ホタテバーガー☆ミ
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反射炉のことは大体わかったとして。(ホントカ?)英龍サンが凄いのはこれだけじゃない。大体この江川家は清和源氏の流れを汲み宇野姓を名乗っていた。6代親治が保元の乱(1156年)に崇徳上皇側について参戦して敗れ、その孫親信が従者13人とともに落ち延びて伊豆のこの地に定住したと伝わる。この13人の子孫は現在も江川家住宅周辺の金谷地区に居住しているという。その後鎌倉時代、室町時代と伊豆の豪族として地盤を固め15世紀中ごろに姓を江川と改めた。1493年の北条早雲の伊豆進出にあたっては23代英住が土地を提供して韮山城を築城させ、その後5代に渡って北条氏の幕僚となった。28代英長は徳川家康に使え伊豆が幕府の直轄地になると代官としてこの地を統治。以後明治維新にいたるまで代々幕府の代官を世襲して勤めた。なお太郎左衛門は当主の通称。幕末の36代太郎左衛門英龍は文化人、開明思想家、革新的技術者として有名。英龍は蘭学を修め渡辺崋山や高野長英らと交わり、外国の社会事情や国際情勢を知り、日本のおかれた立場を憂慮した。沿岸防備の建議、農兵制度(近代的な兵制)の建議と農兵訓練、西洋砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、東京湾のお台場(沿岸防備のための砲台)や韮山の反射炉(銃砲鋳造の為の溶鉱炉)築造に関する提案と実行、兵糧としてのパンの最初の製造、戸田村での最初の西洋式造船の監督、韮山での塾における教育など数え上げたらきりがないほど極めて多くのことを行っている。また代官として民政に心を配り、支配地は伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模、伊豆諸島に及び、領民から「世直し江川大明神」と敬われていた。広い地域に対して行政として初めて種痘を行い、天然痘の流行から領民を守った。一方では多彩な余技を持つ文化人で多くの書画、詩作、工芸品を残している。また質素倹約でも知られ普段は木綿の着物をまとい、家の畳は擦り切れるまで使ったという。日野もその支配下にあり佐藤彦五郎日記に江戸表の代官屋敷に行き来している様子もかなり登場します。この代官は外交にも優れ、嘉永2年(1849)相模の松和崎の沖から相模湾を測量して下田に入りなおも勝手に測量を始めたイギリス軍艦マリーナ号の艦長マセソン中佐と交渉、これを平和裏に退去させた。このとき高島流の揃いの軍服を着て整然と動く最新鋭雷管式の銃を装備した歩兵部隊(農兵)を率い、外国人相手に一歩も引かない英龍にマセソン中佐も感じるところがあったと見えてあっさりと退去勧告を受け入れたようだ。英龍の農兵制は日野にも受け継がれ佐藤彦五郎の春日隊を生み出したのだ。そんなわけで英龍は幕府からも高い評価を得て、その海防論・農兵論は真剣に検討され始めたのである。余談だがこの英龍サン、知る人ぞ知る「パンの祖」。もともと長崎で高島秋帆一門が軍用携帯食として乾パンを作っていたのである。天保13年(1842)4月、長崎のパン職人で秋帆の門人でもある作太郎を韮山に呼びパン窯を作って乾パンの製造にあたらせた。ってことは幕末には結構「パン」って食されていたのね。そんな英龍サンさすがに人脈がスゴイ。家臣団…松岡正平 柏木総蔵 桧山金平 松岡磐吉(蟠龍丸の艦長) 長沢鋼吉 鈴藤勇次郎 肥田浜五郎 小駒宗太胤長 中浜万次郎 石井修三 山田熊蔵 谷田部卿雲政治…徳川斉昭(水戸藩主・慶喜父) 水野忠邦(老中) 阿部正弘(老中) 板倉勝明(上野安中藩主)外交…林大学 川路聖謨(としあきら・旗本勘定奉行) 竹内下野守保徳(勘定奉行・外国奉行)海防…遠藤但馬守 本田越中守 間宮林蔵 鳥居耀蔵お台場…天野開蔵 大場久八(どちらも甲州・伊豆の親分侠客)砲術…高島秋帆 松平河内守 大槻磐渓(両雄の碑撰者) 佐久間象山(松代藩士) 大鳥圭介(幕臣) 黒田清隆(薩摩藩士)造船…肥田七左衛門 一ノ瀬大蔵 反射炉…八田兵助 民生…羽倉外記(伊豆七島代官) 遠山左衛門尉影元(旗本・江戸町奉行) 二宮金次郎 佐藤信渕蘭学…杉田玄白 幡崎鼎 渡辺崋山 鈴木春山 伊東玄朴 高野長英漢詩・書…市川米庵 林鶴梁 藤田東湖 頼杏坪(頼山陽の叔父)俳諧…大梅居孤山 大白堂弧月 自然堂鳳朗 絵画…谷文晁 椿椿山 立原杏所 剣術…岡田十松 斉藤弥九郎(神道無念流「練兵館」)種痘…肥田春安 青木得庵(本田覚庵の叔父)…凄すぎこれらを踏まえていざ伊豆へ
2008年03月08日
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