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今朝のブログで紹介した月とUFOの写真はわかりづらかったようですから、もうちょっと拡大した写真を掲載します。矢印付です(笑)。で、下のUFOらしきものを拡大したのが、今朝の写真でした。次は19日の満月の写真。曇り空でしたが、真夜中ごろには雲間からお月様が顔を出してくれました。19日はひめのゆめさんたちと渋谷で食事をした後、真夜中すぎ、家のそばで撮影しました。喜楽さんがリーディングで選んでくれたカクテルが「月のうさぎ」でしたから、私にとってはまさにお月見の夜でした。秋山さんがペルとゲルの正式な和解の日であるとした今日24日の太陽もご紹介しましょう。今日の太陽はすごかったですよ。この写真からでも強烈なエネルギーが伝わってきますね。今日のほかの写真は明日、ご紹介します。
2008.06.24
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▼エロディアード「舞台」5(マラルメ19)エロディアードはこの後、乳母が自分に触れようとしたことを非難します。どうやら誰かに触れられると、現実世界に戻らなければならなくなり、あの不吉な運命(聖書に描かれた悲劇)の歯車が回り始めると嘆いているようです。そのような運命のことを知らない乳母は、エロディアードが頑なに現実(世俗)世界を拒み続ける秘密を聞きだそうとします。ところが、エロディアードは秘密を明かそうとしません。それでも追究する乳母に「私のためよ」とだけ答えます。この辺りのやりとりにも、マラルメの詩人としての苦悩がにじみ出ています。昨日のコメントにも書かせてもらいましたが、マラルメがこの作品に取り組み始めた1864年11月、マラルメ家に長女ジュヌヴィエーヴが生まれます。生まれたばかりのジュヌヴィエーヴの泣き声は、マラルメの「頭を絶えずガンガン」させます。加えて、英語教師としての現実的な生活もマラルメの創作活動を邪魔したようです。マラルメは翌65年には友人に宛てた手紙で次のような心情も吐露しています。「専門の文学者(詩人のこと)でないのは悲しいことだ! 失えば再び見出せない私の最も美しい情熱や稀有な霊感は、毎瞬時、教師という嫌な仕事で中断される」乳母に触れられたくないというエロディアードは、俗世界の雑事(不吉な運命)のことを思い出したくないというマラルメの心情だったのかなと思ってしまいますね。詩の世界に没頭しているとき、女神が微笑んで美しい詩句が浮かんできても、赤ん坊のかすかな泣き声で忘れてしまうという現実があったのでしょうか。そういえば、乳母は赤ん坊のイメージと重なりますね。先へ進みましょう。エロディアードは乳母の棘のある口調と憐憫を戒めたうえで、自分の心境をとうとうと語りはじめ、最後はほとんど独演会となります。その一部を紹介しましょう。エロディアードは鏡の中に存在する清らかな肉体・処女性(お前)と、鏡に映るその姿(妹)に向かって呼び掛けています。処女賛歌であり、孤独を賛美しているようでもあります。Et ta soeur solitaire, ô ma soeur éternelleそしてお前の孤独な妹、ああ、私の永遠なる妹よ、Mon rêve montera vers toi : telle déjà,私の夢はお前に向かって昇っていく。すでに、Rare limpidité d'un coeur qui le songea,その夢を夢想する私の心は稀有なほど澄んでいる。Je me crois seule en ma monotone patrie私はただ一人、寂然とした私の祖国に住んでいるのだと思う。Et tout, autour de moi, vit dans l'idolâtrie私の周りのすべてが、鏡の偶像崇拝の中に生きている。D'un miroir qui reflète en son calme dormantその鏡は、夢の静寂の中に、ダイヤの光輝の眼差しをもつHérodiade au clair regard de diamant...エロディアードを映し出す・・・O charme dernier, oui ! je le sens, je suis seule.ああ、究極の魅惑よ、そう! 私にはわかるわ。私は独り。(続く)鏡の海を進む孤独な船?
2008.02.12
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▼龍と薔薇次に紹介するイェイツの詩は、さらに神秘の世界へと読者を誘います。龍や宇宙の星々が出てくる壮大なビジョンが眼前に展開します。タイトルは「詩人、天界の四大の力に祈願す」。The Poet Pleads With The Elemental PowersThe Powers whose name and shape no living creature knows生きとし生けるものにとって、名前も形もわからない諸力がHave pulled the Immortal Rose;不滅の薔薇を摘み取ってしまった。And though the Seven Lights bowed in their dance and wept,7つの光は、踊りながら頭を垂れ、泣いたけれども、The Polar Dragon slept,極龍は眠り、His heavy rings uncoiled from glimmering deep to deep:その重い、いくつもの環は、ほのかに光る深みから深みへとほぐれながら落ちていく。When will he wake from sleep?彼が眠りから覚めるのはいつのことか?Great Powers of falling wave and wind and windy fire,砕け散る波や風や吹きすさぶ炎を支配する偉大な力よ、With your harmonious choirあなたの心地良い聖歌隊とともにEncircle her I love and sing her into peace,私が愛する恋人を包み込み、彼女を平安へと誘う歌を歌っておくれ。That my old care may cease;そうすれば、私の長年の杞憂も消えるでしょう。Unfold your flaming wings and cover out of sightあなたの燃えるような翼を広げ、The nets of day and night.昼と夜の網を覆い隠しておくれ。Dim powers of drowsy thought, let her no longer be眠たげなる思いの、ぼんやりとした4大の力よ、Like the pale cup of the sea,私の恋人をもうこれ以上、海の青白き杯のようにはしないでおくれ。When winds have gathered and sun and moon burned dim雲たなびく空の縁の上に、風は集い、Above its cloudy rim;太陽と月はおぼろげに燃える。But let a gentle silence wrought with music flowせめて、妙なる調べで織りなした優しい静寂を、Whither her footsteps go. 彼女の足が進む彼方へと流させたまえ。不思議な、神秘的な詩ですね。外出しますので、解説と写真は後ほど。(続く)
2008.01.08
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▼血と薔薇サッチャーが「犯罪行為」としたIRA(アイルランド共和国軍)の活動について、なぜこのような武力行使を伴う活動が続かなければならなかったのかを、一つの薔薇の詩を紹介しながら、振り返ってみましょう。その詩とは、20世紀最高の詩人の一人とも称される、アイルランドのウィリアム・バトラー・イェイツ(William Butler Yeats)が書いた『薔薇の木』です。The Rose Tree'O words are lightly spoken,'Said Pearse to Connolly,'Maybe a breath of politic wordsHas withered our Rose Tree;Or maybe but a wind that blowsAcross the bitter sea.'「ああ、言うのは簡単だ」と、ピアースはコノリーに言った。「政治的な言葉のささやきが、われわれの薔薇の木を枯らしたのかもしれない。あるいは、激しく荒れる海を渡って吹き付ける風のせいかもしれない」'It needs to be but watered,'James Connolly replied,'To make the green come out againAnd spread on every side,And shake the blossom from the budTo be the garden's pride.'「水を掛けてやらなければ」とジェームズ・コノリーが答えた。「そうすれば、緑の葉が再び茂りはじめ枝が四方八方に伸び、蕾から揺れながら花が咲き庭園の誇りとなるだろう」'But where can we draw water,'Said Pearse to Connolly,'When all the wells are parched away?O plain as plain can beThere's nothing but our own red bloodCan make a right Rose Tree.'「でも、どうやって水を引こうか」ピアースはコノリーに言った。「すべての井戸が枯れている時に?ああ、答えは明々白々だ。われわれ自身が流す赤い血以外にあるべき薔薇の木を作ることはできない」おどろおどろしい詩ですね。薔薇を育てるには、人間の血、すなわち流血以外に道はないと言っています。この詩を理解するには、ちょっとアイルランド独立史を勉強する必要があります。そうすれば、それほど難しい詩ではありません。登場人物はコノリーとピアースですね。コノリーは1868年、アイルランドからの移民としてスコットランドのエディンバラで生まれました。14歳で英国軍に入り、アイルランドに駐留しますが、そこでアイルランド人に対する英国人の差別や迫害を目撃して敵愾心を募らせます。軍隊を辞めてスコットランドで一時働いていましたが、28歳のときに意を決しアイルランドに戻り、反英運動に身を投じます。パトリック・ピアースは1879年、アイルランドの首都ダブリンに生まれました。17歳のころ、アイルランド語の復興を唱えるゲール語連盟に加入して民族運動に目覚めます。やがて、プロテスタントの過激思想者がアイルランドの自治に反対するアルスター義勇軍を設立して非合法な弾圧を始めると、ピアースはこれに対抗して、アイルランド義勇軍の軍事部門の指導者となります。そして1916年の復活祭の当日、ピアースとコノリーらは、アイルランド独立を求めて武装蜂起します。しかし、圧倒的な英国軍の武力の前に反乱は鎮圧されます。捕らえられたコノリーとピアーズは処刑されるのですが、コノリーはすでに立つことができないほど重傷を負っていました。そこで病院のベッドに寝ていたコノリーを無理やり椅子に座らせ、銃殺しました。この英国軍のやり口に、アイルランド独立の機運はますます盛り上がり、アイルランド義勇軍は、憲兵や武装警官隊に対してゲリラ戦を展開します。IRAもこのゲリラ戦に参加、イギリスは非情な報復をもってこれに応えたため、イギリスとアイルランドの間は、戦争状態となりました。こうした独立闘争がやっと功を奏して、イギリス政府も1921年にアイルランド自由国の成立を承認します。ただし、アイルランドのアルスター州9州のうちプロテスタントが多い6州の独立は許されず、北アイルランドとしてイギリスに組み込まれたままとなったため、禍根を残したわけです。そういうわけで、アイルランド人にとって、ピアースとコノリーは独立運動の英雄です。詩の中で薔薇の木は、彼らが目指した理想の国、自由な国家を象徴していることがわかりますね。明日もイェイツの薔薇の詩を紹介します。
2007.12.26
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▼薔薇は薔薇5ガートルード・スタインは、子供向けに「The World is Round(地球は丸い)」という絵本も書いています。この物語の主人公はローズという9歳の女の子なんですね。ローズは自分がRose(薔薇)という名前でなかったら、どうなっていたかしらと考えます。And then there was Rose. Rose was her name and would she have been Rose if her name had not been Rose.そして、ローズがいました。ローズは(この本の主人公である)女の子の名前です。ローズは、もし自分の名前がローズでなければ、ローズは今のローズだったかしら(と考えました)。Would she have been Rose if her name had not been Rose and would she have been Rose if she had been a twin.ローズという名前でなければ、今のローズだったかしら。もし双子だったら、今のローズだったかしら。どうです。とても哲学的な女の子ですよね。たまたまローズという名前だったために、言葉の概念と自分の存在とのかかわりを真剣に考えます。Rose was always thinking. It is easy to think when your name is Rose.ローズはいつも考えています。名前がローズだと、思慮深くもなりますね。この辺りに、ガートルード・スタインの薔薇に対する見方がよく伺えますね。薔薇はいろいろな象徴として使われてきました。美の象徴だったり、頬の色だったり、はかなさの対象、安楽な人生だったり、たくさんの意味に使われます。だからこそ、名前や言葉の意味に敏感になるんですね。あれもローズ、これもローズ。では私の名前であるローズは何なの? 私は丸い地球の中のどんな存在なのかしら? 想いはめぐります。そしてとうとう、大好きな青色の山の頂上に向かって、独りで自分探しの旅に出ます。その途中の森の中でローズは、幹が丸くなっている立派な木を見つけ、あることを思いつきます。... she would carve on the tree Rose is a Rose is a Rose is a Rose is a Rose until it went all the way around彼女(ローズ)は、薔薇は薔薇で、薔薇で、薔薇で、薔薇でという言葉を木の幹を一周するまで刻もうと思いました。そうです。あの有名な薔薇のフレーズを木に彫って一周させ、薔薇の円環詩を完成させるんですね。地球のように丸い薔薇の環ができました。ロザリオの出来上がりです。(続く)
2007.12.24
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▼薔薇のベッドunder the roseが、ギリシャ神話から生まれた「秘密に」という意味のイディオムであることは、おわかりいただけましたね。次に紹介するbed of rosesは、詩から生まれたイディオムであると言われています。意味は「安楽な状況」「愉快な状況」。覚えているでしょうか、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』で、牧師のヒュー・エバンズが決闘に向かう途中に口ずさむ変な詩を。クリストファー・マーロウの詩を勝手にアレンジ(多分正確に覚えていないせいですが)して、歌っていた詩です。ウェ-ルズ出身のエバンズは訛りが強いので、beds of roses をpeds of rosesと発音しています。そうしたエバンズのお気楽さからこのイディオムができたかどうかはわかりませんが、オリジナルのクリストファー・マーロウの『情熱的な羊飼いの恋の歌』の中では、beds of rosesは恋人のために作るバラの花壇のことです。And I will make thee beds of roses And a thousand fragrant posies,そこで私はあなたのために、バラの花壇と香りのよい千の花咲く園を作ろう求愛の詩なんですね。この羊飼いは夢のある二人の生活を具体的に描きながら、自分の恋人(妻)になってくださいと甘く語りかけます。その最後の二行です。If these delights thy mind may move, Then live with me and be my love.こうした喜びがあなたの心を動かすなら私と一緒に暮らしましょう。そして「愛する人」になってください。おそらくこの甘い生活のイメージが、「安楽な状況」というイディオムを作り出したのでしょうね。bed of rosesは現代のロック歌手ボン・ジョヴィにも歌い継がれています。歌の題名もそのままの『Bed of Roses』。歌詞を抜粋してみましょう。I want to lay you down in a bed of rosesFor tonight I sleep on a bed of nailsI want to be just as close as the Holy Ghost isAnd lay you down on (a) bed of roses私はあなたを薔薇のベッドに横たえさせたい今夜、私は針のベッドで眠る私は精霊と同じぐらい近くにいたいそしてあなたを薔薇のベッドに横たえさせたいa bed of rosesはこの場合、文字通りバラの花が敷き詰められたベッドのことだと思いますが、甘美な生活という意味が込められていますね。lay you downは「お姫様抱っこ」でベッドに横たえさせることでしょう。a bed of nailsもイディオム的で、日本語的には「針のむしろ」といった意味になります。傷つきながらも恋人を思う恋情を歌っているようですね。ボン・ジョヴィの『Bed of Roses』を知らない方はこちらをご覧ください。薔薇のベッドのイメージは、アカデミー賞の作品賞を受賞した米映画『アメリカン・ビューティー』(1999年公開)でも使われています。主人公レスターの妄想の中で、エロチックなイメージとして登場しますね。題名も「アメリカン・ビューティー(アメリカの美)」という真紅のバラの品種をもじっています。アメリカの“理想的な”中流家庭が崩壊していく様を、豊かで温かい生活の象徴である、美しい赤いバラを使って描いていくとは、なんとも皮肉な映画です。
2007.12.19
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▼ギリシャ神話とバラ3(青いバラ)ギリシャ神話には、バラが誕生したエピソードがたくさん出てきますね。一体どれが真実なのかなどと詮索するのは野暮というもの。神話ですから、お好きなものをお選びください。そのギリシャ神話とバラの話も、次に紹介するニンフ(精霊)の話が最後です。あらゆる花を支配する花の女神クローリスはあるとき、お気に入りのニンフが亡くなっているのを見つけました。不憫に思ったクローリスは他の神たちの力を借りて、ニンフを美しい花の姿に変えます。その花にアフロディーテは美を与え、酒神デュオニソスは神水を注いで香りをつけ、風神ゼヒュロスは雲を払い光の祝福を与え、花の女王とも呼ばれるバラを誕生させました。そしてクローリス自身は、花びらに色を与えたのですが、青い色は冷たく、死を連想させるという理由で青いバラだけは作らなかったということです。自然界に青いバラが存在しないのはこのためだそうです。そのことはずっと語り継がれ、英語でa blue roseと言ったら「不可能なもの」「できない相談」という意味になるんですね。ところが、科学技術は“進歩”します。2004年には、サントリーがバイオテクノロジー技術を使って「青いバラ」を作り出してしまいます。それまでもバラ同士を交配させて、青いバラを作り出す試みは続けられていましたが、バラにはもともと青色色素(デルフィニジン)がないため、厳密に青いバラは作ることができないでいました。そこでサントリーは、オーストラリアの企業と共同で、パンジーから青色色素にかかわる遺伝子を抽出し、バラに組み込んだんですね。こうしてできたのが、このバラです。紫がかった青という感じの色ですね。ただしこのバラは遺伝子組み換えによってできたバラですから、そのまま市場に出すことはできません。切花として商品化できるかどうか、法律と照らし合わせながら検討しているようです。言葉の意味は時代とともに変化し、ついには死語になるものもあります。青いバラが持っていた「不可能」という意味も書き換える必要がありそうです。ところで、「遺伝子組み換え生物」の代名詞ともなっている「キメラ」も、ギリシャ神話に登場するキマイラを語源としています。キマイラはライオンの頭と羊の胴体、蛇の尻尾を持つ(この三つの動物の頭を持つとの説もあります)怪物です。トルコ西部のリュキア地方を荒らしまわっていたので、英雄ベレロフォンによって退治されたことになっています。ヤマタノオロチ伝説みたいですね。ギリシャ神話には、ミノタウルスや、英語のpanicの語源となったパンなど半神半獣が多く出てきます。もしかしたら古代ギリシャでは、すでに遺伝子組み換え生物がいたのかも。少なくとも、青いバラがギリシャ神話の延長線上に創造されたことは、間違いないと言えそうですということで、今日紹介する薔薇の写真は、遺伝子組み換えによって桜の木に咲いた薔薇です・・・・・・なんてはずはないですね。桜の木を背景に撮影した薔薇でした。12月9日に神代植物公園で撮影しました。
2007.12.18
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▼シェイクスピアから生まれたバラ9(黒い貴婦人5)美青年への賛美、黒い貴婦人との甘い愛の日々、泥沼の三角関係、ライバルの詩人の登場と美青年との別れ、そして再会と決別で終わる恋物語を歌ったシェイクスピアの『ソネット』。すでに紹介したように、第1番から第126番までが美青年に対する愛のサイクルが描かれ、第127番から第152番までは黒い貴婦人に対する愛の物語が紹介されています。残りの第153、154番は、黒い貴婦人に対するソネットとも考えられますが、より普遍的な愛のソネットと解釈することもできます。ここからが謎解きです。まずはこれを読んでください。TO THE ONLY BEGETTER OFTHESE INSUING SONNETSMR. W. H. (この恋を歌ったソネット集の唯一の産みの親であるW・H氏に捧ぐ)つまり『ソネット』は、詩に啓示を与えたとみられるW・H氏に捧げられているんですね。ところが、このW・H氏が誰だか、さっぱりわかりません。貴族のパトロン(ウィリアム・ハーバート)だという説もあれば、当時の美貌青年貴族サザンプトン伯ではないかとの説もあります。でもどちらも推測に過ぎず、矛盾点もあることから人物の特定に至っていないんです。その中で非常に面白いのが、『幸福な王子』を書いたアイルランド出身の劇作家オスカー・ワイルド(1854-1900年)の女形少年俳優説です。ワイルド説に従うと、W・H氏とはウィリー・ヒューズという、当時シェイクスピアの劇団に所属していた少年役者であったことになるんですね。ご存知のように、当時の劇場では女性が舞台に上がることは禁じられていましたから、女性の役はまだ声変わりのしていない少年が演じました。その女形にシェイクスピアが恋をした。舞台の上で輝く美青年に対する恋心が募り、それを詩にしたというわけです。映画『恋に落ちたシェイクスピア』では、このワイルド説をもじって、男装してロミオを演じるヴァイオラに、あの有名な「君を夏の日にたとえようか」というソネットを捧げたことになっています。ワイルド説を採ると、さしずめライバルの詩人はクリストファー・マーロウとなり、人気女形をマーロウの劇団に奪われたという構図が浮かんできます。ただしワイルド説でも黒い貴婦人は謎のままです。では、シェイクスピアは同性愛者だったのでしょうか。同性愛者として『ソネット』を読むことも、もちろんできます。第80番なんか、肉体関係を伴う、かなり卑猥な詩であると解釈できますからね。ワイルド自身(結婚して子供もいましたが)、クイーンズベリー侯爵の息子アルフレッド・ダグラスと同性愛の関係を結んだため、有罪となっています。幸か不幸か、私は同性愛者ではありませんが、人生で一度だけ、美青年に一瞬心を奪われたことがあります。今まで知らなかった感情が自分の内に存在することに非常に驚きました。なぜそのような感情が生まれるのか、とても不思議だったのです。およそ輪廻転生があるのだとしたら、男性であったときもあれば、女性であったときもあるのでしょうから、恋心が生まれるのに性別は関係ないのかなとも思います。あのときの気持ちを突き詰めていけば、シェイクスピアが歌った美青年に対する想いも、ワイルドと同様に理解できたかもしれません。同性愛者ではなかったのだとの解釈も可能です。同性愛的傾向があっても肉体関係はなかった、あくまでも人間のもつ「若くて美しいエネルギー」に対する愛の賛歌であると読むのも自由です。自分の人生に照らし合わせて、『ソネット』をお読みください。でも、一つだけ言えることがあります。シェイクスピアが同性愛者であったかどうかにかかわらず、『ソネット』が「薔薇族」のバイブルになっていることです。これも「シェイクスピアから生まれたバラ」なのかもしれませんね。
2007.12.12
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▼シェイクスピアから生まれたバラ7(黒い貴婦人3)シェイクスピアの『ソネット』には、美青年をバラにたとえた表現が多く登場します(1,54,109番など)。ところがシェイクスピアは、黒い貴婦人をバラにたとえたりしないんですね。それを如実に示しているのが130番のソネットです。130 My mistress' eyes are nothing like the sun, Coral is far more red, than her lips red, If snow be white, why then her breasts are dun: If hairs be wires, black wires grow on her head: I have seen roses damasked, red and white, But no such roses see I in her cheeks, And in some perfumes is there more delight, Than in the breath that from my mistress reeks. I love to hear her speak, yet well I know, That music hath a far more pleasing sound: I grant I never saw a goddess go, My mistress when she walks treads on the ground. And yet by heaven I think my love as rare, As any she belied with false compare.130私の恋人の眼は少しも太陽に似ておらず、朱色の珊瑚のほうが彼女の唇よりもはるかに赤い。雪が白いと言うならば、彼女の胸は褐色であり、髪が針金と言うならば、彼女の頭に生えているのは鉄(くろがね)の針金だ。赤と白が混ざったダマスクローズを見たことがあるが、彼女の頬に、そのような薔薇を見ることもない。恋人が漏らす吐息よりも芳しい香りのする香水はいくらもある。彼女が話す声を聞くのは好きだ。だが正直言って、音楽のほうがはるかに心地よく響く。天上界の女神が歩くのを見たことがなくても、恋人はちゃんと大地を踏んで歩いている。だが神に誓って言う。偽りの比喩で飾られたどの女性と比べても見劣りすることは決してない、類稀な女性が我が恋人である、と。130番はシェイクスピアのソネットの中で、英語的には簡単な部類に入ります。ここで知っておけばいいのは、当時のソネットなどで使われた詩的な表現をすべて否定しているということですね。「恋人の眼は太陽だ」「唇は珊瑚よりも赤い」「雪よりも白い肌」「薔薇のような頬」「どのような香水よりも甘い吐息」「音楽よりも妙なる響きの声」「天上界を歩く女神のようだ」といった表現はすべて嘘八百であると、シェイクスピアは言っています。4行目のwiresも当時の詩的表現で、髪を金色のwire(針金)やthread(糸)にたとえるのが流行していたんですね。8行目のreekは現代では「悪臭を放つ」という意味ですが、当時はそのような否定的な意味はなかったそうです。最後の行のany sheのsheは黒い貴婦人のことではなく、一般的な女性の意で、any womanと同じです。ここで黒い貴婦人が、眼だけでなく髪も肌も黒(褐色)であることが判明します。そして面白いことに、黒い貴婦人は後世においてバラの名前になりましたが、シェイクスピアにとっては決してバラではないんですね。シェイクスピアの自己矛盾はここにあります。戯曲をはじめ、『ソネット』の美青年には、さんざん「偽りの比喩」を使っておきながら、黒い貴婦人を語るときには、そんなものは嘘っぱちだと言い放っているんですから。 すると美青年への狂おしいほどの恋は嘘だったんでしょうか? どうもこうした表現の使い分けをみると、美青年への恋心は高尚でより理想的(空想的)な愛の響きがあり、黒い貴婦人への恋心は肉欲を伴う、より本音に近い現実的な愛であったのではないかと思われてきます。詩編144番でシェイクスピアはその二つの恋を次のように表現します。Two loves I have, of comfort and despair(私には喜びと絶望の二人の恋人がいる)The better angel is a man right fairThe worser spirit a woman colour’d ill(良いほうの精霊は初心な美男子悪いほうの精霊は黒く不快な女)127番では黒を褒め称えていたシェイクスピアも、144番では黒を貶(けな)しています。何があったかというと、黒い貴婦人は次第にシェイクスピアにつれなくなり、とうとう恋人の美男子を誘惑してどこかへしけこんでしまったんですね。気が気でないのはシェイクスピアです。二重に裏切られ、二重に嫉妬し、二重に嘆きます。その模様は40~42番にも書かれています。その中でシェイクスピアは、恋人の美男子を奪った黒い貴婦人を淫乱女のように罵ると同時に、美男子と自分は一心同体であるから、黒い貴婦人は私を愛しているのだと自分を慰めたりもします。錯綜した三角関係ですね。しかし『ソネット』の物語はまだ続くんですね。第四の人物が登場し、物語をクライマックスへと導きます。(続く)
2007.12.10
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キーがこしょうちゅうです。しヴァらくおまちください。・・・・ちょっと復旧は無理かも。書き込みが不可です。御りょうしょうください。
2007.10.06
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▼病める薔薇THE SICK ROSEO rose,thou art sick:The invisible wormThat flies in the night,In the howling storm,Has found out thy bedOf crimson joy;And his dark secret loveDoes thy life destroy.これはただの薔薇について書いた詩ではありません。ロバート・バーンズは恋人を薔薇に譬えましたが、18~19世紀に活躍したイギリスの詩人ウィリアム・ブレイクは薔薇を人の心の状態に結び付けました。thou はyou、artはareでしたね。thyはyour。構文自体はそれほど難しくありません。1行目は薔薇への呼びかけ。2行目から6行目までの主語は、The invisible worm(目に見えない虫)です。バーンズの薔薇が直喩だったのに対して、ブレイクの薔薇は暗喩になっています。wormとstorm、joyとdestroyで韻を踏んでいますね。病める薔薇「おお、薔薇よ、お前は病んでいる!目に見えない虫が吹きすさぶ嵐の中夜の闇の中を飛び深紅の喜びであるお前の寝床を見つけてしまったその暗い秘密の愛がお前の生命を滅ぼすのだ」この詩の解釈は、それぞれの人の体験や心の状態によって異なるでしょう。読者一人一人が自分の物語をこの詩から作ることができますね。薔薇を自分の恋人に置き換えたり、あるいは病める自分自身だとみなしたりすることもできます。目に見えない虫も同じです。虫は、二人の恋の間に忍び寄ってきた障害物であり、これから育もうとしていた愛に入った些細な亀裂であるかもしれません。あるいは虫は、抗うことのできない老いや病といった運命を暗示しているのかもしれない。しかも、その「お邪魔虫」がやってくるのも、「暗い秘密の愛」、つまり違う視点(虫の視点)から見た愛のせいであるとしているのが面白いところです。いったいどのような愛なのでしょうね。近視眼的に見れば、虫の利己愛のように思われますが、宇宙的に見れば、それも神の愛なのかもしれない、などと思ってしまいました。すると、老いや病も、愛の表現であるということになります。皆さんにとっての「病める薔薇」とは何だったでしょうか。(続く)
2007.09.10
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昨日の続きで、多摩動物園のネコ科の動物を紹介します。百獣の王ライオンもネコ科ですね。こちらはオスライオン。このタイガージャージは慶応のラグビー選手、のはずはなく、紛れもないタイガー、虎さんですね。密林の王者と呼ばれています。次は中央アジアの険しい山岳地帯に棲むユキヒョウ。ふかふかした毛ですね。極寒の雪山に住む豹だけのことはあります。最後はサーバル。ネコの中のネコ、「サバンナのスーパーモデル」といわれているそうです。遠くの壁のところでじっとしていたので、いい写真が撮れませんでした。写真はこちらでご覧下さい。まさにネコちゃんという感じです。チーターも、アムールタイガーも、ユキヒョウも、人間の環境破壊や密猟により生活環境が悪化、このままでは絶滅するのではないかと危惧されています。
2006.12.02
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拙著『カストロが愛した女スパイ』が出来上がりましたので、プレゼントをご希望された方に郵送しました。早ければ月曜日に、辺鄙なところにお住まいの方(失礼!)には火曜日以降、届くのではないかと思われます。ご応募ありがとうございました。お心当たりの方で、今週中に届かないようなことがあれば、ご連絡ください。もう一つのお知らせは、今年も天神人祖一神宮の天柱石(富山県平村)のお祭りが10月9日(体育の日)に開催されます。あの天柱石に登れる数少ない機会です(雨が降ったら滑りやすくなるので、あまりお薦めできませんが)。天柱石の頂上付近には謎の神代文字も彫られていますよ。信者でなくとも、参加はどなたでもできます(私も23年ほど前に参加して、神代文字を撮影しております)。お近くにお住まいで、竹内文書に興味のある方は、是非参加されることをお薦めします。当日朝8時半ごろ、富山県滑川市の同神宮からバスが出るそうです。詳しくは天神人祖一神宮北陸支庁、電話0764-75-3211へお問い合わせください。
2006.10.01
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▼もう一つの自殺(中野富士見中学いじめ自殺事件1)1月8日の始業式の朝、埼玉県の女子中学生がガス自殺をしたとき、それほど離れていない場所で、別の悲惨な事件が進行中であった。後に自殺した東京都中野区立富士見中学2年の鹿川裕史君がこの日、クラスメートを含む10人ほどのツッパリグループに膝蹴りやパンチなどの暴行を受けていたのだ。自殺した女子中学生と同じ13歳であった。鹿川君に対する陰湿ないじめは、なにもこの日に始まったことではなかった。鹿川君が2年生になった前年の5月ごろ、クラス内にできたツッパリグループに目を付けられ、「使い走り」をさせられるようになる。従順でおとなしい鹿川君に対する「ふざけ」は、次第に「いじめ」へとエスカレートしていく。二学期になると鹿川君は、「プロレスごっこ」の「投げられ役」になったり、フェルトペンで顔にヒゲを描かれ廊下で踊らされたり、モデルガンの標的になったり、野球拳を強要され服を脱がされたりした。いじめグループにとって、鹿川君は「何をしてもいい存在」になっていった。そして起きたのが、「葬式ごっこ」であった。11月14日と15日、鹿川君の2Aのクラスでは、鹿川君を死んだことにして「追悼の色紙」を書き、教室で線香をあげる「葬式」を執り行ったのである。黒板の前に置かれた鹿川君の机の上には、飴玉や夏みかんが並べられ、鹿川君の写真と、牛乳瓶に差した花も添えられていた。色紙には、「鹿川君へ さようなら 2Aと その他一同より 昭和60年11月14日」と書かれており、クラスの生徒の署名や寄せ書きがあった。寄せ書きには「バーカ」「いなくなってよかった」「ざまあみろ」などと書かれていた。そして驚いたことにそこには、「やすらかに」といった担任を含む四人の教師の署名とメッセージも記されていたのであった。(続く)
2006.09.28
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▼再現5 オズワルドは銃撃のあった間中、おそらく教科書倉庫ビル2階の社員食堂にいたのだろう。少なくとも12時15分までは同僚と一緒にその場所にいたことがわかっている。そして12時33分には、駆けつけた警察官とビルの管理責任者が同じ食堂でコークを飲んでいるオズワルドを目撃している。ウォレン委員会の報告では、オズワルドがこの18分の間に、2階から6回に駆け上がり、ケネディに向けて3発ライフルを発射、狙撃後すぐに階段を駆け下りて再び2階でコークを飲んだことになってしまっている。しかもオズワルドはそのとき、息を切らした様子もなく、まるで何事もなかったかのように落ち着いていたのだ。オズワルドはただのおとりであったことは明白だ。これはロレンツの証言の通りである。ダラス警察が見つけたとするライフルについていたオズワルドの掌紋の一部については、犯行グループもしくはオズワルドを単独犯に仕立て上げようとしたFBIによって、でっち上げられたのだろう。確かなことは、実際にライフルを射撃したら残るはずの硝煙反応はオズワルドの頬から検出されなかったということだ。犯行に使われた凶器とみられるライフルと銃を携行した有名な“証拠写真”も、犯行グループもしくはFBIによって合成されたインチキ写真であることも自明であった。(続く)
2005.07.16
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▼推論のまとめ2 一番ケネディが邪魔だったのは、CIA内部の反ケネディ派(強硬派)と、反カストロの亡命キューバ人だったのは、明白だ。しかし、両者とも国民の矢面に立つのは何としても防ぎたかった。そこで、彼らの一部は一計を案じ、オズワルドをカストロ支持者にみせかけることで、“カストロが放った暗殺者”に仕立て上げた。だからこそ、正当な理由もなく、オズワルドの人相の特徴が暗殺事件発生からわずか15分後に警察のラジオ無線で流されたのだ(メモ39参照)。また、最悪でもマフィアの犯行にみせかけるため、ジャック・ルビーを使ってオズワルドを殺させた可能性が強い。 犯行にかかわったCIAのグループはさらに、ケネディ暗殺前にカストロが報復を臭わせていたことをマコーンに報告することで、カストロ陰謀説を耳に吹き込み、米軍によるキューバ侵攻を間接的に促しながら、背後に隠されたより大きな陰謀を隠蔽しようとした。マコーンはジョンソンにカストロ陰謀説の可能性を指摘。ジョンソンはウォレン委員会という形だけの調査委を設置、オズワルド単独犯の線で結論を出させたのではないか。ただ、暗殺の後に起こる結果が得てして予測不能のように、米国によるキューバ侵攻というCIA・反ケネディ派と反カストロ右派のキューバ人の思惑は、結果的に大きくはずれたわけだ(メモ40参照)。(続く)(メモ39=謎の警察無線) ケネディが撃たれた直後の12時44分、「容疑者は名前不詳の白人の男。推定年齢30歳。体重165ポンド。やせ型。ライフルを携行」というオズワルドを想起させる犯人像が警察無線で流された。一体だれから警察がこの犯人像の情報を手に入れたか、今日に至るまで分かっていない。犯人がケネディを撃ったとされるテキサス学校教科書倉庫の建物に駆けつけた警察官が従業員を点呼したところオズワルドがいなかったからだとか、オズワルドが足早に建物から立ち去るのを目撃したからだとか、いろいろな憶測に近い説明がなされているが、どれも事実と矛盾している。たとえば、点呼でいなかったのはオズワルドだけではなかったのに、何故、オズワルドだけが犯人にされるのか説明がつかない。それに警官が駆けつけたとき、オズワルドは建物のマネージャーと2階にいて、コーラ販売機で買ったコーラを飲んでいるところだった。これではまるで、暗殺の陰謀者が、オズワルドをはめるため、オズワルドの情報を警察にたれ込んだとしか思えないではないか。実際、ウォレン委員会の法律顧問の一人、ウェスリー・レイベラーによると、この謎の警察無線は委員会をひどく苛立たせた。何故なら暗殺が起きる前にオズワルドが既に「かも」として選ばれていたことを示唆するからだ、としている。(メモ40=暗殺の後に起こる結果) CIAに長年勤務し、引退後、諜報活動従事者の協会長を務めたジャック・モーリーは1982年、「CIA」(83年出版、スタイン・&・デイ社)の著者、ブライアン・フリーマントルに次のように語っている。 モーリー:暗殺は道徳的に少しも悪くない。問題は暗殺された人間の後継者が、暗殺された人間よりもよくなるとは、だれも予想できないことだ。 フリーマントルは、モーリー以外にも5人のCIA諜報員が同様な見解を述べたとした上で、CIAの中では暗殺の道徳的是非よりも暗殺後に起こる結果の不確定性がよく問題になる、と結んでいる。
2005.07.05
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▼暗黙と粛清 CIA側でマヒューと接触をする役目は、リチャード・ビッセル計画局次長(メモ26参照)の意向を受けたシェフィールド・エドワーズ安全保障担当部長と、その部下のジェームズ・オコネルが受け持った。ビッセルとエドワーズは60年9月中旬には、アレン・ダレスCIA長官とチャールズ・キャベル副長官(メモ27参照)にマフィアを使ったカストロ政権転覆計画を説明。ビッセルは、ダレスが暗殺計画を承認したと理解する。 しかし、61年4月のピッグス湾事件の大失態後、CIAに対する風当たりが厳しくなる。ケネディは、ダレス長官とキャベル副長官を相次いで更迭。ところが、CIAは61年9月、ダレス長官の後任に決まったマコーンに対し、対キューバ作戦を説明するが、過去を含め現在進行中のカストロ暗殺計画については一切、触れず、マフィアを使っていることも知らせなかった。62年4月に副長官に就任したカーターに対しても、同様に暗殺計画は知らせた形跡はない。 ピッグス湾事件で、ケネディにしきりに空爆を進言したビッセルもケネディに“粛清”される。61年10月、ケネディ大統領とロバート・ケネディ司法長官からカストロ政権転覆に失敗したことで激しく責められたビッセルは、カリブ海諸国担当のサム・ハルパンらに、手段は一切問わないからカストロを始末しろと命令するが、後に更迭され、後任にはリチャード・ヘルムズが就任する。(続く)(メモ26=リチャード・ビッセル) ピッグス湾事件、マフィアを使ったカストロ暗殺計画を含むカストロ政権転覆計画に深く携わったCIAの責任者の一人。ニクソンと亡命キューバ人との密約や、キューバのミサイル基地問題の真相を知る数少ない関係者の一人とみられる。ピッグス湾事件では、ケネディに空爆を懇願した。大失敗に終わった同事件の後、責任を取らされ、アレン・ダレス長官、チャールズ・キャベル副長官らとともに首になった。ビッセルの後任には、後に長官まで出世するリチャード・ヘルムズが就いた。
2005.06.26
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▼インタビューこのように重要な報告書がなぜあまり知られていないのか。私は1999年、この報告書を作成したダウニングを訪ね、報告書を書いた背景やなぜダウニングの陰謀説が埋没してしまったかについて聞いた。ダウニングは政界から引退し、ワシントンDCから車で3時間ほど南に走ったところにある港町、バージニア州ニューポート・ニューズの法律事務所に席を置いていた。気難しい人かな、との不安もあったが、合ってみると非常に気さくな人であった。なぜ日本人の私がケネディ事件に興味をもつようになったのか、など逆に質問をしてきた。私がそれまでのいきさつを話すと、ダウニングも興味を示し、インタビューの最後には、ケネディ暗殺事件の真相を明かすように逆に励まされてしまった。そのときのインタビューの主な内容は次のとおりだ。ーあの報告書を書いたきっかけは。 事件の一部始終をとらえたエイブラハム・ザプルーダーのフィルム(メモ21参照)を詳しく調べたところ、ケネディに向け実は3発ではなく、4発の銃弾が撃たれていることを確信したからだ。しかもうち一発は、明らかにオズワルドのいた後方からではなく、前方から撃たれていた。オズワルド一人の犯行とは到底、考えられなかった。そこでケネディ暗殺事件の再調査を議会に働き掛けるために、あの報告書を76年に書いたのだ。ー議会の反応はどうだったか。 当時、ケネディ暗殺の再調査などは税金の無駄使いだ、とする批判の声が強かった。あのままでは、おそらく議会調査委員会を結成することはできなかっただろう、しかし、同様に陰謀の嫌疑があったマーチン・ルーサー・キングの暗殺も再調査するということで議会内の雰囲気ががらっと変わり、暗殺に関する下院の調査委員会(下院特別委員会)が結成されたのだ。そして、私が初代委員長になった。ー調査結果についてどう思ったか。 私が途中、議員引退のため委員長職を降りなければならなくなるなど人事でごたごたがあったが、特別委員会はきっと陰謀を解明してくれると思っていた。事実、調査団のほとんどが陰謀の可能性を信じていたのだ。にもかかわらず、79年の報告書は、今一つ踏み込みが足らず、失望した。はぐらかされた感じだった。ー今でもCIA・コーリー非合法活動グループがやったと思うか。 CIAが支援していた亡命キューバ人の反カストロ分子のだれかが関与したのは間違いないと思っている。おそらくコーリーと密接に関係する者の仕業だろう。ただ、CIAがケネディ暗殺に直接関与したなどとは考えられないし、考えたくもないというのが本音だ。 ダウニングは、CIAが自分の国の大統領を暗殺するほど腐敗・堕落していなかったはずだ、との信念を持っている。しかし、オズワルドを犯人に仕立て上げ、しかもカストロ信奉者のようにみせかける手の込んだ工作をCIAの協力なしに実行するのは、まず不可能だ。CIAの中の反ケネディ派が暗殺に協力したとみる方が理にかなっている。(続く)(メモ21=ザプルーダーのフィルム) アマチュア写真家、エイブラハム・ザップルーダーがたまたま撮った映画フィルムは、ケネディ暗殺の一部始終を捉えていた。銃声が聞こえる度にザップルーダーは驚き、映像もぶれる。それでも彼は、最後までフィルムを回し続け、貴重な証拠を残した。 フィルムの中で、ケネディは最初の一撃を受けたとき、喉を押さえる。そしてケネディが致命的な一撃を頭に受けた瞬間には、頭は後ろに跳ね返り、車の後方にはケネディの頭蓋骨の一部や血が飛び散るのが見える。ザップルーダー自身も、弾は自分の後方、すなわち、ケネディが乗った車の前方に位置する草の多い小丘から撃たれたと証言している。
2005.06.21
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超能力者列伝(堤祐司2)ダウジングのメカニズムについては、わかっている部分とわかっていない部分がある。わかっていることは、ダウジングは自分の潜在意識が考えていることを知るテクニックであるということだ。しかし、潜在意識が主役であるということはわかっているのだが、どのように使っているかについては諸説がある。これが、わかっていない部分だ。一つは、人々の潜在意識は心の奥深くでつながっており、個人を超えた集合意識から情報をつかみ、表層意識へと吸い上げるという考え。もう一つは、物質には特有の波動があり、それを潜在意識がキャッチして、探し物がどこにあるかわかるという見方。いずれにせよ、その潜在意識が捉えた情報を基に筋肉が反応して、振り子を動かすというわけだ。具体例を挙げると、ダウザーは「ここに水がありますか」と振り子に聞きながら水脈を探す。するとダウザーの潜在意識は、集合意識にアクセスするか、あるいは水の波動を感じ取るかして、情報を脳に伝える。脳はその情報を基に、指先の筋肉に指令を出し、振り子が動き出す。振り子はまさに、脳が発令した、目に見えないような筋肉のわずかな動きを増幅する装置の役目を果たすのだという。堤祐司は自分が超能力者扱いされることを嫌う。ダウジングは「潜在能力を開発する技術」だと考えているからだ。それでも堤は、ダウジングに「超能力的な部分」があることは認めている。水脈探しや水道管探しは、水の波動を潜在意識が感知すると考えることで説明できる。しかし、恋人が何を考えているかわかったり、トランプのカードを当てたり、純粋に地図上で探し物を探し出したりすることは、物質が発する波動説では説明できない。それを堤が本当に実感できるようになったのは、テレビ局の依頼でマップ・ダウジングをやるようになってからだと、堤は言う。マップ・ダウジングとは、現場に行くことなく、地図上で探し物を見つけ出すテクニックだ。地球の裏側からでも探し出すことができるという。堤は、マップ・ダウジングという技術があることは知っていたが、それまで真剣に試したことはなかった。それは1990年ごろ、TBSの『たけしの頭の良くなるテレビ』の中で、初めてマップ・ダウジングに挑戦したときだ。東京23区内の地中に隠された「宝物」を探し当てる実験だが、堤はマップ上で三カ所に絞り込み、そのときはディレクターの「誘導」もあり、新宿に狙いを定めて現場まで出向き、新宿区内に埋めてあった宝物を、ほとんど数メートルの誤差の範囲で見事探し当てることができた。誘導は、堤が「こっちかな」などとまだ迷っていると、ディレクターが「その場所へ行ってみましょう」と後押しをしてくれるのだという。完全な誘導ではないが、ディレクターは「正解」を知っているので、暗に堤を正解へと導くことも可能なわけだ。しかし、仮にいくらかの誘導はあったにせよ、堤にとっては驚きであった。東京23区内という無限ともいえる広大な領域の中から、少なくとも三カ所を選び出し、そのうちの一ヶ所に、実際に埋められた宝物があったからだ。ダウジングには、なにか超能力的なものを引き出す力があるのではないか、と確信するようになったという。(続く)=文中敬称略
2005.05.24
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超能力者列伝24(北川恵子)中沢新一の体験が物語るチベット僧の瞑想さながらに、北川は瞑想によってテレパシー能力を高めていったようだ。頭の中で聞こえる声は、段々とはっきりとした、具体的な内容を伝え始めた。意味は難解だったが初期のころは詩のようなメッセージで、次には北川との対話の形式で「声」が話しかけてきた。北川は複雑な思いだった。「いよいよ精神病患者のようになってきたなと思いながら、しかし、心のどこかでは全くの信頼を置きながら」、「声」と付き合わざるをえなかった。しかも「声」は、北川がやりたくないようなことをやるように、しつこく言ってくる。そこで北川は一計を案じた。「声」との対話をやめ、「声」の薦めることの反対のことをしたのだ。そうすれば、きっとあきらめて、もっと聖人のような人のところへ行ってくれるに違いないと北川は思った。ところがどんなに「声」を無視しても、「声」は辛抱強く語りかけてくる。一ヵ月後、その熱意に、とうとう北川は根負けした。観念して付き合うことにしてからは、「本当にびっくりするような事件ばかりありました」と北川は言う。まず、「声」は北川の前世を教えてくれた。そのきっかけは、ある人物が行った瞑想だったという。自分でやる瞑想に比べて、ずうっと深いところまで入っていった。問いに答えるやり方で、北川自身が紙に書いてゆくもので、そのときの答えは北川が創造もしなかったような驚くべき内容だった。それによると、北川は12世紀にはシナイ半島に住んでいた。そのときの名前はセピアリス。男性だった。両親の名は、父はヨシア、母はアルナといい、兄弟は兄が二人いて、ヘライテスとヨリアルといった。家業は、舟を造る木型をかたどる仕事だった。セピアリス(北川)は家業を手伝っていたが、ある日、乾燥した砂地の丘のような場所にたった一本だけ立っている木の根元に座っていたときに、「神の啓示」を受けて、にわかに病人の世話を始めるようになったという。セピアリスは、体中におできのようなものができた人達を集めて、治療のようなことをした。30~40センチぐらいの布に黒い薬を塗って、それを人々の患部に湿布薬のように貼ってあげていた。その薬は、4,5種類の薬草をすりつぶして何か独特の方法で発酵させたものだったという。彼は生涯独身で、死ぬまで苦労の連続だったにもかかわらず、幸福だったようだ、と北川は言う。18世紀のイギリスにも住んでいた。生まれたのは1738年。ジョージ二世が王位にあったときだという。成人してから住んでいた場所はハムステッドという町で、糸の会社に勤めていたらしい。子供も5人いたようだが、不思議なことに自分が男だったか女だったかはわからないという。名前も思い出せなかったが、魔法名を持っていてアルマ・マグナと呼ばれていた。先生の魔法名はヴァリアノス・トリ・アノス、属していた団体名はオルド・テンプリといった。先生は錬金術と占星学の大家で、北川も当時、相当に魔法の知識があったようだが、何かの理由で先生と喧嘩して団体を出たという。面白いことに、今生でもその先生に会うことになっているのだと北川は言う。(続く)=文中敬称略
2005.04.13
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超能力者列伝10(秋山眞人)最初に秋山の目を引いたのは、円盤の底部にある動力部だった。「フリーエネルギーを宇宙空間から生産するような」ある種のモーターがあった、と秋山は言う。そのモーターはスズメバチの巣のような六角形のパイプの集合体で、そういう短いパイプを集めたような板が7層重ねになっており、その中の空間が明るく光ったり薄れたりを、まるで呼吸しているかのように繰り返していた。モーターからは軽い振動音が聞こえており、モーターは3本ほどのケーブルで円盤と接続されていた。円盤内部の壁や床は「フリーエネルギー(注:おそらく無限に抽出できるエネルギーのことであるとみられる)」の力と連動しており、そのすべては乗り込んでいる宇宙人の意識とも連動していたという。すなわち、円盤自体が宇宙人の想念によって動く、一つの生き物のようになっていたわけだ。コントロールセンターとみられるところにはスクリーンが何枚もあって、そのスクリーンの前で宇宙人が自分の意識から出る波動を調整していた。その波動はスクリーン上で、図形に変換される。図形がきれいに描ければ、円盤はスムーズに進むのだという。その日は秋山が船酔いのようになって嘔吐してしまったので、操縦訓練まで至らなかったが、次に乗船したときからはUFOの操縦にも挑戦したという。スクリーン上の図形が楕円とか球形に近づけば、操縦はスムーズにいくのだが、秋山がやると、メチャクチャな図形が現われる。するとUFOもあっちへ行ったりこっちへ行ったりフラフラする。意識を鎮めても、なかなかうまくいかない。その後何度も円盤に乗船、訓練を重ね、上手とは言えないが何とか操縦方法を習得したという。秋山は合計で母船型には20回、小型UFOには200回以上乗船したことがあるというから驚きだ。秋山はUFOに乗って別の惑星にも行ったと主張する。太陽系では水星と金星に行ったという。どちらにも都市が築かれ、いろいろな惑星から来た宇宙人が太陽系の中継基地として利用しているのだそうだ。月の裏側にも地球に行く場合の中継基地があり、「どんな宇宙人もそこから地球にやって来ている」という。別の惑星に行くときは、小型の円盤から大気圏外で母船に乗り換える。所要時間は数時間だという。秋山は、さらに遠くの太陽系外の惑星にも連れて行かれた。具体的にどこにある星であるかは明らかにしていないが、カシオペア座の方向にある惑星だという。実はこの惑星、秋山にとっては非常に因縁のある惑星であった。秋山が前世でこの惑星に住んでいたというのだ。その惑星とは、秋山に接触した宇宙人の母星でもあった。(続く)=文中敬称略
2005.03.25
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うっかりしていて、ローズマリー・ケネディが今年一月に亡くなっていたことを、今日の朝日新聞の「ひと」欄で初めて知った。ローズマリーはジョン・F・ケネディの妹で、ジョゼフ・ケネディと妻ローズの間に生まれた長女。“名門”ケネディ家にあって、知的障害を持ち、ロボトミー手術を受けたことでも知られる。人生の大半を修道院で過ごした。86歳であった。暗殺や“事故”で相次いで死んでいく「呪われたケネディ家」の中にあって、ローズマリーは幸せのほうであったかもしれない。ケネディ家がひた隠しにしていたローズマリーのことを公にしたのが、三女ユニス・シュライバー(83)だ。長野で開かれていた知的障害者のためのスペシャルオリンピックス冬季大会が昨日(5日)閉幕したが、そのスペシャルオリンピックスの創設者でもある。娘はシュワルツェネッガーの妻になっている。ケネディ家には、光と闇の歴史がある。JFKの父ジョゼフは、まさにこの闇を操った人物だ。アイルランドからの貧しい移民一家がどうやって、米国の名門へとのし上がったか――。このブログでも、いずれ明らかにしていきたい。
2005.03.06
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雲に消えた魂知っていますか? 空前のペットブームの陰で、多くの犬や猫が殺されているということを・・・。フォトジャーナリストの児玉小枝さんの『どうぶつたちへのレクイエム』(日本出版社)によると、一年間に日本全国で、犬16万4209匹、猫27万5628匹が命を奪われたのです。人間に捨てられたペットは、保健所などの収容所で「処分」されてしまうのですよね。まさに現代のアウシュビッツです。東京では環状八号線沿いに、犬たちの「アウシュビッツ収容所」がありますよね。悲しい目をしたワンちゃんが大勢、そこに収容されるのです。そこで殺された犬たちは次から次へと燃やされて、その魂は煙となって煙突から空に上ってゆきます。空に上りながら、自分を捨てた人達を恨むこともせず、ただ「どうして」って鳴くんです。「どうして、僕は捨てられたの?」――。煙はやがて雲となり、雲はそのうち雨雲になります。もし雨が降ったりしたら、その一滴(ひとしずく)を手の平で受けてみてください。水滴の向こう側に命が透けて見えるでしょ。東京の雨が苦いのは、そんな理由があったのです。(注:写真の煙突は、収容所とは関係ありません)
2005.03.03
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晴れていれば雲の向こうに富士山が見えます。その手前左に日本では珍しいモスクの尖塔が写っています。
2005.03.01
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不胎化と非不胎化ドミンゲスの中間試験第3問の続き。(3)“Sterilized intervention operations are futile.” (a)Describe the mechanics of a sterilized intervention operation. (b) Under what circumstances would you agree with the quote? (c) Under what circumstances would you expect a sterilized intervention operation to influence exchange rates? (d) How would your answers to parts (a), (b) and (c) change if the intervention operation were non-sterilized?(b)と(c)は裏返しだ。どういう場合に不胎化介入は無駄になるか、つまり為替に影響を与えないのか、を問うているのが(b)。逆に為替に影響があるのはどういう場合かを問うているのが(c)だ。この問題は(C)から答えたほうがわかりやすいと思う。不胎化介入が為替に影響を与えるには二つのケースが考えられると、ドミンゲスは言う。一つはポートフォリオ・バランス理論(ポートフォリオとは、簡単に言うと、手持ちの有価証券の内訳のこと)で、もう一つはシグナリング理論だ。ポートフォリオ理論によると、たとえばFedがドル高にするために不胎化介入した場合、手持ちの外国債を売り、米国債を買う。すると市場には、米国債がその分吸い上げられ、外国債が増える。市場が最適なポートフォリオ・バランスを常に保とうとし、なおかつ米国債と外国債は完全な代替財でなければ、外国債に対するリスクが増える。Fedの保有する米国債は増え、外国債は減るので、相対的に米国債のリスクが減るとも考えられる。米国債のリスクが下がれば、それだけ米国債を持っていようとする人が増えるわけだから、ドル高に流れるはずだ。シグナリング理論は、不胎化介入が中央銀行の将来の金融政策の前兆(シグナル)であると信じた場合に為替に影響が出るというもの。ただし、市場が中央銀行(アメリカの場合はFed)を信頼し、市場の側に立っているとみられていることや、中央銀行が内部情報(他国の為替介入や将来の財政・金融政策の情報)を持っていることが前提だ。たとえば市場が、Fedが外国債を売り、米国債を購入する不胎化介入を、将来の金融引き締め(インフレ防止)策に備えてドル高に誘導する意図があると判断した場合、ドル高に動く。そこで(b)の答えだが、この二つの理論の裏返しとなる。すなわち、ポータフォリオ理論の前提となる米国債と外国債が完全な代替財でない場合や、シグナリング理論では中央銀行が市場の側に立っておらず、信用置けない場合、介入が将来の金融政策を反映したものではない場合などを挙げればよい。実はこの問題の答えは、ドミンゲス自身が書いた『為替介入は効果あるのか?』という論文の内容そのものだ。学生はこの本を買わされ、ドミンゲスに印税が入る仕組みになっている。洋の東西を問わず、このシステムは健在だ。(d)の問題は、日本語に訳すと「非不胎化政策」だった場合には答えがどう変わるか、という内容。非不胎化政策(介入)は公開市場操作と同じ。基本的にベースマネーと金利に影響を与え、その範囲で為替に影響が出ると書けばいい。不胎化介入は現実的に行われている介入であることが多い。それは来週紹介する問題でも明らかになる。
2005.01.27
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新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 今年は酉年だというのに、石原はカラスの大量虐殺に続いて、今度はハトを殺すことにした。その理由は、天敵のカラスがいなくなってハトが増えたからだという。今後は東京都の公園でのハトのえさやりを禁止するなどの措置により、大量のハトが餓死に追いやられることになる。動物に対する殺害の連鎖。ハトの糞は害であることは認めるが、なんと恐ろしいことをする国(東京都)であることか!カラス、ハト、熊、猫、犬・・・。日本では多くの動物が人間によって殺され続けている。あなた方は、その事実をちゃんと理解していますか?動物にとって棲みづらい世界は、人間にとっても住みづらい世の中のはず。殺された動物を人間に置き換えて想像してみればいい。そのための想像力なのだから。化学物質に覆われた大地はすでに窒息寸前。どれだけ貴重なものが失われれば、人間はその価値に気づくのだろうか。
2005.01.01
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授業あれこれ2私が取ったジム・ハインズのミクロ経済のコースは、API101というコース番号が付いている。101というのは入門コースに付けられる番号だ。かつてジョン・F・ケネディ大統領は、新聞記者から「なぜ減税をするのか」と質問され、こう答えた。「経済を刺激するためだ。君たちは経済101を覚えてないのか(To stimulate the economy. Don’t you remember your Economics 101?)」101は必修科目である場合が多く、ケネディ・スクールでもミッドキャリアの学生かそれに準ずる学生以外は必修科目になっていた。大勢の学生が取ることになるので、AからEまで5クラスに分けられた。Aは微分を使うクラス、Eは主に都市計画やデザインを将来専攻する学生のためのクラス、そのほかは微分を使わないクラスで、それぞれ別々の教授が教える。私はミッドキャリアなので、101を取る必要はなかったが、何しろ経済学を大学レベルで履修したことがなかった(教養課程では一度だけ取った)ので、好奇心も手伝って取ることにした。しかも半ば無謀にも、微分を使うAコースを選んだ。そして何を隠そう、私が取った5コースのうちいちばん苦戦したのが、このミクロ経済だった。経済部の記者なら、マクロ経済のことは経験的にわかるが、ミクロ経済となるとほとんど遭遇することもない(つまりあまり現実的でない)事象だからだ。微分などの細かい計算方法や法則も、私はすっかり忘れていた。授業は月曜と水曜の八時半から一〇時までの週二回。金曜日には経済の博士課程を取っている助手の学生によるレビュー(復習)のクラスがあった。このレビューのクラスは大変役に立ち、その週でやった難しいところを解説してくれる。なるべく「落ちこぼれ」が出ないように救済するシステムともいえる。さすがに授業料を二万ドルも払っただけあって、学生に対するケアが行き届いているな、と思ったりもした。この救済システムは統計やマクロ経済、国際金融のコースにもあり、金曜日はレビューのクラスが目白押しとなっていた。私も大いに「救済」されたことは言うまでもない。
2004.11.30
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授業あれこれショッピングの末に私が取った学科は、ジム・ハインズの「経済分析(ミクロ経済)」、スザンヌ・クーパーの「応用マクロ経済」、リチャード・ライトの「マネージャーのための統計分析」、マービン・カルブとトマス・ピーターソンの「メディアと政治」、キャサリン・ドミンゲスの「国際金融市場」の5単位。前にも書いたように私は、学部ではフランス文学(卒論は不条理演劇で知られるサミュエル・ベケット)を専攻していたため、大学では経済をまったく勉強していない。ただ経済記者を8年間やっていたため、経済や金融分野の「土地勘」はあった(大学で経済を専攻していなくとも経済記者になれる。科学部の記者も同じ)。今回、経済の科目を多く取ったのも、記者として経験的に知っている経済とは異なる理論上の経済をしっかり勉強しておきたかったからだ。本当は、「なんだ、経済の専門家はこんな現実とは異なることを勉強していたのか」と、つぶやけるようになりたかった。さて、私が選択した五教科の特徴は、いずれの教授も学生による総合評価で4・0以上の高い評価(最高は5)を得ていたことだ。ハインズ准教授はエール大卒業後、ハーバード大学で経済博士号を取得した。専門は税制でとくに多国籍企業の税制について詳しい。米商務省などで働いた後、プリンストンやコロンビアで教えていた。このハインズ准教授の奥さんは、私が取った「国際金融市場」のドミンゲス准教授で、やはりエール大学で経済学の博士号を取得した才媛だ。中央銀行による為替介入の効果を分析した本も書いている。二人とも准教授で「テニュアー(終身教授の地位)」にはなっていなかった。学生からの人気では、二人とも超トップクラスだ。総合評価でハインズは4・87、ドミンゲスも4・46の評価を受けていた。3点台の評価を受ける教授が多く、中には2点台の教授がいることを考えると、二人の評価は驚異的に高い。しかし、彼らも翌年にはハーバードを去らなければならなくなる。この辺が厳しいところで、いくら学生から人気があっても、自分の研究分野で論文をどんどん発表しないと、テニュアーが取れないのだ。推測するに、ドミンゲスに比べこれといった論文を書いていないハインズが、大学側から半ば追い出されたのではないだろうか(あるいはテニュアーが取れないとわかって、他大学へ移ることにした)。夫がハーバードを去るので、ドミンゲスもハーバードを去ったような気がする。二人がハーバードを去る直前に、構内のカフェテリアで二人に会って話をする機会があった。「あなた方のように学生から人気のある教授が去ってしまうのは残念だ。これからはどこで教えるのですか」と私が問いかけると、ハインズが「ハーバードもよかったけど、今度シカゴへ行くことになったよ」と、少し寂しそうな顔をして答えたのを覚えている。さらに「シカゴは寒いと聞きましたが」と私が聞くと、二人そろってこう答えた。「それは大丈夫。ボストンで慣れているから」
2004.11.29
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スタートレックとアメリカの戦争「スタートレック」の話は今日で最後にするつもりだが、今のブッシュのアメリカがやっているように、自国の利益のために他国を侵略することを我々が許してしまうと、おそらく遠からぬ未来において地球人が宇宙に進出したときに、同じようなことが起きてしまうだろう(あるいはもうすでに起きている)。おそらく「正義」の地球人は、「惑星連邦」の名の下に他の惑星を侵略し、その惑星の資源を搾取するだろう。そのときになって心ある者はやっと、かつてSFの世界で悪役を演じていた宇宙人が、実は地球人(とくにアメリカ白人)にほかならないことに気づくはずだ。およそスタートレックの世界では(もちろん他のSFの世界に比べればまともなほうだが)、他の惑星の人々を地球人よりも劣ったとまではいえないが、ずるがしこい生き物(フェレンギ)か、野蛮な生き物(クリンゴン)のように描いている。いわば地球人(白人)至上主義だ。ちょうど多くのアメリカ人が世界の他の民族(とくに有色人種=白人を有色人種と区別する考えもおかしいが)のことを理解せずに、その歴史や文化を無視・軽視して、武力や経済力を背景に自分たちの価値観や英語という言語を押し付けるのと同じである。アメリカ人の多くがアメリカを自由で正義の国であると信じているように、スタートレックの世界でも地球人は多くの場合「正義」の宇宙人だ。しかし、スタートレックに出てくる、ずるがしこくて醜い宇宙人こそ、地球人の特徴であることを知るべきだ。アメリカが今後、宇宙で展開するのであろう戦略防衛構想(SDI、通称スターウォーズ)にせよ、人工衛星を利用した恐怖の監視システムにせよ、アメリカのすることは、スピルバーグのSF映画「スターウォーズ」に出てくる「帝国」がやっていることに極めて似てきている。やがて「デス・スター」を建設して、帝国に刃向かう「テロリストたち」を焼き尽くす恐ろしい大量殺人システムができ上がるかもしれない。
2004.11.20
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ハーバード経済日誌(その20)スタートレックと人種問題ハーバードにいた頃、テレビでSFの「スタートレック」シリーズをよく見た。アメリカは再放送も頻繁にやっており、初代キャプテン、ジェームズ・カークのシリーズ、ジャン・ルック・ピカードの「ネクスト・ジェネレーション」シリーズ、宇宙ステーションを舞台にした「ディープスペース9」(黒人司令官ベンジャミン・シスコ)シリーズ、女性艦長キャサリン・ジェーンウェイの「ボイジャー」シリーズ、をすべて同時にやっていた。アメリカは潜在的な人種差別意識が根強く残っている国であるだけに、人種に対しては敏感だ。少数民族を、定員の一定割合入学させたり雇用したりしなければならないアファーマティブ・アクションがあるのはご存知だろう。そしてスタートレックも、お気づきのように、それぞれのシリーズの艦長に女性がいたり、黒人がいたり、クルーにも少数民族を入れたり、一応人種に配慮している。ただしアジア人やラテン系の艦長は登場しない。2001年から始まっている新シリーズ「エンタープライズ」の艦長も(私はまだ見たことがないが)、ホームページで見るかぎりは白人。カークとピカードは欧州系白人で、やはりアメリカは白人至上主義的な色彩が強い。まあ、カークとピカードの違いをしいて挙げるならば、髪の毛の不自由な人にも配慮したということか。「スタートレック」は実に1960年代に生まれた。当時冷戦・軍拡競争の真っ只中で、スタートレックでも地球を中心とする惑星連邦は、ロミュランやクリンゴンと一触即発の緊張関係を保っていた。やがて70年代になり、ニクソンの電撃的な中国訪問により当時ソ連とギクシャクしていた中国と国交を開くという外交上の大転換があった。クリンゴンが連邦に加わったのもこのころだ(もちろんタイムラグはある)。つまり、クリンゴンは中国、ロミュランはソ連にほかならない。スタートレックは現実の国際政治からヒントを得てシリーズが展開されてきたといえる。ではあの「抵抗は無駄だ」と言って次から次へと宇宙船や乗組員を吸収、宇宙市場を席巻していくボルグはどこの国か。おそらくヒントは画一的でロボットのような日本人をモチーフにしたのではないかと思っている。フェレンギもアメリカ人が描く日本人に似ている。90年代には貿易黒字国日本に対する脅威論が台頭していた。おそらく冷戦終結の話も探せば簡単に出てくるだろう。詳しくプロットと現実の国際政治を比較すれば、かなりパラレルなエピソードが発見できるはずだ。スタートレックについて詳しく知りたい方は、英語ではhttp://www.startrek.com/startrek/view/index.html日本語ではhttp://www.m-nomura.com/st/(スタートレック科学技術解説)http://www.usskyushu.com/trek.html(スタートレック総合サイト)などがお薦めです。
2004.11.18
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ハーバード経済日誌(その19)グッドニューズ! コムズカシイGDPの話は本日で一応終わりです。輸出(Exports)と輸入(Imports)これまで話した政府購入(G)、消費(C)、投資(I)はいわゆる内需(国内需要)の話だが、今回は外需にかかわる話だ。日本はかなり外需に依存しているとして、アメリカから「日本は内需を拡大しろ」といつも批判される。貿易大国ニッポンとしては痛いところだ。ただしその貿易大国の称号も、いずれは中国に譲ることになりそう。(X-Im)とは、輸出売上額から輸入支払額を引いた貿易収支のこと。輸出の増加はGDPにプラスに働き、輸入の増加はGDPにマイナスとなる。ということは、国内経済を成長させるためには、輸入制限や高率の関税で輸入を抑制し、輸出奨励金など補助金を使って輸出を拡大すればいい。しかし、各国が同じようなことをしたら、貿易戦争が世界中で起きる。世界貿易機関(WTO)では、そうした閉鎖的な貿易をしないよう政策調整や仲裁を行っている。補助金や輸入制限といった露骨な貿易黒字拡大策ではなく、間接的に貿易黒字を増やす方法もある。自国通貨の価値を下げればいいのだ。そうすれば自分たちが輸出する製品の値段が相対的に下がり、他国の製品に比べ価格面で有利になる(輸出競争力が増す)。通貨価値を下げるためには、中央銀行が貨幣供給量を増やす方法が手っ取り早い。お金が市場に余計に出回れば、カネの価値が相対的に下がるからだ。その貨幣供給量を増やすには、中央銀行が公開市場操作(open market operation)をする方法が効果的だ。中央銀行が市場から国債を買う(買いオペレーション、略して買いオペ)と、その代金が市場に出回るため流通している現金通貨量が増大する。逆に中央銀行が手持ちの国債を市場で売ると(いわゆる売りオペすると)その代金が中央銀行に入るため、市場に流通する現金通貨量が減る。すると、通貨価値が高くなる。こうして貨幣供給量が増大すると、自国の通貨価値は下がるが、すぐに貿易黒字が拡大するわけではない。為替レートが下落しても、最初のうちは輸出数量が増えず、逆にレートの下落で輸入金額が上昇するからだ。貿易の売買契約が三カ月後とか四ヵ月後のレートで決算する場合があり、必ずしも現時点でのレートで決算しないというタイムラグもこの現象の一因になっている。このように通貨価値の変動が、最初は貿易黒字の拡大や縮小とは金額的に逆の方向に動き、やがて本来動くべき方向へと変化していくことを、Jの字に似ていることからJカーブ効果と呼んでいる。さて、以上がGDPの話。難しいところもあったかもしれないけれど、この恒等式を知ってマクロ経済の記事を読めば、理解度が進むはずだ。実質GDPと名目GDPの話はまたの機会にします(なお、ここで記したGDPの説明や構成要素の定義などについては、ハーバード・ケネディスクールでマクロ経済の教科書として使ったGregory Mankiw(グレゴリー・マンキュー)の『Macroeconomics』を参照にしています。邦訳『マンキューマクロ経済学』(東洋経済新報社)も出ておりますので、興味のある方は読んでみてください。結構判りやすく書かれており、お薦めです)。
2004.11.17
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ハーバード経済日誌(その18)今日はGDPの恒等式のI=Investment(投資)の話。投資とは将来のために購入されるモノのこと。企業による新工場建設や新設備の購入のほか、個人による新築住宅の購入なども含まれる。厄介なのは、中古の家やマンションなどを買った場合は投資とはみなされないこと。もちろん買った人から見れば、中古のマンションであろうと投資だ。だが、売った人から見れば投資をやめることになり、相殺される。このため経済学者はこれを投資とは認めない。これに対し大工に頼まず自分で新しい家を建てたら、これは立派な投資。なぜなら新しい家という財産を創り出したからだ。同様に、市場に出回っている株を購入することも投資とはみなされない。ただし、企業が自社株を売り、その売却代金を工場建設資金にするのは立派な投資とみなす。消費刺激と同じ原理だが、投資を刺激するには、金利を下げることだ。単に借金返済の負担が軽くなるだけでなく、カネが借りやすくなり、もっと投資しようと思う人や企業が増えるからだ。では誰が、金利を下げてくれるのか。その主役が各国の中央銀行(日本の場合は日銀)。公定歩合(中央銀行が市中銀行に貸し出すときの金利)など政策金利を動かしたりして、市場金利に影響を与える。政策金利が下がれば、それだけ市中銀行はカネを借りやすくなり、したがって市中銀行が個人や企業に貸し出す金利も下がり、個人や企業もカネが借りやすくなる。すると、企業による新たな設備投資や個人の新築住宅購入が増加し経済が活性化するという仕組み。逆に政策金利が上がると、カネが借りづらくなり、経済活動は抑制される。 ただし、金利がきわめて低い状況では、利下げ効果は著しく低下することがある。一時期の日本がそうだったといわれているが、これを「流動性のわな」と呼ぶ。こうした金融政策はタイミングが勝敗の分かれ目となる。日本は80年代後半、長期間にわたり低金利を続けたため、バブル経済を生み出してしまった。今の低金利も必要以上に長く続けると、バブル経済が再来する?
2004.11.16
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ハーバード経済日誌(その17)消費=Consumption引き続きGDP:Y=G+C+I+(X-Im)の話。昨日はGの政府購入の話を書いたが、今日のテーマはCの消費。この場合の消費とは、一般家庭(いわゆる消費者)がモノやサービスを購入することをいう。では消費はどうやったら増えるのだろうか。その一つの方法が減税だ。減税は各家庭の可処分所得を増やす。家計に余裕が生まれれば、自動車や高級家電、ブランド物のバッグなど買いたかったものを買おうとするかもしれない。これに対して、減税は消費に結びつかないという学説もある。いま減税をしても、その分を補うために将来増税することが予想されるため、消費は拡大しないのではないかという考えだ(ロバート・バローの中立性命題)。確かに減税分がすべて消費に回るとはかぎらない。将来に備えて貯蓄に回る可能性も大きい。おそらく減税が消費拡大につながる場合というのは、将来に対する不安が払拭されたときだろう。景気が上向きはじめ、将来リストラもされず自分の給料も上がると感じられるようになったとき、減税の効果は上がるだろう。消費を増やすもう一つの方法が金利の引き下げだ。金利が低くなると、貯蓄しておいても利回りを期待できなくなる。銀行にお金を預けておいてもうまみがない(利子が少ない)とわかれば、モノを買おうとする人も増える。金利が下がれば、借金もしやすく(ローンも組みやすく)なり、車など高級品を買おうとする人が増えるわけだ。ただし、貯蓄や年金で暮らしている高齢者にとっては厳しい生活となってしまう。また、将来に対する不安が大きいとたとえ金利が下がっても消費は増えないだろう。日本で一時期(あるいは今も)、金利が低くても消費が伸びなかったのはこのためだ。
2004.11.15
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ハーバード経済日誌(その16)政府購入=Government Purchases(引き続きGDPについて)GDPは、政府購入(G=government purchases)、消費(C=consumption)、投資(Investment)、それに輸出(X=exports)から輸入(Im=imports)を引いた純輸出(net exports)の合計だと昨日書いたが、では政府購入とは何だろうか。それは簡単に言えば中央政府や地方政府による消費だ。政府がモノを買ったり、サービスに対する代価を払ったりすればそれは政府購入となる。政府が景気対策として道路を建設するなど公共事業を増やすのもこのためだ。どこかの大国のように武器を買うなど軍事支出を増やして自国の景気を向上させようとする不届きな国もある。しかも他国に一方的に戦争を仕掛けて破壊し、その国の復興事業まで自国(チェイニーらにとっては自社や自分)の利益にしてしまおうという、とてもまともな人間とは思えない冷酷・非情さ。放火殺人犯が自分で放火した家を消火してカネを取るようなものだ。私だったら、そんな国のモノやサービスは極力買わないようにする(たぶんに無理な部分はあるが、現在密かに「単独不買運動」を実施中)。さて景気対策のための政府の支出といっても、政府が何でも出費すればいいというものでもない。残念ながら政府から個人へと資金が移動するだけの社会保障や福祉関連支出は入らない。こうした支出は資金移動であって「購入」ではないからだ。また、政府支出を増やしすぎると、財政赤字という「負の遺産」も残す。その赤字を埋め合わせるために国債を大量に発行すると、利回りをよくしないと国債を買わなくなる。その結果、市場金利の上昇を招き、民間投資を抑制するという「クラウディングアウト(追い出し効果)」を引き起こしてしまう(金利上昇で投資資金の調達コストが上がるうえ、本来なら投資に向かうはずの資金が利回りのいい貯蓄に回ってしまうから)。景気対策としての政府支出に限界があるのはこのためだ。
2004.11.14
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ハーバード経済日誌(その15)GDPって何?昨日の日記で国内総生産(GDP)について触れたので、ついでにマクロ経済を学ぶうえで基本中の基本とされるGDPの恒等式について紹介しよう。ハーバードでもマクロ経済の授業を取れば、必ず最初の頃の授業で教わることになる。だが、ご安心を。それは極めて簡単だ。覚えておいて損はない。GDPとは、ある国の経済の規模を測る尺度の一つだ。その伸び率がわかれば景気の状態も知ることができる。GDPをYとすると、 Y=G+C+I+(X-Im)という恒等式が成り立つ。これがマクロ経済学の真髄だ。つまりその国の経済規模は、政府購入(G=government purchases)、消費(C=consumption)、投資(Investment)、それに輸出(X=exports)から輸入(Im=imports)を引いた純輸出の合計で決まるということだ。景気とは結局、このYが増えるかどうかの問題にすぎない。政府購入とは何かなど個々の項目やどうやったらYを増やすことができるかについては今後の日記で紹介していくが、まずこの単純化された等式さえ覚えればマクロ経済学など怖くない! ちなみに今日(13日)の朝日新聞朝刊11面の経済欄のGDPの記事1行目に、「国民総生産(GDP)」と書かれていますが、「国内総生産(GDP)」の誤りです。国民総生産はGNP。GNPとGDPの違いは、GDPがあくまでも日本国内の経済活動を対象にしているのに対して、GNPが日本の国籍を持つ人が海外でモノやサービスを「生産」した場合の金額も合わせて集計されること。経済記者も時々うっかり間違えるので、朝日新聞になり代わり、お詫び申し上げます。実は私も、昨日午前の日記で最初「国民総生産(GDP)」と書いてしまいました。夜にはちゃんと訂正しましたが・・・。
2004.11.13
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ハーバード経済日誌(その14)景気後退の定義 一九八〇年の大統領選で共和党のロナルド・レーガンと、民主党のジミー・カーターが争ったとき、カーターの経済政策を攻撃したレーガンが景気についての絶妙の定義を披露した。「景気後退とは、あなたの隣人が失業するとき。不況とは、あなた自身が失業するとき。そして景気回復とは、ジミー・カーターが失職するときだ」 こうした政治的ジョークはさておき、景気後退の定義は以外とあいまいな点が多い。ハーバードなどアメリカの大学では国内総生産(GDP)の伸びが四半期二期連続でマイナス成長の場合、景気後退とみなし、二年連続でGDPがマイナス成長の場合不況とみなす、などと教えているが、別に国際的に認められた定義があるわけではない。ただ分かっているのは、景気は、好況、景気後退、不況、景気回復を繰り返すということだ。 今日発表された日本の国内総生産(7~9月)は前期比で〇・一%増、年率換算で〇・三%増の伸びにとどまった。数字上はまだ好況といえるだろうが、これまで続いてきた好景気の波にもやや減速の兆しが見られるようになってきたことは確かだ。
2004.11.12
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ハーバード経済日誌(その13)ニクソンショック 「ニクソンメモ」などの著述で知られるハーバード大学ケネディ行政大学院のマービン・カルブ教授はリチャード・ニクソンに会ったときのことを次のように話していた。「ニクソンはすべて自分を中心に考える。自分の妻を紹介するときも、これは私の妻と言わず、これはニクソンの妻であると話すのだ。ニクソンの家、ニクソンの書斎、ニクソンの娘、ニクソンのホワイトハウス、ニクソンのアメリカ」ー。 アメリカ政治史上、ニクソン大統領ほど興味深い人物はいない。ウォーターゲート事件で一躍悪名を馳せたダーティーな政治家としての一面と、中国との国交回復、ヴェトナムからの地上軍撤退などの外交政策を進めた決断力ある政治家としての面、それに経済史的にも後に変動相場制への移行につながった金・ドル交換停止を決めた国際金融に大きくかかわった大統領としての面があり、研究対象として興味が尽きない。 史上初めて現職の大統領が辞任に追い込まれたウォーターゲート事件をここで紹介するのは省くが、経済史上に残る金・ドル交換停止については触れないわけにいかない。 一九七一年七月、ニクソン大統領が金・ドル交換停止と輸入課徴金の導入を発表した背景には、アメリカの競争力低下、国内インフレ、それに続くドルの価値下落があった。ブレトンウッズ会議で西側世界の盟主になったアメリカだが、やがてヨーロッパ諸国や日本が復興し、経済発展を遂げると、相対的にアメリカの競争力が低下した。さらに追い打ちをかけたのが、ケネディ、ジョンソン両政権時代にケインズ経済型の大型財政支出を実施したためインフレを招いたことだ。特にジョンソン大統領は、既にケネディ政権時代の減税や財政支出増加策によってアメリカの完全雇用状態といえる失業率四%を達成していたにもかかわらず、さらに大規模な福祉政策を実行したため社会保障費が急増、インフレに拍車を掛けた。一九六五年以降はヴェトナム戦争拡大で戦費が膨らみ、その歳出増大を補うための増税も議会の反対で大幅に遅れ、財政状況が悪化した。 競争力低下を背景にアメリカの貿易収支も黒字幅がどんどん縮小、一九七一年にはついに二十三億ドルの赤字に転落した。それ以前、アメリカは基軸通貨国としてドルの増発を実施したが、これがドルの信認喪失につながった。その矢先、アメリカのドル垂れ流しやヴェトナム政策を批判したフランスが手持ちのドルを金と交換したことから、アメリカからの金の流失が続き、一九六八年にはロンドン金市場が閉鎖されるなど金・ドル本位制が崩れ始めた。 ニクソン大統領はこうした窮状を脱するため、金・ドル交換停止と輸入課徴金の導入を決めた。これはブレトンウッズ体制の事実上の崩壊と保護主義貿易の台頭を意味していた。 まず、ブレトンウッズ体制の支柱ともいえる固定相場制が、この金・ドル交換停止とその後のスミソニアン合意でのドル切り下げなど為替調整により崩壊、新たな固定相場制(スミソニアン体制)を誕生させた。それでもアメリカの貿易収支は一向に改善されず、とうとう一九七三年二月、ドルが再切り下げされたのを契機にして、翌三月、主要通貨は一斉に変動相場制に移行した。 次に、ニクソン大統領の経済政策は、自国の経済利益保護を最優先したものだった。関税と貿易に関する一般協定(ガット)違反であった輸入課徴金賦課のほかに、一九七四年通商法は、ガットのセーフガード(緊急輸入制限)の発動条件を一方的に緩和してガット枠内で保護貿易措置をとれるようにしたものだった。特に対米貿易黒字が突出している日本に対しては、繊維、鉄鋼、テレビ、自動車、半導体、自動車部品などの分野で輸出自主規制や市場秩序維持協定などによる管理貿易的な政策がとられた。 こうしてニクソン大統領は、良い悪いは別にして、投機的資本移動により乱高下する変動相場制への道を開いただけでなく、各国が貿易シェアをめぐり戦略的な管理貿易をするという貿易摩擦、あるいは貿易戦争の口火を切ったのだ。
2004.11.11
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ハーバード経済日誌(その12)為替問題:固定相場制と変動相場制 固定相場制であれば、為替リスクは存在しない。将来、一万ドルが必要になったとしても、一ドル=一〇〇円であれば、手数料は別にして、いつでも日本円で一〇〇万円あれば十分だ。ところが変動相場制であれば、どうなるだろう。将来、一万ドルが必要になったとして、たとえば、一ドル=一〇〇円が将来、一ドル=一二〇円と円安になれば、一万ドルを得るために一二〇万円が必要になってしまう。逆に将来、一ドル=八〇円と円高になれば、八〇万円で一万ドルが手にはいるわけで、得した気持ちになるだろう。 では、何故リスクのない固定相場制から変動相場制へと移行したのか。答えは固定相場制が機能しなくなったためだ。 一九四四年のブレトンウッズ会議で決まった固定相場制は、他国との通貨の交換レートを維持するため、各国の中央銀行が通貨を売買する義務を負っていた。アメリカは外国政府及び公的機関が保有するドルについて、純金一トロイ・オンス=三五ドルで交換することを約束した。日本は一九五二年八月に加盟、一ドル=三六〇円に設定された。 さて、仮に日本が貿易黒字を出したとしよう。この場合、日本の製品が他の国で人気があり、たくさん売られているわけだから、円で代金を払う動きが強まり円高になりやすくなる。しかし、決められた交換レートを維持しなければならないので、日本は円の値上がりを防ぐため円を市場に放出し、替わりに外国通貨を買う羽目になる。問題は円を市場に放出すると、インフレになることだ。インフレを避けるために金利を上げれば、円高要因になってしまう。逆に、米国が貿易赤字を出したとしよう。この場合、先ほどと同様の理由で今度はドル安になりやすくなる。国内政策と矛盾する傾向が強いため、結局、固定相場制を維持することができなくなってしまうのだ。
2004.11.10
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ハーバード経済日誌(その11)ブレトンウッズ ハーバード大学のあるマサチューセッツ州から車で北に二時間ほど走ると、山に囲まれた森林地帯に出る。湖水が点在する静かなこの地は、カナダとの国境も近いニューハンプシャー州。その州にあるアメリカ東部で最も高いワシントン山の麓に、あの有名な保養地ブレトンウッズがある。ブレトンウッズは、一九四四年七月、戦後の国際経済体制の枠組みを決めるために開かれた会議の開催地だ。当時使われた、落ち着いたヨーロッパ風の赤い屋根のホテルは今でも、観光客が頻繁に訪れるリゾートの中心的なホテルとして使われている。ホテルの部屋もケインズ、ホワイトなど当時会議に出席した閣僚や代表者の名前が付いている。 さて、そのブレトンウッズの会議では、国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行、つまり世界銀行(IBRD)の誕生が決まった。しかし、それ以前に、この会議では、かつての盟主国イギリスと実質的に新しい盟主国となったアメリカの間で激しい主導権争いが演じられた。アメリカの代表は国務長官ホワイト。一方、イギリスの代表は経済学の巨星、ケインズ。 ホワイトの案は、金本位制を基本にしながら為替の安定を重視するもので、国際収支の不均衡は国内政策を通じて是正されるべきであるとした。そのため、国際収支赤字国に対する融資は小規模にとどめるよう主張した。貿易についても、多角的で無差別の自由貿易を求めた。 これに対しケインズ案は、かつて金本位制への復帰で金流出やデフレを引き起こした苦い経験から金本位制には基本的に反対の立場をとった。それよりも戦争で疲弊したイギリス経済の建て直しと成長促進を最重視し、国際収支調整のための低利の大規模融資を求めた。そのため、「バンコール」という国際通貨準備を用いた引き出し権を各国が持つ、大規模な国際清算同盟案を提案した。自由貿易にも懐疑的で、輸入数量制限や高関税といった差別的貿易政策を容認した。この対立の背景には、大戦後は当然、最大の債権国となるアメリカと、同様に債務国になるのが必至のイギリス、それぞれの思惑の違いがあった。なるべく多額の融資を諸外国から得ようとする債務国の代表イギリスとしては、アメリカなど債権国が国際準備をため込んだまま、債務国への投融資を渋り、同時に債務国に対し失業増大やデフレにつながる緊縮的な財政政策を押し付けるのではないかとの懸念を抱いていた。一方、債権国としてのアメリカは、過度の財政負担を避けるため、海外への投融資に条件をつけるなど何らかの歯止めを掛けたかった。しかし、そのアメリカ政府内部でも、財務省は雇用問題を中心とする各国の国内経済事情を重視するという点では、ケインズ案に賛成だった。 結局、国際経済の安定と国内雇用の安定を両立させるという観点から妥協点が見出された。ただ、実質的にはアメリカ側がケインズ案を退けた格好になった。このブレトンウッズの地で、アメリカを中心とする国際政治、経済秩序への足場が築かれたのだ。
2004.11.09
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ハーバード経済日誌(その10)消費は美徳か?現代のアメリカ(もちろんアメリカだけでなく日本も)では、政府は干渉せず、すべて市場に任せるべきだとするアダム・スミス型自由放任主義と、政府は積極的に経済に介入すべきだとするケインズ型経済管理主義が混在している。スミス型が、資本の蓄積が生産を向上させる原動力になるとして消費よりも節約を重んじたのに対し、ケインズ型は、消費(需要)こそが経済を引っ張っていく原動力になると主張した。もちろん、いずれもある条件下では正しい主張なので、別に優劣をつけるつもりは全くない。消費が美徳であると同時に、節約もまた美徳であるのだ。節約が美徳であるときがあると同様、消費が美徳のときがあるといった方がいいかもしれないが。アメリカは概して消費は美徳の世界だ。心の優しい私の友達は、太ったアメリカ人を見るたび(見つけるのはそう難しいことではない)に、アメリカの過消費社会の犠牲者であると気の毒がる。とにかくアメリカ人は消費する。雑誌などのメディアを使った大量な広告や刺激的なテレビのコマーシャル、それにどこからともなく大量に送られてくるダイレクトメールの山が消費者を誘惑する。食料品店やショッピングモールへ行けば、バーゲンセールのオンパレードだ。つい買い物袋が一杯になるほど買い漁ってしまう。買い物に疲れると今度は食欲が消費を刺激する。顎の骨がはずれそうなほど大きなハンバーガーをいくつもほおばり、百科事典のように分厚いステーキをペロリと平らげる。そして気が付けば、まるでベルトコンベアーで大量生産されたように、いつの間にか巨大なお腹を膨らませたアメリカ人が次から次へと誕生する。私の友人はさらに、日本をはじめアメリカに商品を輸出している国はそうした太ったアメリカ人に感謝すべきだと指摘する。なぜならこのアメリカの大量消費社会がなければ政界貿易は成り立たなかったからだ。 現在の大量消費の歴史は第二次世界大戦直後にまで遡る。大戦でヨーロッパ経済は疲弊し、唯一アメリカだけが国力に勢いがあった。アメリカは他国の経済を助けるため、必要な投資をするとともに、内需主導で他国から製品を買ってやらなければならなかった。アメリカは一九四四年のブレトンウッズ会議で主導権を握ると、マーシャルプランでヨーロッパに対する救済に乗り出す。それ以降、ほぼ間断なく経済援助や軍事援助を惜しまず世界経済を引っ張ってきた。そしてその牽引力となったのが、アメリカの大量消費社会だったのだ。そして、その社会は今でも健在で、アメリカ国内経済はもとより他国の経済をも押し上げている。 では、日本は何型の社会だろうか?戦後の復興期から高度成長期にかけては、節約を美徳とするスミス型社会が幅を利かせていた。資本社会の発展段階では、生産が需要に追いつかないため、常に生産力の増強を求められる。その生産力増強を図るには、節約による貯蓄、つまり資本の蓄積が不可欠だった。資本の蓄積は投資を生み、その結果、生産力が高まるからだ。しかし、高度成長が続き、資本主義社会が高度に発展した段階になると、生産が需要を追い越し、内需を拡大する必要が出てくると、消費は美徳だとする考えが台頭した。やがてその風潮はバブルを生み、アメリカ並みか、あるいはそれ以上の無秩序な消費時代に突入した。節約は美徳から消費は美徳へと一八〇度転換したわけだ。そしてひずみが生じ、バブルは崩壊した。 バブル崩壊で消費は美徳という風潮は消え去った。一方で、九〇年代の日本経済は停滞し、ケインズ型の大型財政支出をしなければならない状態が続いた。その最中、橋本首相は財政再建を優先し、九七年に消費税率を引き上げた。つまりスミス型の政策をとった。節約は美徳の政策だ。根拠は九六年の国内総生産がプラス成長だったからだが、これが大誤算だった。九六年がプラス成長でも、これはケインズ型経済対策で公共投資を中心に財政支出を大幅に増やした一時的な成長だったからだ。日本経済を真に支える消費マインドが回復しているわけではなかった。結果、消費税の増税はさらに消費を冷え込ませ、日本経済を本格的な不況に転落させてしまった。もちろん、財政再建は必要不可欠ではあるが、時期が悪かった。このため、不況から脱出するために再び、大規模な財政支出を迫られ、余計に財政を悪化させてしまった。経済を回復させるため、ケインズは財政均衡を崩してでも財政支出をすべきだとした。しかし、将来の財政状態を考えた場合、財政均衡を保つ必要がある。今日の日本経済にある矛盾は、景気テコ入れのため消費は美徳につながる内需拡大を求める一方で、人々が既に消費は美徳だとは考えなくなった点にある。太ったアメリカ人を見るたびに憐れむべきなのか、感謝していいのか、複雑な気持ちになるのは、このためだ。
2004.11.08
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ハーバード経済日誌(その9)ケインズ経済学経済史の中でスミス、リカード、マルサスなどの学者を古典派としているが、ジョン・メイナード・ケインズは別の学説を主唱、ケインズ経済学を確立した。見えざる手の力によって小さな政府を目指すのではなく、むしろ国家介入を支持、政府による積極的な景気刺激策を推奨した。ハーバード大学で経済学を教えていたトッド・G・バックホルツ教授はケインズ経済学を自動車の運転になぞらえた。すなわち、国の経済が弱まれば財政支出の増大や減税というアクセルを踏む。逆に過熱した場合は支出の削減、増税というブレーキを踏む。このように政府が主体となって経済運営をやっていくべきだとケインズは主張した。 ケインズの経済理論は一九二九年十月のニューヨーク株式市場の大暴落に端を発した世界大恐慌を脱出する過程で脚光を浴びた。古典派経済学では需要と供給が一致しないと、直ちに市場価格が変化して需要量と供給量が調整されるとした。これに対してケインズは、需要量が供給量を決定(有効需要の原理)するとした。供給が需要を上回っても労働者の賃金が下方に硬直的であるため賃金や価格が下がらない。そのために失業が生じる。その失業を減らすためには、生産物などに対する需要を高め、供給量(雇用)を増やす必要がある。ケインズは一九三三年、当時の米大統領フランクリン・D・ルーズベルトに手紙を書き、自由放任主義の経済を脱却し、巨額の公共支出計画を実施することが必要だと訴えた。それというのも、ルーズベルトが三三年に大統領になる以前の大統領は、「何もしない政府こそ最良の政府」(クーリッジ大統領=在任期間一九二三ー二九年)「神の恩寵により、アメリカ経済が再び回復しますように」(フーバー大統領=在任期間一九二九ー三三年)などと神の見えざる手の完全な信奉者だったからだ。アメリカの国民総生産(GNP)は二九年から三三年までの五年間で千三十一億ドルから約半分の五百五十六億ドルに下落、失業者は三三年には、三人に一人の割合に相当する約千四百万人に達した。ケインズの"提案"は功を奏した。ルーズベルト大統領はニュー・ディール政策を打ち上げた。米政府は失業対策としてテネシー渓谷開発法(TVA)、農業調整法(AAA)、全国産業復興法(NIRA)などを立法化、連邦政府の権限を拡大し積極的な財政支出策を実行した。それまでの市場の自立性を重視する自由放任主義から転換し、国家の積極的な経済管理を通じて市場を補完、有効需要を創出するという、この政策は成功し、ケインズ理論は広まっていった。ケインズの理論はルーズベルトの後も脈々とアメリカ政治の中に生き続けた。一九六〇年代のジョン・F・ケネディ、リンドン・ジョンソン両大統領の時代には、サミュエルソンらケインズ経済学派の学者がブレーンとして経済政策に影響を与え、積極的な財政出動によって失業率が低下、経済成長率も高い伸びを示した。かつてケネディ大統領は何故減税するのかと記者に聞かれて、「君は一〇一を取ったことはないのか?」と逆に聞き返したことがあったという。この一〇一とは、ハーバード大学で習う経済の基礎コースのことで、現在でもケネディ・スクール経済授業のコース番号になっている。 ケネディ暗殺後、六〇年代後半に入ると、ベトナム戦争による戦費拡大や社会福祉費の増大で財政支出が拡大し、ケインズ経済学は七〇年代には、インフレを招くとして勢いを失った。しかし、その理論は特に景気停滞期に力を発揮することから、今でもケインズ経済学はキラ星のごとく輝いている。
2004.11.07
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ハーバード経済日誌(その8)トマス・マルサスの悲観論とインターネットハーバード大学で授業を取る祭、聴講する学生がどれだけいるかということは、授業を取る決め手になりうる。もちろん多いか少ないかで授業を取るか取らないかの判断は人によって違う。他の学生の間に隠れて、宿題をあてられたり、発言を求められたりするのを避けようとする人は受講学生が多いクラスを取ろうとするだろう。逆に教授と討論をするのが好きで、宿題が大変だが密度の濃い授業を好む学生は少人数のクラスを取ろうとするだろう。 おそらく前者は、フランス革命の時代に「人口の増加は社会全体の幸福を増大させる」と主張したイギリスの思想家ウィリアム・ゴドウィンやフランスの政治学者マルキ・ド・コンドルセの思想の流れを汲み、後者は「人口の増加は世界的な貧困を招く」としたトマス・マルサスの思想の流れを汲むのかもしれない。 アダム・スミスの経済理論の流れを引き継いだ経済学者の中で、一番最初に人口問題を取り上げたのがトマス・マルサスだ。 学生の数が多いとどうなるか?教授の注意が学生全般に行き渡らず、授業の質が低下する。また、あまりに多くの学生がいることから学生同士のおしゃべりに夢中で授業に身が入らないこともあるだろう。つまり物理的に限られた教室には、それに見合った学生数があるわけだ。それを超えて過剰になると、効率面で学生数と授業のアンバランスが生じると考えてもおかしくない。 マルサスはそれと同様なことを人口と食料について考えた。しかも人口問題はもっと深刻だった。何故なら人口は、大学各学部の意図で制限できる学生数と違い、二倍、四倍、八倍、十六倍などとネズミ算式に増えていくのに対し、食料はせいぜい一,二,三,四,などと算術的に増えるだけだからだ。 マルサスはアメリカの人口に関するデータを使い、人口は二十五年ごとに二倍になると信じた。それによると、仮に現在一億人の人口が今から二十五年経つと二億人になり、二百年後には二百五十六億人に増える計算だ。これに対し食料は、そう簡単には増えない。仮に現在コメ百万トンの収穫があるとしよう。コメの収穫は二十五年ごとに百万トンしか増えないと考える。すると二百年後のコメの収穫は九百万トンとなる。人口一人当たりで計算すると、最初一人十キロの割り当てがあったのが、二百年後には一人〇・三五キロと約三〇分の一に激減してしまう。マルサスが悲観的になるのも無理はなかった。 しかし、心配ご無用。マルサスの推論には弱点がいくつもあった。一つは移民の多いアメリカの統計を使ったことだ。マルサスはうかつにも、移民の増加もアメリカで生まれた赤ん坊と同様に扱ってしまった。だから二十五年間で倍になったというのも、すべて出産により増えたのではなく、ヨーロッパからの移民によるところが多かった。二つ目にマルサスは産業革命や農業革命といった技術革新により生産が飛躍的に伸びることも見逃した。さらに、豊かな社会になるほど子供の数が少なくなることにも気付かなかった。統計上、工業化が始まり社会が発展段階にある間は、衛生状態の改善などで段々死亡率が低下し、見かけ上出生率が上がる。やがて都市化が進み、教育も充実してくると、自分の生活をエンジョイしようという気持ちが高まると同時に避妊が行き渡るようになり出生率が低下する。マルサスはこうした人口の変動を見通すことができなかった。さて現代は技術革新が進んだインターネットの時代だ。もはや一教室に何人学生が適当であるといった議論は必要ないかもしれない。教授が学生一人一人と家庭のコンピュータを使って授業を進めるインターネット型クラスも既に始まっているという。インターネット授業で学生の"人口問題"も克服できるようになったのだ。
2004.11.06
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ハーバード経済日誌(その7)デービッド・リカードの法則ハーバードといわず、どの大学でも貿易論を勉強すると必ず出てくるのは、デービッド・リカードの比較優位の法則だ。リカードは英国ロンドンに生まれ。ユダヤ人移民の証券業者の息子で、早くから独学で株や債券で儲けて一財産を築き上げた。二十七歳でアダム・スミスの「諸国民の富」を読んでからは、ロンドンの学界と政界に飛び込み、英国経済についての鋭い洞察とその理論を論文などとして発表するようになった。その理論の一つが比較優位の法則だ。 アダム・スミスが、ある種類の製品が自国より優れている場合はその国と貿易すべきで、あらゆる製品で自国より劣っている国とは貿易する必要がない、とした絶対優位の法則を打ち立てたのに対し、リカードはあらゆる製品で自国より劣っていても、その国と貿易をするべきだということを証明した。「生産費などの点で、ある国が他の国に比較して優位であることで、これにより国際分業が成立する」ということなのだが、もっと簡単に言うと、「何でもできる人(国)が何でもやってしまうのは有効ではない」ということだ。 分かりやすい例を挙げよう。ある隣接する二つの国、阿国と伊国があり、阿国の人は魚を一匹釣るのに一時間かかり、ラジオを一台つくるのにも二時間あれば事足りる。ところが、伊国の人は魚を一匹釣るのに一時間半かかる上、ラジオ一台つくるのも四時間半かかってしまう。魚もラジオも多いほど両国の生活は豊かになる。アダム・スミスの理論から言えば、阿国の方が伊国よりも絶対優位の立場にいるため、阿国の人は両方をやり、伊国と仕事を分け合う必要がないことになる。ところがリカードはそうは考えなかった。両国が仕事を分担した方がずっと経済効率がよく、生活は豊かになると主張したのだ。仮に両国が、魚釣りとラジオの製造に時間を均等に使ったとする。阿国の人は一日の労働時間十時間のうち五時間を魚釣りに、五時間をラジオの製造に使うと、一日で五匹の魚を釣り、二・五台のラジオをつくることができる。十日間ではそれを十倍して魚五十匹が釣れ、ラジオ二十五台ができる計算だ。伊国は一日の労働時間十八時間(伊国の人は仕事が好きで労働時間が長いことで知られている)のうち九時間を釣りに、九時間をラジオ製造に使うとすると、一日で六匹、十日で六十匹の魚を釣り、ラジオも一日で二台、十日で二十台製造することができる。合計すると、両国は十日間で百十匹の魚を釣り、四十五台のラジオをつくることができることになる。 それではリカードがいうように阿国、伊国それぞれがどちらかに特化した場合、どうなるだろうか。阿国が一日十時間をすべてラジオをつくることに専念し、伊国が一日十八時間をすべて魚釣りに専念したとしよう。十日間では阿国は五十台のラジオを製造することができ、伊国は百二十匹の魚を釣ることができる。つまり両国の人は全く同じ時間作業しても、特化した場合の方が魚で十匹、ラジオで五台も、多く釣ったり製造したりすることができるのだ。当然、両国が交易すれば人々の生活は豊かになる。では、阿国が魚釣りに、伊国がラジオ製造に特化した場合、どうなるのか。結果は、魚が百匹、ラジオが四十台と両国全体の漁獲・生産高が低下する。これは、阿国は漁業、ラジオ製造とも伊国に比べて優れているが、伊国が一匹の魚を釣るのに一台のラジオをつくる三分の一の時間でやってしまうのに対し、阿国は二分の一も時間を費やしてしまうからだ。逆に阿国は一台のラジオをつくるのに一匹の魚を捕る時間の二倍でやってしまうのに対して、伊国は三倍もかけてしまう。別の言い方をすると、阿国はラジオ一台をつくるのに魚二匹をあきらめればいいのに対して、伊国はラジオ一台つくるのに魚三匹も犠牲にしなければならない。ならば伊国は魚を捕った方が阿国に比べて犠牲が少ないということになる。つまり、阿国は伊国に対してラジオをつくることに関して、伊国は魚を釣ることに関して、それぞれ比較優位の立場にいる。その国が比較優位にある産品に特化すれば、生産高が向上するというのが比較優位の法則なのだ。 リカードはこの法則を用いて十九世紀初頭のイギリスとポルトガルの貿易の必要性を主唱した。ポルトガルは毛織物(ラシャ)とワイン両方においてイギリスよりも生産性が高いが、ポルトガルは毛織物よりもワインをイギリスより効率的に生産できる。このことからポルトガルはワインに、イギリスは毛織物に特化した方が経済効率がよくなることを説明した。リカードの国際分業論は、アダム・スミスの自由放任主義の主張を受け継ぎながらスミスの理論を修正・補強することによって自由貿易主義を推進、十九世紀後半のイギリスにおける貿易理論の主流となった。 ハーバード・ケネディスクールの学生生活でも、この法則が非常に活きてくる。授業ではグループで作業することが多いからだ。クラスでの発表でも、何かの宿題でも、四,五人のグループで担当を分担して行う。一人がコンピュータをつかったグラフづくりが得意ならその人がそれを担当、もう一人が文章を書くのが得意ならその人が文章を仕上げる。データ分析の得意の人はデータ集積から解析まで責任を持つといったようにだ。すると、とても一人ではできない分量の課題や宿題もあれよあれよといううちに出来上がってしまう。 もっとも問題点も大いにある。まず最初にグループとしてのテーマ・課題や方針を決めるのに"膨大な時間"がかかる上、いざ決まってからも、皆が皆、勤勉な学生ばかりではないからだ。自分の分担をやらない不届き者も必ず現れる。その場合、アダム・スミスの絶対優位の法則が懐かしくなってくる。
2004.11.05
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ハーバード経済日誌(番外)米大統領選誰が見ても「邪悪」なはずのブッシュ・チェイニー一味が再び選挙に勝った。今回はどのような汚い手を使ったのかは知らない。「頭蓋骨と骨」という同じ秘密結社の出身であるケリーが大統領になったとしても、たいした違いはなかったのかもしれない。ただ、ブッシュよりははるかにましなようにみえた。 アメリカの国民がブッシュを選んだということは、アメリカがあらためて地球を破壊する方向に突き進むということである。環境にせよ、貧しい人々にせよ、中東の人々の命にせよ、アジアの人々の命にせよ、アメリカという帝国を潤すために、地球の貴重な資源は次々と破壊、搾取されていくだろう。これに加担した日本の小泉一味も同じ穴の狢である。 ハーバード大学ケネディ行政大学院に在籍しハーバード経済日誌を書いていた1996~97年の間、私は親米派であった。ハーバード大学はリベラルな雰囲気に満ちていたし、私もアメリカの可能性を信じていた。自由で平等の民主的な国家であると信じていた。しかし、911テロ後のアメリカ国民の言動やメディアの報道をつぶさに見て私はあきれはて、嫌米・反米派へと転じた。アメリカ人の戦争を支持するあの熱狂は、オウムよりひどい狂信的なカルトにほかならなかった。実際、ブッシュの支持母体ともいえるキリスト教原理主義の実態を見ると、オウムよりも偏狭で、その洗脳の仕方は巧妙で規模が大きく、しかも極めて地球にとって危険・有害であることがよくわかった。ワシントンポスト、ニューズウィークはもとよりニューヨークタイムズといったメディアまでも戦争宣伝機関と化し、恐怖をあおり、戦争への道を突っ走った。かつてリンドン・ジョンソンの嘘を暴き、リチャード・ニクソンをウォーターゲート事件で失脚させ、ペンタゴンペーパーをすっぱ抜いたあのメディアは幻にすぎなかった。 その予兆はケネディ行政大学院時代にもあった。大学院にも下劣な学生はいた。黒人や中南米系、アジア系学生、同性愛者を排除しようとする誰かが「ザ・シチズン(市民)」という構内新聞に「ヘイトメール(嫌がらせの手紙)」を出したため、授業を一週間近くつぶしてクラスや全校集会で議論するという大問題が起きた。同級生には当時フロリダ州の下院議員であったキャサリン・ハリスがいた。2000年の大統領選でフロリダ州務長官として、可能な限りの不正を働き、民主党支持が多い黒人票を大量に葬り去った張本人である。ハーバードビジネススクールはブッシュがいたところでもある。私の寮はそのビジネススクールに隣接していたが、ビジネススクールの若い学生が羽目をはずして騒ぐ騒音にはずいぶん悩まされた。傍若無人のこうした若者が、アメリカビジネス界を担うリーダーとなっていくのだ。私はその後、ワシントンDCの保守的な大学院である高等国際問題研究大学院にも在籍したが、そこにはキリスト教原理主義に通じるような危険な思想の教授がいた。当時の学長は、今ではネオコンとして悪名高いあのポール・ウォルフォウィッツ(現国防副長官)だった。 アメリカの狂信カルトの連中は、これからも彼らが言う「善意の戦争」や「正義の戦争」を世界中に撒き散らしていくのだろう。さすが、正統な居住者であるインディアンを虐殺し、バッファローを絶滅寸前までただ殺しまくり、働きたくないという理由でアフリカ大陸から黒人を奴隷として連れてきた連中の子孫なだけはある。アメリカは最初から呪われていたのだ。これからは宇宙に進出して、同じ事を永遠に繰り返すつもりでいるのだろう。そのようなことはなんとしても阻止しなくてはならない。そのようなアメリカは消滅させるしかない。しかしその前に、邪悪な帝国に住む頭の悪い国民が一日も早く、狂信カルトの洗脳に気づくことを祈るばかりだ。
2004.11.04
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ハーバード経済日誌(その6)「授業」アダム・スミスの見えざる手(その一) アメリカ人と日本人を観察すると、一般的にアメリカ人は日本人ほど信号を守らない。アメリカ人は信号が赤でも、安全だと確認すればすたすたと歩いて歩道を渡ってしまう。車の運転でも、仮に信号が赤でも安全を確認して右折(日本の場合で言えば左折)することが許される場合が多い。これに対し日本人は、すべて杓子定規に信号に従う人が多いようだ。しかも驚いたことに、信号が青になると、安全も確認せずに横断歩道を渡ろうとする人がいる。ボストンでは冬、大雪になると雪の重みで木が倒れるなどして送電線が断たれ停電になることがある。停電で交差点の信号機が故障することもしばしばだ。日本でもしそんなことが起これば、おそらく利己心と利己心がぶつかり合って衝突や渋滞が起きるだろう。ところがボストンの人は交互に譲り合いながら信号機が点灯していない交差点でもスイスイと運転してしまう。つまり、さすが自由主義経済の国アメリカ、政府の規制(信号機)がなくとも、"見えざる手"の力が働いてうまくいってしまうのだ。 アメリカに来て戸惑うことの一つに、料金が一定でなく、時間が経つに連れどんどん変化することが挙げられる。 一番端的な例が航空運賃。需要が多いほど値上がりする。逆に需要が少ないと安売りだ。日本でも早めに予約すれば料金が安くなる制度があるが、アメリカの場合、それが徹底してる。たとえば、ワシントンDCとボストンを結ぶ航空運賃は早めに予約した場合、二百ドル程度で済むが、出発日の直前に買うと七百ドル近くすることがある。実に三・五倍の料金格差だ。しかも面白いことに、平日のフライトほど高くなる。日本では週末の方が需要が多いので料金が高くなると思いこみがちだが、アメリカでは週末を利用した便の方が安くなるのだ。これは平日の利用客がビジネス客が多いことに起因している。というのも、ビジネス客であれば、会社が航空運賃を払うため、料金を高くしても比較的利用客の抵抗が少ないからだ。また、旅行客と違って、商売上どうしても、いついつまでにどこどこへ行かなければならないため、運賃が高くついてもチケットを買わざるを得ない場合が多いのだ。高い料金を払ってでも利用しようという需要があるのだから、航空会社は運賃を高く設定する。 全米プロバスケット(NBA)の試合チケットも同様だ。シカゴ・ブルズのマイケル・ジョーダンが出る試合は三十ドルのチケットも二百ドルに上昇するのが常だった。しかも高値で売ってもそれは違法ではない。そういうチケット市場がちゃんとできている。 日本では法律違反となるダフ屋が米国では半ば公認となっているのも、実はこうした需要と供給のバランスを米国が重視しているからにほかならない。つまりそれだけの金を払う人がいるのだから、その値段で売ればいいという自由市場の発想だ。そしてこの自由市場の発想こそ、かの有名な経済学者アダム・スミスが主張した"神の見えざる手"から来ている。 この見えざる手とは何なのか。自由競争市場において、生産者(供給者)は見えざる手の力によって消費者(需要者)の望む量を消費者が評価する価格で売ることにより需要と供給を調和させる。その根底にある思想は、政府は産業への保護や干渉を極力少なくし小さい政府を目指す一方で個々人が利己的利益の増大を追求すれば、社会全体が繁栄するというものだ。そんなに自由放任にしたら大混乱になるのではないかと心配になるが、天文学を学んだこともあるアダム・スミスは、惑星の一つ一つが勝手な軌道を描いても太陽系全体では調和がとれているのと同様に、市場の調和も保つことが可能であると主張した。 ハーバード・ケネディスクールで学ぶ経済学もやはり、この見えざる手による需要と供給のバランスを理解することから始まる。競争市場では、価格は与えられたものとして、消費者は予算制約のもとで効用が最大になるような行動をとり、生産者は技術的な制約のもとで利潤を最大にするよう行動する。こうした利己的な行動により実現した均衡は、他の誰の効用をも下げずに誰かの効用を高めるような余地のない状態(パレート効率)を作り出すのだ。 おそらく日本とアメリカ経済の違いはここにある。政府の規制をなるべく排し市場の見えざる手に委ねようとするアダム・スミスの自由市場精神がアメリカに生きているのに対して、日本では政府が市場に介入したがるケースが多いようだ。もちろん自由市場の精神とは自己責任の世界でもある。たとえ日本では信号のせいにするケースであっても、信号がなくても事故を起こさないようにするのは運転者の責任だ。もちろん、信号はあった方がいいのは確かだが、信号機を盲信すると痛い目にあうということも覚えておくといいだろう。 もっとも自由市場精神ゆえに痛い目に遭うこともある。痛い目に遭うと言うより足下を見られると言った方が適切かもしれない。せっぱ詰まっていたのでボストンーワシントンDC間の航空チケット代として七百ドル払ったのも、また、マイケル・ジョーダンがワシントンDCでプレーをするおそらく最後の試合だからという理由で三十ドルのチケットを二百ドルで買ったのも、すべて私の実際の体験に基づいている。
2004.11.03
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ハーバード経済日誌(その5)ハーバード大教授の給料は?ハーバード大学の教授となれば高給取りに違いないと学生なら誰もが思うに違いない。それというのも、授業料が飛び抜けて高いからだ。年間の授業料は私が在席した一九九六年度の時点で既に二万ドルを超えていた。ケネディ・スクールだけでも四、五百人の学生がいるのだから、単純計算で八百万ドルから千万ドル(約十億円)の授業料収入がある。教授の数は約四〇~五0人。それから類推して「年収二十万ドルはもらっているはずだ」「いやもっともらっている」など私の友達の間でも話題になったが、誰も確証を持っているわけではない。 誰が猫に鈴を付けるか。あまり好まれる質問ではないことは承知しなからも、あるパーティーの席上、某教授に給料のことを聞いてみた。その教授は「そうだな。クリントンより少なくて、ヒラリーよりも多いかな」とのたまった。つまり、当時大統領として数十万ドルの年収があるクリントンほどもらっていないが、大統領夫人として無給のヒラリーよりはもらっているよ、というアメリカ人がよく使うジョークがその教授の返答だった。しかし、ハーバードで教えている教授、準教授、助教授でも実は、テニュアーを持っているかどうかで給料にも大きな差が出てしまう。一説によると、テニュアーを持たない助教授クラスで、持っているクラス数で違うが、五万ドルー八万ドルの年収だという。ところがテニュアーを取った教授になると、その額が二十万ー三十万ドルに跳ね上がる。だから各助教授、準教授ともにテニュアーを取ろうと必至になる。 ではどうやったらテニュアーを取れるのか?まず、学生に人気があることが挙げられる。その上で、授業を持ちながらも、自分の研究を進め、優秀な論文を書き続けることだ。 学生の間で人気があるかどうかの判断材料だが、最近では日本の大学でも導入しているところが出てきたが、ハーバードには学生が教授を評価するシステムが定着している。学生は学期末になると、自分たちの取ったコースを振り返って評価を下す。コースのテーマははっきりしていたかとか、教授の教え方は適切だったか、分かりやすかったかとか、宿題の量が多すぎたかどうかなどを五段階で細かく評価する。その結果は公表され、一冊の「学生のコース評価」という冊子になる。いわば教授に対する通信簿だ。 たとえば、私が取ったジム・ハインズ 教授の「応用経済分析一〇一」というコースは非常に人気が高く、コースの総合評価は五が最高の五段階評価で四・六七。そのコースを取った学生七十二人のうち実に四十九人が最高の五の評価を付けている。そのほかレクチャーの有効性やクラス討論の質といった項目もそれぞれ四・六九、四・三三とまずまずの評価。ハインズ 教授自身に対する評価も全体的に四・八七と高く、事前準備の程度四・八六、学生の思考を刺激する程度四・六九などと優れた評価になっている。もちろん一回きりの評価で教授が首になったり、コースを降ろされることはまずない。"通信簿"をもらった教授は、その評価をもとに自分で授業を改善することが要求されるのだ。しかし、いつまで経っても改善されない場合は大学の方からその教授に三下り半を突きつけることもあるという。学生の間で人気があるだけでは、実はテニュアーを取るのに十分ではない。自分の研究発表をさぼっている教授はまずテニュアーをとるのは無理だろう。学生に人気があってもハーバードを去らなければならない教授はたくさんいる。それでもハーバードで教えた経験があれば、別の大学でテニュアーを取ることも容易に予想される。それにハーバード大学で教えている教授レベルになると、おそらく給料を気にする必要はない。一冊本を書けば、印税が続々と入ってくる。特に自分の授業で自分の本を使えば効果てきめんだ。意地悪い見方をすれば、きっと学生の数がお金に見えてくることもあるに違いないなどと思ってしまう。
2004.11.02
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ハーバード経済日誌 その4ハーバードの教授法(その2) ハーバードの授業でよく驚かされるのは、米国人学生の討論のうまさだ。もちろん全員が全員うまいわけではないが、とにかくだれもかれもよくしゃべる。「自己主張をしない人は見向きもされない」というアメリカ文化を反映しているのか、中には、人の議論などお構いなしに自分の持論だけを延々としゃべり続ける学生もいる。それぞれがかってに目立とうと自己主張するから大変だ。ハーバードで教え方に定評のある教授がよくコンサートの名指揮者にたとえられるのも、自己主張の強い「トランペット奏者」や「バイオリニスト」をうまくコントロールし、討論にある種の調和をもたらす能力があるからだ。ケネディー行政大学院(ケネディ・スクール)でいえば、国際開発のコースを教えているメリリィー・グリンデルなどが名指揮者といえよう。 こうした「討論に基づく学習」は、ハーバード教育の特徴のひとつに挙げられる。それはひとえに同教育が討論から多種多様な考えを学ぶことがいかに大切かを主眼においているからだ。アメリカは人種のるつぼである。その多様性を認めることなしに、国は成り立たない。 ハーバードはまた、世界中から学生が集まってくる。その文化や慣習から、ものの考え方・見方、論理の展開、暮らし方まで千差万別であるところが面白い。
2004.11.01
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ハーバード経済日誌 (その3)「新学期」ハーバードの教授法(その1) ハーバード、エールなど米国東部の伝統ある名門私立大学八校を、ツタのからんだ古い伝統ある校舎の意から「アイビーカッレジ」、そのスポーツ連盟を「アイビーリーグ」という。ただ一口にアイビーカレッジといっても、その校風や教授法は全く異なるというのがもっぱらの評判だ。私はハーバードの校風しか分からないが、次のようなたとえ話がある。プリンストンでは、教授たちは君たち学生にどこにスイミングプールがあり、どうやって泳ぐかを教えてくれる。エールでは、君たちをプールに突き落とし、君たちが泳ぐのを監視するだろう。ではハーバードではどうか。教授たちは君たちが泳ごうが沈もうが全く気にしないのさ。 ちょっと極端な話のような気がするが、それでも少なくともハーバードの校風はよくたとえられている。当然のことだが、勉強するしないはすべて自分の責任である。クラスの討論に参加するしないも個々人の自発性に委ねられる。ただコースによっては、討論に参加するクラスパーティシペーションがそのまま成績になるような授業もあるから、うかうかしていられない。しかも討論に参加するには大量なリーディングの宿題をこなさなくてはならない。 もっとも最近は自由放任の校風も少し変わってきたのかもしれない。又聞きなので確証のある話ではないが、一昔前、ハーバードビジネススクールであまりにも厳しい勉強と学生間の競争で自殺者が出たため、果たして学生を死に追い詰めるようなシステムを教育といえるのかという議論が起き、もっと学生の面倒を見るようにした、という話だ。つまり、沈みそうな人は助けよう、ということだろう。 私の在籍したケネディー行政大学院も心のケアーを含めた学生のためのサービスは充実していた。たとえば、単位を落として落第しそうな学生がいると分かると、カウンセラーが担当の教授にその学生が何をすれば単位を落とさずにすむか、ある程度、掛け合ってくれるそうだ。年に何人かはそのお世話になるらしい。幸いにも私はカウンセラーのお世話にならずにすんだが、リーディングの宿題やペーパーの作成に埋もれ、おぼれかかったことが一度ならずあったことは事実だ。
2004.10.31
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ハーバード経済日誌 その2エール大学 vs ハーバード大学 審判が試合終了の合図をすると、大歓声とともに観客がスタンドからグランドになだれ込む。もみくちゃになる深紅色のジャージーを着た選手たち。グランドのあちこちで「勝ったぞ」の声ー。まるでサッカーのワールドカップで優勝したような騒ぎだが、これは毎年11月恒例のハーバード大学とエール大学との間で行われるアメリカンフットボールの試合終了場面だ。日本でいえば野球の早慶戦みたいなものだろうか、学生だけでなく普段はスポーツなどとは縁遠いような教授もスタジアムに駆けつけて熱狂する。ハーバードからみれば「あの宿敵エールをやっつけろ」というわけだ。それほど両校は強いライバル意識を持っている。 このライバル意識はもちろんスポーツに限ったことではない。ハーバードで生活しているとむしろ日常会話の端々にも現れるから面白い。NBCやCBSの元記者でハーバード大学教授のマービン・カルブが授業中、ある人物の話になったときに「あいつはあの下の方(Down there)の出身だからな」と床の方をさして軽蔑したように言い放ったことがあった。我々がきょとんとしていると、間髪置かず「エール出身だよ。あの下の方のな」と再び床を指さした。確かにマサチューセッツ州にあるハーバードからみればコネチカット州のエール大学は下(南)の方ということになるのだが、わざわざ「下」を強調するところが、ライバル意識をよく表している。 エールではハーバードのことを何と言っているのか。まさか上の方(Up there)と言わないことだけは確かだが、その一端を知る機会が間もなく訪れた。ハーバードを卒業後、ワシントンDCのあるパーティーで自己紹介をしたところ、一人の米国人が私に歩み寄って来るなり「お前はハーバードを出たのか。あんなひどい大学でよく勉強できたな。信じられない」とハーバード批判を始めた。私が呆気にとられていると、その米国人は「実は俺はエールの出身なんだ」と打ち明けた。 もちろん誤解されることの無いように念を押すが、両校がお互い悪口を言うのは、ライバルと認めていることの裏返しのようなもので悪意や本当の軽蔑があるわけではない。お互い高いレベルで競い合い、切磋琢磨していこうとの意識がある。ところで、冒頭の私が見た試合、ハーバードが追撃するエールを振り切り26対21で辛勝した。この結果、ハーバードはアイビーリーグ8校中7位の2勝5敗、エールは最下位の1勝6敗となった。 何のことはない。ことスポーツに関しては、かなり低レベルの競り合いといえそうだ。
2004.10.30
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ハーバード経済日誌(その一)「冬」暗い感謝祭 ハーバードの学生生活は素晴らしい。おそらく経験しただれもが「もう一度来たい」と思うのではないか、ただしもう一つ付け加えるとしたら「あの冬だけはごめんだけどね」となるかもしれない。確かにボストンの冬は厳しい。その冬の厳しさと、勉強の厳しさが重なって精神的に参ることもある。ルービン米財務長官(当時)が九六年冬、ハーバードに講演に来たときも「ここに来ると学生時代の冬の重苦しさ、特に11月末のサンクスギビング(感謝祭)の時のペーパーの締め切りに追われた、ずっしりとした暗い気持ちを思い出すよ」と言って、学生たちを笑わせた。それほどハーバードの冬は学生にとって寒さと勉強の忙しさが身にこたえる。そういう暗い気持ちを吹き飛ばしてくれるのが、友人のジョークだ。感謝祭の休暇が終わり、私が宿題や期末試験の準備に忙殺されカフェテラスで落ち込んで(少なくとも周りからはそう見えたらしい)いると、国連から一年間ハーバード大学に勉強に来ているシンガポールのクラスメートがやって来て、「元気を出せよ」とばかりにとっておきのジョークを披露してくれた。以下、そのジョークを紹介する。(ジョーク1) ハーバードでも非常に有名なX教授がいて、学生たちは皆、その名物教授の授業を受けたがる。ところがそのX教授は気難しいのが難点で、ちょっとでも宿題を忘れていたり、予習を十分にやっていない学生がいると、授業を打ちきりにするという評判だ。学生たちはX教授にその素晴らしい授業をちゃんとやってもらえるか気が気でない。X教授の授業の初日、もちろん学生たちは大量の宿題や予習を授業の前までに必死に終わらせていた。 張りつめた雰囲気の中、X教授が教室に入ってきた。X教授はいきなり学生に聞いた。 「皆、今日の授業のための予習をちゃんとやってきたかな?」 「もちろんやってきました。教授」と学生たちは即座に答えた。 「すると今日授業でやることはクラスの全員が理解したと考えてよろしいかな?」とX教授。 「そうです。ちゃんと予習をやっていますのでクラスの全員が理解しています」と学生たちは声をそろえて答えた。 それを聞いたX教授は「では私が教える必要はない」と言ってさっさと教室から出て行ってしまった。二日後、再びX教授の授業の日がやってきた。気難しいX教授が教室に入って来るや、学生たちに緊張が走った。案の定、X教授は「皆ちゃんと予習をやって理解したかな?」と聞いてきた。 前回、皆が理解したと答えてしまったため授業を受けられなかった学生たちは今度は「いいえ教授、予習はしましたが、よく理解できませんでした」と答えた。それを聞いたX教授は急に不機嫌になり「予習をしても分からないようなら、君たちには私の授業を受ける資格がない」と言って、怒って教室を出て行ってしまった。 三回目の授業の日がやってきた。X教授は同じ質問をした。何とかX教授に授業をしてもらいたい学生たちは策略を巡らし、クラスの半分が理解したが、残りの半分は理解できなかったと答えた。 するとX教授は次のように言い残して教室を出て行った。 「ではクラスの半分が残りの半分に教えるように」(ジョーク2)試験前の最後の授業。学生たちは何とか試験の傾向をつかまえようと目が血走り、Y教授の言うことを一言一句漏らすまいと意気込んでいた。そこへ意地の悪いY教授がニコニコしながらやって来て、みんなにこう告げた。 「よい話と悪い話がある。よい話とは今日で授業も終わりで、もう君たちはつらい予習や宿題をしなくても済むということだ」 Y教授はここで一呼吸置いて続けた。 「悪い話とは、みなさんには悪いが今まで教えたことの半分は間違いだったことだ」 驚き、ざわめき立つ学生を後目にY教授はさらに続けた。 「もっと悪いことに、どの半分が間違っているか分からないのだ。では、試験での健闘を祈る」
2004.10.29
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