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「森の動物 食肉市場へ」というのは、10月29日付の朝日新聞の一面にあった記事のタイトル。これを見たとき、「ブッシュミートのことだな」と思ったのだけれど、案の定でした。記事の舞台は、コンゴ共和国北部のヌアバレ・ヌドキ国立公園を中心として3カ国にまたがる熱帯林とのこと。7月に世界遺産に登録されたとのことだが、この熱帯林に暮らす様々な動物が「食い尽くされつつある」と書かれている。熱帯林の真ん中にある町の中央市場に並ぶブッシュミートは、密猟された動物の肉で違法とのこと。つまり売買目的の狩猟は禁じられているのである。しかるに密猟は後を絶たず、ニシローランドゴリラやマルミミゾウといった絶滅危惧種の肉も並ぶのだそうだ。国連食糧農業機関(FAO)によれば、周辺6カ国で消費されるブッシュミートは人口増に伴い、1990年代の4倍以上の量である年間500万トン(推定)にまで増えているとのこと。ブッシュミートに言及した記事は2面にも続き、「密猟 手当たり次第」「ゾウもチンパンジーも売買」「人口急増で加速」「牛肉はない 鶏肉は高い」「伐採で動物激減」といった見出しが目に入る。密猟は、コンゴ共和国の森林省と国際NGOの野生動物保護協会(WCS)による「エコガード」と呼ばれる自動小銃を所持したパトロール隊によって監視されているそうなのだけれど、密猟の範囲が広いためエコガードのパトロールが追い付いていないという現実があるらしい。さらに、記事はブッシュミートの密輸にも言及している。野生動物には気の毒なことだけれど、野生動物=おカネと考える人はどこの国にも存在している。おびただしい数の野生動物が野生動物=おカネと考える人の犠牲になっている現状は、先だって、米国務長官のヒラリークリントン氏が12月4日を野生動物保護の日と定めたことからも知れるように、世界的に深刻な様相を呈しているのでしょう。日々の生活の中で、ヒト及びヒト以外の動物を苦しめる構造にできるだけ加担してしまわないように心掛けたいものです…
2012.12.17
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先日、久しぶりに自分のこのブログをのぞいてみて、休眠状態の長さに少し驚いたりしている自分を発見したのだけれど月日の経つのは早い。今朝起きて窓を開けると、雪が降っていて、うっすらと積もっている風景が目に入った。天気予報によると、各地に大雪警報や大雪注意報が出されている。大雪と言えば、雪が大量に降り続くと、草などのエサが食べられないため鹿の飢死が目立つ年があるが、そのような年には特に子ジカなどが多く命を落としているようだ。雪で頭数が調節される方が、人の当てにならないであろう推定生息数でもって頭数管理されるよりは、よりいいのでは?と思える(大雪による調整も当てにならないけれど)。大雪が続き、鹿が絶滅危惧種と見なされる位に激減すれば、もはや、今現在、もてはやされている?ジビエ料理の素材に…なんてことは、もってのほかになるでしょうし、一転して鹿は保護対象となり、各地で行われているメス鹿の一斉捕獲などという計画も消滅することでしょう。もっとも、鹿の側にしてみれば、大雪で命を落とすのも、人に殺されるのもまったくもって歓迎すべきことではないはずだけれど、命を落とす際の苦痛の度合いは、前者の方がより少ないと思われる。ところで、わなにかかった鳥獣を銃器やナイフでとどめを刺すことを「止めさし」と言うのだそうで、一瞬で死に至るように行うことが望ましいはずですがジビエ料理の素材にしたい場合はどうするのか?「苦痛の無いように処理」することが求められてはいると思うけれど家畜のように電気ショックで気絶させてから…というような方法はとられていないと思われる。オーストラリア出身の哲学者・倫理学者であるピータ―・シンガーは、自らの著作『動物の解放― ANIMAL LIBERATION』において、『動物の解放』を「人がヒト以外の動物をどのように扱うべきかという問題を考察するために書いた」と述べ、「われわれがしなければならないことは、人間以外の動物をわれわれの道徳的関心のとどく範囲にもってくること…」と述べている。「人間以外の動物をどう扱うべきか」ということについて、一度、じっくり考えてみるのもよろしいのではないでしょうか?
2012.12.10
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「新東名 動物に泣く」という大きな見出しが目に飛び込んできた。開通1カ月山間部造成、サル・タヌキ・シカ出没衝突事故多発、死骸83体大事故引き金も柵で防ぎきれず 渋滞緩和は期待通り写真には「動物注意」という標識記事の最後は、「悩みは他にもある。4月23日には山肌から直径が最大1メートル近い7個の石が転がり落ち、4台がパンクした。」と書かれている。以上、5月12日付の朝日新聞の夕刊の1面の記事なのだけれど、車と野生動物の衝突が相次いでいるのだとか。この記事を読んで前回(2008年の12月!)、以下のように書いたのを思い出しました。「今ある森や林、山などを そのままにしておくという発想があってしかるべきではないかと 思われるのだけれど、久しぶりにデルス・ウザラを見て その思いをいっそう強くしました。」
2012.05.13
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デルス・ウザーラという映画をテレビで見た。一昨日の日曜日だったかな?放映されたのは。土曜日だったかもしれない・・・そう土曜日でした。この映画は好きな映画の一つなので、たまたま新聞を開いていて放映されるのを知った時はウレシイの一言。まあ我が家の小さなテレビで見てもさほど迫力ないけれど、デルス・ウザーラの魅力は感じられるはず。映画を見てて気付いたのだけれどカピタン(隊長)に名前を聞かれた時、デルス・ウザラと返答していたので、本当はウザーラではなくウザラなのでしょう。まあ、日本語としては、ウザーラとした方が語呂がいいと言うか、すんなり頭に入ってくるのだと思われる。さて、この人の物言いは面白い。太陽は「一番えらい人」で、この人が死ぬと皆死ぬことになる。次に偉い人は月であり、火や水や風、森の中に棲む動物もデルス・ウザラにとっては「人」と同列に位置付けられる存在だ。したがって、むやみやたらに森の動物を殺す人は「悪い人」になるのだけれどデルス・ウザラ自身も「わたし悪い人」と自ら述べる場面などもあって、そこに存在する自然が有する調和を乱す他者を批判するだけではなく、山や森の中で暮らす自らの在り様をも常に律しているようだ。また、デルス・ウザラは猟師なので銃を持っているのだけれど森の精霊を畏れる心を持ち、虎を撃つことは森の精霊の怒りをかうことになると考えているような人物で森の中で暮らす彼の世界は「してもいいこと」と「してはいけないこと」が明確になっていてその単純で素朴な世界が私にはとても魅力的に思える。今現代のように、山の神様、森の精霊などどこ吹く風で、山一つなどごっそりと無くしてしまうような状況はデルス・ウザラの世界からしたらとても考えられないことでしょう。そういえば我が家の近くでも小さな山が崩されていっているのだけれど木の切り方もぞんざいで、途中で折れた木が何本かそのままになっていたりしている。ここには、山や森や林に対する畏怖の念がまったく見られないわけだけれど、以前言及した藤田さんのように、木を切る際には「ごめんなさい」という心を持つ人が増えてほしいものだ。と言うか、今ある森や林、山などをそのままにしておくという発想があってしかるべきではないかと思われるのだけれど、久しぶりにデルス・ウザラを見てその思いをいっそう強くしました。
2008.12.09
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ずいぶんとサボってしまいました・・・相変わらず貧乏ヒマなしで忙しくバタバタ暮らしていることもあって気が付いたらもう12月・・・せっかくのブログだし、年が変わる前にすこし書いておこうかなあという気持ちになったのだけれど、久しぶりだし、今日は、私がもっとも楽しんでいる野菜作りのことを書くことに。12月だというのに、今日は、日中とても暑い日でした。と言うか太陽が照りつける畑でイロイロ作業していたため「暑いな」と感じたのかもしれません。今の時期の畑はあれほどたくさんいた生き物がほとんどいなくなってカエルや虫を眺めながら畑仕事をしていた私にとってはサビシイの一言なのだけれど、カエルと言えば、右手が切断され右足にも重傷を負ったあのカエルのことが思い出される・・・原因は草刈機だ。私の畑の際には水路があっていろんな生き物が流れて来る話を以前したけれど、あの日はカエルがアップアップしながら流れて来て、手ですくいあげたら右手がなかったというわけ。その直前水路の上の草を草刈機で刈っている人がいたので逃げる間もなくやられたのでしょう。人間なら重傷だがカエルはケロっとしたふうにも見えて、不自由ながらも普通に動いていたので一週間ばかりプラスチックの容器に入れて置き、その後逃がしてやったのだけれど、私の畑には時々ヘビも顔を出すので、いつまで生き延びたことやら・・・実際、ヘビに片足をくわえられ鳴いていたカエルもいましたし。いずれにせよ、草刈機って人間には便利な代物だけれど、草むらにいる生き物にとっては、あのビュンビュン唸り声をあげて回転している草刈機は恐怖そのものだろうなあ・・・と思える。ところで、今年もイロイロな野菜を作って、まあそれなりに収穫もできてもいるのだけれど、今日はニンジンをたくさん引っこ抜いてきました。あと、小松菜とひの菜も。去年は、時間がなかったため面倒になって、小松菜や春菊の種をパーっとばら撒いてしまったのだけれど見事にできませんでした。やはり、丁寧に蒔いてすこし土をかけておかないとダメみたい。種をまいたり苗を植えた後は水やりも大切なわけだけれど、今ひとつ分からないのが肥料のこと。肥料を与えず、耕やさない農法もあるみたいで、このやり方は虫や草を敵としないのだそうだけれど、生ゴミから堆肥を作る方法も習得したいと思っているので、畑を分けていろいろなやり方を試してみようかなあなんて考えている。。。。。。。。。。。久しぶりに書き込みしたらあららら、日記の下に広告が入るようになっているではありませんか。このブログのタイトルが動物なので、これに関係する広告が入るようです。非表示には出来ないみたいなので、困ったな・・・なんて言うのも無料でブログ利用しているわけだから虫のいい話ですね。さて・・・
2008.12.03
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奈良に住む友人が、奈良県生駒市の街中に設置していた「ペットトイレ」が撤廃されることになったという内容の新聞記事(3月3日の朝日新聞夕刊)を送ってくれた。記事によると、このペットのトイレは犬を散歩させる人のために11年前から設置されていたのだそうだが「税金の使い道としておかしい」という市民の声や財政難等の理由によりこの3月末で全廃することになったのだそうで、市は、「今後は飼主の責任でフンの処理を」と述べているとのこと。ところで、このトイレを設置した理由は、路上に放置されるフンへの苦情が続いたためとのことですが、やはり税金の使い道としてはおかしいと思う。自分で持って帰って処理するのが当然でしょう。いや、本来は自分の敷地内で排泄させてから散歩に出るというのがあるべき姿なのだと思う。(とは言いつつ、我が家もそのようなしつけができていなかったので大きな声では言えないのがホントのところ・・・)我が家の周囲も、数年前までは、田んぼの多いところに散歩に行くともうフンだらけという状況でした。自治会が何度も何度も注意して、最近はかなり改善されたがそれでも、フンの放置ゼロにはなっていない。また、この記事には大阪府の東大阪市はフンの処理は飼主の責任という立場から、持ち帰らない飼主には罰則を設ける条例をつくっていると書かれている。これまでに適用例ないとのことだけれどペットを飼い始めた人の責任を明確にすることは、とても重要なことだと思う。好きで飼い始めたペットの飼主に対して税金を使ってサービスをする必要等まったくないでしょう。とくに、他者に迷惑をかける無責任飼主が少なくない中で飼い始めた者の責任ということを曖昧にしてはいけないと思う。フンの話とは異なるけれど無責任な飼主や無責任な餌やりがいなければ私も猫の多頭数飼育者になることはなかったのだ!とつい言いたくなる。(とは言いつつ自分の意思で飼い始めたのだから全て自己責任ということも理解している。飼わない選択もできたのだから)いずれにせよ、愛犬家や愛猫家の人たちが社会にかけている迷惑行為は「動物愛護」の世界に住む人たちからは、かなりの部分無視されているように思えるのだけれど私の思い違いかしら?
2008.03.05
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昨日、我が家から犬がいなくなった話をしたが、その後、家族の一人がまた犬を飼いたいようなことを口にした。普段から、我が家の犬猫がこの世から消えた際には、「もう動物を飼うのはやめにしようね」と話していたにもかかわらず、ほんの少しだけれど、犬を飼うことに未練があるようだった。犬や猫を飼うという行為は、犬や猫に対してとても罪深いことをしているという考えに数年前から至っている私は、何故そう考えるのかということを常日頃きちんと彼にも説明していて、彼も「ウンウン、仰せのとおり」と答えてくれていたのだけれど、まあ、彼という人間は知り尽くしている・・・いろいろな角度から動物問題を考えているわけではない彼に私と同じ立ち位置に立つことを求めること自体いくら同じ屋根の下に住む家族といえ無理な話でしょう。いずれにせよ、動物を飼うということをとても気軽にあたりまえのように考える部分を有している彼に対しては、救いようのない無邪気さを感じざるを得ない。ところで、もうひとつ正直に言うと、いま我が家にいるたくさんの猫どもの数が一日でも早く減っていくことを私は望んでいる。これらの猫どもも飼いたくて飼ったわけではない。前に書いたように、カワイソウに負けて飼ってしまったのだ。動物を飼うと思うように動けず不自由なことが多い。人間の言葉が分からないことを幸いに、「アンタたち、早くこの世から消えて、私を自由にしてよね!」と彼らに話しかけたりしているのだけれど、あと10年は激減しないだろうなあ・・・
2008.03.04
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先々月のことになるのだけれど我が家の犬がこの世から消えた。彼女は私の目の前で死んでいったのだけれど、私は、この犬の死を淡々と受け止め、最初に飼った猫が死んだ時のように、涙涙の毎日を送ることもなく今に至っている。最初に飼った猫は、私が2階にある寝室に行くとき必ず後からついてきてそばでコロンと横になって寝る猫で、私より先に2階に行くことは決してなかったことを記憶している。そんなこともあって、この猫が死んだ時の私の悲しみはとても大きかったのだ。けれども、今回、淡々と犬の死を受け止めた理由は、たぶん最初に飼った猫がこの世から消えてから、私の目の前で冷たくなっていく数匹の猫の死に接してきたことと私自身が自分の生き方としてペットを飼うという行為を是としなくなっているためだと自己分析している。先日、部屋を片付けていると、この最初に飼った猫と我が家に来たばかりの子犬が映った写真が出てきた。猫より小さい真っ白の子犬も成長するにつれて、茶色っぽい毛色になっていったのだけれど、どちらかと言うとおとなしく、飼いやすい犬だったと思う。手がかからない飼いやすい犬だったけれど、それでも、正直に言うと犬がいなくなってホッとした部分も私の中にある。それは、犬の世話に取られる時間がなくなったということにつきるのだけれど、特に、散歩は大変だった。勝手なもので、十分時間がある時は、犬を連れて自然の中を歩くのは何ら苦にならず家族が行ってくれる朝夕の散歩以外に、あちこち出かけたものだけれど、時々、どうしても朝夕の散歩を私がしなければならない場合など、「飼いたくなかったのに・・・」という思いが湧き出てきたりした。以前言及したように、私自身は犬を飼いたくなかったので、忙しい時や雨の日、仕事がある日などは、犬と一緒に楽しく散歩という気分にはなれず、散歩を義務と感じ負担に思ったこともしばしば。それと、この世から消える前の数ヶ月間は、病気のために獣医に行く回数も増え、そのために時間を取られたし、またかなりの額の検査費や治療費がかかり動物を飼うのは実はとても大変なことなのだということを実感した期間でもあった。我が家の犬は中型犬だったけれど、へたってしまった時など、抱きかかえて移動するのも大変でした。なんだか、人間の側からばかり書いてしまったが、犬の方は、人間に飼われて幸せだったのだろうか?と思う。
2008.03.03
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おととい、前回言及した “OUR DAILY BREAD”というドキュメンタリー映画を知人と見てきた。この映画は、別の友人と来年見に行く約束をしているので年が明けたらまた見に行くつもりでいるのだけれど何と言うか、だいたい『アニマルファクトリー 飼育工場の動物たちの今 』だったかな?という本に書かれていたような映像だろうと想像はしていたものの、あっけにとられるような場面が多々あって今思い出しても、例えば、動物が殺される場面等を見ても「何て、残酷なんだろう」とか「何て可哀想なんだろう」というような感情が湧いてこなかったような気がする。ただ、あの映画にあったようなやり方で生産された食物は絶対に口にしたくないということは、確実に思うし自分が生きていくための食料を他者に依存することは、実は、とても恐ろしいことなのだとも思う。映画を見終わってから、その知人が「もし、自分が食べる物を、全て自分で入手しなければならなかったら、毎日それだけで日が暮れてしまうだろうね」と口にしていたが、まったくもってその通りでしょうね。ところで、映画館でもらったチラシには「学校でも教えてくれない、テレビでも見られない。のぞいてみよう。これが食料生産のグローバル・スタンダード」と書いてあったが、確かに普通のテレビ番組で放映するということはあり得ないでしょう。邦題は、『いのちの食べかた』となっているようですが機会があったら・・・というか機会を作って、ぜひ見に行ってみるといいのではないかと思います。「いのちの食べかた」上映劇場↓http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/main/theater.htm
2007.12.27
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私が動物問題に関心を持っていることを知っているある大学生が家畜がどのようにして食料になるのかを撮った映画の一部分をテレビで見た話をしてくれた。豚が吊るされてブーブー鳴いていたというので意識失ってないの?と聞くと、そうみたいだったという返事が返ってきたのだけれど、気絶させていないのだろうか?どこの国の話?と聞いてみたところどうやらヨーロッパの方らしい。すぐに屠殺されるとしても気絶していない状態で吊るされるのは残酷だ。といっても、自分で見たわけではないのでそれが事実かどうかは分からない。家に帰って、検索してみたらニコラウス・ゲイハルターという人が監督でドイツとオーストリア合作のドキュメンタリー映画とのこと。舞台はヨーロッパでヨーロッパ各地の大規模食料生産工場における食品の生産過程を映し出した内容になっていてどうやら、家畜だけではなく魚や野菜、果物なども扱われているようだ。映画のタイトルはOUR DAILY BREADいくつかのサイトで動画を見ることができたのだけれどうーん、命ある動物がまるでモノだ。ほんの少し、動画を見ただけでも「食べ物にする動物」に対する配慮が決定的に欠けていると思える場面がいくつかあって(生産過程において)気の毒だと思わずにはいられない。すでに、日本でも上映されているようだけれど生き物がどのようにして食べ物になっているのか知っておいても損はないでしょう。
2007.11.27
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ちょっとサボリすぎと言うべきか・・・前回カキコしてから一ヶ月以上も過ぎてしまっている私の畑もサツマイモや落花生、ヤーコン、キクイモ等の収穫を終え、今現在は、大根やひの菜、人参、ししとう、レタスの類などが収穫できるようになっている。サツマイモ畑には、モグラのトンネルがあちこちにあって、かじられたサツマイモも結構あった。この間、溺れていたモグラかもしれないが助けてあげたんだからあまり悪さをしないでよネと願ったところで、後のまつりでしょうね。寒くなったせいか、畑にいた様々な虫も少なくなった。てんとう虫は結構いるのだけれどバッタの類はほとんど姿を消し、カエルもいなくなった。カエルと言えば、一週間ほど前にスコップで穴を掘っていたら、地面から20センチ位の所にいるカエルの姿が目に入った。思わず「キャッ」と言ってしまうほど驚いてしまったが、間一髪と言うべきか、全く傷つけていなかったので、他の場所に同じ位の深さの穴を掘って土をかぶせてやったのだけれど冬眠していたカエルの方も急に明るくなって驚いたことでしょう。それにしても、カエルを真っ二つにはしたくないしなあ・・・かといって、クワやスコップを使わないわけにもいかないしまあ、できるだけやさしく?耕すことにしよう。ところで、畑仕事をしていると頭の中は、とりとめもなくいろんなことを考えているような状態になっているのだけれど、私が関心をもっていることの一つである動物問題について今現在いくつかの県と北海道及び大阪府で策定中の動物愛護管理推進計画(案)って犬猫愛護推進計画(案)ってする方が相応しいんじゃない?などと思っている自分に気付いたりする。と同時に、高島市の市長に倣うわけじゃないけれど本当の動物愛護とは何か?と改めて考えてみたりしている。イヤ、本当の動物愛護なんてものは存在しないでしょう。あるべき動物愛護と言うべきか?イヤ、動物愛護という言葉自体が胡散臭すぎる。ということを前提にすれば、うーんどの計画案も犬猫に対する愛護が際立った成果がお楽しみというとてもよい計画案であるのかもしれない。
2007.11.15
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私の畑・・・なかなかいい感じになってきました。先日、サツマイモを掘ってみたところ、ちゃんとできているじゃない!サツマイモは100本近く苗というかツルを植えたので400位は収穫できるかなと思っていたのだけれど土の中に大きく育ったおイモを見つけた時は感動ものでした。今日は、おとといに続いて畑の周囲にれんげの種を蒔いたのだけれどちゃんと芽が出てくるかなあ?れんげを蒔いてお水をあげていたら近くに住んでいらっしゃるオジサマが話しかけてきた。「何を蒔いたの?」と聞いてきたので「れんげを蒔いたんですけど、れんげって毎年種を蒔かなくてもいいのかしら?」「れんげなんて雑草だからね。あとでやっかいだよ」「あらら、れんげは、お花でしょ。かわいい花が咲くじゃないですか?」などとやり取りしていたら「モグラが流れて来た」とオジサマがおっしゃる。私の畑のワキには水路があって、野菜の水やりにとても重宝しているのだけれど確かにモグラがアップアップしながら流れて来ている。思わず持っていたジョウロで拾いあげようとしてみたがうまくいかない。「そのまま流しておくといいよ」とオジサマがおっしゃるが、それは可哀相というものでしょう。「噛まないかなあ」とつぶやくと「軍手してるから大丈夫でしょ」とおっしゃるのでサッと救い上げて「かわいい!」とはしゃぎながら手のひらに乗る位のモグラをサツマイモ畑に置いてあげたら、しばらく震えながらお腹を後ろ足で掻くような仕草をしてあっという間に土の中にもぐってしまった。オジサマ曰く、「ミミズがたくさんいる所にはモグラもたくさんいるよ。モグラは根っこを切るからね。皆モグラ捕りで捕まえて殺してるよ。」だから、そのまま流してしまえと言ったのだと納得。わざわざモグラを畑に放すなんておバカなオネーサン?だと思っているのでしょうけどそ知らぬ顔して「モグラってミミズを食べるんですか?」と聞くと、「ウン」という返事。常々、ミミズがたくさんいる良い土を作りたいと思っているのだけれどそうなるとモグラもたくさん住み着いてくるのかもしれない。・・・まあイイヤ。どうせ自家消費の野菜作りだし。しかしまあ、この水路いろいろなモノが流れてくる。この間は小さな亀が流れてきた。(泳いできた?)それからヘビも。ヘビは泳いできたと言う方が正確だ。ゆらゆら水面が動くのでギョっとしたらヘビ。向こうの方が驚いて水路から出て逃げて行ったが、わたしが畑を耕す時には、モグラも地中深く逃げて行ってくれるのかしら?
2007.10.06
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どう考えててもおかしいと思えることは世に数多く存在するけれど、行政が犬や猫を飼い始めたものの飼えなくなった人たちや飼うのがイヤになった人たちの受け皿になっているという今現在の状況もおかしなことだ。飼えなくなったのであれ飼うのがイヤになったのであれ、自らの意思でもって飼い始めたのだから譲渡するか殺すかまでをきちんと自分で行なって初めて飼い主責任を果たせたと言えるはずなのでは?世の愛護活動家およびそれに属する人たちは、行政による殺処分には大きな関心を寄せ行政が捕獲したり引き取った犬猫の命を救うことを最重要課題のひとつと位置付けているように見えるけれど、飼い主に対して自分で譲渡するか自分で殺せと言うことの方が重要だと考えることはないのだろうか?少し考えれば分かるはずだと思うのだけれど毎年の犬猫の殺処分数や殺処処分法の如何が第一の問題なのではなく飼い主にとっての終生飼養が完了した時に、他者に頼むではなく自分で譲渡するか自分で殺せと求めない社会がまず問題なのだと思う。これって、小学生でも分かる理屈だと思うのですが・・・また、「動物愛護の世界」には、「一匹でも多くの命を救いたい」とか言うように「命を救う」という表現があふれている。さらには、一匹でも多くの命を救いたいのでご支援よろしくと要望している人々もたくさんいるようだ。けれども、他者のお金や善意をあてにして「命を救っている私を支援してください。」と呼びかける行為もおかしいと思える。その前に、「自分で最後まで責任をもってやんなさい」と飼い主に言うのが筋でしょうに。いずれにせよ、命を救いたい行為も自己責任の範囲内、つまり自分のお金と自分の善意が及ぶ範囲内でやるべきでは?ペットを飼いたい者も、不幸なペットを救いたい者も自らのお金で飼えるか(救えるか)否かがその判断基準でしょう。個人の嗜好の範疇に属するペット飼育がその個人でもって完結するようになれば、「動物愛護の世界」はもっとスッキリとシンプルになると思うし、出てくる「次のかわいそう」、「次のかわいそう」も減少するのでは?また、ついでに言うと例えば、毎年の各自治体による犬猫の殺処分数などの統計を問題にしている団体や個人は多々あるけれども各自治体に寄せられた苦情の統計に言及している団体や個人にはお目にかかったことがない。これなども「おかしい」と思えてなりません。
2007.09.30
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奈良県動物愛護管理推進計画案の『施策6 地域のねこへの対応に関して』という項目で述べられている「地域のねこへの対応」という表現、および「“動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり”の観点から、行政が当該地域住民とどんな協働体制がとれるのか、例えば、モデル地区的な対応をするとか・・・」という表現から考えるに、いわゆる「地域猫」と称される「飼育形態」を施策に取り入れることを視野に入れているようでもあるけれど、その地域の住民が飼い主のいない猫と楽しく暮らせるような状況に至ることを目的にしたいということなのだろうか?でも外飼いである以上、猫の行動範囲を限定することはできないので生活環境上の被害を受けている側の人の被害をゼロにすることはまずできないでしょうね。「地域猫」発祥の地である磯子区における「動物と共生できる街づくり事業」の平成18年度の事業評価シート(自己評価)というのがどこかにUPされていたが↓http://sc0014.city.yokohama.jp/me/isogo/kikakuch/hyouka/18hyouka/18jigyo/18ji-53.pdf適応性 という評価項目の記述は、「猫に関する苦情は増加する傾向にあり、今後も近隣トラブルは絶えないと思われる。区民からは、置き餌による迷惑、ふん尿による汚染、その臭気についての苦情が大部分を占めている。同様の事業で民間等が参入している例はなく適正飼育について区が指導的立場で関与していくことが必要である。」となっている。また、目標達成度 という評価項目の記述は、「磯子区猫の飼育ガイドライン」に基づく適正飼育がなされ、飼養責任の不明確な野良猫の数が減少すること及びガイドラインの周知、浸透により猫の苦情が減少することが目標である。この目標達成に向けて、事業を実施したが、苦情件数は前年度を上回ってしまい、目標水準を下回った。」となっていて、みんなが楽しく暮らせてはいないようです。管理と愛護の両方において中途半端な策である今現在の「地域猫」という形態は、どう考えても普遍的な策にはなり得ないでしょう。思うに、「地域猫」という形態にあくまで固執するのであれば対象ねこ達が自由に歩き回らないようにその地区のねこの住居を確保して、そこで面倒を見るという形にすべきでは?そうすれば、飼い主責任というものを曖昧にすることもないわけで、つまり、「わたしたちは飼っているのではない」と主張する必要もなくなり自らの猫をきちんと室内飼いをしている優良飼い主との整合性も図れるというものでしょう?
2007.09.29
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前々回に少し言及しましたが奈良県は、今後10年間で取り組む課題として7つの項目を挙げていてその6番目は、6)実験動物および産業動物への責任の徹底となっている。その部分の説明は、『家庭での飼養動物とは一線を画し、ひととの関係が明白な「利用」と割り切れるものだけに・・・』というように記述されている。実験動物等への言及部分は、推進計画案全体からすればまあ申し訳程度の比重でしかないと思えるけれども、私などは、家庭での飼養動物だって明白に利用されていると考えているので、用途が実験や食肉等であれば明白な利用と割り切れる・・・という捉え方には賛成できない。自らの家庭で、心の安らぎや潤いを得るために可愛がられる動物である犬猫等を飼っているとして、その動物を自分は利用していると考える人はそう多くないかも知れない。利用とは考えない理由を聞くと「だって、家族同様に可愛がってるんだもの!」という返事が返ってきそうだ。けれど、繁殖に介入され飼い主の管理の下飼い主の都合のよいように飼われるわけだから愛玩利用とかペット利用と捉えるのが正解だと私は思う。個としてのペット動物飼育者たちを拠りどころにして、ペットを「様々に」利用する社会形態というものができあがっているということでしょう。そのできあがった社会からもたらされる理不尽な苦痛や死を受け入れざるを得ない無力なペット動物たちの利益を代弁するためには、自分の立ち位置というものをしっかり認識しておく必要があるでしょうね。
2007.09.15
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昨日のこと、夕方薄暗くなりかけた頃に犬を散歩させていたらあの犬が目に入った。正確にはあの男性とあの犬だ。我が家の犬は中型犬だけれど、その犬はもっと大きい。大型犬と言うのでしょうね。その犬を初めて見かけたのは、去年の冬なのだけれど、飼い主の男性が小走りで散歩させていたっけ。風がびゅうびゅう吹いてとても寒い日だったので早く家に帰りたかったのでしょうね。犬が立ち止まるとぐいぐいリードを引っ張るので犬も落ち着いて歩いていられない。オシッコをさせる時はさすがに待っていたけれど、とにかく急ぎ足そのもの。田畑の周囲を一周駆け足で回って家に帰って行ったので、同じ道を我が家の犬と普通に歩いて何分かかるか計ってみたら6分だったというわけです。歩いて6分だから走ると何分かなあ?初めて見かけた時は、忙しいのかな?と思ったのだけれどその後もたまにその犬と出会った時に観察してると散歩コースはいつも同じで田畑の周囲をサっと一周するだけ。犬が立ち止まると何回かはぐいぐい引っ張っている。その犬がどのような経緯を経て飼われることになったのかとかその男性しか散歩させる人がいないのかなど何も分からないけれど、朝、出会ったことは一度もないので、確かなことは分からないわけだけれど夕方から夜にかけて散歩しているだけのようでもある。それにしても、あの大きな犬がせいぜい10分位しか散歩させてもらえないなんて気の毒な話だと思いつつ夕方、たまにその男性が仕事から帰ってくるのを見かけるので散歩させる人がその男性しかいず仕事で疲れてるのかしらとも思ったりする。いずれにせよ、明らかにメンドーだなあって感じのお散歩風景を見ているとヤレヤレと思わずにはいられない。あと、自転車やバイクで走りながら散歩させている人もいる。こちらは距離や時間は長いのだろうけれど、以前、小型犬が必死で走っている光景を見たことがあります。ほんとヤレヤレですネ。
2007.09.14
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いつだったかかかりつけの獣医が休診の日に他の獣医に行ったことがあるのだけれどその獣医に「お母さん」と言われて戸惑ったことがある。私は連れて行った猫の「お母さん」というわけだ。実際のところは、戸惑ったというようなものではない。どう表現すればよいか適当な言葉が見つからないのだけれどそれは、キショクノワルイ体験だった。たいていの獣医は訪れた動物に対して「この子は・・・」という言い方をする。猫を飼い始めたころは、そう言われることにも馴染めなかったが今は、慣れてしまってそう気にも留めない。しかし、「お母さん」という言われ方に対しては永遠に慣れることはできないだろうと思う。ところで、私にとって飼っている猫や犬は「家族の一員」なのだろうか?私自身そんな風に思っているのだろうか?というより、家族の一員のように扱っているのだろうか?答えは否と言うしかない。申し訳ないけれど、家族と同等の扱いはしていない。家族同様の扱いをしているなんて言ったらウソになる。人々がペットは「家族の一員だ」と表現する時、それは、精神面での捉え方に重きを置いているのでありペットに対する扱い方を指しているのではないでしょう。思うに、もし本当にペットを「家族の一員」として扱う(接する)ことを前提にしてペットを飼おう、イヤ暮らそうと思ったら実際にペットを飼うことはできないと思う。あるいは、一緒に暮らす存在として受け入れられないと思う。奈良県の動物愛護管理推進計画案の6)実験動物および産業動物への責任の徹底という項目のところに「家庭での飼養動物とは一線を画し、ひととの関係が明白な「利用」と割り切れるものだけに・・・」という記述があるが、ペットの飼育もまた動物利用の一形態だと捉える観点が必要ではないかと私は考える。そうすれば、「ペットは家族の一員だ」と言うような思い入れの強さが幾分かは薄まり、人間社会における例えばペットとされている犬や猫という動物の人間社会での在り様が少しはマシになるのではないかと思えるからだ。
2007.09.10
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「ペットは家族の一員だ」とか「ペットは社会(地域)の一員だ」といった物言いがされている。しかし、ペットは家族の一員ではないし地域や社会の一員でもない。何故ならペットは人間ではないからだ。人間の家族や人間の社会の構成員はあくまで人間だ。言葉の使い方として、「ペットは家族の一員だ」とも「ペットは社会の一員だ」とも言えない。もしそのような言い方をしたいのであれば、「ペットは家族の一員のような存在だ」とか「ペットは社会あるいは地域の一員のような存在だ」といった類の言い方をする必要があるでしょう。もっとも、後者はかなり無理があると考えられる。ペットは、基本的に個人が所有し飼育するものであるから、社会の構成員である個人(=人間)に属するものと言える。従って、「ペットは、社会の一員のような存在だ」としても少なからずおかしいと私などは感じてしまう。ところで、文部科学省は2007年度の高校1年生の教科書検定で「ペットを家族の一員と考える人もいる」という文は間違いで、「家族の一員のように親密に思っている人もいる」が正しいとしたとのことである。その理由は、動物は家族ではないからということである。(季刊 『東北学』 第9号150頁にこの記述がある)これに関しては、私の友人が文部科学省に直接電話をして確認を取っているのだけれど、個々の人が自らの飼い犬や飼い猫を「この犬(あるいは猫)は、家族の一員なんです」という言い方をするような場合は自らのペットに対する思い入れの強さを込めて個人的にそのような用法を用いているということでまだ許容されるかな?とも思える。けれども、例えば行政の職員が公の文書で「ペットは家族の一員です」とか「ペットは社会(地域)の一員です」などと記述しているのを見ると正確な言葉の使い方とは言えないこともさることながら、ペットの地位を引き上げてそこまで擬人化させる必要があるのかしら?と疑問に思えてしまう。
2007.09.09
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行政のHPを読んでいると「???」と感じさせられる表現によく遭遇する。動物を飼うことを盲目的に肯定している人や、自らの生活の中で、犬や猫の存在が大きい人の場合、下記のような記述もすんなりと頭に入っていくのだろうか?奈良県は。いち早く動物愛護管理推進計画を策定した東京都を参考に自県の計画案を作成したものと思われるけれど、まあ国の基本指針が基でしょうしネ。いずれにせよ、活字になったもの、外から自分の頭に入ってきた情報は、「ホントにそうかな?」と疑ってかかる姿勢を持つことも重要ではないかしらと思う。それは、動物が飼われる社会で生じる利益(金銭的なものだけではない)から離れているためでもあり、またそのような構図を構成している要素のほんの一部にでも加わらないためでもある。↓奈良県動物愛護管理推進計画案「近年、わが国では、核家族化や世帯の高齢化が進行しており、現代生活特有のストレスなどもあって、人は、心の安らぎや潤いを「動物」に求める傾向を強めております。特に、犬とねこは飼養動物の中でも圧倒的に数が多く、「飼う」のではなく「一緒に暮らす」「共に生きる」という感覚で、人の心の中での位置付けが高まっている様子がうかがえます。」「・・・動物も社会の一員であることを自覚し、周辺住民の方々に迷惑をかけないという・・・」4月に策定された東京都動物愛護管理推進計画「少子高齢化、核家族化が進行する中で、ペットショップ等の動物取扱業の増加や多数の動物の飼養に見られるように、都民の動物飼養への志向は高まっています。動物は単なる愛玩の対象から「家族の一員」あるいは「人生のパートナー」とみなされ飼い主と動物は深い関わりを持つようになってきました。環境省 動物の愛護及び管理に関する施策を総合的に推進するための基本的な指針「生命尊重、友愛等の情操の涵養の観点から、特に子どもが心豊かに育つ上で、近年、動物との触れ合いや家庭動物等の適正な飼養の経験が重要であることが指摘されてきている。」「国民の3分の1が動物を飼養しており(平成15年現在)、また、近年の少子高齢化等を背景とし、家庭動物等の飼養に対する志向が高まっている。」
2007.09.08
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奈良県は、「動物と楽しく暮らせるみんなの街」という文言を愛護週間における愛護フェスティバルのテーマというような形で10年来使い続けてきたのだそうだけれど、10年を経ても、県民と動物が楽しく暮らせる状態にはなっていないようだ。思うに、法律を所管する行政が今後、10年間に及ぶ動物愛護管理推進計画を策定するにあたってのメインテーマとして「動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり」という感覚的な文言を使うことに加えて、「楽しい」という表現を使うこと自体にある種の幼稚っぽさを私は感じてしまう。県民すなわち動物を飼っている人も飼っていない人も含めて動物(をペットと限ったとしても)と「楽しく暮らせる社会」というものがそもそも存在し得るのかしら?と疑問に思うし、奈良県自身もおっしゃっているように、「動物と楽しく暮らす」という文言の対象にならない動物もまた数多く存在している。だとすれば、人間の占有ないしは所有下にあるすべての動物を対象にしたテーマを設定して推進計画を策定するというのが本来あるべき姿でしょう。(テーマを設定したいのであれば)いずれにせよ、「(県民が)動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり」 という文言から私たちが理解するであろう事柄は、動物の愛護管理推進計画という計画において視野に入れるべき事柄と重なり合わない部分が生じるであろうことは想像に難くない。10年間使ってきた文言として愛着があるのかもしれないけれど奈良県サンには日本語の使い方についてもうすこしじっくり考えていただきたいものです。
2007.09.07
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前回言及した奈良県動物愛護管理推進計画案とは今現在奈良県で実施されているパブリックコメントなのであるけれど(9月14日まで)「動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり」という文言について、「動物と楽しく暮らせる」の主語は何か?ここにおける「動物」とはどんな動物なのか?自分で勝手に考えていても埒が明かないので、直接奈良県に電話をして聞いてみたところ「動物と楽しく暮らせる」の主語は県民とのことで県民と動物が共生できる状態を想定しているとのこと。県民と動物がよい状態で楽しく暮らせること、共生できている状態を「楽しく暮らせる」と言う表現で表しているとのことでした。つまり、動物に関連することで他人に迷惑をかけたり、あるいはかけられたりしない状態を指しているとのこと。奈良県にお住まいの方で、動物問題に関心のある方ならなじみがあるのかもしれないけれど「動物と楽しく暮らせるみんなの街」という文言は平成9年から愛護週間の動物フェスティバルなどにおいて用いてきている表現で、今回、奈良県動物愛護管理推進計画を策定するにあたって「・・・づくり」と「づくり」を付け加えたのだそうです。また、「動物と楽しく暮らせる」における「動物」とはどんな動物なのかをお聞きしてみたところ愛玩動物に主眼をおいているが法律で愛護動物とされている動物とのことでした。実験動物や産業動物等においては「楽しく暮らす」という表現は当てはまらないけれど、実験動物に関しては減らしていく、産業動物に関してはイヤがることをしないとか、そういうことを含めているつもりなのだということでした。ところで、「動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり」という文言になぜ私がこだわるかというとこれが奈良県動物愛護管理推進計画を策定するにあたってのメインテーマにされているからなのだけれど、このような、なんとなく理解できるかのような曖昧な表現を用いてよしとすることには疑問を感じざるを得ない。さらに言えば、本来表裏一体であるべき動物に対する愛護と管理において、そのバランスが崩れている今現在の様相を如実に反映していると思えるからなのです。
2007.09.06
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風が強くなり始めた午後のこと2階の廊下の窓からふと外を見ると、一匹の茶色い犬が目に入った。田んぼのあぜ道を歩きながら、脇を流れている水路から何かをくわえてまた歩き出した。明らかに子どもを産んでいる犬だとわかる。その犬を見ながら数日前に犬の散歩中に出会ったOさんのことを思い出した。Oさんも犬の散歩に来ていたのだけれど、このOさん宅には捨て犬が住み着いているのだ。その話を聞いたのは、1年位前だったかな?このOさん、捨て犬に餌をあげていたのだけれど、周囲から苦情が来るのと、他所で子どもを産むため「餌をあげてはいけないと分かった。保健所に捕獲してもらうことに決めた」と仰っていたのだけれど、Oさん以外にも餌を与えている人がいて、結局捕獲檻には入らなかったそうで、そのままOさん宅の物置で寝泊りしているのだそう。そして、今現在もどこかで産んでいるとのことだったので、その犬かな?と思ったわけです。Oさんが仰るには、年に2回産むそうで、去年初めてOさん宅にいる捨て犬のことを聞いた時は、それまでに産まれた子犬を全部譲渡したという話と産まれたばかりの子犬を全部保健所に持っていってもらったという話だった。思うに、その時々で譲渡したり、保健所に持っていってもらっているようだ。数日前に話した時は、前回産んだ時は子犬を連れて来たそうで、その時も保健所に檻をおいてもらったとのこと。その時の子犬は気性の荒い子犬は檻で捕まえ、性格のいい子犬は譲渡したのだそう。そのような話を聞いていて、最初から餌を与えたりせずに保健所に捕獲依頼をすればよかったのにと私は思う。あるいは、今となっては庭にいることを容認しているのだから何とか工夫して捕まえ、きちんと飼えばいいのにと思う。Oさんは、母犬の方は捕まらないし、すでに一匹飼っているので、これ以上飼えないとおっしゃるのだけれど、人間側が自らが飼えるか否かで判断していかないと、結局犠牲になる数も増えてしまうという悪しき例だと思う。
2007.09.05
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奈良県動物愛護管理推進計画案を読むと最初からつまづいてしまうのだけれど、というのも「動物と楽しく暮らせるみんなの街づくり」という標語にひっかかってしまうのです。日本語としてすんなり頭に入ってこないのは私の脳レベルが低いせいかもしれないけれど、「動物と楽しく暮らせる」っていったい何を意味しているのでしょう?ここにおける「○○と暮らす」という表現から産業動物や展示動物、実験動物等を指しているとは考えられないのでこれはペットを指しているものと考えられる。さらに言えば、計画案の1推進計画策定の理由と背景 に「近年、わが国では、核家族化や世帯の高齢化が進行しており、現代生活特有のストレスなどもあって、人は、心の安らぎや潤いを「動物」に求める傾向を強めております。特に、犬とねこは飼養動物の中でも圧倒的に数が多く、「飼う」のではなく「一緒に暮らす」「共に生きる」という感覚で、人の心の中での位置付けが高まっている様子がうかがえます。」(↑ うーん、このような陳腐な物言いはもういいかげんにしてほしい。)と書かれていることからも、犬と猫を重点的に指していると考えて間違いないでしょう。だけれども、犬や猫を飼うという行為は個人の嗜好の範疇に入るものであり、犬や猫を飼って(暮らして)楽しいと思う主体は、あくまで犬やねこを飼う選択をした個人のはずだ。従って、「動物と楽しく暮らせる」という表現の対象となるのは動物(ここでは犬や猫)を飼う選択をした個人であり、犬や猫を飼おうと思わない人たち、飼っていない人たちは対象外になる。なのに、「みんなの街づくり」などという表現を「動物と楽しく暮らせる」の後に続けているので、スッキリしないのだ。世の中はペットを飼う人と飼わない人で成り立っているがペットを飼っていない人の数の方が多いのではなかったかしら?推進計画策定の理由と背景 に書かれている「人は、心の安らぎや潤いを「動物」に求める傾向を強めております。」という部分の「人は」というところは、例えば「犬やねこが好きな人は」とか「犬やねこを飼いたい人は」にして、「動物」というところを「犬やねこ」にしないとおかしいでしょう。心の安らぎや潤いを「動物」に求める傾向が強まっているというのが果たして事実なのか、その根拠は定かではないけれど、その主語を「人」にするのはまったくもって妥当ではないでしょう。我が家にも犬と猫がいるけれど、心の安らぎや潤いを奴らに求めてなんぞいないけどなあ・・・
2007.09.04
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以前、畑を借りて野菜作りを始めた話を書いたが、最初にサツマイモを植えてからちょうど4ヶ月、私の野菜作り・・・結構うまくいってるじゃない!とひとりで自己満足に浸っている。わたしの畑は、どちらかと言うと草だらけで虫や蛙の天国のような様相だけれど、虫で全滅した野菜はまったくない。5月に畑を借りて、種を蒔いたり苗を植えた野菜や花は、前述したサツマイモに加えてバジル、シソ、トマト、ナス、ラディッシュ、落花生、きゅうり、ウコン、とうもろこし、つるむらさき、オクラ、モロヘイヤ、ねぎ、ひまわり、ナスタチューム、レモングラス、アーティチョーク、オレガノ、ペパーミント、レモンバーム、コリアンダー、ニラ、四角マメ、インゲン、アロエベラ、キャベツ、ケール、ヒユナ、生姜、サトイモ、ピーマン、ししとう、鷹の爪、ヤーコン、人参、サラダ菜、レタス、マーシュ、スイカ、アスパラガス等等。このうち、サラダ菜、レタスの類とマーシュはまだ種を蒔いたばかりだけれど失敗した野菜はラディッシュとスイカのみで、収穫期に達した野菜は十分収穫できたし、今現在も畑に行くと何がしかの野菜が収穫できる。スイカは草に埋もれてしまったので、日光も必要だろうと草を刈っていたらスイカのツルまで切ってしまった。(スイカさんごめんなさい)これから秋に向かって、作りたい野菜がたくさんあるので結構広い畑ではあるのだけれどスペースが足りなさそうなのが少々残念。ところで、この畑は田舎と言っていい地域にあるのだけれど畑へと車を走らせていると車にはねられて死んでいる野生動物によく出くわす。この間はシカが死んでいた。その他にも、狸や名前の分からない野生動物がしょっちゅうはねられて死んでいるし、車の直前を横切ったりするので特に薄暗くなってからはスピードを出さないようにしなきゃと思うことしばし・・・あっそうだ、横切ると言えば昨日はサルが横切りました。20メートルばかり前を猫が横切ったと一瞬思ったのだけれど続いてもう一匹出て来たのでサルだと分かった次第。出てきた場所をチラっと見てみると木の上に一匹のサルの姿が目に入った。通り過ぎて、バックミラーで見てみると次から次へと出てきて山に入って行くではないか。私が通り過ぎてから5匹くらい道路を渡って行ったのだけれど奴らはやはり脳レベルが高いのでしょう。車が通り過ぎるのを待って上手に渡っているようだ。数百メートル車を走らせて、地元の野菜を売っている店に入って顔なじみのオジサンにサルの話をしたら「サルはいっぱいいる。昨日も家の周囲で追い払ったよ」という返事。その地域の人によれば、サルはとにかく厄介者でしかないようだ。今現在、環境省が実施しているパブリックコメントの話をしたら、(野生鳥獣による被害を防ぐための追い払いに犬を使う→けい留の義務をはずす、)即、「野犬化したらどーするの?」という返事が返ってきた。この方実は猟師さんでもありいろいろ地域の野生動物の話をしてくれるのだけれど、その話はまた後日に・・・
2007.09.03
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「犬のいない生活は考えられない」とか「猫のいない生活は考えられない」とおっしゃる人たちがいる。あるいは、「犬が大好き」「猫が大好き」とおっしゃる人たちがいる。こういう人たちは、犬や猫を飼わずにはいられない人たちのようだけれど、この人たちに加えて、さほど深く考えずに犬や猫などのペットを飼い始める人たちもいる。私自身についていうと、飼いたいと思った動物は常に犬ではなく猫だったので猫大好き人間と言えるでしょう。というか猫大好き人間であったと言うべきかもしれない。今現在は、いかなる動物も飼うつもりはないので、たくさんの猫が我が家にいるけれども「猫が好き」というような感情にのめりこむことはない。さて、前回の続きとして、外に出たがるゲジコの話をすると、外に出たいのに人間の家の中に閉じ込められて暮らさざるを得ないゲジコは気の毒だ。太陽の下や土の上を歩けず、木や草などの自然の事物に触れることもできない生活を余儀なくされているのだから。もちろん、ゲジコ以外の他の猫たちも同様の理由で可哀相だと思う。人間側は「猫は室内飼いにしましょう」と口すっぱく述べているけれど、家の中で猫を飼っている良心的な飼い主のもと、その家の中を人間同様に自由に行き来させてもらったとしても(おそらくそのような猫は少ないでしょう。我が家でもある程度制限している)所詮猫たちの居場所は閉じられた空間だ。おまけに、「繁殖制限手術をしましょう」などということも人間側はあたりまえのように推奨しているのだから猫たちにとっては迷惑どころの話ではないでしょう。飼わないという選択肢もあるではないですか?「犬や猫のいない生活は考えられない」、「犬や猫が大好き」というような思いを持つ人間は少なければ少ないほどよいと思う。犬や猫を飼おうなどと思わない人、犬や猫に対して好きだの嫌いだのという思いを持たない人が多ければ多いほど、犬や猫に理不尽な苦痛や死がもたらされるケースも減少するでしょう。人々が犬や猫を飼うという状況があれば、必然的に、飼育不可能になったり彼らに対する遺棄や虐待という事態も生じてくると言える。人々が車に乗る状況があれば交通ルールの違反者や事故が起こるのと同様だ。犬や猫にもたらされる理不尽な苦痛や死は、飼わないという選択肢があるにもかかわらず犬や猫を飼う人たち、犬や猫を飼うことをあたりまえのように肯定している人たちから生み出されているということは自明の理なのですから、特にかわいそうな犬猫に関心のある人は、動物を飼わない側に身を置くということについてもっと考えてみてもいいのではないかしら?「猫は室内飼育しましょう」とか「繁殖制限手術をしましょう」と社会に呼びかける行政や愛護団体より、動物を飼っていない人たちの何と聡明なことか・・・
2007.08.25
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昨夜の9時半頃のこと。玄関のチャイムがなったので「こんな時間に誰かしら?」と思いながら受話器を取ると「隣の○○です。」と言う声。その瞬間「あっゲジコだ」と思う私。ゲジコとは我が家のサビ猫。夕方、台所の出窓の網戸を開けて脱走した猫だ。案の定、「ゲジコが遊びに来てくれたので連れてきました」とお隣さんがおっしゃって下さる。玄関に出ると、ちゃっかりゲジコがお隣さんに抱かれている。「ごめんなさい、夕方出られちゃったの」とゲジコを受け取って家の中に入れ、少しお隣さんと立ち話。「いやあ、ほんとにウチの猫とよく似ていますね。さっき、僕の後をついてくるので、ちょっと遊ばせてもらったんですよ。」「あら、そうなんですか。」お隣もサビ猫を一匹飼っているのだけれど、ゲジコが外に出ようとする猫であることは、お隣さんも知っている。「お宅は、大丈夫?出られたりしません?」と聞くと、「いやあ、この間出られちゃったんだけど、餌で誘って捕まえました」という答え。お隣の猫は、少し人見知りする猫で私が触ることはできないので、もし、我が家に来たとしても今回のように捕まえて連れていくということはできないだろう。ゲジコは数年前に我が家周辺に姿を見せた元野良猫で、触ることはできなかったが人間を見るとニャアニャアうるさい位に鳴く猫だった。今現在我が家にいる10数匹の猫の中で、この猫だけがしつこく脱走したがるのだけれど、外に出ても周辺地理を知ってるせいか迷子になることはない。厄介なのは、ゲジコに続いて他の猫も出て行った時だ。そういうことが今までに1,2回あるのだけれど、猫というのは、長く室内飼いをしていると外に出てもすぐには遠くに行かない。とは言っても、庭でどうしたものか迷って辺りを窺っている間に捕まえないと敷地内から出て行く可能性はおおいにある。ところで、もちろんのことながら実際は、我が家の網戸は猫が開けられなくしてあるのだけれど、時として、その工夫が効力を失った状態になってしまいめったにないのだけれど、今回のように出られてしまうことになる。また、我が家の場合、猫が網戸を開けないようにしているので人間も網戸を開けることができない。開けたい場合は、一度外に出なければならず、少なからず不便だ。窓も網戸も人間が自由に開け閉めでき(引き戸の場合)、かつ猫には開けられないという良い工夫があれば、ぜひ教えてほしいナと切実に思っているのだけれど、ゲジコは雨戸を開ける時にも、隙あらばと狙ってくる。ゲジコのように外に出たがる性格の猫でなくても人間がうっかりして、出られてしまうということは結構あり得ることだと思う。猫は室内飼いが推奨されるわけだが、完璧に室内飼いにするというのは、実はかなり神経を使うことだと思える。
2007.07.27
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「捕獲された動物達の「命」を無駄にしない為にも有効活用することが、現在、全国的な課題となっております。」という点に関してもう少し考えてみたい。例えば、捕獲した個体を山に埋めれば(=人間が利用しなければ)、「命を無駄にしたことになる」と言うのであれば、一体誰にとって「無駄になる」のだろうか?「無駄になる」と言うためには、シンポの案内文にあるように、「無駄になる」と言いたい側に「(シカやイノシシは)本来利用されるべきものである」あるいは「利用したい」という前提が必要でしょう。しかし、農林業に対する被害の存在およびシカやイノシシそのものが増えすぎているという事実の発生が前提となる有効利用であるなら、その前提条件そのものに可変の要素が含まれるため、「本来であれば」利用されるべきものであるとは言えないのでは?基本として、野生のものは野生のままに存在することが尊重されなければならないと思う。増えすぎて農林業等に被害を及ぼす動物を利用するにしても、それは一時的あるいは限定的な利用と位置付けられるべきで、「利用させていただく」という位の謙虚さを持ち、対象動物が激減すれば利用を停止するといった姿勢が必要なのではないかしら?「野生のシカ肉やイノシシ肉は家畜の肉に比べ、高タンパク、低脂肪でしかも脂肪酸の組成が魚に近く、特にシカ肉は鉄分豊富で栄養学的にも優れている」ので「本来であれば利用されるべきものである。」という姿勢からは、「有効利用」の「有効」を取り除いた利用形態をも視野に入れていくのではないか?と容易に考えられそうだけれど、つまり、安定的供給を確保するためにシカの飼育場やシカ牧場を作ろうというような方向にも進むとしたら、それは紛れもなく人間の傲慢というものだろう。捕獲したシカやイノシシの肉を食べてやり、皮や角など余すところなく利用してやれば、シカの命を無駄にすることにはならない・・・というような考え、「本来であれば利用すべきものである」という考え方は、人間中心主義の最たるものだと思えるけれど、野生で生きている状態から「栄養学的に優れている肉」にするまでの過程というものもあるわけで、「生息数の把握がきちんとできているのか?」とか「充実した被害対策が行なわれているのか?」あるいは「被害の実態が正確に把握されているのか?」等等について関心を持っていくべきでしょう。さらに、肉にするシカがどのように捕獲され、どのように処理施設に運ばれ、致死処分はどのように行なわれるのか?などについても関心を持っていくことが重要でしょう。ところで、シカやイノシシを資源として捉え、その肉を「食べましょう!」と言う前に、いや平行してでもよいけれど・・・被害対策の一環として「もっと国産の木材を使いましょう!」というようなことも言うべきではないのかしらね?膨大な面積を占める杉やヒノキの人工林を野生の鳥獣が住める森に戻すためには、まず、杉やヒノキが売れなくてはならないでしょう。家を建てる時、リフォームする時、家具を買う時、フェンスを作る時などなど安い外材ではなく国産の木材を使うという意識も重要だと思う。もちろん、売れるから再び杉やヒノキのみを植えようと考えてもらったら困るわけだけれど。
2007.07.24
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「この数週間、自然の破壊力の前で、人類は己の傲慢さを思い知りました。我々は、地球の資源は今まで通り使い続けていいのだと考えていました。間違っていました。私も含めて」(The past few weeks have left us all with a profound sense of humility in the face of nature’s destructive power. For years, we operated under the belief that we could continue consuming our planet’s natural resources without consequence. We were wrong. I was wrong.)THE DAY AFTER TOMORROWという映画を見ていたら、アメリカ大統領が上記のようなセリフを述べる場面があったのだけれど、このセリフを聞きながら、野生動物の有効利用ということについて考えた。北海道ではエゾシカの有効利用、それ以外の所では、ニホンジカの有効利用が進められ(ようとし)ているが、いずれもその前提は、農林業への深刻な被害とのことである。有害駆除や狩猟で捕獲した個体を自家消費ないしはそれに類する消費規模であったものから産業として流通経路を整備し、肉や皮などの販売拡大を図っていこうということのようだけれど、販売対象として捉えられたエゾシカ及びニホンジカは、ここにおいては害獣というより資源という位置付けになっている。駆除対象の動物を資源と位置付けるのであれば、その時から彼らに対する「命あるもの」という捉え方は必然的に希薄になるか消滅するものと考えられ、彼らは利用すべきモノになっていると言える。何故このようなことを書くかというと、7月に神戸で行なわれた「シカとイノシシの有効利用」と題したシンポ(主催 兵庫県森林動物研究センター / NPO法人 Knots)の案内の内容が気になって仕方がないからなのだけれど、そこには以下のように書かれている。 『かつては、シカもイノシシも日本人にとっては大変貴重なタンパク源であり、毛皮や角なども余すことなく利用されていました。しかしライフスタイルの変化によって、最近ではあまり活用されることもなくなりました。その結果、現在森林や農作物を荒らす害獣として、各地で捕獲が行われています。そして、捕獲された動物は殆どが廃棄物として処理されています。 野生のシカ肉やイノシシ肉は家畜の肉に比べ、高タンパク、低脂肪でしかも脂肪酸の組成が魚に近く、特にシカ肉は鉄分豊富で栄養学的にも優れていて本来であれば利用されるべきものです。 捕獲された動物達の「命」を無駄にしない為にも有効活用することが、現在、全国的な課題となっております。そこで、研究報告と共に現在取り組まれている事例をご報告頂き、有効活用について考える機会としたいと思います。』気になる部分はいくつかあるのだけれど、特に『捕獲された動物達の「命」を無駄にしない為にも有効活用することが・・・』の件が気になる・・・増えすぎた野生動物、甚大な被害をもたらす野生動物の個体数調整は必要だし有効利用というのも「あり」なのだろうとは思えるけれど、前述したように、資源と位置付けられた瞬間から、その対象動物は「命あるもの」としてその生命維持が尊重される対象ではなくなっているのだから利用することで利益を得たい側が「命を無駄にしないために・・・」と言うような美辞麗句でもってシカ肉の需要を拡大しようというのには少なからず?と思えてしまうわけです。
2007.07.19
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2ヶ月ほど前から念願の野菜作りを始めることができ野菜畑というより草畑という方が当たっている状況なのだけれど週に2,3日の畑仕事がとても楽しい。ただ、この畑に行く途中に、牛の飼育場がいくつかあって中には、日光が入らないような暗い牛舎などもあり目にする度にこちらの気持ちも暗くなってしまいます・・・草食動物である牛は一日草を食んで生きる動物であり家族や仲間との絆も強くお互いにふれあうことで安心するのだそう。なので、一頭一頭区切られた区画に入れられている牛たちを見ると牛が牛らしく過ごせるような環境を少しでも整えてあげて欲しいと思わずにはいられない。でも、そんなことをしていたら到底採算が合わないのでしょうね。あるいは、つながれて飼われている犬と同様飼い主の側に動物の気持ちにまで配慮するだけの心が育まれていないというのが正解かも?(消費者にも)ところで、この畑は借りたものなのだけれどかなり広く100坪近くはあるので、かなりの種類の野菜を作ることができる。もちろん、完全無農薬、無化学肥料で牛糞、豚糞、鶏糞、馬糞の類は一切使っていないが(申し訳なくて使えない)、結構草と共に育っています。また、てんとう虫などいろいろな虫がいるのだけれど、勉強不足で、どれが「益虫」でどれが「害虫」かもよく分からない。野菜を食べている虫は、最初は放り投げたり水の中に落としたりしていたのだけれど、石でひとおもいに叩き潰す方法が最善だと今は思う。いずれにせよ、畑を借りている間はずっと畑に行く楽しみと畑に行く度湧いてくる暗い気持ちと付き合っていく必要がありそう・・・
2007.06.30
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「保健所の犬猫、全部私たちに下さい!」とある動物愛護団体の代表さんが強い調子でおっしゃったことがありました。もう6,7年も前のことだけれど、行政も参加した動物関係のシンポか何かの質疑応答の時だったと思う。もちろん「それじゃどうぞ、皆差し上げます」と行政が言うわけないのだけれども、今でもこの時のことを思い出すと、「保健所に来た犬猫を全部この代表さんにあげればよかったのに」なんて思ったりする。もし、保健所に引き取られた犬猫を本当に貰い受けることが可能になったら、この代表さんすぐに「もう結構です」と言うのは目に見えている。一個人や一団体の手におえる数でないのは火を見るより明らかではないか。いったい、何を目的として上記の発言を行なったのかしら?と考えてみるのだけれど、うーん、何を目的としていたのかまったく分からない。「愛護活動」をしていらっしゃる方々は、よく「一匹でも多くの命を助けてあげたい」とおっしゃるけれどそのような気持ちが代表さんの発言となったのだろうか?しかし、それでは一匹でも多くの命を助ける行為は何を目的として行なうのだろうか?そうすることで、犬猫が置かれている状況が改善されるのだろうか?行政による犬猫の致死処分を問題にする人は数多く存在するようだけれど、そもそも、好き勝手に犬猫を飼い始めた人の後始末を行政が行なう・・・ということの理不尽さを問題にする人はあまりいない。今までにも何度か述べてきたことだけれど犬猫が被る理不尽な扱いを少しでも正してあげたいと思うのであれば、無責任飼い主の後始末をしないこと、飼い主責任を徹底して追及することにつきるのではないかしらね。言うべきことは、「飼い主さん、ご自分で責任をとりなさい」の一言。飼えなくなったら自分で譲渡先を探すか自分で致死処分をすべきでしょう。私の知人は、「求めるべきは、飼い主による自己完結型の動物飼育」とよく口にするのだけれど、これが徹底されて、飼い主による自己完結型の動物飼育を社会が求めるようになれば、理不尽な状況に置かれる動物の数も激減し安易に犬猫等を飼い始める人も減ることでしょう(ここが重要)。行政も愛護団体も繰り返し繰り返し「終生飼養をしましょう」と述べているけれど「飼えなくなったら、自分で譲渡先を探すか自分で致死処分をしなさい」と言うのが筋でしょうに。どこかで書いたと思うのだけれど、動物愛護団体は、自らが消滅するような方向で活動すべきでしょう。行政による致死処分に問題を見出そうとする方々って「愛護活動」をすることが目的なのかしら?
2007.06.28
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前回の続き前回、5年で25,6匹の野良猫がいなくなって「地域猫」が成功したという事例に言及したが、この記事を掲載していた千葉県市川市の広報の該当部分のタイトルは『飼い主のいない猫を考える』となっていて、その下に地域とボランティアと市が協力して野良猫を“地域猫”にと書かれている。つまり、野良猫問題を「地域猫」という形態でもって解決しようということのようだ。一方、「猫の飼い主さんへのお願い」として、以下の4項目が書かれている。◎動物の嫌いな人に配慮し、環境を整えて屋内飼育をしてください。◎失踪しても飼い主が分るように、首輪などに身元の表示をしてください。◎不妊・去勢などの繁殖制限は、飼い主の義務です。◎里親も見つからず、どうしても飼えなくなった猫の引き取りは千葉県動物愛護センターで行っていますが、そのほとんどが翌日には致死処分となります。猫の身になり、最後まで責任を持って飼育してください。猫の飼い主が上記項目を厳守すれば、野良猫問題はかなり防げるということになると思われるけれど、特に「屋内飼育」は、有効な手段でしょうね。ところで、4番目の◎里親も見つからず、どうしても飼えなくなった猫の引き取りは千葉県動物愛護センターで行っていますが、そのほとんどが翌日には致死処分となります。猫の身になり、最後まで責任を持って飼育してください。という部分についてなのだけれど、一応きちんと飼っていた人が飼えなくなった場合は、致死処分。無責任な猫の遺棄や無責任な餌やり人が存在させている野良猫については、一代限り(短い命のはずなので)生存の道を与えましょう。と言うのには何か釈然としないものを感じる。「里親も見つからず、どうしても飼えないので」野良猫を「地域猫」にしようというのであるから条件は同じではないのかしらね。これでは、捨て得、餌やり得ではないですか!公平さを保つために、飼い主がいる猫で飼ってもらうことが困難になった猫も「地域猫」にしてとりあえず生かしてあげると良いのではないでしょうか?というのは、よくないですね。いずれにせよ、「地域猫」という形態は、飼い主として、社会に対しても猫に対しても責任がとれない形態なので、◎動物の嫌いな人に配慮し、環境を整えて屋内飼育をしてください。という勧めに従って、野良猫を飼ってあげたいのであれば、街中で「飼う」のではなく、例え超多頭数飼育になろうとも、自分の家で飼ってあげるべきでは?と思う。
2007.06.12
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タイトルの「夢のよう」というのは、あるマンションの管理人さんのお言葉なのですが、何でも5年ほど前にマンションの周囲に住み着いていた30匹を超える猫が「地域猫」対策を始めて後、4、5匹に減ったのだそう。それで、「猫の苦情も全くなくなり夢のようだ」とおっしゃっているというわけです。だけれども、それではそのいなくなった猫たちは一体どうなったのだろうか? 仮に30匹いたとしても25,6匹の猫が消えてしまったことになる。人間の側からすれば願ったりかなったりでしょうけれど、猫の側からすればどうなのでしょう?ここで言えることは、行政などによる容赦ない致死処分は受け入れたくないが自分の目に入らないところで死んでいくのであれば、それはそれで受け入れられるということなのでしょうね。いなくなった猫については、「他の地域で餌を貰って生きているかもしれないし、運良く誰か優しい人に飼ってもらっているかもしれない。」「昔は、野良猫などあちこちにいてほんの数年しか生きていなかったのだから自然淘汰の原理が働いているだけのことサ」というように考える方が気が楽なのは確かだ。しかし、いなくなった猫はもしかしたら交通事故にあったのかもしれないしエイズなどの病気で死んだのかもしれない。さらには、もっと悪いことも考えられる。たとえ理不尽な苦痛と死が地域猫の対象猫に及んだとしてもたいていの場合、人間の関知するところにはならないでしょう。(幸いなことに)いずれにせよ、「地域猫」の対象猫は健康で長生きするのではなく4,5年でいなくなることが期待されているのであり、そうでなくては「地域猫」が成功したとは言えないということのようだ。参照 広報いちかわ 2007年5月19日号
2007.06.01
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まあサルを見て喜んでいるなんてのは、何ら実害を受けることなくノホホンと生活していられるからだけれど野生動物からの被害を受けている人たちにとってはサルはにっくき存在でしかないでしょう・・・野生動物によってもたらされる被害の問題を解決するのはとても難しいと思う。被害をゼロにしたかったら彼らを絶滅させるしかない。先だって参加したサル被害対策の講演では里にサル(野生動物)の食べ物がある以上被害は無くならないので人間にとって必要のないものでもサルが食べ得る物を放置してはいけないということが強調されていたけれどこれも徹底的にやるのは大変なことだ。ところで、話はガラリと変わるのだけれど連休中に闘犬なるものも見る機会があった。長くはいたくはない場所であったけれど、時間の許す限りその場にいて重たいオミヤゲを持って帰ることに・・・ここで、ひとつ気が付いたことは、アナウンスで「○○さんの愛犬」という言い方がされていたこと。愛犬ねえ・・・そういえば、三重県の上げ馬神事という行事でもアナウンスで「○○さんの愛馬」という表現がなされるけれど、どちらの「行事」においても犬の気持ちや馬の気持ちというものが人間によって無視され、「愛」と言うに相応しい扱いを受けていないことは一目瞭然だ。文化や神事、伝統行事などと称することで動物に過酷なことをさせることが許容されている現状は悲しむべきことだと思う。
2007.05.09
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連休の間、サルやシカそしてイノシシなどが出没する地域をウロウロして過ごしていたのだけれど、周囲をネットなどで囲われている畑や田んぼがたくさんあって、また電気柵で囲まれた田んぼなどもあり地元の人の苦労を現実のものとして感じることができたように思う。その地域に住む知り合いがシカは夜や早朝に人里に出てくると言っていたのだけれど、ヒト気のない夜や早朝にウロウロするのも怖くシカを見ることはできなかったものの運良くサルを目にすることができた。周囲が薄暗くなった頃、人家のない所を歩きながらふと山の方を見上げると山のふもと近くにチョコンと2匹のサルが座って草を食べているじゃないですか!サルの背後には杉の木が整然と立ち並んでいて、木と木の間が暗い空間になっている。木立の間からジッと観察していると夕暮れの風景の中で、サルもこちらを見ている。お互いに安全を脅かされない距離があるので安心してジッと見つめ合うこと数分。でも写真を撮りたいと思ってカメラを取りに行って帰ってきたらサルの姿はありませんでした。残念。私自身は、田舎ではあるけれど野生動物など目にすることがない地域に住んでいるので、野生のサルを見ることができて感動したのだけれど地元の方がおっしゃるには、「サルは増えている。駆除してもらわないと困るわなあ」このサルを見た場所から更に奥の方の地域では熊に注意するよう警告する看板を2箇所で見たのだけれどそのひとつは登ってみたい山の登り口にあったので登ることは断念。やはり熊には出会いたくないものねえ。その地域の特産物などを売っている店で熊よけの鈴が売られていたが効果があるのかしら?
2007.05.08
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私にとって有益なコメントではないのだけれどもいただいたコメントに「ふわドラ思想」という表現がありました。このふわドラ思想、当然のことながら他者の影響をも受けながら形成されているのですが「ふわドラ思想」などと改まって考えたことがないのでふわドラ思想とは何か?と一度考えて見ることに。「ふわドラ思想」の根底に流れているのは、一貫して、「人間による動物の利用をできるだけ縮小し、必要最低限での利用で満足することにしましょう」という方向に進んでいくべきではないか?という考えです。動物の利用を縮小すべきではないか?という考えは、今現在の危機的な地球環境を視野に入れるところから生じているのですが動物の利用を縮小していく努力をすることは、人間と動物の双方に益があると思います。もっとも、動物の利用に特化して縮小すべきだと言うのではなく、今現在は、あらゆる側面で環境に不可を与えないような生活が求められていると思えるのだけれど、動物問題もこれに該当するでしょうね・・・というスタンスなわけで、これを切り口に動いているわけです。さて、古今東西、人間は様々な分野で様々な動物を利用して生きていますけれどその利用の仕方は、必然的にアンソロポ・セントリック(=人間中心主義)に基くものとなっており、従って野生動物を含め、様々に利用される動物たちに多大な苦痛をもたらす結果になっていると言えます。これに関しては、ほんのちょっと想像力を働かせれば誰もが認識できると思いますが、長くなるので、人間のペット利用について述べますと人間によるペット飼育が環境にもたらす負荷を考えた場合、当然のことながらペットの総数を減少させていくことを視野に入れなければならないのではないでしょうか?またそのことは、同時にペットとされている動物の不幸の軽減にも繋がっていくことになり、結果として総体的にペットの利益に繋がると思いますそのために必要なことのひとつは、とにかく飼い主責任を徹底させる方向に動いていくことであり国や国民が考えるべきことを考えず、無責任飼い主の後始末をしているようでは延々とペットの不幸は続くでしょう。また、ふわドラ思想の持ち主は、飼わない選択をも強調していくことが重要なのでは?と考えているようです。
2007.04.27
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昨日の朝日新聞に、2006年度のクマの捕獲数が5185頭という内容の記事があった。この数は過去最高とのことだけれど、その内訳はヒグマが339頭、ツキノワグマが4846頭で、約9割の4679頭が殺処分されたとのことでした。そして、人間側の被害は、けがなどの事故が144件で5人の方が亡くなられたとのこと。ところで、犬と猫、そしてツキノワグマ(クマ)に共通している点がひとつある。それは毎年の「殺処分数」が公表されるということなのだけれど、これは何故なのだろう?という思いがふと頭をよぎった。犬と猫、そしてクマ(ツキノワグマ)が殺されることに関心を寄せ心を痛める人が多数いるということを意味しているのかしら?言うまでもなく、犬と猫は、主にペットとして人間の飼育下にある動物でその数は著しく余剰状態であるけれど人間にとっては、カワイイ存在だ。一方、野生動物であるツキノワグマは科学的データーに基いた生息数は定かではなく、地域によっては絶滅が危惧されているが、人間にとってはコワイ存在だ。犬や猫と同様に、この間までペットであったアライグマは、私が住む県でも行政から捕獲器が貸し出されたりしていて、捕獲されたが最後、生存の道は閉ざされてしまうが特にその数に注意が向けられていることはないようだ。これは、人間にとってカワイイ存在にはならなかったからかな?いずれにせよ、何故、犬と猫、そしてツキノワグマ(クマ)の殺処分数が人々に気にかけられるのかもう少し考えて見ることに・・・
2007.04.25
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失礼ながら、あまりに軽くあまりにオソマツと言わざるを得ない。前々回に書いたとある国会議員さんの発言に対してですが・・・この国会議員さん、食育ということを重要視されているとのことですが、>どんな命もすべて救いたいと思っています。>死ななくてもいい命ですから・・・>今、日本に必要なのは 豊かな人の心を持ち、>人としてのモラルを取り戻すことなのではないかと思っています。とおっしゃるのであれば、なおのこと産業動物あるいは経済動物と称される動物たちのことも視野に入れるべきではないかしら?もちろん、これらの動物は人間の口に入るための動物で死ななくてもいい命ではないので、生きている間の命を尊重することに留意しなければいけないわけですが。生きている間の命を尊重するということことは、生きている間はその動物の生理・生態に応じた暮らしをさせてあげましょうよ!ということであって、そのことは、これを食する人間の健康にも寄与することになるはずで、食育を重要視する人にとっては、実はきわめて重要なことのはずではないかしら?そして、ここに人としての心の在り様が大きく関わってくる。「どんな命も救いたい」と書いていらっしゃるけれど、仮にこれを犬と猫の命に限定しても、殺処分される42万頭の犬猫を救うことなど誰にもできないし、殺処分される犬猫だけが不幸なわけでもない。人間の飼育下にある動物について何らかの活動をする際、まずターゲットにすべきは飼育する人間でなければならないと思うし、「命を救いたい」というカワイソウな犬猫のみを対象にしたお決まりの思考パターンでもっての発言は国会議員という立場にいる方の発言としてはあまりにオソマツで勉強不足ではないかしら?普通に暮らしていれば、特に注意し関心を向けていなかったとしても様々な分野の動物に関する情報が日々入ってくるものだけれどこの国会議員さんにとっては、議員になる前の段階から入って来たであろうそのような情報が何らかの問題意識を形成するきっかけには全くなっていなかったようですね。この国会議員さんに読んでいただきたい『人と動物の関係を斬る!』という知人のサイトを紹介します。↓http://idobbs.iaigiri.com/
2007.04.24
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今月は、いろいろ遠出していて、檻の中のツキノワグマや牛舎の中の仕切られた区画にいる牛たちを見る機会があったのだけれど(母牛と子牛も数組いました)その時に思ったことは、彼らは、『「自由が欲しい!」と切実に願っているだろうな』ということ。どれほど狭い空間にいたかは、私たち自身が2畳ほどの空間に閉じ込められていると想像すれば大体の感覚が分かるのではないかと思う。檻の中のツキノワグマだが、おそらく山中で捕獲された個体が運良く?殺されずにそこで飼ってもらえることになったのではないかと思えるのだけれど、犬のように散歩に行くこともできないから飼い殺しの状態だ。クマがいた周辺の山は70%位が人工林と思われたけれど綺麗な新緑の季節にもかかわらず人工林のところだけはほとんど濃い緑一色で、木々の中も殺伐とした空間に感じられる。人と動物が上手く山を分け合って暮らすことができればそれがベストなのだろうけれど、そのためには知恵というものを有している人間側が少し引くことが必要なのではないかしら?と思える。牛についてだけれど、敷地が広かったので放牧しているのか尋ねてみたところ、していないとのことでした。食用ということであったが大きな体の牛がほんの数歩しか歩けない所に入れられているのは本当に気の毒だ。子牛もこの狭い空間のみで育つのだとしたらとてもカワイソウ。・・・岩手県に中洞牧場というところがある。ここの牛たちはかなり幸せではないかと思うのだけれど、どうなのかな?
2007.04.23
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前回、動物問題に関心を持ち何らかの活動をしている人々の活動って動物のためではなく自分自身のためでしょうね・・・と書いた。これは、もちろんのことながら私自身にも当てはまるわけだけれど、カワイソウな動物を目にすることで生じる心の痛みを回避するためには、カワイソウな動物がいない社会(世界)にしなければならないことになる。けれども、十人十色という言葉があるように人によってカワイソウだと思う対象は異なってくるので、同じ事象を見てもその捉え方は様々なものになりやっかいなことになってしまう・・・坂東真砂子さんの子猫殺しの時には、あちこちでずいぶんニギヤカな反応が見られたけれど、私たちの目に入ることのない実験動物をカワイソウだと思い心を痛める人は、捨てられた犬や猫を見てカワイソウだと思う人より少ないようだし、動物園やふれあい何とかといった所の動物を見てカワイソウだと思い心を痛める人も少ないように見える。年老いた動物は動物園にはもはや不要動物なのであり、それらの動物は確実にどこかに消えていってしまっているのだけれども。ましてや、食料となる動物の飼育状況などに気を配ってなどいられない?普段目にすることがなければ野生動物だっていないのと同じことかもしれない?かくして、伊東市のペット問題についてはまたまたニギヤカな反応があちこちで発生しているようで、ネット上でも様々な意見が見られますが少なからず犬と猫に対して「ひいき」しすぎではないかしら?もっとも、国会議員という重要な地位にある方でさえ伊東市のペット問題を重要視されているようで、人間のルール違反にはどこ吹く風の動物愛護=犬猫愛護とも思えるような軽い内容の発言を読むと↓http://www.fujinomakiko.com/topics_13.htmlhttp://www.fujinomakiko.com/topics_9.htmlどうしようもなく偏っているとしか思えない動物愛護の在り様にも私の心は痛んでしまうので、自分の心を痛めないためには、この活動から足を洗って、見ザル聞かザルに徹する方が利口かもしれないなあ・・・
2007.04.22
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長年動物問題に取り組んでいる方と話していて気付かされたことがあるのだけれど、動物問題に関心があり、実際に何らかの活動をしている人って動物のために活動しているのだろうか?それとも自分のために活動しているのだろうか?厳密に考えると、実は自分自身のために活動しているというのが正解でしょうね。捨てられた子猫が段ボール箱の中にいたとします。選択肢は、無視する保護して自分で飼う保護して譲渡先を探す保健所に持っていく獣医にて安楽死する自分では飼えないし、譲渡先も見つからない。仕方がないので外に放してもいい位大きくなったら地域猫の現場に放す?などだと思えるけれど他にもあるかな?ここで、無視する、保健所に持っていく、安楽死するという行為は子猫を見てカワイソウだと思った人にとっては自らの心が非常に痛む行為になるでしょう。したがって、自分の心を痛めないためには保護するしかない。自分で飼えるなら保護したことで一件落着。もし譲渡先を探さねばならないとしても子猫の命はとりあえず救ってあげたので、自分の心もとりあえず安泰。(これを繰り返していると多頭数飼育に陥りやすい)つまり猫のためとか言いながら、実は皆自分自身のため、カワイソウな猫を救ってあげないという自らの心を痛める行為はとても耐えられるものではない・・・だから、保護しているのだと思います。けれども、自分の心が痛まない方向での活動のみでカワイソウな猫を生じさせない社会に少しでも近付いていけるのだろうか?と考えてみることは、かなり有益なのではないかしら?
2007.04.11
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今日、たまたま環境省の動物再飼養支援 収容動物データー検索サイトを覘いてみたら「動物は飼い主が最後まで責任を持って飼うことが原則です」という表題の啓発文がUPされていた。↓自治体に引取を求める前に、自ら譲渡先を探してください。飼い始める前に適正に飼養できるかをよく検討し、正しい飼い方などの知識をもち、飼い始めたら、動物種に応じた適切な飼い方をして健康・安全に気を配り、最後まで責任を持って飼いましょう。譲渡を受けるにあたって適正に飼養できるかなどの調査も行っております。このコーナーは、やむを得ない事由で自治体に引取られたり、収容された動物の譲渡を推進するページです。ペットを飼う人は、動物の命を預かるという自己責任の重みをしっかり認識しておくべきだと思えるので、今回環境省が上記の内容をUPしたことは、ちょっぴり前進したかな?と言っていいのでしょうね。やはり、「あなたを待っている 動物がいます」なんてキャッチフレーズ自体、なんていうか「軽い」ですし、国には毅然としてしっかりしたことを言ってほしい。あとは、巷の動物愛好家や愛護団体と同じようなレベルの(譲渡条件を高いハードルにしているところは除いて)、譲渡が行われないよう願うのみ・・・
2007.04.03
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特に、時間がないということがなければ夕方、犬を連れて○○公園に散歩に行くのが日課になっているのだけれど、私同様、犬を連れて散歩に来る常連さんも多く、公園で出会うと数人の方とお喋りしたりするというか犬の方が近付いて来たりする。今日も、夕方その公園に足を伸ばしたところロットワイラーという犬種の黒くて大きな犬を飼っている方とお喋りすることに。この方、犬の飼い主としては、超模範的な方で、飼っている犬をとても大事にされていて、犬の歯も体もとてもキレイ。外ではなく家の中で飼っているとのことでしたが、ヨダレがポタポタ地面に落ちていたので、床がベタベタになり、毎日お掃除が大変だろうなあ?ただ、この方の飼い犬であるロットワイラー、断尾されてしまっていて、尻尾のあったところがふんわり盛り上がっているのですね。断尾は、この方が行なったのではなく、ブリーダーから譲り受けた時にすでに行われていたとのことだけれど、これって、残酷よねえ!コーギーなんかも断尾されてますけれど・・・断尾は豚なんかもされるのですよね。以前言及した屠場の待機所にいた豚たちも見事に尻尾がなかったですよ。ネットで少し調べてみたら豚用の断尾器なるものなんかも売られていて、「いつでも誰が使用しても、同じ力の加減で尾を切ることができます。これにより子豚への痛みのストレスを軽減し、確実に止血することができます」なんて説明があるのだけれど、断尾しなくてもいい環境で飼うというように飼育形態を変えてくださるとよいのにね。
2007.04.02
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思うところがあって、前々回に言及したベルリンの動物園のシロクマに関する記事を探していたら「ホッキョクグマ:人工飼育巡りドイツで論争」という記事が見つかりました。これによると、このシロクマはベルリン動物園で生まれたとのことで、もう一匹生まれたシロクマは、生後間もなく母グマが育児放棄したため死んでしまったとのことです。それで、ほ乳瓶でミルクを与えて人口飼育されているとのことで、この人工飼育を巡り論争が起きている(起きた?)とのこと。動物愛護団体あるいは環境保護団体が「人口飼育は自然の法則に反する」「動物は自然に育てるべきで安楽死させた方がいい」と主張したのに対して、助命を求める手紙やメールが園に殺到し、動物園側も「世界で最も絶滅危惧(きぐ)にひんした動物だ」と強く反発し、ガブリエル環境相も一般公開された日に、「最も地球温暖化を象徴する存在」として園の立場を擁護した、というような内容の記事だったのだけれど、そもそも母グマがすでに動物園にいて自然の中で暮らしていないわけだし、育児放棄の原因も動物園で暮らしていることと無関係ではないでしょうから今さら、人工飼育がどうのこうの・・・ということ自体まったく説得力がない気がするのだけれど、このシロクマの子供も一生動物園で暮らすことは、間違いないでしょうね。それにしても、動物園でかわいいシロクマの子供を見て歓声上げるだけでなく、やはり、これをきっかけにまだ野生でいるシロクマが置かれている状況に関心を持つことの方が重要でしょうね。
2007.03.31
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はっきり言っておカネのない人は、ペットを飼うべきではないと私は考えている。以前、動物問題に関心を持ち始めた頃の話なのだけれど、ある人が「○○さんは、おカネのない人はペットを飼っちゃいけないって言うけど、おカネがなくたってペット飼っていいと思うのよねえ」とおっしゃったことがあります。だけど、私は、○○さんに大賛成。何故なら、おカネのない人に飼われたペットは幸せじゃないと思うから。一番の理由は、「おカネがないから安いフードを買わなくちゃ」なんて人に飼われたら、一生添加物だらけの安いフードを食べさせられることになるじゃないですか。これってあまりにカワイソウ。それに、ペットを飼ったら、いろいろおカネかかりますし・・・怪我や病気でも「おカネがないから獣医に行くのやめておこうっと」とか「狂犬病の注射なんてしない」「猫のトイレ用の砂を買うなんてもったいないから外で用を足してもらいましょ」なんてことになりかねない。まあ、少しの怪我や病気なら様子見っていうのもアリだと思うけれど、それこそ万単位の費用がかかるような事態になった時に、涼しい顔で対処できる人しか飼っちゃいけないと思います。自分が生きるのに精一杯の人は動物を飼うべきではないでしょう。これは、おカネのない人に対して差別意識を持っているのではなく純粋にペットの立場から考えてのことです。同じ意味で、老人の方もペットを飼うべきじゃないでしょね。おカネがなくても、年老いていても動物からの癒しを得る自由や権利があるというお考えの方だっているかもしれないけれど、私自身は、ペットを飼うことが癒しになるという考え自体が人間のエゴだと思っているのと年老いた方は飼えなくなるリスクが高いのでオカネがない人と同様飼うべきじゃないと思う。それと、ペット不可の住宅に住んでいる人も飼っちゃダメ。ペット不可の住宅でペットを飼う人達命をなんだと思ってるのでしょう?
2007.03.30
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数日前にテレビで、動物園のシロクマの子供が人気を呼んでいるという内容の短い放映があった。場所は、たぶんベルリンだったような。何でも母クマが育児放棄したため人間に育てられたのだそうで、安楽死の意見も出たというようなことも述べていた。そのシロクマのことが、昨日もテレビで取り上げられていて、名前はクヌート。生後三ヵ月半。動物園デビューしたこのクヌートを見るために、一日三万人!もの観客が動物園に押し寄せているとのことでした。その一方で、メスのパンダが死んでしまったとのことで、その死因は大勢の観客が押し寄せたためのストレスという説が出ているが動物縁側は否定しているというようなことも述べられていた。確かに、シロクマの子供の仕草はとても愛らしくカワイイ。でも、動物を見て「カワイイ!」と思う心が「クセモノ」なのでしょうね。そう「クセモノ」だと思う本来その生息地まで足を伸ばさなければ見られない動物を動物園という限られた空間に押し込めて満足しているのだから人間は罪作りだ。(まあ動物園の存在意義もあるようですけれど)動物園に行くと「ほら、ゾウさんがいるよ。大きいねえ!」とママが言い小さな子供が「ウン、ゾウさん大きいねえ!」なんて喜んでいる風景がよく見られるけれどもそのゾウは同じ所を行ったり来たりしていて実はストレスいっぱいということに、ほとんどの人は気がついていない。ペットもしかり、カワイイ!と人に思われるが故に人に飼われることになるのであり、でも人の心は移ろいやすく、したがって常に不幸と隣り合わせになってしまうのでしょうね。ン・・・ペットを見て「カワイイ」と思わない人の方が、実は動物にはやさしい?
2007.03.29
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我が家にいる猫で、悲惨な状態にあったのは先に述べたふわ猫、トラ猫そして今日言及するシロ猫なのだけれど、この猫は、初めて見たときは、「これは一体何だ?」と思えるような生き物だった。というのも、疥癬でほぼ全身の毛が抜け落ち、しっぽなどはねずみのしっぽのように全く毛がなかったのを覚えている。そして、皮膚という皮膚がゴワゴワした感じで、痒かったのでしょうね。地面をころげまわっていたのでした。体もガリガリ・・で本当に哀れな状態でした。それで、初めて見た日の翌日、軍手をはめて段ボール箱に入れ、近くの獣医で注射を打ってもらい、元いた場所に帰したのだけれど、数日すると白い毛が少しずつ生えてきて感動ものでした。そして、2週間後にもう1度注射を打ってもらうと、どのくらいの期間かは忘れてしまったけれどもきれいなシロ猫になったというわけです。それでもって、獣医に家に連れて帰っても大丈夫という確認をとって結局我が家で飼うことに・・・シロは美猫だ。性格もおだやかで誰かに飼われていたことは間違いないと思われるのだけれど、シロにかかわった頃がこんなことをやっていてもキリがないと痛感するようになった時期で、家にきた最後から2番目の猫になったというわけです。ところで、以前言及した『季刊東北学』第九号は、「人間は動物とどのように関わるのかー大量に殺されてゆく家畜、ペットに依存する社会を背景に」という表題の座談会からはじまっているのだけれど、この中で、林良博という方が「放っておくと人口の十分の一くらいまで増えてしまうのが犬や猫のようです。しかし一割が飽和状態で、それ以上になると社会が歪になるようで、日本はその状態を迎えています。それだけペットが増えた中で、はたして、今の犬猫のペットが動物と人間の本来的なあり方のモデルになるかどうか疑問だと思いますが、ただ動物を知るという役割だけは果たしていると思います。」と述べていて、ペット飼育者が人口の一割以上になると社会が歪になるという部分など「言えてるんじゃないの?」とその根拠となる科学的なデーターとかがあるのかしら?と思いつつも同意したくなってしまう。我が家のように人間の数よりペットの数の方が多いという状態も歪な状態と言えるのでしょうね。ペットに関心を寄せる個人や団体が人々から「掃きだされる」ペットを抱え込みながら、そのペットの命を救うために、ペットを粗末にする社会に向かって「ペットを飼いませんか?」と呼びかける(呼びかけざるを得ない?)状況というのもやはりどこかおかしい。(続く?)
2007.03.27
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またまたついでに、我が家のトラの話。この猫は、とある公園に置かれたダンボール箱の中で死んでいた猫だ。イヤ「あっ、子猫が死んでる」と思ったのだけれど、お腹がかすかに動いていた。持ち上げたところ、体が冷たい感じがしたので、車の中に入っていたペット用のトイレシートにくるんでかかりつけの獣医のところに行ったのでした。虫の息って状態だったのでしょうね。獣医に診てもらうまで車で一時間以上かかったので、もしかしたら死んでるかもしれないと思いながら診てもらったのだけれど、獣医師が食べ物を口のところに差し出したところ、食べようとしたのだ!それで、しばらく入院治療ということになり、翌日見に行った時は目も開いていて、結果としては、3日間入院して生還したのだけれど、家に連れて帰る日に獣医が言うには「この猫、左前足が悪いです。」あらら、確かに左の前足が右足よりやや長く、歩く時に、左足の間接を曲げて、そこを床につけるという歩き方しかできない。今は片手に乗るくらいだけど、大きくなってもこのままだと、皮膚がすり切れて困ったことになる・・・家に連れ帰ってからのトラは間接を床につけながら歩いていたがそのうち物凄い速さで走れるようにもなり、獣医から、このままだと足を切断した方がいいかもしれないなどと言われたりもした。でも、いつからかやや不自由だけれど、間接を伸ばして普通に歩けるようになりました。トラはふわ猫より2ヶ月位早く我が家で飼うことになったのだけれど、こんなことを延々と続けていくことは到底できない。可哀想な猫は、次から次へと「掃きだされて」くるのであり、何よりも、可哀想な犬猫を掃きだしてくる人達を「得」させてはならない。我が家ではこれ以上の犬猫を飼うことはできないし、飼うつもりもないので、ふわ猫やトラのようなケースに再び遭遇しないことを祈るのみ・・・(などという逃げの姿勢だけは取らないでおこう)
2007.03.26
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前回のスーパーで飼われていた猫の話のついでに我が家にいる ふわ という猫の話をすると、この猫は、4年位前に車がひっきりなしに通る大通りで出会ってしまった猫だ。ビュンビュン車が走る車道から歩道に必死に這い上がろうとしていたところを、たまたま信号待ちで止まった私に見つけられたというわけなのだけれど、近くに人家などないので、「何故こんな所に猫がいるのよ?」と思いながら、近くのコンビニの駐車場に車を止めて、猫がいた場所に戻ったところ、猫の姿はなくでもほとんど歩けない状態だったので遠くに行くはずはないと思い植え込みを覗いたらそこに横たわっている ふわ がいたのだ。その時は片手に乗るより少し大きい位で毛がふさふさしていたのでふわ という名前をつけたというわけ。でも実際は、名前に似合わず猫相が悪いオス猫でお腹がすくと他の猫に八つ当たりして追い掛け回すドラ猫になるので、人間が叱る時は「コラ!ふわドラ!」と呼ぶことになる。ところで、何故、今日このふわ猫の話をするかというと、どう考えても猫などいそうにないあの場所に何故ふわがいたのかという謎が解けたのです。今日、たまたま出会った顔見知りの人がふわ猫に出会った通りの近くにあるパチンコ屋の敷地に「野良猫がたくさんいる」と教えてくれたのでした。まあ、あの時信号待ちで止まらなかったらまた止まったとしても植え込みに入ってしまっていたら私の目にとまることはなかったので、ほんの2,3秒の差でふわ猫の運命が決まったということなのでしょうけれど、ふわ猫に出会ってから4年は経っているので、そのパチンコ屋には延々と野良猫が住み着いているということかしら?やれやれ・・・
2007.03.25
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ペット不可の市営住宅でのペット飼育が問題になっているようですね。静岡県伊東市の市営住宅でペット飼育を行っていた人たちに対し、市がペット飼育を中止するように求めたため、愛護団体等が支援に乗り出したということらしいのだけれど、これって、支援するようなことなのかしら?何故なら、規則を守らない人達に非があるのは明らかではないですか?ペットに限らずとも社会のルールより自分の思いや欲望を優先させる「困った人たち」が如何に多いことか!もちろん、ルールを守らない人達を擁護する愛護団体等も「困った人たち」のお仲間と言うべきでしょうね。この人達も結局のところ社会のルールより自分の思いを優先させているのであり、常日頃、本当にペットのことを考えて行動しているのかしら?と思ってしまうのだけれど、今ここで、ペット不可の住宅でペットを飼うのはダメだよ!と社会に向けて発信することは、今現在、ペット不可の住宅でこそっとペットを飼っている人に警告を与えることになるし、将来、ペット不可の集合住宅に住もうとする人達が「ペット不可の規則があるけど、まっいいや」と考えないようにする効果だってあるのではないかしらね?それなのに、無責任飼い主擁護の署名活動まで開始しているなんて、やれやれ・・・と感じずにはいられないのだけれど、この署名用紙に書かれている内容を読むと、さらにやれやれ・・・と感じてしまう。まあ。伊東市側もこのような措置に至ったきっかけがペット飼育をめぐる深刻なトラブルが生じたためということなので、それまでは見逃していたのかもしれない。だとしたら行政も困った人達のお仲間だったのかもしれないけれど、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」として通っていかない社会に、もういちど、やれやれ・・・
2007.03.21
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野生動物による被害が全国各地で問題になっているけれど、私の住む県でも例外ではない。サルやシカなど「害獣」と称され有害駆除や狩猟の対象になっている。私自身は、地方都市の郊外のまだまだ緑も残っている所に住んでいるのだけれど、野良犬には結構出会っても、普段そのような「害獣」に出会うことはなく、庭での家庭菜園も被害と言えば猫のウンチくらい。(まあ、自分が乗る車から出る「拾えないゴミ」と猫のウンチとどちらが環境に悪いかを考えると答えは明白だけれど、だからと言って猫の外飼いは容認できない)ところで、サルは今現在、日本においては人間の口には入っていないと思うのだけれど、シカ、イノシシ、クマなどは、結構食されているみたいですね。私自身は、このような野生動物を食べてみたいとか微塵も思わないけれど、北海道のエゾシカなどは、その保護管理計画の中で、肉を流通させることが個体数調整の一環として行われている(=有効活用)ようです。流通させるということは、当然安定的供給ということが重要になるでしょうし、従って鹿の家畜化ということが視野に入るのでは?と思うのだけれど、思った通り、「エゾシカ有効活用のガイドライン 北海道 」っていうのがどこかのサイトにUPされていたので、読んでみたところ「一時養鹿」として、生体を捕獲し一時的に飼育することが視野に入っている。そして、将来需要の拡大により供給量が大幅に不足することが予測される場合は、ブタやウシなどと同様に家畜的な飼育である「完全養鹿」を検討すると書かれている。さてさて、他県および私が住む県でも、もったいないのでシカ肉(ニホンジカ)の流通を図りたいという希望があるみたいなのだけれど、市場経済に乗れば、必然的に安定的供給をめざすことになるでしょうし、そうなれば鹿の家畜化が視野に入るのは必至でしょうね。元々、平地にいたシカが山に追いやられ、そして山も安住の地ではなく人間に追われる・・・オオカミという天敵がいなくなった以上、人間が数の調整をしなければならないのは理解できる。だけれどもここまで、野生動物の棲み処を奪っておいてさらに家畜化しようなんて・・・バチが当たるというものじゃないかしらね。
2007.03.16
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