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Sep 22, 2007
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カテゴリ: 幸せになろう
>趣旨とずれた質問になってしまうかもしれませんが、

ヒカリズムは、生き方、生全般を取り扱うものです。
生き方の考え方でありノウハウであり、手法であり、哲学です。

ですから、
趣旨とずれるということを気にする必要はありませんし、
ヒカリズムの生き方として、
他者の思惑を必要以上に気にする必要はない、
というのが、ひとつのノウハウとしてありますから、
まったく気にする必要はありません。


答えませんから。(笑)


>>『感情が優先して頭では分かっているのに論理的に行動できない」

>このくだりについては何となく思い当たります。

 この状況は、誰しも思い当たることがあると思うのですが、
それ以上、深く考えることをしていないと思います。

 実は、ここにもう悟りへの入り口があるんですね。
だって、
論理的に考えて、○○した方がいい、ラクだ、幸せだとわかっているのに
逆のこと、別のことを考えたり、したりしないではいられない、
この矛盾した行動が幸せであることを阻んでいるのは、

これを解決したら、苦を超えられて、幸せになるんです。

 しかし、
どつぷりとその共依存的に思考、行動パターンに使っているので、
自分のことが見えないでいるんですね。

正しく見ていない、だから、正しく考えられない、

当然、正しく行動もできません。

 お釈迦さまの時代には心理学などありませんから、
そのメカニズムがわからなかったし、
仮に釈尊自身はわかっても、
その時代の人々の知識では、そのまま伝えることは不可能だったと思われます。

 今の時代にも科学文明の影響を受けずに
電気もない生活をしている人もいると思いますが、
そのような人に携帯電話やパソコンを見せて、
その仕組みを説明しようとしても無理だということが想像できると思います。

 それが今では、
多くの人が基礎知識を持っていて、
しかも、臨床心理学は、
苦の問題を解決できるほどに
心のメカニズムを解読しているのです。

 だからこそ、今はすべての人が悟れる時代なのです。

 また、臨死体験や前世の情報も、
又聞きのうわさの段階から、
今では多くの科学者の手で
数多くの事例が整理され、分析されています。

 その結果、状況証拠として利用して
ひとつの意識、魂の生まれ変わりを信頼できる地盤もできています。

 その意味でも、悟りへの地盤固めができていると言えます。


>>『年下の人は、目上の人に敬語を使わなければならない』

>こういった基準というものの存在の有無は、愛や喜び悲しみのような、その他の感情の存在の有無に通じるのですか?

まず、「こういった基準」の「こういった」といういう分類は、
sachioさん独自の視点(基準)による分類です。

 説明なしでは、私には、どういう基準で分けているかがわかりません。

 もしかすると、「ささいなこと」というような分類ですか?

 いずれにしろ、感情は、考えの偏りによって生じます。
感情法則というものがあって、

 出来事 + 考え(こうあるべき) → 感情

 出来事だけでは、感情は生じません。
その人が、その出来事に対する考えに偏りを持っていて、
初めて感情が生じます。

 たとえば、夫や上司が『自分を尊敬しろ』という自分の考えを
妻や部下に押し付けていたとしたら、
生活や仕事をしている中で、
苦痛に感じることが多々生じると思いませんか?

 その考えを押し付けられる頻度が多くなればなるほど、
生きることに苦を感じることになりますから、
「基準というものの存在の有無」
というより
「基準(こうあるべき)と環境、出来事の関係性」
が重要になってきます。

 つまり、些細な考えでも、
関係性でそれが重要な考えになるとしたら、
その他の感情の存在の有無に通じることになります。

 つまり、論理的には、
すべての考えに対して中立を保てれば(中立の考えになれば)、
まったく感情が生じないことになります。

 しかし、それでは人間として生きている意味がありません。
偏りのレベルを囚われではなく、好みのレベルにすることです。
(前提なく~であるべき、という考えが囚われ)

 ある人が偏った考えを持っていても、
その出来事に一度も出会わなければ、感情的にはまったく問題になりません。

 ですから、
職場の人間関係に疲れた、苦しんだ人が
職場をやめる、
という行動を取るのは、
考えを変えるのではなく、環境、出来事を変えることで
関係性を変えて、苦しい感情の発生を抑えている
ということです。

 しかし、
感情は自分の考えにくっついていますから、
どこかに逃げても追いかけてくるということになります。

 基を断つには、考えを変えることです。


>>感情を感じたときに
>その原因の状態を受け容れられるのなら、好みのレベルです。
>受け容れられないのなら、囚われです。

>これは、ある物事や出来事に対して不快感を感じたのなら、それは共依存が原因である、と言い変えることができるのでしょうか?飛躍し過ぎですか?

広い意味で共依存です。

それは、
思考のメカニズムから考えて、
広い意味の共依存の定義を
ある物事や出来事に対して継続して不快感を感じる状態、
というふうに定義しているということです。

 それによって、同じメカニズムから考え、
同じ対策を使えることになります。

 詳しく説明すると、
不快感を思考で繰り返して、いつまでも不快であり、
日常生活に支障が出るのが狭義の共依存(アダルトチルドレンなど)

不快感を思考で繰り返して、いつまでも不快であるが、
生活上支障がほとんど出ない、一般的な支障の範囲というのが、
広義の共依存(一般的な人の状態)です。

不快感が自然な感情の範囲で数秒で収まるのは、
好みのレベルで、この状態が悟りの状態です。

 この悟りの状態では、
思考を意識的に変えることで、
感情を自在に操れるようになります。

 感情の奴隷の段階を超えて
感情を道具として使える段階となっています。



>実はこのくだりの説明は、私には少し抽象的というか概念的すぎて、また、私自身が自分の感情に対して無頓着でやや不感症気味なところがあるせいか、論理の筋は良く分かるのですが、例え話などが無いせいか想像がしにくく、いわゆる腑に落とすのに若干なんぎをしています。

私は、知識として得たことを
日常生活で実践してみました。
そしてその結果気づいたことをフィードバックして
さらに考えを修正して、生活で実践を繰り返すことで
より正確な考えで効果のあるものを会得して
腑に落としていきました。

 実践してください。
体験なしでは、腑に落とすことはできません。



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最終更新日  Sep 22, 2007 11:47:12 AM
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