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当時、大評判だった文豪の作品、となると絶賛しなければならないのだが、どうも疑問が残る。ときおり入る漢文調の美文はいまどきこんなのを書ける人はいないなと思うし、各人物の造形もたしかである。しかし、両親を失い恩人の世話で進学した青年が大学で優等の金時計を貰い、英語を教えている富家の美女藤尾との結婚を考える。時は二十世紀初め、舞台は東京。文明の先端をすすんでいるつもりの主人公には、郷里の恩人すらも、遅れた田舎の住民、旧時代の人間に見え、できれば縁をきりたいと思っている。ところが恩人の方では主人公が自分の娘と結婚するものと期待しており、主人公と藤尾の仲が進展しそうになったときに、娘を連れて上京してくる。結局そのことは、「真面目になるため」主人公が恩人の娘を選んだことで藤尾が自殺をするという結末になる。当時は、貧しく優秀な若者を支援する代わりに、自分の娘を若者にめあわせるという人間関係がけっこうあったのだろう。正式な婚約ではなくとも、こうした場合、主人公には娘に誠をつくすことが倫理上期待されていた。そうだとしたら、藤尾と付き合った主人公の行動はかなり身勝手で優柔不断であり、驕慢な美女とされる藤尾はその犠牲者のようにみえる。そういえば、あの「舞姫」にしても、国費で留学した秀才が留学先で踊り子と深い関係になりながら、そのまま帰国した顛末をえがいたものなのだが、こんな身勝手な内容の小説が、いくら表現が巧みであるにしても、近代的自我の目覚めを描いた文学として評価され、教科書にまで掲載されているのがよくわからなかった。それはさておき、もう一つの小説を読む楽しみには、当時の世相を想像することがある。この小説では東京で開催された博覧会が大きな役割を果たしており、その記述も興味深い。当時の人々にとって博覧会というものはまさに文明の先端に触れることであった。また、主要な男性の登場人物はいずれも帝国大学卒業生なのだが、今の感覚ではずいぶんとのんびりしている。一人は博士論文の執筆中、一人は外交官試験受験中、そして一人はヒポコンデリーのような状況だ。帝国大学卒業といえば当時は稀少中の稀少で、それだけに学歴は大きな資産で就職をあせる必要がなかったのかもしれない。高等遊民と言う言葉がまだあった時代である。一方で女性は藤尾を除けば、いずれもつつましく受動的だ。今だったら、こうした小説が人気になるとは思えないが、明治と言う時代を知る上では、読んでみるのもよい。
2024年06月10日
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世の中には言ってはいけないことがある。正確にはどこかでは言われているのだが、大きな声では言われていないということである。その一つ。人種によって知能の差があるという事実。人種によって脳容量に差異のあることは医学的に明らかになっているし、オリンピックやスポーツ国際大会を見れば人種によって運動能力に差のあることは多くの人が認める。それが知能となると、人種による差は大きな声では語られず、経済的背景や教育制度のせいになるのは不思議である。本書では、その「言ってはならない」人種による知能の差にかなりのスペースをさいている。内容はまあ、予想どおりなのだが、ただ、この人種の差というのは、あくまでも統計的な差異であるので、具体的に〇人種に属している誰かさんが△人種に属している誰かさんより、知的レベルが高いということはないのだし、数多くの天才的頭脳を輩出して学術の発展に貢献した民族があったとしても、その民族に属する任意の誰かさんが偉いということには全然ならないということはもちろんである。人種による知能の差があったとしても、それはヘイトを容認するものではない。次に男女による知能の差。これはどっちが優れているかではなく、一つは分散の違い、もう一つは分野の違いである。分散の違いというのは、あまり異論ないのではないか。要は極端なりこうとバカは男に多く、女は平均への集中が高いということである。ノーベル賞受賞者と犯罪者はいずれも男が多いが、これは女が差別されているわけでもなければ、男が差別されているわけでもない。また、男は空間的認知能力が高く、女は言語的能力が高いともいう。これも統計的傾向であり、個々人にそのままあてはまるわけではない。だから、理系に進む女性が少ないのをすべて昭和脳的偏見のせいにして、女子学生を入試で優遇するような動きはゆきすぎではないか。こうした人種による差異は知能だけではなくセトロニン濃度にもみられ、これが少ないほど真面目、几帳面、悲観的になりやすいという。東アジアでは、セトロニン濃度が遺伝的に低いという。もし、これが本当だとしたら、昨今、東アジアで特に少子化傾向が進んでいることも、これが背景にあるのかもしれない。悲観的かつ真面目だから教育熱心となり、教育費の負担も高く、受験競争も全員参加の激烈なものになりやすい。ケセラセラで愛する者同士一緒になって子供を無計画につくるなどもってのほか、きちんと結婚して良い子を生まないと家名の恥になる。こういう社会ではたしかに子供はなかなか生まれないだろう。
2024年05月29日
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「書道教授」を読んだ。題名にある書道教授というのは主人公の銀行員が書道を習っている女性であり、年増だが奥ゆかしい魅力をたたえている。主人公には見合いで結婚した妻がおり、古本屋の色っぽい女房も気になり、さらに、その古本屋の女房に似た雰囲気のホステスとも親しくなっていく。このホステスがとんでもない疫病神で、主人公にしがみつき、次々と金をねだり、しまいには妻の実家から金を出してもらうことまで要求をする。よくある火遊びのつもりが深みにはまっていくというパターンなのだが、窮地に陥っていくいく状況は哀れでこっけいでもある。結局のところ、これは成功したかにみえた完全犯罪が破綻を迎えるという物語なのだが、冒頭にでてきた流行っていない呉服店の謎も回収されており、ややご都合主義にも見える点も気にならない。主人公の銀行員はどこまでも平凡な人間であり、こうした平凡な人間の平凡な日常と、犯罪とが地続きになっている分、ちょっと怖さがある。主人公をとりまく女性で一番活躍するのは前半ではホステス、後半では妻で、題名になっている書道教授の女性の出番はさほど多くないのだが、この女性こそが最も不思議な魅力を放っているようにみえる。この小説は「松本清張傑作短編コレクション」に収録されているが、他に収録されている短編の中には以前に読んだものも、いくつかある。ただ、一度読んだものでも、全く記憶に残っていないものと、逆に強烈な印象を残すものとがあるのが面白い。「巻頭句の女」は薄幸な女が強烈な印象を残すのだが、「カルネアディスの舟板」は読んだはずなのだが、ほとんど記憶になかった。いずれも面白い小説であることには違いない。
2024年05月27日
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夜間飛行黎明期を舞台にした中編小説で、小説というよりも散文詩のような印象である。夜間飛行と言うのは今でいえば宇宙飛行に似ている。未踏の空間での絶対孤独の世界と言う意味で。そしてそこで目にする地上の光景や星や月も、今まで普通の人間が見ることができなかったものであることも共通している。飛行機の窓際に座り、はるか下で街が煌めくのを見たらきっと思い出す小説だろう。それにしても、現代では夜間飛行どころか宇宙に行った人も何人もいる。こうした人々の中で、文章と言う形で宇宙を伝えた人というのはどのくらいいるのだろうか。
2024年05月23日
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読みやすく面白い本である。そして随所に著者の博識があふれている。その博識というのは教養になりそうな知識ということではなく、同時代の人だったら知っているような、へえ、そうだったのか…という話である。もちろん著者はそんな時代に生まれていないのだが、そうしたことを知識として知っているだけでもなかなかのものであろう。世相、政治、国債情勢について縦横無尽に書いているのだが、別に右とか左とか上とか下とかの立場で書いているわけではない。そういう柔軟性がよい。一例をあげると柳田邦夫はベーシックインカムが好きという項目がある。ベーシックインカムは遠野物語の柳田邦夫とは結び付きそうもないのだが、著者によれば、日本人が我慢できる最低生活の水準の確定こそ柳田学の初動の志だという。農政官僚と民俗学はすぐに結び付きがたいが、そういう関心ももしかしたら多少はあったのかもしれない。現在のところは、あちこちで人手不足が叫ばれているが、今後は様々な分野で人間の仕事が機械に置き換えられていくのかもしれない。その結果、生まれる山のような失業者は、窮乏生活を求められ、ベーシックインカムで暮らすという未来図があるかもしれないという。著者はそんな未来を期待しているわけではないが、配達はドローン、タクシーは自動運転、事務はAIという時代になればそういう未来も本当にあるのかもしれない。一読して損はない本だと思う。
2024年05月16日
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少女小説のお手本のような小説である。舞台は戦前。嵐の日に生まれ取り違えられた二人の赤ん坊。一人は大金持ちの家の令嬢として育ち、一人は貧しい漁師の家の娘として育つ。取違物語はドラマにもよくあるのだが、現実にも赤ちゃん取違というのはないわけではない。物語ではたいてい貧しく育った方が主人公になっているので、こうした物語は主人公が貴種でありながら苦難の道を辿るという一種の貴種流離譚ともいえる。主人公が貧しい育ちにもかかわらず、気品があり美しく賢く、誰にも愛されるというのも貴種である故か。戦前は酷い格差社会であるので、こうした設定になるのだろう。金持ちの娘として育った側は最初こそ意地悪なのだが、これも、根っからの悪役と言うわけでもなく、登場人物全体に「いい人」が多く、その分、大団円に向けてすんなりと物語はすすむ。文体は非常に読みやすく、一気に読める。面白いのはサイドストーリーの温泉採掘の部分である。舞台は明らかに伊豆半島なのだが、温泉発掘に人生をかける親子がでてくる。家産を傾けても温泉発掘に打ち込む父と、その父の死後は模範青年のような息子が学業を辞めて遺志を継ぐ。伊豆半島には昔から知られた温泉もあるが最近発見された温泉もあり、その中にはこうした温泉発掘にまつわるドラマもあるのかもしれない。のも実際にいたわけであろう。
2024年05月13日
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「菊枕 ぬい女略歴」を読んだ。短編なのだが、読んでいて非常に重苦しい。女主人公ぬいに実在のモデルがいるということだけでなく、俳句の世界ということを別にしても、主人公の苦悩が、非常にありそうなものに思えるからである。ぬいはお茶の水女子高等師範付属女学校を卒業した才媛で、男並みの長身という女性にとっての難点を別にすれば際立っての美貌と文才にも恵まれていた。実際にモデルとなった女流俳人の写真をみても相当な美貌である。そして彼女は降るような縁談の中から美術学校出の青年を結婚相手に選ぶ。彼女が結婚相手に期待したのは「芸術家」であった。しかし、夫は田舎の中学校の美術教師になり、それで満足している。そういう結婚についての錯誤、夫への不満というのは、男から見ると身勝手であっても女性には時折ある。結婚前は男は自分の才能や将来性について多少盛ることがある。ぬいの夫も結婚前はもっともらしい芸術論をはき、それをぬいはうっとりと聞いていたのではないか。ぬいも後年俳人になるくらいなので、芸術的志向はある。田舎の美術教師の妻となったぬいは俳句を始め、頭角を現すことで、彼女にも新しい世界が開けるようにみえた。しかし、雑誌に自分の句が掲載されたところで、それだけで収入になるものでもない。俳人の多くは別に社会的地位のある職業についたり、そうした者の妻であったりする。俳句関係の交友が増えるにつれ、ぬいはますます「田舎の中学教師の妻」という身分に引け目を感じるようになる。今はそうしたことがどの程度あるのか知れないが、当時は夫の地位イコール妻の地位であった。ぬいが俳檀の巨匠にストーカーのようにつきまとったのも、巨匠を通じて自分に大きな世界が開けることを期待したのかもしれないが、それも拒絶される。表題の菊枕は菊の花をつめた枕を使うと無病長寿であるとされ、ぬいが師匠のために心をこめて菊枕を作るというエピソードによる。その後、ぬいは句作も衰え、精神を病んでなくなるのだが、このあたりはどこまでがモデルの実像で、どこまでが創作なのだろうか。ぬいは句想を得るために英彦山によく登っていたというのであるが、絵や写真と違い、俳句には元になるものがない。いくら山をみても山の俳句が浮かぶわけはない。一度、俳句で名声を得た人がそれを維持するというのはかなり大変なことのように思う。さて、一読してみると、この小説の主人公はぬいの夫の圭介ではないのか。俳句の会や旅行に行くぬいを経済的に支え、家事を行わないことにも文句もいわず、最後にぬいが夫のための菊枕を作ると、ようやくぬいが自分の下に戻ってきたとよろこぶ。妻の期待するような芸術家になれなかった夫の負い目かもしれないし、一種の嗜虐的な喜びかもしれない。こういう夫婦も世間のどこかにはいるのだろうか。
2024年05月09日
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森鴎外の三男を主人公にした評伝小説「類」に主人公は松本清張の小倉日記をテーマにした小説を読んで、その圧倒的な文才の差異に衝撃を受ける場面がある。これが評伝小説作家の創作なのかどうかはわからないが、いかにもありそうに思う。松本清張の短編傑作コレクションのうち、「支払い過ぎた縁談」、「死せるパスカル」、「骨壺の風景」を読んだ。最初の「支払い過ぎた縁談」というのは、アイディア自体は雑談の中からでも生まれてきそうなのだが、普通はこんなに面白い小説にはできない。昭和32年という当時の世相などまで想像させるし、登場人物の若い研究者にはなんとなく作者自身が投影されているような気がする。つっこみどころはあるのだが、ぐいぐいと読ませるのは作者の力量だろう。「死せるパスカル」も推理小説あるいは犯罪小説のようであるが、トリックについては、これだけのものでよくも…と思う。登場人物にはさほど共感できるタイプはいないし、主人公の画家は、佐藤愛子の「血脈」の佐藤紅緑を視点を移せばこうなるのかと思わせるほどである。けれどもこれも、先がきになり読ませる小説となっている。「骨壺の風景」は内容はほぼ作者の身辺に起きたことで創作の要素はない。祖母の骨壺を探すとともに、祖母や父母の人生を回想した内容である。似たような経験のある人はいるのかもしれないが、それを読ませる小説にできる人は稀有である。三作ともタイトルの妙ということで、並べられた小説なのだが、いずれも作者の読ませる文章の才というのを見せつけた小説のように思う。奇抜なトリックや特異な事件は扱っていないのに先が気になって頁を繰る手がとまらない。読ませると言えば、ときどきでてくる生き方指南のとうな新書も似たようなものだろう。自分ではまず買わないのだが、借りて読むことはある。知的生き方、幸福になる生き方、健康の秘訣などなどについてつづったものなのだが、多くは、それができれば苦労はないよといった内容で、読んだ後は時間を無駄にしたと思う。いってしまえば、金持ちになるには無駄遣いをしないことだとか、試験に合格するには一点でも多くとることといった類であろう。ただ、こうしたものがなぜ売れるのかと言えば、それは多くの場合、読ませる文章で書いてあるからだろう。文章というものは音色であり、内容というものは旋律のようなものなのかもしれない。音色がよければ心地よく最後まで聴ける。
2024年05月07日
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戦国時代を舞台にした歴史小説である。ただ目新しいのは主人公を武士ではなく、石垣や鉄砲を作る職人としたことであろう。石垣が盾なら鉄砲は矛…この矛盾の解決の先に泰平の世が開ける。職人もまたそう信じて己の技術を磨いていく。歴史小説にはいろいろなタイプがあって、実際にあったかもしれない歴史的事実に即したものから、想像を飛躍させたファンタジー色の強いものまである。前者の中には頻繁に出展や根拠を説明しているものがあるが、はたして本作はどちらだろうか。作中で紹介されている石垣の技術や鉄砲の技術が、どの程度、歴史的な事実をふまえたものかどうかが気になる。そしてまた、この小説のように、殿が領民を守るために領民までが城に籠るなどということがどの程度あったのだろうか。領民、特に職人は、戦国時代の戦いの勝者にとっても金の卵を産む鶏のようなものであろう。関ヶ原の戦いでは農民たちは弁当をもって見物していたという話を聞いたことがあるが、おそらくそちらの方が事実に近かったのではないか。また、この小説では石垣を盾に見立てているが、実際の籠城戦では狙うのは建物本体であって、石垣を盾とするのは無理があるように思うし、砲を防ぐために即席で石垣を作るということも、本当にそんなことが可能だったのかとも思う。もっとも、どこまでが歴史的にありうることかなどと固いことは抜きにして、小説として読む限りでは面白い。歴史小説には、別の読み方もあり、現代に投影して読むという読み方もある。大津城の城主の京極高次は武将としては無能だが、部下を愛し愛される性格で、それが結果的に強さとなっている。戦国時代にこういうタイプがいたかどうかはともかくとして、現代のリーダーには、もしかしてこんなのもいるかもしれない。新機軸の歴史小説としては、読んでみても良いかもしれない。ただ、これは個人の感想で、人によって違うのかもしれないが、すいすいと読めるタイプの文体ではないようで、いっきに読めるという小説ではない。
2024年05月03日
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「書いてはいけない」(森永卓郎)を読んだ。ジャニーズのようにマスコミに強大な影響力を持つ者に対しては批判できない、財務省のような強大な勢力に反する言論は表に出ない…というのはおそらく実態だろう。ただ日航ジャンボ機の事故の真相についての記述は信じがたいもので、それだけで、大問題になりうる。戦後まもない時期に起きた闇の事件と同様、今の日本にも怖くて触れられないものがあるのかもしれない。さっと読める本だし、内容の強烈さは一読の価値はある。今のマスコミは書けないこと言えないことが沢山ある。そう思うとテレビの報道番組のコメンテーターのつまらなさもむべなるかなである。それなりの肩書の知的美女イケメンをならべて、チャンネルを回されない程度の時間でコメントを求めるのだが、おおくはもっともらしくありきたりなものにとどまっている。そりゃそうだろう。踏み越えて批判してはいけないものを批判し、触れてはいけないことに触れるとあっという間に降板する。あのショーンKでも十分務まる。マスコミについては、強力なスポンサー企業に対する配慮、情報源であり権力機関である政府に対する配慮、マスコミに影響力を持つ芸能事務所に対する配慮など、さまざまな配慮の中で報道を行なっている。特に政権の姿勢がマスコミに対してにらみをきかせるものであれば、報道できる範囲はますますせまくなる。日本の報道が委縮しているうちに、外国からの報道や批判で問題に火がつくなんてのは、日本の報道にとっては大変な不名誉だと思うのだが、そうした反省ははたしてあるのだろうか。そういえば、ある日本企業の現地子会社の提供したシステムに欠陥があり、700人以上の郵便局長が冤罪で訴追されるなんて事件がさる国であったようだが、これについても、日本では報道が少なかったが、これもスポンサー企業に対する配慮なのだろうなと思う。
2024年04月22日
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「名もなき毒」を読んだ。この毒にはいろいろな意味がある。無差別殺人犯の使う毒、シックハウス症候群の毒、さらには人間の中にあるまだ名のついていない毒。犯罪というものも、そうした人間の毒の噴出なのかもしれない。この小説には様々な人物が登場する。主人公の大企業の会長の娘(妾腹)と結婚したサラリーマン、トラブルメーカーの元バイト、元警察官の老探偵、売れっ子ライター、地域の世話役的な商店主と芸術家気取りのバカ息子などなど。ただ、そうした中で、これは読者によって違うのだろうけど、一番リアリティを感じたのは、体が弱く定職につけないでいるバイト青年だ。両親は家を離れ、寝たきりの祖母の介護をしながら、傾いた家に住み、楽しいことの何一つない生活を送っている。頼りなげで「何かしてやりたい」という雰囲気をもっているのだが、商店主も掃除をたのんで小金を渡す以上のことはしてやれない。この前の黄金茶碗窃盗男もたぶんこんな感じだったのだろうなと思う。そしてさらに思いつくのは佐藤愛子「血脈」の最終章の「暮れていく」に出てくる佐藤家の末裔だ。「血脈」では、よくこんなのを書いたなと思うほど佐藤家(自分の血脈)のどうしようもない人物ばかりを描いているのだが、先の世代のドラ息子達が、女と放蕩する、店をつぶすなどとアクティブなタイプが多いのに、最後の末裔の青年はぼやっとした無職青年で、無気力で何も考えていないという感じになって来る。こうした佐藤家の荒ぶる血が薄れていく様を「暮れていく」と表現したのだろう。豊かで平和な時代が長く続くとこうした「暮れていく」タイプが多くなるのかもしれない。ネタバレになるので、あまり書かないのだが、作中人物にももちろん毒を持っている人がいる。そのある者はその毒で自分をさいなみ、自滅していく。物語としての後味は良くないし、エピローグ的な個所は冗長で余計な気もする。ただ、これだけの長編にもかかわらず一気に読んでしまうあたりはさすがというものであろう。暇なときや通勤電車の中などにお薦めである。
2024年04月21日
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実はこうした一般向けの数に関する本を読むのが好きだ。だいたいは図書館で借りるのだが、それは途中でついてゆけずにリタイヤした場合(こういうことは多い)も金銭的な後悔はなくてすむ。あの「博士の愛した数式」は小説も映画もいまだに傑作だと思っているし、ユーチューブにもこの分野の解説ははいてすてるほどあり、なかなか面白い。最近では、循環数やカプレカ数についての解説など興味深かったし、なんで今までこんなことも知らなかったのだろうかと思った。そういえばその昔、清水の次郎長が静岡で幕臣たちの生活再建の手伝いをしていたとき、旧幕臣の蘭学者から、月の満ち欠けの理由を説明され、なんで今までこんなことも知らなかったのか、長生きはするもんだ…と言ったとか言わなかったとか。まあ、それと似たようなものかもしれない。人間は数と言葉を使ってものを考えるものなのだが、言葉が自然発生的とはいえ、人間が作ったものであるのに対し、数というのは人間を超えたところに存在し続け、それを人間が発見してきたというところがある。だから非常に簡単な問題であっても、いまだに誰も証明できないというものもある。「数の悪魔」には興味深い話がいろいろとあるのだが、フィボナッチ数列とパスカルの三角形のあたりが面白い。一定の法則に従って数列を作ったり、三角形に並べていったりした場合、予想もしない別の法則が現れることがある。身近ですぐそこにある数というものにこれほど多くの不思議があるということに驚く。体裁は子供用の本になっているのだが、誰が読んでも良いだろう。
2024年04月16日
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図書館で衝動的に借りた本である。実は土屋文明と言う歌人は名前は知っていても、正直にいって彼の歌で好きなものがあるわけではない。この本でおびただしく引用されている彼の歌を読んでもそれはかわらなかった。土屋文明が短歌の世界で重きをなしたのは歌がすぐれているからというよりも、新アララギを主宰し、多くの弟子をかかえていたというその政治力にあるのではないか。ただ短歌のよしあしは受け手の感性によって違う。たぶん、自分の場合はたまたま土屋文明の歌と合わなかったというだけのことだろう。この本の面白さは土屋文明そのものよりも、筆者の眼を通して描かれる戦前から戦後の世相にある。特に、大東京発足や紀元二千六百年の時の街の様子などは興味深い。学校で紅白菓子を配り、花電車が走ったことなどは歴史の教科書にはでてこないし、紀元二千六百年という政府肝いりで作成された歌もあったがレコードはさほど売れず、筆者周辺では実際の祝賀ムードもさほどではなかったという。また、土屋文明が諏訪高等女学校の校長をやっていたときの教え子で昭和3年の共産党一斉検挙事件で犠牲になった伊藤千代子という女性についてもかなり詳細に書かれている。実際には校長と生徒の一人と言う関係にすぎなかったが、土屋文明は以下のような哀惜の歌をいくつか残している。芝生あり林あり白き校舎あり清き世ねがう少女あれこそ戦前という時代はいろいろな見方ができるが、思想弾圧によって犠牲になった人々が何人もいた時代であったことは忘れてはならないだろう。伊藤千代子の生涯については映画にもなっているようである。予告編「わが青春つきるともー伊藤千代子の生涯」 (youtube.com)
2024年04月14日
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「白い巨塔」を読み終わった。医療と訴訟の世界を軸とした社会派小説で、その背景となった膨大な知識に圧倒される。この小説が出た昭和40年ごろにはまだ女流文学という言葉があり、女流作家と言えばなにか共通の作品世界があったと思うが、本作はそうした女流の枠をはるかにこえている。ただ、正直に言うと、最初の山である教授選のところではどうもこの作品テーマに興味がもてずにリタイヤしようかと思った。しかし、その次の山場である医療訴訟のあたりからはどんどん小説世界にひきこまれていった。主人公財前は手術した患者の診察を受持ちの医師にまかせ、海外出張に行く。このドイツ訪問の箇所は紀行文としても面白いのだが、その海外出張中に胃癌を手術した患者は肺癌で死亡する。これを遺族は胃癌の肺転移に気づかなかった財前の医療ミスであるとして訴訟を起こす。当たり前だが、損害賠償が認められるためには、医師に過失がありその過失と患者の死との間に因果関係がなければならない。手術時に肺癌の措置をしなかったことと、その後、短期間で起きた患者の肺癌死との間の因果関係を認めるのは難しいのではないか。癌は相当の期間を経て死に至る病であり、画像の見落としなどで早期発見の機会を逸したのとは違う。いくら患者遺族から見て医師が傲慢で手術後一回も患者を見なかったのが不誠実であったとしても、これだけでは損害賠償にはならない。非常に面白い小説なのだが、新進気鋭の弁護士がよくこんな訴訟を引き受けたとも思うし、調査や鑑定にも膨大な費用がかかるので、困窮する遺族が経済負担に耐えうるかも疑問である。同じ専門職でも医師は保険制度があるので貧しい農婦でも早期胃癌の手術ができるが、そんな制度のない法曹では弁護士費用や訴訟費用は遺族がすべて負担する。ただ、この小説、医療訴訟の控訴審の場面が一番面白い。訴訟では財前は肺転移に気づいていたという主張をする。そのために、部下の医師や看護婦に虚偽の証言をさせたり出廷を妨害するような工作をする。その財前の主張を原告側の弁護士らが覆していく。財前の主張の虚偽を暴く法廷場面が小説でもドラマでも最大の見せ場となっている。小説の流れでは、第二審は原告勝訴となるのだが、胃癌手術後に化学療法で延命できたはずであるので、患者の死を早めたことに損害賠償責任を認めたのはやはり無理があるだろう。当時は癌は今以上に不治の病であり、化学療法も緒についたばかりだったのだから。そしてまた、癌は患者本人に知らせないというのが常識だったので、たとえ死期が伸びたとしても、患者が経営する商店について自分の死後の準備をするとも思えず、商店の経営悪化や遺族の困窮が防げたとも思えない。この小説の最後については、こうした形の結末が一番すっきりするのかもしれないが、ややご都合主義の感じがしないでもない。ただ癌は患者本人には絶対に知らせないというルールが固く守られている点については、今日から見れば隔世の感がある。この時代には、癌の告知はタブーであり、癌を告知された高僧がショックのあまり気が狂ったという話がまことしやかに語られていた。
2024年04月09日
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「白い巨塔」を読んでいる。テレビドラマでやっていたのは知っていたが、実は見たことはない。ただ番組宣伝などでやっていた田宮二郎が多くの医師の従えて行う回診の場面が印象的だったので、病院などで回診をみると、つい「白い巨塔」を連想する。日本でもドラマや映画になっているが、韓国でも何年か前にリメイクされているので、どんな話かと思ったのだが、全五巻の内の第一巻を読んだ限りでは、それほどドラマチックな展開はない。大学病院の中の人間関係と教授選の舞台裏の話がメインで、どうもひきこまれない。医師といえば、病院では権力も名誉もある人々であり、その中で教授になるかどうかなんてそんなに重要なのだろうか…とついつい思ってしまう。主人公の名誉欲や上昇志向を理解し、同化しなければ、なかなか小説世界に入り込めないのだ。ただ第二巻の後半あたりからは医師の家族や患者をめぐる人間模様もでてきて、面白くなる。この小説が最初にでたのは1965年ということで、今にしてみると時代を感じる。医療分野では昔から女性も進出していて女医もいたはずなのだが、物語には女性医師は今のところでておらず、医師の夫人や娘達は専業主婦だったり、花嫁修業中だったりして、職業はもっていない。そういう時代だったのだろう。もっと変化を感じるのは、診断の場面で、レントゲン画像や胃カメラの映像から、病名を診断するのが重要な医師の能力となっている。今ならレントゲンや胃カメラ自体も進歩しているが、CTスキャンやMRIでより鮮明に人体内部を見ることができる。医師に求められる能力も機器の変遷とともに変わっているのかもしれない。
2024年03月13日
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GHQ占領時代に以前から関心があった。日本近現代史の中で明治期と並ぶ大変革の時期なのに、あまりこの時代について書かれたものはないし、もちろん歴史の授業でもスルーされていた。ただ、昭和40年代かもしかしたら50年代くらいまでは、新聞の論調など「戦前の暗い時代を思い出す」というのがほぼ常套句になっていたし、なにか戦前の時代というのは余計なことを言うとすぐに特高というものがやってきて連れていかれるような怖ろしい時代だというイメージがあった。それが戦後の改革で民主主義というまぶしいものがやってきて、よい時代が始まったというわけである。ただその後、いろいろなものを読んだり聞いたりしてみると、もちろんそんな単純な話でもないとわかる。特に興味深いのはGHQの姿勢も一貫していたわけではなく、あの戦後まもない時期に計画されたゼネストをGHQ指令で止めたあたりから占領方針も変化した。それまではGHQは労組の見方と思われていたし、ゼネストも当然に支持されると思われていた。本書はこうした動きの背後に日本の敗戦革命を考える勢力と保守自由主義勢力の抗争があったとする。敗戦革命とは、戦後の窮乏や混乱に乗じていわゆる親ソ社会主義政権を樹立しようという動きをいう。ただそれもにわかに信じられない話だ。日本の占領は間接統治という形で行われ、その間接統治という形を得るためにも日本側の相当の努力があったというのは事実だろうが、その統治は連合軍の中でも米国主導で行われた。米国主導の中で親ソ社会主義政権の誕生と言うのも考えにくい。また、GHQの中に社会主義者がいたとしても、それと親ソはイコールではないだろう。ソ連は第二次大戦で膨大な被害を被った国であり、そこまでの影響力があったとも思えない。本書は、GHQの中に親ソ的な勢力があり、敗戦革命をもくろんでいたが、昭和天皇や吉田総理を中心とする保守自由主義勢力がそれを防いだと見る。その見方自体については疑問があるものの、これも占領期についての一つの見方として読めば興味深い本である。
2024年03月06日
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最初は少しずつ傍らに読むつもりだったのだが、読み始めるとたちまち続きがきになって読み進み、ノンストップのまま、ようやく「夢の浮橋」まで読み終えた。光源氏の本編では文章の流麗さや人物描写の鋭さに目を見張ったが、宇治十帖になると、本当にこれが1000年も前の小説なのかと驚く。この時代には素朴な英雄譚や伝奇物語が主流で近代小説がうまれるのははるか後のことだ。ところが宇治十帖では薫、匂宮、大君、中君、浮舟という五人の男女の心理が丁寧に描かれ、父八宮の死、大君の死、浮舟の登場と出来事が巻ごとに進行し、今の小説といってもよい趣がある。特に入水した浮舟の蘇生後を描いた「手習」の巻はそれだけでも独立した物語となっており、浮舟に想いをよせる中将、亡き娘がわりに浮舟を慈しむ尼君、天下の高僧として名高い僧都などが登場し、その中で、浮舟の出家の顛末がえがかれる。高度な文学的な鑑賞というのとは違うのだが、こうした物語はなんとなく既視感がある。中将の視点でみたらどうだろうか。亡き妻が忘れられずに妻の母である尼君をときおり訪ねている男がいる。その尼君の住む山里でふと美しい女を見かけ、彼女が忘れられなくなる。女は記憶を失っている様子で、どこの誰ともわからない。こうした物語はハッピーエンドにしろそうでないにしろ、今日でもドラマなどでよくあるのではないか。それにしても、この時代の出家とはどういう意味をもつのだろうか。源氏物語には出家する登場人物が多いし、その背景の事情もさまざまである。祈祷とか加持が、今の医療のような役割を期待されていた面もあるし、寺詣でが御利益を期待してという面もある。それとは別に、この世の苦しさを逃れる手段としての出家というのもあった。この世での栄華や幸せをあきらめるのと引き換えに後世の幸福を祈って出家し、精神の平安を得るのである。浮舟の身にしてみればいまさら世にでるわけにもゆかず、出家というのはしかたない選択だったのだろう。それにしても、出家後も兄弟と思ってほしい、後の生活の世話もしたい…と言う中将は誠実な男であり、浮舟も最初からこうした人に出あっていれば幸福になっていたのかもしれない。
2024年03月03日
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更級日記の作者が源氏物語を読みながら大きくなったらきれいになるかしら、髪が伸びるかしらと思いながら夕顔や浮舟のような女性になることを空想する場面がある。その浮舟であるが、彼女は生まれた時からこの世の中に居場所のないような、それこそ浮舟の名のような寄る辺なき境遇の女性である。父親の八宮には生まれた時から拒絶され、継父の常陸守からは異人(ことびと)として疎外されて育つ。常陸守の実子でないことにより縁談が壊れてからは、常陸守の屋敷にも居場所がなくなり、中君のいる二条院、次いで母の用意した隠れ家に移り住むが、その後は、薫により宇治の別荘に匿われ、そこでたまさかの薫の来訪を待つ生活を送る。しかしそこに、二条院にいるときに浮舟に目をつけた匂宮もやってくるようになり、薫、匂宮、浮舟の三角関係が始まる。なぜこんなことになったのだろうか。浮舟が非常に軽視されている女性だったということがあるのだろう。源氏物語には様々な身分の女性がでてくるが、荒れた屋敷に住んで困窮していても、小路の小さな家に隠れ住んでいても素性だけはしっかりしていた。ところが浮舟は実の父に拒絶されており、その父も宮の中に数えられない八宮で既にこの世にいない。継父常陸守からは子供としての扱いをうけていないので、事実上、父親のいない女性である。さらに長い時期を常陸の田舎で育ったので管弦の道も教養も身についていない。遠慮して育ったせいか、物事を強く拒絶することのできない優柔不断な優しい性格なのだが、それはまた三角関係の中で薫にも匂宮にも決めかねるということになり、悲劇につながっていく。薫というと匂宮に対比して内省的な性格と解説されることが多いが、浮舟や中君、そして妻の二宮に対する態度は身勝手であるし、次から次へと想う女を変え、飽きたら姉一宮の女房に押し込むような匂宮に比べれば真面目というだけのことだろう。薫は、最初の頃は自分の出生の秘密に悩んでいた節もあるが、事実を知ってからは逆に露見を怖れているし、仏道に傾倒しているようでも、悟りを目指しているわけではなく、浮舟を失ってからも女一宮に今度は関心を向けている。ごく最近の言葉ではあるが、恵まれた中二病青年といった趣もある。このように薫にしろ匂宮にしろ、欠点が目につくのは、それだけ宇治十帖の世界が現実的だからであろう。光源氏を主人公にした部分では夢のような宴の場面が多く描かれたが、宇治十帖で描かれているのは貴族の普通の生活である。その意味で、宇治十帖の方がさらに近代文学に近いものだといえるのかもしれない。
2024年03月01日
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源氏物語を読み始めて止まらなくなっている(笑)。宇治十帖の宿木まで読んだのだが、たしかに宇治十帖と光源氏が主人公の本編とでは雰囲気が違う。光源氏の女君だけでなく、子供世代の女君が次々と登場し、それぞれの個性あふれる性格や恋が描かれる本編は、話のテンポが速く、舞台も桜の宴、藤の宴、女楽の合奏、香合わせ、胡蝶の船の宴と夢のような場面が多く、王朝絵巻の万華鏡と言った趣がある。これに比し、宇治十帖では主な登場人物は薫、匂宮、大君、中君、そしてこれからでてくる浮舟に限られる。匂宮が中君以外に結婚する夕霧の六君や薫が結婚する二宮は物語では気の毒なくらいに影が薄い。その分主人公薫の心理や行動が丁寧に描写されており、近代の文学により近いのは宇治十帖の方だろう。しかし、その薫の心理をみると…仏道に興味を持ち宇治の八宮邸に行って大君中君の姉妹をかいま見、大君にひかれる。八宮の死後、大君は薫を拒絶し、中君を薫へと望む。そのため中君を友人の匂宮と結び付ければ大君は自分に靡くと思い、匂宮と中君を結び付ける。匂宮の宇治来訪が途絶えたことなどの心労が重なって大君は亡くなり、中君は匂宮の二条院に移る。薫は中君と大君がいまさらながら似ているのに気付き、中君を匂宮に結び付けたのを後悔する。こうしたことを今の道徳でどうこういうのはナンセンスにしても、それにしても、身勝手な奴だと思ってしまう。大君が薫を拒絶する理由はいろいろと考えられるが、すでに女性の盛りの年齢を過ぎていることの引け目や健康不安、妻の死後上臈女房との間に子供を儲けながら仏道の妨げになるとして見捨てた父を見てきたことによる男性不信などの理由があったのかもしれない。光源氏もかなわぬ恋の相手に似ているとして10歳の少女を屋敷に連れ込むなどかなり身勝手なのだが、光源氏が、超人的な美を持つ道徳を超越した存在として描かれているため、そうしたものは感じない。ところが、薫や匂宮は、光源氏ほどの超人ではないために身勝手さが気になる。光源氏が主人公の部分と宇治十帖は別の作者という説が昔からあるようであるが、自然科学と違い、こうした問題は永遠にわからないのではないか。同じ作者であっても作品によって文体や雰囲気が違うことは珍しくない。だから別作者かどうかはわからないが、情報提供などで作品執筆を助けた人はいたように思う。源氏物語には膨大な古歌、漢籍、仏典をふまえた記述がある。また、作者がいったことのない須磨、明石や宇治の情景についての記述もある。結果的に小説家のアシスタントのような役割を果たした人がいても不思議ではない。
2024年02月25日
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源氏物語にはいろいろな読み方ができるが、一つは母親の面影をもとめる光源氏の恋の遍歴の物語ともいえる。子供の頃に母親にそっくりだといわれる藤壺の女御を慕い、その気持ちはやがて恋に変わっていく。その藤壺に対する許されない恋心は、たまたま見出した藤壺とそっくりな面差しを持つ少女若紫に対する愛に投影され、若紫が成長するとともに、それは女性に対する愛へと変わっていく。若紫にしてみれば、10歳のときに二条院の屋敷に連れてこられ、光源氏を父のように兄のように思ってなついていたのだが、ある朝のこと、光源氏はさっさと起きてきたのに、若紫は全く起きてこない。布団をかぶったまま怒って泣いているのである。それでも実の父に対面し、裳着の成人の儀式をすませ、ようやく光源氏の想い人としての生活が始まるかと思ったとたん、今度は光源氏は須磨に移ることになる。せっかく名乗りをあげた実の父も嫉妬深い北の方に阻まれてなんの支援もできない中で、紫の上は女房達をまとめ、留守の屋敷をしっかりと守っていく。若紫は美しいだけでなく聡明な女性の紫の上に成長したのである。光源氏が都に帰還し、これからは光源氏の最愛の思い人としての生活が始まるかと思いきや、光源氏は明石に愛人をもうけ、姫君まで生まれていた。光源氏は姫君の将来のために姫を紫の上の下で養育してほしいという。姫君をひきとってからは姫君のかわいらしさに夢中になり、明石の上に対する嫉妬も和らいでいく。光源氏が須磨から戻って以降は、新しい女君がでてこない。玉鬘は養女格であるし、女三宮は朱雀院からの懇願である。紫の上は光源氏が最後にたどりついた女性であり、嫉妬に泣いたことはあっても、光源氏の最愛の女性としての地位はゆるがなかった。ただ女三宮の降嫁は衝撃で、子供も後ろ身もない立場の不安定さや今後は衰えていく容色の不安もあって、急に胸の痛みと高熱の出る病気にかかり、一時は生命さえも危うい状況になる。危機は脱したものの、その後は次第に衰えてゆき、出家の願望をもらすようになる。御法では仏事と紫の上の死を、幻では紫の上が去った後の光源氏の悲しみをえがいている。短い巻ではあるが哀切極まる部分でもある。源氏物語にはこれまでも女君の死が描かれてきたが、御法の紫の上の死は光源氏の出家につながり、ここで源氏物語の光源氏を主役にした部分は終わることになる。最晩年の紫の上は光源氏が朧月夜を訪れてもさほど嫉妬していない。なにか女三宮の降嫁以降、関心が仏道に移っていったようなところがある。御法では紫の上が仏道にも通じている様子がえがかれているが、光源氏の愛を争う世界から清浄な仏道世界への関心の移行は宇治十帖の終幕の浮舟の出家にも通じるように思う。
2024年02月19日
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夕霧の巻はその前にも発端になるような箇所があるのだが、この巻だけで一つのまとまった話になっている。夕霧と柏木は極めて仲の良い友人であったが、死の直前の柏木の言葉を受けて、柏木の妻であった落葉宮を訪問しているうちに、しだいに落葉宮にひかれるようになり、ついに側室にするまでの顛末を描いている。柏木の死後、落葉宮の母が病気になったため、律師の祈祷を受けるために小野というところに母子ともに山籠もりする。夕霧はもちろんこの山籠もりの手続きも行い、小野にも何度も訪問する。夕霧という名はこの山里を訪問したときの歌に由来する。山里のあわれを添ふる夕霧に立ち出でん空もなき心地してこの頃には夕霧には既に落葉宮に対する想いがあり、ここに留まりたいという気持ちをこめた歌である。一方、落葉宮には柏木に愛されていなかった想い出があり、さらに容色が衰えた今となっては、軽々しく靡くつもりはない。その後、母が亡くなると、この山里に留まったまま、尼になりたいとまで思う。光源氏と女君の場合は、双方に思いがあるのだが、夕霧の落葉宮に対する想いはひたすら一方的である。だいたい最初から「世の中をむげに知らないわけでもないだろう」などというのはNGである。そして落葉宮を側室にした後で、恋などというものはちっともよいものではないと述懐するわけなのだから、このあたりは光源氏とはずいぶんと違う。もっとも夕霧の落葉宮への想いには柏木の遺言以外にも背景がある。夕霧は真面目で優秀な官吏なのだが、光源氏同様に音楽の才があり、風雅の道にも造詣が深い。これ以前の巻では、六条院の屋敷で女楽を聞いたり鈴虫の宴を楽しんだりするという夢幻のような世界と、所帯じみた雲居雁の様子が対照的に描かれている。雲居雁も子供の頃には大宮から琴の手ほどきを受けたが、その後は関心を失い、ひたすら子供の世話と家事におわれている。こうした場合、夫には妻に不満があるわけではないのだが、それとは別のものを別の女性にもとめるという心理があるのだろう。小野の山荘といういわば非日常の世界もかっこうの舞台となる。源氏物語は今の道徳とかモラルではどうかというのはあるにしても、夕霧と落葉宮、妻の雲居雁の悲喜劇は今に通じる中編小説のようである。なお、雲居雁が落葉宮の母からの手紙を奪い取る、源氏物語絵巻で有名な場面もこの巻の場面となっている。
2024年02月18日
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光源氏の栄華が「藤裏葉」の巻で絶頂に達した後、「若菜」で急展開となる。朱雀院が出家に際して後に残る皇女の行く末を心配して、なかばおしつけるような感じで光源氏に降嫁させる。女三宮である。ひたすら子供っぽく、知恵も伴っていないようなところがあり、それゆえ、院の心配はひとしおだったのであろう。故夕顔も「子めきてろうたし」と少女のような可愛らしさのある女性であったが、それは同時にコケティッシュな魅力になっていた。これに対して、女三宮は単に子供で、光源氏は当然に魅力も感じず、院への外聞をおもんばかって義務的に通うばかりとなる。ただ身分は皇女であるので当然に正妻となる。女三宮の降嫁は紫上にも衝撃を与える。あまりにも子供っぽい女三宮に光源氏の寵愛が移ることはないにしても、子供も持たず、確たる後ろだてのない紫上は寵愛だけが頼りである。そして年齢は40近くであり、今後は容色も衰えていくだろう。そうなったらいつまで寵愛が続くのだろうか、やがては「人笑いになるような」境遇になるのではないか。この頃から紫上は出家願望をもらすようになる。そんな精神的なストレスもあったのかもしれないが、急に胸の痛みを訴えて、一時は生命も危うい状況になる。光源氏は紫の上を二条院の屋敷に移して加持祈祷をさせたため、六条院は人のほとんどいない状況となり、そこに、柏木と女三宮の密通事件が起きる。この密通はやがて光源氏の知るところになり、女三宮は出家し、柏木は懊悩のはてに死ぬ。こうした顛末を女三宮からみたらどうであろうか。降嫁後に行われた光源氏40歳の賀は養女格の玉葛、紫上、秋好中宮、夕霧によってそれぞれ祝われ、女三宮は関係なかった。そして紫上の急病後は皆主だった人々は二条院に移っていった。この時、正妻とは形ばかりのものではないかという疎外感を、いくら子供っぽい女三宮でももったのではないか。そして密通発覚後は、光源氏は大仰には責めないものの、ねちねちと知っていることを匂わしていく。出家という形で逃げ出したくなったのも当然である。柏木の方の女三宮への執着の心理はいまいち今の感覚では分かりにくいのだが、当時の人は身分という概念に縛られており、身分の高い皇女との結婚を強く望むのも当時の貴族ではよくあることだったのだろう。それにしても密通というのは、宿命的な悲劇としか思えないし、その後の柏木の死の描写は両親は健在であっただけに哀切である。大きな物語の流れでいえば、光源氏の若い日の密通事件が、後年立場を変えて光源氏の身に起きるという皮肉、そしてそれによって、自分が密通を知っていながら知らないふりをしているように、父桐壷帝も密通を知っていたかもしれないということに思い及ぶ。自分が当事者となって、自分がその年齢となってはじめてわかるということも、人生には往々にしてあるものである。
2024年02月15日
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平安時代の貴族社会では意外に離婚や再婚が頻繁に行われていたようである。そしてまた、一夫多妻も普通であったので、継母子関係というものもごくごく普通にあったのだろう。かの更級日記でも作者の母は継母で、その後、離別している。更級日記の作者と継母との関係は良好であったようなのだが、実際にはそうでない場合も多かったであろうし、落窪物語など継子いじめの物語も残っている。源氏物語でも、紫の上の父の正妻は「おおさがなもの」の悪役として物語に何度かでてくる。その一方で、源氏物語では、紫の上は明石の上の産んだ姫を大切に育てている。もちろん紫の上には明石の上に対する嫉妬はあったし、彼女の見事な筆跡をみたり、琴の上手の話を聞いたりしてすねる場面もある。けれども、もともと子供好きな性格で、姫をひきとってからは、姫のかわいらしさに、嫉妬もかなりおさまっていったという。妻が愛人の子供を引き取って愛育し、実母が子供のすぐ近くに住みながら我が子に会わないというのはどちらにも辛いはずの稀有なことであろう。昼ドラなら、それだけでも、継子苛めや子供をめぐっての争いなどのどろどろの話ができそうである。ただ、源氏物語の中で理想的な女性に描かれている紫の上と明石の上の間ではそんなこともなく、彼女らが初めて対面したのは、姫の入内準備のときである。二人はそれぞれに互いに対して光源氏の寵愛は当然だったという感想を持ち、後に姫が皇子出産のために里帰りしたときには、紫の上は乳児の世話を、明石の上はもっぱら湯の準備等を行う。光源氏が戯れに明石の上に赤ちゃんをとられてもよいのかというと、明石の上は、私はその方がよいと思っているので仲をさくようなことはいわないで下さいと返す。姫は実母が明石の上と知ってからは、ますます紫の上と睦まじくなる。愛情豊かな紫の上と、実母という確かさに裏打ちされているとはいえ一歩引く明石の上の賢さが、姫を中にして幸福な関係を築いているわけである。紫の上を桜に、姫を藤に喩える表現は,「若菜」巻にもでてくるが、明石の上は橘に喩えられており、紫の上の美しさにも気圧されないとしている。「あさきゆめみし」では百合となっているが、どちらにしても、外見の華やかさよりも内面の知性や品格がにじみ出ているような美ということだろう。
2024年02月14日
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玉鬘から真木柱までの十巻を玉鬘十帖という。筑紫に下った夕顔の遺児の玉鬘が乳母とともに上京し、源氏の屋敷に引き取られた後、髭黒大将の北の方となるまでの顛末を描いたもので、後から執筆されたものという説もあるようである。本筋の方では女君たちは六条院の四季の屋敷や二条院に落ち着いて暮らしているので、さほどの変転はない時期である。ちょうどこの十帖が入ることで、明石姫が成長し、入内するまでがつながっていく。この玉鬘十帖は養女格として源氏の屋敷に入った玉鬘に、多くの男性が想いをよせ、文を寄越したりするのだが、それを光源氏が見て楽しむという難題婿のような物語となっている。まさか作者が違うということはないのだが、いままでに比べると、やや書き方の趣が違う。女君の美しさが詳細に描写されており、玉鬘については、山吹の花が露をふくんで光っているような美貌だとしている。この個所では紫の上の美貌についても、玉鬘との対で満開の桜の花が突然に現れたようだと表現されている。玉鬘の容姿は美そのものでは紫の上に一歩譲るが、そのかわりに明るい親しみやすさがあるというわけである。性格も母夕顔よりも「かどかどしさ」、つまり聡明さがあるとし、田舎育ちであるにもかかわらず、宮中に出仕し、内侍の職務もこなす。ただ、帝に気に入られそうになると、すでに髭黒の妻になっているということを考え、出仕を辞める。そして、訪れる前妻の息子達も可愛がり、訪問が許されない前妻の娘(真木柱)を残念がらせる。明るく聡明な田舎育ちの娘が都にでて幸福になる…今も昔も人々はこんな話が好きである。もっとも時代は平安時代、当時の幸福と今の幸福は中味が違い、玉鬘も当初は髭黒との縁は全く不本意だったのだが。源氏物語には対象的な女君がよくでてくるが、ここでも、もう一人、頭中将の姫と名乗り出た女君が出てくる。近江の君である。容姿はさほどの難はないが、ひたいが狭いという描写で、庶民的な田舎娘として滑稽に描かれている。平安貴族といっても、皆が寝殿造りの屋敷に住んでいたわけではない。貴族といっても中流以下は小さな家に住んでいることもあるし、作者も実際に近江の君のような女性にであったことがあるのかもしれない。玉鬘十帖でも、実直な髭黒や庶民娘近江の君、夫との不和のストレスからヒステリー発作を起こす髭黒の先妻、そしてねちねちと光源氏方への恨みを募らす先妻の母と登場人物がリアルに描かれている。
2024年02月10日
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源氏物語中で宇治十帖を除けば都以外が舞台になっているのは「須磨」、「明石」の二巻だけだ。作中には明石から見た淡路島の光景などもでてくるのだが、たぶん作者は須磨にも明石にも行ったことはない。古歌の情景などをもとに想像をもとに綴ったのだが、都とは趣のことなる海辺の情趣がそこはかとなく伝わってくる名文でさすがとしかいいようがない。一説によれば、紫式部が執筆をしたという石山寺と琵琶湖は近く、琵琶湖の情景を参考にしたともいうが、どうなのだろうか。須磨源氏という言葉があり、長編の源氏物語は「須磨」の巻あたりで脱落する人が多いという。たしかにここでは都人との別れや新しい生活の情景が描かれるほかは大きなドラマもなく、頭中将が訪れてくることくらいなのだが、こうした巻もよいと思う。次の「明石」の巻ではいよいよ明石の上が登場する。明石の上は「須磨」の巻で従者の良清が想いをかけている相手として紹介され、そこでは「勝れたるかたちならねど、懐かしうあてはかに、心ばせあるさまなど言いいたり」とされている。「明石」の巻では、実際に光源氏に逢うのだが、そこでは優雅で上品で六条御息所を思わせる女性として描かれている。田舎に流れてきた光源氏にとっては、都を思わせる女性だったのだろう。絶世の美女でなくとも、内面の知性や品性で、紫上にも気圧されないだけの魅力をもっていた女性である。源氏物語の読者層の多くは更級日記の作者のような中流貴族層だったし、作者自身もそうであった。田舎暮らしに辟易しながらも、上流の雲上人の生活に憧れもした。そんな少女たちにとってよき殿御にみそめられ、最後は中宮付きとして宮中に入ることになる明石の上のシンデレラ物語は大いに夢を書き立てたことだろう。明石の上こそが源氏物語の実質的なヒロインなのかもしれない。そしてまた実際、中流貴族の娘から最上層というのは全くないわけではなかった。藤原の兼家の妻で道隆や道長の母にあたる時姫は藤原傍流の出であったが、最高権力者の正妻となり、有力者となる子供を産んだ。自分ももしかしたら…と夢見ていた娘たちも多かったことだろう。
2024年02月05日
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六条御息所は斎宮となった娘とともに野宮から伊勢に下る。この野宮にいる間に光源氏は六条御息所に会うのだが、彼女の直接の出番は意外に少ない。これも散逸した六条御息所との出会いを描いた巻があるのではないかといわれる所以だろう。ただその少ない出番でも、気品ある雰囲気は伝わってくる。なにしろ大臣の娘で天皇の弟の妻という、世が世なれば中宮になる可能性もあった女性である。それが光源氏との浮名が世に知られ、さらに生霊の噂まで出ているとなれば、都に身のおきどころもなく、伊勢にも下りたくなるだろう。やがて桐壷帝が死去し、右大臣方の皇子が帝位につくことで世の中の流れは変わる。左大臣は屋敷にこもりがちになり、光源氏を訪れる人もめっきりと減る。このあたりの世の中の変転は、実際に作者が見聞きした平安中期の権力抗争の様子が反映されていることだろう。桐壷帝の死後、藤壺の宮は史記の挿話を思い出して恐怖に震える。こうした中国の歴史の知識も教養ある女性の中ではかなり一般的になっていたことがうかがえる。弘徽殿の女御は気の強い政治的女性で、他の女君とは別カテゴリーなのだが、彼女の人物造形にも中国の史書が反映されているのだろうか。天皇が変わったのを機に弘徽殿の女御はいよいよ光源氏排除に動きだす。ここでちょうどよく起きるのが、光源氏と朧月夜の君との密会の露見なのだが、ここでも同じ右大臣の姫ながら冷徹な権力志向の弘徽殿の女御と恋愛に生きる朧月夜の君とが対照的に描かれる。その結果、光源氏は京を去り、須磨に向かうことになる。いよいよ都を離れる直前、わずかに交渉を続けてきた麗景殿女御の妹を訪ねるくだりが「花散里」の巻である。彼女との出会いは物語には描かれていないし、この巻もごくごく短く、しかも花散里の登場する箇所は数行にすぎない。そして巻名の由来となった歌も彼女自身ではなく姉の女御の歌となっている。人柄同様、物語の扱いも控えめなのだが、花散里はその後も登場し、六条院の屋敷の夏の院に住み、夕霧の母代わりをするなど重要な役割を果たしていく。ここでは花散里の容姿にはふれていないのだが、後に少年となった夕霧が花散里を初めて見る場面では、顔立ちがととのっていないなと思い、今まで美しい女性ばかりみてきて女性は皆美しいものと思っていたのだが、もともと優れていない容姿が盛りもすぎ、やせて髪も少なくなっているのが難点だなんて考える。源氏物語の登場人物は意外と美しい姫君ばかりというわけではない。花散里は容姿はいまいちなのだが、その後も何度も登場し、その控えめな賢さや家事の巧みさ、性格のよさなどの美点が次第に読み取れてくる。逆境の中でひさしぶりに訪ねていったのが花散里であったというあたりにも、彼女の変わらぬ暖かさが想像できる。
2024年02月04日
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源氏物語「花宴」では朧月夜君が登場する。紫の上があでやかで清純な昼の桜だとしたら、朧月夜君は妖艶な夜桜のイメージなのだが、この巻では朧月夜の容姿についての描写はない。夢のような花宴の夜に出あい、扇を交換して別れた女君ということで、その後の藤の宴のときにようやく右大臣の姫であるという素性が明らかになる。その後も朧月夜の君は光源氏の人生に関係していくのだが…。次の「葵」では、葵上の出産と死亡、そして紫の上との新枕が描かれる。有名な六条御息所の生霊の場面があるのだが、車争いに発する葵上と六条御息所、そして光源氏の三者三様の心理が生霊を作り出したような描写にもみえる。思うに紫式部は本当は生霊とかそうしたものは信じていなかったのではないか。光源氏は葵の上の声を聞いて六条御息所と思い、御息所は自分の衣服や髪に祈祷に使う護摩の匂いがついていると思う。いずれも主観である。ただこれも実際に生霊がとり殺したとも読むことができ、そうしてみると、怪奇小説の趣もある。それにしても、あらためて読むと葵上は隙がなく、とっつきにくいという描写ばかりで、死ぬ直前の光源氏を見送る場面以外ではあまり感情のよみとれる場面がない。むしろ光源氏になにかと気をつかう舅の左大臣や妻大宮の人の良いかいがいしさばかりが目立つ。葵上は兄の頭中将からみれば理想的な妻であり、容姿も端麗であり、また、親のない小さい女童をとりわけ可愛がっていたという描写もあるので性格も悪くなかったのだろう。ただ光源氏と結婚したときには光源氏が12歳で葵上は16歳、今でいえば高校生と小学生ほどの年齢差である。いったん「似げなくはずかし」と思い始めると、ぼたんのかけ違いのように、すれ違ったままになってしまう。それだけでなく、正妻という立場は光源氏の好き心を刺激せず、そのうちと思っていた節があったことと、葵上の側の感情表現の不器用さがあったことも大きい。なお「あさきゆみし」では葵上はやや子供っぽいわがままな女性になっているが、これは原作のイメージとは関係なく、あるいはこのくらいだったら光源氏と心を通わせることもできたのかもしれない。葵上の死後、紫の上(若紫)と新枕となるが、このとき、紫の上は15歳ほどになっており、結婚できない年齢ではない。若紫はかわいい幼女と出会い屋敷に引き取る巻であるが、この時期ではまだ、幼女を性愛の対象として見ているわけではなかった。
2024年02月03日
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若紫の巻の後には末摘花の巻、そして源内侍の登場する紅葉の賀の巻が続く。これらの巻では、若紫が光源氏の期待のとおりに聡明に育ち、藤壺宮は光源氏にそっくりの皇子を生むなどの本筋の変転もあるが、末摘花とか源内侍という個性的な人物も登場する。そしてまた、末摘花では零落した故宮の荒れ果てた屋敷、紅葉の賀では宮中の優雅な紅葉の御幸や舞楽というように場面も対照的である。末摘花は不器量な女性として容貌が詳細に描写されているが、驚くのは、光源氏が末摘花と空蝉を比較して「かの空蝉のうちとけたりし宵の側目はいと悪かりしかたちざまなれど、もてなしに隠されて口惜しうはあらざりきかし。(末摘花は空蝉に)おとるべきほどの人なりやは」と思っていることである。どっちもブ〇だが、空蝉はみのもてなしや心ばせで欠点をカバーしているという。以前は「わろきによれる」とだけ書かれた空蝉はそんなに不器量だったのだろうか。空蝉の方は一応天皇の後宮に入るようにと親は育て、夫の死後は先妻の息子が言い寄ったりもするので、いくらなんでもそんなに酷いわけがないと思うのだが…このあたりは光源氏の瞬間の心理をえがいているのか筆がすべったのか。ちなみに、末摘花と空蝉の容姿をみると、末摘花は背が高く痩せていて、象のような鼻とある。象のような鼻は人間にはいないので単に高い鼻というのなら、やせて背が高く鼻が高いのは現代ではさして難ではない。ただ赤い鼻というのはたしかに問題だ。空蝉は、眼がはれぼったく鼻筋も通っていないとあり、これは、今の基準でも、ごく一般的な不器量だろう。ただ、末摘花は不器量な上に、極端な引っ込み思案で気の利いた歌を詠むこともできない女性として描かれている。もっとも、困窮した生活では、きれいな用紙もないので、気の利いた歌のやり取りも期待できずに、零落した荒れ屋敷にひそんでいるしかなかったのかもしれない。これに対し次の巻に出てくる源内侍は出番は少ないがはるかに元気である。源内侍は数え年で57歳か58歳なので、今だってこのくらいの年で若作りはいるだろう。荒仕事をしない貴族は庶民に比べると若く見えただろうし、紫の上は43歳で亡くなるまで美しかったという描写もある。そう考えると源内侍も全くの老婆というほどではなかったかもしれない。だが年増は年増である。そうした年増が光源氏に思いをかけ、様々に誘惑?し、せまってくる。その一つがこんな歌である。君し来ばたなれの駒に刈り飼はんさかり過ぎたる下葉なりとも源内侍と光源氏がいるところに、頭中将が現れ、どたばたのうちに密会はおわるのだが、源内侍はちょいちょいとその後もでてくるようである。
2024年02月01日
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夕顔が忘れがたい女君として物語から去った後、光源氏は療養にでかけた北山できわだって可愛らしい10歳の少女に出あう。一緒に山寺に逗留している尼君にも似ているが、よくよくみると藤壺宮にもよく似ている。光源氏はその少女を手元におきたいと思うのだが、尼君は本気にしない。やがて尼君もなくなり、少女は父親に引き取られることになるが、そこでは継子として虐められるのは目に見えている。そんな状況で光源氏が少女を自分の屋敷である二条院に迎え入れるまでの顛末が若紫巻である。また、この巻では藤壺の懐妊(実は光源氏の子)という重要事態もおきており、藤壺に逢うことは、これからは完全に不可能になる。それだけに、藤壺によく似た少女を身近に置きたいという欲求は切なるものとなっている。源氏物語は高校の教科書に出てくるのだが、内容が内容だけに教科書向きの箇所はそう多くない。そのせいか、可愛い子供の出てくる若紫はたいていの教科書に載っているようなのだが、これも内容は10歳の少女に対する恋ともいえるものである。もっとも、少女若紫の方は全くの子供で、光源氏に対しても「お父様よりも綺麗」という印象しかない。雀の子を可愛がるなど、後年の子供好き世話好きという片鱗はあるのだが、それ以外は年齢よりも幼げで、才気あふれるイメージはまだない。二条院にひきとられた若紫は光源氏と親子のような、そうでないような不思議な関係になり、今後はどうなるか…ということで巻は終わる。この時代、貴族は人口のごくわずかだったというのだが、その貴族であっても、生活はかなり不安定だったようだ。若紫の母は按察使大納言なのだが、父を早くに失くしている。通ってくるようになった兵部卿宮も本妻に頭が上がらず、若紫の母もその心労が原因で早世する。だから若紫は父の庇護はあまり期待できず、頼みは祖母の尼だけという境遇だ。初めて物語にでてくるときも着古した着物を着ており、京の元按察使大納言の屋敷も荒れ果てている。次の末摘花の巻でも宮様の姫の末摘花が荒れた屋敷に古道具に囲まれた生活をしている様子が描写されており、この境遇は、光源氏の援助が途絶えていた後の蓬生の巻ではもっと悲惨になっている。平安の姫が優雅だったというのは恵まれた半面のイメージであり、今昔物語には宮様の姫がホームレス同然になる話がでてくる。あの清少納言にも晩年は零落したという説があるし、小野小町が乞食同然の姿で放浪したという伝説も真実味をもって受け止められていたのだろう。
2024年01月30日
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空蝉と夕顔の巻を読んだ。この頃、光源氏は17歳。まあ、源氏物語を教科書で読む高校生と同じ年代だ。この頃までに、光源氏に関係する女人は子供の頃からの憧れで永遠の女性である藤壺、正妻の葵上、手紙のやり取りをする朝顔の君、忍び歩きの相手六条御息所とすでに五人おり、これに空蝉、軒端荻、夕顔が加わる。そしてこの中で既に何人かの女性の性格が対照的にかき分けられている。小君も含めてドタバタの感のある空蝉の物語では、「わろきによれる」容姿だが慎み深く賢い空蝉と、美人だが騒々しく品のない軒端荻の対象。そして、夕顔の巻では上品で気づまりな六条御息所といとおしく可愛らしい夕顔との対象。夕顔には「ろうたし」という形容詞が使われているが、これは臈たけると同じ意味の上品で洗練されたというよりも、いとおしく可愛らしいの方の意味だろう。夕顔はどこがどうということもないのだが、小柄ではかなげな感じが心に沁みるというタイプとして描かれている。夕顔の花を所望した光源氏に扇に歌を書いて返した夕顔の君に娼婦性をみる見解もあるようだが、彼女の場合は、男性に対する依存心が強く、触れなば落ちんという風情があるように思う。そういうのを娼婦性というのであればそのとおりなのだが、打算的な女狐とは真逆で、心のままに、憧れる男性に依っていくというタイプなのだろう。扇の歌も素直に光源氏の美貌をたたえたもので、特段のひねりや技巧があるわけではない。心当てにそれかとぞ見る白露の光添えたる夕顔の花光源氏は夕顔を廃屋となった屋敷に連れて行きながら、足が遠のいている六条御息所のことを思う。夢に女性が現れ、私が素晴らしいと思う女性のところには行かずに、こんな平凡な女性を寵愛するなんてと告げる。そして夕顔が息を引き取る時に同じ女が一瞬見える。これを六条御息所の生霊という見方もあるが、屋敷の怪ではないのだろうか。さらにいえば、光源氏の内心感じていた六条御息所に対するうしろめたさが夢になり、一瞬の錯覚になったように思う。こうしたものは、はっきりと生霊とするよりも、わけのわからない屋敷の怪とする方が、読者にとっての怖さが増す。夕顔は屋敷で急死し、遺体は惟光の機転で処理され、遺児の存在が示されたまま夕顔の物語は終わる。そして空蝉も夫とともに任地に下り、当面は小説の舞台から消えることになる。
2024年01月27日
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源氏物語が気になるせいもあって「輝く日の宮」(丸谷才一)を読んだ。作者の共同翻訳したジョイス「ユリシーズ」に似た章ごとに文体の変わる趣向もさることながら、こうした形式の小説もあるのかと改めて思う斬新なものとなっている。主人公は国文学研究者の女性。彼女の論考や学会等での議論、それも最初は芭蕉の東北行きの理由、次は源氏物語の失われた巻が論点になる。さらに冒頭では彼女が中学生の頃に書いた小説もどき、最後は失われた源氏物語の巻の現代訳?で終わる。これを横糸とすれば、縦糸として主人公の人生や恋愛の変転がある。主人公の教授への昇進、父親の死だけでなく、彼女は憂い顔の美人でもあり、同僚の学者との恋愛、次いで独身主義者を自認するビジネスマンとの恋愛模様もからむ。作者が最も力を入れた点、そして読者の興味関心はやはり、表題にもなっている源氏物語の失われた巻「輝く日の宮」だろう。源氏物語には失われたとされる巻があり、一つは「輝く日の宮」、光源氏の死を描いた「雲隠れ」そしてもう一つは宇治十帖の続編だという。「雲隠れ」はあまりにも悲しく出家する人が続出したので紛失させたという説もあるようだが、これはおそらく最初から書かれなかったのだろう。宇治十帖はたしかに続編がありそうにも思えるが、じゃあ、どういう内容かというと想像がつかない。巣守の君なるヒロインを主人公にした続編があるらしいという話もあるが、巣守というセンスもなんだし、紫式部の作ではないだろう。未完のようだが、宇治十帖はあれで完結しているとしか思えない。これに対して「輝く日の宮」の巻は藤壺の君との最初の逢瀬、六条御息所や朝顔君との出会いが描かれており、これは物語必須の場面であるから、もともと巻があったはずだという。小説中では、物語の謎を残すために藤原道長の判断であえて原稿から除かれたと推測する。世に出る前に道長のところで削られたのなら最初からなかったと同様ではないかとも思うのだが、最初からかかれなかったという見方もできるのではないかと思う。すべての女君について最初の出会いが描かれているわけではないし、最初の出会いが描かれている場合には夕顔、若紫など非常にその出会いが印象的なものになっている。何人かの女君、それも極めて高貴な女君との出会いについては読者の想像にまかせたとしても不思議ではない。源氏物語の一読者として桐壷、帚木…とよみすすんだとして、藤壺や六条御息所との最初の逢瀬の部分などが欠落していることに不満をもつだろうか。まあ、そのあたりはおしてしるべしという感じで、物語世界を楽しむのではないのだろうか。それはともかくとして、「輝く日の宮」は、論考中心のこんな小説もあるかという意味では面白く、源氏物語が好きな人には一読をおすすめしたい。
2024年01月18日
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前々から興味をもっていた「超能力者」ユリゲラー氏の小説「エラ」を読んでいる。超能力に覚醒する少女エラと家族、そしてそれに群がる人々を描いた物語なのだが、かなり面白く読みやすい。最初は英国で出版され、ベストセラーになったというのもうなづける。ユリゲラーはその昔来日し、超能力ブームを巻き起こし、その時に小学生だった世代が後のオウム事件の幹部たちと重なるので、ユリゲラーがオウム事件の遠因のように語られることもあるが、こじつけだろう。オウム幹部は、スプーン曲げに夢中になった小学生全体からみれば大河の一滴だ。しかし、オウム信者の多くは超能力者を目指して入信し、信者達は麻原には超能力があると信じていたのも事実だ。だいたいなんで超能力者などになりたいと思ったのだろうか。幹部信者にはさらに上世代の連合赤軍幹部に比べても受験の挫折者は少なく、普通の能力にあきたらなくなると超能力を目指したくなるのかもしれないが、どうもよくわからない。超能力に関しては、もし仮にそんなものがあったとしても、それは人格や洞察力とは全く関係ない…という言葉の方が正鵠を得ていると思われる。小説の主人公のエラはテレビに出ただけで視聴者の念じる病人を治癒した。しかし、もし、超能力が本当にあったとしても、そこまで影響力のある超能力はおそらくないだろう。サイキックヒーリングは能力者が触れた患者は治癒できても、大勢の患者を治癒することはできない。大勢を治癒するのはやはり医療の進歩だろう。その他の超能力にしても、浮遊したり、手を触れずにものを動かしたり、スプーンを曲げたり、空中から灰を出したりするというのは、見ている人は驚くけれども、それ以上の影響力はない。かといって、スポーツのように人間の能力や努力に感動するというものではなく、むしろ今までの常識を覆すような不安感をあたえるものなので、常にインチキ疑惑はついてまわる。そのせいか、超能力はだいたいにおいてその持ち主を幸せにしないという気がする。明治期の透視能力者の女性で若くして自殺した人もいる。ユリゲラーが大富豪になり成功しているのは、稀有な事業能力やプロデュース能力をもっているからであって、すべての超能力者(もしいたとして)が彼と同じになれるわけがない。小説の主人公エラも金目当てに群がる人々にふりまわされるだけになっている。超能力よりも、学才、楽才、世才、商才等の一般の能力の方がはるかに貴重ではないか。その点、昔の人は良いことを言っている。子怪力乱神を語らず…と。最後に、この小説はユリゲラーのような有名人が書いたということを捨象しても傑作である。特に、本作の実質的な主人公ともいう超常現象記者ピーターがよい。純真だが知能の劣ったエラを利用して国際的セレブにのし上がろうとするし、それだけの知性もバイタリティもある。彼が小説の中で生きているだけに、彼の最後は息苦しくなるほどだ。著者は、超能力があってもなくても、普通の能力は十分にある方なのだろう。
2024年01月09日
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ずっと昔、中学生の頃、国語の教科書の最後にはお薦めの本が記載されてあった。その時に見かけ題名だけは知っていたが、今まで読んだことはなかった。妻と愛犬二匹と猫をつれて田園生活を始めた主人公だが、長雨と孤立に次第に精神を病んでいく。なぜ、これが中学生向けの標準的な推薦図書として掲載されていたのかよくわからない。それとも、教科書の最後に紹介されていたと思ったのは記憶違いか…。ただ、かつては文学と言えばこうしたものが多かった。斬新な表現で繊細な心理を描く純文学とストーリーの面白さや読みやすさに重点を置く大衆文学とは、昔は画然と分けられていた。そしてその頃の純文学の多くのものと同様に、この小説でも、特段の筋書きはなく、主人公は最初のうちこそ田園生活を楽しむのだが、憂鬱になり、幻覚や幻聴に悩み、妻にも辛く当たる。それは庭の片隅にある薔薇が最初は手入れされ息を吹き返すのだが、せっかくに咲いた花も病んでいたということに象徴される。小説が発表されたのは戦前であるが、主人公は父親から仕送りを受けて暮らしており、それで元女優の妻と家を借りている。小説家志望というのだが、今ならただのニートだろう。文学の主人公には余計者の系譜というのがある。余計者とは、知能と教養はありながら、決まった仕事をしないで社会から距離を置く観察者である。これは日本文学だけでなく、海外の文学にもよくみられる。こうした余計者が主人公になるというのは、作者にもそうした境遇の人が多いということの反映なのかもしれない。日本でも外国でも、かっては働かない富裕層というのがいた。貴族とか地主とか資産家といった階層である。こうした境遇の作家は、あまり「売れる小説」や「大衆受けのする小説」を書く必要もなかったのではないか。今だったら、こうした神経症的な定職のない知識人を主人公にしたものでなおかつさしたる筋書きのない小説というのはあまりない。
2024年01月04日
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建物のあちこちからぎしぎしという音がし、普通の地震と違うと思っていたら能登で大きな地震の速報が入った。被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。暖冬ですごしやすいのはよいのだが早くも心配になる今年の酷暑、そしてまた五類移行で社会的には終息させたものの実はふたたび波のきているコロナ禍、それにいつくるかわからない地震…気にはなるのだが、こんなことは自分個人で心配しても仕方がない。日々の健康に感謝し、毎日毎日を楽しいことを見つけて過ごしてゆければよい。「謡曲集」(下)を読んだ。謡曲と言うと旅の僧がでてきて、精霊のシテに出あうという同じようなものばかりという印象があったのだが、実際に謡曲を読んでみると多彩である。素材も寺社仏閣の伝承や漢籍、平家物語や源氏物語など幅広いし、中には長寿の松の夫婦の精霊のおめでたい話(高砂)や中国から白楽天が日本の知恵を測りにやってきたが住吉明神が追い返すという話(白楽天)もある。そして多くの場合、語りの部分で物語の背景を語るので、謡曲には語り文学としての要素もある。この「謡曲集」と併行して「平家物語」を読んでいたのだが、そのせいなのか、謡曲の中でも平家物語に題材をとったものは特に異彩をはなっているようにみえる。平家物語は血沸き肉躍る軍紀ものというよりは、栄華を極めた平家の人々が没落していく敗者の物語である。そしてその敗者はそれぞれに無念の思いをかかえている。そういう無念をシテの舞や語りで観客は追体験した上で、最後は多くの場合、旅の僧の読経で救われるという構成になっている。観客はそうしたものをもとめたのだろう。また平家物語を題材にした謡曲には、平家一門ではないのだが、平家物語中の悲劇の人物として源義経や源頼政に材をとったものもある。源頼政は歌人として名声があるばかりでなく、鵺退治でも有名な文武両道の人物である。その人物が以仁王の挙兵の際の反乱に参加して、宇治平等院で自決する。頼政については、鵺を主人公にしたものと頼政を主人公にしたものとの両方の謡曲が存在する。平家物語では鵺退治は節をおこして語っているのに、以仁王の反乱では頼政はさしたる活躍もせずに自決してしまう。謡曲の作者はそこのところをふくらませて書きたかったのだろう。埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなるはてはあわれなりけり頼政ほどの文武両道の人物がこれではおさまらない。謡曲ができるのもむべなるかなである。
2024年01月02日
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あけましておめでとうございます。さっそく今年最初に読み終えた本について…夜ごとに開催される謎の隣人による邸宅の大パーティー。しかし、それはかつての恋人に成功をみせつけるためのものであった。だからパーティーに参加する者の誰一人として主人の正体を知らないし、主人と心通わせているわけではない。やがて彼はパーティーに恋人を招待することに成功し、恋人との仲は一時はもとにもどったようにみえた。しかし、それはあるアクシデントのために雲散霧消し、結局は彼の孤独だけが浮き彫りになる。小説には三組の恋人がでてくる。謎の男ギャッピーとかつての恋人デイジー。デイジーの夫とその愛人。小説の語り手であるニックとその恋人のゴルフ選手。いずれも心理描写はほとんどなく、ギャッピーとデイジーの関係がどんなものか読者には最後まで分からない。結局、デイジーはギャッピーの葬儀にはやってこなかった。そしてデイジーについては美貌の上流階級の娘とあるだけで、それ以上の魅力が描写されている箇所もない。ギャッピーにとってデイジーも高級時計や立派な車同様の成功の証という意味合いだったのかもしれない。それにしても時代は第一次大戦後の戦間期。デイジーの夫のトムが「有色帝国の勃興」という本について熱弁するくだりがある。「…おれたち支配的人種に警戒の義務があるんだよ。さもなければ他の人種が支配権を握ることになる」「おれたちは彼らをたたきつぶさねばばならん」この本もこの著者も架空のものだというが、この頃に流行った黄禍論を反映しているのだが、物語の筋とはあまり関係ない。時代の空気としては興味深い。
2024年01月01日
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歴史上の人物で人気ナンバーワンといえば、今は坂本龍馬だが、しばらく前は源義経が一番人気だった。その義経はなぜか美男ということになっていて、大河ドラマではたいてい当代のイケメン俳優が演じることになっている。ところが、平家物語では義経の容姿は、「色白き男の、たけ低く、向う歯二つ差しい出て、ことにしるかんなる」(背が低く色が白く出っ歯で人目につく)となっており、あまりカッコよいとはいえない。有名な船を飛び越えた場面はあるが、一方で自分の持っている弱い弓が流された時、それを恥じて必死でひろいあげた挿話もあり、大力屈強というよりも、素早く身軽な小男といったところだったようである。ただ随所に情けある者という表現があり、細かいところで温情を見せる場面がある。源平合戦の源氏の活躍場面のほとんどは義仲や義経によるものなのだが、義仲は京都で狼藉三昧のうえ、田舎者ぶりがコミカルにえがかれているので、やはり義経に人気があつまるのだろう。人々は血沸き肉躍る勝者の物語を好む。その上、義経は合戦での強さとは裏腹に、政治力のない所は純情一本気な好印象を与えるし、美女静御前との愛や悲劇的な末路も日本人好みだろう。 ただ、平家物語を読んでみると、その本質は合戦物語ではなく、様々な悲劇的運命をたどる平家の人々の敗者の物語のようにみえる。戦場で笛を離さなかった美少年の敦盛や自分の歌を勅撰集に入れてもらうことを願う歌人忠度もさることながら、凡庸だがどことなく憎めない好人物の宗盛が最後まで助かることを願いながら斬られる話や、牡丹の花にたとえられるような文武両道の重衡が千手前と最期の交情をし、彼女初め何人もの女を悲嘆のあまり出家させて世を去っていく話など、それぞれの人物がそれぞれの悲劇を辿っていく様子は読んでいて悲しい。そんな悲劇の一つに建礼門院がある。以前、平家物語を読んだときには、中宮の地位にまでのぼりながら、我が子や一族に死に別れ、世を避けるような出家生活を送った彼女は日本史上の女性で随一の不幸な女性だと思っていた。しかし、今回改めて読んでみると、たしかに平凡な女性ではあるのだが、自分に仕える美貌の女房の恋の仲立ちをしたり、賊に着物を奪われて泣いている女童に着物を与えるなど性格の良く明るい女性のようにもみえる。晩年の隠棲生活も世間の目をさけながら、異母妹の援助や後白河院の訪問を受け、運命を共にした女性達と平穏な日々を過ごしたのではないか。ただ、平家の落人追撃は苛烈で、身をやつして下働きとして仕えていた人や寺に匿われていた人も次々と見つかり処刑されたり討ち死にしたりしている。かくして諸行無常という余韻を残して平家物語は終わっていく。
2023年12月24日
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平家物語(中)を読んだ。世に源平合戦という動乱であるが、実際には官職を独占して栄華を極めた平家に対して、反攻勢力が立ち上がったというのが実態だろう。そんな動乱の中、ほぼ嵐の中心にいた平徳子は、あまりにも平凡な女性で気の毒だというようなことを先の日記で書いたのだが、案外とおっとりとしぶとく生涯を全うしたといえるのかもしれない。平家物語には様々な女性が登場する.宮廷や貴人に使える女房もいたし、男装して舞を披露する白拍子もいた。戦場には細々とした世話をする便女という女性もいたし、その中には巴のような女武者もいたのだろう。平家物語には出てこないのだが、徳子とほぼ同年輩で同時代を生きた北条政子は、自力で貴種頼朝をゲットし、彼の野心に火をつけ、その成長を助けていった。まあ、いつの時代にも様々な人々が生きており、それぞれの人生を辿っていったわけである。最初に、平家に対する反攻勢力として大きく立ち上がって来たのは木曽の源義仲であった。義仲がやってくるというので、平家一門が都落ちをするというのはあっけないように見えるが、公家文化に染まった平家にはかつての勇猛さがうしなわれていたのかもしれない。また、天皇と三種の神器を持っている以上は、なんとかなるだろうという気もあったのかもしれない。ただ、平家方では、清盛が死に、重盛もとうに亡く、頂点に立つ器量のものがいなかった。源平合戦の主な見せ場はこれに続く巻九以降であるが、源平と言っても全源氏と全平氏の戦いと言うわけではない。木曽義仲は頼朝とは独立して動いているし、頼朝方として木曽義仲を討つ義経や範頼も最後は逆に鎌倉方に討たれる。平家一門は公達というほど育ちも良いのに対し、木曽義仲、義経、範頼はいずれも遊女や白拍子から生まれた人物であり、有象無象という感がある。これに朝廷、摂関家や寺社勢力、奥州藤原氏がこの時代の力関係を形成していた。下巻ではいよいよ平家一門が落剥の道をたどる。平清盛は奢っていたにしてもさほどの極悪人というほどでもなく、その一族の公達は容姿端麗、教養豊かな人物が多い。そうした人々の悲しい運命を聞きながら人々は諸行無常だといって感涙をもよおす。
2023年12月18日
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この間、壇之浦と赤間神宮に行ったが、これを機会に平家物語を読みはじめた。平家物語はおごる平家を源氏がうちやぶった軍紀ものというよりは、栄華を極めた平家一族の悲劇の物語で、主人公は様々な最期をたどる平家の公達のようにみえる。平家一門の内で悪役に一番近く描かれているのは清盛であり、一方で重盛は思慮深い優れた人物、宗盛は凡庸だが憎めない人物となっている。上巻(巻一~四)では合戦はまだ始まらず、皇室や摂関家をしのぐほどの権勢をふるう平家一門と鹿の谷の陰謀と俊寛の悲劇、以仁王の挙兵と合戦の顛末が描かれる。鬼界が島に一人残された俊寛の悲劇は様々な文学の題材になっており、島でかえって幸福に余生を送ったという変形バージョンまである。しかし、平家物語では三人でいたときには、成経少将の舅の領地からの仕送りがあったが、俊寛一人になるとそうした仕送りも途絶え、たちまちに困窮する。最初は硫黄をとって、漁船でとれた魚などと交換していたが。やがて体の自由もきかなくなると海藻をとるほかは施しにたよるだけの境遇になる。平安時代は長らく死刑が行われなかった時代として知られるが、貴族にとっての流罪は死よりも辛い場合もある。時代は下るが、八丈島に流された宇喜田秀家には妻の実家の前田家から毎年米の仕送りがあり、明治維新まで続いたという。この時代は平家に対抗する勢力として皇室や摂関家だけでなく、寺社も相当な勢力をもっていた。以仁王の蜂起は失敗するが、以仁王に味方した三井寺も平家の軍勢によって灰燼に帰す。このときの平家の大将の平重衡は、後年、死を前にして仏罰に怯えることになる。中巻以降では陰りゆく栄華と暗転が描かれていく。
2023年12月13日
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歴史小説と時代小説の違いについて考える。歴史上の事実を基にして想像を膨らませて書いたものが歴史小説であり、過去のある時代を舞台にするが、そこに起きる出来事や人物は想像の産物というのが時代小説であるといってもよいのではないか。その意味で、時代小説と言うのは一種の異世界ものに近いのかもしれない。「海狼伝」も主人公らが織田信長の行列を見たり、商人時代の小西行長が出てきたりはするのだが、主要な人物や出来事は架空のものなので時代小説に入るのだろう。こうした時代小説にも、物語にその時代がどれだけもりこまれるかは違う。時代小説にもその時代の風俗や空気を反映したものと、単に設定をその時代と言うことにした異世界ものとの違いである。「海狼伝」は戦国時代の水軍やそれを支える船については詳細にえがかれている一方、登場人物の設定は冒険小説でもありそうなので、中間的なものなのかもしれない。ただ登場人物の中で異彩をはなっているのが、村上海賊の客分でありながら商才を発揮して自由に生きる男で、この人物がいなければ、ありきたりの小説になっていたことだろう。考えてみれば、村上水軍など、日本史の中では水軍の果たした役割も大きい。こうしたものも大河ドラマでとりあげたら面白いのかもしれない。瀬戸内全体がご当地になるし、海戦場面も今だったらCG技術で、さほど大掛かりなセット等はいらないと思うのだが。
2023年12月05日
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謡曲に白楽天というものがある。唐から日本の知恵を測りに白楽天がやってくるのだが、浜辺に待ち受けていた住吉の神の化身の老人の和歌に感心し、日本の知恵測りがたしとみて、早々に帰国するという荒唐無稽といえば荒唐無稽な内容になっている。そして最後は「げにありがたや神と君が代の動かぬ国ぞめでたき動かぬ君ぞめでたき」で終わる。作者は世阿弥ともいわれるが不詳であり、背景には応永の外寇(朝鮮による対馬侵攻)による社会不安があったともいう。唐からやってくるのが白楽天というのもなんなのだが、白楽天が唐人の中で最も名が知られていたからかもしれない。圧倒的な中国文化の影響の中で日本文化の核としての和歌という意識と、優れた歌が幸をよぶという歌徳説話が一体となった筋書きになっている。なお、住吉の神の歌というのは以下のようなもので、この謡曲では日本では人だけでなく鳥も獣も歌を詠むとされている。苔衣着たる巌はさもなくて衣着ぬ山の帯をするかな江戸時代の国学者の中には外来の儒教や仏教を批判して日本古来の文化を称賛する国粋思想の流れもあり、それが明治以降の国家神道につながっていったのだが、室町時代にこうした白楽天に象徴される唐文化を日本の化身ともいえる住吉の神が追い返すという謡曲があったのが面白い。なお、里中満智子の「天上の虹」は歴史漫画としてだけでなく万葉集の背景も描かれていて面白いのだが、その中で、柿本人麻呂が「漢詩ではなくやまとことばのやさしい響きで歌いたい」と語る場面がある。この台詞自体は創作なのだが、この頃の万葉人の秀歌が人々に伝えられ、何十年もしてから万葉集に編纂されていった背景には、おしよせる大陸文化に対して、日本固有の文化を大切にしていきたいという意識があったのかもしれない。謡曲「白楽天」を読んでそんなことを考えた。
2023年12月04日
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この本が出たということは覚えているが、その頃はちょうど忙しい時期でもあり、読む機会はなかった。今読んでみると、改めてカオスのようなあの頃の新宿の街の光景がよみがえってくる。新宿といえば寺山修司であり、東口のフーテンであり、西口のフォークゲリラであり、何でも新しいことは新宿から始まっていた。若者も数が多く元気がよく、なにものでもない生き方をすることにも世の中は寛容だったように思う。なにもかも右肩上がりに上昇しており、主人公の庄司薫くんのようなエリート高校生でなくとも、普通にサラリーマンになって普通に結婚して普通に生きていくことなど、すぐに手の届くところにあった時代だ。この小説は赤ずきんちゃんからはじまる、赤、黒、白そして青の色四部作の最後になる。本作は、主人公の庄司薫君が新宿の街を付け髭と昆虫採取網をもって歩き回る一日を奇妙な人々との出会いとともに描いたものである。たしかに、あの当時の新宿の夏(設定はアポロの月面着陸の日)だったら、こんな変な人々もいたかもしれない。ただ、肝心の変な人々であるが、観念的な言葉のやり取りが多く、どうも人物が伝わってこない。あえていってしまうと、こうした登場人物同士が観念的な会話や議論を行う形で物語が進むというのは、文学かぶれの若者が小説を書く時に往々にして用いた手法であって、そうしたものを書いていた人の多くは書くことから離れていったように思う。作者の最後に発表した小説という先入観で読んだせいか、この小説にもそうした袋小路のような印象を受ける。作者の妻は高名なピアニストであり、そうした有名女性の夫という立場でエッセイや雑文を発表すれば読む人はいただろう。現に女性宇宙飛行士の夫でその立場でエッセイを書いている人もいる。相当に才気あふれるエッセイなのだが、ちょっと人畜無害すぎて、最後まで読んではいないのだが…庄司薫氏ならこれと同等かこれ以上のものをきっと書けるだろう。この作者が、作家として文筆家として沈黙しているのがちょっと残念な気がする。
2023年11月17日
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「前巷説百物語」を読んだ。京極夏彦のものを読むのは初めてなのだが、写真は雑誌などでときどき見かけた。写真の印象では西岸良平の「鎌倉物語」の主人公のモデルは絶対この人だと思っていたのだが、ネットで検索してもそういうことを言っている人はいないので違うのだろう。それはともかくとして、頁数の多さにおそれをなしていたのだが、読んでみるとすいすい読めるし、個性的な登場人物が多くて面白い。化け物をテーマにしているが、怪奇小説というのでもないし、江戸の町を舞台にした時代小説と言うのだろうか。損料屋(今で言うとリース業)に持ち込まれる裏家業、つまり損の埋め合わせを中心に物語が進み、それに化け物の仕掛けがからむという趣向である。あらためて作者の経歴をみてみると、仕事が暇なときに初めて書いた小説を出版社に送ったら、すぐに出版のはこびとなったという。編集者は原稿をみた時、高名な作家が編集者の技量をためすためにわざと変名で送ったのではないかと考えたという。書けない人は書けないし、書ける人は最初から書ける。才能とはそういうものなのかもしれない。そんなわけで非常に面白い小説なのだが、ただ同じ作者のこのシリーズをもう一度読むかどうかは微妙である。ネタバレを書くわけにはいかないが、化け物の仕掛けに騙されたという爽快感を感じるか、つっこみどころがあるように感じるかは人によって違うだろう。そんなものは好き好きかもしれない。ただ、ちょっと仕掛けが無理あるように見えたり、新しい登場人物、それもスーパーマン的な味方が都合よくあらわれたり…というのが個人的には気になる。
2023年11月08日
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謡曲といえば、皆同じようなものという印象を持っていた。嫋々とした謡に合わせて旅の僧侶なんかがでてきて、精霊や幽霊であるシテが現れ、最後は僧侶の念仏とともに消えていくという筋書きである。謡曲集(上)を読んでみると、たしかにそうしたものが多いのであるが、内容は想像していたものよりもずっと多彩である。歴史に材をとったものもあれば、源氏物語や伊勢物語のような文学に材をとったもの、説話や伝説に材をとったもの、中国古典に材をとったものまである。シテが現れ、最後は消えていくという点は共通しているが、重要なのは謳や舞はないのだが、語りの部分ではないかと思う。そこで、背景となる物語の内容を理解し、あらためてシテに感情移入をしてその舞をみる。シテの消え方は様々であるが、成仏して消えると安堵するし、そうでない場合には物語の余韻にひたる。謡曲の物語の中には六条御息所の生霊や盧生の夢のようなもとからあった話もあるが、謡曲と言うジャンルの中でふくらんでいった話もある。36歌仙の一人の小野小町などもその一つだろう。小野小町と言えば容色の衰えをなげく100人一首の歌が有名であるが、そこから派生して、老残の小町が放浪する姿を扱った謡曲がいくつもある。さらには深草の少将というオリジナルキャラまででてくる。小野小町に恋文を送り、100日間通い続けたら靡くという小町の言葉を信じて。通い続け、100日目に凍死したという。小野小町については、中級貴族の出身で身分出自も明確でない上、後ろ盾になるような人と結婚したという事実もないこと、子供もなく晩年が不明なこと、歌の中に容色の衰えをなげくものがあったことなどから老残の小町と言う想像がふくらみやすかったのかもしれない。実際に老齢の放浪乞食の中には、もとは〇〇の身分だったのかもしれない…と噂されるような例があっただろう。皇女が零落して乞食になった話は今昔物語に出てきており、それを芥川龍之介は六宮の姫君という小説にしている。沙石集にも、上級貴族の女性が高齢になって山に隠れ住んでいたという話がある。小野小町の場合はもっと悲惨で、関谷小町では庵に住んでいるが、鸚鵡小町では放浪の身、卒塔婆小町では乞食となっている。そして通小町では死んだ後の成仏もままならないことになっている。古来、五福の第一は寿といわれるくらい、長生きは人の憧れるものであったが、長生きしたからと言って、それまでの成功を維持できるとは限らない。小野小町は美貌だけでなく、和歌の才覚で世にもてはやされたが、それとても100近くまで生きていれば衰えていくだろう。長生きしても、そこにあるのは昔を恋しがるだけの長い余生である。謡曲の小町ものは高齢社会の今の時代にもいろいろと考えさせられる。
2023年10月29日
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全部で第7部、本にして14冊になるクリフトン年代記をようやく読了した。貧しい港湾労働者の息子とした生まれたハリーの港湾主の娘との恋、出生の秘密、戦争、服役、作家としての成功、ソ連の反体制作家の支援などの波乱万丈の生涯を描いた「クリフトン年代記」のうちで、最後の第7部は全体のエピローグ的なものであったが、いままでのどの巻よりも頁を繰る手がとまらない。それだけ主人公の行く末が気になったということもあったし、最後の最後までひっぱった主人公の出生の秘密がどうなのかという興味もあった。作者は人気作家であるだけでなく、政治家の経験もあるので、詳細に語られる英国議会の儀式なども興味深い。米国とはまた違う立憲君主というものもひとつの文化遺産ではないか。主人公ハリーの作家としての創作の苦労にふれた個所はないのだが、ハリーがディケンズを「英雄」と評しているあたりはなるほどと思う。個性的な登場人物や善悪の色分け、波乱万丈のストーリー展開など、たしかに本作はディケンズの小説を彷彿とさせる。まあ、安楽死とかいった重いテーマも本当はあるのだが、そこはあくまでもさらりと描かれている。そういう小説ではないのだろう。全体を読んだ印象では、おそらくは作者の理想像でもあるらしいヒーロー的小説家の主人公や、かのサッチャー女史と友情を結び閣僚にまで上り詰める妻、議会きっての雄弁家の義兄、最高学府教授の義妹など高スペック英国上流階級絵巻といった面々よりも、その反対側にいる悪女ヴァージニアが印象深い。伯爵令嬢なのだが、自分の美貌を頼みに他人にたかることしか頭になく、贅沢好きで、怠惰で…しかし、主人公側が完璧すぎる分だけ、逆にこの愚かさが人間的に見えてくる。彼女がいなければこの小説はずっとつまらなくなったのではないか。いやな女だけれども、物語の中心にいる。そのあたり、「人間の絆」のミルドレッドと双璧のような女性である。
2023年10月23日
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大衆小説家として第一人者としての地位を築いただけでなく、ソ連の反体制作家の本を世界に紹介することにも成功した主人公。大企業会長かつ大病院理事長として辣腕を振るい、政界進出の誘いもうける才色兼備の妻。若くして事業家として頭角をあらわす息子は相思相愛の妻と幸福な家庭を築き、二人の間には才能豊かな娘もいる。普通ならここで物語は終わるのだが、大きな謎、主人公の出生の秘密についてはまだ残っている。さらに、周辺に漂う東ドイツ秘密警察の影や敵役の末路は…というようにして第8部に続く。主人公は強者であり体制側の人間で、社会通念や伝統にもどっぷりとつかっている。これはそういう小説で、批判や懐疑を期待するのはお門違いなのだろう。このあたり、ディケンズの「デビッドコパフィールド」を想起させる。目まぐるしいストーリー展開と作家として成功していく主人公の物語で、こちらも当時の階級制度や社会に対する批判はほとんどない。ただ、デビッドコパフィールドに比べても、主人公側は完璧で、その分、悪役の卑小な間抜けぶりは憎たらしさを通り越して、巻がすすむにつれ、哀れにもみえてくる。舞台は英国、米国、ソ連、東独、インドと移っていくが、こまかな情景描写や風物の説明はほとんどなく、このあたり観光案内と推理を両方楽しめる日本の社会派推理小説とは全然違う。悪党の奸計や秘密警察との駆け引きなど、ひたすら人間の行動だけで話を引っ張る作者の物語作家としての筆力はたいしたものだ。深みはないけど…とあえていうけど、こんな面白い物語が、あと一巻で終わると思うとちょっと残念に思う。
2023年10月19日
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いよいよクリフトン年代記も第5部となり、時代は本格的な冷戦時代に入っていく。主人公のハリーは、英国のペンクラブ会長として、ソ連の反体制小説家の作品を西側で出版するために英雄的な活躍をする。妻のエマも女性初の大企業会長として、会社を守る戦いとともに、宿敵ヴァージニアの名誉棄損訴訟を受けて立つ。息子のセブも、若手銀行家として活躍するが、一方では恋人との関係修復の問題をかかえている。登場人物は、一般人から見ると、皆はるかに高スペックで、特にハリーは作者(現実にも一流大学のスポーツ選手、最年少議員、ベストセラー作家という超スペック)の理想像そのままで、そうした人物に感情移入する爽快感がよい。そしてこれに対する悪役の方は、いずれも主人公に対峙するには能力が落ちるので、憎たらしさに欠けるし、むしろ一抹の哀れすら感じる。ただ悪役群の中で美女ヴァージニアはなかなかの迫力だ。それにしてもなぜ虚栄、嫉妬、弱者演技、贅沢好きといった女性らしい(偏見?)悪役は男性作家の筆によるものが多いのだろうか。三銃士のミレディ―とか里見八犬伝の船虫とか…あと、悪というのはやや躊躇するが人間の絆のミリーとか。男女の役割と言う意味では、悪役ヴァージニアは非常に保守的であるのに対し、主人公側の母や妻は才色兼備の女性として職業面でも大活躍する。優秀な男ほどパートナーとなる女性には優秀であるだけでなく、社会的な活躍も期待するということか。まあ、エンタメ小説で、文学としての深さはないのだが、時代背景とか男女観とかについてはいろいろと考えさせられる。
2023年10月12日
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今の世の中にまん延する幻想に自己実現真理教のようなものがある。つまり万人にとって実現すべき自己があって、それに向かってあきらめなければ夢は叶うというアレである。あきらめなければ夢は叶うというのは、あたりまえで夢が叶った人しか発言しないからである。それがすべてだと思い込んだ人々が実現すべき自己を求めてむなしい努力をしている。そんな現実がけっこうあるのかもしれない。閑話休題「謡曲集」を読んでいる。謡曲は能の詞章であり、脚本のようなものなのだが、能自体は昔見て、あ、こんなものかと思った記憶しかない。謡曲を読んでも、ほとんどは似たような話で、旅の僧などが霊や精霊に出あい、最後は成仏したり夜明けとともに消えていくというストーリーである。これだけをみるとワンパターンそのものなのだが、実はストーリーの本領はそこではない。途中で霊や精霊の由来が語られる場面があり、その物語を頭において舞を眺めることに興趣があるのだろう。この間の日記でとりあげた謡曲「海士」も房前が志度寺を訪れると、母親の霊が現れ、最後は消えていくというだけの話だ。ただ語りでは、背景に非常に込みいった物語がある。それは、藤原不比等の妹は大変な美人でその評判が海を越えたために唐の高宗皇帝の后となったことに始まる。もちろん史実とは関係ない。その見返りとして唐から興福寺に三つの宝玉が渡される。そのうちの二つは無事に都に着くのだが、一つは途中で竜宮にとられてしまう。珠を取り返すために、不比等は身をやつして讃岐に至り、海女との間に子供をもうけ、その子供が房前である。そして海女がいうには、珠を手に入れたら、我が子を世継ぎにすると約束してください、と。そして不比等はそのとおりの約束をする。すると海女は竜宮に行き、珠を取って、その珠を我が身を切り裂いて肉の間に入れた。綱をひきあげたところ、海女が息絶えていたが、珠は無事に戻り、それはそのまま藤原氏の中で栄えていった藤原北家の始祖の由来となる。こうした話は舞台の所作にはでてこないが、語りでは十分に時間をとって語られる。その意味で、教養ある人士はともかく、寺社などで能をみる庶民にとっては語りの芸という側面もあったのではないか。そう思って見ると謡曲の題材の多彩は驚くほどである。寺社の縁起だけではなく、源氏物語、伊勢物語、平家物語などの日本の物語から邯鄲のような漢籍に由来するものもある。日本神話もあれば伝説もあり、それ以外の桜の精や猟師の霊のでてくる話もある。昔は退屈だと思った謡曲も読んでみると面白い。
2023年10月05日
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謡曲に「海士」という物語がある。宝玉を探しにきた藤原不比等と海女の間に生まれたのが藤原房前であるという伝説をもとにした演目である。房前が讃岐の志度寺を訪れて海女であった母の霊に出あうという物語で、母は房前を生んだ後、不比等が所望した宝玉を竜宮に取りに行き、自分の命を犠牲にしてそれを手に入れたという。同じ藤原不比等の娘で、後に聖武天皇の母となった藤原宮子については、母親ではなく宮子自身が海女であったという伝承もあり、梅原猛はこのテーマで著書を出していたかと思う。房前といい宮子といい、藤原不比等の周辺には、なぜか海女にまつわる伝承がある。宮子は美貌故に不比等の養女になったというが、美貌なら養女よりもむしろ妻とするだろう。想像をたくましくすれば、法律や文筆の才で世に出る以前の下級官吏であった不比等が海女を見初めた史実があったのかもしれない。謡曲の題材は勧進帳などすでに知られている話を基にしたものが多く、房前の母の話も讃岐の志度寺縁起に由来する。志度寺は625年に始まり、その後、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられた。ここまでが史実なら、不比等の妻であり、房前の母だった人はこのあたりと縁があるのだろう。房前という地名がこのあたりに残っていること、そして房前は兄の宇合とは違って当初は嫡子の扱いをうけていなかったらしいことなども思い出される。
2023年10月04日
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いよいよクリフトン年代記第4部「追風に帆をあげよ」を読んだ。主人公ハリーはいまやベストセラー一位をキープするほどの大人気作家、そして才色兼備の妻は大手海運会社の会長として、ともに充実の日々を過ごしている。二人の間の息子も成人し、ケンブリッジ奨学生の資格を得たばかりでなく、若くして銀行の幹部であるだけでなく、妻の後継者としても期待されている。とにかく頭がよく機転が利き、語学の才もあって、友人との雑談でイタリア語やヘブライ語をマスターしただけでなく、日本語も2月の講習で取引先日本企業幹部の社内の雑談を聞き取るほどになる。このように、主な登場人物は皆常人よりもはるかに高スペックで、そのあたりが爽快感を持つところでもある。そんな人が実際にいるかと思うのだが、作者のアーチャー自身、学生時代はスポーツ選手で活躍した後、最年少の議員になり、一時服役したものの、ベストセラー作家として不動の地位を占めるなど、相当に凄い人である。ケインとアベルではASPと東欧移民、クリフトン年代記では英国の貴族と労働者を描きながらも、その実、能力貴族主義的な人間観が作者の本質なのだろう。労働者のクリフトン家でも、文盲で衝動的な叔父のような人間もいる反面、主人公やその母のような才能豊かな人々もいる。本作では主人公と悪役らとの対決が主な軸になるのだが、悪役側の事情が感情的なしこりだったり、逆恨みだったりしてあまり説得力がない上、だいたい知恵も策略もある主人公チームにしてやられるので、滑稽ではあるが、憎たらしさにはかける。このあたりは、小説の欠点というよりも、そういうタイプの小説だと思って読むほうがよいだろう。本書では息子が結婚を考える女性と言うのも登場するが、これまた才色兼備の女性となっている。
2023年10月03日
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いよいよクリフトン年代記第三部である。労働者の息子ハリーは軍で活躍した後、人気作家となり、才色兼備の妻も学位を取得し会社の重役となる。作者も相当に凄い人なのだが、主人公はさらにその作者の理想像を投影しているので、…ちょっとついてゆけない。そしてまた、第二部まではまだ大河小説の趣があったが、ここにくると、途端に痛快ドタバタ小説のようになってきて、少し読み始めたことを後悔している。作者の分身の主人公はあくまでもかっこよくということなのだが、かっこよくしすぎて、冒険小説のヒーローのようになっている。ちょっとやりすぎでは…第四部以降はその後悔を撤回するような展開を期待したい。第三部の舞台は1957年となっているのだが、今から見るとはるか昔のようだ。大洋横断は客船から航空機に代わっていくのだが、通信手段は電話が限られたところにあるだけなので、主人公達はいつもすれ違い、タッチの差で危機にあったり危機を免れたりする。やはりこのあたりの時代を舞台にした「すれ違いメロドラマ」もこうした通信手段が限られていることゆえの悲劇なのだろう。物語は現在に近い時代まで続いていくので、歴史の流れだけではなく、様々な機器の登場が人々の行動をどう変えて行ったのかも追体験できるのかもしれない。そういえば、この物語の縦糸には主人公の出生の秘密がある。主人公の本当の父親は労働者なのか貴族なのか。これも物語の最後の方でDNA鑑定で明かされるという展開を予想している。
2023年09月27日
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