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クロニクル 日韓ワールドカップ開幕2002(平成14)年5月31日 第20回サッカーワールドカップ、ロシア大会の開幕も迫ってきましたので、以前にも紹介したこの記事にしました。16年前の今日、待ち兼ねていた日韓ワールドカップが、韓国の首都ソウルで開幕しました。第17回サッカーワールドカップ、日韓大会です。1ヶ月後の6月30日、横浜で決勝戦が行なわれ、ブラジルの優勝で大会は幕を閉じました。予選を突破して決勝トーナメントに進出した、日本チームの活躍も見事なものでした。ロシア大会でも活躍してくれると良いのですが、大会直前での監督交代というドタバタを見せられて、昨日のテストマッチでのヴェテラン勢の動きの悪さを見せられると、期待は出来そうもないような気がします。それにしてもトルシエさん、今はどうしているのでしょうね。
2018.05.31
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クロニクル 2チャンネル誕生1999(平成11)年5月30日 誕生から19年ですか。この日、巨大電子掲示板サイト「2チャンネル」が誕生しました。「2チャンネル」は、いくつもの電子掲示板の集合体で、利用者数は一時1千万人を超えましたが、その後様々なサイトが立ちあげられ、今では過去のものになってしまっていますね。 SNSやlラインの登場、たび重なんる訴訟沙汰などなどが致命傷になったのでしょうね。
2018.05.30
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クロニクル コカ・コーラの宣伝始まる1886(明治19)年5月29日 「スカッと爽やか コカ・コーラ!」という、コカ・コーラのコマーシャル・ソングはご存知ですよね。このコマーシャル・ソングではないのですが、コカ・コーラ社が、初めて自社のノン・アルコール飲料、コカ・コーラの宣伝を開始し、コカ・コーラの販売に力を入れるようになったのは、132年前の今日のことでした。といっても、テレビは勿論、ラジオもまた発明される以前のことですから、宣伝用のポスターを作って、販売店の店頭や街頭に張り出しただけですが…。場所は、ジョージア州のアトランタ。そうなんです。コカ・コーラは、1885年に、薬剤師で化学者でもあったジョン・ペンバートンの手によって、産声をあげたのです。ペンバートンは、うつ病やアルコール依存症に苦しむ人達用の調合薬の研究をしていたのですが、1885年にアトランタとその周辺部で、禁酒法が施行されたのを機に、調合薬を元にして、ノンアルコールの代用品を作成したのです。 学者肌のペンバートンには、大量生産や広告宣伝の発想はありません。ペンバートンが作り出したノンアルコール飲料に、コカ・コーラという名をつけ、ペンバートンの意見も聞きながら、宣伝用のポスターを作成したのは、友人のフランク・ロビンソンでした。こうして、1886年の今日、アトランタの町に、「おいしく、リフレッシュでき、スカッとして、爽快な」飲み物として、「頭痛を癒し、疲れを取り除いてくれる」コカ・コーラが、大量に投入されたのです。ただし、コカ・コーラの販売そのものは、1886年の5月8日でした。料金は1杯5セントでした。コカ・コーラがあの独特のボトルで売り出されるのは、1894年になってからですが、それは1888年にコカ・コーラの経営権を買いとったエイサ・キャンドラーの発案によるものでした。そのコカ・コーラ社の今日を築く、ロバート・ウッドラフの父、アーネスト・ウッドラフがコカ・コーラ社の経営権を買い取り、オーナーに就任するのは、1919年のことでした。現在のコカ・コーラ社が、創業を1919年としているのは、このためです。
2018.05.29
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クロニクル 張本選手3千本安打達成1980(昭和55)年5月28日あれから38年になるのですね。この日、ロッテオリオンズの張本勲選手が、日本球界では史上初めての3千本安打をホールランで達成しました。当時のロッテのフランチャイズ球場だった川崎球場でのことでした。対戦相手は阪急ブレーブス、対戦投手は当時のブレーブスのエース、山口高志投手でした。張本選手は、ホームランキングの王貞治選手と同年、東映フラーヤーズに入団、高卒新人で1年目からレギュラーとして活躍、新人王に輝き、3年目には首位打者を獲得、引退までに7度の首位打者に輝いています。日本球界での7度の首位打者は、イチロー選手と2人だけの快挙です。名球会入りの条件である2千本安打は、72(昭和47)年8月19日の西鉄ライオンズ戦で、東尾修投手から打っています。76年にトレードでジャイアンツに移籍、4年間プレーして、80年にロッテに移籍、81年に引退しました。生涯安打数は3,085本、3千本安打を達成した選手は、日米通算のイチロー選手と2人だけの快挙となっています。
2018.05.28
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クロニクル 「酒鬼薔薇聖斗」1997(平成9)年5月27日酒鬼薔薇聖斗、このおぞましい名前、ご記憶のことと存じます。21年前のこの日、神戸の連続児童殺傷事件の犯人が、「酒鬼薔薇聖斗」名の犯行声明文を付して、被害少年の生首を中学校の正門前に置いた事件が発生しました。後に逮捕された犯人が、この中学校に通う14歳の少年だったことが明らかになり、2度目のショックを受けたのも、それから間もなくでした。この少年犯罪の被害者は、いずれも神戸市須磨区に住む、小学生の女児4人と男児1人の5人で、2人が死亡、3人が重軽傷を負っています。犯行少年が、酒鬼薔薇聖斗を名乗った最後の事件は、被害少年を殺害したのが24日午後、殺害現場の通称タンク山のCATVアンテナ施設に隠した遺体から、首を切り離したのが25日の日中。犯行声明を付して、生首を中学校正門に置いたのが、27日未明だったとされています。ところで、加害者の少年、現在では35歳になっているのですね。いったいどんな大人になっているのでしょうね。一生をかけて罪を償う意識を持ち続けているのかどうか、そこが気になります。
2018.05.27
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クロニクル フォルクスワーゲン1号車誕生1938(昭和13)年5月26日フォルクスワーゲンは、ドイツの国民車を生産することを目的に、ヒトラーの肝いりで1937年に設立されました。ヒトラーは政権を獲得した翌年の1934(昭和9)年に、ベルリンのモーターショーで、国民車の製造計画をぶち上げ、フェルディナント・ポルシェに設計を依頼し、ポルシェの開発した車を製造する、国民車製造会社として、フォルクスワーゲンを設立したのです。そして、76年前のこの日、フォルクスワーゲン・タイプ1の1号車が完成したとされています。しかし、国民車のその後の歩みは、決して順調には進みませんでした。迫り来る戦争の足音の中で、フォルクスワーゲンの工場も、軍需工場に転換されたからです。現在のフォルクスワーゲン社は、第二次世界大戦後の1945年秋に、イギリス軍の管理下で再建され、新しいスタートを切ったことから、会社自身は戦後のスタートと称しています。ヒトラーが生産させた車は、「かぶと虫」の愛称で戦後長く親しまれた車とは全く違っていましたから、会社の主張も理解できるように思います。
2018.05.26
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クロニクル スター・ウォーズ公開1977(昭和52)年5月25日といっても、日本の話ではありません。41年前のこの日、アメリカで「スター・ウォーズ」の第1作が封切られました。前評判が高く、大入りの盛況で、ロングランとなり、大当たりを撮ったのはご存知の通りです。それから10数年後、テレビ落ちしたところを、その当時の3部作全てをビデオ録画してやったところ、二人の子供が喜んでかじりついていました。最近はCGを使った新作が製作されていますね。
2018.05.25
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クロニクル ロバート・キャパ殉職1954(昭和29)年5月24日64年前の今日、インドシナ戦争取材中の写真家ロバート・キャパが、地雷に触れて爆死しました。1913年10月22日生まれでしたから、40歳と7か月でした。キャパは、スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した、20世紀を代表する、高名な戦場カメラマン、報道写真家として知られています。ヘミングウェイ、スタインベック、ピカソらとの交遊。イングリッド・バークマンとの恋など、20世紀の戦争の時代を生きたカメラマンでした。 日本にも彼のファンは多く、その写真集などは、ヤフーなどのオークションで高値で取引されていますね。今でも時折、彼の写真展が開かれていますね。
2018.05.24
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クロニクル 原子力発電所誕生す1958(昭和33)年5月23日60年前になります。この日イギリスのコールダールに、世界最初の商業用原子力発電所が完成しました。当時私は高校1年生。原子力の平和利用、原子の火として、日本でも大きく報道されたことが、かすかな記憶として残っています。しかし、当時は放射性の冷却水、使用済み核燃料等、原子力発電に絡む負の側面は、まだ意識されていませんでした。そして、東日本大震災。原発の暴走を止められなかった日本は、60年間で最大の原発事故を起こした国として、記憶されることとなりました。それでもなお原発に拘る首相と政権政党、どういうつもりなのでしょうね。まるでメフィストフェレスに魂を売った、ファウスト博士のようです。
2018.05.23
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クロニクル サザエさん連載始まる1946(昭和21)年5月22日敗戦の翌年、72年前のことです。今も日曜夜のテレビアニメでお馴染みの故長谷川町子さんの4コマ漫画、「サザエさん」の連載がスタートしたのは、72年前のこの日でした。敗戦からなお1年に満たず、食糧不足は深刻の度を増し、それに悪性インフレが猛威を振るうなど、厳しい状況が続いていましたが、もう戦争はしなくて良いのだという解放感は、何物にも代え難く、苦しさの中にも明るさが求められていた世相に、サザエさんはピタリと嵌まったのです。それにしても、作者の長谷川町子も、こんな大人気を得るとは、思いもしなかったでしょうね。
2018.05.22
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クロニクル 『風と共に去りぬ』出版1936(昭和11)年6月21日マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』が、82年前の今日、出版されました。 南北戦争を背景に、南部の大プランターの娘として育ち、そのプランテーションを相続して苦心するスカーレット・オハラを主人公にし、戦乱の世をたくましく生きるレッド・バトラーとの愛憎を描いた大河小説は、日本でも大いに親しまれ、ビビアン・リーとクラーク・ゲーブルが主演した映画も人気を博し、ロングランとなりました。中学3年の秋に、学校の図書館から借り出し、読破したことを覚えています。
2018.05.21
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クロニクル 味の素発売1909(明治42)年5月20日9年前の今日、味の素は発売100年を迎えました。109年前の今日が、記念すべき「味の素」の発売日だったのです。100年以上も、変わらぬ味というものがあったのですね。味の素は、食品会社として知られますが、現在は化粧品ブランド「Jino(ジーノ)」の製造販売、アミノ酸生産技術を活用したケミカル事業や医薬事業にも進出しています。1991年には、カルピスを傘下に収め、2007年10月には、完全子会社としています。今でも元気イッパイの様子です。なんだか嬉しいですね。身近に明治が残っていました。昨日分のクロニクルです。 本日分は後ほどアップします。
2018.05.20
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クロニクル 東京六大学野球リーグ戦再開1946(昭和21)年5月19日 敗戦翌年のことですから、72年前のことになります。この日、1943(昭和18)年から中断されていた、東京六大学野球のリーグ戦が再開されました。といっても2勝で勝ち点の方式ではなく、先ずは1回戦制での再開でした。前半は上井草球場、後半は後楽園球場を使いました。神宮球場の利用は、秋季のリーグ戦から1部可能となりました。 勝ち点制になるのは、2年後の1948年のリーグ戦からです。
2018.05.19
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クロニクル アークヒルズ誕生1986(昭和61)5月18日アークヒルズは、赤坂1丁目と六本木1丁目にまたがって建設された複合施設です。赤坂と六本木をつなぐという意味で、ARK(アーク)ヒルズと名付けられました。 開発主体は森ビルで、1967年から周辺の土地取得に入り、20年を費やして、ようやく第一期工事が竣工を見たのが、86年4月末、32年前のことでした。そしてこの日、完成披露パーティが開かれました。完成したオフィスビルは、折からのIT化の進展の中で、衛生通信の送受信機能と、ひかりファイバー網を全オフィスに完備し、国際金融の拠点に相応しい設備を整えていました。そのため、世界の金融市場を相手に24時間態勢で仕事をするトレード部門を持つ金融機関に重宝され、入居希望が殺到する事態となりました。以後新規高層ビル計画が、目白押しとなるなど、バブルの全盛期に向けての、全力疾走の嚆矢となりました。ヒルズ族という新語も生まれましたが、いつしか定着してしまいましたね。
2018.05.18
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クロニクル りそなグループに公的資金投入 2003(平成15)年5月17日 4月末、りそな銀行グループに公的資金の投入を決定していた政府は、15年前のこの日投入額を約2兆円と決定、即日投入しました。 長銀や日債銀のように、1時国有化もせず、経営責任も問わないという、まるで二重基準の最たるものだったことは、同年秋に足利銀行を破綻認定して、1時国有化した時点で明瞭になりました。りそなは破綻状態にあらずというのが、政府と金融庁の公式見解でしたが、破綻状態にないとすれば、2兆円もの公的資金を投入する必要性を明確にすることは出来ず、極めて歯切れの悪い答弁を、簡潔明瞭な答弁を旨とする竹中大臣がしていたのが、印象的でした。 しかし、この年4月末を底に、13年間下げ続けてきた日本の株式市場に転機が訪れたことは確かでした。それは、りそなの経営責任を問わずに、大量の公的資金を投入するという事実に、形振り構わず金融危機を収束させるのだという、政府の強いメッセージを感じ取った世界の経済界が、こぞってこの措置を支持し、日本経済がなお緩やかながら、復活への道を歩み出したと確信したからこそ、外人筋の日本株買いが再開されたからでした。
2018.05.17
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クロニクル 第1回アカデミー賞授賞式1929(昭和4)年5月16日 今から89年前、10月に始まる世界大恐慌の開幕まで5ヶ月少々という時期でした。この日、カリフォルニア州ハリウッドのローズヴェルトホテルで、今や大変有名なアカデミー賞の、第1回授賞式が行われたのです。 司会はダグラス・フェアバンクス。1927年から1928年7月31日までに公開された映画がノミネートの対象とされました。 作品賞は『ツバサ』、監督賞は『第七天国』のフランク・ボーゼイジ 。我々に馴染みのある名前では、特別賞受賞者欄にチャールズ・チャップリンの名があります。 映画の誕生は20世紀になってから。10分の映画『大列車強盗』が発表され、人気を博したのは、1903年のことでした。長編の製作が可能になったのは、1910年代半ば。『ターザン』が大人気を呼んだのは、20年代になってからのことでした。それが20年代末には、早くもアカデミー賞が始まるとは、変化の速さはすごいですね。
2018.05.16
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クロニクル 沖縄本土復帰1972(昭和47)年5月15日46年前のこの日午前0時、沖縄の施政権が27年振りに日本に返還され、沖縄県が誕生しました。この時間に合わせて、ランバート米高等弁務官は、屋良朝苗沖縄県知事に見送られて、嘉手納基地から、横田基地へと飛び立ちました。この日午前10時半から、東京と那覇で、祖国復帰を祝う政府主催の記念式典が同時に開かれました。しかし、沖縄にはお祝いムードはありませんでした。県民の希望した「核抜き本土並み」返還の願いが、とても実現したとは言えない状況にあったからです。 在沖米軍基地での核兵器の保有こそは曖昧にされたままでしたが、米軍基地の存在は限りなく大きく、返還後も現状を維持することが、日米両政府の合意事項となっていたからです、県民の願いは無視されたままとなっていたのです。その上、沖縄の人々は、今まで通用していたドル札を、円に切り替えるためのゴタゴタの中に ありました。この日まで沖縄では1ドル=360円で通用していましたから、1ド=305円への評価替えは、物価の騰貴を招き、復帰ショックと呼ばれる事態がおきていたのです。
2018.05.15
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クロニクル 3度目の名古屋空襲1945(昭和20)年5月14日73年前の日本は、8月15日の降伏まで、米空軍のB29爆撃機による、連夜の空襲によって、気の利いた都市は、次々と廃墟と化していました。 標題に掲げた名古屋も、その例に漏れず、この日が3月12日、3月19日に続く、3度目の爆撃でした。名古屋最大の空襲は最初の3月12日でした。19日の空襲では名古屋駅が炎上して全焼、そしてこの日の第3次空爆では、名古屋城が炎上し、名古屋のシンボルが焼失したのです。6月9日の4度目の空襲は、熱田空襲と呼ばれます。
2018.05.14
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クロニクル 五月革命始まる1968(昭和43)年5月13日半世紀も前になるのですね。50年前のこの日、パリ大学のナンテール分校の学生を中核とした、パリの学生と労働者がゼネストを決行しました。きっかけは、3月22日に、ナンテール分校で学内の待遇改善を要求する学生のグループが、大学当局の禁止令を無視して集会を決行、大学側が導入した警官隊と衝突して、流血の惨事が引き起こされたことにありました。この事件に反発した学生たちは、5月2日に至って校舎を占拠し、これに対抗した大学側は、翌3日に大学を封鎖する挙に出たからたまりません。 伝統的にフランスの学生は、反権威、反権力の色彩が濃く、労働運動とも近しい関係にありましたから、ナンテール分校当局の警官隊を導入しての学生の排除は、呆れるほどの愚行でした。 問題の根は、当時フランス病とも言われたフランス経済の不振を、高等教育を受けた質の高い労働力の不足にあると考えたドゴール政権が、大学拡充政策を取り、学生数の急拡大に踏みきったことにありました。パリ大学のナンテール分校も、この一環として新設されたものでした。この学生数の急増に、施設の整備が追いつかず、施設面での学生の待遇が極端に悪化していたのです。 学生たちはこの点と、ドゴール政権による集権化の動き、社会的な管理強化の進行にも関わらず、いっこうに改善しない経済不振などに不満を募らせ、異議申立てに立ちあがったというのが真相でした。こうした学生によるノンの動きに、彼等の行動の背景を分析することもせず、施設面の待遇の悪化の改善策の説明もせず、警察の力まで借りて抑えこもうとした大学当局の姿勢は、完全に裏目に出ました。 抗議の声は、パリ大学の本拠ソルボンヌに波及、同じく経済不振に悩まされている労働階級にも広がり、この日のゼネストとなったのです。この動きは、ほぼ1週間程で、全フランスに波及し、およそ1年近くに及ぶ、ロングランの運動となって、ドゴール政権の屋台骨を揺さぶり、翌年4月、遂に権勢を誇ったドゴール大統領を辞任に追い込むことに成功するに至ります。こうしてこの運動は五月革命と呼ばれることになりました。 五月革命で特筆されることは、この革命の結果として、当時のフランス社会において、最も大きく変化したことが、女性の社会進出を可能とする諸改革が一挙に実現した事でした。五月革命は、女性の社会進出を大いに促進する役割を果たしたのです。 同じ時期、日本では東大と日大の学生闘争が次第に広がりつつあった時であり、日本とフランスの怒れる学生たちの運動が脚光を浴び、駿河台はソルボンヌ地区をもじって、日本のカルティエ・ラタンと呼ばれたことは記憶に新しいですね。
2018.05.13
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クロニクル 米軍アッツ島上陸 1943(昭和18)年5月12日 この日、米軍は太平洋のアッツ島に上陸しました。これに先立つ4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機がブーゲンビル島上空で、米軍機に撃墜され、同長官は戦死しておりました。司令官を失うぐらいですから、日本海軍は太平洋海域での制海権を失っています。 そのため日本側には、上陸を阻止する手だてはなく、かつまた増援軍を送る選択肢もなく、アッツ島に残された2500人の守備隊には、降伏か玉砕の道しか選択肢は残されていませんでした。降伏を潔しとしない当時の日本軍の空気の中では、当然玉砕の道しかありません。 こうして、同月29日、2500人が全滅の憂き目を見たのでした。参謀本部の無能と損傷の少ない内に戦争を終結させる勇気の欠如が、この後を含め、いたづらに被害を拡大し続けたと言えましょう。
2018.05.12
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クロニクル テレビジョン事始1928(昭和3)年5月11日5月11日は、テレビにとって大事な日です。そうなんです。90年前の今日は、アメリカのニューヨークで、世界で始めてテレビ放送が始まった日なのです。ラジオ本放送が始まったのが1920年、28年といえば、ラジオ放送が飛ぶ鳥落す全盛期に差し掛かった頃でした。その全盛期に次代の切り札の研究を怠らない所など、まさに全盛期のアメリカを感じさせますね。それに比べて今は……。
2018.05.11
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クロニクル 上野公園開園1876(明治9)年5月9日何ともお恥ずかしい次第ですが、昨日間違えて10日の日記をアップしてしまいました。昨日は9日でした。大変申し訳ありませんでした。そこで今日は1日遡ることにして、昨日9日のにっきを 既に142年ですか。この日、明治天皇の行幸を得て、上野恩賜公園の開園式が行われました。この日、上野に日本最初の公園が誕生したのです。
2018.05.10
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クロニクル ルイ16世即位1774(安永3)年5月10日フランス王ルイ15世は、この日天然痘によって崩御しました。当時のフランスの慣例に従い、20歳の皇太子ルイが、ただちに新王ルイ16世として、この日のうちに即位しました。日本では田沼時代と言われる田沼意次の全盛期に当たります。このルイ16世は、およそ19年後の1793年1月、フランス革命の激化の中で処刑されたことは、ご存知の通りです。
2018.05.09
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第1回万国博覧会をめぐって その7最後に、当時の新聞『デイリー・ニュース』が報じた。1人の男性の万国博見物の様子を記すことにします。この男性を、仮にトーマスと呼ぶことにしましょう。デイリー・ニュースは、こんな風に書き始めます。「トーマスは、7月22日の夜ハダスフィールド(ヨークシャーのウエスト・ライディングに含まれる工業都市です)をロンドンに向けて出発した。」 「トーマスが乗るのは、勿論3等車で、駅頭で往復運賃5シリングを払って切符を買うと、財布には僅かに1シリングしか残っていなかったようである。彼は弁当の替わりに、ポケットに数切れのサンドウィッチをねじ込んでいた。水晶宮で博覧会の入場料1シリングを支払い、入場券を手に入れたトーマスは文無し状態となった。」 記事はさらに続きます。「見物中に、博覧会場の中で、トーマスは持参のサンドウィッチを食べ、飲み物は会場内の水飲み場で、水を飲んで済ませた。」 「見物を終えたトーマスは、その夜の夜行列車に乗ってハダスフィールドに帰り、そのまま仕事場に直行した。家を出てから、40時間という長い時間、トーマスは汽車賃と入場料以外には、何も買わず、不眠不休、殆ど飲み食いもしていないのだから、呆れた男が居たものだ。」トーマスのような男性は、大勢いたに違いないのです。そこには、どんなに無理をしてでも、万博見物を実現したいという、庶民の渇望が浮かんでいます。不眠不休の40時間の後に、昂揚した気分のままに、すぐに仕事に就くことも平気だったのです。これが、庶民にとって万国博だったのです。 完明日からクロニクルに戻ります。
2018.05.08
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第1回万国博覧会をめぐって その6農民達もまた、万国博の噂に花を咲かせていました。見たこともないガラスの世界(水晶宮)の大きさには尾ひれがつきます。そんな農民達の好奇心を知った、大貴族のウィルビー卿は、自分の所領で働く500人余の小作農に私費で万国博を見物させることを思い立ちました。 卿は、夜行で往復する0泊2日では可哀想だと、ロンドン市内に一夜の宿を用意し、2日の日程で、心行くまで小作農達に万国博を堪能させたのです。勿論見物は1シリングデー、トーマス・クックの団体往復割引切符を利用してのことでしたが…。 卿の試みは評判を呼び、自分もと同じ行動をとる大地主も出ました。しかし、最も多かったのは、万国博を見物したい農民に、仕事の手の空いた時期を中心に、私費で行くなら構わないと、ロンドン往復を認めてやる地主や農場経営者が続出したことです。 地主の行動を知った工場経営者も、自社の従業員に万国博見物の便宜を与えはじめました。月曜日と火曜日の午前を休みにすることで、日曜の夜行列車で出発。月曜の朝ロンドンに到着。1日見物してその日の夜行で帰路につき、火曜の早朝に帰り着き、半日休息して、午後から出勤することを認めたのです。勿論、朝からを出勤する場合もありましたが…こちらの場合も5シリングの往復割引切符を利用したことは間違いありません。こうして万国博は、予想以上の好評を博したのです。いずれにしても、ウィルビー卿の所領の農民や、会社の許可を得て、万博見物を実行できた従業員らは、その他地域の農民や労働者に比べる時、断然高い労働意欲を燃やしたであろうことは、簡単に想像できます。損して得執れの諺同様、先見の明のある方は違うものです。 続く
2018.05.07
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第1回万国博覧会をめぐって その5第1回万国博覧会がきっかけとなって生まれたものの中に、今日のわれわれにとってもなじみ深いもの。我々もその恩恵に浴しているものがあります。それは、とりわけ地方からの万博見物客を対象に生み出されました。そしてリクリエーションの大衆化と共に世界中に伝播し、今や世界中に広まって、全盛を謳歌しています。そうです。団体旅行、団体割引料金の仕組みの開発と、旅行会社の誕生です。万博見物のために、世界最初の団体旅行の仕組みが考案され、実施に移されたのです。アイディアの創案者はトーマス・クック。世界最大の旅行エージェント、トーマス・クック社の創業者です。クックは、熱心な禁酒論者で、1841年7月の禁酒大会に中部諸州の鉄道会社を説得して、特別団体列車を走らせ、570人の会員を団体特別料金で輸送した経験を持っていました。中部諸州の鉄道会社は、やがて合併して中部(ミッドランド)鉄道となっていたのですが、クックは中部地方での万博人気に目をつけ、中部地方からロンドンに向かう鉄道に、団体料金を設定して往復割引切符を導入すれば、万博見物客は飛躍的に増えるだろうと考えたのです。禁酒大会の経験が生かされたのです。彼は、早速鉄道会社と交渉して説得を重ね、ロンドンまでの往復割引切符を5シリングとすることに成功しました。これを知ったグレート・ノーザン鉄道もクックに持ちかけて同じ仕組みを導入し、多数の観光客をロンドンに送り出すなど、大変な人気を博したのです。往復割引切符の持ち主は、急行を除くどの列車にも乗れました。ブラッドフォード駅では、工場の労働者達が駅に集まり、各自が5シリングの切符を買い、ポケットに僅かの金を残して、日曜日の夜行でロンドンにたち、月曜日の夜行でロンドンを出発して、火曜日の朝に戻って、そのまま職場に向かう姿が、会期中続いたと言われています。万国博の終りまでに、クック社が扱った往復割引切符は、合計16万5千枚に達したと言われます。ついでながら、この成功に気を良くしたクックは、1855年の第2回万国博がパリで開かれると、イギリス各地からパリまで往復31シリングの団体割引切符を売り出しています。この成功で、翌56年には、ヨーロッパ周遊鉄道の旅を組織するに至るのです。ここに世界最大の旅行会社トーマス・クック社が誕生をみたのです。 続く
2018.05.06
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第1回万国博覧会をめぐって その4 1シリングの入場料は、確かに民衆にとっても魅力的な料金でした、しかし、ロンドンに住んでいればともかく、地方の民衆にとって会場までの交通費などの出費を考えると、決して安いとはいえません。それでも人々は、話題の先行した万国博を見物したいと必死になったのです。 それはまさしくイギリスの労働者や農民にとって、地域の祝祭といった馴染みの行事とは違った楽しみを提供する場であり、はじめてのリクリエーションと言えるものでした。 万国博の会場は、禁煙とノンアルコールが定められており、場内ではタバコを吸うことも、アルコールを口にすることも、犬を連れて入場することも禁じられていました。場内の軽食堂でもアルコール飲料は一切売られていませんでした。売られていたのは、菓子パン、ソーダ水、レモン水、それにジンジャエール程度でした。変わったものでは氷を売っていましたが、これは博覧会場に据え付けられたのがはじめてという、蒸気力による製氷機で作った氷で、値段も6ペンスと1シリング(氷の大きさによる)の2種類しかなく、既に1シリングの入場料を購入した民衆にとっては、高価なものでした。 5月24日を過ぎて、1シリングデーが始まると、待ちかねていたかのように、下層の民衆も博覧会場にやってきました。従来のイギリスでは、こうした公的な場に、大挙して労働者階級が現れることはありませんでした。そして有産階級は、大陸ヨーロッパの革命的雰囲気の余熱の伝播を恐れ、博覧会場で大きな混乱が起こりはしないかと、案じていたのです。しかし、その心配は杞憂に終わりました。当時の新聞や万国博のルポルタージュは、博覧会場での労働者階級の行動を、次のように絶賛したのです。 「1シリングデーに、博覧会シーズンの不思議が現れた。事前に噂が流れたような、野蛮な行動や騒動などは全くの杞憂で、行儀の良い上機嫌な労働者階級が、際限のない流れとなって、眼を見張り驚きの表情を浮かべながら、水晶宮の入口を通り過ぎた。ガラスに投石する1人の共産主義者もいなかったし、展示された世界最大のダイヤモンドを掴み取ろうとする者もいなかった。」 「労働者達の四角い帽子、さっぱりした服装、眼を大きく見開いて驚きの表情を浮かべたボロ着の子ども達、粗末なピクニック袋と赤ん坊、持参したジンジャエールといった情景は、富裕な上流人たちに、思いがけない感動を与えた。イギリス人はめったに気持ちを誇張しないが、こうした光景を見て、労働者達に握手を求めたり、人前で涙を流した者さえ出たのである。」「世間から畏れられていたイギリスの労働者達は、友人としてここに集まっていた。」アルバート公の試みは、図にあたり、世界最初の万国博を、自分達も見たいし、見ることが出来るという、確かな手応えが、労働者階級にもまた、国民意識を植えつけたのでした。 続く
2018.05.05
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第1回万国博覧会をめぐって その3第1回万国博は、大成功を収めました。会期は5月1日から10月15日までの5ヶ月半でした。この間、日曜日は休館。最後の月曜日と火曜日も休館でしたから、開催日数は正味140日でした。キリスト教の安息日である日曜日が休館となるのが、日曜日こそかき入れ時と考える、日本などアジア諸国と大きく異なっていました。さて、この140日間の入場者数は、公式記録で606万3986人とされています。この中には相当数のリピーターが含まれています。入場者が少なかった時の対策として、期間中何度でも入場できる定期券も売り出されており、およそ2万5千枚の定期券が販売されていたのです。この2万5千枚の定期券を利用した入場回数は、およそ80万回であったとされています。その外に定期券を持たないリピーターを考慮に入れると、正味の入場者数は400万人~450万人程度だったろうと、推計されています。外国からの入場者もかなりの数にのぼり、アイルランドからの入場者を加味すると、50万人程だったと考えられています。 入場料については、無料化も検討されたのですが、結局有料とされました。入場料は、来場者を出来るだけ増やすために、大変きめ細かく作られました。先ず、先ほど紹介した全会期有効の定期券は、男性用3ポンド3シリング(1ポンド=20シリングですから、63シリングにあたります)、女性用2ポンド2シリングでした。1日券は開会直後の5月2日と3日は特別に1ポンド(20シリング)、5月4日~24日までは5シリング、それ以降は月曜~木曜は1シリグ、金曜は2シリング6ペンス(1シリングは12ペンスなので、30ペンスです)、土曜は5シリングと決められました。 入場料が1シリング(=12ペンス)の日なら、下層階級である貧民層でも、最下層以外は万国博を見物することが可能です。ですから、1シリングデーを設けたということは、あらゆる階層の人々が万国博を見物出来るように配慮したことを意味しました。この決定は、万国博覧会協会総裁であった、アルバート公の英断によるものでしたが、当時としては画期的な試みでした。事実600万人超の入場者の内、1シリング券での入場者は444万人を数え、入場者の70%以上を占めたのです。 続く
2018.05.04
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第1回万国博覧会をめぐって その2万国博覧会の開催が決まると、アルバート公を総裁とする万国博覧会協会が組織され、そこから資金集めがスタートしました。実施するか否かでは、様々な議論がありましたが、実施が決まったとなると、記念すべき第1回の博覧会を何としても成功させたいと、王家、政府、産業界から一般国民まで、熱心に寄付金集めに奔走することになったのです。その甲斐あって、万国博の必要経費は、すべて寄付金で賄うことが出来たのです。会場に選ばれたハイド・パークには、万博を象徴する建物として、イギリスの工業力の粋を集めた、ガラスと鉄柱だけを用いた大展示場、水晶宮が建てられました。 水晶宮の建設にあたっては、自然保護の観点から、建設予定地に根を張っていた楡の巨木を、そのまま建物の内部に取り込むという、当時としては奇想天外の試みも行われました。 博覧会の出品者や出品団体は1万5千を数え、出品点数は10万点を超えました。参加国は、大陸ヨーロッパ諸国はもとより、米国、カナダ、中国、インドと、まだ鎖国体制にあった日本は別ですが、文字通り世界各国に及んでいました。開幕は5月1日、そこから10月15日の閉幕まで、文字通り5ヶ月半の会期中は、連日大入り満員の盛況だったとされています。期間中の入場者は600万人を超え、予想を上回る大成功を収め、博覧会協会の手に残った純益は、21万ポンドに達しました。この純益を使って、サウス・ケンジントンに86エーカー(34,4ヘクタール)の土地を購入し、そこに大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館やアルバート・ホール、さらには現在のロンドン大学の前身などが作られたのです。なお、水晶宮は、取り壊してしまうのは惜しいと、3年後の1854年にテームズ川の南、シドナムに移築されたのですが、残念ながら1936年に火災で焼失してしまいました。 続く
2018.05.03
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第1回万国博覧会をめぐって その1昨日のクロニクルに記した、第1回万国博について、いくつかご質問を戴いておりますので、数日クロニクルをお休みにして、第1回万博を巡る当時の様子を数回に分けて連載します。この記事は、4年前に描いた記事の採録ですが、どうぞお付き合いください。ロンドンのハイド・パークの西南の一郭に、音楽ホールとして名高い、ロイヤル・アルバート・ホールがあります。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公の名を冠したホールです。このホールにに面して、巨大な銅像が立っています。ゴチック風の見上げるような高い尖塔をつけた天蓋と、石段のついた台座から、銅像の主はよほどの著名人だろうと想像が出来ます。気になって、プレートを注意して読んでみて、はじめて銅像の主がアルバート公であることに気付きました。銅像は、1851年に開かれた第1回ロンドン万国博覧会の提唱者で、大会の総裁を務めたアルバート公を記念した、モニュメントだったのです。良く見ると、公が手にしているのは、第1回万国博のカタログでした。大理石の台座の周りには、人間文明の発展に貢献した多くの学者や芸術家のレリーフが刻まれ、台座の四隅には、農業、工業、商業、技術の四部門を代表する群衆を飾り、さらに石段の外側の四隅には、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を象徴するような彫刻が施されています。アルバート公は、開会式での挨拶で、「これまで全ての歴史が目指した偉大な目標は、人類の統一であり、現代はその実現に向かって、急速に近づいている」と語りました。そのまま現代に持ってきても通用しそうです。アルバート公が理想とした万国博の精神は、この言葉に凝縮されています。記念碑は万国博の理念を、形にしたものでした。アルバート公はベルギー国王レオポルド1世の甥にあたり、ヴィクトリア女王とは母方の従兄の間柄でした。2人の相思相愛は有名で、熱烈な恋愛結婚でした。そんな関係かアルバート公は、政治の世界では決して目立とうとせず、音楽や芸術や学術のパトロンに徹し、その関係で英国産業の発展にも関心を寄せていたのです。万国博という画期的なアイディアも、アルバート公の発案になるものでした。しかし、当時のイギリス議会は、万国博の開催に反対でした。ヨーロッパ世界にとって、1848年という年は、一連の連鎖的な革命の年でした。フランスの二月革命に始まり、ドイツ各地やイタリア諸都市の三月革命など、48年は年間を通して、革命の嵐が吹き荒れた年でした。その最中の万国博の提案です。しかも同じ1848年、マルクスとエンゲルスの2人によって、『共産党宣言』が発表され、「万国の労働者よ、団結せよ」と、国際共産主義運動が呼びかけられていたのです。英国議会に結集したジェントルマンたちは、今の情勢で万国博を開けば、大陸諸国からたくさんの革命家がイギリスに押し寄せ、イギリスの労働者たちを洗脳して、英国内を混乱させるに違いないと恐れたのです。産業家もまた、イギリスの優れた技術の秘密が、優秀な機械や製品の展示で盗まれてしまうのではないかと、心配しました。こうした不安や反対の声に対し、女王の支持を得たアルバート公は、粘り強く反対派を説得したのです。公の熱意に、先ず上院が折れ、下院もしぶしぶながら賛成に回り、こうして万国博の開催が決まったのです。会場にはハイド・パークが選ばれました。 続く
2018.05.02
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クロニクル 第1回万国博覧会開幕1851(嘉永4)年5月1日 日本では48年前の大阪万博が最初でした。64年の東京五輪に70年の大阪万博でした。中国でも北京五輪に対し上海万博、何か日本のやり方と良く似ています。 第1回の万国博覧会は、167年前のちょうど今日5月1日が開幕日でした。 時あたかも、ペリーの黒船が日本にやってくる2年前のことです。この日、ロンドンのハイドパークを会場に、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公を総裁とする、第1回万国博覧会、ロンドン万博が開幕したのです。 会期は10月15日までの5ヶ月半、この間に600万人を超える観衆が訪れ、万博は大成功に終りました。
2018.05.01
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