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5月20日。この日は、オーバンから北上し、カイル・オブ・ロハルシュ(Kyle of Lochash)の大橋を渡って、スカイ島に上陸。この島には二泊します。スカイ島では、北東部にあるポートリ(Portree))という町で、食料を調達します。これがポートリーの街中。港に近い町で、高台からは海が見えます。ここで食料を調達したのは、実は翌日の「絶海の孤島ツアー」のためのお弁当の材料を買い込むためでした。孤島では飲料水を含め食料品は手に入らないからです。宿泊先のチェックイン時間にはまだ時間があったので、二日後にフェリーに乗る予定の港まで足を伸ばします。岬の中ほどに見えるのが、スカイ島の北の港ユーイグ(Uig)です。綺麗な緑と青ですね。右端に見えているのが、港です。(続く)
2024.06.22
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オーバンは大きな港町で、面白いお店がたくさん並んでいます。そこで2時間くらいショッピングを楽しんでいたら、結構つかれてしまい、ゲストハウスに戻ってからは部屋でのんびりすることにしました。窓から見える風景を観賞。上の写真はたぶん午後5時半ごろです。次は午後9時15分ごろ。ようやく日が陰ってきましたね。午後9時45分。ようやく夕暮れ時になりました。そして、朝です。午前5時半ごろですね。それから1時間たった午前6時半ごろ。もうすっかり昼間のように明るくなっておりました。5月のイギリスは、いつもこのように昼間が長いわけです。(続く)
2024.06.21
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宇佐神宮(宇佐八幡)を総本社とする八幡神社が、秦氏と深く結びついていることははっきりしましたが、八幡とはどういう意味なのでしょうか。宇佐八幡をはじめとする八幡神社の「八幡」は今でこそ「ハチマン」と呼ばれますが、元々は「ヤハタ」とか「ヤハダ」と呼んでいました。どうしてそれがわかるかと言うと、『続日本紀』に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」と書かれているほか、『日本霊異記』には「矢幡(ヤハタ)神」、『源氏物語』第22帖玉鬘に「ヤハタの宮」などと記されているからです。それがいつの時代からか、「ハチマン」と音読に変化したのだとされています。八幡大神は応神天皇のことであるとされている、と書きましたが、それは奈良時代以降のことで、それ以前は別の神であったと広く考えらえています。ではそのヤハダの神、あるいはヤハダの神とはどのような意味だったのでしょうか。日ユ同祖論の研究家の間では、「ヤハダ」は、元々はヘブル語の「イェフダー」、つまりユダヤまたはユダの意味であるとされています。彼らの説では、ヤハダの神はユダヤの神「ヤハウェ」ということになるわけです。その真偽のほどはさておいて、1313年に選修された『宇佐託宣集』によると、八幡神は「古へ吾れは震旦国(しんたんこく:中国の古称)の霊神なりしが、今は日域(じちいき:日本の異称)鎮守の大神なり」と託宣しているそうです。つまり外国から日本に来た神であったと神様ご本人が言っているわけです。やはりこの神も秦氏の氏神であった可能性が強そうです。ただし別系統の神と合流した可能性もあります。大隅正八幡宮(鹿児島神宮・鹿児島県姶良郡隼人町)の伝承によると、次のような由来があります。「震旦国陳大王の娘・大比留女(オオヒルメ)、七歳で御懐妊。父王怖畏をなして、汝未だ幼少也、誰人の子かありていに申すべしと仰せければ、我が夢に朝日が胸を覆ひ妊娠したと申し給えば、驚きて、ご誕生の皇子と共に空船(うつぼぶね)に乗せ、流れ着いた所を領とし給へと大海原に浮かべ奉る。日本大隅の岸に着き給ふ。其の太子を八幡と号す。此より船が着いた所を八幡浜と名づく。是継体天皇の御宇(5世紀半ば~6世紀初)也。大比留女、筑紫国若椙山へ飛入給ひし後、香椎聖母大菩薩と顕れ給へり。皇子大隅国に留まりて八幡宮と祀られ給へり」つまり中国の王室の流れを汲む幼き姫オオヒルメが七歳で息子を産んだことから、父王は怪しんで船に乗せて母子ともども海に流してしまいます。母子の船は日本の大隅半島に流れ着き、その息子が八幡神になったというんですね。外国の神であることは同じですが、島流しのようになった点や福岡ではなく鹿児島に漂着したことを考慮すると、別系統の可能性が高いです。面白いのは、七歳で妊娠・出産したという言い伝えです。イエス・キリストの母マリアの処女懐胎を彷彿とさせますよね。いずれにしても八幡神は、元は大陸から渡って来た神であったことはまず間違いないことなのでしょう。それが同じく大陸から渡来した秦氏の氏神「ヤハウェ」あるいは「キリスト」と合体して八幡大神となり、さらに秦氏の恩人である応神天皇や神功皇后と同一視されるようになった、ということではないでしょうか。(続く)かも
2018.10.10
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正月三が日も明けて、今日は休み明けの買い出しに。思ったよりも混んでいませんでしたが、歩き回ったので結構疲れました。羽根ライン関連のブログは多分明日アップします。
2024.01.05
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退行催眠の話に入る前に、東経137度11分の羽根ラインが古代地球の基本子午線(本初子午線)とした場合、超古代においてはどのような意味のラインであったかを説明しておきましょう。簡単に結論を先に言うと、ムーとアトランティスを通り大円を形成する子午線であった可能性が高いということです。既にお話ししたように、羽根ラインはおそらくパン大陸において聖なる山とされた位山の山頂を通過しています。おそらく位山の真南の太平洋上には、かつて聖山とその上空に存在するホアド(高天原)を遠くに仰ぎ見る神都があったはずです。その場所がどこかというと、大和三山の耳成山と天香久山を結んだ直線と羽根ラインの交点であったのではないかと私は推定しています。それはちょうど、九州・高千穂の真東(緯線上)に当たる太平洋上です。根拠は22・5度という360度を16分割した角度が得られるからですが、そのことは、『正統竹内文書の日本史「超」アンダーグラウンド③』の297ページで言及していますので、ご興味のある方はお読みください。19世紀に書かれた啓示書『オアスペ』によると、当時のパン大陸というのは、現在の太平洋の西半分を覆いつくすような巨大な大陸でした。しかし、地上の人間と地球の霊界の天使たちが堕落したことから、神界の神々は大手術を実施。パン大陸を根こそぎ、別の宇宙に飛ばすという荒療治を施すわけです。同時に当時の大西洋にあったアトランティス大陸も飛ばされたと思われます。その証人は秋山氏で、アトランティスの港町パルアルアが別の宇宙空間にそっくりそのまま移動させられていたと証言していますね。二つの巨大な大陸が根こそぎ取り去られたため、かつて海底にあった北アメリカの東半分や南アメリカの中央部、ヨーロッパの北から東、アフリカの北東や中央部北西などが次々と海面上に現れ陸地となりました。面白いのは、『オアスペ』では、かつてのパン大陸の一部(おそらく大陸の北西の縁)は残され、その一部は「パン大陸の残骸」という意味で「ザ・パン」と名付けられた、それが現在の「ジャパン」であるとしていることです。「ザ・パン」が「ジャパン」になったとはひどいオヤジギャクですが、そこはあえて追及しません。たぶん、ダジャレが成立可能となるような神慮があったのでしょう。ところで、パン大陸というのは、秋山氏によると、レムリア(後のムー)大陸の別名です。『オアスペ』には当時の簡単な地球の地図も描かれていますが、それによると、パン大陸はアリューシャン列島、カムチャッカ半島、千島列島を北の縁として、日本列島から南西諸島、台湾、フィリピン、スラウェシ島までが西の海岸線だったようです。南の海岸線は、ニューギニア島から、ソロモン諸島、サモア諸島、仏領ポリネシアまで続き、東の海岸線はライン諸島、ハワイ諸島、ミッドウェイ諸島辺りだったのではないかと思われます。『オアスペ』には触れられていませんが、一方のアトランティス大陸はどこにあったかというと、同じように大陸の縁が島々として残されたのだと仮定すると、大西洋の西半分に存在した可能性が浮上してきます。すなわち、フロリダ半島、バハマ諸島、西インド諸島と続き、そこからアゾレス諸島に至ります。カナダのニューファンドランド島はもしかしたらアトランティス大陸の北の縁なのかもしれません。それらを結ぶと、大西洋の西側に巨大な大陸の姿が浮かび上がってきますね。そのように考えると、プラトンがアトランティス大陸はジブラルタル海峡の外側にあったとする記述を残していることや、エドガー・ケイシーがフロリダ沖のビミニにかつての大陸の最高所ポセイディアがあったと言ったことが、違和感なく受け入れることができます。そして、東経137度11分の羽根ラインは太平洋のムー(パン)と地球の反対側のアトランティスを結び大円(経線)を形成する子午線であったことがわかるわけです。(続く)
2024.01.06
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向かった港は、アラン島に来るときに使ったブロディックの港ではなく、北のはずれにあるロクランザの港です。アラン島の北側は初めてだったのですが、自然が豊かできれいなところでした。45分ほどのドライブで、ロクランザに到着。フェリーの出発時間(午前10時45分)までにはまだ一時間以上あります。すでに先着の車が4台ほどあったので、その後ろに駐車します。時間があるので、車を置いてロクランザを散策。のんびりした小さな港町です。ロクランザ城。元々は13世紀に建造されたお城で、王家の狩りのための宿泊所だったとか。残存している建物は16世紀のものだと書かれています。港には小さいボート用の桟橋もあります。湾の対岸から来た老夫婦が、ボートで戻って行きます。「スコットランはいつもこんな天気だよ」と冗談を言っておりました。すぐそばには、マガモ君が泳いでおりました。(続く)
2024.06.18
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1月2日の朝焼けの連続写真です。夕焼けと違って赤みが薄く、青が濃いように感じますね。いくつもの層があるので面白いです。太陽が顔を出すと、青が消えてオレンジ色が強くなります。ここでも同心円状にいくつもの層が写っていますね。綺麗な日の出でした。今日も忙しくて書けませんでしたが、次回は羽根ラインと退行催眠について書くことができる見込みです。
2024.01.07
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2009年12月の出来事を体験するには、日ごろ実験していたオーラを見る方法(物体を凝視したり直視したりせずに、距離の焦点をぼかして見る方法)が非常に役に立ちました。それはコンサート会場で起こりました。十二月十三日、私とfurafuranさんは神奈川県のよこすか芸術劇場に南アフリカのゴスペル・グループ「ソウェト・ゴスペル・クワイアー」のコンサートを聴きに行ったんですね。魂を揺さぶるような圧倒的な歌声に魅了され、二時間を楽しく過ごしたのですが、始まってしばらく経ったころ、私は奇妙な現象に気がつきます。舞台向かって右側で太鼓を叩いていた男性の頭に、何かぽこっとした光の玉のようなものが浮かび上がってきたんですね。最初は目の錯覚かとも思ったのですが、どう見てもそこにあるように見えます。そこでコンサートの休憩時間になったとき、隣に居たfurafuranさんに「何かオーラみたいのが見えたよね」と、鎌をかけるように聞いてみました。そうしたら彼女は「あれが見えたの!?」と驚いて、具体的な説明を始めたんです。その説明によると、普段見えるオーラとは別に、ある曲を歌ったときにほぼ全員の頭の上にエネルギーボールのようなピンク色に光る卵みたいなものが浮かび上がったのだそうです。ただ一人だけ、その卵が浮かんでいない歌手もいたのですが、その歌が最高潮に達したときに、その人の頭(おでこの上)からも卵のような光るものがポコッと飛び出たのだと彼女は言います。確かにそれは、私が見たものと似ていました。気分が乗って、神がかってくるとは、このことを言うのでしょうか。そんなことを考えていると、furafuranさんが、舞台の奥の黒っぽいカーテンを背景にして、マイクの近辺で茶色の光の玉が動いていると指摘します。オーラを見る方法を使えば、見えるはずだと彼女は言うんですね。私がその方法を使って奥のカーテンをスクリーンにして舞台の上を見ると、なんとバレーボールを一回りも二回りも大きくしたような、おそらく直径50~60センチくらいの、明らかにカーテンの色とは異なる円状、もしくは球状のものが浮かんでいます。スポットライトを見間違えたのではないかと思う人もいるかもしれませんが、それはありえません。スポットライトなら光源がありますが、そのボールにはそうした外部からの光源はなく、光体そのものがかすかに光を放っているのです。透明かつ薄い光です。その証拠に、カーテンなど物に反射して光っているのではなく、宙空の障害物のない空間を動いていました。そのボールはフワフワとまるで風船のように漂っていて、やがて斜めにゆっくりと上昇してゆき、天井辺りで見えなくなってしまいました。そのことをfurafuranさんに話すと、彼女は自分が見たものと一緒だと言います。劇場内は撮影禁止でしたが、もし撮影したら確実に写っていたと思われます。この物体の出現以上に驚いたのは、あのような大きな、鈍く光を放つ物体が目の前の空間で浮遊しているのに、私たち以外の誰も気づいていないように思えたことです。普通、あれだけ大きな光体が動き回ったら、みな驚いて騒ぎ出すはずですが、皆何事もなかったように談笑したり、歩き回ったりしていました。ここが一つのポイントです。以前紹介した「フラダンスの練習中にオーブがミラーボールのように乱舞する映像」でも、踊っている人たちはまったくオーブに気づいていませんでした。撮影者も気づかず、後でビデオを再生して気づいた次第です。オーブはそれほど繊細で見づらいものなのです。しかし、ちゃんと映像には映るし、写真にも写り込みます。ある程度、いると確信して意識で見るしか方法はないのです。(続く)
2024.03.16
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キンタイア半島に到着。この半島の先端にあるキンタイア岬(Mull of kintyre)は、1977年にウィングス名義でリリースされたポール・マッカートニーの曲「Mull of kintyre (夢の旅人)」でよく知られていますね。Mull of kintyre Oh mist rolling in from the sea, My desire is always to be here Oh mull of kintyre当時ポールの農場があったそうです。旅に疲れたら、いつでも帰りたくなるような魂の故郷というような意味でしょうか。スコティッシュ・ワルツ風で、バグパイプも登場します。今回もそちらの方に寄っている時間はなくて、ひたすらこの日の目的地であるオーバンに車を走らせました。島から半島に渡ったのは、そのほうがアードロサンに戻るより、時間を大幅に節約できるからです。90分ほどのドライブで、目的地のオーバンに到着。オーバンの街中です。港の風景。 以前、ここからマル島にわたったこともありました。地図の右側側にある赤い点がオーバン港。中央の大きな島がマル島です。これは以前オーバンで泊まったホテル。海に面したホテルでなかなかした。しかし今回は、高台のゲストハウスに宿泊しました。そこからのオーバン港の風景がこちら。見晴らしのいいゲストハウスでした。(続く)
2024.06.20
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今回の取材旅行では、賀茂一族の神社を中心にお参りしてきました。京都の上賀茂、下鴨。大和の高鴨(上鴨)、中鴨、下鴨。この京都の賀茂(鴨)氏と大和の鴨氏は、元々は一緒に住んでおりました。で、基本的にご祭神も同じなのですが、それぞれ別々の名前で呼んでおります。京都では賀茂氏の祖神は八咫烏ことカモタケツノミ(鴨建角身)。大和では鴨氏の祖神はカモノオオミカミ(迦毛大御神)ことアヂスキタカヒコネです。だから京都の人にアヂスキタカヒコネの話をしても、誰のことだかわからない、という状態になります。逆に、大和の人にタケツノミの話をしても、ピンと来ないという状態になります。これはどうしてかというと、自分と瓜二つのアメノワカヒコの喪屋を切り倒したときに、アヂスキタカヒコネが出雲族の自分と決別したからなんですね。アヂスキタカヒコネと言えば、オオナムヂとタギリヒメの間に生まれた子ですから、出雲族のスサノオと日向族のアマテラスの両方の直系であるわけです。そのアヂスキタカヒコネが出雲族を見限り、日向族側についたことを示唆しています。『古事記』ではそれを非常に文学的な表現で、出雲族側に付いたアメノワカヒコの喪屋を切り倒して蹴飛ばしたと語り伝えているわけです。喪屋を切り倒すなんて尋常ではありませんよね。それほどの決意であったことを示しているんです。出雲族(アメノワカヒコ)と決別したアヂスキタカヒコネがその後どうなったかというと、大和の葛木山を拠点にしてアヂスキタカヒコネという本名を保ちつつ、タケツノミ(八咫烏)になったわけです。その後の活躍は、日向族の神武東遷を助けた八咫烏として記紀に描かれていますね。『新撰姓氏録』でも、タケツノミは大和の葛木山に降臨した八咫烏のことであると書かれていますから、葛木山の神社(高鴨、中鴨、下鴨)で祖神として崇められているアヂスキタカヒコネはどう考えても八咫烏です。でも大和では、アヂスキタカヒコネと八咫烏は分けて考えられています。それでいいんです。喪屋切りによって、出雲のアヂスキタカヒコネと決別、別人の八咫烏になったからです。別人となったアヂスキタカヒコネことタケツノミの賀茂一族は、後に京都・山城の地に集団で移り住み、賀茂氏の祖神として下鴨神社のご祭神となっているわけです。ところで、アヂスキタカヒコネが蹴飛ばした喪屋が落ちたところが、岐阜県・美濃加茂の喪山です。大和にいた賀茂一族が、後に集団で移住した先が美濃加茂。きっと、アヂスキタカヒコネの出雲族との決別を象徴する喪屋の話を残すために、地元の山に喪山という名前を付けたんでしょうね。地名というのは、このように歴史を紐解くヒントを残してくれているわけです。
2017.03.20
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記紀神話を読むとニニギが天孫降臨(王位就任)した後からの日向国のドタバタぶりがよくわかります。王統断絶疑惑、兄弟間の争い(事実上の内戦)とそれに続く兄の王家からの追放、海人族との二度にわたる政略結婚など、物語のネタに尽きませんね。気になるのは、日向国の王がなぜ二度も海人族と政略結婚しなければならなかったか、です。普通は一度です。ところが二代続けて王が海人族から娘をもらっているというのは尋常ではありません。考えられるのは、日向国自体が内戦で疲弊して、かなり弱体化。軍事力のかなりの部分を海人族に頼らざるを得なくなっていたことでしょうか。だからどうしても海人族との血縁関係を深めなければならなかった、というように考えることができます。まさに、乳母でありながら、後にその王子(ウカヤフキアエズ)の妃になったというタマヨリビメの物語そのもの、「おんぶにだっこ」という感じです。もう一つの考えは、海人族を頼らざるを得なかったというのは同じですが、最初の結婚の際の約束(政略結婚をする際の和平の条件)を日向国側が一度破ったからだと見ることもできます。記紀神話では、ホヲリが海人族との約束を破ったことが明記されています。つまり妻の出産の場面を見るなと言うのに見てしまったので、怒った妻は海人族の国に帰ってしまったと書かれています。この約束の不履行が実際はなんであったのかはわかりません。ただその後のホヲリの慌て振りからは、海人族のご機嫌を取るために、もう一度和睦をし直して、政略結婚をしなければならなかったのだということが何となくわかるんですね。主導権は海人族が握っていたように思われます。海人族が優位な立場にいたことは、遺伝学的に見てもそうですよね。日向族の王と海人族の王女が結婚して生まれたウカヤフキアエズはハーフ。そのハーフと海人族の王女が結婚すれば、計算上4分の3が海人族の血で、4分の1が日向族の血ということになります。女系相続であれば、ほとんど日向国は海人族の国家ということになりますね。しかしながら記紀の編纂者は、そのことをおくびにも出さず、淡々と日向国側の見方を紹介しているように思われます。その最たるものが、海人族の王女を巨大なワニにたとえていることです。まるで怪物か化け物扱い。越王であった八岐大蛇に対する扱いと同じぐらいひどいですよね。そこから読み取れるのは、日向国の正統な王が海の化け物と結婚してやったのだと言う上から目線でしょうか。もちろん実態は「乳母」に象徴される海人族に「おんぶにだっこ」です。だけれども、そんなことは書けなかった。そりゃプライドがありますものね。エビで鯛を釣るというたとえがありますが、日向国の肩書(王統)というエサで巨大なワニ(海軍力)を釣り上げたとも解釈できますね。いずれにしても、「巨大なワニ」のたとえは、腐っても鯛だという自負心が書かせた記述なのではないかと思っています。(続く)
2015.03.23
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昨日書き忘れましたが、干支とは「え(兄)」と「と(弟)」で兄弟、つまり本来は陽と陰のエネルギーのことを言います。西暦で言えば、偶数年が陽のエネルギー、奇数年が陰のエネルギーの年となります。ちなみに2015年は奇数ですから陰の年となりますが、これはあくまでも便宜上そうなるだけで、毎年陰と陽の年が交互にやって来るとは、私は考えておりません。ただし陰と陽のエネルギーは振り子のように触れながら、陽に傾けば陰、陰に傾けば陽へと、バランスを取っているのは間違いないように思います。そう考えると、毎年陽と陰を繰り返す干支は、宇宙に存在する現象を非常に象徴的に表している思想であると言えるのではないでしょうか。さて方角に色や形、性質があるとして、自宅をパワースポットにすることは非常に簡単です。自分の家に欠けている、あるいは必要だと思う性質の方角を強めればいいだけなんですね。例えば父性やリーダーシップを強めたければ、その性質を持つ方角(北西)を強めることです。つまりこの場合、北西に相当する色や形を家の中心から見て北西の場所に置けばいいのです。北西は天、宇宙、円形、丸いもの、灰色などですから、宇宙の写真やグレーっぽいもの、それに丸いものを家の北西に置けばいいだけです。また北東は数字の1ですから、「1」と書いた紙を壁に貼るだけでも効果があることになります。逆にもっとカカア天下にしたければ、南西の性質を強めることです。南西は大地ですから、陶器を含む土のモノを南西に置きます。形は正方形で、色はオレンジやピンクのもの。数字は8ですから、「8」に関係するものを南西に据えます。しかし何事もバランスですから、どこかの方角に特化してしまうのもほどほどにしなければいけません。できれば、一カ月に一回ぐらい診断をするといいです。どこか欠けている方角がないかどうかを調べます。この方法も簡単で、もちろん直感でわかればそれに従えばいいのですが、トランプやタロットカードでその直感が正しいかどうか占う(裏付ける)こともできます。例えば北にはそのシンボルである剣かスペードのカードの山を、東は杖とクローバー、南は聖杯かハート、西は硬貨かダイヤのカードの山をそれぞれ置いて、心を整えたうえで、剣・スペードの山から北、北東用に一枚ずつ引き、杖・クローバーの山から東と南東用にそれぞれ一枚ずつ、同様に聖杯・ハートの山から南と南西用、硬貨・ダイヤの山から西と北西用に一枚ずつ引きます。偶数は陽、奇数は陰とすれば、引いたカードの偶数の大きい数字ならその方角は強く、逆に引いたカードが奇数の大きい数字ならその方角が弱いと設定して、占えばいいわけです。それである程度はどの方角のバランスが崩れているかを確認できるはずです。このぐらいのことならお金はほとんどかかりませんから、試しに実験をしてみることをお勧めします。少なくとも家の雰囲気はガラッと変わります。気に入ったら、それを続けてみることです。一応、おさらいを兼ねて、それぞれの方角の性質や形を記しておきますので、参考にしてください。北(集中力):黒、滝、洞窟や穴など割れ目の入った形、水、耳、ネズミ、6北東(継続・続行力):藍色、山、凸形、螺旋階段、牛と虎、7東(人間関係力):青と緑、木、長方形または円柱、雷、足、森、ウサギと猫、4南東(自由になる力):紫、風、波打つ形(波形)、布、旗、龍と蛇、5南(熱意・情熱の力):赤、火、三角形、仮面、目、馬、3南西(受容力):オレンジとピンク、大地、正方形、土、羊と猿、8西(コミュニケーション力):白と金、湖、三日月の形、金属、口、鳥、2北西(リーダーシップ力):グレー、天、円形(丸いもの)、宇宙や空、犬と猪、1
2015.02.01
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古代エジプトで初めてピラミッドを建設したとされるイムホテプは謎の人物です。彼が登場したのは、紀元前2600年ごろのエジプト第三王朝の時代。王族の出身でもないイムホテプは、まさに彗星の如く現れ、建築、設計、土木、医術などの分野でその天才ぶりをいかんなく発揮しました。太陽神ラーの神官となり、ジェセル王の宰相としても活躍した超人的な存在でもありました。ところが彼が何者なのかはまったくわかっていないんですね。いったいどこから来たのか、人種的には何人なのかも不明です。まさに突如現れた天才としかわかりません。ただ、ここで大事なポイントは、彼の知識と知恵が当時の古代エジプト文明の科学を凌駕していたことです。彼は全く新しい方法で、ピラミッドを建造します。すなわち、それまでは王墓などの建造物には日干し煉瓦が使われていましたが、これに代わって、切り出した石材を積み重ねる方式を採用しました。強度がまったく違いますから、これにより巨大ピラミッドの建造が可能になったわけです。彼の知識は治水においても多大な貢献をしました。ジェセル王から水不足による深刻な飢饉対策を求められ、ナイル川を氾濫させる方法を説いたという記録が残されています。こうした彼の知恵と知識がどこから来たのか、という問題を考えた場合、その一つの考え方として、古代エジプト文明以前に栄えた文明から来たのではないかと見るのも理に適っていますよね。4500年前の古代エジプト文明以前の文明と言えば、メソポタミアに開けたシュメールのメソポタミア文明です。シュメールはチグリス、ユーフラテスという大河に挟まれた地域でしたから、治水の知識を持っていたとしても不思議ではありません。ということは、イムホテプが持っていた知恵と知識はシュメールのそれを継承したものであった可能性があるわけです。シュメール、シュメル、スメルーーーシュメールとはスメル(スメラミコト)族のことであった、と誰か言っていました。そう、実はイムホテプがシュメール人だったとすると、正統竹内文書の口伝の内容とも整合性が出てきてしまうんですね。どのような口伝の内容だったかというと、氷河期が終わったことによって起きた大洪水後に最初に文明が開けたのは今から1万2000年前の日本だったというんですね。その証拠としては、確かに青森県の1万6000年前の大平山元遺跡からは炭素年代測定では世界最古ともいわれる土器が見つかっています。文明の定義にもよりますが、それから4000年後に「縄文文明」が開花したとしても不思議はありませんね。で、その後「古代縄文日本文明」がどうなったかというと、口伝では大陸に渡ったグループがいたというんですね。そのグループ名は「スメル族」。その初代の王の名前を取って「オオゴトオシオ朝」と名付けることもできるそうです。その彼らがどこに行ったのかというと、それがシュメールであったのだと竹内氏は言います。(続く)
2015.04.24
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知人が祖父らから聞いたという皆神山の「神様の話」に近いことを言っているのが、新宗教「大本」(大本教)の二大教祖の一人出口王仁三郎です。王仁三郎は1898年、京都府亀岡市の高熊山で修行をしている時に神懸かりとなり、富士山と皆神山に霊体で連れて来られたのだそうです。その後も王仁三郎は、皆神山で言語を絶するような崇厳な神秘体験をして、皆神山の真の意味を悟ったようです。皆神山について王仁三郎は、「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。四囲は山が十重二十重にとりかこんで、綾部、亀岡の地勢と些(すこ)しも違はぬ蓮華台である」と、『月鏡』に書いています。大変な持ち上げようですね。蓮華台とは蓮華座のことで、蓮華の形に作った仏・菩薩の像の座のことです。まさに世界の中心の神の座の意味があります。で、この『月鏡』を読むと、なぜ陸軍参謀本部が大本営を皆神山に遷(うつ)そうとしたかの理由がなんとなくわかってくるんですね。王仁三郎は次のようにも書いています。「大石凝真素美(おおいしごりますみ)翁は、此地に帝都をおかれたなら万代不易の松の代を現出することが出来ると主張し、世界中心遷都論を唱へて囹圄(れいご:牢屋のこと)の人となつた事実がある。真素美翁ばかりでなく外にもさういふ説を唱へた人があるが、最近飛行機が盛になるにつれて東京は安全の地でないと云ふ見地から、信州遷都論が一時或有志によつて伝へられた事があるが、全く此皆神山は蓮華の心に当つて居るのだから、四方の山々に砲台を据ゑつけてさへ置けば、如何なる飛行機をもつてしても襲ふ事は出来ぬ安全地帯である。こんな要害のよい所は、世界中外にない。霊界物語にある地教山は此山である」大本教は弾圧されましたが、海軍だけでなく陸軍にも大本教のシンパは大勢いたと思うんですね。だからこそ、陸軍参謀本部は皆神山を大本営の移転先に選んだのではないでしょうか。また、大本教の説明によると、皆神山については次のように書かれています。「無限絶対無始無終の真神から、霊系の厳霊大神(げんれいおほかみ)と体系の瑞霊大神(ずいれいおほかみ)が鳴り出でられましてより数十億年、厳霊大神の経綸の中心地の一つが天教山(富士山)となり、瑞霊大神の経綸の中心地の一つが地教山、すなわち世界ではヒマラヤ山、日本では信州の皆神山となりました」出てきましたね「霊系の厳霊」と「体系の瑞霊」。厳霊と瑞霊が何かを定義するのは難しいのですが、厳霊が神霊界や精神世界で働く「素材」や「力」だとしたら、瑞霊はこの世とか物質世界で働く「素材」や「力」であると考えてもいいのではないかと思っています。このように、出口王仁三郎によると、富士山が霊系の厳霊大神が働く中心地で、皆神山は体系の瑞霊大神が働く中心地であることになります。何か似ていますよね、前日のブログに書いた、私の知人の話と。ただし、富士山ではなく位山になっていました。神様が霊体として降臨した中心の場所が位山で、物質的なモノを作ろうとした中心の場所が皆神山でしたね。やはり皆神山には、物質界で働く何かがあるんです。(続く)
2015.09.10
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そうこうしているうちに、フェリーがロクランザの港に入ってきました。最初のころは緊張しましたが、しょっちゅうフェリーに乗り込んでいますから、ずいぶん慣れてきました。乗り込むとすぐに出航。といっても対岸のキンタイア半島は見えています。すぐそこですね。30分で対岸に到着します。上の写真では、左がアラン島で、右がキンタイア半島です。船から南を見ています。海峡の名は、キルブラナン海峡(Kilbrannan Sound)。間もなくキンタイア半島に上陸します。(続く)
2024.06.19
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もしオオナムジ(大国主)がヨルダン川東岸地域を分配されたダン族出身であれば、大国主が国譲りの際に「ヨシュア記」に出てくる巨大神殿の話を持ち出したという説にも説得力が出てきます。そのヒントとなるのが、やはり「ヨシュア記」第24章に出てくるシケムの集会・儀式です。ヨルダン川東岸地域の人々による巨大神殿建造騒ぎの後、二度とこのような騒ぎが起こらないようにと、12支族の結束を強めるため、おそらく年に一度、カナンの中心であるシケムに全支族が集まり、イスラエルの神であるヤハウェのみを礼拝するという契約更新の儀式をするようになったのです。何となく出雲の神在月の儀式に似ていますよね。出雲では、旧暦10月は神無月ではなく神在月と呼ばれます。すべての神々が出雲に集まるからですね。出雲大社や出雲の他の神社では旧暦10月10日の夜、国譲りの舞台となった稲佐浜で、全国から参集する神々を迎える「神迎祭」が行われます。その後、旧暦10月11日から17日まで出雲大社で五穀豊穣や人々の縁結びなどについて相談する「神々の会議」が開かれるとして、その間「神在祭」が執行されます。その後、今度は同17日と26日の二回にわたり、神々を送る神等去出祭(からさでさい)を執り行います。17日には大社から、26日には出雲から神々がさっていくからだそうです。このように10月の長い期間にわたって、すべての神々が出雲に集合、その他の地域では神がいなくなることから、旧暦10月は神無月と呼ばれるようになったと伝えられています。イスラエル12支族を神々、シケムを出雲と考えると、一年に一回すべての神(支族)が聖なる場所である出雲(シケム)に集合し、縁結び(支族の団結)などについて神々の会議(神ヤハウェとの結びつきを確認し、支族の団結を強める集会)が開かれるわけです。神在祭はまさに、シケムで毎年行われていたとみられる古代イスラエルの儀式を再現しているのかもしれませんね。しかもその旧暦10月を神在月と呼ぶ地域が出雲以外にもう一か所あります。そう、それが御柱祭や御頭祭を継承している諏訪大社の周辺地域なのです。では、どうしてこうした儀式や慣例が、オオナムヂがダン族であることを示唆しているかというと、10月がダン族の月だからです。カバラ(ユダヤ教の神秘説を伝える口承や伝承)によると、イスラエル12支族は12の月をそれぞれ示す「部族の月」を持っているといいます。その説を採用すると、ユダヤ暦の10月、もしくは10は、ダン族を指します。神在祭が開かれるのも旧暦10月でしたね。そのダン族の紋章は蛇。出雲の神迎神事では龍蛇神の先導で八百万の神々がやって来ることになっています。これはただの偶然でしょうか。偶然でないならば、オオナムジは古代イスラエルのダン族出身で、その子タケミナカタと共に、古代イスラエルの歴史と儀礼を熟知していたのではないかという仮説が成り立つはずです。国譲り神話によると、オオナムジは出来上がった巨大神殿に籠り、神饌(供物)をたてまつり、火きり(枯れたヒノキなどの木口に棒を当てて、激しく擦り揉んで火を出すこと)の儀式に則って火を焚いたといいます。この儀式の様子が古代イスラエルの燔祭に似ているように思います。そもそもオオナムジが事実上、「国作り」で建国した出雲国の六角形の亀甲紋には、古代イスラエルの六芒星が隠されていると見ることができますからね。古代イスラエルを彷彿とさせる祭がオオナムジとタケミナカタを介して出雲と諏訪に残ったと考えたときに初めて、諏訪と出雲の奇祭の謎が解けるように私には思えます。それでは、古代イスラエルとツクヨミ族との関係はどうなっているのでしょうか。(続く)
2018.09.16
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記紀が記す古代日本とシュメル人の類似性は、シュメル人が自分の国のことを何と呼んでいたか、に見出すことができます。実はシュメルという呼称はアッカド語で、シュメル人自身は自分の国を「キエンギ」と呼びました。「キ」は大地、「エン」は主人とか、主という意味で王の称号にもなっています。そして「ギ」は「葦」の絵文字から発達した楔形文字です。大まかな意味は「葦を主とする大地の国」でしょうか。シュメル人が住んだ土地は、その名が示すように湿地に葦が生い茂るメソポタミアの大地でした。葦は割いて筵(むしろ)状に編み込んだり、湿地帯の泥は粘土にして土器を制作したり、あるいは固めて乾かし煉瓦にして使ったりしたはずです。だからまさに葦原を主とする大地でありました。自分の国家をそのように呼ぶのも当然ですね。ここまで聞いたらだれでも、ほかにそのような呼び名で自分の国を呼んでいた人たちを思いつきますよね。そう、日向族のアマテラスたちです。彼らは日本のことを葦原中国と明確に呼んでいました。アマテラスはこう言いました。「葦原中国はわが子、オシホミミが統治すべき国である」と。で、葦原中国(葦原中ツ国とも書きます)はどういう意味かというと、「(稲の生育に適した)葦の生い茂る湿原の中央の国」です。まさに「キエンギ」を直訳したら「葦原中国」となります。すると、なぜアマテラスたちが「葦原中国」にこれほどまでにこだわったかも、なんとなくわかってきます。彼らはそこに「故郷の国」を夢見たのではないでしょうか。その遠い昔の国はどこであったかというと、正統竹内家の口伝が正しいとすると、「キエンギ」、すなわちシュメル人が支配した古代メソポタミアです。これらをすべて偶然として片づけることはできます。でも、古代日本人とシュメル人という2民族間におけるこれだけの類似性、相似性は、世界広しと言えどもなかなかないのではないかとも思えますよね。となると、ここで一つの世界古代史のシナリオが浮かび上がって来ます。(続く)
2015.04.28
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昨日、北海道の縄文遺跡の取材から戻って来ました。その取材の詳細は、後日お知らせするとして、羽根ラインに話を戻しましょう。東経137度11分の南北の羽根ラインと北緯35度23分の東西の羽根ラインがあることを前回紹介しました。で、今回の新著でさらに明らかとなるのは、岐阜県河合村の羽根と富山県婦中町の羽根の秘密です。どちらも東経137度11分の羽根ラインから少し外れていますが、何らかの関連性があるのではないかということはずいぶん前からわかっていました。とくに位山や天柱石と関係がありそうだと考えられました。そこで「竹内文書」に出てくる「聖地」を地図上で正確に結んだところ、一つの事実が分かったんですね。その聖地とはどこかというと、アメノニニギノスメラミコトの神殿跡であるとされる富山県横江の尖山、武内宿禰の墓があるとされる富山県高岡市の二上山、モーゼの三つ子塚があるという石川県の宝達山、天神第5代天一天柱主大神を祀った富山県平村天柱石、それに上古の神々が降臨したという位山です。本当にそういう「聖地」であったのかはここでは議論しません。大事なのは、「竹内文書」にそれらの場所が大事な場所、すなわち「聖地」として「記録」されているということです。そして今回、古代測量技術集団が使った三角測量点が羽根という地名として残った可能性が強いということがわかりました。つまり、こういうことです。婦中町の羽根は、天柱石と富山市の羽根を結んだ直線と、尖山と宝達山を結んだ直線が交差する、まさにその点にあるんですね。一方、河合村の羽根は、宝達山と位山を結んだ直線と、二上山、富山市の羽根、尖山の三点を結んだ直線に対して尖山から引いた垂線との交点にあります。この時、尖山と河合村の羽根を結んだ直線は、天柱石と婦中町の羽根と富山の羽根を結んだ直線と平行線にもなります。さらに言えば、河合村の羽根は位山からも白山からも等距離にある地点に正確に置かれた点でもあります。このような点は偶然であるはずはなく、古代測量技術集団が意図的に置いた測量点である、ということができるわけです。また、このとき浮かび上がる幾何学図形や垂線の引き方が、イギリスのストーンヘンジ、エイヴベリーの両複合体遺跡とその地域の最高峰を結んだ時にできる幾何学図形の描き方に非常によく似ていることがわかります。29ページの図1-2と62ページの図2-2ですね。似ているからと言って、同じグループがやったとは言えません。だけど、どうやら我々の知らない古代において、同じような測量技術や知識を持つ古代人が世界中にいたのではないかと推論することができるんです。ただしいつの時代かはわかりません。ブリテン諸島でラインを引いた人たちが、今から約5000年前の時代の人たちであることはわかっています。でも、羽根ラインを作った人たちがいつの時代の人たちなのかはまったくわかりませんね。越王オロチが日本を統治していた時代より前だとは思いますが、確たる証拠はありません。そこで、ちょっと発想を変えてみました。もし、5000年前の古代において地球規模の文明が既に繁栄していたのだとすれば、日本の縄文時代の遺跡にもその測量技術の痕跡が見いだせるはずではないかと考えたわけです。それが第五章に書かれている「縄文遺跡群と神秘の測量」です。高度な測量土木技術を持つ「縄文文明」が古代の日本にはあったのではないか、と。その手がかりが北東北と北海道の縄文遺跡にあったんですね。(続く)
2015.08.07
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ここでちょっと、時代の流れと論点を整理しておきましょう。19世紀後半にアメリカを中心にして日本の近辺、あるいは日本を含む太平洋に謎の大陸があることが話題になりました。それがパン大陸とかムー大陸と呼ばれている大陸ですね。時を同じくして、『古事記』『日本書紀』などの官製の歴史書以外の古史古伝の存在が日本で明らかになってくるという動きがありました。一種の日本古代史見直し運動みたいなものですね。その動きの中から、大本や天津教が生まれ、日本は神々が最初に降臨した地で、古代文明の中心であったとする見方が流布されていくわけです。しかもその思想は軍部にも入り込みます。で、このアメリカと日本で起きた二つの動きはうまく連動します。どうやら日本と言う国は、失われた超古代文明を継承した「神の国」ではないか、という思想が広まったわけですから。それを知ってか知らぬかはわかりませんが、戦後GHQは竹内文書と関係する場所を実際に発掘調査した節があるわけです。結果、天皇制は象徴として残され、天皇家は天津教教祖の巨麿が亡くなったときに、勅使を派遣して神事・占いを行った。大本教祖の出口王仁三郎が亡くなった時も勅使が派遣されたのかどうか知りません。でも、少なくとも竹内文書を世に出した巨麿に勅使を出したというのは、かなり意味が深いと思っています。私には、ここには神のプログラムが働いていた、つまり神のシナリオがあったように思えてならないんですね。つまりすべてが出来過ぎているわけです。そこにもう一つの占いが加わります。それが正統竹内文書の口伝継承者を誰にするか、という占いなんですね。竹内睦泰氏によると、第73世武内宿禰を継ぐように言われたとき、長老メンバーは次のように竹内氏に告げたそうです。「1767年に亡くなった武内宿禰(注:おそらく第68世か67世とみられる)は次のように予言した。『100年後に王政復古を成し遂げたのち、99年後に蘇る』と」で、その予言通りに、1867年に明治維新があり、その99年後の1966年12月に竹内睦泰氏が生まれ、第73世武内宿禰に選ばれたわけです。その明治維新のころ、正統竹内家に大事件が発生しました。当時は第12代竹内三郎太郎が富山で第72世武内宿禰を継いでいたのですが、その富山県の二上山山頂付近にあった武内宿禰歴代の墓に隠してあった神宝・古文書のすべてが何者かに盗掘されたというんですね。神宝・古文献を盗まれたショックから、第72世は日嗣の儀式を執行できなくなってしまったそうです。そのせいで、武内宿禰は3代100年近くにわたり、祭主職が中絶してしまうんですね。竹内氏はこの期間を盗難欠世期三代と呼んでいます。ところが、この欠世期の「穴」を見事に埋めたのが、天津教の竹内巨麿であったわけです。(続く)
2015.11.11
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記紀神話とギリシャ神話では、同じ物語が共有されているだけではありません。登場人物も極めて似かよっているんですね。よく言われるのが、イザナギとイザナミから生まれたという「三貴子」と、ゼウス、ポセイドン、ハデスの三神です。三貴子(さんきし)は「みはしらのうずのみこ」とも読ませますが、『古事記』で黄泉の国から帰ってきたイザナギが黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちたアマテラス、スサノオ、ツキヨミという三柱の神々のことです。イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたところから名づけられました。三貴神(さんきしん)とも呼ばれます。で、この三貴神は、父神のイザナギによって統治する場所が決められます。イザナギの左目から生まれたアマテラスは、太陽神として高天原を治めることになります。イザナギの右目から生まれたツクヨミは、夜の世界を統治する月神となります。そして、イザナギの鼻から生まれたスサノオは、海原を統治する神となるんですね。一方、ギリシャ神話では、「オリュンポス神族」が「ティタン神族」との闘争に勝って、オリュンポス政権が樹立されたときに、何とくじ引きで、ゼウスが天界、ポセイドンは海洋、ハデスは冥界を統治するということが決められたというんですね。冥界は夜の世界、すなわち月神に通じます。つまりツキヨミはハデス、スサノオはポセイドンであることになります。でも、ゼウスとアマテラスでは何かしっくりきませんね。ところが、天界とはどこか、ということをよく考えてみてください。記紀神話では「高天原」のことですよね。で、その高天原を統治していたのが、既にご紹介したタカミムスビこと高木神です。記紀神話ではうまく隠されていますが、読む人が読めば、実質的にアマテラスの夫である高木神が天界の統治者であることがわかります。そう、高木神こそゼウスなんですね。『古事記』で高木神が高天原から下界の葦原中国を眺める描写などは、天界(オリュンポスの山)から下界を見下ろすゼウスの描写にそっくりです。では、アマテラスがギリシャ神話の誰に相当するかというと、それはヘラと、「岩戸隠れ」のときに紹介したデメテルです。なぜアマテラスが二人もいるのか、という疑問を持たれるかもしれませんが、これにも理由があります。高木神の妻としてのアマテラスがヘラで、スサノオと政略結婚したアマテラスがデメテルであると解釈することができるんです。(続く)
2015.05.24
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10日から本日(19日)まで、イタリア旅行に出かけておりました。先ほど家に帰ってきたばかりです。明日から本二冊分の校正作業が始まる予定です。ただ、帰ってきたら悲しい知らせも待っておりました。「正統竹内文書の日本史超アンダーグラウンド」シリーズで共著者をしていただいた第73世武内宿禰こと竹内睦泰氏が1月13日にお亡くなりになったとブログに告知されておりました。私が南イタリアのアルベロベッロ(美しい木)に滞在していた頃です。ちょうど竹内氏のことを私が話題にしたときもこの日ですから、何となくお知らせがあったのでしょうか。まだまだこれからも一緒に楽しい本を作っていけたらなと思っていただけに、とても残念です。ご冥福をお祈り申し上げます。布施泰和
2020.01.19
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事実上、梅雨も明けて、最近は富士山もよく雲間から顔を出すようになりました。写真右下方の黒い部分が富士山です。そして次の写真は・・・トンビと富士山。富士山の上に写っている黒い点がトンビです。
2021.07.17
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今日は朝からバタバタしていたこともあり、「ザ・イヤー・オブ・1980」は一回お休みして、「ウォーリーを探せ」ならぬ「カエル君を探せ」です。まずはこちらの写真。こちらは簡単にわかりますね。右上の葉っぱの上に乗っておりました。緑の保護色になていますね。では、次はどうでしょう。これはわかりにくいですね。実は、中央のショウガ科の花であるクルクマの中に隠れています。ただし、ピンクの花弁の中にいるように見えますが、実は花ではなくて、苞(花の基部につく葉)です。鱗片状の苞の中に見事に収まっておりました。
2021.09.12
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この一週間の植物の動きです。我が家のナニワイバラが満開になりました。あちらこちらで、つつじが満開。そして、今日は薔薇がちょこちょこと咲き始めました。その間、藤も綺麗でした。花々の季節ですね。
2023.04.25
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再び富士山登場。二日前に撮影した富士山ですが、ずいぶん雪が解けて少なくなりました。もうすぐ、すっかり夏の富士山です。ただいま4万字ほど、まだ先は長いです。
2023.07.08
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