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毎日同じ事の繰り返し、これと言った不満もなくなんだかぬるま湯に浸かっているみたい。こんな毎日でいいのかとチョット不安になる。決して毎日が退屈なわけではないが、もっと何か出来るのではないか、するべきではないかと考える。努力する事が必要ではないか、無理して努力する事もないかと悩んだりします。ある意味贅沢な悩みかもしれない。
2005/10/26
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浅井 長政(あざい ながまさ、天文14年(1545年)- 天正元年9月1日(1573年9月26日))は戦国時代の戦国大名、武将である。家系としては、浅井氏は藤原姓を称するが、学説的には実際は現地の土着豪族の出かといわれている。近江国小谷城主浅井久政の子、母は井口守経の娘。兄弟に浅井政元。室は織田信秀の娘のお市。嫡子万福丸は滅亡時にとらえられ処刑された。女子に豊臣秀吉の側室となった茶々、京極高次の室となった常高院、徳川秀忠の室となった於江与。はじめ六角義賢の一字を貰い賢政と名乗り、六角氏の家臣平井定武の娘を室とする。しかし六角氏への臣従に不満を持つ家臣らにより父の久政が隠居させられ、家督を相続する。長政は六角氏から離反し、1560年(永禄3)には野良田の戦いで六角氏を撃破し、足利義昭を奉じる朝倉氏と同盟して独立した。美濃国の斎藤氏を破り国境を接した尾張国の織田信長と同盟を結び、1567年(永禄10)に信長の妹のお市を妻とする。信長の上洛の際には、ともに出兵して六角氏を撃破し、義昭を奉じて上洛した。1570年(元亀元)、信長が琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始めると、長政は朝倉氏との同盟関係を重視して、織田軍を攻撃したが、信長は苦戦しながらも近江を脱出した。同年6月には長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦うも破れる。その後は小谷城を中心に抗戦するが、信長軍は巧みな出城の築城や調略で浅井軍の勢力範囲を徐々にそぎ、ついに1573年(天正元)、本拠の小谷城(滋賀県湖北町)を攻められ父や家臣とともに自害した。享年28。浅井氏(あざいし、あさいし、あざいうじ)は、近江国(滋賀県)の戦国大名である。家系は藤原氏を称するが、近江の在地豪族とも伝わる。浅井亮政のとき、北近江の守護大名であった京極氏の御家騒動の中で、北近江の有力豪族 浅見氏を盟主とした国人衆をもって京極家の家政体制を敷いたが、浅見氏による専制が強まると、これを討ち京極氏を傀儡化させ、京極家の有力家臣をも従えて戦国大名へと成長していった。その後、亮政は勢力拡大を図って南近江の六角定頼と対立し、一時、定頼の攻勢に押されてしまったことがある。このため亮政は、越前の朝倉氏と同盟を結び、その支援のもとに定頼の攻勢を押し返して北近江の勢力を固めたのである。しかし亮政の死後、後を継いだ子の浅井久政は無能さをさらけだし、それを見た京極氏や六角氏は逆襲を開始する。特に定頼の子・六角義賢は大攻勢をかける一方で自分の家臣の娘を久政の嫡男・浅井長政に娶らせて、間接的に浅井氏を六角氏の軍門に下らせることに成功した。このような久政の無能さに家臣たちも愛想を尽かし、1560年に長政が野良田の戦いで義賢に大勝し、浅井氏を六角氏から独立させると、久政は家臣たちから強制的に隠居させられ、家督は長政が継承することとなったのである。しかし、実権は久政が握ったため長政はロボットに過ぎなかった。その長政は美濃を支配して勢いに乗る織田信長と同盟を結び、信長の妹・お市の方を妻として迎えて、浅井氏の安泰をはかった。確かにこれは間違いではなかったが、1570年に信長が朝倉義景領に侵攻すると、父の久政や家臣たちが大恩ある朝倉を見捨てるなと主張し、信長との同盟を破棄して朝倉氏を助けるように迫った。長政は迷いに迷ったが、結果的には信長との同盟を破棄し、織田軍に背後から襲いかかっている。これにより長政と信長の同盟関係は終わりを告げ、以後、両雄は対立を深めることとなる。しかし姉川の戦いで大敗するなど次第に織田軍の攻勢が激しくなり、武田信玄の病没や朝倉氏の滅亡などアクシデントも重なって1573年、久政と長政父子は居城・小谷城にて自殺して果て、浅井氏は滅亡したのである。
2005/10/15
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フリーページに書いてある戦国大名のプロフィルを知りたい人物があったらリクエストして下さい。全ての人物は無理ですが大体の人物は調べられます。見本として2~3人のプロフィルを紹介します。浅井 長政(あざい ながまさ、天文14年(1545年)- 天正元年9月1日(1573年9月26日))は戦国時代の戦国大名、武将である。家系としては、浅井氏は藤原姓を称するが、学説的には実際は現地の土着豪族の出かといわれている。近江国小谷城主浅井久政の子、母は井口守経の娘。兄弟に浅井政元。室は織田信秀の娘のお市。嫡子万福丸は滅亡時にとらえられ処刑された。女子に豊臣秀吉の側室となった茶々、京極高次の室となった常高院、徳川秀忠の室となった於江与。はじめ六角義賢の一字を貰い賢政と名乗り、六角氏の家臣平井定武の娘を室とする。しかし六角氏への臣従に不満を持つ家臣らにより父の久政が隠居させられ、家督を相続する。長政は六角氏から離反し、1560年(永禄3)には野良田の戦いで六角氏を撃破し、足利義昭を奉じる朝倉氏と同盟して独立した。美濃国の斎藤氏を破り国境を接した尾張国の織田信長と同盟を結び、1567年(永禄10)に信長の妹のお市を妻とする。信長の上洛の際には、ともに出兵して六角氏を撃破し、義昭を奉じて上洛した。1570年(元亀元)、信長が琵琶湖西岸を通過して越前の朝倉方の城を攻め始めると、長政は朝倉氏との同盟関係を重視して、織田軍を攻撃したが、信長は苦戦しながらも近江を脱出した。同年6月には長政は朝倉軍とともに姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦うも破れる。その後は小谷城を中心に抗戦するが、信長軍は巧みな出城の築城や調略で浅井軍の勢力範囲を徐々にそぎ、ついに1573年(天正元)、本拠の小谷城(滋賀県湖北町)を攻められ父や家臣とともに自害した。享年28。朝倉 義景(あさくら よしかげ、天文2年9月24日(1533年10月12日)- 天正元年8月20日(1573年9月16日))は戦国時代の越前の戦国大名である。1533年9月24日、越前の戦国大名で朝倉氏の当主である朝倉孝景の嫡男として生まれた。このとき、父の孝景は41歳で、しかも唯一の実子であったため、長夜叉という幼名を名付けられた義景は、父に甘やかされて育ったともいわれる。1548年に父の孝景が死去し、家督を相続して5代目当主となる。正室として初めに迎えた細川晴元の娘は、女子を一人産んで亡くなり、 後に前関白近衛前久の妹を正室として迎えた。当初は延景と名乗ったが、1552年に室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名することになり、左衛門督に任官。家督を相続したものの、義景は一族の最長老である朝倉宗滴に政治や軍事の一切を任せて、遊興に耽っていたという。1559年、従四位下に叙せられる。1565年、義輝が松永久秀らによって暗殺された。このとき、義輝の弟で京から逃げ出した足利義昭(義秋)を越前一乗谷に迎えて保護したが、幕府再興を目指す義昭が望む上洛は、義景の行動力不足と優柔不断さで実現されず、しびれを切らした義昭は、美濃を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って越前から去ったという。1567年には家臣の堀江景忠の反乱を鎮圧する。毛利元就らと通じあって信長包囲網を形成する。このとき、義景も反信長勢力の一員として義昭に与する。しかしそのため、1570年(元亀元)に織田信長と徳川家康の連合軍からなる越前討伐軍に攻められることとなる。追い詰められたが、浅井長政が織田軍の背後を突いてくれたため、何とか窮地を脱している。そしてこれより、朝倉氏は浅井氏と共同戦線を張って、織田信長と抗争することになるのである。同年に織田軍との間に起こった姉川の戦いには、浅井長政に援軍は送ったが自身は出陣せず、一族の朝倉景鏡を代理の総大将として派遣しているのである。この頃、義景は小少将という美女を妻に迎えて、その美貌の虜になるとともに、酒宴に溺れていたのである。1573年4月、信長にとって強敵であった武田信玄が病死し、信長包囲網の一角が崩れた。8月、信長は3万を号する大軍を率いて近江に攻め入る。これに対して、朝倉義景も浅井長政の度重なる要請もあって、ようやく自らが総大将として2万の軍勢を率い、浅井氏の援軍として近江に出陣する。朝倉軍は刀禰坂の戦いで織田軍の猛追撃を受けて壊滅し、義景は命からがら、越前一乗谷に落ち延びたのである。一乗谷もやがて織田軍の追討を受け、義景はわずかな家来を連れて越前大野郡の賢松寺に身を隠した。しかしそこで一族の朝倉景鏡の裏切りにあった義景は、自害を余儀なくされたのである。享年41。ここに朝倉氏は滅亡した。法名:松雲院殿太球宗光大居士 墓所:福井県福井市一乗谷 また福井県大野市泉町一乗寺(義景公園)蘆名氏(あしなうじ)は桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族である。芦名氏、葦名氏と表記される事もある。初代当主は三浦義明の七男・蘆名義連。室町時代より蘆名氏は自らを「会津守護」と称していた。そして戦国時代に英主・蘆名盛氏が現われ、蘆名氏は最盛期を迎えた。これにより、奥州で伊達氏と並び称される大大名にまでのし上がったのである。しかし、蘆名氏は猪苗代氏をはじめとする豪族の統制に苦慮し、さらに盛氏の晩年には後継者問題も発生した。そのため1580年、盛氏の死とともに蘆名氏は次第に衰え始める。盛氏の死後、後を継いだ蘆名盛隆は1584年に家臣に暗殺され、その後を継いだ盛隆の幼児も1586年に夭逝。そして家臣団が揉めに揉めた末、佐竹義重の子・蘆名義広を蘆名家当主に迎えたが、盛氏の死から10年を経ずして3人もの当主が入れ替わったことは、蘆名氏の衰微を象徴するものであった。1589年、奥州統一を目指す伊達政宗に摺上原の戦いで大敗した蘆名義広は常陸に逃走し、ここに蘆名氏は没落する。実家の佐竹氏に戻った義広は名を「蘆名盛重」と改めて、常陸江戸崎城次いで出羽角館城主となったものの、盛重の息子が相次いで病死したために家系は断絶して蘆名氏は名実ともに滅亡した。
2005/10/14
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八旗(はっき)とは、清の時代の、清の支配民族である満州族の社会組織・軍事組織のことである。8つの旗と呼ばれる社会・軍事集団が編成され、全ての満州族がこれに配属された。女真族を統一して清を興したヌルハチが、女真族固有の社会組織を元に創始した。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。有事の際に兵士となる成年男子300人をニル「矢」の意とし、5ニルをジャラン(1500人)とし、5ジャランをグサ(25ニル、7500人)とするのが八旗制による基本的な編成形体である。各グサは、それぞれ固有の旗を持って識別されたので、グサのことを中国語では「旗」と呼ぶようになった。ヌルハチがこの制度を創始した当初は黄・白・紅・藍の四旗であったが、女真統一の過程で各色に縁取りのある四旗が加えられ、正黄・じょう黄・正白・じょう白・正紅・じょう紅・正藍・じょう藍の八旗整備された。「満州族」と呼ばれるようになった女真族はみないずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。各ニルにはニル・エジェン(佐領)、各ジャランにはジャラン・エジェン(参領)、各グサにはグサ・エジェン(都統)が任命され、統括された。各グサにはさらにその上に、清朝の皇族である愛新覚羅氏の王が置かれ、ベイレ(貝勒)と呼ばれた。皇帝自身は正黄旗・じょう黄旗・正白旗3旗の王で、八旗は皇帝の領する3旗(上三旗)と諸王の領するその他の5旗(下五旗)による部族連合国家のように機能した。ヌルハチの後継者ホンタイジの時代には、清に服属してきて八旗に編成されたモンゴル族や漢族が次第に増えてきたため、新たに八旗蒙古・八旗漢軍に編成した。これにより従来の満州族の八旗は八旗満州と呼ばれるようになった。八旗に所属する満州族とモンゴル族と漢族は旗人(きじん)と呼ばれ、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。旗人には旗地と呼ばれる農地を支給され、優遇された。しかし、旗人の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化し、満州族は満州語や民族文化を失って武芸を衰えさせ、八旗制は次第に形骸化していった。
2005/10/11
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順治帝(じゅんちてい、明の崇禎十一年/後金の崇徳三年(1638年) - 順治十八年正月七日(1661年2月5日) 在位1643年 - 1661年)は清の第三代皇帝。姓名は愛新覚羅福臨(アイシンギョロ・フリン)、廟号は世祖。日本では在世時の元号順治を取って順治帝と呼ばれる。ホンタイジの第9子として生まれる。母は孝荘文皇后。1643年、ホンタイジが急病で遺言を残さずに死んだ。ホンタイジの長子はホーゲ(豪格)であったが、叔父のドルゴンに実権を握られるのが見えていたので皇帝の座に着くことを拒否し、代わって六歳のフリンが皇帝となり、ドルゴンが摂政となった。翌年の3月19日に李自成率いる順軍が北京を陥落させ明を滅ぼす。ドルゴンの主導の下に、山海関を開城して清に下った呉三桂を先頭に北京へ向かった。北京の大順軍は明を滅ぼした後、各々の官職を決めたり、明の高級官僚を処罰したりに忙しかったが、そのような事をやっている場合ではなかった。4月23日に山海関の中に入った清軍と李自成軍とが激突し清軍が大勝した。李自成を追いかけて、通城(現在の湖北省)にまで南下し李自成を滅ぼした。1650年(順治七年)にドルゴンが死に、13歳の順治帝による親政が始まる。順治帝は「朕は今日官民の苦を均しく知る」と宣言し、内政の改革を始めた。当時は全国各地から名産品を皇帝に献上する事になっていたがこれをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっている者を還俗させた。また宦官が政治に関与する事を厳重に禁止し、破れば即座に死刑になった。歴代の王朝の衰退の大きな原因となった宦官悪は清代ではほとんどその姿を現さなかった。順治帝は漢文化に心酔していて非常な読書家であり、自らだけでなく臣下にも積極的に漢文化の習俗を取り入れさせた。1659年(順治十六年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。1661年(順治十八年)に天然痘で急死する。24歳での若すぎる死に「順治帝は死んだのではなく、本当は寵愛する妃の菩提を弔うべく出家して五台山で生きている。」との説が出来、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない。」とも噂された。順治帝の遺体は、仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。順治帝は中国に入った後の清の土台を確固たる物とし、次代の康熙帝、雍正帝、乾隆帝のいわゆる三世の春の黄金時代を導く役割をした。三世の影に隠れてはいるが、三世に負けない名君である。 出典はフリー百科辞典ウィキペィア
2005/10/10
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清の最盛期順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。こうして少数の満州族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満州族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。しかし、一方で満州族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と言われる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉が一般家庭などで平然と食されていたりと暗い面があったことを見落としてはならない(この凌遅刑を撮影した写真が今現在でも現存している)。 出典はフリー百科辞典ウィキペィア
2005/10/09
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李 自成(り じせい) 万暦三十四(1606年)- 順治元年(1645年)は中国明末の農民反乱指導者。延安府米脂県(現在の陝西省延安)出身。李自成の乱と呼ばれる明に対する反乱を起こし、明を滅ぼした。明は駅站と呼ばれる駅伝制度を布いていたが、経費節減のために崇禎帝により廃止された。確かに経費節減にはなったが、失業した者たちは路頭に迷い、農民反乱に参加することになる。李自成もその中の一人であった。1627年・1628年に陝西で起きた大干ばつをきっかけに反乱が頻発し、李自成もそれに参加した。その間の明政府は満州族対策に追われて、満足に反乱対策を行えなかず、これに乗じて反乱軍は勢力を拡大し、山西を制圧し、北直隷(河北省)まで迫るほどになった。その後、政府軍の反撃により押し返され、河南へと移動する。この時期の反乱軍首領は高迎祥であり、その下に張献忠などが居た。李自成はまだ高迎祥配下の武将の一人に過ぎなかったが、この時の作戦会議で官軍に対して全軍が協調して当たるべきだと発言して注目され、更に翌年には官軍に捕らえられて刑死した高迎祥の後継者となり、高迎祥が名乗っていた闖王(ちんおう)の称号を名乗り、反乱軍の首座に踊りでた しかし高迎祥が死んだことにより、反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西省へ退却し、更に山野に隠れざるを得なくなった。このことで李自成軍に対して楽観視した官軍は湖広(湖北省・湖南省)へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。この地で挙人(科挙の郷試(地方試験)を合格して、会試(中央試験)には合格していない者)の李厳と出会い、「均田」(農民への土地分配)「免糧」(数年の間の税免除)の二つのスローガンを李厳から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった(李厳も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている)。この勢いに乗って、1641年には洛陽を陥落させ、この地に居た万暦帝の第三子の福王・朱常洵を処刑した。福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢のために多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。更に開封を落とし、1643年に西安を陥落させ、国号を大順、元号を永昌として、この地で即位した。西安で六部などの国家としての制度を整えた順軍は、翌1644年2月に北京を目指して北伐を開始し、同年の3月に北京を陥落させ、明を滅ぼした。北京に入城した李自成たちはここでいよいよ全中国の皇帝となるための諸手続きや儀式の用意を始めた。入城後の李自成軍は殺人鬼として有名な張献忠の軍が合流したこともあり、厳正であった軍規もすっかり緩み、略奪・強姦・殺人が横行していた。その頃、東北地方では満州族(1636年から清となる)に対して前線の拠点である山海関を守っていた呉三桂が清に対して投降していた。ドルゴンと呉三桂率いる清と明の遺臣の軍と激突し、大敗。慌てて北京を逃げ出した。実に入城から40日と言う短い天下であった。西安に逃れた李自成軍だが、ここもすぐに放棄し、通城(現在の湖北省)に逃れるが、現地の武装集団により殺される。清は北京に入った後は崇禎帝の葬儀を厚く営んで、李自成によって殺された崇禎帝の仇を取るとの名目を持って自らの中国支配を正当化した。このために清代を通じて李自成は反逆者とされたが、清滅亡後はその他の農民反乱指導者と同じように起義軍として再評価がなされるようになった。 出典はフリー百科辞典ウィキペディア
2005/10/08
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ドルゴン(多爾袞 1612年11月17日 - 1650年12月31日)は清初の皇族。ヌルハチの14子。順治帝の摂政となり、清が中華王朝となるにあたって指導力を発揮した。ドルゴンの母はヌルハチの4番目の正妃であるウラ・ナラ氏出身の孝烈恭皇后で、ヌルハチが死ぬ際に特に殉死を命じられている。ホンタイジの下でモンゴルのチャハル部を討つことに功績を上げ、族内の実力者となる。1643年、ホンタイジが死ぬと、ドルゴンとその同腹の弟であるアジゲとドドの派とドルゴンに反対する派に分かれて勢力争いが始まった。ドルゴンの実力は群を抜くものであったが、部族連合制の名残を色濃く残すこの時期の女真族は独裁的なやり方を嫌い、ドルゴンの皇帝即位に激しく反対した。ドルゴンも反対を押し切ることが出来ず、ホンタイジの9子であるフリン(順治帝)を皇帝とし、ドルゴンがその摂政となることで妥協した。その後、ドルゴンは族内の反対派を粛清し、皇帝に等しい権力を手に入れた。翌年の1644年に明が李自成によって滅ぼされると、対清の最前線である山海関の守将であった呉三桂は清に対して、明の仇である李自成を討つための援軍を求め、ドルゴンはこれに答えて自分と弟たちの支配下にある軍と皇帝直属軍を率いて南下して、李自成軍を破った。李自成軍が逃げた後に北京に入った清軍は明の最後の皇帝である崇禎帝を厚く弔い、減税・特赦を行うなど明の遺民の心情を慰める一方で、満州族の風習である弁髪を漢民族に強制し、「髪を留める者(頭を剃らない)は首を留めず」と言われるような苛烈な政策で支配を固めていった。1648年、その功績から皇父摂政王と呼ばれるようになり、1650年に狩猟中に死去し、追尊して義皇帝と称され、成宗の廟号を与えられた。しかし、ドルゴンが死去すると、それまでドルゴンに押さえつけられていた反ドルゴン勢力が一気に噴出し、ドルゴンに大逆などの罪状が被せられ、爵位を剥奪・宗室からの除名が行われたが、乾隆帝の治世に名誉が回復されて忠の諡を贈られた。ドルゴン死後の厳しい処置については、ドルゴンが兄ホンタイジの妻であり、順治帝の母である女性(聖母皇太后)を娶っていたからだとも考えられている。ドルゴンが順治帝の母を娶っていたかについてははっきりとはしないが、皇父と言うドルゴンの称号はそのことを伺わせる。兄嫁を娶る行為は儒教の感覚からでは非常な不義であるが、満州族のような中国の外の民族では珍しいことではなく、さして問題のあることでもなかった。しかし順治帝は幼い頃から非常に漢文化に傾倒しており、叔父と母の行動を許せなかったゆえに、死後のドルゴンに対してつらく当たったとも考えられる。"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AB%E3%82%B4%E3%83%B3" より作成
2005/10/07
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昨日の続きです。三藩の乱 (さんぱんのらん) は、清初の漢人武将による反乱。雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精忠が反乱を起こした。三藩は明滅亡後に南へ亡命した諸政権(南明)を指す事もあり、その場合は南明を前三藩、呉三桂たちを後三藩と読んで区別するが、普通に三藩と言った場合は概ね呉三桂たちのほうを指す。1674年(康熙十三年)、呉三桂は湖南を占領し、ここから軍を東西に分けて西は四川省・陝西省へ、東は広西・福建へ進軍させ、同時に尚可喜・耿精忠に対して呼応の誘いをかけた。耿精忠は誘いに乗って反乱を起こすが、尚可喜は抵抗したために尚之信に殺されて尚之信は反乱を起こした。これに加えて台湾から鄭経(鄭成功の息子)も呼応し、一時は長江以南は全て呉三桂たちの手に落ちた。しかし呉三桂たちの反乱は元よりこれと言った方針があったわけではなく、自分達の権益を守るためのものであり、民衆からの支持は薄かった。呉三桂たちは満州族を追い出して漢族の世を取り戻すとの大義名分を掲げていたが、その漢族王朝の明の亡命政権を南に追い詰めて滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であり、この言行を冷ややかに見つめる者も多かった。また呉三桂たち三人は全て同格であり、指揮権の統一が為されていなかった。これらの弱点により清側も徐々に盛り返し、反乱軍を各個撃破する事に成功した。1676年(康熙十五年)、陝西が鎮圧され、更に尚之信が降伏する。耿精忠も清に降り、矛を返して反乱軍討伐に加わるようになる。1678年(康熙十七年)、劣勢に立たされた呉三桂は意気を上げるために皇帝に即位して国号を周とすると宣言したが、半年ほど後に病死した。 出典はフリー百科辞典ウィキペディア
2005/10/06
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今、私がパソコンテレビの配信ではまっているのは、康熙帝の物語で「康熙王朝」です。このドラマは清朝の四代目皇帝の波乱の生涯を大河ドラマにしたものです。清朝について少し調べてみました。清の勃興17世紀初頭に明の支配下で、満洲に住む女真族の統一を進めたヌルハチ(太祖)が、1616年に明から独立して建国した後金国が清の前身である。その子のホンタイジ(太宗)は山海関以北の明の領土と内モンゴルを征服し、1636年に元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽を譲られ、大清皇帝として即位するとともに、女真の民族名を満州に改めた。ちなみに「後金」という国号を明側に警戒される(かつて漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われた)ことを恐れて、金と同音異字の「清」と改名したという説が言われているが、俗説である。また、「しん」という読み方は明の遺民や彼らの亡命を受け入れた日本の知識層による蔑視による読み方であり、本来は「ちん」と読むのが正しい読み方であるとも言われている。順治帝のとき、李自成の乱によって北京が攻略されて明が滅んだので、清はこの機に山海関以南に進出し、李自成を破った。こうして1644年に清は首都を北京に遷し、中国支配を開始した(「清の入関」)。しかし、中国南部には明の残党勢力(南明)が興り、とくに鄭成功は台湾に拠って頑強な抵抗を繰り広げた。清は、はじめ摂政王ドルゴン(ヌルハチの子)によって、のち成長した順治帝の親政によって、中国南部を平定し、明の制度を取り入れて国制を整備した。清の最盛期順治帝に続く、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に清は最盛期を迎えた。康熙帝は、即位後に起こった三藩の乱を鎮圧し、鄭氏の降伏を受け入れて台湾を併合して、清の中国支配を最終的に確立させた。対外的にはロシアとネルチンスク条約を結んで東北地方の国境を確定させ、外モンゴルとチベットを服属させた。また、このころ東トルキスタンを根拠地としてオイラト系モンゴルのジュンガル部が勃興していたが、康熙帝は外モンゴルに侵入したジュンガル部のガルダンを破った。のち乾隆帝はジュンガル部を滅ぼして東トルキスタンを支配下においた。これによって黒竜江(アムール川)から東トルキスタン(新疆)、チベットに及ぶ現代の中国の領土がほぼ確定した。こうして少数の満州族が圧倒的に多い漢族をはじめとする多民族と広大な領土を支配することとなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満州族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満州族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。 出典はフリー百科辞典ウィキペディア
2005/10/05
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