法の遥か上の境地で生きれば、 間違いの無い正しい生涯を全うできるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204020000/「世間や社会にではなく、良心に従って 自分に恥ずかしくないように生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160001/「たとえ歩みはのろくとも。。。 良心に従って正しい道を歩んでいるのならば なんら恥じることはありません。 それでいいのです。 先に行っている人が 偉いわけでも優れているわけでもないからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412180000/「良心に従って生きてください。 他人の批判を恐れ、人生を台無しにしてはいけません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206220000/「つねに正義とともにあれ。 もし正義の観念が汝のうちで薄れるようなことがあれば、 汝はあらゆる危険におちいるであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107250000/「天は、理性と良心を持っている人を 決して見放すことはありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203060000/「良心は人生航路の羅針盤。。。。 足ることを知らない欲望が嵐です。 嵐は自分で産み出したもの。。 自然に発生したのではありません。 嵐に翻弄されるのは、羅針盤に従わなかった 自分の心と言動に原因があるのです。 心のあり方を修正し、これからの言動を 修正しなければなりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401130000/「人間は、その人がどういう人生を歩んできたのか、 苦しい経験を積んできたのかではなく、事が起きた際に、 良心に従って正しく行動したかどうかで価値が決まるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410160002/「天は自ら正しく行動しない人に 救いの手をさしのべないのです。。 良心に忠実に行動していますか? 良心に恥じるような言動をしていませんか? 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408190000/「足ることを知らない欲望に翻弄されると、人生が、歪曲。。。 良心を忘却して人は、偽りの目標に突き進み、 生きながら地獄に堕ちていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403040000/ 「優しい心で生きる時に聞こえる声は真実の声ですが、 邪念を持った時に聞こえる声は、偽りの声です。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205030000/ 「現在うまくいっているとしても 本当は間違った事をしていると、 心の底で分かっているなら、すぐに止めることです。 現在うまくいかないとしても 良心に恥ない正しい事をしていると 心の底でわかっているなら、諦めず継続していきましょう。 正しい努力だけが真の幸せを運んでくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311210000/「神は人を見捨てないのです。 人が神を見捨てているのです。 救いようがないのは当然です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605080000/「天使があなたを嫌っているのではなく、 あなたが天使を嫌っているのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603220000/「悪魔があなたを誘惑するのではなく、 あなたが悪魔を誘惑するのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403150000/「すべてが、心の働きの現われです。 強力な魔は、自我の盲信から生まれて、 残忍なる魔は、思考の仕組から生まれるのです。 それらを内から、良心に従って調伏するのが修行なのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205120000/「本当の穢れとは、心が穢れることです。 いかなる時も心美しく生きなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205160000/「人は逆境の時こそ、道理に耳を傾けなければなりません。 甘い誘惑に翻弄されてはいけません。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305170000/「感情のままに左右される人間は、 自分自身の主人ではなく、 見えない何かの操り人形なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409240000/ 「心が悪い想念に流されることも、嵐に巻き込まれることもあるでしょう。 しかし、そこで良心に従って反省すればいいのです。 その繰り返しで魂は向上していきます。。 あなただけの心のブランドを創り上げていくことですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407080000/ 「悪と善。。両面を持つのが人間です。 悪が無ければ善の何たるかも分かりません。 また必要悪というものも存在します。 ある場面では悪い人と思っても、 違う場面では良い人のこともあります。 その逆もあり、善人悪人の区別はできるものではありません。 しかし誰もが持って産まれた良心という鏡に照らして行動するならば、 人は決して悪の道に迷い込むことは無いのです。 良心の道は天啓を得る唯一の道ですよ。 真っ直ぐに天に続く道を歩んでいきましょう。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311100000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311110000/「足ることを知らない欲望に翻弄されると、 人生が、歪曲。。。良心を忘却して、 人は、偽りの目標に突き進み、 生きながら地獄に堕ちていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403040000/ 「愚者の楽園は、快楽に溢れ魅力的ですが、 誘われても決して入り込んではいけません。 本当の楽園は、身を律した世界の中にあるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601170000/ 「天に従うものは栄え、天に逆らう者は亡ぶのです。 良心こそ天の光です。あなたの生きる指針です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201508240000/
2016.10.15
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「足元に転がっている幸運は見過ごして 手の届かないようなものばかり追い求める。 これが人間という生き物です。 そうでない人は本当にわずかです。」「平凡な人生が、最高の人生です。 虚飾や栄光、贅沢から遠く離れたとことにのみ、 真実があります。」「幸せ」は、何かがたくさんあるから幸せ、というものではないと思うのです。小さなことにも大きな幸せを感じることができる豊かでゆとりのある大きな心で生かさせて頂けることが「幸せ」なのだと思うのです。そして、そういう心のあり方、ものごとの見方ができることが、「幸運」であり、「幸運」を招くのだと思うのです。私たちは、魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生を与えて頂き、「生かさせて頂いている存在」だと思うのですが、「生かさせて頂いている」ことそのものが、「幸運」だと思うのです。それにもかかわらず、不平不満、愚痴、怒り、怨み、辛み、妬み、嫉みなど、自ら「不運」になるような粗い波長のものばかりを生み出してしまう心のあり方やものごとの見方で過ごしてしまうからこそ、実は「幸運」の中で生かさせて頂いている。。。ということにさえ気づくことができず、「幸運」の微細で優しい波長と合うことができなくなってしまうのだと思うのです。「幸せ」は、自分に与えて頂いている様々な境遇に対する自分のものごとの見方や捉え方、考え方、心のあり方1つでも大きく変わると思うのです。それまで「幸せ」を感じることができなかった境遇についても、ものごとの見方や捉え方、考え方、心のあり方などが、ほんの少し変わるだけで「幸せ」を感じることができるようになったりするものだと思うのです。朝、当たり前のように目覚めることができたこと。。。実は、とても幸せなことだと思うのです。家族がいる幸せ。。。挨拶する相手がいる幸せ。。。お話をする相手がいる幸せ。。。一緒に食事をする相手がいる幸せ。。。共に仕事をする相手がいる幸せ。。。一緒に生活する相手がいる幸せ。。。一緒に遊ぶ相手がいる幸せ。。。共に喜び、共に悲しむ相手がいる幸せ。。。元気で健康に過ごせる幸せ。。。病を通じて健康の大切さを教えて頂く幸せ。。。道端に咲く小さなお花さんを観て幸せを感じる幸せ。。。深呼吸をした時の空気の美味しさに幸せを感じる幸せ。。。晴天や夜空を見上げて美しいと感じる幸せ。。。などなど日々、「当たり前」になっていることの中にも、それが「当たり前」でなくなった時に感じるであろう、「当たり前」であったことの「幸せ」が沢山あると思うのです。そのような「当たり前」が、当たり前のように続く平凡な人生こそ、幸せな人生なのだと思うのです。「幸せ」は、いつも自分の身近にたくさんある、ということだと思うのです。ただ、その身近にあるたくさんの「幸せ」に気付くことができない自分がいたり、はたまた、次から次へと生れる強欲を満たすことこそ「幸せ」と勘違いしてしまっている自分がいるだけなのだと思うのです。「幸せ」は、心が感じるもの故に、自分の心の中にあるものだと思うのです。その自分の心の中にある「幸せ」を自分で見出させて頂くことができたとき、「本当の幸せ」という計り知れない大きな愛で包まれ、心が満たされ、 「生かさせて頂いている」ことに喜びや幸せを感じるのだと思うのです。自分が自分であれること。。。自分が一人ぼっちではなく、「全て=1つ(宇宙即我)」であること。。。心の安らぎや幸せを自分の内にある宇宙に見い出させて頂きたいものですね。私たちは、 「幸せになる為に、この世に生まれてきている」ということを忘れてはならないと思うのです。何はともあれ、笑う門には福来たる。。。裏を返せば、笑わなければ福来ない。。。不平不満、愚痴、怒り、怨み、辛み、妬み、嫉みなどの、自らを不運に貶め、不運を招くようなものを生み出すことなく、明るく、元気に、笑って、楽しく過ごさせて頂く。。。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たちだからこそ、お互いを思い遣る心をもって、助け合い、支え合い、分け合い、協調し合い、愛し合い。。。そういう心のあり方で過ごさせて頂くことが、私たちの本質である魂の喜ぶ生き方であり、「幸せ」を感じ、「幸せ」で心が満たされ、自らを「幸運」の波に乗せるのだと思うのです。源光「幸せは足下に生える雑草や朝日にきらめく花の露と同様、 無数にあるのです。今日も思い煩うこともなし。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409210000/ 「花は咲く場所を選びません。。 あなたの歩む道にも咲いています。 路肩に咲いている名も無い花に語りかけて下さい。 生きる意味を教えてくれることでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403070000/「誰も見る人もいないのに美しく咲く花。。。 人もそうありたいものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603060000/「人は足下に転がっている幸運は見過ごして、 手の届かないようなものばかり追い求めるものです。 幸運はあなたの足下に今もあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507170000/「心満ち足らぬ人は 分不相応な品や贅沢品を持ちたがるのです。 心満ちた時、人は物に執着しなくなります。 ですから、物に執着しないようにすれば 心満ち足りるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603010000/「自分は生きているのではなく、「生かされている」という事実に気づきましょう。 本当の幸せは、あなたの心の中にあるのです。 幸せを追いかける人はいつまでも幸せになれず、 今、呼吸をしている幸せに気づく人が、 本当に幸せになれるのです。 まずは、生かされていることに感謝しましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401020002/「愛するもの、輝くものを持っている人は、 心から幸せを感じて生きています。 物質的高価な物や、名誉や地位や財産、肩書きなど 他人がよいと思うものを持っているから幸せなのではありません。。 あなたは愛するもの、輝くものを持っていますか? まだ手に入れていない人もいますが、 それは、あなたの手の届くところに今もあります。。 そっと手を差し伸べてください。。そして愛おしんでください。。 あなたのために咲いた一輪の花を。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050004/「幸せの基準が他人に尊敬されたり、認められたり、 地位や収入を求めたり、異性にもてたり、 快楽を求めたりするところにある人は、 たとえそれが手に入っても心の底から幸せを味わうことはできません。。 幸せの基準は、もっと自分の魂が喜ぶ、 心豊かなところにもちましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407230001/「要は心が満たされればいいのです。 収入や名誉や地位や名声、財産など、どうでもいいことです。 現状がどうであれ、心が虚しいのであれば、 大言壮語していてもやはり虚しい人生です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412120000/「豊かさには、三等あります。。 家の富、身の富、心の富の三等です。 心の富が一等である事は言うまでもありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204170000/「心が満たされた人は、 膨大な富にも勝ります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501090000/ 「不安、不自由、不足や不満の種は尽きませんが、 恵まれていることは忘れていませんか? 心が不安や不満でいっぱいになったら、 不平不満、不安,不自由から心を放して、 恵まれていることに感謝しましょう。 そうすれば、あなたを悩ませている問題は、 霧がはれるように少しずつ消えていきます。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312210001/「幸せが見つからないという人は、 見つけようとする努力を怠っている人なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510160000/
2016.10.14
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「まずは第一歩を。。 人は、恐怖心のせいで動けないのではなく、 動かないから怖くなるのです。」初めの一歩。。。「よし!これから頑張るぞ!」「これからどんな未来が待っているだろう♪ ワクワク、ドキドキするなぁ~♪」「なるようになるさ!とりあえずやってみよう!」という、前向き、積極的、肯定的、楽観的で、意気軒昂な心持ちのときに、 初めの一歩をさっさと踏み出す。。。 さっさと何らかの行動を起こす。。。 第二歩に繋がる何かをさっさと始める。。。ことが、とても大切だと思うのです。初めの一歩をさっさと踏み出さないばかりに。。。さっさと何らかの行動を起こさないばかりに。。。第二歩に繋がる何かをさっさと始めないばかりに。。。 「本当にこれでいいんだろうか。。。」 「大丈夫だろうか。。。」 「失敗したらどうしよう。。。」 「間違っていたらどうしよう。。。」 「上手く行かないかもしれない。。。」などのような取り越し苦労を生み出す後向き、消極的、否定的、悲観的な心持ちになって、意気消沈、意気阻喪になってしまうことがあると思うのです。それでは、当初の 「よし!これから頑張るぞ!」 「これからどんな未来が待っているだろう♪ ワクワク、ドキドキするなぁ~♪」 「なるようになるさ!とりあえずやってみよう!」という、夢や希望を頂き、前向き、積極的、肯定的、楽観的で、意気軒昂に前進しようとする心持ちを自ら無駄にしているだけでなく、自ら抱いた夢や希望をも、自ら絶ってしまっていると思うのです。夢や希望に向かって前進するのに必要な、何らかの行動を起こす為の時間とチャンスを与えて頂いているにもかかわらず、何らの行動も起こさないばかりか、第一歩を踏み出す前。。。何らかの行動を起こす前。。。に不安や恐怖を生み出してしまう。。。否、第一歩を踏み出す前に、行動を起こす前に、不安や恐怖を生み出すような余計なことを考えてしまう時間を自分に与えてしまうからこそ、自ら抱いた不安や恐怖の念に苛まれてしまうのだと思うのです。「動かないから怖くなる。。。」とは、そういうことだと思うのです。「本当にこれでいいんだろうか。。。」「大丈夫だろうか。。。」 →天からすれば、 「これでいいかどうか。。。 大丈夫かどうか。。。は、 やってみなければ分かりません。 やれば分かります。 やる前から、これでいいかどうかを考えるよりも、 まずはやる方が先です。」 という感じだと思うのです。「失敗したらどうしよう。。。」 →天からすれば、 「やる前から失敗を想定すれば失敗します。 失敗を恐れて何もしなければ、何も始まりません。 失敗は成功の母です。。。 成功する為に必要な失敗があるのです。 失 敗を恐れて何もしないことこそ、本当の失敗です。」 という感じだと思うのです。「間違っていたらどうしよう。。。」 →天からすれば、 「間違っていたら、それ以降、 同じ間違いを繰り返さないように、 その時に正せば良いだけです。 間違うことを恐れて何もしなければ、 間違うことはないかもしれませんが、 間違わなければ、それが間違いであることに 気付けないが故に、いつまでも間違いを 犯し続けることになります。 それならば、間違うことを恐れずに挑戦して、 早い内に間違って、早い内に正した方が 良いと思いませんか? 挑戦した結果が、必ず間違いになるとは限 りません。。。 挑戦する価値がある、と思いませんか?」 という感じだと思うのです。「上手く行かないかもしれない。。。」 →天からすれば、 「上手くいかないようにさせるのは、 上手くいかないかもしれない。。。 というあなた自身の想いです。 上手くいくことを望んでいるにもかかわらず、 上手くいかないことを考える必要はありません。 行動した結果、上手くいかなかったならば、 その時に上手くいかなかった原因を 解明することに努めることで、 上手くいくことに近づいて行きます。 諦めれば、そこで終わりです。」 という感じだと思うのです。 初めの一 歩を踏み出すことは、一歩前進すること。。。それは二歩目を踏み出す準備を整えることでもあると思うのです。一歩目、二歩目、三歩目と、その歩みを進める度に、新しい世界が広がってくる。。。だからこそ、頑張れるのだと思うのです。ワクワク、ドキドキして楽しいのだと思うのです。私たちの本質である魂が望んでいるのは、心を磨かせて頂く為に必要な、様々な経験、多くの経験をさせて頂くことだと思うのです。魂からすれば、それが楽しいことであろうと、苦しいことであろうと、地上でしか経験できない貴重な経験故に、どのような経験も宝なのだと思うのです。その宝(経験)を少しでも増やさせて頂く為には、個々の宝(経験)に至る道のりの第一歩を踏み出さなければ、宝(経験)に到達することができないと思うのです。私たちはまだ見ぬ未知なる道に向かって踏み出すことに不安や恐れを抱いてしまうことがあるものですが、私たちの本質である魂は、それを嬉々として待っていると思うのです。不安や恐れは、踏み出すことにブレーキをかけるもの。。。嬉々として楽しもうとすることは、アクセルを踏み込ませるもの。。。初めの一歩を踏み出させてくれるのは、ブレーキではなく、アクセルしかないと思うのです。初めの一歩を踏み出すことが、実はとても楽しいことなのだと分かれば、自然と楽しみたくなるが故に、ワクワク、ドキドキしながら、第一歩を踏み出すことができると思うのです。まだ見ぬ未来に不安や恐れを抱けば、不安や恐れが現実になるような経験を自ら招いてしまうだけだと思うのです。同じ何かをさせて頂くのであれば、ワクワク、ドキドキしながら楽しませて頂いた方が、ワクワク、ドキドキ、楽しい経験をお迎えできると思うのです。例え、面白くない、つまらないような経験であったとしても、 「ワクワク、ドキドキしながら楽しもう!」というその心のあり方によって、ワクワク、ドキドキ、楽しい経験に置き換えてしまうことさえできると思うのです。何ごとも、そういう心のあり方で過ごさせて頂くと、その時その時を嬉々として、明るく、楽しく、笑顔で過ごさせて頂くことができると思うのです。自分の足で最初の一歩を踏み出そうとしている赤子のように。。。源光「人間のできることは、小さなことかも知れません。 でも、小さな一歩を踏み出さない限り、次の二歩目、三歩目はなく、 大いなる成長も改革もありえないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305080000/「人生を変えようとするときは 消極的思考と 取り越し苦労を捨て去ってください。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410300000/「怖いものがあっても、それ自体にあなたを支配する力はないのです。 それを怖がる自分の気持ちに支配されてしまうことがほとんどですから 笑い飛ばしてください。怖いものは空中分解してしまいます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406180001/ 「苦しみを恐れると、恐れた分だけ、苦しみが増えるのです。 悲しみを恐れると、恐れた分だけ、哀しみが増えるのです。 消えていくものを恐れる必要はありません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207150000/「何かを始める時に、絶対に思っても、 口に出してもいけない言葉があります。 それは「出来なくてもしょうがない。」です。 この時点でもう失敗を呼んでいるわけです。 「必ず出来る!!絶対に!!」こう思い、 口に出せば成功を引き寄せるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402110004/「できると思えばできる、できないと思えばできない。 人生とは、ただそれだけのことです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408200000/「無駄なものは何もなく、全ては必要なものです。 地上は、混沌としたものの中から、 真実の宝を見つけ出す修行の場なのです。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310220000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310230000/「人生は、三歩進んで二歩下がる。。 このくらいが一番いいのです。確実に前進しています。 寄り道をしたり、振り出しに戻ったり、失敗したりするのは、 決して無駄ではありません。 成長していくには、そういったことがとても大切です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311220000/「過去の体験を「宝物」にするも、 「ごみ」にするも自分自身の「心」次第ですね。 みんな悩んで大きくなっていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209170000/「人生で遭遇するすべての出来事には意味があるのです。 生きていくこととは、その意味を理解することに他なりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407010000/「今いる場所から始めるのです。 自分の持っているものを全て使って、 できることをするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407050001/「自分の持ち場で、自分のやるべきことを、やるべき時に、 キッチリとやっていたら運は逃げないのです。 それをやらないから運やツキが逃げるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201503040000/
2016.10.13
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「時は人の都合などお構いなしに過ぎていき、 とどまることがありません。 今やらなければ後悔するのです。」「今、ここに我を尽くすこと。。。 これが修行です。 読経も座禅を組むことも、滝に打たれることも、 写経をすることも、トイレ掃除も早朝出勤も。。。 ここに我を尽くさない限り、肉体業に過ぎないのです。 今置かれている環境。。。 そのものが、ありがたき修行。。。 笑よく業を制すのです。。。お祓いよりお笑い。。。 心の美しさが全てです。」時は金なり。。。一寸の光陰軽んずべからず。。。一刻千金。。。光陰矢の如し。。。「今」この瞬間に、「今」を与えて頂き、「今」この瞬間に、「今」が去っていく。。。それが当たり前のように繰り返されいるが故に、 「今」という一瞬の大切さや重みを忘れてしまいがちですが、 「今」という一瞬は、この世的には「今」その瞬間しか体験させて頂くことができない、「今」だけの特別な時間だと思うのです。それを意識していようと、意識していまいと、「今」という一瞬は、常に刻一刻と過ぎ去っていき、自分の「人生」という限られた時間の一齣一齣を、一瞬の間に迎え、一瞬の間に送り出す。。。いつ終焉を迎えるとも分からない自分の「人生」の終着点まで、絶えず、それが繰り返されていく。。。それが「今」という貴重な時間だと思うのです。一瞬の間に迎え、一瞬の間に送り出す「今」だからこそ、気付けば「あっという間」に時が過ぎているのだと思うのです。無駄にできる時間。。。無駄にして良い時間。。。などないと思うのです。だからこそ、「今」出来ることや「今」すべきことを、「今する!(今させて頂く!)」という姿勢で、「今」という一瞬一瞬を大事にして、「今を生きる」姿勢で過させて頂きたいものですね。時間という制約の中で生かさせて頂いている私たちは「今」を生きることしかできないと思うのです。その「今」という時間の繰り返しを、私たちの魂の修行の為に与えて下さっている天からすれば、 『「今」を生きることしか出来ないにもかかわらず、 「今」を一所懸命に生きることなくして、 いつ一所懸命に生きることが出来るの? (いつ一所懸命に修行するの?)』ということになると思うのです。この世は、自分の心のあり方次第で、何度でも自分を生まれ変わらせることができる貴重な機会に恵まれた「修行の場」。。。「時間を無駄にしてしまった。。。」と感じたのであれば、それを繰り返さないように日々の時間を大事に過ごさせて頂けば良いと思うのです。そうすれば、「無駄にしてしまった時間は」、「無駄」にならないと思うのです。失敗や過ち、挫折、苦難、試練にめげるのではなく、それらを人生の糧にさせて頂く。。。自分が信じていることに疑念を抱いたり、夢や希望を決して諦めることなく、自分を常に信じ、良心に常に従いながら、自分を変化させ、生まれ変わらせる。。。この世に生まれてくる前に自ら設計してきた自分の魂の修正&成長の為のライフプランの道を歩ませて頂くことができるように。。。そして、天に帰還したときに「後悔」することがないように。。。生まれてくるときに天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に従って、明るく、元気に、楽しく、笑顔で「今」という瞬間の繰り返しを大事にして生かさせて頂きたいものですね。~~~~「今」を生きることしかできない私たちだからこそ、「今」という一瞬一瞬を本気で生かさせて頂きたいものですね。「今」この瞬間を懸命に生かさせて頂いていれば、その日を後悔することはないと思うのです。それを繰り返していけば、人生を後悔することもないと思うのです。「今」この瞬間を怠惰に生きれば、その時こそは楽をすることができたとしても、その時に出来ることやすべきことをしていないが故に、因果応報でそのつけが回って来たその時に、 「あの時、〇〇をしておけば良かった。。。」などと後悔してしまうことになると思うのです。後悔を経験させて頂いているにもかかわらず、反省すべきを素直に反省させて頂くこと なく、正すべきを素直に正させて頂くこともなく、尚も後悔するような生き方を繰り返していけば、人生を終えた時は大後悔してしまうと思うのです。不完全で至らない点の多い私たちは、後悔することはあっても、後悔する為に生まれてきているのではないと思うのです。それならば、できるだけ後悔することのないように、そして、本当は自分の心が分かっている今出来ることや今すべきことから目を背けたり逃げることなく、誠実に、真面目に、前向きに、積極的に、肯定的な姿勢で、「今を生きる」ようにさせて頂けば良いのだと思うのです。そのような生き方をさせて頂いていると、天に帰還する日をお迎えしたとき、私たちはきっと、 「色々 あったけど、良い人生だったなぁ~♪ あっという間だったけど、良い人生だった♪」と自分の人生に満足して、心置きなく天に帰還させて頂くことができると思うのです。そういう人生を歩ませて頂きたいものですね♪後悔先に立たず。。。故に、後悔することのないように、「今を生きる!」姿勢で、生かさせて頂きたいものですね。~~~~「今」の自分がすべきことや、「今」の自分ができることを、「今」の自分がしなければ、「未来」の自分がすべきであろうことや、「未来」の自分ができるであろうことは、「未来」の自分もしないであろう、と思うのです。「未来」の自分がすべきであろうことや「未来」の自分ができるであろうことを「未来」の自分がするであろう自分を築くためには、「今」の自分がすべきことや、「今」の自分ができることを、「今」の自分がする。。。という、「今」大事なこと、「今」すべきこと、「今」できること、から目を背けることのない「今を生きる」姿勢で生かさせて頂くことが大切だと思うのです。そういう姿勢で生かさせて頂いていれば、やるべきことをしっかりと遂行させて頂くことができると思うのです。「今」を不安を描いた未来に生きるのではなく、「今」を後悔を生み出した過去に生きるでもなく、「今」という現実を素直に受け留め、「今」の自分が出来ることや、「今」すべきことを「今」する、という「今の自分」で「今を生きる」という勇ましい姿を、 未来は明るく迎え入れて下さるのだと思うのです。「過去」がどのような「過去」であろうと、その「過去」のお陰様あっての「今」の自分であり、予測される「未来」がどのような「未来」であろうと、「過去」や「今」のお陰様あっての「未来」の自分だと思うのです。まだ見ぬ「未来」に、「過去」に苛まれたことを投影して「今」を生かさせて頂くことは、まだ見ぬ「未来」に秘めている無限の可能性の扉を自ら閉ざしているに他ならないと思うのです。「過去」にとらわれず、「過去」を「今」を生きる自分に前向きに活かし、夢と希望をもって「未来」をお迎えさせて頂く。。。それこそ、無限の可能性を拓く鍵なのだと思うのです。今の自分が夢見る未来、希望を抱く未来を心に抱きながら、 「今」できることは何か。。。 「今」すべきことは何か。。。を真剣に模索させて頂き、 「今」それに意識を集中させ、 「今」行動を起こさせて頂く。。。という 「今を生きる」姿勢で生かさせて頂きたいものですね。例え、それが夢や希望と直接的にも、間接的にも関係があるように思えないようなことであっても、それがその時の自分にできることや、その時の自分がすべきことであるのであれば、 「手を抜こう」 「楽をしよう」等と考えることなく、ただただ真面目に、誠実に、真剣に向かい合い、 「今できることが〇〇なのであれば、 〇〇がいつか役に立つかもしれないから、 色々学ばせて頂きながらさせて頂こう!」 「今すべきことが〇〇なのであれば、 〇〇をさせて頂いた後は、 ◎◎や◇◇に繋がるかもしれないな。。。 それを想定して、〇〇をさせて頂こう!」という美しい心のあり方で生きるその生き様が、夢や希望の実現に繋がる布石になるのだと思うのです。だからこそ、どのようなシーンにおいても、「今」出来ることや、「今」すべきことを 「今する!(今させて頂く!)」という姿勢で、 「今を生きる」ことが当たり前のようにできる自分を育み続けたいものですね。源光「時間はお金では買えないのです。 今の時間を大事にできない人は、 未来の時間もきっと大事にはできないでしょう。」 (ラクシュミーさん)「時は一瞬も止まっていません。。 まだ時間があるから大丈夫。。。 そうではありません。 残された時間は僅かしかないのです。 今を悔いなく生きることですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201604150000/「今は一秒、一秒、過去になっています。 こちらに還ってくる時、一生は瞬きをする間だったなあ!! と、ほとんどの人が感想を漏らします。 人は、今を心正しく誠実に生きることですよ!! この世を去る時に大後悔しないように!! 私は、全ての人に雲に乗って還っていただきたいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210200000/「今を精いっぱい生きましょう。 明日、後悔しないように。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201412160000/「汝の今までの人生は下書き。 清書をする時が近づいている。 下書きのまま人生を終わる者は 後悔の念に囚われるものだ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110310000/「今この瞬間のあなたの想い、そして生き方が、 あなたの明日を形成していくのです。 人生の紆余曲折、悟り間違いがなかったと 断言できる人生を送った人は皆無ですが、 この世を去る、その時。。 「あゝいい人生だった。。思い残すことは無い。。」 と思えるならば、それは最高の人生だったのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501240000/ 「あなたの現在の人生は、 過去の選択の結果です。 同じことは、あなたの未来にもあてはまるのです。 良心に恥じない自分であればよいのです。 触れ合う人の喜びを我が喜びにして生きていけばよいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409140000/ 「何も後悔することがない人の人生は、とても虚しいものになります。 だから後悔させて頂けることに感謝することですよ。 後悔せずに生きられるほど人は完璧ではありません。。 後悔から学んだこと。。。あなたの一本の灯りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406200000/「今日、触れ合う人を喜ばせて 今、現在に最善を尽くすこと。。。 今日を心豊かに過ごせば、 明日も明後日も。。。 ずっとずっと幸せの花が咲き続けます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501120000/ 「過ぎ去った過去にとらわれず、 現在をいかによくするか。 今を生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501160000/ 「今いる場所から始めるのです。 自分の持っているものを全て使って、 できることをするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407050001/「将来を思い煩う必要は無い。 現在為すべきことを為せ。 その他は神の考えることゆえに。。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107220000/「天命を果たす人とは、自分のできることをする人である。 汝は、自分のできることをせず、 出来もしないことをしようとしてはならない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201110000/「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 迷わず行けよ、行けば、分かる。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201202040000/「生命のあるかぎり、希望はあります。 今を真剣に生きることです。明日ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602010000/「過去は過ぎ去った時間です。 未来には無限の可能性があります。 未来を開くのは自分です。 それを知っているつもりでも、過去にとらわれ、 未来を限定して考えている人も多いのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311230000/「明日のことはわからないのです。 だからこそ、今。。 この一瞬を大切にして生きることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507070000/「明日を生き抜くために必要なものだけを残して、 あらゆる過去を清算してください。 未来は、あなたの思いのままです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405030000/ 「大事な時間を雑事で浪費しないことです。 もっとやるべきことがあるはずです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201602200000/「魂のこもった価値ある日々を送ってくださいね。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201303050000/「人間という舟を得たら、それで苦悩の大河を渡れ。 愚か者よ、惰眠を貪るな、この舟は、再び得がたい。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201290000/「生まれ変わるのは、地上に生ある時です。 還って来てからでは遅いのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209260000/
2016.10.12
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「些細なことに真心を尽くすことですよ。 真心。。。。これが必要です。。。」(ラクシュミーさん)「思いやり、優しい心。 これがなければ、今はよくとも、すぐに暗転して 虚しく寂しい人生になってしまいます。 今日も、何はなくとも、 あたたかいハートの人でありましょう。」(サラスヴァティーさん)真心。。。 他人の為に尽くそうという純粋な気持ち。。。 偽りや飾りのない心。。。誠意。。。誠意。。。 嘘偽りのない心。。。 私利・私欲のない心。。。 まごころ。。。心ある人間同士。。。自分一人で生かさせて頂いているわけではない人間同士。。。いつもどなた様かのお陰様で生かさせて頂いている人間同士。。。そのような私たちだからこそ、人様を思い遣る優しい心、利他の心、お互い様の心をもって、人様の為に何か出来ることはないかを模索したり、人様の為に自分の特技や能力は活かせないかを考えたり、人様の為にその時の自分にできることを積極的にさせて頂くなど、臨機応変に、かつ、心を込めてさせて頂くことが大切だと思うのです。人様の為に何かをさせて頂くときに、相手からの見返りを期待したり、見返りを要求するのであれば、それは利他心ではなく利己心。。。真心ではなく下心。。。だと思うのです。その言動こそ、利他心や真心があるように見えても、その言動の元になっている心のあり方が純粋で美しくなければ、それは偽善であり、形だけの善行でしかないと思うのです。 例え、その偽善や形だけの善行で人様を偽り、騙し、欺くことができたとしても、私たちの心的態度を見ている天をも偽り、騙し、欺くことはできないと思うのです。「人様の為」であれば、ただ何でもかんでもさせて頂けば良い、というものではないと思うのです。ただ何でもかんでもさせて頂けば良い、というのは、視点を変えさせて頂くと、 相手の立場になっていない。。。 相手の気持ちを考えていない。。。 相手が求めていることを察していない。。。 相手が望んでいることに目を向けていない。。。ということだと思うのです。表面的には「人様の為」としながらも、その実態は「人様の為」に非ず、「自分の為」。。。人様を利用して自分を善人らしく見せる為の形だけの善行、かつ、自己満足を得る為の行いだと思うのです。それは人様からすれば、 形だけの善行の押しつけ。。。 自己満足を得る為の行いの押し売り。。。でしかないと思うのです。そこには、「思い遣り」や「真心」はないと思うのです。相手の立場になって、相手の気持ちを考えることを「思い遣り」というのだと思うのです。その「思い遣り」をもって、相手の為に尽くさせて頂こうと何かをすることを「真心を尽くす」というのだと思うのです。決して、押し付けるようなものでも、恩着せがましくするようなものでもないと思うのです。自分にできる範囲内で、無理なく自分にできることを、人様の立場になって、人様の為に尽くさせて頂く。。。とはいえ、自分と人様のものごとに対する考え方や価値観は異なるのがごく自然なことだと思うのです。「人様の為」に真心を尽くさせて頂くのであれば自分の価値観で、相手の価値観を軽視して、手を抜いたり、気を抜いて何かをさせて頂くのではなく、ただただ人様の価値観を尊重させて頂きながら、ただただ心を込めてさせて頂くことが大切だと思うのです。自分には些細なことでも、人様には重大なこと。。。ということもあれば、反対に、自分には重大なことでも、人様には些細なこと。。。ということもあると思うのです。相手に気付かれようと、気付かれまいと、それが重大なことであろうと、些細なことであろうと、細部に至るまで配慮させて頂く。。。そういう人様を「思い遣る心」や、真心を尽くさせて頂くことができる自分を育ませて頂きたいものですね。知らず知らずの内に、人様からの「思い遣り」や「真心」を頂いている私たち故に。。。源光「この世を生きてゆくには誠実の一語です。。 誠実とは何をするにも真心を尽くす事、 すなわちいつわらない事、あざむかない事です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409190001/「正しい心で誠意を尽くして生きていく。。 今日も、ただそれだけでいいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409010000/ 「人生はコインの裏表。 些細な親切が思わぬ幸運を呼びます。 小さな油断が思わぬ失敗を招きます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/2011312160000/「汝、心の奥底にある気持ち、真心を大切にせよ。 心根こそ人の魂ゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112030000/「触れ合う人々を思い遣る心を習慣にしましょう。 自然な行いこそ、最大の美徳なのですから。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201212120000/「縁は円を描いて自分に帰ってきますから、 不義理をしてはいけませんね。」(ラクシュミーさん)「人を思いやることが、結局は自分に戻ってくることにつながります。 縁は円を描いて自分に還ってくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210140000/「思いやりとか、正直とか親切とか友情とか、 そんなあたりまえのことを黙ってすること。 これが道徳です。。難しい学問ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312070001/「小さな親切、小さな愛の言葉があれば 今日という一日、天と通じることができるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208100000/「他人に親切にするのは、断じて義務などではない。 それは、光栄であり、健康と幸福と歓喜をもたらす。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201202020000/「正心誠意で生きることは、天の光を受けて生きていくということですから、 笑顔でこちらに還ってこられるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210190000/「心に誠実を刻みましょう。ともに希望を語りあいましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201208170000/ 「常に誠実であれ。人が持つ最も高尚なる天分ゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108290000/「必要なのは知識でなく思いやりです。 思いやりがなければ残るのは暴力だけです。。 心に愛がないものだけが憎しみ合うのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405050000/
2016.10.11
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「あなたの財産、 それはあなたの頭の中にあります。 あなたの負債、 それもあなたの頭の中にあります。」「今」を生かさせて頂いている自分という存在。。。それは、様々な時代に、様々な環境で、様々な経験をさせて頂きながら生き通してきた過去生の自分あってこその自分だと思うのです。過去生の自分無くして、今の自分は無し。。。そのような私たちの頭の中にある財産。。。それは、過去生における 生き甲斐。。。 携わってきたお仕事。。。 趣味。。。 研究してきたこと。。。など、自分の魂が喜ぶことを探求し、努力し、培ってきた自分の特技や能力の結晶であり、自分が過去に生きていた証であり、自分の魂の道なのだと思うのです。地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂き、生かさせて頂いている私たちは、過去生から培ってきた自分の特技や能力を 人様のお役に立つこと。。。 人様にお喜び頂けること。。。に正しい心で活かさせて頂くことを通じて、過去生において自ら積んでしまった業を修正させ て頂くことができるのだと思うのです。過去生から培ってきた特技や能力という「自分」を現す個性は、私たちの本質である魂の傾向であり、魂の「財産」なのだと思うのです。その魂の「財産」を記憶として引き継いでいるのが、私たちの「頭」なのだと思うのです。それ故に、私たちの財産は頭の中にある。。。のだと思うのです。その頭の中にある「財産」の記憶を思い出させてくれるのが、「心(魂)」なのだと思うのです。過去生から引き継いできた自分の特技や能力という「財産」は、自分の魂が喜ぶことを育んできた結晶だと思うのです。それを、今生において、更なる探究、努力、想像、創造を通じて向上させ、正しい心で人様の為に活かさせて頂く。。。そういう心のあり方で生かさせて頂くことこそ、私たちの本質である魂が喜ぶ生き方だと思うのです。それにもかかわらず、時として、過去生から引き継いできた頭の中にあるせっかくの財産を、自分さえ良ければそれで良い、という利己心をもって悪用することも。。。財産を活かす心のあり方が、美しくない。。。正しくない。。。が故に、業という負債を生み出すものに転じてしまうこともあると思うのです。 (財産そのものが悪いのではなく、 財産の活かし方を生み出す心のあり方が悪いことが問題故に、 心のあり方が美しく、正しくなれば、 財産は財産として活きていくのだと思うのです。)私たちの頭の中にある財産を財産足らしめるのは、過去生から育んできた自分の特技や能力を、美しい心、正しい心で、人様の為に活かさせて頂くことを通じて、自分の魂の修正や成長をさせて頂けることにあるのだと思うのです。自分の魂が喜ぶ心のあり方、生き方とは、そういうものなのだと思うのです。そういう心のあり方、生き方をさせて頂くことは、過去生から引き継いできた財産に今生において育ませて頂いた分がプラスされ、より大きく豊かな財産となって、来世に引き継がれていくのだと思うのです。私たちの頭の中にある負債。。。それは過去生や今生における正しくない心のあり方から生じた正しくない言動。。。いわゆる「業」だと思うのです。業。。。 ・人間の身・口・意によって行われる善悪の行為。 ・ 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。 ・理性によって制御できない心の働き。 ※主に「悪の行為」の場合に使われる。という意だそうです。過去生から積み上げてきた業という「負債」は、自分の魂の未熟さ、不完全さ、至らなさ、穢れの証だと思うのです。それを、今生において、天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に従って生かさせて頂くことを通じて、魂の未熟な部分、不完全な部分、至らない部分、穢れた部分を磨かせて頂き、生まれる前よりもほんの少しでも心を美しくさせて頂くこと。。。それが今生という人生の目的なのだと思うのです。その魂の「負債」を記憶として引き継いでいるのが、私たちの「頭」なのだと思うのです。それ故に、私たちの負債は頭の中にある。。。のだと思うのです。その頭の中にある業という「負債」の記憶を思い出させてくれるのが、心を磨き、業を清算させて頂く為に自らに課した試練や苦難などの境遇なのだと思うのです。生まれてきたときに、自分の業を知っていたら、地上は修行の場にならなくなってしまうと思うのです。それ故に、自分の業を忘れた状態で生まれるのだと思うのです。業を生み出すことになった自分の未熟な部分、不完全な部分、至らない部分、穢れた部分を自ら探し出し、素直に認め、素直に反省し、良心に従って正させて頂くことを通じて、業を清算させて頂く。。。その過程において、過去生から培ってきた「財産」を人様のお役に立つことや人様にお喜び頂けることに、心正しく活かさせて頂く。。。そうやって、私たちの魂は磨かれていくのだと思うのです。同時に業が清算されていくのだと思うのです。業を生み出した自分の未熟さ、不完全さ、至らなさ、穢れに気付き、天から授かった良心に従って、 それから目を背けず、素直に認める。。。 素直に反省させて頂く。。。 気付かせて頂いたことに感謝させて頂く。。。 質すべきを積極的に正そうと努力する。。。その心のあり方や生き方は、自ら生み出した「負債」を糧に、心を磨くことができたということだと思うのです。生まれてきたときこそは、業という「負債」でも、自らの努力によって、それを正すことができる。。。それは、「負債」を「財産」にしている。。。と思うのです。更に、自らのその経験を、恥を忍んで人様に晒すことで救われる人も中にはいらっしゃると思うのです。自分の負債と、負債を克服する経緯や経験が、人様を救うという人様のお役に立つことに。。。まさに「財産」だと思うのです。反対に、私たちの頭の中にある負債を、いつまでも負債足らしめるのは、過去生から積み上げてきている業という自分の未熟さ、不完全さ、至らなさ、穢れを、 いつまでも気付かないこと。。。 気付くことができても、 それから目を背けること。。。 それを素直に認められないこと。。。 それを素直に反省できないこと。。。 気付かせて頂いたことに感謝できないこと。。。 気付かせて頂いたにもかかわらず、正そうとしないこと。。。にあると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いているにもかかわらず、そのような心のあり方、生き方では、折角の人生を無駄にしてしまっているだけでなく、負債という重荷を自ら増やし、自分で自分を貶め、苦しめているようなものだと思うのです。私たちの本質である魂は、決して、そのような心のあり方、生き方を望んではいないと思うのです。だからこそ、過去生から引き継いできた「財産」は、今生において、心正しく活かさせて頂き、従前より進化した素晴らしい「財産」にすることができるように。。。過去生から引き継いできた「負債」は、今生において、心正しく反省、修正させて頂き、「負債」から転じて「財産」を生む糧にすることができるように。。。という心持ちで、頭の中の財産と負債を良心に従って整理整頓させて頂きながら、生かさせて頂きたいものですね。源光「誰でも、子供の頃から、なぜか特に勉強したわけでもないのに 他人より上手くできるものがあるはずです。 過去の自分が学んだ宝を、活かすことを心掛けてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312280000/ 「天は個性をとても大切にしています。 天職は、その人が、輪廻転生で 探求し続けてきた道や技を活かせる職ということ。 個性を活かして、触れ合う人達と協力しあって、 世の中を幸せのお花畑にしていきましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305230000/「過去を振り返りましょう。 後悔するためではありませんよ。 これからくよくよしないためです。 「あのときはなんてばかなことをしたんだ」と思い出しましょう。 そして「あのときはこうすればよかったんだ」という解決策を考えましょう。 よりよい言葉、よりよい行動、よりよい考え方を、自分で発見するのです。 次からそれを具体的に実行しましょう。 頭の中だけで思うのではなく、必ず実行することが大切です。 こうして以前、失敗したことも、成功するようになります。 全てが好転していきます。 欠点が長所となって輝き、理想的な人間へと修正されて 素晴らしい人生となって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312270000/ 「苦しくても辛くとも、誰も恨めないのです。 身から出た錆ですから。。誰でも業があります。。 業の修正は、大切な今世の修行ですから、 悟るまで同じパターンの試練を繰り返します。 試練を笑い飛ばして生きていきましょう。 笑よく業を制す。 お祓いよりお笑いです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404180000/「地上に生を受けることは、降りる前に自分自身で決定していた、 路線に沿って魂を磨くということです。 無意味に生まれてきた人は、ただの一人も存在しないのです。 自分自身に誇りと夢を持って、活きて頂きたいと思います。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310240000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310250000/「人は過去世の自分と職業、趣味趣向、性格、思考、 異性の好み、失敗の傾向、顔形までソックリです。 時代 、場所が違うだけで同じ魂ですから当然のこと。。。 人は生き通し。。。決して死なない存在です。 誰も見ていなくても心正しく良心に恥じない自分でありましょう。 因果応報の法則は紛れも無い事実なのですから。。。」(ラクシュミーさん)「肉体は滅んでも、魂は、決して滅びません。生き通しです。 時代も場所も違っても、同じ心と趣味趣向を承継していきます。 人は自分の魂が喜ぶものをトコトン探求し続けるのが 一番幸せなのです。。。」(ラクシュミーさん)「運命は自分で切り開くことができますが、 性格、趣味趣向、癖、好きな勉強や仕事のジャンルは、 いつの時代もまったく変わらないので、 どの人も行動パターン、失敗の傾向は同じです。 いいところは伸ばし、悪いところは修正。。。 それでいいのです。」(ラクシュミーさん)「人は誰でも、過去の生があり、今の自分があります。。 時代も空間も超えて今の生があるわけです。。 しかし性格、長所、短所、癖、趣味趣向、職業。。。全て同じ。。。 魂の鍛錬は、今日も続きます。あなたも例外ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507210000/「人間は、自らが置かれている社会や隣人に 有用な存在となるために生まれてくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201605090000/「何でも出来る人はいません。天界でもそうなのです。 それぞれの特技を活かして、協力し、助け合い、励ましあって、 暮らしやすい平和な世界を創造するところに 最高の喜びがあるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305220000/「個性的だからこそ、素敵なのです。 何か得意なことで社会貢献してください。 それで生活できるのが一番の幸せです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603050000/「人は誰でも自分との約束というものがあります。 それは考えてもわからないはずです。 これはというものをトコトン探求してください。 約束が果たされることを祈っています。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601190000/「自分が心からやりたいことを見つけ出して自分らしく生きていく。。 これが最高の人生ですよ。。 人の価値観に振り回されることはありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408160001/
2016.10.10
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「あなたの一番大きい資源は、 子供の心、子供のような感性です。」「幾つになっても 夢の国に心を遊ばせることができる人は 心身共に若々しいのです。 年齢を重ねると現実に追われて夢を見なくなる。 だから老いが早いのですよ。」「夢と希望とロマンスと。。。 子供のような心。。。 いつまでも持ち続けてくださいね。」「子供の頃の純粋で美しい心を 忘れずにいる大人は、少ないのです。 だから物事が歪んで観えるわけです。」「洗練された格好イイ大人の心には 例外なく、わんぱくな外に出たくてしょうがない 小さな子供が住んでいるのです。 心から子供を追い出した大人は、魅力のない ちょっぴり寂しい大人です。」「メルヘン。。。忘れてしまいましたか? 幾つになってもメルヘンチックに生きられる人は 幸せな一生となっていきます。 夢を見ることを忘れないからです。」これ何? あれ何? それ何?どういう意味?これやりたい♪あれやりたい♪それやりたい♪もっとやりたい♪どうしてやってはいけないの?どうしてやらせてくれないの?どうしてやっても仕方ないの?どうして出来ないってわかるの?面白そう♪楽しそう♪わ~い♪ わ~い♪やった~!ワクワク♪ ドキドキ♪ やりたいからやるの♪やりたくないからやらない! などなど。。。何でも知りたいという純粋な知識欲と探究心。何でもやってみたいという純粋な好奇心。危険を顧みず何でも挑戦したいという純粋な冒険心。子供の頃に持っていた様々な純粋な心。。。いつしか、この世という現実の世界(社会)で生きることに心奪われ、子供の頃の純粋な心から生まれた高揚感、感動という「心」の動きだけでなく、探究心や好奇心、冒険心、夢、希望などを見失ってしまっている大人たち。。。現実の世界に心を左右されたり、翻弄されて、心の高揚や躍動、感動を無理に抑えるのではなく、心が感じている高揚や躍動、感動を、現実のこの世界でどのように活かさせて頂くのか。。。それを教えてくれるのが、子供の頃の純粋な探究心、好奇心、冒険心などの自由な心で生きる生き方だと思うのです。子供の頃に一所懸命になってやったこと、遊んだことなどを、大人になった今、それを思い出すと、心は瞬間的に子供の頃の自分に戻っていることがあると思うのです。そして、 「あの頃は、楽しかったなぁ~♪ 何でも新鮮だったし、何やっても楽しかったなぁ~♪」 「あれもこれも、やりたいことばかりだったなぁ♪」 「子供の頃は、好きなこと、やりたいことばかりを やっていられて、毎日が幸せだったなぁ~♪」 「何かをやって、成功しても、失敗しても、 ただ面白いだけだったなぁ~♪」 「子供の頃は早く寝るのが嫌だったなぁ~。。。 寝ている時間がもったいないと思えるほど、 ずっと起きていて何かをしていていたかったなぁ~。 それくらいに純粋に打ち込めるものがあったなぁ~♪」などのようなことを思い出しては笑みを浮かべていると思うのです。それは、子供の頃は、自分の心や魂が喜ぶ生き方をしていた、ということを思い出しているのだと思うのです。大人になったら自分の心や魂が喜ぶ生き方をしてはいけない、などということはないと思うのですが、社会風潮などにより、そのように思い込んでしまう、思い込まされてしまう、ということがとても多いと思うのです。それでは自分の人生が、社会風潮などによってコントロールされていると思うのです。自分の心や魂は大人になっても、子供の頃のように、自分らしく、ありのままの自分で、自然体の自分で、純粋な探究心、好奇心、冒険心などの自由な心をもって生きていきたいと思っていると思うのです。それにもかかわらず、その自由を奪われたり、社会風潮などによってコントロールされることにより、自分らしく生きることもできない上に、自分がやりたいこと、自分がすべきこと、心や魂が喜ぶこともできなくなるが故に、 「つまらないなぁ~。。。」 「気が乗らないなぁ~。。。」 「何をやっても面白くないなぁ~。。。」 「どうでもいいやぁ~。。。」などのような感じで、無気力、無関心になってしまい、心が老いてしまうと思うのです。自分の人生であるにもかかわらず、自分らしく生かさせて頂くことができなければ、誰の為の人生なのかわからないと思うのです。そんな自分の姿を見た自分の魂は、 「そんな生き方をしていたら、後で後悔するよ。。。」と、自分に忠告したくなるのではないかと思うのです。裏を変えさせて頂くと、 「自分らしく生きたい!」(自分らしく生きろ!) 「ありのままの自分で生きたい!」(ありのままの自分で生きろ!) 「自然体で生きたい!」(自然体で生きろ!) 「自分がやりたいことをやりたい!」(やりたいことをやれ!) 「自分の好きなことをやりたい!!」(好きなことをやれ!)と、魂は魂の乗り物である自分に対して叫んでいるのだと思うのです。 だからこそ、大人であろうと、子供であろうと、年齢や境遇に関係なく、いつも心を若々しくして、純粋な探究心、好奇心、冒険心などの自由な心をもって、自分らしく、ありのままの自分で、自然体の自分で生かさせて頂きたいものですね。そういう生き方こそ、私たちの心や魂の喜ぶ生き方だと思うのです。それは、同時に、「自分の生き方」「自分の選んだ道」という魂の指し示す場所に立たせて頂いている、ということでもあると思うのです。もし、「自分の生き方」「自分の選んだ道」という魂の指し示す場所に立っていなかったとしても、自分らしく生きる、という自分の心や魂が喜ぶ生き方をさせて頂くことによって、魂の指し示す場所に近づかせて頂いたり、魂の指し示す場所に立たせて頂くことができ、人生を有意義に過ごさせて頂くことができると思うのです。 源光「子供のときに、何に感動し、 何に幸せを感じたのかを思い出してください。 その感動を、そして幸せを体現できるのは、今なのです。 いつまでも子供のような純粋な心を忘れないことですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201509190000/「あなたの一番大きい資源は、 あなたの心の中に眠っている純粋な子供の心です。 子供の頃、何になりたかったですか? どんな夢を見ていましたか?今なら叶うかも知れません。。」「あなたが劇的に変わりたいと熱望しているのなら 一番大きい資源は、子供の時の心です。。 子供の時、あなたは何を思っていましたか? 今こそ夢に生きる時かもしれませんよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407020001/「子供の時の心・・大人になって忘れてしまいましたか? 思い出してみませんか・・これからの人生を有意義に送るために。。 人の未来は、子供の頃に凝縮されているのです。。 それは不幸な生い立ちとか、両親の不仲とか、 貧困とか、病弱とかではありません。。 あなたが子どもの頃に持っていた純粋な魂です。。 魂の叫びです。。魂の指し示す場所。。。 今、あなたは立っていますか?」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312290003/「人生を大逆転するために必要なのは、子供の心です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404140000/「誰でも、子供の頃から、なぜか特に勉強したわけでもないのに、 他人より上手くできるものがあるはずです。 過去の自分が学んだ宝を、活かすことを心掛けてください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/20112180000/「子供の目線で物事を観てみましょう。 何が真実で何が偽物かが、わかります。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201204140000/「汝、少年の心を忘れる事なかれ。(一部抜粋)」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110290000/「いつでも心を若く保ち、笑顔を絶やさない人は、 肉体的にも若く、実年齢よりも10歳以上も若く見える人もいます。 心が老いれば、健康を損ない、実年齢よりも老けて見えるものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312110004/「年齢を重ねても、いつ迄も、青年のみずみずしい心をもって心としましょう。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209230000/「身体の老いは怖れなくてよいのですが、 心の老いは怖れなければなりません。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207250000/「心の若さを保ちなさい。 心の若さはすべての幸運を運んでくる源泉である。 常に笑顔でありなさい。 笑顔は、宝の所在に導く地図である。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108110000/「瑞々しい感性で生きて行く人は、ずっと青春時代を生きることができます。 愛と勇気と希望を持って触れ合う人々を元気に明るくして行く人は、 ずっと幸運の時代を生きることができます。 妬み、そねみ、恨み、ツラミで、自己中心に生きて行く人は、 ずっと暗黒の時代を生きることになります。 どの道も自由に選択することが出来ますし、途中で道を変更することも自由です。 神仏は静かに見守って、その人の自主性に任せます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310310000/ 「自分の中にある子供っぽい思考は卒業して大人になりましょう。 仕事も、遊びも、無駄なことも、 恋も、結婚も、子供では無く大人の思考をするのです。 ただ子供のような純粋な心と笑顔は忘れないでください。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407030000/「ロマンスと冒険。。。。これを探究してください。 生きる喜びは、この中にあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404230000/
2016.10.09
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「少しのゆがみが、あとには大きくゆがむものです。 常に、心のゆがみを修正していきましょう。。」姿勢を正して立つ。。。姿勢を正して座る。。。姿勢に歪みが生じない、又は、歪んだ姿勢を正すことができるあり方だと思うのです。姿勢を崩して立つ。。。姿勢を崩して座る。。。姿勢に歪みが生じる、又は、歪んだ姿勢を更に歪ませてしまうあり方だと思うのです。自らの姿勢の歪みに早いうちに気付いたり、気付かせて頂く機会を与えて頂いたのであれば、常に姿勢を矯正することを意識させて頂くことによって、それほどの苦労や苦痛に悩まされることもなく、正しい姿勢を取り戻すことができると思うのです。反対に、自らの姿勢の歪みに気付かなかったり、気付いているにもかかわらず矯正しようとせず、そのまま歪み、崩れた姿勢を続けてしまうと、その歪みの幅が知らず知らずの内に大きくなってしまう。。。歪みの大きさが高じて、歪んだまま固定されてしまう。。。など、取り返しがつかなくなることもあると思うのです。正しい姿勢を取り戻そうとしても、 容易ではない。。。 取り戻すことができない。。。 固定されてしまった歪みを元に戻す為の矯正に 大きな苦労や苦痛に悩まされる。。。ことにもなりかねないと思うのです。そのようになってから後悔しても遅いことを考えれば、 日頃から自分の姿勢が歪んでいないかどうかを確認する。。。 自分の姿勢が歪んでいると感じた時は早めに矯正する。。。などのように、迅速で柔軟な対応をさせて頂くことが大切だと思うのです。心の歪みもそれと同じだと思うのです。心の姿勢を正して生かさせて頂く。。。即ち、「何が正しいかその全てを知っている良心」に従って生かさせて頂けば良いのだと思うのです。決してぶれることがなく、いつも冷静に、かつ、客観的に自分を観ることができる良心に従って生かさせて頂いていれば、心に歪みが生じることはないと思うのです。不完全で至らない点があるからこそ、修行をさせて頂いている私たち故に、自ら歪みを生み出してしまうこともあると思うのですが、良心に従って生かさせて頂くことを常とすることができていれば、例え、自ら歪みを生み出してしまったとしても、直ぐに矯正することができ、歪みが生じている時間を最小限に留めることができると思うのです。時には 「誰も見ていないから大丈夫。。。」 「今回くらい良心に背いても大丈夫。。。」 「直ぐに軌道修正するから大丈夫。。。」 「1回くらい大丈夫。。。」などと、根拠のない「大丈夫」を自分に言い聞かせ、欲や邪念などに翻弄されている自分を正当化し、自分で自分に弁解することを通じて、自ら生み出した心の歪みを良心に従って矯正したり、律することなく、自らその心の歪みを容認し、歪んだ道を歩むことに喜びや楽しさを覚えてしまうことがあると思うのです。「誰も見ていないから大丈夫。。。」「今回くらい良心に背いても大丈夫。。。」「直ぐに軌道修正するから大丈夫。。。」「1回くらい大丈夫。。。 」本当は間違った事をしている。。。と心の中で思っているからこそ、根拠のない「大丈夫」を自分に言い聞かせたり、欲や邪念などに翻弄されている自分を正当化したり、、自分で自分に弁解をするのだと思うのです。本当は間違った事をしている。。。と分かっているにもかかわらず、間違った道を歩み始める。。。これが心の歪みの出発点だと思うのです。自分では、 「誰も見ていないから大丈夫。。。」 「今回くらい良心に背いても大丈夫。。。」 「直ぐに軌道修正するから大丈夫。。。」 「1回くらい大丈夫。。。」と思っていても、そのように思った時点で、欲や邪念などの誘惑に負けていることを考えれば、次の誘惑にはもっと 負けやすい自分になっているが故に、 「あの時、誰にも見られなかったから、今回も大丈夫。。。」 「前回、良心に背いても大丈夫だったから、今回も大丈夫。。。」 「前回の時、大きく軌道がずれていないから、今回も大丈夫。。。」 「1回目が大丈夫だったから、今回も大丈夫。。。」という安易な考えで、欲や邪念に翻弄されると思うのです。最初の心の歪みが、2回目の心の歪みを誘発し、2回目の心の歪みが、3回目の心の歪みを誘発する。。。1回1回の心の歪みは小さくても、 塵も積もれば山となる。。。 雨垂れ石を穿つ。。。の如く、心の歪みもその数を重ねれば、知らず知らずの内に大きな歪みになると思うのです。知らず知らずの内に大きな歪みを生じるのは、心の歪みという悪習の中に身を置き、 欲や邪念によって心を支配されているから。。。 自分に負けているから。。。に他ならないと思うのです。その出発点は、 「誰も見ていないから大丈夫。。。」 「今回くらい良心に背いても大丈夫。。。」 「直ぐに軌道修正するから大丈夫。。。」 「1回くらい大丈夫。。。」という自らの歪んだ甘い考えや、心の隙に他ならないと思うのです。欲や邪念などは、私たちの歪んだ甘い考えや心の隙を利用し、私たちを翻弄し、歪んだ道へいざなうのだと思うのです。そのような歪んだ道へいざなわれても、凛とした心のあり方と生き方をもって、心の歪みを修正し、人としてあるべき正しい心の道に軌道修正できるよう与えて頂いているものが、「何が正しいかその全てを知っている良心」に他ならないと思うのです。心の羅針盤である良心は、その冷静さ、かつ、客観的視点で自分を観ることによって、私たちの歪んだ甘い考えや心の隙を修正、矯正するよう導いて下さるもの。。。それ故に、良心の声に耳を傾けなかったり、良心に従うことを怠たれば怠るほど、日々、私たちの心に生じている小さな歪みという心への悪影響は、着々とその勢力を拡大し、心そのものが支配されてしまいかねないと思うのです。良心に従わずに生きることは、修正すべきが修正されないどころか、修正すべき点を増やし続けることになり、修行にならないと思うのです。 (心の歪みは修正すべきものであり、 放置したり、積み重ねていくものでは ないと思うのです。)それでは、 天が何の為に「良心」を与えて下さったのか。。。 何の為に地上に生まれてきたのか。。。が分からなくなってしまうと思うのです。魂の修正すべきが修正され、魂の成長が促されるなど、生まれる前よりも心が美しくなるよう心を磨く為に与えて頂いているもの。。。それが「良心」だと思うのです。だからこそ、日々、心の歪みを生み出してしまう私たちは、日々、良心の声に耳を傾け、良心に従って、心の歪みを修正させて頂きながら、心の歪みを生み出さないような美しい心になるよう心を磨かせて頂くことが大切なのだと思うのです。源光 「現在うまくいっているとしても、 本当は間違った事をしていると、 心の底で分かっているなら、すぐに止めることです。 現在うまくいかないとしても、 良心に恥ない正しい事をしていると 心の底でわかっているなら、 諦めず継続していきましょう。 正しい努力だけが真の幸せを運んでくるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311210000/「人間とは、一日中に何回となく菩薩となり、 悪魔となり、たえまなく変化しているのです。 一日のうち菩薩の時間の方が長かったのであれば、 あなたの一日は幸せだったのです。 一日のうち悪魔の時間の方が長かったのであれば、 あなたの一日は不幸だったのです。 笑よく業を制します。。。お祓いよりお笑いです。 あなたが笑って一日を過ごしたならば、 天はあなたにご褒美を降ろしましょう。。。 安らかな眠りと明日への活力を。。 そして生きる喜びを。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501150000/「良心に照らして、考えること、言うこと、することが調和されるならば 人生は、思いのままに拓けます。。 拓けないのならば、三点セットのどれかが歪(いびつ)なのですから 修正していきましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404200000/「足ることを知らない欲望に翻弄されると、人生が、歪曲。。。 良心を忘却して、人は、偽りの目標に突き進み、 生きながら地獄に堕ちていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403040000/「割れた鏡や、正確に映らない鏡を大切にしている人もいますが、 これは、心の基準になりません。 本物の鏡を心に持って欲しいものです。 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209120000/ 「心の鏡が曇り硝子やマジックミラーであれば、 自分の心は乱れたままですから、 心の鏡は良心という布でいつも磨いておきたいものですね。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203160000/「優しい心で生きる時に聞こえる声は真実の声ですが、 邪念を持った時に聞こえる声は、偽りの声です。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205030000/「後味がいいなあ。。。良いことをしたご褒美です。 後味が悪いなあ。。。良くないことをした報いです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407170001/「人は誰でも過ちを犯すものです。 犯さない人は皆無です。 ただ自分の中で過ちを正当化したり、 相手に責任を負わせたりする人がいます。 だから、いつまでも事態が改善されずに苦しむのです。。 自分が誤っていると悟ったなら、 躊躇なく、すぐ改めるべきです。 即、行動しなければなりません。 いたずらに体面や人の思惑を考えて、 改めるのを恐れてはいけません。 過ちては則ち改むるに憚ること勿れ、 と云うことですね。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312080000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312080001/
2016.10.08
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「一度信頼が失われたならば、 何を語っても信用されません。 誠心誠意ならぬ、正心誠意。。。 正しい心で誠意を尽くして 生きていきたいものです。。。」「世話になったり恩を受けたことを忘れず、 人として信用できる人。。。 自身の都合で他人を裏切ったりしない人。。。 信義に厚い人でありましょう。 そういう生き方が、心豊かな人生を運んでくるのです。」信用 確かなものと信じて受け入れること。 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。信頼 信じて頼りにすること。 頼りになると信じること。心ある人間同士。。。信用や信頼は、各々が各々に対して、誠実、真面目、正直な姿勢をもって、 相手を裏切らない。。。 相手を騙さない。。。 相手を欺かない。。。 相手を偽らない。。。ように相手と接し続けることによって、 地道に育まれ、築かれていく目には見えない心と心を繋ぐ心の財産だと思うのです。何か月、何年、という時間をかけて育み、築かれてきた信用や信頼も、失墜するときは一瞬。。。誠実、真面目、正直な姿勢によって、 信用や信頼を「0」から築いていくのに対し、 相手を裏切る。。。 相手を騙す。。。 相手を欺く。。。 相手を偽る。。。などの不誠実、不真面目、不正直などの姿勢や信用や信頼を失墜するような言動は、信用や信頼がリセットされて「0」に戻るだけではなく、それよりももっと酷い「マイナス」になってしまうことが殆どだと思うのです。 (相手を裏切り、騙し、欺き、偽る言動は、 相手を傷つけ、苦しめ、悲しませ、 辛い思いをさせるものですが、 その対象は、相手だけではないと思うのです。 「相手を裏切ろう。。。騙そう。。。欺こう。。。偽ろう。。。」 という思いを抱き、それを言動にすることは、 実は、自分で自分を裏切り、騙し、欺き、偽り、 自分で自分を貶めているに他ならないと思うのです。 相手のお立場からすれば、 「裏切られ、騙され、欺かれ、偽られたから、 信用・信頼できないのはもちろんだけど、 自分自身を裏切り、騙し、欺き、偽り、 自分自身を信用・信頼していない人の言動を 信用・信頼することはできない。。。」 ということだと思うのです。 相手を裏切ることは、それ以前に自分を裏切っていることに。。。 相手を騙すことは、それ以前に自分を騙していることに。。。 相手を欺くことは、それ以前に自分を欺いていることに。。。 相手を偽ることは、それ以前に自分を偽っていることに。。。 なるということを忘れてはならないと思うのです。)失墜した信用や信頼を回復させることは 著しい「マイナス」からの再出発である。。。 相手の自分に対する不信の念がある。。。が故に、容易なことではないと思うのです。 例え、 信用や信頼を失墜するような言動を反省している。。。 そのような言動をすることで相手を傷つけ、苦しめ、 悲しませ、辛い思いをさせたことを反省している。。。 その反省の元に、改心した自分の相手に対する 誠実さ、真面目さ、正直さが本物である。。。としても、改心した自分を相手にご理解頂き、受け入れて頂き、信用や信頼を再構築する為の努力は、信用や信頼を育み、築いてきたときの何倍もの時間がかかってしまうと思うのです。失墜してしまった信用や信頼は、回復しないことが殆どであることを考えれば、例え、何倍もの時間がかかっても、信用や信頼を失墜するような言動を許して頂くことができ、信用や信頼を再構築することができるのであれば、それはとてもとても幸せなことなのだと思うのです。日頃、誠実、真面目、正直な姿勢で生かさせて頂いていても、不完全で至らない点があるが故に、心磨きの修行をさせて頂いている私たちは、時として、邪念や欲、不平不満、怒り、嫉妬などに翻弄されてしまい、理性や良心でそれらをコントロールことを拒否してしまいそうになることがあると思うのです。理性や良心で、邪念や欲、不平不満、怒り、嫉妬などをコントロールすることを拒否しようとした瞬間に、不誠実、不真面目、不正直な姿勢が露わになり、日頃の自分ではありえないような言動をしてしまい、取り返しがつかないことになってしまう。。。ということも少なくないと思うのです。そもそも、自分の邪念や欲、不平不満、怒り、嫉妬などは、自分が勝手に抱いたものであり、相手には何も関係のないもの。。。自分が抱いた邪念や欲を満たす為。。。自分が抱いた不平不満、怒り、嫉妬を癒す為。。。に、その矛先を関係のない相手に向けて、信用や信頼を失墜するような言動をする。。。自分が人様からされたら嫌であろうことを人様にする。。。自分勝手で、自分のことしか考えていない利己的な姿勢だと思うのです。人様からの信用や信頼を失墜するのは、極自然なことだと思うのです。邪念や欲、不平不満、怒り、嫉妬などに翻弄され、理性や良心でそれらをコントロールすることを拒否したくなるような時こそ、一歩踏み止まって、 「これはお試しだ!天界テストだ! 自分の誠実さ、真面目さ、正直さが、 本物かどうかが試されているんだ! 乗り越えられれば本物! 乗り越えられなければ偽物! 自分がされて嫌なことは人様にもするな! そういうことなんだ!」という感じで、理性や良心の声に耳を傾け、自分を冷静に、かつ客観的に見つめ直し、それまで地道に育み、築き上げてきた目には見えない信用や信頼を、自ら一瞬で破壊し、失墜してしまうことのないように気を付けたいものですね。「誠心誠意」と「正心誠意」。。。誠の心である「誠心」と、正しい心である「正心」は、自分の心に嘘をつくことなく、自分の良心に素直に従い、誠実に、素直に、真面目に生きるという意では、同じだと思うのです。しかしながら、「誠」は、何に対して誠実になるのか、何に対して素直で真面目になるのか、その対象や環境、背景によっては、「誠」も「誠」でなくなってしまうこともあると思うのです。「誠」は、その時代を良い方向へ導く心であり、それを「誠」とすることはあっても、過ぎ去った時代の「誠」が、新しい時代の「誠」として通じるかどうかは、時の流れが教えてくれるものだと思うのです。それに対し、人としてあるべき正しい心である「正心」は、常に道理に適っているもので、いつなんどきも変わることのないものだと思うのです。(不変)対象や環境、背景、時代などの変化に関係なく、いつも道理に適っているかどうか。。。それが「誠心」と「正心」の大きな違いだと思うのです。「誠心」を真に「誠心」足らしめるのは、「正心」から生まれた「誠心」だけだと思うのです。ということは、「正心」から生まれた「誠心」は、「正心」に他ならないが故に、「正心」は「正心」なのだと思うのです。だからこそ、対象や環境、背景、時代などによって変化する「誠心」ではなく、不変の正しい心である「正心」に従い、人様の為に尽くさせて頂こうという純粋な気持ちである真心、誠意をもって、生かさせて頂くことを生きる指針とさせて頂きたいものですね。源光 「いかなる時も 人を裏切ってはなりませぬ。 裏切りは、己を殺すことに 他ならないからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505250000/「一度、信頼が失われたならば、 それを回復するには何倍もの努力が必要になります。 妻や夫、家族、友人を裏切らないことですよ。 最初から。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407090000/「自ら苦しむか、もしくは他人を苦しませるか? 二者択一の状況では躊躇なく自分が苦しんでください。。 苦しみは半減されて、幸運に繋がります。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408140000/「あなたが扱われたいように、他人を扱いなさい。 汝が隣人からされたくないことを隣人に行ってはならない。 隣人を自分自身として見ることで、 人は正しい基準を得ることが出来る。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107150001/「恩義を忘れ、私欲を貪れば、自分を賤しめていきます。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209010000/「正心誠意で生きることは、 天の光を受けて生きていくということですから、 笑顔でこちらに還ってこられるのです。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210190000/「正しい心で誠意を尽くして生きていく。。 今日も、ただそれだけでいいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409010000/「この世を生きてゆくには誠実の一語です。。 誠実とは何をするにも真心を尽くす事、 すなわちいつわらない事、あざむかない事です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409190001/「常に誠実であれ。人が持つ最も高尚なる天分ゆえに。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108290000/「優しい心で生きる時に聞こえる声は真実の声ですが、 邪念を持った時に聞こえる声は、偽りの声です。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205030000/「汝が最もだましやすい人は、汝自身である。 汝の想いは、善にも悪にも通じる。 善き方に想いを巡らせなさい。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107310000/ 「良心に従えば豊かになり、欲に従えば危うし。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108090000/
2016.10.07
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「最高の人生とは、 愛に応援され、知識に導かれた人生です。 最低の人生とは、 愛に見放され、欲に翻弄される人生です。」愛に応援される。。。天から授かった天法の写しである「何が正しいかその全てを知っている良心」に従って、その時々にすべきこと、できることから目を背けず、例え、誰にも認められなかろうと、自分の信じる道を誠実に、真面目に、勤勉に、努力を継続させて頂く。。。自分一人では生きていけない私たち。。。自分一人で生かさせて頂いているわけではない私たち。。。そのような私たちだからこそ、お互い様の心で、助け合い、支え合い、分け合い、協力し合い、愛し合っていけるよう相手を思い遣る心、利他心をもって生かさせて頂く。。。魂の修正や成長を目的として、この世に生を与えて頂いている私たち故に、そういう心のあり方で生かさせて頂くことこそ、天(愛)が応援したくなるであろう心のあり方、生き方だと思うのです。知識に導かれる。。。どんなにか賢くても、どんなにか頭が良くても、どんなにか知恵や知識があっても、どんなにか素晴らしい特技や能力があっても、その賢さ、頭の良さ、知恵、知識、特技、能力という個性を良心に従って、 「人様のお役に立たせて頂こう!」 「人様にお喜び頂けることに活かそう!」という人様を思い遣る優しい心、お互い様の心などの利他心をもって、正しく活かさせて頂いたときに初めて、それらは正しく導かれているのだと思うのです。反対に、「自分さえ良ければそれで良い」という利己心や欲を満たす為、はたまた、人様を騙したり、利用する為に、それらを活かすこともあると思うのです。それでは、 賢さ → 狡賢さ(悪賢さ)。。。 頭が良い → 心がない。。。 知恵 → 奸知。。。 知識 → 邪心、邪念、欲望による乱用、悪用。。。 特技 → 邪心、邪念、欲望による乱用、悪用。。。 能力 → 邪心、邪念、欲望による乱用、悪用。。。ということになってしまうと思うのです。そもそも、賢さ、頭の良さ、知恵、知識、特技、能力、などの個性を授かっているのは、自分の為ではないと思うのです。それらを必要として下さる方がいるからこそ、それらを活かさせて頂くことができる。。。だからこそ、自分の為ではなく、人様のお役に立たせて頂く為にあるものなのだと思うのです。良心に従って、人様の為に、社会の為にそれらを正しく活かさせて頂くことによって、魂の修正や成長をさせて頂くことができるのだと思うのです。賢さ、頭の良さ、知恵、知識、特技、能力、などの個性が自分の為にあるのではなく、それらを良心に従って正しく活かさせて頂くときの「心のあり方」や「行い」が、自分の為になるのだと思うのです。心ある人間同士。。。賢さ、頭の良さ、知恵、知識、特技、能力などの個性が、一人一人異なる人間同士。。。自分一人で生かさせて頂いているわけではない人間同士。。。相手という存在のお陰様で、「自分」を意識することができる人間同士。。。そういう私たちだからこそ、自分に授けて頂いた賢さ、頭の良さ、知恵、知識、特技、能力などの個性は、お互い様の心、思い遣る心、優しい心、温かい心、大きな心、豊かな心、愛の心、助け合いの心、支え合いの心、分け合いの心、協力し合う心を通わせながら、それらを良心に従って、人様のお役に立つことや、人様にお喜び頂けるようなことに、正しく活かさせて頂くことが大切なのだと思うのです。心ある人間である以上、心のあり方こそ一番大切だと思うのです。美しい心のあり方で生きる努力をさせて頂くことによって、 自らも愛として生きることができる。。。 愛という真心をもって知識を正しく活かすことができる。。。それ故に、 愛に応援される。。。 知識に導かれる。。。のだと思うのです。愛に応援される。。。知識に導かれる。。。それは、天に真っ直ぐ続く、人としてあるべき正しい心の道を歩ませて頂いている。。。ということだと思うのです。魂の修正や成長を目的として地上で修行をさせて頂いている私たちにとって、天に真っ直ぐ続く、人としてあるべき正しい心の道を歩ませて頂けることこそ、私たちの本質である魂が最高に喜ぶ生き方であり、最高の幸せであり、最高の人生なのだと思うのです。愛に見放される。。。魂の修正や成長を目的として、地上で修行をさせて頂いている私たちに、天が良心という心の羅針盤を授けて下さっているのは、不完全で至らない点の多い私たちが、 「折角の修行の機会に、間違った心のあり方で、 間違った道を歩んでしまうことのないように。。。」という思いがあるからこそだと思うのです。それにもかかわらず、 良心の声(心の声)に耳を傾けない。。。 良心に恥じる言動を頻繁にする。。。 良心に恥じる言動をしたことを反省しない。。。 良心に従って生きようとしない。。。 生かされていることに感謝しない。。。 自分さえ良ければそれでいい。。。(利己心) 人様を騙す。。。欺く。。。貶める。。。 人様を傷つける。。。苦しめる。。。悲しませる。。。などような心のあり方で、心ない行いをする。天自らそのような者を見放さずとも、天が与え続けて下さっている無償の愛を自ら享受できないようにしている。。。自分で自分を貶め、修正すべき点を増やしている。。。天から観ればそういうことだと思うのです。それを地上では、 「愛(天)に見放される。。。」 「愛(天)に見放された。。。」などのように表現されますが、それは、自分の心のあり方や生き様を省みずに棚に上げ、被害妄想を生み出すような心のあり方、生き方。。。「見放される」ような心のあり方、生き方。。。をしている自分がいるからに他ならないと思うのです。(利己心)欲に翻弄される。。。欲に翻弄されるのは、 足ることを知らないから。。。 心が飢えているから。。。だと思うのです。~足るを知る~頭でその意味は理解していても、その意味を心の修正や成長に活かさせて頂くことが容易ではない深い言葉だと思うのです。生活上、精神的・経済的なこと等に、ゆとりがあろうと、ゆとりがあるまいと、衣食住に困らず、何とか生かさせて頂いていれば、「足りている」ということだと思うのです。それは必要以上の多くのものを手にしなくても生かさせて頂くことができる「術」を知っている、ということでもあると思うのです。「術」を知っているということは、生かさせて頂く上で、とても素晴らしく、有難いことだと思うのです。逆に、必要以上のものを手にしても、満足することができず、次から次へと手にしたり、求めることを繰り返し、自分の欲を満たそうと、この世的な贅沢をされている方というのは、金銭で何でも買うことができる、何でも手にすることが出来る、という勘違いをされていらっしゃると思うのです。見方を変えさせて頂くと、そういう方々は金銭なくして、生かさせて頂くことができない、生かさせて頂く「術」を知らないからこそ、この世で生かさせて頂く為の知識や金銭等を与えて頂いている、ということでもあると思うのです。しかしながら、その知識や金銭等を心の修正や成長の為に、心正しく活かすのではなく、人様の為、社会の為に活かさせて頂くのでもなく、いつまでも満たされることのない強欲を満たす為に投じてしまうが故に、経済的には満たされていても、慢心を誇示しても、心はいつまでも満たされないのだと思うのです。それを、「~足るを知らざる者は、富むといえども貧し~」というのだと思うのです。足るを知らずに、次から次へと生まれる欲を満たすことから生まれる、 一時的な満足感や快感に心を奪われてしまうことは、とても多いと思うのです。一時の強欲を何らかの方法で満たすことによって、「自分の心は満たされている」と勘違いすることがあると思うのですが、もし、本当に心が満たされていたら、次から次へと欲は生まれることはないと思うのです。「あれが欲しい。これが欲しい。」「あれがしたい。これがしたい。」などという欲が大量生産されていればいるほど、反比例的に心は満たされていないのだと思うのです。足るを知らないのは、自分の心が満たされていないことを自覚していない、又は、それを認めたくない自分がいる。。。ということでもあると思うのです。足るを知るのは「心」故に、「心」が幸せであれば、「心」が幸せを感じることができるのであれば、それは心が満たされているということであり、足るを知ることが出来るのだと思うのです。自分の心から生み出された「欲」に、自分が翻弄・支配されることのないように、足るを知ることが出来るような自分の心を育ませて頂き、少しづつでも足りていることに幸せや喜びを感じながら、今ある足りている自分や環境に心から感謝させて頂き、日々を心から生まれる笑顔で生かさせて頂きたいものですね。とはいえ、食欲、睡眠欲、性欲、物欲など、欲のない人間はいないと思うのです。欲があるからこそ、楽しく生かさせて頂くことができる。。。そういうことも多々あると思うのです。だからこそ、欲に自分の心が翻弄・支配されてしまうことのないように、自分で自分の欲を上手にコントロールすることができるようになれば、欲も良いお友達になり、自分の欲の傾向を知ることができ、足るを知りながら、生かさせて頂くことができると思うのです。私たちの本質が、地上の肉体ではなく、「魂(心)」であることを考えれば、地上的「欲」に翻弄・支配されると、その「欲」に対する執着から、死しても天に帰還できず、死んでも死にきれない状態で、地上に残り続ける。。。ということになってしまうと思うのです。魂の修正や成長をさせて頂くことを目的として、地上で心を磨く修行をさせて頂いている私たち。。。今生、誕生した時より、ほんの僅かでも心磨きを進めて天に帰還させて頂くことこそ、私たちの本質である「魂(心)」を満たす真の幸せや喜びなのだと思うのです。「魂の修正や成長をさせて頂く為に、 欲に翻弄されるようなお試しの機会も沢山あるだろう。。。 それでも、欲に翻弄・支配されることのないよう、 心磨きの修行を頑張るぞ!」と意気込んで生まれてきた「本当の自分自身」をも覆い隠してしまう程に「欲」に翻弄・支配され、「欲」に執着し、心を磨くどころか、磨くべき点を増やし、心を曇らせ、自分を見失い、欲の虜になってしまう。。。私たちの本質である魂(心)にとっては、後悔の絶えないであろう残念な生き方であり、最低の人生なのだと思うのです。欲は底なし。。。底なしのものを求め続けても際限がないと思うのです。それならば、欲を満たすことに向いている意識を、足るを知ることを学ばせて頂くことや、私たちの本質である魂(心)が喜び、幸せを感じるような、心豊かなところに、心や意識を向けさせて頂けば良いと思うのです。道端に咲く名も無きお花さんを見て、喜びや幸せを感じるような豊かな心を育ませて頂きたいものですね。源光「良心に従えば豊かになり、欲に従えば危うし。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108090000/「偽物の幸福は快楽を与え、醜悪と高慢を供えますが、 本物の幸福は歓喜を与えて、智慧と慈悲を具えるのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201206110000/「優しい心で生きる時に聞こえる声は真実の声ですが、 邪念を持った時に聞こえる声は、偽りの声です。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201205030000/「足ることを知らない欲望に翻弄されると、人生が、歪曲。。。 良心を忘却して人は、偽りの目標に突き進み、 生きながら地獄に堕ちていくのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403040000/「愚者の楽園は、快楽に溢れ魅力的ですが、 誘われても決して入り込んではいけません。 本当の楽園は、身を律した世界の中にあるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601170000/「自分が心からやりたいことを見つけ出して自分らしく生きていく。。 これが最高の人生ですよ。。 人の価値観に振り回されることはありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408160001/「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。 これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。 いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/「知識というものは、学校で勉強し、ネットで調べ、本を読み、 セミナー等で学習すれば、身につきます。 しかし知識だけあっても世の中では通用しないのです。 知識にプラスして、思慮分別がなければなりません。。 さらに判断力、実行力も必要です。 この思慮分別、判断力、実行力を「見識」というのです。 見識があるからこそ世の中で通用するわけです。 さらに「胆力」があれば大きなことも成し遂げられるわけです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507130000/「人間として一番大切なのは、 頭の良し悪しではなく、心の良し悪しです。 幸せになるのも頭の良し悪しではなく、 心の良し悪しです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404100000/「必要なのは知識でなく思いやりです。 思いやりがなければ残るのは暴力だけです。。 心に愛がないものだけが憎しみ合うのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405050000/ 「逆境が人を育てます。 真に知的な人は、他の人が知識として有しているだけのことを、 身体で体得しているのです。 日々使える知識。。。。。これが活きた学問です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403250000/「人には賢さよりも、 優しさや思いやりが必要なのです。 温かい家庭の前を、不幸は避けていきます。 温かい社風の会社の前を、損害は避けていきます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201411300001/「今この瞬間のあなたの想い、そして生き方が、 あなたの明日を形成していくのです。 人生の紆余曲折、悟り間違いがなかったと 断言できる人生を送った人は皆無ですが、 この世を去る、その時。。 「あゝいい人生だった。。思い残すことは無い。。」 と思えるならば、それは最高の人生だったのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201501240000/「幸せの基準が他人に尊敬されたり、認められたり、 地位や収入を求めたり、異性にもてたり、 快楽を求めたりするところにある人は、 たとえそれが手に入っても心の底から幸せを味わうことはできません。。 幸せの基準は、もっと自分の魂が喜ぶ、心豊かなところにもちましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407230001/「花は咲く場所を選びません。。 あなたの歩む道にも咲いています。 路肩に咲いている名も無い花に語りかけて下さい。 生きる意味を教えてくれることでしょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403070000/「幸せは足下に生える雑草や 朝日にきらめく花の露と同様、 無数にあるのです。 今日も思い煩うこともなし。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201409210000/ 「人は足下に転がっている幸運は見過ごして 手の届かないようなものばかり追い求めるものです。 幸運はあなたの足下に今もあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507170000/
2016.10.06
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「あなたに真実を、 そのまま伝えることはできないのです。 あなたの修行の妨げになるからです。 私にできることは、みずから気づく 手助けができるだけです。」「自分の過去生は、どんな人だったんだろう。。。」「今生の目的は何だろう。。。どんな人生設計なんだろう。。。」「自分の未来は、どうなるのだろう。。。」「自分が本当にすべきことは何だろう。。。」「自分が本当にしたいことは何だろう。。。」 自分の過去(生)。。。自分の現在。。。自分の未来(来生)。。。自分の心のあり方の正否。。。自分の生き方の正否。。。などについて、多かれ少なかれ、「知りたい。。。」と思うことがあると思うのです。魂の修正や成長をさせて頂く為に、地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いている私たち。。。もし、魂の修正や成長の為に、それらを知っていた方が良いのであれば、最初から、はた また、生まれたときから知っている。。。又は、覚えている。。。と思うのです。しかしながら、実際のところは、生まれたときも、それ以降も 過去生の自分を知らない。。。覚えていない。。。 今生の目的や人生設計を知らない。。。覚えていない。。。 未来の自分の姿を知らない。。。ことが殆どだと思うのです。それは、 知らない方が良いから知らない。。。 覚えていない方が良いから覚えていない。。。 知ったり、覚えていると修行の妨げになるが故に、 生まれるときに忘れさせられている。。。 ということでもあると思うのです。それらを知ったり、覚えていると、なぜ修行にならないのか。。。知らない方が良いこ とを知る。。。覚えていない方が良いことを覚えている。。。ことによって、 「今」を過去生や未来の自分で生きてしまう。。。 今生の目的や意味から逸れてしまう。。。 今生の人生設計から逸れてしまう。。。ということにもなりかねないのが、不完全で至らない点が多いが故に、修行をさせて頂いている私たちなのだと思うのです。修行の機会が修行にならない。。。はたまた、修行の妨げになる。。。ということのないように、地上の私たちが「知りたい」と願い、求めても、天はありのままの真実を伝えることはせず、自力で気付けるか気付けないかのような 近からずも遠からずなヒント。。。 遠からずも近からずなヒント。。。などの道標を 、様々な境遇や出逢い、直観などを通じて導き、手助けをして下さる。。。それが、修行の為に生まれてきた私たちへの天のご配慮なのだと思うのです。~~~~【過去生の真実を知ること。。。】過去生の自分を知ることは、とても素敵なことだと思うのです。過去生の自分を知ることによって、懐かしさを覚えたり、喜びを感じたり、何らかの記憶が呼び戻されたり、自分が本当にやりたいことに気付かせて頂いたりなど、色々な面で有難いことが多々あると思うのです。しかしながら、「今」の自分に満足できていないと、「今」の自分と「過去生」の自分とを勝手に比較してしまうことがあると思うのです。そればかりか、「今」の自分と比較して、「過去生」の自分の方が良いと感じたとき、「過去生」の自分で「今」を生きたくなってしまう。。。ということもあると思うのです。今生を「過去生」の自分になりきって生かさせて頂いても、今生が「過去生」のように良くなったりする、ということはないと思うのです。 (過去生が良く見えているだけ。。。 ということもあると思うのです。)過去生には過去性なりの大変なことがあった可能性があることを考えれば、今生の方が幸せなこともあると思うのです。「過去生」の自分と「今」の自分の魂は同じでも、「今」を生かさせて頂いているのは「今」の自分。。。「今」を生かさせて頂いている自分にしか、「今」を経験させて頂くことができない貴重な今生という機会は、「今」の自分で、しっかりと生かさせて頂くことが大切だと思うのです。それを妨げるようであれば、「過去生」は知らない方が良いと思うのです。時に、「過去生」について知る機会を与えて頂いたときは、「過去生」から培ってきた自分の特技や能力などの善なるものが何かを考えさせて頂き、それを今生において正しく活かさせて頂けるよう試行錯誤させて頂くことが大切だと思うのです。また、不完全な私たち故に、「過去生」の自分も何らかの過ちや間違いを生み出していると思うのです。それが今生の業となって表れていることを考えれば、「過去生」における過ちや間違いは何だったのかを考えさせて頂き、その業を今生において清算させて頂くことができるよう、反省すべきは素直に反省させて頂き、正すべきは素直に正させて頂きながら、生かさせて頂くことが大切なのだと思うのです。本来は知らない方が良いであろう過去生の自分を知る」という機会を与えて頂くということは、「過去生の自分を知る」ことに意味があるからこそ、知ることができるのだと思うのです。「過去生の自分を知る」のは、 「過去生の自分は幸せそうだなぁ~。。。 過去生の方が良かったなぁ~。。。」 「過去生の自分は綺麗だったなぁ~(格好良かったなぁ~)。。。」 「過去生の自分は地位が高かったんだなぁ~(低かったんだなぁ~)。。。」 「過去生のように生きたいなぁ~。。。」などと、「過去生」の自分と「今」の自分とを比較して、自己満足したり、自分を卑下したりするなど、一喜一憂する為のものではなく、「今」を生かさせて頂いている自分が、今生の目的や意味を自ら見つけ出し、今生をより良く生かさせて頂くことができるように与えて頂いている貴重なチャンス故に、そのチャンスの深い意味を読み取る努力をさせて頂き、良心に従って今生に活かさせて頂くこと。。。そして、心から感謝させて頂くこと。。。が大切だと思うのです。~~~~【今生の目的や人生設計の真実を知ること。。。】今生の目的や人生設計は、本来、自分に与えて頂いている様々な境遇や出逢い、経験から 試行錯誤したり。。。 探究したり。。。 コツコツとした地道な努力したり。。。 諦めてはならないものは継続したり。。。 諦めるべきはさっさと諦めて止めたり。。。 喜んだり、楽しんだり、感動したり。。。 後悔したり、苦悩したり。。。することを通じて、 「自分がやりたいことは〇〇だ!」 「今の自分がすべきことは〇〇だ!」 「今の自分にできることは〇〇だ!」という感じで、自ら見つけ、自ら気付いて行くものだと思うのです。例えそれが遠回りで時間がかかろうと、その過程を踏んでいくことにこそ意味があり、その過程こそが魂を磨き、修正すべきを修正させる修行になっているのだと思うのです。今生の目的や人生設計の真実は、自ら見つけだし、自ら気付くからこそ、有意義な人生になるのだと思うのです。それを「知りたい。。。」という欲を満たす為だけに、その真実を伝えて頂き、知ってしまうということは、人生において極めて重要な「過程」における 試行錯誤。。。探究。。。地道な努力の継続。。。 喜び。。。楽しみ。。。感動。。。後悔。。。苦悩。。。などの貴重な経験が省略、割愛されてしまう、ということだと思うのです。今生の目的や人生設計の真実を「知る」ことの代償が、本来経験すべき貴重な「過程」の省略、割愛。。。急がば回れ。。。「知る」ことに重きを置いて近道をしたつもりでも、自ら見つけ、気付く為の「過程」を踏む機会を失うことによって、 磨かれるべきことが磨けない。。。 修正すべきが修正できない。。。となれば、 魂の修行にならない。。。 人生の意味が無い。。。ということになると思うのです。今生の目的や人生設計の真実を「知る」ことで、それを「知りたい。。。」という欲は満たされても、今生の目的や人生設計の真実を自らの力で見つけ、気付く為の「過程」の全部又は一部を失うことは、今生の目的や人生設計には無かったことだと思うのです。「知りたい。。。」という欲が満たされることによって、今生の目的や人生設計に無かったことを築かれ、今生の目的や人生設計にあったことを失う。。。人生は、今生の目的や人生設計を「知る」ことにあるのではなく、忘れさせられてしまった今生の目的や人生設計を自分に与えて頂いている様々な境遇、出逢い、経験を通じて、自ら「見つけ」、自ら「気付き」、自ら「体験」すること、にあるのだと思うのです。天が私たちの今生の目的や人生設計の真実をそのまま伝えることをしないのは、修行をさせて頂いている私たちを思い遣る心から生まれる、私たちの為のご配慮なのだと思うのです。今生の目的や人生設計を「知りたい。。。」という欲を生み出すのではなく、私たちの必要性に合わせて、適時与えて頂いているであろう何らかの境遇や出逢い、経験の中に、今生の目的や人生設計を見つける為のヒントに気付かせて頂くことができるような自分の心を育ませて頂くことが大切なのだと思うのです。~~~~【自分の未来を知ること。。。】未来の自分が、「今」の自分が想い描く幸せな自分になっていれば、それは幸せなことだと思うのです。しかしながら、それを知ってしまうことにより、 「未来の自分は幸せなんだ♬」という安心感、安堵感から、未来の自分を知らないからこそ、経験させて頂いていたであろう 試行錯誤。。。探究。。。地道な努力の継続。。。 喜び。。。楽しみ。。。感動。。。後悔。。。苦悩。。。を経験しないことにもなりかねないと思うのです。そのようになると、未来は変わると思うのです。未来が変わるということは、知り得た未来も変わる、ということでもあると思うのです。知り得た未来の自分の姿こそが、「今」の自分が想い描く、幸せな未来の自分であるにもかかわらず、自分の未来を知ることで、その知り得た未来が変わる。。。そのことに気付こうと気付くまいと、知り得た未来が変わっていく。。。となれば、知らない方が幸せ。。。なのだと思うのです。同じように、未来の自分が、「今」の自分が想い描く自分になっていないことを知る。。。その結果、絶望したり。。。自暴自棄になったり。。。何かを諦めたり。。。何かから逃げたり。。。してしまう。。。知らなければ、しなくて済んだことをしてしまう。。。私たちが想い描く自分の未来の姿は、その時々の心のあり方によって移ろい、多かれ少なかれ変化していると思うのです。未来の自分が、「今」の自分が想い描く自分になっていなくても、「明日」や「少し先」の自分が想い描く自分になっている。。。そういうこともあると思うのです。大切なことは、「今」を どのような心のあり方で生かさせて頂くのか。。。 どのような言動・生き方をさせて頂くのか。。。だと思うのです。その「今の心のあり方」「今の言動・生き方」が、未来の自分を築いているのだと思うのです。未来の自分を築くのが 「今の自分の心のあり方」 「今の自分の言動・生き方」であるにもかかわらず、先に未来を知ってしまっては、 「今の自分の心のあり方」 「今の自分の言動・生き方」が無視されたり、無くなってしまい、本来、それらによって築かれるべき未来の自分が築かれなくなり、異なる未来の自分になってしまう。。。と思うのです。未来の自分を知った時点で、知り得たばかりの未来の自分も変わる。。。中には、未来の自分を知ることで、未来の自分を知らない時以上に、その未来の自分に向かって、より明確なヴィジョンを確立させ、その実現に向けて、試行錯誤し、探究し、コツコツとした努力の道を、時には、喜びや楽しみ、感動を伴い、時には、失敗や過ちによる後悔や苦悩を伴いながら、歩むことができる決してぶれない方もいらっしゃると思うのです。しかしながら、本当に大切なのは、「今」の自分であろうと、「未来」の自分であろうと、 「自分はどうなりたいのか。。。」 「自分はどうありたいのか。。。」を自ら見つけ出すことだと思うのです。未来の自分を知る、ということは、それらを自ら見つけ出すに至る様々な過程や経験を失うことでもあると思うのです。その過程や経験があるからこその未来の自分のはずが、その過程や経験が無くなるとなれば、「今」知ったばかりの未来の自分が変わるのは、極自然なことだと思うのです。それを知らずに、それに気付くことなく、知り得た未来の自分に向かって努力をしても、その行きつく先にあるのは、知り得た未来の自分ではなく、知り得たことによって、大切な過程や経験を失い、変わってしまった未来の自分なのだと思うのです。自分の未来を知ることが、かえって、私たちの本質である魂が望み、自ら設計してきた自分の人生の未来を遠ざけてしまう。。。それでは本末転倒だと思うのです。それを見越されている天は、 自ら築いてきた人生設計における 1つ1つの大切な過程を踏み外したり、 省略したり、割愛することのないように。。。 経験すべき道を正しく歩むことができるように。。。という想いから、私たちが未来の姿を知りたがっても、そのまま伝えることはしないのだと思うのです。天からすれば、不完全で至らない点が多いが故に修行をしている私たちの心のあり方は、移ろいやすく、不安定なものなのだと思うのです。それ故に、 「昨日の心のあり方では、〇〇な未来になっています。。。」 「今日の心のあり方では、〇〇な未来になっています。。。」というくらいに、私たちの未来も移ろいやすく、不安定なのだと思うのです。しかしながら、 「自分はどうなりたいのか。。。」 「自分はどうありたいのか。。。」 「今生の目的は何なのか。。。」 「今生の人生設計はどうなっているのか。。。」を自ら見つけ、自ら気付いたものは、自ら決めてきたこと故に、自分の心にピタッとフィットすると思うのです。自分の心にピタッとフィットしている状態の自分の心が想い描く未来の自分だからこそ、思い描いた通りの未来に繋がるような心のあり方で生かさせて頂くことができるのだと思うのです。そのように人生を自ら築き、切り拓いていくことこそ、人生の醍醐味であり、自分の魂が喜ぶ生き方なのだと思うのです。それを妨げるようなことはしてはならない。。。というのが、地上で修行をさせて頂いている私たちに対する天の無償の愛のご配慮なのだと思うのです。天にとって、私たちに真実をそのまま伝えることは、とても容易なことで、楽なことだと思うのです。その容易なことをしない。。。その楽なことをしない。。。のは、私たちの修行の為を思って下さっているからこそ。。。その天のあり方は、地上で修行をさせて頂いている私たちが見習わせて頂くべきあり方だと思うのです。人知の及ばない無償の愛によるご配慮で私たちを常にお見守り下さっている天。。。心から感謝させて頂きたいものですね。源光「過去(生)があるから今があるのです。とはいったものの、 本当は、過去(生)はわからない方がいいのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410190000/「死んだらどうなるのか? 指導霊や守護霊と会話したい。。というのは、 小説を終わりから読み始めるようなものです。 人生は、未来も、結末もわからない方が、いいのです。。 今を誠実に生きることですよ。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406020000/「偉大な導師は、決してズバリとは教えません。 ただ道を示すだけです。 自分で見つけだすプロセスに意味があるからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404290000/「あなたの今は、過去の蓄積です。 今が良かろうと悪かろうと。。。 あるべくして今日の自分があるのです。」(ラクシュミーさん)「人は誰でも過去があるから今があるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201604220000/「人は思い通りの人間になれます。 天はそのように人間を創ったのです。 あなたは、自分をどんな人間だと思っているでしょうか。 今の自分は、あなたの思いの通りの自分ですよ。 自分のことをどのように信じるかで、自分も人生も変わってきます。 人生を変えるのは自分自身。。 置かれている環境でも人の評価でもありません。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050002/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050003/「何事も行き着く所に落ち着くものです。 今の自分の延長が未来の自分に相違ありません。 今の自分が気に入らないのであれば今すぐに、 より良い方向に軌道修正することです。 簡単なことですよ。 笑顔で自分の良心と対話するだけのことです。 答えはすぐ返ってきます。 それは安易な道ではないはず。。 だからこそ人生は楽しいのです。 良心と共に歩んで行くのならば大いなる雲に乗って 光の世界へ導かれるでしょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505160000/ http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201250000/
2016.10.05
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「自分と人を比べてはいけないのです。。 それは自分自身を侮辱する行為だからです。」「苦しみは人と比較するところから生まれます。 人は人。我は我ですよ。 大富豪も大学者も、 家族の非行や、 病気やドロドロとした人間関係で悩み深いものです。 世界で一番幸せなのは、自分自身である可能性があります。」「何かいいことがあると、何か制約がある。 これが世の習いです。 誰も羨ましがる必要はないのです。 自分の方がよほど幸せかも知れないのです。」私たちは、一人一人が個性溢れる存在で、 生まれた日や生まれた場所、容姿や年齢、性格、育ってきた環境、培ってきた様々な経験、感性、特技、能力、ものごとの見方や捉え方、考え方、生き方、趣味、嗜好、好きなもの、嫌いなもの、得意なもの、苦手なもの、ものごとに対する価値観、魂のレベルなど、様々な点において、十人十色、千差万別で、共通している点といえば、「心ある人間同士」ということくらいだと思うのです。私たち一人一人は殆どが異なっていて、生き方などの土俵も異なっていることを考えれば、人様と自分を比較しても仕方がないばかりか、大した意味さえないと思うのです。 (自分と人様を比較することに意味がないことを考えれば、 比較する為の基準などあるわけがないと思うのですが、 足ることを知らない心が、ないものねだり。。。 隣の芝生は青い。。。隣の花は赤い。。。など、 人様と比較したくなる自分がいるが故に、 自分勝手な比較基準によって比較して、そこに何らかの意味を 持たせようとしているだけだと思うのです。) 自分勝手な比較基準によって、人様と自分を比較して優位を感じたとしても、それはただの自己満足でしかないと思うのです。人様と自分を比較して劣位を感じたとしても、それはただの被害妄想だったり、思い込み、嫉妬などでしかないと思うのです。自分と人様を自分勝手に比較して一喜一憂する。。。裏を返させて頂くと、それだけ人様に左右されているということだと思うのです。それは、自分らしく、ありのままの自分、自然体の自分で生きていない、ということに他ならないと思うのです。「自分」という意識を持って生かさせて頂いているにもかかわらず、人様と自分を勝手に比較して一喜一憂する為に、自分らしさ、ありのままの自分、自然体の自分を失ってしまう。。。そのような自分に対する心のあり方や姿勢は、自分で自分を貶めているだけでなく、自分で自分を侮蔑しているようなものだと思うのです。自分は自分。。。人様は人様。。。自分には自分の基準があるのと同じように、人様には人様の基準があると思うのです。同じ「人間」であっても、「人間」であることくらいしか共通点がないことを考えれば、その基準は、似ていても非なるものだと思うのです。基準の土俵が異なっていることを考えれば、自分基準で自分と人様を比較したり、人様を評価したり、人様基準で自分と人様を比較されたり、自分を評価されても、そのような比較や評価は当てにならないと思うのです。 (自分の物差しと人様の物差し。。。 寸法が同じということはないと思うのです。 寸法が異なるものを比べても、 異なっているのが当たり前だと思うのです。 異なっているのが当たり前のものを比べても 何の意味も無いと思うのです。) 自分と人様を比べる。。。人様を評価し、人様に評価される。。。そんなことはどうでも良いと思うのです。それよりも、 「自分がどうありたいのか。。。」 「自分がどうしたいのか。。。」の方が大切だと思うのです。自分の評価は、人様にされるようなものではなく、自分ですれば良いものだと思うのです。自分が信念を持って努力してきたことを一番良く理解できているのは自分だけだと思うのです。自分の心の内のことまで分かる由もない人様による自分の表面的なところしか見ていない比較・評価など、相手にせず、放っておけば良いと思うのです。人様によって勝手にされる比較や評価を気にしたり、それらに振り回されてしまうことに時間を費やすことは、自分の時間を無駄に使っているようなものだと思うのです。 (反対の見方をさせて頂くと、人様のことばかりを気にして、 人様と自分を比較したり、人様を評価することにばかり 時間を費やしている人は、「自分」の人生の時間を、 「自分」のことよりも、「人様との比較」や「人様の評価」に 費やしてしまっているが為に、自分の人生を歩んでいない、 ということでもあると思うのです。)自分の貴重な人生の時間を無駄にしない為にも、自分が信念を持って、誠実に、真面目に、コツコツと地道に努力したいと思うことができるような「本当にやりたいこと」を良心に従ってさせて頂いているのであれば、 どなた様かに何を言われようと、 どなた様かにどのような比較をされようと、 どなた様かにどのような評価をされようと、 どなた様かにどのような批判をされようと、そのようなつまらないことは気にせず、相手にせず、自分の信じる道、自分が本当にやりたいことの道を、ただただ真っ直ぐに歩ませて頂いていれば、それで良いのだと思うのです。 (つまらない相手にムキになれば、 相手の術中に嵌ってしまうようなもので、 相手が喜ぶだけだと思うのです。 ムキになるということは、動揺しているということ。。。 動揺するということは、自分を信じ切れていないということ。。。 自分に自信があれば、何を言われようと、 気にしない。。。相手にしない。。。放っておく。。。 ことができると思うのです。 それくらいの自分になることができるよう、 自分を育ませて頂きたいものですね。)そもそも私たちが地上で修行をさせて頂いているのは、魂の修正が必要な不完全な存在だからこそ。。。不完全な人間である人様によって自分と人様を比較される。。。不完全な人間である人様によって自分を評価される。。。不完全な人間である人様によって自分を批判される。。。不完全な人間である自分が自分と人様を比較する。。。不完全な人間である自分が人様を評価する。。。不完全な人間である自分が人様を批判する。。。不完全な人間であるにもかかわらず。。。相手にすべきは、不完全な自分や人様ではなく、いつも私たちの心のあり方をお見守り下さっている天だと思うのです。天は、私たちの個性を大切にして下さっているが故に、地上の人々を比較することはないと思うのです。天は、地上の人々を批判することはないと思うのです。なぜなら、自分の蒔いた種は、自分で刈り取るという因果応報によって、自らの過ち、間違いは、自ら背負うことになっているが故に批判する必要がないのだと思うのです。だからこそ、天から授かった「何が正しいかその全てを知っている良心」に恥じない自分、自分自身に恥じない自分で、生かさせて頂くことが、とても大切なのだと思うのです。いつ何時も、天法の写しである良心に従って生かさせて頂く。。。その心のあり方、生き方を確固たるものとさせて頂けば、天に真っ直ぐに続く道を歩ませて頂いているのと同じ故に、間違いのない自分らしい人生を歩ませて頂くことができると思うのです。天が評価して下さるのは、AさんがBさんよりも優れている。。。劣っている。。。などと不完全な人間同士を比較することにあるのではなく、地上で修行をしている私たち一人一人が、 良心に従って生きているか否か。。。 良心に従って生きようと努力しているか否か。。。など、各々の心のあり方や言動、生き方をご覧になられているのだと思うのです。天が地上の一人一人をそのようにご覧下さっているにもかかわらず、地上で修行をさせて頂いている不完全な人間同士の私たちが、比較・評価し合い、批判し合う。。。それこそ、私たちが不完全な理由の一つであり、私たちの不完全さを自ら露呈していると思うのです。自分という存在は、世界で一人だけの貴重な存在。。。 自分の個性は、 世界に一つだけの貴重なもの。。。自分だけの貴重なものだからこそ、自分にとっては、超ラッキーなものだと思うのです。人様にとってもそれは同じだと思うのです。自分の超ラッキーなものと、人様の超ラッキーなものを比べる。。。それは、自分の超ラッキーなものを、 「自分にとって超ラッキーなもの」として信じていない。。。自分を信じていない。。。ということだと思うのです。「自分」という意識を与えて頂いているにもかかわらず、「自分」を信じていない。。。「自分」を信じる為に、人様と比べているつもりが、実は「自分を信じていない証」になっている。。。それ故に、自分と人様を比べると、苦しくなるのだと思うのです。天からすれば、 「自分は自分。。。人様は人様。。。 自分と人様を比較したり。。。 人様を勝手に評価したり。。。 人様からの評価を気にしたり。。。 そのようなことをしている間は、 いつまでも心が安らぐことはありません。 あなたは他者になり得ず、 他者もあなたになり得ない。。。 あなた≠他者。。。 それが個性です。 個性は、比べるものではなく、尊重すべきものです。 各々の価値基準で評価するものでも、評価されるものでもありません。 尊重されたい自分の個性と、尊重すべき相手の個性。。。 一致していないものを比べるからこそ一喜一憂し、苦しむのです。 自分を許し、自分を愛し、自分を信じることが、 自分を救い、自分らしく生きる原動力になります。 他人の目を気にせず、自分らしく生きる。。。 自分が本当にやりたいことをする。。。やり続ける。。。 自分が信じることをする。。。やり続ける。。。 比べるのは、昨日の自分と今日の自分です。 昨日と今日の自分を比較して、 今日の方が少しでも進歩していると、 自己評価することができるように、日々、精進する。。。 それが、あなたの魂が喜ぶ心のあり方、生き方です。」ということなのだと思うのです。源光「他人の生活と比較することなく、自分自身の生活を楽しみましょう。 家族を楽しませましょう。触れ合う人々を楽しませましょう。 幸運とは、そういう自然体の人に微笑むのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201307010000/「他人の目を気にせず、おおらかに、自分らしく個性的に生きることだと思います。 この世的権威や、お金など、死後は無価値となってしまうのですが、 唯一つ「心」だけは持って還れるのです。「心」こそ宝ですよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210100000/「自分を大きく見せようとして、偉ぶっても、また謙遜しても、 その人の真の実力や人柄は、どうしても現れてしまうものです。 自分のアピールに必死にならなくてもいいのです。 自然体でいいのです。周囲は見てくれていますから。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312130000/「人と比べるのではなく、 過去の自分と比べてみるのです。 今の方が進歩しているのなら それはあなたの精進の成果です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201603210000/「心が騒ついているから、苦しいのです。 人は人、我は我ですよ。 人の目や評価を気にしたり、 人と比較している限り心の平安は訪れないのですから。。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507010000/ 「人は人、我は我ですよ。 人の目を気にしたり 人と競っている限り 心の平安は訪れないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507260000/ 「人から笑われようとバカにされようと、 自信を持って堂々としていればいいのです。 あなたが堂々としていると、あなたをバカにして 笑っていた人も恥ずかしくなって、 むしろ尊敬の念を持ってあなたに接してきます。 自分を卑下しているから、人にも軽視されるようになるのです。 あなたの素晴らしさ。天は全てを知っていますよ。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312040002/「自分自身という財産を持っている人。。。 最終的に勝利者になる人です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201405020001/「自分の信じる道を 真っ直ぐに歩んで行けばよいのです。 あなたの道を。。。 良心という道標があるのならば 指導の存在、守護の存在は 随所であなたにアドバイスを与え、 奇跡を降ろして必ずあなたを助けるでありましょう。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505120000/「賞賛を求め、中傷に傷つく。。 これが普通の人ですが、 賞賛も、中傷も気にしない人にならない限り、 心の安らぎは永久に得られないのです。 」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201403140000/ 「人のことが気になって気になってしょうがない。。 これが物事にとらわれている心です。 そういう心を無くさない限り、心は安らかになりません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406150000/「人生は有限です。 ですから他人の気に入るような行動をするよりも、 良心に忠実に、自分を尊敬し、 自分が満足できるような行動をとるべきです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312060000/「附和雷同。。。長いモノに巻かれろ。。。人の顔色をみて行動。。。 こういう人は、後で後悔する人です。 何時でもどこでも良心に恥じない自分でありたいものです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201211100000/「汝が最もだましやすい人は、汝自身である。 汝の想いは、善にも悪にも通じる。 善き方に想いを巡らせなさい。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107310000/「自分で自分をだましたり、 自分を演出してよく見せようとしているうちは 自分の本質を成長させることはできない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107220001/
2016.10.04
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「何も後悔することがない人生は、 何の意味もない人生なのです。 何度も後悔しながら人は成長していくのです。」魂の修正や成長をさせて頂く為、その不完全さ、至らない点が多々あるが故に、地上という修行の場に生まれる機会を与えて頂いている私たち。。。そのような私たちが「後悔することがない」ほど、完璧であるわけがないと思うのです。完璧ではないからこそ、失敗や過ちを犯すのだと思うのです。。。それを後悔させて頂くからこそ、 失敗がなぜ失敗だったのか。。。 なぜ失敗したのか。。。 過ちがなぜ過ちだったのか。。。 なぜ過ちをおかすことになったのか。。。など、過去の自分の心のあり方や言動、生き方と向き合わせて頂くことができ、反省すべきを反省し、 正すべきことを正すなど、多くのことを学ばせて頂くことができるのだと思うのです。中には、 「自分は完璧だから、後悔することなど何もない!!」と仰られる方もいるものですが、それは天からすれば、 自分が完璧ではないことを知らない、気付いていない。。。 失敗をしていること、過ちを犯していることに気付いていない。。。 失敗がなぜ失敗なのか、過ちがなぜ過ちなのかに気付いていない。。。だけで、自分のことが分かっていないその心のあり方こそ、完璧ではない証だと思うのです。また、 後悔している自分を認めない、認めたくない。。。ということもあると思うのですが、それは、 安っぽいプライドの誇示、維持、自己顕示であり、 人様の目を気にして体裁を整えていたり、 失敗や過ち、至らない自分から逃避していたりなど、自分で自分を偽り、欺き、貶めているだけだと思うのです。後悔は、過去の自分の心のあり方や言動、生き方の失敗や過ちに気付き、反省し、正させて頂く為の貴重な機会だと思うのです。それにもかかわらず、 「後悔することは何もない。。。」 「後悔している自分を認めない、認めたくない。。。」とするのであれば、 何の為に地上に生まれる機会を与えて頂いたのか。。。ということになってしまうと思うのです。後悔。。。 何かをさせて頂いた結果としての後悔であろうと、何もしなかったことを悔いる後悔であろうと、 「あの時、〇〇しておけば良かった。。。」などと、自分自身の心のあり方や言動を振り返り、素直に反省させて頂くことを通じて、後悔させて頂くことができるということは、とても幸せなことだと思うのです。後悔させて頂くことによって、 「これからは、〇〇しよう♪」 「同じことを繰り返さないように注意しよう♪」などと、自分で自分を正させて頂くことができる。。。幸せなことだと思うのです。その一方で、何かをさせて頂いた結果に対しても、何もしなかった結果に対しても、全く意識しないということは、自分自身の心の想いや言動に対して、無関心ということだと思うのです。折角「自分」という意識や個性をもって、生かさせて頂いているにもかかわらず、自分自身に対して無関心になっていては、「自分」として生かさせて頂いていることに、生き甲斐を感じることができないが故に、虚しい人生になってしまうと思うのです。時には、人様にご迷惑をお掛けしてしまう。。。人様を傷つけてしまう。。。などのような反省すべきこと、後悔すべきことを、知らず知らずの内にしてしまうことがあると思うのですが、自分自身の想いや言動に無関心であるが故に、反省すべきこと、後悔すべきことにすら気づけないばかりか、反省や後悔をさせて頂くことすらできなくなってしまう。。。ということだと思うのです。自分の間違いや過ち、失敗にすら気づけない。。。それ故、後悔することができない。。。反省することができない。。。正させて頂くことができない。。。魂の修正や成長をさせて頂くことを目的として地上という修業の場に生を与えて頂いている私たちの地上における人生がそれでは、その目的を達成することが出来なくなってしまうと思うのです。地上では後悔することがなかった(できなかった)としても、天に帰還した時は、後悔しても後悔しきれない。。。ということになってしまうと思うのです。後悔は、不完全な私たちが、自ら生み出した間違いや過ち、失敗を素直に反省させて頂き、その後悔したことをその後の人生の糧にして、より良い人生を過ごさせて頂く為、より魂の修正や成長をさせて頂く為に、自分を冷静に振り返らせて頂く為の貴重な機会なのだと思うのです。後悔は、後悔をするような心のあり方や言動、生き方をしてきたそれまでの古い自分を捨て、新しい自分に「更改」させて頂く為の、貴重な機会なのだと思うのです。だからこそ、後悔をさせて頂いている時は、自暴自棄になったり、投げやりになるのではなく、後悔をさせて頂けることに心から感謝させて頂き、後悔していることや自分自身と素直に向き合って、反省すべきを反省させて頂き、正すべきを正させて頂くことが大切だと思うのです。後悔させて頂いたことを繰り返すことのないように、後悔したことをその後の人生の糧として活かさせて頂く。。。。この繰り返しによって、少しづつ成長させて頂くことができるのだと思うのです。そして、自分が後悔させて頂いた失敗談などの経験を、「人様のお役に立てれば。。。」という思いで「公開」させて頂くことができるとき。。。過去の恥を人生の糧として晒すことができるとき。。。「公開」した後悔を乗り越えさせて頂いた、ということなのだと思うのです。源光 「何も後悔することがない人の人生は、とても虚しいものになります。 だから後悔させて頂けることに感謝することですよ。 後悔せずに生きられるほど人は完璧ではありません。。 後悔から学んだこと。。。あなたの一本の灯りです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406200000/「人は行動すれば、必ず後悔はつきまとうのです。 しかし、行動しなければこれまた後悔となります。 良心に照らして正しいのならば躊躇なく行動することです。 その結果は全て自分の責任です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505130000/「人生とは試行錯誤の過程である。 なんらの過ちもおかさない人は、何もしない人である。 汝は、失敗と挫折から学まねばならない。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107260000/「過去の体験を「宝物」にするも、「ごみ」にするも自分自身の「心」次第ですね。 みんな悩んで大きくなっていくのです。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201209170000/「汝の人生で、行動した結果、後悔の念に囚われるものは、 反省次第で明日を開く鍵にも、地獄への鍵にもなる。 行動しなかったことを後悔する必要はない。 今から行動すればよいのだから。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201109240000/「汝の今までの人生は下書き。 清書をする時が近づいている。 下書きのまま人生を終わる者は、 後悔の念に囚われるものだ。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110310000/「人生は、悩み、挫折、後悔。。これの繰り返しだと思っていませんか? 本当は、悩みは幸運の種、挫折は喜びの種、後悔は輝く希望の畑です。 幸運の種と、喜びの種を、輝く希望の畑に蒔いて育てれば、 必ず大きな実りの日々が訪れます。 種だけを見ていると、本当につまらないものに見えるかもしれません。 苦難の多いあなたは、すでに心の長者の資格があります。。 たくさんの種を手にした選ばれた人なのです。 あなたのすることは、ただ、蒔いて育てる。。それだけのことです。 あなたの望むもの全ての種は、手の中にあります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312160002/「過去を振り返りましょう。 後悔するためではありませんよ。 これからくよくよしないためです。 「あのときはなんてばかなことをしたんだ」 と思い出しましょう。そして 「あのときはこうすればよかったんだ」 という解決策を考えましょう。 よりよい言葉、よりよい行動、よりよい考え方を、自分で発見するのです。 次からそれを具体的に実行しましょう。 頭の中だけで思うのではなく、必ず実行することが大切です。 こうして以前、失敗したことも、成功するようになります。 全てが好転していきます。 欠点が長所となって輝き、理想的な人間へと修正されて 素晴らしい人生となって行くのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312270000/「人生は、ぶっつけ本番のリハーサル無し。。 これで失敗するなというのが間違いです。 失敗しない人間は皆無。 あなただけが失敗したのではありません。 大損したのでもありません!! 人は失敗から学ぶ動物です。 「あの時ああすればよかった。。」 そうです。ああすればよかったのです。 しっかり学び取って次に活かせば良いのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201402100000/
2016.10.03
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「人生の目的は行動です。 法則でも、思想でもありません。」何かの法則を知っていても、その法則の元になってる一定の条件下で、その法則を満たす為の何らかの行動が伴わなければ、その法則を法則たらしめることはできないと思うのです。 (一定の条件下に必要な行動があるからこそ、 法則が法則として成り立つのだと思うのです。)何らかの思想を持っていても、その思想を実現させる為の何らかの行動を起こさなければ、その思想は、思い浮かべ、考えただけのものでしかないと思うのです。 (思い浮かべ、考えたことを、行動に起こすからこそ、 その思想が形になっていくのだと思うのです。 行動に起こさなければ、その思想は、頭や心の中にある ただの産物に過ぎないのだと思うのです。)これは法則や思想に留まるものではないと思うのです。想像したもの。。。描いた夢。。。抱いた希望。。。直観や閃き、勘などで浮かんだもの。。。も同じだと思うのです。「想像」「夢」「希望」「直観」を「想像」「夢」「希望」「直観」のままに留め、何らの「行動」も起こさなければ、何も変化しないが故に、何も形として具現化されることも無ければ、新しい経験や体験などの境遇が生まれることもなく、せっかく与えて頂いた「想像」「夢」「希望」「直観」は、宝の持ち腐れになってしまうだけだと思うのです。その反面、「想像」「夢」「希望」「直観」として与えて頂いたものを勇気をもって何らかの「行動」に起こさせて頂くと、それらが形として具現化されたり、新しい境遇として、経験させて頂くことになると思うのです。その具現化されたものや新しい境遇は、「行動」を起こすことによって与えられたもの故に、「価値」あるものだと思うのです。「行動」を起こさせて頂くことは、自分だけの為ではなく、自分の意識や理解を超えたところで、自分を取り巻く方々や環境やまだ出逢いの機会すら頂いていないご縁があるであろう他の方々との関係のある何かを始動させる スイッチのようなものだと思うのです。「言うは易く、行うは難し」と同じで、「想像することは易く、形にする為に行動を起こすことは難し。」「夢を描くことは易く、実現の為に行動を起こすことは難し。」「希望を抱くことは易く、それを叶える為の行動を起こすことは難し。」「直観を感じることは易く、それを行動に起こすことは難し。」だと思うのです。「百聞は一見にしかず」と同じで、「百の想像、夢、希望、直観は一行動にしかず」だと思うのです。だからこそ、「想像」「夢」「希望」「直観」として与えて頂いたものは、「動き」という行動に起こさせて頂きたいものですね。「想像」「夢」「希望」「直観」を「動き(行動)」に起こさせて頂くと、その「動き(行動)」が、心に更なる「想像」「夢」「希望」「直観」を生み、その「想像」「夢」「希望」「直観」が、新たな「動き(行動)」を生む。。。という相乗効果もあると思うのです。どんな些細な「想像」「夢」「希望」「直観」でも、あれこれと考え過ぎずに、失敗を恐れずに、勇気をもってをそれらを具現化、実現、形にする為の何らかの「行動」を起こす。。。その地道でコツコツとしたぶれない姿勢とその積み重ねが、「想像」「夢」「希望」「直観」したものを現実化させるプロセスになり、それらを現実の形あるものにさせるのだと思うのです。ただ、そこに至るまでには、大変な努力と集中力を要することになるのだと思うのです。もし、努力すること、集中すること、探究すること、試行錯誤することが楽しくないのであれば、自ら想像し、自ら描いた夢、自ら抱いた希望、与えて頂いた直観さえも楽しくないということ故に、それらに対する思い入れも浅ければ、それらが現実化することを信じる心も浅いと思うのです。それでは現実化しようがないと思うのです。努力すること、集中すること、探究すること、試行錯誤することが楽しくて仕方がない♪失敗しても、「これは成功のもと♪ また成功に一歩近づいた♪」として、失敗をも楽しませて頂くことができる大きな心、豊かな心、ユーモアをもって、行動に起こさせて頂くことを諦めないからこそ、「想像」「夢」「希望」「直観」が現実化するのだと思うのです。「行動」に起こすことは、それ位に重要なことなのだと思うのです。なぜそれほどまでに「行動」が重要なのか。。。「法則」「思想」「想像」「夢」「希望」「直観」などを「行動」に起こすことができるのは、修行の場である地上だけで出来ることだから。。。なのだと思うのです。それ故に、人生の目的は、「行動」にあるのだと思うのです。「行動」を起こさないということは、人生の目的は果たせない。。。何も進展しない。。。修行にならない。。。法則を満たせない。。。思想を実現できない。。。想像を具現化できない。。。夢や希望を叶えることができない。。。直観を活かすことができない。。。ということだと思うのです。そのようなことにならないように、そして、人生を後悔しない為にも、「行動」を起 こすことを大切にして生かさせて頂きたいものですね。源光「あなたの人生は、あなたの思い描いた通りになるのですが、 行動を伴わない想像力は、何の意味も持たないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201601050000/「人は思い通りの人間になれます。 天はそのように人間を創ったのです。 あなたは、自分をどんな人間だと思っているでしょうか。 今の自分は、あなたの思いの通りの自分ですよ。 自分のことをどのように信じるかで、 自分も人生も変わってきます。 人生を変えるのは自分自身。。 置かれている環境でも人の評価でもありません。」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050002/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201312050003/ 「想像力は万物の母です。 日々、美や正義や幸福や心の平安を想像しましょう。 それらは地球の平和と安らぎに繋がるからです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107280001/「人生とは日々の実験である。 実験を恐れる者に進歩は無い。 天は汝の実験が世の役に立つものであれば 手を貸すであろう。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201180000/「最善のものを求めて、最悪のものに備えるのです。 これが愛と勇気と希望を運んでくる生き方なのです。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201207160000/「人生を劇的に変えるもの、それが勘やひらめき。。 そしてそれを実行する勇気!!です。 勘やひらめきはあっても、実行する勇気が無いから、 失敗もしない代わりに成功もしないわけです。 」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406280001/「良心に照らして、考えること、言うこと、することが調和されるならば、 人生は、思いのままに拓けます。。 拓けないのならば、三点セットのどれかが歪(いびつ)なのですから 修正していきましょう。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404200000/「価値を生み出すものは行動である。 汝はまず動かねばならぬ。」(ビシュヌさん)「事を行なう時に、いつから始めようかなどと考えている時は、 すでに遅れをとっているのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201111070000/「人間のできることは、小さなことかも知れません。 でも、小さな一歩を踏み出さない限り、 次の二歩目、三歩目はなく、大いなる成長も 改革もありえないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201305080000/「知恵と愛という大切な安全ではなく、 安全という錯覚を求めている人がほとんどです。 これでは真の進歩はありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201310090000/「成功して満足するのではない。 満足していたから成功したのである。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201108120000/「大きな事を成し遂げようと思うのならば、 小さなことを偉大なやり方でやり続けることです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401300000/「何かを成し遂げた人に共通する特性があります。 それは、生まれ育ち、頭の善し悪しではなく、 集中力があるかないか。。 集中力散漫な人で、何かを成し遂げた人は皆無です。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401170000/「いくら考えていても思考が堂々巡りするばかり。。 具体的に動けば 具体的な答が出ます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404170000/「その道の先駆者と普通の人を分けるのは、 何かに打ち込んだ量の差に他なりません。 あなたは今も、懸命に真っ直ぐに清らかに、 何かに邁進していますか?」(ラクシュミーさん) 1 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311170000/ 2 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311180000/ 「夢を叶えるためにすることは、 したいけど、できない。を やる!! できるけど、したくない。を する!! この二つだけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401310000/
2016.10.02
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「誰も知らない隠れた高潔な行いこそ、 天から最も評価される行為です。」「地上ではこの人が何をしたかという実績よりも、 どこにいるのかで人が評価されるのですが、 天では、その人が何をしたかという実績で評価して、 その人のポストなどは問題外なのです。」「権威は、そう見えるだけの幻。。。 金も、財産も、名誉も、地位も、肩書きも、 学歴も、名声もこの世に生ある時だけの借り物に過ぎません。 残るのは心と実績。。。 それが最も大切なものです。 神仏も人間だったのです。 ただ精進したのですよ。。。人を越えるまで。。。」陰徳・・・ 人に知られないようにひそかにする善行。 隠れた、よい行い。陽徳・・・ 人に知られるようにあらわに行う徳行。という意だそうです。「私は、世の為、人様の為に良いことをしていますよ。 天の皆さん、地上の皆さん、良く見ておいてくださいね。 ほら、私はとても善い行いをしている良い人でしょう。 これだけ世の為、人様の為にやっているのですから、 私に感謝して下さいね。そして、私にも良くして下さいね。 いざという時、私を助けたり、私の為に何かをして下さいね。」「自分は良い人である」というアピールをしたいが為の行いは、その行いが目的ではなく、アピールという 自分の利得が目的故に、善行ではないと思うのです。「自分は良い人である」ことを周知させたいが為の行いは、その行いが目的ではなく、他者に対し「自分は良い人である」というイメージ付という自分の利得が目的故に、善行ではないと思うのです。「これだけ世の為、人様の為にやっているのですから。。。」は、その行いをしている目的が、何らかの見返りを期待・要求する下心のある恩着せがましく、押し付けがましい自己満足にある行い故に、善行ではないと思うのです。このような「これ見よがし」的な行いは、 自分のアピールや自分の評価の為。。。 見返りが欲しい為。。。という自分のことしか考えていない、自分さえ良ければそれで良い、という利己的な心のあり方から生ま れている自分勝手で我儘な自己満足的な行いだと思うのです。人様に「自分は良い人」であるとアピールする。。。人様に「自分は良い人」であるとイメージ付ける。。。見返りを期待・要求する為に恩の押し売りをする。。。のは、自分の利得の為、自己満足を得る為に、人様を利用した行い故に、人としてあるべき正しい心の道から生じる美しい善行ではなく、むしろ、人の道から外れた悪行でしかないと思うのです。それにもかかわらず、地上という修行の場では、その人に素晴らしい肩書きや地位があったり、知名度の高い有名人や著名人であったりすると、その肩書き、地位、知名度だけで、その人の行いの表面的なところしか見ず、その人の心の本質で ある心を観ようとしないが為に、 「世の為、人の為に、良い行いをする素晴らしい人だ!」などと決めつけ、思い込んでしまう方々が思いの他、多くいらっしゃると思うのです。そういう方々の存在は、 人様に「自分は良い人」であるとアピールする。。。 人様に「自分は良い人」であるとイメージ付ける。。。 見返りを期待・要求する為に恩の押し売りをする。。。ことを目的としている人からすれば、簡単に術中に嵌まってくれる有り難い存在だと思うのです。 (裏を変えさせて頂くと、 そういう方々が沢山いることを見越しているからこそ、 そういう方々の特性を自分に都合の良いように、 上手に利用している、ということだと思うのです。 というこ とは、 上手に利用される側にも問題があると思うのです。 人様の肩書き、地位、知名度だけで、 直ぐに「良い人」と決めつけ、思い込み、 気付かぬ内に術中に嵌まり、利用され、騙されてしまう。。。 それが大きな問題なのだと思うのです。 騙す人と騙される人。。。 各々が各々の修行の為に必要な存在同士だと思うのですが、 騙す人は、 「騙すことは良くないことだ。もう止めよう。」 と改心することなく、人様を騙し続ければ、業を積み続けていることに。。。 騙される人は、 「もう騙されないように、冷静に、客観的になろう!」 と改心しなければ、いつまでも騙され続けるお人好しさんに。。。 なるだけで、修行にならなくなってしまうと思うのです。)その本質が、 人様に「自分は良い人」であるとアピールする。。。 人様に「自分は良い人」であるとイメージ付ける。。。 見返りを期待・要求する為に恩の押し売りをする。。。為の、見せかけばかりの行いであるにもかかわらず、その人の肩書き、地位、知名度だけで、その行いを 「世の為、人の為に、良い行いをする素晴らしい人だ!」と評価されたとしても、それはあくまで、地上的な評価でしかないと思うのです。同じ肩書き、地位、知名度をお持ちの方でも、中には、自分の利得や見返りなどを考えることなく、世の為、人様の為。。。という純粋な心持ちで、決して目立つことのない地味で、地道な行いを人知れずされている方もいると思うのです。その違いは、心ある人としての品性、品格の差なのだと思うのです。「私は、世の為、人様の為に良いことをしています。」などとアピールしたり、印象付けようとしないどころか、むしろ、控えめに。。。目立たないように気を付けている。。。「これだけ世の為、人様の為にやっているのですから、 私に感謝して下さいね。そして、私にも良くして下さいね。 いざという時、私を助けたり、私の為に何かをして下さいね。」などと、感謝を始めとする何らかの見返りを期待・要求しないどころか、むしろ、その行いをさせて頂けることや、その行いをさせて頂く機会を与えて頂いたことに感謝し、 「少しでもお役に立たせて頂けているなら、私も嬉しいです。」 「少しでもお喜び頂ければ、私も嬉しいです。」という、「~をしている」のではなく、「~をさせて頂いている」という謙虚で誠実な生き方。。。それが、品性、品格の差なのだと思うのです。「行い」そのものではなく、「行い」の原動力になっている「心」が美しいか否か。。。地上的肩書き、地位、知名度が高かろうと、地上的高評価が得られるような行いをしようと、地上的影響力が大きかろうと、その人の「心」が美しくなければ評価はしない。。。地上的肩書き、地位、知名度がなかろうと、地上的高評価が得られなかろうと、地上的影響力が何もなかろうと、純粋で「美しい心」から生まれた行いを評価する。。。そういう視点でご覧下さっているのが天だと思うのです。天は、魂の修行をさせて頂いている私たちの、 心の美しさ。。。 直接・間接を問わず、人様のお役に立てたか。。。という本質をご覧になられているのだと思うのです。何でもお見通しの天。。。人様を騙すことはできても、天を騙すことなどできないと思うのです。偽善の善行によって人様を利用し、騙して、地上的利得や高評価を得ても、天は全てをお見通し。。。因果応報の法則で、自らの行いが自らに返ることになるが故に、天は全てをお見通しでも何も手出しはしないと思うのです。自らの行いが人として正しくなかったことに自ら気付き、自ら素直に反省し、自ら正してこそ、心が磨かれるが故に、天は何もせず、ただただお見守り下さるのだと思うのです。そのあり方が、地上で修行をしている人々に対する天の大きな大きな心による無償の愛なのだと思うのです。天は、自らのそのあり方をもって、私たちにご指導下さっている、ということでもあると思うのです。地上の私たちに無償の愛を与え続けて下さっている天のあり方から学ばせて頂く真の善行とは。。。善行を善行足らしめるのは、何らかの見返りを期待する下心を抱くことなく、何が正しいかその全てを知っている良心に従い、人としてあるべき正しい心で生かさせて頂くことにより、ごく自然に、当たり前のようにさせて頂きたくなる心の働きを行動に起こすことだと思うのです。人様に親切にさせて頂く。。。人様が喜び、笑顔になるような言動させて頂く。。。助けを必要としている人様に手を差し伸べる。。。人様を思い遣る心をもって人様と接する。。。などなど。もし、自分が相手の立場になった時、自分がされて嬉しいことを人様にさせて頂く行い。。。自分一人で生かさせて頂いているわけではないからこそ、人様を思い遣る利他心をもってさせて頂く行い。。。生きているのではなく、生かさせて頂いている立場の私たちだからこそ、地球さんや自然を思い遣る心を持ってさせて頂く行い。。。真の善行とは、そういうものなのだと思うのです。天は、人知れず、無償の愛を与え続けて下さっていると思うのです。 (見方を変えさせて頂くと、 天は、人知れず、無償の愛という善行をされることを通じて、 自らを天たらしめ、常に天であり続けている、 ということなのだと思うのです。)その天と同じように、人知れず、世の為、人様の為に、自分にできる何かをさせて頂くことこそ、天が認めて下さる善行であり、地上という修行の場における今生の実績として評価される善行なのだと思うのです。源光「人に知られることなく善行をすることを陰徳と言いますが、 自分でも良いことだと気づかない善行がもっと上の境地です。 自然な笑顔もその一つです。 あなたの喜ぶ姿が私の喜びです。 こういう心が自らの幸せにも繋がっていくわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201609010000/「陰徳あれば必ず陽報あり。。。 人知れずよい行いをする者には、 必ずよい報いがあるということです。 これ見よがしに、奉仕しました!!というのは、 自分を認めて欲しいということですから、 ご褒美が降りてこないのです。 ご褒美なんて思ったこともありません。笑顔で十分です。 奉仕させて頂いて感謝しています。。 こういう人に、よい報いがあるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507300000/「人は心の美しさと、いかに生前、人様のお役に立てたか? で、こちらの住む場所が決まるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210160000/「大切なのは心構えです。心的態度です。 天は、心でどう思ったか、どう考えたかを観ていますから、 偽善や形だけの善行は、ほとんど評価しないのです。 心的態度。。 これが、その人の才能や努力、知識以上に重要な要素です。 心を磨く。。 これが全てに優先するのです。。 幸運の鍵。。 いつでも渡す準備はできています。 あなたの心、純粋な心に期待して、待っています。。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401050000/「人は何を考え行動してもいいのですが、 根底に愛が、流れていなければ、 決して天から、評価されることはないのです。 家族愛が、基礎の基礎ですから家族を泣かせて、社会貢献をしても、 決して自分自身の心が、安らぐことはありません。 族愛そして隣人愛と進むのが愛の道なのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210170000/「こちらの世界では、そちらの世界の名誉や名声は全く通用しません。 偉人伝の中の人物や、立志伝中の人物、 大政治家と言われていた人物の中にも、 暗い世界に還った人もいるのが現実です。 人は心の美しさと、いかに生前、人様のお役に立てたか? で、こちらの住む場所が決まるのです。」 http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201210160000/「人の価値とは、その人が得たものではなく、 その人が与えたもので測られるのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201510260000/「人間は、修行のために異郷に生まれて来たのです。 生きることは心の故郷を異郷に実現させること。 愛の心で生きること。。 いつの日か心の故郷に、果たすべきことを果たして、 喜びを胸に還ることです。」 (ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408120000/「一生を終えて後に残るのは、 あなたが集めたものではなくて、 あなたが与えたものなのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201505190000/「神の前に蓄積されたもの。。。 それが福を招くわけです。 生き様です。物ではありません。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507110000/ 「これを人に与えれば、私は何も食べられない。 このように考える者は、利己で餓鬼に生まれる。 これを私が食べれば、人に何も与えられない。 このように考える者は、利他で神々に生まれる。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201201310000/「他人のための行いにこそ価値があります。 無償の愛。。それが人生の重要な秘訣のひとつです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201406020001/
2016.10.01
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「現在為すべきことを為せばよいのです。 いろいろ考えるとよけいに 事態が悪化することがほとんどです。」「あぁ~。。。何をすればいいんだろう。。。」「〇〇しても上手く行くか分からないし、 〇〇してもどうなるか分からないし、 どうすればいいんだろう。。。」「〇〇して、失敗したらどうしよう。。。 失敗しても困らないように、 必要最低限で取り組もう。。。」などなど。。。まだ何も始まっていないにもかかわらず、まだ何も始めていないにもかかわらず、ああだこうだと後向き・消極的・否定的・悲観的な思考で、取り越し苦労をして、上記のようなことを言葉にしていたら、その思考や言霊が起因になって、何事も上手く行かないようになったり、起こって欲しくないことが起こったり、事態を悪化させてしまいかねないと思うのです。それもこれも、その原因は、自らの思考や言動にあると思うのですが、それに気づいていないからこそ、いつまでも後向き・消極的・否定的・悲観的な思考や弁解をし続けてしまうのだと思うのです。それが嫌なのであれば、起こるかどうかも分からないことをああだこうだと考え過ぎることを止めて、 その時の自分がすべきこと。。。 その時の自分ができること。。。をさせて頂けば良いと思うのです。そのようにさせて頂くことによって、余計なことを考えなくて済むようになるばかりか、ものごとが上手く運ぶようにする為の努力や探究、試行錯誤をすることができるようになり、前向き・積極的・肯定的・楽観的な思考で過ごさせて頂くことができるようになると思うのです。~~~~「あぁ~。。。何をすればいいんだろう。。。」 今の自分にできることは何かを 考えさせて頂けば良いと思うのです。 それが上手く行くとか、 上手く行かないとかは考えず、 その時の自分に出来ること、 その時の自分がすべきことが閃いたら、 それをただひたすら行動に起こしてみれば良いと思うのです。 行動に起こしてみて初めて、 何が足りないのかが分かったり、 思いの他、上手くことが運んで 喜びを感じたりするものだと思うのです。~~~~「〇〇しても上手く行くか分からないし、 〇〇してもどうなるか分からないし、 どうすればいいんだろう。。。」 〇〇が上手く行くかどうか。。。 〇〇をするとどうなるか。。。 そのようなことは、 実際に〇〇を行動に起こしてみなければ、 分かりようがないと思うのです。 ましてや、何も行動に起こしていない時点で、 そのようなことを考えたり、不安、心配を抱くのは、 取り越し苦労に過ぎないと思うのです。 それならば、 「上手く行くかどうか。。。」 「どうなるか。。。」 などのような消極的・否定的思考は止めて、 「上手く行ったらラッキー♪そのまま調子上げて行こう♪」 「〇〇をすると凄く良いかも♪ 良い流れ、良い結果になったら、 もっと良くなるように、〇〇を改善して行こう♪」 という感じで、積極的、肯定的思考で、〇〇を行動に起こし、 挑戦させて頂いた方が良いと思うのです♪ 同じ「〇〇」をさせて頂くのでも、 「〇〇」に対する思いや心のあり方によって、 「〇〇」のことの運び方、流れも大きく変わると思うのです。~~~~「〇〇して、失敗したらどうしよう。。。 失敗しても困らないように、 必要最低限で取り組もう。。。」 失敗したら、なぜ失敗したのかを考え、 失敗の原因が分かったら、それを改善し、 新たに挑戦させて頂けば良いと思うのです。 そのようにさせて頂くからこそ、 「失敗は成功のもと」 「失敗は成功の母」 になるのだと思うのです。 失敗を失敗のまま終わらせてしまうことこそ、 本当に失敗だと思うのです。 まだ何も始まってもいなければ、失敗もしていないのに、 既に失敗しているかのような心持ちで 取り組むからこそ、失敗を引き寄せるのだと思うのです。 更には、失敗することを恐れて、 手を抜いて取り組むなど、 失敗して当然だと思うのです。 〇〇が上手く行くようにしたければ、 自分の持っている力を使い切らせて頂く。。。 ベストを尽くさせて頂く。。。 全力投球で取り組ませて頂く。。。 くらいの気持ちでやらせて頂くことが大切だと思うのです。 裏を返させて頂くと、 自分の持っている力を使い切らずして、 ベストを尽くさずして、 全力投球で取り組まずして、 「上手く行けば良いなぁ~。。。」 「成功させたいなぁ~。。。」 などのように考えているとすれば、 それは「本気」ではない、 ということだと思うのです。 何かをさせて頂くときに、 「本気」で取り組まない。。。 「本気」で取り組めない。。。 だからこそ、その先に進むことができないのだと思うのです。~~~~ 自分の持っている力を使い切らない。。。ベストを尽くさない。。。全力投球で取り組まない。。。こういう姿勢は、 「あの時、ああしておけば良かった。。。」と後悔するものごとの取り組み方と時間の過ごし方だと思うのです。そのようなことにならないように、同じことをさせて頂くのであれば、同じ時間を投じるのであれば、真剣に、真面目に、誠実に、 自分の持っている力を使い切る。。。 ベストを尽くす。。。 全力投球で取り組む。。。という心持ちで過ごさせて頂いた方が、後悔することがなくなるばかりか、「今を生きている」という実感で活き活きと生かさせて頂くことができると思うのです。自分勝手な自分基準のものごとの見方や捉え方で、まだ始まってないことや、まだ見ぬ未来のことについて、ああだこうだと、後向き、否定的、消極的な想念で、わざわざ自ら失敗を招くような思い込みや言動を生み出すよりも、 「今の自分に出来ることはこれだ!! だからこれをする!!」 「今の自分がすべきことはそれだ!! まずはそれをする!!」 「やってみなければわからない!! とりあえずやってみる!!」 「やってダメならまた考えればいい!! まずはやってみる!!」という感じで、前向き、肯定的、積極的な想念と言動を生み出すことで、「今を生きる」ことが大切だと思うのです。「何もしなければ、何も変わらず、何の進歩もない。。。」「停滞と後退こそあっても、失敗や間違いなどの危険を伴うこともない。。。」という自分に対する弁解という名の安全を求めるのか。。。それとも、「自分に出来ることは何でもしてみる。。。」「何かをすることで次にすべきことが見えてくる。。。」「失敗や間違いは、危険なことではない。。。 危険なのは失敗や間違いをしたことで物怖じして、 次に進めなくなること。。。」「停滞や後退に見えることもあるが、 諦めず探求していけば大きな前進。。。」「失敗や間違いは、 同じ失敗や間違いをしないようにする為、 または、新しい発見をさせて頂く為に 与えて頂いた成功のもと。。。」という勇気ある探究心と魂にとって大切な安全を求めるのか。。。どちらを選択するもの私たち一人一人の自由だと思うのですが、私たちは、毎日がぶっつけ本番の人生を過ごさせて頂いていると思うのです。その日にどんなことが起こるのかもわからない、予想だにしないことが起こるかもしれない、ぶっつけ本番の人生。。。その人に勇気があろうとなかろうと関係なく与えて頂いているぶっつけ本番の毎日。。。喜怒哀楽はあれど、ぶっつけ本番の毎日を、当たり前のように過ごさせて頂いている私たちはみんな、自分の人生に対して、勇気ある探究心をもって、生かさせて頂いている、ということでもあると思うのです。それならば、ああだこうだと、あれこれ考えることにばかり時間を費やすのではなく、 「今できることを今する!」 「今すべきことを今する!」という、 「案ずるより産むが易し」の姿勢で「今」を生かさせて頂いた方が良いと思うのです。例え、失敗や間違いを経験させて頂いたとしても、その前向き、肯定的、積極的、楽観的な思考と行動力が、大きな自信の構築や、人生の好転に繋がっていくのだと思うのです。源光「案ずるより生むが易いのです。 やる前からあれこれ心配するより、 思い切ってやってみると、 想像よりも簡単にできるものです。 思い切ってやってみましょう!! 勇気を出して!!」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201506200000/ 「望みなしと思われることもありますが あえて行えば、成ることがあります。 あえて行う!! 活路を拓く時はこれしかないのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201507190000/「将来を思い煩う必要は無い。 現在為すべきことを為せ。 その他は神の考えることゆえに。。」(ビシュヌさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201107220000/「不安や心配事はすべて自分の想像によるものですから、 全てがうまくいっている想像をすればよいのです。 最初は想像がうまくいかない時もあります。 どうしても不安や心配事に縛られて、 不安や心配事が現実になってしまえば、 ただ平常心で対処すればよいのです。(一部抜粋)」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201311030002/「人の不運は、次の二つから成り立っています。 したいけれどできない、できるけれどしたくない。」(女神経典) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201203270000/「自分の持ち場で、自分のやるべきことを、やるべき時に、 キッチリとやっていたら運は逃げないのです。 それをやらないから運やツキが逃げるわけです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201503040000/「今いる場所から始めるのです。 自分の持っているものを全て使って、 できることをするのです。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201407050001/「いくら考えていても思考が堂々巡りするばかり。。 具体的に動けば 具体的な答が出ます。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201404170000/「この道を行けば、どうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 迷わず行けよ、行けば、分かる。」(ビシュヌさんの分霊さん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201202040000/「あれこれと心配して、心労で疲れてしまうより、 覚悟を決めてしまった方が楽になり、 災いを転じて福とする事が可能になります。」(ラクシュミーさん) http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201401160000/「できると思えばできる、 できないと思えばできない。 人生とは、ただそれだけのことです。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201408200000/「信念は人を強くするが、疑いは活力を麻痺させる。 信念は力である。正しく信念を貫くならば岩をも通すであろう。」ビシュヌさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201110090000/「汝は、できる事でもできぬと思えばできぬ。 できぬと見えてもできると信ずるがためにできる。」ビシュヌさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201112200000/「挑戦する前に負けることをイメージするから 必然的に敗退するわけです。。 勝利のイメージを常に心に持っていなければなりません。」ラクシュミーさん http://plaza.rakuten.co.jp/willmyself/diary/201410080000/
2016.09.29
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