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背番号27(その6)
背番号27の第6回目です
今回も寂しい内容になっちゃいそうです
2名はトレードで来た選手 3人目は期待されてた選手なんだけど
3人とも全くダメだったわけではないよ でも貢献してくれたのかって聞かれれば それほどの活躍はできなかったと言うしかないのよ
とにかく読んでみてください
宇田 東植 投手
東京都杉並区の出身。在日コリアンで本名は朱 東植(チュ・ドンシク)。
中学時代は内野で主にサード。拓大一高に進学して投手へ転校している。1年時夏の東東京都大会3回戦でノーヒットノーランを達成しているが、3年間甲子園出場はならず、1967(昭和42)年に中央大学に進む。
東都リーグでは35試合で9勝3敗、1970(昭和45)年のドラフト会議で東映フライヤーズから4位指名を受けてプロ入りした。
変化球を主体にした右アンダースローの投手で、プロでは中継ぎで投げることが多かった。東映では1981(昭和56)年まで11年間在籍しており、142試合(先発39)16勝18敗の成績だった。
1979(昭和54)年がキャリアハイで39試合(先発7)に登板、135回と規定投球回をクリアしており9勝3敗、防御率3 . 47だった。
1981(昭和56)年のオフ、年が明けた1982(昭和57)年1月に、榊原良行との交換でタイガースに移籍してくる。榊原は中央大学時代に宇田の1年後輩だった。
背番号「27」で迎えた1982年のシーズンはすべて中継ぎで29試合に登板、42イニングながら防御率は2 . 57で悪い成績ではなく残留もありえた。
ところが前年に韓国でプロ野球リーグが始まり、在日コリアンの宇田にも声がかかったようで、余力があるうちにと1983(昭和58)年にヘテ・タイガースに入団する。阪神タイガースで「27」を着けたのは1年だけということになった。
韓国ではどちらかというと先発で活躍しており、2年間で48試合(先発31)13勝12敗3セーブ、防御率2 .
97の数字を残したものの、待遇の悪さに辟易しており2年で日本に戻り引退している。
その後は地方局などの野球解説などで活躍した。
笠間 雄二 捕手(再掲)
笠間は背番号13-3で紹介済みだが、若干の改定をして再掲する。
石川県金沢市出身。金沢高校時代には1年先輩に堂上照(元中日)がいたが甲子園出場はなく、1971(昭和46)年に社会人の電電北陸に入団する。社会人時代はバッティングの良い捕手として「北陸の田淵」と呼ばれるほど強打をふるった。
1973(昭和48)年のドラフト会議では太平洋クラブライオンズの5位指名を拒否、1974(昭和49)年には阪急ブレーブスの3位指名も拒否してなかなかプロ入りしない。
1975(昭和50)年に読売ジャイアンツから6位指名を受けてようやく入団を決めている。
1977(昭和52)年から一軍で起用されるようになるが、1978(昭和53)年に山倉和博が入団してきて、笠間の出番は減ってしまう。
1979(昭和54)年のオフ、交換トレードで阪急へ移籍。しかしここでも正捕手の中沢伸二という厚い壁があり、1980(昭和55)年の出場は26試合にとどまり、同年11月に片岡新之介との交換によりタイガースに移籍する。
タイガースでの1年目は1981(昭和56)年、片岡からスライドした背番号「13」で臨むが、正捕手の若菜嘉晴がいたこともあり36試合しか出場できなかった。
しかし翌1982(昭和57)年になると、女優K・Sとのスキャンダルの発覚で若菜の出場が73試合に減ったのに対して、笠間は88試合に増えており立場が逆転している。ホームランも8本でスラッガーとしての感覚が戻ってきた。しかもこの年のオフ、若菜が自由契約となって大洋ホエールズへ移籍したことで正捕手の座が確実になる。
1983(昭和58)年は127試合に出場、規定打席をクリアして103安打を放ち打率 . 271を記録。ホームランも12本と気を吐いてオールスターにも出場するなどプロ入り後最高のシーズンを過ごしている。
1984(昭和59)年は背番号を「27」に変えてさらなる飛躍を目指したが、もともと爆弾を抱えていた右ひじ故障が悪化したこと、二番手捕手の山川猛が伸びてきたこと、前年入団した木戸克彦を球団が正捕手に育てる方針であることなど、一気に逆風が吹き、わずか37試合に出ただけで引退に追い込まれる。最高のシーズンの翌年に思いもしない幕切れだった。
引退後は、読売、阪急、タイガースでバッテリーコーチやスコアラーとして貢献、タイガースでは山田勝彦を一人前になるまでつきっきりで育てた。
通算成績は397試合839打数198安打85打点25本塁打、91四球160三振、打率 .
236である。
嶋田 宗彦 捕手
和歌山県有田市の出身で高校は簑島高校。2年時から石井毅(元西武ライオンズ)とのバッテリーで4期連続甲子園出場。3年時の1979(昭和54)年は史上3校目の春夏連覇を達成。卒業後はバッテリー共に地元社会人の住友金属に進んでいる。高校通算20本塁打。
社会人野球で5年間プレーし、1984(昭和59)年はロサンゼルス五輪代表、社会人ベストナイン捕手などの実績を挙げてドラフト4位でタイガースに入団する。背番号は笠間から「27」を引き継ぎ現役の8年間着けた。
1984年のドラフト1位が5歳年下の実弟・嶋田章弘(投手・簑島高)だったのも「兄弟同時入団」として話題になった。章弘については「 タイガース背番号史 15-4 |
タイガース非公式サイト2
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」を参照。
嶋田のルーキーシーズンは日本一に輝いた1985(昭和60)年で、正捕手として木戸克彦がいる中で30試合に出場している。
嶋田は日本シリーズも打席に立って打点を記録している。ルーキーの選手が日本シリーズで打点を挙げたのはこれが初めてで、2024(令和6)年に森下が記録するまで39年間唯一の存在だった。
翌1986(昭和61)年には65試合で先発マスクをかぶるなど91試合に出場して打率 . 256、6本塁打を記録して着々と正捕手に成長するかに見えた。
ところが1987(昭和62)年はフィジカル面の影響で打撃不振を招き躓いてしまう。69試合で打率は . 199に終わり、3人目の捕手まで評価が下がる。
1988(昭和63)年、ケガの回復が見込めないという理由で一時は「自由契約選手」として公示されるが、ほどなく支配下に戻り31試合に出場したものの、ホームランも打てずわずか2打点に終わった。
1989(平成元)年になっても状況は変わらず30試合、次の1990(平成2)年も47試合にとどまり、もう伸びしろがない状況になる。
1991(平成3)年はわずか2試合、1992(平成4)年はついに一軍出場がなく、同年オフに引退した。
引退後はファームのバッテリーコーチや一軍バッテリーコーチ、スコアラーなどとして長くチームに貢献してくれており、優勝した
2003年・2005年・2023年には、いずれも一軍でコーチを務めている。
通算成績は300試合591打数123安打53打点13本塁打、41四球105三振、打率 .
208だった。
まとめ
今回掲載した3人のうち 宇田さんと笠間さんはトレードで移籍してきた選手で 2人とも1年しか「27」を着けてません
3人目の嶋田さんは兄弟同時入団で しかも弟さんのほうが期待度が高く1位指名 いずれは兄弟バッテリーで甲子園を沸かすと話題になったんだけど・・・
弟さんのほうは2年目に肩を壊してしまってその後打者転向だし お兄さんもケガで大きく成長できなかったのよ やっぱりプロ選手は身体が資本とはよく言ったものよね
でも「優勝請負コーチ」って呼べるくらいタイガースのリーグ優勝や日本一に貢献してるから やっぱり「目立たない大物」と言えるんじゃない?
岡田監督とは現役でも一緒にやってるし 二軍監督時代 一軍監督時代とずっと頼られてるみたいで 信頼厚かったんだろうね
背番号27―7につづく
タイガース背番号史 27-5 2024年12月01日 コメント(2)
タイガース背番号史 27-4 2024年11月26日 コメント(2)
タイガース背番号史 27-3 2024年11月21日 コメント(2)