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面白くていっきに読んだ。ただ、これから書くのはこの本の要約ではなく、この本を読んで思ったことである。映画「翔んで埼玉」の第二弾は滋賀をディスった「琵琶湖より愛をこめて」であった。第一弾の埼玉ディスりは、地域ネタが面白かったのだが、第二弾では、なぜ滋賀なのかと正直思った。滋賀ってディスるような県なのだろうか。だって、過去には都があったところではないか。しかも、それは京都に都がおかれる以前のことだ。その都の印象は強烈なので、「さざなみの滋賀の都」という言葉は名歌だけでなくあの琵琶湖周航の歌にもでてくる。都道府県が47あっても過去に都のあった府県は奈良、大阪、京都、滋賀、そして一瞬なのだが兵庫しかない。埼玉と一緒にするなんて…。そう思ってこの本を読み始めたが、なるほど、たしかに滋賀には京都の陰に隠れているという面はあるなと思う。そうだ、京都に行こうのテレビCMで比叡山がでてきたのだが、比叡山は滋賀県にある。なんで京都に行こうなのに比叡山なのだろうか。変といえば変なのだが、その変であることを誰もいわない。昔、修学旅行で比叡山に行ったことがある。でもその修学旅行は皆あたりまえのように京都奈良修学旅行と言っていた。まあ、東京ディズニーランドに行く修学旅行も東京修学旅行といっているのかもしれないけど。ちなみに東京ディズニーランドは東京と言っているが、実際には東京にはない。滋賀の大津と京都市の距離は非常に近い。二つの府県の県庁所在地がこんなに近いというのはあまりないのではないか。京都はオーバーツーリズムとか言われて宿がとりにくいなんてことを言う人もいる。そういう場合には大津に宿泊すればよいのではないか。温泉観光ではないのだから、寺社仏閣を巡るのは昼間であっても、夜、京都に泊まる必要はない。外国人向けの気位の高いところに泊まるよりも、大浴場のある旅館の方がいいのではないだろうか。いつも京都の日陰で…というのをマイナスにとるのではなく、京都の奥座敷、京都の隣というのも非常な強みだと思う。余談だが、本書には三大夫人という言葉がでてくる。ポヴァリー夫人、エマニエル夫人、キューリー夫人なのだが、キューリー夫人というのは考えてみれば変だ。女性の偉人伝の定番といえば、キューリー夫人とヘレンケラー、ナイチンゲールであるが、なんでキューリー夫人だけ夫人なのだろうか。結婚しているからといえばそうなのかもしれないが、夫人といえば夫が偉くてその夫を助けて妻の務めを果したというニュアンスがある。なんかそれって違うように思うのだが。
2025年11月28日
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「式子内親王」の評伝を読んだ。新古今を代表する女性歌人であるが、なんとなく薄幸で孤独な女性という印象を持っていた。しかし、実際には、当時としては決して薄命ではなく、最後まで歌壇で活躍していた。孤独な女性というよりは、理知的で闊達な女性だったのかもしれない。百人一首にもある「玉の緒よ…」の歌もしのぶ恋というテーマで男性の立場にたって歌ったもので彼女自身の実体験というわけでもないという。たしかに本当のしのぶ恋であれば、堂々と歌にして公にするわけもない。歌を通じて藤原俊成や定家とも交友があり、親愛の情や敬愛の情は当然にあっただろう。もしかしたら恋に近い感情もあったのかもしれない。後年には式子内親王と藤原定家との恋をテーマにする謡曲などもできているのだが、まさか現実に男女の関係があったというわけではないだろう。晩年には法然の浄土宗に傾倒していたといい、従来の仏教の加持祈祷にはあまり関心がなかったようだ。現生利益的なものはあまり信ぜずに、精神的な救いを求めたということだろう。日本では歴史の節々に才女が登場する。日本文化の根底には和歌があり、それは男女の区分、場合によっては身分の上下をも超越するものであることと関係があるのかもしれない。歌仙という中には必ず女性も入っている。文芸の世界も同様で日本最古の書物である古事記の語り手は女性であったという説が有力であるし、平安女流文学作品は千年以上にもわたって読まれ続けている。そしてその長い歴史の中で、「源氏物語」にしても「枕草子」にしても、女の書いたものだからくだらないといった人はただの一人もいない。それは西洋の女性作家が女性であることを隠すために男性名で作品を世に出した例があるのとは対照的である。式子内親王はあの後白河天皇の娘として生まれ、源平争乱の時代から鎌倉初期を生きた。平家一門の没落など数多くの不幸を見聞きした。そうした中で一種の無常観を身に着けていたのかもしれないし、同時に、冷静な醒めた目で世の中を見つめていたのかもしれない。そのうえで、皇女という制約の多い中で和歌の世界で才能を輝かせた女性ということで、今日まで彼女の名が残っているわけである。
2025年11月27日
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タイトルの印象からサイコパスを主人公にしたホラー色の強いドラマかと思っていたが、可愛らしい子役がでてきたので、これはもうバッドエンドではないな…という感じで最後まで面白く視聴した。見どころは主人公役のイ・ジュンギの演技だろう。サイコパスめいたところでは本当に顔立ちも変わったのかと思うくらいに迫力ある悪役を演じるかと思うと、優しい父親の顔をみせる場面もあり、最後に一時的に記憶を失った場面では全く別人のような顔もみせる。韓国ドラマの俳優は演技力がすごいと思うことが多いのだが、イ・ジュンギもアクションをこなすだけでなく、多彩な演じ分けもできるすごい俳優だと思う。それにしても、デビューをしてから、相当の年月が経ち、今では40歳代になっているはずなのに、見た目がほとんどかわらない。フィギュアの羽生君に似たイケメンである。視聴している間は先の読めない展開、事件を追う刑事たちや主人公の幼馴染の記者などの魅力的な登場人物がでてきて非常に面白いのだが、ただ、見終わってみると、共犯者と真犯人の関係、主人公が10歳までの記憶のない理由など回収できていない伏線も多い。そしてまた、背景となる事件も陰惨である。もう一度最初から見直すとなるとどうしようかとも思う。
2025年11月25日
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原作を読んだことがあるが、めちゃめちゃ面白かった。ただ筋は複雑で登場人物は多い。いくら三時間の大作にしても、映画の中でどうおさめるのだろうか。実際に見てみると、主人公の投獄から脱獄まではほぼ筋書どおりだ。ただ、復讐するくだりは原作と大きく異なり、これはもはや二次創作といった方がよいのかもしれない。こうした二次創作には原作のイメージをぶち壊すようなものと、原作の雰囲気はそのままにそて映画用にうまくまとめたものとがある。この映画は後者であって、原作とは違うのだが、これはこれでよいではないかと思う。主人が復讐をする相手は冤罪の発端となった恋敵、金の亡者、そして検事の三人で、これは原作も映画も変わらない。原作ではこの復讐の過程も込み入っているのだが、映画ではわかりやすく、最後に剣戟の場面があるのも映画らしくてよい。大きく異なるのは結末で、原作では主人公は美女エデと結ばれるが、映画ではエデは仇である恋敵の息子と結ばれる。改変については、この結末の方がよいと思うし、最後に主人公が再び海にのりだしていくところも原作の雰囲気どおりである。原作では、主人公は完璧な女性である彼女を恩人の船主の息子の結婚相手として後見していた。今の感覚では、こうしたことは一種の女性蔑視で当世向きではないし、エデを自我をはっきりもった女性として描いた映画版の方がよい。原作では主人公を見送る若いカップルは恩人の息子と仇である検事の娘なのだが、そうなると、登場人物は映画では収まり切れないくらい多くなってしまう。複雑極まる物語を原作の雰囲気を活かしながら、うまくまとめている。中世風の街並み、海の光景、華やかな宴会の場面なども原作のイメージどおりで一見の価値のある映画だと思う。3時間の上映時間が全く長く感じられなかった。ぜひお薦めしたい。
2025年11月24日
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政治家の中には政策の人と政局の人とがいる。政局の人は国家や国民の利益よりも、次の選挙や政権の行方の方が気になる。その昔、政権交代が選挙の争点になったことがあるが、考えてみると、政権交代かどうかよりも、その政権で何をするかが重要だろう。今にして思えば、あの頃、無内容な政権交代に騒いだのはなんだったのだろうか。この間も数合わせの政権交代の話があったが、国民の間にはそれほど政権交代の議論は盛り上がらなかった。だいたい最大野党が他党の党首を総理にして政権交代しようというのが迫力にかける。そしてまた、政局の政治家は、国家国民の利益よりも、政権党をゆさぶるということを第一の目的とする。その結果、国益を損じても、政権が危機に瀕すれば目的を達するわけだ。ただ、今の時代は選挙民もマスコミだのみではなく自分で考えるようになっている。いくらマスコミが持ち上げようがなにしようが、国家国民の利益よりも政局しか考えない政治家や政党はいらない。
2025年11月21日
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若い女性と老女を主人公にして、二人がそれぞれの愛を語るという形式の小説である。若い女性の恋人、そして老女が昔その元を去った夫はいずれも山に入ったまま帰ってこない。小説では山は異界として描かれており、その山もまたもう一つの主人公なのかもしれない。読書は年齢を選ぶ。すごく昔ならこうしたファンタジー色の強い恋愛小説は好きになっただろう。若い女性、神秘的な老女、そして凄艶な冬の山という舞台。ところが今の年齢で読むとつっこみどころばかりが気になる。山の神秘を描くにしては土俗的な匂いがしない。現実的に考えると老女が何をやって暮らしているのか判然としない。若い女性の恋人の父親殺し、老女の元夫の家族殺し、こうした犯罪も何か通り一遍の描写のように感じる。最後は若い女性の恋人は生還しているようだが、これも現実にはありえないだろう。しかしそれはそれでよいのかもしれない。これはそういう小説なのだ。そして自分はこうした小説を読んで楽しむには年をとりすぎてしまったのかもしれない。
2025年11月20日
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かつて高齢化社会の予測として子供の遊びはすたれ大人の遊びの市場は大きくなるというものがあったという。たしかに子供市場は廃れたせいか、ゴールデンタイムには競うように放映されていた子供番組もなくなったし、スーパー戦隊シリーズも終わるという。NHKの人形劇はとうに消えて久しい。ただその一方で、大人の遊びとされているゴルフやパチンコが流行っているという話も聞かない。全体の印象であるが、かつては子供向けとされていたものが、そのまま大人市場にシフトして行っているような例が多いように思う。アニメなどはその最たるもので、昔はアニメといえば子供の見るものだったのが、いつの間にか高校生もみるようになり、それがそのまま対象年齢が上がっている。アニメ市場の最大のボリュームゾーンは40代という話もあるくらいだ。深夜アニメなど女子中学生や女子高校生を主人公にしたものの多くは、実際には中学生や高校生向きというよりも、明らかに大人の男性向きに作っている。鬼滅の刃のようなメジャーなアニメ作品でも、映画館には、20代や30代の観客が多いというし、今やアニメ映画は子供とその親がターゲットというわけではなくなっている。ゲームもでてきたときには、子供が親にせがんで買ってもらっていたのだが、今は大人のゲームなど普通になっていて大人市場の方が大きいのではないか。それはよいのだが、ソシャゲで万単位の課金というと、ギャンブルや風俗ではなく(それがよいというのではないが)、そうしたものに大人が金を使うのがさっぱりわからない。大人が金を使うといえば、ガチャもそうだ。あれも昔は子供のおもちゃで値段も小遣い程度だったと思うのだが、いつのまにか、値段も高くなって、遊ぶのも大人が主流になっている。どこにいっても、ガチャアイドル市場も、ものにもよるが、息の長い男性アイドルでは、親子ファン、さらには三世代ファンなんてのがあるという。なんというか、かつては娯楽でも大人向きと子供向きには区別があったのだが、今やそうした区別は非常にあいまいになっている。娯楽に年齢は関係ない…今はそんな時代なのだろう。
2025年11月18日
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ポピュリズムという言葉が気になっている。いろいろと考えてみると、どうも昔の郵政選挙の時に、選挙戦略として想定された「B層を狙うという戦略」というのと重ねるのではないか。そうだとしたら、石破総理はポピュリズムと戦うといっていたがなんのことはない自民党こそがポピュリズム政党だったのではないか。いや、自民党に限らない。民主主義国家においては選挙に勝つためにはB層に訴えるのは当然であり、民主主義とポピュリズムはまさに同じものの表裏ということになる。もう一度このB層という言葉についてWIKIでみてみる。選挙民をABCDに分けると以下のようになる。A層 IQが比較的高く構造改革に肯定的。財界勝ち組、都市部ホワイトカラーB層 マスコミ報道に流されやすく主婦、子供、シルバー層が中心。IQが比較的低いC層 構造改革に否定的。IQが比較的高い。D層 IQが比較的低く、構造改革に否定的。既に失業などの痛みにより構造改革に恐怖を感じている。IQというのは知らんけど、政治的関心の多寡、構造改革に対する姿勢を現政権に対し肯定的か否定的かで置き換えれば、選挙民の区分として今でも通用しそうだ。なお、マスコミはA層に分類されているが、実際にはC層よりになることもあるだろう。選挙民のボリュームゾーンはどうみてもB層とD層である。ただ、B層はマスコミの影響下で投票所に向かうが、D層は最初から政治に見捨てられたと感じ投票意欲も低いという違いがある。マスコミの力が強い時代には、A層ときどきC層のマスコミがB層に影響を与え、投票結果を左右してきた。それがかわってきたのがネットの登場だろう。誰でも情報を発信するようになれば、マスコミの論調だけがすべてではなくなる。そしてショート動画のような休憩時間に手のひらでみることのできる媒体は新聞を読まない人や政治討論番組などみない人にも政治への関心をうえつけた。いままで沈黙していたD層も投票所に向かうようになる。格差が拡大し、一億総中流が崩れた時代には、実はこのD層こそがブルーオーシャンなのだが、既存の野党は相も変わらず憲法九条護持だの非核だの夫婦別姓だのLGBTだの…と全くこの層を無視してきた。それを動かしたのがネット発信に力を入れてきた新政党だろう。マスコミの影響を離れたB層とD層の影響力が大きくなれば、ポピュリズム批判の声が起きるわけである。このポピュリズムには、思っているほど右と左の垣根はない。ただし、敵を作って支持を集めるというポピュリズムにありがちな特性を考えれば右派ポピュリズムと左派ポピュリズムの差異はあるだろう。右は内外で分け、左は上下で分けて考える。外に敵を作るのは右派ポピュリズム、上に敵を作るのは左派ポピュリズムとなるのだが、貧しい国からの移民の目立つ先進国では右派ポピュリズム、金持ちの大邸宅が貧困層の見えるところにあるような途上国では左派ポピュリズムが勢いを得やすいのかもしれないが、興味深いのはニューヨーク市長選である。移民が当たり前のニューヨークでは右派ポピュリズムよりも富裕層に応分の負担を求めようとする左派ポピュリズムが勢いを得たわけである。ポピュリズム…これを決して悪い意味で使っているわけではないが、二大政党制が強固でピープルの意向が選挙に反映しにくい構造になっている米国でも、首長選挙レベルではこういうこともあるということなのだろうか。
2025年11月17日
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この間の参議院選挙で急伸した参政党の支持者はどこから来たのか。これについては政治学者などが、いろいろと分析をしていると思うが、ネットで見たある記事が興味深い。生活が苦しくて初めて街頭演説に行ったというあるロスジェネ世代男性の体験を紹介していたのだが、投票先を参政党にするかれいわにするかで迷っているというものであった。こうした有権者がどれくらいいるのかは不明なのだが、選挙前にSNSの動画を見てきた感想としては、参政党とれいわの支持者は意外に重なっているのかもしれないと思った。両者ともSNSの発信に非常に力をいれていて、しかも、分かりやすい、よくできた動画が多い。こうした動画という新しいツールが今まで新聞やテレビの政治討論などをみなかった層に強い訴求効果をもったのではないか。不満を抱えながらも、政治にあきらめを持ち、選挙にもいかなかった層、いわばブルーオーシャンのような層の票を掘り起こしたわけである。もちろんそれ以外にも、参政党の躍進については、自民党の岩盤保守層が移ってきたという分析もあり、それもあたっていると思う。また、れいわと参政党で迷った人がいたということである。一般のイメージでは参政党は右、れいわは左となるのだろう。強固な政治信条を持つ人なら右と左で迷うなどありえない。しかし、普段政治にあまり興味のない層にとっては、この右とか左というのはそれほど確固とした区分ではないのかもしれない。よく世の中の見方について右は内と外に区分し、左は上と下に区分するという。ならば内で下、外で上という立場もあるわけで、こういうのは右というのだろうか、左というのだろうか。それだけではない。政治的テーマの中には生活に関連するものと理念的なものとがある。夫婦別姓、ジェンダー、憲法九条、歴史認識などは、理念的なテーマで多くの選挙民にとってはさほどの関心事ではないのかもしれない。右派的な主張をしながら所得再分配につながる主張をしたりする政治勢力があってもおかしくない。米国の話であるが、サンダース候補が民主党の指名を得られなかったため、サンダース支持者がかなりトランプ支持にまわったという話もある。
2025年11月16日
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久しぶりに東京タワーに行った。昔は東京タワーといえばお上りさんの観光スポットで、それっぽい東京土産が売っていたものなのだが、今やすっかり外国人の観光スポットになっている。見てわかる外国人が半分くらい、残りの半分の多くは外国語を話す人々なので、日本人の方が少ないのではないか。そしてその外国人観光客相手になにやらぼっている?タクシーの運転手がいたが、その運転手ももしかすると日本人でないようにみえる。日本にいながら外国気分を味わえるスポットとしてはなかなかよいかもしれない。半分ジョークで外国人に道を聞かれたときのために英会話を勉強しているなんて言うのを聞くが、困った様子の外国人を探せば実地に勉強できる可能性も大である。売店にいくと、そこの土産も東京土産ではなく、日本土産になっている。簪を模したアクセサリーとか扇子などだが、実際、外国の方が日本にくるとどんなものを土産に買うのだろうか。漆とか陶器などは結構高いし、かといって、日本趣味のアクセサリーはさほど高くない代わりに壊れやすいようにもみえる。こけしはあまり実用性がないし、日本人形は持ち帰りが大変だろう。検索してみると、扇子、箸、箸置きなどのさほど高くなく荷物にもならないようなものが人気らしい。そういえば最近は東京たわーだけでなく、あちこちの観光地でそうしたものを売っているように思う。
2025年11月14日
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国も自治体も「多文化共生」という掛け声でいっせいに移民政策にかけだしている。移民政策というと議論になっても、同じものを多文化共生といってしまえば、なにやら素晴らしいものに聞こえて反論しにくい。しかし、多文化共生というのは、移民政策が進んで異なる文化の人々が国内に併存するようになった段階での議論であり、多文化共生だから当然に移民政策はすすめますよ…というのはおかしいだろう。米国のような移民国家では異なる文化の化学反応で豊かな文化が生まれるという例もないわけではないが、その一方では異人種間、異民族間の軋轢が起きている。ましてやもともとが移民国家でない西欧では、多文化共生に成功しているところなどないようにみえる。こうした移民政策については、グローバル資本主義政党の自民党だけでなく、立憲民主党や共産党なども差別反対や排他主義批判ということで移民政策に反対していない。結局のところ、はっきりと移民政策に反対しているのはSNSで支持を拡大している参政党とれいわだけのようにみえる。おそらく今の与党からみて、消える直前の政党やさっぱり支持が伸びそうにない政党は脅威ではない。そうではなく、移民政策に反対し、SNSで支持を伸ばしている政党こそが脅威なのではないか。それを考えると、最近浮上している比例区削減の議論、そしてSNSによるデマを問題視し、究極的にはSNSを規制しようという議論は、そうした政党つぶしが目的なのかもしれない。それにしても、よく政党や政治的立場をいうのに右だの左だの、あるいは権力よりか反権力よりかという。しかし、極右なんていっても合法的に滞在している外国人を攻撃しようなどという勢力はないし、極左といっても暴力革命を主導しようという勢力もない。歴史認識や憲法についての考え、ジェンダーやLGBTについても、正直、現実の問題にすぐに直結するものではない。やはり現在進行中の大問題、例えば移民政策についてどう考えるかというあたりが一つの大きな軸のように思う。
2025年11月13日
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名古屋主婦殺人事件はどうもよくわからない。犯人が非常に不幸な境遇であれば、この事件は通り魔殺人の変種のようなものとして説明できるのかもしれない。聞いた話では、どこの国でも自殺と他殺を合わせた発生率は似たり寄ったりであるという。この説の真偽は不明だが、通り魔殺人などは自殺の変種なのかもしれない。殺意の矛先が消えてしまいたい自分ではなく、幸福そうな誰かあるいは襲いやすい誰かに向かうわけである。通り魔殺人以外にも嫉妬による殺人というものもある。すぐに思い浮かぶのはお受験殺人であるが、犯人には嫉妬には十分な理由があったが、その一方で守るべき家族が犯人にもいた。ただママ友という形で被害者の幼児の親と犯人とは常に接する関係にあり、その中で感情が増幅していったことが考えられる。名古屋主婦殺人では、犯人には守るべき家族もあったし、継続的な仕事もあった。そしてまた、被害者との接点はいまのところない。職場では事務をしていたということであるが、こうした仕事を長く続けるためには、それなりの人間関係を築き、信用も得ていなければできるものではない。若いころに被害者の夫に告白をしたということがあるというが、普通の感覚ではこうした青春の思い出が殺意に結びつくとは思わない。たとえ被害者の夫が告白のことを警察に言っていたにしても、彼女については怪しい人物から外すのではないのだろうか。この事件については、未解決事件としてテレビなどにもときどきとりあげられていた。現場から徒歩で逃げ、血を洗う姿まで目撃されているのならどうみても犯罪の素人であろう。B型の女性ということまでわかっているのになぜわからないのだろうか。ただそれでもいきなり刃物を向けるという計画的で強い殺意は、被害者の生活圏内にいる人物に違いないと思っていた。子供の関係の付き合い、今の友人以外に案外と保険の勧誘などで突然訪ねてくる昔の同級生や先輩も盲点なのではないかと思っていた。犯人が逮捕されたとき、被害者の夫は、自分の方の関係者が犯人で申し訳ないと言っていたというが、夫も犯人は妻の交友関係の中にあると思っていたのかもしれない。家族を持ち、仕事を持って普通に生活している女性がある日、自分にとっては初対面のような主婦を刺殺し、その後も長いこと普通の生活をしていた…ということがどうも不思議でならない。
2025年11月11日
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よく右とか左とかいうことが政治的立場の分類として言われてきたが、さらに最近ではポピュリズムという言葉もよくつかわれる。そうした言葉を使えば、今の世界で伸長しているのは右派ポピュリズムということになるらしい。ポピュリズムという言葉はつきつめると意味不明だし、民主主義国家ではしょせんは多数の支持を集める政党は多かれ少なかれポピュリズムなのではないか。右とか左という言葉も、マルクスレーニン主義を信奉しているのが左、そうでないのが右といえば、それはそれでわかりやすいのだが、今時、マルクスレーニン主義をそのまま信奉しているという人はどのくらいいるのだろうか。その昔左翼学生がマルクスの本のどこそこにこう書いてあるがこれはこういう意味だなんていう議論をしていたのは今は昔である。ある方の文章を読んでいたら、経済的に恵まれない層にとって、それを外国人のせいと考えるのは右、搾取のせいと考えるのは左という分類があってなるほどと思った。なるほどと思ったのは同意したのではなく、多くの人はそう思っているのだろうなという意味である。 たしかに現代においてはどこの国でも格差が拡大する傾向にあり、そしてまた膨大な数の貧困層を抱える国もでてきている。そうした貧困の背景は何だろうか。外国人、それとも搾取…何のとこはない。その両方だろう。高級人力は別なのだが、途上国から低賃金の労働者を導入するのは搾取するためではないか。もちろん外国人とて人間なので、低待遇の職場にいつまでもいない。結局、本国人と外国人の低待遇職種集団が発生することになる。格差を問題視しながら、外国人単純労働力の受け入れを容認するのは実は大いなる矛盾だとしか思えない。さらに言えば、治安の悪化、文化摩擦などで被害を受けるのも、その国の恵まれない層であって、治安の確保された高級タワマンに住む上級国民はそうした外国人流入によるマイナス面とは無縁であることを付け加えておく。 さらに、右とか左とかいう区分以外にリベラルという言葉もあり、これは往々にして左に分類される。ただ、リベラルの唱えるジェンダー平等、LGBT差別反対、夫婦別姓、外国人を受け入れるなどの主張は、良い悪いではなく、円周を回って反対側にぶつかるように、グローバル資本主義の唱える主張と重なる。リベラルは左翼とはやはり違うように思う。
2025年11月10日
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こうした純文学というのは今ではあまり読まれないのではないか。しかし、中高生の頃には、日本文学といえばこうしたものだった。「暗い絵」は作者の体験が相当に反映されている私小説風の小説である。ここでいう暗い絵とは作者が友人の下宿で見たブリューゲルの絵であるが、それと戦争に向かう暗い世相、政治活動に関与する学生らをとりまく状況を暗示させている。 これに比べると「顔の中の赤い月」は題名は奇抜なのだが、ずっと小説らしい小説である。戦争で九死に一生を得て帰国した主人公だが、生活はまだ安定していない。彼は事務所が近いということで、二人の戦争未亡人と知り合うのだが、彼女らも売り食いの生活をしている。主人公は一人の戦争未亡人に惹かれるのだが、過酷な戦争体験の中で人間の醜さをさんざんに見てしまったことが、彼女との仲を遠ざける。 大正二けた生まれというのは貧乏くじ世代といわれる。この世代の多くは戦場に行った。そして無事に帰ってきたものも戦争体験を語らない者が多い。文学の世界でも戦場体験そのものを基にしたものは少ないように思う。「顔の中の赤い月」や同じ短編集に収録されている「崩壊感覚」や「残像」でも戦場から帰ってきた者の屈折が描かれているが、戦場そのものは描かれていない。女も急激な価値観の崩壊でどこか自堕落な感じの者が多い。 しかし、戦後の復興というものの中心を担ったのはまさにこうした貧乏くじ世代である。戦場体験と戦前体制の転換の中で価値観のすっかり変わった人々が一方にいて、その一方には戦後改革の「いきすぎ」を憂う戦前に郷愁を感じる人々もいた。戦後しばらく続いた保守対革新という構図もこうしたものが背景にあったのかもしれない。この世代もしだいに消えつつあり、保守対革新というのも、すっかり過去の話になっている。その戦後日本で革新の中核を担ってきた政党社会党の後身の社民党もごく少数の人間同士が離党をめぐって争っている。戦後は遠くなりにけりであろう。
2025年11月06日
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最近ポピュリズムという言葉をよく聞く。そしてこの言葉は特にSNSによって支持を伸ばしている政党に対して使われることが多いようである。このポピュリズムという語については定義が曖昧なのだが、曖昧なまま人口に膾炙しているのは不思議な気がする。数ある定義の一つとしてWIKIによる日本の学者による定義の最初のものを見てみると、1政治経済文化エリートに対する異議申し立て、2主権者として代表されていない人々を顕揚すること、3カリスマ的指導者が扇動することとされている。そうであるならば、自らをエリートと自認しているであろうマスコミ人士が自分らとは別のところで情報を発信し、自分らの関与なしに支持を拡大している政党をポピュリズムというのももっともなのかもしれない。しかし、このポピュリズムという言葉は非常に否定的なニュアンスで語られている。石破元首相の戦後80年の所感でも「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家の矜持と責任感を持たないといけない」という言葉がある。しかし、上記のポピュリズムの定義からは無責任という要素はでてこない。また、別のポピュリズムの定義でよく出てくる「敵を作って叩く」だの「利益誘導を行う」だのということも、特段どの政党ということではなく、選挙の手法としてはよくみられる。敵を作るについては、過去の選挙でも、公務員バッシング、生活保護バッシングは行われたことがあるし、利益誘導も前回の参議院選挙で、いろいろな政党が減税や給付を公約していたことは記憶に新しい。そうしたものは選挙が終わればなかったことになっているようであるが。結局のところ、このポピュリズムという言葉はSNSを中心に支持を伸ばしている政党に対して、マスコミを介さず直接に無知な大衆にアピールして支持を伸ばしているのは問題だ、こんな政党を支持しているのは非エリート、非インテリの奴らに決まってる、だからこんな政党が伸長するのは問題だということをいわんがためにポピュリズム政党というレッテルを貼っているだけのように見える。だからこうした政党を叩くのであればポピュリズム政党だからけしからんというのはトートロジーであり、実際に掲げる政策について問題点を指摘すべきであろう。
2025年11月05日
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26年前の殺人事件の容疑者逮捕については考えさせられることが多い。違っているかもしれないけど、今までの報道では犯行の大きな動機は嫉妬だろう。嫉妬というのは結構強い感情で、しかも恨みと違って嫉妬される側には大して理由もないので余計にやっかいだ。誰にでも好かれる人望あふれる人間は恨みを買うことはあまりないのだが、嫉妬されることは十分にありうる。もし、自分の周辺に容姿端麗、才能抜群、そしてまた人間的にも非の打ちどころもなくよい友人に囲まれているような人がいたら、なぜ世の中にはあんな人がいるのだろう、不条理だ…そんな気持ちを抱く人は案外と多いのだろう。さらにそんな人が自分には手の届かない試験に合格したり、自分が片思いしている高値の花のような人と恋人になっていたりしたら〇してやりたいと思うかもしれない。まあ、普通はそんなことはしないのだが…。そしてこの嫉妬が背景にある殺人というのは、個々人の事情や人間関係にもよるので、いったいなぜと思うことも多い。すぐに思いつく嫉妬による殺人としてはお受験殺人事件がある。被害者は裕福な家の美しいママの娘で、難関国立小学校にも合格が決まっていた。もちろん被害者の母の写真にはモザイクがかかっていたがそれでも華やかな美人であることは推察ができ、犯人の女性との格差は歴然としていた。これに家の経済状況、娘のお受験の合否の差も重なれば嫉妬は当然とも思うのだが、一方で、犯人の方は30歳代というそれなりの年齢であり、しかも看護師の職歴もあったので、様々な人生を見てきたはずだ。自分と被害者の母親だけを見つめて、その娘を手にかけるなど想像にしくいのだが、事件は起きた。日常の地続きのところで犯罪者になってしまうような怖さのある嫌な事件であったので、記憶に残っている。最後にこの26年前の主婦殺人事件ですごく気になるのは事件当時の犯人の生活状況である。犯人がそれなりに充足した生活をしていれば、事件は全く理解不能だ。しかし、なんらかの不幸な状況にあったとしたら、その不満の矛先を誰かにむけても不思議ではない。世の中には人生の不幸を若いころの挫折のせいにしている人は多い。最近では親ガチャなんていうふざけた言葉もあって親のせいにもするなど他責思考は大流行だ。若いころの受験失敗をひきずっているようなのはどこにもいるし、結婚相手で人生が左右されると思っている女性の中には若いころの失恋をひきずっているという人もいるだろう。どこまで検証されているのかはわからないが、どこの国でも他殺と自殺を合計した比率は似たようなものであるという話もある。自分の人生が嫌になって自暴自棄になったとき、その衝動が自分に向かうか、他人(不特定多数も含め)に向かうかは場合によるというわけである。その意味で、この犯人の女性は事件当時どういう生活をしていたのかが気になるのである。他の未解決事件の中にも、上智大生放火殺人のように犯人の血痕(本当に犯人のものだとして)が残っているものもある。動かなかった事件も解決するということがあるのかもしれない。
2025年11月04日
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26年前の殺人事件で犯人が逮捕されたという。玄関先での殺人で走って逃走、血を洗う姿が目撃されているなど、犯人はどうみても素人で自動車などの逃走手段ももっていなかった。なぜ、もっと早く逮捕できなかったのだろうかとも思うのだが、被害者との接点がない事件の難しさがあったのだろう。とにかく殺人事件の時効が撤廃されていてよかった。そしてまた、犯人を追い詰めた警察の努力は称賛に値するだろう。犯人の状況や動機などは今後明らかになっていくだろうけど、被害者遺族に余計な憶測を加えたり、プライバシー侵害をするようなことはつつしむべきだろう。ただ、動機については、まったく一般論であるが、世の中には自分の不幸を他人のせいにしたがる人間というのは一定数いるように思う。境遇に対する不満は怒りとなり、その怒りが自分に向かえば自殺となるが、他人に向かえば犯罪になる。そしてその怒りの矛先になる他人は必ずしも自分の不幸と因果関係がある必要もない。自分はこんなに不幸なのに、なぜあの人はあんなに幸せそうなの…でもよいのである。殺人の動機にはいろいろとあるのだが、嫉妬というのも殺人の動機になりうるものである。恨まれる理由のない人間でも嫉妬される理由のある場合はある。その場合には、良い人だと周りに慕われていること、好かれていることすらも嫉妬の理由になるので、まことにやっかいである。
2025年11月02日
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あちこちで起きている熊被害を受けて政府は熊対策閣僚会議を開催したという。今までは山菜取りや登山などで、いわゆる熊の領域に入った人間が被害を受けたが、最近では住宅地に熊が出没するなど、むしろ熊が人間の領域に進出してきている。状況が変わってきたといってもよいだろう。ことは人々の安全に関する問題であり、こうした問題を猟友会という高齢のボランティア頼みにしている状況が異常であろう。むしろこうしたことは警察か自衛隊が主眼となって行うものではないのではないか。その意味で自衛隊の役割は箱罠の運搬だけというのは理解に苦しむ。ところで、普通に考えれば熊はできるだけ駆除すべきだと思うし、それはその熊が肉食だろうが草食だろうが関係ないだろう。装飾というのもたまたま今まで肉の味を知らないというだけのことなのだから。警察や自衛隊が野生動物駆除の訓練をしていないのであればそうした訓練を行えばよい。もともと、武器の扱いの訓練をしている公務員組織は警察や自衛隊しかいないし、猟銃などの新たな武器の扱いの訓練も、素人にゼロからやるよりはずっと効率的だろう。そしてまたちょうどこれからは冬眠の季節になる。冬眠中は駆除の機会であるともいえる。こうした熊駆除については、よく出てくる議論がある。一つは熊は絶滅させることはできないという議論である。絶滅できないということと駆除は無駄ということとは別の議論である。そしてまた、絶滅が可能であるとした場合、絶滅して困ることってあるのだろうか。鹿などが増えすぎることには別途対策をとればよい。九州は戦後になって熊の絶滅が確認されたというのだが、九州の人々は熊の移入を望んでいるのだろうか。もっといえば近年絶滅したニホンオオカミについて、ニホンオオカミがいた方がよかったと思っている人がどれくらいいるのだろうか。二つは熊よりもスズメバチ被害の方が多いという議論である。別種のものをだしてきて、こっちの方が重要だといった議論はレトリックとしてよく使われる。しかしこれも、スズメバチ被害の方が多いということは、熊被害について対策しなくてもよいということにはならない。全く別の話であるし、だいたいスズメバチ被害があったからといって学校が休校になったり、商業施設が閑古鳥がなくなんてことはない。最初に述べた熊対策閣僚会議には環境省も入っているという。なんで環境省なんだろうか。まあ、中学生や高校生同士の暴行、恐喝、障害などの犯罪事件もかたくなに学校の責任だの教育問題だのにしている国なので、熊被害も環境問題ということなのですかねえ。
2025年10月31日
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参政党はある種のマスコミからは極右とよばれているらしい。しかし、宮城県知事選での参政党代表の演説を聞くと内容は新自由主義批判、グローバル資本主義批判であり、これだけを聞くと左翼と思う人もいるだろう。かつての保守対革新、保守対リベラル、右翼対左翼と政治では様々な対立軸が語られ、「極右」だの「社会主義的」だのは相手を罵倒する言葉として使われている。しかし、極右という人もいる参政党の代表が新自由主義を批判しているように、単に右翼とか左翼とかいう対立軸ではものごとがとらえにくくなっているのではないか。あるHPでの引用で参政党の支持者について以下のようなコメントがあった。うちの参政党員の夫がそうなんだけど、何も成し遂げないまま中高年になってくるとアイデンティティの持ち場が日本人であることとか男性であることになるんだよ、楽だから「何も成し遂げないまま中高年になった」人々や「経済的に貧しい人々」、「知性の足りない人々」が極右に吸い寄せられるということは往々にして言われる。言っているのはいわゆるリベラルといった方々で、こうした層を支持基盤にする政党を、上から目線で不満層のルサンチマンを煽るポピュリズムだと批判する。しかし伝統的な意味での左翼であれば、その支持基盤は社会の中で成功した層ではなく、まさに「何も成し遂げないまま中高年になった人々」ではないのだろうか。ところが今のリベラルはそうした人々を上から見下すだけである。リベラルお得意のジェンダーとか夫婦別姓、LGBT差別反対、同性婚などの主張は能力主義によって個人を最大限にいかそうとするグローバル資本主義の主張に重なり、逆に、経済的弱者にとってはどうでもよい問題である。リベラルというのかどうかはわからないが、ある伝統的な左翼政党では、マルクスの著作を現代的に解釈した出版物を出したというがこれも想定している読者層はコアな支持者の高齢インテリ層だろう。こうして従来の保守からもリベラルからも見捨てられていた層をSNSというツールで覚醒させた新政党が参政党であり、れいわであるのかもしれない。参政党の「日本人ファースト」とれいわの「誰もが生きていてよかったと思える社会」は、両方とも同じ層にささるのではないか。
2025年10月27日
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多文化共生ということをよく聞く。たしかに文化は他の文化の刺激を受け、より良いものを生み出すということはよくあるし、日本文化も様々な外来文化の影響を受けて豊かなものになってきたことは周知のところだ。ところが、最近ではその多文化共生と多民族共生が同じような意味で使われている。しかし、文化の伝え手として少数の人がやってくるのと、それぞれの日常的な生活習慣や宗教を携えて大勢の人々がどっとやってくるのはまるで別の話だ。多文化共生は社会を豊かにするのかもしれないが、移民国家でもない国で多民族共生がうまくいっている国は残念ながら今のところない。ましてや見慣れない異人種となると、そういう人々に囲まれれば不安に思うのは当然のことだろう。英国に留学した漱石は英国紳士の中での自分を「群狼に伍するむく犬」と表現し、留学の時期を人生最悪の時期としていた。だからといって漱石を偏狭な人種差別主義者だなんていう人はいない。そしてまた、多文化共生というものは、目的ではなく、結果である。日本に外国人がやってきたり、外国に在留した日本人が外国の文化を持ち帰ったりすることにより、結果的に多文化共生となる。だから多文化共生のために多民族共生をしましょうという主張は二重におかしなものになっている。さらに言えば、多文化というが、その大きな部分は宗教である。日本では「わが仏尊し」とか「神仏習合」といった伝統があり、宗教紛争というのとは無縁である。外国人の宗教についても、好きにすればといった感覚があるのだが、現実には食材にも葬祭にも強い戒律をもつ宗教がある。土葬墓地など日本の風景を変えてしまうようなテーマだと思うし、それ以外にも、学校給食における食材の問題や日本国内で日本人が行う行為に対する「冒涜」の問題など、今まで予想もできない問題が日本国内で起きてくる可能性もある。そういう場合も「多文化共生」だからどんまい、どんまいというのだろうか。
2025年10月26日
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我々は労働力を呼んだがやってきたのは人間だったという有名な言葉がある。これはスイス人が50年以上前に言った言葉で当時問題になっていたのはイタリアからの移民だった。人間であれば、自分なりの幸せを求め、その人なりの価値観も人生観もある。愛する家族もあるし、よりどころになる宗教も持っていることもある。辛くて人の集まらない職種に当座の人員不足のために呼んだところで、いつまでもそんな仕事をしていたくないのは同じだろう。結局、人手不足というものの不足しているのは待遇が低く人がやりたがらない仕事だ。そこに人間を外から呼んでも解決策になるわけはない。世界にはいろいろな国があり、途上国には政情不安の国もある。期限がきたら帰国を義務づけたところで帰れないという場合もでてくるだろう。外国人労働者とは違うが日本にいる在日の方も半島の動乱で帰れなくなったという人が多いという。シンガポールのように厳密な出入国管理がどこまでできるかはわからないが、それでも、できるだけの出入国管理をすれば移民として社会を変えるような流入は起こらないかもしれない。移民の最後は骨を埋める…つまりその国で死を迎えることだろう。だから移民政策と墓地の問題は切り離せない。そこで問題となるのは土葬墓地である。外国人の中には宗教上の理由から土葬を必須としている場合もあるという。日本も昔は土葬が普通だった。しかし、それは火葬の設備がなかったというのが大きな理由ではないか。両親の実家の墓地にいったとき、ところどころ地面がぼこっと柔らかくなっているところがあり、それは土葬をしたところだという。土葬の場合には、たやすく墓地の整理もできないので、その影響は何十年も残る。また、土葬が普通だった昔は墓地にはときどき燐火が飛ぶのが見えたという。そういうものを見たいか見たくないかはともかくとして、土葬墓地は日本の風景を変えていくのではないか。外国人労働者を全く入れるなとかそういう議論をするつもりはない。けれども、労働力不足だから外国人を呼ぶにしても、やってくるのは人間だということを意識しておきたいものである。
2025年10月24日
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秋が短くいきなり冬になったような寒さがやってきた。ついこの間まで夏日だなんだのといっていたのが噓のように思う。こういう時期の雨を時雨というのだろう。時雨といえば二条院讃岐の「世にふるは くるしきものを 真木の屋に やすくもすぐる 初時雨かな」(新古今和歌集)という歌がある。歌にただよう寂しい無常観に心惹かれるものもあるが、一方でただ「降る」と「古る」をかけただけの歌のようにも思っていた。そしてまた、長いことこれを式子内親王の歌だと思い込んでいたことも白状する。あらためてこの歌を見ると、世にふることのくるしさと時雨を対比させている。時雨は季節を運ぶ雨で、季節の移ろいや時の流れを象徴するものでもある。どんなに苦しいことがあっても、時間は容赦なく過ぎ去っていく。時間とともに苦しみが減っていくのかそうでないかはそれは分らないけど…とにかく時間だけは止められない。作者は源頼政の娘で父の死後遊女になったという伝説があるが、それはあくまでも伝説で、歴史上の彼女は当時としては天寿を全うし、上流の女性としてまあまあ幸福な人生を生きた。ただ時代は源平の争乱から鎌倉幕府の成立と大きく動いた時期だ。方丈記の時代よりは少し前であるが、やはり天災、疫病といった災厄もあったであろう。多くの不条理な悲しみが世にあふれているのをみながら、それでも、時間だけは容赦なくすぎていくものよ…こんな感慨があったのかもしれない。令和の今の時代はそんな時代に比べればはるかにはるかにましであるのだが、時は動いていく。10年前には高市首相の誕生など夢にも思わなかった。米連邦議会立法調査官という肩書の華やかな女性がテレビによく出てくるようになって、いつのまにか議員になって…という印象しかない。極右という人もいるが、今や政治の対立軸は右とか左とかではないだろう。グローバリズムとアンチグローバリズム、そして積極財政と消極財政という枠で考えた方がわかりゃすい。もしも、貧困層の底上げあるいは格差の縮小を志向する立場を「左」というのであれば、それはアンチグローバリズムと積極財政の組み合わせしかない。そしてどこの国でも恵まれない層ほど既存の宗教や民族的神話に引き付けられるものなので、インテリ層を主要勢力とする「リベラル」とは距離が遠い。高市首相はテレビでみるかぎり、機会の平等を強調し、「生活保護は恥」と明言する議員を重用するなど弱者に冷たいように見受けられるが、実態はどうなのだろうか。とにかく時は容赦なく過ぎていく。いったい新政権が国家をどんな方向に率いていくのか見ていきたいと思う。
2025年10月23日
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戦後間もない小金井を舞台に五人の男女の心理を描いた小説である。大学教授秋山とその妻の道子、事業をやっている大野とその妻富子、そして復員してきた道子の従弟の勉が登場人物であるが、道子は貞淑でやさしい女性、富子は善良だがコケットな女性と対照的。男性も、秋山はプライド高く打算的、大野は鷹揚で社交的、勉は戦場の体験から屈折したところがあると、三者三様である。秋山と富子は不倫関係にあるが、富子と道子は勉を愛し、勉は道子を愛しているが、富子にも惹かれるものがある。恋愛といっても理想的な恋愛の描写はない。旅館の朝の描写では富子は秋山のいびきをきくとともに、朝の光でみる白髪や皺に気づく。秋山と道子は望み望まれて結婚したが、世間知らずの道子はなにかに夢中になりたかっただけだし、秋山は道子の家柄と財産も計算に入っていた。勉も優しい従姉の道子への恋に、反抗的な喜びを感じたのかもしれない。勉の自堕落な生活の描写もあり、彼もまた決して理想的人物ではない。登場人物の中で一番「いやな奴」は秋山であろう。自己の都合の良いように解釈した近代文学論で不倫を正当化し、道子に財産がなくなると、離婚を持ち出す。ここまでこうした人物の性格を生き生きと描いているのは、作者の身近にモデルがいたとしか思えない。五人の男女の愛憎劇なのだが、小説全体の雰囲気が爽やかなのは、題名のとおりその武蔵野の描写によるところが大きい。丘陵があり、はけという崖があり、湧水があり、川がある。昭和30年代以降に急速に宅地化する以前の武蔵野にはこんな雰囲気のところがあちこちにあったのだろう。自分もそんなところに育ったので、目の前の川からは蛙の鳴き声が聞こえ、森からは毎晩フクロウと声が聞こえてきた情景を思い出した。
2025年10月22日
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戦後間もない小金井を舞台に五人の男女の心理を描いた小説である。大学教授秋山とその妻の道子、事業をやっている大野とその妻富子、そして復員してきた道子の従弟の勉が登場人物であるが、道子は貞淑でやさしい女性、富子は善良だがコケットな女性と対照的。男性も、秋山はプライド高く打算的、大野は鷹揚で社交的、勉は戦場の体験から屈折したところがあると、三者三様である。秋山と富子は不倫関係にあるが、富子と道子は勉を愛し、勉は道子を愛しているが、富子にも惹かれるものがある。恋愛といっても理想的な恋愛の描写はない。旅館の朝の描写では愛、富子は秋山のいびきをきくとともに、朝の光でみる白髪や皺に気づく。秋山と道子は望み望まれて結婚したが、世間知らずの道子はなにかに夢中になりたかっただけだし、秋山は道子の家柄と財産も計算に入っていた。勉も戦場帰りの屈折した心境から、優しい従姉の道子への恋に、反抗的な喜びを感じたのかもしれない。勉の自堕落な生活の描写もあり、彼もまた決して理想的人物ではない。登場人物の中で一番「いやな奴」は秋山であろう。自己の都合の良いように解釈した近代文学論で不倫を正当化し、道子に財産がなくなると、離婚を持ち出す。ここまでこうした人物の性格を生き生きと描いているのは、作者の身近にモデルがいたとしか思えない。五人の男女の愛憎劇なのだが、小説全体の雰囲気が爽やかなのは、題名のとおりその武蔵野の描写によるところが大きい。丘陵があり、はけという崖があり、湧水があり、川がある。昭和30年代以降に急速に宅地化する以前の武蔵野にはこんな雰囲気のところがあちこちにあったのだろう。自分もそんなところに育ったので、目の前の川からは蛙の鳴き声が聞こえ、森からは毎晩フクロウと声が聞こえてきた情景を思い出した。
2025年10月22日
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このところの政局の動きはめまぐるしい。そんな動きをみながら何が醜悪だったかというと「数合わせの政権交代」の動きである。あたりまえなのだが、政権交代はあくまでも目的であって手段ではない。何を目指すということをあいまいにしたまま、政権交代ありきのような議論は意味不明だ。もちろん自民党がよいとは思わない。特に政治とカネの問題を野党は批判してやまない。ただこの政治とカネの問題は、国家の方向に影響を与えるような大問題とは思わないし、そこしか攻撃しないのは不毛だろう。そしてまた、自民党が下野するとなれば、総理は誰であれ、立憲民主党中心の政権になるのだが、先の参議院選挙でも見られるように、この政党が支持を伸ばしているわけではない。どうも立憲民主党はヌエのような政党で、自民党とさほど違わないような野田氏と旧社民党の辻元氏を並べると、いったいなぜこの二人が同じ政党にいるのかよくわからない。数合わせの政権交代にならなくてよかった。戦後の政治を見てみると、しばらくは自民社会の二大政党の対峙が続き、それは保守対革新の対立といわれた。社会党は戦後の一時期を除き政権をとれずに、長期低落傾向を続けていたが、それは、自民党政権の下で国民が次第に豊かになり、格差も縮小していったからではないか。岸信介といえば改憲、田中角栄といえば金権政治のようなイメージばかりが語られるが、岸信介が貧困追放を掲げ、田中角栄が福祉元年を唱えていたことを忘れてはならない。まさかの社会党の首相が誕生し、その後、社会党が凋落してからは政治の対立は保守対リベラルになった。しかし、このリベラルというのはわかりにくい。選択的夫婦別姓、ジェンダー、LGBT差別反対、同性婚など普通の国民にはどうでもよい問題ではないか。その一方で、現に問題になっている外国人集住による治安悪化や住民不安については、リベラルと称する勢力は「差別反対」「ヘイト反対」という一般論しか語らない。最近、SNSを通じて、今まで投票しなかった層を含めて、支持を拡大させている小政党があり、マスコミはこうした小政党に対してポピュリズムといった冷ややかな目を向けている。しかしこうした小政党の躍進の背景には、保守対リベラルといった既成の大政党で掬いきれなかった民意があるからではないか。保守対リベラルでは掬いきれない対立軸として、グローバリズム対アンチグローバリズムというのも大きな軸のように思う。もちろんアンチグローバリズムといっても、外国人を一切入れないとか外国人を排斥するということではなく、国内で労働力をまかなうことを、どこまで考えるかという順序の問題なのかもしれないが…。それでも、グローバル資本主義の立場を奉じる政権党にしてみれば、SNSを通じた草の根小政党の躍進は脅威なのだろう。マスコミは制御できるが、SNSは制御できないものなのだから。
2025年10月21日
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維新と自民が合意したという比例定数の削減は新興政党つぶしだろう。もちろん古い政党でも比例でようやく残っているところもあるのだが、そうしたものは制度をいじろうがどうしようがいずれは消えていく。脅威となるのはSNSを使い、今まで投票しなかった層にも訴えかけている政党である。具体的に言えば参政党やれいわであろうが、特に参政党は急伸しており、今度も増加が予想される。それではこうした新興政党の何がそんなに脅威なのだろうか。思うにこうした政党が外国人労働者の流入制限を主張していることなのではないか。この外国人労働者の流入については、従来の右とか左、保守とかリベラルといった色分けでは律しきれないところがある。グローバル資本主義は企業の利益を最大化するために安い労働力としての外国人労働者の受け入れには積極的である。現政権もインドとの間にIT労働者受入れの話を進めているという。普通に考えれば、教育政策あるいは職業訓練で日本人のIT技術者の養成を考えるべきなのだが、いきなりインド人何千人である。また大政党の立憲民主党も多文化共生の旗印の下、外国人が働きたくなる国を目指すのだといい、外国人労働力の流入には肯定的なようだ。そうなると、参政党のような政党が、このまま日本が多人種多民族社会になってもよいのだろうかと考える人々の受け皿となって伸長を続けることになるのだが、それはグローバル資本主義を報じる自民や維新にとっては大問題だ。その両政党の利害が一致したところが比例代表を中心とした定数削減ということではないのだろうか。この両政党のタッグによって日本は大きく多人種多民族社会につきすすむことになるように思う。もちろん比例代表には小選挙区で落ちた議員の復活とか、支持の少ない議員の当選といった問題も指摘される。しかし、前者については重複立候補の禁止などで対処できるし、後者についてはそうした人物を名簿に入れることにより、その政党は比例票自体を減らしているという解釈もできる。こうした問題はいずれも比例区自体を減少させるということには結びつかない問題であろう。
2025年10月20日
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政局はめまぐるしく変わる。公明が自公連立から離反したと思ったら、今度は維新が自民と接近している。この二党のテーマが議員定数削減である。様々なコメントや評論などを見ても、日本では議員が多すぎるとか、国会議員定数を削減すべきだといった議論は多い。中には身を切る改革イコール議員数削減といわんばかりの議論もある。しかしどうなのだろうか。国民目線では国民が国家の方向に影響を与えうる最大の武器は参政権であろう。議員定数削減というのは、その参政権の価値を減ずるものではないか。そしてまた議員定数を減らせば歳費等の支出は減少するのかもしれないが、それとても、国家全体の支出の中ではどうでもよいもので、これで税金が安くなるなどというものではない。この議員定数削減の議論でまっさきに議論となるのは比例区である。たしかに小選挙区で直接本人の名前で票をとれない議員が当選するのはおかしいという議論はわからんでもない。しかし、小選挙区というものは膨大な死票を生むのに対し、比例代表制は民意を鋭敏に反映する。先の参議院選挙でマスコミも大政党も問題視していなかった外国人流入の問題をテーマに据えた小政党が急伸したのも主にこの比例代表の部分であった。比例区の削減というのは大政党以外に極めて不利になる。その内容の良いとか悪いとかではなく、民意を鋭敏に反映する部分も選挙制度には必要である。それにしても、議員定数の問題は個々の議員の政治生命に直結する。自民と維新の接近、そして比例区の削減に危機感を覚える議員は自民の中にも維新の中にもいることだろう。執行部だけの協議が足元の造反に結びつくおそれもあるのかもしれない。
2025年10月19日
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大岡正平の武蔵野夫人を読み始めた。終戦後まもない武蔵野を舞台にした物語なのだが、子供の頃の育った町の情景と重なっているようで懐かしい。小説の背景となる時期よりはやや遅れるが、昭和30年代は急速に田舎から都会に人が集まってきた時期だった。宅地化は最初は野原、次は雑木林、そして畑、そして田んぼの順だったのではないか。育った家はもとは畑だったのではないかと思う。目の前には田んぼが広がり、住宅地となった一画を除くと畑が残っていた。家の前には小さな川が流れ、夜にはフクロウの鳴き声が聞こえてきた。小学校に入るとクラスの半分くらいは農家の家の子で、遊びに行くと鶏などを飼っていた。しょっちゅう転校生がやってきて、中には炭鉱離職者の子もいたなどはやはり時代だろう。子供はどこにいても大勢いて路地には子供がたいてい群れをなしていた。逆に老人は少なく、〇〇ちのおじいちゃんといえば近所の子供はたいてい知っていた。老人は田舎にいるものだと子供心に思っていたように思う。住宅地では近所付き合いは極めて盛んでなぜか近隣の家の夫婦はどこの県の出身だとか、どこに勤めているかなどということは皆知っていた。今では考えられないことである。冷蔵庫は家にまだなかったので、おつかいは子供の仕事だった。母が夕食の準備をするためには、子供がその日の食材を買わなければならなかった。お使いに限らず、当時は母の仕事も大変で子供の手伝いは他にもあった。例えば、セーターはサイズが小さくなると毛糸にほどいて編みなおしていたので、腕を広げてほどいた毛糸を受け止めるのも子供の役割だった。テレビはあっという間に、そして電気洗濯機も冷蔵庫次第に普及していき、生活は変わっていった。ある日、目の前の一面の田んぼが宅地に造成されはじめたのは今でも記憶に残っている。そのころにはそんな大規模な住宅地があちこちにできた頃で転校生はますます増えていき、クラスが増設され、小学校も増えていった。中学も新規開校されたため、学年の半分くらいは新規開設の中学校に移っていったが、それでも、転校生がやってきたために、クラス数はあまり変わらなかった。農家の子は少数派になったものの、そのころには皆けっこうな資産家になっていたようだ。高校に入るころには、都内はほぼ開発されつくされ、電車で郊外に行くと、車窓からひな壇のように土地が造成されている光景がよくみられた。住宅地は郊外へ、郊外へと広がっていき、皆が庭付きの一戸建てを求めていた。一方で農家の嫁不足は社会問題にもなっていて、嫁飢饉なる言葉もあった。まあ、今は昔、そんな時代もあったということである。
2025年10月17日
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新聞の付録で昔のテレビ欄を見た。昭和30年代、そして40年代くらいまではゴールデンタイムにはたいてい子供番組をやっていたのをみて今昔の感がする。ゴールデンタイムだけではない。母親が夕食の準備をする時間帯にも小さな子が夢中になってみるようなヒーローものがあった。そうしたものがなくなったのも少子化の影響なのかもしれないし、その少ない子供達も昔なら母親が夕食の準備を始めるような時間は保育園にいることが増えたせいなのかもしれない。少子高齢化を見据えて子供の娯楽は減り大人の娯楽需要は増えるという予測があった。たしかに子供向けのテレビ番組が減ったのは事実だが、この予測は当たっていない。スキー、ゴルフ、パチンコなど大人の遊びとされるものはいずれも需要が減っているが、もともとは子供向けに作られた鬼滅の刃などは大人気だ。ガチャポンも子供向けのように見えるのだが、むしろ大人が買っている。大昔はアニメは子供のものと決まっていたが、今ではアニメファンの中心は40代で20代はアニメ離れをしているという話もある。そういえばアニメを見るのを邪魔されたといって両親を殺害した60歳の無職男もいた。結局のところ、大人の遊びはすたれ、もともとは子供向けのものが大きく対象年齢を上にシフトさせているということなのだろうか。テレビといえばもう一つ、二時間サスペンスというものもなくなった。どうも製作費のわりに広告効果が薄いということが背景にあるようで、高齢者(昔は若者の方が高齢者よりも購買力があった)ばかり見るというので時代劇がすたれていったのと同じ現象だろう。そしてまた、今日では好きな映画やドラマをネットでみることができるので、テレビの前でドラマにかぶりつく時代でもないのかもしれない。それでは今のテレビはどうかというと、ものを食べる番組だとかちょっと変わった生活をしている一般人を紹介する番組だとか、身近にいれば変な人としか思えないタレントをひな壇に並べて笑わせるバラエティ番組しかない。これではテレビ離れもむべなるかなである。報道番組もコメンテーターがあたりさわりのないことをいうばかりで、時間つぶしとしか思えない。新聞は部数が激減しているというのだが、テレビもあまり将来はないように思う。
2025年10月15日
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1962年に刊行された草創期のSF小説である。今でこそSFは小説の重要ジャンルだが、最初の頃はややマニアックな分野とされていた。しかし、これもどこまでをSFというかで、あるSF小説全集には、「銀河鉄道の夜」や「山月記」も収録されていた。たしかにありえない事件や非日常的な光景を描いたものをSFというのならこうしたものもSFだろう。一説によるとSFとファンタジーの境は科学的にもっともらしい説明があるかどうかという人もいるが、そもそもありえない事件に科学的な説明をするなど不可能である。もっともらしい説明があるものもあるが、こうしたものは専門家からみれば噴飯もので、SF作家には意外と科学の専門家が少ないのもそれゆえだろう。本書はタイムトラベルや恒星間飛行もテーマになっており、その説明もけっこう分量をとって書いてあるのだが、このあたりは読み飛ばしてもよいように思う。最近では、いや最近のSFに詳しいわけでもないのだが、こうした科学的な、というよりも科学の匂いがするもっともらしい説明はなくなっているように思う。舞台は未来の世界なのだが、テーマは核戦争、そして登場人物は戦前の軍人風、得体のしれない敵の攻撃で廃墟と化していく街の描写にはまぎれもなく先の大戦が反映されている。最後に攻撃が止み、再建に励む人々の描写では、昔から天災に慣れてきた日本人は復興に取り組むのも早かったという趣旨の記述があり、妙に納得する。多くの都市が空襲や核兵器で焦土と化したが、戦後の日本では反米感情というのはあまりなかった。子供の頃のアメリカのイメージも豊かで陽気な国であり、爆弾を落とした悪い奴らというイメージはないし、漫画にはアメリカかぶれのキャラまでもあったくらいだ。日本人にとっては空襲被害は天災のような感覚だったのだろう。ジャンルはSFなのだが、読んでみると、昭和30年代の雰囲気が濃厚にただよう懐かしい小説という感じがする。
2025年10月14日
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かつて教育問題を語るときに必ずでてくる議論があった。「日本人は独創性がない。暗記中心の詰め込み教育の弊害だ」という問題提起である。そうした議論をさんざん聞いたせいか、暗記中心や知識詰込みをどこか軽視する雰囲気もあったように思う。こうした議論の背景には日本人のノーベル賞受賞者の少なさがあった。日本人の中でも自虐的に日本の近代化は欧米の猿真似だという人もいたし、たしかに目に付く発明や発見はその多くが欧米人の頭脳によるものであったので、それもそうかなと思う人も多かった。ところが…である。自然科学系のノーベル賞受賞者の国別推移を見ると、2000年以降に日本人の受賞者が出たこともあり、米国、英国、ドイツ、フランスに次いで5位となっている。これをさらに今世紀に入ってからの受賞者で見ると米国の91人に次ぎ、英国と並ぶ2位となる。日本ってこんなに傑出した頭脳を輩出する国だったのかと不思議な気がする。たしかに江戸時代の庶民の識字率は高かったし、和算が娯楽として普及していたという話を聞くと江戸時代の方が今よりも頭がよかったのではないかと思ったりもする。そういえば江戸時代に確立した俳句も一瞬の発見を五七五にまとめる知的遊戯といった趣もある。そうした面を見れば日本にも知的な土壌はかなりあるのかもしれないが、一方で、日本人の知的水準は低いのではないかと思うこともある。それは絶望的な語学力である。外国人観光客が英語を全く話そうとしない観光地の店員に怒っているコメントを見たことがある。これだけ国際化が進んでも、日本人の英語力が向上したという話はあまりきかない。日本語は難しいというのだが、逆にコンビニ店員の外国人など、日本語でいくつもの操作をこなしているので、どうやら外国人が日本語を学ぶよりも日本人が外国語を学ぶハードルの方が高いのではないか。これは、絶望的といってよいくらいの日本語の発音の単純さが背景にあり、知的水準とはあまり関係ないのかもしれないが、なんとかならないものかと思う。
2025年10月13日
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言葉は時代とともに変わっていく。特に今のように時流の変化の激しいときには、次々と新しい言葉が生まれ、次々と言葉が消えていく。流行語大賞というのが毎年発表されるが、最近の流行語は聞いてもわからないものが多い。マスコミが流行らせようとしただけで実態は流行っていない言葉もあるのではないか。本物の流行語の中には流行語に終わらず、新語彙として定着するものもある。消えた言葉について考えてみる。かつては女性の多くは稼ぎのよい旦那を見つけて専業主婦になることを夢見ていた。そんな専業主婦の趣味や社交の場としてカルチャーセンターなるものがうまれ、そのカルチャーセンターの広告には「よくぞ女に生まれたり」なんてのがあった。今はカルチャーセンターの受講生も高齢者ばかりで、産業としては衰退産業なのかもしれない。今、もし、娘が夢は専業主婦などといったら、親はきっともうそんな時代ではないと𠮟責するのではないか。そしてそんな過去の時代にあった言葉も死語になっている。オールドミス、クリスマスケーキ花嫁修業、腰掛OL、お茶くみ、職場の花そしてまた、かつては女がやるのが珍しく特殊だった時代の女性に特化した言葉も消えている。例えばキャリアウーマンとか女流文学といった言葉である。まあ、バリキャリという言葉はあるけど、普通に働くのは今では当たり前だし、女性が小説を書いたからと言って男性と別ジャンルのものが出てくるわけではない。そのほか、形容詞や形容動詞でも新語があるがこれって本当に流行っているのだろうか。エモいとかチルいとかいう言葉である。英語由来の言葉のようだが、形容詞は語感にあっていなければ定着しない。その点でどうも語感と意味にずれがあるように思う。その点、同じ英語由来でもエロいとかミスるといった語は語感にあっていて定着している。
2025年10月12日
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アマプラで見た映画である。昭和40年代の在日韓国人一家の物語であるが、父母の下に子供達がいて、娘達はそれぞれの伴侶とともに旅立っていく。このあたり、あの「屋根の上のバイオリン弾き」とよく似ている。それぞれに悩み巣立っていく子供を見守るがんこな父親像というのも共通している。「明日はいいことがきっとある」というのが焼き肉ドラゴンの父親の口癖であり、貧しい中を明るく生きる父親像には共鳴する人も多いだろう。演じたのは韓国ドラマで脇役でよく見る俳優なのだが、完璧に在日の焼き肉屋の親父を演じている。その昔、日本が韓国に比べてずっと豊かだった時代にはたしかに在日差別があった。映画にあるような進学校でのいじめの実態についても話をきいたことがある。今のように韓国ドラマが人気で韓流タレントがくると大騒ぎになる時代は当時は想像もできなかったし、それをいうなら、多くのアジアの国から日本に観光旅行にやってくるなんてのも考えられなかった。そしてまた思う。人の移動が活発になっていけば、故国を離れて異国で家庭を持つ人も増えていくが、そうした人々の多くは故国に戻らないし、戻ることができない。映画の主人公も故国の動乱を逃れて日本にいたわけだが、世界には政情不安な国は多い。いったん外国から入れたら、それはずっと日本に定着するものと考えた方がよい。欧米でも移民制限という動きがあるが、すでに他民族多人種社会となったものは決して元に戻らないだろう。参政権は別の議論なのだが、いったん定住した外国人を差別するのは問題であるし、生活保護にしても、日本に定住している人が外国人であれ日本人であれ餓死したり自暴自棄になるような社会は望まないだろう。外国人の入国制限の議論と定住している外国人を差別しろという議論は話が別である。ある県では県主催で某国からのIT人材を採用するためのセミナーが開催されたという。IT人材の不足はわかるが、それではなぜ日本人のIT技術者を養成する政策を行わないのだろうか。四則計算を教えるようなFラン大学をぼこぼこつくって補助金を撒いているくらいなら、そうしたところに金を使うべきではないのだろうか。IT人材の不足は前々からいわれていたし、その某国にしても一流の人材は欧米にいくだろう。「在日」でも昔は差別といった問題があった。今では、日本の社会にとけこんでいるようにみえる。ただそれは文化的に近いからであって、地球を半周したところから来た人々が同じであるとは思えない。
2025年10月11日
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昨日もまた日本人のノーベル賞受賞者がでた。いかつい顔の方で気難しいのかなと思っていたがインタビューを聞くとユーモアと滋味あふれる内容で、これもまたよい。だいたい人間は不公平なもので、ピンもいればキリもいる哀しさよ…。これであとは平和賞、文学賞、経済学賞なのだが、いつも思うのだが、平和賞と文学賞はノーベル賞と別区分にした方がよいのではないか。価値がないというわけではないが、平和賞は政治的色彩が強すぎる。そしてまた、文学賞は日本特有なのかもしれないが、ほぼ毎年恒例の本屋の祭りと化している。だいたいニルスの不思議な旅で知られるラーゲルレーブが受賞していて、同時代に生きていたはずのトルストイが貰っていないのは変だと思うだろう。それに英国首相のチャーチルも文学賞を受賞しているのだが、彼の著書を現在、文学として読む人がどれくらいいるのだろうか。文学については、自然科学と違い、だれでも語れるのだが、正直文学賞を受賞している「百年の孤独」は読んでみたが正直どこがよいのかわからない。いや、それをいうのなら村上春樹のよさもわからないのだが。それはそうとして日本人歴代受賞者には現在は米国籍であっても、もともとは日本国籍だった人も数えている。それはそれでよいのであるが、チャールズ・ぺダーセンについては、日本名でないこともあってあまり知られていない。安井良男という日本名もあり、1987年に化学賞を受賞している。1904年、ノルウェー人の父と豆や蚕の貿易に携わっていた日本人の母との間に朝鮮半島で生まれ、8歳まで朝鮮半島で過ごしたのち、日本に渡り、その後、化学を学ぶために渡米している。日本に所縁のある受賞者である。
2025年10月09日
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日本からノーベル賞受賞者がでた。自然科学系部門の受賞者はある意味国家のステイタスといったところもあるので、手放しで喜ばしいニュースだろう。今回の受賞者は夫人も同分野の研究者として貢献をしており、今でも夫婦そろって現役の研究者として活躍している。「青春真っただ中」という夫人の言葉もまぶしい。その昔、平安時代の人々は、自分の不幸な運命を嘆く場合だけでなく、限りなく素晴らしい天分や資質に恵まれ、幸福に生きている人を「いかなる宿世にやあらむ」といったという。いってみれば前世でどんなよい行いをすればああなれるのだろうかといったところだ。閑話休題。人間には頂点もあればその逆もある。東南アジアで特殊詐欺グループに関与していた連中が検挙された。中には大使館に助けを求めてきた人もいたという。騙されたという見方もできるが、海外で楽して稼げる仕事は往々にしてまずいものだというくらいの知識はあっただろう。知性や品性は話し方にも出るものなので、特殊詐欺のかけ子といえども、全くのうましかでは務まらない。鬱屈をかかえた人間が今の人生を変える手段として海外での仕事にとびつくような心理があったのかもしれない。そういえば、町田にも、不満を募らせ、見ず知らずの人を殺害した男がいた。人を殺して人生を終わらせたかった…と語っているが、彼もまた、不満だらけの今の人生から逃れたかったのだろう。人生いろいろ世の中いろいろだ。
2025年10月08日
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静岡県が「日本一の多文化共生県」をめざしてシンボルマークを作ったという。世の中には誰も反対しにくい綺麗な言葉というものがある。多文化とか多様性もそうだし、共生というのはもっとそうだろう。しかし、具体的に考えてみると、この多文化共生というのは異なる民族、異なる人種が互いの文化や価値観を尊重しながら仲良く暮らすということである。静岡の方はそんなに多文化を背負った多人種、他民族の方と共存したいのだろうか。どうもよくわからないことである。もちろん静岡にも人手不足に悩む工場等はあって、そういうところでは外国人労働力大歓迎なのかもしれないけど…。抽象的に多文化共生といっていても、具体的に外国人がどっとやってくるというイメージを描くとそうもいっていられなくなる。例のホームタウン構想はそれ自体はたしかにいきなり多くの外国人がやってくるといったものではなく、その意味では誤解だったのだが、それでも、具体的な国名が上がったことで、将来的には西欧のような多人種社会になるのではないかといった不安を触発したのだろう。識者の中には日本に日本人しかいないのは異様だとか言う人もいるのだが、多くの人は西欧のような多人種社会になることは望まないのではないのだろうか。だいたい陸続きで多くの人種や民族が行き来していたヨーロッパと日本とでは状況が異なる。多文化共生などという抽象的な言葉を使うと、お上品な外国人とお互いの国の料理を教えあったりといった美しい情景を想像する。小説「細雪」にドイツ人家族と主人公家族の交流が描かれる場面があるが、明治以来の美しい交流イメージである。しかし、現実には途上国の単純労働者がどっとやってきて、彼我の習慣の違いからいろいろと軋轢を起こしたり、治安の不安を引き起こしたりということが実態であるし、それが現に西欧で起きていることである。それでも人々は「日本一の多文化共生」を望むのだろうか。
2025年10月07日
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万博で展示された人間洗濯機が実用化されるという。商品のネーミングとしてはどうかと思うが、こうした機器が最初はホテルなどであっても、ゆくゆくは介護施設で導入されるようになれば、介護の職場環境も随分と変わっていくであろう。介護で一番大変なのは入浴介護と排泄介護なのだが、これがこうした介護の場で使われるようになれば労働環境は大幅に改善され、人手不足解消にも資するのではないか。この入浴介護や排泄介護というのは介護者にも負担なのだが、被介護者にとっても大きな精神的負担であり、排泄介護を受けるようになってから痴呆が急速に進んだという話もよく聞く。日本がかつて一人勝ちともいわれるほどに繁栄した背景として、西欧が外国人労働者を入れていた時期に日本ではロボットによる省力化を進めたということがいわれた。介護についても、「安い労働力」ばかりを探すのでなく、機器による省力化も進めるべきではないのだろうか。介護をめぐる環境変化は機器だけではない。かつては介護は家庭内で行われるのが普通であった。高齢者の三世代世帯同居が普通で、介護が嫁(死語?)や娘の手で行われた時代には、政治家の中でもこうした家族形態は「日本の含み資産」であるとか「日本型福祉社会」であるとかいう人もいた。こんな話は今は昔である。この時期は医療も今ほど発達していなかったので、介護期間もそれほど長期にならなかったし、旧民法の風習も残っていたので、特に農村では、親の面倒をみた子供夫婦に財産を集中的に相続させるのこともよくあった。今では、寄与分という制度があるが、これは実際のところどの程度運用されているのだろうか。家族介護は過去のものになったようにも見えるが、最近では、成人した未婚の子が老親と同居するという昭和期にはあまりなかった形態の家族が激増している。こうした場合、同居する未婚の子が親と同居し介護するという例も増えていると思うのだが、このような場合、介護をしていた子供を相続や税制で優遇するような制度、あるいは家庭で老親を介護する子供に対する支援のようなことは考えられないのだろうか。昔々は家庭で義父母を介護している嫁に「模範嫁」として給付金を出す制度があったという。さらに、衛生用品や医療の変化もある。大人用の紙おむつ市場は乳児用をすでに抜いており、中には下着に類似したものも出てきている。こうしたものの普及や認知症予防医療の普及、関節手術などによる健康寿命の伸長…こうしたものも介護環境の変化や介護需要の減少に貢献するのかもしれない。
2025年10月06日
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町田で通り魔事件が起きた。被害者は高齢女性で襲われる前の映像を見ると、みるからに歩行が困難な様子で、あれで買い物袋をもったまま後ろから襲われれば、まず助からないだろう。犯人の風貌を見ると、苦労したといった感じで、甘やかされたひきこもりという感じとは違う。報道では大学を卒業した後、最初の会社を辞め、その後は派遣などの仕事を転々としていたという。両親が取材に答えていたが、両親もおそらくは年金暮らしで、息子が自立しなければ生活がなりたたなかったのだろう。8050問題とか7040問題とかいうが、最良の解決策はとにかくつきはなしても自立させることしかない。いわゆる「引き出し屋」というのも世の中にはあるそうであるが、親の監護権の及ぶ未成年ならともかくとして、成人を本人の意図に反して引き出すのは拉致監禁罪で場合によれば親も同罪になる。この両親が経済的事情もあったのかもしれないが、息子と別居して別に暮らしていたのは正解で、この事件にかぎらないが、成人した子供の起こした犯罪で親を責めるのは筋違いというものだろう。詳細は分からないのだが、犯人の立場で考えてみる。大学を出て最初の会社を辞めた後は職を転々としていたようだが、いったん会社を辞めるとなかなか安定した職に就けないのが現実である。「貧困の滑り台社会」ともいわれる。犯人は氷河期世代よりはわずかに後だが、氷河期を過ぎたとしても就職が急によくなったというわけではない。派遣やアルバイトとして命令系統の最下層として仕事をこなしているうちに自分も年齢を重ね、周囲の人々は自分と同年配や自分よりも年下になっていく。そして年齢とともに、将来の希望も次第に薄れていく。42歳が男の厄年といわれるのは、そろそろ人生の先がみえてきて、焦りを感じるのがこのくらいの年齢だからだろう。氷河期世代が生まれた頃からこうした犯罪の頻発は予見されていた。昨日、自民党の総裁が決まった。「解雇規制の緩和」を言っていた小泉氏が総裁にならないで本当によかった。解雇規制の緩和は財界がつとに要望してきたことだが、これによって、辞めても次の就職がしやすくなるということは決してない。今でも、次のステップに向けての転職なら自由に行えるし、別に会社が社員を羽交い絞めにしているということもないのだから。解雇規制を緩和して現実に起きることは、現在の正規社員もまた非正規同様の境遇に落ち、社会はますます住みにくくなるということではないか。
2025年10月05日
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世の中には誰もが反対できない建前の議論というものがある。民主主義はよいものだというのもそうした議論のはずなのだが、今度の選挙結果については、知識のない奴は投票に行くなのような、民主主義に真っ向から対立するコメントを出した識者がいた。普通なら大問題になり、言論界からも放逐されるかと思ったのだが、マスコミからの追及はなく、無事にすんでいる。どこまでがOKでどこからがNGかはわかりにくい。また、人種差別はけしからんというのも当然のこととして受け入れられている。ただそうした人種差別は許せないということとは別に、自分の生活圏に異人種の集団がいたらなんとなく不安だという感覚はあるのではないか。明治期の文豪は英国に留学して異人種の中で暮らす気持ちを「群狼に伍する一匹のむく犬」と表現している。まあ、そんな立派な人の感想とはくらぶべくもないのだが、家から出たら、体格のよい外国人ばかりというのはどうなのだろうか。実際の犯罪率が同じような地域に比べて多いかどうかはともかくとして、不安に思う住民の感覚を「人種差別」としてきってすてることはできないのではないか。それとはちょっと違うが、ジェンダー平等ということも今では反論しにくい議論になっている。男女の固定的な役割分担を見直すことがよいこととされ、難関理系国立大学入試の女子優遇や各分野での女性登用も進んでいる。これは逆に言えば、昔のような人生観を持つ女性にとっては厳しい時代でもあるわけなのだが、あまり大きな声で反論もしづらい。先の参議院選挙では参政党が大きく伸びた。外国人が増えていることを何となく不安だと思う感覚とジェンダー平等に違和感を持つ人々の感性にうまくフィットしたことが背景にあるのだろう。参政党は移民政策には明確に反対をしているだけでなく、ジェンダーについても保守的な主張をしているようにみえる。そして参政党の支持者にも議員にも案外と女性が多いという。
2025年10月01日
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ホームタウン構想があれほどの騒ぎになったのは、この間の参政党の急浮上で外国人の入国が突然問題になったのと似ている。外国人労働者はずっと前からいたし、その前にも永住資格を持つ外国人はいた。ただそうした外国人は風景としては見えない外国人であり、近くで話す言葉を聞いて、ああ、外国の人だったのかと思う程度であった。見た目で分かる外国人もいたが、それも、日常生活の中でしょっちゅう見かけるというほどではなかった。それがいつの間にか。外国人が目に付くようになり、このまま西欧のような本格的な多人種社会になってもよいのか…という疑問が噴出したのだろう。ホームタウン構想については、実際のところは国際交流以上のことは政府や自治体の方も決めていなかったのかもしれない。しかし対象は地球の裏側のなじみのない国であり、多くは渡航禁止勧告の出ている国で、テロや政情不安もあり治安も最悪、おまけに人口爆発中の最貧国もあるということで、単純労働者がどっとやってくるのではないかと多くの人々が不安に思ったわけである。あのアフリカの国々は、どうみてものんびりと文化交流をするような国には見えない。専門職とか高度な知識を持つ人材のような上澄み層であれば、地球上のどんな国からでも、差別なく受け入れる。しかし、単純労働という形で大勢の人間がやってくれば、そこにはいやおうなく社会的軋轢が起きる。これは日本に限らず万国共通の現象のように見える。多文化共生とか多様性という言葉を振り回し、外国人の入国を規制しようとする議論を差別だの排他主義だのと批判する人々はきっと上澄み層の外国人としか付き合わないのだろう。現実に多くの単純労働者がやってきて、多文化共生がうまくいっている国というのは、移民国家は別にしても、地球上にまだないようにみえる。外国人単純労働者を入れようという議論は、あの派遣労働を拡大したときの議論によく似ている。いずれも人間を安く使いたおそうという発想であり、その人間が単なる労働力ではなく、一人の人間であり、社会の構成員であるという発想がない。そしていずれも、人材派遣業者の利権がからんでいる。外国人単純労働力の流入を制限する主張を「差別主義」だという意見にはこう答えればよい。世界にはたしかに貧しい国が多いし、多くの場合、その背景にはその国の体制や政情が絡んでいる。そうした貧困はそれぞれの国で解決することとして、自分たちは日本で暮らしている人々がよい社会だと思えるような社会を築いていきたい。そのためには、企業経営者や株主、そして派遣業者の利益だけを考えた方法、つまりより安い労働力を求めるということではだめなのではないか。貧しい国からより安い労働力を求め、海外からも批判されるような低い待遇で働かせるような状況は、結局はこの社会を住みにくいものにするのではないか。あの派遣法の改正で派遣の範囲を広げ、非正規労働の範囲を拡大していったことが、今日のロスジェネの問題の背景にあることを忘れてはならない。この日本の社会を住みやすい社会にするためにも、低い待遇の職場に安い労働力を外国から受け入れるという発想は大問題である。まず、人が集まらない職種の待遇改善を試みる、働きたくても働く場がないという人々が一人でもいないようにする、そのうえでどうしても人が不足している部分については、文化的になるべく近い国から人を受け入れる、こう考えることはできないのだろうか…と。
2025年09月30日
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藤原道長を描いた歴史小説であるが、あくまでも歴史に忠実である。大河ドラマのようにドラマチックなことは起きず、淡々と描かれている。そして小説の中の道長は平凡児と呼ばれ、傑出した才能があるわけでもなく、運に恵まれて出世の階段を昇って行った人物とされている。たしかに道長は戦国時代の英雄のように生きるか死ぬかの中で成功をつかみとった人物ではない。道兼という最高権力者の子に生まれ、兄弟の死によって権力が転がり込んできたという印象がある。しかし、平安時代とはいえ、官僚機構はそれなりに複雑であり、全くの凡庸な人物というわけでもないだろう。大鏡には道長の学才をほめた記述はないが、「情けあるもの」という記述があり、人望と平衡感覚にすぐれていたのかもしれない。政治家としては娘を後宮に入れた以外に特に実績があるわけでなく、国家に対する役割の重要性という面では刀伊の入寇に立ち向かった藤原隆家の方が大きいのだが。小説の中で面白いのは一条天皇の母の詮子が道隆や道長の同母の姉でありながら、道長に肩入れし、そのはいけいには道隆の妻貴子に対する悪感情があったという部分である。こうしたものは想像の範囲で、歴史学のテーマになるかどうかはわからないが、道隆の妻の高階貴子は当代の才女で、漢詩をよくしたという。紫式部日記には清少納言を「真名など書き散らす女」と酷評している箇所があるが、貴子に対しても女で漢学の才をひけらかしているといった反発があったのではないか。そしてまた高階一族も中宮定子の縁でにわかに繁栄したが、こうした勢力もまた嫌われやすいように思う。
2025年09月28日
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無名さん:てえへんだてえへんだ~七詩:どうしたの、何怒っているの?無名さん:おまえらがやっている、そのネットとかいうのさ。規制すべきだよ。 ネットが誤情報をばらまいたおかげでさ、せっかくのホームタウン構想がつぶれそうだとよ。せっかくの国際交流や多様性の推進がパーではないか。ネットで嘘言うやつらのせいでさ。規制しろ規制しろ、ぶちこっめってえんだ七詩:まあ、そんな乱暴いわんといて。誤情報というのはどこをどう間違っているのさ無名さん:移民政策も推進するつもりもないし、特別のビザもないのに、ネットでは移民政策だのなんのといったというじゃないか七詩:そりゃあね。移民政策なんていわなくても、最近の政府による法改正で単純労働力は受け入れるようになっているし、まあ、いまさら特別のビザをもうけなくてもよいからねえ。その点では間違いだね無名さん:しかしよ、せっかくの国際交流がだめになるってのはまずくないかい。これがフランスのホームタウンとかフィンランドのホームタウンといったら誰も反対しないくせに、アフリカのホームタウンとなると大騒ぎというのは差別というもんではないのかい。ぷんぷん、黒人差別はんた~い七詩:はあ…日本人は「外国」というと皆一緒くたに言うけどさ、フィンランドとナイジェリアでは同じ外国でも大違い。たとえば、ナイジェリアは渡航禁止勧告が出ている国で、治安も最悪の最貧国だ。国際交流というけど、具体的にどんな交流があるというのかい。まさかミスなんちゃらが振袖で親善訪問したりとか、そんなのありえないよね。フィンランドとの国際交流というとイメージできるようなものでも、ことナイジェリアとなると、インターンとかいう名目で人を受け入れるようなものしか思いつかない。そこを不安に思っている人が多かったのだろうね。そういうものは新聞にはでてこない。マスコミというのは、ネット民が誤情報に踊ったようにしか書かないけどね無名さん:しかしアフリカは天然資源の宝庫だというし、人類最後のフロンティアともいわれるじゃねえか。おまえさんの言っているのは国際交流にも多様性にも反しているよ七詩:国際交流とか多様性とか、なんかそういった綺麗でもっともらしい言葉って注意が必要だよ。国際交流といったって人の交流、モノの交流、そしてなによりも多種多様な外国のうちのどこと交流するのか…それによって中身は全然違うからね。そして多様性…これだって、世の中、個々人の人生をよりよくするため、豊かにするための多様性ではないか。メダカの池にピラニアを入れて多様性でございといったって、たまったものではないよねえ。電車で眠りこけていても安心できる治安のよさ、寛容でゆるい宗教風土、そういうものって、失ってはじめてよさに気づくものなのかもしれないしね
2025年09月25日
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石破総理が国連総会で演説し安保理改革を訴えたという。もちろんこれは、日本の常任理事国入りを念頭に置いたものである。そしてまた、ホームタウン構想で大問題となったアフリカ開発会議も、この国連改革を念頭にアフリカ諸国の票を目当てに開催したものだという話もある。アフリカの国も一票は一票であるので、そういうこともあるのだろう。組織というものはいったん目標を決めたら修正できないという特性がある。検察などではそれが冤罪や長期裁判の温床になるし、外交分野でも先輩方が努力してきた目標をいまさら撤回できないということがあるのかもしれない。しかし、今の国連にそこまでの重要性があるとも思えないし、常任理事国になればなったで何をするという目標があるわけでもない。常任理事国入りという「悲願」も下ろしてもよい時期なのではないか。退任の決まった総理がそのために国連総会に行くというのも無駄としか思えないし、ただの内輪の実績作りにしかみえない。国連改革については、日本、インド、ドイツ、ブラジルがG4として安保理改革を推進しており、これにイタリア、メキシコ、韓国、パキスタンなどのコンセンサス連合が反対するという構図が続いてきた。しかし、今では、そうした動き自体も下火になっているのではないか。
2025年09月24日
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この間の参議院選挙で参政党が躍進したのは、まさに多くの国民が外国人流入に不安を感じてきたからだろう。別に党首が人気があるわけでもなければ、各候補が素晴らしいというわけでもない。そしてその後の、アフリカ開発会議のホームタウン構想、都知事とエジプト人労働者の問題などで、この問題に対する関心はますます高まっているように見受けられる。 それにしても不思議だ。参政党は明らかに外国人労働者の流入に抑制的なスタンスをとっているのだが、こうした外国人労働者の流入を決めたのは政権党であり、その背景にいる経済界だ。ならば参政党は政権与党や経済界を批判しなければならないのだが、そうした批判は行っていない。 外国人労働者の流入に関して、最近では土葬墓地や給食も問題になっている。今までこうした文化摩擦は経験していなかった日本社会であるが、イスラム圏からの人口流入によって、葬送文化や食文化の問題が起きてくるわけである。 土葬に関して言えば、火葬墓地であれば墓仕舞いができるのに対して、土葬墓地はそうはいかない。狭い国土で土地の利用が墓地以外には制限されるという問題がある。また、自然災害の際の問題や衛生上の問題もある。昔は日本は土葬が一般的だったということを言う人がいるが、火葬施設もない時代に村社会で行われていた葬送は今とは別物であろう。 給食も当事者にとっては深刻な問題で、ムスリムの子供が定住するようになれば給食の問題も起きてくる。味の素に豚肉のエキスが入っていたとしてイスラムの国で大問題になったことがあったが、そうしたことが国内でも起きる可能性がある。 葬送儀礼や給食だけでなく、イスラム文化は冒涜にも厳しい。このあたり、神仏も漫画のネタにする日本とは違う。日本国内であっても、漫画や絵画などが、一歩間違うと、思わぬ非難を受けることもあるかもしれない。もちろん今までもイスラム圏に旅行に行くと、そうした気遣いが必要になったわけだが、これからは日本にいてもそうした気遣いが必要になる。そしてまた、イスラム文化は偶像崇拝を嫌う。熱心なムスリムの中には偶像を破壊する人もいるかもしれず、過去にそうした仏像の損壊が日本国内で起きたこともあったと記憶する。 企業は「人手不足」への対応として、異文化圏からも喜んで労働力を受け入れるかもしれないが、文化摩擦の負担は社会全体で負うことになるのは忘れてはならない。
2025年09月24日
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少子化傾向にもかかわらず、大学が新設されていったのは周知のところであるが、さすがに最近では学生集めに四苦八苦するところもでてきている。人気のある大学で定員を減らしたという話はあまりきかないので、普通に考えれば、有名校や伝統校でも、学生の水準は低くなっていることも考えられるし、難しげな学問をやっていそうなところでもさほどでもなくなっているということもあるだろう。昨日の日記で、2016年のジャングルジム火災について書いたが、あの惨事でも、イベントの主催者は工業大学の学生サークルということでオブジェ制作を依頼したのだろう。あくまでも工業大学というものが中にあってのオブジェ制作であり、学生個人のボランティアやアルバイトとはわけが違う。大学出なんていう言葉はとうに死語になったが、それでも、工学部だとか工業大学という名称には、やはりある種の権威?がこの時まではあった。ところがさにあらず、当の学生には中学生程度の理科の知識もなかった。燃焼の原理を理解していれば、高熱の発熱電球におがくずが接したら火が燃えるくらいのことはわかるはずなのだから。死亡した子供やその家族は最大の被害者なのだが、刑事被告人になってしまった学生も大学量産政策の犠牲者なのかもしれない。こんなふうに学生の質が低下していっても、大学の授業内容はあまり変わらない。そうなると、雑談のような講義ですむ新設学部や、日本語の読み書きができればなんとかなる文系と違い、理系では入学したものの授業についていけなくなるという場合もでてくる。2007年に大学の機械工学専攻の学生が強盗殺人事件を起こしたことがあったが、犯行動機は親が金に厳しく小遣いが足りなかったという理由であった。犯行時にはほとんど大学には行っていなかったというので、これも、授業がわからなくなっていたのかもしれない。どうやら付属高校から推薦で進学したようであるので、まともに受験勉強もやっていなかったのだろう。事件当時さほど話題にならなかったのは、当世そんな大学生はめずらしくもないということである。大学の理科系教育を今後重視し、理科系の学部を新設するという話があるのだが、これ以上、出来の悪い学生の集まる大学を増やして補助金をつぎこんでどうするのだろうか。それよりも、国立大学の理科系については昔のように授業料を激安にした方がよほど優秀な人材が育つように思うのだが。
2025年09月22日
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秋分を前にしてようやく暑さもおさまってきたように見える。彼岸ということで、八王子に墓参に行ってきた。何十年か前には、墓地不足とかあの世も住宅難ということがいわれていた。しかし、実際にはそれほどの墓地不足が起きているわけでもなく、まだお墓のたっていない区画もずいぶんある。墓地とか葬儀とかいうものに対する考えが変わってきているのだろう。そういえば少し前には自分のお墓の準備をして墓石はすでに建ててあるなんていう話を聞いたが、最近ではそういうこともきかない。立派な墓石のかわりに樹木葬や散骨が増えているという話もある。八王子は墓地とともに、大学も多い。かつて学生数を増やしたものの都心に土地が足りなくなった大学が、国の方針もあり、八王子にキャンパスを移したためだ。しかし、行ってみればわかるのだが八王子は東京の街という雰囲気があまりない。立川あたりはまだ郊外都市という様子があるのだが、八王子はどことなく地方都市風で、田畑も多い。多くの学生は八王子に通学するためには住居を確保しなければならず、特に、地方出身の学生で、いわゆる東京のキャンパスライフを期待すると、ちょっとがっかりするのではないか。そのためだろうか。八王子にキャンパスを移転した大学でも東京回帰の動きがあるという。それに仕方のない流れなのだろうけど、学生の需要を見込んでアパートを建てた人やそれで生活している人は困るかもしれない。アパートというものは入居者がいなくても税金は容赦なくかかってくるし、解体するにも膨大な金がかかる。八王子でなくても、大学が撤退した町では同様の問題が起きているという。八王子の大学が…ということではないのだが、18歳人口が減少していく中でも、日本の大学は増え続けてきた。さすがに最近では、学生集めに四苦八苦しているところも多いという。子育て支援策の一端として教育費負担の軽減が言われるのだが、給付型奨学金や大学授業料無償化はこうした大学の延命策にしかみえない。高校を出てもすぐに働く気になれず、四年間のモラトリアム期間がほしいという若者の気持ちはわかる。しかし、大学は私学であっても国から膨大な補助金が出ている。その意味で、私立というとも純然たる民間機関ではない。その意味で、そうした教育機関を国家で支えなければならないのかという検証も必要だろう。報道では四則計算ができない学生がいるために大学でそれを教えるところがあるという。四則計算を教える意味は分かるが、それを大学の補助金の中で教えるのが適切なのかどうか。また、とても高等教育には耐えられないような学生に名前だけの大学教育が必要なのかどうか。何年か前に某工業大学の学生がおがくずの中に白熱電球を入れたオブジェを子供の遊び用に展示し、幼児が焼死した事故があった。イベントの主催者は工業大学の学生ということで、一定水準を期待して依頼したのだが、実態は中学校で習う燃焼の三要素も知らないような学生であった。今ではさらに18歳人口は減っているので、大学生ともいえない大学生が多くなっているのかもしれない。
2025年09月21日
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新聞やテレビなどではSNSの誤報とされているのだが、ホームタウン炎上騒ぎはまだまだ収まりそうもない。最近ではホームタウンという名称が問題だということで政府も改称を検討しているという。はたしてこれは名称だけの問題だろうか。そうではあるまい。政府や自治体の言っているのは国際交流だから誤報だとか、移民政策でないから誤報だとかいうことなのだが、普通の国民の感覚では外国から人がやってきて長期間定住することを「移民」という。ホームタウン構想を子細にみると、インターンの受入れの文字もあり、これは技能実習生とどう違うのだろうかと不安に思うのである。技能実習生という名で単純労働者が入ってきており、失踪したり犯罪を犯す者もいるのは周知のところだ。小柄なベトナム人でも強盗などの事件があるのに、これがアフリカとなると…とつい不安に思う。また、国際交流というのは多義的な言葉で物の交流、人の交流、文化の紹介など様々な意味があるので、単に国際交流というだけでは説明にもなにもなっていない。文化紹介や親善訪問という意味であれば、アフリカの渡航禁止勧告が出ている国ではそれはないだろうと思うだけである。おそらくホームタウンの名称変更では一連の騒動はおさまらない。都知事の「日本での就労の情報提供」も同様でこれもなぜエジプトなのかという疑問がある。知事の学歴詐称疑惑については昔からいわれていたが、タレントが世に出るときに話を盛るのは普通にあるし、エジプトもあまり関係ない国なので、問題視する人も多くなかったのではないか。しかし、博物館でエジプト展をやるとかならともかく、具体的な就労の話となると、都知事とエジプトとの特別な関係も大問題である。外国人労働者がやってくるのは今に始まったことではない。そして日本の賃金水準が相対的に低下するにつれて、やってくる国も韓国から中国、中国からベトナムと映っていき、最近ではネパールやミャンマーが多いようだ。しまいには人口爆発に悩む最貧国のアフリカあたりから…と思っていたが。意外に早くそれがきそうだということなのかもしれない。
2025年09月19日
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最近、サポート詐欺というのが多いらしい。一見して全くなんの変哲もないサイトをクリックすると突然警報音と音声が響く。「あなたのパソコンはロックされました」というとその後音声が響いたままパソコンが作動しなくなる。そこであわてて画面に表示してある電話番号にかけると、パソコンが遠隔操作され、100万以上の金額を詐取されることもあるという。これに詐欺メールとおぼしきメールも毎日のようにくるし、電話もすぐに出ないで後で番号を検索してみると、電話会社を騙った詐欺メールやしつこい保険勧誘のメールということもよくある。そしてまた詐欺でなくれっきとした公的機関のものでも間違いというものがある。この間、「療養の給付の不支給について」という郵便物があり、れっきとした公的団体の通知だ。振り込みをする金額は数千円で、期限も近い。ただ、保険証が無効というはずもないし、何かの間違いではないかと思い、医院の事務の方に連絡をしてもらった。おそらくどこかで事務的な不具合があったのだろう。あわてて、金額を振り込んだりしたら、そのあとの手続きが厄介だったのかもしれない。こうしたものも、世の中には振り込んだまま、間違いに気づかない人もいるのかもしれない。本当に何を信じてよいのかわからない時代になったものだ。こうした詐欺や金品振込だけではない。アフリカホームタウン構想、都知事のエジプト人労働者受入れのニュースについての、新聞やテレビとネットとの論調の違いも悩ましい。新聞やテレビはネットの誤報をいいたてているのだが、内容を見ると、インターンの受入れや日本で就労する場合の情報提供といった綱目があり、とても単に誤報だとも思えない。このインターンは技能実習生と同じものかもしれない。そうだとしたら、元技能実習生のベトナム人の犯罪が時々報じられるが、元インターンのアフリカ人の犯罪も今後は起きる可能性がある。たしかに、安倍政権の時代に入国資格に介護及び特定技能という項目が設けられ、制度的には世界中のどこからでも労働者がやってこれるようになっているので、ホームタウン構想で新たな入国資格ができたというのは誤報だろう。そうだとしても、外国人の単純労働者の受入れは社会や国家の在り方にもかかわってくるので、国民的合意が必要な事項ではないのだろうか。グローバル資本主義に支配された政府やお花畑リベラル思考が優勢な新聞やテレビでは、多文化共生だの排外主義はけしからんだのといったことを言い立て、外国人流入に慎重な意見を差別だと言って批判する。しかし、西欧では移民排斥の大規模なデモが起きており、移民をめぐってはかなり深刻な社会の分断があるようにみうけられる。この轍を踏んでよいものだろうか。
2025年09月18日
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ニュースの中には文字通りに新規な事象が起きているというものと、今までもあったけれどもニュースにしなかっただけというものがあるように思う。一時期、さかんに報道された電車のオーバーランやエレベーターの閉じ込め、それに入試の採点ミスは、いつの時期も一定数あるのだが、たまたま大きな問題が起きると、連鎖的にニュースにされていたというように思う。万博にやってきたアフリカ人が、万博用のビザで入国しながら、そのまま在留を希望する例があるという。これは国際交流プログラムで来日したエチオピア女性が失踪したことで、連鎖的にニュースになっているのだろうか、あるいは参政党の躍進やホームタウン問題で、移民に対する関心が高くなっているからニュースになっているのだろうか、それとも、今回の万博の特異な現象としてニュースになっているのだろうか。どうもよくわからない。アフリカからわざわざ来日するというのは、本国ではそれなりの階層にいるはずで、そうした人が、日本に残りたいという理由は何なのだろうか。それとも最初から就労目当てで、日本に来ればなんとかなるという発想なのだろうか。本国と比べての日本の生活環境の良さに驚いたというだけでは説明になっていないように思う。そしてまた、こうした現象は他の国でも起きているのだろうか。また、万博以外の催しでも起きているのだろうか。例えば、今世界陸上が開催されているが、世界陸上でもこうした現象が起きているのだろうか。ニュースをざっと見ただけではどうもよくわからないことである。
2025年09月17日
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木更津市などの4市がアフリカ各国の「ホームタウン」に認定したことをめぐる騒ぎはまだ収まっていないように見える。新聞やテレビの報道だけをみると、単純なSNSの誤報騒ぎのように見えるし、そう思っている人もいるかもしれない。たしかに新たな事業が行われ、その結果、移民が押し寄せるというのは誤報だろう。しかし交流を深めることの中には、人の行き来も当然にあるわけで、市民の不安が収まったわけではない。さらにそれに追い打ちをかけるように、インドから何万の人員を受け入れるとか、東京都がエジプト人労働者の受け入れについて合意したとかといった話がネット上に出てきている。東京都についてはさっそく誤報だとしてHPで正しい情報を発信しているようなのであるが、ここにも、「エジプト人労働者の日本での雇用に有益な研修及び情報提供に関する協力に関する合意書」とあるので、エジプト人労働者の増大を目指したものであることには違いない。たしかに特別なビザを出すものではないので、それをもってネット情報を誤報といっているのかもしれないが、エジプト人労働者が日本にやってくることを普通の日本語では「移民」という。途上国の労働者が今の日本にやってきてすんなりと数年で帰国するとは思えないからである。これではまるで、「空は青い」という情報に対して「私たちはあの空の色を青と呼んでいないので誤情報である」といっているようなものである。ホームタウン構想にせよ、エジプト人労働者にせよ、政府や自治体の歯切れが悪いのは誤情報だというだけで、じゃあ、実際はどうなのかという発信が弱いことがある。たしかにあらたなビザを設けるものではない。ならば現行のビザではどうなっているのだろうか。数年前の安倍政権の時代に法改正があり、介護についてはビザが認められるとともに、人手不足の分野についても「特定技能」というビザが新たに設けられている。現在の制度の下でも、アフリカであれ、どこであれ、労働者が入ってこれるような制度にすでになっているわけで、その点ではネットは誤報なのかもしれない。かつての日本は人口過剰に悩み、南米などに移民を送り出していた。そして世界には今でも人口過剰と貧困に悩む国がある。そういう国から見れば日本はまだまだ暮らしよく見えることだろう。これからも、政治家が外遊するたびに、あるいは来日する首脳と会うたびに、多額の経済援助だけではなく、労働者の受け入れについて協力する合意をするという時代になるのかもしれない(もうなっているのかも)。果たして普通の国民はそれを望むのだろうか。日本はかつてのような豊かな国ではないし、子供食堂などの支援を必要とする人も多い。そして中高年の無業者や失業者も深刻な問題になっている。
2025年09月16日
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