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ヨルダンからシリアに入りました。シリアは、玄武岩の畑が広がっています。火山灰で土地がこえていたので、ローマの穀物庫でした。野菜等が豊富に取れます。 ボスラギリシャ・紀元前1世紀にはナバテア人の北の首都。ローマ時代にローマ風の町並みに変わって、シルクロードの中継点となりました。ビザンチン時代には、大聖堂が建てられて、シリアで最初のモスクも建てられました。 ローマ劇場1947年から、発掘・修復されました。2世紀に造られて、ローマ時代の円形劇場では最も保存状態が良く残っています。15000人を収容することができて、15箇所も出入り口があるので大きな劇場なのに25分で外にでることができるように造られています。12世紀のアイユーブ朝の時代、サラディンの弟によって要塞化されました。十字軍もこの要塞を落とすことはできませんでした。ステージは45mもあります。 ステージから美しい声が・・・ベルギーから着た女性の美しい歌声でした ボスラの町並み 今でも遺跡に住んでいる人がいます。 これから、ダマスカスに向かいます。 途中、ゴラン高原の夕日
2008年12月25日
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「グリーン・バレー」というヨルダンで人気のレストランで昼食焼きたてのホブスが出てきました。ここのホブスもおいしかったけどサナアのホブスの方が美味しかったな~ ↓の写真の上の看板の人物がヨルダンの王様いろんな所に王様の写真がありました。 初めての水たばこ お兄さんは、鼻から煙をだしておいしそうに吸っていましたが主人は、「ゲホゲホ」大笑いされてしまいました
2008年12月18日
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ジェラシュ遺跡に行きました。古代から集落があり、ギリシャ・ローマ・ビザンチンの時代などに栄えて、特にローマ時代は重要性が高くデカポリス(10の町)の1つでした。749年の地震で、多くが崩れてしまっています。ハドリアヌスの門129年にハドリアヌス帝が訪れたことを記念して建てられました。 オリーブ絞りオリーブを絞るために使われた物で穴に棒を入れて、まわします。当時の模型 劇場音楽・劇などに使われました。 偉い人の指定席α・βなどが書いてあります。 発掘中現在の遺跡は、ローマ時代の物だけどその下には、その前の時代の物があります。
2008年12月11日
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早朝、ホテルの周りをお散歩しました。高級住宅街だけあって、大きな家が並んでいました。 道がボコボコの所もありますが・・・保育園? ゴミを出しに来たおじいさんヨルダンも燃えるゴミの日とかプラスチックの日とかあるのかな?
2008年12月04日
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アンマンでは、「メリディアンホテル」に泊まりました。ジムもプールもあって、快適なホテル。結婚式の車 こういう人達をみると、アラブにいるんだ~と実感します。 ホテルのレストラン ロビーの生演奏 演奏を聴きながらのウイスキー お部屋の中 ホテルのお兄さん?おじさん?
2008年11月28日
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主人が「万里の長城を見たい!」と言うので明日から、北京に行ってきます。妊娠7ヶ月なので、ちょっと心配です。それでは、行ってまいります
2008年11月21日
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アンマンで泊まったホテルは、メリディアン。その近くにセーフウェイ(スーパー)があるので、行ってみました。シメサニにあるので、お金持ちがたくさんいるのかな? セーフウェイの前 店内は、結構広くて、死海グッズもたくさん チーズも種類が豊富 スパイスもたくさん レジのアルバイトの若いお兄さん(中学生?)ドルしかないから、ドルだといくら?って聞くと「15ドルでいいよ。」って。でも、あきらかに15ドル超えてると思うんだけど・・・「本当にいいの」「いいよ。ノープロブレム」そこへ、偉い人がやって来て・・・「36ドル」やっぱり、違ってたんだ・・・
2008年11月14日
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紀元前2世紀にVIPのために造られた円形劇場 オルケストラの中心のマンホール動物や人の血を流すための穴です 円形劇場の両サイドには民俗博物館と民族伝統博物館があります。
2008年11月06日
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アンマンは、ヨルダンの首都 人口は200万人。有史以前から人が住んでいました。デカポリスの1つで、「ラバト・アンモン」と呼ばれていましたがギリシャ時代からは、「フィラデルフィア」と呼ばれました。ヘラクレス神殿1世紀、町の守り神として建てられました。 隣は、大きなコンサートが開かれるので、その準備がされていました。 ヘラクレス神殿からは、ローマ劇場が見えました。(後で、行きます) 世界で2番目に大きい国旗柱は96m 1番大きい旗は、UAEにあります。 国立考古学博物館とても小さい博物館でした。 ここには、プラスター頭骨・死海写本(クムラン発見)・メシヤストーンナバテア時代の土器などがありました。 世界で1番古い人物像 アイン・ガザルの胸像紀元前6500年
2008年10月30日
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海抜0m地点ここの周りは、軍事施設なのでこの看板だけ写真を撮りました。周りの景色は撮ってはいけません。 死海南北60km 幅17km 深さ450m(南部)オスマントルコ時代の海抜は、-380m今は-410mで、どんどん水位が低くなっています。強い日差しのため、水分は蒸発して塩分濃度は25~30%。生物は生きられません。死海の水と泥は、ミネラル分を含むので美容にいいそうです。だからか、死海の水はしっとり(ねっとり?)しているような感じがしました。泥パックをしている人達 浮いている私ちょっと怖くて、手を上にあげられませんでした
2008年10月26日
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アイン・ムーサ(モーゼの泉)モーゼが40年荒野をさまよっていた時、民の為にここの岩を杖でつついて水を出した所。そういう泉は、55箇所くらいあるそうです。このあたり(ワディ・ムーサ)には、12箇所ほど。今もワディ・ムーサの人々の生活水になっています。 ここが、泉。 アイン・ムーサの前には、小さい滝がありました。別のモーゼの泉から流れているのかな?これかた、死海へ向かいます。
2008年10月23日
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頂上まで登ったので、来た道を戻りました。途中で会ったベドウィン?の親子おじいさんとお孫さんかな?食事中で、「一緒に食べなさい」と言われました。黒いビニール袋に入っているのが、マトンとトマトです。 行きに見逃したライオントリクリニウム左横のお墓のために儀式を行った所。入り口の左右にライオンの像があります。 バラ色に染まったペトラ 朝のペトラとは全然違います。とてもキレイ シークこの道を歩くと、ペトラ遺跡の出口とても疲れました。
2008年10月19日
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エドディルは、1世紀 ドゥシャラ神の為の祭儀を行った場所。高さ45m 幅50mもあります。 エドディルの中落書きがたくさんありました エドディルから、さらに遠くの展望所まで歩きました。ここからは、アラバ渓谷・パレスチナ(イスラエル)まで(約50km)が見えます。モーゼのお兄さん アロンが亡くなったホル山(1329m)も見えます。 青いトカゲ
2008年10月14日
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遺跡内のレストラン「BASIN」で昼食後エドディルに向かいました。エドディルへの入り口こんな景色が続きます こんな狭い階段をロバが通ります。ロバから落ちて大怪我をしたり、亡くなった方もいるとか・・・ 羊飼いの女の子早く休みたくて、大急ぎで上を目指したら、30分くらいで到着 広い所に出ると、エドディルが横に建っていました。
2008年10月06日
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ミントティーで休憩の後、坂(階段)を登ってアーンの墓(壷型墳墓)を見に行きました。1番高い所に壷があるので、こう呼ばれているそうです。裁判所とも呼ばれていますが、実際は王様のお墓としてつくられたそうです。ビザンチン時代(4世紀~)は、教会として使われました。写真では、壷は見えません・・・ コリント式の墓?上からの眺め 暑さでらくだも、疲れているみたい。遠くから見ると、いろんな形式のお墓が並んでいるのがわかります。 昔は、お店が並んでいた列柱通り ローマ時代 ハドリアヌス帝の記念門カスル・アル・ビント=アラビア語で「ファラオの娘のための宮殿」耐震構造で、石の間に木が入っています。記念門の裏側
2008年10月01日
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紀元後2世紀のローマ劇場ナバテア人が、ローマのためにつくりました。 暑くて動かないロバ 一般人のお墓 お墓の中 よく見ると、こんなマーブル模様。 ミントティーで休憩
2008年09月28日
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エル・カズネをぬけると、もう日陰はありません。とても暑いです。 らくだが、たくさんいました。 ペトラの砂を入れたサンドボトル お土産に買いましたが、日本に帰って見てみると砂が混ざって、模様が何もなくなっていました・・・せっかく買ったのに、台無しです
2008年09月23日
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エル・カズネ(宝物殿)は、紀元前1世紀岩を上から下へ彫って造られたバラ色の建物です。この写真は、行きにとったので、まだバラ色ではありませんが夕方は、バラ色に見えました。バラ色のエル・カズネは、また後で。エル・カズネは2層造りになっていて、イシス神・アマゾネス像などの彫刻があります。上にあるアーン(壷)は、宝があると思われていたのでライフルで撃たれて壊れてしまいました。ナバテア人の王の墓として、神殿として造られたといろいろな説がありますが、3年前、地下に3つのお墓が発見されました。それによって、アレタス4世と2人の妻のお墓だということが分かったそうです。この王様は、キリストと同時代の頃の王様。エル・カズネの中エル・カズネの門番? エル・カズネから見たシーク
2008年09月17日
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ペトラとは、ギリシア語で「岩」の意味。昔、エドム人が住んでいて、その後、紀元前6世紀にナバテア人が侵入して、王国の都にしました。ペトラは、キャラバン貿易で栄えました。106年、トライアヌス帝に占領されて、ローマ化されました。その後、北のパルミラ(シリア)が栄えたのでキャラバン都市としての重要性がなくなって、衰退してしまいました。ペトラは、1812年 スイスの探検家 ジョン・ブルクハットが発見しました。※ ※ ※8時半 ホテル出発ホテルの庭を通るとすぐ、ペトラの入り口です。右の写真が、ヨルダンの王様。入り口を入ると、馬の調教場所?がありました。臭かったです こんな道(シーク)を通ります。シーク(1200m)は、岩が水の浸食などで削られて、峡谷の底にできた細い道です。岩の上の高い所に、ヤギが・・・エル・カズネが見えてきました
2008年09月11日
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19時5分、ペトラのクラウンプラザホテルに到着。部屋は、結構狭いです。夕食を食べに行こうと、レストランに向かうとこんな暗くなっていました。朝、プールからの眺め。ペトラの岩山が見えました。このホテルから少し歩くと、すぐペトラの入り口です。
2008年09月05日
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マダバの街に来ました。マダバとは、メ=水(メがなまってマ・ダバ=果物 又は、いい水・水のいい所という意味だそう。4~8世紀 ビザンチン時代に栄えて、多くの教会が建てられました。キリスト教徒40%、イスラム教徒60%の割合で住んでいます。 通りからは、ちゃんとモスクも見えます。セントジョージ教会(ギリシア正教会)19世紀終わりに教会を建て直す時に発見された最古の古代・パレスチナのモザイク地図があります。6世紀の聖地(エルサレム)とその周辺、アナトリア(トルコ)・エジプトの地図もあります。イリアスという人が、地図を作ったそうです。エルサレムの列柱通り右側に死海があるので、引き返してくる魚全体のモザイク地図キングスウェイを通って、ペトラへ。キングスウェイの由来は、古代のヨルダン川岸に多くの王国があったから。アカバ・アンマン・ダマスカスに続く古代の幹線道路。日本政府が半分出資して創られたアルムージュダム
2008年08月28日
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空港をでて、ネボ山に向かいました。ネボ山は、モーゼ終焉の地。彼は、ここから約束の地カナンを眺め、亡くなりました。本当は、ここからヨルダン・イスラエルの沃野(ヨルダン渓谷・エリコ・死海・ヨルダン川)が一望できるのですが曇ってて見えませんでした。 2000年3月20日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が来たときの記念碑 フランシスコ会教会は、修復中でした。 修復中なので、テントの中に6世紀のモザイクがありました。 帰りに歩いていると、こんな物が・・・サソリ??
2008年08月26日
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8月2日 関空発のエミレーツでドバイ乗換え、ヨルダンに向かいました。ドバイ着は、朝の4時半だったのに既に34度。 ドバイから約2時間で、ヨルダンのクイーンアリア国際空港着。 ヨルダンの国名は、「ヨルダン・ハシミテ王国」世界で支配王家の名前が国名になっているのはサウジアラビア(サウド家のアラビア)とヨルダン(ハシミテ家)だけのようです。ハシミテ家は、ムハンマドの血筋を引いています。ムハンマドは6世紀末、ハシミテ家に生まれました。
2008年08月25日
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明日から、ヨルダン・シリアに行ってまいりま~す帰ってきたら、ご報告します
2008年08月01日
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私の住んでいる所は、セミがたくさんいます。毎日、セミの鳴き声がうるさすぎて困るくらい。実家にいるときは、抜け殻もあまり見たことなかったのに。 ※ ※ ※この前の夜、道を歩いていると変な物が歩いていました。これが、セミの幼虫だそうです。(主人から聞きました)初め、抜け殻が歩いてると思って驚いたら、これが幼虫だったのです。孵化する所を見てみたかったので、家に持って帰って網戸につけてみました。夜の10時を過ぎても変化はないので、主人に見張っておいてもらって私は、寝ることに。(何か変化があったら、起こしてもらいます。)夜中の1時半、変化が起こりました。苦しみのダンス?をし始めて、モソモソ動き始めました。中から・・・このまま落ちて、死んじゃいそうと心配していたら腹筋を使って、起き上がりました 無事に産まれてくれました何セミかな?朝になると、抜け殻だけが残っていました。夏の夜は、こんな誕生が色んなところで起こっているのですね。セミさん、1週間たくさん鳴いて、精一杯生きてね
2008年07月26日
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主人の母校、八幡小学校です。とても古い建物で、ドラマの撮影にも使われるそうです。 昔の洋館が母校なんて、いいですね。 昔は、図書館でしたが、今は資料館になっています。こんな所で勉強したら、はかどりそう?近江八幡には、家の間に狭い水路のような物があって小学生の頃は、その水路に隠れたりしてかくれんぼをしていたそうです。水路に隠れると、なかなか見つからないんだとか。
2008年07月17日
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近江八幡の特産品 赤こんにゃくは、織田信長が赤く染めさせたとか近江商人が、こんにゃくを赤くしたとか言われています。味は、まずくもなく美味しくもなく。主人の実家では、赤いから縁起がいいとお正月のちらし寿司に入れています。
2008年07月11日
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主人の実家 近江八幡八幡濠に八幡瓦の家が並んでいます。八幡瓦は、近江八幡の特産品です。近江といえば、近江牛・近江米。バームクーヘンで有名な「クラブハリエ」和菓子の「たねや」があります。他にも赤こんにゃくがありますが赤こんにゃくは、また今度・・・
2008年07月06日
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彦根城には、「玄宮園」という庭園があります。茶室もあって、とてもキレイな日本庭園。 この庭園、どこかで見たことあるな~と思っていたら主人の高校の卒業アルバムの集合写真でした。主人の母校 彦根東高校は、彦根城のお濠の中にあるのです。主人は、京都の洛南高校に合格するも野球部がないというので彦根東高校に入学したのです。入学するまで、お城の中に高校があることも知らなかったとか・・・お城を見ながら通学していたなんて、うらやましいです。お濠
2008年07月01日
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彦根城 彦根藩井伊のお城です。馬屋鉄砲を撃つ所彦根城の天井のはり
2008年06月26日
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横川の中心のお堂。織田信長に焼かれたり、雷が落ちたりして2回も消失してしまいました。そして、今は債権されて朱色がキレイなお堂となっています。 木の上に何か・・・ん??何?こんなのが、いました。これ、なんだろう?
2008年06月19日
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比叡山延暦寺は、最澄が延暦七年(788)比叡山に登って薬師堂を開いたのが始まりです。根本中堂(東塔)根本中堂は延暦寺の総本堂。ろうそくが、開創以来1200年間灯り続けていることで有名です。ある旅行会社のツアーが説法を聞いていたので、隣で聞いてみました。お坊さんの、「ろうそくの油を断つな。気を抜くな」という言葉から油断という言葉が生まれたそうです。 にない堂(西塔)弁慶がこの渡り廊下をてんびんにしてお堂をかついだという伝説から「弁慶のにない堂」と呼ばれています。
2008年06月16日
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比叡山に行くのに、日本で1番長い坂本ケーブルに乗りました。 琵琶湖桜が満開でした。
2008年06月12日
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比叡山に行く前に、日吉大社近くのお蕎麦屋さんへ。有名な「鶴喜そば」です。 田舎のお蕎麦という感じ?お蕎麦は、あまり食べたことがないけど美味しかった 限定の蕎麦アイスお蕎麦の香りがして、おいしかった
2008年06月09日
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滋賀県といえば、琵琶湖。対岸が見えないほど広い湖でした 滋賀県の伊香に愛知万博のエジプト館が移設されました。 入場料は、500円くらいだったけど、10分くらいで見られる広さ。ん~ 長浜城 長浜城は、豊臣秀吉が城主として過ごしました。今、残っている長浜城は復元されたもので、中は博物館になっています。 滋賀県には、長浜城・彦根城・安土城とたくさんのお城があるのです。大きな琵琶湖もあるし、いい所です。次は、比叡山に行きます。
2008年06月05日
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カンボジアの市場に行きました。美容院の中で、女の子がオシャレしていました。食堂ベトナムと、すごく似ています。こんなに似ている国同士、仲良くしてほしいですね。帰りのジェットエアウェイズクリスマスなので、冠?をつけてます ケーキには、サンタクロース これで、カンボジアの旅は、終わりです。アンコールワット、また行きたいな~
2008年06月01日
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トンレサップ湖トンレサップとは、「塩辛くない海」という意味。乾季でも、琵琶湖の3倍もある湖です。とても臭い湖でした・・・日本政府が作った学校湖の上に立ってる!?湖の上の家魚をとって暮らしているようです。網の修理?物を売りに行くお母さんベトナム人が、物を売りに来ました。ベトナム人が近くに来るとカンボジアの人は、とっても嫌な顔をしていました。仲良くならないのでしょうか・・・
2008年05月29日
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夕食は、クメール鍋です。ツミレ、やさい、ラーメンみたいな麺、豚肉などをお鍋で煮てライムを搾って食べます。 私達(2人)に2人のお姉さんがついてくれてよそってくれました。 デザートは、カンボジア名物 アヒルの卵のカボチャプリン!真中の白いのが、アヒルの卵。味は、微妙・・・私は、あまり好きじゃないな~。
2008年05月25日
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バンテアイ・スレイ967 年、ヤジュヌヴァラーハ王が赤色砂岩で建設したヒンドゥー教の寺院。「東洋のモナリザ」で有名な寺院です。東洋のモナリザが彫られている堂中央の塔の入口には、男性の祖先に捧げた守り神が両側の塔には、女性のための女神が刻まれています。本物の「東洋のモナリザ」は、撮れなかったので別のモナリザを撮りました。 昔、この美しさの虜になったフランスの文化大臣アンドレ・マルローが盗み出そうとして逮捕されたそうです。サンスクリット語
2008年05月22日
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富士休暇村晴れていたら、この中央に大きな富士山が見えます。浅間大社浅間大社のにわとり桜の実B級グルメ 富士宮焼きそば「うるおいてい」というお店で食べました。麺がもっちりしていて、おいしかった 薩田峠薩田峠には、スルガエレガンスと枇杷がたくさんなっていました。
2008年05月19日
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週末、富士五湖と静岡に行ってきました。富士五湖は、河口湖・山中湖・本栖湖・西湖・精進湖の5つの湖のことです。五湖は、富士山の噴火でできました。今回は、山中湖以外の四湖に行ってきました。本栖湖(もとすこ)精進湖(しょうじこ)本当なら、中央に富士山が見えるのに、曇ってて見えませんでした。河口湖と富士山ホテルの部屋から見た富士山。朝だけ見えて、10時頃には雲に覆われてしまいました。西湖(さいこ)
2008年05月18日
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タ・ケウ 10世紀~11世紀、ジャヤバルマン5世など複数の王が建てたヒンドゥー教の寺院です。建設中に王が死んだか、落雷による被害を受けたかして縁起が悪いという理由で、建設が途中で中止された未完成の寺院です。こんな階段を登るんです。降りるときもこんな・・・この階段で、すごい事件を目撃しました アメリカ人のカップルがいました。彼がこの階段を先に登って、彼女は下で見ていました。彼の手からカメラが、彼女のいる下まで落ちてしまったのです。彼女は、大声で怒り出しました。彼は、がっかりです。その後、2人は木陰に座って、今後の2人の関係を話しているようでした。「あなたは、いっつもそう!!」「この旅行が台無しよ!」「もういい加減に疲れたから、別れたいの。」こんな会話をしているような・・・彼女の怒りをなだめるように、彼は何一つ文句を言わず・・・なんだか、かわいそうでした。
2008年05月13日
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タプローム 1186年、ジャヤバルマン7世が母親のために建てた仏教寺院です。遺跡が発見されたときのまま、木が遺跡に覆いかぶさっています。この木は、カジュマルの一種で、スポアンと言います。韓国人の観光客でいっぱいでした。仏像が木の間に入ってます。お尻みたい・・・ 遺跡が発見された時の状態を保存するため最小限の補修に留められているそうです。
2008年05月11日
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やっと、引越しも終わり落ち着きました。電話線の元が外れていたようでパソコンもできず・・・スラスランスラスランは、聖なる池という意味。ジャヤバルマン7世が沐浴のために12世紀後半につくりました。フランスが調査した結果、ここからお棺がでてきたので共同墓地としても使われていたそうです。乾季の時期には、真中に島が現れるので王様は船で島に行き、葬儀を行いました。今では、子供たちが泳いだりして遊んでいます。でも、キレイな水とは言えない気が・・・バンテアイクディここは、上智大学が修復をして地下からたくさんの仏像が発掘された遺跡です。バンテアイは「砦」、クディは「僧坊」と言う意味です。昔は、敷地内に多くの僧が住んでいたらしく、重要な巡礼地だったそうです。ジャヤバルマン7世が12世紀末につくりました。 写真の上の方に鏡餅のような形をした物があります。昔は、この中に仏像が彫られていたのですが、イスラム教徒によって削られてしまいました。仏教寺院では、イスラム教のものも残っているのに悲しいですね。子供は、どこでもかわいいですね
2008年05月08日
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またまた引越しです。元の家の改装が終わったので、戻ります。大忙しです。しばらく、おやすみしま~す ♪
2008年04月16日
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プノンバケン山・プノンクロム山・プノンボック山はアンコール三聖山と言われています。プノンバケン山の上からアンコールワットを見ました。プノンバケンの遺跡は、ヤショヴァルマン1世が9世紀に建てたヒンドゥー寺院です。 帰りの車から。夕日に染まるアンコールはキレイでした。停まって見たかった。 アプサラの踊り夕食は、アプサラの踊りを見ながら・・・
2008年03月16日
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森本右近太夫一房の落書き第三回廊 ペットボトルを集めていた女の子。お金になるみたい。中央塔修復中で登れませんでした。 アンコールワットの裏にあった誰もいない遺跡
2008年03月16日
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アンコールワットの第一回廊には「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」、「天国と地獄」、「乳海攪拌」などの彫刻があります。 ハヌマーンの肩に乗って弓を射るラーマ王子(ラーマーヤナから)天国と地獄上段は天国、中段は裁定を待つ人の世界、下段は地獄。閻魔様は、何千もの手で仕事をこなしていきます。乳海攪拌ヒンドゥー教の天地創造の神話。ここでも、韓国の観光客がいっぱいでした。
2008年03月16日
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午前中のアンコールワットは逆光になるので、午後に観光です。お昼を食べてから、アンコールワットへ向かいました。アンコールワットは、12世紀前半スールヤヴァルマン2世によって建てられました。ヒンドゥー寺院です。バイヨンなどの仏教寺院より、前に建てられました。 左側の通路は、途中からガタガタです。ガタガタになる前のキレイな通路は、上智大学が修復したそうです。日本が活躍してキレイにしたと思うと、嬉しいですね。↓ アンコールワットに行く前の塔にあるヴィシュヌ神ここを過ぎると・・・近づいていくと、すごい人です。 水辺に映るアンコールワットが、とてもキレイでした。想像を超える感動です 次は、アンコールワットの中に入ります。
2008年03月16日
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本で、「カンボジアは、タイ・ベトナムと仲が良くない」と読んだことがあったので、ガイドさんに聞いてみました。実際、タイ・ベトナムと仲が良くないそうです・・・アンコール時代からずっとそうなのでしょうか?他にも、カンボジアについて教えてもらいました。カンボジアからベトナムに行くには、パスポートが必要だけどベトナムからカンボジアに行くには必要ない! でも、お金を渡せば、大丈夫だそう・・・ カンボジア人は、旅行には行かないのだそうです。どうして??なぜなら、全財産は家に隠してあるから・・・銀行は信用できないから家に隠してるのだそう。お金持ちもみんなそうみたい・・・どんだけの大金が隠されてるのかな?? 内戦時は、男性が戦争で死んでしまったのでカンボジア人口の7割が女性だったそうです。ガイドさんが3歳の時に内戦が終わったそうですが今でも、地雷の響く音を覚えているそうです。子供は2歳から国の仕事と家の仕事をしなければならなかったそうです。ガイドさんは、2歳から牛の世話をしたそうです。悲しい歴史があったのですね。
2008年03月08日
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