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お笑いの世界1998年から1999年にかけて、お笑いライブの制作を手伝っていた。もちろん雑誌作りの仕事は本業だから、そちらはあくまでも余技である。チラシを作って印刷したり、チケットやハガキを作ったり、めくり(寄席で使う芸人の名前と演題を書いた紙)を作ったり。なんのことはない、印刷系の便利屋さんだ。カメラマンもやったな。もともとはハギワラさんが連れてきた「てらこ」こと寺崎美保子という女性パズル作家との縁である。この人は若いのに(当時25歳だったか)、パズル作家、ライター、お笑いライブのプロデュース、競馬評論と多方面で活躍する人で、そのむき出しの情熱に打たれたというか、生来のお節介の虫が顔を出したというべきか。はたから見れば「本業が忙しいのに、何をやっているのだ」と思われただろうが、知らない分野の仕事はものすごく刺激になる。それにもちろん、新しい人にも会える。オタク系講談師さんと出会ったのもこのころだった。当時はまだ二つ目でしたよね、陽司さん?芸人さんと生で知り合うと、さらにいろいろと顔を出したくなる。オタク系講談師さんが二つ目女流落語家の桂小文さん(現・真打ちの桂右團治)と日曜日の朝にやっていた「にちようのあさ」(お江戸広小路亭)に中学生の娘を連れて出かけたり。わが娘のお笑い好きは、このあたりの刺激も作用しているのかもしれない。ところで、講談と落語は似ているが随分違う。内容が違うのはもちろん、講談は女流が多いが、落語は女流が極端に少ない。右團治師匠は落語芸術協会初の女性真打ちだが、入門するときから苦労の連続だったと聞いた。講談も昔は女流が少なかったらしい。オタク系講談師さんの師匠の山陽さんが門戸を広げたと聞いているが、どうなのだろう。てらこのプロデュースする寄席やお笑いライブは、貧乏興業の見本のような世界だった。予算がないので広告ができず、入る客が少ないので有名な芸人さんが呼べない。まさに悪循環のないない尽くしだ。こういう世界にこそ、パトロンが必要なのだなあとつくづく感じた。当時、どんな芸人さんを集めていたかを残っているチラシで確認してみよう。これは1999年1月27、28日、横浜相鉄本多劇場で開催された「エンターティナーの宝箱4」のプログラムである。〈27日〉・お笑い アルファルファ、田上よしえ、TENJIN、青木さやか、タイガー・ポー、谷口幸一郎、殿方充、マキタスポーツ・マジック 日向ねこ・獅子舞と曲芸 鏡味小仙社中〈28日〉・お笑い おぎやはぎ、田上よしえ、北北西に進路をとれ、TENJIN、サンドウィッチマン、青木さやか、松田大輔、桧博明・マジック マジックジャパン・獅子舞と曲芸 鏡味小仙社中超貧乏なライブなのに、ご存じの名前があってびっくりしたのではないか。彼ら彼女らは、ここから這い上がってきてメジャーになったのだ。ぼくはマネージャーのダメ出しを居酒屋の座敷でじっと正座して聞いていた青木さやかの隣にいたし、3人組のリーダーが「カネがないので出稼ぎに行く」と抜けてしまって途方に暮れているサンドウィッチマンを励ましたりしていた。「カネならいくらでもあるぞ」とサラ金のカードをトランプのように広げて見せてくれたマネージャー氏。アルバイト先の居酒屋で客に絡まれ、ぐにゃぐにゃに泥酔していた若手漫才師。「芸人を甘やかしてはダメよ」とお小言をいただいた俗曲の美由紀さん。今となってはひたすら懐かしい思い出である。「知らない世界に首を突っ込むと、自分に厚みができる」という経験則がわかり始めたのはこのころからかもしれない。それまでは仕事としてしか世界とふれあってこなかったが、「お手伝い」の立場だといろいろな経験が簡単にできる。そのころの経験が今どのように役立っているのかは定かでないが、少なくともイラストレーターを使ってチラシやチケットを作るのは得意になった。それが次の美術の世界で生きることになるとは、そのときはまだ予想もつかなかったが。
2010年11月17日
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黒子が表に出た日「開業マガジン」の制作で悪戦苦闘していたある日、妙な電話がかかってきた。「NHKのディレクターをしている吉村といいますが……」彼女は教育テレビのディレクターで、「にんげんゆうゆう」という番組を担当していた。この番組はひとつのテーマで1週間のシリーズを構成するものだが、近々「不良中年」をテーマにするのだという。その中心人物として、わが師の嵐山光三郎が選ばれたのだが、その中で「不良中年の独立」という話題で1日分を作りたいというのだ。嵐山師は「それなら山崎という舎弟がいるから、そいつに協力させろ」と指示したらしい。持つべきものは有力な師である。さっそく吉村女史に、いろいろな材料を提供し、取材候補者のリストも渡した。そして話し合いを進めるうちに、事態は思わぬ展開を見せた。「山崎さんがスタジオに来て、しゃべってください」と。ぼくがテレビに出たのは、幼稚園のお遊戯会が取材された時と、「笑っていいとも増刊号」で嵐山編集長の悪口を言った時だけだ。それが45分間スタジオでアナウンサーを相手にしゃべるだなんて、話を聞いただけで気が遠くなりそうだった。しかし、ぼくの心のどこかに「出たがり」「出しゃばり」の部分があるのだろう。自信もないのにOKしてしまい、僭越にも吉村女史の書いた台本に手を加えたりしていた。収録当日、一張羅のスーツを着て、NHKに出かけた。今まで取材のためにNHKに出入りしたことは何度もあるが、「出演者」として入ったのは当然ながら初めてだ。そして、生まれて初めて「お化粧」までさせられた。NHKの番組づくりは面白い。録画なのに、生放送と同じ要領でやるのだ。録画なのだから、編集で時間を合わせればいいじゃないかと思うが、それだと臨場感に欠けるのだそうだ。だから変なアドリブを入れたり、急に早口でしゃべったりするとおかしなことになる。リハーサルでは、5秒余計にかかった。そうなると、生来の天の邪鬼が顔を出し、本番ではぴったりにしてやろうと思ってしまう。生まれて初めて番組に出演し、出ずっぱりのメインゲストで心臓バクバクのくせに、大それたことを考えたものだ。だがしかし、こけの一念が通ったのか、蟷螂の斧が有効打になったのか、本番収録は時間ぴったりで終わった。お化粧を落としてもらい、受け取ったタクシー券で事務所に帰ると、どっと疲れが出てきた。トイレに入ると、猛烈な下痢ぴー。本人は平常心でいたつもりでも、体は正直だ。ものすごく緊張していたのだ。この番組は0.3%という視聴率の割にはよく見られた。いろいろな知り合いから「見たぞ」と電話がかかってくる。うちの親のところにも「あんたの息子がテレビに出ていたよ」と知り合いから連絡があったそうだ。現在のマイミクにも、偶然この番組を見た人がずいぶんいる。そして、黒子が表に出た余波は、意外なところに表れた。奈良商工会から講演の依頼が舞い込んだのだ。番組を見ていた人が、「次の講演はこの人で」と指名してくれたらしい。それがそれから数年間に数十回、全国を股にかけての講演行脚につながった。さらに、自分に妙な自信がついた。「開業マガジン」で連載の署名原稿を始める気になったのは、この番組出演が契機といえる。あらゆることが、この番組をきっかけに変わっていった。
2010年11月17日
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東奔西走BNN倒産により、「開業マガジン」21号は完全に宙に浮いてしまった。取材・編集作業は続いていたが、印刷して本を作ったところで、販路がないのだからどうすることもできない。販売されなければ、集めた広告費は返さなければならないし、それ以上のペナルティを求めてくるクライアントや代理店もあるだろう。しかし、悠々社よりもっと甚大な被害を受けたのは、筆頭株主になったばかりの小坂くんだ。義母の土地を担保にして紙屑をつかまされた彼のもとには、億単位の借金だけが残った。しかし彼はそんな窮状のさなかにあっても友情と責任を果たそうとしていた。「文芸社という自費出版の会社があるんだけど、そこが出してくれそうだよ」という電話がかかってきたのは、数社との交渉が不調に終わったときだった。藁をもつかむ気持ちで話し合いにでかけたが、条件はヌーベルグーよりさらに悪い。しかし作りかけている雑誌を出さなければ倒産しかない。選択の余地はなかった。その結果、運命に翻弄された「開業マガジン」21号は、予定からひと月遅れて文芸社の臨時増刊コードで発売されることとなった。まずはひと安心だが、それからが大変だった。すべての広告代理店をまわり、発売が遅れることの説明をしなければならない。うまく説明できなければ、広告引き上げ、掲載料不払いという自体もあり得る。幸い、怒られはしたものの、商売の根幹にヒビが入ることは避けられた。次は会社の経営をどう立て直すかだ。なにしろ1号分の収入が1ヵ月先に延びてしまったのだ。だからと言って、スタッフへの支払や家賃を先延ばしすることはできない。数ヶ月のうちにその不足分を埋めるような経費削減が必要だった。考え出したのは、抜本的な本作りの改革だ。印刷所を凸版印刷から懇意にしている日創に変え、デザイナーを無理を聞いてくれる知り合いに変える。スタッフに任せていた編集業務もぼくが掌握し、プレイング・マネージャーとして現場復帰することに決めた。昔から「編集発行人」という肩書きは憧れだったが、それが妙な形で実現してしまった。スタッフのうち、常勤でない数名にお引き取りいただき、「特集」と「連載」、「データページ」以外のほとんどのページを、ぼくが自分で担当することにした。経費を浮かすため、プロカメラマンの必要がないところは自分で写真を撮り、文章も書く。それが40ページあったが、生きていくためには背に腹は替えられない。このころから、本当の意味での「地獄」が始まったのだと思う。平日はほとんど家に帰らず、事務所で寝泊まりするという生活パターンも、この時期からだ。それが1年半続くのだが、今にして思うとそれはひとつの「修業」でもあった。大量の仕事を誰よりも速く処理するという特技が今のぼくの生活を支えているのだが、それが養われたのはこのときだからだ。じつをいうと、当時のことはあまりよく思い出せない。人間にはあまりに辛い記憶を消してしまう能力があるそうだが、それが働いたためかもしれない。足りない資金を毎日なんとかやりくりし、睡眠不足と戦いながらぎりぎりの進行でページを作っていた。広告収入が落ちれば、タイアップ企画を立案し、自分でクライアントに売り込みに行った。そんな毎日だった。そうやって2ヵ月に1冊のペースで「開業マガジン」を作る生活が1年半続く。だが、心のどこかでは終わりが近いことを察知していた。読者と広告主の質がどんどん低下していくことを肌で感じていたためだ。「出版は理念のためにするもので、金儲けのためにすることじゃない」という思いを裏切ることはできない。それをしたら、自分が出版界にいる意味がなくなると思っていた。
2010年11月17日
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暗雲「開業マガジン」は隔月で順調に発行を続けていたが、19巻を出したところで発売元のバウハウスから話があった。経営が不調なので会社を再編成するとのことだった。バウハウスは山崎社長のもと、宇宙企画、英知出版などとともにグループを形成していた。そのうち英知出版を社員と雑誌、自社ビルごと売却、バウハウスも売れている雑誌群をスタッフごと売却するという。「開業マガジン」もその売却候補に入っていた。山崎社長はどうするのかというと、子飼いの社員数名とムックコードだけで身軽になって再出発を計る計画だ。お金をもらってリストラができるのだから、起死回生の妙案といえた。だがしかし、こちらは売られてしまう身。買収先は携帯コンテンツの大手インデックスで、新たに「ヌーベルグー」という出版社を立ち上げ、そこにバウハウスから移籍したスタッフを収容した。新社屋は、わが事務所の目と鼻の先だ。「このまますんなりとはいかないな」と思っていたら、案の定、ヌーベルグーの営業部長に呼ばれた。「開業マガジン」は黒字だが、部数が少ないので商売として面白くない。できればやりたくないという。悠々社がどうしても出したいのなら、営業依託の形にするので、号あたり100万円の営業依託費を払えとの話だった。営業依託というのは、書店流通をお願いする代わりに、手間賃を払うもの。出版コードのないところが本や雑誌を出すときに使う手だ。青人社時代にやったことがあるが、それにしても号あたり100万円というのは零細出版社にとっては痛かった。だが、「開業マガジン」は広告収入で存在している雑誌。定期発行が途絶えたら、たちどころに息の根を止められてしまう。「開業マガジン」はわが社の屋台骨だから、何がなんでも出し続けなければならない。仕方なく条件を呑んだ。ただ、悪いことだけではない。今までは編集費と広告営業手数料をもらっての編集プロダクション活動であったのが、これで名実ともに発行元になれたわけだから。実売が上がり、広告収入が増大すれば、将来は自社ビルだって夢じゃない。そう前向きに考えて、心配そうなスタッフを励ました。そんなころ、平凡社以来の友人である会計士の小坂くんから朗報がもたらされた。彼が大株主になっている出版社のBNNで、もっといい条件で出してくれるというのだ。BNNといえば、「MacLife」を出しているIT系の出版社だ。共同企画でビジネス寄りの本も出せそうだ。一も二もなくお願いすることにして、ヌーベルグーとの付き合いは1号のみで終わりにした。BNNの営業担当者との折衝も完了し、新しい条件での21号を着々と作っているころ、恐ろしいニュースが舞い込んだ。「BNN倒産」である。目の前が真っ暗になった。
2010年02月15日
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軽自動車バイヤーズガイド「ドリブ」の一時期、ぼくはクルマ担当記者だった。クルマ担当の机には、毎日のように自動車メーカーや関連業界各社からのニュースリリースが届く。うっかり開封するのをさぼると、すぐ山になる。ニュースリリースに混じって送られてくるのが「新車発表会のお知らせ」と「試乗会招待状」。発表会はたいてい都内のホテルなどで開催されるので数時間あればいいが、問題は試乗会だ。山中湖、箱根、御殿場、木更津といった近郊のホテルや施設を借りて行われる試乗会は、文字通り1日仕事。モーターショーの前数ヶ月は、「午前中が三菱で御殿場、午後はマツダで箱根」といった混み具合になる。一番忙しかったときには、1日で3つの試乗会をかけもちした。そんな世界から足を洗って10年、「またクルマがやりたいなあ」という気持ちが湧いてきた。知人の自動車評論家、園部裕氏に相談すると、「バイヤーズガイドがいい」と言う。マニア向けの自動車趣味誌ではなく、普通の道具としての機能や使い心地を横並びでレポートするものだ。さっそく「開業マガジン」を出してもらっているバウハウスの山崎社長に話をした。すると「広告が取れるなら、やってもいい」と許可が出た。出版元はバウハウスではなく、系列の英知出版と決まる。それからは忙しかった。園部氏と2人で毎晩のように企画会議だ。クルマのバイヤーズガイドといっても、ぼくらには自動車情報誌がないから、ゼロからすべてを取材しなければならない。何をテーマに始めるのがいいのか。議論は尽きなかった。「軽自動車がいい」と言ったのは、たぶん園部さんだったろう。庶民派のベテラン自動車評論家として著名な園部さんは、かねてから日本の軽自動車の実力を高く評価しており、自動車専門誌が無視もしくは軽視するのを残念に思っていた。タイミングもよかった。1949年の運輸省令によって誕生した軽自動車は、1954年の規格改定で360cc、長さ3m、幅1.3m、高さ2mという国民車サイズとなり、長くその大きさで親しまれていたが、その後何度かの改定を経て、1998年つまりこの本を出す前年に大きな改定を迎えたばかりだった。平成10年の改定は、おもに衝突安全のために軽自動車のボディ枠を拡大するものだった。それにより、エンジン排気量は660ccに、高さは2mに据え置かれたが、長さは3.4m、幅は1.48mと拡大した。これは1960年代のコロナやブルーバードとほぼ同じサイズである。軽自動車メーカー各社は、この改定を受けて全力で新車を投入していた。だから、そこをターゲットにすれば本も売りやすいし、広告も取りやすいというわけだ。実際、スズキ、ダイハツ、三菱、ホンダ、スバル、マツダ(スズキのOEM供給を受けていた)の各社を回ってみると、園部さんの“顔”が利いているのはもちろんだが、広告の話はすんなり通った。広告申込を合計してみると、6社に加えてブリヂストンと横浜ゴムが参加し、締めて700万円。クルマ媒体において何の実績もないぼくらが出す最初のムックにしては、望外の結果だった。内容は、軽自動車を「SUV」「ワンボックス」「実用エコノミー」「ファッショナブル・ミニ」「スポーティー」「オフロード」のカテゴリーに分け、38車種を分類した。もちろん全車種を試乗し、できるだけ同じ条件になるようにして撮影した。撮影場所は、ちょうど都合よく試乗会があるときはその場所で、そうでなければ試乗車をお台場の潮風公園に運んだ。公園の係員からは、「あんたたちのために、公園使用料の回数券を作らなければならないねえ」と笑われた。特筆すべきは「今度の軽はここが違う!」「軽自動車発達史」「軽自動車の兄弟たち(ボディとエンジン排気量を拡大した普通車仕様)」「軽自動車なんでもQ&A」といった読み物が充実していたこと。本文とこれらの読み物は、すべて園部さんと子分格の浜田拓郎さんが書き上げた。このムックは、今でもいい出来だったと思っている。「軽自動車のすべて」をバリアフリー特装車に至るまで網羅し、全車種のスペック一覧も完備した。あまりに力が入りすぎていて、どこにも隙がないのが欠点といえば欠点だったかもしれない。園部さんは「わがリポーター人生の代表作」とまで言ってくれた。時は1999年7月。まだブロードバンドの普及は道半ばで、紙媒体としての情報誌がインターネットに充分対抗できた時代の産物だった。
2010年02月15日
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バーチャクラフト 成美堂出版での仕事がうまくいったのに味をしめて、ぼくらは次の出版社開拓にかかった。今度は印刷会社のひも付きではなく、独力で薄い人脈をたどってみようと考え、名刺ホルダーをひっくり返してあちこちの出版社に声をかけた。 色よい返事があったのは辰巳出版。ここもムックが得意なので、うまくいけば今後の有力な取引先となりうる。何回かの打ち合わせの後、悠々社が誇る器用貧乏の造形師である佐藤カマタクの企画「フィギュアの作り方」が採用になった。 佐藤くんは秋田県出身の色白美形の若者である。その筋の男性諸氏に好まれるルックスをしていて、盛り場で中年オヤジに「5万円で、どや?」と言い寄られたりする。手先が器用で、たいていのものは自分で作り、もちろん料理も天下一品。 そんな彼のデビュー作として、このムックは充分な舞台となった。巻頭インタビューは漫画家の麻宮騎亜氏。「サイレントメビウス」「怪傑 蒸気探偵団」などの作品で知られる売れっ子だ。 造形師インタビューは、圓句昭浩、GIN、もてきほまれの各氏。圓句さんのインタビューのついでに、ボークスの造形村潜入ルポも掲載することになった。 目玉企画は、空山基氏の「誌上展覧会」。スーパーリアル・イラストレーションでとくに海外で人気の氏だが、相馬さんの知り合いということで特別に34点もの掲載許可を(しかも格安で)いただいた。 佐藤くんが頑張ったのは、みずから立案した「フルスクラッチ解体新書」というページ。まったくのオリジナル・フィギュアをゼロから完成まで誌上公開するという、考えただけでも恐ろしい企画だ。鉄道模型でそれをやれと言われたら、「1年ください」と答えるだろう。しかし彼はそれを1か月でやりとげた。 この本の余録として、悠々社はフィギュアの祭典である「ワンダーフェスティバル」に出展することとなった。オリジナルのフィギュア・キットを自社製造し、麻宮騎亜氏のオフィシャルTシャツを3パターン作り、本も売った。 今から思えば、フィギュアブームを先取りしたスーパー企画だったが、いかんせん悠々社の体勢が整っていなかったため、後続企画が思うように進められなかったのは残念の一語である。中身の濃い雑誌が作れても、商売が下手ではどうにもならない。 これは誰が悪いのでもなく、自分の責任なのだ。このあたりから、ぼくは自分の経営者としての資質に疑いを持ち始める。雑誌集団としての悠々社が幕を下ろすのは、それから1年と少し先の話だ。
2009年04月28日
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日本特撮映画図鑑東宝編 ある日、共同印刷の人が訪ねてきた。共同印刷といえば、月刊「太陽」を印刷していた会社の一つ。おもに特別企画のページを印刷していて、ぼくも何度もお世話になった。そこの人がなぜ訪ねてきたのかといえば、販路拡大のためである。 共同印刷は大手なのだが、凸版、大日本と比べると影が薄い。大手出版社が出している大部数の雑誌はたいてい凸版か大日本なので、その隙間でムックや少部数の雑誌を手がけていたからだ。 とはいうものの、「お宅の大日本で刷っている雑誌の印刷、うちにください」と言っても聞いてもらえるはずがない。大手出版社には製作部や生産管理部があって、何らかの理由で印刷会社を決定しているからだ。 そこで共同印刷が考えたのは、編集プロダクションと二人三脚で営業すること。つまり、企画を出版社に持ち込んで、採用になった場合に印刷の仕事を取ろうという考えだ。それで「何かない?」とうちに白羽の矢が立ったのだった。 ちょうどそのころ、「東宝の特撮映画をやらない?」という話が、広告研究会の先輩からきていた。東宝にコネがあるので、成城の特撮倉庫で自由に撮影できるという話だった。東宝が所有しているスチール写真も格安で借りられるという。 当初はバウハウスに持ち込もうと思っていた企画だったが、バウハウスではすでに「開業マガジン」と「お金の学校」をやっている。あまりに1社に偏るのは、経営的にうまくないと思われた。「全部の卵を同じかごに盛るな」と言うではないか。 共同印刷と一緒に出向いた出版社は、小石川の成美堂出版だった。名前はよく聞いていたので、立派なところかと思っていたが、行ってみるとバラックのような倉庫兼事務所。「これはきっとケチな会社か、実質本位の会社に違いない」と思われた。 応対してくれたのは、スーツ姿の深見社長。非常に柔らかい物腰で話を聞いてくれたが、要所要所で目がキラリと光る。絶対にただの気のいいおっさんではない。有力な雑誌を持たない中小出版社を、著名なままで維持するというのは、並大抵のことではないのだ。 数日後、企画が通ったという連絡が来た。ただし、こちらの提示した制作費は100万円削られた。最初から赤字ぎりぎりの仕事だ。だが、会社を回していくためにはやむを得ない。さっそくスタッフにGOサインを出した。 編集は、ぼくとアルバイトの佐藤カマタクくん。佐藤くんは若いが器用な子で、フィギュアオタク。特撮映画もかなり観ているので、話が早い。カメラマンは清水さんと島くん。最初から少数精鋭で臨むことにした。なにしろ予算が削られているのだから。 成城の特撮倉庫での撮影は、苦労の連続だった。古い木造の倉庫なので、電気の配線が容量不足なのだ。強力な光源が使えないので、貧弱な明かりでスローシャッターを切るしかない。手で運べるものは、屋外に出して並べて撮った。 薄暗がりの中で頭上を見上げると、ずらりと飛行機の模型が吊り下げられている。零戦、隼、紫電改、一式陸攻、九九艦爆、ムスタング、ワイルドキャット、ライトニング、B29…。F86Fセイバーもある。棚には戦車やジープに混じって、何だからわからない部品がいっぱい。特撮好き、軍事好きの人にとっては、まさに宝の山だ。 別の一角に行くと、そこは「怪獣墓場」。ゴジラやラドン、モスラにミニラ、妖星ゴラスや轟天号もある。怪獣映画でおなじみの高圧線の鉄塔や軍艦の高角砲などは、無数に置いてある。 3日間成城に通い、東宝から1800枚のスチール写真を借り出して、ついに『日本特撮映画図鑑 東宝編』は完成した。見本が刷り上がったとき、深見社長は「この本は、成美堂出版としては過剰品質だったね」と言った。それは賞賛の言葉だと思っている。
2008年12月27日
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お金の学校「開業マガジン」が軌道に乗ったころ、発売元のバウハウスから「新雑誌を出したい」という連絡があった。女性向けのマネー誌で、社内で「それなら悠々社だろう」ということになったそうだ。当面はムックで不定期刊行し、弾みがついたら月刊誌化するということだった。 しかし弱った。社内のスタッフは「開業マガジン」で手一杯。広告営業は兼任で何とかやれそうだったが、編集は誰一人捻出できない。かといって先の見えない不定期刊行物のために人材を増やすわけにはいかない。悩んだ結果、ぼくが自分でやることにした。 まずはじめにやらなければならないのは、誌名を考えること。社内から莫大な案を集め、何度もブラッシュアップしたのちに最終案を5つに絞った。それをバウハウスに提示し、決まったのが「お金の学校」だった。誰が考えたのかは忘れたが、いい誌名だったと思っている。特許事務所に勤務している先輩に連絡を取り、すぐに登録の手配をした。 特集記事は、マネーに強い人でないと作れない。さっと頭に浮かんだのが、「ドリブ」時代にマネー記事を担当し、「お金ドリブ」「マネープラン」でお世話になっていたライトルームの岩崎氏。すぐ連絡して快諾をもらう。 その他の部分は友人や知り合いを総動員して埋めることにした。バウハウスから提示されたトータル予算が思いの外低かったために、コストの高いベテランは避け、気鋭の女性スタッフを数多く起用することとなる。その中心となったのが、マイミクのハギワラアキコさんである。彼女は巻頭インタビューをはじめとして八面六臂の活躍をした。 若い主婦をメインターゲットとした雑誌なので、やさしくてわかりやすい誌面を作らなければならない。本来はオールカラーと2色もしくは特色のつくりが妥当だが、バウハウスはここでも予算をケチり、1色の多い台割構成となってしまう。であればイラストを多用しなければならない。 表紙のイラストレーションには、ファブリックアートを使いたかった。「お金」というとどうしてもイメージが殺伐としてしまう。男性向けなら「金塊」とかの写真でもいいが、女性誌なのでほのぼのとした暖かみを出したかったのだ。推薦された中から植月真弓氏に決定し、ラフ案を経て制作を依頼した。 女性向けだとレイアウトデザインも手が抜けない。図表類を見やすくアレンジし、冷たくならないデザインを早く作ってくれるところとなると、ある程度の規模と実績を持ったデザイン会社になる。悩んだ結果、「ドリブ」を手がけたHOT ARTに頼むことにした。千駄ヶ谷の事務所に出向くと、社長の望月さんが諸手をあげて歓待してくれた。ありがたいのは昔の仲間だ。 そうやって生み出した「お金の学校」だったが、内容的には満足のできるものに仕上がったものの、会社の事業としては損得トントンでしかなかった。予算が少ないのにコスト面で工夫できるところがあまりなく、広告営業も芳しくなかったために「開業マガジン」のように広告手数料を期待することもできなかったからだ。 一般に女性誌の大口広告主は、ナショナルクライアントである。化粧品、アクセサリー、アパレルは大手広告代理店ががっちり押さえていて、不定期刊行雑誌の1号目に予算を割いたりはしない。雑誌のテーマである金融業界はさらに保守的で、かなりの実績を示してからでなければ、年間計画に割り込むことは不可能だ。 それは作る前から充分にわかっていたことなのだが、実際に蓋を開けてみたら表紙回りを埋めるだけでも大変な苦労だった。にもかかわらず、バウハウスからは「もう少し何とかならないの」とお叱りの声が来る。こんな1色だらけの「女性誌」にお金を突っ込もうとする奇特なスポンサーはめったにいないのに。 結局、「お金の学校」は3号で消滅した。悪戦苦闘の末にバウハウスの上層部が「この雑誌を定着させるためには、社運をかけるくらいの覚悟が必要」とやっと悟ったからだった。そんなことははじめからわかっていたのに、下請けの意見には耳を貸さないのだ。「意見は聞いてない。作ってくれればいいの」と何度言われたことか。 この雑誌の失敗が、編集プロダクションとしての限界を感じさせてくれたとすれば、それが最大の収穫だったといえるかもしれない。
2008年12月27日
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新しい酒は新しい革袋に「開業マガジン」創刊号は無事発売され、第2号の〆切が迫ってきた。2号の発売日は1998年5月30日だから、もろにゴールデンウイークの影響を受けてしまう。通常号より1週間以上も前倒しして原稿を入れなければならない。 ところが、〆切間際になってカラーページが6ページ空いてしまった。広告が相次いでキャンセルもしくはカラーから1色に変更になったためだが、これは痛い。すでに特集ページなどはレイアウトデザインが進行していて、今さらページ変更するわけにはいかない。創刊したばかりなので、まだ予備の原稿もない。 さらに困ったのが、その6ページを担当するスタッフがいないこと。みんな特集や連載などの担当についているから、今から大特急で取材・編集する余力などどこにもない。かといって6ページというのは雑誌の台割編成上、中途半端なページ数だから、減ページもままならない。 一般に書籍は16ページ単位、雑誌は8ページないし16ページ単位でページ編成をする。それは印刷と製本の都合で、2ページ、4ページといった半端な単位は割高になるため、めったに使われない。だから6ページは中途半端なのだ。 そんなとき、懇意にしている広告代理店の女性社長から耳寄りなニュースが入った。名古屋のモービルハウス販売会社が、記事広告を打診してきたというのだ。記事広告というのは、お金をもらって記事風の広告ページを作ること。それに対して広告主が制作する普通の広告は「純広告」という。 先方の予算はカラー2ページ分。ということは、1ページをサービスし、あと3ページをこちらで作れば、合計6ページの企画が作れる。その瞬間ひらめいたのが、名古屋のキャンピングカー販売店だった。ぼくは少し前に、「オートキャンプ」に熱中していたので、キャンピングカーの情報を集めていたのだが、アメリカ製の大型モーターホームを扱っているディーラーが名古屋にあることを覚えていたのだ。 取材先が2カ所とも名古屋なら、日帰りで取材が可能だ。カメラマンとぼくが取材に行けば、他のスタッフにも影響はない。すぐに広告代理店とキャンピングカー販売店に連絡し、翌々日の取材を申し込んだ。手の空いているカメラマンを探すかたわら、鉛筆で大まかな企画案を練り上げた。 考えたプランは、モーターホームとモービルハウスを「移動オフィス」や「移動可能な店舗」としてはどうかという提案記事だ。取材した翌日にはデザイン入れ、その翌日には入稿という乱暴な記事作りの割には、読者の反応はよかった。ついでにいうと、小道具として写真に写し込んだノートPCと携帯電話は、ぼくの私物である。 こういう短納期の記事作りは、平凡社でも青人社でもやったことがなかったが、やってみるとスリリングでおもしろい。じっくり寝かせて作った記事と違い、切ったら血が出るような新鮮さがある。零細企業はこういうワザで特徴付けをする必要があるのではないかと気づいた。「新しい酒は新しい革袋に(Neither do men put new wine is old bottle.)」とは新約聖書の言葉だが、今までとは違う小さな所帯になったのだから、それに合った仕事のやり方を工夫する必要がある。その大きなヒントになったエピソードだった。 だが、お馬鹿なぼくはそのことを真剣に考えようとはせず、赤字を垂れ流す運命を選び取ろうとしていた。
2008年09月16日
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座談会「開業マガジン」の創刊が目前に迫ってきた。発売日は1998年3月30日。隔月刊だから、すぐ次の号が5月30日に控えている。おまけにそちらは、ゴールデンウイーク進行だ。 といっても、この雑誌に関してぼくのやることはあまりない。零細プロダクションにしては贅沢なほど人がいるし、ぼくは講談社から出るカーナビとVICSのムックにかかりっきりだったからだ。 そんなある日、編集長の大浦くんから声がかかった。特集の一環として座談会をやりたいのだが、メンバーを集めるあてがないのだという。ぼくはニフティで「ビジネス創業フォーラム」のシスオペをやっている「佐久間/☆ひろ」さん(現在のマイミク表記)に相談した。 ただちに話がまとまり、「お礼はビール+ラーメン」というお約束で6人の座談会が挙行された。ひろさんは公認会計士だが、あとの5人は司法書士、コンサルタント、会社役員(3名)という内訳だ。 記事のタイトルは「特別座談会 独立のプロによるフリートーク式レクチャー 開業するなら株式会社/有限会社/個人事業どれが得か?」。カラー4ページを使ったこの企画は、神楽坂の出版クラブの一室を借りて収録された。 この座談会は「開業マガジン」の2つの連載を生んだ。ひろさんとコンサルタントの多田さんによる記事である。多田さんという人はコールセンターの専門家で、歯に衣着せぬ言動が痛快なアクの強い御仁だ。マイミクの南風さんやハギワラさんがよく泣かされていた。ぼくも何度か絶交されている。 ぼくは座談会に絡んだだけだったが、「開業マガジン1号」の編集は順調に進んだ。何しろ気心の知れた仲間で作っているのだから、苦しいが楽しい。事務所は毎日お祭り騒ぎだった。広告は800万円近く集まり、とりあえずの結果は出せた。 奥付を見ると編集スタッフは何と14名。月刊「太陽」でもこんなにはいなかった。青人社を逃げ出した人々が新天地を求めて結集したためだが、悠々社がメイフラワー号になるのか、ノアの箱船になるのか、それともフライングダッチマン号になるのかは、天のみぞ知るといった状況だった。 ぼくは編集後記に次のように書いている。●昔だったら「偉い人」と思われていた人たちが、連日、逮捕されたり辞任したり自殺したりしています。これはわが国の社会に「変わりなさい」と天がメッセージを寄越しているのではないでしょうか。サラリーマン社会を捨て、独立してビジネスを始めなさい、と。本編集部も心底そのように思います(山) 今、その第1号を手に取ってみると、反省点が山のように見える。文字詰まりすぎ、記事載せすぎ、ビジュアル要素少なすぎ、役に立たないお遊び記事多すぎなのだ。創刊誌がてんこ盛りになるのは一般的な傾向なので仕方がないともいえるが、これじゃだめだ。 もしも10年前に戻って、もう一度「開業マガジン」をやるとしたら、おそらく人に任せず自分で作っていただろう。スタッフは2名くらいで。零細企業なのだから、それが身の丈に合っている。約2年半後に、「開業マガジン」はその通りの状態になるのだが、そのエピソードは後日また。
2008年09月03日
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相馬さんのこと できたての悠々社に、新しいスタッフが加わった。相馬健二さん。60過ぎのベテラン編集者である。 もともとは美術出版社にいて、技法書などをたくさん作り、やがて独立して編集プロダクション「たちぬい企画」を開業。平凡社などの仕事を請け負っていて、ぼくも遊びに行ったことがある。青人社時代にも何回かお世話になった。 その相馬さんが、編集プロダクションを畳み、フリーランスとして仕事を手伝いたいという。早速、進行中のVICSムックに加わってもらうことにした。3つの取材チームが撮影した写真を仕分け、セレクトして入稿の準備をする仕事だ。 だが、どうも様子がおかしい。何日か経って、別のスタッフから話があった。「昨日、1日中机の上を引っかき回していましたよ。整理した写真が見つからないと言って、みんなの机の上まで。『この箱に入れて整理したんじゃないですか?』と言ったら、あった、あったと喜んで。ちょっとボケてるんじゃないですか」 そこで気をつけて見ていると、やっぱり少し変だ。流れに乗って作業をしているときはいいが、ふと手が止まると、長時間考え込んでいる。「相馬さん、お体の具合が悪いんじゃないですか? 決して無理はしないでくださいよ」 と話したが、本人は笑っている。すぐに慣れるから大丈夫だと。 相馬さんは料理の名手である。かつては趣味でおせち料理を百人分作り、大晦日に知り合いの家を回って届けていたそうだ。巨大なアイスクリーム製造器を持っていたが、「もう使わないから」と、業務用の鍋や調理器具と一緒に悠々社に寄付してくれた。何を隠そう、悠々社名物の「鍋」は、そのとき相馬さんがくれたものなのである。ご自慢のアイスクリームも、一度だけだが全員に振る舞ってくれた。 ある日、相馬さんの親友である自動車評論家から話があった。相馬さんが悩んでいるという。「彼はね、自分では仕事がそこそこできると自信があったんだ。だけど、きみの仕事ぶりを見ていたら、その自信が木っ端微塵に砕けてしまったらしい。あんなスピードで、次から次へと仕事をこなす人は見たことがないと言ってたよ。だからさ、自分の能力を基準にして他人を見るのは少し考えたほうがいいんじゃないかな」 ぼくは驚いた。自分が人一倍仕事のできる人間だなどとは思ったことがなかったからだ。それどころか、もっと早く、もっといい仕事ができないと生き残れないと考えていた。編集作業は肉体労働ではない。大量の頭脳労働と、少しばかりの手先の仕事。だから肉体的な年齢はハンディにならないし、経験があればあるほど有利だと思っていた。 そこで相馬さんと二人で話をした。すると、彼は意外なことを言い出した。「まだらボケって知ってますか? 記憶が一様ではなくて、ところどころ不鮮明になる状態です。どうやらそれに罹っているらしく、みんなと協調してやる仕事では足を引っ張るかもしれません。できれば、一人でコツコツやる作業に回してほしいんですが」 ちょうどVICSムックが終わりかかっていたので、相馬さんには次の仕事を単独でやってもらうことにした。ライフワークで「世界の交通史」をまとめている人から出版の相談があったので、担当にしたのだ。これは向いていたらしい。著者は70歳過ぎの人だったので、話も合ったのだろう。相馬さんは喜々として仕事に取り組み始めた。 だが別の面では相変わらず、相馬さんはぼくらを驚かせてくれた。彼は四谷のアパートに住んでいたので、九段の悠々社までは歩いて通える。そのために、「目が覚めちゃったから」とか言って、朝の3時に出勤してきたりする。徹夜で原稿を書いているスタッフが、よろよろと1Fのトイレに上がってくると、そこに相馬さんが黙って立っていたりするのだ。その結果、「もうちょっとで、小便漏らすところでした」となる。神出鬼没だが、おとなしくて存在を忘れそうになる。そういうキャラクターの人だった。 あるとき、スタッフがこんな質問をしてきた。「山崎さん、普通の血圧ってどのくらいですか?」「え、120の80とかじゃないの?」「相馬さん、いつも200超えているんです。指先で計る血圧計を持っていて、ぼくらに数字を見せてくれるんですけど、そのとき『これは人間の血圧じゃないねえ』と笑って」 そんなある日、相馬さんが3日ほど来ない日が続いた。気にしていたら4日目にやってきて、仕事を辞めさせてほしいという。体力に自信が持てなくなったとのことだった。 引き留めなければならない理由がなかったので、「近所なんだから、ときどきは顔を見せに来てくださいね」と言って、日割りのギャラを払って別れたが、それが相馬さんと交わした最後の言葉になった。 それから半年。雑事に紛れて相馬さんのことをすっかり忘れていたが、親友の自動車評論家がげっそりした顔をして現れた。「相馬が、死んだよ」という。アパートで亡くなっていたのを大家さんが発見したそうだ。死後2か月くらい経っていたらしい。 大家さんは誰に連絡したらいいかわからず、警察経由で奈良のお嬢さんに来てもらったそうだ。くわしいことはわからないが、相馬さんは奥さんや子供と別れ、天涯孤独の身の上だった。相馬さんの部屋にはたくさんの資料や原稿があったはずだが、それらはお嬢さんの手で処分されてしまった。その自動車評論家が事実を知ったのは、ふらりと四谷のアパートに寄って、大家さんに話を聞いたからだった。とっくに葬式も終わっていて、遺骨はお嬢さんが持って行ってしまったが、お嬢さんの連絡先はわからないという。 その話を聞いて、ぼくらは暗澹たる気持ちになった。「自分の未来を見るような気持ちです」 と、「開業マガジン」編集長の大浦くんがつぶやく。「何かしてあげられることが、あったかもしれませんね」 と、最年少スタッフの佐藤くんが言う。 まるでお通夜みたいな雰囲気の中で、ぼくらは仕事を続けた。会社を始めてたった1年での出来事だった。 それから、「相馬さんを見た」という声がときどき出るようになった。といっても怪談ではない。みんな、相馬さんのことは憎からず思っていたから、出ても仕方がないという感じなのだ。人の気配を感じると、視野の端に相馬さんがぼんやりと見える。きっと行くところがなくて、ぼくらの仕事が気になって、ふわふわと漂っているのだろう。
2008年07月29日
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青人社倒産 開業準備をしていたころは、古巣の青人社がどうなっているのかが気にかかっていたが、「開業マガジン」がスタートし、VICSのムックも同時並行で作り始めると、とてもじゃないがよその会社に気を回す余裕など消え失せていた。 しかしその間も、青人社に巣くった病魔は拡大し続けていたようだ。ある日、誰かが「潰れたらしいですよ」と言ってきた。自分も一員として設立に力を注いだ会社が、ついに息絶えたのだ。それと同時に、社長の青山氏と、前社長の廣瀬氏が行方不明になった。 なぜ彼らが逐電したのかは、やがて判明した。二人とも、国民金融公庫と東京都信用保証協会からの借金で連帯保証人になっていたからだ。ぼくもそうだ。さらにぼくと廣瀬氏は学研からの借金の連帯保証人でもあった。こちらは公正証書を取られている。 数日後、ぼくの銀行口座が凍結された。青人社のメインバンクであった住友銀行荏原支店に口座があったのだが、公的融資がその銀行を経由してなされていたため、「自動的に」取られた措置だという。 最初は何が起こったのかわからず、荏原支店の担当者に問い合わせて、やっとそのからくりがわかった。理屈はわかったが、それではこちらも潰されてしまう。かんかんに怒って銀行に文句を言い、あちこち相談に回った。内容証明郵便も送った。 借金の内容は、金融公庫が残り70万円、保証協会が1500万円、学研が3000万円。いくら連帯保証人だからといって、とても個人で払える金額ではない。がしかし、保証協会の取り立ては家にもやってきた。学研の社員は悠々社にやってくる。 結論からいえば、三つとも処理した。金融公庫は廣瀬氏の後見人と相談して折半して払い、保証協会とは交渉の末、毎月わずかずつだが払うことにした。学研との交渉では、旧知の中山氏に間に立ってもらい、金額を圧縮して精算した。足りない分は「開業マガジン」に学研のCAI教室の広告を無期限で無料掲載することにした。 青人社をやめるときに、もっと強く保証人から外してもらうことを主張すればよかったのだろうが、代わりの人を立てない限り、連帯保証人は抜けられない。当時、潰れそうな会社の連帯保証を引き受ける人など、どこにもいなかった。この時ほど連帯保証人制度の無慈悲さを痛感したことはない。 この時以来、悠々社にはずっと金の苦労がつきまとっている。会社を設立したときに、うっかり貧乏神を招き入れてしまったのだろうか。
2008年04月14日
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もうひとつの仕事「開業マガジン」の取材が始まった。それと同時にスタッフが固定していく。旧「ドリブ」のメンバーと旧「起業塾」のメンバーが合体した混成チームだ。 正直なところを言えば、零細編集プロダクションを維持していくためには、こんな大人数でやるのは不利だった。可能な限り人間を削り、ぎりぎりの仕事でわずかな利益を蓄積していく。編集プロダクションという仕事はそうやらなければ長続きしないと聞いていた。 だがぼくは敢えて、業界のセオリーに歯向かった。新生「悠々社」は金の亡者に引き裂かれた青人社に対するアンチテーゼのつもりである。だから当面は「難民キャンプ」として機能させ、路頭に迷った編集者たちを空間が許す限り受け入れようと思っていた。「その気になれば、仕事などどうにでもなる」という甘い考えもあった。 その甘さに微笑むかのように、神様は次の仕事もくださった。カーナビのカタログムックである。出版社は講談社。取材先も話が付いていた。棚からぼた餅とはこのことだ。なぜぼくらのところに話が持ち込まれたかというと、スポンサー筋から「法人格のあるところを拠点にすること」という条件が提示されていたから。とりまとめ役の自動車評論家が、その話を受けて旧知のぼくのところに話を持ってきたのだった。 スタートしていきなり、レギュラーの仕事と一流出版社の本。恵まれすぎているとは思ったが、すっかり居心地が悪くなったカメラマンの上田さんは、「きみが思っている10倍くらい、ラッキーなことだよ」と言い残して出て行った。彼は彼なりに悠々社の方向性を考えていたのだろう。そこで一緒の夢を見ようと思っていたら、瞬く間に仕事が決まってしまい、青人社と似たような雰囲気の会社になってしまった。それで落胆したのではないか。 ある月曜日に会社に出てきたら、上田さんの荷物がすべて持ち出されていた。あっという間の別れ。何となく、「このオフィスでは青人社時代よりもずっと頻繁に別れがありそうだ」という気がした。数年を経ずして、その思いは現実に裏打ちされることとなる。 カーナビの仕事は、「VICS」という渋滞情報を提供する会社がフィクサーだった。半分お役所のような組織で、国内のカーナビメーカーすべてを牛耳っている。ここが「本を作るぞ」と声をかければ、自動的に広告が集まる仕組みだ。それがあるから、講談社が乗ってきたのだ。 しかし、やっていくうちに無性に気分が悪くなった。「出版の魂を守る」とか調子のいいことを言っていたのに、その舌の根も乾かないうちにひも付きの本を作っている。「儲かればいい」のであれば文句を言う筋合いはないのだが、競争のない本を作っても血はたぎらない。贅沢な悩みだとは承知していたが、こんなのはいやだと心底思った。 その点、「開業マガジン」は違った。売れなければすぐにバウハウスから見限られる。そうなったらたちまち倒産だ。だから、何としても売らなければ、広告を取らなければならない。ぼくは大浦くんたちと毎日のように編集方針を話し合った。「日本で一番やさしいビジネス誌にしよう」と、結論が出た。表紙は「いっしょうけんめいハジメくん」のコンタロウ氏に依頼することになった。「開業マガジン」におけるぼくらの仕事は、編集丸ごとと広告営業。企画のお伺いは立てるが、それはほとんど形式的なもので、自由にやらせてもらえた。印刷所への入稿から校了までもこちらでやり、バウハウスは売るだけ。広告もこちらで集め、原稿を凸版印刷に入れていた。請求書はバウハウス広告部から出させるが、あとで総額の15%をマージンとしてもらう約束になっていた。 しかしすぐに、「開業マガジン」だけでは売上が不足することがわかった。たったひとつの雑誌だけでは、一般管理費が捻出できないのだ。その分として計算していた金額は、予想外にふくらんだスタッフの取材経費や営業経費で消えてしまっていた。机上の計算と現実が、早くも齟齬を見せ始めていた。毎日終電まで熱心に仕事を続けるスタッフを眺めながら、ぼくは名詞ホルダーを繰って、営業に出かける先を探した。
2008年03月10日
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悠々社スタート! 新オフィスの什器備品は、ほとんどが「貰い物」だった。椅子と机、キャビネット、更衣ロッカー、連結書架、コピー、冷蔵庫、台所用品、ビジネスホンは小さなオフィスに引っ越す青人社が廃棄したものを貰い受け、編集プロダクションを廃業する先輩から会議テーブルとコピーを貰った。 それでも地下と1Fのオフィスには、まだまだ空間がある。そこに、知り合いのカメラマンが居候としてやってきた。上田健さんというロケットを追いかけているプロカメラマンだ。彼とは「ドリブ」「おとこの遊び専科」「日本こころの旅」でさんざんお世話になっていたから、無碍には断れない。彼が持ち込んできた木製のデスクが気に入ったので、同じ物をいくつか注文した。 電話を引き、上田さんのFAXをつなぐ。ビジネスホンの交換機を注文し、青人社から持ってきた余り物の電話機をつなぐ。電話はISBN3本。ネット用に使う1本以外は、TAをかましてアナログ回線として利用した。パソコンはぼくの私物である東芝のサテライト・プロ。Windows95のノートパソコンだ。 そうこうしているうちに、メンバーが集まり始めた。大浦君に佐藤君(通称カマタク)、紅一点の菅間さん。初めのうちは連日酒盛りばかりしていたが、やがて仕事が入った。嵐山さん経由で依頼されたMSNのコンテンツ製作だった。営業もしないうちから仕事にありついたので、ぼくらは有頂天だった。 しかし、ちゃんと会社を回していくためには、定期的な仕事が必要だ。まだまだ「青人社難民」はやってきそうな気配だったので、それなりの規模の仕事を考えなければならない。考えた結果、利権争いでめちゃくちゃなことになっている「起業塾」のライバル誌を作ろうと思い立った。出版社に雑誌の企画を持ち込むためには、なるべくリスクを低く見せなければならない。その点、ぼくらに経験のある独立・開業情報誌なら、広告収入もある程度見込めるので有望と思われたのだ。 そのためには広告営業をやる人材が必要になる。誰かいないかと名刺ホルダーをめくったところ、以前知り合いの広告代理店で働いていた若手がいたことを思い出した。菅藤君。若いが体力があり、人なつっこい性格なので、ぼくらのチームにうまく溶け込んでくれるのではないかと思った。さっそく連絡すると、すぐに話を聞きたいという。これで、広告営業の問題は片づいた。 企画書を持って出版社を回る。何社目だったろうか。「バウハウス」という出版社の社長から、会いに来いと言われた。英知出版の兄弟会社で、若者向けの雑誌とエロ本で稼いでいるところだ。神楽坂に自社ビルを持っているので、資本力は問題なさそうだった。 悠々社ができたのは1997年10月。バウハウスに話しに行ったのは12月。会社を立ち上げてからわずか2か月で、月商1000万円の仕事が決まるかもしれない。ぼくは武者震いして神楽坂のビルに向かった。バウハウスの社長で、英知出版のオーナーである山崎さんは、抜け目なさそうだが人なつっこい好人物だった。だが開口一番、こんな話が飛び出してぼくは青くなった。「青人社といえば、廣瀬という社長がいたな。あいつ、うちに企画を売り込みに来て、前渡し金を持ち逃げしたんだよ。きみもその仲間か?」「いえいえ、とんでもありません。ぼくらも彼には煮え湯を飲まされた口で」「あいつ、ゴルフと麻雀が趣味だったな。きみもそうか?」「いえいえ、ゴルフはクラブの握り方も知りません。麻雀は学生時代に負けてばかりなのでやめました」「そうか。この企画が実現したら、きみも取材に行くのか?」「もちろんです。偉そうにふんぞり返っている余裕はありませんから。それに、編集者は現場に出てナンボです。取材に行っていろいろな人と会うから、次のネタが仕込めるのだと思っています」「ほう、きみは連中とは毛色が違うな。やっぱり祥伝社出身かい?」「ぼくは平凡社です。『太陽』編集部にいました」「そうか、そうか。道理で雰囲気が違うと思った。『太陽』はいい雑誌だ」 聞いてみると、山崎社長は絵が大好きで、高価な絵をたくさん集めているのだそうだ。自社ビルはコンクリート打ちっ放しであまり出版社らしくないが、それもそのはず、画廊にしようとして設計したものなのだという。「編集者なんてのは、どんなところでも仕事はできるだろ。だから絵を飾ることを第一に考えてこのビルを作ったんだ」 そのあとは雑談になった。肝心の企画の話は、あとでスタッフと相談しておくという。どこまで本気なのかいまいち不安だったが、年明けまで返事を待ってみることにした。 明けて1998年1月5日。まだ枚数の少ない年賀状を見ていたら、山崎社長から電話があった。「やることにしたよ。きみに賭けてみよう。隔月刊で、3月からやろう。今日来てくれたら、第1号の編集費のうち半金を小切手で渡すよ」 天にも昇る心地とは、まさにこのことだった。
2008年03月05日
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起業準備 自分の会社といっても、ぼくには起業の経験はない。あるのは「起業塾」を作ってきた上で溜まった知識だけ。とにかく人脈を使って、なるべく投資をしないでスタートしようと考えた。ぼくには大した貯蓄がなかったし、出版関係の仕事をすれば、運転資金がいくらあっても足りないことは熟知していたからだ。 早速、平凡社時代の同期で、青人社でも監査役を依頼していた公認会計士の小坂くんに相談を持ちかけた。彼は青人社の経営について何度となく相談していたので、状況は完全に把握している。苦境に立ったとき、説明をしなくてもわかってもらえる人がいるのはとても心強いことだ。「何人くらい連れて行くの?」「社員としては自分ひとりでやりたい。来る者は拒まずだが、経営が安定するまでは人を雇う余裕はないと思う」「それは賢明だね。で、法人格は?」「そこがポイントなんだけど、官庁や大手企業の仕事を受けることを考えると、法人格は絶対に必要だと思う。有限でいいと思うけど」「人が作った会社で良ければ、ひとつあるよ。僕が預かっている会社だから、変な債務がないことは保証できる。それを使って登記を変更すれば、資本金を用意しなくても済む」「なるほど、それは助かる」 会社を作るには資本金を用意しなければならない。有限会社の最低資本金は300万円だが、既存の会社を譲ってもらい、登記変更をすればそれが不要になる。開業資金をできるだけ低くしたいぼくにとっては、まさに渡りに船の話だった。 次にオフィスを用意しなければならない。自宅には余分な部屋はないし、就業時間が不規則な出版業では、家人に迷惑がかかる。当面は自分ひとりだから、自宅に近くにアパートでも借りようかと物件を探し始めた。 すると、ぼくが辞める気配を察知したのか、廃刊になった「ドリブ」のスタッフから連絡があった。編集長の大浦くんが代表だ。「山崎さん、新会社を作るのならついていきますよ。俺とカマタクは確実です。あとで成田と武内も合流できます。それから慶も」 新会社で何をするかは決めていなかったのだが、この話で一気に具体化した。それだけスタッフがいれば、雑誌が作れる。編集プロダクションとして雑誌を1冊まるごと請け負う仕事をすれば、収入も安定するだろう。 となると、アパートやマンションでは手狭だ。5、6人が仕事をできるようなオフィスを借りなくてはならない。すぐさま不動産屋に手配して、中央線沿線で四谷からお茶の水までの間の物件を紹介してもらうことにした。 なぜそのエリアなのかというと、講談社は護国寺、小学館は神保町、その他の出版社はその間に集中している。中央線の四谷からお茶の水の間だったら、どこに行くにも便利だと思われたからだ。 ほどなく紹介のFAXが20枚ほど届いた。最初の物件は市ヶ谷駅。住所は九段南だ。1Fと地下という変則的なフロアだが、まずこれから見てみようと思った。かつて平凡社があった場所の近所であるということが、妙に親近感を持たせてくれた。 下見にはひとりで行った。不動産屋のおばちゃん営業マンが案内してくれる。横山ビルという小さな軽量鉄骨造り3階建てのビルの前に、小太りのおっさんがいた。大家さんだった。 すると、背後から「あれっ? 山崎さんじゃないの」と声がかかった。不動産屋のおばちゃんが「こんにちは」と挨拶する。振り返ると、知った顔があった。 創刊以来長きにわたって「ドリブ」のデザインを担当した川口さんだった。独立して事務所を構えたのは知っていたが、この近所だったのだ。しかも不動産屋が同じ。これは奇遇だ。 大家さんに部屋を案内してもらう。リフォーム済みで、広くはないものの居心地の良さそうなフロアだった。天井が高いのがいい。地下室に降りてみる。図面で見たよりも広く感じる。ここは1Fよりさらに天井が高い。地下室ならではの圧迫感が微塵もなく、これならタコ部屋にしてもノイローゼ患者を出す気づかいはないと思われた。 聞けば大家さんはこの裏に住む大工さんで、今は引退して工務店を経営しているのだという。このフロアは貿易業を営む息子さんのために作ったものだった。地下室は倉庫代わりだったのだ。 大家さんからはぼくの経歴をかなり詳細に質問された。ご近所に迷惑になるような店子は入れたくないのだそうだ。すでに何件も断ってきたと言っていた。配送のトラックが来るような仕事の人は困るのだと。ぼくが出版業をやるつもりだと言うと、安心したようだった。 翌日から他の物件を見に行く予定だったが、その晩から大家さんの電話攻勢が始まった。「あんたを気に入った。他の人にはもう見せないから、早く決めてくれ」 そんなことを言われても、まだスタッフに見せてない。 あわてて大浦くんを伴い、再度見に行く。大浦くんは地下室をひと目で気に入り、「ここにしましょう。ここならいい仕事ができますよ」と言った。これで決まった。 それから大浦くんと二人で、小坂会計士のところに報告に行った。譲ってもらう会社の件も進めなければならない。定款なども決めておく必要があった。「オフィスが決まったの。それはおめでとう。ところで社名はどうする?」「実は青人社を作るときにぼくらで考えた『悠々社』という社名があるんだけど」「山崎さん、何ですかそれは。初めて聞きましたが」「それはね、かくかくしかじか」「そんな名前があるなら、それにするっきゃないじゃないですか」「僕もそれがいいと思うよ。重厚感があって、最近流行のカタカナ社名よりいいじゃない」 こうして社名も決まった。あとは什器備品をそろえて、仕事を始めるばかりとなった。
2008年02月14日
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落日 1997年7月、ぼくは社長に辞表を提出した。代表取締役専務を辞任したいという申し入れだった。 いきなり辞めては残る社員に動揺が起きると思ったので、二段階で辞めようという考えだった。 それに対して社長はこう言った。「なんだかややこしいな。逃げるのならそう言えばいいのに」 この人には何もわかっていない。自分が作った会社から好きこのんで逃げたいやつがどこにいる。あんたが潰しかけているから、それを守ろうとしているだけなのだ。 ぼくは社長にこう聞いた。「もし青人社を買ってくれる人がいたら、応じますか?」 それに対する答えはYESだった。ただし、条件が折り合えば。 すぐさま社内の有志を集め、以下の文書を配布して協力を呼びかけた。「青人社の誇りを守る闘い」 青人社は出版社であり、株式会社組織であると同時に、雑誌作り、本作りへの情熱によって集った技能集団でもある。 もちろん、資本主義社会における会社組織とは、営利を追求することが存続のための条件であり、これが果たされない以上、滅びることになることは避け得ない。 しかしながら、会社組織は滅んでも、ひとつの屋根の元に共通の目的を持って集まった仲間たちまでもが解散する必要があるのだろうか。 かつて創業者を失った青人社は、余地のない選択によって新たな経営者をいただくこととなった。しかし、わずかな資産を短い時間で失い、ほとんど身売り同然の形でまた新たな経営者に支配される立場となる。それもつかの間、不幸な事件で援助体制を喪失してから約1年、とうとう文字どおりの存亡の危機に立たされた。 会社組織の存続が誰の立場でも第一義であるならば、いかなる業態の変化、どのような形のリストラも是といえる。しかし「魂の部分の青人社」すなわち技能集団のもつ場の雰囲気こそが青人社の実態であると信ずる者にとってはそうではない。 これまで名ばかりの経営者であり、さほどの指導力を発揮せずにいた現場責任者として、私は青人社に所属する有為の諸氏を結集し、新たなる青人社を構築したいと願う。 それが、かかる事態を招いたことへの、私なりの責任の取り方である。 本日、諸氏の心よりの提言、意見を伺いたいと思う。 それから水面下での動きが始まった。凸版印刷の部長に会い、青人社を買ってくれる会社はないか、探してくれるように打診した。東京印書館の役員にも会って、同様の依頼をした。共同印刷にも。 だが、折衝が続いているとき、寝耳に水の事件が起きた。社長が勝手に「起業塾」の営業権を知り合いの不動産屋に売却したというのだ。そんなことをされては、こちらの努力が水の泡だ。あわてて社長室に飛んでいった。「きみはもう専務じゃないんだから、相談する必要はないだろう?」「青人社売却の話がこれで飛んでしまいます。なぜ切り売りするんですか?」「金がないんだよ。売れるものから売るのは常識じゃないか」「他業種の人ならそう考えるでしょう。しかし出版社の価値はブランドや雑誌だけではありません。価値があり、売れる本を作れるスタッフと体制こそが一番の価値なんです」「理想論はもういいよ。とにかく金がいるんだ」 その後、問題はさらにこじれた。社長が何を思ったのか、青人社の営業権を金融屋に売り渡し、その中に不動産屋に売った「起業塾」が含まれていたのだ。二重売りだ。 折しも社内は引っ越し準備でごった返していた。六本木日産ビルからABビルへ都落ちするためだ。「ドリブ」のスタッフはすでに社を去り、ワールドマガジン社の社員も姿を消していた。まさに落日そのものの状況だった。 ぼくは青人社売却の計画を諦め、自前の会社を作る決心をした。
2008年02月07日
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ドリブの終焉 傾き始めた青人社の頭痛の種は、看板雑誌の「ドリブ」であった。部数が出ていないのに妙に一流誌風の編集にこだわり、湯水のように取材費を使う編集部は、会社にとって放蕩息子のようなものだった。ある日、青山さんはドリブ廃刊を宣言しようとしたが、そこに大浦くんたち「おとこの遊び専科」のスタッフが立ちはだかる。 彼らの言い分は、「廃刊にするならその前に自分たちにやらせてほしい」とのことだった。ずっと日陰の存在に甘んじ、会社に利益をもたらしてきたのだから、最後は日の当たる場所で思い切り暴れてみたいというわけだ。ぼくはその意を受け、半年間の猶予をもらった。 かくして大浦くんは嵐山さんから数えて8代目の編集長に就任し、「最後の大暴れ」が始まった。表紙とメイングラビアは篠山紀信氏、アートディレクターは長友啓典氏。デザインはK2。連載陣は中田潤、カーツさとう、杉作J太郎、いしかわじゅん、みうらじゅん。なんか、「羊の皮をかぶった狼」ならぬ、「血統書つきのふりをした野良犬」であった。 編集費は創刊時の6分の1。できるだけ外注せずに、手作りでページを練り上げる。たった8カ月だったが、彼らは思う存分に暴れてくれた。もし1年待っていたら、きっと黒字にできたことと思う。しかし「ものづくり」のわからない社長は無情にも廃刊の断を下した。 画像は最終号。通巻197という中途半端な終わり方である。200勝まであと9勝に迫りながら名球界入りを逃したヤクルトの松岡弘を思い出す。 最終号のセンターページには、スタッフの記念写真を掲載した。篠山さんが「どうせなら卒業写真を撮ろう」と言い出して実現したものだ。3代目編集長のナオキさんほか、雑多なメンバーが写っている。わしはなぜかスーツ姿。このころはいろいろな会社に「青人社の身売り」を打診して回っていたので、こんな恰好をしていたのだ。 最終頁には「みなさんさようなら。私たちは幸せでした」というメッセージ。ここまで堂々と読者に別れを告げて消えていった雑誌は他に類を見ないだろうと思われる。連載もすべて最終回であることを意識して書かれていた。 こうして青人社の看板雑誌はその役目を終えた。ぼく自身も、もはや会社に居場所がないと感じていた。
2008年02月03日
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バブル出版 資金源である「ワールドマガジン社」を失った青山さんは、青人社の経営に没頭するようになる。年商10億程度の会社なのに経理をオフコンで処理しようと考え、長い間青人社の経理を仕切っていたおばちゃんを首にしてしまう。「コンピュータが使えない人には、用がない」というわけだ。 入れたのは東芝のオフコンだったが、ぼくは余禄でノートパソコンと携帯電話をもらった。「いくらなんでも社長の独断で、合い見積りもとらないで決定するのはまずいだろう」と考え、同級生に電話してカシオからも見積りを取ったため、東芝のセールスがぼくを懐柔しようとした結果だ。ちなみに、この同級生はマイミクである。アクティブではないが、今は福岡でコンサルをやっている。 サテライトプロというそのノートパソコンは、ぼくにとって初めてさわるWindows95機だった。3.1のはオリベッティのマシンを借りて使ったことがあったので、経験があったのだ。初めて使うWindows95は、Macと違い実務的で色気がなく、おもしろかった。 携帯電話はドコモの安いやつ。ノキアの機械だった。のちに「シティホン」と呼ばれるやつだ。しばらく使っていたら、携帯電話のショップを経営している先輩がやってきて、「そんな筆箱みたいな携帯は使うな。東京デジタルホンの箸箱にしろ」と、半ば強引に替えさせられてしまった。この先輩も、マイミクだ。おかげでぼくは、それからJ-Phone、ボーダフォンと名を変えたが、今もソフトバンクのユーザーである。 青山さんは企画にも首を突っ込むようになった。ただし、業界については素人であるため、企画会議では発言しない。言うことを聞きそうな社員を一本釣りしては、そいつに因果を含めて自分の意思を通そうとする。おかげで職制のピラミッドや企画会議は意味をなさなくなった。 あるとき、おかしな単行本の企画が進行していることを察知した。インターネットでかき集めた笑い話をまとめて、コンビニを中心に売ろうとするものだった。急にそんなことをやろうとしても、面白いものができるはずもない。もしコンビニで売るとなると、初版は10万部に達してしまう。売れなかったら、大赤字だ。 企画は、青人社のイエスマン社員と、旧ワールドマガジン社の残党とでまとめられていた。ぼくが口をはさむ余地は全くない。青山さんは人脈をフル活用して、毎日のようにコンビニ本部にセールスに通っている。危機はどんどん近付いていた。 旧態依然の業界に新風を吹き込むのは悪いことではない。取次任せにせず、コンビニ本部を直接攻略するのもよいアイデアだ。しかし、それで売り込んだ本が惨敗したら、やったことがすべて裏目になる。 ぼくはそのことをくどいくらいに青山さんに警告した。だが、それに対する返事は「だから君たちはうまくいかなかったんだ」という言葉。ビジネスの仕組みの中では正しい行動、正しい動きなのかもしれないが、コンテンツビジネスの根幹をわかっていない人にそのことを理解させるのは難しい。天動説を信じている人に人工衛星の仕組みを教えるようなものだ。 ここに至って、青人社の中に「このままでは危ない」という空気が漂い始めた。どうやって軟着陸させるか。そのための非公式な会合が、毎日開かれるようになった。
2008年01月30日
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防衛戦 強制捜査を受けたその瞬間、ぼくらは会社近くの喫茶店で幹部会議を開いていた。何を話し合っていたのかもう忘れたが、誰かが走ってきて「おまわりさんが10人以上来て、ワールドマガジン社に入りました」と報告に来たのは覚えている。そのとき、ぼくは「来るべきものがついに来たな」と悟った。あと1年、せめて半年先であったら、青人社を立て直すことができていたのにと、唇を噛んだ。 青山氏から海外宝くじビジネスの仕組みは聞いていて、グレーゾーンで勝負していることは知っていたが、それでも官許の宝くじに対して目障りな存在であることは間違いない。今はおめこぼしを受けているが、目立つようなことをすれば当局の攻撃があるだろうと思っていた。数ヶ月前に青人社とワールドマガジン社は六本木日産ビルという大きなビルのワンフロアに引っ越していた。それは青山氏の悲願であったのだが、十分に目立つ行動でもあった。 ぼくの対応は、「青人社を連鎖倒産に追い込まないこと」だ。たとえて言えば、青人社は廣瀬氏のもとで重傷を負った怪我人のようなもの。今ワールドマガジン社がいなくなれば、看護する人を失って衰弱死してしまう。ワールドマガジン社が早晩潰れるとしても、それは青人社が自力で歩けるようになってからにする必要があった。 そのために、まず知り合いの弁護士に相談した。状況とこちらの意図を話すと、彼は「当局の目的は『海外宝くじの斡旋は違法との印象を国民に刻みつけること』だから、一方的にニュースが報道されないようにする必要がある。ただちに主要メディアにリリースを流すべきだ」と指示をくれた。 ただちにぼくはリリースを作成した。論点は、こんな感じだ。「本日、ワールドマガジン社が強制捜査を受けたが、これは海外宝くじを詐欺商売にしている悪徳業者と誤認されたためで、遺憾である。『富くじ法』は明治時代にできた古い法律で、ろくな判例もない。官許の宝くじ以外を日本国民の前から排除したいなら、明確な法律を作ってからにすべきで、今回の警察の行動は職権乱用である」。そして「富くじ法」に関する著名な法律家のコメントを集め、参考資料として添えた。 そのリリースは効果があったようだ。NHKと日経新聞がすぐ話を聞きに来たし、始めは警視庁記者クラブの情報だけで事件を報道しようとしていた新聞各社も、「……と、ワールドマガジン社は反論している」という論調の記事にしてくれた。残念ながら、記者クラブ発表をそのまま掲載したところも多かったが。 ぼくのもくろみは、「海外宝くじが違法かどうかは、まだ法廷で決着がついていない」という情報を定着させることだった。弁護士の意見は、「この問題は法曹界全体を巻き込む大論争になるだろう」というもの。ワールドマガジン社うんぬんよりも、はるかに大きな問題になりそうな予感がした。 だが、警察はもっと現実的だった。要は違法な海外宝くじの斡旋をする業者の息の根を止めてしまえばよいので、面倒な法律論争に持ち込むつもりなど毛頭なかったのだ。彼らはワールドマガジン社から押収した顧客リストを元に、海外宝くじを購入した人たちに事情聴取をかけ始めた。逮捕の脅しをちらつかせて。 一般に、欲の皮の突っ張った人たちは、自己保身に敏感である。「楽をして稼ぎたい」という気持ちは、「自分が一番大事」という思いから発しているからだ。たちまちワールドマガジン社の顧客たちはパニックになった。通路を挟んだ向こうにあるワールドマガジン社には、解約の電話がひっきりなしにかかってきた。対応する女の子たちは泣き始めた。 拘留され、毎日取り調べを受けていた青山氏も、ここにきて急に弱気になった。「違法性はない」と頑張っているうちに、自分の城が崩れていくのだから無理もない。「法廷論争に持ち込めば勝ち目がある」というぼくのアドバイスを無視して、略式起訴による罰金刑を受け入れてしまった。これには弁護士も落胆の色を隠せなかった。 社に戻った青山氏が最初に取った行動は、「ワールドマガジン社社員の全員即日解雇」だった。10年やってきた事業の幕引きとしては、あまりに乱暴な話だ。そして彼は「これからは青人社で失った分を取り戻す。今まではバックアップに回っていたが、今日から陣頭指揮を始める」と宣言した。ぼくは目の前が真っ暗になった。金儲けしか頭にない素人が、出版界で暴れるとどうなるかを知っていたからだ。 ぼくの防衛戦は、戦い半ばにして終わってしまった。いい戦いをしていたのに、司令部が勝手に撤退したからだ。「辞表の書き方を調べておくかな」。何となく、そう思った。
2008年01月23日
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強制捜査 新社長の青山氏はかつて、あいであらいふ社で「頭で儲ける時代」の副編集長をしていたとき、海外宝くじの斡旋商売を思いつき、欲の皮の突っ張った読者を会員として囲い込むことに成功した。そしてそのビジネスの危うさを指摘されると、社を去り、独立してワールドマガジン社を始めた。それが短期間で10億円の資産を形成する原動力となり、彼は鶴見に豪邸を建てた。 日本には「富くじ法」という法律がある。正確には刑法187条の第1項「富くじを発売した者は、2年以下の懲役又は150万円以下の罰金に処する」、第2項「富くじ発売の取次ぎをした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する」、第3項「第2項の規定するもののほか、富くじを授受した者は、20万円以下の罰金又は科料に処する」という定めで、明治時代にできたものだ。 この法律には明確な判例がない。唯一、戦前に当時日本領であった台湾のくじの販売斡旋をした大阪の人が罰金刑を受けたというケースがあるだけだ。法律が成立した当時と現在の世相はまったく異なり、しかも地方自治体が第一勧銀(現みずほ銀行)を通じて主催している「宝くじ」の正当性をきちんと規定していない。だから青山氏の始めたビジネスは、法律的なグレーゾーンで稼ごうというものだった。それが将来、危険なことになるというリスクを察知して、あいであらいふ社の嘉藤社長は青山氏を切り離したのだろう。 もちろん、青山氏も裸足で地雷原に飛び込んだわけではなかった。ワールドマガジン社自身が海外宝くじの斡旋をするのはさすがに危険と考え、二段構えのビジネスモデルを構築した。日本のワールドマガジン社は、海外宝くじの魅力を紹介する月刊会員誌「ロッタリー」を編集発行するだけとし、ロサンゼルスに設立したアメリカ法人が日本人向けに海外宝くじ(アメリカのロトくじや、オーストラリア、ドイツなどのくじ)の販売代行をする。その広告媒体が「ロッタリー」であり、雑誌には大量の申し込みハガキが綴じ込まれていた。 海外の法人が日本人向けに海外宝くじを売るのなら、富くじ法の規定を逃れることができる。青山氏はそう考えたわけだ。そしてアメリカの法人には大量の販売斡旋手数料が流入するが、これを法外な「広告掲載料」としてワールドマガジン社に環流させる。これがグレーゾーンから濡れ手で粟でお金を稼ぐ彼の錬金術だった。 ただし、彼にはインターネット時代を迎えた警察当局の焦りが見えていなかった。ワールドマガジン社は10年間「お目こぼし」を受けていただけで、警察が本気になれば、彼の防壁など砂上の楼閣だったのだ。 事態は急速に進展した。青山氏が青人社の社長に就任してから半年後、突然に警察の強制捜査がワールドマガジン社ほか2社に対して行われた。当初の容疑は「海外宝くじの販売斡旋に関する詐欺容疑」だった。他の2社は購入者に対して海外宝くじの送付を行っておらず、完全な詐欺だったが、ワールドマガジン社は詐欺ではなかった。すると警察は罪状を「富くじ罪に」切り替えた。要するに潰したかっただけなのだ。青山氏は翌日、警視庁に任意同行を求められ、その場で逮捕・拘留された。 なぜ警察が急に動いたかと言えば、インターネットを通じての海外宝くじ販売斡旋が急速に増加し、詐欺の被害が膨れあがったからにほかならない。一罰百戒、見せしめにどこかを叩く必要があったのだ。その日の強制捜査で、同じフロアにあった青人社も業務が停止した。ワールドマガジン社強制捜査のニュースは、その日のテレビ、新聞をにぎわせ、ワールドマガジン社には購読解除の電話がひっきりなしにかかってきた。彼が10年で築いた帝国は、一瞬のうちに崩壊してしまった。
2007年12月16日
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社長交代 世の中には、負けが込むほど強気になるタイプの人間がいる。特にこの手はギャンブラーに多く、「いつか勝てば帳消しになる」と信じてどんどん借金を重ねていく。 青人社の廣瀬社長もそういう人物だった。最初に手がけた「起業塾」こそ順調な滑り出しを見せたが、それから彼がプロデュースした雑誌(というか臨時増刊)は、すべてこけた。「大學生」という大こけ雑誌もそのひとつである。 さらに、一度に新卒を5人採用するといったバブリーな荒技も繰り出し、だんだん青人社は迷走するようになっていった。彼は趣味がギャンブル。内心の不安を表に出さずにブラフをかませるのが得意で、いつも人をあっと驚かせるようなアイデアを持ってきた。 しかしそのアイデアも、当たらないと知れ渡ればただの狂気の沙汰である。彼はだんだん内にこもるようになり、人相が険しくなっていった。「このままでは潰れる」というプレッシャーが精神を蝕んでいったのだろう。廣瀬社長とぼくは、学研からの借金3000万円について公正証書を取られていた。国民金融公庫と東京都保証協会からの借金も二人で連帯保証していた。総額5000万円余。もし会社が潰れたら、二人とも破産である。 そんなある日、廣瀬社長から内々の話があった。「資産家の友人を経営陣に加えたい」というのだ。「あ、これは逃げる気だな」とすぐにピンときた。「友人」というのは、海外の宝くじを紹介する会員誌「ロッタリー」を編集発行していた「ワールドマガジン社」の青山という社長だった。よほど仲がいいのかと思ったら、つい最近の知り合いだという。つまり、会社を肩代わりしてくれそうな人物をあちこち探し回っていたということだろう。 ぼくはこの青山という人物に会いに行った。六本木にある小さなビルのオフィスで話し合ったが、廣瀬氏よりはよほどマシな人物に思えた。後になってこの人は警察に逮捕されてしまうのだが、となるとぼくの人を見る目は(少なくとも当時は)かなり甘かったことになる。 青山氏は当時、10億円くらいの資産を持っていた。小さな会員誌の発行だけでそんなに儲かるはずはない。彼は別にロサンゼルスにも会社を持っており、「ロッタリー」の会員に海外宝くじの販売代行をしていた。この売買差益が大きかったのだ(で、それが当局の逆鱗に触れ、明治時代にできた「富くじ法」で処罰されてしまったわけだ)。 社内の意見を聞いてみたが、みんな廣瀬氏の迷走経営には危機感を持っていた。というか、「ノリ」と「ひらめき」だけで出版社をやっていけるはずがないという当たり前のことは若い編集者でもわかる。みんなもう飽き飽きしていたのだ。全社員との(社長抜きでの)緊急ミーティングの結果、まず幹部社員と青山氏の面談を行い、それを待って総意を形成する段取りになった。 青山氏と青人社幹部社員との面談は非常に和やかに進んだ。彼は「ぼくには市販の出版社を経営した経験がないから、みなさんと一緒に勉強しながらやっていきましょう。幸い、しばらく赤字でも困らないだけの資産はあります。ゆくゆくはうちの会社と青人社を合併して、市販と直販の両方で売れる雑誌を作りましょう。そうすれば、かつての親会社である学研を見返すこともできます」とスピーチし、ぼくらに深い感銘を与えた。そしてぼくらに、「社員はひとりも解雇しない」「当面、今の雑誌編集に口は出さない」の2点を約束した。 社員の総意は決定し、廣瀬氏は青山氏に青人社の全株式を譲渡した。こうして、青人社三代目の社長は社を去っていった。
2007年11月11日
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起業塾 新雑誌「起業塾」は、当初「ドリブ」の臨時増刊としてスタートした。「雑誌」というのは、勝手に出していいものではなく、取次に雑誌口座を開設してもらうことで発刊が可能となる。月刊誌、週刊誌、旬刊誌(10 days)、季刊誌、日刊誌(日刊ゲンダイが相当。あれは新聞ではない)、年刊誌などさまざまな発刊形態がある。 新しい雑誌をいきなり定期刊行物として発刊できるのは、信用と資金力のある出版社だけで、その他の出版社は既存の雑誌の「臨時増刊」としてテストを積み重ねなければならない。そうしないと、取次から口座がもらえないのだ。内容的に縁もゆかりもない雑誌の臨時増刊が存在するのは、そういう理由からだ。「起業塾」は、取次との折衝で困難を極めた。「類誌がない」ために部数が読めないというのだ。似ているとすれば老舗の「オール生活」があったが、あちらはバブル期に株式投資にシフトして失敗、かなり部数を落としていた。近いといえば「ドリブ」臨増の「お金ドリブ」くらいだが、これもどちらかといえば投資雑誌。こうして、新世代の独立開業情報誌は困難な船出を強いられた。 しかし朗報もあった。広告営業の調子が抜群だったのだ。このジャンルで最大手の日興企画と良好な関係を築き、たちまち1000万円ほどの広告が集まったのだ。 臨時増刊の場合、事実上は創刊でも「創刊」という文字は使えない。取次に怒られてしまうからだ。そこで「新発刊」なる新語を表紙に入れた。苦肉の策である。表紙は、インパクトのあるフィギュアにした。成功社長の写真を使うのが定番なのだろうが、それだと臭くなる。若い読者向けの「独立のススメ」なのだから、新しいビジュアルが適当に思われた。これは成功したと思う。 ぼくは深く考えて「起業塾」を企画したわけではなかった。しかし蓋を開けてみると、この世界がぼくを呼んでいたようでもあった。その後、独立して「開業マガジン」を作り、独立開業に関する講演をするようになり、ネットショップに深く関わるようになる。「起業塾」はその端緒として、いつまでも忘れることのできない一里塚だ。 ちなみに、青人社が発刊した雑誌で成功したのは、この「起業塾」が最後だった。しかも残念なことに、青人社の末期には「売れる雑誌」として利権化し、商標と営業権が闇の世界でやりとりされ、「起業塾」は青人社の手を離れることとなる。
2007年10月18日
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新社長 馬場さんの後を受けて社長になった宮本さんは、学研の常務だったから、毎日は来られない。しかも就任当初から「自分はピンチヒッター」と公言し、早期に正式な社長と交代したい旨を口にしていた。 そんなある日、学研広告局長の中山さんから呼び出しがあった。ぼくは「社長の件だな」とピンときたので一人で出かけた。「実は、青人社の社長を引き受けたいという人物が出てきたんだ。祥伝社で『微笑』の副編集長をやっていた廣瀬という人で、歳は君の1つか2つ上。彼自身は金がないが、バックに写植屋の社長が付いているから安心できる。一度会ってみないか」 数日後、中山さんと一緒に廣瀬氏が経営している神楽坂の編集プロダクションを訪ねた。パトロンだという写植屋の社長も同席していた。「ボクには金はないけれど、アイデアと企画力は誰にも負けません。雑誌は企画さえ良ければ必ず当たりますから、ボクに任せてくれれば青人社はすぐ立ち直ります。資金的なバックは、こちらの社長が面倒を見てくれます」 口調は滑らかだったが、廣瀬氏はかなり緊張している様子だった。ぼくが平凡社の出身だとか、雑誌と書籍の編集に営業も経験していることを中山さんから聞いていたのだろう。なめられてたまるかという気負いが充満していた。「どうだい、山ちゃんの感想は」と帰り道で中山さんが聞いてきた。ぼくは答えた。「ぼくらに四の五の言う権利があるんですか。学研サイドの腹は廣瀬さんで決まっているんでしょう」「そう言ったら身も蓋もないじゃないか。一応感想を聞いているんだから」「正直言って、わかりません。頼りない気もするし、若さがあって積極的だとも思うし」「だからさ、君がサポートして二人三脚でやればいいんだよ。学研サイドでは君をこの際だから代表取締役専務にしたらどうかという意見も出ているし」 代表取締役専務。考えたこともなかった役職だ。現場の実権を握る実力者。ヤングエグゼクティブ。いろいろな思いが頭の中で渦巻いた。まだ幼い子供たちにも、少しはいい思いをさせてやれるかもしれない。 今から思えば、いいように手玉に取られていたのかもしれない。ぼくは中山さんに合意し、廣瀬新社長を決定事項として社内に伝えた。数か月後、宮本さんから廣瀬さんへのバトンタッチが行われた。 廣瀬新社長は、就任後すぐに精力的な活動を始めた。取次に挨拶に行き、広告代理店を回る。編集長たちと個別に話し合い、編集プロダクションを集めて企画を募集したりした。青人社始まって以来の社員旅行も実施された。箱根の旅館での1泊2日だったが、酒と温泉と麻雀と阿鼻叫喚の一夜だった。 廣瀬さんは二言目には「新雑誌」を口にした。雑誌には賞味期限がある。「ドリブ」はすでに賞味期限切れで、「おとこの遊び専科」もまもなくそうなる。だから今のうちに新雑誌の芽をたくさん用意しておく必要があるというのだ。 ぼくはその対応策として、かつて株ブームの時に臨時増刊としてそれなりの成績を収めていた「お金ドリブ」のリニューアルを提案した。独立開業とサイドビジネスをテーマにした雑誌を作るプランだ。廣瀬さんはその企画に「起業塾」というタイトルをつけた。初代編集長はすったもんだのあげく、宮崎君が就任することになり、ぼくは発行人として後見役を仰せつかった。 こうして青人社に「日本こころの旅」以来の第三の雑誌が誕生した。
2007年09月11日
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社葬馬場さんの遺体は、すぐ寝台車で東久留米の自宅に運ばれた。ぼくらも仕事をやりくりして、仮通夜にのぞむことにした。覚悟していたこととはいえ、社員は皆不安を抱えていた。創業者であるワンマン社長が、後継者も定めずに死んでしまったのだから、それも当然だろう。自分たちの仕事はどうなるのか。そもそも会社は存続できるのか。そのころ、学研本社では緊急の役員会が開かれていた。青人社をどうするかが議題だ。持ち株比率は下がっていたが、青人社はまだ学研の関係会社である。放り出すわけにはいかない。しかし、青人社の社員を学研の正社員として雇用することは避けたかった。だから、適当な外部の人に社長をやってもらい、完全に学研との関係を断ち切るまで、だれか役員が兼任社長として就任するのが望ましかった。そして、経理畑の宮本専務がやってくることになった。ぼくはその知らせを聞いて一安心した。まずは会社が生き残れる。いくらなんでも専務の率いる会社をひどい目に遭わせることはないだろう。後になって、この判断はかなり甘かったと悟ったが、そのときは目の前の問題を片づけることが先決だったのだ。その日もかなり遅くなって、ぼくは馬場さんの自宅に向かった。かつて何度も通った道だ。平凡社時代は、泣く子も黙る常務取締役雑誌部長のところにお年始に行くために、青人社になってからはいろいろな話を聞きに行くために。だがもうその家の主はいない。昭和40年代に、知人の設計家に頼んで作ってもらったという片流れの大屋根を持つ家は、悲しみに包まれていた。門を開けると、庭でムンクの吠える声がした。知っている匂いがやってきたので、ほっとしたのだろう。馬場さんが溺愛したビーグル系の雑種である。子犬のころは本当に元気が良くて、餌を横取りしようとした野鳥を、ジャンプしてやっつけたこともあるという。「飛ぶ鳥を落とす勢いとは、まさにこのことだよ」と昔、馬場さんが自慢していたのを思い出した。部屋に入ると、うちの社員はみんな揃っていた。嵐山さんが一番上座だ。仲良しだったカメラマンの清水さんもいる。扶桑社に去った渡辺さんや河出書房新社に去った三村さんも来ていた。平凡社時代の雑誌部同窓会みたいだ。みんな小声で話しているので、まるでお通夜みたいに陰気だ。お通夜なのだが。やがて、「うわーん」と号泣する声が響いた。「おとこの遊び専科」編集長の大浦君が、感極まって爆発したのだ。彼もぼくと一緒によく慶応病院に通った。ぼくにとって彼は、この時点で唯一頼りにできる編集長だった。嵐山さんが口を開いた。「こういうときに感情を出せるやつは大物だ」本当にそうなのか。何となく言ってみただけのような気がした。馬場さんの葬儀は、五反田近くの桐ヶ谷斎場で行われることとなった。ぼくらは人が集まることが大好きだった馬場さんのために、青山斎場や千日谷会堂を希望したが、学研から拒否された。関係会社の社長が、本社役員をしのぐ規模の葬式をしてはまずいらしい。世の中にはいろいろなルールがあるものだと思った。ここまでくると、感情は抜けてもはや「作業」となる。案内ハガキを作成し、印刷に回す。連絡する人のリストを作り、担当者を決める。学研の総務から人が来て、次々と打ち合わせ。彼らはプロなので、淡々と業務をこなしていく。事務的な手続きがひとつ終わるごとに、どんどん会社から馬場さんの痕跡がなくなっていく。社葬の当日。馬場さんとゆかりのあった人たちが、次々と弔辞を述べた。最後の弔辞は、盟友であった嵐山光三郎だ。「馬場さん、平凡社時代のあなたは威張っていて、ときどきイヤなやつだったけれども、たいていは頼れるボスでした。青人社を一緒に作って、学研の人たちを巻き込み、愉快な職場を築きましたね。もう亡くなってしまったけれど、編集総務の永野部長、生産管理の佐久間本部長、販売の吉田専務。みんな一緒に戦ったサムライたちでした。でもぼくらは普段着のサムライだった。池上線の長原駅。そこから徒歩27秒のオフィスで、チンドン屋の音に負けないように大声を出して編集会議をしましたね。お昼にはみんなで買った買い物カゴを持って、カツオのたたきや豆腐を買いに商店街を歩き回り、和室で車座になって食べました。いつもあなたはビールがないと寂しそうでしたが、みんなの前なので我慢していましたね……」嵐山さん、一世一代の弔辞だった。ぼくは涙で何にも見えなくなった。かろうじて向かいに立っている「ドリブ」編集長の清野さんを見ると、清野さんも泣いていた。席に座っている学研の沢田社長も泣いていた。みんな泣いて、馬場さんを見送った。葬式の翌日、馬場さんの奥さんから電話があった。「ムンクが、亡くなりました。お葬式の後で家に帰ったら、庭の隅っこで。主人が呼んだのだと思います」その瞬間、ぼくの目には晴れ上がった青空を、ムンクを引き連れて散歩している馬場さんの巨体が見えた。馬場さんは、とても嬉しそうだった。
2007年08月03日
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社長の死 一時退院していた馬場さんは、また容態が悪くなって再入院した。さすがに本人も、ただの食道潰瘍ではないと気づいたらしい。病院に見舞いに行っても、むっつりと不機嫌でいることが多くなった。 主治医の先生に話を聞いた。「もう食道が99%腫瘍でふさがっているんです。しかも食道壁の裏側から他の臓器に転移していて、肺と胃に新しいガンができています。肝臓にも転移が始まりました。転移がなければ食道を切除してしまい、胃を細く伸ばして喉につなぐ方法で延命できたのですが」ぼくは思い切って聞いてみた。「抗ガン治療とかは、どうなんでしょう」「いずれにしても手遅れですね。食道ガンは自覚症状が出たときがギリギリのタイミングなんです。喉が通りにくくなったと思ったときには、すでに80%くらいふさがっていますから」 食道がふさがっていると、文字通り食べものが喉を通らない。点滴だけでは体力が弱る一方なので、栄養のある流動食を胃に直接送り込むためのバイパス手術が行われることになった。本人には「腫瘍を取るため」と説明してある。「やっぱりガンだったんだ、でも手術で治るんだ」と思ったせいか、馬場さんは目に見えて明るくなった。しかし、バイパス手術をすると声帯が失われてしまうので、話ができなくなる。そのために、ぼくは小さなホワイトボードを買ってきた。 バイパス手術の後、最初に面会に行ったら、馬場さんは意外に明るかった。手振りで「ホワイトボードを渡せ」と命じている。すぐに手渡した。すると読みにくい字でこう書いた。《間違っていた》「なにが間違っていたのですか」とぼくは尋ねた。《血液型》「輸血でなにか問題が?」《ちがう。O型だった》「馬場さんはA型じゃなかったんですか」《O型だった。50年以上もA型と思って生きてきた》「そうだったんですか。社長は太っ腹だから、やっぱりO型らしいですよ」《良かった。うれしい》 それほどまでにA型なのがイヤだったのかと半ば呆れたが、いずれにしても機嫌がいいのは結構なことだ。すぐに、同行した大浦くんと次号の「おとこの遊び専科」の企画説明をする。案の定、全部OKとなった。 そのとたん、ものすごいうめき声がした。びっくりして馬場さんの顔を見たら、彼も驚いている。うめき声の主は隣のベッドだった。あわててナースコールのボタンを押すが、なかなか返事がない。うめき声はどんどん大きくなり、今にも死にそうに聞こえた。 やがて看護婦さんがやってきて、何か処置をしたらしい。うめき声はおさまった。ほっとして振り返ると、さっきまで馬場さんの横にいた大浦くんの姿がない。廊下に出てみると、彼ははるか彼方に逃げ出していた。顔色が真っ青だ。「オレ、ああいうのダメなんですよ」「だけど慣れないと。これからぼくらは、もっとすごいことを経験するかもしれないんだから」「そうでしたね。もう逃げません」 それから2か月。毎日慶応病院に通ったが、馬場さんは日に日に衰弱していった。ぼくはお見舞いに来る要人たちの相手をしたり、馬場さんと筆談で昔話をしたりして時を過ごしていた。「その日」が刻一刻と近づいている感覚は、なぜか現実感を喪失させていた。 病院から広尾の会社に戻ると、外出していない社員が全員集まってくる。社長の容態を聞くためだ。細かいことを説明しても仕方がないので、アウトラインだけを話すように努めたが、要するにみんな心配なのだ。「これから自分たちはどうなるのか」。それは誰にもわからなかった。 さすがにここまでくると親会社に秘匿しておくわけにはいかなかった。幹部たちと相談した結果、しかるべき人から最適な方法で伝えてもらうのがベストという結論になった。ぼくは馬場さんと仲の良かった販売局長の中山さんと、編集総務部の西島さんに連絡した。 二人とも驚いていたが、それ以上に事態の深刻さを察したのか、黙りこくっていた。学研と青人社はかつての蜜月時代のような関係ではない。学研の創業者である古岡オーナーが亡くなり、そして馬場さんまでいなくなってしまえば、青人社はお荷物扱いされてしまう。東証一部上場企業となった学研の立場から見れば、いくら稼いだところで「おピンク雑誌」を出している関係会社があることは迷惑なのだ。 その関係会社のボスがいなくなり、後継者が育っていないとなれば、イヤでも学研が面倒を見ざるを得ない。解体してしまう手もあるが、そうなると社員をどこかの部署が吸収しなければならなくなる。かつて営業部と広告部を作って独立したときの話が、ふたたび繰り返されるわけだ。だから学研から見れば、馬場さんの健康問題よりも「青人社をどうする」という問題の方が大きかった。 中山局長はぼくにこういった。「君が社長をやれればいいが、そういうわけにもいかないだろう。なにか考えはあるのか」 ぼくは正直に答えた。「ぼくらは雑誌作りの職人でしかありませんから、経営のことはわかりません。ただ、青人社が学研にとって迷惑な存在であることは知っています。たとえば学研をリタイヤした幹部の方が引き受けてくださるという案はどうでしょうか」「わかった。上の人たちと相談しておこう」 それから数日後、病室に行くと馬場さんは眠っていた。修道院でシスターをしているお姉さんが来ていて、「夕べは大変だったのよ」という。夜中に馬場さんが目を覚まし、手振りで歯磨きをしたいと伝えたそうだ。前にも書いたが、馬場さんは歯磨きには特別な執着があるのだ。 ところが、歯磨きの最中に突然表情が変わり、壁を指さして「いやいや」をしたらしい。そして、子供のように怯えて、がたがたと震えだしたのだそうだ。まるで、何か怖いものが壁に出現したかのように。それを家族総出でなだめ、やっと寝かしつけた。だから、そっとしておいてほしいのだという。 ぼくはオカルト信仰者ではないが、ある予感に胸がふさがる思いがした。ちょうどそこにトーハンの元役員が見舞いに来たので、談話室で話をし、玄関まで送っていった。病室に戻ろうとすると、部屋の中がざわついている。奥さんが出てきて、「今、亡くなりました。安らかな死でした」といった。 予感が現実になったわけだが、不思議と何も感じなかった。これから待ったなしでやってくるはずの、現実世界のいろいろな出来事が、猛烈な圧迫感でぼくを締め付けてきた。
2007年07月10日
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社長の異変 青人社も創業10年を迎え、出版界で少しは知られた版元になっていた。しかし平凡社を一緒に辞めた創業メンバーはほとんど社を去っていた。嵐山さん、筒井さんはもの書きとして著名人となり、渡辺さんは若手を何人か連れて「spa!」に行った。三村さんは河出書房新社に移り、西田さんはフリーの編集者になった。残っているのは、ぼくと社長の馬場一郎だけだ。 16人の社員のうち、昔からの仲間がぼくしか残っていないのは寂しかったらしく、馬場さんはよく、ぼくを誘って飲みに行くようになった。知り合いに紹介するときには「こいつは息子のようなものですよ」と過分な押し出しをしてくれた。馬場さんの子供は娘が2人だったから、男の子が欲しかったのかもしれない。 作家でマネー評論家の邱永漢氏と一緒に会食をしていたときのことだ。健啖家で知られた馬場さんだが、いつになく食が進まない。と、突然馬場さんが苦しそうに顔をゆがめて席を立った。ぼくは悪酔いしたのだろうと思ったが、邱さんは何か異変を察知したらしい。馬場さんが席に戻ると、早々にお開きにしようと言い出した。 こと健康に関して、馬場さんほど神経質な人はいない。積極的に運動はしないが、家にぶら下がり健康器を置き、毎朝ぶら下がってから青竹を踏む。娘が犬を連れてきてからは、「ムンク」と名付けたその犬と散歩するようになった。そして毎食後必ず歯磨きを30分。荒くれ編集者を気取っていたぼくらは、「そんなに長生きがしたいのかねえ」と、いつも陰口をきいていたものだ。 そして馬場さんは生命保険が嫌いだった。学研から紹介されて、ニッセイのお姉ちゃんが会社に出入りすることは許したけれど、自分では話も聞こうとしなかった。ぼくらがお姉ちゃんの色香に迷って保険に入ると、「金をドブに捨てるようなものだ」とさんざん嫌味を言った。 ところが、邱さんとの会食の後、何を思ったか馬場さんが1億円の社長保険に入った。そのときぼくらは「節税のためなら、主義主張も曲げるんだな」と朝三暮四ぶりをさんざん嘲笑したものだが、後になってそれは深慮遠謀の賜物であることを思い知らされることになる。 社長保険に入ってから半年ほどたって、幹部が馬場さんに呼ばれた。「じつは、食道に潰瘍ができたので、しばらく検査入院する」という話だ。みんなは「なあに、鬼の霍乱ですから、すぐ良くなりますよ。病院で骨休めしてきてください」と言っていたが、ぼくは半前の異変を思い出し、嫌な予感にとらわれた。馬場さんに何かあったら、この会社はどうなるんだ。 ワンマン会社にはありがちなことだが、青人社にはナンバー2がいない。嵐山さんも筒井さんも西田さんも、みな馬場さんのワンマンぶりに嫌気がさして辞めたようなものだ。譜代の家臣で残っているのはぼくだけだが、ぼくは若すぎるし経験が浅い。学研からやってきたお目付役の葛西さんと菊池さんも、独立するときに戻っていったから、青人社は父親と子供たちだけの組織になっていたのだ。 しばらくしてから、馬場さんの奥さんに呼ばれた。「じつは、食道ガンなんです」。目の前が暗くなった。慶応病院で主治医の先生と話す。「発病は3年くらい前ですかね。食べたものがつっかえるような症状があったはずです」。あれがそうだったのか。 3年前といえば、学研から独立した時分だ。倒産を覚悟してスタートしたのだったが、社長の馬場さんには背負いきれないくらいのプレッシャーがかかっていたのだ。そんなこととはつゆ知らず、ぼくらは結果オーライの好景気に、ただ浮かれていた。お医者さんは余命を「3か月から半年」と診断していた。 奥さんとの申し合わせで、馬場さんには絶対に知らせないことになった。となると、幹部たちとの連携が重要になる。しばらくたってから、メンバーを召集してこの事実を知らせた。みんな一様にショックを受けた。ぼくは全員に箝口令を敷き、学研にも知らせないことを申し合わせた。知られたら、少なくともいいことはひとつもないという予感がしたのだ。 それからというもの、ぼくが連絡係として会社と慶応病院を往復することになった。会社の動向を馬場さんに知らせ、指示を仰いで社に戻る。「ドリブ」と「おとこの遊び専科」については、編集長を同行して毎号の企画説明をして許可を得る。営業の仕事もあるから、急に忙しくなった。 独立時は広告バブルのおかげで大黒字だった青人社だが、営業の立場から見るととても危うい状態だった。「ドリブ」は部数を伸ばせず、「おとこの遊び専科」は葛西さんが去ってからぱっとしなかった。販売収益だけで見れば、どちらも赤字雑誌だったのだ。もしも広告が昔の水準に戻ったら……。試算してみると、倒産は免れない。 ぼくは慶応病院に行き、馬場さんに人事異動の計画を具申した。「ドリブ」はエッチな記事もあるが一般誌なので、広告面では安定しているが、「おとこの遊び専科」はエロ雑誌だから、広告バブルが去るといきなり影響を受ける。だから「おとこの遊び専科」だけでも部数を伸ばし、販売だけでやれるように立て直しておく必要があると思ったのだ。 反対されるかと思ったら、意外にも馬場さんは「思うようにやってみろ」と言ってくれた。その案をただちに実行したところ、新編集長の大浦君が期待通りに活躍してくれて、「おとこの遊び専科」はたちまち息を吹き返した。 馬場さんが退院することになった。末期ガンの患者にはよくあるらしいが、症状が安定している時期に、しばらく家で過ごさせるための措置だそうだ。何も知らずに喜んでいる馬場さんに、ぼくはエルメスのネクタイをプレゼントした。「これを締めて、みんなに元気な姿を見せてくださいね」。相手のためであるにせよ、嘘をつくのはつらいものだ。 退院した馬場さんは、すぐに会社に現れた。全社員を前に、退院の挨拶をしているとき、胸元にはぼくが選んだネクタイがあった。「この姿を目に焼き付けておこう」。ぼくはそう思って、いつまでも社長の顔を見ていた。
2007年06月08日
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書店営業 出版社における営業の仕事は、その版元の性格によってずいぶん違う。雑誌しか出していないところは、取次回りと納品の管理、返品の処理、バックナンバーの品出しがおもな仕事。在庫を抱えることが基本的にないから、倉庫も必要ない。あとは取次から受け取る手形を経理に回して伝票を書くくらいだ。 しかし書籍やムックがあると、仕事はかなり複雑になる。書籍は新刊だけで商売するのではなく、ロングセラーや「コバンザメ売り」、「ワゴンセール」などがあるし、地方新聞の書評とか個人のブログとかをきっかけに突然売れ始めることもあるから、そういう場合の対応もしなければならない。増刷や絶版を決定するのも営業の仕事だ。※コバンザメ売り=書店店頭において、自社や他社の売れている関連本に引っかけて、売りたい本を目立たせる方法。隣に並べたり、書店にフェアやワゴンセールを持ちかけたりする。※ワゴンセール=書店店頭で、同じ著者や同一ジャンルの本をワゴンに積んで売る方法。店員の手書きPOPなどがあると、効果があるといわれる。 ムックはさらに面倒くさい。一般に雑誌と書籍は取次でも扱う部署が違い、別の梱包で届くのだが、ムックは雑誌ルートを流れてくる書籍的な大型本である。返品期限は無期限だから、10年前のものが返ってきても対応しなければならない。そのくせ、製本が書籍よりもヤワだからすぐ造本事故が起きる。返品もヤレ本になっていることが多いので、再出荷できなかったりする。 青人社はムックコードはなかったが、書籍は出していた。なので営業部員は書店営業もしなければならない。といっても大手のように地域分担などはできないから、何かのついでに回ることになる。この「ついで」が各地で開催される「トーハン会」と「日販会」である。 ぼくがよく行ったのは、名古屋と京都、大阪。神戸も震災の後で出かけたし、岡山と広島も1回だけ顔を出したことがある。本当は全国に行くべきなのだが、そうなると部決と出張でほとんど会社にいられなくなってしまう。書店蒔きの拡販チラシもぼくがMacで作っていたので、会社にいる日がないのはまずい。そういうわけで、売れ筋の地域にしか行けなかったのだ。 最初に名古屋のトーハン会に行ったのは、馬場さんがかつて平凡社の営業課長だったころ、名古屋を得意にしていたからだった。トーハンの支店長や有力書店である星野書店の社長などが知り合いなので、電話で「よろしく頼む」と言ってもらえばすぐ顔つなぎができると思ったのだ。実際、「人脈というものはすごい」と思い知ることになった。 名古屋ではもう一つ、忘れられないエピソードがある。立風書房の営業の人がトーハン会でいろいろな書店に紹介してくれたので、彼にくっついてその後も回ることにしたのだが、最後は書店の2階で飲み会になった。池下三洋堂という三洋堂書店の本家が会場で、そこに小学館や岩波書店をはじめとする出版社の営業部員が20名ほど顔を揃えていた。 出版界は、編集こそライバル同士だが、営業は横の連帯が驚くほど強い。「競っているのは編集で、俺たちは同業者」という感覚があるからだ。しかも会社の大小にまったく関係なく平等に付き合う。仲のいい営業部員のチラシを預かり、「俺がついでに撒いてきてやるよ」などということは日常茶飯事だ。取次に行って顔を合わせたりすると、その後の行動が一緒になったりする。そのまま飲みに行くことも多いのだ。 話は戻って池下三洋堂の2階。飲み会を仕切っている加藤専務は強烈な握力の持ち主で、いっぱいに入っている日本酒の一升瓶を、底の部分を片手で握って相手に注いだりする。子供のころから梱包された本を運んでいたので、ひとりでにそうなったのだそうだ。「まずは握手」と挨拶されたが、1時間くらい手が痛かった。 この会には恐ろしい掟がある。新人会員は、大きな土鍋のフタを持たされ、湯気抜きの穴を指で押さえて捧げ持つ。そこに専務が片手で持った一升瓶の酒をどばどばと注ぐ。そして自己紹介の後、飲み終えるまで立ったままでいなければならないというのだ。20人が車座になっての飲み会だから、土鍋は当然巨大。そのフタには、軽く5合は入ると思われた。 どうやって飲んだのか、もう覚えていないが、ぼくはなんとかその酒を飲み干した。途中、「おい、はやくフタをくれよ。煮詰まっちゃうだろう」と催促されたのを覚えている。 それでも翌日、朝からチラシを持って拡売に行ったのだから、あの時代はタフだった。もしかすると訪問先の書店は、酒臭さに辟易して注文用紙にハンコをついてくれたのかもしれない。
2007年05月20日
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営業部へ異動 ぼくは出戻りの「ドリブ」編集部で日々を過ごしていたが、社長の馬場さんは悩みを抱えていた。学研から広告と営業を独立させ、広告部は奥薗さん、石川さん、宮木さんの三人体制で景気よく回っていたが、一方の営業部が今ひとつだったからだ。 営業部には学研グループの立風書房から元常務の吉原さんを迎え、新人の倉田くんと二人の体制だったが、定年退職者と新人では年齢差がありすぎて、組織の体をなしていなかった。 馬場さんは「太陽」の編集長になる前は、営業課長だった。平凡社という会社は、職種に関係なく異動させるところで、編集と営業を両方経験するのが当たり前だった。ところが吉原さんも倉田くんも編集経験がない。馬場さんは編集者の誰かを営業に投入したかったのだ。 とはいいながら、小さな会社では本人の意に反した異動を命じて辞められてしまうと、補充が大変。それで悩んでいたというわけだ。それがわかったとたん、ぼくはなぜか「ここらで営業を経験しておくのも悪くないな」と思った。それはいかなるインスピレーションだったのか、今でもよくわからないのだが、なぜかそのときはそう思ったのだ。「馬場さん、よければぼくが営業に行きましょうか」 と口にしたとき、よほどびっくりしたのだろう。馬場さんはお茶が変なところに入ってしまい、激しくむせこんだ。そして咳がおさまっても、しばらく人の顔を見たまま、黙っていた。やがて、目をぱちぱちさせながら、「本当に、いいのか」といった。 ぼくが本気ですがというと、「そうか。それはありがたい決断だ。うん、ありがたい」と、半ば独り言のようにつぶやき、すぐに吉原さんを呼んだ。「明日から山崎くんを営業に回す。対外的には営業部長ということにするが、実際は見習いなので、営業の『いろは』から促成培養で教えてやってください。取次や主要な書店への紹介もよろしく頼みます」 吉原さんは男気のある温厚な人で、人望もあった。ぼくは平凡社時代の研修で、出版営業の原理原則は教わっていたが、細かいところはすべて吉原さんから教わった。「歩戻し」などという複雑怪奇なルールは、編集だけやっていたら知らないままでおわっていただろう。返品になった雑誌を古紙回収業者に回し、一部をバックナンバー用に戻させる手続きなども、このとき教わった。 それからは毎日、「吉原学校」での個人教授となった。本の流通経路を細部まで把握し、取次との交渉の仕方、売上管理の方法、在庫の棚卸しなど、毎日が新鮮なことの連続だった。ぼくは吉原さんが手書きでファイリングしていた書類を預かり、すべてMacのファイルメーカーに入力して、営業データベースを作った。売れていると思った雑誌がそうでもなかったり、売れていないと思った雑誌が意外な利益を出していた。作る一方ではダメなんだと、今さらながら思い知った。 取次との部数交渉は、倉田くんとぼくが二人で行くことになった。高齢の吉原さんにとって、月に2回、取引のある取次すべてを回るのは、かなりの負担だったのだ。最初は吉原さんと一緒に行ってもらい、「うちの営業部長です。よろしくお願いします」と紹介されたが、実力に見合っていない肩書は、面はゆいばかりだった。 部数交渉は、別名「部決」ともいう。月刊誌は毎号、取次と交渉して搬入部数を決める必要があるのだ。売れていれば部数を増やしてくれるし、返品が多くなれば削られる。出版社の営業部員の仕事は、そのときに部数が増える方向で交渉することだ。編集部から吸い上げた情報を提供し、「売れそう」と思わせるのがコツとなる。 青人社はトーハン、日販、栗田、大阪屋、中央社、太洋社、協和の取次7社と、鉄道弘済会、たきやま、東京即売、東都春陽堂、啓徳社の即売5社と取引していた。これらを「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の発売2週間前に回って部数交渉するので、月に2回訪問しなければならない。トーハンと太洋社、大阪屋は江戸川橋、日販は御茶ノ水、栗田、中央社は志村坂上、協和は板橋本町という具合に訪問先は分かれているので、即売も入れると1誌の部決には3、4日はかかる。ぼくらはそれを「部決週間」と呼んでいた。つまり、月のうち2週間は取次回りで潰れてしまうのだ。 部決に行くといっても、特に相手先の予約を取るわけではない。次号の企画書を持って、勝手に取次の雑誌仕入れ窓口に行って並ぶだけだ。運が悪いと何十人も先客がいて、たっぷり何時間も待たされたりする。予約制でない医者と同じだ。自分たちの番が来ると、担当者の前に座って、社名と誌名、雑誌コードをいう。すると担当者は端末を叩き、販売実績表を呼び出して、仕入れ部数を増やすか、据え置くか、減らすかを考える。多くの場合は据え置きだ。 雑誌の売れ行きが芳しくないと、仕入れ担当者の顔つきが険しくなる。「うーん、弱りましたね。ここのところ、全国的に落ちていますよ」などと牽制される。こっちもだいたいの様子はつかんでいるから、「そうなんですよ。そこで次号からはこんな新連載をスタートさせます」と部数を減らされないためのトークを展開することになる。 それでも減らされてしまうと、部決の足取りは重くなる。ひとつの取次で減らされるときは、たいてい軒並みダウンとなるからだ。トーハンで減らされ、太洋社でも減らされると、次の大阪屋は死守したい雰囲気になる。それがうまくいくと、志村坂上の2社でもがんばろうと意気込み、栗田で据え置き、中央社で微減みたいな結果となる。取次全体で1万部落としたりすると、なんとか即売で挽回できないかと死力を尽くす。 取次は基本的に書店とコンビニだが、即売は販売ルートが違う。鉄道弘済会はキオスク全店、あとの即売4社は雑誌スタンドや中小コンビニ、私鉄系の駅売店が販売拠点だ。だから書店の売り上げが落ちていても、即売系は逆に伸びていたりする。そのために、取次で減らされると、即売に力が入るのだ。 すべての部決が終わると、合計部数と取次・即売別の搬入部数内訳を作成し、印刷所に渡す。その作業をしていると、社長が様子を見に来る。「どうだい、部決は」「厳しいですねえ。トーハンで5000減らされました」「合計は」「即売で積んでもらったので、3000ダウンです」「そうか、編集にハッパをかけないと、いかんな」 雑誌を出している出版社は、基本的に編集部門以外は黒子である。しかし黒子同士は連帯していて、こちらが本当の会社みたいなものだ。営業に移ってみて、そのことが身に染みてよくわかった。
2007年03月26日
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「フロッピー入稿」と「DOS変換」 ぼくが「ドリブ」に戻ったころ、「フロッピー入稿」というものが始まった。それまで手書き原稿やワープロ印字原稿に朱入れをして文字原稿としていたものを、データで入稿することにしたものだ。 つまり、それまでは写植オペレーターが原稿を読んで文字データを打ち込んでいた作業を、省いてしまおうというわけだ。 メリットは、納期の短縮と校正の簡略化。A4判の雑誌原稿だと、4ページ分を入力して校正紙を出すのに、どうしても中1日はかかる。しかし文字入力の必要がなくなれば、翌日には出せる。〆切が1日ずらせるのである。それに写植オペレーターが打ち込むという転記作業がなくなることで、誤字脱字の可能性も低くなる。だから初校の校正に必須だった「読み合わせ」が省略できるわけだ。 デメリットは、入稿作業が面倒なこと。東芝「ルポ」の独自形式で保存したフロッピーは使えないから、いったん「DOS変換」というやつをやらなければならない。MS-DOS形式でフォーマットしたフロッピー・ディスクを別に用意して、それに変換したデータを記録するのだ。 ぼくはすぐ慣れたが、「どうしてそうしなければならないのか」「自分が何の作業をしているのか」が飲み込めない編集者たちは、「おーい、誰か変換してー」と他人をあてにしていた。 おまけに、プリントアウトに朱入れした原稿も添付しなければならない。TEXT形式のデータでは、書体の種類や大きさ、ルビや「縦中横」の指定ができないからだ。 つまり編集者にとっては、従来の入稿原稿に加えて、フロッピー・ディスクの準備作業が余分に加わったことになる。「なんで俺たちがこんな面倒なことをしなくちゃいけないんだ」と、怒ったりぼやいたりする声が渦巻き、編集部は殺伐とした雰囲気になった。編集長の清野さんは、われ関せずと手書き原稿を相変わらず入れている。凸版印刷との取り決めでは、「ワープロで作成した文字原稿は、MS-DOS形式のフロッピー・ディスクを添付する」となっていたから、手書き原稿派の人は関係ないのだ。 ところで当時編集部には、6台の「ルポ」があったが、MS-DOS変換機能があるのは、そのうち3台。編集者は15人だったから、〆切が近づくとワープロの争奪戦が起きる。そして入稿時にはDOS変換を巡って、ふたたび争いが。それを嫌って自前のワープロを購入する編集者も現れたが、機種はみなバラバラ。編集部は「オアシス」「書院」「文豪」「カシオワード」「キャノワード」「マイリポート」などで百花繚乱のありさまとなった。そうなると、誰かが休んだ場合、その原稿を修正するのはほとんど不可能。手書きだったら、簡単に修正できたのに。技術の進歩とは、わずかな効率のアップと引き替えに多大な犠牲を要求するものなのだと悟ったのであった。
2007年03月25日
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再び「ドリブ」へ ムックコードのない青人社は、「日本こころの旅」を出すことができない。そのために編集部は解散し、ぼくは書籍の仕事を担当していた。過去に「ドリブ」で連載した記事をまとめるもので、邱永漢、福富太郎、松本孝、サエキけんぞう・伊藤銀次といった人たちの本を作った。 そろそろネタ切れで、やることがなくなってきたなーと思ったころ、ドリブ編集長の清野さんから声がかかった。清野さんは青人社ができたときに取材に来たフリーライターで、会社の雰囲気が気に入って、そのまま居座ってしまったという経歴の持ち主である。「若いスタッフばっかりになったら、進行がめちゃめちゃになってしまい、凸版から毎月クレームが入っている」のだそうだ。で、ぼくにデスクをやれという。 若くして編集長を経験してしまったぼくは、もう一度組織の中で自分を見つめ直す必要を感じていた。だから、中間管理職もいいかなとOKした。凸版印刷の早部さんは大喜びで、「おとこの遊び専科」みたいな進行をしてくれるのなら、校了日を繰り下げてもいいと言ってきた。 もちろん、ただデスクをやるだけでは体がなまってしまうから、自分のページも持たせてもらうことにした。早速、流行の兆しを見せていた「伝言ダイヤル」の取材をしたいと申し出た。ダイヤルQ2は大事な広告源でもあったので、すぐに企画は通った。 とはいうものの、ありきたりの紹介記事ではつまらない。まずは実態調査ということで、約1か月の間、伝言ダイヤルにはまってみた。自慢じゃないがぼくはマメでしつこい性格だから、たちまち女性の知り合いがたくさんできた。そのときにできた友人の一人は、今もマイミクである。 デスクの仕事に就いてみると、若い編集者たちの実力のなさに唖然とした。彼らは格好こそは雑誌編集者だが、教養もなければガッツもない。一番悲しいのは、ポリシーがないことだ。適当に興味の湧いた企画を通し、ライターに取材させて、カメラマンに写真を撮らせて、イラストレーターに挿絵を描かせる。自分がやっていることといえば、デザイン事務所に材料を運び、できたレイアウトを関係者にFAXして原稿を待つだけ。大出版社の編集者によくあるスタイルを真似しているだけなのである。 ダイヤルQ2の広告で潤ってはいたが、雑誌の売れ行きそのものは伸び悩んでいた。その原因が「大企業病」とは思ってもみなかった。彼らは当たり前のようにタクシーを使い、バイク便を走らせ、高額の会合費を請求する。編集部は腐り始めていた。 ぼくは編集部に次のような通達を出した。「自分で書く企画を必ず1本は持つように」。そしていい加減な進行をする編集者をきびしく追求した。その結果、素行不良の似非編集者が次々と会社を辞めていった。 そのころ、清野さんがアウトドア企画を導入し始めた。「書を捨てよ、旅に出よう」の気分を読者に伝えようと考えたのである。編集部にアウトドアのわかる人間は彼とぼくの二人しかいない。編集長とデスクが合作する企画がスタートした。 ただし清野さんはバックパッカー派、ぼくはオートキャンプ派。アウトドアという共通項はあっても、その内容と精神は水と油である。「あの二人、取材先で大げんかするんじゃないのか」というのが、編集部の噂になった。
2007年03月07日
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Macで作ったもの Macを使うのに慣れてくると、いろいろなものを作りたくなった。最初に手がけたのは「地図」。雑誌の記事に登場するお店などの小さな地図をイラストレーターで作るのだ。書体が中ゴシックと細明朝しかなかったから、複雑な文字組みができないという事情もあった。「地図、作ろうか?」と社内で注文を取ったら、山のような発注が来て閉口したものだ。内製だから〆切はぎりぎりまで延ばせる。しかも、いくら直しても請求ゼロ。他誌の校了日に徹夜する羽目になった。 それからはエスカレートの一途。モリサワの書体をひととおり揃え、汚いダイナフォントにも手を出し、著作権フリーの写真を大量に購入した。いろいろな技法書も買いあさり、読んでは試してみた。新しくつきあい始めたデザイン事務所が出力センターの仕事もしていたため、版下出力はそこに頼むことにした。 おかげで青人社の名刺、はがき印刷は完全に内製になった。学研の生産管理から「最近、小口印刷の仕事がこないけど、よそに頼んでいるの?」と聞かれ、胸を張って「Macで内製しています」と答えたりした。最先端のことをやっているという自負で、毎日が充実していた。 そんなある日、凸版印刷の早部さんから、こんなことを言われた。「せっかくMacを使っているのに、版下出力止まりじゃ宝の持ち腐れじゃないですか」 まったくその通りと反省し、雑誌に掲載する自社広告をMacで作ることにした。 最初は自信がなかったのでフイルム入稿。出力センターにMOを持っていき、できあがったフイルムをルーペで隅々まで検版。まるで印刷所の製版担当者みたいだと笑われた。毛抜き合わせの精度が悪く、コンマ1mmくらいの隙間が空いているのを発見し、自分のふがいなさにはらわたが煮えくりかえる思いをしたこともあった。校了時に訂正するというのは、それと同様にフイルムを無駄にすることだと知り、完全原稿の重要性を再認識したものだ。 やがてフイルム入稿からMO入稿へ、1色原稿から4色原稿へとスキルが上がり、DTPへの自信が深まっていく。雑誌や書籍がオールDTPになるのは時間の問題だと予感した。しかし、早部さんは浮かない顔をしていた。「山崎さんに協力していると、うちの仕事がどんどん減ってしまうんですよ」 なるほど、雑誌がオールDTPになってしまえば、印刷所はただ刷版を作り、印刷するだけの存在になってしまう。ドル箱の製版業務がなくなれば、印刷会社の売上げは激減だ。システムが変わるということは、経済的な悲喜劇を生むのだと痛感した。 ぼくがいろいろなものを内製していると聞いて、出入りの写植屋さんたちがよく見学に来た。彼らにとってDTPは親の仇のようなものだが、敵を知らなければ対処はできない。説明を繰り返しているうちに、写植屋さんに2タイプがあることがわかった。 ひとつは旧態依然の頑迷なタイプ。サイバードなどに多額の投資をしていて、気分的に後に引けないため、黎明期のDTPの弱点を探そうと鵜の目鷹の目であら探しをする。「書体が少ないねえ。写研が使えないんじゃ話になりませんな。縦組みの字詰めが汚いですよ」と、文句ばかり言って帰っていく。 もうひとつは、頭の柔軟な人々。「これ一式でいくらですか。ほお、それは安い。テスト用に何を買えばいいのか、リストを作ってくれますか」と、はなはだ実務的だ。電算写植機に比べればMacはただみたいに安いし、写研の文字盤に比べればモリサワのポストスクリプト書体は激安。一式入れて若い人に習熟させておこうと考えたのだろう。そういう会社は今もDTP屋さんとして立派に生き残っている。 どちらでもない写植屋さんで、ひとつ気の毒な例があった。社長さんみずから見学に来たのだが、DTPの可能性を理解してガクガクブルブル。「昨晩は一睡もできませんでした」と電話をしてきた。その会社は2、3人の少人数で、資金的にもゆとりがなかった。「ぼくでも使えるのだから、社長さんならすぐに覚えられますよ。安いのを入れてみませんか」とすすめたのだが、「いやあ、もう頭が固くて…」と否定的。あの会社、どうなったかなあと心配していたら、数年後に社長さんは首を吊った。 DTPの勉強をしているとき、ひょんなことから「オンデマンドプリント」という言葉を聞き、それに興味を持つようになった。イスラエル製のE-Printやザイコンといった、カラーコピーの延長線上にある印刷機が続々と上陸してきたのだ。それらを使えば、「一部からの印刷物」が作れるようになる。それからは大倉商事、トッパンムーアなど、オンデマンドプリンターに関連する会社へ見学に行くようになった。
2007年02月07日
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Macとの出会い 広尾一丁目にあった青人社の最寄り駅は、JR山手線と地下鉄日比谷線の恵比寿駅、または地下鉄日比谷線の広尾駅だった。日比谷線というのは意外に使えない路線で、六本木、日比谷、築地あたりに用事がないと、乗る機会がない。なのでぼくらはもっぱら、恵比寿駅周辺を徘徊していた。 当時、恵比寿駅のそばに、キヤノン販売がやっている「ゼロワンショップ」があった。ぼくはどんな分野でもショールームと名の付くところが大好きなので、よく暇つぶしに遊びに行った。何度も行けば顔見知りの人ができるのは自然の成り行きで、ぼくにも挨拶をしてくれる人ができた。 当時のゼロワンショップといえば、Macを売る店だ。しかしぼくはMacを「パソコン界のポルシェ」程度にしか認識していなかったから、ひやかし以上の興味はなかった。それなのに社長を騙して総額300万円の稟議を通し、以来四半世紀のMacファンとなった原点は、このゼロワンショップにある。 どういうきっかけで見積書をもらうまでに話が発展したのか、今となっては忘却の彼方だが、たぶんぼくが自分の仕事の内容を事細かに説明し、対応した営業マン(まことに申し訳ないことに名前を失念している。名刺ホルダーをくまなく探せば見つかるのだが、ここで固有名詞を出す必要もないだろう)が熱意を持ってそれに対応したからだと思う。 当時のぼくは、DTPという言葉も、その概念も会得してはいなかった。だが、持ち前の野次馬根性で印刷所に行けば工場を覗いていたから、印刷工程のネックが組版と製版にあることは知っていた。だから「Macで組版と製版ができることはご存じですよね」という言葉にころっと参ってしまった。 パソコンで組版ができれば、写植代が軽減できるし、何よりも制作日数が短縮できる。当時の自動車雑誌やモノ関係の情報誌は、印刷所の出張校正室で原稿を書くのが当たり前になっていた。最新の情報を電話で入手し、その場で原稿を書いて、校正時に差し替えるのである。差し替えるのが前提だったから、元のページはレイアウトで枠だけができているものだったりした。 そういうお祭り騒ぎが、パソコンの力で不要になる。これはすごいと思った。また、「四色分解」「網点ポジ」という製版作業が編集部でできるようになれば、最後の最後まで出版に責任を負う人たちがコントロールできる。「あなた任せ」の仕事が減ることで、ぎりぎりまで粘って記事作りができるのだ。 可能性が見えた途端、ゼロワンショップ行きは「お遊び」から「仕事モード」へと変質した。「こういうことはできるの?」「こういう原稿にはどう対応すればいいの?」ぼくの質問は、かなり専門的かつ具体的なものだったはずだ。何しろ、もうそれを使うつもりでいたのだから。 見積書はヒラのサラリーマンから見れば巨額になった。「Mac2(←ローマ数字だが、機種依存文字なので)本体と増設メモリー」「21インチカラーモニター」「レーザーイメージライター」「スキャナー」「MO」「フォトショップ」「イラストレーター」「クオークエクスプレス」「イージーワード」「表計算ソフト(←当時エクセルはグラフが作れなかったので、アスキーが売っている別のソフトを選んだ)」全部で300万円超。 社長に提出した稟議書には、およそ考えられる限りの節減効果を列挙した。「版下製作費が不要になる」「パソコン通信(←古い!)でデータが送れるので、デザイン事務所へのアルバイト交通費が不要になる」「すべての原稿が一元管理できるので、使い回しが楽になる」「本誌で作った原稿を別冊等でそのまま使える」「ぎりぎりまで〆切が延ばせるので印刷直しが減る」…などなど。 機械音痴の社長が、この冒険的な投資に同意してくれた理由は、平凡社時代に電算写植の威力を学んでいたことと、学研に対して先進的なところを見せたいという見栄の二つだったと思う。そうでなければ、若造が「これからの本は、コンピューターで作るのが当たり前になります」などと生意気を言ったら、ぺしゃんこにされていたはずだ。そういう人なのだ。 Macが納品されてからというもの、ぼくは毎日会社に居残り、通常の仕事を終えてからMacの前でひたすら学び続けた。始発までやって帰宅し、午後1時に出社するという生活を半年続けた。そのおかげで、Macの基本からフォトショップ、イラストレーター、クオークの基礎はひととおりマスターすることができた。 次にやったのは、自社広告の版下をMacで作ること。ドリブのデザイナーのところに通い、一緒になって試行錯誤を続けた。写植では写研の文字がスタンダードだったが、Macの日本語書体はモリサワが主流。だから使う文字も気を遣わなければならない。欧文との混植で起こる問題や、モニターでは大丈夫と思えても版下にすると出てくる違和感などについても、デザイナーからたくさん助言をもらった。 社長の気持ちを汲んで、学研の「マイコン委員会」なるサークルにも参加した。おどろいたことに学研では、まだパソコンをDTPではなく業務簡素化の道具としかとらえていなかった。なのでそこで勉強するのはデータベースの構築ばかり。不満だったが、「これなら抜けるな」と密かに思ったものだった。 今から思えば傲慢不遜な若者時代だったが、あのころ馬鹿みたいにMacにむしゃぶりついたから、こんなロートルになっても仕事にあぶれずにすんでいるのかもしれない。編集・ライターの世界で、「参りました」と思うほどDTPに詳しい人にはまだ出くわしていない。
2006年12月21日
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「ケチ」 広告収入の飛躍的な増大で、青人社は学研からの独立による財政的危機を乗り切り、黒字基調で決算を迎えた。売上金額は約10億円。経常利益は1億円を超えた。ということは、数千万円の税金を支払うわけだ。 ぼくらは連日、社長の机の周りに集まり、さまざまな陳情を繰り返した。「机と椅子を新調してほしい」「編集者の仮眠施設を作ってほしい」「電車の中吊りポスターを復活してほしい」「もっときれいなビルに引っ越したい」…。 要するに、みんな税金を払うのがもったいないと感じていたのだ。だから経費で使ってしまおうと、さまざまなプランを持って社長を責め立てたというわけだ。だがしかし、社長が許可したのは冷蔵庫の買い換えと、ポータブルワープロ5台の購入だけ。どちらもぼくの稟議だ。大型冷蔵庫への買い換えは、社長が夕方飲むビールを冷やすのに必要だったし、5台のワープロは、当時進行しつつあった原稿の電子化に対応するために、どうしても譲れないものだった。しかし、その他の要望はすべて却下された。「あのケチ社長がなぜ税金を払うのか」という疑問で、社内は騒然となった。そのことに関する質問を、社長はいっさい受け付けなかったので、疑問は様々な憶測を呼んだ。 ひとつの答えが提示されたのは、それから数ヶ月たった後のことだった。業界紙に出版社のランキングが掲載されたのである。いち早く社長が赤鉛筆で印を付けたところには、青人社の名前が第50位として載っていた。「どうかね。平凡社はこの中にないんだよ」と得意満面で語る社長の顔を見て、ぼくらは「ああ、社長はこのランキングに載りたいから税金を払ったのだ」と納得した。コストの高い見栄だと、やりきれない思いだった。 しかし、その理解は甘かった。それから3年後に社長が食道ガンで死去したとき、学研の経理担当役員が「あのときの税金は、馬場くんの役員報酬を払うためのものだよ。税引き後の利益を見て、役員報酬というのは支払われるのだから」と、こともなげに語ったのが真相だった。社長は自分のボーナスを少しでも多くするために、ぼくらの要望を蹴ったのだ。 その時点ではまだそんな駆け引きは知らなかったが、ぼくは「この社長から何かを引き出すには、騙さなければダメだな」と悟っていた。それが、翌年のマッキントッシュ購入につながる。ぼくはDTPの個人的な実験をするために、総額300万円の買い物をしようとしていたのだ。
2006年12月05日
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「神風」 学研から切り離され、グループ会社となった青人社は、「2年で倒産する」と予想されていた。その根拠は、月150万円ペースの赤字だった。「ドリブ」と「おとこの遊び専科」が稼ぎ出すわずかな黒字では、30人の所帯をまかなう一般管理費が出てこない。それまでは「日本こころの旅」などのムックで帳尻を合わせていたが、ムックが出せない環境では赤字がもろに出てしまう。 馬場社長は独立に当たって、「出を制し、入を増やす」という当然の策を講じた。まず、創刊以来続いてきた「ドリブ」の車内広告をやめた。これで 300万円の節約ができる。次いで編集制作費を10%カットした。タクシーの使用については、理由書の添付が義務づけられた。典型的な赤字企業の「縮小再生産モデル」である。 収入を増やすためには、書籍編集部の新設、広告営業の活発化が実施された。少し前から社長の趣味でスタートしていた「歴史百人一話シリーズ」に加えて、「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の人気連載を書籍化することになったのだ。ぼくは「書籍部編集長」の肩書を与えられ、責任者になった。 広告部には「これまで断ってきた広告を、全部載せろ」という指示が出た。学研広告部は殿様商売なので、少しでもいかがわしい広告は掲載を拒否していた。それを拾いまって売上げを向上させようと考えたのだ。 だがそれら一連の戦略は、一歩間違えば「典型的な三流出版社倒産への軌跡」となる恐れがあった。宣伝や制作費をケチれば、雑誌の売れ行きは必ず落ちる。「企画力でカバーしろ」というのは「竹槍精神論」にすぎない。また、慣れない書籍作りは赤字を増やすだけになるかもしれない。広告の掲載基準緩和は、誌面を汚らしくして読者離れに拍車をかける危険性があった。 ぼくはそう言って社長の案に反対した。だが、社長は顔を真っ赤にして怒鳴った。「きみの言っているのは、書生論だ。そういうことは、きちんと収益が出てから言うものだ!」彼は激しく机を叩き、社内を睥睨した。本当は社長も、こんなことはやりたくないのだ。ほかに方法が見つからないので、自分に腹を立てているのだ。ぼくはそれを理解して、引き下がった。あとに無力感が残った。 新設された広告部は、掲載基準の緩和を喜んだ。それまで通りの広告営業なら、学研広告部の人たちが築いた人脈を引き継ぐだけだが、基準が変われば新しいクライアントと代理店との付き合いができる。二人の営業マン、奥薗部長と石川主任は、もともとそういう世界が得意な人たちだった。その効果はすぐに現れ、聞いたこともないような名前の広告代理店から、電話がじゃんじゃんかかるようになった。 嵐の第一陣は、当時ピークにさしかかっていた「結婚紹介ビジネス」だった。アルトマン、OMMG、ダイヤモンドといった「コンピュータで理想の広告相手をご紹介します」という商売が大流行していたが、どこも女性会員ばかりで男性会員が少なかった。そこでハガキつきカラー見開き広告を「ドリブ」に掲載したところ、空前のリピート率を記録したため、業界の全社がレギュラー出稿するようになったのだ。 ハガキ付き見開き広告は、「折」という16ページ単位の製本上の境目にしか入れられない。「ドリブ」の台割上、その位置は8箇所しかなかったが、そのうち6箇所が「結構紹介ビジネス」のハガキ付き見開き広告で占拠されることとなった。編集部は「扉ページが作れなくて格好が悪い」とかなんとか文句を言ったが、毎月1200万円の広告収入を前にしては、黙るしかなかった。 続いて、「おとこの遊び専科」の1色タテ1/3広告がいっぱいになった。「美容整形」の広告を解禁したため、新宿形成クリニックや高須クリニックをはじめとする包茎カッターたちが、財力にものを言わせてスペースを買いまくったのだ。ただし、医事法によって病院の広告は院長名と専門科目、所在地と連絡先くらいしか載せられない。そこで彼らは本を作ってその宣伝をしたり、レーシングチームに出資してそのニュースを載せさせたり、あの手この手の戦略を駆使した。「遊び専科」のスペースが埋まると、その勢いは「ドリブ」を襲うこととなった。 そして本格的な神風が吹いた。「ダイヤルQ2」の大流行による「パーティライン」「2ショット」「伝言ダイヤル」などの「出会い系サービス」が、雪崩のように「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の1色ページを埋め尽くしたのだ。「ダイヤルQ2」を利用した風俗産業は、女性会員はフリーダイヤルで無料にしておき、男性会員から法外な通話サービス料をせしめて利益を出す構造である。素直にお金を払う男を集めるには、「彼女いない歴」が長く、勤め人で一人住まいの多い「ドリブ」と「おとこの遊び専科」の読者を狙うのが最適だったのだ。 その手の広告は、カラーページである必要はない。なるべく暗く、いかがわしい雰囲気の広告のほうが、反響があるものだ。「角雑」と呼ばれる、記事の隅に入る小さな広告スペースや、ヨコ1/5という記事の下一段をとる広告スペースが、真っ先に売れていった。広告部長の奥薗さんは、馬場さんに進言して「連合広告」を解禁させた。これは、広告代理店に1ページ単位でスペースを買わせ、代理店が団地のようにそのページをコマ割りして再販売するものだ。見た目がお世辞にも上品とは言えないので、一流誌では見ることはない。「号あたり5ページまで」としたそのスペースも、先の先まで埋まってしまった。「すみませんが、来月号は先週満稿になりました。その次の号もまもなく満稿ですから、お申し込みはお早めにお願いします。1/3ですか? 年内は無理です。記事タイアップでよければ、10月号で取れますが」 広告デスクの宮木さんが申し訳なさそうに電話で答える言葉が、まるで留守番電話の応答メッセージのように思える日々が続いた。「ドリブ」と「遊び専科」を合わせた広告収入は、毎号5000万円を突破。学研広告部時代に比べると、4000万円の増収となった。年商ベースに直せば、5億円近い伸びである。「赤字」や「倒産」という言葉は、完全に過去のものになった。「社長、これは税金対策をしないと大変ですよ」満面に笑みをたたえた経理部長の鈴木さんが、口癖のように馬場さんに声をかけるようになった。
2006年11月24日
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青人社始まって以来の「正規採用」がスタートした。ぼくは広告代理店に入稿する求人広告の文案を作り、ペーパーテストの問題を作り、学研の各部署と調整のためにかけずり回った。それと並行して、広告部長と営業顧問のヘッドハンティングも行われていた。ぼくはそちらにはタッチしていなかったが、学研広告部から推薦されてきた部長と顧問が広告部に内定し、立風書房の常務だった人が営業顧問として内定した。採用試験では営業部員1名と広告部員1名、それに編集部員も1名入れた。ペーパーテストで一番の成績を取った人物は、なぜか学研人事部からNGと言われ、面接候補から外すことになった。どうやら何かの調査で弾かれたらしい。会社を維持していくために知らなければならないことがたくさんあると思い知らされた。学研から出向で来ていた「おとこの遊び専科」編集長と、「日本こころの旅」編集部員は、このタイミングで学研に戻された。「等身大ヌードポスター」の発案者であった葛西編集長はこの後しばらくして交通事故で亡くなった。学研に戻ってからは、すっかり元気をなくしていたという。気の毒な話だ。ぼくにとって最大のイベントは、会社の引っ越しを任されたこと。広告部と営業部を抱えることになっては、長原のスーパー二階ではいかにも手狭である。そのために、馬場社長の悲願であった「山手線内への引っ越し」が実行されることとなったのだ。候補物件は学研が借りている不動産の中から探さなければならない。いくつかの候補を見て回り、渋谷区広尾一丁目の長谷部第三ビルに決定した。広さは約50坪。家賃は上がるが、志気も上がる。ぼくは不動産屋からもらった部屋の図面をたくさん拡大コピーし、什器備品のレイアウトを始めた。青人社最初の引っ越しは、喧噪の中に無事終了し、ぼくはすべての役目を終えて、肩の荷を下ろした。新しいオフィスは明治通りに面した日当たりのいい5階。それまでの商店街とはうってかわった、オフィスらしいオフィスである。でも、チンドン屋がくるたびに会議を中断した長原のオフィスが懐かしくもあった。こうして新生・青人社は、独立した出版社としての第一歩を踏み出した。「2年で倒産」という不吉な予測は気分を重くしたが、「やってみなくちゃわからない」という半ばやけっぱちの決意で、ぼくらは未知の世界に足を踏み入れたのだ。「神風」が吹いて、空前の好景気に全員が腰を抜かすのは、それから半年後の話だ。
2006年11月16日
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隔月刊「日本こころの旅」も13巻を数えたころ、大事件が勃発した。学研が青人社に「出版社としての独立」を迫ってきたのである。どういうことかというと、これまで青人社は営業部門と広告部門をもたず、それを全部学研に委託してきた。青人社の作った雑誌に広告を入れるのは学研広告局で、販売するのは学研販売局だったのである。つまり、青人社は編集部門のみの出版社だったわけだ。独立することになった理由は、「ドリブ」と「おとこの遊び専科」だった。学研が東京証券取引所に株を上場することになったので、「おピンク雑誌」を出していると株主から文句が出るというのである。「教育産業といいながら、なぜ裸雑誌を出しているのか」と突っ込まれたくなかったのだろう。慌てたのは社長である。これまでは学研から編集費をもらって本を作っていたから、財政難になれば臨時増刊を作ってしのぐことができた。しかし独立すればそうはいかない。雑誌が売れなければたちまち倒産なのだ。しかも、営業部門と広告部門に経験者を雇い入れなければならない。一時は、学研との間で「立風書房との合併」も画策された。しかし立風書房社長の「死んでも裸雑誌と一緒になるのはイヤだ」の猛反対で頓挫する。学研経理局の試算では「青人社は2年もたない」という暗い予測が出た。社長・馬場一郎の苦悩は、このときがピークだったと思う。進めば2年後の倒産、退けば会社解散。3年後に社長の命を奪った食道ガンは、医者の推測によるとこのとき発症したのではないかという。毎日一人で浴びるように酒を飲み、虚空を睨んで何事か考え込んでいた彼の姿には、鬼気迫るものがあった。そして、社長の決断は「独立」。ただちに販売営業と広告営業の要員採用、取次との折衝、学研との引き継ぎが開始された。「日本こころの旅」編集部は解散。なぜなら、この本は「学研ムック」というコードで出版されていたため、ムックコードのない青人社では引き継げないからだ。ぼくは「遊軍」として、新体制構築の雑務を任された。最初の仕事は採用計画の立案と求人広告の制作。すべてが「大至急」の仕事だった。
2006年11月05日
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自分の好きなテーマに固執する青人社社長と、売れ行き第一に考える学研販売局の確執は、号を追うごとにエスカレートした。というか、実質的に編集プロダクションでしかない青人社が、リスクを取って販売を担当している学研に盾突くというのが、そもそも理に適っていないのだった。社長は「次は郷土料理をやりなさい」と言い、つい最近、郷土料理の豪華全集を出して苦戦していた学研販売局は、「冗談じゃない」と息巻く。間に入ってぼくは、「陶芸と郷土料理」という折衷案を出し、なんとかゴーサインをもらうことができた。陶芸を特集した号は、過去に好成績を収めていたため、学研も賛成してくれたのだ。この特集は、全国を3つに分けて、3冊で完結するようにした。1冊で全国を網羅すると取材コストがかかりすぎて、しかも内容が薄くなると考えたからだ。それに、毎回テーマがなかなか決まらないために取材期間がタイトになり、スタッフもみな疲弊していた。3分冊という形にすれば、少なくとも第2集と第3集はゆったりしたスケジュールで作れる。一気にまとめて作れば、休みも取れるかもしれない。のちに映画の「ロード・オブ・ザ・リング」が同じ手法で3部作を完成させたが、スポンサーさえ口説き落とせれば、この方法は大作を製作するときに有効なのだ。取材はいつものように、スタッフを4班に分けて送り出すことからスタートした。カメラマンも編集者ももう慣れているので、多くを指示する必要はない。ぼくは今回、東京に残って第2集と第3集の準備をすることにした。この号から編集部に新人が入ってきた。学研広告部から「あの雑誌がやりたい」と出向でやってきた女性である。薩摩焼の人間国宝の娘で、気の強い大酒飲みだった。彼女については、おもしろいエピソードがある。エッセイの筆者を探させたら、とても頼めそうもない有名人の売れっ子ばかりをリストアップしてきたので、これも勉強だと思って「頼んでみな」と言ったら、片端から承諾を取ってしまうのだ。一番驚いたのは水上勉氏のOKを電話1本で取ったこと。「君は知り合いの作家と同姓同名なんだね」と気に入られ、わずか2週間先の〆切を飲んでもらったのだ。おまけに「先生のお名前、なんとお読みするのですか」と、こちらの心臓が潰れるような質問をしたあげく、「みずかみ・つとむ」という意外な答えを引き出した。「みなかみ・べん」と表記されても、いちいち訂正するのが面倒なので放っておいたそうだ。強心臓は何かにつけて得である。ちなみにこの女性、水上勉氏の作品をひとつも読んだことがなかったのだが、それは後で知った。最初から知っていたら、絶対に電話などさせなかっただろう。この号は、北海道・東北・関東・信越・北陸が1冊にまとまっている。郷土料理で全国を3分冊にするなら、こういう編成にはならなかったと思うが、陶芸の窯場を紹介する必要があるので、関東以北がまとめられてしまったのだ。おかげでこの第1集は、うまそうなものがてんこ盛りである。
2006年10月24日
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「日本こころの旅」第5号〈ふるさとの民芸・城下町編〉は、全体を5ブロック構成とした。・東北(弘前、角館、盛岡、会津若松)・中部北陸(金沢、高山、松本)・関東(江戸)・中国四国(津和野、姫路、丸亀)・九州(柳川、豊後竹田)取材エリアを選定するのに骨が折れたが、取材スタッフを決定するのもひと苦労だった。みんな好きなところへ行きたがるからである。仕方がないので強権を発動し、強引に割り振った。東北チーム:(編)北原徹、(写)清水啓治中部チーム:(編)佐藤憲司、(写)関谷雄輔関東チーム:(編)沖田真知子、(写)若目田幸平中国チーム:(編)山崎修、(写)井上博道九州チーム:(編)菅間文乃、(写)吉田一夫ぼくは奈良のベテランカメラマン、井上博道氏と津和野、姫路、丸亀の順に取材して回ることとなった。民芸の取材対象は、石州和紙、姫路張り子、明珍火箸、白革細工、丸金団扇、一貫張り、張り子の虎に決めた。津和野は水の町で、津和野川と町中にめぐらされた用水には、でっかい鯉がうようよ。暇つぶしに津和野川にかかる橋から食パンをちぎって投げたら、水面が鯉とウグイでごちゃごちゃになった。姫路では国宝の白鷺城をメインカットにしようと思っていたが、天気予報はあいにく下り坂。しかもカメラマンの井上先生が授業のために大阪に戻りたいという。「困りますよ。明後日は雨ですよ」「いや、絶対に晴れにしてみせるから」で、小雨の降る中を撮影に向かったのだが、あら不思議、井上カメラマンが三脚をセットし終わった瞬間に雨はからりと上がり、なんと青空まで顔を出した。丸亀では丸金団扇(「まるこん」と読みます。金比羅さんのお土産品だからね)の製造工程を、骨組みから仕上げまで取材。今では団扇といえばプラスチックの骨が当たり前だが、竹細工の繊細な味わいにすっかり参ってしまった。和紙、竹、漆。日本人の生活から遠くなった素材だが、自然の恵みを生かした道具は、持つ人の心を優しくする。この号の筆者は、吉田光邦(巻頭言)、白洲正子、高井有一、古井由吉、松山猛、加堂秀三、町春草、フランソワーズ・モレシャン、田村隆一、山崎しげ子、後藤みな子。今回は地方取材だったので、ホテルから毎日電話をかけまくってアポ取りをした。チェックアウトのたびに、電話代にびびったものだ。できあがりは非常に満足のいくものだったが、やはり民芸はマイナーなテーマだったらしく、売れ行きはいまいち。6号で挽回しなければ次がないという状況に追い込まれた。
2006年10月11日
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「茶の湯紀行」の次の号は、テーマを巡って紛糾した。 ぼくは「四季の俳画」か「奥の細道」をテーマにしたいと思っていたが、社長は「城下町の民芸」をごり押ししてきた。 社長の馬場一郎という人は、とにかく言いだしたら聞かないワンマンタイプ。ぼくが気遣ってかつての「別冊太陽」方式の編集手法を実施したことで、いろいろな思いに火をつけてしまったようだ。 学研販売局は「民芸はマイナーで売れない。まして城下町など演歌の世界だ」と一顧だにしない。ぼくは間に挟まって、身動きが取れなくなってしまった。 ぼくが学研に足を運んで決めてきた譲歩案を、社長が蹴飛ばしてしまうのだから仕方がない。ついに堪忍袋の緒が切れて、社長に「ご自分で交渉するか、一任するか、どちらかにしてください」と書き置きを残し、自宅にこもった。編集スタッフにも連絡するまで出てこなくていいと言い渡した。 すると翌日、会社の人間から電話があった。社長が昼からビールを飲んで酔っぱらっているという。仕方がないので様子を見に行った。ぼくが席についても、社長は顔を合わせようとしない。頑固なくせに、シャイなのだ。こりゃどうにもならんと、立ち上がったとたんに「山崎君!」と大声で呼ばれた。「何でしょうか」と、わざと慇懃に応対すると、彼は困ったような顔をして「城下町を外したら、民芸で行けるか」と聞いてくる。「わかりませんが、たぶん」「では、それで頼む」 こうして障害は取り除かれ、第5号「ふるさとの民芸」は取材開始となった。揉めている間に10日の時が過ぎ、取材時間は残り少なくなっていた。
2006年10月02日
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ひさご寿司二階でのラフレイアウトは順調に進み、いよいよ表紙を選定する場面となった。ぼくは清水さんが撮影した名古屋城猿面茶席が一番だと思ったが、社長は「茶の湯の本は茶碗が表紙でなければならない」と譲らない。一応、根津美術館の重文「雨漏堅手茶碗」を候補に選び、学研販売局と相談することとした。 これにてカラーページの編集作業はデザイナーの手に移り、すべてのカラーページの材料を手に、池田さんは帰路についた。普通のグラフィック誌では、テーマごとに少しずつデザイン入れをするものだが、ぼくらは「別冊太陽」の流儀で作ることにしていた。そのほうが全体を見渡しながらデザイナーが作業できるからだ。100ページ以上の写真や見出し原稿を一度に渡されるので、デザイナーの受けるプレッシャーは大きいが、それをこなせる人に頼んでいるので安心だった。 さて、学研販売局の返事は、「そりゃ茶碗のほうが強いでしょう」というものだった。社長は得意顔だったが、そうなるとみんなに公約した「一番いい写真を表紙に使う」という約束が果たせなくなってしまう。悩んだあげくに、ぼくはカバーと表紙のデザインをまったく別のものとすることにした。カバーの表紙は「売るためのもの」で、カバーを外した本表紙は「保存するためのもの」。これなら表紙に好きな写真が使える。ついでに、カバー裏に二色印刷でイラストマップを入れることにした。 こうして、カバー表紙は「雨漏堅手茶碗」、本表紙は「名古屋城猿面茶席」となり、ぼくはスタッフへの公約を果たすことができた。だが、今ならそんなことをしたら、製作部から大目玉を食らってしまう。カバーと本表紙の図柄は同一とするのが常識で、しかもたいてい本表紙は一色刷り。それなのに別の四色デザインとし、さらにカバー裏にも二色印刷の図柄があるのだから、印刷コストは当然高くなる。おまけにこの本は広告とのかねあいでカバーの折り返しが深く、手折りでないとかけられない。まったく優雅な時代の産物だったのだ。 できあがった「茶の湯紀行」は、幸いにも上々の売れ行きを見せた。編集部には読者からの電話が鳴り響き、「予約購読したい」「ほかにはどんな号があるのか」などの質問に忙殺されることとなった。うれしい悲鳴とは、まさにこのことだ。しかし、次号の企画をめぐって、社長と学研販売局が対立してしまう。せっかくの新編集部に、早くも暗雲がたれ込めた。
2006年09月24日
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とにかく「茶の湯紀行」の取材はスタートした。ぼくは京都に行き、祇園ホテルに陣取って、この号とこれから先を固めるために、毎日いろいろな人に会いに行った。「別冊太陽」のころにさんざんお世話になった祇園ホテルだが、じつはこの歳になるまで京都のほかの宿を知らない。修学旅行で泊まったのはもちろん別の宿なのだが、記憶がない。なぜこのホテルがいいのかと言えば、とにかく祇園や木屋町に至近であること。べろべろに酔っぱらっても、這って帰れるロケーションであることは、とてもありがたい。 京都では連日、歴史家の百瀬明治氏に会い、飲んだくれながらいろいろなアイデアを練った。京都における文壇バーである「蘭」に毎日顔を出し、ママからもいろいろな知恵を授けてもらった。とにかく、京都の文化人は人脈。ぼくの武器と言えば「元平凡社」しかないのだから、それを頼りにつながりを広げるしかない。 ホテルには毎日、取材班から電話がかかってきた。市役所の観光課から文句を言われたとか、取れたと思ったアポが取れてなかったとか。そのたびに、「とにかく本を出すために善処しなさい」と励ました。編集部という組織は、官僚社会ではない。編集長と言っても、たいした権限はないのだ。それぞれの編集者やカメラマン、デザイナーやイラストレーターが最大限の仕事をするようにお膳立てをする。そのための存在でしかない。 あんまり取材チームからの文句が多いので、ぼくは一計を案じた。「今回の取材写真の中で、最高傑作を表紙にする。その取材チームはみんなの前で表彰する」と。たちまち文句はやみ、各地の編集者とカメラマンのコンビは、早朝から日没までいい写真を求めて走り回ることになった。 ぼくも京都から戻り、横浜・鎌倉の取材でかけずり回る。詩人の白石かずこ氏と横浜・三渓園を取材し、道中ずっとアレン・ギンズバーグの話を聞かされた。おもしろいおばさんだった。 すべての取材が終了し、現像が上がると、ぼくは長原のひさご寿司に電話して、二階の座敷を予約した。「別冊太陽」恒例の、「ラフレイアウト」を再現するためである。「別冊太陽」は、1冊分の取材が終わると、雑誌部長の馬場さんを六階の座敷に招き、デザイナーとともにカラーページの編成をするのが恒例だった。馬場さんは青人社の社長になってから、すっかり経営に翻弄されていたので、昔に戻ってもらおうと思ったのだ。 デザイナーの池田枝郎氏と編集スタッフ、そして馬場さんが座敷に陣取り、懐かしい「ラフレイアウト」が始まった。
2006年09月09日
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ぼくが担当する「日本こころの旅No.4」は、3か月後に発売が迫っていた。スタッフは組織できたものの、まだ企画は固まっていない。社長から「何をやるつもりか」と聞かれても、しばらくはだんまりを通していた。 もちろん腹づもりはあった。ぼくは「太陽」と「別冊太陽」を、合わせて2年と少ししか経験していなかったけれど、暇なときにバックナンバーに目を通していたし、昔話として売れ行きが落ちたときにどんな企画で息を吹き返したかなどを聞いていた。それらのデータから、テーマは「茶道」以外にはないと思っていた。 茶道は、日本を代表する伝統文化である。陶芸、いけばな、民芸、書道、建築などの周辺文化と密接にリンクし、茶道人口は「家元制度」というヒエラルキーで強固に組織されている。歴史的な茶室を軸に、茶道文化を旅の形で切り取ることは、十分にできると思われた。 ただし、問題もある。最大勢力の裏千家、格式の高い表千家という二大勢力の協力を取り付けないと、取材も撮影もうまくいかない。それどころか、企画そのものが頓挫してしまう可能性もある。たとえば、カメラマンから写真を借りるにしても、「裏千家の承諾がないと貸せない」と言われてしまうのだ。 幸い、ぼくは各勢力のキーマンを知っていた。正確に言うと「知っていた」のではなく、「盗み聞きしてメモってあった」のだが、とにかく誰に話を通せばうまくいくのかを理解していた。編集部で先輩たちが話していた会話の中で「裏千家はあの人が鍵だよな」「表千家の宗匠も、あの人には頭が上がらないらしいよ」といった情報をキャッチし、こっそりメモしていたのだ。 そこで、企画を正式に披露する前に、その人たちに手紙を出しておいた。「平凡社時代は大変お世話になりました。ご存じの通り『太陽』『別冊太陽』の主要スタッフは社を離れ、現在は学習研究社の庇護の元で雑誌作りにいそしんでおります。ところで、このたび新雑誌を創刊し、とてもよい売れ行きで進展しております。そこで次号の企画を『茶の湯紀行』とし、日本の伝統文化を愛する人たちに、いま一度茶の湯の魅力を見つけ直してもらおうと考えました……」 裏千家、表千家の両方から「協力する」との返事をもらい、ぼくは「茶の湯紀行」の企画を発表した。案の定、社長が「裏と表は大丈夫か?」と聞いてきたので、手紙の返事を見せた。ダメ社員だと思っていた男が、意外に手際のいい仕事をしているので、社長は目を白黒させていた。 A4ムック144ページのうち、カラーは104ページ。それを4つに割って、「仙台・金沢・名古屋・彦根」「京都・宇治」「松江・萩・博多・熊本」「東京・横浜・鎌倉」とした。取材チームも4つ作り、同時に各地に飛んでもらう。どこを取材するかは、担当編集者が調べて案を練るように命じた。ぼくは「東京・横浜・鎌倉」を担当したが、あとの3人には「地元のキーマンをつかまえて、その人のコネで仕事をするように」と言った。机上の知識で雑誌を作ると、生きが悪くなるからだ。 それからロケ以外の企画を仕込み始めた。まず紀行文の筆者だが、海野弘、奈良本辰也、百瀬明治、矢部誠一郎、古川薫、白石かずこの諸氏にお願いした。ぼくらは知名度が低いので、例によって手紙作戦である。「太陽」元編集長の海野さん、飲み友だちの百瀬さん、面識のある奈良本先生を除いては初対面だ。幸い、全員快く承諾してくれた。 巻頭対談は細川護貞氏と早乙女貢氏。「戦国武将と茶の心」というテーマで語り合ってもらうこととした。場所は細川邸に近い目白の椿山荘。細川さんの息子が首相になる前の話だ。なぜ細川さんを選んだかというと、この人は表千家宗匠の義父で、日本いけばな協会の会長だから。キーマンを出しておけば、いろいろと都合がいいのだ。それに、熊本県には圧倒的に顔が利く。なんたって「先のお殿様」なのだから。 エッセイは岡本太郎、重兼芳子、木村昭平、草柳文恵の諸氏に依頼した。これでようやく、雑誌の形が見えてきた。
2006年08月31日
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編集長になった喜びなど感じる間もなく、ぼくは編集部づくりのために飛び回った。 というのは、前任者の制作体制はとても編集部などといえるものではなく、単なるフリーの寄せ集めだったからだ。編集方針、台割、企画会議などは編集長の頭の中だけに存在していて、編集長が不在だと、どうにもならない状態だったのだ。 ぼくはそういう天才肌の仕事はできない。信頼できるスタッフを集め、役割を明確にし、会議でお互いが言いたいことを主張してから、企画を集約していくやり方しかできない。情報は共有するのが前提で、誰が休んでも雑誌が作れるのでなければ、安心して眠ることもできないと思っていた。 会社から与えられたぼくの手駒は、新入社員の北原くんただ一人。右も左もわからないが、とにかく一人前の編集者になりたいという彼のバイタリティーだけを信じて、スタッフ集めを開始した。 最初の仕事はAD(アートディレクター)の確保。グラフィック誌の場合、感性の優れた、しかもスタッフと馴染んで仕事をしてくれるADの確保は必要不可欠なのだが、ぼくが考えていたのはさらに一歩進んで、編集部と気持ちの上で一体になってくれる人だった。 もっと欲を言えば、平凡社でムックを作った経験のある人がいい。「日本こころの旅」は、別冊太陽群のアップ・トゥ・デイト版だから、こちゃこちゃした情報誌上がりの人では企画に芯が通せない。ただしご老体には無茶な進行がお願いできないので、その中でも比較的若い人である必要があった。 結果、「太陽コレクション」でADを勤めていた池田枝郎さんが候補者になった。ぼく自身は一緒に仕事をしたことはなかったが、青人社で出し続けていた「年賀状特選」の最新号で1冊丸ごとのデザインを担当し、あいかわらずの「まとめの強さ」を見せていた。 デザイナーが決まったら、次はデスクと中核になる編集者の獲得だ。まずは「ドリブ」で何度も取材を頼んでいた菅間文乃さんに常駐スタッフをお願いした。日本文化を対象にする雑誌では、育ちの悪い人は使えない。立ち居振る舞いで「お里が知れる」と、相手が心を開いてくれないからだ。その点、彼女なら申し分なかった。 次いで、「太陽シリーズ」の編集者、佐藤信二さんにも協力をお願いする。佐藤さんは雑誌二課の大先輩で、ぼくがエレベーターで腰を抜かした「あ、ここ誤植じゃない?」といういたずらをした人だ。性格が穏やかで、センスのいいベテランだと尊敬していたので、取材チームの一翼を担ってもらうことにした。 デスクは、佐藤憲司さん。唯一の前体制からの留任者だ。出版の進行に強く、細かいこともおろそかにしない人なので、留まってもらうことにした。 組閣は終わったが、まだ大切な人事が残っていた。それはカメラマンスタッフの組織である。新体制の「日本こころの旅」では、A4フルサイズの誌面を生かしたレイアウトを実現しようとしていた。つまり、「1ページ裁ち落とし」「見開き裁ち落とし」の多用である。「裁ち落とし」とは、インクジェットプリンタの広告でおなじみの「ふちなし印刷」と同じ意味。余白なしで写真を掲載することだ。これをするためには、4×5インチのカメラが扱えるカメラマンでなければならない。35ミリ、ブローニー判(6×4.5、6×6、6×7、6×8、6×9など)、そして4 ×5となると、取材は大荷物になる。車が使える、またはアシスタントのいるカメラマンでないと、仕事にならないだろう。 まず最初にお願いしたのは、平凡社写真部でアシスタントをしていた清水啓二さん。物撮りに強く、使える機材も多様で、青人社にもっとも馴染んでいるカメラマンだったため、順当な人選だった。次いで佐藤信二さんの紹介で、広告畑だが骨董品マニアの関谷雄輔さんが決まる。あとは関西在住のカメラマンだ。ぼくの知り合いから、奈良の井上博道さんと、大阪の太陽賞カメラマン吉田一夫さんにお願いすることにした。こうしてスタッフの人選はひとまず終了。勢揃いした編集スタッフの顔をを眺めると老若男女、バラエティー豊かな人たちである。「これは、成功するな」とぼくは直感した。そのとき頭に浮かんだフレーズは、ハインライン「宇宙の戦士」に出てくる次のような文章だった。Rasczak: "I only have one rule: Everyone fights, noone quits. If you don't do your job, I'll shoot you." 次はいよいよ企画を決定する番だ。社長との話し合いを翌日に控えて、ぼくはアイデアを煮詰め始めていた。
2006年08月24日
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「おとこの遊び専科」は、等身大ヌードポスターという強力な武器を手に入れて、躍進を続けた。ただ皮肉なことに、その武器が部数増の足を引っ張った。というのは、印刷機が老兵なため印刷速度が遅く、色合わせに時間がかかったり、一定部数刷ったところでメンテナンスをしなければならず、大部数を刷るのが困難だったからだ。特殊な折り加工も時間がかかるので、20万部とかはとても無理。学研販売局とも相談し、20万部以内で返品率を下げるのが最大効率という結論に達した。その矢先、家に編集長から電話があった。なにやら不機嫌そうな声である。「明日の10時に、社長から話があるよ。俺は内容を知っているが、今は言わない」なんだろうと思いながら、翌日いつもより早めに出社した。社長からの話というのは、新たな仕事の拝命だった。半年前にスタートした「日本こころの旅」というムックがあったのだが、販売が好調なので季刊を隔月刊にしようとしたところ、編集長が辞めてしまったのだ。家族に病人がいるので、今以上の激務には耐えられないというのが理由だった。このムックは「別冊太陽」を今風にアレンジしたような体裁で、「日本文化を旅の形で紹介するグラフィック誌」というキャッチフレーズだった。だがそのような本を作るには、たとえば「太陽」や「別冊太陽」を作ったことのある編集者が必要だった。そしていま会社に残っている旧平凡社の人間は、社長を除けばぼくしかいなかった。こうしてぼくは編集長になった。棚からぼたもちの昇進だった。
2006年08月14日
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数日後、学研業務局生産管理部の中右さんから電話があった。「やれますよ。印刷も、折りもOKです。苦労しましたが、テスト結果も上々です」日本に1台しかないという「A4倍判」の印刷機を使って、等身大ポスターを縦に2枚並べて印刷。その印刷所が持っている断裁機で周囲とまん中をカットし、それを折り工場に運ぶ。折り工場では畳表を折る機械でまずポスターを半分に折り、そのあとは普通の折り機でA4の雑誌に挟めるサイズにまで折るのだそうだ。心配された「割れ」も、畳表を折る機械を使うことで回避できた。さすがは学研。普通の出版社では、こういう発想は出てこない。すぐに販売局と打ち合わせし、折ったポスターをビニールの袋に入れ、袋に雑誌名と雑誌コードを印刷することで、取次の了承を取ってもらう。あとは撮影の段取りだけだ。編集プロダクションの社長とは、かんかんがくがくの議論となった。彼は編集よりもキャスティングと撮影が専門なので、こういう話になると熱が入る。「用途を考えると、寝かせて撮りたいですね。真俯瞰の撮影ができるスタジオを探す必要があります。印刷の大きさを考えればカメラは4×5、レンズは360mm。だとすれば、撮影距離は10mはほしいですね」探したところ、意外に近い場所に条件に合うスタジオが見つかった。天井が三階の高さにあり、屋上の小屋から天井に開いた穴を通して真俯瞰の撮影ができる。すぐに機材を持って確認に行ったが、編集部員を寝かせて撮ったポラロイド写真は、歪みもなく撮れていた。そして記念すべき第1回の撮影日。何が起るのか、よく飲み込めていない様子のAV嬢を台に寝かせ、左右を3台ずつの大型ストロボで挟み、撮影はスタートした。モデルには恥じらいを含んだ驚きの表情をしてもらい、手の指を大きく広げ、脚はやや内股気味に。髪はふわっと周囲に広げる。何度も巻尺で寸法をチェックし、撮影終了。いい感じの写真が撮れた。雑誌のレイアウトは原寸で指定するのだが、等身大ポスターはそういうわけにはいかない。デザイナーのところには、そんな拡大率のトレーススコープがないからだ。しかたがないのでレイアウトは実寸の1/6で作ることにした。製版もそのサイズで行い、あとで「目のばし」をする予定だったからだ。ところで、この時代はまだアンダーヘアが解禁になっていない。ところが撮影したフィルムにはヘアがばっちり。当然、製版時にモザイク処理をすることとなる。それをどう指定したものか悩んでいたら、印刷所から「立ち会ってくれ」と連絡が入った。アンダーヘアのモザイク処理をやったことがないのだそうだ。この時代に、それをしたことがないとは、どんな高貴な印刷所だろうと名前を聞いてびっくり。「東京印書館」という、平凡社の兄弟会社だったのだ。もちろん、「太陽」「別冊太陽」でさんざんお世話になったところである。知り合いだってたくさんいる。製版当日、デザイナーと東武東上線の成増駅で待ち合わせ、通い慣れた道を歩いて東京印書館へ。まず営業部に顔を出すと、学研担当の土師さん、平凡社担当の大友さん、ほか何人か知った顔がいる。「山崎さん、今回はすごい仕事を持ってきてくれたんだって」と大友さんが言う。新人のころ、彼にはずいぶん迷惑をかけた。原稿の分量を間違えて発注してしまい、一度打った写植が全部無駄になったこともある。「すみません。原稿の文字組みを変更します」と伝えたら、無駄になった写植の印画紙を「二度と間違えないように、これを持っていなさい」と渡されたのだった。製版室からは、女子社員が全員外に出された。ヌード写真の加工なので、オペレーターの気が散らないようにするためだという。この会社は、いつでも本気の製版をしてくれるが、それにしてもすごい対応だ。デザイナーと二人で製版オペレーターを挟み、サイテックス社のレスポンスでモザイク加工を進めていく。今ならフォトショップで一発だが、当時はイスラエル製のこの機械でなければ、モザイク処理はできなかったのだ。登場したとき、「写真から電線が消せる」というので有名になった機械だ。AV嬢のアンダーヘアは、普通の女の子よりかなり刈り込まれている。ハイレグに対応するためと、いろいろなポーズを取ってもヘアが写らないようにするためだ。だから股間に縦に味付海苔が貼ってあるように見えてしまう。それをそのままモザイク処理すると、かなり不自然だ。そこでデザイナーと二人で、モザイクに色をつける注文を始めた。「そこ、それは煉瓦色」「もうちょっと暗く、どどめ色」「ヘアの中にちらっとピンク色を見せましょう」「このへんまではみだしているみたいに」仕事なのだが、どうにも妙な気分だった。数日後、またデザイナーと成増に行く。今度は印刷立会いだ。三菱重工製のA4倍判試作印刷機は、輪転機が全盛になる前に作られたもの。多面付けでコストダウンを図ろうとしたものだが、現実には操作が難しく、色調整にも熟練の技が必要だったため、試作のみに終わった印刷機だ。今までは駅貼りポスターの用途でかろうじて生き延びてきたのだが、ぼくらの妙な企画のおかげで、急に日の目を浴びたのだという。最新の印刷機はコンピュータ制御なので、一人のオペレーターがコントロールするが、この機械はなんと8人で動かす。4色の各シリンダーに一人ずつ、給紙と排紙に一人ずつ、油をさして回る人が一人、そして全体の指揮を執る班長だ。「まるで小さな軍艦ですね」とぼくが言ったら、班長さんは嬉しそうだった。テスト刷りを始めるが、色むらがひどくて、とても見られたものじゃない。30分くらいたって、かなりマシになったが、写真原稿からはほど遠い。すると班長さんは刷版の現場に電話をかけ、版を作り替えることを指示した。巨大なアルミ板のオフセット刷版が4枚、無駄になったのだ。そういう大がかりな作業を繰り返し、6時間後に満足できる刷り出しが得られた。ぼくは赤マジックで刷り出しに「OK。山崎」とサインして、印刷現場を後にした。翌日、折りの現場に立会いに行く。今度はぼくと生産管理部の中右さんの二人だ。いかにも町工場然としたところに入っていくと、奥から見たようなおばさんが駆け寄ってきた。「修ちゃん、修ちゃんね。まあ、立派になって」板橋に住んでいたとき、隣の路地の奥に住んでいた矢野さんだった。「立派」とは言えないかもしれない仕事なのだが、昔なじみにこんなところで出会うとは思わなかった。矢野さんに実家の電話番号を教え、折り機のところに向かう。断裁が済んだ等身大ポスターは、みごとだった。それを職人さんたちが熟練の手つきで折り機にセットしていく。その作業は鮮やかだったが、それを見ているうちに、「折っていないポスターは、通販商品になるかも」とひらめいた。中右さんに、「予備のポスターは、折らないでうちに送ってください」と伝える。これが後日、ドル箱となる通販ビジネスにつながったのだ。「雑誌界初の等身大ヌードポスター」を付録にした「おとこの遊び専科」は、完売した。そして毎号レギュラーの付録となり、この雑誌の黄金時代を迎える。苦労したが、達成感のほうがずっと大きかった。
2006年07月31日
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「おとこの遊び専科」は快進撃を続け、部数も安定してきた。すると、誌面にマンネリズムの影が差すようになってきた。読者というのは敏感なもので、ちょっとでもこちらが手を抜くと、てきめんに実売率に跳ね返ってくる。ぼくは毎晩、編集長と飲みながら打開策を練った。「こんなのはできないだろうか」と、ある日編集長が言い出した。「きのうベッドでぼけっと寝そべっていたら、天井のシミが女の子のヌードに見えてきたんだよ。で、思ったんだけど『等身大のヌードポスター』とかがあったら、彼女のいない男が天井に貼って楽しむんじゃないか」等身大ということは、天地1.7mの印刷物だ。撮影はなんとかできるとして、問題は製版と印刷。駅貼りポスターの大きさを考えれば、不可能ではないかもしれないが、コストがどのくらいかかるか想像もつかない。しかし今までに見たことのないものができたら、きっと話題になるだろう。「明日、学研の生産管理部に聞いてみます。ほかの出版社にできなくても、学研ならできるかもしれません」ぼくはそう答えた。翌日、上池台の学研本社を訪ねた。生産管理の人たちには、いつも社の駐車場を貸してあげているし、ぼくが特殊印刷や製本工程のことに興味を持って聞きに行くので、みんな顔なじみだ。「山ちゃん、今日は何の用事?」「あ、中右さん。じつは編集長が等身大ポスターを付録にしたいと言い始めたんで、可能かどうか聞きに来たんです」「あー、等身大ね。たぶんできるけど、付録はむずかしいよ」「どうしてですか?」「折らないと雑誌付録にならないでしょ。等身大のでかいコート紙をA4に折ったら、たぶん割れちゃうよ。折る機械もないし」「なるほど。そこまで考えていませんでした」「業者に聞いてみるけど、あまり期待しないでね。あと、販売局にもひと声かけておいたほうがいいよ。やることになったら、結束だの梱包だので大騒ぎになるから。それに、取次がOKするかどうかわからないでしょ」「わかりました。お願いします」その足で販売局の雑誌販売部を訪ねた。ちょうど懇意にしている沢田次長がいた。「山崎くん、やったね。『おとこの遊び専科』、いい感じじゃない」「その件なんですけど、マンネリになる前に手を打ちたいと編集長が」「いいことだよ。次々に新しい手を打つ。やっぱり勢いのある雑誌は違うね」「等身大のヌードポスターを付録にしたいんです」「おいおい、巻物はつけられないよ」「折る方向で考えているんですけど」「できるのかなあ。生管は何て?」「中右さんは、折る業者を探してくれるそうです」「でも、綴じこめないだろう?」「そうですね。たぶん無理でしょう」「可能性が見えたら、教えてよ。取次と相談するから」「よろしくお願いします」実現の可能性は、あまり高くなさそうに思われた。
2006年07月27日
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「おとこの遊び専科」はアンチ・ドリブの合言葉のもと、号を追うごとに部数を伸ばしていった。そして刊行間隔も、不定期刊から季刊、季刊から隔月刊とピッチをあげていき、半年後にはついに隔月刊から月刊となった。 そうなるとおもしろいもので、つぎつぎとヒット企画が生まれてくる。たとえば一色(モノクロ印刷のこと)の「ギャンブラー入門講座」は、ブツ撮り名人の清水カメラマンに依頼し、見開きにまたがる大迫力写真をメインにもってきた。第1回のテーマは「銭飛ばし」。4×5カメラによる超スロー撮影でコインの軌跡がみごとに描写され、金久保さんの名文とあいまって、たちまちアンケートで第3位に躍り出た。1位も2位もカラーのヌードグラビアだから、これはすごいことだった。 このあたりから、ぼくは凸版印刷との交渉係となる。「鳥肌が立つような写真を入稿するから、これ以上できないという製版を見せてくれ」。ぼくは凸版の営業にそう大見得を切った。事実、清水さん入魂の六切り紙焼きは鳥肌ものの出来映えで、営業担当の早部さんも意気に感じたらしく、雑誌の一色ページとしては異例の「色校正」が出た。 副編集長といっても、編集長と二人だけの社員で、あとは全部外注スタッフだから、やることはいくらでもある。取材から入稿までは副編集長としてスタッフを掌握し、原稿がアップするとデスクとして原稿にばしばし朱字を入れる。場合によっては原稿を担当者に突っ返し、「書き直し!」と怒鳴ることもある。編集プロダクションのタイトロープには、どこで探したのかと頭が痛くなるような新人が続々と入ってきたが、そいつらに原稿書きの「いろは」を教えるのもぼくの役目だった。 そして原稿が印刷所に渡されると、そこから先は制作進行役をやらなければならない。編集長や担当スタッフにゲラのスケジュールを伝え、外部の校正マンの予約を取る。当時は写植で組版をしていたので、原稿を入稿するとコピー紙の「ネーム校正」が最初に出る。これは要するに版下のコピーで、文字が間違っていないかをチェックし、レイアウトを確認する工程だ。ここで直しておかないと、製版フィルムを作ってからの直しになって費用がかさむ。 ネーム校正が戻されると、つぎに出るのは色校と青焼きだ。カラーページは色校正紙で、一色ページは青焼きで、写真や図版類を中心に校正する。ネーム校正での直しが正確かどうかも、ここでチェックする。ただしそれはあくまでも原則で、現実の編集部では入稿が間に合わず、ネーム校正を飛ばしていきなり色校を出させたり、色校で追加原稿を入稿するような滅茶苦茶な進行がまかり通っていた。 ぼくはいい加減な進行を全部やめさせ、原則通りの進行に戻した。継子扱いされている編集部なのだから、逆に品行方正を売り物にしてやろうと考えたのだ。幸い、半素人みたいな編プロの若手たちは、「編集者が一番偉い」などという変なプライドを持ち合わせていない。やさしく教え、ダメなら怒鳴れば言うことを聞いてくれる。「ちゃんとやれば、早く帰れる」を合言葉に、ぼくらは印刷所の理想通りの進行にこだわった。 あるとき、最終校正の戻しが便の時間に間に合わなくなったので、ぼくは早部さんに交渉して、朝一番で持ち込むことを条件に時間を延ばしてもらった。徹夜でまとめた校正紙を持って志村坂上の工場に行くと、早部さんが待ちかまえている。彼はぼくの持っている袋をひと目見るなり怒鳴り始めた。「約束が違うじゃないですか! 全部校了すると言ったでしょう」 ぼくは少しも騒がず、言い放った。「怒鳴るのは、確認してからにしたらどう?」 彼は納得していない様子で袋を開け、中の校正紙を並べ始めた。「あれ? 全部ある。どうして全ページの朱字が、ひとつの袋に収まるんだろう」 彼が不思議がったのも無理はない。前述したように、「ドリブ」や、ついこの前までのわが編集部では、校了紙に追加や差し替えの原稿用紙、ポジ袋、紙焼き写真が貼り付けられているのが当然だったから、一冊分の校了紙となると、持つのも大儀なくらいの大荷物になっていたのだ。それが、ぼくらの改革によって何も付いていない校正紙に変わった。だから一冊分とは思えないほどの小さな袋に収まったのだ。 この改革は、凸版印刷に高く評価され、ぼくらの進行スケジュールは一週間近く後ろにずらされた。おまけに、請求書をチェックしている学研の業務局から、「信じられないので見学させてくれ」という申し入れまでやってきた。なせばなる。やればできるのである。 早部さんからは内緒で「学研グループで一番理想に近い編集部」という言葉をもらっていたが、ぼくはそれをずっと秘密にしていた。継子があまり日の当たる場所に出ると、ろくなことがない。なぜかそんな気がしたからだ。
2006年07月23日
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快進撃を続ける月刊「ドリブ」で、ぼくは自動車担当、グッズ担当、タイアップ担当、ヌード担当をやっていた。月刊誌のクルマ担当というのはかなりの激務で、おもな新車の発表会や試乗会には必ず顔を出し、それ以外に自分の記事を作るために広報車を借り出して撮影に行かなければならない。モーターショー直前には、各メーカーから次々と新型車が発表されるので、スケジュールはかなりタイトになる。 自動車専門誌の記者なら、何人かで手分けして顔を出せばいいのだが、たった一人の自動車担当記者となると、全部自分で行くしかない。試乗会はたいてい箱根か河口湖あたりで開催されるが、すごいときには午前中が河口湖で、午後は箱根などということになる。別のメーカーの発表会が、だぶってしまうのだ。各メーカーの広報も、お互いに連絡し合ってかち合わないようにしているのだが、予定が詰まってくると同一日程になることもある。 その上にタイアップ企画が2、3本集中するような月は、もう何をやっているのかわからなくなる。そんなとき、特集担当者から「撮影に広報車を使いたいから、借りてきてよ」とか言われると、もう発狂寸前。借りてきたら、返さなくてはならないのだが、みんなはそこまで気が回らない。約束した時間までに、ガソリンを満タンにして、洗車して、たいてい辺鄙なところにある広報車の貸出場所に戻すのだが、結構神経がボロボロになる。 さらに、「ドリブ」の特集だから、お上品な写真ではない。女の子のおっぱいがポロリなんてカットは日常茶飯事だ。しかしメーカーにそれが知れたら一大事。絶対にメーカーと車種がわからないようなアングルしか撮らないように、カメラマンの横についてチェックする必要がある。 そんなある日、異動の話が来た。臨時増刊として出してみたら意外に好評だった「おとこの遊び専科」の副編集長をやれという。ぼくは渡邉体制では主流派でなかったので、体よく追い出されたというところだ。慣れ親しんだクルマの世界やタイアップ広告の世界と離れるのは寂しかったが、宮仕えとはそんなもの。イヤなら会社を辞めるしかない。むしろ、新しい世界で自分を大きくするほうが大事だと、気分を入れ替えた。「おとこの遊び専科」の編集長は、学研から出向でやってきて、「ドリブ」ではずっと日陰のポジションにいた葛西さん。「非主流派同士、力を合わせてエリートさんたちを見返してやらないか」と言われ、協力を約束した。まあ、いわゆる「野合連合」の典型的パターンだ。「おとこの遊び専科」というのは、タイトルから想像できる通りのエロ本である。テーマは風俗とアダルトビデオ。「ザ・ベストマガジン」の別冊である「おとなの特選街」が好調なので、真似して作れと学研の販売局が命じてきたため、急遽作り上げたものだそうだ。 そんな雑誌だから、スタッフ集めが大変だ。ぼくがくるまで、社員は葛西さん一人。タイトロープという編集プロダクションに仕事を丸投げしていたが、そちらもまともなライターは下境さんという人が一人きり。風俗ライターたちからかき集めてきた原稿を見たが、作文レベルから、ややマシなレベルまで、文字通り玉石混淆だ。こりゃ前途多難だわいと、思わず天を仰いだ。 で、ぼくが最初にやったのは、週刊誌のようなアンカーシステムを導入すること。「微笑」と「週刊現代」のライターを連れてきて、ひとり50ページずつを担当させ、寄せ集めの原稿をリライトしてもらった。これでようやく記事のレベルがまともになった。「微笑」のライターだった金久保茂樹さんは、今では小説家として活躍しているが、もともとはエッチ系のライターとして、「ドリブ」でも連載を持っていた人だった。なぜか渡邉編集長と反りが合わずに干されてしまい、心穏やかではない日々を送っていたところに、ぼくのオファーが舞い込み、「恨み節」から承諾してくれたという経緯だ。もう一人の岡裕美さんは、「最後のトップ屋」という風貌の男。この人はぼくらの「復讐鬼」的雰囲気を面白がってくれて、金久保さんのライバルポジションについた。 同時にカメラマンにもアンチ渡邉派が次々と名乗りを上げる。みんな、実力、キャリアともに申し分のない人たちなのだが、知名度が低いということで、「ドリブ」から仕事が来なくなっていたのだ。「ギャラはいくらでもいい。いい仕事をさせてくれ」と頼もしい言葉が寄せられ、「おとこの遊び専科」編集部は、短期間のうちに「野武士集団」の様相を呈してきた。
2006年07月16日
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月刊「ドリブ」は、創刊号こそ35万部がほぼ完売の勢いだったが、2号、3号と号を追うごとに実売率が下がっていった。原因は、嵐山編集長の「面白主義」がサブカル・マイナー路線だったことと、ぼくらが大衆向けの雑誌作りに慣れていなかったためだ。 親会社の学研は実売率の低下に業を煮やし、ついに古岡オーナーじきじきの「お色気を入れなさい」という指示まで出てしまう。それを受けて馬場社長は「好きとか嫌いとかの問題じゃない。やるか辞めるかだ」と学研寄りの姿勢を取り始める。すっかり嫌気がさした嵐山編集長は退社を決意、デスクの筒井ガンコ堂さんに後事を託した。 國學院出のバンカラだった嵐山さんと違い、筒井さんは京大出の秀才。円地文子さん、池波正太郎さんなどの大作家と懇意にしていて、とくに池波さんについてはブレーン的存在だった。当然、学研が要求する「お色気低俗路線」などに協調できるはずもなく、馬場社長とも対立。いつの間にか会社に出てこなくなった。 編集長がいないのに、どうして雑誌が出し続けられたかというと、キャップの渡邊直樹さんが新宿某所で連日筒井さんとミーティングをしていて、必要な指示を得ていたからだ。さすがにそれも続かず、筒井さんも退社。編集長が立て続けに辞めるのでは格好悪いと、公式的には「病気のため、やむなく」辞めたことにさせられた。のちに郷里の佐賀に戻って文化人活動を始めた筒井さんは、いつまでもこの措置を恨んでいた。 そういう流れだったから、三代目編集長は当然のごとく渡邉さんとなった。そして、読者年齢に近く、こだわりを持たない渡邉さんは、思い切って「どピンク」路線に舵を切る。ヌードページを大幅に増やし、素人ヌード(と読者に感じられる企画)に力を入れた。袋とじ企画もスタートし、凸版印刷の全面的な協力を得て、特殊インクのエッチな付録もつけた。 なかでも大ヒットしたのは、「100人の女性があなたのお手紙待ってます!」という交際援助企画。編集部が町でかき集めてきた素人女性の顔写真と自筆のプロフィールを掲載し、編集部気付で手紙を送ると、それが相手に届くというもの。全国の根暗男性たちから、毎日段ボール箱いっぱいの手紙が届いた。「転送実費」として預かる切手は、人気の女性には一括で転送するために大量に余る。おかげで長年に渡って編集部が事務用の切手を買う必要はなかった。 これら一連の「どピンク」路線が一方の柱なら、もうひとつの柱は「マネー」路線。企画会議で「嫁さんゲット特集とマネー企画が人気だ」という分析結果が出たのを受けて、ぼくがなにげに「だったら『女特集』と『マネー特集』をやればいいじゃないですか」と発言したところ、それが実現してしまったのだ。 時代はバブルにさしかかる直前のマネーブーム初期。「中期国債ファンド」や「一時払い養老保険」をわかりやすく解説した記事が受け、「ドリブ」のマネー特集は完全に定着した。 そうなると読者が確定してくる。「彼女がいない、だが結婚願望の強い、地方出身の二流サラリーマン」で、年齢は25歳から35歳。その結果、アルトマンやOMMGなどの結婚紹介業が広告を出稿するようになり、驚異的なリターン率から、カラー見開きハガキつきの広告スペースが奪い合いになった。 部数は着実に右肩上がりとなり、実売で30万部を突破、広告売上げも2000万円の大台をクリアした。学研の古岡オーナーからは「会長賞」金一封と賞状が届けられた。
2006年07月12日
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学研のぼくらに対する要望はただひとつ、「30代男性向けの月刊誌を作ること」だった。当時、青春出版社の「Big Tomorrow」が“お化け雑誌”的に売れていて、この牙城を崩すことを使命として与えられたのだ。 ただし、青人社の内部は分裂していた。社長の馬場さんが「太陽的な文化誌」を推進し、事実上のリーダーである嵐山さんが「サラリーマン向け面白雑誌」を推していたからだ。社内調整はつかず、結局「馬場チーム」と「嵐山チーム」のふたつのプロジェクトを作って、二案を同時進行させることになった。喧嘩をした瞬間に会社が空中分解する危惧を、だれもが抱いていたからだ。 ぼくは嵐山チームに入り、サラリーマン雑誌の企画を考えることになった。最初は仮想敵である「Big Tomorrow」を徹底的に研究したが、読めば読むほどこの雑誌は憂鬱になってくる。ダメ人間を慰謝し、空元気を出させる記事の羅列なのだ。小見出しのひとつに至るまで、ぼくらとは正反対のメンタリティを持つ人々が作っていることを思い知らされた。このままではみんな鬱病になるのではと心配になったころ、「やめやめ、俺たちは独自路線を行くぞ」という嵐山さんの鶴の一声で、みんな呪縛から解放され、元通りに元気になった。 誌名案は「青年王者」。『少年王者』の山川惣治先生に表紙イラストを描いてもらうという構想だった。この段階で「Big Tomorrow」のコピー雑誌を作るなどというケチな了見は雲散霧消していた。「弱虫、泣き虫、ずるい奴は俺たちの雑誌を読まなくていい。馬鹿正直で義理堅くて、お祭り騒ぎが大好きな連中のために作るんだ」という嵐山の檄のもと、志気は最高に上がっていた。 一方の馬場チームは「リビエール(仏語で“川”の意)」という誌名の、二番手「太陽」的な企画案を作ってきた。テイストとしては「サライ」のはるか先輩にあたる雑誌である。「青年王者」と「リビエール」。つまり面白主義と教養主義の激突だ。審判の舞台は学研本社における企画推進会議に移されることになった。ぼくらはお互いに、模造紙を横に何枚も貼り付けた“巻物”を作り、自分たちの企画が採用されることを祈った。 当時の学研は、書籍、雑誌、トイ・ホビー、化粧品、健康器具、オフィス機器などすべての企画を、創業者古岡秀人氏の主催する企画推進会議で決定していた。社内的にはこれを「御前会議」と呼んでいた。“お殿様”の決済がなければ、何も前進しないからである。 社長会議室には、古岡秀人社長以下、役員が数十人ずらりと並んでいた。ぼくらの前の議題を聞いていたら、発表者は膝がガクガク震えている。「家族の生活がかかっているもんなあ」とぼくらは他人事のようにささやき合った。 さて、ぼくらの番になった。巨大な黒板に“巻物”を上下二列に並べて貼り出す。上が「リビエール」、下が「青年王者」だ。そして馬場さんが企画説明を開始しようとした瞬間、“お殿様”から声がかかった。「下にしましょう。創刊は5月ということで」 あっという間の決着で「青年王者」に軍配が上がったものの、ぼくらはあっけにとられていた。ただひとり馬場さんだけが首をうなだれていた。待望の雑誌が企画決定したというのに、学研から東急池上線長原駅までの長い坂道を上る間、だれも口を開かなかった。 数日後、学研の編集総務部長がやってきた。「誌名のことなんですが」と彼は言いにくそうに口火を切った。“お殿様”が誌名を決めてしまったというのだ。学研には職域雑誌として「Do」「Live」「活性」という雑誌があったが、その二誌の名前を合体して「Do Live」。これがぼくらの新雑誌の誌名だった。 むろん嵐山さん以下のスタッフで抵抗は試みたが、超ワンマン会社にそれは通じない。部長が帰ったあと、みんなで和室に集合し、ビールとコロッケでやけ酒を始めた。「ドゥリブなんてダサい。売れっこない」「だいいち英語にもなってない」「犬や猫の名前じゃないんだぞ」みんな荒れた。 そこに「こんちわ~」とやってきたのが糸井重里氏。嵐山さんの古い友人だ。「おや、宴会ですか?」彼は瞬時に重い雰囲気を察知したはずなのに、わざと明るくボケをかました。「俺たちの雑誌の誌名がさあ」と嵐山さんが糸井さんに説明を始める。仲間に隠し事をしないのが嵐山さんのいいところだ。しかし、どんなに糸井さんが優れたコピーライターでも、親会社に決められたネーミングはいじりようがない。そう思った瞬間、糸井さんが発言した。「これって、読み方は決められてないんでしょ。それともカタカナで誌名登録されてんのかな?」「いや、誌名登録はこれからだと言ってた」「なら、さ、『ドリブ』にしない? カタカナの“ドゥ”は絶対に弱いから、“ど根性”の“ド”にするの。三文字だから読みやすいし、誌名の由来を聞かれるから話題にもなるでしょ」「よし、それでいこう! 俺たちの雑誌は『ドリブ』だ!」 嵐山さんが糸井さんの肩を叩きながら叫び、ぼくらは鬨の声を上げた。こうして「ドリブ」はスタートした。
2006年07月09日
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