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クロニクル 国定公園の誕生1950(昭和25)年7月24日68年前になります。この日、日本で始めての国定公園として、琵琶湖国定公園が指定されました。3日後の27日に佐渡弥彦国定公園が指定を受け、さらに2日後の29日には、耶馬日田英彦山国定公園が指定されました。 国定公園とは、国立公園に準じる景勝地として、自然公園法に基づいて環境大臣が指定した公園を指します。国立公園が国の直接管理なのに対し、国定公園は都道府県が管理する点が違っています。 国定公園の中で、21世紀に入って指定された景勝地は、2007年8月3日指定の京都府の丹後天橋立大江山国定公園、15年3月16日に指定された甑島(こしきじま)国定公園、そして16年3月25日に指定された京都丹波高原国定公園の3か所です。現在までに指定された国定公園は、全部で64箇所ですが、その後に国立公園に昇格した地域もあるため、現在の国定公園は58箇所となっています。ただ、北アルプスと南アルプスは、夫々国立公園に指定されているのですが、中央アルプスは国立公園にも国定公園にも指定されていませんし、日本三景と称される安芸の宮島は国立公園の一部をなし、天の橋立は国定公園に指定されていますが、東北の松島はどちらにも指定されていません。どうしてなのでしょうね?
2018.07.24
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クロニクル メガワティ大統領就任2001(平成13)年7月23日 17年前のこの日、インドネシアでメガワティ氏が大統領に就任しました。メガワティ氏は、インドネシアの建国の父、スカルノ初代大統領の長女で、98年のスハルト独裁体制の崩壊後、副大統領を務めていました。 人気は高かったのですが、政治的手腕はさほどなく、次第に国民は離れて、05年選挙では、ユドヨノ候補に大差で敗れました。 さらに09年の大統領選挙でも、再びユドヨノ候補に敗れ、大統領復活はなりませんでした。
2018.07.23
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クロニクル 宮沢首相退陣を表明1993(平成5)年7月22日あれから25年、四半世紀経ったのですね。25年前のこの日、宮沢首相は、「自民党分裂と総選挙敗北の責任を取る」として、首相退陣を表明しました。細川連立政権が誕生するのは、この20日程度後のこととなります。 黒子だったはずの官僚が、やたらと表舞台に登場する悪習は、このとき以後目立つようになりましたね。
2018.07.22
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クロニクル 『指輪物語』刊行始まる1954(昭和29)年7月21日64年前になります。トゥールキンの代表作、『指輪物語』の第1部、「旅の仲間」が、この日イギリスで発売されました。 日本語版の出版は、1972年~75年にかけて、評論社から出されました。お読みになられた方も多いのでは…
2018.07.21
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クロニクル 祝日法公布1948(昭和23)年7月20日 成立して70年なんですね。この日「国民の祝日に関する法律(略称祝日法)」が公布・施行され、年間9日の祝日が定められました。 当初の祝日は、全体で9日のみ、2月、6月、7月、8月、10月、12月は祝日なしでした。その由緒ある9日は、以下の通りです。 1月 1日 元旦 15日 成人の日 3月 21日前後 春分の日 太陽が赤道上空にある日 うるう年は日が変わります。 4月 29日 天皇誕生日 5月 3日 憲法記念日 5日 子どもの日 端午の節句でした9月 23日前後 秋分の日 3月と同じ事情で変化があります11月 3日 文化の日 明治天皇の誕生日、天長節でした。 23日 勤労感謝の日 近代日本は養蚕・生糸産業を中心に資本主義の発達を進めました。蚕は年に2度、繭を作ります、春蚕と秋蚕です。そして、そのピークは水田稲作中心の日本の農業のリズムに無理なく溶け込んでいました。春蚕を終えると、田起こしの時期、稲の借り入れを終えると秋蚕の時期でした。ですから明治の昔から、23日は1年の収穫を祝う日だったのです。ここで一つの問題は、5月5日の端午の節句は、こどもの日として祝日となったのに、3月3日のひな祭りは、祝日とならなかったことです。憲法が男女平等をうたっても、なお当時の日本社会が、男尊女卑の女性差別意識を払拭できないでいたことが、良く理解できる一齣でした。
2018.07.20
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クロニクル 二千円札発行2000(平成12)年7月19日18年前です。当時の小渕首相が西暦2000年に因んでと、発行を予告していた二千円札が、この日発行されました。 表面には、沖縄サミットに因んでと、デザインされた守礼門が印刷されていましたが、そのサミットの開幕を2日後の21日に控えてのことでした。その小渕首相は4月に脳梗塞に倒れ、帰らぬ人となっていました。 二千円札見かけなくなって久しいですね。沖縄では比較的流通していると聞いた時期もありましたが、今でも流通しているのでしょうか。二千円札どこへ消えたのでしょうね。日銀が回収してしまったわけではなさそうなんですが…
2018.07.19
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クロニクル ヴェトナム国連に加盟1977(昭和52)年7月18日41年前になります。この日、ヴェトナム民主共和国の国際連合への加盟が決まりました。ヴェトナムは、1945年8月15日の日本の敗戦を機に、当時占領中だった日本からの独立を宣言しましたが、翌1946年に、日本占領以前の宗主国だったフランスが再占領し、以後対仏独立戦争を展開し、1954年に独立を達成しました。しかしなお、北緯17度線の南側(南ヴェトナム)は、フランスに替わったアメリカの傀儡政府が支配する分断状態に置かれました。このため、その後も南ヴェトナムの解放戦争が続けられ、国連への加盟は果たされなかったのです。1973年にようやく米軍が撤退。75年に南ヴェトナム全域の解放が実現、翌年の南北合併を経て、この日、ようやく国際連合への加盟が実現したのです。
2018.07.18
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クロニクル ウルトラマン登場1966(昭和41)年7月17日 誕生から52年になるのですね。52年前のこの日は日曜日。日曜夜の7時から7時半のゴールデンタイムに、この日TBSから登場したのが「ウルトラマン」でした。 「ウルトラマン」の制作は、円谷プロダクション。同プロの得意な特撮を駆使したTV劇映画でした。1966年(昭和41年)の7月17日から1967年(昭和42年)4月9日まで、全39話が放送されました。 放送開始直後から、大変な人気を集め、当時の調べでは、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した超人気番組でした。放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録しています。「ウルトラマン」の前作だった「ウルトラQ」の実績を参考に、TBSは本作の商品化収入を74万円と見積もっていたそうですが、関連商品が大ヒットし、商品化収入は何と1億5000万円に膨れ上がったそうですから、TBSとしては、嬉しい誤算となったようです。この作品は、日本のテレビ局にとって画期的な作品となったのですが、それは従来の子供向け番組が、漫画を原作としたものばかりだったのに対し、この作品は初めてのTV局のオリジナル作品として制作されたことにありました。 本格的なテレビの全盛時代は、ウルトラマンと共にやってきたといえましょう。初放映から50年以上が経過した現在でも、「ウルトラマン」は世代を超えて根強い人気を保ち、日本の特撮番組の基本フォーマットの一つとなっています。
2018.07.17
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クロニクル 『ライ麦畑でつかまえて』発売1951(昭和26)年7月16日ちょうど今年で初版の発売から67年になるのですね。そうなんです。日本でも未だに売れているA.Dサリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』が、67年前の今日米国で発売されました。まだ読まれていない方のために、作品の紹介は慎みますが、最後のクライマックスシーンを導くために、主人公の少年の3日間の彷徨の物語が積み重ねられていくことだけ、紹介しておきます。この小説は、2007年現在で累計発行部数は全世界で6000万部、アメリカ合衆国で1500万部を超え、最近でも全世界で毎年50万部を売り上げていると言われています。日本でも、最もポピュラーな野崎孝訳の白水社本が、300万部を売り上げています。 今でも青春小説として読み継がれているのですね。
2018.07.16
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クロニクル 日本 東京オリンピックの開催を返上1938(昭和13)年7月15日 驚かせて申し訳ありません。2020年の東京オリンピックのことではありません。78年前、1940年の東京五輪の話です。それでもこれは本当にあった話です。80年前のことです。1940(昭和15)年のオリンピックは、東京で開かれることになっていました・。しかし、1937(昭和12)年の7月に始めた日中戦争は、上海から南京、さらには武漢へと拡大の一途を辿っていました。 同じくヨーロッパの戦雲も益々色濃くなってきており、遂にこの日、日本政府は東京五輪の開催を遠慮する旨、国際オリンピック委員会(IOC)に通知しました。 第二次世界大戦が始まる1年と少し前のことでした。結局1940年の五輪は、世界戦争のために中止となりました。まさに国際政治の混迷が、スポーツの祭典を吹き飛ばしてしまったのです。
2018.07.15
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クロニクル バスティーユ襲撃1789(寛政元)年7月14日 今日はパリ祭ですね。229年前の今日、フランスはパリの民衆が、バスティーユ監獄を襲撃した有名な事件が起きました。良くここからフランス革命が始まったとされることもありますが、革命初期のハイライトだったと理解する方が正確なように思います。 四つの搭に大砲を備え、堀に囲まれた堅牢な要塞だったバスティーユが、民衆の襲撃であえなく陥落したことが、革命の第1段階における革命派の勝利を決定づけたことは間違いありません。だからこそ、革命派は翌1790年のこの日に大々的に連盟祭(これがパリ祭の原型です)を行ない、この日を革命の記念日としたのです。しかし、パリの民衆はこの日朝からバスティーユに集結したわけではありません。民衆は先ずアンヴァリッド(廃兵院と訳されます。現在はここにナポレオンの遺骸が安置されています)を襲い、目的が半分しか達成できなかったために、襲撃し難いバスティーユに向かう事になったのです。そのため、バスティーユに到着するのは、昼近かったと記されています。 民衆の目的は、自ら武装することで、国王に反旗を翻した議員たちが結集する「国民議会」を守ることでした。そのために、この日アンヴァリッドを襲ったのです。ここには確かに大量の小銃や何門かの大砲がありました。しかし、弾丸は、ごく少量しかなかったのです。 弾丸はバスティーユにある。そう聞いた民衆は、時の勢いでバスティーユに向かったのです。その結果は、皆さんご存じの通りです。
2018.07.14
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クロニクル 第1回ワールドカップサッカー大会開幕1930(昭和5)年7月13日ワールヂカップロシア大会、期待値が低かった日本チームの健闘もあり、大いに盛り上がりましたね。ここまで来たら、ベスト16で日本チームと死闘を演じたベルギーチームに優勝してほしいな…なんて考えていたのですが、フランスチームにしてやられましたね。そんな盛り上がったロシア大会も、残り僅かですね。そこで、今回は、話題のサッカーワールドカップの始まりの話です。88年前の今日、ウルグアイでサッカーの第1回ワールドカップが開幕したのです。第1回FIFAワールドカップは、以後の大会と異なり、出場権を賭けての地区予選は行われず、全ての参加チームが招待されて参加しました。まだ旅客機の飛ばない時代、船での長旅を嫌って、ほとんどのヨーロッパチームが出場を辞退し、開催2ヶ月前の時点でユーラシア大陸からの参加チームは1つもありませんでした。そのため、当時のFIFAの会長、ジュール・リメが参加を呼びかけた結果、ベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの4カ国が参加に踏み切りました。大会には13チームが参加しましたが、4グループに分かれた予選の各組1位が決勝トーナメントに進出する仕組みでした。準決勝には、ウルグアイ、アメリカ、アルゼンチン、ユーゴスラヴィアの4チームが進出、7月30日に、ウルグアイ対アルゼンチンの決勝が行なわれ、ウルグアイが4対2で勝って、初代王者になりました。今や大人気のワールドカップも、創世記には色々な苦労があったのですね。
2018.07.13
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クロニクル ハイセイコーデビュー1972(昭和47)年7月12日 騎手の増沢末夫さんが歌った「さらば~ ハイセイコー」の歌声。覚えていらっしゃいますか。結構歌われましたね。あの歌の主、競走馬のハイセイコーは、地方競馬から頭角を現し、中央競馬に進出して、歌にまでなる人気を博した馬でした。そのハイセイコー、46年前の今日、大井競馬にデビューしました。3歳馬でした。この大井競馬で6戦6勝。それも後続馬を6馬身以上引き離す圧勝続きで注目を集め、翌年中央競馬に引き抜かれ、全国区の人気を得たのです。74年の有馬記念を最後に引退。「さらば~ ハイセイコー」の歌は、翌年1月の引退式直後に発売され、45万枚を売り上げたと言われます。
2018.07.12
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クロニクル 原爆ドーム永久保存へ1966(昭和41)年7月11日52年前になるのですね。この日広島市議会は、爆心地に残る原爆ドームの永久保存を決議しました。劣化が進み倒壊の危機が迫っていたのですが、補修と補強によって、保存し続けようと決めたのです。第1次の補修はただちに始められ、翌67年の8月8日に完工式が行なわれました。この事は、広島で被爆し、次世代に被爆体験を残したいと願う被爆者たちが、重い口を開いて被爆体験を語り出した行動と機を一(いつ)にしていました。原爆の被害とその体験を風化させてはならないという強い決意が、重い口を開きだした被爆者たちと原爆ドームの永久保存を決断した市議会とで、共有されていたように思われます。 大江健三郎の『広島ノート』(岩波新書)が出版された時期も、同じ頃だったような…。その後、原爆ドームは、1996年12月にメキシコで開かれた世界遺産委員会において、米国の強い反対を押し切って、圧倒的多数の支持を得て、世界文化遺産に登録されました。 米国はなんとも狭量ですね。
2018.07.11
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クロニクル 「おサイフケータイ」登場2004(平成16)年7月10日もう14年になるのですね。14年前のこの日、NTTドコモが「おサイフケータイ」のサービスを開始しました。ドコモは、携帯電話による決済インフラの普及を優先させるために、他社にもシステムや商標権をライセンスしたため、このシステムは極めて短期間に普及することになりました。そしてスマホが普及した現在、あらゆる支払いに対応するようになって…… いったいどこまで進んでしまうんでしょうね。なんだかおそろしいような… 皆さんはどうしていらっしゃるのですか?
2018.07.10
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クロニクル ウィンブルドン選手権始まる1877(明治10)年7月9日 今年のウィンブルドン選手権(全英オープン)、今や佳境ですね。実は、141年前の今日、男子シングルスのみの大会として開幕したのが最初でした。 場所はご承知の通り、ロンドン南西部のウィンブルドン。テレビ中継などでお馴染みのセンターコートは、実はこの大会のためにしか使われない、日常的には閉じられたコートなのです。さて、1877年、記念すべき第1回大会の優勝者はスペンサー・ゴア選手。2年後の79年から男子ダブルスが加わりました。女子は、1884年にシングルスが行なわれ、99年からダブルスも行なわれるようになりました。翌1900年に混合ダブルスが登場し、現在の形になりました。女子シングルスの最初の優勝者はモード・ワトソン選手でした。 試合数が増えた関係で、いつの間にか6月の第4月曜日(最終月曜日であることが多い)を開幕日とするようになったそうです。
2018.07.09
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クロニクル 世界最高気温を記録1921(大正10)年7月8日97年前ですから、随分と古い記録です。世界気象機関が発表する気温のなかで、今日まで破られることなく続いている世界最高気温が、この日イラクのバスラで記録されました。その気温が、何と58,8℃です。 昨今、地球温暖化が叫ばれますが、世界各地域の歴代最高気温を見ると、 北米大陸 カリフォルニア州デスヴァレー 56,7℃ 1913/7/10アフリカ リビアのアラジィージャ 57,7℃ 1922/9/13ヨーロッパ スペインセビリア 50,0℃ 1881/8/4オセアニア オーストラリアクィーンズランド 53,1℃ 1889/1/13南米大陸 アルゼンチンのリバダビア 48,9℃ 1905/12/11 となっています。 温暖化、温暖化と言いますが、19世紀末から20世紀初頭にかけての時期の方が、現在よりかなり気温が高かったことは、否定できないようです。
2018.07.08
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クロニクル サミット東京で開催1993(平成5)年7月7日25年前の今日、1975年のランブイエから数えて19回目のサミットが、東京で開幕しました。次ぎの日本開催が、2000年の沖縄サミット。その次が2008年の洞爺湖サミットです。洞爺湖サミットもまた7月7日が開幕日でした。洞爺湖の次が一昨年2016年の伊勢志摩サミットでした。この93年サミットのホスト役は宮沢首相が務めたのですが、彼は、前月18日に、衆院での内閣不信任決議案の可決成立を受け、解散総選挙に踏みきっておりました。その結果はご存知の通りで、サミット開幕から11日後の18日の総選挙に破れ、退陣することになりました。その7年後の沖縄サミット直前の4月2日には、時の小渕首相が脳梗塞に倒れて退任、急遽密室の幹部談合で選ばれた森首相が、ピンチヒッターを務めたことは、ご存知の通りです。
2018.07.07
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クロニクル 東大安田講堂竣工1925(大正14)年7月6日 大正時代も終わりに近づきつつあった93年前の今日、安田財閥の創始者安田善次郎の寄付によって、東大に講堂が建てられました。収容人数は、1,144席(3階席・728席、4階席・416席)です。 安田の寄付は匿名が条件でしたが、大磯の別邸で右翼によって暗殺された安田を偲び、竣工後は、いつの間にか安田講堂と呼ばれるようになりました。ところで、1925年7月といえば、1923年9月1日の関東大震災からそう間も経っていません。実は安田講堂の建設は1921(大正10)年に始められました。そして関東大震災でも倒壊を免れ、しばしの工事中断を経て、この日完成を見たのです。ちょうど50年前、東大全共闘の学生たちが立てこもり、バリケード封鎖の対象にしたのが、この安田講堂でした。機動隊が動員され、封鎖を解除したのは翌69年の1月でした。
2018.07.06
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クロニクル 米国18歳以上に選挙権1971(昭和46)年7月5日日本も2年前の2016年から、18歳選挙権に移行したのですが、アメリカ合衆国では、日本よりも45年も早く、今日から47年も前の1971年に、選挙権が付与される年齢を21歳から18歳に引き下げるアメリカ合衆国憲法修正第26条が発効、18歳選挙権が 認められました。
2018.07.05
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クロニクル 『不思議の国のアリス』誕生へ1862(文久2)年7月4日 文久2年と言うのは、維新前夜の混沌とした時期でしたが、文豪森鴎外の誕生年でもあります。156年前になるのですが、この日、『不思議の国のアリス』の著者、ルイス・キャロルは、友人のヘンリー・リデル一家の3人娘を、川遊びに連れてゆきました。 川遊びに疲れて休んでいる時に、物語の好きなリデルの次女アリスは、キャロルに楽しいお話をしてとせがみました。この時、キャロルが即興的に話して聞かせた物語を、アリスはことのほか好きになり、何度も同じ話をキャロルにせがみました。キャロルは、自ら紡いだ物語を、「地下の国のアリス」として手書きの本にまとめました。この本が、後『不思議の国のアリス』として、世界各地の子ども達を魅了することになったのです。こうして、アリスの物語が出来上がったのですね。
2018.07.04
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クロニクル ザビエル鹿児島に到着1549(天文18)年7月3日469年も前のことになります。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本人ヤジロウの案内で、鹿児島に上陸しました。当時43歳でした。そうすると、469年前に43歳だったのですから、ザビ神父を名乗る私は512歳ということになるのですね。となると『日本書紀』に出てくる非実在の神武天皇に比べても、その2倍以上生存していることになります。まさにありえないことになります。(アハハハハ)ザビエルはスペイン貴族の出身で、イグナティウス・ロヨラらと共に、宗教改革派に押されるカトリックの改革を推進しようと、1533年にパリでイエズス会を創設。自ら好んで遠いアジアの地での布教活動を通じて、新たなカトリックの信者を獲得することに、生涯をかけた人物です。その点、イエズス会の代表に納まり、1度もパリを離れることなく、王権と結託してカトリック界での影響力を増そうとしたロヨラの生き方とは、180度異なる生き方を示した、世俗の権力とは無縁の存在でした。ザビエルは1442年にインドのゴアに到着、ゴアを中心に布教に励んでいましたが、1547年にマラッカでの布教中に、日本人のヤジローと出会い、ヤジローに聞いた日本に興味を抱いて、日本での布教に乗り出す決心を固めたとされています。 鹿児島に上陸したザビエルは、領主の島津貴久に謁見することを許され、布教の許可を得たのですが、布教上のライバルとなる仏教を激しく攻撃したため、住民の反発をかって鹿児島にいられなくなり、肥前平戸、周防山口、京都などに活動の場を移すことになりました。 2年後1551年、日本での布教を成功させるには、中国での布教が重要であるとの結論を得て、中国にわたり、1552年マカオで客死しています。
2018.07.03
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昨日7月1日の記事がどういうわけか、皆様から頂戴したコメントと共に、消えてしまいました。おそらく、私が間違えて、削除ボタンを押してしまったのでしょうが……そんなわけで、コメントをいただいた皆様には、大変失礼なことになってしまったこと、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
2018.07.02
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クロニクル 雪印乳業製品で集団食中毒2000(平成12)年7月2日この事件も18年前になりました。18年前のこの日、雪印乳業の大阪工場から出荷した乳製品で、集団食中毒が発生しました。食中毒患者は1万人を超え、大きな社会問題になりました。その結果発生から5日後の7月6日、同社社長が引責辞任を発表しましたが、失われた信用は、簡単には回復せず、同社の業績は大きなダメージを受けました。ここで、食品会社にとって、特に消費者の信用が大事だということは、良く分かったはずなのですが、同社の系列会社の雪印食品は、食中毒の記憶がまだ強く残る、2002年の1月に牛肉偽装事件を起こし、懲りない雪印として、社会的糾弾を受け、遂に会社解散に追い込まれたのも記憶に新しいところです。それにしても、食品偽装はどこまで行くのでしょうかね。日本人の商道徳はいったいどこへいったのでしょうね。今の世の中、明らかに間違ってますね。さて、どうすべきなのか。
2018.07.02
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