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分量のある論文の仕事が終わった。夜、友人との約束があって、焼酎を3杯あけたのだけれど、自分に対して打ち上げをしたい気持ちがあって、友人と別れてから久しぶりにひとりで、近所の店に飲みに行った。 グラスワインを赤、白、一杯ずつ。読む暇がなかなか取れなかった文庫本を持っていって、ゆるゆると時間が流れた。眠気がゆっくりと脳の中を満たしていって、良い気分になったところで、勘定を済ませた。 帰宅途中で、トイレットペーパーが無くなっているのに気付き、近所のドラッグストアに入った。午後10時。客が誰もいないがらんとした店内のレジで、中年の男性が一生懸命に何かを書きつけていた。 品物を片手に用紙を覗き込むと、英単語がいくつもの矢印に導かれている。数学の照明問題の解答に似ているようで、それにしては数式が登場しない。思わず、「それは何ですか」と聞いてしまった。 「これはね、エイズウィルスに犯された細胞がどうしたら活性化するかを考えているんですよ」。店長の名札をつけた男性は親切にも答えてくれた。「エイズウィルスに犯されると通常の細胞は機能を失う。しかし、別の方面から、この細胞を活性化する可能性が残されているんですよね」「これは薬学ですか?」「いや、免疫学ですね」 チラシの裏側に英文字がびっしりと書き込まれている。酔いで朦朧とした頭脳に急いで、活を入れた。これは面白い話に違いない。 「自分が今考えていることは、猫のエイズウィルスに対しては有効だと、証明されているんです。しかし、種の壁があって人間のエイズウィルスに対してはまだ誰も、試したことがない。しかし、エイズウィルスに犯された人間が意識不明の重体に陥らない限り、この細胞を活性化させることによって再び、機能不全から救うことが出来るのだと思うのです。ただ現代の免疫学は、あまりにも細分化され過ぎてしまって、誰もここには踏み込もうとしないのですがね・・」 日曜の午後10時。誰も客がいない中でドラッグストアの店長がひとり、もくもくとレジ台にチラシの裏を広げて、免疫学の課題に立ち向かう。自分の内側で、琴線に触れる何かがあった。思わず、一生懸命質問していた。「高卒で働き始めて、専門的に免疫学を学んだことは無いんです。けれど独学で色々なテキストを読んでいるのがよいのかもしれない。少なくとも細分化の弊害からは免れているような気がしますね」 書きたいのに何も浮かばない。それが自分の悩みだと思っていたが、現実にはいくらでも、物語が存在するのだ。ただ、それを受け止める、あるいは気付く力が自分には欠けているのだと、痛切に思った。 本当は近所の銭湯に行くつもりだったけれど、今夜は家で、飲み明かしたくなった。
2006年05月07日
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年を重ねる喜びのひとつに、以前はわからなかったものの価値が見出せることが挙げられる。わたしにとって、モーツァルトの音楽が何故、あれほど評価されるのかは、長年の謎だった。というより、彼の音楽とどう接したら良いのか、その糸口が見つからなかったと言って良い。自分の勝手な感覚なのだけれど、モーツァルトの作品を聴いた時の感覚は、三島由紀夫の小説を読んだ時の取りつく島も無いあてどなさを想像させる。どちらもぴたりと自己完結していて、鑑賞する側である自分を、どうやって介在させたら良いのか、途方に暮れてしまう。それに引き換え、シューベルトやブラームス、シューマンの音楽はとてもオープンなように思える。何故って、彼らは、自分の感情の苦しさを、そのまま、音楽に表現しているから。聴きながら、自分の感情を、作曲者の感情に共振させることが出来る。特に、苦しい時、そうやって共振させて感情を迸らせれば、聴き終わる頃には、大分、すっきりする。ずっと、そう思っていた。ある時、熱狂的なモーツァルトのファンである友人が「シューベルトやブラームスは、どんどん地下にのめり込んでいく音楽だ。ベートーベンは水平を動いている。モーツァルトだけは、天上に向かう垂直の音楽なんだ。もう、別格なんだよ」と言った。何を意味しているのか、さっぱりわからなかった。当時、シューベルトは自分にとって本当に大切な存在だったから、何だか、自分の掛け替えのない友人が侮辱されたような気がして、その後、口をつぐんでしまった。今年はモーツァルトの生誕250周年で、先日、彼のオペラを観る機会があった。会場に行く前、落ち込むことがあって気分が沈んでいたのだが、登場人物を演じる歌手たちがぴたりと重唱する声を聴いているうちに、重苦しい気持ちがいつの間にか、雲散していた。はっとした。「モーツァルトは天上に向かう垂直の音楽」という言葉がぱっと思い起こされた。こういうことなんだ! まだ、モーツァルトの熱狂的なファンとはいかないけれど、少なくとも、以前あったような退屈な感じは無くなったと思う。喫茶店などで、モーツァルトの音楽が流れると、じっと耳を澄ませるようになった。豊穣な世界の入り口に立ったのかもしれない。
2006年03月04日
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先日、午後10時過ぎ、自宅の最寄りの駅で地下鉄から降りた。階段へ向かおうとホームで振り返ったら、ふと、懐かしさが込み上げた。あれっと思ってもう一度、ゆっくり回れ右をしたら、仙台時代の元上司がそこに歩いているのが見えた。5年前の春。札幌への転勤が決まって、全て荷物を送り出し、仙台最後の夜はもう、何もすることが無かった。そのひとは、朝まで、わたしに付き合ってお酒を飲んでくれたのだ。それ以来、一度も会わなかった。「やあ、ひさしぶり。元気そうだね。少し、飲んでいくか」相変わらず、やわらかい声をしている。仕事を持ち帰っていたが、反射的にうなずいてしまった。2年前、東京に転勤になったという。聴けば、わたしの自宅から徒歩圏内のところに住んでいた。この2年間、こんな近くにいたのか。そのひとは、5年半前に仙台に着任した。わたしたちが同じ職場にいたのは、たったの半年間だったけれど、深いものを分かち合ったという思いがある。それはきっと、相手も同じだろう。ちょうどその頃、わたしは「家族」をテーマに連載記事を書こうとしていた。そのひとは着任早々、この連載記事の面倒を見てくれることになった。「家族」という切り口は、あまりに色々な問題にかかわっていて、取材を重ねるうちに、何をどう書けば良いのか、皆目わからなくなっていた。今まで考えたことも無かったが、自分がいかに、両親に恵まれていたのか、初めて気付かされた。相手から話を聴くうちに、悲しみや苦しみといった感情がどんどん流れ込んでくる。真綿で首を絞められるように、精神が疲弊していった。そのひとはずっと黙って見守っていたが、ある時「サバイバーを取り上げてほしい」と言った。「サバイバーって何ですか?」「幼児虐待の被害から立ち直ったひとのことだよ。難しいと思うけれど、相手を探してみて」仙台の知り合いに片っ端から頼んで、わたしは「サバイバー」を探した。1ヵ月後、漸く探し当てたが、そこから相手を説得するのに、さらに2ヶ月、掛かった。やっとの思いで記事の原稿を書いてそのひとに提出した時、「やっと形らしくなって来たね」という言葉が返ってきた。そのひとと初めて会ったときから、心がざわついた。何て言うのだろう、小さな子供が泣きじゃくっている映像が浮かぶのだ。何故だろう・・。目の前で、幼い子供が泣いていたら、きっと、駆け寄って頭を撫でるだろう。油断していると、そのひとに対して同じようなことをしてしまうような気が、いつもしていた。連載が終わって、2週間ぐらい経ったとき、わたしはある読者から、記者としての姿勢を厳しく問われた。その読者の指摘はあまりにもまっすぐ、自分の内側に切り込んできて、あたかも窒息したような苦しさに襲われた。このままでは、自分はどうにかなってしまう。意を決して、そのひとの携帯電話に掛けた。「お話ししたいことがあるのですが」翌日の夜、初めて二人きりで、お酒を飲みに行った。そのひとに、いつも小さな子供が泣きじゃくっている映像が浮かんで困惑してしまう・・と打ち明けたら、「酒を飲ませて。酔わないと話を続けられない」と言われた。「こんな話をするのは、君が初めてなんだけどね」という前置きの後、そのひとは、自分が幼いときに受けた幼児虐待を具体的に話し出した。色々な疑問がするすると解けていく代わりに、何とも言えない悲しさが流れ込んできた。それから半年間、わたしはいつも、そのひとが本当にサバイブするのを願っていたように思う。しかしその後、仙台では大変な事件が起きて、しかも自分の友人がその事件に深くかかわっていることを知り、わたしは新聞社と友人関係の板ばさみになった。上司に、仙台からの異動願いを出して、札幌への転勤が叶った。その1年半後、そのひとも、仙台から札幌に転勤になったが、そのひとが札幌に着任する直前、わたしは札幌で転職し、半年後、東京に転勤となった。さらに1年後、そのひとも東京に転勤になり、わたしたちは偶然、とても近いところに住むようになった。二人とも、ひとの暮らしぶりがにじみ出ているような狭い路地が好きだという共通点があったけれど、こんなに偶然が続くのは、説明できないと思った。先日、一緒にお酒を飲んで、一番嬉しかったのは、そのひとが晴れ晴れとした顔つきをしていたことだ。この5年間、わたしと同様、そのひとにも色々なことがあったに違いない。考えてみれば、わたしの方が、そのひとを避け続けていたのだろう。もう、その必要は無いのだとわかって、ほっとした。「また、飲もうよ」と言われて、自然と微笑んでいた。5年前に断ち切った時間がまた、ゆっくり動き出すような気がする。
2006年02月09日
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新年明けましておめでとうございます。 今シーズンは、とても寒く、東京にいても札幌時代を思い出す。身体の芯が冷えていて、凍えるような心細さを感じる。鍋料理に熱燗の美味しいこと。日本酒で身体を温めるのも乙なものだと思う。ここ数年、焼酎のお湯割りばかり飲んでいたが・・。 このお正月は実家に戻って、母と一緒に台所に立った。母に手伝ってもらって、おせち料理を初めて、本格的に作ったのだ。数の子や栗きんとん、筑前煮、たたきごぼう、お雑煮に入れる具など、料理の過程が分かって興味深かった。野菜は暮れの大雪の影響で価格が高騰していたが、皮を剥いて切ってみると、野菜のちからを感じられて心強かった。 北海道・室蘭出身の従姉妹が、暮れに宇都宮へ転勤となり、正月を一緒に過ごした。北海道は大晦日に「年取り」といって、家族一緒にご馳走を食べるのだとか。わたしの両親も北海道出身なので、今回は、大晦日は年取りを「手巻き寿司」で祝い、元旦はお雑煮とおせち料理を味わった。弟夫婦も合流し、総勢6人での賑やかなお正月が、かえって珍しかった。日頃、季節感がどんどん、薄まっていくけれど、季節ごとの行事をひとつひとつこなしていくことによって、時間の流れを大切に出来たら嬉しい。 この一年が、皆様にとって、実り多いものとなりますように。
2006年01月06日
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明後日の土曜日に閉店するBarに先ほど、別れを告げてきた。 ここには、イギリス製の古いスピーカーがあって、ビートルズのレコードをいつも、聴かせてもらっていた。今日も、青ナンバーをかけてもらう。つまみに出されるコンソメ味のプレッツエル。マスターが丁寧に作ってくれる生クリームとブランデーを使ったカクテル。 先日、この店の閉店を知らされた日の深夜、テレビでビートルズの主演する古い映画が放映されていた。映画が終わったのは明け方の午前5時ごろだったのだが、思わず最後まで観てしまった。そのとき、プレッツエルとマスターのカクテルが、ずっと脳裏に浮かんでいたのだ。あの店の雰囲気までも。 化学変化が起きたのだと思う。ビートルズの音楽、プレッツエル、マスターのカクテル、そしてあの店の内装。どれかひとつに接すると、ほかの3つも自動的に思い浮かぶ。そうして、自分の無意識層にしっかりと、記憶がしまいこまれるのだ。 ビートルズの青ナンバーのアルバムは、メンバー4人の若い頃、そして10年後の写真が2枚、掲載されている、4人の並ぶ順番は同じで、どちらの写真も、下から見上げるように撮影されている。 ポール・マッカートニーは比較的、顔つきが変わっていない。しかし、ジョン・レノンは「これが同じ人間だろうか」と思うぐらい、表情が異なっている。多分、ジョン・レノンも、オノ・ヨーコに出会ったことで、化学変化を起こしたのではなかろうか。 誰かが誰かと知り合うことで、相手から余りにも強い影響を受け、自分の人格や顔つきまで変わることがある。ひとが大きく変わる理由のひとつとして、考えられることだと思う。これまで、ジョン・レノンがなぜ、あんなに顔つきを変えてしまったのか謎だったけれど、今日、ふとその理由が浮かんだのだった。 このお店もきっと、わたしの記憶に残る。なぜなら、化学変化が起きたから。よって、このお店が閉店したとしても、絶対に、大丈夫。今はそんな気持ちでいる。
2005年12月15日
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ひとつ、仕事がひと段落して、ほっと、一息をついた。 ここ3ヶ月ほど、ひとりで飲みに行く気になれず、Barから足が遠のいていたのだけれど、繊細なカクテルが飲みたくなった。久しぶりに、近所の店を訪れたら、マスターが何か言いたげに口を動かした。「昨夜、メールを送ろうと思ったんです。・・来週の土曜日で、閉店します」 店の扉を開けた瞬間、6人のお客さんが見えたのだった。土曜日の閉店間際の時間、こんなに沢山ひとがいるなんて、変だと、瞬間的に思った。テーブルを見たら、出前の鮨桶やピザが置いてある。ああ、みんな、別れを告げに来ていたのだ。 その店は、20年間ぐらい、別のオーナーがジャズ喫茶を開いていたのを居ぬきで借り受けたもので、内装の古びた様子がとても気に入っている。井伏鱒二の「手水鉢」という短編をいつも、思い出したものだ。手水鉢にこびりついたコケを長年、愛でていたのに、1週間の留守を預かった女性が、好意からコケを無残にも、洗い流してしまい、井伏鱒二ががっくりする話だ。長い時間を経て初めて得られる重厚感。どこか煤けた、黒光りする木製のカウンターと棚。レコードのターンテーブル。イギリス製の古いスピーカー。ここで、ビートルズのレコードを何度も、聴かせてもらった。そして、マスターの作るカクテルはいつも、お手前のような、厳かで柔らなふくらみを感じさせた。 行きつけのお店を失うのはこれで、2店目だ。最初は、札幌はすすきのだった。あそこも確か、20年は経っていたはず。ビルの老朽化で取り壊されることになって、オーナーも泣く泣く、移転したのだった。2店とも、あのスモーキーな空気が似通っていた気がする。 時間だけは、お金で買えない。だから、長い時間を経て作られたものに対しては、限りない愛惜を覚える。今回も、しっかりと、脳裏に刻もう。今日はひたすら、カウンターを手で撫でさすっていた。まず、手に記憶を染み込ませる。次に行った時は、店のにおいを、鼻に仕舞いこもう。そして最後は、店の内部を、目に焼き付ける。 すすきののお店は、今も、目を閉じればすぐに、蘇る。だから、今回は比較的、冷静に閉店を受け止められる。しかし。お金持ちの知り合いがいれば良いのになァ・・と、思ってしまった。この雰囲気が取り壊されるのは、本当にもったいない。
2005年12月10日
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ひとつ、失敗をしてしまった。今日、事務所へ行ったのだが、休日はセキュリティが作動して、カードを持たないと、ビルの入り口が開かない。ところが、それを忘れて、鍵だけ持って、外へ出てしまった。財布も携帯電話も中にある。ひとり、同僚が出勤しているけれど、そのひとの携帯電話の番号は分らない。事務所の代表電話は、休日になると転送されてしまうので、同僚に連絡できない。途方に暮れて、ビルの入り口でしゃがんでいたら、佐川急便のトラックが偶然、ビルの前で止まった。いつも、事務所では佐川急便を使うので、慌てて、運転席へ駆け寄った。もしかしたら、事務所の代表番号以外の番号を、登録しているかも・・と思ったのだ。想像通り、別の番号が登録されていたが、それはFAXの番号だった。やはり、同僚に連絡できない。どうしよう・・と思ったら、佐川急便のドライバーの人が、快く、携帯電話を貸してくれた。頭脳の記憶ファイルを懸命にめくる。誰か、番号を覚えていないか・・。じっとうずくまっていたら、漸く、先輩の電話番号が脳裏に浮かんだ。恐る恐る、その番号を掛けてみたら、先輩が出てくれた!中にいる同僚の携帯電話の番号は分らないけれど、そのひとと仲の良い別のひとの携帯電話の番号ならわかるという。急いで、教えてもらった番号に電話したら、相手が、出てくれた!事務所にいる同僚の携帯電話の番号を教えてもらう。やっとつながって、1階へ、迎えに来てもらった。佐川急便のドライバーさん、1時間以上も待たされたのに、嫌な顔ひとつしないで、待っていて下さった。何だか、後光が差して見えた。本当にありがとうございました。今日は、ひとの好意が無ければ、身動き取れなかったと思う。情けはひとのためならず。日頃、貯金していた”情け”が、ちゃんと、自分に戻ってきた気がする。色々な意味で、とても嬉しい一日だった。
2005年10月16日
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長袖が心地良い時期となった。 夏が過ぎて、秋に入るこの季節を迎えると、自ずから、内省的になっていくのが感じられる。受験生だった頃、いつも夏の過ごし方を後悔していた名残だろうか。 知り合ってすぐに、いくつかのボタンの掛け違いがあって、ゆっくり話せないまま、1年以上経っている知人がいた。幸い、そのひととわたしには共通の友人がひとりいて、わたしたちの間を、二言三言の言葉でつないでくれていた。友人からそのひとの言葉を断片的に聞くにつけ、このまま互いに話をしないのは、馬鹿げているような気になった。 先日、3人が所属している組織で懇親会があった。甕に入った泡盛の古酒が振る舞われた。ふんわりと広がる香りに、思わずストレートでくいっと飲み干してしまった。43度のアルコール度数が、体内に広がる。そのひとが壁際でひとり、立っているのを確かめて、近づいた。「今日は一緒に飲みましょう」。いつも感じる壁が、その時は無かった。 まず、自分のことを話した。今の仕事は嫌いではないけれど、書くことに強い憧れを抱いていること。自殺した中学時代の同級生のこと。たまたま、彼女とそのひとは、同じ大学の出身で、そのひとが通った大学のキャンパスは、わたしの現在の住まいのすぐ近くにある。 そのひともわたしも、同じ職業に就いている。わたしは学生時代の専攻分野から直接つながっているが、そのひとは異分野から今の業界に入ってきた。「なぜ、この仕事を選んだのですか」とたずねると、「きつい質問だなあ」。しばらく間が空いて、「大学2年へ上がる時、留年したんだよね。それから流される方が楽だと思い始めたんだ」とかえってきた。 この一年間の沈黙が、ふたりの会話の通奏低音となっていると思った。あのまま交流が途絶えてもおかしくない状況だったのに、互いに、それはしなかった。そのひとの寡黙さの内側には、がらんどうではない何かが必ずあると感じていたし、その直感は間違いではなかった。 だれかと仲良くなるというのは、コミュニケーションを深めることによって得られるのだと思っていた。こうやって、沈黙が、会話のタペストリーの重要な要素になるとは、嬉しい発見だった。何かを待つ。これまでは、待たざるを得なくて仕方なく・・ということばかりだったが、戦略的に待つということもありうるのだと、染み入るように感じた。
2005年09月25日
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久しぶりに、長い論文を書いている。 300ページ近い英文の文献を読み、関連する日本語の文献を探し、やっとの思いで、原稿の方向性を見つける。これなら何とか、行けるかも・・と、2週間ぶりに、息をついた。第一回締め切りは12日。 方向性を見つけるまでは、不安でたまらない。しかもこの暑さ。日中は集中できず、ぼーっと時間を空費してしまい、夕方になって我に返る。本来、気が小さいので、胃がしくしく痛む。 それでも、普段、生活費を稼ぐための仕事より遥かに、嬉しいのだ。自分自身の人生の時間が動いている、と思う。書くことと関係しない仕事をしている時は、自分自身、呼吸できなくて、酸素を他から、供給されているような気がする。 書けない日々が続くと、自分は一体、何のために生きているのかと思う。日本語がこんなにも好き・・というのは、新鮮な発見だった。書きたいという思いを堰き止めている、高い高い堤防が目の前に立ちはだかっている。もしかしたら、単純に、「日本語が好き」という事実が、この堤防を越える鍵なのかもしれない。
2005年08月05日
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こんなことが、実際にあるんだって思った。 この週末も二日間、仕事が入って、肩や腰に鈍痛が広がっていた。午後8時。近所のマッサージ院に電話をしたら「午後9時からなら空いています」。夕飯を済ませて足をひきずるようにマッサージ院のドアを開けたら、「お客さん、すごくついていますよ」と言われた。「もう午後6時ごろから今晩の予約が満杯になっちゃったんです。ずっとお断りし続けていたのだけど、たまたま、9時からの予約がキャンセルになって、その直後にお客さんから連絡があったんですよ」。 へーっと思いながら、着替えを済ませて、ベッドに横たわる。他の方々はみんな、出張マッサージに出かけて、店内に客はわたしひとり。顔なじみの女性の方が施術して下さったので、ぽつぽつと会話が進んだ。 こんなに疲れていらっしゃるのなら、お酢を飲むと良いですよ。「琉球もろみ酢」という黒酢がとても美味しくて飲みやすいのだけど、滅多に売っていないんです。今度、それが置いてある店に行くことがあったら、お客さんの分も一緒に、買ってきてここに持ってきますよ・・。心身ともにへとへとだったので、治療院の方の好意が身に染みた。 帰宅途中、近くのスーパーに寄った。何でも良いから、お酢を買って今晩、飲もうと思ったのだ。そうしたら「琉球もろみ酢」という赤い箱に入った商品があるではないか。まさか、これが彼女お勧めのお酢なのだろうか。話が出来すぎているような気がして、とりあえず、一本だけ買って、自宅で試飲してみた。・・信じられないくらいすいっと喉を通る。これはきっと、彼女が話していたお酢に違いない! スーパーの閉店時間が近づいている。慌ててお財布を持って家を飛び出した。2本買って、うち1本を治療院に持っていった。ほかのお客を施術中だった彼女に、袋を掲げて見せて「ありました」とささやいた。パッケージの箱を見て彼女の目が丸くなった。その箱を治療院の棚に置いて、家に帰った。すっかり、心が晴れ上がっていた。 最初に他のお客のキャンセル。次は、彼女の思いやり。そして、近所のスーパーに偶然あったもろみ酢。ふふふ。明日からも頑張ろう。神様、本当にありがとうございます。
2005年05月29日
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日記を中断してしばらく経つ。この期間は自分にとって必然的なもので、様々な経験を積んで、新たな考えにたどり着いたのだけれど、今はまだ、それを書く余裕がない。もう少ししたら、また、書き始めよう。 仕事が今、佳境を迎えている。以前に比べ、リスクと責任が格段に重くなったが、修羅場によって自分が日々、鍛えられているのが分かる。こういう機会を与えてくださった神様に感謝しよう。だんだん、切羽詰ってくると、自分自身で、否定的な考えに取り付かれ、自分で自らを追い詰めてしまうのだというのが、よく分かった。自分の見方によって、自分の身の回りに起こるかなりの部分の出来事が左右されるのだと、今は心底、実感できるようになった。 久しぶりにこのサイトを開いたら、何人かの方々が、丹念にアクセスし続けて下さっていた。今後、おそらくお会いすることも無い方々から大きな勇気を頂いている。それがとても、嬉しい。どうもありがとうございます。
2005年05月19日
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池の底を這うような時間がやっと、終わった。太陽の光が部屋の窓から差し込んで暖かい。外を歩いていても、背中を屈めなくて済む。春らしさがそこかしこに満ちている。・・今年の春は本当に嬉しい。 2月から3月は、自分の精神の危機で、例年、いつも生きている意味を見失ってしまう。この一ヶ月半もずっと、自分は何のために生きているのか、自分に問い続けていた。首の辺りがずしりと重苦しく、肩も腰も悲鳴を上げていて、ほぼ、三日に一回は、首から腰にかけてマッサージしてもらっていた。その重みが漸く、抜けたような気がする。 わたしたちの魂は、もう、何百年前(あるいは何千年前かもしれない)から生まれ変わりを繰り返して、様々な経験を積んでいる。とすれば、わたしの一存で、今与えられている生を絶つのはやはり、許されないことなのだろう。そもそもわたしの意識は、無意識という大海にぽかりと浮かぶ孤島のようなもので・・、大海である筈の無意識でさえ、輪廻の繰り返しの中でたまたま、わたしに割り当てられたものに過ぎない。自分ひとりだけで競技をしているつもりだったけれど、実は、壮大なるリレー競技をしているのだと思い知った。わたしは生き抜いて、次の世へバトンを渡さなければならない。 この世の中は、例えば100年と期間を区切ってみれば、矛盾だらけでとても完成されたものとは言えないけれど、地球の歴史始まって以来現在という時間軸で捉えれば、自分の引き起こした原因からある結果を招くというのは必然的で、そういう意味ではとても論理的なのだろう。現世でとても運が良いように見えるひとは、きっと、過去世でとても徳を積んだのだ。 何かの肥やしになるという生き方も、とても意義深いものだと思う。ずっと、ここではないどこかに、自分の居場所を求めて動き続けて来たけれど、今居る場所にどうやって、自分の居場所を築くかなのだ・・と実感したような気がする。わたしはここにいるし、これからも居続ける。そして周りのひとたちの幸せを祈り続ける。それが、唯一、自分の幸せにつながる道だとわかったから。
2005年03月26日
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昨日は自殺した友人の三回忌があって、ご遺族、恩師の方々と、計7人で一緒に墓参りをした後、同じ食卓を囲んだ。昨年の一周忌はみんな、彼女の思い出を語り合ううちにぼろぼろと涙をこぼしたものだったが、今回は、彼女の話題になっても笑顔で終わった。時が最大の薬とはよく言い当てたと思う。法要が3回忌まで続いた後、7回忌まで時間が空いている意味が何となく、わかった気がする。 彼女の甥の、2歳の男の子も一緒に来ていたのだが、2歳とは思えない繊細な表情を顔に浮かべのに、胸をつかれた。はにかむような、淡くやさしい笑み。おなかいっぱいで、食べ物を皿に残していても、おじいちゃんが「食べなさい」とパンを手渡すと快く受け取って一口かじる。自殺した友人は、生まれたばかりの彼を一度、抱いたことがあるという。その3ヵ月後、彼女は命を絶った。「あの子は、娘の小さい頃に似ているので、将来を期待しているんですよ」と、友人のお父さんが話すのを聞いて、複雑な心境に陥った。自分の祖母と伯母が自殺したことが将来、この子に暗い影を落とすことにならないよう、強く、祈った。 不思議なことに、ここ2,3日、過去にお世話になった方々から突然、電話が掛かってきたりメールが届いたりすることが相次いでいる。皆さん、懐かしい方々ばかりで、久しぶりに交流できたのがとても嬉しい。彼女が呼び寄せてくれたのかもしれない。 最近、するべきことが山積みになっているにもかかわらず、どうも気が乗らなくて、ぼーっとした日々を過ごしている。昨日は、久しぶりに飲んだワインが効きすぎて、午後6時過ぎから寝込んでしまった。風邪を引くような嫌な予感があったけれど、ぐっすりと眠れたお蔭で今は爽快な気分。気持ちを切り替えて、やるべきことをきちんと、片付けていこう。
2005年02月13日
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しばらく作っていなかった料理を、再び作るようになった。先日、友人宅でご馳走になったホウレンソウのおひたしが、あまりに美味しかったからだ。「これ、産直か何かで取り寄せたものなの?」とたずねたら、友人は「近所のスーパーで買ったものよ。ホウレンソウは今が旬だから甘みがあるの」と教えてくれた。 それから、馬鹿の一つ覚えのように、毎日ホウレンソウを食べ続けている。おひたし、炒めもの、スープ、お鍋・・。どうやって調理しても違和感無く口に入る。以前にも書いたかもしれないが、作った料理が美味しいと、まるで自分が、全知全能の神様になったような気がする。 別の友人で、やはり料理好きなひとが、「味覇(ウェイパァー)」という中華スープの素を教えてくれた。これがまた、万能スープで、中華料理はもちろんのこと、ラーメン、里芋の煮っ転がし、肉じゃが、おでん、シチュー、ロールキャベツなど、和洋中を問わず、何に入れても美味しい。同じ食材を使って、同じように調理しても、自分が天才になったかと思うほど、ぐっと味の深みが増すのだ。幸か不幸か、煮物を作っても、煮汁が本当に美味しくて、最後まで飲み干してしまう。塩分の取りすぎではなかろうか・・と、不安が頭をよぎる。 ここのところ、何となく無気力な日々が続いて、本を読む気にもなれず、ぼーっとテレビを見る時間が多かった。大好きな筈のひとりの時間を持て余して、正直な話、困っていたのだ。しかし、料理を作り始めると、実際に手を動かすのが面白くて、あっという間に時間が過ぎる。何より、段取りを考える良い訓練になっていて、ありがたいと思う。 外食でも、なるべく野菜を食べるようには心がけていたが、いざ自炊してみると、やはり緑黄色野菜が足りなかったようだ。人参、ブロッコリー、トマト。食器に盛られた料理の色が鮮やかで、嬉しくなる。 面倒でなかなか、取り掛かる気になれなかった自分自身の個人事業の決算と確定申告書の作成を漸く、終えた。2月後半は間違いなく忙しくなるので、少し、ほっとした。まだまだ、やらなければならない事項はそれこそ、山のようにあるけれど、最初の一歩は踏み出せた。良かった。
2005年02月04日
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仙台でお世話になった方の奥様ががんで亡くなり、30,31日と仙台に行って、お通夜、告別式に参加してきた。 行く前は、遺族の方々の嘆きを予想して、とてもつらかった。しかし、実際に行ってみると、かえってわたしの方が大きな力を頂いたのだった。 奥様のことは、何度もお話を聴いていたけれど、実際にお会いしたことはなく、電話越しで1回、会話しただけだった。遺族の方々が奥様の人となりを描写し合っているのを聞くと、まるで、自分のことを言われているような気がした。少数のひとと深く交流するのが好きで、ブランドや社会的な評価にはまるで関心がなく、自分のなすべきことをひたすら追求していたこと、その一方で、大勢のひとたちが愉しんでいるのを見るのがとても好きで、内側に色々な矛盾を抱えていたこと。あまり、他人や物事に執着がなく、自分の内面をひたすら、見つめていたこと・・。 昨年6月、すい臓がんが見つかり、手術して9月に退院したものの、11月にあっけなく再発。最後は、医者に見放された状態で、民間療法に果敢に挑戦したのだという。家族が見守る中、最後、眠るように息を引き取った。 小学2年生を筆頭に3人のお嬢さんがいた。真ん中のお嬢さんはダウン症と先天的な重い心臓欠陥を抱えて生まれ、余命1年と宣告された。しかし、両親揃って「絶対に生き延びさせる」と強い決心でお嬢さんの看病にあたり、元気に3歳を迎えた。そして、長女ひとりが次女を支える負担を軽減するために、三女を出産したのだった。 火葬されてわたしたちの目の前に現れたお骨を見て、目頭が熱くなった。形が殆ど、残っていないのだ。闘病で、最後の最後まで力を振り絞ったのだろう。実際に今年に入って、「生きて元気に立っているのが奇跡としか言いようがない」と医者に言われたという。どうしても生き続けることが出来ない。ご自分の寿命を受け入れたとき、遺族の方々に悔いが残らないよう、遺族に対し「精一杯のことをした」と言えるだけの時間を、与えたのだと思う。 彼女の潔さが伝わってきて、とてもすがすがしい気分になった。彼女は出来るだけのことはすべてやって、この世を去った。43歳という享年は確かに、短すぎるけれど、予め寿命が定められているものだとしたら、彼女はその中で本当に、充実した時間を過ごしたに違いない。 今、わたしにはずっと悩んでいることがあったのだが、ひとの生死を賭けた営みを目の当たりにして、生きているもの同士が、互いのエゴでぶつかり合うことの浅はかさを、つくづく思い知った。いつの間にか、相手に引きずられて自分の視座までも、とても低くなっていると、はっとした。今回の仙台行きによって、本当に大切なことを、教えられたのだ。
2005年02月01日
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仙台時代、本当にお世話になった方から、昨夜、奥様が病死された由、メールが届いた。30日夜に通夜、31日、告別式を行うという。急遽、仕事の都合をつけて、仙台に行くことにした。 この方は、本当に波乱万丈の人生を送っていて、これまでも苦難の中から意味を見出して、その都度、力強く前へ踏み出して来られた方だった。しかし、小学2年生を筆頭に3人のお嬢さんが後に遺され、うちひとりのお嬢さんは、重い心臓病とダウン症にかかっている。しかも奥様は、その方にとって最大の理解者だった。想像するだけで、心細くなって来る。 この方のお話を伺うと、人生の中で、様々な経験を積むことが最上の喜びなのだ・・という思いをいつも、新たにする。今回もきっと、これまで通り乗り越えて行かれるのだろう。しかし、乗り越えるたびに、何ともいえない疲れがその方に溜まっていく。どうして、こう次々と、苦難に見舞われなければならないのだろうか。何か、修正しなければならないものを、そのままにしているからか。しかし、その方は今までの経験を経て、はるかに洞察が深くなっている。しかし、それでもなお、まだ足りないのだろうか。 2月は自殺した友人の誕生月で、命日でもある。だから毎年、この辺りになると何となく心がしんと冷えてくるのだが、今回のことで更に、冷えが強まる気がする。考えても考えても結論が出ないことを承知で、考えざるを得ない。底なし沼にずぶずぶとはまっていくような感触が広がる。
2005年01月28日
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先程放映されたNHKテレビの番組で、赤ちゃんが母親の胎内にいるときから、顔の表情を動かし微笑んでいることが紹介されていた。産婦人科の医師は「周囲の大人から温かく世話してもらうための自己防衛能力として、生まれる前から笑顔になる方法を身に付ける」と解説していた。 番組の中で赤ちゃんに対し、母親が無表情で向き合うと、赤ちゃんは一生懸命笑顔を作って、母親の機嫌を取ろうとする。それがとてもいじらしかった。 電車の中や交差点で信号を待っている途中、赤ちゃんを抱いた女性と隣り合わせになることがある。目が合うと、可愛くて思わず微笑むのだが、最近、何の反応も示さない赤ちゃんが珍しくない。テレビの前に置かれていることが多いのだろうか・・と少し、気になっていた。今日の番組を見て、周囲の大人がちゃんと、微笑んでいないのかもしれないと思った。赤ちゃんがいくら表情を和らげても、周囲の大人の態度が変わらないとしたら、赤ちゃんは微笑むのを諦めてしまうだろう。 誰かに笑顔を向ける。1銭のお金もかからないのだから、気軽に出来そうなものだが、疲れていたり落ち込んだりすると、難しくなる。パートナーの協力を得られず、24時間、赤ちゃんの世話に追い立てられたら、肉体的にも精神的にもへとへとに疲れてしまうだろう。それでも赤ちゃんの身近にいる大人は、出来るだけ機会を作って、温かい表情を溢れるほど注ぎたいと思う。無表情の赤ちゃんが珍しくないといっても、5人にひとりぐらい、とても嬉しがってくれる赤ちゃんと出会えるのだ。そんなときは一日中、自分の心が温かくなる。 幼児虐待で凍えそうな時間を耐えている幼子がいる一方で、愛情を注ぎたいのに周囲に幼子がいないのを寂しく思う大人もたくさんいる。架け橋があったら、お互いにとても満たされるのに、なかなか実現しない。
2005年01月25日
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いつの間にか、こんなに日にちが経っていて驚く。時間軸、あるいは、時間の流れに対する感覚がずい分、ずれているかもしれない。 昨年末、風邪を引いて、いくつか仕事を延期してもらったので、年明けはばたばたと慌しかった。個人事業を営む友人の確定申告の準備、3,000字の論文の第一稿の作成、毎月恒例の出張。その中で、16~19日と香港旅行の予定を入れていたので、少し冷や冷やした。 香港旅行は、外資系に勤める年上の友人が、香港で海外研修を受けることになり、ホテルでツインの部屋を割り当てられたので誘ってくれたのだった。彼女はかれこれ6年の付き合いで、気配りの行き届いたとても信頼できるひとなのだが、この間の旅行は非常にぴりぴりとしていた。これまで自分を高く評価してくれていた直属の上司がリストラにあって退職し、ウマの合わない年下の男性がそのポストに移ってくることになり、自分もいつリストラされるのか・・と不安でたまらないという。彼女にはパートナーの男性がいるのだが、彼との関係もあまりうまくいっていないらしい。この3ヶ月間で彼女はストレスで10キロ太ってしまった。3日目の夜、彼女に「仕事を変えることを考えてみたら?」ともちかけたら、それが逆鱗に触れてしまったらしく、ぷいとホテルの部屋を出て行ってしまった。翌日、早朝から彼女は研修に出かけてしまい、結局そのままゆっくり話す間もなく、わたしは帰国した。 もしかしたら、彼女を失うのだろうか。そう考えたら気持ちがどんどん沈んで、どん底にいる気分を味わった。今は、数人のひとたちと親密に交流する生活を送っていて、彼女は大切なその中のひとりだから、彼女を失うのはとても応える。改めて、自分の中の優先順位を確認したような気持ちだった。お金や仕事を失うとしたら、確かに不安になるだろう。しかし、大切なひとを失うことに比べたら、全然たいしたことではない。唯一の慰めは、夜空に月が煌々と浮かんでいたこと。香港でも彼女と二人で月を見上げたのを思い出し、彼女もきっと、同じ月を眺めているに違いないと思った。香港、東京と物理的に離れているけれど、月を通して、彼女とつながっているのが感じられた。 香港は、何だかとても活況に満ちていた。2年ぶりに訪れた友人は、物価が高くなったのに驚いていた。ショッピングをしても、高級品の品揃えが充実している。16日の夜は、街中のいくつもの広場で、何百人ものフィリッピン人のメイドたちが新聞紙を広げて座り込み、がやがやとおしゃべりしていた。週に一度の休みである日曜日、彼女たちはそうやって情報交換をするのを何よりの楽しみにしているという。その人数の多さに目をみはった。繁華街はどこも、人出で溢れており、レストランに入れば、テーブルを埋め尽くした客たちが、一生懸命おしゃべりしながら、一生懸命食べている。 香港人の中に果たして、うつ病やひきこもりのひとはいるのだろうか・・と思った。食事や遊び、仕事に対するエネルギーの投入の仕方が日本人の比ではない。何もかも一生懸命取り組んでいる。泊まったホテルのメイドにも、感心したことがあった。わたしたちが洗面台の上に置きっぱなしにしていた化粧品の壜を、棚にきれいにディスプレイしてくれたのだ。日本だったら、隅のほうにまとめて置くだけだろう。その遊び心と、より居心地の良い空間を作ろうという意気込みが嬉しかった。 あの狭い空間に、高層ビルや高層マンションがひしめいている様子を見ると、ここには自分の居場所は無いような気がしたが、あのエネルギーは羨ましかった。
2005年01月24日
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新年、明けましておめでとうございます。昨年、しばしば更新を怠ったにもかかわらず、定期的に訪れて下さった皆様、本当にありがとうございました。今年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。皆様にとって、この一年が、実り多いものとなりますように。 2005年のカウントダウンは、お台場のレストランで迎えた。31日午後10時から、レストランの厨房の棚卸立会いの仕事が入っていたのだ。近くにフジテレビがあって、カウントダウンのイベントが行われていたので、年が変った瞬間、観客の大声が聞こえて来て、すぐに分かった。お店のスタッフのひとたちと、一緒に握手しながら祝った。今年こそ、軸の乱れが少しでも、修復されますように。生きとし生けるもの全ての安寧を、静かに祈った。 午前1時に仕事が終了し、千葉の実家へそのまま直行した。電車が深夜運転されていたので助かった。両親の顔を見たら、安心してしまって、久し振りに熟睡した。12月は、体調不良でおよそ月の半分は臥せっていた。やはり、変な1ヶ月間だったと思う。良いタイミングで年が切り替わって、ほっとした。元旦は、離れて住む弟夫婦も合流して、5人でわいわいおしゃべりしながら、おせち料理を囲んだ。 数日前に日記に書いた、困った状況に置かれている友人と漸く、連絡がついた。本人は落ち着いていたけれど、詳しく話を聴くと、想像通りのことが進行していた。わたしにもかかわりがあることなので、ふたりで対応しうる方法を色々と、話し合った。因果応報という言葉をつくづく、思う。今の状況は、あるひとが(わたしたちから見れば)常軌を逸した行動を取ったことがきっかけとなっている。そのひとがそんな行動を取る前は想像だにしなかったことが、将来の行動のシミュレーションに入ってくる。そのひとが、あることを防ごうとして突発的に行動を起こしてしまったが故に、本人が望んでいるものとは全く違う方向へ物事が進みつつある。あらゆることは、自分が引き起こしたもの・・というのは、まさに、こういうことを指すのだろう。感情に突き動かされてそのまま行動に移してしまうと、思わぬ余波をひとに与えてしまい、結果として自分に跳ね返って来る。そして一層、苦しみが深くなってしまう。自分も気をつけようと深く肝に銘じた。
2005年01月02日
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今日、東京に初雪が降った。最初は霙だったが、次第に本格的な雪になり、梅干し大の白い結晶が、途切れなく空から降ってくる。道路には全く積もらなかったけれど、札幌の冬を思い返した。こんな景色が、札幌では日常茶飯事だった。 最初は用心して家にいたが、次第に外を歩いてみたくなった。年賀状の束を持って午後3時過ぎ、近くの喫茶店へ向かった。身体の芯が冷え冷えとするような寒さが、すがすがしくて懐かしい。思わず背筋が伸びる。喫茶店に着いたら、年賀状書きに励んでいる先客がいて、仲間だとおかしくなりながら、隣に座った。 予め、パソコンで宛名も印刷しているので、相手の名前を見ながらメッセージを書き込んでいく。1,2行で済ませれば、あっという間に全ての年賀状を書き終えるのだろうが、年に一度だと思うと、ついつい文章が長くなる。去年も確か、29日辺りから本腰を入れて書き始めたのだった。どうして、毎年、同じように遅くなってしまうのだろう。 しばらく書くと、ひじがだるくなってくる。しかし、はまると年賀状書きがとても愉しくなって来る。みんな、どんな一年を過ごしたのだろう。年賀状は、円と円の接点かもしれない・・と思った。日頃は全く異なる軌跡を描いている私たちが、年賀状のやり取りを通じて、そこだけはつながる。電子メールに変更すればずっと楽なのは分っているけれど、続けられるうちは、このスタイルを取っていこう。
2004年12月29日
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昨夜、あるひとから電話が掛かってきて、その結果、わたしのたいせつな友人が今、困った状況に置かれているのを知った。そのひとの携帯電話に何度も連絡を取ってみたが、相手は出ない。胸が塞がれるような思いで床についたが、ほとんど眠れないまま、朝を迎えてしまった。 幸い、熱が下がっていたから、そろそろと起き出してシャワーを浴び、近所の神社へ、友人の無事を願いにお参りに行った。神社からの帰り道、親しい別の友人にばったりと出会った。前に日記に書いた、仙台時代に親しくなり、今も近くに住んでいる女性記者だ。彼女と会うのはあの時以来だったから、やはりふたりともびっくりした。聞けば、彼女は今日、泊まり勤務なので夕方までに出勤すれば良いという。それではと、ふたりで一緒にお昼ご飯を食べた。 彼女が案内してくれたのは、若夫婦が一生懸命店を切り盛りするフランス料理店。居抜きで借りたらしく、店構えは居酒屋だけれど、店内はオレンジを中心とした暖色系で飾られ、とても居心地が良い。身体に良い食材を丁寧に調理してくれるのが分る料理を出してくれた。まともな食事を口にするのは殆ど、5日ぶりだったけれど、胃にするすると入る。ひとと話しながらの食事はやはり美味しいと、かみしめるように味わった。出勤する彼女を駅まで見送ったら、昨夜から胸に巣くっていた冒頭の友人への不安がきれいさっぱり消えているのに気付いた。 この世にはやはり、大いなる存在がいらっしゃるに違いないと思うのは、こんなときである。今日、彼女と偶然出会わなかったら、わたしは今も、友人を心配し、友人と連絡がつかないことに不安を募らせていただろう。しかし、彼女とゆったりした昼食を一緒に食べたお蔭で、連絡を寄越さないのは、友人の都合があるからだろうと静観できるようになった。神様のご加護をしみじみと感じる。今日の彼女との出会いを偶然で片付けるには、それこそ、無理がありすぎるように思う。 近頃、投資とか儲けといった言葉に、全く実感を持てなくなってしまった。この世で金儲けをして一体何になるのだろう。お金はあの世に持って行けないのに。お金で手に入れられるのはあくまでも物質である。物質で手に入れられる幸せの価値が、どんどん小さくなっていく。例えば今日の体験を、お金で買おうとしたって、不可能だろう。もちろん、わたしも人間だから、生きていくためには一定のお金は必要であるし、だからこそ働いているけれど、それ以上のお金を持つ意味が本当に分らない。お金を持って幸せになれるひとは、別の意味で、単純で良いな・・と思う。
2004年12月28日
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24日に発熱して、4日間連続、臥せっている。体温を測ると38℃以上になることがしばしばで、驚く。インフルエンザではなかったのが、幸いだった。25日に近くの病院へ行って薬を処方してもらったのだが、抗生物質が効かず、喉と口内炎の痛みに悩まされた。27日、再び病院へ行って違う抗生物質を処方してもらい、漸く痛みが軽減した。 うつらうつら寝ながら脳裏に思い浮かべたのは、正岡子規の日記「仰臥漫録」の文章だった。脊椎カリエスの患部が化膿し、激痛が走り、思わず子規は号泣する。さもありなん・・と思った。痛みの一番ひどかった昨日(26日)、明日になれば適切な薬が手に入るからと、それが大きな救いになった。しかし子規の頃は、カリエスに効く薬も、抗生物質も無かったのだから、苦しさが消えることは無かっただろう。わたし自身、今も、何かを飲み込む度に、口内炎と喉の痛みに悲鳴を上げているけれど、あの頃のことを考えたら、愚痴は言えないと思う。確実に、医学は進んでいるのだ・・・。
2004年12月27日
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このところ、体調がしっくりこないと思ったら、案の定(?!)久しぶりに本格的な風邪を引いてしまった。1日目の夜、食べたものをすっかり戻してしまい、以後2日間、ずっと起き上がれなかった。体重がこの3日間で、2.5キログラム減少した。 4日目の今日もふらついているが、論文の締め切りが近づいている。自分を励ますように、近所の図書館へパソコンと資料を持って出かけた。数時間前は、画面がぐるぐる回って、見ているだけでつらかったが、漸く、焦点が落ち着いてきた。何日間も、日記の更新を休んでしまって本当にごめんなさい。 今日、4日ぶりにパソコンのメールソフトを立ち上げたら、懐かしい友人たちからの返信が相次いでいて嬉しかった。不思議なことに、最近、友人たちとのメールのやり取りの間隔が空いている。メールを送信してから、1ヶ月、2ヶ月と経って漸く返事が来る。わたしも、何となくすぐには返信を出す気になれなくて、少し時間を置いてから出す。しかし、相手とのつながりが切れるとか、薄くなるといった心配はまるで起きない。相手にも自分にも、気が進まない何らかの事情があり、今、強引にことを進めるよりも、機が熟するまで待った方が得策なのだ・・と自然に分るようになった。 寝ている間、旧約聖書の解説書を読んでいた。風邪で倒れる直前、偶然、友人が貸してくれたのだ。登場人物が、時には神様から啓示を与えられ、預言を述べて奇跡を起こす一方で、神様の怒りに触れて、殺されたり、財産を奪われたりする。神様って一体、何なのだろう。
2004年12月21日
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久しぶりに、頭がくらくらするほど、怒りを覚えた一日だった。普段、静かな時間を過ごしているだけに、怒りに対する免疫が大きく落ちている。あたかも、しばらくお酒を飲まないと、少し飲んだだけで酔っ払ってしまうように。 なぜ、それほど怒りを覚えたのか・・と後から振り返ってみると、どうやら、以前、相手から受けた理不尽なことについて、自分の感情を処理できなかったからだと思い当たった。相手を見ないと、そういった感情は忘れていられる。しかし相手から、自分の感情を惹起するようなことを言われてしまうと、どこかにいっていた筈の感情が込み上げてしまう。忘れるだけでは、何も解決しないのだ。どうしたら、感情を流せるのだろうか。 まもなく、感情を鎮めることが出来たが、ぐったり疲れてしまった。自業自得だろう。ここのところ、食事をないがしろにしていたのを思い出して、手作りの和食の定食を出してくれる店へ行った。かつお節と昆布のだしで作られた味噌汁が、お腹に染みる。食事に救われている間は、まだ、希望があるだろうと思った。 明日から大分へ、3泊4日の出張に行く。慌しい時間が続くだろうが、せめて、ゆっくり温泉に浸かる一瞬があると嬉しい。
2004年12月09日
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夜のテレビニュースをつける。どこも、IBMのパソコン事業を、中国企業が買収したことを大きく特集していた。アメリカと中国の地位が逆転する、象徴的なニュースになるかもしれない。 ダイナミックな時代の変化を肌身に感じる。学生時代、世界史を勉強していて時間の密度が均等でないのを不思議に思ったことがある。平和な時代はゆったりと過ぎていたものが、変革期になると、短い時間の間に、驚くほど多くのことが、ばたばたとたたみかけるように起こる。ここ10年を振り返ってみると、ますます密度が濃くなっていて、時間の「圧力」は高まる一方だ。 逆に、自分の生活はますますシンプルになっている。静謐と言っても良いかもしれない。仕事と、勉強と、読書と、散歩。時々、ひとりでお酒を飲みに行く。友人と会うのは月に数回。世間と自分の内側で時間の流れ方のギャップが広がり、不思議な感覚がある。まだ、動きたくない自分がいる。階段の踊り場にいるのか、それとも全く異なる方向へ踏み出しているのか。 珍しく仕事が立て込んでいて、肩と腰が凝って痛い。今日はもう、寝よう。
2004年12月08日
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明日は、普段とてもお世話になっている横浜の友人のお誕生日なので、今日はその前祝いをしに、彼女の家へ行った。料理の堪能なひとで、普段なら、何もしないで食卓に座り、彼女が色々なものを出してくれるのをただ、ぼーっと待っているのだが、今回は、無性に自分の手を動かしたくなった。エリック・ホッファーの影響だろうか。 誕生祝いの夕食会の参加人数は、わたしたちを入れて4人。午後6時半スタートという段取りになっていて、準備に取り掛かったのは、午後2時過ぎだった。 まず、彼女と献立を打ち合わせる。野菜スティックに、セロリ、スモークサーモン、サワークリームを合わせたディップを添える。豆のサラダ。鶏肉と花豆のシチュー。生春巻き。ブロッコリーとかぼちゃの炊き合わせ。豚しゃぶ肉、白菜、セロリ、香菜のスープ。そしてデザートに、シュークリームを作ることにした。買い物の必要な食材を二人でリストアップし、シチューの下ごしらえに取り掛かる彼女を家に残し、ひとりで買出しに出かけた。 リストの食材をかごに入れていったら、いっぱいになった。ひとり暮らしでこんなに食材を買うことは滅多にない。それだけで、とても豊かな気分になった。彼女に家に戻って、二人で一緒に作るのが面白かったこと。今まで、この愉しみは知らなかったと思った。 シュークリームを作るのは多分、10年振りぐらい。間抜けなことに、最初、水を入れ忘れてシューが全く膨らまず、作り直しすることにした。失敗作を、彼女が上手い具合にカナッペに仕立ててくれて嬉しかった。二度目は無事に膨らみ、カスタードクリームに生クリームを合わせて、皮に詰めた。 2本のシャンパンも手伝って、夕食会の会話は弾み、生き生きと時間が流れた。自分の想像以上に、気分転換を欲しているのだと、痛切に思った一日だった。
2004年12月05日
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須賀敦子さんが、「ユルスナールの靴」というエッセイを、次の文章から始めている。 「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。」 札幌に住んでいたころ、雪で凍りついた地面を歩くのが非常に難儀だった。つるつる滑って、油断した途端、すってん!と転んでしまう。いつだったか、交差点のど真ん中で脇腹を地面にたたきつけられて、息が出来ずに途方に暮れたことがあった。たまたま側を歩いていた中年の男性が手を差し伸べてくれて、漸く、起き上がった。根雪の上を歩くというのは、恐怖に他ならなかった。 その頃買い求めた、くるぶしまでの丈のブーツが、とても頼りになった。革製で暖かく、底のゴム版の表面がぎざぎざしていて、雪の上で転ぶのを懸命に防いでくれていた。東京に引っ越すことになっても大事に持ってきたのだが、昨年の今頃、靴を履いたまま、階段につまづいて、かかとの底のところが取れてしまい、そのまま靴箱に1年間、眠っていたのだった。 先程、思い立って、このブーツのかかとを直してもらった。インターネットで靴の修理をしてくれる場所を探し、地下鉄に乗って行ったのだ。10分もしない内に修理は終わって、ブーツに履き替えた。・・「馴染む」という言葉を久しぶりに、思い出した。外側は色がはげているし、あちらこちら痛んでいるけれど、ブーツ自体が、足を柔らかく包み込んでくれて、この履き心地の良さは、なかなか無い・・と思った。多分、新品のブーツと取り換えてあげるから、その靴をちょうだいと言われても、わたしは「どうぞ」と差し出せないだろう。 ブーツの底が昨年、壊れていなかったら、昨冬で履きつぶしていたかもしれない。故障したお蔭で、今冬、このブーツで過ごせる。少なくとも今は、「きっちり足に合った靴」が自分の手許にある。心細い日々が続いている中で、その事実がとても心強い。
2004年12月04日
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風邪を引いて、ぐずぐずした一週間を送った。仕事の締め切りが入っていて休めなかったので、薬で症状を散らしながら過ごした。昨日、漸く仕事を終えて油断してしまったのか、昨夜から今朝にかけて咳が止まらない。病院で診察してもらって抗生物質をもらい、やっと体調が落ち着いた。 病院からの帰り、仙台で一緒だった新聞社の先輩とばったり会った。本社の経済部に属しているそうで、忙しそうだった。「今、何しているの?」とたずねられて、正直に答えたが、相手はよく理解できないようだった。改めて、今は、お互いの世界が全く異なっていることを痛感した。あの4年半、かけがえのない数々の出会いに恵まれたが、やはり、あれ以上そこにいることは不可能だっただろう。傍から見たら訳のわからない選択かもしれないが、自分ではそれ以外、進みようがなかった。 昨日、帰宅途中に買い求めた大根が家にあったので、数種類の練り物と人参を買って、おでんを作った。久しぶりだったけれど、想像以上に美味しくて、満足だった。瑞々しい大根で、皮をむく間、水分がしたたるような気がした。土の中の養分をたっぷりと吸っている。・・今、しんどくないと言ったらきっと、嘘になる。しかし、真正面から受け止めようと思った。いつか、今日の大根のように、自分自身の瑞々しさを、しっかりと実感できる瞬間が来るに違いないから。
2004年12月03日
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エリック・ボッファーの自伝に「運命の極点」という題のエッセイが含まれていた。 ロサンゼルスの州立無料職業紹介所で臨時のアルバイトを見つけては食いつなぐという生活を続けていたホッファーが、生まれて初めて就いた定職が、ユダヤ人シャピーロが経営する導管倉庫の仕事だった。ホッファーはシャピーロとの間に友情を育み、ここでずっと働くのも悪くないと思い始めていた。ところが、ホッファーが27歳のとき、シャピーロは肺炎で亡くなってしまう。ホッファーは、それが運命の極点のように思えて、1年間、働かずに読書の日々を送ることを決意する。その期間に、残りの人生をどうやって過ごすか考えようと思ったという。 最初に「極点」という言葉を目にしたとき、その意味がよく分からなかった。頂点なのだろうか、それにしては、言葉の響きが寂しいと思った。今日、70代の友人と会う機会があったので「極点」の意味を質問した。 「ある放物線があるとすると、その頂点が極点だ。しかし、本当ならまだまだ上り詰められるのに、その段階まで至っていないから、頂点とは言わず、極点と言うのだね」。年上の友人はそう、解説してくれた。ホッファーのエッセイのことは何も相手に説明しなかったのに、その解説があまりにもホッファーの味わった心境にぴたりと当てはまる気がして、はっとした。そうか、ホッファー自身、シャピーロの若死が、とても悔しく悲しかったのだろう・・と思いを馳せた。と同時に、ホッファーの使った単語(どんな英単語か知らないが)に、きちんと「極点」という日本語をあてはめてくれた、翻訳者の中本さんに改めて、頭が下がった。 今まで、あまりにも思考に走り過ぎていたのでは・・と思った。実際、手や身体を動かすことをせずに、頭だけをぐるぐるめぐらせていたものだから、すぐに行き詰ってしまうのではないか。65歳まで肉体労働を続けながら、読書と思索の日々を送ったホッファーの力強い文体を目の当たりにして、自分の脆弱さを痛感する。これまで、どんな環境にいても「ここは自分の本当の居場所ではない」と、違和感ばかり味わっていたが、そろそろ、自分の場所を見つけて、自分の両足ですくっと立ちたいと、強く願う。
2004年11月28日
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導かれるように、書店に入ることがある。 夕方、御茶ノ水駅の改札口で友人と別れて左へ顔を向けると、目の前に書店があった。ふらふらと歩きながら書棚を見ていたら、「沖仲仕の哲学者」という単語が目に留まった。「エリック・ホッファー自伝」とある。表紙をめくったら、しわが刻み込まれ、立派な鼻とつるつるの頭をした初老の男性の顔写真があった。「アメリカの社会哲学者・港湾労働者」という肩書きが妙に、気になった。 からからに乾いた砂地に水が染み込むように、文章がすとんと入ってくる。立ち読みしていたのだが、文章に線を引かないで読み進めるのが、どうにも我慢できなくなった。本を買い求めて、近くの喫茶店に行った。 「自己欺瞞なくして希望はないが、勇気は理性的で、あるがままにものを見る。(中略)希望に胸を膨らませて困難なことにとりかかるのはたやすいが、それをやり遂げるには勇気がいる。(中略)絶望的な状況を勇気によって克服するとき、人間は最高の存在になる」 「弱者が演じる特異な役割こそが、人間に独自性を与えている。(中略)人間の運命を形作るうえで弱者が支配的な役割を果たしている」 「地球上の何ものとも異なる人間の崇高なユニークさに、突然心を打たれる。(中略)そうした出会いには、他の惑星からやって来た何かに遭遇したときのような、寂しさがある」 「慣れ親しむことは、生の刃先を鈍らせる。おそらくこの世界において永遠のよそ者であること、他の惑星からの訪問者であることが芸術家の証なのであろう」 翻訳なさった中本義彦さんに、感謝したい。あたかも、ホッファーと、日本語で会話しているかのような、不思議な温かさが、胸の中に残る。今日は、神様から、大きな贈り物をいただいた。
2004年11月26日
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今日は、伊豆半島まで出張。午後9時ごろまで淡々と仕事をしていたが、東京に戻り始めて、嬉しいことが次々と起こった。 ひとつめは乗換駅の熱海で。ローカル線を降りて新幹線が来るまで50分近くあったので、駅員さんにお願いして、外に出させてもらった。駅前の焼き鳥屋さんに入って「何か、ご飯を食べさせていただけませんか」とお願いしたら、おかみさんが親切なひとで、メニューに無い賄い料理を食べさせてくれた。「野菜不足なんです」と話したら、ゴボウと人参のきんぴら煮まで出してくれた。出汁がよくきいていて、味に広がりがあった。 ふたつめは、近所のBarで。帰りの新幹線で一眠りしたら、何だか、急にお酒が飲みたくなって、ひとりでお店へ行った。マスターに、ブランデーを使ったカクテルを注文したら、酒瓶が並んでいる棚の前でちょっと首を傾げて、何と、コニャックを取ってくれた。ストレートで飲んでもとても美味しいお酒をカクテルに使うという贅沢さ。丁寧で繊細な味がする。あたかも、お茶の点前を頂くように、大事に、少しずつ味わった。 そして最後。午後12時近くなって、突然、携帯電話が鳴り出す。午後9時ごろ掛けたのだが、出なかった友人からだった。たまたま、わたしの居場所のすぐそばを通りかかっているというのが分かり、近所の別の喫茶店で落ち合った。珈琲を一杯だけ飲んで、相手を見送った。 そのひととは昨日、手賀沼を一緒に歩いたのだが、帰りがけ、へとへとに疲れてしまって、ずっと黙りこくったままだったのだ。今日になって、申し訳ないことをしたな・・と気に掛かっていたから、直接会って、お詫び出来たのが嬉しかった。 悲しみも喜びも、あまりにありありと胸に響くものだから、その度に心の内側が感動で震えて、しんどくなる。翳りが深くなればなるほど、喜びも輝きを増すのだろうか。
2004年11月24日
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昨日に引き続いて、今日も散歩。我孫子まで足を伸ばして、手賀沼の周りを歩いてきた。 千葉県出身なのだが、わたしが子どもの頃は、手賀沼の水質汚染がひどくて、小学校時代も「何とかその対策を立てなくてはならない」と教わった。ところが、今日、久しぶりに行ってみたら、水質浄化がだいぶ進んでいて、遊歩道は、ウォーキングやサイクリング、犬の散歩をするひとたちで賑わっていた。千葉県がこんなに地道な活動に精を出すなんて、正直言って、びっくりした。 手賀沼は、志賀直哉や有島武郎ら白樺派の文人たちが集った土地で、丁寧な解説版が沼のそばに設置されていた。恥ずかしながら、白樺派の発祥の地が、我孫子だったというのを、今日、初めて知った。どうも、自分の知識はばらばらに分断されている。 今日も空が青く澄み渡っていて、夕焼けの茜色が透き通っていた。夕陽が水面に映る様子を見たかったのだが、生憎、日暮れ時は、沼の西側を歩いていて、見損ねてしまった。沼は東西に蛇腹状に横たわっていて、南北を通る橋が中央に一本しか無いのだ。まあ、また別の機会にしよう。 話は変わるが、インドに本社のあるIT企業に就職した高校時代の友人が、今日、インドへ研修に旅立った。彼女の行動力には本当に感心させられる。たまたま、手賀沼の上空を飛行機が飛んでいて、それを見ながら、彼女の健闘を祈った。
2004年11月23日
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何となく、身体に力の入らない日々が続いている。ぼんやりとして、意識を一つに集中出来ない。ここのところ、文章を書くのも億劫で、日記を休みがちになっている。度々、サイトへ訪れて下さる方々、本当にすみません。 20、21日と、仙台の友人に会いに行って来た。相手は病で5ヶ月間、休職して今月、復帰したばかり。お互いに、心持ちの状況が似通っていて、ぽつぽつとしか言葉を交わさなかったけれど、同じ時間を共有できたのが、恩寵のように感じられた。いまいち気持ちが乗らなくて、20日の朝、新幹線に自分の身体を乗せるまでが一苦労だったけれど、行って良かったとしみじみ思った。 仙台市内の街路樹は、紅葉の美しい盛りで、ケヤキの赤茶色とイチョウの黄金色にただただ、見惚れた。記者時代、書けなくなったり、気持ちがすっきりしなくなったりすると、無意識に並木の下を歩き回っていたのを思い出した。考えていた以上に、木に助けられていたのだと思う。 あの頃は、記者である自分にとても違和感があって、「どうしてこんなことをしているのだろう」と度々自問自答していた。街路樹の枝ぶりや木の葉に目を奪われながらも、周囲が絵画のように思えて、あまりの実在感の無さでくらくらと目まいがした。今回、久しぶりに仙台市内を歩きながら、少なくとも今は、それとは全く状況が異なると思った。苦しいのは同じだけれど、歩むべきプロセスの中で、味わうべき感情をかみしめている実感がある。先が全く見えないのは変わらないが、きっと、前へ進んでいるのだろう。 今日も、仕事が休みだったので、快晴に誘われて、神宮外苑のイチョウ並木を見に行った。歩きやすい靴を履いていったので、調子に乗って、表参道のケヤキ並木を見に行ってまた神宮外苑に引き返し、その後、四谷~市ヶ谷~飯田橋まで歩いた。外堀通りを歩く頃にはすっかり日が暮れて、ライトを煌々とつけて走る電車が、お堀の水面に反射して、あたかも銀河鉄道のようだった。宮沢賢治にこの光景を見せて上げたいと思った。しかし、ひとりで歩くとどうも、早足になっていけない。最初はリラックスして歩いていたのに、神楽坂の喫茶店に入ったら立てなくなってしまって、1時間以上もうつらうつらしながら休んでいた。 浪人時代、千駄ヶ谷の予備校へ通っていたので、今日のルートは当時からよく歩いていた。もう、あれから15年も経っているのに、全く飽きない。もしかしたら、15年後も同じことをしているかもしれない。とすれば、将来にばかり目を向けるのではなく、今のこの瞬間を、大切に味わえば良いのではないか。自然と、そんな考えが頭に浮かぶ。もしかしたら、あまりにも今という時間をないがしろにしていたのではないか・・。
2004年11月22日
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昨夜は、親しい友人と、3ヶ月振りに会った。ここのところ、お互いに何となく不調が続いていて、メールさえも、何週間も間隔が空いてしまっていた。待ち合わせ場所に行く前は、全身がけだるくて、自分の身体を持て余していたのだが、彼女と話すうちに、すっかりと気分がほぐれていた。普段は快活な彼女が、とても情けなく悲しいことがあって家にいられなくなり、土砂降りの雨の夜、箱根湯本の旅館へひとりで駆け込んだのだと言う。わたしたちは皆、それぞれ違った地獄と向き合っているのだと思った。今度は、箱根湯本に行く代わりにわたしの家へ来てと、話した。 一昨日、NHKスペシャル「地球大進化」を観た。わたしたちホモ・サピエンスの前に、19種もの人種が存在したことを初めて知る。そのいずれもが、絶滅したという。19種のうち、最後に絶滅したネアンデルタール人は、ホモ・サピエンスと脳の発達状況や体格、外見などよく似通っていたという。それにもかかわらず絶滅したのはなぜか。思わず引き込まれた。 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの違いは意外なところにあった。ネアンデルタール人の方が、喉ぼとけの位置が高かったのだ。喉の長さが短いため、発音出来る音の種類が限られてしまう。その結果、言葉の数が限定され、狩りのノウハウの共有や伝達などの遅れにつながったという。言葉の制限が種の絶滅を引き起こした。一瞬、茫然としてしまった。 ここのところ、言葉の持っている力の広がりに驚かされてばかりだ。
2004年11月16日
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九段下の山種美術館で開催されている「速水御舟」展へ行った。2、3週間前、NHK教育テレビの「新日曜美術館」で紹介されているのを偶然見て、興味を惹かれたのだった。 40歳の短い生涯が信じられないほど、充実した作品群だった。くもの巣や、紫陽花の葉脈、椿の花びらひとつ。どの絵も、一筆、一筆、気の遠くなりそうなぐらい丹念に、描き込んでいる。日本画なのに、紫陽花も椿も、どっしりとした質感と立体感がある。何故だろうと思ってじっと目を凝らしたら、その理由が分った。葉の重なりによって生じる微妙な色の違いや影を、きちんと描き分けているのだ。新たな画風に挑戦し続けた画家の気迫が、しみじみと感じられた。 しかし、一番ずしりと心に響いたのは、画家の文章だった。信念だけで新たな画風を生み出そうとしてもそれは出来ない。人生における衝動をわが身に帯し、それを一つ一つ踏み越えていくしかない。自然もそれによって人間を試している。そんな内容だった。周りにたくさんのひとがいるというのに、涙があとからあとから溢れる。心の内側の琴線がぶるぶると震えて、嗚咽をこらえるのが一苦労だった。 今はまるで先が見通せないし、不安に満ちているが、必要不可欠なプロセスを歩んでいるのだと、信じよう。これだけ感性が研ぎ澄まされ、感動が深くなっている。今日のような感動に身を浸すと、あたかも荒波をざぶんとかぶった後、波がすーっと引いていくかのように、けだるさが残る。これも衝動とみなせないだろうか。ふと、そんなことを思った。
2004年11月14日
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この一週間は、不思議な形で流れた。 月曜から水曜まで、大分へ出張。ばたばたしていて、睡眠時間4,5時間だったけれど、目の前に片付けなければならない具体的な仕事が山積みされると、とても気分転換になるというのが分かった。ずっと考え続けていたことからしばし解放されて、ほっとしたような、寂しいような心持ちになった。プラトンの「饗宴」を持っていったけれど、なかなか集中して読めなかった。 木曜日。勤務先の人間関係のストレスで胃に穴があき、今月から休職して療養している友人を見舞う。夏前、仕事を辞めるかどうか相談を受けた時、「まだ、対処の方法があると思う。もう少し、様子を見たら」とアドバイスしたのだった。わたしの前では気丈に微笑んでいたが、帰りがけ握手をしたら、彼女の手があまりにもか細くなっていて、握手が終わっても10分近く、ただ手を握っていた。このまま手を離したら、彼女までどこか行ってしまいそうな気がして。何とか、勇気付けの言葉を贈りたかったけれど、情けないぐらい思いつかなかった。「自分も加害者だ」という思いが頭の中を何度も、こだました。本を読もうと思っていたけれど、どうしてもその気になれなかった。 昨日から今日にかけて、「饗宴」を読み終えた。 ソクラテスが、エロスの本質を演説する際、達識の婦人から次のように教えてもらったと語る。「美を観るべき器官(心眼)をもって美を観る人は、ここで、ただここだけで(中略)、真の徳を(中略)産出するに成功する」「真の徳を産出してこれを育て上げた者は神の友となることを許される」「人間が不死となれるものならば、彼にこそその特権が賦与される」 2400年前に書かれた文章が、どうしてこれほどまで、自分の心情に響くのだろう。ここのところ、ずっと焦っていた自分が滑稽に思えてきた。文章が浮かばないというのはすなわち、まだ、観るべき美をきちんと「観切っていない」のだと腑に落ちたから。プラトンがこうやって、文章に遺しておいてくれたからこそ、遥かかなた先、遠い異国で生まれたわたしが深い共感を得て、納得できた。2400年の時を隔てて、同じ価値観を共有する。現代人であるわたしたちにとって、単に進歩が無いことだけなのかもしれない。しかし、その一方で、あれだけ古代において、今でも十分に通用しうる考えを編み出したソクラテスの慧眼の深さ、そしてソクラテス亡き後、きちんとそれを文章の形にまとめてくれたプラトンに思わず頭が下がる。どうして、あんなに科学の解明が進んでいなかった当時、あそこまで普遍的な思想にたどりつけたのか。・・それとも、人間の根幹にかかわる部分-例えば、肉体と魂の関係、亡くなったらひとはどこに行くのか、生まれ変わりはあるのか、あるいは、どうしてひとは同じ過ちを繰り返すのかといったこと-に的を絞れば、きちんと解明されていないという意味では、当時も今も、たいして変わりないのかもしれない。 自分が真実とみなすものを立証するために、死を選んだソクラテス。敬愛する師を不本意な形で喪ったプラトンは、その死をどのように受け止めたのだろう。彼の味わった様々な思いを因数分解したくなる。最初は、悲しみやアテナイの裁判官に対する怒り、絶望で打ちひしがれたことだろう。しかし、死に遂げることによって、自分の真実を貫いたソクラテスに対し、思わず目を見張り、深々と息を吸い込むプラトンの様子も目に浮かぶのだ。彼の遺した文章を見ると、情に溺れたところはまるでない。どうやって、在りし日の師の思想、たたずまい、行動、言動を、後世に正確に伝えるかに、細心の注意を払っている。時代を超えて語り継ぐことが自分の使命であるという決意が、文章からひしひしと、感じ取れる。 書くことの凄さ、そこに込められた人々の覚悟の深さを、再発見したように思う。当時はどうやって文字を記録したのかは知らないが(紙なのか、石版なのか)、もくもくと文字を刻み込んでいるプラトンの様子が目に浮かぶようだ。それに引き換え、今のわたしは、あまりにも未整理の状態だ。まだ、嘆く資格すら無いのだ。 この2400年の間、数え切れない戦争や火災、地震、国の滅亡があった。そんな中、多くの人々が写本し、守り通してくれたからこそ、今、プラトンの文章が読める。やはり、地球はひとつの、巨大なぬか床なのだ。
2004年11月13日
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岸見さんの講演会に出かけた。4時間の長丁場が、あっという間だった。20人弱の参加者が、じゅうたんに座布団を敷いて、ぺたりと座り込む。その前で、岸見さんが等身大の視点で、色々なことを語りかけて下さる。恥ずかしながら、わたしは哲学を本格的に勉強したことは無いので、聞きかじりの、破片のような知識しか持ち合わせていない。拙い知識量のせいで分からなかった問題点をいくつも、質問させていただいたのだが、今後、自分で考えるヒントをたくさん、頂いた。今日の講演会が、東京で開かれて、本当にありがたかった。 文章を通しての交流から始まって、いざ直にお会いすると、大抵、相手の方にいくばくかの違和感を抱くものだが、今日は、驚くほどそれが無かった。岸見さんが日記の中で、ご自分の心情を素直に表現なさっているからだろう。やはり、文章には人となりがそのまま、にじみ出てくる。 「プラトンの書物は固有名詞さえ無ければ、現代の作品と言われても全然、不思議ではないです」という岸見さんの言葉に励まされて、帰り道、初めてプラトンの「饗宴」を購入した。翻訳者の方のあとがきを読むと、最初に翻訳を手がけてから出版するまで、9年間の月日が経ったとある。しかし文章は、そういった苦闘があったとは信じられないほど、滑らかに流れている。現代の英語でさえ、これほど苦労しているわたしが、古代ギリシャ語を習得するなんて、それは100%不可能なことであろう。2400年の時を経て、先人の書物を現代の日本語で読める僥倖をしみじみ、思う。と同時に、心から敬愛していた師ソクラテスを不本意な形で喪ったプラトンの心情と、ずっと目標にして来た友人を喪った自分のそれとが、重なり合うような親近感を覚えた。いつまでも嘆いていても始まらない。悲しみに溺れてはならないと、自然に思えた。 書くことが決して、嬉しさや喜びばかりにつながるものではないのは、よく分っている。書くことを突き詰めていくと、真綿で首を絞められるように呼吸が苦しくなり、時として、気が狂うのではないかという恐怖感に駆られる。それでも、書くことを追い求めずにはいられない。後は、どうやって、自分の中で折り合いをつけていくかなのだろう。
2004年11月07日
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無力感がじわじわと、広がっている。 アメリカのような大きな国の中にいると、世界から自国がどのように見られているかというのは、どうでも良くなるのかもしれない。自分たちが強いアメリカでい続けられることが、最優先課題になるのだろうか。ブッシュ氏の再選が色濃くなる中で、これまでの4年間がさらに加速される形で、新たな4年間が紡がれていくと思うと、不安がどうしようもなく、高まっていく。 アメリカ国民といっても、決して、一枚岩ではないだろう。しかし、他国から離れてみると、ある明確な意思が透かし見えるような気がする。テロに屈しない強い国家。常に世界一でいなければならない・・。自分たちがそういう路線を取ることで、他に対して、尋常ならざる波及効果を及ぼしてしまうことについては、頑として、目を向けない。あれだけ、多くの国の優秀な人材を惹き付ける国がその一方で、どうして、こういう選択をするのだろうと、首を傾けたくなる。 時間がもったいないと思いながら、今日も昼間、眠ってしまった。昨日、午前1時には寝ていたから、とろとろと、12時間近く、寝ていたことになる。「眠り」と良好な関係を保っていられるのが嬉しい。洗濯を済ませて、夕方(というより宵の口といった方が正しいか)、散歩に出かけた。1時間弱歩いて、喫茶店に入る。お茶を一杯飲んで本を読み、また歩きながら家に戻ってきた。心地良い疲れ。ここのところ、考え過ぎる傾向があって、幾分、神経衰弱気味なのだが、家の中にこもっているよりは、歩きながらの方がずっと良いと思った。同じひとりでも、歩けば、風が吹き、街路樹の木の葉がさわさわと揺れるのが見える。通りすがりのひとたちの顔つきが目に留まり、話し声が耳に入る。それだけでも、考えている自分自身を、かなり客観視出来るのだ。一方、家にこもって音楽を聴いていると、思考の渦に、自分自身がずぶずぶと沈みこんでいく感覚があって、油断していると、心がとても疲弊してしまう。 歩いたお蔭だろうか、「あっ」と気付いたことがあった。ずっと、ある人間関係で悩まされていたのだが、漸く、解決の糸口が見えてきた。何故、事態が好転したのだろうと不思議だったのだが、今日、「そうか、あのひとが新たに加わってくれたからだ」と分った。同じ構成メンバーでもそこにひとり加わるだけで、事態が信じられないほど好転することがある。多分、それぞれのひとが、特定の磁場を作っていて、それが互いに作用しあうのだろう。新参者のひとの磁場が、わたしたちの煮詰まった磁場に、風穴を開けてくれたに違いない。寡黙だけれど、判断力に優れていて、対峙するひとびとは、その優秀さを尊重せざるを得ない。大きな摩擦を起こさずに、あるべき方向へ自然と導く力を持っている。そのひとの存在が、心底、ありがたいと思った。
2004年11月03日
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いよいよ、アメリカ大統領選の投票日だ。今後の世界の動向に与える影響の大きさを思うと、ブッシュの再選を何としてでも、阻みたくなる。投票権を持っていないのが切ない。 高校生の時に読んだ、「チボー家の人々」を思い出す。第一次世界大戦を間近に控えて、のどかだった日常生活が、最初は徐々に、ある時から堰を切ったように急激に、変化していく。胸騒ぎや不安を抱えながらみんな、安寧を切に願う。しかし、その祈りは届かない。 今のこの胸騒ぎも、同じだろう。イラクに駐屯している自衛隊は、宿営地が被弾しても撤退しない。これでは、軍隊を派遣しているのと変わらない。わたしたち日本人が気付かないうちに、日本も、アメリカとイラクとの戦争に参加してしまったような気がする。出兵に必要な覚悟を何もしないままで。香田さんの痛ましい事件によって、ぼんやりしていた自分の頬をぴしゃりとはたかれたような気がする。 歴史は、定期的な「リセット」を必要とするのだろうか。そのために、これまで繰り返し、戦争が起きて来たのだろうか。 前にも書いたけれど、もう、化石燃料への依存を、本格的にやめるべき時期なのだ。さもなければ、石油を巡る闘いはこれからも数え切れないほど起きるだろう。 人間はあの世にお金を持っていくことは出来ない。それに一生で使える金額なんて、たかが知れている。しかし、飽きることも無く、多くの人々がより多くの富を求め、権力に群がる。自分たちが少しずつ、生活を調整すれば良いだけの話なのに、一向にそういう考えは出てこない。数人のメンバーで成り立つ組織があるとする。そこに同じ財しかなくても、配分の方法を変えるだけで、メンバー全員の得られる満足度は大きく異なることは、経済学の常識だ。それが実際の生活に応用されないのは何故だろう。 相手の痛みの全てとはいわなくても、その一部分は自分の痛みとして返ってくる。紛れもないその事実を、感じ取れるひとが少数派に過ぎないとしたら、それは想像力が欠如している証拠だろう。感受性が研ぎ澄まされて、想像力がどんどん強まってくると、たくさんのひとの悲しみが自分の悲しみになる。時々、気が狂うかと思うほど苦しくなるけれど、しかしこの想像力を、決して手放さないでいようと思う。
2004年11月02日
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ここのところ、自殺した友人のことを何度も、思う。お母さんを自殺で失って、茫然としていた頃の心情が、手に取るように分かる気がする。その期間は3年もあったのに、ついぞ、わたしは気付かずじまいだった。自分のつまらないコンプレックスのせいで。時間を巻き戻せるのなら・・と、数え切れないほど思った。「取り返しのつかない」という言葉の重みが、心臓にダイレクトにかかっている。 空気が入ってぱんぱんに膨れ上がった風船のように、わたしの体内も、色々なものがぎゅうぎゅうに入り込んで、自分でうまく処理できない。昨夜、シングルモルトをストレートで飲んでいたら、涙がとめどなく流れて困った。諦めてグラスを置き、衝動に素直に身を任せた。今日の顔は、目が腫れ上がって、とてもみっともない表情だ。 オセロの黒を白にひっくり返すことはいくらでも可能なのだし、ひっくり返すことにこそ、人生の醍醐味があるのだと、彼女に話したかった。と同時に、その言葉は今、彼女を失って途方に暮れている自分自身にもあてはまる。「書きたい」という気持ちが、どうしようもなく膨らんでいる。何を書きたいかは明確に決まっている。しかし、いかにして書けば良いのかが、分からない。あの論理に優れた彼女に納得してもらえるのはおそらく、至難の業だろう。 彼女と話したい。言葉を交わしたい。いつも、その思いに還っていく。
2004年11月01日
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バグダットで発見された遺体が、イラクで人質となっている日本人の方ではなかったというニュースに胸をなでおろす。今日の夕方ごろ、電車に乗ったら、男性がスポーツ新聞を広げていて、裏面にでかでかと墨塗りの見出しで「香田さん、拷問惨殺」という言葉が目に飛び込み、なんともいえない気持ちになっていた。ご家族の心情を想像する。どうして、あんな無神経なことが出来るのだろう。かつては同じマスコミにいたけれども、どうしてもそのような行動を容認できない。 新潟の地震でも、「マスコミの車が小千谷市役所の正面に陣取っているために、救援物資を運ぶトラックを遠くにとめざるをえない」「現場付近を50人近いマスコミが陣取っているが、救援物資を運ぶボランティアを手伝うそぶりもない」といった内容が漏れ聞こえてくる。想像力がどうしようもないほど、欠如しているのだろうか。 最近、身体の調子が思わしくないことも手伝って、感覚が研ぎ澄まされている。ひとつひとつを取ってみれば、たわいの無いことだけれど、それがひどく、身体に響く。自分自身がとても頼りなく思える。
2004年10月30日
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リンクを張らせていただいている、岸見さんの東京・千駄木での講演会が、11月7日に開かれることになった。これまで、文章を通しての交流に留まっていたので、直接、哲学のお話を伺えるのがとても嬉しい。 ひとにたいする好意や思いが、行き違いやボタンの掛け違いで、相手にうまく伝わらないことがある。ここのところ、それが続いていて、かなり気持ちが重く沈んでいたが、やっと気分を切りかえられるようになった。相手に伝わるのを期待するよりも、自分なりに、誠意を尽くし続けよう。それでもなお駄目だったら、その時また、考えれば良いのだ。 今日は午後10時過ぎに帰宅したのだが、住まいの階段を上るのも億劫だった。ところが、講演会の主催者側の方から送られた「開催が決まりました」というメールを読んだ途端、元気になった。やはり、落ち込んでいる時の特効薬は、ほかのひとの好意なのかもしれない。 先程、1メーターだけ乗ったタクシーの運転手さんのことを思い出した。札幌出身で、1年前に上京して来たという。話の語尾に「いいっしょ」という言葉がついていたので思わず、「どこのご出身ですか」とたずねたのだった。わずか数分だったけれど、札幌の話に花が咲いた。降りるとき、「久しぶりに札幌の話が出来て嬉しかったです」とお礼を言われた。あの運転手さんも今日のわたしと同じように、落ち込んでいたのだろうか。
2004年10月25日
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NHK教育テレビで放映されている安否情報を聴きながら、しばらくぼうーっとしていた。ついこの間、台風で大変な水害に見舞われたばかりというのに、たたみかけるように地震に襲われる。新潟の方々もたまらないだろう。「親類中が心配しています。何でもいいから連絡して」「所在がわからないので不安です」・・アナウンサーがたんたんと読み上げるメッセージに、新潟にいる人々の安寧を祈る縁者・友人のおもいがこもっていて、聴いていても胸が重くなる。「食べ物が足りない」と被災者の方がテレビカメラに向かってこぼすのを聞く。昨夜、大半の被災者が戸外で夜を明かしたと聞き、夜の冷え込みを想像する。今日の日中は晴れたようで本当に良かった。避難態勢が整うまでどうか、かの地に雨が降りませんように。 今年の天候異常、相次ぐ台風、そしてこの地震。心がざわざわとしている。昨日、女性の友人に「留学のこと、また迷い始めました。どうしてこんなに自分の考えが揺らぐのか、理解に苦しんでいます」とメールを送ったら、今日「わたしも同じように弱気の状態が続いています。二人とも、敏感なところがあるから、天候の乱れや台風、地震といった『気』や『流れ』の影響を受けているのもあるかもしれない」と、書き送って下さった。 何かが毀れて、ばらばらになった状態。もう少し時間が経てば、整理がついてくるのだろうが、今は混沌が続いていて、自分自身がよく見えなくなっている。ここ数年、物事の変化があまりにも激しくて(そのうち一部は自分で選び、残りは自分の意思に関係なく起こっている)、自分の意識がついていかないのかもしれない。
2004年10月24日
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昨夜、仕事でお世話になっている大先輩の方とふたりで、お酒を飲んだ。 留学をする際、推薦状を書いていただくよう、お願いしたこともあって、その後の経過を聴かれた。最近自分が下した結論を正直にお話ししたら、「う~ん」と難しい表情になる。しばらく経ってから「あなたの出した結論にとやかく言うつもりはないけれど、しかし、今行っておいた方が良いと思うよ」とぽつりと言われた。 最近のわたしは本当にふらふらしていて、考えがしょっちゅう揺らぐ。こんなことは以前の自分には無かったことで、我ながら呆れるし、どうしたら良いのか、途方に暮れる。この間、決断がついたと思ったけれど、まだ、過渡期なのだろうか。 英語を勉強してもしても、相手がするりと自分から遠ざかっていく感覚がある。なんていうのだろう、料理に例えるならば、肉や野菜など、食材を手にしたはいいけれど、だしや調味料がまだ、手元に無くて、美味しい料理が出来ないというのに良く似ている。前置詞やイディオムを自由に使いこなせないからだと思う。日本語に感じる安定感に比べると、英語とのこの距離感は、言い知れない不安へつながる。言葉がこんなに遠いのに、やっていけるのだろうか。 その方は、米国留学した後、5年間、向こうで働いた経験がある。英語のひとつひとつの言葉の細かいニュアンスや語源をよくご存知で、会話する度に舌を巻く。どうやったらそういう繊細な感覚が身に付くのですか?と問うたら、英語の中で生活して初めて身に付くのだから、向こうに行って暮らさないと駄目だよという答えが返ってきた。あなたのように、頭の中でぐるぐると考えて見につけようたって、それは無理な話だよ。 TOEFLとGMATは、希望のスコアが出るまで受け続けようと思う。とりあえず、今出来るのはそれぐらいだろうか。
2004年10月23日
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昨日、一昨日と、違う友人の悩みを夜遅くまで、聴いていた。ふたりとも、内容は異なるのだが、最後は自分の生き方に帰結する。悩みに対する向き合い方が、同じぐらい誠実だからではないか・・と、聴きながら考えていた。ふたりとも、込み入った事情を抱えていて、糸がどうしようもなくこんがらがっている有様を想像する。きっと、どこからほどいたら良いのか、検討もつかなくなっているのだろう。記者時代、取材先の方々のお話を伺っている時もよく感じたのだが、どうして、ほかのひとびとはこんなに複雑で充実した(とわたしからは見える)人生を送っているのに、自分の人生は単純で密度が薄いのだろう・・と二日間続けて、思った。 今でも鮮明に覚えている方がいる。仙台時代、知り合った50代の女性で、初対面のときから、雰囲気のある方だと思った。仙台市内に生えている桜の木のマップを作りたいと考えていて、有志を募って、じかに歩いて木の種類を確かめながら、少しずつ、地図にデータを書き込んでいた。 ある時、「何がきっかけで桜の木のマップを作りたいと思ったのですか?」と質問したら、泣きたいような笑いたいような、何ともいえない複雑な表情を浮かべた。「・・実はね、2年前に長男をバイク事故で亡くしているの。あの子は本当に桜が好きで、よく二人で花見に行ったのよ。あの頃を追体験したいのかもね」と話してくれた。 残酷だと思いながら、その彼女に後日、ある質問をしたことがある。「こういう結末を迎えると分っていたら、お子さんを産んでいましたか?」彼女は「もちろんよ」と即答してくれた。それはわたしの予想を裏切るもので、ひそかに衝撃を受けたのだった。 リスクを回避しようと思ったら、誰とも結婚せず、子どもも産まず、ひとりでシンプルに生きるのが一番手っ取り早いだろう。自分の心配さえしていれば良いからだ。しかし、それでは、伴侶や子どもを得たことで味わう、様々な苦しみや喜び、感動とも無縁になってしまう。何かを得るということは、何かを失うリスクも同時に手にすることにつながるけれど、それでも、初めから何も手にしないよりは、得た方が、はるかに人生が豊かになるだろう。記者時代も、そして昨日、一昨日も、ずっとそんなことを考えていた。************************************** 話は変わりますが、日記のリンクを張らせていただいている岸見一郎さんの講演会が、11月7日(日)の午後1~5時まで、東京・千駄木の「東京アドラーギルド」というところで開かれる予定になっています。http://homepage2.nifty.com/tokyo-ag/tag/ 岸見さんの日記を拝読すると、日々の生活で起こる出来事に対して、ひとつひとつ丁寧に、哲学の思考で、その意味を解釈なさっており、いつも、感心させられます。東京で岸見さんのお話を伺えるまたとない機会・・と喜んでいたのですが、明後日の25日までに申込者があと8名集まらないと、開催されないそうです。わたしも参加するつもりです。どうか、ご興味のある方、ぜひ、「東京アドラーギルド」(TEL:03-5815-6650)メールアドレス tokyo-adler.nishigaki@nifty.ne.jpへ、ご連絡していただけないでしょうか。なお、参加費用はおひとり、4,200円となっています。
2004年10月22日
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ここのところ、眠るのが愉しみになった。やっと、熟睡出来るようになったからである。午後10時ごろになると、布団に入ってしまう。不眠のサイクルが去って、眠りの段階に入ったのだろう。 人間は、様々な波動、あるいはリズムにのって生きていると、つくづく思う。万物は流転するとよく言われるが、その意味がしみじみ、分かるようになった。空港の通路などによくある、「動く歩道」を思い浮かべる。人間の意思に関係なく、電力の力で常に、歩道は前へ動き続ける。その上にいる人間が、さらに自分の足で前へ歩くか、それとも立ち止まるか、後ろへ下がるか。前提条件として、動く歩道の存在は絶対だが、その状況下で意思決定する自由は残されている。生きるというのはすなわち、そういうことではないか。 ひとりの人間がこの世に存在するということはすなわち、無数にある運命の縦糸(時間を構成する縦糸?)の中から、特定の糸を選び出すこと。そして、時間を紡ぐというのは、紐を編むことなのだと思う。その人間が何か、新たな選択をする度に、それまで手元にあった糸の一部が代わりに、離れていく。だからこそ、紐は、ひとつひとつの選択を反映して変わっていくのだ。 ひとが死に絶えると、紐も同時にほどけて、もとのばらばらの糸の状態に戻る。しかし、前にも書いたように、この世にはぬか床とも言うべき、大気や自然、街並み、歴史、音楽、書物といったものが存在しており、ひとの足跡がエキスとなって、そういったぬか床に染み込んでいく。 実際に今回、2005年9月の留学という糸が自分の手を離れたのは、新たにある選択をしたからなのだ。大げさだけれども、今回、本当に運命の糸車がごろりと音を立てて動いたのが聴こえたように思う。自分の選択とその結果のつながりが、これほど鮮明に見えたのは初めての経験だった。 もう少しで、何かをつかめるような気がしながら、まだ、それが何なのか分からない。今、そんな状態がもどかしい。こういうことをつらつらと考え始めると、思考はどこまでも進んで(沈んで?)しまい、神経がへとへとになってしまう。
2004年10月20日
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沖縄に台風23号が近づいている影響で、東京も雨が降り続いている。暖房をつけるほどではないが、何となく底冷えがする。秋の深まりを感じる。 昨日から秋の仕事シーズンが始まった。これまで3人で担当していた仕事が、今回から6人へと倍増した。新たに加わった3人の方とは、今回が初対面で、これまであうんの呼吸で通っていたものが、少しずつ、よそよそしくなる。日頃、ひとりでぼーっと考えていることが多いせいか、チームとして、共同作業することが気疲れにつながっている。昨夜は午後9時過ぎには布団に入った。 記者時代は、チームで動くことが日常茶飯事だったし、名刺も1ヶ月で100~200枚無くなっていた。今は180度逆の、静謐ともいうべき生活を送っている。ひとりで過ごす時間が圧倒的に増えた。胸の内で、色々なものに語りかけている。親しく顔を合わせる友人の数が、ぐっと絞られてきた。以前は、人脈を広げようと、様々な集まりに顔を出していたが、今は全くしていない。もう、あの頃に戻れと言われても、2,3日で音を上げてしまうだろう。同じ自分とは信じられない、この変わりよう。これは「進化」なのか、それとも「退化」なのか。 今回からチームに加わった一回り以上年上の女性が、怪訝な表情でわたしに「どうして、常勤でもっとばりばり働こうとしないの?」と問う。以前だったら、自分も同じような疑問を抱いたかもしれない。「色々あって、身体を壊しかけたので、今はリハビリ期間中なんです」と説明した。自分の内側が毀損したという感覚は、どのぐらい一般的なものなのだろうか。 価値観が大きく、変わった。世間一般の価値基準が、本当に気にならなくなった。肩書きや所得、外見、年齢といった縛りからだんだん、遠ざかっている自分を発見する。糖衣で厚くコーティングされたお菓子を、ふるいにばらばらかけることを覚えたと思う。糖衣がはがれてあらわになった中味を見ると、色々なからくりが見えて面白い。外見や年齢からは想像も出来ないような美しさを見出したとき、はっとする。そして、静かに胸がふるえる。
2004年10月19日
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昨日、コンサート会場で買い求めた上海クァルテットのCDを聴く。13日の演奏会のアンコールで披露されたドヴォルジャークの弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」の第二楽章が殊のほか、気に入って、さっきからその楽章ばかり、1時間以上も繰り返している。 昨夜は、深酒のせいでよく眠れなかった。こんなに眩しい秋晴れは、本当に久しぶりのような気がする。青空が目に染みる。わたしの中で失われたもの。それは、自分をひたすら鼓舞して、高いハードルを越えようとする推進力だろう。その代わりに、どうしようもなく情が濃くなった。ぎりぎりのところで耐えている表情を見せられようものなら、手を差し伸べずにはいられない。そして、以前から見たら信じられないくらい、涙もろくなった。自分の感情だけでなく、ひとの感情にも同じように反応するものだから、涙腺は大忙しだ。 何かを失うことで、新たなものを手に入れられるのだと思う。多分、もう自分は、誰かと猛烈に競ったり、ライバルの存在を掻き分けて、何かを取りに行ったりということは無理だろう。それをするには、相手の存在をリアルに感じすぎる。その代わり、誰かの心情を汲み取り、相手に寄り添うということが、以前ほど、困難なことでは無くなった。 来月、久しぶりに仙台に行こうと思っている。昨日、演奏を聴きながら、懐かしい方が3人、脳裏に浮かんだ。そして、東西に連なるケヤキ並木と南北に続く銀杏並木。県内各地の市町村。上海クァルテットのツアー日程を見たら、10日、宮城県中新田町のバッハホールを皮切りにスタートさせていた。元宮城県知事だった本間俊太郎さんが、中新田町長だったとき建設した、非常に音響の良いホールだ。バッハホールも確か、2,3年前に20周年を迎えた筈。わたしが仙台にいたころ、収賄容疑で刑に服していた本間さんが仮出所になって、インタビュー記事を取ろうと、ご自宅に押しかけたことがある。ところが、お話を伺って、本間さんが思いもかけず素敵な方だったので、記事にするのを諦めてしまった。考えてみれば、その頃から既に、情のもろさは芽生えていたのだ。仙台を離れるまでの約一年間、何度、本間さんとお話ししたことだろう。ニーチェを勧めて下さったのも本間さんだ。上海クァルテットとの、思いがけない接点が嬉しかった。 今日、仙台の友人の方々にお電話したところ、いずれもご本人が電話口に出て下さって、すんなり、お会いする約束がまとまった。新たな道のりが幕を開けたのだろうか。悲しみと同じか、それ以上の幸福が自分の手の中にあるのが感じられる。
2004年10月15日
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相変わらず、混乱の最中にあって、あたかも井戸の底にいるようだ(村上春樹の比喩を借りているけれど)。 浜離宮ホールで開かれた、上海クァルテットの、ベートーヴェン全曲演奏会の最終日に行って来た。16番、大フーガ、6番と、とても欲張りなプログラム。結成20周年の記念コンサートの一環で、彼ら自身、死を間近に控えたベートーヴェンの心情に限りなく近づいていて、聴いているだけで、思わず、涙がこぼれる。自分の意識の奥深く底に沈めた筈の、色々な悲しみが、次々と立ち上ってきて、始末に終えなくなってしまった。嗚咽をこらえながら、演奏を聴き続けた。 演奏後、どうしてもギムレットを飲みたくなって、銀座のBARへ、ひとりで行った。お店の方も放っておいてくださるので、その好意に甘えて、もくもくと、お酒を飲み続けた。 友人の自殺によって、自分の内側の大事な一部が毀損したのを、今夜初めて、自覚した。昨年の8月から、まるで違った人生を歩み続けていると思っていたけれど、そういうことだったのだと漸く、分った。 ついこの間、これまでの自分なら、決してしないであろう選択をしたのだけれど、自分自身、納得が行ったような気がする。やはり、今、留学するのは止めよう。自分に与えられた環境を、精一杯、生き切ろうと思う。もう、後悔はしない。やっと、決断がついた。
2004年10月14日
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このところ、ずっと身体の不調が続いている。原因は分かっている。再び、運命が大きく変ろうとしていて、次々と色々なことが起こるのに対して、自分自身が対処しきれないでいるのだ。 わたしにとって、留学は、しないではいられないことだとずっと信じてきた。ところが、自分が決めたひとつの選択がきっかけとなって、留学による他への影響が、無視できなくなってきた。 記者として仙台にいたとき、家族をテーマに集中連載したことがある。親と基本的な信頼関係を結べないまま成長したひとたち、実際に児童虐待の被害を受けて施設に預けられた子どもたちから直接、色々な話を聴いて、それがあまりにも、自分の根幹の部分に響いて、気が狂うかと何度も思った。どうして、親子の問題になると、自分がこれほどまで、こだわらないではいられなくなるのか、良く分からなかった。 結局、自分の精神状態に自信が持てなくなって、その問題から自分自身を遠ざけた。書くことに対する恐怖心は、そこから生じたのだと思う。以来、何か書こうとすると必ず、その中途半端な状況が目の前に立ちはだかるようになった。記者を辞めたのも、もしかしたら、それが遠因かもしれない。 留学して、社会起業を学びたいと思っていた。親と基本的な信頼関係を結べなかった子どもたちが、今後も生き続けるには、誰かひとりでいい、メンターといえるような、深い信頼関係を結べる大人と出会う必要があると、段々分かってきた。とすれば、子どもたちがメンターと知り合う機会を人為的に設けることが、問題の解決に役立つのではないかと信じた。社会起業のアプローチが役立つのではないかと思った。 しかし先日、夢を見ていて、留学と記者生活はある意味、外から問題を眺めるという点で非常に似通っているのではないかというメッセージを受け取った。「そろそろ、インプットからアウトプットへ転換する時期に来ている」と言われたような気がする。 もうひとつ、自分の選択によって、今後2年間、日本にいないことで、自分以外のひとたちに及ぼす影響が、無視できないほど大きくなって来ている。本当に今、留学するべきなのだろうか。繰り返し繰り返し、自分に問い掛けている。
2004年10月10日
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