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長ったらしく書いてきました西暦535年の大噴火の話ですが、単独で取り上げる最後の地域になります。・・・3月にPCがクラッシュしなかったら、4月にはアップできたんですけどね。文章は前の下書きと変わっていると思います。完全な復元はできないものですからねぇ。さて、西暦535年の大噴火が起きたと考えられているインドネシアの話です。噴火したのは、ジャワ島とスマトラ島の間、スンダ海峡にある巨大カルデラ、クラカタウと思われます。2018年12月にも噴火を起こしたクラカタウは(この時は、430名を超す犠牲者を出しています)、535年以降も活発な火山活動を続けており、残念ながら科学的・考古学的に噴火を裏付ける決定的な証拠はありません。そのため、アメリカの研究者などは、グリーンランドの火山が原因とする説を唱えていますし、535年の災害は彗星や小惑星の衝突説を唱える研究者もいます。またそもそもそんな災害はなかったと考えている研究者も多くいます(2020年時点で、世界の歴史学会では「西暦535年に大噴火があった」ことは認められていません。起きたと考え始めているのは、火山学の研究者たちです)。一方で、ブログで書き始めた際に触れましたように、中国の歴史書『南史』には、「西南有雷声二(南西の方角で、2回雷のような音がした)」と記載されています。南朝梁の都である建康(今の南京)から、南西方向をたどるとクラカタウにたどり着きますから、『南史』の記述はクラカタウのカルデラ噴火時に発生した空振(衝撃波)の可能性が高いのではと私は考えています。しかしこれはインドネシアから4500km以上離れた国の歴史書の話であり、インドネシアには535年の大噴火を裏付ける信頼性の高い史料は存在していませんから、否定的な意見や疑問視する声が上がるのは無理ありません。ただし、現地インドネシアに噴火の痕跡がないわけでもありません。6世紀当時、ジャワ島西部にはカラタン文明(中国の史書には、「呵羅単」と記されています)が栄えていました。海のシルクロードとして中国とインドを結ぶ交易で栄えていましたが、6世紀半ばに忽然と消滅しています。地質調査で、スマトラ島南部とジャワ島西部に6世紀頃と推定される大規模な火砕流跡が発見されたため、カラタン文明はクラカタウの噴火で滅んだのではという仮説が出てきています。ただし、まだまだ証拠不足のため、仮説の一つにすぎません。これからの地質調査の進展を待つ必要があります。一方、数少ない文献記録には、以下のような記述が残されています。「バトゥワラ山(現在のプラサリ山の事。ジャワ島西部にある山です)からけた外れの轟音が聞こえてきた。地面は大揺れし、あたりは真っ暗になり雷が響き稲妻が走った。次いで猛烈な強風が吹いてきて、それと一緒に滝のような雨が降ってきた。大嵐が世の中を暗闇にしてしまった。そしてバトゥワラ山から大洪水が押し寄せてきて、東のカムラ山(現在のグデ山。ジャワ島西部にある活火山です)の方に流れていった」これは、1869年に発表された『古代の王たちの書(「古代の」というところを省いた表現もあるようです)』という著書の一説です。上の描写を火山災害の記録として読んでみると、火山噴火によって、噴煙に覆われて太陽が見えなくなった様子、噴火によって誘発された暴風と津波が襲い掛かってくる光景が目に浮かびます。さらに同書にはこんな記述もあります。「水が引けた跡を見てみると、ジャワ島は二つに割れ、こうしてスマトラ島が生まれた」実は地質学的に見ると、この言葉に正確なものです。ジャワ島とスマトラ島が元は一つの島であったこと、それが火山噴火によって2つに分かれたのではないかと考えられるようになったのは、20世紀の後半のことなのです(ただし両島の分離がいつ起きたのかという年代は、まだ調査中で絞れていません)。このように『古代の王たちの書』に出てくる記録を、火山噴火の記録として見てみると、科学的に大きな違和感は感じられません。しかしこの『古代の王たちの書』は、歴史学会では歴史的史料とは見なされていません。研究者の多くは、著者ラングルガワルシタ3世(19世紀のジャワ島の知識人で、親蘭的なジャワ王に仕えた人物です)の文学作品と考えられるからです(理由は後述します)。ラングルガワルシタ3世は、シュロの葉にジャワ文字で書かれた古記録を元に(これは現地の伝統的な記録方法です)、まとめて書いたとしており、21世紀初め時点では、彼が参照したシュロの葉の原本は、多くが現存しています。しかし、このシュロの葉は、紙より劣化が早く、古記録の原本として確認できるのは、200~300年位前のものまでで、それより古い記録は、写しの写しばかりで原本が確認できません。この手の写しは、写本の際に記述が削られたり変更されたりするのは世の常であり(そのため現存するものよりも古い写本が発見された際に、歴史学者が大喜びするのは、どこの国でも共通の話です)、1千年以上前に記述には、史料的な価値はないと考えられているためです。そのあたりの問題は、この『古代の王たちの書』でも顕著に出ています。古い時代になるほど、記録の疎と密の部分の記述差が顕著で、記述の多い年と無い年、詳しく書かれているところとないところの差が激しく、年表を作ろうとすると、あちこちが穴だらけになってしまうのです。これが日本や中国、西洋ならば、個人の記録から公的な文書まで、数多く蓄積されており、西暦や年号の記載もされているものが多く、それらと比較しながら内容を精査することができますが(例えば私はこの話の日本のところを書いたとき、『日本書紀』をベースにしつつ、『古事記』や中国の『新・旧唐書』を眺めながら描きました)、『古代の王たちの書』は、比較検証できる文献史料が他にないため、本当にその出来事があったのか、その年に起きたのか等を確認することが出来ないのです。一応、『古代の王たちの書』は、シャカ歴(インドの年号で、西暦78年が元年となります)を年代基準とされており、上記の出来事は、シャカ歴338年の出来事として記されています。そうなるとクラカタウ噴火は西暦416年の出来事という事になり、539年と119年もずれてしまいます。そして西暦416年はどうだったかというと、グリーンランドや南極から採取された氷床コアや、木の年輪データには巨大な火山噴火があった痕跡は、一切ありません。こうなると、西暦535年にクラカタウが巨大カルデラ噴火を引き起こしたと考えている研究者からも、この本は無視されてしまうことになります。しかしこの本をフィクションと決めつけてしまうのは早計です。同書を読んだ火山学者の多くから、「火山噴火の描写がよくかけている」と評価されています。『古代の王たちの書』が書かれた1860年代、インドネシアの地質は全く研究されておらず、スンダ海峡にあるクラカタウが巨大カルデラ火山があることは知られていませんでした。クラカタウの存在が初めて世に知れたのは、1883年に起きたクラカタウ噴火です(この時の噴火は、火砕流や噴石、津波により、インドネシアで約3万6千人が死亡する大惨事になりました。また地球の温度も平均0.6度下降し、異常気象による作物の不作などで、世界中で大きな被害がでて、暴動やなども世界規模で発生しました。日本でもこの噴火が引き金で起きたと考えられているのが秩父事件です)。近代的な火山学自体がまだ黎明期であり、すべてが手探り状態で歩き始めていた時代です。その時代に、リアルな火山災害記録を創作出来たかは疑問であり、実際の災害記録があったと考えるのは自然な発想です。ラングルガワルシタ3世は、火山大国ジャワの人ですから、西洋人に比べて火山の知識はあったと思われますが、噴火によって陸地が陥没して海になると言った知識はなかったと思われます。それは『古代の王たちの書』初版本では、クラカタウが出て来ず(仮に目撃者がいたとしても、火山災害で死んでしまっているでしょうしね)、バトゥワラ山(プリサリ山)が噴火したというニュアンスで書かれていることからもうかがえます。しかし1883年のクラカタウ噴火が、よほど印象に残ったのでしょう(現地で3万人以上の死者を出してますからね)。それがこの著書の史料的価値を一気に低下させる失策を、彼にさせてしまいます。というのは、1889年に『古代の王たちの書』の第2版が出版されます。そちらでは6年前のクラカタウ噴火の詳細が取り入れられて噴火場所がスンダ海峡に変更され、ジャワ島とスマトラ島が分離した話は無くなり、被害描写が生々しく書き換えられています。この余計な加筆行動は、彼の著書はを「歴史記録をまとめた本」ではなく、「小説」と認識させるに十分な行動でした。歴史を研究している立場から見れば、なんて馬鹿なことをしてくれたもんだという感じです。しかし逆に言えば、脚色がおとなしかった初版版は、古記録を元に記述されたものだと言えるそうです。6世紀に記録を残した人物は、ジャワ島の南部か中部あたりにいたため、クラカタウは見えず、バトゥワラ山の方角で噴火が起きているように見え、東のカムラ山(グデ山)へ向かって津波が進んでいくのを目撃した。記録を読んだラングルガワルシタ3世は、それを素直に初版本に記録したと言えるのではと思います。次のハードルは年代の問題です。古記録と実際の噴火が119年ずれている点を、合理的に説明できればいいのですが、比較出来る文献史料が他になく、『古代の王たちの書』も文学作品とみなされて、真剣に研究する歴史学者は存在しないため、非常に厳しい状態です。しかし年代の問題は、他の国でもよくあるケースです(日本でも、書状が書かれた年代が正確にわからず、論争になることがよくあります)。研究の進展により、年代が変更されることもよくある事例です。特に記録の少ない古代では、100年以上年代が変わったこともあるので、119年の差が一気に縮まる可能性もあるかもしれません。今後の研究が進展することを期待したいと思います。
2021.06.07
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たぶんこれが年内最後の更新になるかと思います。明日は親鳥の顔を見に、自転車で実家に様子見してくる予定です。南米の古代文明というと、前回触れた地上絵のあるナスカばかりが有名ですが、ペルー北部、モチェ川に面した地域にはモチェ文化が、ペルーからボリビアに至るアンデス山脈沿いには、ワリ文化と呼ばれる文化圏がありました。そしてモチェ文化は、6世紀後半にナスカ文化が砂の中に消えていったのと時を同じくして、泥濘の中に消えていきました。日本ではほとんど無名のモチェ文化ですが、歴史は古く、紀元前後ぐらいから始まり、6世紀ごろには安定した文化圏を築いていました。モチェは、メソアメリカのテオティワカン文明同様に、高度な金属細工(ただし鉄はありません)の加工技術を持っていたようで、遺跡からは黄金の副葬品が多く出土しています。神殿としてピラミッドを建設するなど、テオティワカンと似ている面も多くありますが(両文化に交流があったかは不明です)、一極集中型都市文明だったテオティワカンとは異なり、モチェの方は、いくつもの小都市国家が並列する形でした。そのため、戦争も多かったようです(モチェ内部の覇権争いの他に、近接するワリとの争いもあったようです)。しかし一方で、農地や灌漑施設の建設には、複数の都市が協力して行っていたようで、全長110kmに達する運河も作られています。日本の戦国時代の諸大名や、中世欧州諸国の諸侯のように、モチェの都市はそれぞれ自治を持ち、互いに協力し合いつつ、争うという感じだったようです。また、東のワリ、南のナスカとは交易していたようです。繁栄していたモチェに影が差したのは、6世紀半ばから始まる異常気象でした。前回のナスカのところでも触れましたが、ケルカヤ氷河の氷縞調査結果から、ペルー北部は、エルニーニョ現象とラニーニャ現象が交互に7世紀半ばまで発生続いていた形跡があります。エルニーニョ現象とは、東太平洋の赤道付近(ガラパゴス諸島付近からペルー沖にかけての海域)で海水温が上昇する現象です。この現象の何が問題なのかというと、海水温度上昇により、東太平洋を流れる湧昇流(冷たい海流)を押し上げて、気温が上昇させます(平均すると、だいたい1、2度ぐらいです。1997年から1998年にかけて発生した20世紀最大のエルニーニョ現象は、最大5度程度上昇しました)。気温の上昇は貿易風(東風)を阻害して弱めてしまうため、暖流が停滞します。そして東太平洋側の暖流と気温上昇で押し戻された湧昇流は、インドネシア付近の西太平洋付近に滞留して、こちらでは気温と海水温の低下を発生させます。こうして東西太平洋の温度差から、暴風雨や干ばつなどの異常気象が発生し、それが地球規模に影響を引き起こします。ラニーニャ現象はエルニーニョと逆に、東太平洋赤道付近の海水温が低下する現象です。両者は周期的に、数年に一度発生します。エルニーニョ/ラニーニャとも、発生した時に、その影響を真っ先に受ける陸地は、太平洋に面した現在のペルーであり、当時のモチェでした。エルニーニョの時はペルーは豪雨が多発し、ラニーニャの時は干ばつが襲う図式になります。ケルカヤ氷河の氷縞調査結果と、考古学的な調査結果から、推測されるモチェの災厄は、以下のようなものです。まず540年前後、大ラニーニャ現象が発生し、ナスカ同様モチェでも大干ばつが起きました。太平洋に面して気候も温暖なモチェですが、この大干ばつで水は涸れ、農業生産は激減して飢餓が襲ったと考えられます。大ラニーニャは、10年以上続いたと推測されています。そして556年ごろ、今度は大エルニーニョがモチェを襲いました。飢えと渇きに苦しんでいた人々は、大地を潤す大雨に驚喜したかもしれませんが、この雨は恵みの雨ではなく、死神の使いでした。10年を超す大ラニーニャによって乾燥しきっていたモチェの山地、丘陵地帯は、この大雨を吸収することが出来ず、雨で地盤が崩壊して、農地や村々を飲み込む土石流をあちこちで発生させました。この時期モチェでは、荒ぶる大地の神々を鎮めるため、生贄を捧げる儀式を頻繁かつ大規模に行っていたようです。6世紀半ばごろの儀式跡からは、40体以上の生贄が捧げられた跡が、いくつも発見されています(モチェでは、生贄を神殿の外壁にある泥の壁に塗り込める慣習がありました。貴族もしくは神官と思しき身分の高い者が1名と、その召使となる少年ほどの歳のものが1名、後は10名程度の護衛や従僕という構成が通常だったようです)。当時のモチェの総人口がどのぐらいあったかは不明ですが、1都市国家当たりの人口は7~8千人位と考えられています。40人の生贄とは、すなわち1都市の0.5%弱の人間という事です。それがほぼ同一期間と思しき各都市の儀式跡から、複数発見されているという事は、どれだけ深刻な状況であったかを察することができます。生贄にされた人々の「任務」は、神々のもとに赴き、人間の要望を伝えることですから、生贄人数の多さは、それだけ神々への陳情、願い事の多さの表れなのです。しかし人々の願いは神々に届かず、大ラニーニャと大エルニーニョは、交互にモチェを襲い続けました。土砂災害に多発により、モチェの肥沃な農地は海に押し流され、その後に来る大干ばつで、砂漠化が進行していきました。この図式は、ずっと前で触れたイエメンと似た図式だったと思われます。元々複数の都市国家が乱立していたモチェは、異常気象が深刻になるにつれ、食糧確保を目的とした都市間の戦争が頻発していったと思われています。遺跡を見ると、都市を囲うように煉瓦と石で城壁が築かれるようになっていったからです。戦争の痕跡は、墓所跡でも確認できます。6世紀後半ごろと考えられている墓所からは、手足の指を切り落とされた上に、こん棒で頭を潰された者や、槍で心臓を貫かれた遺体が、無造作に折り重なるように埋められています。これらは戦争でとらえた捕虜を、虐殺した跡だと考えられています(ただし、一部は生贄にされた捕虜もいたようです。ホラー映画に出てきそうな話ですが、骸骨人形(体から皮膚と筋肉、内臓をすべて取り除き、骨と腱だけを残して、関節などを動かすことができる状態)も発見されています)。激しい戦争は、一層モチェの荒廃をまねいていきました。人口はさらに激減し、農業も産業も崩壊していったからです。もしかしたら疫病も発生していたかもしれません。7世紀になるころには、すべての統治機構は崩壊状態になったようで、人々の大半は死に絶えたか、別の土地に逃れていったようで、モチェ文化は、泥濘の中に消えていきました。そして7世紀後半ごろになると、「空き地」になったモチェとナスカに、アンデス山脈にいたワリ人たちが進出してきました(ちなみに従来の学説では、モチェとナスカは、ワリの侵攻で滅ぼされたと考えられてきました)。彼らワリ人たちも、異常気象で大打撃を受けていたと考えられていますが、前にモンゴル高原の情勢、柔然・アヴァールのところで触れましたように、異常気象は平地よりも山岳地帯の方がダメージが小さく済むので(大干ばつ時でも、山は雲がぶつかって雨が降るので、水に恵まれるためです)、ワリは壊滅的な打撃をかろうじて回避し、乗り切ったと考えられています。ワリ人たちは、ワリとモチェ、ナスカを結ぶ交易路を再建し、新しい政治機構を整備していきます。彼らの国家は10世紀ごろに衰退していきますが、その政治経済、文化的な遺産を継承して、南米に一大帝国を築くことになるのが、有名なインカ大国(1438~1533年)です。どうにか年内に間に合いました。7年近くま続けてきたこのシリーズもそろそろ終わりの方に向かいます。
2020.12.30
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超久々の「西暦535年シリーズ」です。年内で、あと1回ぐらいは更新できたらいいなぁ・・・。さて、歴史に興味のない人にも有名なのが、南米ペルーにあるナスカの地上絵でしょうね。地上絵は、1920年代に上空を飛んでいた飛行機のパイロットが偶然発見し、その後の調査で、ナスカ川とインヘニオ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原地帯一帯(正式な地名ではないのですが、俗に「ナスカ高原」と呼ばれています)から、次々と発見されました。地上絵の種類は、大きく二つに分類されます。一つは動植物や人間などの絵で、もう一つは巨大な渦巻や台形、平行線、放射状の線、直線などの幾何学模様の図形で、確認できたものだけで1300個の地上絵があります。大きさも、小さいもので4mの台形の図形、大きいものでは180mを超すイグアナの絵があり、種類も大きさもまちまちですが、「空からでないと見えない」という謳い文句の通り、大半の地上絵は、空からでないと見るのは困難です。そんなこともあって、ナスカの地上絵は、「いつ造られたか」よりも、「人が地上で見られない絵を、何の目的で造ったか」に関心が向きがちです。ざっと唱えられている説は、「雨乞い説」「星の運行図説」「農耕カレンダー説」「神々を多々売る宗教界絵画説」、はてまた「宇宙人or古代アトランティス人が造った宇宙港説(苦笑)」等があります。まぁ、最後の説はとりあえず置いておきまして、どの主張にも一理あるものの、「これだ!」という決定打に欠けているため定説はまだありませんが、いくつかの証拠から、近年では雨乞い説が有力視されるようになってきています。地上絵が作られて年代ですが、考古学的な調査で、絵の近くに作業に携わった人々の仮住まい跡や、遺物(焼き物で出来た水入れの欠片等)、現場作業に使用した杭が発見されています。それらを放射性炭素年代測定法によって鑑定したところ、西暦525年±80年の遺物であるという結果が出ました。つまり地上絵は、6世紀頃に造られたと、範囲が絞りこまれたのです。この結果、古代アトランティス人が1万2千年前に造ったという説は、まったく当てはまらなくなりました(なむなむ)。そして6世紀の南米地域の気象はどうだったのかというと、ナスカ高原から370km程離れたところにあるケルカヤ氷河(アンデス山脈にある氷河。近年地球温暖化の影響で、縮小傾向にあると言われています)の氷縞調査から、西暦540~570年頃に、30年近くに及ぶ長期間の大規模な干ばつが起きていたこともわかっています。この辺は、前のテオティワカンや、ユーラシア大陸の事情と同じですね。元々ナスカ高原は非常に乾燥した地で、もっとも降水量の少ないところでは、100年間に6mm程度の雨しか降りません。普段から水を得るのが大変な地域ですから、30年近い大干ばつは、深刻なダメージになったと考えられています。そして雨乞い説の根拠ですが、まず、地上絵付近にはミイラ化された遺体(恐らく生贄)やトウモロコシなどの供物が発見されている点、地上絵に隣国エクアドルでしか採れない貴重品のスポンディルス貝(鮮やかな赤色をしたウミギク科の貝)の破片が見つかっている点が、大きな根拠となっています。スポンディルス貝は、他の南米の遺跡からも発見されていますが、用途はいずれも共通して、雨乞いの儀式で使われているものです。そして、西暦540年代からの30年に及び大干ばつの痕跡、その時期に描かれた地上絵、雨乞いの儀式で使われるスポンディルス貝というキーワードから見えてくるのは、ナスカの地上絵は、雨乞いのために描かれた可能性が高いという結論になります。ちなみに地上絵の作成方法ですが、実は現代人が思うほど難しくありません。オカルトマニアからは、「地上から見えない絵を、飛行機のない時代に描くことは不可能だ」と言われていますが、実際には、宇宙人や古代アトランティス人を連れて来なくても、人間の手で十分作成可能です。用いた方法ですが、2通り考えられています。一つは拡大法と呼ばれるものです。まず、絵を描きたい高原の一角に下絵と基準点を作り、そこから順次作図していくという方法です。これなら別に上空から見て指示しなくても、1つの形のある絵を描くことができます。仮に微妙に構図のゆがみや形のずれが出たとしても、地上絵の幅は1~2m位、深さも20~30cmの大きさなので、上空から見ればあまり目立つものでもありません。事実、地上絵付近には、基点となったと思われる部分に杭の跡が見つかったり、下絵が発見されているケースもあるようです。お互いの作業位置が見えないような大きな地上絵の場合、いつくかの場所で大雑把な基点を取り、見本となる下絵の縮図を近くに描きながら、何度も確認したり修正しながら描いていったという感じなのでしょう。ちなみに、この方法を唱えたのは、九州産業大学工学部の諌見泰彦准教授で、小学生児童による実験で、成功を収めています。もう一つは、山形大学の坂井正人教授の唱えた目視描画と呼ばれる方法です。こちらは下絵を元に、目視でお互いの位置を取って調整しなが描画していく方法で、やはり小学生による実験で100mの地上絵を描くことに成功しています。どちらの方法も共通しているのは、地上絵は、適切な作成手順と監督者の指示があれば、子どもでも描くことが可能ということです。この事実は、軽んじてはいけない話です。世の中には未知の遺跡や遺物は数多く存在し、ともすれば、宇宙人や古代アトランティス人など、オカルト的な解釈をしたくなってしまいますが、わざわざそういう存在を連れて来なくても、説明できることは多くあるのです。私はオカルト好きですが、安易に宇宙人や超古代文明、陰謀論を持ち出す方を、あまり信用しません。何故ならそれらは「最強」の存在で、どんな出来事でも「説明」出来てしまうからです。それは事実を迷宮入りさせるのと同じことです。とまぁ、話を元の戻します。さて、地上絵が雨乞いだとすれば、それは神々へのメッセージということになります。苦心して祈りを捧げていた人々ですが、もちろん、地上絵描画(神頼み)だけをしていたわけではありません。人々は少しでも水を得ようと、プキオと呼ばれる地下水路を作り(水路の製造年代も、放射性炭素年代測定法で6世紀半ば以降に造られたと鑑定されています)、井戸を掘って、水集めに腐心していた痕跡も見つかっています。しかし、水の確保、食料の調達は、やはり困難だったのでしょう。年代測定で、6世紀後半ごろと鑑定された遺跡の中から、戦で殺されたものの首塚も発見されています。いずれも頭蓋骨に、むごたらしい拷問や暴行の痕跡があることから、水・食料不足に端を発する争いで、殺された可能性が高いと考えられています。ですが30年に近い干ばつで、人々を助けるほどの水を確保することは出来ず、多くの住民が死に、生き残った者も土地を捨てて、ナスカ文化は砂と荒野の中に埋もれていきました。ちなみに、「ナスカ」とは、地元ケチュア語で「ナナイ(「苦悩」という意味)」が変化して、「ナスカ」と呼ばれるようになったと言われています。世界遺産「ナスカの地上絵」は、約1400年前に生きた人々の苦悩と祈りを、現代に伝えている遺物としてとらえた時、皆さんは地上絵に、どんな思いを見ることができるでしょうか。それを考えることも、立派な科学的な考察なのです。
2020.10.01
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それでは、テオティワカンがどのように滅んでいったか、触れてみたいと思います。テオティワカンの本格的な調査が始まったのは、20世紀になってからです。発掘調査の結果、テオティワカンがどのような都市だったか、徐々にわかってきています。まず都市に城壁がなく(そのため、当初は平和的な都市と考えられていました)、黒曜石などの道具製造資材の貯蔵所跡、干し煉瓦の製造所や、黒曜石のナイフや吹き矢を製造していた工房跡、さらにメキシコ高原では産しない貝殻やトルコ石の宝飾品が見つかり、かつての繁栄を偲ばせていました。一方で血なまぐさい遺物も見つかっています。テオティワカンの神々と宗教、社会では、人間の生贄を捧げる習慣があったのです(これは他のアメリカ大陸文明でも同様でした)。現代人から見れば、非人道的で理解しがたい風習ですが、テオティワカンの人々にとって、生贄を捧げるのは宇宙の死と再生を司る神聖な儀式だったのです。ちなみに生贄に選ばれるのは、王族や支配者層です。平民層は「死後の生贄の召使い」に少数が選出されるだけだったようです。というのも、生贄の選定基準が、健康で気品と知性を兼ね備えていることが条件だったからです。高貴な身分の者で教養も備わっていいる者でなければ、神と対話して、人間の要望をお願いできる存在になれないと考えられていたからです。したがって、生贄は王族や神官の家系の中から年少か生まれた時に定められたようで、「生き神」として崇められる一方で、最高水準の衣食住と、教育が施されました。彼らの文化・慣習から見れば、生贄に選ばれることは悲劇ではなく、名誉だったのです。ここで1つ脱線しますが、今から20年ぐらい前に、オカルトネタで「アステカの祭壇」という「心霊写真」が騒がれたことがあります。この話は、テオティワカンやアステカなどの、生贄文化をベースにして語られていましたが、あれはメソアメリカ文明の考え方をまったく理解していない、現代人主観の考え方です。当時、オカルト成分が濃かった私からして、「これは変だぞ」と思ったネタですが、同じオカルト系の話が好きな人たちの中には、まじめに怖がっている人が多かったですねぇ。話を元に戻します。テオティワカンの最盛期は、6世紀前半と推定されています。そして最盛期のさなかに、急速に衰退して滅んでいきます。考古学的な調査結果から、以下のことがわかっています。・6世紀半ばごろの墓地から発掘された遺体の多くから、極度の栄養失調、疫病が死因と思われる兆候が伺える。・同時期、最高神トラロックの神像が、かつてないほど大量に製造されていることから、深刻な干ばつが起きていたと推測される(トラロック神は雨の神です)。・6世紀後半になると、殺害されたと思われる大量の人骨が無造作に埋葬されている事、さらに火災や破壊された家屋の痕跡があり、その後、人の痕跡が都市から消えている。以上の仕様子から、「6世紀半ばに発生した大干ばつで衰退していったテオティワカンは、同世紀末、住民の反乱などで内部から自壊し、戦火の中で滅んでいった」と考えられています。まず干ばつの痕跡ですが、テオティワカンから約800km離れたユカタン半島西にある2つの湖、ブンタ・ナグラ湖とチチャンカナブ湖から見つかっています。2つの湖底から採取された堆積物に含まれた成分や、貝殻や木片などを放射性炭素年代測定法で分析したところ、西暦540年頃から約30年(誤差は、20~50年位)という長期間にわたって、冷害と干ばつが交互に見舞われていたことがわかりました。その影響は、メキシコ高原でも同様だったでしょう。そして、想像されているテオティワカン滅亡の経緯は、次のようになります。西暦530年代後半から540年代前半頃、メキシコ高原を大規模な干ばつが襲い、大飢饉が発生しました。この事態に、テオティワカンからの食糧供給が停止、または滞りがちになったため、周辺の村々の住人たちは、大挙してテオティワカンに殺到したようです。何故なら、今まで食糧はすべてテオティワカンから供給されていました。したがってテオティワカンに行けば、食べ物にありつけると考えたからです。しかし大飢饉にあえいでいたのは、巨大都市テオティワカンの方でした。大都市は食糧の生産地ではなく消費地ですし、勢力圏の農業生産が壊滅している以上、食糧は集まりません。テオティワカンは農耕地も一括管理する一極集中方式でしたので、それが祟って別の地域から食料を入手する手段も、生産する方法も持っていませんでした。備蓄されている食糧が無くなれば、難民はおろか、20万の都市住民すら養う術はありません。大量の飢えた避難民の流入は、都市の治安を急速に悪化させました。餓死者が至る所にあふれ、また都市の計画人口を超過したため下水道の処理能力も限界を超えたため、疫病が発生するようになりました。その結果、都市の治安は一層悪化し、疫病が広がり死者が増える悪循環に陥っていきました。都市の指導者たちは、トラロック神の神像を大量に作り、生贄を捧げて神に祈りを捧げましたが飢饉は収まらず、やがて人々は、神々とそれを奉る支配者層に不満と反発を強めていきました。いくら祈っても飢饉から救ってくれないなら、神官も王族も、そして神々も不要のものです。暴力は支配者層に向けられていったのです。6世紀後半になると、神殿などに残されたフレスコ画には、軍人や戦士の絵がやたらと多くなっていく傾向がみられています。これは当時の世相を表しているといえます。神々が救済してくれない以上、神官や王族たちが頼ったのは、暴動を鎮圧して自分たちの身を守ってくれる軍だけでした。その結果、権力は軍人たちが握り、王や神官の権威、神々への信仰心は一層失墜していきました。実権を握った軍人たちは、当初高圧的に住民暴動に対処したようです。殺害された遺体がまとめて埋葬されているのは、その証拠と考えられています。しかしやがて、暴動はがんでも鎮圧できないレベルになったのか、それても軍の有力者同士で権力争いがあった結果なのか、テオティワカン全土を覆う大規模な反乱が発生しました。遺跡調査の結果、放火や暴力的に破壊された邸宅跡は、150以上確認されています。それらは神官や王族の邸宅跡だったと考えられています(一方、労働社会層の住居区では、火災や破壊の後はほとんど見つかっていません)。暴徒は神殿や支配者層の邸宅を襲撃して火を放ち、神官や王族は、軒並み殺害されていきました。神殿や王族の邸宅跡では、バラバラにされ、骨までも粉々に砕かれた遺骨が発見されています。恐らく王族や神官たちの凄惨な殺害現場だったのでしょう。また太陽のピラミッドにも暴徒が押し寄せたようで、安置されていたトラロック神の神像が、粉々に破壊された跡が発見されています。これらの痕跡は、反乱を起こした側が、どのような意図と目的を持っていたかを、端的に物語っています。6世紀にあったアメリカ大陸最大の都市テオティワカンは、住民たちの反乱により、内部から自滅したのです。反乱を起こした側は、支配者層を皆殺しにしたことで、一時的に留飲は下げたかもしれませんが、それで食糧難が改善されたわけではありません。むしろ逆に、すべての生産・流通のシステムを掌握していた支配者層が全滅したことで、テオティワカンは食料の調達が不可能となり、もはや人の住める土地ではなくなってしまいました。生き残った人々は都市から姿を消し、テオティワカンは密林に埋もれていきました。こうしてアメリカ大陸にあった一つの巨大都市が、地上から消えました。以上が、現在考えられているテオティワカン滅亡の経緯です。次は南米アンデス高原について、見ていきたいと思います。
2020.05.03
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久々の西暦535年シリーズです。今度のGWは・・・、書く時間進むかなぁ(汗)。テオティワカンはメキシコシティの北東約50kmの位置にあります。テオティワカンの遺跡を初めて見たヨーロッパ人は、アステカ王国(15世紀にメキシコ中央部にあった国)を征服したコンキスタドール(「Conquistador」スペイン語で「征服者」という意味です)のスペイン人、エルナン・コルテス(彼の名は、世界史の教科書でも出てきますね)だったと言われています。当時のヨーロッパ人は、欧州とキリスト教以外に何の関心も持たず、他文明や非白人種を「野蛮な未開文明」と考えて敬意を払いませんでしたが、さすがにテオティワカンの巨大ビラミットには興味を覚えたようで、アステカ人に、「これは何か? 誰が作ったのか?」と尋ねました。アステカ人たちは、「ここは巨人族が作ったテオティワカン(現地のナワトル語で、「神々の集まるところ」という意味になります)だ」と答えました。「巨人族」というと、オカルトチックな話になりますが、テオティワカンの遺跡群を建設したのは、アステカ人の先祖ではなく別の民族だったので(アステカ人が、今のメキシコに住むようになったのは、12世紀ごろと言われています)、建築技術もアステカ時代には失われていました。そのため、アステカ人たちは出自不明の古代遺跡を「巨人族が作った神々の集まる都市」と考えていたのです。かくしてメキシコの密林に埋もれていた遺跡は、「テオティワカン文明」と呼ばれることになりました。最盛期のテオティワカンの人口は20万人に達していたと言われています。支配地域は、現在のメキシコ南半分と、グァテマラ、ベリーズなどの国を合わせた地域に及んでいます。この地に人が住むようになったのは、紀元前2世紀ごろからと推定されていますが、前述のとおり何民族が築いたのかは不明です。人口20万都市のテオティワカンは、6世紀当時アメリカ大陸最大の都市であり、世界でも有数の巨大都市でもありました(確か6位ぐらいだったかな? 人口10万を超える都市は、東ローマ帝国首都のコンスタンティノープル、中国の長安、洛陽等があるだけでした)。テオティワカンには、2つのピラミッドがあります(「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」と呼ばれています)。興味深いことに、エジプトのギザにあるクフ王の大ピラミッドとほぼ同じ大きさです。なお、この点をだけを取り上げて、「古代エジプトと古代アメリカの文明に関連性がある」と主張する人もいますが、ピラミッドの大きさは同じでも、数と配置は異なっていますし(エジプト、ギザのピラミッドは3つですが、テオティワカンは2つです)、作られた時代も(ギザの大ピラミッドは紀元前2500年ごろ、テオティワカンの太陽のピラミッドは西暦200年頃と2000年以上違います)、文化形態、人種も異なります。一番大きなピラミッドの大きさ以外に共通点、類似性はく、用途も異なるので、たまたま一致が見られただけと考えるのが、私は自然だと思っています。さて太陽のピラミッドは、最高神トラロック(雨の神)に捧げられた神殿と考えられています。ピラミッドの内部には水路があり、儀式場と思われる場所も設けられており、トラロック神を奉る儀式が行われていたようです。月のピラミッドの方は、農業の神ケツァルコアトルが、シトレ山(テオティワカン近くにある山。ケツァルコアトル神が住んでいると考えられていたようです)から、テオティワカンにやってきた際の仮宮にしてもらう場所という位置づけだったようです。そのため月のピラミッドと山は、都市を結んだ直線状に配置されています。テオティワカンは、太陽のピラミッドと月のピラミッド、南北5kmにわたる道路を基点にして、神殿などの宗教施設を配置し、下水道も完備されていました。このように、遺構から見えるテオティワカンは、合理的な都市計画に基づいて設計、建設された都市だったことが伺えます。完成された都市という意味では、人間の増加によって都市計画を何度もやり直して成立したユーラシア大陸のコンスタンティノープル、長安、洛陽とは異なる都市だったと言えます。そしてテオティワカンには、ユーラシア大陸にはない大きな特徴がありました。政治・宗教・農業に工業、交易といったすべての機能が、テオティワカンに集中集約されていた点です。簡単に言えば、エルサレムやメッカのような宗教都市としての性格と、コンスタンティノープルのような商業都市としての機能、そして長安や洛陽にある行政・官僚機構が、すべてテオティワカン一つに内包されていたのです。超一極集中型都市国家と言えるものでした。まず神々を奉る神殿はテオティワカンにしか作られず、他の場所で作ることは許されていなかったようです。人々の信仰は、すべてテオティワカンに向けられる仕組みだったのです。ナイフや斧といった道具類も、テオティワカンでしか製造されませんでした(遺構の調査から、都市住民の3割弱が、これら製造関係の職についていたと考えられています)。つまり日常生活から、農業や狩猟、漁労で使用される道具は、すべてテオティワカンに依存していたのです。なぜそんなことがわかるのかというと、テオティワカン周辺の村々の遺構からは、当然出てくるはずの食料貯蔵倉庫や、道具などを製造する作業場が出てこないのです。したがって、それらの道具類の製造が許されていなかったと考えられているのです。特に重要なのは、食料の貯蔵倉庫が存在しないことで、すべての収穫物は、テオティワカンに集められ、そこから末端の村々に分配されていく方式だったと考えられています。つまり生きていくのに必要なものは、すべてテオティワカンに管理統制されていたようです。周辺の村々の位置づけは、すべてテオティワカンを支えるための農業生産・資源採掘地という形であったようです。こうなると、暴動や反乱などが懸念されますが、そのような痕跡があまり見られていないことから、テオティワカンに集められた食料や、都市で生産された道具類を、勢力圏の村々に迅速かつ安定的に供給されるシステムがあって、人々の不満を発生させないよう工夫されていたようです。このようにして、物心両面をすべて掌握したテオティワカンは、反乱の芽を摘みつつ、人々に不満を抱かせないよう巧みに統治していたのです。メソアメリカには車輪が存在せず(荷車はなく、また馬もいなかったため、馬車もありません)、文字もなく文章によるやり取りができなかったことを考えると、この流通システムは、恐るべきものであったと言えるでしょう。どうやって遠隔地に、物資を滞ることなく供給できる輸送網が作れたのか、文献史料がないため全く不明です。また、閉鎖的な文明が多かった古代アメリカ社会の中で、テオティワカン文明の勢力範囲、交易範囲は非常に広いものでした。例えば、テオティワカンの遺跡からは、約250km離れた海でとられた貝殻(宝飾品)や、約2千km離れたアメリカ合衆国ニューメキシコ州北部を産出場所とするトルコ石が発見されています。テオティワカンが、これらの地域と交易・交流があったことを示しています。メキシコというと、「2012年で世界の終わり」と一部で話題になったマヤ文明(紀元前4世紀頃~16世紀頃)がありますが、この頃のマヤは、テオティワカンに従属していたようです。マヤ文明の最盛期は7世紀から8世紀にかけてですが、それはテオティワカン滅亡後、その領土と遺民を吸収した結果と考えられています。従属していた周辺文明はマヤ以外もいたでしょうから、テオティワカンには、遠方からの交易商人や外交施設なども居住していたかもしれません。高度な都市社会を築いていたテオティワカンの最盛期は、6世紀前半頃だったと考えられています。人口20万に達したのもその頃と考えられています。それが6世紀中頃から突然の退潮に向かい、一気に滅亡への道を突き進んでいくことになります。次回は、テオティワカンが、どのような経緯で滅亡していったか、考古学的な調査からわかっていることを中心に書いてみたいと思います。・・・今までのパターン的に想像つきやすいので、「オチわかってますから」と言わないでね(笑)。
2020.04.26
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古代アメリカ文明にかかわる有名な偽史の捏造の実例を挙げましょう。20世紀に、F・A・ミッチェル・ヘッジスというイギリス人冒険家がいました。彼は1927年に中南米にベリーズという国の遺跡から、水晶でできたドクロ(「ヘッジス・スカル」と呼ばれています)を発見したと、1940年代後半に発表しました(どーでもいい脱線ですが、昔私は「大航海時代」というゲームが好きでよくプレイしていましたが、このゲームでは、南米やメキシコ辺りを探索して発見できる宝物でしたねぇ)。ヘッジス・スカルは非常に成功にできた水晶ドクロで、古代アメリカ文明では、人間を生贄として、神に捧げる習慣があったことから、それらと関連付けられて歴史関係の本で紹介されたこともありましたが、実際には、19世紀後半から20世紀後半にかけて、ドイツで作成されたものでした。宝石商が宣伝のために作成したと言われています。それを購入したミッチェルが(ロンドンの美術商から、1943年に400ポンドで購入したことを証明する彼のサインの入った領収書も見つかっています)、「ベリーズの遺跡から発見した」と、センセーショナルに発表したのが、事の真相でした(さらに核心的なことを言うと、1926年にベリーズからイギリスに帰国していて、1927年にベリーズには一度も行っていませんでした)。どうやら彼は、売名とスポンサー集め(探検はお金がかかります)のために、話を作ったようです。しかし晩年、ミッチェルは罪悪感を覚えたのか、嘘の発覚を恐れたのか(彼と一緒に1926年にベリーズに行った仲間たちからも、批判や疑問が出ていました)、ドクロの事に一切触れなくなり、自分の回顧録からもその話を削除して1959年に世を去りましたが、彼の死後、養女のアンナ(「アナ」としている本もあります)が、「養父ではなく、自分が遺跡で見つけた」と主張し始めました。ちなみに彼女がベリーズに入国した記録はなく、本人はそのことを問われると、「トランクの中に入って入国した(楽器ケースではありませんでした(時事ネタ)。発見されたとされる1927年、アンナは17歳で、彼女は結構大柄でな体格でしたので、彼女が入れるサイズのトランクなんてあったのか等、ツッコミどころはいくつもあります)」等、めちゃくちゃな発言を残しています。アンナは、「現在の科学技術でも製造不可能」「不思議なパワーを持っている」と盛んに宣伝して、イギリスやアメリカ中をめぐって講演して回りました(もちろんお金をとって)。その宣伝活動が実を結び、今でもオカルトマニアの中には、ヘッジス・スカルの「神秘のパワー」を信仰している人は、少なからずいるようです。さて、ヘッジス・スカルが古代アメリカ文明の遺物なら、ドクロはモンゴロイド系の初期アメリカ人(「ネイティブアメリカン」ともいいます)の特徴を備えているはずです。しかし2008年に、アメリカ・スミソニアン博物館が徹底的に調査した結果(これは前年にアンナが亡くなり、遺族が本当にアンナが言っていた事が正しいのか確かめようと調査を依頼しました。1980年代の調査以降、彼女はドクロを調査されることを拒むようになっていました)、骨格の特徴から、20~40台の白人女性の顔と分析され、複顔も成功しました(ちなみアンナは、「専門家に調査を依頼したところ、初期アメリカ人の特徴を持った男性の顔で、工具の跡などは一切ない」と主張していました)。さらに「現代科学では複製不可能」なはずの複製も成功しました。また電子顕微鏡を使った検査では、19世紀に実用化したダイヤモンド研磨剤とドリルの跡も確認され(実は1980年代の調査時に、この痕跡は発見されていましたが、彼女とその支持団体から、黙殺されていました)、ヘッジス・スカルが、古代アメリカ文明の遺物でないことが証明されました。なぜこんな捏造を多くの人が信じたのかというと(信じた中には、中学時代の私もいます・汗)、遺跡・遺物を説明する文献史料が存在しなかったからです。文献史料があれば、古代アメリカで、そもそも水晶度ドクロを製造する技術も文化もなかったことが、すぐにわかったでしょう。アンナの養父ミッチェルも、こんな話を作ったりしなかったかもしれません。つまり遺跡・遺物があったとして、それがなんであるかを裏付ける史料があって、初めて何かが特定されるのです。どちらか一方だけなのは、やはり不完全になってしまうのです。世に中には、オーパーツ(「場違いな工芸品」という意味で、発掘場所の時代や文化にそぐわない遺物です。わかりやすく言えば、石器時代の遺跡から、スマホやパソコンが出てきたら、大騒ぎになるでしょう。そういう感じです)や、謎の遺跡といったものが話題になることがありますが、それらのほとんどが、文献記録がないために、誰が何の目的で作ったかわからない事から、勘違いされてしまっているものがほとんどです。そして逆の事例、歴史史料の記録から、古代の遺跡などが証明されたケースも存在します。これは中国の話ですが、前漢時代の歴史家で司馬遷(紀元前145?135~紀元前87?86年)という人物がいます。彼の書いた名著に『史記』があります。私は中学時代、父鳥から、「中国の歴史に興味があるなら、『史記』は絶対読んでおけ」と言われて買って読み、それがハマって、歴史を本格的に勉強するきっかけになっていきました。と、私の話はどうでもいいんですが、この『史記』には、殷(紀元前17世紀~紀元前1024年)の記録が書かれていますが、20世紀初めまで、殷という王朝は架空・実在しないものと考えられていました。しかし河南省安陽市で遺跡が発見されて調査が行われた際、その遺跡が『史記』に出てくる殷の都の記述(都城の大きさ、道路の幅や長さ等)と、ほぼ一致していることが明らかになりました。現在はこの遺跡は、殷墟(殷の後期(紀元前14世紀ごろから滅亡まで)の都で、殷墟の意味は「殷の都跡」となります。ここが人の住む都市だったころは、「大邑商」と呼ばれていました)と名付けられています。このことは、『史記』の記述の正確性の高さを物語るのと同時に、文献史料が、遺跡の正体を証明する重要な手がかりになっていることを示しています。もし『史記』が、殷の時代のことを記録していなかったら、この遺跡が何という都市名だったか、歴史にどんな影響があったかを説明する手段がなかったことでしょう。現代まで、名前も状況もわからぬ遺跡の一つとしてしか、認識されていないかもしれません。このように、遺跡・遺物と、史料は、相互にお互いの存在を明らかにする車の両輪なのです。どちらも重要で、軽んじてはいけないのです。・・・まぁ、歴史学者と考古学者の不仲は放っておいてね(苦笑)。脱線しすぎました(汗)。話を元に戻します。不明な点の多い古代アメリカ文明ですが、分かっている点をまとめると以下のようになります。・マヤ文明を除き、文字が確認されていない(前回も触れましたが、南米インカ帝国で「キープ」と呼ばれる紐を使った情報手段があり、広義にはこれも文字とされています。しかしこちらも解読不能です)・鉄器を持たなかった(インカ帝国では、青銅器や金銀の高度な加工技術はもっていましたが、他のアメリカ文明では、ほぼ石器時代のままでした)・車輪や通貨がなかった(荷物を運ぶ家畜はいましたが、荷車や馬車は発達しませんでした。また通貨がないので、経済は物々交換でした)・天文学が高度に発達しており(地球の公転周期が365.25日であることを知っていました)、厳密な時間管理をもとにした都市文明を持っていた・各地域が孤立・独立した文化圏を築いており、交流が少なかったという感じです。いつも通りの長ーい前置きでした。次回から本題、メソアメリカ(現在のメキシコ・グァテマラ・ベリーズ等)にあった古代文明テオティワカンから触れてみたいと思います。・・・気長にお待ちください(汗)。
2020.01.31
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久々の西暦535年の話です。前よりペースは遅くなると思いますが、ポチポチ書いていきたいと思います。初めにいつも通りの脱線、前振り話です。古代アメリカ大陸の文明について、簡単に説明したいと思います。歴史の教科書を見ると、コロンブス以前のアメリカ大陸の歴史の扱いが、非常に小さく寝そっけないことに気が付くでしょう。まぁ、私も詳しくないんですけどね(多汗)。まずアメリカ大陸にいつ人類が進出したのか、正確には特定できていません。アメリカ大陸最古の遺跡が、アメリカ合衆国ニューメキシコ州にあるクローヴィス遺跡で、およそ1万3500年前のものであり、それより前の遺跡が確認できていないことから、人類のアメリカ大陸進出は、約1万4千年前位、ベーリング陸橋(この頃氷河期で、ユーラシア大陸とアメリカ大陸は地続きでした)を通って、遊牧民たちが移住してきたのではないかとの説が有力です。アフリカで生まれたとされる人類が、アフリカ大陸を出たのは約7万5千年前と言われています。これはちょうどトバ・カタストロフが起きたとされる時です。ここで早くも話がずれますが、トバ・カタストロフの解説です。トバ・カタストロフとは、インドネシア・スマトラ島にある巨大カルデラ火山トバ火山で起きた巨大カルデラ噴火で、7万5千年前に起きたと考えられています。この巨大カルデラ噴火の噴火規模は、9万年前の阿蘇山のカルデラ噴火の5倍と推定されています。トバの噴火の結果、6千年近く地球は「火山の冬」で寒冷化しました。そしてホモ・サピエンスとネアンデルタール人を除くホモ属、猿人類は絶滅しました。ホモ・サピエンスも、1万人前後まで人口が激減し、絶滅寸前に追いやられていたと言われています。ホモ・サピエンスとネアンデルタール人が生き残れた理由ですが、大きな要因は、両者とも服を着るようになったからと言われています(それまでは全裸で暮らしていました。そのことは、人間に寄生している虱などの調査から判明しているようです)。つまり、衣服を身に着けて防寒対策をするという「災害対策」を成功させたおかげで、火山の冬を乗り切ることができ、また同時期に食料を求めてアフリカ大陸から他の大陸に広がっていった結果、人類は地球中に広がり、文明を作っていく契機になったと考えられています。とまぁそんな感じで、人類はアフリカから約6万年かけて、アメリカ大陸にやってきたことになります。さて、古代アメリカ大陸文明は、コロンブス以前の歴史研究に、実に大きなネックがあります。アメリカ大陸にあった文明の多くが文字を持っていなかったのです。アメリカ大陸で、例外的に文字を持っていたのはマヤ文明(現在のメキシコ南部、グアテマラ、ベリーズ付近に、紀元前4世紀ごろ~西暦16世紀ごろ存在した文明)でした(あとは南米インカ帝国で使用された「キープ」と呼ばれる紐を使った連絡手段があります。これも広義には文字と判断されています。こちらも解読は出来ません)。象形文字と思しきものが発見され、現在もいくつか現存していますが、この文字を読める人間はいません。不幸は大航海時代、大勢のヨーロッパ人が訪れたことでした。当時のヨーロッパ人は、キリスト教を絶対視して、異なる文明を容赦なく弾圧していました(同じことは、アフリカや東南アジアでも行われました)。マヤ文明の文字や遺物、文化は、同地を征服したスペインの異端審問で「悪魔崇拝」「野蛮な文明の産物」とみなされて多くが焼き捨てられ、文字を理解できる者ものきなみ殺されてしまったため、読める人間がいなくなってしまい、現在解読不能なのです。つまり読むことのできないマヤの文字の遺物は、異なる文明の人々が、他の文明を弾圧その文化を踏みにじった愚行の証人たちであると言えるかもしれません。そのような事情のため、スペイン人進出前の文献史料がないのです(一応彼らスペイン人たちの手で、「野蛮で未開文明」として、風習や文化などがわずかながらに書き残されており、それが歴史を探る手掛かりになっているのは、非常に皮肉な点でもあります)。口伝や伝承が残っているケースもありますが、それだけだと王の名前や大きな事件があったことがわかっても、年代の特定や、編年的な整理ができません。また既に滅んだ文明や民族については、それすら残っていませんから、コロンブス以前の歴史は、遺跡や遺物から考古学的な視点で調査するしか方法がありません。しかしこれは「歴史学」的には問題があります。考古学的なアプローチでは、遺跡や遺物の年代は特定できても、何という民族が住み、どのような社会が形成されたかがわかりません。対となる文献史料の裏付けがないためです。いわば器はわかっても、中身がわからないのです。そういった事情で、歴史の教科書だと、そっけない記述になってしまうのです。ここでまた脱線ですが、考古学と歴史学は、はた目には同じ分野の学問と思われがちですが、考古学は遺跡や遺物などの現物を重視するのに対して、歴史学は文献史料を重要視します。考古学者に言わせれば、「人は嘘もつくし書くのに、どうして書いてあることが信じられるんだ」となり、歴史学者は「遺跡も遺物もただそこにあるだけ。だれが何の目的で作ったか、どんな人たちが住んで、どんな社会が形成されていたかわからないのでは、お話にならないじゃないか」となります。そんな感じで、実は考古学者と歴史学者は、仲が悪いことが多いです。これに民俗学者(民俗学は、風習や伝承などから、民族の文化や変遷を探ろうとする学問で、考古学と歴史学の中間的な要素があります)が加わると、三すくみのいがみ合いになります(苦笑)。「文献の有無より、遺跡や遺物の方が大事じゃない。論より証拠だし」と考える方もいるかもしれませんが、その辺はケースバイケースです。文献資料がない事をいいことに、偽史が捏造されることがよくあるからです。次回後編は、それらの問題についても触れてみたいと思います。
2020.01.28
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日本で壬申の乱が終わり、天武天皇が律令国家完成に向けた改革を進めている頃、唐と新羅で戦争(唐・新羅戦争(670~676年))も終わりました。新羅は旧百済領から唐軍を追い払ったものの、旧高句麗領では唐軍に敗れて鴨緑江の南に追い落とされ、鴨緑江北の広大な領土を放棄したことで、一応の決着を見ました。唐は朝鮮半島から撤退して新羅の謝罪を受け入れ、唐に臣下の礼を取る朝貢冊封体制の枠組みを維持する形で両国の戦争は終わりました。あっけない戦争の幕切れは、唐側に大きな要因がありました。この頃唐の高宗は眼病を患い(当時、道教の長生術として丹薬が流行していました。丹薬は服用すれば不老長寿の仙人になれるとされましたが、原料は人体に有害な有機水銀とヒ素の化合物でした。高宗はこの毒でほぼ失明状態になってしまったのです。丹薬は唐代を通じて流行していて、大勢の人間が命を落としました。盛唐期の詩人として有名な、詩仙李白も丹薬による中毒死説があります)、政治への気力を失っていました。元々自身の意思と言うよりは、妻則天武后の強い主導で始めた朝鮮半島の戦争ですから、泥沼化した戦争に嫌気がさしていたという事もあったのでしょう。加えて東部国境で唐軍が消耗している間に、北部国境では一度は滅んだ突厥が再び勢力を盛り返し、西部でもチベット系の吐蕃(633~877年)が唐の国境を脅かしはじめていました。いつまでも朝鮮半島で、だらだらと戦争を続けている余裕は無くなっていました。戦争を主導していた則天武后が、朝鮮半島放棄と戦争終結にあっさり同意したのも、夫高宗が事実上政務を執れなくなって、朝廷の全権を彼女が握ったこともあり、これ以上無理をして、華々しい対外戦争の勝利にこだわる必要がなくなっていたからでしょう。彼女の権勢はすでに揺るぎ無かったからです(高宗崩御後、彼女は息子中宗を廃位して、自らが女帝(以後は、「武則天」と書きます)となり、唐を乗っ取って「周」と言う王朝を建てることになります)。一方史上初めて朝鮮半島を統一した新羅ですが、長年の戦争による国土の荒廃は大きいものでした。新羅の文武王は、敵だった唐との友好関係に神経をとがらせました。もし唐が再侵攻してきた場合、屈服するしか無いほど国力が消耗し尽くしていたからです。彼は、百済や高句麗遺民の新羅の骨品制(身分制度)への編入に努め、三国民の宥和に尽力しました。唐に連行された百済王族とは異なり、半島に残留者が多かった高句麗王族に積極的な婚姻政策を行って、新羅・高句麗両王家の統合をはかっています。また、隋の煬帝が高句麗に10年以上後に侵略の罪をならして、戦争になった身近な歴史から、唐への警戒を解くことは無かったようです。いざという時、唐の侵攻を牽制出来る同盟相手は日本しかいません。文武王は日本へも朝貢して国交回復を求めました。新羅が日本にも臣下の礼をとったのは、いまだ日本の方が国力は上であり怒らせたくなかったからでしょう。朝貢使を迎えた天武天皇は、鷹揚かつ好意的に使者を遇しています。内戦を経て即位したばかりの天武天皇にとって、朝鮮半島からの久々の朝貢は、威光を内外に示すまたとない機会であり、彼もまた、いざという時、唐に対抗するには、日本と新羅の連携が必要と考えていたのでしょう。こうして日本は、まず新羅と講和・国交回復に成功しました。興味深いのは、新羅とは親しく(日本を主君、新羅を臣とした主従関係ですが)交流を進めた天武天皇は、唐に対しては何のアクションも起こさず放置しています。一見すると、兄天智天皇が、唐を侮って痛い目を見たのと同じ轍を踏んでいるように見えますが、天武天皇の外交センスは聖徳太子に並ぶほど優れたものでした。彼はわざと唐に使者を送らないことで、日本の存在感を唐にアピールしていたのです(異説として、武則天のやり口を知っていた天武天皇が、彼女を嫌って、遣唐使を送らなかったという見解もあるようです。この話は唐の朝廷内の事情を深く知るレベルに、天武天皇に唐に識見があったことが伺えます)。さらに日本の法制度を整備して(天武天皇の存命中に完成せず、孫の文武天皇(位697~707年)の時代に、大宝律令(701年)として完成しました)、法治国家への改革を急ぎました。日本が唐と同等の法を整えてから使者を送れば、唐は日本を軽んじないと天武天皇は考えていたのです。事実、律令を整えてから日本は遣唐使派遣を再開しますが、法治国家になっていた日本を、唐は滅亡するまで最重要国として厚遇します。また「日本」という国号と、「天皇」の君主号が法的に定められたのは、天武天皇の業績です。一見たいした事ではないように思えるかも知れませんが、国家と君主の有り方を法的に明確にした点で、非常に大きな意義がありました。一方、天武天皇は国内の融和にも力を尽くしています。壬申の乱の近江側の関係者に恩赦を下し、自身の子と天智天皇の皇子を招き、共に親族として慈しみあうよう諭しています(吉野の盟約。天智・天武両天皇の血縁関係はかなり複雑です。天武天皇の妻大田皇女と鸕野讃良皇女(後の持統天皇)は、天智天皇の娘(母は蘇我石川麻呂の娘)、天智天皇の息子大友皇子の妃十市皇女は、天武天皇と額田王の間の娘で、何重にも及ぶ婚姻・血縁関係を結んでいました)。また親新羅派と言われる天武天皇ですが、兄天智天皇が側近を百済系の人材だけで固めたのとは異なり、新羅系の渡来人を特別優遇せず、優秀と思えば、百済系や高句麗系、旧近江朝の者だろうと抜擢しました。この方法は、唐の太宗がかつて行ったのと同じスタンスであり、有能な人材の登用と人心の安定にもつながりました。特に、新羅系氏族を特別待遇しなかったことは、朝鮮半島諸国の政治的影響力を、日本の朝廷から排除していくことにもなりました。彼ら朝鮮系氏族は、藤原氏や、皇族から臣籍降下した源氏や平氏などの新興貴族層が隆盛していくのと反比例して、平安中期ごろまでに、日本古来の豪族たちとともに没落し、歴史の表舞台から消えていきます。これにより、日本の朝廷は、日本の国情に合った政策と、国の運営に集中できるようになっていきます。大宝律令の完成した702年(大宝2年)に、日本は遣唐使派遣を再開しますが、律令国家に生まれ変わった日本を、唐(正確に言えば、武則天が唐朝を簒奪していた時代なので、周という国になります。この頃武則天は老齢でかつての手腕に陰りが出ており、705年に唐朝復活をはかるクーデターで失脚し、廃位されていた中宗が皇帝に復位して唐朝が復活し、失意の中翌706年没します)は高く評価して、大きな歓迎をします。日本の序列は、先に唐に朝貢を続けていた新羅より上位におかれました。これは律令を持ち法治国家になった日本を、唐に準ずる「文明国」と、評価したからです。かつて天武天皇がにらんだ通りの展開でした。これにより白村江の「戦後」は終わり、日本と唐の親密な友好関係が始まります。そして日本と唐の友好関係が深まるのに反比例して、日本と新羅の中は悪化していきました(両国が最も親密だったのは、天武天皇と文武王の頃でした)。この頃、新羅も唐との友好関係が安定し、唐との戦争を意識した日本との連携も必要なくなっていました。加えて外交的には、新羅は日本にも臣従する立場でしたので、それが強い不満になっていたのです(「新羅朝貢使の非礼」と言う話は日本の朝廷で何度か取り上げられており、実際に実施されることは無かったものの、何度か「新羅討伐」が、朝廷の議題になっています)。何らかの取り決めがあったわけではありませんが、8世紀半ばには新羅からの朝貢使、日本からの遣新羅使は途絶え、直接交流は無くなりました。こうして6世紀半ばから始まった東アジアの変動は、約200年を経てようやく安定期を迎えました。同時にこれは、中国、日本、朝鮮半島の棲み分けが完了した瞬間であったとも言えます。東アジアは、それぞれ核となる国の部分を保ちつつ、関わり合いながら発展していくことになります。長々と続けました東アジアの話は終了です。次からはアメリカ大陸の話に入っていきたいと思います。
2019.11.13
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壬申の乱は日本史の教科書にも出てくる有名な事件ですが、実は乱の詳しい原因はハッキリわかっていません。一般的に「皇位継承を巡る争い」と言われるのは、それ自体が嘘ではありませんし、挙兵の理由はわからなくても、乱の経緯と経過、結果を説明出来てしまうからです。他には、・長年の天智天皇と大海人皇子との対立が、天智天皇の死後表面化した・白村江の敗戦に伴う様々な賦役に、豪族たちも民衆も耐えられなくなり、天智天皇の方針からの変更を求めていた・身分の低い母を持つ大友皇子への不満から(彼の母は、伊賀采女宅子娘と言われています。有力豪族の娘ではなく、出自は定かではありません)、朝廷と豪族たちの支持が大海人皇子(父は舒明天皇、母は宝皇女(皇極天皇/斉明天皇)と、天皇家の血統は彼の方が濃い)に集まったためといった説が上げられています。文学作品で有名なのは、天智天皇と大海人皇子の額田王を巡る不和説ですね(もともと大海人皇子の愛妾だった額田王を、天智天皇が見初めて強引に奪った話です)。もちろん、話としては面白いですが、歴史て研究の視点から見れば、この説を支持する歴史の先生はいません(大海人皇子は挙兵の理由は残していません。従弟の有馬皇子の死に関しての批判以外では、ほとんど兄への批判は口にしていないためです)。いずれの説も大きな決定打といえるものは無く、上記のような理由が幾十に絡み合った結果であると思われます。また現在では、壬申の乱を日本のみにおける権力闘争とみるのは正確ではない、唐・新羅戦争(670~676年)など、東アジアの動向にリンクした面があるのではないかという意見もあります。ここではそういった視点に触れながら、壬申の乱を見てみたいと思います。天智天皇が崩御する前年、朝鮮半島では唐・新羅戦争(670~676年)が勃発していました。これをみて百済の遺民たちを中心に、再び百済復興の機運が高まりを見せていました。しかし白村江の大敗に懲りていた天智天皇は耳を貸しませんでした。彼は百済を再興できる時期は過ぎ去ったと考えていたのです。それに再び朝鮮半島情勢に介入することは、せっかく進めている唐との関係改善をぶち壊しにするものでした。天智天皇は百済遺民たちに言質を与えず、実質的に協力を拒んで世を去りました。天智天皇の態度に彼らは落胆しましたが、一方で後継者に大友皇子がなったことは歓迎しました。というのも、吉野に出家した大海人皇子は、親新羅派と目されており(前にブログで触れましたが、新羅の武烈王や文武王と、個人的な親交もあったと言われています)、頼れる相手ではありませんでしたが、父天智天皇と同じ親百済色の強い大友皇子なら、聞き入れてくれるかもしれないからです。彼らは積極的に、大友皇子に取り入ろうとしました。大友皇子がどのように百済再興派に接したか、彼らの嘆願をどう考えたかは、記録は残っていませんが、大友皇子を支えていた側近は、百済と関係が深い蘇我氏系の人物が多いので(唐との国交正常化を進めた蘇我入鹿が、蘇我氏からはみ出た存在でした)、若い彼が百済再興に興味を抱いた可能性はあるかもしれません。また今回は百済だけで無く、高句麗の再興派も活動しており、百済・高句麗両遺民によるかなり大がかりな運動になっていたのかもしれません。そんな中、大海人皇子が挙兵(672年7月)することになります。大友皇子の行動が不明なように、大海人皇子挙兵の経緯もまったくわかっていません。小説などでは、叔父の力量を恐れた近江側(大友皇子)が、刺客を送ったことがきっかけ、もしくは大海人皇子側が、近江側が油断する隙を虎視眈々と狙って、まんまと挙兵したとなりますが、いずれも想像の域を出ません。私のお話する事もその想像の1つになりますが、百済や高句麗の再興派の動きと大友皇子の反応は、朝鮮半島への再出兵に積極的と見えたのかも知れません。もちろん、史料的な裏付けは無いのですけどね・・・。なので乱がどのような理由で起こされたかではなく、その後の展開に絞ってみていきたいと思います。吉野を脱出した大海人皇子とその一行は、東の伊勢(三重県)に向かい、伊勢神宮を詣でて兵を募ります。伊勢神宮は天皇家の氏神天照大神をまつる聖地ですので、自身の皇位正当性を主張し、挙兵をはかる場所としてうってつけの場所でした。加えて伊勢は古代東海道(伊賀から、常陸までいたる道路)が通る交通の要衝であり、美濃(岐阜県)の不破の道(古代の東山道。近江から美濃を抜けて陸奥まで至ります)と合わせて押さえれば、近江と東国の交通を遮断することが出来ました。この地を大海人陣営が抑えた効果は絶大でした。東国から集まってきた軍勢(彼らは、近江朝側が、動員をかけた軍勢でした)は、そのまま大海人陣営に参陣してしまいました。白村江の大敗以後、東国の豪族たちは、近江朝の大きな賦役と重税に苦しみ、反感を募らせていました。彼らは近江朝に敵対する大海人陣営に、喜んで寝返ってしまったのです。大海人軍は、東国勢の来援で3万とも5万とも言われる大軍が集まりました。このように東に向かった大海人皇子の判断は、二重三重に利点があったのです。伊賀の高市皇子(大海人皇子の長男。母が皇族で無く筑紫の豪族の娘であったため、生涯立太子される事はありませんでしたが、政治や軍事に高い能力を持ち、父や義母鸕野讚良皇女(後の持統天皇 位690~697年)から絶大な信頼を受けました)の軍と合流した大海人皇子は、不破の道を押さえ、近江侵攻へ向けた準備を着々と進めました。対する近江側も兵を募りますが、東国は大海人陣営に阻まれ、九州や西国の豪族たちは動員に応じようとせず(百済への出兵に動員されて大きな打撃を受けたのは、主に九州や西国の豪族たちでした。その後も九州や瀬戸内海要塞化の労役が続き、近江朝に対する反感が強かったようです。仮に大友皇子が再度の朝鮮出兵に積極的だったとすると、その点も嫌ってサボタージュしていたのかも知れません)、近畿でしか兵を集められませんでした。しかし近畿でも、兵集めは順調ではありませんでした。例えば河内の豪族たちは、天智天皇が謀殺した有間皇子と親交が深かったので、公然と近江朝への協力を拒みました。大海人側に寝返ったものが多かったようで、河内から西の援軍はまったく当てに出来ませんでした。こうしてみると、大友皇子の不幸な状況がよくわかります。彼自身の器量や能力とは関係なく、父天智天皇が余りにも反感を買いすぎていたため、父とゆかりのある蘇我赤兄などの蘇我氏一族や、百済再興派の渡来人や豪族たちしか味方がいないのです。戦況は、近江側がようやく兵をかき集めて美濃へ進軍しようとしたところ、大和で大海人に味方した大伴吹負が挙兵して飛鳥を奪ったため、足元の火を消すべく、そちらへ軍を送らねばならず、また直接敵対の姿勢はみせていないものの、不穏な気配を見せる河内の豪族たちや西国からの攻撃を警戒して、西にも警戒兵力を割かなければならなかったので、ただでさえ少ない兵力を集中運用させることが出来ません。美濃に送った先陣も、一足先に不破の道を抑えた高市皇子の軍に敗れて、足並みは乱れました。一方、順調に東国から集まってきた軍勢をまとめ上げた大海人皇子は、軍を二手に分け、一軍を大和に送って吹負を助けさせ、自身が指揮する本隊は近江へ侵攻しました。そして672年8月終わり、瀬田橋の戦いで近江側は大敗を喫し、大友皇子は自害し壬申の乱は終わりました。戦後処理を終えた大海人皇子は、翌673年2月、飛鳥に都を戻し天皇に即位しました(天武天皇 位673~686年)。そして日本は天武天皇の元で、聖徳太子から始まった行政改革(律令国家)を完成させていくことになります。
2019.10.19
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↑写真は、2000年頃に友人と福岡・太宰府に旅行に行った時の写真で、太宰府政庁跡です。白村江の大敗で、日本の朝廷は激震に見舞われました。朝鮮半島の権益喪失に留まらず、唐・新羅による日本侵攻の可能性も出てきたからです。責任者の中大兄皇子は失脚や暗殺という流れになってもおかしくありませんが、この日本始まって以来の国難が、逆に彼の権勢を守ることになりました。つまり、「内輪もめをしている場合では無い」状態になったのです。兄と対立していた皇弟大海人皇子も協力していることから、当時の日本が、中大兄皇子を中心に挙国一致体制になっていたことがうかがえます。中大兄皇子は親百済政策を改め、唐との講和の糸口を探りました。幸い665年に唐から使者が来日したので(唐使の表向きの来日理由は、「百済で捕虜になった日本兵送還の相談のため」ですが、日本にまだ戦争継続の意思や、準備が整っているかを探るのが主目的でした。この時点では高句麗が健在でしたから、日本の再軍事介入を唐は警戒しており、状況によっては、高句麗侵攻の前に、日本侵攻をする必要もあったためです)、中大兄皇子は「先の戦争は、百済の遺民たちの百済復興を助けようとしただけで、唐に敵対する意思は無い」と弁明し、唐使に随行して使者を送り、日本の立場を説明させて、交渉の第一歩をつかむことが出来ました。しかし、唐に再三敵対姿勢をとってきた中大兄皇子に、唐がすぐに態度を変えることは無く、双方手探り状態の交渉が続きます。中大兄皇子は唐の心証を良くしようと、唐の衣服や制度、暦を取り入れて、親唐ぶりをアピールする一方、防衛体制強化も同時進行でおこなっています。講和を求めつつ軍事力強化をはかるのは、一見すると矛盾に見えるかも知れませんが、外交とは、常に交渉と武力行使の表裏一体のカードで成り立っているのです。交渉だけに狗って国防を軽んじるのは、国家として自殺行為なのです。まず、九州最大の政治拠点、大宰府(福岡県太宰府市)前面に水城(みずき。壕と土塁による直線的な構造の防塁です)を築きました(664年)。さらに大野城(福岡県大野城市)、基肄城(佐賀県三養基郡基山町から福岡県筑紫野市にかけて)、長門城(場所は不明。現在の山口県西部)など山城を築き、北九州と瀬戸内海地域の要塞化を進めました(665年)。そして667年には、都を飛鳥から内陸の近江京(滋賀県大津市)に遷しました(近江遷都から、壬申の乱が終わる672年までを近江朝ともいいます)。これらは、唐・新羅連合軍が侵攻してきた場合の対応策です。侵攻が開始された場合、対馬を占領、橋頭保として(対馬には667年、金田城が築城され、侵攻に備えています)、大陸との玄関口、大宰府が一番の攻撃目標となるでしょう。大宰府を攻め落とし、都のある近畿圏目指して瀬戸内海を東進してくることになります(余談ですが、この時代から約600年後の元寇の際も、同じルートで進行が計画されています。古代から中世にかけての航海術や渡海能力では、このルート選択がも最も堅実なのです)。そこで北九州と瀬戸内海地域を要塞化して、簡単に攻め落とせないようにする一方、飛鳥より内陸の大津(当時は都のある飛鳥から見て「辺境」に等しい感覚でした)に都を遷して、領内深くまで防衛線を構築して、徹底抗戦出来るようにしたのです。有名な防人の制度(九州防備のため主に東国から徴兵された農民兵。導入当初は税の免除はなく、兵役期間中の武器食料も自前だったため、農民側に負担が大きい過酷な軍役でした)が導入されたのもこの時です。これらの準備が完了した668年、ようやく中大兄皇子は天皇に即位しました(天智天皇 位668年~671年)。天智天皇が即位した同年、高句麗が滅亡しました。それを受け天智天皇は、遣唐使を派遣しました。これは高句麗の滅亡後、返す刀で唐と新羅が、日本に侵攻してくる可能性を探る情報収集の意味合いが強いものでした(この頃「唐と新羅が攻め寄せてくる」という風聞がかなり広まって降り、世情が一番動揺していたようです)。しかし、唐・新羅の日本侵攻はありませんでした。というのも、百済と高句麗という共通の敵が無くなった両国の仲は、急速に険悪化していたのです。唐は占領した百済領に熊津都督府を、高句麗領には安東都護府を設けて直接支配しました。新羅にも鶏林州郡都督府を置き、新羅の文武王(武烈王の長子。位661~681年)に、鶏林州大都督の位を新たに贈りました。王では無く都督(長官という意味になるかと思います)に任ずると言うことは、実質的に唐が朝鮮半島全体を、直接支配する考えであることを意味しました。唐は、長い戦争で主導的な働きをしたのは自分たちですから、朝鮮半島支配は当然と考えていました。新羅についても、助けねば滅んでいた以上、独立国では無く藩属国と見なしていたのです。対する新羅は、唐は他民族の他国であり、高句麗と百済は同じ民族という認識でした。戦争が終わった以上、唐は朝鮮半島から出ていくべきだと考えていました。文武王は、百済や高句麗の遺民を、骨品制の支配下に組み入れを進める一方、唐の支配地域にいる百済・高句麗の遺民たちを扇動して、反唐運動を展開しました。「敵の敵は味方」と言う言葉がありますが、共通の敵がいなくなった唐と新羅は、今度は互いが敵になっていく結果になったのです。そして、670年に新羅の支援を受けた高句麗遺民軍が、旧高句麗領に駐留していた唐軍を奇襲攻撃したことで、両国は戦争に突入しました(唐・新羅戦争(670~676年))。これにより、日本侵攻の可能性は完全に無くなりました。そして今までとは逆に、唐、新羅とも、日本を自陣営に取り込もうと関係改善を望むようになりました。危機が去ったことに安堵したのか、671年10月、天智天皇は病に倒れました(異聞として、狩りの際何者かに襲撃されて、重傷を負ったのが原因とする説もあります)。死を悟った彼は、皇弟大海人皇子を病床に招き、皇位を譲りたいと打診しました。しかしこれは、天智天皇が反目する弟に仕掛けた最後の罠だったと言われています。彼は次の皇位を、息子の大友皇子(弘文天皇。位672年。ただし彼が天皇に即位していたかはハッキリしません。弘文天皇の名は明治時代になって贈られたもので、大友皇子の皇位が確認できる史料はないので、このブログでは、「弘文天皇」ではなく「大友皇子」と表記します)に継がせたかったのです。しかし大友皇子は年若く(この時23歳)、朝廷内の人望は大海人皇子が圧倒的だったので(天智天皇が、敵を多く作りすぎた結果でした)、最有力後継者候補の皇弟に、声をかけないわけにはいかなかったのです。もしここで、大海人皇子が兄帝の「頼み」を聞き入れた場合、天智天皇は皇弟を暗殺しようと、兵を潜ませていたと言われています。しかし蘇我安麻呂からの警告(この頃の蘇我氏一族は、蘇我赤兄を筆頭に天智天皇へ忠誠を誓い、その謀略に協力する者が多いのですが、安麻呂だけは大海人皇子と仲が良く、天智天皇や身内の動きを見て危険を感じており、参内した大海人皇子に、「大君(天智天皇)とお話する際は、十分ご注意ください」と耳打ちしました)を聞いていた彼は譲位を断り、その日の内に剃髪出家して、吉野に去りました。喜んだ天智天皇は、後継者に大友皇子を指名し、672年1月崩御しました。しかし天智天皇の死は、新たな戦乱の呼び水になりました。日本古代最大の内戦と言われる壬申の乱です。
2019.09.22
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崩御した斉明天皇の喪があけた661年5月、百済王豊璋を奉じた日本軍(厳密に言えば、この頃は「日本」という国号では無いので、「倭国」です)の第一陣1万が、安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市泰造田来津らの将帥に率いられて、百済南部に上陸しました。日本軍は新羅軍を駆逐しながら、百済再興派と合流を果たしました。ここに一時的ではありますが、百済再興はなりました。あとは第二陣以降の主力軍の到着を待ち、百済軍と連携して、唐・新羅軍と決戦に勝利して講和に持ち込むというのが、中大兄皇子(この時点で彼はまだ即位しておらず、天皇ではありません。天皇が空位のまま、皇太子などが政務をおこなうことを「称制」といいます)の構想でした。この時、唐・新羅軍は、高句麗方面に展開していて、日本軍の百済上陸を迎撃出来る兵力に余裕が無く、後手を踏みました。百済は唐軍の後方策源地になります。日本に奪われたままでは、唐軍は、敵地で崩壊してしまいますから、唐軍総司令蘇定方は、全軍を百済に戻し、日本・百済連合軍の殲滅を優先することを決断しました。本国から劉仁軌率いる水軍の増援を受け、唐軍は水陸から反撃に転じました。一方、ここまでは順調に戦況を有利に進めていた日本・百済側ですが、思わぬ落とし穴が待っていました。まず、豊璋王と百済再興派の重鎮鬼室福信が対立して、豊璋が福信を処刑する騒動が起きました。両者の対立と破局の原因は、『日本書紀』によると、福信が豊璋を殺そうとしたため、豊璋が先手を打って彼を処断したと記されています。小説などでは、鬼室福信が豊璋王を傀儡にしようとしたため、処断したと言う構図で描かれることが多いですが、当たらずとも遠からずと言ったところでしょう。両者の間に方針を巡る対立か、権力を巡る暗闇があったのは間違いなさそうです。この出来事は、百済再興派が一枚岩では無く、組織が脆弱であることを示しています。帰国したばかりの豊璋王は、本国に支持基盤を持たず(ストレートに言えばただの御輿でした)、再興派をまとめきれない上に、再興派は「百済を再興する」と言う共通目標以外では、各々の考えがバラバラで、烏合の衆だったのです。またどのような事情であれ、今まで百済軍を指揮していた鬼室福信の死は、百済軍の戦意を大きく低下させました。そして日本軍にも大きな問題点がありました。統一された指揮系統が存在しない、総司令官不在の小部隊の寄せ集め状態だったのです。指揮系統の問題は、主力の第二陣約2万7千(指揮官は上毛野君雅子、巨勢神前臣譚語、阿倍比羅夫等)以降の軍勢が上陸しても変わらず、むしろ軍勢が増えた分、まとまりが無くなって混乱が生じるようになりました。遠征軍を統率するには、中大兄皇子か大海人皇子の渡海が必要ですが、称制の中大兄皇子は日本を離れるわけに行かず、戦争に反対の大海人皇子は遠征計画からはずされており、派遣出来る統率者がいません。つまり日本軍と百済軍も、数の上では5万近い兵力に膨れあがっていましたが、共に内部に問題があって、まともに戦える状態ではなくなっていたのです。そして663年8月、白村江の戦いを迎えることになります。白村江口に布陣した唐・新羅連合軍約10万、軍船約170隻に対して、日本・百済連合軍約5万、軍船約1千隻でした。そして日本・百済側が正面攻撃を仕掛ける形で、戦端が開かれました。劣勢な日本・百済側から攻撃が始まった理由について、『日本書記』は「我等先を争はば、敵自ら退くべし(こちらが先に攻撃を仕掛ければ、敵は恐れて撤退するだろう)」と記載しています。その場の勢いだけで始まったような杜撰な攻撃だったようです。兵力差はありますが、水上戦で船の数では日本側が上回っていましたから、船の数と機動力で、兵力差をカバー出来ると思っていたかも知れません。しかし唐軍は大型船で舷側が高く、日本の軍船は接舷攻撃を仕掛けられず、逆に火攻めで軍船を焼き払われたため、惨敗を喫しました。水上戦闘の敗北は、制海権の喪失へと繋がりました。水軍を消耗した日本軍と百済軍は陸上に退避てし抵抗を続けましたが、唐・新羅軍側は、まず水軍の機動で日本軍と百済軍の退路を遮断する構えを示して撤退を誘い、それでも頑強に抵抗する拠点は、大軍をもって一つ一つ潰していきながら、日本・百済軍を百済南部へと、追い詰めていきました。日本側に、新たな増援を送る余力はなく、もはや百済再興も戦局の挽回も不可能でした。現地の将帥たちは日本への撤退を決定しました。白村江で生き残った日本側の軍船は、日本軍将兵および脱出を希望する百済遺民(例えば、豊璋王の弟善光や、鬼室福信の子鬼室集斯は日本に亡命します。善光は百済王(くだらのこにしき)の姓を賜って、子孫は平安時代ぐらいまで中級貴族として存続しますが、百済王家はその後没落して、歴史から消えていくことになります)を載せて、朝鮮半島を脱出しました。そして663年末までに日本軍は撤退して、百済は完全に滅びました。一連の戦闘で、日本側は約1万の将兵と軍船400隻を失ったと言われています。指揮官クラスも、安曇比羅夫、朴市泰田来津などが戦死しています(安曇比羅夫は白村江で戦死、朴市秦田来津は10月に、退却戦の最中に戦死したと伝えられています。その他の将帥については具体的な記述は無く不明です)。豊璋王は日本へ脱出せず、高句麗に亡命して戦い続けますが、高句麗滅亡により唐に捕らえられて流刑に処せられ、その後の消息は不明です。百済の完全滅亡と、日本軍撤退によって、ようやく後顧の憂い無く、唐は高句麗へ全面攻勢をかけられる体制が整いました。唐が高句麗への攻撃を再開したのは666年です。そして2年後、高句麗は滅びました。かくして日本の朝鮮半島における権益は完全に失われました。しかもそれだけに留まらず、唐・新羅による日本本土侵攻の危機を迎えることになります。その危機を、日本がどのように乗り切っていくかについて、触れたいと思います
2019.09.16
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日本が百済再興のための軍事行動に向けて動き出した時、朝鮮半島は燎原に火を放った状態になっていました。百済は唐軍13万の大軍の侵攻により、あっけなく滅亡しました。しかし唐は、長年の宿敵である高句麗への侵攻を優先して、降伏した百済軍の解体を不十分なまま高句麗へ転戦してしまい、新羅軍も唐軍と共に高句麗への進軍を要求されて百済から撤退したため、少数の守備兵しか残されていませんでした。百済人たちは敗戦のショックから立ち直ると、「侵略者」である唐と新羅に対して反乱が起こりました。それは百済滅亡からわずか一月後のことです。百済再興派は、日本にいた義慈王の息子豊璋の百済王就任と帰国を嘆願し、それを聞き入れた中大兄皇子は、斉明天皇に九州遠征を要求し、渋る天皇や豪族たちを押し切って、661年正月、筑紫の朝倉橘広庭宮(現在の福岡市博多区のあたり)へ行幸させました。百済派兵に向け、本格的な大本営を筑紫に設置したのです。後世から見ると、世界帝国である大唐帝国に、小国の日本が勝てるはずは無いのにと、無謀な戦争という意識が強いと思います。もちろんその通りなのですが、当時の朝鮮半島は、百済は滅亡したものの、上で書いたように、百済遺民たちによる蜂起が激しく続いていました。さらに高句麗はいまだに唐に頑強に抵抗しており、長年の戦争で唐も新羅も疲弊していました。唐も東部国境だけに、いつまでも大軍を貼り付けておく余裕は無いため、百済を再興させられれば、唐はそれを承認して、再び三国の状態に戻して講和に持ち込めるという目算を、中大兄皇子は持っていたようです。つまり、唐・新羅と全面戦争をして唐や新羅を滅ぼすといった全面戦争では無く、百済再興の既成事実を作ってしまえばそれで戦争は終わるという、局地戦争を想定していたようです。この考えは後の唐の反応を見ると、ある程度は現実に即した計算だったようですが、結局の所、中大兄皇子の思惑は、百済再興派の力を過大評価していた甘い構想の上にあった事は否めません。話を少し戻します。中大兄皇子は思惑通り、筑紫への斉明天皇遠征にこぎ着けましたが、ここで思わず抵抗に遭遇します。まず斉明天皇は日本軍渡海に消極的で、何かにつけて計画を延期して、中大兄皇子に反対する姿勢を示しています。さらに皇弟(同父同母弟と言われていますが、詳細は不明です)大海人皇子(後の天武天皇)は、準備不足の点をあげて、戦争反対を唱えました。実際、この時筑紫に集められた軍勢は、武具の調達も不十分で兵の練度も低く、船も足りず大急ぎで作っている最中でしたから、皇弟の主張は正しいものでした。筑紫の仮宮では、中大兄・大海人兄弟による言い争いが連日続き、斉明天皇も大海人皇子の意見に賛同して、朝廷は意見を二分しました。兄中大兄皇子が親百済派なら、弟大海人皇子は親新羅派と言われています(中大兄皇子が百済の王子豊璋と仲が親密だったように、大海人皇子は人質で日本に来ていた新羅の王子と仲が良く、新羅の武烈王や文武王(武烈王の息子。位661-681年)とも、交流があったと言われています)。お互いの主張と行動だけを見ていれば正しい色分けですが、正確な評価では無いと思います。二人の考え方の差は、現状認識後の展望の違いであったと思います。中大兄の構想は先に触れたので、ここでは大海人皇子の構想に触れたいと思います。彼は百済再興に懐疑的だったようです。復興には日本の莫大な援助が必要ですが、それだけの支援をしても、立ち直るか未知数です。それならば、百済の権益などをいくつか日本に譲渡されることを条件に、新羅と手を結んだ方が良いという考えだったようです。会社に例えるなら、莫大な負債を抱えて倒産した企業を再建させようと援助しても、労力ばかり多くて採算が軌道に乗るかわかりません。それなら今までの投資損には目をつむり、倒産会社のライバル会社と関係改善をして、大取引にする代わりに譲歩を引き出して、新しい関係を構築していった方が良いのではという考えになるでしょうか。さらに、新羅側からのアプローチもあったようです。前に当時の日本には、半島の三国から人質がいたという話をしましたが、人質の新羅の王子を通じて、中大兄皇子には内密に、新羅の武烈王と交渉をしていたようです。宿敵百済を滅ぼした武烈王ですが(彼は娘を義慈王に斬殺されたこともあり、個人的に百済に強い恨みがありました)、百済が唐領になり、朝鮮半島に唐の影響力が拡大してきたことに、強い危機感を持つようになっていました。新羅からすれば、百済領は新羅のものであり、唐の行きすぎた半島への進出(あくまで新羅視点です)は、望ましくなかったのです(実際、唐の則天武后は、いずれは新羅も滅ぼして征服する野心を持っていたと言われています)。また長年の戦争は、新羅の国力をすでに限界まで疲弊させていました。今だ続く高句麗との戦争、百済遺民の反抗、唐の半島進出という苦境が続くところに、さらに背後から日本に攻められては、新羅は滅亡しかねません。そこで武烈王は、新羅が占領した百済領の一部を返還して、名目上百済を再興させることで遺民たちを宥めつつ、日本にも権益回復の妥協をしようと考えていたようです。もしこの交渉がまとまれば、日本が戦争に巻き込まれること無く、百済は復興します。そのため斉明天皇と大海人皇子は、中大兄皇子に内密に新羅と交渉していたのです。なぜ内密の交渉だったのかと言えば、「百済を再興させて・・・」と言うところでは、中大兄皇子の構想も、武烈王の提案も同じでも、新羅主導の百済再興では、日本の政治的な影響力低下は免れません。それでは彼の政治的な失点を挽回出来ないので(むしろ傷が深くなります)、意味が無いのです。ですが秘密交渉はまもなく破綻しました。661年6月に武烈王が、8月には斉明天皇が世を去り、双方の計画推進者がいなくなってしまったからです。史料を見る限り、武烈王はこの頃体調を崩しており、病死なのは間違いないようです。しかし斉明天皇は、前日まで元気だったのに突然急死していることから、暗殺説もあります。もし斉明天皇の死が暗殺であったとするなら、彼女の死で得をする人間は一人しかいません。ただしそれは証拠も何も無い話なので、「暗殺説もあります」と言うだけにとどめたいと思います(ちなみに『日本書紀』には、「(蘇我)入鹿の亡霊が大君(斉明天皇)を殺した」という噂が記されています)。ハッキリしているのは、武烈王と斉明天皇の死によって、もはや日本の朝鮮半島派兵を止められる者はいなくなったと言うことです。ここに7世紀の国際戦争に、日本も正式に参戦することになったのです。
2019.08.28
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655年、斉明天皇が即位し、政治の実権は皇太子中大兄皇子が握りました。この頃、考徳天皇が死の直前に派遣した第3回遣唐使が帰国し、唐からも答礼使が来日しました。中大兄皇子は唐使と謁見し、表向きは考徳天皇時代からの、唐との関係正常化路線に変更が無いよう振る舞いますが、謁見の席に、唐と関係が微妙になっている百済の王子豊璋を同席させるなど(当時日本にいた高句麗や新羅の王子は同席を許されていません)、実質的には唐よりも、百済との関係を重要視していることをアピールしました。日本側の反応は当然唐本国にも伝わり、両国の関係は微妙になりました。このように見ていると、中大兄皇子は大国唐を敵に回す「危険な遊び」をしているように見えますが、別に彼は唐と戦争したかったわけでは無かったと思われます。恐らく彼は、日本が百済に対して、強い影響力があることを誇示して、唐の朝鮮半島への影響力が拡大するのを牽制しながら、日本の権益を確保するという考えを持っていたのだと思われます。唐使をあしらった中大兄皇子は、この後自身が天皇になるため、対抗勢力の排除に乗り出します。スケープゴートにされたのは、孝徳天皇の一人息子で従弟の有馬皇子でした。考徳天皇が崩御した時、彼はまだ15歳と年若く、立太子(皇太子)は中大兄皇子でしたので、普通に考えれば中大兄皇子が次の天皇に即位するはずでした。しかし、結果は中大兄皇子の母で、有間皇子の叔母である宝皇女が、斉明天皇として重祚しました。これは考徳天皇を憤死させた中大兄皇子への、他の皇族や豪族たちの反発が強かったためと考えられています(ただし斉明天皇即位により、血縁上は有間皇子より、中大兄皇子の方が次の皇位を継承しやすくなったので、斉明天皇重祚は、彼主導の計画的なものだった可能性もあります)。考徳天皇の無残な最後から、有間皇子に同情、もしくは肩入れする皇族、豪族たちは潜在的に多かったようで、中大兄皇子への反対勢力の旗頭は有馬皇子になりました。しかし権謀術数に長けた中大兄皇子に、正面切って反抗することは若い彼には無理でした。有間皇子もよく理解していたようで、病を理由に湯治で飛鳥を離れるなど、権力中枢から距離をとって、身辺に気を遣っていました。しかし658年12月、斉明天皇と中大兄皇子が休養のため飛鳥を離れたため、有間皇子は飛鳥に残留せざるを得なくなりました。この時彼に、蘇我赤兄が接近してきました。赤兄は斉明天皇と中大兄皇子の政治を盛んに批判し、思わず有間が同意すると、赤兄は中大兄皇子に、「有間皇子が謀反を企んでいる」と密告しました。蘇我赤兄は初めから中大兄皇子の意を受けて、有間皇子を陥れるために接近していたのです(石川麻呂の失脚後、蘇我氏は朝廷から排除されていました。有間皇子の変後、再び蘇我氏は復権していますから、事情を推察できそうです)。有間皇子は捕縛され、中大兄皇子の前に引き立てられました。中大兄皇子は、「謀反の企てを認めるなら、其方の身だけは助けてやろう」と持ちかけました。反中大兄派の豪族たちを排除出来るなら、今後有間皇子に味方する豪族たちはいなくなりますから、生かしておいても害にはなりません。「謀反の企て」が発覚した以上、どちらに転んでも、中大兄皇子にとって損はないのです。しかし薄幸な皇子は、「天與赤兄知。吾全不知(全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない)」と答えました。一見するとわかりにくいですが、これは中大兄皇子に対する痛烈な批判でした。「自分が謀反など企んでいないのは、天の神々も(偽りの密告をした)赤兄も知っていることではないか。あなたもご存じのことだろう。身に覚えのない罪を認めたりしない。あなたは後世に悪名を残すがいい」そう言っているのです。激怒した中大兄皇子は、すぐさま有間皇子を絞首刑に処しました(皇族を処刑する際の格式を無視した、無残な死刑だったと言われています)。有馬皇子は19年の短い生涯を閉じました。処刑を知った斉明天皇は、連座した豪族たちの多くに死一等を減じました。でっち上げ同然の罪で命を落とすのは、甥一人で十分と思ったのか、我が子中大兄皇子の強引な手段に不信感を持ったのかも知れません。この後母子の仲は、徐々に歯車がかみ合わなくなっていきます(この件で、弟の大海人皇子とも関係が悪くなります。その意味では、中大兄皇子にとって、後日に悪影響ばかり出る行為だったと言えそうです)。計算違いはあったものの、対抗勢力を潰して己の権力を強化した中大兄皇子ですが、国際情勢の激変の翻弄されることになります。659年、第4回遣唐使が派遣されました。これは戦争が激しくなっている朝鮮半島情勢に対して、唐がどのような対応を講じているかを探る意味合いのものでしたが、唐側はその意図を見抜いており、遣唐使一行は、丁重な扱いながらも、唐の都長安に軟禁状態に置かれました。この時、海岸地域には唐の百済遠征のための船団や軍の集結が進んでおり、百済と親密な日本使節に、侵攻軍の陣容を見せるわけにも、気取られるわけにいかなかったからです(使節は、百済が滅んだ翌661年日本への帰国を許されます)。こうして日本がまったく気がつかないまま、唐の百済侵攻が開始され、百済は滅びました。知らせを聞いた中大兄皇子は、ただちに軍の動員と編成を命じました。百済滅亡により、日本は朝鮮半島の権益は唐に奪われました。これは親百済王政策を推し進めてきた彼にとって、致命傷に近い政治的な大失点でした。手をこまねいていれば、手の届くところまで来たはずの天皇の座が遠のくだけで無く、彼自身が暗殺される可能性すらありえました。挽回するには武力介入しかありません。都合が良いことに、祖国の滅亡を聞いた百済の王子豊璋は、斉明天皇と中大兄皇子に、百済再興のために軍事支援を嘆願しており、また百済からも遺臣で、鬼室福信と言う武将が来日して、豊璋を新しい百済王として(唐に降伏した百済の義慈王と王族たちは、すべて長安に連行されたため、王になれる人物が、他にいませんでした)復興支援を要請してきたので、百済人の嘆願により、百済を再興させるために日本は出兵するという、大義名分も得られていました。こうして約180年ぶりに、日本は朝鮮半島での大規模な軍事行動を開始することになります。
2019.08.21
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さて、前回から再び書き始めた日本の話は、主に外交の視点から事情を見ていますので、日本史の教科書などから大きく離れている点があると思います。それをまずご理解、ご注意いただければ幸いです。645年6月、三韓(高句麗、百済、新羅のこと)から貢ぎ物が届いたとの知らせを受け、蘇我入鹿は宮中大極殿に参内しました。そこで中大兄皇子(皇極天皇の息子。後の天智天皇)、中臣鎌足らに斬りつけられ、暗殺されました。世に言う乙巳の変です(「大化の改新」の方がなじみありますが、この呼び方は広義的には入鹿暗殺後の朝廷の改革全体をさすので、入鹿暗殺は「乙巳の変」と呼ぶのが正確です)。参内した際に、剣を取り上げられていた入鹿は抵抗できず、皇極天皇の面前で、冤罪を叫びながら斬殺されました。翌日には中大兄皇子を大将とする討伐軍が蘇我邸を包囲し、入鹿の父蝦夷も自害して、蘇我宗家は滅びました。教科書でも大きく取り上げられ、知名度の高い乙巳の変ですが、実は多くの謎をもったミステリアスな事件です。例えばクーデターを実行した中大兄皇子ですが、彼と母皇極天皇の後ろ盾になっていたのは蘇我入鹿でした。なぜ恩人である入鹿を裏切ったのかが不明なのです。その上、従来の「蘇我氏が天皇家を簒奪しようとしたため、それを阻止しようと中大兄皇子と中臣鎌足が、暗殺を実行した」説が正しかったとすると、功労者である彼が、何故この後20年以上天皇になれなかったのか、その理由も不明です(『日本書紀』では、乙巳の変の後、「天皇に推挙されたけど断った」という流れになっていますが、恐らく形式だけのもので最初から天皇になる序列から、外されていたと見られています)。現在、中大兄皇子は実行犯に過ぎず、この後即位した軽皇子(孝徳天皇。位645~654年)が、本当の首謀者なのではとする説も出ています。というのも、中大兄皇子と鎌足以外のクーデター賛同者をみると、蘇我石川麻呂(入鹿の従兄弟で蘇我氏庶流)や阿部内麻呂など朝廷の重鎮がいますが、彼らは軽皇子と関わりが深い人物です(ただ石川麻呂は、乙巳の変の少し前に、軽皇子の仲介で娘を中大兄皇子に嫁がせて、急に関係が深くなっています)。しかし軽皇子が首謀者であったとしても謎が残ります。というのも動機がないのです。彼は特に入鹿と関係は悪くなく、利害の対立も無かったようで、本当に入鹿暗殺を主導したのか不明です。特に即位後は、遣唐使派遣など、入鹿の政策をほぼ踏襲しているのも不可解です。そこで今回注目するのが、前回ちらっと触れた朝鮮半島三国(特に百済)の政治的な影響力についてです。入鹿の主導する日本と唐の国交正常化案は、日本を唐から切り離しておきたい朝鮮三国側からすれば、余計な政策以外の何ものでもありませんでした。妨害工作がおこなわれた証拠や、どの程度の影響力を持っていたかを歴史史料から見つけることは難しいですが、彼らが乙巳の変を引き起こしたとする考えが当時からあった事は、わずかながら記録に残されています。「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣(韓人が鞍作(入鹿)を殺した。私の心は痛い)」この言葉は、蘇我入鹿に次期天皇候補として遇されていたとされる古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子で、中大兄皇子の異母兄)が、入鹿暗殺を知った際に口にした言葉です。韓人とは朝鮮半島の人という意味です。曖昧な言い方ですが、恐らく古人大兄皇子の脳裏にあったのは、百済人だったと思われます(この後触れていきますが、中大兄皇子は当時の朝廷内で新百済派筆頭で、考徳天皇も百済の影響を強く受けた人物でした)。さらに暗殺の場が、朝鮮半島からの朝貢の場である事も、意味深と言えそうです。実はこの時、本当に三韓からの貢ぎ物が届いていたのかわかっていないのです(『大織冠伝』では、三韓の使者来日の報は、入鹿をおびき寄せる偽りであったとされています)。この辺の話は史料が少なく、推測ばかりになってしまうのですが、百済(もしくは親百済派)による、ヤマト政権への影響力については、古代日本史の研究を進める方法の1つとして注目していいように考えています。では、蘇我入鹿暗殺後の日本外交がどのようになったかを、親百済という視点に注意しながら見てみたいと思います。乙巳の変後、皇極天皇の譲位によって即位した孝徳天皇は、都を難波(現在の大阪市中央区あたり)に遷都しました。前述のように、考徳天皇は蘇我入鹿が提唱した遣唐使派遣を推し進め、朝廷内でも蘇我氏系の豪族たちを引き続き重用しています。つまり入鹿は殺したものの、その政治路線は引き継ぐし、蘇我氏も政権内に留めたのです。これを宗家が滅んだとはいえ、いまだ蘇我氏の力が強かったとみるか、別の理由があるかは不明です。乙巳の変後、考徳天皇と立太子(中大兄皇子)は深刻な対立関係に陥ります。それも従来の説だと事情がまったく見えてこないので、教科書などでは無視されていますが、親百済政策という視点から見ると、スポンサーの意向に忠実な中大兄皇子と、スポンサーの意向から軌道修正して、入鹿路線を引き継いだ考徳天皇との対立構造とみることが出来ます。あと教科書だと、中大兄皇子の功績のようなニュアンスで触れられる事が多い、大化の改新の公地公民政策や税制改革、朝廷の組織改革も、実際に手をつけたのは考徳天皇だったりします(もちろん、中大兄皇子も深く関わっていますが)。この時期、中大兄皇子が主導した事柄を見ると、異母兄古人大兄皇子や、義父蘇我石川麻呂を謀反の罪で自害に追い込むなど(両者とも、すぐに冤罪とわかるでっち上げの罪状でした)、黒い仕事ばかり目につきます。特に右大臣石川麻呂の死は、考徳天皇の政策に大きな悪影響となり、大化の改新が不十分に終わる原因になります。つまり中大兄皇子がやっていたことは、全体的に孝徳天皇の足を引っ張る事だったと言えます。両者の対立がピークに達したのは653年のことです。この年孝徳天皇は、中大兄皇子の反対を押し切って第2回遣唐使を派遣しました。怒った中大兄は飛鳥への遷都を要求しました。孝徳天皇が拒否すると、彼は母宝皇女(皇極天皇)や、皇弟大海人皇子、朝廷の官吏たちを強引に引き連れて、飛鳥を去りました。これは事実上のクーデターでした。片腕だった石川麻呂は亡く、乙巳の変の実行犯である中大兄の勢いに飲まれたのか、それともあらかじめ周到な朝廷工作がおこなわれた結果なのか、誰も孝徳天皇に従わず、天皇は翌654年に失意の内に病死して、宝皇女が重祚(一度退位・譲位した君主が、また元の地位に返り咲くこと)して天皇となりました(斉明天皇)。母の即位により、朝廷の全権を握った中大兄皇子による、親百済政策が始まることになります。
2019.07.08
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それでは今回から視点を変えて、7世紀頃の日本の対応を見ていきたいと思います。中国で話が長くなりすぎているので(汗)、主に外交政策から見える傾向を中心にして、なるべく話を長くならないよう頑張ってみたいと思います(多汗)。前に触れた聖徳太子の外交政策を、もう一段深く掘り下げてみたいと思います。聖徳太子は隋に遣隋使をおくり、日本と隋との国交正常化に尽力しました。教科書では、中国の進んだ文明や技術を日本に導入するためとしか触れていませんが、実はもう一つ理由がありました。これは教科書では触れられない話です。聖徳太子が政務を取り仕切っていた頃、日本は任那の拠点を失って朝鮮半島の権益を失っていました。太子は武力では無く外交でそれを挽回するため、隋と国交を樹立する道を選択したのです。なぜ隋と国交を結ぶことが、日本の権益確保に繋がるかというと、当時朝鮮半島は3つの国に別れ、単独で日本に対抗出来る国力を持つ国が、高句麗だけという事を考えれば理解できます。日本と隋の親密化(遣隋使は、貢ぎ物を持って行かなかったのに隋に優遇されたので、3国にとってその衝撃は大きかったようです)は、日本より国力の小さい百済や新羅にとって脅威でした。もし日本と隋が連携して圧力をかけてきたら、百済も新羅も屈服するしか道は無いのです。遣隋使派遣の効果は覿面でした。百済、新羅だけで無く高句麗までも日本に人質を送り、貢ぎ物を献上して、日本が求める製鉄技術や資源などを競って提供するようになりました。このように、遣隋使には、国際関係を見据えたしたたかな外交戦略の一面があったのです。日本の遣隋使派遣は計5回、614年で終了しました。これは中国が隋末唐初の戦乱で、使者の安全や目的が達成出来ないと判断されるからです。その後唐朝が興り、日本も遣唐使を派遣するわけですが、その時期は朝鮮半島諸国より遅い630年になってからです(日本は舒明天皇、唐は太宗皇帝の御代)。これは、聖徳太子(622年没)、蘇我馬子(626年没)、推古天皇(628年没)と、朝廷の要人が相次いで世を去って政局が混乱していたため、使者を送れなかったようです。しかも第1回の遣唐使は失敗に終わりました。遣唐使の答礼で、太宗は高表仁を日本に派遣していますが、そこで問題が起きたようで(理由は不明です。『旧唐書』は倭の王子、『新唐書』では倭の王と高表仁が言い争いになったと書かれていますが、日本側に記録されていません。しかしこの後10年以上遣唐使の話が沙汰止みになっていることから、日本側も唐の反応に強い不満があったようです)、太宗の親書は、日本に渡されること無く使者は唐に帰ってしまいます。隋の時代の親密さとは真逆の冷淡な関係から、日本と唐はスタートしました。しかし朝鮮半島諸国の日本への対応は変わっていません。恐らく中国との関係を抜きにしても、日本の国力は脅威であり、機嫌を損ねたくなかったのでしょう。例えば647年には、新羅から金春秋(後の武烈王)が朝貢使として来日し、孝徳天皇(位645~654年)に謁見しています。次期国王候補を日本への朝貢使にするほど、関係を重要視していた事が見て取れます。さて、日本の朝廷で再び遣唐使派遣の議がのぼるのは、640年代になってから、大臣蘇我入鹿によってです。蘇我入鹿というと、上宮王家(聖徳太子の子、山背大兄王の一族)を滅亡に追いやり、天皇家に取って代わろうとしたという悪役な面が強調される人物ですが、ここでは深く触れません。あくまで彼の考えていたと思われる外交政策を中心に、見てみたいと思います。入鹿は、遣隋使として隋に留学して学問を収めて帰国した学僧旻(みん。中国系の渡来人と言われています)の一番弟子でした。旻は当時、日本で最も学識があると言われていた人物です。入鹿は彼を通じて、国際情勢に理解を深めたと思われます。一方彼の父蝦夷は遣唐使には消極的で、来日した百済や新羅、高句麗の要人に、唐の軍事力についてよく尋ねていたと言うことから、唐の日本侵攻を警戒していたと考えられています(そのため彼が大臣だった時代、一度も遣唐使派遣を許しませんでした)。しかし入鹿は、父とは逆に、唐との関係改善をはかる事が、混迷する朝鮮半島情勢への深入りを回避しつつ、日本の権益を守ることが出来ると考えたようです。入鹿は当時の朝廷で、聖徳太子の外交政策を理解できていた数少ない人間だったと言えそうです。もちろん、従来言われている天皇家を簒奪しようとしていたという話を出すなら、唐の権威を利用して、天皇家に取って代わろうとしていたのかもしれません。しかし入鹿の構想は、皇族や他の豪族から同意を得られませんでした。上宮王家を滅ぼして以来、皇極天皇(位642~645年。のちに重祚し、斉明天皇となります。位655~661年)以外の皇族とは疎遠で、彼女以外に入鹿の支持者はいませんでした(上宮王家を滅ぼした理由は、従来の説では蘇我氏が支援する古人大兄皇子を天皇にするため、有力対抗馬だった山背大兄王を排除したと言われていますが、視点を変えれば、上宮王家は皇極天皇の皇統にとっても脅威な存在であり、上宮王家を滅ぼす事で、皇極天皇の権力基盤は強化された一面があります。そう考えると、親族を滅ぼされたにもかかわらず、皇極天皇の入鹿への絶大な信頼が変わらなかった理由は合理性があります。一方上宮王家を滅ぼした事は、蘇我氏内部でも異論があり、父蝦夷は「身を危うくする」と嘆いています)。また他の豪族たちも、朝廷内の権勢を独占する蘇我氏主導の遣唐使を許せば、さらにその専横をまねくと消極的でした。さらにもうひとつ、入鹿の構想を不都合に思う勢力がありました。朝鮮半島の三国です。彼らは日本と唐が親密化することを嫌いました(理由は隋の時と同じです)。この頃、人質に日本に来ている三国の王子や重臣の子弟たちを中心に、朝廷内には派閥が出来ていました(特に有力だったのは日本と交流が深かった百済派です)。三国の子弟たちは、日本の朝廷に仕えたり、学問を学んだりと(例えば百済の義慈王の息子で人質とした滞在していた豊璋は、入鹿と同じく旻に学んでいます)、それぞれの生活を送っていました。彼らは人質である一方、自国の外交官の役割も担っていますから、皇族や有力豪族たちと親交を結び、金品を送るなどして、盛んに自国への引き入れ工作をおこなっていました。特にこの100年衰退著しく、日本の支援を囲い込んでおきたい百済にとって、日本と唐の接近は、是が非にも阻止したい話であったと考えられます。こうして乙巳の変へと進んでいくことになります。
2019.06.29
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唐の太宗による高句麗遠征は、644年から645年にかけておこなわれました。この出兵は、名君として誉れ高い太宗の治世の中で、ほとんど唯一かつ最大の失敗であり、あわや隋の煬帝と同じ轍を踏みかけた危うい事例として知られています。自制心が強く、内政でも外交でもめざましい業績をたててきた太宗が、なぜ安易に高句麗との戦争に踏み切ったのか、明確な理由はわかりません。恐らく、対唐強硬派の台頭は唐の安全保障の脅威になる事、親唐派の王を殺害した者を放置することは、唐朝の威信を傷つけるものであった事が理由なのでしょうが、衛国公李靖(り せい)や宰相房玄齢(ぼう げんれい)等、重臣一同の反対を押し切っての強行は、およそ太宗らしくない行動でした(李靖は「玄成(諫言の士魏徴(ぎ ちょう)の字。魏徴は643年に死去しました)が生きていたら、止められただろう」と嘆いています)。太宗は自ら17万の大軍を率いて親征しました。遠征は遼東城攻略など一定の戦果は上げたものの、高句麗を屈服させることは出来ず、唐軍は撤兵しました(太宗も失敗に懲りたようで、2度目の遠征は実施しませんでした)。その後649年に太宗が崩御(享年51歳。死因は不明ですが、晩年痛風に悩み、しばしば意識を失う症状があったようです)したため、一端戦争は下火になりましたが、唐側は常勝不敗の太宗の名誉が傷をつけられたことに怒り、高句麗側は対唐強硬派の淵蓋蘇文(よん げそむん)が実権を握って戦争継続を主導したため、20年にわたって両国の戦争が続くことになります。唐と高句麗の戦争は、朝鮮半島情勢を再び大きく動かしました。この頃、新羅でも親唐派と反唐派に別れて争っていましたが、皇族の有力者金春秋(後の武烈王。位654~661年)は親唐派の真徳女王(位647~654年)を奉じて、国内を親唐路線にまとめ上げました。春秋は唐の心証を良くするため、衣服や官位、年号などを唐と同じに改め、高句麗との戦争にも積極的に加わるなど、様々な手を使って唐に接近を試みています。一方の百済も、唐への朝貢を欠かしませんでしたが、新羅に対して後れを取っていることに焦りを覚えていました。両国の国力は100年前と逆転しており、百済は朝鮮半島南西部に押し込められていました。国境を接するのは新羅一国となっており、唐に協力して対高句麗戦に参加する事は出来ません。また百済の朝廷では、高句麗よりも百済から多くの領土を奪った新羅への憎しみの方が強くなっており、その事が外交の大転換へと繋がりました。百済の義慈王(位641~660年)は、長年の敵だった高句麗と同盟に踏み切ったのです(麗済同盟)。高句麗側も唐と結んだ新羅の侵略に手を焼いており、これを牽制することが出来る百済との同盟に大いに喜びました。新羅が敵という点で両国の利害は一致していたのです。もちろん百済は高句麗とは異なり、唐と敵対する気はありません。敵はあくまで新羅のみです。しかし唐と敵対する高句麗と同盟することが、どれほど軽率で危険な行動であるかを、百済は理解していませんでした(ただしこの時点では、唐は百済を見限っていません)。こうして唐は高句麗と戦い、高句麗は唐と新羅と戦い、新羅は高句麗と百済と戦い、百済は新羅と戦う、いびつな図式になりました。唐が高句麗との戦争に消極的なのを見た淵蓋蘇文は、攻撃の主軸を新羅に定め、百済と協調して、新羅に大攻勢をかけました。めざましい戦果を上げたのは百済軍で、新羅軍を破り30を超す城を奪還して、過去100年間に奪われた領土の大半を取り戻し、苦境に陥った新羅は唐に助けを求めました。この頃、唐では大きな政治変動が起きていました。太宗の後を継いで即位した高宗は、父よりも祖父高祖に似て慎重な人柄だったため、高句麗との戦争に消極的でした。さらに彼の関心は、父太宗の寵妃の一人、武照(則天皇后)を妻にする事に夢中で(父帝の寵妃を妻にすることは、儒教倫理的にはなはだ問題があるため、高宗の伯父長孫無忌をはじめ、重臣一同が大反対していました)、それ以外のことに関心ありませんでした。結局、重臣たちの反対を押し切って、高宗は武照を妻にしますが(以後は則天武后と書きます)、中国史上唯一の女帝となる則天武后(女帝としては武則天と呼ばれます)は、野心だけでなく才知にも長けており、気の弱い高宗は、次第に彼女に操られていくようになります。彼女は結婚に反対した唐の重臣たちを次々と追放・粛清し、建国以来の功臣でもある長孫無忌も自殺に追いやりました(659年)。そして自らの立場を盤石にするため、華々しい対外戦争の勝利という装飾を望むようになりました。高宗が百済と新羅に対して従来の唐の立場を崩さず、対立する両国に、有効な打開策を示せなかったのに対して、武断的な則天武后は「天子(唐の皇帝)の詔勅に従わぬ百済は逆賊」「天朝(唐)の敵高句麗と結ぶ百済は敵」と単純な図式に考えており、戦争に積極的でした。高宗は必ずしも則天武后に同調していませんでしたが、そんな中、致命的な自爆をしたのが百済の義慈王でした。勝利に驕った彼は、新羅との講和を求める唐の使者を追い返したため、非礼に怒った高宗は、則天皇后の考えに同調して、百済を敵視するようになってしまったのです。百済も敵になったことで、唐の対高句麗戦争の戦略は大きく転換しました。この頃唐では、高句麗と戦い続けることに手詰まり感が強くありました。当時高句麗領だった遼寧省や吉林省は、地形も険しく道路事情も悪いので、大軍を送り込んでも上手く軍を展開させられません。加えて高句麗側は唐軍の侵攻ルートがわかっているので、自国の村を焼き払ってゲリラ戦を展開し、かなわないとみればさらに領内深くに退却するため、唐軍は労多くて功少ない戦いを強いられていました。しかし百済が敵になったことで状況は変わりました。今まで唐は友好国百済の立場を尊重して、軍を駐留させたりしませんでしたが、敵国である以上、百済を滅ぼす事に何の問題もありません。加えて高句麗の首都平壌は百済から近いので、占領した百済領を策源地として、南から攻撃することが出来ます。百済が敵になったことで、唐は逆に高句麗を攻めやすくなったのです。660年、高宗(実際の采配は則天武后)は将軍蘇定方(そ ていほう)を総大将に、13万の大軍を海路百済に侵攻させました。武烈王の新羅軍5万と対峙していた百済軍は、この背後からの予期せぬ一撃を受けて大敗し、義慈王は降伏、660年7月、あっけなく百済は滅びました。百済領を制圧した唐軍は、南から高句麗の首都平壌を突きました。淵蓋蘇文は、蛇水の戦いでかろうじて唐軍を破って進撃を阻止したものの、朝鮮半島の均衡は大きく崩れました。状況を立て直せぬまま665年に淵蓋蘇文が病死すると、彼の息子たちは後継を巡って内輪もめし高句麗は分裂しました。そして3年後、唐軍の侵攻で高句麗は滅びました。次回からは視点を日本に移して、見てみたいと思います。
2019.06.24
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玄武門の変の後、李世民(唐の太宗。他の「太宗」と区別するため、「唐宗」とも呼ばれています)は皇帝に即位しました。彼の治世は、「貞観の治」と呼ばれる唐の安定期の1つであり、唐の太宗は中国歴代皇帝たちの中でも、五指に入る名君と評価されています(私個人の評価では、3本の指の中に入ります。そこから先はその日の気分で順位が変わります・笑)。太宗はまず、兄建成や弟元吉の配下にあった者たちに恩赦を下しました。これは当時異例なことでした。前に魏晋南北朝時代の話をしましたが、この頃の中国では、敵対した者は、一族郎党、例え血を分けた兄弟・親族であろうと、赤子に至るまで皆殺しが慣習でした。父高祖も隋の皇族や敵対者に同じ事をしましたが、太宗はその血塗られた慣習を踏襲しませんでした(兄を殺し、また兄の子を死なせて(太宗は当初、建成の子たちを助命する意向を示していましたが、後難を恐れた義兄の長孫無忌(ちょうそん むき)の策略で、甥たちは殺されてしまいました)、帝位に就いた事に対する罪滅ぼしだと、指摘する歴史家もいます)。その結果、優秀な人材が太宗の元に集まりました。特に後世、太宗を支えた諫言の士として知られる魏徴(ぎ ちょう。字は玄成)は元々兄建成の側近で、太宗を早くから排除することを主張していた人物でした。そういう者を許して登用したのです。太宗が即位した時、唐の人口は約1500万人でした。30年前の隋の文帝の「開皇の治」時代が約4500万人でしたから、隋末唐初の戦乱が、どれほどのダメージを中国に与えていたかが察せられます。太宗は、ひたすら民の負担軽減と、国力の回復に専念しました。太宗の政治姿勢を知りたければ、『貞観政要』という本を読んでみることをお勧めします。『貞観政要』は太宗と臣下の者たち(特に出番が多いのが、皇帝の諫め役だった魏徴です)との対話集で、政治家を志す方は絶対に読んだ方が良い一冊です。この本を座右に置いた人物として、日本では徳川家康がいます。家康の政治姿勢を見ると、かなり太宗の影響を受けていることが見て取れます。話を元に戻します。太宗の政策は多くが成功しました。唐王朝300年の基礎は、彼によって作られたと言って過言ではありません。唐の全盛期は太宗の曾孫の玄宗(位712~756年)の「開元の治」であり繁栄の度合いこそ及ばないものの、戦乱から太平の世への脱皮となった「貞観の治」の功績はすこぶる大きいものでした。『旧唐書』は「(泥棒がいなくなったため)家々は戸締りをしなくてもよくなり、(旅先でも安心して食料が手に入るため)旅人は旅に食料を持たなくてよかった」と、この時代を礼賛しています。一方で2つ上手くいかなかったことがあります。1つは後継者問題です。太宗は、正妻長孫皇后(死後は文徳皇后と諡されています。太宗が中国歴代皇帝中五指に入る名君なら、彼女は五指に入る名皇后でした。夫婦仲もよく、三男四女に恵まれましたが、34歳の若さで急逝しました。彼女の没後太宗は皇后は立てることはなく(愛妾は大勢いましたが)、後年息子の問題が出ると、彼女の廟の前で一日中物思いにふけることが多かったと伝えられています)との間に3人の男子をもうけましたが、自分に気性のよく似た次男(長孫皇后の生んだ順番上の次男です。太宗の子全体で言うと四男です)魏王李泰(り たい)を特に可愛がったため、長男で皇太子の李承乾(り しょうけん)との関係が悪化しました。皇太子は精神を病み廃嫡されましたが、その大きな原因が、魏王の兄追い落としの陰謀だった事が露見したため次男も追放され、三男(全体の子としては九男)の晋王李治(り ち。後の第3代皇帝高宗。位649~683年)を皇太子にします。つまるところ、父高祖が味わった息子たちを失う悲哀を、形を変えて太宗も味わう羽目になったのです。太宗は皇太子となった李治を、全身全霊をかけて教育しますが(有名な逸話として、太宗と李治が舟遊びをした際、太宗は息子に「君主は舟であり、民衆は水である。水はよく舟を浮かべるが、水の流れに逆らえば舟は覆る。政治とは、船頭が舟を操るがごとく、民衆に気持ちに沿わねばならない」と諭したという話が伝わっています)、李治は父より祖父に似て、お人好しで優柔不断のきらいがあり、後に彼の皇后となる則天武后(そくてんぶこう。中国史上唯一の女帝武則天(ぶそくてん))によって、唐朝は壟断される悲運に見舞われることになります。もう1つは対外戦争です。日本とは異なり、地続きの中国は、どうしても戦争は避けられません。太宗の時代、唐に敵対してきたのは、北の突厥(とっけつ)、西の吐谷渾(とよくこん。現在の中国青海省にあった鮮卑族(せんぴ)の一派がたてた国)、そして高句麗でした。隋末唐初の戦乱に乗じた突厥は、たびたび北の国境を侵してきました。この頃突厥で実権を握っていたのは、隋の文帝の娘で突厥の可汗に嫁いでいた義成公主でした。彼女は隋に背いた唐を恨んでおり、その主導で突厥は唐に対して軍事的な挑発を繰り返し、唐の東西交易は遮断されていました。太宗は秦王時代の軍師であり名将の衛国公李靖(り せい)を登用して討伐に当たらせました(またまた話がずれますが、太宗と李靖の対話を記録した『李衛公問対』という軍学書があり、『孫子』『呉子』等と合わせて、中国では武経七書の一つとされています)。629年、出陣した李靖は突厥軍を完膚なきまでに破り、頡利可汗(いりぐ かがん)を捕らえ、義成公主を処刑して突厥を滅亡に追いやります(この際、煬帝の正妻蕭皇后と楊政道(よう せいどう)は李靖に保護されました。李靖は二人を唐で暮らせるよう太宗に上奏し、太宗は蕭皇后に隠居料を下賜し、楊政道には官職を与えて迎えています)。次いで634年に吐谷渾が唐に背くと、太宗は再び李靖を討伐に派遣して鎮圧させました。これにより、唐の北部と西部国境は安定し、東西交易が再び活発化していきます。『西遊記』で三蔵法師のモデルになった玄奘法師(げんじょう)が、天竺(インド)まで仏教の経典を取りに行くのは、この太宗の時代のことです。さしあたっての脅威は去り、高句麗問題だけ残りました。隋が滅びると、高句麗はぎこちないながらも唐と国交を結んでいました。高句麗の栄留王(えいりゅうおう。前王嬰陽王(えいようおう)の異母弟)は長安にすすんで人質を送り、隋の侵略を招いた兄嬰陽王と同じ轍を踏むまいと心を配っていました。一方の太宗も、高句麗は鬼門(文字通り、唐から見て鬼門方向にありますし)と見て、戦争をする考えは持っていなかったようです。しかし、高句麗が対隋戦勝記念塚を作り、戦死した隋兵の遺体や遺骨を晒し物にしていることを知ると、にわかに不快に感じて遺骨返還を求めました。太宗から見れば、遠く高句麗で命を落とした隋兵たちは、煬帝の暴虐の犠牲者であり、丁重に埋葬されるべきものでした。それを晒し物にするなど、人倫に劣る言語道断の話でした。栄留王は太宗の要求を当然と考え要求に応じますが、それが国内の対唐強硬派の怒りを買いました。強硬派からみると、記念塚で晒しものにしている隋兵の遺体は、中国の侵略に対する高句麗の輝かしい勝利の証でした。侵略者の遺体をさらし者にして何が悪い。これは勝利者である高句麗の当然の権利である。栄留王は、高句麗の輝かしい勝利の歴史を捨て、再び中国と従属関係に戻す裏切り者だととらえました。強硬派の筆頭淵蓋蘇文(よん げそむん)が640年にクーデターを起こし、栄留王ら親唐派の王族・貴族を捕らえられて処刑すると、驚いた太宗は高句麗討伐を決断します。再び高句麗を発端として、唐、朝鮮半島、日本は、激動の時代へと向かっていくことになります(日本の話はまだ触れませんが・汗)。
2019.05.30
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久々の西暦535年シリーズです。はぁ、話の脱線が長くなっていますなぁ(汗)。ここらへんで、話のピッチを上げていきたいところですが、どうなることやら・・・。隋のあと中国を統一する唐王朝ですが、歴史の教科書や資料集を見ると、「建国者 李淵、李世民」と書かれていることが多いと思います。何故唐朝の建国者は二人なのか触れてみたいと思います。隋末、唐国公当主は李淵(り えん。唐の高祖。位618~626年)でした。彼は煬帝の従兄にあたります。温厚で思慮深く質素で控えめな人物でしたので、倹約家の隋の文帝から可愛がられましたが、派手好きの従弟煬帝(ようだい)からは、面白みが無い奴とソリが合いませんでした。彼の性格が控えめだったのは、生まれついての気質でもあったでしょうが、出るクギは打たれる。派手に立ち回って皇帝など権力者に睨まれたら、一族誅殺の憂き目を見る当時の時代的背景が、人格形成に影響を与えていたのもあったのでしょう。そんな人でしたから、隋の天下が乱れ戦乱となっても、自分から動くことはありませんでした。一方、次男李世民(り せいみん。唐朝第2代皇帝太宗)は、父とは真逆の性格で、何事も積極果敢、才知にあふれ怖いもの知らずの気性でした。挙兵を躊躇う父に、「皇上(煬帝のこと)忠誠に値せず。天下のため暴虐を除いて民を安んじなくてはなりません」と決起を迫ったのは世民でした(息子にけしかけられて挙兵した李淵を、煬帝が馬鹿にした話は前に触れましたね)。王世充に破れて唐に亡命していた乱世の奸雄李密(りみつ。彼は楊玄感(よう げんかん)に反乱を唆したり、反乱軍の頭目翟譲(たく じょう)を暗殺して軍を乗っ取るなど、隋末の戦乱の陰の首謀者で、あちこちで災いを振りまいていました)は、李世民を見て「人中に龍を見た」と発言しています。「自分以外に天下を治められる者はいない」と自惚れていた自信過剰な奸雄をして、勝てないと思わせる器量を、若い李世民はすでに持っていたようです(ちなみに李世民の方は、李密を「反骨の相(人を平気で裏切る性格と言う意味)あり。いずれ天朝(唐)を乗っ取ろうとする寄生木」と信用せず、彼を挑発して準備不足のまま謀反に追いやり、即座に誅殺しています)。やがて唐が建国されると、皇帝に即位した李淵と、長男で皇太子となった兄建成(けんせい)は、長安に留まって内政を担当し、唐軍総司令官となった秦王李世民は、薛仁杲(せつ じんこう)・劉武周(りゅう ぶしゅう)・王世充(おう せいじゅう)・竇建徳(とう けんとく)・劉黒闥(りゅう こくたつ)ら、各地の群雄たちをすべて倒し、唐の天下統一を完成させました。つまり、唐朝の統一は李世民の軍事的手腕による功績が絶大なのです。それが歴史の教科書に、李淵と李世民の二人の名が書かれている理由です。後世の人間は「へー、そうなんだ」で終了出来ますが、大きすぎる李世民の功績は、誕生間もない唐王朝に暗い影を落とすことになります。なぜなら、長安にずっと留まっていて武勲のほとんど無い皇太子李建成からみれば、ずば抜けて武勲の大きい弟秦王李世民の存在は、大きな不安要素でした。弟の方は、戦乱が終わると軍から退いて、兄の次期皇帝を支持する態度を見せていましたが、宮廷の廷臣たち、重臣や唐軍の将帥たちのほとんどが李世民に心服しており、もし弟が帝位への野心を持った場合、みな弟になびく可能性が十分ありました。また弟の部下たちが、「功績に比して秦王殿下への褒賞が小さい」と不満の声を上げている事も、建成の苛立ちを大きくしました。父高祖はどう考えていたかというと、武勲の差はあってもそれは立場の違いであり(父帝が急死した際など、不測の事態に政務を取り仕切る必要から、建成は常に父のそばに控えている必要がありました)、長男と次男の間に器量の差はないと考えていたようです。しかし一方で、武勲の多い次男とその部下たちを宥める必要から、高祖は秦王に色々な称号や地位、宮殿を与えるなど破格の対応をしていました。父帝は両者のバランスを取っているつもりでしたが、そう思っていたのは高祖だけでした。さらに皇太子の不安につけ込み、毒を吹き込み続けた人物がいました。高祖の四男で、皇太子と秦王の同母弟斉王李元吉(り げんきつ)でした。優秀な兄二人に対して、元吉は素行が悪い人物でした。武辺者で軍功もたてていますが、諫言した乳母を殺害したり、狩りの際に田畑を荒らして農民を平気で踏み殺したりと、問題行動の方が多くて、父高祖や生母の竇夫人(とう)から疎まれていました。元吉は、「秦王は帝位を狙っており、皇上(父高祖)に取り入って皇太子を貶めている」と、ことあるごとに吹き込んだのです。疑心暗鬼に陥った建成は、次第に世民と反目するようになりました。何故元吉がそんな事をしたかと言えば、兄二人を共倒れさせるためでした。そうすれば次の皇帝の座は、自分に回って来ると打算していたのです。皇太子と秦王の関係は、次第に抜き差しならぬものとなっていきましたが、父高祖は相変わらず主導的な役割をまったく果たせませんでした。父からすれば、建成も世民も(ついでに元吉も)可愛い息子であり、排除するような事をしたくなかったのです。彼はどっちつかずの姿勢に終始して、現実から目を背け続けました。普段は積極果断の李世民も、この問題には優柔不断だったと伝えられています。関係が悪くなる前、建成と世民はとても仲が良かったのです。彼は兄との和解を望んでいました。しかし破局の時はやってきました。いっこうに動かない建成(兄もまた、弟を殺すことを躊躇っていました)にしびれを切らした元吉は、建成の名を騙って刺客を集め、世民を襲わせました。しかしこの企ては、襲撃を警戒していた秦王側近長孫無忌(ちょうそん むき。世民の幼なじみで親友、義兄(彼の妹が世民の正妻、のちの長孫皇后)にあたります)によって阻まれ、陰謀が露見することを恐れた元吉は、「秦王が謀反のため兵を集めている。今すぐ皇上に誅殺を上奏すべき」と説得したので、とうとう兄も弟を殺す決意をしました。翌日早朝、宮中に参内するため、玄武門にやってきた皇太子と斉王の一党は、突如城門に現れた秦王の手勢から襲撃を受けました。二人の動きは、内通者によって世民に伝わっていたのです(この期におよんでも、兄と話し合いをしたいと決断を躊躇う世民に、長孫無忌と参謀の房玄齢(ぼう げんれい)が、「殿下は我らが処刑場に引かれるのを見たいと仰せか?」と迫り、ようやく承知したと伝えられています)。建成は世民自身の手によって射殺され、逃亡した元吉は、世民が差し向けた追っ手の尉遅敬徳(うち けいとく。李世民配下で1,2を争う猛将。五月人形などで日本で売られている鍾馗様の像の元のモチーフになっているのが彼です。ちなみに敬徳は字で諱は恭。字の方が有名です)に討たれました。これを玄武門の変と言います。父帝は、すべてが終わってから事件のあらましを知りました。「謀反人を成敗致しました」とのみ答えて跪く世民に、高祖は「すまぬ、そなたには苦労をかけたな」と息子の背中をさすったと伝えられています。この騒動の責任を取る形で、高祖は世民に譲位しました。そして唐の太宗(位626~649年)の治世が始まることになります。
2019.05.26
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さて、今のところ、好調に「西暦535年」シリーズが書けています。ですが断言します。そろそろペース落ちます(え?)。618(大業14)年4月、煬帝を弑逆した宇文化及らですが、煬帝に「予言」されたように、その後は先の知れた話になりました。化及は秦王楊洪(煬帝の甥。煬帝の実子趙王煬杲(この時13歳)も江都にいましたが、父帝の死に号泣する趙王を見て、興奮した賊将の裴虔通が思わず殺してしまったため、直系の皇帝をたてられなくなりました。煬帝の正妻蕭皇后はかろうじて殺されませんでした)を皇帝に擁立し、自らを大丞相と称して、軍勢を率いて華北へ帰還をはかりましたが、この頃寄せ集めの反乱勢力の結束は、すでに瓦解寸前でした。お約束な話ですが、内部で権力闘争が始まったのです。化及は軍の実質的なまとめ役だった司馬徳戡を誅殺しました。名ばかりの将軍である自分とは異なり、実戦経験のある徳戡が、反逆することを恐れたのです。しかしこの結果、軍の統率は乱れてまとまりが無くなりました。10万の禁軍はただ10万の烏合の衆に変わったのです。彼らは黄河の南、河南地方まで戻ってきましたが、皇帝を弑逆した化及らを、唐の李淵(唐の高祖)も洛陽の王世充も嫌って無視したため、そこで行き詰まりました(ただし李淵は、煬帝弑逆に加わっていない宇文士及だけは受け入れたので、士及は兄たちを見捨てて唐に投降しました)。この事が、宇文化及の理性を完全に失わせたのかも知れません。彼は擁立していた秦王楊浩を毒殺し、自ら皇帝を称しました。「どうせ死ぬのだ。ならば天子になって、世の享楽を味わいたいではないか」と、泥酔しながらつぶやいたと言われています。こんな化及にまともな政治が出来るはずも無く、占領地では略奪暴行が吹き荒れました。化及の行き当たりばったりの凶行は、河北の群雄竇建徳を刺激しました。「わしは隋の天下に叛いた身であるが、宇文化及とやらの非道は見過ごせぬ。これを討って天下に正義を示したいと思うが、諸君の意見はどうか?」と、部下たちに問いました。ここでいつものように脱線しまして、日本では(実は中国でも)無名な、竇建徳について簡単に説明したいと思います。竇建徳は農民の里長(村長)の家に生まれ、天下への野心とは無縁の穏やかな人生を送っていました。その頃から、農民たちから正義感の強い誠実な人と慕われていたといいます。彼の人生が暗転するのは高句麗遠征の際です。二百人長となり後方任務に従事していた彼ですが、脱走兵を哀れに思い、逃亡を見て見ぬふりをし、匿って食事を与えたことを咎められ、戦後、家族を皆殺しにされたため、隋への反逆者の道を進むことになりました。建徳の人柄を慕って、土地を追われた農民たちや脱走兵などが彼の元に集まり、討伐軍を返り討ちにしながら、大勢力の反乱軍頭目になっていきました。農民出身の彼は、部下たちに略奪などを絶対許さず、降伏した敵兵にも寛大な姿勢で臨んだため、敵兵も彼を慕って付き従ったと言われています。建徳の勢力が強くなると、他の武装勢力の脅威にさらされた隋の地方県令や、官吏、軍人たちが投降してきたので(隋の朝廷が彼らや領民を守ってくれない以上、竇建徳にすがるしか無かったのです)、煬帝が殺された頃には、河北の大半が竇建徳の勢力下にありました。旧隋臣たちは、竇建徳を新たな主君と、気持ちを切り替えていましたが、一方で自業自得とは言え、かつての主君煬帝の無残な死を悼み、仇討ちを望む気持ちも抱いていました。彼らは建徳の言葉に、涙を流して拝礼したと伝えられています。618年10月、竇建徳は自ら5万の兵を率いて黄河を渡り、両者は衝突しました。兵力は宇文化及軍が上回っていましたが、指揮官の能力も兵の戦意も高い竇建徳軍に対して、実戦経験のある指揮官がおらず(反乱を恐れた宇文化及が、すべて粛清してしまいました)、士気も振るわない宇文化及軍は、戦うたびに数千もの戦死者を出しながら敗走し続け、618年12月、2万にまで討ち減らされた敗残兵とともに、宇文化及は聊城(現在の山東省聊城市)に逃げ込みました。籠城戦で逃げ場の無い宇文化及軍が必死に抵抗したため、竇建徳軍も攻めあぐね、戦いは一時膠着しました。しかし、翌年2月、竇建徳軍が攻城用の投石機を準備して、城門や城壁を破壊して城内に突入をはかると、宇文化及軍は総崩れとなり勝敗は決しました。宇文化及と智及の兄弟は、兵たちはおろか自らの妻子も捨てて、金銭や宝石の入った麻袋を抱えて逃亡しましたが、すぐに捕らえられて竇建徳の前に引っ立てられました。二人は、建徳の傍らに蕭皇后(聊城落城時、建徳は真っ先に彼女を保護しました)の姿を見つけると、「皇后陛下、お慈悲を!」と泣き叫びましたが、彼女が口を開く前に二人の首は刎ねられました。煬帝弑逆からわずか10ヶ月で、反逆者たちの命運は尽きたのです。竇建徳は蕭皇后に、この地に隠棲されるなら最大限の配慮をすること、もしご希望の地があるなら、責任をもってお送りすると申し出ました。皇后は突厥(モンゴル高原)へ行くことを希望しました。突厥は隋とは敵対関係にありましたが、文帝の時代、関係改善の一環として、突厥の可汗(王)に文帝の娘義成公主が嫁いでいました。蕭皇后と血の繋がりはありませんが、義理の姉妹になります。彼女は、たった一人になってしまった肉親の煬政道(煬帝と蕭皇后の孫で、この時はまだ赤子でした。唐の高祖が擁立していたもう一人の孫恭帝は、帝位を高祖に禅譲させられた後、殺害されていました)を、戦乱の外で守りたかったのでしょう。 皇后の要望を聞いた建徳は、突厥に使者を送って義成公主と連絡を取り、丁重に蕭皇后とその一行を突厥に送り届けました。この戦いの結果、竇建徳の勢力は黄河の南、山東や河南に拡大しました。また彼が見せた蕭皇后への配慮は、民衆からさらに人望を得ることになりました。建徳は自らの国を「夏」と定め、「夏王」と称して、王朝、国家としての組織を整備していきますが、やがて彼の夏国は、西で勢力を拡大してきた唐と、敵対・対決していくことになります。621年、両者は衝突しますが、竇建徳は虎牢関の戦いで秦王李世民に破れ捕らわれて、長安に送られます。彼を見た高祖は、すぐに処刑を命じました。唐の重臣・廷臣たちは驚き、「なぜ彼ほどの人物を殺すのです。何卒お考え直しください」と助命嘆願しましたが、その声の大きさが、一層高祖の態度を硬化させました。高祖からすれば、一介の農民から、華北の東半分を支配する一大勢力を築いた竇建徳の手腕、唐の重臣たちをも引きつけるカリスマ性は、畏怖するに値するものでした。昔から専制君主にとって最も恐ろしい敵は、隣国の名君名将では無く、自分に匹敵するかそれ以上の人望をもつ部下なのです。竇建徳を生かして許すなど、高祖は恐ろしくて出来なかったのです。かくして一代の義人、竇建徳は処刑場の露と消えました。高祖の判断は高くつきます。竇建徳が処刑されたことを知った彼の部下や河北の農民たちは、激怒して唐朝に反旗を翻し、建徳の親友で、竇建徳軍きっての猛将劉黒闥を盟主にすえて、突厥と同盟して唐に激しい抵抗を繰り返すことになります。唐朝が、竇建徳の残党を鎮圧するのに要した時間は3年、失った軍兵は10万にのぼったと伝えられています。こうして竇建徳の名は、歴史学的には、隋末唐初に現れて消えた群雄の一人として忘れ去られましたが、実は形を変えて彼の存在は今も息づいています。日本でも『三国志』に並んで人気のある中国古典に『水滸伝』があります。水滸伝に出てくる梁山泊の頭領宋江のキャラクターは、竇建徳をモデルにしていると言われています(もっとも竇建徳は武勇に優れ、知略にも長けていたので、宋江だけではなく、他のキャラクターを足して割った感じです)。『水滸伝』を読んだ時、その中に竇建徳のイメージを感じてみるというのも、1つの楽しみ方かも知れません。
2019.04.07
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度重なる重税と軍役は、民衆の隋朝への忠誠心を失わせていました。各地で反乱が相次ぎ、煬帝は有力諸侯に反乱鎮圧を命じますが、本人は酒色と漁色に溺れて国政を顧みなくなりました。そして戦乱が続く中原を避けて、江都(現在の江蘇省揚州市)へ行幸しました。比較的平穏な華南に一時的に避難して、煬帝は休息したかったのかも知れませんが、行幸は事実上、隋朝が華北を維持出来なくなっていることを、天下に示す事になりました。当初は、河南討捕大使(河南方面の反乱討伐軍司令官という意味になります)張須陀の奮闘で、河南の大部分を保持出来ていたので、隋はかろうじて統一王朝の体裁を保っていましたが、2年後、孤軍奮闘していた張須陀が戦死すると(彼はわずか1万の軍を率いて、数に勝る賊軍をたびたび破って河南を守っていましたが、朝廷からの支援もなく彼の軍は疲弊し、河南に勢力を拡大してきた翟譲率いる反乱軍10万に攻められて敗れ、非業の最期を遂げました)、江都と長安・洛陽との連絡線は絶たれ、煬帝は江都に孤立しました。この事態に至っても煬帝は国政を顧みようとせず、というより完全に国政を放棄して、江都の宮殿にこもるようになりました。そして皇帝のいない都長安は、隋朝に反旗を翻した唐国公李淵(唐の高祖。煬帝の従兄にあたります)が占領しました(618年。この時点では、煬帝の孫で長安に残留していた代王楊侑を皇帝(隋の第3代で最後の皇帝恭帝)にたてて、煬帝を強制的に退位させる形式を取っています)。唐の反乱を仕切っていたのは当主の李淵でなく、若干18歳の次男李世民(後の唐第2代皇帝太宗)でした。それを知った煬帝は、「息子に煽られて天子に背くとは、叔徳(李淵の字)はなんと臆病な男よ」と嘲笑したと言われています。もっとも煬帝自身は、その臆病な従兄と対決する勇気を持ち合わせていませんでしたが。河南失陥と唐の離反により、隋朝の瓦解は決定的になりました。西の山西から関中は唐の支配下となり、洛陽周辺は半ば自立した隋将王世充と、翟譲を殺してその軍を乗っ取った乱世の奸雄李密が抗争を繰り返し、河北では農民からのし上がった竇建徳が勢力を拡大しており、隋朝の支配領域は、実質的に江都とその周辺だけになっていました。一方華北が隋の支配から離れたことに、江都にいる禁軍(皇帝直属の近衛軍)10万の将兵たちは激しく動揺しました。彼らのほとんどが華北の出身で、家族を郷里に残していました。戦乱にあえぐ遠く離れた故郷と家族の身を案ぜぬ者はいません。脱走する者があとを絶たなくなってきました。折衝郎将(今の地位でわかりやすく言えば、近衛師団麾下の連隊長位の地位になるかなと思います)の沈光が「陛下が一言お命じ下されば、禁軍10万の将兵は、勇躍して叛乱軍を討ち、洛陽も長安も取り戻してご覧に入れます」と嘆願しましたが、政務を放棄した煬帝の耳に入ることはありませんでした。煬帝が脱走者を容赦なく処刑するよう命じたため、将兵たちの不満は、煬帝への敵意、害意となってくすぶり、動揺は江都に随行した重臣や官僚たちにも広がり、やがて半ば公然と皇帝弑逆の陰謀がたてられるようになりました。中心になったのは、隋朝きっての功臣宇文述の息子で、右屯衛将軍だった宇文化及とその弟の宇文智及でした。ちなみに、二人の下に士及という弟がいましたが、兄たちとは異なり、ほどほどの能力と穏健な人柄だったので、理性がまともだった頃の煬帝に気に入られて娘婿になっています(煬帝の義理の息子である士及は、謀議に加わっていません)。功績ある父とは異なり(高句麗遠征の失敗で一時失脚しましたが、翌年の楊玄感の反乱鎮圧で功績があったことから、許されて復位しました。江都へも随行し616年に病死しました)、化及と智及が煬帝の側近だったのは、父の功績を鑑みてのものであり、彼ら自身の功績はありません。それどころか、化及と智及は父の権力を盾に金品を強請り取ったり、他人の妻を拐かしたりと、「金持ちのどら息子」そのもので(化及は長安で「軽薄公子(頭の悪いおぼっちゃん)」と揶揄されていました。父宇文述は不祥事のたびに廃嫡を考えたものの、親子の情で見送り、代わりに自ら金を持って、被害者に謝罪して歩いていたと伝えられています)、功臣どころか佞臣、奸臣というべき存在でした。隋朝に寄生するしか生きる術のない彼らが、なぜ皇帝弑逆という暴挙に出たのか、明確な理由は不明です。ぶっちゃけ「頭が足りなかったから」で終わりな気がします(苦笑)。考えられることとしては、禁軍将兵の不満が高まりすぎて、反乱が起きた場合、側近の自分たちも煬帝と一緒に殺される可能性が高かったこと、彼らも江都に飽きており(江都での生活に満足していたのは、南朝文化に耽溺していた煬帝だけでした)、北の故郷に帰りたかった。人心を失った煬帝を殺せば、天下の名声と信望を得られると考えていたのかもしれません。宇文化及は司馬徳戡・趙行枢・裴虔通ら、煬帝に不満を持つ軍人や廷臣たちを味方に引き入れる一方、クーデターの邪魔になる折衝郎将沈光の軍を、偽の賊軍討伐の任務を与えて江都から追い出し(後日沈光は、隋将で唯一、煬帝の仇討ちをはかって、宇文化及の反乱軍と戦い、戦死しました)、準備を整えた宇文化及は、反乱を起こしました。反乱軍兵士を引き連れて化及と智及は、煬帝の寝室に押しかけると、主君に向かってその罪を弾劾しました。無言で化及の弾劾を聞いていた煬帝は、「佞臣を取り立て、国政を乱した」という言葉を聞くと哄笑しました。「政(まつりごと)を疎かにする朕は万死に値するか? よかろう、朕を殺すがよい。だが其方の言う佞臣とは誰のことか? 佞臣とは朝廷に功なく、天子に取り入り位をえた者であろう。其方らは父とは異なり、何一つ功なきにもかかわらず高き官職にあるが、誰が其方らを高位につけたのか? 佞臣とは誰のことであるか? 答えよ化及! 智及!天子の厚情を仇で返すとは、まさに天意に背く逆臣よの。其方らの行く末、先が知れておるわ」皇帝の嘲笑った言葉に、化及と智及は顔を青くして反論出来ず、「殺せ! 殺せ!」とわめき立てたと言います。煬帝は首にシーツを巻き付けられ、兵士たちに綱引きによって絶命しました。享年50歳。死に際して、一切の抵抗や命乞いはなかったと伝えられています。618(大業14)年4月、煬帝の死によって実質的に隋は滅びました。
2019.04.05
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隋が滅亡への道を進むきっかけとなった高句麗への遠征は、朝鮮半島南部の百済と新羅が、高句麗の討伐を懇願してきた事に端を発します。7世紀初頭、朝鮮半島は高句麗、百済、新羅の三国の戦乱が続いていました。特に百済は弱体化が著しく、領土の多くを高句麗と新羅に奪われていました。百済は最初日本に援軍派遣を要請したものの、総司令官の来目皇子(聖徳太子の弟)が病死して日本軍の渡海は中止になってしまい、代わって隋に助けを求めたのです。これを見た新羅は、百済と歩調を合わせることにしました。任那を併呑し、国家機構を改革して順調に強国化が進む新羅も、単独で高句麗と戦う力はまだ無く、ましてや大国隋を敵に回すリスクは避けたかったのです。そこで新羅も「高句麗の横暴に苦しんでいます」と言い出したのです。百済と新羅からの要請を受け、煬帝は高句麗遠征に趣味を抱きました。父文帝は中国統一を実現して、天下に武威を示しました。自分も高句麗を征伐すれば、同様に威光を示せると考えたのです。それに、598年に高句麗は突然隋領に侵攻して来ました。文帝は軍を送ったものの遠征に失敗しました。儒教倫理的に考えれば、煬帝が高句麗を討伐することは、父帝の汚名をそそぐ「孝」にかなったものでした。また、高句麗が支配する遼東半島と平壌(今の北朝鮮首都)は、漢代に楽浪郡がおかれ、中国の領土でした。その点から考えれば、「高句麗は中国の土地を奪った侵略者であり、奪われた領土を取り戻す」と、大義名分も主張できました。煬帝は高句麗の嬰陽王(位590~618年)に詰問と召喚状をおくりました。10数年前、隋に侵攻したことを長安に来て弁明せよと要求したのです。煬帝の要求に嬰陽王は恐怖しました。侵攻した件は謝罪が受け入れられて、すでに解決済みのはずなのに蒸し返されたからです(もっとも彼もやましいところがなかったわけではありません。隋と敵対していた突厥と密かに同盟していたからです)。彼は長安に赴けば生きて帰れないと考え、弁明書は送りましたが召還は無視しました。これこそ煬帝の狙いでした。彼は高句麗王が長安に来なかったことを口実に、高句麗討伐の動員令を発し、自ら琢郡(現在の北京)に親征しました。煬帝の命令で集められた軍勢は、『隋書』によると、113万3800名と伝えられています。さらに遠征軍の兵糧を運ぶ人夫も約200万人徴発されました。当時の隋の総人口は、約4500万人でしたから、男性人口13%弱の軍役・雑役という、非常に重いものでした。「これほどの大軍、(秦の)始皇帝も(漢の)武帝も率いたことはあるまい。朕だけだ」612年正月、遠征軍を閲兵した煬帝は、満足げに周囲に語りました。この瞬間、煬帝の権力は間違いなく頂点でした。しかしわずか6年後、彼のみならず隋という国家を死に至らしめる、破滅の始まりであったことを知るよしもありません。100万を超す隋軍の侵攻に対して、高句麗軍は国境での防戦を断念し、自国の村を焼き、井戸を埋めて、焦土作戦を展開しました。この非情な采配をふるったのは、高句麗の名将乙支文徳(生没年不明)でした。一説には彼は隋の遠征が始まると、偽りの降伏をして隋軍の内部に入り込み、隋軍の補給に問題があると見抜くと(やはり、100万を超す大軍を支える食糧の準備、輸送は容易なことでは無く、机上の計画では問題なくても、実際の輸送は無理が多く停滞してしまったのです)、脱走し高句麗に戻り、隋軍を領内奥深くに引きずり込んで疲弊させた後に、反撃に転ずるという手を取ったと言われています。隋軍は進撃すればするほど、苦しい戦いになりました。周囲には焼き払われた村の跡しか無く、飲み水の確保にも難渋したのです。隋軍の兵糧は、前線に運ばれる途上で、高句麗軍の襲撃で焼き討ちに遭い、遠征全体に食糧が行き渡らず、飢えに苦しむようになりました。隋軍は遼東城を包囲して攻撃を開始したものの、高句麗軍の必死の抵抗に(高句麗側も重要拠点である遼東城は放棄せず、徹底抗戦しました)、攻めあぐねていました。業を煮やした煬帝は、重臣の宇文述(遠征軍の事実上の指揮を執っていた皇帝の名代)に30万の兵を与えて陸路平壌を攻撃させますが、乙支文徳は平壌城まで約30里の薩水(現在の北朝鮮にある清川江)まで、隋軍を引きつけたところで反撃に転じ、食糧不足で戦意のなくなっていた隋軍を、一気に壊滅させました(隋軍30万の将兵の内、遼東城まで帰り着いた兵は、1万に満たなかったと言われています。激怒した煬帝は、生還した宇文述の官位を剥奪して庶民に落としました)。ここに至り、煬帝は撤兵しました。もしこの時点で、煬帝が遠征の失敗を謙虚に受け止め、高句麗との講和へ舵を切っていたら、隋の滅亡は無かったかも知れません。しかし彼は自分に屈辱を与えた高句麗を許しませんでした。翌年、約60万の大軍を動員して再遠征を開始しましたが(第2次高句麗遠征)、途中で将軍の楊玄感が反乱を起こしたため(彼は食糧輸送の責任者でしたが、それが不満で職務をおざなりにしていました。その事が発覚し、煬帝に誅殺されるのを恐れて挙兵しました)、遠征は中断しました。楊玄感の反乱は三ヶ月で鎮圧されたものの、触発された民衆の反乱が各地で勃発しました。高句麗遠征による重税と兵役の負担に、民衆は耐えられなくなっていたのです。しかし煬帝はこれを無視して、3度目の高句麗遠征を命じました(3度目の遠征軍がどれほどの規模だったかのかは、記録に残されていません)。一方の高句麗は、隋以上に疲弊しきっていました。元々隋と高句麗では国力に差がありますし、自国で焦土作戦を実施したため、国土の荒廃が著しかったのです。そこで乙支文徳の献策で高句麗は隋に降伏しました。乙支文徳は、高句麗に亡命していた隋将斛斯政を手土産に(彼は楊玄感の友人で、反乱に関係していると見なされることを恐れて、高句麗に逃亡しました。斛斯政が楊玄感の反乱計画を知っていたか不明ですが、逃げたことで当然反乱に連座していたと見なされました)、嬰陽王の長安召還や領土割譲など、隋の厳しい要求をすべて承諾しました。情報収集と分析に長けていた彼は、この後隋は、内乱で外に目を向ける余裕が無くなるとみていました。今さえしのげばどうにでもなると考えていたのです。どんな過酷な要求でも守る気がないので、何でも丸呑みしたのです(彼が言を左右にして引き延ばしたのは、隋軍の帰国に際して、嬰陽王を同行させない一点だけでした)。文徳の態度に、隋の廷臣のほとんどは、高句麗の姑息な時間稼ぎではと不信感を抱きましたが、煬帝は「手土産」に満足したため、講和を受け入れます(斛斯政は後日、洛陽の市で処刑されました)。こうして隋は撤兵しましたが、当然高句麗は朝貢せず、講和の条件はすべて反故にされました。翌614年、騙されてたことを悟った煬帝は激怒し、4度目の高句麗遠征の意向を示しましたが、もはや国外へ遠征する余力は、隋にはありませんでした。反乱は中国全土に広がっていたからです。次は隋の滅亡について触れてみたいと思います。
2019.04.03
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前回は、まるで教科書の話のようになってしまいました(汗)。今回からそういう話から離れる予定です。さて、中国を統一して太平の時代を迎えた隋ですが、不安要素がなくなったわけではありません。まずは隋の文帝の為人です。文帝は質素を好む倹約家で、信心深い熱心な仏教徒であり、それまでの中国の文化を守りつつ、法律や行政機構を近代化させる大改革を、強い決断力でやり遂げる強い完璧主義者でした。しかし半面、臣下の些細な失敗が許せない狭量ななところがあり、また猜疑心が強くて迷信深いところがありました。その負の部分が、皇帝になって以後、徐々に表面化していくことになります。宮廷には杖が置かれ、些細な失敗をした者や、期待された成果を上げられなかった者は、文帝自ら杖をもって、臣下を殴りつけたと言われています(それで命を落とした者も出たと伝わっています)。さらに晩年は占いに凝り、怪しい道士などを身辺に置くようになり、一層猜疑心や迷信深い部分が肥大していきます。こんな逸話があります。文帝はある日夢を見ました。それは、立派な楊(やなぎ)の木が、李(すもも)の木と喧嘩して、楊が倒されてしまう。その後洪水が起こり、楊の木が流されてしまうという夢でした。中国史に詳しい人なら、隋(楊氏)から唐(李氏)への王朝交代を、寓話にしたものだなぁと感じます。もちろん文帝も同様に考え、李姓で、水(さんずい)のつく人物が、隋を亡ぼすと考えました。彼がこの時脳内で浮かべた人物は、皇后の甥で、隋室(隋の皇族)に次ぐ大貴族唐国公李淵(唐の高祖)ではなく、夢を見た日に会見予定だった郕国公李渾という人物でした。しかし郕国公はすでに老齢で、特に才知や武勇に優れた人物ではなく、父大師(皇帝の補佐役)李穆将軍の功績で、貴族に叙せられている程度の人物で、お坊ちゃま育ちの好人物でした。さすがに文帝も、彼が隋に取って代われる人物とは思わなかったものの、雑談の時、郕国公の孫(彼は早世した一人息子しかおらず、息子の忘れ形見の孫の成長だけをよりどころにしている老人でした)の名前が「洪」であることを知ると、猜疑心を爆発させました。ほどなくして、郕国公の孫は賜死(君主から、死を命じられること)となりました。何の罪を犯したわけではない幼児が、文帝の見た夢が原因で罪なくして処刑されたのです。また、皇太子だった長男楊勇と対立し、これを廃立しました。楊勇は性格は温厚で学問にもはげみ、臣下からの評判の良い人物でしたが、奢侈を好む点があり、文帝は疎みました。こういう場合、母が父と息子の間を取り持ったりしますが、生母の独弧伽羅皇后もまた、楊勇が何人もの側室を持っている点を嫌っており(彼女は当時珍しい一夫一妻制の主張者でした。ただそれを夫文帝だけでなく臣下にも強要し、従わない者は容赦なく讒言して貶める悪癖がありました)、逆に夫に讒言して、皇太子廃立を勧めました。かくして次男の楊広、のちの隋の煬帝が皇太子となりました(楊勇は、煬帝が即位した際に、後難を恐れた弟の手で処刑されました)。この際、楊勇廃立に反対した宰相高熲(文帝を20年以上にわたって支えた名宰相で、彼の手腕なくして、隋の建国はなかったと言われるほどの功臣でした)を罷免するなど、有能な人材が徐々に排除されていきました。そんな朝廷内の不安要素の他にも、外からの脅威は依然健在でした。北のモンゴル高原では、柔然に取って代わった突厥が依然強い勢力をもって、隋に不穏な気配を示しており、東の高句麗も、北朝の混乱と柔然衰退に乗じて、北に大きく領土を拡大させて、隋の動向を窺っていました。そして589年に高句麗が遼西に侵攻してくると、隋への外からの脅威は現実のものとなりました。この時の高句麗の隋領侵攻の理由は不明です。中国を統一して誕生した超大国隋の対応能力を確かめるための、威力偵察だったのではないかとも言われています。しかしこの高句麗の行動は、両国の運命を大きく狂わせ、激動の7世紀への切っ掛けになっていきます。高句麗の侵攻に不快感をもった文帝は、30万もの大軍を動員して、高句麗討伐に派遣しました。しかし、今の北京を含む河北省地域は、戦乱の影響や西暦535年の大災害のダメージがまだ残っており、交通網も貧弱で食糧の補給もままならず、さらに天然痘が猛威をふるっていたため、遠征軍は戦う前に大きな損害をこうむりました。しかしこの時は大きな戦争にならずに終わりました。隋の大軍が国境近くに集結するのを見た高句麗が、すぐに謝罪して臣下の礼を申し出たからです。文帝も本心としては、戦争拡大を望んでいなかったため、この時の隋と高句麗の戦争は、大きくなる前に終息しました。604年に文帝が崩御し、中国史上屈指の暴君と言われる煬帝(位604~618年)が即位しました。彼の諡(おくりな)「煬」という字には、「礼を行わずに天を逆らい、民を虐げる」という意味があります。中国史上、ここまで酷い諡をおくられた皇帝は希です。ただし彼の悪名の半分は、後世に誇張され貶められたものでもあります。余談ですが、彼の名は、日本でも比較的知られているのではないでしょうか。かの聖徳太子が遣隋使を派遣し、その国書を受け取ったのが煬帝です。聖徳太子の事を教わると、煬帝も出てくるからです。有名な国書の冒頭文「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」は、私は小学校の社会の時間に習った際、かなり衝撃を受けた記憶があります。煬帝は「無礼な野蛮人の(国)書を、今後自分に見せるな」と怒ったと言われていますが、遣隋使の小野妹子が帰国する際には、答礼使(国書を奉じてきた相手国に対して、返礼に派遣される使者の事)に臣下の裴世清を随行させて、国書を日本に送っています。つまり煬帝は、日本(厳密にいえば、当時は「倭国」ですが)と国交樹立を選択したのです。彼は国書の文言に不快を感じたものの(煬帝が不快に感じた点は、「天子(皇帝)」という部分と言われています。「天子」を称せるのは、地上で唯一隋の皇帝のみであり、他国の「王」が、「天子」と称したことに腹を立てたということのようです)、日本が遠く海の向こうにある国で、大海を航海する危険を冒してまで、隋の天子(煬帝)への挨拶を欠かさなかった事を、好意的にとらえていたのだろうと言われています。そのため日本の留学生受け入れや、仏教や法律に関する書物などの提供を、快く応じています。この点を見てみると、遣隋使を受け入れたころの煬帝は、暴君ではなく、度量のある人物だったと言えそうです。話を元に戻します。即位前の煬帝は、父文帝の前では倹約家、母独弧伽羅皇后の前では、愛妾を持たず夫人を大事にする夫でしたが、実際には、廃立された兄と同じくらい贅沢好きでしたし女好きでした。彼はただ、親の前では「いい子」を演じていただけだったのです。こう書くと狡猾なイメージになりますが、良い言い方をすればTPOをわきまえられる性格だったと言えます。煬帝は廃立された兄楊勇と並ぶほどの文人・詩人でもありましたが、これは彼が兄同様、勉学に励んだ努力の賜でもあったのです。ただ、両親から押さえつけられていた期間が長かったためか、皇帝になってからその反動や自我が未熟な面が表面化し、歯止めがかからなくなってしまったように感じます。煬帝は即位すると、父文帝時代の鬱憤を解消しようとするがごとく、大興城(長安)の大拡張に、黄河と長江を結ぶ大運河建設といった大規模な土木事業に手を出していきます。煬帝のおこなった大運河建設は「女子供を含めて100万人以上を強引に徴発して、煬帝が江南で船遊びをするために建設した」と現代中国ではいわれており、暴政の象徴として強い批判がされていますが、もちろん建設理由は皇帝の船遊びのためではありません。工事に動員された人民には賃金が支払われており、今で言うところの失業者対策と、長い戦乱で住む場所を失い、流民化していた人々を定住させる意図がありました。作業が過酷だったのは確かなようですが、現地人がイメージするような、タダで民衆を酷使したものでは無かったので、同世代の記憶に民衆の怨嗟の声は残されていません。怨嗟の声が聞かれるようになるのは唐代に入ってからで、これは王朝が交代し、不満や恨みを自由に言えるようになった結果なのか、それとも煬帝を貶めるため、唐朝が脚色を加えたものなのかは、注意して見ていく必要があります。つまり大運河建設の理由は、後世実際に運用されたように、中国南北の物資移動を円滑にして経済を活性化させるためでした。大都市化を進めていた隋の都長安の、巨大な人口を支えるには、関中地方の農業生産力だけでは完全に不足で、江南地方から米を輸送しなくてはならず、その輸送のために必要なものでした。このように見ていくと、首都長安の拡張と大運河建設は、民衆の定住・安定化と経済発展を見据えた国家百年の繁栄を意図した大事業だった訳ですが、惜しむらくは、その恩恵を隋が受けることは無かったでしょうね。煬帝がつくった長安は唐代に世界都市へと発展し、大運河は中国経済を支える大動脈になっていきます。もしこの時点で煬帝が崩御していれば、彼の名は悪名にまみれたものにはならなかったでしょう。しかし煬帝の名声を地に貶め、暴君としてのみ記憶されることになる大事件が発生します。それは高句麗との戦争でした。次は、隋と煬帝を破滅に追いやる高句麗遠征に触れたいと思います。
2019.03.15
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本当は、前回で東アジア社会はひと段落させて、今回からアメリカ大陸に話を進めていく予定だったのですが、元中世中国史専攻(まぁ、私が専攻していた時代は、この頃から500年ぐらい後の南宋時代なんですけどね・苦笑)の私めとしては、ちょっと火が付いた感じです(苦笑)。大災害とは直接関係ない話になってしまいますが、6世紀半ばに大きく揺れ動いた東アジア社会は、隋の統一、日本の仏教採用、新羅の軍事政権化で、安定期を迎えたわけではありません。むしろ逆で、それらは次の7世紀の激動の世紀を約束するものでした。6世紀に始まった変動が、どのような流れを経て安定期を迎えたのか、そして現在の中国、日本、朝鮮半島の基礎ばとのように形成されていったのか、という点を、もうちょっと書いてみたくなったのです。まあ、脱線の延長戦ということで(汗)。それでは、隋の文帝によって、約400年ぶりに統一された中国から見ていくことにしましょう。文帝の治世は「開皇の治」と呼ばれる安定期でした。彼は長年の戦乱で疲弊した民衆の生活に気を配り、民の負担の大きな土木事業などはおこなわず、煩雑になりすぎた法律や行政機構の整理と再編をおこないました。まず中央省庁は三省六部(門下省. 尚書省. 中書省の三省と、尚書省の下に吏部・戸部・礼部・兵部・刑部・工部の六部門を設置しました)に統合しました。地方も隋の統一当時、300に及ぶ州と、その下に郡と県がある複雑で、煩雑すぎるものした。文帝は、州の再編統合を進める一方で、郡を廃止して、州と県の二体制に、地方行政を改編整理しました(州県制)。これにより、隋の行政機構は、中央・地方とも前時代に比べて大幅にスリム化されました。省庁と州権の統合で、不要になった官吏をリストラして(特に隋朝への忠誠心に疑問のあるものを、合法的に追い出すことが主目的と言われています)、国庫の負担も軽減させることができました。また、府兵制(簡単に言えば、農民たちに自前の武器を持たせ、兵役につかせる制度です)と均田制(国が農民に対して、農地を給付して税を納めさせる制度。給付者が死ねば、土地は国家に返納しますが、荒れ地などを開墾した土地の一部は、世襲を認めたので、勤労意欲を高めました。余談ですが、均田制は、日本では大宝律令下、班田収受法として採用されています)を採用しました。これらの政策は、400年に及ぶ戦乱からの復興を意図するものである一方で、国民を土地に定住、縛り付けながら中央集権体制を確立し、国民皆兵とする一石二鳥の意図でもありました。そして最も有名な文帝の政策は、官吏登用制度科挙の採用でしょう。科挙は試験を行い、成績によって官吏を採用する制度です。現在の公務員試験などにも通じる考え方と制度ですが、これは当時、非常に画期的なものでした。前に聖徳太子以前の日本の朝廷が、豪族間の利害調整機関としての色彩が濃いものであることに触れましたが、それは中国も同様でした。中国では三国時代の魏(220~265年)より、九品官人法と呼ばれる官吏登用制度が採用されていました。九品とは官吏の階級を9段階に分けたものです。そしてこの制度の官吏登用方法は、各郡に中正官と呼ばれる役職を置き(後には郡の上の州にも置かれました)、この中正官が担当のエリアの人物を見極めて、有能な人物を官吏に登用するというものでした。前の後漢時代の官吏登用制度、郷挙里選制(地方官や地方の有力者が管内の優秀な人物を推薦することで、官吏を登用した制度)が、官吏を推薦する豪族の影響力が強すぎて、事実上、官吏登用が中央政府の意にならなかった事を反省し、中央から派遣された中正官が有能な人材を見極めて登用することで、皇帝や中央政府主導の人材を確保する意図がありました。九品官人法は、確かに漢代よりは、朝廷にとって有能な人材を集められるようになりましたが、長期的にみれば失敗でした。中正官たちは、やはり地方で大きな権力を持つ豪族層の影響力を無視できませんでしたし、豪族たちも中正官を賄賂で公然と買収しましたので、双方の癒着につながりました。結局、中正官の推挙する人材の多くは、豪族など地方の有力者やその影響を受けた人物ばかりで、官職も世襲されていったため、貴族層の形成につながっていくことになります。結局のところ、皇帝と中央政府の権力強化につながらなかったのです。それでも他に良い方法もなく、九品官人法は隋王朝が誕生まで続きましたが、国を支える官僚の登用が、依然中央政府の意にならないことは、大きな問題でした。そこで隋の文帝は、家柄や身分に関係なく受験ができ、その成績によって管理を登用するという画期的な制度を制定、採用したのです。ここにはじめて、皇帝は自分の自由になる人材を集めることが出来たので、皇帝権力の強化に繋がりました。科挙により、大貴族であっても科挙に合格しなければ官吏になれず、国政を左右する影響力を行使することは出来なくなりましたし、民衆側も、たとえ平民出身であっても、科挙に合格すれば立身栄達の道が開けますから、合格者やその一族は皇帝に対して、強い忠誠心を持ちました。この科挙によって、前時代(魏晋南北時代)までは大きな権力を持っていた貴族層は徐々に力を削がれ、唐朝末期には皇帝権力を脅かす力は無くなり、次の宋代になると、新たに殿試(皇帝臨席のもとで行う科挙の最終試験です。このため試験合格者は、「皇帝に認められた」と考えて、強い忠誠心を持つことになりました)を追加して皇帝独裁体制が確立され、貴族たちが政治に影響力を持つことは無くなります。そして1905(明治38)年に廃止されるまで、科挙は1千3百年以上にわたって中国の官吏登用制度として、続いていくことになります。この科挙をはじめとする文帝の行政改革は、次の唐代以降も継承される優れものでした。統一されたばかりで、まだ国内が不安定だったこの頃、これほどの改革を一気に成し遂げた隋の文帝の手腕は、卓越していたと言えそうです。文帝は名君とは言い難い人物でありましたが(その理由は次回に書きたいと思います)、賢帝といっていい人物でした。開皇の治により、中国は太平の時代となりましたが、それはつかの間の平穏でもありました。次回は、隋を取り巻く不安要素について触れてみたいと思います。
2019.03.14
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前回の続きで、西暦535年以降の朝鮮半島の話です。現存する朝鮮半島の記録に、西暦535年の大災害に触れたと思われるものは、実はほとんどありません。僅かに『三国志記』という歴史書(12世紀に、高麗王仁宗の命で編纂された歴史書です。ただし4世紀以前の史料的な信頼性は疑問視されており、新羅の半島統一以前の記録も、高句麗や百済の記述が少なく、非常に偏りがあることが指摘されています)に出てくる高句麗535~538年ごろの記録に、「雷が鳴り、伝染病が流行した」「大変な干ばつが起きた」と記載されているだけです。正直、これだけだと何も書きようがないのですが、日本や中国の史書に残されている三国の動きからわかっていることを中心に、何が起きたかを推測したいと思います。まず百済は日本へ食料支援を求めました。この時期、百済王がヤマト朝廷に仏像を贈っていますが、これらは日本からの支援を囲い込む策でした。6世紀ごろになると、新羅の国力も大きくなってきて、百済と新羅の関係はぎくしゃくしたものとなってきていました(それまでは、新羅は百済に協調というか、従属する傾向があったようです)。それ故に、日本と新羅が接近することを警戒して、日本に貢物を贈って、関心を百済のみに向けさせようとしていました(ヤマト朝廷は、自国も飢饉のため、百済に食糧支援はしなかったものの、任那の一部を百済に割譲しています)。一方の高句麗は、新羅や百済を圧迫する一方、北斉や突厥と結んで、柔然に追い打ちをかけています。これは国内の飢饉や伝染病(天然痘)対策に、食料の収奪と労働力の確保(つまり奴隷を得るため)を意図していたと考えられています。そして新羅は、仏教の布教と身分制度の整理と、中央集権体制の確立(実質的には軍事政権といいって言い代物でした)という、国内改革に専念していました。なぜ新羅が、他の二国のように早急な領土拡大策をとらなかったかというと、やはり新羅の国力が一番弱く、周囲を外敵(高句麗・百済・日本)に囲まれていたからです。つまり、戦いの準備を整えるところから始めなければならなかったのです。新羅に仏教が伝来したのは、528年のことと言われています。高句麗が372年、百済が384年に仏教が伝来していますから、かなり遅い伝来です。これは日本同様、国内の反対が強く、見送られていたのだと考えられています。なぜ仏教が、戦う準備につながるのかというと、それは新羅の身分制度骨品制と合わせることで見えてきます。骨品制とは、氏族に序列を大きく8つの階級に分けて制定し、就任可能な新羅朝廷の官職を定めたものです(王位継承権を持つ王族は、聖骨(ソンゴル)、王位継承権を持たない王族や貴族は真骨(ジンゴル)といい、この二つの階級が、朝廷や軍の行為を独占しました)。530年代以前は、王都のある金城(現在の大韓民国慶尚北道慶州市)だけで導入されていただけでしたが、それを仏教とともに、国中に適用しました。骨品制が、他国の身分制度と大きく異なるのは、結婚から衣服の種類、食事の量や質、ぜいたく品や家屋のスペースといった部分にまで、細かい差別化が定められた点です。この骨品制が国中に適用された理由は、言うまでもなく、新羅支配下の民衆を、新羅王を頂点とするピラミッド式の身分社会に組み入れるためでした。そして同時に布教された仏教により、新羅王は「仏陀の化身」という権威付けがなされ、王の命は仏陀の命令と同一視されました。この方法が、新羅で驚くほどうまく成功した理由は、530年代の大飢饉と異常気象という外的な要因と、仏教の伝来が一番遅かったという単純かつ皮肉な理由でした。すでに仏教の浸透していた高句麗や百済では、今更光り輝く仏像を見たところで民衆はインパクトを感じませんでしたし、疫病や飢饉に際して仏像に救いを求めても、救われない苦い現実を知っていました。しかし新羅の人々には、初めてみる光り輝く仏像の神々しさと、その化身たる新羅王という権威付けは、非常に効果的だったのです。あと現代人からすれば、束縛と不自由しかない身分制度ですが、当時朝鮮半島が、酷い飢饉に苦しんでいたことを考えると、悪い話ではありませんでした。なぜなら、骨品制の規定により、身分最下層の人々にも、最低限の食の保証がされたからです。でも飢饉だったんでしょ? どうやって食料を確保したの? と思うでしょうが、ここから先の答えは簡単です。先に触れたようにここからは戦争によって、自国にないものは外から奪えばいいのです。新羅は周辺地域に侵攻して、食料や物資、領土を奪っていきました。戦争で骨品制と仏教は有効に機能しました。戦場で武勲を建てた者は、骨品ランクが上がり、その分生活が豊かになりました(ただし身分上昇には制限があり、平民は絶対真骨にはなれません)。そして戦死したら「極楽浄土」にいけることになります。仏教と骨品制は、新羅の領土拡大政策に見事に合致したのです。この辺の原理は、前に触れたイスラム帝国と類似が見られます。541年、即位間もない新羅の真興王(位540~576年)は百済と同盟し(羅済同盟)、高句麗と戦端を開きましたが、高句麗より百済の方が疲弊しているとみると、550年に一転して同盟を破り、百済領に進攻して、道薩城と金峴城(現在の韓国忠清北道)を奪いました。そして551年には、今度は高句麗に進攻して、10郡を奪って北の国境を押し上げると、次いで南の任那を攻めました。弱いところを見極めて、それを的確に突く形で、領土を拡大していったのです。この頃、大挙して日本に渡来する人々の中継地となっていた任那は、政治・軍事の機能が飽和しており、難民対策に飢饉への対応で日本からの援軍も期待できなかったため、防衛体制は破綻しており、任那の大部分は新羅に奪われました。度重なる新羅の背信に怒った百済の聖王(位523~556年)は、任那の諸侯を糾合して、新羅を攻撃しましたが、伏兵の襲撃を受けて聖王は戦死してしまい、百済・任那連合軍は瓦解しました。そして新羅は、562年までに任那全土を制圧し、朝鮮半島南東部を支配下に置きました。一連の戦争で、新羅は国土を倍に拡大しました。消耗した兵力の補充も、占領地の民衆を骨品制の身分制度に組み込むことで、「新羅人」にしていくことができました。骨品制は「戦争で戦争を養う」制度として、有効に機能したのです(一方で、統一後は身分制度の硬直化によって、新羅の社会体制は、緩やかに破綻していくことになります。なぜなら戦争が無くなったことで、生活の向上が望めなくなり、それが国家への忠誠心の低下、国力の停滞と、負の連鎖をまねいたからです)。6世紀終わりまでに、新羅は領土的には百済を凌駕するようになりました。そして中国の隋に朝貢して、独立国「新羅」としての立場を承認されました。こうして朝鮮半島は、改革の遅れや隋や唐との戦争で疲弊、弱体化した高句麗と百済を圧迫していき、半島統一への長い道のりを歩んでいくことになります。
2019.02.27
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・・・最近、このシリーズ書いている時、イスラム国の問題や、移民法成立など、タイミング的に触れにくい時にぶつかる時が多々あるような気がします。今回もどうかと思いますが、まぁ、気のせいでしょう(乾いた笑い)。6世紀の朝鮮半島情勢について、簡単に触れてみたいと思います。初めにお断りしますと、私は嫌韓でも親韓でもないつもりです。自分では中立だと考えています。個人的に在日の方で仲の良い知人もいますし(数年前日本に帰化したので、「元」が付きます。帰化した理由は、「付き合いきれない、母国といっても一度も行ったことないし、言葉もしゃべれない。日本人になって縁を切りたい」と、苦々しい口調でぼやいていました)、韓国料理も普通に好きなんですが(昨年、マッコリを初めて飲んで、なかなか美味しいなぁと思いました)、あちらの政府やメディアの主張には、閉口することが多いです。・・・まぁ、読み返すと、嫌韓ぽい論調が多いですが、それは中立の目から見ても問題が多いということでして(苦笑)。当時の朝鮮半島の記録ですが、中国史や日本史に比べて、非常に史料が少ないうえに、客観性を欠く史料が多く、あまり詳しい話は出来そうもありません。そして最も大きな問題は、韓国歴史学会が(北の方は言うに及ばずです)、実証より民族史観を優先させる傾向がある点です。例えば、『日本書紀』における朝鮮半島関連の記述を、「創作が多い」と否定的に評価しているのにもかかわらず、同書に出てくる新羅討伐などの記述だけを取り上げて、「昔から日本は侵略国家だった」と批判する等、都合の良い部分だけを引用して、論者の結論ありきで、学説を展開させる傾向があります。私の大学時代の恩師(中国現代史が専門で、いわゆる左側傾向の人でした)は、韓国の歴史研究者について批判的で、「あの国(韓国)の史学論文は全部小説だよ」とバッサリぶった切っていたことがあります。話を元に戻します。6世紀の朝鮮半島は、北は高句麗(現在の北朝鮮と、韓国北部(京畿道と江原道の北部)、中国の遼寧省と吉林省の大半を領域としていました)、南に百済(現在の韓国西部)、新羅(現在の韓国東部)の三国があり、さらに韓国南部に任那(「加羅」とも言います)と呼ばれる地域がありました。この任那、韓国の歴史学会では腫物扱いの「取り扱い注意」地域です。というのも、任那はヤマト政権の影響下にあったからです。正確な言い方をすれば、当時の日本領の一部だったのです。韓国の歴史学会は、日本の「侵略」に関する記述は盛んで、しかも年々誇張が大きくなっていますが、任那に関して扱いが微妙なのは、古代、半島の一部に日本領があったことを認めてしまうと、民族史観や領土問題への主張に、齟齬をきたしてしまうからです。最近の韓国では、対馬も韓国の領土という主張も出ています(これは対馬が、室町時代辺りから貿易の一環として、朝鮮にも朝貢(貢物を献上すること)を行っていた事を根拠にしているようです)。しかし、任那の存在を認めてしまうと、「古代朝鮮半島南部は日本の領土だった」→「韓国の南半分は日本のもの」とブーメランになる可能性があるからです。そのため、古代朝鮮諸国が日本に貢物を送っていた史実(そのことは、日本の史書だけでなく、中国の史書にもきちんと明記されています)すら、現在否定するようになっています。というわけで、韓国の教科書では、任那の存在は無視されるか、逆に「任那を通じて日本を支配していた」という民族史観が前面に出た記述になっています。まぁ、私も深入りせずに、純粋に遺跡などから見えることだけについて、簡単に触れるだけにしたいと思います。任那のあった地域からは、世界的に日本でしか発見されていない前方後円墳が見つかっています(そのため、「前方後円墳は韓国が起源」と主張する韓国の学者もいます)。朝鮮半島の他の地域では、見つかっていません。さらに建設年代を見ると、日本のものは3世紀から7世紀ぐらいまで建設されていたのに対して、任那の前方後円墳は5世紀から6世紀のものしかなく、任那の消滅後は建設されていません。日本の支配下にあった時代だけに、作られていたと考えるのが自然です。また任那の古墳からは、副葬品でヒスイ製の勾玉が出土しています。当時東アジアでヒスイが産出されたのは、糸魚川(現在の新潟県糸魚川市)周辺だけでしたから、日本から輸出されたものか、日本から任那に渡った人物が持ち込んだと考えられています。任那の存在は中国の歴史書にも登場し、ヤマト政権の影響下にあることが記載されています。なので「任那は日本の支配下にあった」史実を、「日本の右傾化」だとか、「領土的野心の表れ」とする論調は、歴史的な根拠を欠く、極めて政治的な主張です。それを「歴史の修正主義」と呼ぶわけです。とまぁ、皮肉はさておきまして、他の三国についての簡単な解説です。北の高句麗は、現在の北朝鮮東部で紀元前1世紀ごろに興こりました。漢王朝が滅び、中国が魏晋南北朝の戦乱期になると、それに乗じる形で、現在の中国東北部に大きく領土を拡大させました(最大領域は5世紀から6世紀にかけてです)。6世紀ごろの情勢は、中国南朝や柔然、突厥などの北方遊牧民族と手を結び、中国北朝や、百済・新羅と争ってきました。この高句麗の広大な領域は、現在、中国と韓国の歴史学会の間で、激しい対立を引き起こしています。十数年前ですが、中国の歴史学会が、高句麗を「中国の地方政権の一つ」と定義したのに対して(現在の中国遼寧省、吉林省の高句麗領が半島の領土より広く、また前漢時代からの中国との交流で、文化的に漢族化していたからです)、韓国の歴史学会が、「いずれ北朝鮮を中国に併合する口実だ」と、大反発したことがあります。一方、韓国の一部の学者は、「中国東北部は高句麗の領土であり、今も朝鮮民族が多数住んでいる」として、「満洲は韓国のもの」と主張して、中国当局を怒らせたこともあります。とかく、歴史を政治に利用すると、ろくでもないことになるよと(安倍総理が数年前ですが、「歴史の評価は歴史家が決める」と発言していたことがあります。これは歴史学的にみて非常に正しい意見です)、隣の島国にすんでいる鳥は、小さな声でさりげなく意見を言いたいと思います。次に百済ですが、4世紀ごろの建国と言われています。この国は中国の南朝と日本に朝貢し、良好な関係を築いていました。東の新羅とは、高句麗をめぐっては共闘関係でしたが、それを除けばライバル関係でした。そのため百済が特に重視したのは、日本との関係でした。中国の南朝は軍事的な支援は行ってくれませんでしたが、日本は援軍を送ってくれたので、百済はヤマト政権が欲している製鉄技術などを求めに応じて提供し、貢ぎ物を献上するなど、歓心を買うことに努めています。最後に新羅ですが、誕生は現在の韓国では紀元前57年ごろの建国とされていますが、史書に登場するのは、百済と同じ4世紀ごろで、それ以前の状況は不明です(「新羅」を国名にしたのは、西暦503年の事です)。有名な「広開土王碑」によると、高句麗の支配を長く受け、独立後も日本の支配を受けていた時期もあったようで、三国中一番弱小でした。新羅は地理的に、高句麗に阻まれて北朝と行き来が出来ず、必然的に南朝に朝貢していました。さらに新羅のライバルである百済が、実質的に日本を囲い込んでいたため、北(高句麗)、西(百済)、南(日本)とも、気を抜けない立場にありました。新羅の国土は、太白山脈、小白山脈が南北に走る山地の多いところで、人や物の行き来が不便で、人口も多くなく(百済の半分程度の人口と推測されています)、国力は小さかったようです。しかし朝鮮半島の統一は、この新羅を中心に進んでいくことになります。次回は、西暦535年の災害の影響が、朝鮮半島に何をもたらしたかについて、触れたいと思います。
2019.02.20
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高校までの歴史の授業では、詳しく触れられることはなく、年号を覚えさせられるだけで、そのまま通り過ぎてしまった方も多いかもしれません。私は歴史をやっていましたが、年号を覚えることは大嫌いでまじめにやりませんでした(遠い目)。それはさておき、実は仏教伝来は、ただ単に仏教が日本に伝わったというだけでなく、現在に至る日本の基礎を固める重要な出来事でした。その点を少し掘り下げてみたいと思います。天皇家に限らず、王権の始まりは、シャーマニズム(神や霊魂と直接交流し、神託、予言、病気治療等を行う宗教的職能者)と、密接なかかわりがあります。歴史的にみて史上初めての「王」の誕生は、古代シュメール文明(紀元前3500年頃、今のイラク、チグリス・ユーフラテス川沿いで誕生した世界最古の文明)においてで、神事を司る神官が世俗的な権力を握り、王族へと変化していきました。古代エジプトや中国、日本などの王族も、程度の差はあれ、「神の子孫」「神より王の資格を授けられた存在」として権威付けがされていきました。日本の天皇家の場合、天照大神をはじめとする、八百万の神々の恩寵を受けた存在ということになります。ちなみに北の某国は、先代将軍様が聖地白頭山で生まれたということで、「白頭血統」を称していますが(中国と北朝鮮の国境にある白頭山(2744mの成層火山)は、高麗王朝(918~1392年以降、この山を朝鮮民族発祥の地と位置付けました)、これも「神の子孫」という神格化の一環です。聖地で生まれた将軍様は、神そのものであると権威付けしているわけです。ついでに言うと、先代将軍様が生まれたのは、ソ連(ロシア)のハバロフスクというのが有力で、白頭山とは縁もゆかりもありません。さらに言うなら、共産主義思想は、神や宗教、血統による政治を否定しています。にも関わらず、神の血統による世襲を公然とうたい、でも共産主義の旗を掲げている。その奇妙さ、奇怪さは非常に驚きを禁じ得ないものです。これを興味深いとみるか、いかがわしいとみるかは、人によって異なるでしょうね。と、危ない国をネタにした脱線はこれ位にしておきたいと思います。仏教は外来宗教で、日本の天皇家とは関わりありません。シャーマニズム的な観点から言うと、これを受け入れることは、今までの神(とその「血統」である天皇家)は正しくないと、天皇家の権威や、君主としての正当性を否定してしまうことに繋がりかねない危険がありました。さらにそれは、天皇家を支えてきた豪族たちの権威も、潜在的に否定するものでした。大陸から渡ってきた蘇我氏などの渡来系新興氏族が、すんなりと仏教を受け入れられたのに対して、古くから天皇家とともに日本にいた物部氏や大伴氏、中臣氏などの豪族が、仏教を強く拒絶したのは、そういう事情があったのです。しかし、疫病と飢饉という国難に、従来の日本の神々、人々の動揺を鎮めることができませんでした。一方光り輝く仏像みた人々は、その姿に驚き、心を鎮めることができました。その意味では、「仏法に救い」があったのです。丁未の乱の結果、仏教の採用が決まりましたが、取り扱いに慎重を期する劇薬であることは変わりありません。なぜなら仏教を受け入れて、天皇家の権威が否定されることになれば、易姓革命(王朝交代)もあり得ない話ではなかったからです。この難題を見事に軟着陸させたのは、用明天皇の子厩戸皇子(聖徳太子。これ以降は「聖徳太子」と表記します)でした。聖徳太子は母と妻が蘇我氏出身(母の穴穂部間人皇女は蘇我稲目の娘、妻刀自古郎女は蘇我馬子の娘)という出自から、血統的には蘇我氏の血が濃い人物でした。そのため仏法には早くから親しんでいたようで、当時の日本では異例なほど、国際感覚に通じた人物でした。推古天皇(位593~628年)の即位後、太子は摂政(この時期はまだ摂政の地位はなく、ただの立太子(皇太子)だったとする説もあります)となると、大臣蘇我馬子とともに、仏教の普及のみならず、大陸からの技術や制度を、積極的かつ適切に日本に導入していきました。太子の業績(推古天皇と蘇我馬子の業績でもあります)として、冠位十二階(603年制定、605年施行。朝廷に仕える臣下を12の等級に分けて、地位を表す冠を授けました。貴賤に縛られない人材登用を可能にするものでした)や、十七条憲法(604年)が有名ですが、これらは古代日本の構造改革でした。従来の日本の朝廷人事は、豪族間のパワーバランスを背景にした利害の調整機関としての色彩が濃いものでしたが、中国の法や制度を取り入れて、血統ではなく能力重視の官僚制を採用したのです。これにより、たとえ有力豪族と言えども、血統だけで朝廷の重要地位につくことは出来なくなっていき、次第に力を失っていきました(藤原氏を除く豪族が完全に力を失うのは、平安時代になってから、臣籍降下(天皇家の血筋で、皇族の身分を離れて臣下になったもの。源氏姓や平氏姓を賜りました)により新たに誕生した新興貴族層が成立することによってですので、まだ時間は必要でした)。朝廷は、豪族たちの利害に左右されない、左右されにくい政治機構に変化していくことになります。同時にそれは、天皇家に取って代わることが出来る有力豪族たちの力を削ぎ、統制して廷臣化していく事でもありました。平安時代に摂関政治を行い、政治権力を掌握した藤原氏にしたところで、天皇家との綿々とした婚姻関係によって、地位と権勢を守るのが精一杯で、簒奪など出来る力を持ちませんでした。事実、天皇家が、譲位した天皇(上皇や法皇)が院政を敷く平安時代後半になると、藤原氏も次第に弱体化して、武士の台頭と反比例するように、廷臣化していきます。そして憲法や律令の制定は、天皇の君主としての正当性を、シャーマニズム的な権威から脱却し、法と制度によって、君主の地位を保証する法治国家へと進化していく契機になるものでした(それが完全に確立されたのは、「天皇」という君主号を法的に定めた701年の大宝律令によってです)。つまり仏教だけでなく、官僚制と法制度を同時に導入することで、仏教はただの学問のひとつとなり、天皇家を脅かしかねないイデオロギーから切り離されたのです。仏教が天皇家にとって脅威でなくなった象徴は、聖武天皇(位724~749年)による大仏建立(752年に完成)でしょう。聖徳太子の時代から約100年、仏教は国家鎮護思想と認識、定着しており、むしろ天皇家の権威を守る「道具」になっていたのです。さらに平安時代になると、仏教は日本古来の神々と融合します(神仏習合)。日本の神々と仏教、どちらがどちらを乗っ取ったかは論者によって見解が異なりそうですが、少なくとも日本の仏教は、大陸の仏教とは少し異なる和式仏教化(私の作った造語ですのでご注意を)していくことになります(例えば、恨みを持って死んだ人間が怨霊となり、それを供養して鎮めるといった発想は、神道の思想がかなり色濃く出た考え方で、日本仏教独特のものです)。そして空海や最澄などの、密教の広まりによって大衆宗教となり、広く浸透していくことになります。またもう一点、聖徳太子が仏教を積極的に導入しようとした理由は、当時の東アジア情勢を鑑みてとも考えられます。かつて蘇我稲目が言っていたように、大陸では仏教は広く信仰されていました。日本が大陸諸国と交流していく上で、仏教は必要と、太子は見ていたのでしょう。当時の日本では、すでに漢字も使われていましたから、仏教と合わせて、東アジア社会の「共通言語」と「共通価値観」というわけです。前にイスラム教のところで、似たような話に触れましたね。事実、聖徳太子は遣隋使を派遣して、隋との国交樹立に舵を取ります。それは聖徳太子の死後も引き継がれ、遣唐使(太子が亡くなったすぐ後、中国は隋が滅び、唐になっていました)を送って、大陸と交流に努めていくことになります。535年の災害、疫病と仏教の伝来による混乱は、古代日本の構造改革への契機になりました。そしてそれは、現代に続く、日本の大きな枠組みへとなっていくことになります。
2019.01.20
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物部氏と蘇我氏の間を、苦労しながらもうまく泳ぎ切った欽明天皇が崩御し、敏達天皇(位572~585年。欽明天皇の子)が即位しました。570年代になると、古墳がつくられなくなるなど(この時期は、日本史の時代区分では、「古墳時代後期」とされています)、日本社会に変化が出てきていました。古墳がつくられなくなった理由は、文献には残されていません。530年代後半から始まった天然痘の流行は、数年おきに発生していましたから、労働人口が低迷した状態が続いており、莫大な労働力を必要とする古墳の作成が控えられるようになった。もしくは、人手が集まらなくなった事が、大きな要因と言われています(ただし関東圏では、この100年後ぐらいまで古墳は作られています。これは天然痘の被害が、近畿ほどではなかったためと考えられています)。この時期、朝廷では崇仏派と廃仏派の勢力は拮抗しており、敏達天皇も欽明天皇の中立路線を維持していたこともあり、政治的にはやや落ち着いた状態でした。天然痘の流行も、小康状態になっていたようです。しかしその均衡は、580年代になると大きく崩れることになります。原因は天然痘の大規模な再流行でした。疫病の再流行を見た大臣蘇我馬子(蘇我稲目の子)は、疫病退散のため新しい寺の建立の許可を求めました。敏達天皇もそれを許しましたが、大連物部守屋(物部尾輿の子)と中臣勝海が反発しました。「大君よ、どうして私どもの申し上げたことを取り上げないのですか? 蘇我氏が蕃神(異国の神。仏教の事)を広めてこの方、疫病が流行し、民草も死に絶えようとしております。すべて国津神を蔑ろにして、蕃神を崇めたからに相違ございません」敏達天皇が守屋の言葉に迷ったのは、おそらく仏教が日本にやってきた頃から、天然痘の流行が始まっていることに、彼自身考えることがあったのでしょう。悩んだ末に敏達天皇は、「(仏教が疫病の原因なのは)明白である。仏法をやめよ」と、仏教禁止令を出しました(585年)。蘇我氏が建立した寺は焼かれ、仏像は壊されて僧侶は鞭うたれました。蘇我馬子も失脚寸前となりましたが、ここで思わぬ事態が起きました。仏教禁止令を出した敏達天皇が天然痘で倒れ、崩御してしまったのです。この出来事は、崇仏派が息を吹き返すきっかけになりました。なにせ仏教を禁止した途端、本人が天然痘で没したわけですから、あたかも「仏罰」に当たったように見えてしまったのです。敏達天皇崩御で、廃仏を主張した物部氏や中臣氏の権威が失墜してしまったのです。そんな事情もあったか、新たに天皇になった用明天皇(位585~587年。敏達天皇の異母弟で聖徳太子の父)は、仏教を重んじる人物で、即位後、直ちに仏教禁止令を撤回しました。しかし再び天然痘が流行し、用明天皇が罹患して倒れると、朝廷内の動揺は激しくなりました。今度は仏教を重んじた天皇が天然痘に倒れたからです。ここにいたり、蘇我氏と物部氏の対立は、宗教論争から武力闘争へ転換していきました。敏達天皇の仏教禁止令に始まり、双方が激しく争って両者のパワーバランスが大きく崩れてしまったため、もはや政治的な妥協ができる状況ではなくなってしまっていたのです。587年4月に用明天皇が崩御すると、物部守屋は廃仏派の穴穂部皇子(敏達天皇、用明天皇の異母弟)を再度天皇に押し(前回は用明天皇に敗れました)、蘇我馬子は泊瀬部皇子(後の崇峻天皇。位587~592年。穴穂部皇子の同母弟)を推挙して、両者は激しく対立しました。そんな中、守屋の盟友中臣勝海が蘇我馬子の命を受けた舎人(皇族や豪族の側近)の迹見赤檮によって暗殺されました。自分にも暗殺の手が伸びることを恐れた守屋は、領地のある河内国(現在の大阪府東部)に引き上げてしまい、後援者を失った穴穂部皇子は、587年6月、馬子に暗殺されました(穴穂部皇子は素行の悪い人物だったようで、彼を推した物部守屋からも途中で半ば見限られ、額田部皇女(後の推古天皇。欽明天皇の娘で敏達天皇の異母妹で妃。用明天皇の同母妹)からも恨まれて(敏達天皇の死後、彼女に自分の妃になるよう穴穂部皇子から迫られたことが、彼女から恨みを買った理由と言われています)、穴穂部皇子討伐を認める詔を、馬子に与えたためです)。こうして朝廷の実権を握った馬子は、領地にこもった守屋が挙兵するかもしれないと考え、群臣と図って物部氏討伐を決めました。ここに両者は、戦争へと突き進んでいくことになります。587年7月、蘇我馬子は、泊瀬部皇子、竹田皇子(敏達天皇と額田部皇女の息子)、難波王子(敏達天皇の子。竹田皇子の異母兄)、厩戸皇子(聖徳太子。近年実在しなかった説もありますが、このブログでは、従来通り実在したというの視点で見ていきたいと思います)などの皇族を擁し、諸豪族の兵を集めて官軍としての体裁を整えると、物部氏本拠地の河内国渋川郡(現在の東大阪市衣摺あたり)へ侵攻しました。朝廷軍は物部軍の数倍の兵力を投入して(実数は双方とも不明です)、援軍の期待出来ない物部氏に対して、戦力的な優勢を確保していました。両軍は餌香川原(現在の大阪府藤井寺市付近の、石川(大和川水系の河川)の河原)で衝突しました。朝廷軍は物部軍を破り、物部守屋の館へ攻め寄せましたが、それは巧妙な罠でした。物部側は、邸付近に稲城(稲穂を利用した防御施設のようです)を築き、勝ちに乗じた朝廷軍が無防備に迫ったところを、つかさず矢を射かけ、大損害を受けた朝廷軍は敗退しました。物部氏大和朝廷内で軍事を司った氏族であり、戦い馴れしていました(物部氏の業績としては、528年に起きた磐井の乱(筑紫国の国造(くにのみやつこ。朝廷から任命された官職)磐井がヤマト朝廷と対立して討伐されました。この事件は謎が多いですが、ヤマト政権と九州豪族の、朝鮮半島の権益を巡る対立が背景にあったと考えられています)を鎮定した大連物部麁鹿火の活躍が有名です)。餌香川原で破れてみせたのも、朝廷軍を油断させて誘い込む罠だったのです。この時、難波皇子が戦死したようで、皇族から戦死者を出した失態に、馬子は意気消沈して大和(奈良県)へ撤退を主張したと伝えられています。伝説では、ここで戦局を変えたのが厩戸皇子でした。馬子や将兵が戦意喪失しているのをみた厩戸皇子は、白膠木(ヌルデの木)を切って四天王の像を作り、仏法の弘通に努めると誓いを立てて将兵を鼓舞したところ、朝廷軍将兵は戦意を取り戻したと伝えられています。朝廷軍の再度の攻撃に、大木に登って指揮を執っていた物部守屋が、朝廷軍の迹見赤檮に射殺されると、物部軍は総崩れとなって敗北し、物部氏は滅びました。そして物部氏の滅亡をもって、ヤマト朝廷は仏教を受け入れることを正式に決めました。厩戸皇子は祈願通り、摂津国(大阪府北中部と兵庫県の一部)に四天王寺(現在の大阪府大阪市天王寺区)を建立し、丁未の乱で命を落とした両軍の戦死者の霊を弔い、馬子も法興寺(別名飛鳥寺。奈良に移ってからは元興寺となりました)を建立しました。これを見て、それまで静観していた他の豪族たちも、こぞって寺を建てるようになり、畿内で古墳は作られなくなりました。次回は、日本の仏教伝来の、まとめ的な話をしたいと思います。
2019.01.16
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ずっと前に(だいたい6年前ぐらいに・多汗)、日本の仏教伝来は、538(宣化3)年と552(欽明13)年の2説があり、538年が有力という話を書きましたが、それについて簡単に触れたいと思います。538年説は、知恩院(京都市東山区)にある『上宮聖徳法王帝説』や、元興寺(奈良市)の『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の記述が元になっています。2つの古文書は信頼性の高い史料と評価されています。一方の552年説は『日本書紀』にある記述を元にしています。しかし現在ではこのくだりは、元々の『日本書紀』には書かれておらず、末法思想が流行した平安時代位に、付け加えられた可能性が高いと考えられています。で、さらに脱線です。この仏教の末法思想という考え方についてです。釈迦の入滅後、釈迦の説いた正しい教えが、世で正しくおこなわれて修行して悟る人がいる時代(正法の時代)がまずあり、次に教えは正しくおこなわれていてるものの、それは外見だけで、真の教えを悟る人がいなくなる時代(像法の時代)が来る。その次は釈迦の教えが全く伝わらず、外見だけの修行もおこなわれなくなり、人の世に道理の通じない時代(末法の時代)が、釈迦入滅から500年周期で訪れると考えられていました。そして日本に仏教が伝来した年が、釈迦入滅から丁度1千年、末法の時代が始まったという装飾のため、書き換えられたのではないかといわれています(当時、552年が釈迦没年から1千年に当たると考えられていました。しかし釈迦没年は諸説あって、実際は不明です)。したがって、552年説の方はいまいち信憑性が低いのです。とまぁ、脱線はこのぐらいにして本題に入ります(汗)。私のブログでは、538年説を元に話をいたしたいと思います(私自身、それが有力だと考えているからでもあります)。538年、金銅製の仏像一体と経典1千巻を、宣化天皇に献上したのは百済(現在の韓国南西部にあった国)でした(当時の朝鮮半島は、新羅を除く二国は仏教を国教としていました)。百済の使者は、「仏教はあらゆる神々の中で最も優れています。どんな祈願もかなえられ、欠けるものはございません」と説きました。金で装飾され、光り輝く仏像を初めて見た宣化天皇は驚愕しました。神道もしくは神道系の宗教を信仰されている方はご存じですが、神道には人の形をした神の像を祀りません(たいていは鏡とかを祀っていますね)。ですから初めて金色に輝く仏像を見た天皇が、どれほどの衝撃を受けたか、それは現代人の想像を超えたものだったでしょう。宣化天皇は、仏教信仰の可否を群臣に問いました。大臣(おおおみ)の蘇我稲目は「西の国々は皆仏教を信仰しております。どうして日本だけ信じないでおりましょうか」と賛成しましたが、大連(おおむらじ)の物部尾輿や中臣鎌子など他の群臣たちは、「大君(おおきみ)が天下に王としておいでになるのは、つねに天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされているからでございます。蕃神(他国の神)を拝むことになれば、国津神(日本に古くからいる神)の怒りを受けることになりましょう」と異を唱えました。宣化天皇は判断を保留しましたが、蘇我氏が仏教を信仰することは許しました。恐らく、試験導入的な考えがあったのでしょう。元々が渡来系の氏族であり、百済系の渡来人と親交が深かった蘇我氏は、仏像が献上される前より仏教の経典などに親しんでいました。したがって、稲目は喜んで邸を寺として仏教を祀りました。仏像が朝廷に波紋を引き起こしていた頃、異変が起きていました。日本各地で疫病が発生し始めたのです。『日本書紀』には、「国中に疫病が流行り、民に若死にするものが多かった。それが長く続いて、手だてがなかった」と、記されています。さらには、病気に症状についても、患者の多くは高熱と頭痛、腰痛などを訴え、次いで咳と下痢に苦しめられたあとに、「体が焼かれるように苦しい」と、苦しみながら死んでいったと、詳細に記録されています。この時日本で発生した疫病は、上の『日本書紀』で出てくる記述の病理的な分析から、天然痘のパンデミック(爆発的な感染)だったと考えられています(天然痘説が有力ですが、麻疹説もあります。双方とも初期症状がよく似ているため、見分けがつきにくいのです。ちなみにこの時代以降で、天然痘の日本での大流行が確実視されているのは奈良時代のもので、それを切っ掛けに東大寺の大仏が建立されました。一方麻疹の流行と確実にわかっているのは、平安時代からです)。さて天然痘ですが、日本や東アジア原産の疫病ではありません。どこが起源かは不明ですが、西アジアやオリエントから、シルクロードを通って、5世紀後半頃に伝播していたようです(今から3100年ほど前のエジプト国王ラムセス5世(位 前 1160頃~前 1156頃)のミイラから、天然痘の痘痕が見つかっています。その点からも、天然痘の起源は、東アジアではなく、オリエントの方から東アジアへ広まっていったと、考えられています)。それが中国南北朝の戦乱を通じて、南朝斉に広まり(495年の記録が東アジアでの初めての記述です)、南朝と関わりの深い朝鮮半島南部の百済・新羅に広まったのが、その10年後ぐらい、そして渡来人の急増に伴い、530年代にとうとう日本に上陸を遂げたと考えられています。もちろん、日本人にとって初めての疫病ですから、天然痘に免疫を持つ者はいません。燎原に火を放つように、天然痘は日本で広まっていきました。そんな中、宣化天皇が崩御し、欽明天皇(位539~571年。宣化天皇の異母弟)が即位しました。欽明天皇の時代は、仏教推進派(崇仏派)と反対派(廃仏派)の二極構造化が進んだ時代でした。大連大伴金村が540年頃に失脚し(百済から収賄を受けていたこと、新羅の任那侵攻に対して有効な手を打てなかったことを責められ、引退に追い込まれました)、大連は物部尾輿一人となり、崇仏派の大臣蘇我稲目と、一対一の対立図式になってしまったことが原因でした。廃仏派の物部尾輿は、世に疫病が広まったのは、仏教を拝んだためであると廃仏を主張しました。疫病は悪神(仏教のこと)と共に、国外からやってきたと断言したのです。この物部氏の主張は、高校までの歴史の授業では、「排他的な意見」として冷淡に扱われることが多いものです。しかし天然痘が大陸から日本にやってきた経緯を理解した上で眺めてみると、とても評価に困ることになります。なぜなら疫病が仏教とともに、日本にやってきたのは紛れもない「事実」だからです(もちろん、仏教が悪神という意味ではありません)。一方の蘇我稲目は、悪病を退散させるには、仏法に縋るしかないと反論し、双方の板挟みになった欽明天皇は舵取りに苦心しています。欽明天皇は、蘇我氏の後援(欽明帝の后は蘇我稲目の娘でした)があって即位できましたから、心情的には蘇我氏の方に肩入れしたかったかもしれませんが、彼は有力豪族のバランスを崩すことを望んでおらず、物部氏にも配慮を重ねました。しかし結果論から言えば、破局のタイミングを先送りにしただけでした。両者の対立は収まらず、対立は次第に抜き差しならぬものとなっていったからです。次回は、崇仏派と廃仏派の破局の結末、丁未の乱を見てみたいと思います。
2019.01.11
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・・・最近、このブログに来てくださいる方の中で、閲覧順位が高くなっているのが、「西暦535年の大噴火」シリーズです。先年のクラカタウ噴火の影響でしょうか。読んでくださる方が多くなるのはうれしいですが、一方でつたないものを読んでくださってと戦々恐々です(汗)。それでは日本の話しに入っていきたいと思います。「西暦535年の大噴火」を書き始めて6年目になります。ようやく日本までたどり着きました(苦笑)。西暦535年の災害が起きた時、日本は安閑天皇(位531~535年)が崩御し、同母弟の宣化天皇(位535~539年)へと、皇位が移った頃でした。と、ここで早くも脱線です。上で「天皇」という表現を使っていますが、この時代、「天皇」という君主号は存在していません。正確に言えば、「大王(おおきみ)」と呼ぶのが正しいです。「天皇」の君主号が使われるようになったのは、天武天皇(位673~686年)からで、701年の大宝律令によって、法的に定められました。従って、天武天皇以前の天皇を、「○○天皇」と呼ぶのは不正確なのですが、煩雑さを避けたいので、このブログでははじめから「天皇」号を使用したいと思います。あと、基本的に『日本書紀』をベースに書いていきますが、その正確性について批判する方もいるかもしれません。戦前は『古事記』と併せて、皇国史観に組み入れられていたため、『古事記』『日本書記』を敬遠される方も多いですしね。確かに『日本書紀』の記述には、信憑性に疑問がつく点が多々あります。『日本書紀』は、朝廷が各豪族に古記録を献上させて、藤原氏が中心になって編纂したと考えられています。したがって天皇家や藤原氏に都合が悪い記述は消されたり修正された可能性や、記録の混同や誤情報の記載はあると見て良いと思います。しかしそう言うことは、どの時代、どこの国の史料にもよくある話なので(近年近くの国を見ていて、感じていらっしゃる人も多いでしょう・苦笑)、曖昧な点、間違っている点だけを切り取って批判するのは、正しくないと思っています。他の史料(例えば『古事記』や、中国の歴史書など)と照らし合わせて見ていけば、特に大きな問題はないと思っています。ちなみに多くの資料を基に、全体像を浮かび上がらせるという手法は、歴史学の正攻法です。とまぁ、脱線はこれぐらいにしたいと思います。災害が起きる少し前、535年正月に安閑天皇が出した詔は、「このところ毎年穀物がよく稔って辺境に憂いはない。万民は生業に安んじ飢えもない」と、平和を謳歌するものでした。しかし翌536年正月の宣化天皇の詔は、「食は天下の元である。黄金が万貫あっても飢えを癒すことは出来ない。真珠が一千箱あっても、どうして凍えるのを救えようか」と、全く逆の悲痛なものとなっています。この違いすぎる詔は、『日本書紀』の編纂者たちが、意図的に対比となるよう並べた言葉ではないかと考えられています(特に安閑天皇の詔の方は、創作もしくは別の年の詔を、535年に据えたのではと考えている研究者が多いようです)。しかし逆に言えば、そう言うコントラストを必要とするような、大災害が発生していたことを裏付けているとも考えられます。事実、宣化天皇の詔は、ただ嘆くだけで終わりではなく、「籾のある地域は、無い地域に運ぶように」「非常なる時に備えて、平時から倉を建て(食糧を貯蔵し)、民の命を守らねばならない」と、具体的な指示も述べられており、536年時点で、飢饉と大寒波が日本を襲っていたのは間違いなさそうです。飢饉対策に苦心するヤマト朝廷ですが、さらに頭を悩ませる問題が起きていました。それは朝鮮半島や中国から、大挙して日本に逃れてきた移民者(実質的に難民)対策でした。日本の朝廷は、伝統的に彼ら大陸からの渡来人を歓迎してきました。渡来人たちが伝える技術や文物は、当時の日本にとって最先端技術であったからです。しかし530年代後半から、日本に流れ込んできた渡来人は、それまでと桁違いの人数でした。「近くの国から帰化してくる人々を集めると、戸数は全部で7千53戸になった」とは、『日本書紀』の540年に出てくる記述です。ここでまたまた脱線です。戸数というと、人数がどれぐらいなのかピンと来ない方が多いと思います。実際、家によって人数構成も多々あるので、戸数から正確な人数を割り出すことは難しいのですが、律令制下の中国では、1戸あたり成人男性が4人いると試算しています。『日本書紀』が編纂されたのは、日本でも律令制が施行されたあとなので、計算方法はほぼ同じだと思います。当時の家は、一族で一緒の家に住むのが当たり前の時代ですから、家長とその兄弟、妻や子供たち、さらに子供たちの嫁や孫たちが一緒に住んでいるとすると、1戸はおおよそ20人ぐらいはいるイメージになります(私は他に頼れる史料がない場合は、1戸20人と目算しています)。つまり7千53戸とは、だいたい14万1060人ぐらいということになります。当時の日本の総人口が300万人に満たなかった事を考えると、この渡来者数は異常な数字です。分かりやすく現在の人口比で例えると、日本の総人口を1億2千万人として、560万人の難民が押し寄せてきた感じです。ヤマト朝廷がなぜ頭を抱えたのか、頷けるのではないでしょうか。朝廷は渡来人たちに「衣食」は十分に与えることは出来ませんでしたが、「住」については、各国各郡に渡来人たちを分けて入植させることで解決を図りました(大陸での対立関係を考慮して、百済系、新羅系、高句麗系、中国系と言う感じに、入植地の距離を離して、諍いなどが起きないよう配慮しています)。特に暴動や争いが起きたという記録がないところから見ると、入植政策は巧くいったようです。どうやら日本で起きた飢饉は、大陸で起きたものよりは軽かったようで、大勢の難民を抱えたにもかかわらず、中国のような人肉食いの話も出てきません。こうして苦労しながら、渡来人を受け入れていたヤマト朝廷ですが、渡来人たちが持ち込んだ2つのものが、古代日本を揺るがすことになります。それは疫病と仏教でした。次は、疫病と仏教が、当時の日本にどんな影響を与えたか触れてみたいと思います。
2019.01.08
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それでは、南北朝時代の終焉、中国統一の流れに触れたいと思います。南朝が梁から陳に代わり、国力が大きく衰退して、南の国境の心配がなくなった北朝の北周(556~581年)と北斉(550~577年)は、中原の覇権をめぐって、戦争へと突き進みました。しかしそれは、三国にとって滅亡の道でした。経緯を北斉から見ていきたいと思います。初代文宣帝(高洋。位550~559年)のもとで領土を拡大し、順調に富国強兵を進めた北斉ですが、すぐに高氏の持病、酒乱で国政は乱れ、文宣帝は31歳の若さで急死しました(『北斉書』では、酒毒で寿命を縮めたことが仄めかされています)。跡を継いだ廃帝(高殷。文宣帝の長男。位559~560年)は精神薄弱で(酔った父帝が棒で殴りつけたのが、精神を病んだ原因といわれています)、叔父孝昭帝(高演。高歓の六男。位560~561年)に暗殺されました。甥を殺して即位した孝昭帝は、道義的にはともかく、兄たち同様政治家としての見識が高く、混乱した国政の収拾が期待されましたが、即位翌年落馬が元で急死し、兄弟中最も無能といわれた武成帝(高堪。高歓の九男。位561~565年)が即位しました。武成帝は佞臣を重用して酒色と漁色にふけり、国政は乱れましたが、北斉は斛律光と蘭陵王高長恭(高澄の四男。母は身分の低い女性のようで名は伝わっていません。ちなみに長恭は字で、諱は孝瓘といいます。しかし字の方が有名なので、高孝瓘だとほとんど通じません・苦笑)という名将が二人いたので、致命的な事態にはなっていません。しかし武成帝の息子で、父以上に暗愚な後主(高緯。位565~576年)が皇帝になると、事態は一変します。後主は父以上に乱行をほしいままにし、さらに佞臣の讒言を信じて、斛律光は572年に、蘭陵王は573年に、それぞれ自殺を命じて粛正しました。これにより北斉の軍の統率は崩壊し、戦力など無いに等しい南朝の陳にすら、北斉は負けるようになりました。斛律光と蘭陵王の死を知った北周の武帝は、驚喜して北斉に侵攻し、577年に北斉は滅亡し、後主を含む北斉の皇族・重臣は、ことごとく皆殺しにされました。次は北周です。556年に西魏の恭帝(元廓。位554~556年)に禅譲させて建国した北周ですが、この国は北斉以上に血なまぐさい出発から始まりました。北周初代孝閔帝(宇文覚。位556~557年)は、まだ16歳の少年で、実権は従兄の宇文護が握っていました。つまり西魏は宇文氏に乗っ取られましたが、宇文宗家も分家の牛耳られていたのです。傀儡の境遇に反発した孝閔帝は、密かに宇文護打倒を画策しますが、事は露見し、謀議に加わった重臣たち共々誅殺されました(どさくさに紛れて、恭帝も殺されました)。宇文護は、孝閔帝の兄明帝(宇文毓。位557~560年)を即位させますが、思いのほか聡明で、君主の器量を持ち合わせていたことから、後難を恐れた宇文護により毒殺され、先帝・先々帝の弟武帝(宇文邕。位560~578年)を即位させました。兄たちの悲惨な末路を見ていた武帝は、巧みに保身に努めました。優柔不断で愚鈍な男を装ったのです。宇文護はそれを芝居と疑ったものの、武帝は10年以上にわたって暗愚な皇帝を演じたため、宇文護も次第に警戒を解いていきました。その間、異母弟斉王宇文憲や、隋国公楊堅(後の隋の文帝。位581~604年)ら、軍の有力者を味方に引き入れ、虎視眈々と宇文護打倒の機会を窺っていた武帝は、572年、不意をついて宇文護の実権を奪い、彼の一族郎党をことごとく処刑しました。親政を開始した武帝は、北斉が斛律光と蘭陵王を粛正したのを知り、北斉に侵攻してこれを滅ぼし、華北全土を支配下に置きました。そして中国統一を目指して南朝陳への侵攻を意図し、その際の後顧の憂いを絶つため、北の突厥の力を削ごうとモンゴル高原へ親征しましたが、その途上で病をえて急死しました。武帝の跡を継いだのは、息子の宣帝(宇文贇。位578~580年)でしたが、彼は父とは似ても似つかぬ暗愚な人間でした。父帝は生前、「あれに天子は荷が重いのではないか」と、息子の資質を疑問視して厳しい教育を課しましたが、息子の身になることはありませんでした。宣帝は厳しかった武帝を憎み、棺に向かって「もっと早く死ねば良かったのに」と罵ったと伝えられています。即位した宣帝が真っ先にやったことは、父が信任していた重臣たちを粛正することでした。叔父の斉王宇文憲をはじめ、多くの重臣が一族ごと処刑されました。難を逃れられたのは、娘を宣帝に嫁がせて外戚になっていた隋国公楊堅ぐらいでした。宣帝の乱行は続き、即位翌年に7歳の息子静帝(宇文衍。位580~581年)に譲位し、自らを天元皇帝と称して、酒色と漁色にふけりました。北周王朝は人心を失い、人々の期待は政治を淡々とこなす隋国公楊堅へと移っていきました。580年、乱行が祟ったのか、それとも毒を盛られたのか、宣帝は22歳の若さで崩御しました。宣帝の死で実権を掌握した楊堅は、禅譲の邪魔になる北周の皇族や、重臣たちを巧みに挑発して反乱を起こさせると、直ちに鎮圧して敵対勢力を根絶やしにしました。そして翌581年、楊堅(以後は文帝と表記します)は静帝から禅譲させて北周は滅び、隋王朝(581~618年)が誕生しました(退位させられた静帝は、翌月には自殺を命じられ、8年の短い生涯を閉じました)。文帝は北周の武帝が整えた天下統一への布石を活かし、陳への圧迫を強めました。襄陽の傀儡南朝後梁を隋に併合し、陳侵攻への前線基地とする一方、数百隻の軍船を建造し、10万頭の馬と大量の兵糧を貯蔵し、着々と侵攻準備を整えていきました。おりしも、陳は暗愚な後主(陳叔宝。位582~589年)の元で国力を衰退させており、隋の不穏な動きを聞いても、なんの対策も講じようとしませんでした。588年3月、文帝は陳の後主に苛烈な檄文(「怠惰で皇帝たる義務を果たさない、天に背いた人間」と、後主の20以上の罪状をあげて、国を隋に譲るように要求しました)を送りつけると、両国の戦端は開かれました。晋王楊広(文帝の次男で、後の隋朝第二代皇帝煬帝)を司令官に、隋軍は51万8千もの大軍で侵攻し、陳軍の微弱な抵抗を排して(怠惰な皇帝に幻滅していた陳軍将兵は、ほとんど無抵抗で、隋軍に降伏しました)、10月に首都建康は陥落し、あっけなく陳は滅びました。隋軍は宮殿を探索しましたが後主の姿はなく(この時兵の一人が、皇帝のベッド脇から、未開封で放置されたままの、隋軍侵攻を告げる半年前の第一報を発見しています)、後刻、愛妃2人と、空井戸の底に隠れているのを見つかって捕縛されました。こうして中国は約400年ぶりに統一国家になりました。西暦535年の大災害が、どれだけの影響を与えたかを判断することは難しいですが、災害がなければ南朝は大きく国力を衰退させることはなく、微妙なバランスを保ちながら、今しばらく南北朝時代が続いていたかもしれません。そして超大国隋の出現により、東アジア情勢は、この後大きく変貌していくことになります。今度からは、日本の話に触れていきたいと思います。明日帰省の予定なので、これが年内最後のブログ更新になりそうです。皆様、よいお年を!
2018.12.30
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分裂した中国を統一する母体となったのは、北朝北魏(386~535年)です。北魏を建国したのは漢族ではなく、中国北方を脅かしていた遊牧民族鮮卑でした。彼らは西晋が崩壊して華北が戦乱状態になったのに乗じて、中原に進出しました。小国が乱立していた華北を、北魏が統一したのは太武帝(拓跋燾。位423~452年)で、西暦439年の事です。これ以降、150年に及ぶ南北朝時代が始まります。人口が多く、開発の進んだ華北を手に入れた北魏は、南朝との戦争を常に優勢に展開しました。さて、北魏を建国した鮮卑族ですが、華北で生活しているうちにすっかり漢文化になじみ、遊牧民としての性格は失われていきました。孝文帝(元宏。位471~499年)の時代には、鮮卑風の姓を漢風に改める政策が実行され、帝室の姓は「拓跋」から「元」に改められました。しかし孝文帝の漢化政策は、僅かながらに残っていた鮮卑の文化を否定するものでしたから、保守層から大反発を受け、六鎮の乱(523~530年)が起きました。反乱は転圧されたものの、北魏皇帝の威信は地に落ち、実権は重臣の高歓と宇文泰に奪われました。そんな中、丞相高歓と対立した皇帝孝武帝(元脩。位510~534年)は、首都洛陽を脱出して、宇文泰のいる長安に逃れると、高歓は孝武帝を廃位し(そのため東魏では、孝武帝は出帝と諡されています)、孝静帝(元善見。534~550年)を擁立して、北魏は東西に分裂しました(どちらも国号は「魏」のままです。なお長安に逃亡した孝武帝ですが、すぐに宇文泰と対立して毒殺され、文帝(元宝炬。535~551年)が皇帝にたてられました)。その混乱の中、西暦535年の大災害が始まりました。北朝側の記録をまとめた歴史書『北史』には、以下のような記述が出てきます。「干ばつのため勅令が下された。「都(長安)とすべての州、以下各地域に至るまで、死体は埋葬すべし」という内容だった(535年5月)」「大変な飢饉。(長安の)市門や門(宮殿や各省の門の事)で、水を配るよう命令が出た(535年7月)」クラカタウ噴火は、535年2月と推測されますから、それから数か月で、華北が深刻な飢餓状態に陥っていたことが伺えます。そして冬になると、大寒波が飢えた人々に襲い掛かりました。西魏の朝廷は、被害の実態調査のため雍州や岐州、泰州(いずれも現在の中国陝西省)に官吏を派遣しましたが、もたらされた報告に震撼することになります。「本来ならどこを見ても水路ばかりの地(陝西省)でも大変な飢饉。人々は人肉を食らい、人口の7、8割が死亡した(535年12月)」南朝梁では、549、550年に人肉食いの記述が出てきますが、北朝では535年から始まっていました。飢饉は華北でも一年では終わりませんでした。538年には大干ばつから一転して大雨が続き、黄河が大氾濫を引き起こしています(『北史』には、「樹上で蛙が鳴いていた」とあります)。西魏、東魏とも、官倉を開いて、飢えた人々に食料と織物を配りましたがとても足りず、大勢の餓死者と凍死者を出しました。そうなると、前に触れたイスラム帝国やアヴァールと同じパターンを踏襲することになります。537年、東魏、西魏の戦争が再開されました。当時の中原地域は馬や牛の放牧も盛んであり、戦争に必要な数の確保は容易でした(人が餓死しても、戦で使う馬は殺させなかったこともあります)。東魏は長安攻略を目指して、関中地方(現在の中国陝西省)に侵攻しましたが、沙苑の戦いで敗れて撤退し、次いで西魏も鄴(東魏の都)を狙って攻勢に転じたものの、東魏の武将侯景に敗れ、逆の荊州と河南地方を奪われて、一進一退の状況に陥っています。そして東魏の丞相高歓が死に、待遇への不満から侯景が梁に寝返り、侯景の乱が発生することになります(前回までのブログをみてね♪)。侯景の乱は、西魏、東魏にとって奇貨でした。実のところ530年代、北朝は東西に分裂していたため、南朝の梁の方が国力が上になっていました。梁に介入されないよう、双方とも梁の動向には気を使っていたのです。しかし侯景によって、梁の国家機構が破綻したことは、南への領土拡大のチャンスとなったのです。余談ですが、東魏の丞相高澄は、戦いに敗れた妻子を捨てて逃走する侯景を見て、「討ち果たすに及ばず」と見逃しています。一方で捕らえた侯景の妻子は、すぐに処刑する挙に出ています。これは高澄が残忍だったというより、自分への憎悪を煽ることで、侯景を追い詰めて、梁で反乱を起こさせようとしたのだと思われます(裸一貫となり、梁からも見捨てられた彼が、高澄に復讐するには、国を力づくで奪うしかありません。事実、妻子が処刑されたことを知った侯景は怒り狂い、梁の実権を握ると、すぐに東魏と戦争をしようと躍起になり、反対する梁の重臣・廷臣たちを殺害・追放して、梁の国力をさらに衰退させてしまいます)。本来、交渉の材料になりうる人質をすぐに処刑し、しかも相手にすぐに伝わるようにするなど、一見すると迂闊な失敗をしているように見えますが、それらは高澄が仕掛けた謀略だったと考えると、上手く説明できるようです。結局のところ、侯景も朱异も、最後まで仲良く、高澄の手のひらの上で踊っていたのでしょう。恐るべき策略家の高澄ですが、彼の命は侯景より早くに尽きます。549年8月、酒宴後、梁の降臣蘭京に刺殺されて、28年の生涯を閉じたのです。高澄は非情なことも平然とできましたが、普段は頭脳明晰で慈悲深い、名君としての資質を兼ね備えた人物でした。しかし彼の最悪の短所は、ひどい酒乱だったことです(彼だけでなく、高歓の息子たちに共通する悪癖でした。高歓は常々高澄に、「酒を飲むなとは言わぬが酒量は控えよ。いずれ身を滅ぼすことになるぞ」と諫めていましたが、その懸念通りになりました)。酒が入ると高澄はたちどころに暴君に変貌し、孝静帝(傀儡であっても主君は主君です)であろうが、気に障れば棒で打ち据え、罵声を浴びせるような性質だったのです。そういったことの積み重ねで恨みを買い、暗殺されてしまったのです。高澄の死後、弟の高洋(北斉の文宣帝。彼もしらふの時は名君でしたが、やはり酒乱で、酔って生母を殴って罵倒したり、家臣やその妻を殺したりと、酒にまつわる失敗の多い人物でした)が斉王の跡を継ぎ、550年に孝静帝に禅譲させて、北斉を建国することになります(孝静帝は2年後に毒殺されました)。話を戻します。梁の弱体化をみた西魏(556年からは「北周」)、東魏(550年からは「北斉」)は、梁に侵攻して領土を奪っていきます。おりしも549、550年は再び大飢饉が発生していて、華北でも人肉を食べる事態に陥っていましたから、両国とも食糧収奪に必死になったのです。西魏は549年に漢中を占領し、553年までに四川全土を制圧し、襄陽の岳陽郡王蕭詧を傀儡南朝として、その後の南朝侵攻の足掛かりを作りました。対する北斉も、長江以北を占領しています。策を弄した割に、北斉の取り分が少ないのは、長江南岸の建康に侯景がおり、直接対決を避けたのと(元は東魏の武将ですから、北斉の諸将は侯景の戦ぶりをよく知っていました)、この頃北斉は、南ではなく北の柔然に目を向けて(ずっと昔にブログで書きましたねぇ・汗)、そちらへの領土拡大に集中していたためでした。こうして北朝2国は、南朝から領土と食料を奪いって、飢饉から一息つくことができました。そして、中国統一への最終段階に進むことになります。
2018.12.29
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侯景の乱は終わりました。同時にそれは、梁王朝の終焉の始まりでした。建康に一番乗りをしたのは梁将王僧弁の軍でしたが、彼は配下の兵が略奪するのを止めようとせず(兵士の報償のひとつと黙認したようです。この辺の考え方は侯景に似ていたようです、この結果は、のちに彼が民衆の支持を得られず、陳霸先に破れて敗死する遠因になります)、官軍であるはずの梁軍によって、建康は破壊され、住民の多くが害されました。湘東王蕭繹(武帝の七男)は、侯景討伐のどさくさに紛れて、彼が擁立した予章王簫棟(武帝の長男昭明太子の孫。湘東王からみて甥に当たります)を謀殺し(予章王とその弟妹たちを、檻に入れて船で江陵へ護送中、船ごと長江に沈めて溺死させました)、皇帝に即位しましたが(梁の元帝。位552~555年)、王僧弁の乱行の影響で建康に留まることが出来ず、江陵を都とせざるを得ませんでした。しかし蜀(現在の中国四川省)の武陵王簫紀(武帝の八男)は、兄の即位を認めず自らを皇帝と称しました。北朝の西魏は、襄陽(中国湖北省襄陽市)の岳陽郡王蕭詧(昭明太子の三男。彼の領土は、西魏とその後継北朝北周の傀儡王朝として歴史学的には「後梁」と呼ばれます。かなり後の時代になりますが、隋の煬帝(位604~618年)の正妻簫皇后は、この後梁皇族の子孫になります)を梁の正当な皇帝として支援し、もう一つの北朝、北斉(東魏に取って代わった北朝王朝のひとつ) も、彭城の戦いで捕虜にした貞陽侯蕭淵明(梁の武帝の甥)を梁の皇帝と認めるよう圧力をかけたため、梁は3つ、4つに分離列状態に陥りました。なぜこんな事になったのかというと、儒教的な価値観(例えば、「子は親に従い、弟は兄に従う」等)から考えないといけません(なので現代の日本人にはややこしく感じる話だと思います)。侯景の乱によって武帝が死に、皇太子の簡文帝(武帝の三男)が即位しました。表向き、侯景は相国(首相)を称しており、簡文帝の臣下というスタンスをとっていました。もちろん、皇帝に実権はなく、傀儡であったとしても、臣下という立場を維持している以上、元帝や武陵王が侯景打倒に動けば、兄に背く反儒教的な行為になってしまうため、下手に動けなくなってしまったのです。そのため簡文帝が生きている間は、侯景に従わない姿勢を示して、反抗するぐらいしか出来なかったのです。その意味では、侯景がこれら諸王を倒す前に簡文帝のみならず、その子供たちもすべて殺してしまったのは、致命的な誤りだったのです。その後、簡文帝を殺害した侯景を元帝が打倒し、大功のあった彼が即位するのは問題ないように見えますが、彼は皇族ではありますが、皇太子ではありません。儒教倫理的には、本当は簡文帝の子孫が次ぐべきですが、そちらは侯景がすべて殺してしまったので、侯景が即位させた予章王簫棟の系統が、そのまま帝位を継ぐべきと言う理屈になるのです。元帝が帝位につくなら、予章王に禅譲させるという手続きをすれば良かったのですが、短気で激情家の彼は、予章王の即位自体を無かったことにして、強引に即位したため(あまつさえ殺害する暴挙に出ています)、皇族なら誰でも皇帝になれるという、帝位の下克上の論理を、自ら作ってしまったのです。そのため弟の武陵王や、その他の皇族の皇帝僭称に一定の正当性を与える結果になってしまいました。さらに元帝は猜疑心の強い性格だったこともあり、誠心誠意を尽くして他の皇族たちを説得するような事が出来なかったので、自分の皇帝としての地位と権威を守るために、他の皇族をすべて殺さなければならない羽目に陥りました。武陵王簫紀は、553年に元帝に破れて敗死し、元帝も555年に、西魏の大軍の来援を受けた岳陽郡王蕭詧に江陵を攻め落とされ、処刑されました(元帝の最後は、宮殿に火を放ちその中で命を絶った説と、甥の蕭詧に捕らえられ、腹の上に土嚢を積み上げられて圧死させられた説の二つあります)。兄が弟を殺し、甥が叔父を殺す凄惨な骨肉の争いでした。元帝の死後、建康にいた王僧弁と陳霸先は、元帝の九男蕭方智(梁朝最後の皇帝敬帝。位555~557年)を即位させて梁朝の瓦解を防ぐと、江南への西魏、北斉の侵攻を阻止しましたが、北朝が兵を引くと、両者は権力をめぐって仲間割れし、王僧弁が敗死して陳霸先(陳の武帝。位557~559年)が勝利すると、敬帝は禅譲を強いられ、557年梁は滅亡しました(用無しになった敬帝は翌年殺害され、16年の生涯を閉じました)。それは侯景の乱が起きてから、たった8年の出来事でした。梁の武帝は晩年、息子たちをわがままに育ててしまったことを心配して、「(自分が死んだ後)仲良くやっていけるだろうか」「皇太子(ここでいう皇太子は長男の簫統(昭明太子)のこと。簫統は我の強い弟たちからも慕われる性格でした)が生きていたら」と嘆いていたと言われています(その辺の悩みも、彼の浮世離れの原因の一つでした)。結局父帝の懸念通り、侯景の乱をきっかけに武帝の息子たちは仲たがいして自滅し、梁という国家の滅亡への道を開いてしまったのです。こうして南朝最後の王朝となる陳(557~589年)が誕生しましたが、南朝の凋落はもはや歯止めがかかりませんでした。長江以北は北斉に奪われ、四川と江陵は北周(556~581年。西魏を簒奪してできた王朝)に奪われたため、梁の1/3ぐらいまで領域は縮小していました。さらに王僧弁の残党や、梁朝末期に地方に派遣された軍が、各地で軍閥化して陳朝に反抗したため、陳の武帝は王朝の基礎を作れぬまま世を去りました。陳朝は、第二代皇帝文帝(陳蒨。位559~566年)から第四代皇帝宣帝(陳頊。位568~582年)の時期は安定したものの(これは北朝の二国が激しく争って、南に目を向ける余裕がなかったためです)、侯景の乱で破壊された南朝の国力は、最後まで回復することはありませんでした。そして宣帝の死後、暗愚な皇帝の典型と言われる後主(最後の皇帝という意味です)陳叔宝(位582~589年)の時、華北を統一して中国統一に乗り出した隋の文帝(楊堅。位581~604年)によって陳は滅ぼされ、中国は数百年ぶりに統一国家になることになります。次は北朝側の事情を見てみたいと思います。
2018.11.15
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武帝が無残な死を迎えたころ、侯景の理性の箍は外れていきます。もともと彼に政治的な理念や目的はありません。自分が生き延びるために挙兵しただけですから、頂点を極めてしまうと、後はお決まりのパターンで暴君化していくだけになったのです。侯景は、東ローマ帝国をずたずたにしたフォカスと、同じ種類の人間でした。武帝の死後、侯景はとらえていた皇太子の蕭綱(武帝の三男)を、皇帝として即位させました(梁朝第二代皇帝簡文帝。位549~551年)。もちろん政治の実権は簡文帝にはなく、まったくの侯景の傀儡であり、いずれ禅譲(皇帝位を譲らせること)させた後は、殺されるだけの存在でした(簡文帝もそのことを理解しており、「朕はよりによって、宇宙大将軍などと称する者に殺されるのか」と嘆いたと言われています。言葉通り、2年後に侯景によって弑逆されます)。また利用価値のなくなった反乱の旗頭、臨賀王蕭正徳も侯景によって謀殺されています(蕭正徳は建康が陥落して後、ようやく自分が利用されるだけ利用されて殺されることに気がつき、死の直前の武帝に泣いて助けを求めましたが、「今更泣いてなんになる。そなたも朕も、あやつ(侯景)に殺されるのを待つだけだ」と突き離されたと言われています)。こうして反乱の後始末と、自らの権力基盤強化にいそしんだ侯景は、門閥貴族層を今後も味方に引き止め続けるために、建康攻略前に発表した奴隷解放令を撤回しました。しかしこれは大失敗でした。建康攻略時に、奴隷たちによって邸宅を破壊され、財産を損なった貴族たちは、かつての朱异以上に侯景を憎んでおり、今更彼を支持することはありませんでした。貴族たちは朱异を憎み、排除したいと思って侯景の反乱を後押ししましたが、国そのものを破壊する意図はありませんでした。彼はやりすぎたのです。また利用するだけ利用して、再び奴隷身分に戻された貧民層の反発は凄まじく、のちに侯景の命脈が立たれる原因の一つになります。さらに侯景が民衆の支持を失い、反感を買う原因になったのは、侯景に付き従って長江を渡ってきた兵たちでした。彼らはもともと粗暴なものが多く、華南を追われて梁に逃れてきた反動もあってか、勝利者として驕り高ぶり、村々を襲い、民家に押し入っては好き放題に略奪暴行や殺人をほしいままにしていました。侯景はそれを処罰せず放置したため(苦労をかけた部下たちへの報酬と考えていたようです)、一層支持を失っていきました。侯景は梁の実権を握っていると胡座をかいていましたが、彼の実効支配は、建康とその周辺だけでした。地方には梁の皇族たちが健在で、北の東魏、西魏も虎視眈々と梁を窺い、いずれ衝突は避けられない情勢でした。このどうにもならない状況が、さらに侯景を追いつめていきました。551年、江陵(現在の中国湖北省荊州市)の湘東王蕭繹(武帝の七男。梁朝第四代皇帝元帝)討伐に失敗した侯景は、その理由を思い通りにならない簡文帝のせいと逆恨みして、禅譲させる前に弑逆して(簡文帝だけでなく、その子供たちもすべて殺害しました)、予章王簫棟(武帝の長男昭明太子の孫。年齢は不詳ですが、まだ未成年だったと考えられています。梁朝の第三代皇帝ですが、彼は梁の朝廷から正式な皇帝と認められていないため、諡はありません)を即位させました。そして早々に禅譲させて、侯景は皇帝を称し、国号を「漢」としました。しかし政治的に孤立し、民衆からの支持もない侯景に、いまさら皇帝の地位も称号もなんの意味もないものでした。そしてこの頃、梁軍は湘東王蕭繹の元で、ようやく反撃体制を整えつつありました。梁軍の反撃が2年以上も遅れたのは、軍が各地に分散していてなかなか集結できなかったこと、何人かの皇位継承候補者がいて、誰が旗頭になるかでもめて、侯景と戦うどころではなかったからです(その他の理由については、次回解説したいと思います)。ようやく、有力武将の王僧弁と陳霸先の支持を取り付けた湘東王が、侯景打倒に踏み切ったのです。551年11月、「漢」の皇帝となった侯景は、それで満足したのか、それとも徐々に追いつめられていく状況に自暴自棄になったのか、宮中に籠もって酒浸りの日々を送り、湘東王が派遣した王僧弁と陳霸先の討伐軍が建康に迫っても、なんの対処もしようとしていません(クーデターを恐れて、宮殿を出られなかったのではという説を唱える歴史家もいます)。指揮官のいない侯景軍は大敗して四散し、貧民たちは進んで建康の城門を開けました。梁兵が宮殿になだれ込んでくると、侯景は大あわてで逃げ出し、船で南に逃亡を図りましたが、部下に裏切られて建康に連れ戻され、羊鵾(建康の戦いで死んだ梁将羊侃の三男。彼は逃走した侯景の部下に紛れて後を追い、部下たちを説得して裏切らせて、建康に船を戻させました)によって首を切られました(彼の最後の言葉は、「わしは天子(皇帝)だ。陛下と呼べ」だったと言われています。震え上がって命乞いも出来なかった東ローマ帝国のフォカスとは異なり、侯景は度胸があったようです)。ここで余談の余談です。歴史的に見て、破壊と殺戮をもたらしたのみで退場した侯景ですが、実は知名度の高い言葉を残しています。「兵は拙速を貴ぶ」と言う言葉があります。意味は、戦いは相手よりも素早く、迅速果敢な行動で勝利することが大事となるでしょうか。この言葉、たいていの人は、有名な軍事思想家孫子(孫武。紀元前の春秋時代の人。彼の著作はビジネスなどにも応用できると、大きな本屋さんでも見つけることが出来ます)のものと、勘違いされるのですが、実は侯景の言葉です。オリジナルの孫子の言葉は、「兵は拙速を聞く、未だ功の久しきを覩ざるなり(戦争はだらだ続けてよい結果になったことはない。少々まずい状況であっても、すばやく行動して戦争を終わらせることが大切)」で、意味は大きく異なります。侯景の言葉は、目先の戦いでいかに勝利するかに集中した言葉なのに対して、孫武の言葉には、戦争が長期化すれば、国民生活が破綻して、国家経済が崩壊してしまう。だから一端戦争になってしまったからには、多少不味い状況でも素早く、少しでも自国に有利な形で終結に持ち込むべきであるという、深い意味のあるのです。この一見すると、同じな意味に感じる言葉に込められた思想の差が、孫武が2500年以上も残る思想を現代まで残したのに対して、侯景が何も残らなかった、残せなかった理由といえるでしょう。侯景は、目先の動きに対して、素早く行動することには長けていますが、そこから先の思考や計画、創造性といった事は何も出来ない人だったのです。さてこうして侯景は退場しました。次は、梁のその後と南朝について書いてみたいと思います。
2018.11.08
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・・・超久々の西暦535年の続きです。もうちょっと余裕もって、更新できればいいんですけどねぇ・・・。南朝の梁が飢饉で苦しんでいるころ、北朝の西魏と東魏でも、凶作と飢饉が続いていました。そんな548年、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきました。侯景は戦場での武勲の多い人物でした(この時までに彼が唯一の敗北は、梁の名将陳慶之に破れた一回だけです)。彼は東魏の丞相(大臣)高歓が死ねば、今までの功績から、自分がその地位になれると考えていましたが、高歓が死ぬと、その地位は息子の高澄が継ぎ、彼は冷遇されました。それを恨んで、自分の所領である河南地方を手土産に、梁に亡命しようとしたのです。申し出を聞いた朱异は武帝に上奏せず、他の廷臣の反対を押し切って、独断で侯景の亡命を受け入れ、さらに梁軍10万を派遣して支援させることを決めました。なぜ朱异が、反対を押し切って独断で事を進めたのか理由は不明です。病床に伏せっていた武帝の心を乱すまいとしたのか、寒門(身分の低い家柄)から自分を引き上げてくれた武帝に、大きな功績を立てて報いたかったのか、それとも自身の利己的な打算があったのか。戦略眼なきこの企ては、梁に災厄をもたらすことになります。梁の援軍派遣に気を良くした侯景は、「わしが号令をかければ三月で10万の兵が集まろう。しからば鄴(東魏の都)に攻め入り、子恵(高澄の字)の首を取ってやる」と息巻きましたが、言うまでもなく、罠にはまっていたのは彼の方でした。高歓は死の直前、高澄をまねき問いました。「侯景は猛獣のような男。わしは奴を使いこなすことができたが、そなたは年若く(侯景は)命令に従うまい。誰をもって奴を討たせるか?」高澄は即座に、「慕容紹宗(東魏に仕えた名将の一人)に」と答えました。それを聞くと高歓は「それでよい」と笑って世を去ったと言われています。高歓は自分が死ねば侯景が反乱を起こすであろうこと、そして戦上手の侯景を東魏で倒すことができるのは、この頃はまだ無名の将だった慕容紹宗しかいないと考えていました。高澄が同じ答えを返したのを見て、息子がしっかりと対策を考えていたこと、人を見る目が確かな事に安心したのです。侯景が侮っていた高澄は、父高歓のような老獪さはないものの、政治手腕に長けていたのです。高歓の死後、高澄は侯景に高い地位や金品を送り、彼が気を緩めて油断すると、今度はあからさまに冷遇して、彼が準備不足なまま反乱を起こすよう仕向けました。侯景は小僧と侮っていた高澄の手のひらで踊らされていたのです。かくして反乱を起こした侯景ですが、高澄はその報を聞くや、ただちに慕容紹宗に30万の兵を与えて、貞陽侯蕭淵明(梁の武帝の甥)率いる梁軍10万を、彭城(現在の中国江蘇省徐州市)で急襲して壊滅させると、返す刀で侯景を攻めさせました。完全に虚を突かれた侯景は、為す術もなく敗走し、高澄は三か月で河南全土を制圧しました(高澄は乱鎮圧の「功績」により斉王となり、高氏の東魏簒奪の基盤を既定路線とします)。三か月で高澄を倒すどころか、逆に三か月で彼の反乱は鎮圧されたのです。僅か1千にも満たない敗残兵を率いて、侯景は梁に亡命しましたが、敗残の彼に朱异は冷たい態度をとりました。もはや利用価値のなくなった彼を、相手にする必要を感じなかったのです。朱异の危機感のなさを危ぶんだ梁将羊侃は、「侯景は手負いの獣。今すぐ捕らえねば大変なことになる」と進言しましたが、朱异は「敗残の将に何ができる」と取り合わず、事態を未然に収拾できる最後のチャンスを逃しました。やはり朱异は、事務を淡々とこなすタイプの人で、突発的なことに対応する能力も、想像力を必要とする仕事もできる人ではありませんでした。朱异が東魏との講和の条件に、自分の身柄を高澄に引き渡そうとしていることを知った侯景は、皇族の臨賀王蕭正徳(武帝の甥で養子。最初男子に恵まれなかった武帝から、皇太子として迎えられましたが、実子誕生後は他の皇族と同等に格下げされ、それを不満に思っていました)を誘って旗頭に据え、「君臣の奸(朱异の事)を除く。謀反にあらず」と宣言して、瞬く間に10万の軍を集めて進軍し、首都建康を包囲しました。これだけの大軍がすぐに集まったのは、凶作時の梁朝の対応を民衆が不十分と考えていたこと、寒門出身の朱异を快く思っていなかった門閥貴族層が、反乱を支援したからです。また彭城の大敗で梁軍が消耗し、残った軍も治安維持のために各地に分散していたため、反乱軍の進撃を阻止できなかった点も大きな理由でした。地方の梁軍はそれぞれが少数だったため、侯景軍に戦いを挑むことができず、遠巻きに見守るだけになってしまったのです。建康の攻防戦は、名将羊侃の善戦で膠着しますが、彼が戦傷が元で病死すると、梁軍の士気は衰え、脱走する者が相次ぎました。さらに侯景が奴隷解放令を出して、建康にいる奴隷で、味方する者は取り立てると宣言すると、場内に内応者が出て、549年3月、建康は陥落しました。この事態の主犯である朱异は、落城寸前に死亡(建康を包囲する侯景軍を見て精神に異常をきたし、狂死しました)ており、彼の失態のツケは、主君である武帝が背負わされることになりました(この点も彼が強く批判される理由です)。武力で梁の実権を握った侯景は、相国(現在の首相に当たる大臣職)と宇宙大将軍(売れない芸人の寒いジョークにしか思えませんが、侯景は本当にそう称したのです)を自称して、意気揚々と武帝と対面しました。この時武帝は病み衰えてベッドで寝たきりとなっており、病床で侯景と対面しています。「その者は誰か?」「候相国でございます」近侍が答えると、武帝は激怒しました。「愚か者! 臣下を重職に任命するのは天子(皇帝)たる朕である。朕はその者を相国に任じた覚えはないわ!」対面前、「天子といっても死にかけの爺。しのごの言ったら首をひねってやる」と豪語していた侯景は、武帝の発する気迫に震え上がって跪き、武帝から声をかけられるまで顔を上げられなかったと言われています。それを見た者は、これが皇帝の威厳かと格の違いを思い知らされたと言います。もちろん侯景もでした。「天子は生かしておけぬ」彼は陰湿極まりない報復を行います。武帝の食事の量を少しずつ減らし、最終的には何も与えなくしたのです。2か月後、武帝は骨と皮だけになって餓死しました(彼の最後は、「蜜が食べたい」だったと伝えられています)。享年86歳。一代の英雄に悲惨な最後でした。
2018.11.06
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西暦535年時、中国南朝は梁という国で、皇帝は建国者でもある初代皇帝武帝(蕭衍。469~549年。皇帝位は502~549年。他の「武帝」と区別するため、「梁武」と言う言い方をされます)でした。梁の支配地域は、淮河の南から四川省全域、さらに北ベトナム地域にまたかがる広大な地域でした。領土的には北朝北魏(正式国名は「魏」です。ずっと昔にアヴァールのところで触れましたが、鮮卑族の建てた国で、三国時代に曹丕の建てた魏とは関係ありません)より広大な領域です。北魏と梁の慢性的な戦争は続いており、6年前には梁の名将陳慶之が、洛陽を一時的に陥落させたものの、形勢を立て直した北魏に敗れて、撤退を余儀なくされています。この頃北魏は内紛が続いていて(535年に東西に分裂して、西魏と東魏になります)、梁を攻める余裕はなく、南朝は比較的平穏でした。そこに西暦535年の大災害がやってきました。「南西の方角で2回雷のような音がした」とは、『南史』に出てくる534(中大通6)年12月の記述(現在の時間軸に直すと、535(大同元)年2月ごろに相当します。なお、これからの記述は、特に注意をしていないときは現在の暦、時間軸にしてお話しします)。梁の都建康(現在の南京)からクラカタウは約4千km離れています。そんな遠方で何が起きたのか、梁の人々が知る由もありません。「雷」の音に不吉なものを感じたのか、それとも記録に残されていないものの、降灰などの被害があったのか、武帝は翌月大同元年に改暦して、自ら鍬をもって畑に畝を立てています(豊作豊穣を神に祈る儀式。5世紀に廃れた祀りでした)。しかし武帝の祈りは天に届きませんでした。535年は凶作で、天候の異変もこの年だけにとどまらず、武帝は541年まで畝たての儀式を行うことになります。「黄色い塵が手一杯にすくい上げられた(536年12月)」「(537年)7月、青州(現在の中国山東省)で霜が降りた。8月雪が降り作物がやられた」と、『南史』には、異常気象の記述が続きます。黄色い塵が火山灰だったのか、それとも別の何かであったのかは判然としません。クラカタウの噴火は、桜島のような長期にわたって噴火が続くものではなく、短期間の爆発的な噴火であったと考えられているためです。凶作と飢餓は540年代にいったん終息しましたが、再び酷い飢饉は549年と550年に発生しています。『南史』には、「春から夏まで大干ばつになり、人々は人を食べた」と悲惨な状況を記録しています。梁朝は、餓死者が出ていることを理由に、538年に12の州で納税遅延を認める布告を出し、541年には国全域に納税遅延を拡大させました。しかし食料不足解消に有効な手を打てなかったため、各地で反乱が勃発しました。541年交州(現在のベトナム北部)で李賁(漢化したベトナム人)が反乱を起こし、刺史(州の長官)の軍を破って独立を宣言しました。梁は討伐軍を送ったものの激しい抵抗で攻めあぐね、反乱は長期化しました(梁将陳霸先によって完全鎮圧されたのは、548年の事です)。続いて定州(現在の中国広西チワン族自治区貴港市あたり)でも暴動が発生し、貧民たちが大挙加わって、首都建康に迫る勢いになりました。こちらは湘東王蕭繹(武帝の七男。後の梁朝第四代皇帝元帝)によって鎮圧されましたが、続く飢饉と反乱は、梁の支配体制と経済基盤を揺るがしました。梁朝は治安維持のため、各地に軍を派遣しましたが、それらは中央政府の統率が弱まるのに反比例して各地で軍閥化し、さらに梁朝の弱体化をまねいていくことになります。この時、梁朝にとって致命的だったのは、皇帝武帝が政務を放り出してしまったことでした。武帝は、暴虐の限りを尽くした前王朝斉の東昏候(斉の第六代皇帝蕭宝巻。諡(おくり名)の意味は、「東のバカ殿」となります。さらに余談ですが、姓が同じ蕭であることからも察せられますが、蕭宝巻と蕭衍(梁の武帝)は親戚同士でした) を打倒し、大きな覇気と度量、そして知性を兼ね備えた人物でしたが、晩年苦楽を共にした臣下が次々に世を去り、父から一身に期待を受けていた皇太子蕭統(「昭明太子」と諡されています)が若くして病死(531年)すると、次第に厭世的となり、仏教に傾倒して国政を顧みなくなる傾向がありました(527年には出家騒動を引き起こします。この頃は民衆から半ば好意的に「皇帝菩薩」と呼ばれています)。そこへ535年からの大災害です。武帝は、災害を自分に対する御仏の罰であり、死者の冥福を祈ることが自分の責務と思い込むようになってしまったのです。539年には、彼の精神的なストッパーの役割を果たしていた名将陳慶之が病死すると、完全に歯止めがかからなくなりました。武帝が放り出した国政は、枢機の朱异が淡々と処理しています。彼は『平家物語』で有名な「祇園精舎の鐘の声・・・」に後に続く、国に害をなし、風の前の塵のごとく滅んだ奸臣の一人として挙げられています(『平家物語』では「周異」となっています)。しかし彼は『平家物語』で上げられた秦の趙高(秦の始皇帝に仕えた宦官(去勢されて男性機能を失った官吏で、中国では宮廷内の雑役に用いられました。そういう事情からか、人間扱いされずに便利な道具扱いされましたが、中には皇帝や皇妃の信任を得て、政治を壟断したり、不正蓄財に励むするケースも多々ありました。ちなみに良い業績を立てた宦官には、紙を発明した蔡倫がいます)で、始皇帝の死後、皇太子の扶蘇を自殺させ、自身が守役をした始皇帝の末子胡亥を二代皇帝に据えて、秦王朝の政治を大きく乱す原因を作って、滅亡の切っ掛けを作りました)や漢の王莽(前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、外戚として実権を握り、漢王朝を簒奪して「新」という王朝を建てました。しかし現実を顧みない王莽の新王朝はすぐに破綻して戦乱となり、混乱の中で彼は殺されました)とは異なり、国政を不当に壟断したり私物化したわけではありません。朱异は官僚タイプの人でした。この手の人は創造的な仕事をする能力はありませんが(官僚の仕事は、決められた規則を守って、事務的に処理していく職種ですからしたかありません)、組織を運営していく手腕には長けています。皇帝不在の梁の国政が大きく乱れなかったのは、朱异の功績なのは間違いありません。ではなぜ彼が、奸臣と呼ばれるようになったのか、そして梁の滅亡を決定づけることになる「侯景の乱」について、次回触れてみたいと思います。
2017.12.25
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次に地理的な条件の違いについてみてみましょう。中原のある華北地方は、北はモンゴル高原、西のシルクロードを通じて、遊牧民族が流入するなど、古来より人の出入りが多い地域でした。そのため西方から製鉄などの新しい科学技術もいち早く取り入れられ、発展していきました。また、黄河は暴れ川で、常に治水の必要があったことから、強力な指導者を必要としました。そのため王権の確立も早く、中央集権的な王朝の主導により、大規模な農地開発も進められたため、必然的に人口も多くなりました。それに対して長江側は、東に太平洋、西は険峻なチベットの山々、南は熱帯雨林と山岳に囲まれていたため、7世紀頃までは、北の中原と、南は今の北ベトナム地域にだけ、窓口が開いているだけでした。長江は黄河に比べて大人しく、さして治水の必要がなかったので、中央集権的な王の権力は強くならず、力を持つ貴族層が形成されて、分権的な色彩が強くなりました。そんな政治的な事情や、気候も温暖で農村物も豊かであったことから、北ほど農地開発は進みませんでした(長江流域の開発と、人口の増加が急速に進むのは、華北を異民族に征服されてしまった南宋時代(12世紀)以降になります)。人口比は時代により異なりますが、三国時代頃は北の魏(華北一帯)が75に対して、呉(江東・江南地方)と蜀(四川地方)を併せて25ぐらい、南北朝時代頃は、北朝が7に対して、南朝が3という感じになるかと思います。人口の多寡は、国力や、軍の動員能力にも影響しますから、戦争は南朝の方が不利でした。また地理的条件で、もう一つ無視できないのが、南北の交通手段の違いです。中国には南船北馬という言葉があります。 これは中国南北の交通手段の違いを端的に表している言葉です。南は長江だけでなく、小さい河川や湖、沼地も多く、交通手段は船が中心でした。対する北は、黄河を除けば、平原や山地が多いので、馬による交通手段が発展しました。古来中国の中心地は黄河周辺の中原で、ここをとった者が天下を取ってきました。長江側は、船を操るのは巧みでも、馬は余り得意ではありません。中原の戦争は、どうしても馬が重要な役割を果たしますから、長江側の王朝は不利でした(ついでに言いますと、中国歴代統一王朝の中で、唯一長江側で誕生して中国を統一することができたのは、明王朝(1368~1644年)だけです。元末明初の頃になると、華北は金や蒙古との戦争で荒廃し、華南は北から逃げてきた人々で人口が増加し、開発も進められて、南北朝時代と人口比が逆転していました)。また、郷土愛が強い住民性故に、故郷から遠く遠征することもいやがりました。その辺は、勘の鋭い方は『三国志』を読んでいて感じることが出来るでしょう。蜀と同盟を結んだ呉は、魏と戦争はするものの、一戦交えると、勝利してもそれ以上北へ進出することなく、いつも兵を引いてしまいます。これは魏との冠絶した国力差から、全面戦争になることを回避したかった点や、故郷から遠く離れたくない江南の兵士たちの思惑が、複合的に絡み合った結果なのです。また西の蜀(四川地方は、華北・華南双方の要素を持った地域です)も、劉備に蜀を乗っ取られるまで、中原の戦乱には無関心を通しています。こちらは事は少し事情が異なりますが、蜀の人々が中原に出るには、険峻な秦嶺山脈を超えなくてはなりません。しかし蜀は食料豊かな土地なので、命がけで秦嶺山脈を越えてまで、中原の戦争に参加する意思は希薄だったのです。しかし漢の皇族を自称する劉備が漢中王となり、後漢王朝が魏に禅譲して無くなると、蜀は「正当な漢王朝の後継者」との立場を国是としたため、魏との戦争に積極的になっていきます。もし劉備の入蜀が無ければ、この地方は自然に中原王朝の支配を受け入れていたかもしれません(ちなみに、私は簡潔に「蜀」と書いていますが、正式な国名は「漢」です。歴史学的には、前漢・後漢と混同しないよう、「蜀漢」と呼ばれています)。こういった様々な要因が、魏晋南北朝時代の南北の力関係に大きな影響を与えていました。国力の劣る南朝は、北朝を苦しめることは出来てもそれが限界でした。春秋・戦国時代の楚、漢の劉邦(高祖)と天下を争った項羽(楚)、三国時代の呉もしかりです。しかし南朝は北朝を打倒することは出来ませんでしたが、無力であった訳ではありません。三国志で有名な赤壁の戦い(208年)では、曹操の大軍を呉の名将周瑜が破り、天下統一を断念させています。三国時代以降の魏晋南北朝時代だけを見ても、淝水の戦い(383年。華北を統一して江南へ侵攻した前秦軍100万を、東晋軍7万が迎え撃ち、前秦軍は約30万の戦死者を出して大敗しました)、鍾離の戦い(506年。北朝北魏80万の大軍が、南朝梁の鍾離城(現在の安微省鳳陽県)を包囲しましたが、救援に来た梁軍20万の反撃で大敗し、20万を超す戦死者と、5万の捕虜を出して撤退しました)で北の侵攻を撃退して、中国統一を阻んでいます。南が北に飲み込まれるか、それとも耐えうるかで、中国が統一国家になるかが決定されていたのです。そう見ていくと、南朝側は国力の増強に努めて専守防衛に努め、外交交渉によって北朝と講和を維持することが、正しい生存戦略に思えますが、残念ながらそうはなりませんでした。前に触れましたように、東晋の支配者層は華北出身でしたから、奪われた故郷の奪還、北朝を武力で倒すという考えに固執ししまた。その思想は東晋滅亡後も南朝諸王朝を縛り、儒教教育の徹底と浸透にともない、綿々と唯一の戦略として受け継がれていきました。南朝に北朝と講和して戦争を終結させるという考え方は、一度も検討されることはありませんでした(一時的な和睦は除きます)。こうして、南朝は北朝を滅ぼして天下を統一するか、逆に滅ぼされて消滅するまで、戦争は終われない状況になっていったのです。南朝は東晋(317~420年)から宋(420~479年)、斉(479~502年)、梁(502~557年)と王朝交代しながら、200年以上に渡って北朝と戦争を続けていました。そんな中、西暦535年の大災害を迎えます。・・・次回からようやく本題に入ります(汗)
2017.12.24
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次に中国の、南北の文化の違いについて触れてみたいと思います。中国の文化圏は、南北で大きく異なります。元々中国の文明は、黄河と長江それぞれに、異なる文化として発生・発展したものが、春秋時代(紀元前770~紀元前403年)に互いの文化圏が接した結果、まじりあって関わり合いを持つようになったと考えられています(黄河文明は約4千年の歴史、長江文明は約5千年の歴史があると言われています。ただし黄河側より古い長江側の文明は、中国歴史学会にとって「中国の文明は黄河から始まって現在に至る」という定説にそぐわなくなるため、冷遇されてろくな研究が進められていません。ちなみに二つの文明が別物であることの傍証としては、春秋時代、中原の諸侯が君主号を「公」として、「王」は周王室のみとして憚ったのに対して、長江側の楚や呉、越などの国は「王」を、最初から君主号としている点などが指摘されています)。両文明の境界線になるのが淮河と言う川です。丁度黄河と長江(揚子江)の間に流れています。古くは春秋時代の楚から、12世紀の宋(南宋)と金(今の中国東北部で勃興した女真族が建てた制服王朝)など、北部と南部の王朝の国境にもなってきました。はじめに華南と華北の住む人々の正確に違いについて見てみたいと思います。それぞれの住人の性格は、孔子(儒教)と老子(道教)という、中国を代表する2大思想家の考え方の違いを見れば、おおよその見当をつけることが出来ます。黄河側の孔子が、人間の特性として、徳(人間の持つ気質や能力に、社会性や道徳性を獲得した性質)や仁(人を思いやる心)を重視して、規律正しく人格を磨くことを是としたのに対して、長江側の老子は無為自然、無理をせず自然に生きることを説いています。突き詰めると、中原(黄河流域)の人々は、秩序や規律といった点を重視する性格なのに対して、長江側はのんびりした性格という色づけが出来ます。この考え方の違いは、南北の環境の違い(南は温暖な気候で食料が豊富なのに対して、北は耕作などを努力しなければ飢えてしまう)が大きな影響を受けていると言われています。秩序と規律を重視する中原側は統一志向が強く、春秋戦国時代から戦乱が絶えません。対して長江側は、春秋時代の楚から、中原の争いに参加するようになるものの、中原の諸侯と違って中国を統一しようという志向はなく、自分たちの利益になると思えば、戦乱に首をつっこみ領土や権益を拡大していく感じでした。黄河側が大義名分に拘るのに対して、長江側はあくまで自分たちのコミュニティの実利第一でした。そんな双方の性格に大きな変化をもたらしたのが、魏晋南北朝時代でした。永嘉の乱によって乱れた中原に、北方の遊牧民族が多数侵入してきました(西晋末期(304年)から北魏の華北統一(439年)までを、細かい時代区分でいうと、五胡十六国時代と言います。五胡とは5つの騎馬民族で、匈奴族、鮮卑族、羯族(三者とも民族系統不明)、羌族、氐族(両者ともおそらくチベット系)と漢族で、計16の王朝を華北にたてました)。彼ら騎馬民族たちは時代が進むにつれて、人口の大半を占める漢族に文化的にも人種的にも同化、吸収されていきましたが、一方で漢人たちも、彼ら遊牧民の質実剛健の考え方に影響を受けました。儒教の影響で、はじめは騎馬民族たちを野蛮人と蔑視した漢人たちでしたが、異邦人が当たり前のように隣人になっていったことから、漢字と漢語(中国語)になじみ、漢文化に同化した彼らを、同胞と認める協調性と、柔軟性をもつドライな気質にしていったのです(民族主義が強かった五胡十六国時代の頃は、他民族を大虐殺する事件は何度も起きていますが・・・)。黄河側とは逆に、長江側では排他主義が芽生えていくことになりました。晋が再興(これ以降は東晋と呼ばれます)され、江南社会が大きく改変された結果でした。華北から逃れてきた漢人たちは、華南に住む漢人たちを蔑視する風潮がありました。儒教的な価値観を持つ彼らから見ると、道教的な価値観を持つ長江側の漢人たちは、おおざっぱでいい加減に見えたのです。これは亡命者たちの多くが、皇族や貴族などの支配者階級が多かったことが、その考えに拍車をかけました。一種の純血思想に発展したのです。支配者層は、異民族に毒された中原の漢人ではなく、自分たちが正当な中華の民であり、文化の担い手であるという自負を持ちました。世界史の資料集などを見ると、南朝文化(六朝文化)は、武より文を貴ぶ貴族的な文化と書かれいますが、漢文化の優越性を立証するために、必死に確立されたという側面・背景があったのです。そして南朝の文化的な活動には、もう一つ大きな命題がありました。それは異民族に奪われた中原の奪還であり、それを正当化する理論の構築でした。利用されたのが儒教でした。前漢時代に国教化されて以来、長江側でも儒教教育が進められていましたが、もともと道教色が強いこの地域では、この頃まで士大夫層(官吏を排出した階層)をのぞいてはほとんど普及していませんでした。東晋の朝廷は、庶民レベルまで徹底した儒教教育の普及に努めました。なぜ儒教だったのかと言えば、実質的に亡命政権である東晋王朝にとって、都合が良かったからです。儒教は、「子は親に逆らってはいけない」というように、規律と秩序を重んじます。支配者側から見れば、王朝への忠誠心を植え付けられるものだからです。そして儒教的な倫理観を突き詰めて考えれば、中原や華北を「不法占拠」している異民族は悪であり、奪われた領土を取り戻すための戦争は、正義であると正当化出来るのです。このような儒教的思想が浸透し、華北から逃げてきた漢人たちが長江側の人々と同化していくに従って(ただし東晋王朝は、亡命政権の性格を克服できずに政権の地盤が弱く、滅んでいくことになります)、現地の人々の性格も変化していきました。もともと分権的な色彩の濃い長江側は、郷土色の強い排他性のある住民性を持っていました。それが儒教的な純血思想と結びついて、強い特権意識と選民意識を持つようになっていきます(それが思想的に完全に確立したのは、この時代から約700年後の南宋時代に、朱子学が成立してからです)。現代の中国を見ても、ドライな気質もを持つ黄河側の人々に対して、長江側の人々は、自分の主張は絶対譲らず、非常に頑固でウェットな気質を持っていますが、それは南北時代以降に形成されてきた性格なのです。そして南朝側で芽生えた選民思想は、朱子学以降、「中華思想」へと発展して、現代に続いてくことになります。 (続く)
2017.12.23
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どうもいけない。中世の中国史(南宋時代の外交史)を大学時代にやっていたせいか、中国史になると暴走気味になります(汗)。これでも押さえているつもりなんですけどねぇ・・・。などと、謙虚っぽい台詞はここまでにして、今回も全開で脱線話、魏晋南北朝時代と中国の地理的な違いなどについて、簡単におはなししたいと思います。・・・簡単に終わらせられるだろうか(汗)。 はじめに魏晋南北朝時代という時代についてです。具体的な年代区分は、黄巾の乱によって後漢が衰退し始める西暦184年頃から、隋が中国を統一する589年までです。日本で有名な『三国志』の時代(220~280年。広義には184~280年頃まで)は、魏晋南北朝時代の一部分になります。『三国志』が有名すぎて、他に目が向かない人も多いかと思いますが、それ以外の時期も、三国志に勝るとも劣らない、魅力的な人物が多く登場する非常に面白い時代です。歴史学的に見ると、中国で仏教が広まって定着していくのはこの頃ですし、邪馬台国以降の日本も、継続的に大陸と関わりを持って、世界史上に足跡を残していくのもこの時代です。しかし一方で魏晋南北朝時代は、歴史の研究家でも思わず敬遠したくなるような後味の悪さ、悲惨さがあります。この時代を象徴する言葉として有名なのは、南朝宋(春秋時代の宋や、後年の統一王朝の宋と区別するため、国姓(皇帝の姓)をとって、劉宋と呼ばれています)最後の皇帝順帝(劉準。位477~479年。僅か13年の生涯と伝わっています)の、「願後身世世、勿復生天王家(生まれ変わることが出来ても、二度と皇族に生まれたくない)」という悲痛な言葉でしょう。中国史において、戦乱期は数多くありますし、王朝の滅亡に関わる悲劇は無数にあげることが出来ますが、この時代の陰惨さ、血生臭さは格別です。春秋戦国時代(紀元前770年頃~紀元前221年)や三国志などでは、滅ぼされた側の武将などが、滅ぼした側に新たに仕えて活躍する話は多く出てきます。古代、周に滅ぼされた殷(商)の王族も、周の諸侯の一つ「宋公」に列せられ、子孫は長く命脈を保ちましたし、(前)漢初代皇帝劉邦(漢の高祖)も、漢帝国成立後、ライバルの項羽の叔父に、国姓の劉姓を与えて諸侯として遇しています。またこの時代よりだいぶ後の王朝になりますが、(北)宋を建国した趙匡胤(宋の太祖)のように、宋に禅譲(皇帝位を譲ること)した後周(951~960年)の皇族一族子孫を手厚く保護し、自らの子孫にも家訓として、300年にわたって守らせた王朝もありますが(南宋が元(蒙古)に滅ぼされた時、後周皇族の当主は、宋の幼い皇帝を守って討ち死にしています)、魏晋南北朝時代は真逆でした。王朝が滅ぶ時、皇族や有力重臣一族は、幼児に至るまで皆殺しにされ、平時でも権力者から危険視されたり、功績を妬まれたりすれば、有力な重臣や武将であろうが、罪を着せられて一族皆殺しの憂き目を見るのは当たり前でした。また一端は体面のため助命されても、後日暗殺される事も数え切れません。王朝上部の陰惨さに加え、長い戦乱が絶え間なく続いて庶民は苦しみ、世は死臭の絶えない生きにくい時代だったと言えるかもしれません。それは同時代に人々も感じていたようで、有能であるが故に歴史の表舞台に立つのを避けて、野に隠れて生きた知識人たち、竹林の七賢の逸話なども伝わっています。 さて、上であげた宋の順帝の話を例に、暗い時代の一端をお話ししたいと思います。まだ10歳の少年だった順帝が即位した時、実質的に劉宋は滅んでいました。建国以来、劉宋の皇族たちは内部で帝位を狙って争い、殺し合いが絶えず(劉宋59年の中で、計8人の皇帝が出ましたが、暗殺された皇帝は5人に及びます。どれだけ内部で争いが激しかったかが伺えます)、皇帝権力を失墜して、王朝は弱体化の一途をたどっていました。順帝の兄後廃帝(劉呈。位472~477年。皇帝即位前より、殺人を好む暴君だったと伝えられています。しかし、実物以上の暴君に脚色された可能性があるとも言われています)が、朝廷の実権を握っていた蕭道成(後の斉の高帝)によって殺害されると、弟の彼が皇帝に擁立されました。しかし少年の彼に実権があるわけが無く、蕭道成の傀儡でした。そして順帝が安心して過ごせる場所は、国内に一つもありませんでした。彼の行動は常に監視され、食事に毒が盛られていないか怯えて過ごさねばなりませんでした。宮殿から一歩も外に出ることも出来ず、蕭道成の息のかかった側近としか会話も許されません。鳥籠の中の鳥より不自由な身の上でした。彼の運命は、即位した(正確に言えば、本人の意志とは無縁ですが)時からすでに決まっていました。もし傀儡師の意に添わぬ行動をしたり刃向かったりすれば、容赦なく彼は殺されるでしょう。しかし蕭道成に素直に従ったとしても、近い将来に皇帝位を譲らされて用済みになった後に未来はありません。つまり順帝の人生は、今すぐ蕭道成に逆らって殺されるか、それとも従順に過ごして、ほんの短い間だけ生きていられる時間が得られるかという程度のものだったのです。そのことは、宋の宮中や民衆だけでなく、敵である北朝北魏の朝廷も、さらに順帝本人も知っていました。479(昇明3)年4月、順帝は蕭道成に禅譲して劉宋は滅び、新たに斉(479~502年)という王朝が誕生しました。「生まれ変わることが出来ても、二度と皇族に生まれたくない」と、順帝が泣きながら発言したのは、退位して宮殿を出る時の言葉と伝えられています。彼は斉の高帝から汝陰王に封じられ、不臣の礼(臣下扱いしない特別待遇のこと。例えば「陛下」という尊称で呼ばれることや、「朕」と言う皇帝の一人称を用いることが認められました)を許されましたが、それは新皇帝の「慈悲深さ」をアピールするだけのもので、高帝に少年を生かしておく気は全くありませんでした。退位の翌月には順帝は暗殺され、13年の薄幸な生涯を閉じました。こう見ていくと、「二度と皇族に生まれたくない」という言葉の重さを、聞く側は感じずにはいられません。ただ殺されるだけの生涯だった彼の、切なすぎる魂の叫びだからです。元からそういう時代ですから、これに西暦535年の大災害が加わることで、どれほど暗い話が多くなるかはお察し頂けるかなと思います。ぶっちやけ、前に触れた東ローマ帝国のフォカスの乱のような記述が多くなる感じです(汗)。 (続きます)
2017.12.22
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さて、11か月ぶりの535年話です(多汗)。今回から東アジア、まずは中国に話を移していきたいと思います。そして例によって、またまた前振り話です(汗)。6世紀の中国は、南北朝時代と呼ばれる戦乱期でした。戦乱は後漢(25~220年 末期から始まり、日本でも有名な三国時代(220~280年)を経て、300年以上続いていました(途中、西晋(265~316年)が天下を統一したものの、統一は20余年で破れ、再び戦乱期に突入しました)。後漢末からの戦乱期と併せて、歴史区分では「魏晋南北朝時代」とひとくくりにされています。と、ここで「歴史区分」と出てきたついでに、さらなる脱線をしたいと思います。教科書などでは、後漢、西晋という言い方をしますが、これは歴史用語上の区分であり、実際の名ではありません。後漢王朝の王朝名は「漢」です。「後漢」という王朝は存在しません。漢の場合、劉邦(漢の高祖)が建てた「漢」と、王莽に滅ぼされた漢王朝を再興した劉秀(劉邦の子孫。光武帝)の「漢」を混同しないよう、「前」「後」をつけて区別しているのです。西晋も同じです。司馬炎(晋の武帝)が建国した「晋」と、永嘉の乱(後漢時代に従属していた遊牧民族匈奴が、晋の政治が乱れたのに乗じて蜂起し、首都洛陽や長安を攻略され、晋は滅びました)後に、晋の皇族の司馬睿(東晋の元帝)が江南の建康(今の南京)に逃れて再興した「晋」を、東西をつけて区別しています(頭に着く「東」「西」は首都の位置を意味します。西晋の都洛陽から見て東晋の都建康は東にあり、建康から見て洛陽は西になります。「北宋」「南宋」のように「南」「北」の区分もあります)。いずれも、ずっと前にブログで書いたローマ帝国の東西と同様に、歴史家がつけた区分けに過ぎないのです。また皇帝の呼び名ですが、教科書で「漢の武帝」「唐の太宗」と出てきたのを覚えている方も多いでしょう。武帝は諡(おくりな。生前の業績に対して、次の皇帝や王朝がおくる名です。そのため諡を見れば、どんな皇帝だったか見当はつけられます。例えば「武」が付く皇帝は、戦争が多かった皇帝。内政面の業績が大きい皇帝は「文」が付くという感じです)、太宗は廟号(先祖をまつる一族の廟に載せる名前)といいます。いずれも皇帝が崩御してからつけられるので、戒名みたいなものと考えれば分かりやすいと思います。ですから、生きている間にその名で呼ばれることはありません(と言うか、まだ付いていないので呼ばれようが無い)。しかしそれを理解していない小説家や脚本家が多くいます。説明文やナレーションで、「前漢」「武帝」といった表現が出てくるのはなんの問題もありませんが、「前漢王朝は・・・」とか「武帝陛下に上奏して・・・」などという台詞が、登場人物の会話で出てくることをたまに見かけます。これはあり得ません。そういうのが出てきた時、たいてい私はそこで本を読むのやめて、本屋であれば本棚に戻し、買った本なら資源ゴミの雑誌や本と一緒に縛って終了、テレビドラマならテレビを消して、映画館なら寝ます(途中退出は周りに迷惑だと思うので寝て過ごします)。なぜなら、こんな初歩的な事を理解していない作品が、良作なはずがないからです。事実、基礎的な部分が間違っている小説の大半は、10年とたたないうちに作家ごと消えている場合が多いです。また、季節区分を理解されていない作家さんも見受けられます。これは日本の江戸時代の小説(結構話題になり映像化もされいましたが)でしたが、出だしに「○年10月、秋の東海道を・・・」と書いてあるのを読んで、即読むのを終了したことがあります。何がおかしいの? と思う方もいると思いますが、明治以前は太陰暦です。ですから10~12月は冬、ついでに春は1~3月です。今の太陽暦の感覚では、10月は秋で1月は冬ですが、時代小説家なら、江戸時代と現代の季節のずれを知っていて当たり前、知らなかった時点で作家としてアウトなのです。あと中国の歴史小説をみると、字(あざな)を勘違いしている方も多いですね。字は中華圏で、成人男性が自分でつける名前です。あだ名に似ていますが、ニュアンスは異なります(なので日本人には理解し辛いのは確かです)。本名(諱(いみな)といいます)は親がつけるのに対して、字は自分でつけた名なので、親しい間柄では字で呼び合うのが慣習です。日本の小説で、よく「劉備玄徳」「曹操孟徳」と言う風に、姓・諱・字をくっつけて呼ぶ描写がありますが、もちろん誤りです。諱と字は一緒に呼ばない慣習なので、「劉備」「曹操」と呼ぶか、「劉玄徳」「曹孟徳」と呼ぶのが正しい呼び方です。日本で間違った呼び方が定着したのは、字の慣習が無かったのと、恐らく日本人は名字と名前で4文字5文字くらいになることが多いので、字をつけて呼んだ方がバランス的に言い易いからかなと思っています。名前だけで呼ぶと「備」「操」なので、なんか物足りないというか、間が抜けた印象があるんでしょうね。「劉備玄徳」と呼ぶ方がしっくり来ちゃうんですよね。それ以外で気になる点は、例えば「成金」「戦略」「戦術」といった後に出来た言葉が、それ以前の時代に出てくることですかねぇ。「成金」という言葉は、大正時代の第一次世界大戦特需の時に生まれた言葉です。なので江戸時代や明治時代の小説で、「あいつ成金だから」と出てきたら、歴史小説はアウトです。「戦略」「戦術」という言葉も、18世紀末のヨーロッパで生まれた言葉ですので、それ以前の時代の小説で出てくるのはおかしな言葉です。「○○的」という表現も完全に現代語ですから、例えば諸葛孔明(どうでもいい解説ですが、「孔明」は字で諱は「亮」です)が、「戦略的に正しい」と台詞をしゃべったら、言わんとする意味は理解できても、やっぱり興ざめします。歴史小説応募の審査結果を読むと、たいていの審査員の論評に、「作品はおもしろかったが、時代にそぐわない言葉や現代語が多くて、話に集中できなかった」という趣旨のコメントがよく見られます。こだわりすぎると何もかけなくなってしまいますが、読者になじみやすい表現を織り交ぜつつ、歴史用語を巧みに使って世界観を表現できるかが、歴史小説家の腕の見せ所なのです。自分でもめんどくさいこと言ってるなと思いますが、歴史小説を書くのを職業にしたいなら、最低限このぐらいのことを理解していないと、知識がないと見なされてしまうのです。上の知識、知っていたところで誰からも褒められませんが、作家であれば、知らなければ馬鹿にされるのです。歴史小説の応募で落とされるものの8割は、こういうところの問題なのです。せっかくおもしろい話を考えたのなら、こんなところで躓くのはもったいない話です。ちなみに私は、誤字に関してはスルーします。自分が誤字だらけですから(乾いた笑い)。・・・さて、今回は脱線の脱線、歴史小説に対する愚痴りになってしまいました(汗)。次回はまじめに前降り話に入りたいと思います。
2017.12.18
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548年、テウディス王は宮殿で暗殺され世を去りました。テウディス王は、フランクと東ローマの侵攻から国を守った王でしたが、戦後、ローマ教皇やフランク王国との関係改善を図ろうとしたため、これをカトリックへの改宗を意図していると見なした保守派によって、暗殺されたのです(彼がカトリックへの改宗を考えていたかは不明ですが、国内をまとめ上げるにはカトリックとの融和は必要と考えていたようです)。次のテウティギセル王(在位548~549年)も、テウディス路線を踏襲したことから、宴会中に刺殺されて短い治世を終えました(西ゴートの記録では、「テウティギセル王が宮廷で売春行為をおこない、ゴート人の品性をおとしめた」事が、暗殺された理由とされています。彼の素行が良くなかったのは確かようですが、宗教問題と素行のどちらへの反発が強かったのかは不明です。フランスのところで出てきた歴史家トゥールのグレゴリウスは「ゴート族は貴族たちに望ましくない王を、自らの手で殺害し、自分たちに好ましい王に取り替えるという非難されるべき慣習を持っていた」と、ゴート人の民族性が原因という見解を記しています)。テウティギセル王暗殺を主導したのは、ゴート人貴族のアギラ(アギラ1世 在位549~554年)でした。保守系ゴート貴族たちの推挙で王位についたアギラは、先々代、先代王と異なり、熱心なアリウス派信者であり、強い反カトリック政策をとりました。その結果、各地でカトリック教徒の反乱が起きました。反アギラの指導者はアナタギルド(在位555~567年)というカトリックとの穏健派のゴート人でした。西ゴート国内は、アリウス派を信仰するゴート人たちはアギラ王につき、カトリック系の住人や穏健派のゴート人たちはアナタギルドに味方し、内戦が始まりました。両者の争いは膠着しましたが、その天秤に変化を与えたのは、ローマ帝国復活の野望を持つ東ローマ帝国のユスティニアヌス帝でした。彼は553年に東ゴート王国を滅ぼしてイタリア半島を奪還しており、西ゴートの混乱を見て、ヒスパニアもローマの手に取り戻す好機と見たのです。554年、ユスティニアヌスはアタナギルドと同盟して東ローマ軍はセビリアに侵攻し、アギラ王は敗死しました。これにより西ゴート王となったアタナギルドですが、地方ではアギラ派が激しく抵抗して、彼の権力基盤は不安定でした。足元を見たユスティニアヌスは、盟約に背いて東ローマ軍が占領した地域を西ゴートに返還せず、西ゴート領の大半を東ローマ領化しました。東ローマの後ろ盾を失えば王位を失いかねないアタナギルドは、ユスティニアヌスに屈しかけますが、これを見たアギラ派の貴族たちは、アタナギルドと和解して彼の王位を承認する姿勢に転換しました。ユスティニアヌスの専横を許せば、西ゴート全土が東ローマ帝国に併呑されてしまうことを危惧したのです。さらに西ゴートに影響力を拡大したい北のフランク王国は、東ローマ帝国がイベリア半島に進出することを望まず、アタナギルド王を承認して支援したため、彼は東ローマとの戦争に踏み切りました。ここに20年に及ぶ両者の戦争が始まることになります。 そして589年、レカレド1世(在位586~601年)の時、西ゴート王国はカトリックを公認して王は改宗しました。東ローマとの長い戦争で困窮していた西ゴートは、すでにフランク王国の支援無くして戦争継続は出来なくなっていました。加えて非ゴート人の国民統治を円滑にするには、少なくとも王だけは、アリウス派の信仰を守り続けることは出来なくなっていたのです。おりしも東ローマとの戦争は、戦線縮小を図っていたマウリキウス帝(ずいぶん前に彼のこと触れたなぁ)の時に終わらせることが出来たので、ようやく西ゴートに平和が訪れるかに見えましたが、今度は王の改宗に反発したゴート貴族たちの反乱がまっていました。反乱をどうにか鎮圧したレカレドですが、それがもたらした結末に悄然としました。長い戦争と内戦により、かつては精強を誇ったゴート貴族たちの多くは死に絶え、その軍事力は衰退しきっていました。加えて、王国を支えるのは非ゴート人の新興貴族たちになっていました。カトリック教徒が西ゴートを支えていたのです。彼は、今まで信仰していたアリウス派を徹底的に弾圧して根絶やしにしました。なぜなら異端の教えを信奉するものがいれば、フランク王国などに戦争の口実を与えることになりかねないと考えたのです。危険の芽は摘むに限ります。西ゴートは全力を挙げて敬虔なカトリックの国であることをアピールしました。その行動は、一種強迫観念となってこの後西ゴート王国を支配続けることになります。アリウス派が地上から消滅すると、西ゴートの宗教弾圧は、今度はユダヤ教徒への迫害に変化しました。これが欧州におけるユダヤ人迫害の起源と言われています。 一連の親カトリック政策は、西ゴートの社会を根本から変化させました。改宗の結果、ゴート族固有の文化は消滅しました。ゴート語は死語となり(現在のスペイン語でゴート語起源の言語は、単語がいくつか残っているだけと言われています)、西ゴート人たちの話す言語は、ヒスパニアのラテン語方言(この後アラビア語と混じりながら、現在のスペイン語に発展していきます)になりました。ゴート人は非ゴート人に吸収され、ゴート族は「消滅」しました。カトリック国として再生した西ゴート王国は、621年にイベリア半島を統一しましたが、すでにゴートの軍事力を失った王家は、名ばかりの存在でしかなく、統一も形だけの国になっていました。そのため711年にイスラム帝国の侵攻を受けると、あっけなく西ゴートは破れ、718年に完全滅亡しました。 現在のスペイン文化に、ゴートの面影は皆無です。彼らは6世紀半ばから始まった戦乱と混乱の中で消えていきました。ゴート人が非ゴート人に同化していったことで、スペインは再びローマ人などのラテン系民族の国へと回帰していくことになりました。そのため後のイスラムによるスペイン征服、レコンキスタ(キリスト教徒によるスペイン再征服運動)では、フランスやイタリアの諸侯はスペインのキリスト教徒を支援しますが、これはキリスト教とイスラム教の対立という図式の他に、同じ民族を助けるという同族意識を持っていたからです。このように見ていくと、イングランドやフランスと同様、6世紀のスペインにおきた混乱と変遷は、現代に繋がる大きな選択の時代であったといえそうです。 しかし一方で大変動は負の遺産も残しました。西ゴート王国が主導したユダヤ教徒への迫害は、イスラムの支配下でいったん終了しましたが(この頃のイスラム教徒は、ユダヤ教徒やキリスト教徒を「啓典の民」として改宗は求めず、大切に扱いました)、地下水脈のように欧州全土にその根を張り巡らし、十字軍時代を迎えると、ユダヤ教徒とユダヤ人に対する大きな人種迫害へと発展し、その負の影響は現代にまで繋がっていくことになったのです。 これで欧州の話は終わりです。次は、東アジアの話に(なるべく早くに)移っていこうと思います。
2017.01.14
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ヨーロッパの話は、イギリスとフランスだけにしようと思っていたのですが、それだと寂しいので、もうひとつ書くことにしました(そんな理由かよ)。とりあえず、ヨーロッパの部分を早くに完結させたいと思います。3つ目の国はイベリア半島のスペインです(地域的にはポルトガルも含みますが、話に出てくるところのほとんどはスペインになります)。スペインを選んだ理由は、ローマ帝国時代から発展していた地域で、当時の記録が比較的残っているからです。現在のドイツや北欧などは資料が少ないし、ただでさえ欧州の古代史が専門外の私めには荷が重いです(汗)。そういうただれた理由でスペインです。さて、地中海の西端に位置するイベリア半島は、大西洋と地中海の境界であり、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の境界でもあります。そのような地理的な特性から、古くは先史時代から、アフリカから欧州への人類の進出路になっていました。有名なアルタミラ洞窟壁画(最古の壁画は約1万8500年前のもので、その後約4千年にわたって、壁画が次々に描かれました。そして約1万3千年前に落石出入り口が塞がり、現代まで密閉保存された形になりました)があるのは、スペイン北部カンタブリア州です。そして古代文明の時代になると、地理的な重要性から、古くはギリシア人やフェニキア人たちがイベリア半島に植民市を建設し、カルタゴ(フェニキア人の国)がイベリア半島を支配しました。同地をローマがカルタゴから奪ったのは、紀元前202年のことです。ローマの支配は500年続き、現地のケルト人、イベリア人たちはローマ人化していきました。ヒスパニアで産される金や毛織物、オリーブオイルやワイン等はローマを支える資源・物資の策源地となり、ローマの征服戦争を下支えしました。そのローマの支配が崩れるのは、4世紀に始まった民族大移動でした。ライン川を越えて侵入してきたゲルマン系民族は、ガリア(フランス)だけでなく、ヒスパニア(スペイン)にも押し寄せてきたのです。一度は撃退したものの、この頃の西ローマ帝国は軍事力が弱体化の一途をたどっており、次々に侵入してくるゲルマン人たちを撃退し続ける力はありませんでした。そこで西ローマ帝国は、西ローマ皇帝に臣従を誓ったゲルマン人の一派西ゴート族(元々は今のスウェーデンあたりに住んでいたと考えられています)に、他のゲルマン人たちを討伐することを条件に、占領地の支配を認める方針に転換しました。その結果、ヒスパニアとガリアの支配を認められて誕生したのが西ゴート王国(415~718年)でした。西ゴート王国は、フン族(民族系等不明です。一説には中国の北方を脅かしていた匈奴とも言われています)の侵攻を撃退して、西ローマの番犬の役割をこなしながら密接に結びつきを強め、ゲルマン系諸民族の中で、最も早くローマ化しました。両者は蜜月でしたが、一つだけしこりがありました。西ゴート族はキリスト教アリウス派を信仰しており、キリスト教のローマ・カトリックを信仰していた西ローマ帝国と教義が異なっていました。西ゴートの支配地域は元々西ローマ領であり、住人はローマ・カトリックを信仰していました。この微妙な、しかし重要な違いが、影を落としていくことになります。ここで少し脱線ですが、宗教感覚に疎い日本人から見ると、「同じキリスト教なのに」と、大きな問題に見えないかもしれませんが、キリスト教国にとっては今でも大きな問題です。キリスト教の教義の違いは、正統と異端という二元論、簡単に言えば「こちらが正しくて相手が間違っている」としか考えません。極端な言い方をすると、異教(例えばイスラム教や仏教)を信仰しているよりも、同じキリスト教徒なのに、異なる教え方を信仰をしていることの方が罪深いと考える人が多いのです。この問題は、21世紀になった今日でも、カトリックとプロテスタントの教義違いに拘って結婚を反対されたり、就職を差別されるなどの話は無くなっていません(昔よりは差別は少なくなっていますが)。そして1400年前のこの時も、大きな影響をもたらすことになります。西ゴート王国に逆風が吹き始めるのは、西ローマ帝国が滅亡して、西欧に戦乱が訪れてからです。現在のベルギー・フランス北部に勃興したクローヴィス1世のフランク王国は、混乱に乗じてガリアの西ゴート領に侵攻しました。ガリアの住人たちは、アリウス派を信仰する西ゴートではなく、ローマ・カトリックを信仰するフランクの方を歓迎し、迎え入れました。両者は507年にヴイエで戦いますが、フランク側が勝利し、西ゴート王アラリック2世が敗死すると、西ゴート王国はガリアの大半の領土を失い、その支配は動揺しました。そして540年代になると、大飢饉が西ゴートを襲い、さらに再びフランク王国との戦争に巻き込まれることになりました。大飢饉にあえいでいたフランクが、イタリアとスペインに侵攻してきたためです(前回のブログのところまでの話です)。西ゴート王テウディス(位531~548年)の奮戦で、スペインからフランク軍を撃退することに成功しましたが、ピレネー山脈の北の領土はすべて失い、また混乱に乗じて、南スペインの大半を東ローマ帝国の侵攻で失って、戦争は西ゴートの敗北で終わりました。そして戦後、大飢饉に加えてペストの流行が始まると、国内の動揺はさらに激しくなり、民衆の不満は「異端の教義」を信仰する西ゴート王家に向けられるようになりました(ペスト流行前、当時のスペインの人口は約400万人と言われています。支配者の西ゴート人の人口は約30万人で、人口比はそのまま信仰宗派の違いでもありました)。住民の大半を占めるカトリック教徒から見れば、王が異端の教えを信仰しているから、飢饉や疫病、そして戦争が襲ってきたのだと見なされたのです(戦争については、当たらずとも遠からずかもしれません。フランク(ローマ・カトリック)、東ローマ(東方教会)は、侵攻の口実を、「異端信仰をしている西ゴートを討伐する」としていたからです)。住民の離反に飢饉とペストの死者が増えるに従って、西ゴート王国の弱体化は激しくなっていきました。国の財政は悪化し、軍事力を維持出来なくなっていったからです。西ゴートの支配層にとって、アリウス派を信仰し続けることは重石になってきました。西ゴートに忠誠心を持っている非ゴート系の住民の多くは、王や貴族たちが、ローマ・カトリックへ改宗することを望んでいましたが、ゴート人の多くはそれに反対でした。ゴート人たちがアリウス派に改宗してからすでに200年以上たっていました。信仰はゴート人たちに深く浸透しており、彼らに欠かせない文化になっていたのです。また仮にローマ・カトリックに改宗したとしても、東ローマ帝国との対立関係は続きますから、戦争の危機が無くなるわけでもありません。このどちらも選択できない状況は、西ゴート王国の政局をどんどん不安定化させていくことになります。次回は、衰微をたどっていく西ゴート王国の末路について触れてみたいと思います。
2017.01.12
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西暦535年に発生した大災害は、今のフランスにも大打撃を与えました。干ばつと豪雨の異常気象が、交互に襲い、農業生産に大打撃を与えたのです。その事は必然的にフランク王国内の対立を激化させました。クローヴィスの死から24年、まだ彼の息子たちは諍いを続けていました。4つの内、オルレアン(次男クロドメール)はソワソン王クロタール(クローヴィスの四男)の謀略によって滅ぼされており、ランス(長男テウデリク1世は死去して、嫡男のテウデベルト1世が跡を継いでいました)、パリ(三男キルデベルト1世)とソワソンの3つが争っていました。536年、パリ王ギルベルトは、甥のランス王テウデベルトを誘い、ソワソンを滅ぼす計画を持ちかけました。ギルベルトは、兄クロドメールの子どもたちを謀殺して、オルレアンを滅ぼしたクロタールを憎んで強い警戒心を抱いており、ソワソンを滅ぼして領土を奪い、食糧危機を乗り切ろうと考えたのです。テウデベルトがその誘いに乗り、ランスとパリがソワソンに侵攻すると、不意を突かれたクロタールは破れ、森に逃亡しました。そしてそこで「奇跡」がおきました。「クロタールは森に逃げ込み、樹木の間に大きな円形防塞を築き、神の慈悲に身を任せることにした。クロティルド(クローヴィスの妻で、クロタールとキルデベルトの生母)は事態を知った。彼女は(トゥール市内の)聖マルタン教会の墓地に赴き、跪いて嘆願し、内紛が起こらないよう、一晩中祈り続けた。キルデベルトとテウデベルトは軍を率いて出立し、クロタール軍を包囲した。そして、クロタールを翌朝に殺害する計画を立てた。だが明け方になると、野営地で大嵐が荒れ狂った。テントは吹き飛び、装備は散り散りになり、何もかもが滅茶苦茶になった。雷鳴と雷光と共に、雹の総攻撃を受けたのである。全員が地面に顔を付けていたが、その地面に雹がすでに厚く積もっていた。降り続ける雹が全員の体に激突していた。盾以外で防ぐものとてない。雷に打たれてしぬのではないかと思った。馬は四散していた。王二人は、地面に横たわっている間に、体のあちこちに切り傷を負った。二人は神に懺悔し、縁者を攻撃しようとした罪を許してもらおうとした。すべての人が、雹の奇跡は、聖マルタン教会でクロティルドが祈った結果だと確信した」と、聖マルタン教会の司祭トゥールのグレゴリウス(6世紀の人で生没年不明。『フランク史』を記した歴史家でもあります)の記録です。・・・まぁ、オチとして、「ウチの教会で祈ると御利益がありまっせ♪」になっている感がありありですが(笑)、その点を差し引いても、何が起きたかが分かりやすく記録されています。両軍は戦闘になるまさにその日の朝に、大嵐と雹の「攻撃」を受けて、戦闘どころではなくなってしまったのです。「ただの雹でしょ?」と思われるでしょうが、ようは受け手の問題です。彼らが神が戦闘を止めたと考えた事が重要なのです。和解が神の意志と考えて三者は仲直りしたのです。こうして流血の事態は回避されたわけですが、実は戦争になった大本の問題は全く解決していません。クロタールを滅ぼそうとした理由は、フランク領内での深刻な飢饉であり、それが解決したわけではなかったからです。彼らは、フランクの外、南フランスとイタリアに目を向けました。 地中海に面した南フランス地域は、当事東ゴート王国の支配地域でした。古代から、南フランスはローマ帝国の交通の要衝として、都市が栄えていて(一方、中部から北の地域は深い森で覆われ、都市は発達しておらず、経済基盤も脆弱でした)。人口も多く、経済的にも豊かな地域でした。もしクローヴィスの死後、フランク王国が分裂せずに拡大政策を続けていたら、フランクは間違いなくこの地域に侵攻していたことでしょう。しかしこの豊かな南フランスも、西暦535年の大災害は深刻な影を落としていました。都市は食糧の消費地で生産地ではありませんから、飢饉で食糧供給が止まり、衰退してしまったのです。おりしも東ゴート王国は、イタリア半島の覇権を巡って、東ローマ帝国と激しい戦争を繰り広げており、南フランスの窮状に対応する余裕はありませんでした。その間隙を突き、537年、三者が連合したフランク王国が東ゴート領に侵攻し、プロヴァンス地方を奪いました。東ゴートは同族の西ゴート王国(現在のスペイン)に助けを求め、スペインから南フランス、イタリア北部にかけての地域は両者の戦場となりました。542年、クロタールとキルデベルトに率いられたフランク軍は、ヒスパニア(スペイン)な侵攻し、西ゴート王国を戦争から脱落させることに成功しました。そして翌543年、東ゴートの本拠地、イタリア侵攻を意図しましたが、戦争はここで終焉を迎えます。ペストがフランスに来襲したからです。ペストは瞬く間に南・中部フランスを席巻しました。ローマ帝国時代から整備されていた交通網は、疫病の迅速な伝播に「貢献」してしまったのです。「ペストが蔓延しはじめると、各地で膨大な数の人々が亡くなった。遺体は余りにも多かったので数えることすら不可能だった。棺と墓が不足し、ひとつの墓に10体以上が埋葬された。(ひとつの)教会だけで、ある日曜に300体の死体が運び込まれた。死に神は素早かった。蛇にかまれたような傷口がひとつ、股間や脇の下に出来ると、その毒で2,3日目には死んでいた(トゥールのグレゴリウスの記録)」戦乱と飢饉、ペストに痛めつけられた南フランスの都市は完全に衰退してしまいました。そしてペストで大打撃を受けたフランク軍は、イタリア侵攻を断念して、南フランスから撤退しましたが、フランク兵についてペスト菌を持ったネズミたちも北に付いていったため、ペストの北フランス拡大に繋がりました。大打撃を受けたフランク王国は北フランスに閉塞し、占領した南フランスは北から間接統治する方針に転換しました。当然イタリアへの侵攻は放棄です。この決定は重大な影響を後世に与えることになります。フランク人は南フランスへの進出を諦め、北部の開発を淡々と進めていくことになりますが、その結果、パリやオルレアン、ランス等の現在に繋がるフランスの大都市の発展していく切っ掛けになりました。そして南部に住むローマ人やガリア人は、フランク人に同化吸収され、「フランス人」へとなっていくことになったのです。 歴史に「if」は禁物とよく言われますが、もし四半世紀早くフランクの南進がおこなわれていたら、歴史はどうなっていたでしょうか。フランク族は、文化が栄え経済豊かな南フランスに、活動を遷していたかもしれません。そしてフランク人はローマ人やガリア人に同化していき、イタリアへの政治的な野心を持ち続けたかもしれません。かつてのゴート人たちがそうでした。そして手薄になった北フランスは、今と異なる民族が進出して別の国家を建国していたかもしれません。世界地図はどれぐらい変わったでしょうか。また、クロタールが殺されなかった事も、その後のヨーロッパ史に重要な影響を与えました。彼は兄と甥の死後、フランク王国を再統合して王国の繁栄期を築きます。メロヴィング王家には、カロリング家が宮宰(簡単に言えば、公的な職務も司る執事になります)として仕えるようになりますが、そのカロリング家の子孫カール・マルテルが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でイスラム帝国の欧州侵攻を阻止して、西欧文明を守ることになります。もしクロタールが殺されていたら、カロリング家がフランク王国に仕えることはなく、イスラムの侵攻の前にフランク王国は屈して、西欧もイスラム化していたかもしれません。クロタールが生き残ったことが、現在のフランス、そして西欧文化圏の形成に大きな影響を与えたのです。 そう考えると、 偶然の産物にしか見えないソワソンでの雹の来襲による戦闘の終結と和解が、大きな変化となって歴史に影響を与えたことになります。えてして 「事実は小説よりも奇なり」ということはあるものです。
2016.12.27
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前回書いたのは約一年前か・・・。月一どころか年一になってますねぇ(汗)。構想は頭に入っているのですが、文章化がすっごくおそいです(多汗)。時間が余りとれないものでして(いい訳)。と、言い訳はこの辺にいたしまして、久々の西暦535年の災害前のフランスのお話しです。フランスはイギリスよりローマに近いこともあって、歴史に登場したのは200年以上も早くになります。紀元前2世紀には、ローマの侵攻を受け、ガリア人(当時フランスに住んでいた人たち。ケルト系民族で、ブリトン人たちとほぼ同族です)と戦争が始まっています。ローマがガリアを欲したのは、紀元前3世紀に、ローマはカルタゴ(現在のチュニジア共和国首都チュニス近くにあったフェニキア人の都市。共和国時代のローマ最大の敵でした)からヒスパニア(現在のスペイン)を奪ったこともあり、ローマとヒスパニアを結ぶ交通の要衝として、ガリア(今のフランス)を確保したかったのです。しかしガリア人たちは勇猛果敢で、ローマは長い間手を焼きましたが、戦争開始から約100年後、ガイウス・ユリウス・カエサルによって、紀元前1世紀に征服され(この時カエサルが、ローマ元老院に詳細を書き送ったのが、有名な『ガリア戦記』です)、ローマ領ガリアになりました。ローマ領になってからのガリアは、ローマ軍の貴重な人的資源の供給地となりました。それを有効に活用したのがカエサルであり、その後継者オクタヴィアヌスでした。ローマがエジプトを征服し、確固たる地中海帝国を築けたのも、ガリア兵の貢献が大きいものでした。そしてブリンタリア(ブリタニア。今のイギリス)同様、ガリアも時代を経ることに、ローマの支配になじみ、ローマの慣習や法律を受け入れ、ガリア人はローマ人化していきました。この事は、円滑な支配が出来るという意味では、ローマの為政者にとっては歓迎できる話でしたが、一方でガリア人らしさを無くしたガリア人は、ローマの番犬の役割を果たせなくなっていったことは、軍事的には由々しきことでした。3世紀になると、ローマ帝国はフン族や、ゲルマン民族(ゴート族やフランク族など)の大移動(一般的に「大移動」という言い方をしますが、もちろんただ移動してきたわけではなく、武力による侵略を伴うものです)によって苦しめられることになりますが、ガリアも同様でした。一度は撃退してライン川の東に追い払ったものの、その後もゲルマン人の侵攻は続きローマ帝国は抗しきれず、居住を認めるかわりにローマの支配を受け入れさせる事で妥協することにしました。こうして、かつてガリア人が請け負っていたローマの番犬としての役割を、ゲルマン人たちが受け持つようになりました。その後、ローマ帝国が東西に分裂し(395年)、西ローマ帝国の混乱と衰退に伴い(その原因の一端は、フン族や遅れてやってきたゲルマン人たちの侵攻が続いたからです)、ガリアに定住していたゲルマン人たちは、ローマ帝国の支配から自立の道を選んでいきます。西ローマ帝国が、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた時(476年もしくは480年と、二つ説があります)、西ゴート人たちはフランス中・南部からイベリア半島にかけてを支配し(西ゴート王国)、イタリア半島は、オドアケルを討伐する名目で侵攻してきた東ゴート族のテオドリック大王が東ゴート王国を建国し、北アフリカとシチリア・コルシカ島はヴァンダル族(かつてローマを苦しめたカルタゴの子孫たち)が支配し(ヴァンダル王国)、西ローマ帝国領は、分割と再編の動きを加速させていきます。そして政治的空白地となったローマ領ガリアの北では、フランク族(この頃の領域は北フランスとベルギーの一部)が、この争奪戦に参加していました。フランク族長クローヴィス1世(466~511年。フランス語読みでは、「クロヴィス」が近いようです)は、ライン川北側にいたフランク族を統一すると、東ゴートのテオドリック大王と同盟し(妹を彼に嫁がせています)、方フランス一帯を切り取り、507年にはフランス中部へ侵攻して、西ゴート王国をピレネー山脈の南に追い落とし、フランク王国(メロヴィング朝)を建国しました(領域はブルゴーニュ半島と地中海沿いの南フランスを除く、現在のフランス全域と、ベルギーとドイツの一部です)。小勢力にすぎなかったフランク族が大きく躍進できた理由は、クローヴィスが政戦両略に長けた手腕を持っていたことが大きな理由ですが、部族をあげてローマ・カトリックに改宗したことも(それまでフランク族は、キリスト教ニカイア派を信仰していました)、現地に残留していたローマ人やガリア人たちの支持を集めることが出来たのも、大きな理由でした。このカトリックへの改宗とローマ人やガリア人の積極的に受け入れは、クローヴィスの優れた政治的センスを端的に物語っていると言えるでしょう。立場的にはフランク人が支配階級であり、ローマ人やガリア人は被征服民でした。彼らを優遇することは、同胞のフランク人たちに不満を生むものです。しかし国家機構を整備するためには、ローマ人とガリア人の知識は必要と彼は割り切ったのです。クローヴィスは反対するフランク人族長を説得して納得させ、聞き入れない者は粛清する飴と鞭を使い分けた方法で、フランク人をまとめ上げました。ローマ人の法と制度を取り入れたフランク王国は、ローマ人やガリア人の支持を受けられなかったゴート人たちと異なり(ゴート人たちは、キリスト教アリウス派を信仰していたため、ローマ人やガリア人の支持を得られませんでした。同じキリスト教ですが、カトリックは、神とキリストと精霊(天使)の三位一体を教義としたのに対して、アリウス派はキリストの神性を認めず、一人の人間と位置づけたため、カトリックから異端と批判され、後に大弾圧されて滅ぼされます)、現在のフランスに繋がる、西欧の大国への地位と立場を作っていくことになります。建国の王クローヴィスは511年に死去しました。それが誕生間もないフランク王国に暗雲をもたらすことになります。フランク族は、財産を兄弟に均等に振り分ける習慣がありました(これはフランク族に限らず、遊牧民族特有の考え方です。農耕民族は一人の後継者(主に長男)に全財産を相続させる慣習があります)。クローヴィスの死後、王国は4人の息子(長男テウデリク1世はランス、次男クロドメールはオルレアン、三男キルデベルト1世はパリ、四男クロタールはソワソン)に分割されました。そうなるとおきまりのパターンですが、4つの国が互いに争い、活力は外ではなく内側に向けられることになりました。そして西暦535年の大災害がフランスを襲うことになります。
2016.12.25
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アーサー王伝説を見ていくと、いくつもの興味深いキーワードが散見されており、時代の変遷の中で伝説がどのように膨らんでいたったかを見ることが出来ます。まず、アーサー王の没年に、異常気象が起きた西暦535年に近い年に設定されています(最初に触れましたように、アーサー王の生没年は不明です)。537年頃はアフリカでペストの猛威がふるい始めた頃であり、542年は東ローマ帝国まで広まってきたペストが、近隣諸国に広がり始めた頃になります(恐らくブリテン島にもペストの第一陣が到着していたかも知れません)。そのような時期に、「アーサー王の没年」が選ばれたのだと思います。そして興味深いのは、「荒地」という表現です。この言葉は、飢饉や疫病、戦争による荒廃などをすべて含めた意味で使われているようです。非常に曖昧な言い方なのですが、6世紀のブリテン島で起きた事象を、四捨五入した表現だったのではないかと思います。「荒地」の意味を見てみると、時代によって解釈が色々異なっている事も見て取れます。前にブリトン人たちがペストに苦しんだという話を書きましたが、アーサー王の話の中でペストは直接出てきません。「荒地」になったカーボネック城の主ベラム王(「漁夫王」という言い方で知られています)が、謎の病気にかかったという逸話が出てくるだけです(「その病は、股間や脇の下に傷が出来て酷く痛んだ」とあり、知識がある人にはペストの症例であることは見て取れます)。『カンブリア年代記』では、「アーサー王及びモドレッドはカムランの戦いで戦死した。ブリテンとアイルランドで大勢が亡くなった」とあります。大勢が亡くなった原因は戦争によるニュアンスが強い文面になっています。ウェールズの民話説話集『マビノギオン(11世紀にまとめられた説話集です。ちなみにアーサー王は登場しません)』には、「ネズミの大群により小麦の穂が盗まれ、夜が明けた時は茎だけになった」「動物もいなくなった。煙もなく、火もなく、人もなく、住まいもなかった」とあります。『マビノギオン』を見ると、「荒地」の原因は麦が枯れ果てた飢饉の意味合いが強いですが、「ネズミの大群により小麦の穂が盗まれた」と、わざわざネズミを出しているところを見ると、飢饉の原因をネズミのせいと見ていたのか、飢饉とは別にペストの発生を暗示しているのか、興味深い書き方になっています。また、クレイティアン・ド・トロワが書いたフランス版アーサー王物語の1つ『ペルスヴァルまたは聖杯の物語(物語が完成する前に著者が亡くなったため、未完です)』では、ペルスヴァル卿(フランス語読み。円卓の騎士の1人で聖杯を見つけたパーシヴァル卿のことです)が聖杯探索時のとある町の様子を「その値は荒れ果てていて、(町の)壁の外側が不毛の地になっている事に気づいた。だが町の内部も同様だ。どこに行こうと通りというとおりは荒れ果て、家々は廃墟になり、人っ子一人見えない。彼はこの町がさびれてしまったことに気づいた。パンも菓子もなく、ワインもなければリンゴ汁もビールもないのだ」と書いています。描写は『マビノギオン』より詳細になっていますが、「荒地」の原因は飢饉ともペストとも言えません。そして『ブリタニア列王史』では、アーサー王の死後を、「畑を荒らし、近接する町々に火をつけ、暴挙の限りを尽くして、ついにこの島を、こちらの海から反対側の海に至るまでほぼ全部焼き尽くした。集落はどこもかしこも怪力で打ち壊されました。住民は皆きらりと光る剣か、ぼっと燃える炎で滅ぼされた。生き残った人々は、恐怖の惨劇に打ち震えながら逃亡した」と、戦乱による荒廃と描いています。ペストの描写が出てくるのは、13世紀に書かれた『聖杯探求』からになります。アーサー王の晩年に、「ひどい流行病」が置き、「村人の半数が死んで横たわり、労働者たちが畑で死んでいる」と書いています。なぜ13世紀になった途端、疫病が「荒地」の原因に描かれるようになったかというと、12世紀頃から、ヨーロッパでは度々疫病に見舞われるようになっていたからでしょう(ただしこの時の伝染病は、ペストではなく、十字軍遠征で中東から持ち込まれた天然痘ですが)。恐らく天然痘に苦しむ13世紀のイングランドの状況に、「荒地」という言葉の中にあった疫病のニュアンスが、クローズアップされたのではないかと思われます。前回触れましたように、アーサー王伝説の中で、聖杯探索が加わったのは12世紀以降だと考えられています。疫病と飢饉に苦しみからの再生を願う、当事の世相の現れといえます。こうしてみると、アーサー王伝説は、歴史的事象よりも後世の脚色加筆がかなり強いことが分かります。ただしこれを見て、信憑性がないと切り捨てるのは早計です。例えば「荒地」になった地域を見ていくと、イングランド西部やウェールズにかけてのエリアに集中しています。これらの地域は、かつてのブリトン人たちが住んでいた地域です。アーサー王伝説の地域と、ペストの流行地は重なるのです。伝説は時代により、尾びれ背びれが突いていったものの、それらはすべて創作というわけではなく、歴史的な事実や言い伝えが変化して言ったものの捉えることが出来るのです。このブログではこれ以上踏み込みませんが(というか、私の知識ではこのあたりが限界で、もういっぱいいっぱいです。これ以上書いていると、浅学の馬脚がどんどん出てきてしまいます・笑)、伝説の背景を考えてみるというのは、なかなか面白いかなと思います。それではまた。
2016.01.25
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・・・一か月に一回と言いながら、半年に一回になっているなぁ(多汗)。超久しぶりに535年の大災害話の、さらに番外編的なお話しです。前回最後のイギリスの話で、ちらっとアーサー王の名前を出しましたので、その事について少し掘り下げてみたいと思います。アーサー王は、5世紀終わりから6世紀前半頃にいたブリトン人の王というのが、大雑把なプロフィールです。しかし実際には、生没年や人種も正確には分かっていません(前にふれましたが、敵であるはずのアングロ・サクソン人たちの子孫である現イギリス人たちからも、「先祖の偉人」として尊敬されています・苦笑)し、実在しなかったという説もあります。定説がなく、どうにでも脚色できるため、アーサーはローマ人の将軍だったという設定で、『キング・アーサー』という映画が、ハリウッドで作られた事もあります。そう言うわけで、少なくとも映画や小説で出てくる逸話のほとんどが、「史実」ではなく、フィクションが多くあります。しかし歴史は、フィクションの背景に実際の事件や出来事がモチーフにされていることが多くあります(元の話が粉々になっている場合もありますが・汗)。アーサー王の伝説の背景を見ていくと、535年の大災害の痕跡をわずかながら見ることが出来ます。彼が登場する記録は、『カンブリア年代記(ウェールズ年代記)』、『ブリトン人の歴史』、『ブリタニアの略奪と征服』などです。しかしいずれも断片的なものばかりで、アーサー王の存在を実証するものではありません。今日のアーサー王像の原型は、12世紀にジェフリー・オブ・モンマスが書いた『ブリタニア列王史』と、同時期に、フランスの詩人クレイティアン・ド・トロワが書いたいくつかの著作を元にしています(例えば円卓の騎士筆頭のランスロット卿や聖杯伝説は、トロワがアーサー王伝説に登場させました)。モンマスとトロワによって作られたモチーフは、15世紀にトマス・マロリーの著書『アーサー王の死』によって古典的な完成を見ることになります。 さて『ブリタニア列王史』ですが、この本は歴史書ではなく、歴史を題材にした大衆小説といった方が正確です。何せこの中のアーサー王は、ブリテン島はおろか、アイルランドにアイスランド、ノルウェーからガリア(フランス)、イタリアにまたがる大帝国を築いた人物になっており(そのためモンマスの本は歴史学的には、「偽史」と切り捨てられています)、サラセン騎士のパロミデス卿(アラビア人かアフリカ系のイスラム教徒。イスラム教が誕生したのは、アーサー王の死後1世紀も後の話です)が、アーサーに心服して配下になるという話も出てきます。このように歴史学的に荒唐無稽な話にも関わらず、イギリスで受け入れられたのは、モンマスがアーサー王を書いた頃、西欧世界が騎士道時代を迎えていたからです。騎士の精神的な支柱として、アーサー王はうってつけの存在だったのです。もう一つ理由を付け加えるなら、イングランドのライバルだったフランスが、カール大帝をフランス騎士の始祖としたのに対して、イングランド騎士もそれに対抗できる権威付けをしたかったという事情もあったようです(百年戦争を始めたことで知られるイングランド王エドワード3世は、アーサー王の円卓の騎士にかこつけて、ガーター騎士団を創設したことで知られています)。後世の話はこれぐらいにしまして、6世紀に話を戻したいと思います。まずアーサー王の没年ですが、記載があるのは『カンブリア年代記』だけで、西暦537年、歴史書としては信用できない『ブリタニア列王史』では、542年とされています。死の理由は、カムランの戦い(ブリテン島のどこかといわれていますが、場所は不明です)で、敵将モドレッド(アーサー王の異父姉モルゴースの子で、父はアーサー王、実の姉弟の不義の子と言われています)と相打ちになって命を落としたとされています。アーサー王によって統一され、平和になったはずのブリテン島は何故乱れ、彼は戦陣に斃れることになったのか、物語の後半部分を簡単にまとめてみたいと思います。『カンブリア年代記』には、アーサー王の治世の最後に、ブリテン島とアイルランドで飢饉が起きたことが記されています(「荒地」という表現が頻繁に出てきます)。飢饉が起きたのは、『カンブリア年代記』では537年のこととされていいます。また隣国アイルランドの記録『アルスター年代記』でも、536~538年に「パンの不足(つまり飢饉のこと)が起きた」と書かれていることから、この時期に飢饉が起きたのは確かなようです(このくだりは小説や映画では、アーサーの王妃グィネヴィアと、円卓の騎士筆頭のランスロット卿の不貞にショックを受けた王が政務を放棄し、その結果国土が荒れ果てたとする描かれている場合も多いようです。この後円卓の騎士たちは、アーサーの元に留まる者と、ランスロットに付く者に分裂していくことになります)。この事態に、王は円卓の騎士たちに、聖杯(イエス・キリスト最後の晩餐で使用した杯とも、十字架にかけられた際にキリストの血を受けた杯といわれています)探索を命じます。聖杯は、あらゆる病からの治癒と、荒廃した土地を回復させる奇跡を起こすことが出来るとされていたからです。しかし聖杯はなかなか発見されず、捜索に出た騎士たちの多くが脱落します。飢饉は深刻の度を増し、諸侯や民衆の不満は、王であるアーサーに向けられることになりました。反乱を鎮めるため、アーサーはガリアへ出兵しますが(不貞を働いたランスロットを討伐するためとしている展開もあります)、その隙にキャメロット城(アーサー王の居城。場所は不明です)に名代として残っていたモドレッド卿が、王に不満を持つ勢力を糾合してカムランの戦いへと続くことになります。そして円卓の騎士たちは、カムランの戦いで敵味方に分かれて全滅します(ランスロットの元に走った騎士たちは除きます)。生き残ったのはアーサー王の最期を看取ったベディヴィア卿(ウェールズ語読みです。英語読みの「ベディヴィエール」の方が有名です)だけです。アーサー王凋落の原因を作ってしまったランスロットは、いきさつを知ってアーサー王の元にはせ参じようとしますが間に合わず(小説や映画によっては、かろうじて間にあって、アーサーを助けて壮絶な最期を遂げるという展開になっている場合もあります)、王の死を聞いて修道院に出家し、グィネヴィア元王妃の死後は、食を断って自害したと伝えられています。以上がとても大雑把ですが、アーサー王伝説の後半部分です。 (続きます)
2016.01.24
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ブリテン島にペストが上陸した年は正確には不明です。540年代から550頃にかけてと考えられています。東ローマ帝国を襲ったときと同様、ペストはアフリカや地中海から、船に乗ってブリテン島にやってきました。 考古学的なデータから、ペストが上陸した地は、グレートブリテン島西部コーンウォール地方にある港町ティンタジェルと、ブリストル海峡沿岸の港町キャベトリー・コングレスベリーであったと推測されています。どちらも当時、フランスや地中海からやってきた交易船が、真っ先に辿り着く港町で(ティンタジェルは、アーサー王ゆかりの地のひとつです)、6世紀半ばに消滅した町です。ペストはこの2つの町から、ローマ人が造った道路を伝って、ブリテン島西部に瞬く間に蔓延していったようです。そしてブリトン人たちの住むブリテン島西部は、廃墟になっていきました。英国中西部シロップシャー地方にあったロクセターの町(ローマ人が作った町で元はウィロコニウムという名の町でした)は、人口数千人をほこり、ブリトン人たちの王国のひとつカンザラン王国の首都でした。この町の遺構を見ると、ペストで人口が激減している様子が、間接的にうかがえます。ロクセターの待ちの外縁には、サクソン人たちの侵入を阻むための防塁が設けられていましたが、550年代から約30年にわたって区画が整理され、防御区画が1/8まで縮小されています。この期間、戦争はなかったと考えられています。にもかかわらず町が縮小していく理由については、文献記録が無く正確には不明ですが、この町を積極的に研究しているバーミンガム大学の見解は、「人口激減に伴う町の縮小。防御区画の合理化」ではないかと推測しています。さらに縮小された町の遺構を見ていくと、6世紀後半に、町中央部にあった大浴場(ローマ人は、日本人と並ぶほど風呂好きで、町の中心にコロッセウムと大浴場をよく建設していました。興味のある方は『テルマエ・ロマエ』をどーぞ)を壊して、大きな教会が造られていることが確認されています。恐らくペストの災厄から神に救いを求めるために、大きな教会を造ったのではないかと考えられています。考古学的な調査から推測すると、6世紀にブリテン島で流行したペストの死亡率はおおよそ6割弱、地域によっては9割を超えたのではないかと推測されています(参考までに、15世紀のイギリスでのペスト流行時は、平均48%の死亡率でした。衛生状態や食糧事情が異なるので簡単に比較はできませんが、ペストに免疫を持たない6世紀のブリテン島の方が、被害が深刻だったことがうかがえます)。今も昔も、グレートブリテン島西部は、温暖な気候に森林や湖、沼地が多い湿気の多い土地です。その環境は、アフリカの熱帯雨林が故郷のペスト菌にとっては、住み心地のよい土地でした(ちなみに、乾燥した地中海地域では、ペスト菌は外に出ると、数分で死滅してしまいます)。そのため地中海地域のように、流行と沈静化が繰り返されるパターンにはならず、ブリテン島では長くペストが流行したままになりました。それが地中海地域より深刻なペスト被害になったと考えられています。ペストの大流行により、ブリトン人たちの住むブリテン島西部の人口は一気に激減しました。それがブリトン人とサクソン人の均衡を崩しました。閉鎖的な社会を築き、大陸と交易をしなかったサクソン人たちは、ペストの影響をほとんど受けなかったのです。両者の武力衝突が再開したのは、550年代と考えられています。戦争再開の経緯は不明ですが、530年代から続く異常気象は、サクソン人たちにも食糧難が続いており、たまたま戦端が開かれたところ、ブリトン人たちが弱体化していて大きく崩れたのか、それとブリトン人たちがも飢饉とペストの二重苦に陥っているのを知って、戦争を仕掛けたのか、そのあたりは不明です。サクソン人たちは、彼らと同様ブリテン島にやってきていたアングル人(サクソン人同様、元々はデンマークあたりに住んでいたゲルマン系民族のひとつ)と連合して大攻勢をかけると、森の緩衝地帯は突破され、ブリトン人たちの領土を次々に奪っていきました。571年、ブリテン島中央部がサクソン人たちの手に落ち、その6年後には、グロスター、サイレンセスター、バースなどの、ブリトン人たちの有力都市が陥落しました。598年には、今度は海伝いにサクソン人たちは、ブリテン島北部へ侵攻し、ブリトン人のエディンバラ王国をヨークシャーの戦いで破り、今のイングランド北部も支配下に置きました。こうしてイングランド南部と北部を押さえたサクソン人とアングル人たちは、7世紀になると、深い森に覆われたシロップシャー地方にも浸食をはじめました。サクソン人とアングル人たちが戦争を始めた時、ペストは退潮期を迎えており、 ペストの打撃から回復していないブリトン人たちは追い立てられるようにブリテン島を駆逐されていったのです。前述のカンザラン王国が滅亡したのは、656年頃と推測されています。「同胞たちはセヴァーンの地から、そしてドウィリオーの岸辺から姿を消した。神よ、私は自分がまだ生きていることが悲しい」とは、ロクセターにいたブリトン人の吟遊詩人(名前は伝わっていません)の残した詩です。住む場所を奪われたブリトン人たちは、ほとんどがサクソン人たちの支配を嫌って、同胞の住むウェールズ地方に逃げ込んだり、海を渡ってブルターニュ半島(ブリテン島、ブリンタニア(ブリタニア)が、ブリトン人たちが住んでいたことから名付けられたように、フランスのブルターニュも、ブリトン人たちが住んでいたことから、フランク人から名付けられた地名です)へと、移住していった者が多かったようです。こうして7世紀終わりまでに、サクソン人とアングル人たちはコーンウォール半島を除く、現在のイングランド地域を支配下に置きました。これがイングランドの起源であり、新しい人種アングロ・サクソン人が誕生した瞬間でもありました。アングル人とサクソン人たちは戦争の中、統合・同化が進み、ひとつの民族になっていたのです。まぁ、両者とも元々ゲルマン系の民族で習慣や文化も近かったので、文化の全く異なるブリトン人たちとは異なり、統合に抵抗がなかったのかも知れません。サクソン人とアングル人がイングランドを征服した影響は、21世紀を迎えた今日、世界中で体感することが出来ます。世界で最も多く使われ、共通言語としての役割を担い、日本の学校でも教えられている「英語」は、彼らサクソン人たちの言葉です。もしサクソン人たちがイングランドを征服していなかったら、今日本の学校では、どこの国の言葉を外国語として教えていたでしょうね。そう言ったことを想像すると面白そうですね。
2015.06.29
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また間が空いてしましました(汗)。今回から西ヨーロッパのお話しです。まずはイギリスです。現在のイギリス、グレートブリテン島が歴史上に登場したのは、紀元前1世紀のことです。ローマのガイウス・ユリウス・カエサルがガリア(現在のフランス)へ遠征した際、ブリテン島にも軍を送ったのがはじまりでした。ただしこの時は、ローマ領化はされていません。カエサルの目的は、ブリトン人(ケルト系民族。当時のグレートブリテン島やアイルランド、フランスのブルターニュ半島などに住んでいました)たちが、同族のガリア人たちを助けて、軍事支援をすることを阻止することにありました。ブリテン島がローマ領ブリンタニア(「ブリタニア」という言い方もあります)になったのは、カエサルの遠征から約100年後、クラウディウス帝(在位西暦10~54年)の時のことです。当初ブリトン人たちは、フランスでのガリア人たちと同様ローマに激しく抵抗しましたが、時代を経るごとにローマの支配は安定化し、両者は平和共存していくようになりました。しかし4世紀になり、ローマ帝国が東西に別れ弱体化していくと、その平和は破られました。サクソン人(ゲルマン系民族のひとつ、現在のデンマーク・ドイツ北部にいました)たちの侵攻が繰り返されるようになったからです。そして407年、ローマ人がブリンタニアを放棄して撤退すると、サクソン人たちはグレートブリテン島の南東部、北東部を占領し、ブリトン人とサクソン人の長い戦争が繰り広げられることになります。有名なアーサー王(生没年不明。5世紀終わりから6世紀半ばぐらいまでの人と言われています)は、ブリトン人たちの王で、彼が戦った相手はサクソン人たちでした。なので、イギリス史に詳しい人は、イングランド人(サクソン人たちの子孫)が、「アーサー王は英国の英雄だ」と言っているのを聞くと、その言葉には同意しつつ苦笑してしまいます。しかしウェールズ人(ブリトン人たちの子孫)たちは、このイングランド人たちの発言は今も面白くないようで、「お前たちの王じゃない。俺たちの王だ」と思うそうです。6世紀頃、両者の戦争は一段落していました。しかしそれは長い戦争の中の一時的な休戦であって、和解からはほど遠いものでした。その証拠は、当時に遺跡を見るとよく分かります。ブリトン人たちの遺跡から、サクソン人たちの遺物が出てくることはなく、その逆もありません。両者の距離がほんの数キロしか離れていなくても、全く交流がなかったのです。その傾向は570年代ぐらいまで続いています。ブリトン人とサクソン人たちの対立は、両者の性格がかなり異なっていたことが原因でした。かつてはローマに激しく抵抗していたブリトン人ですが、その後はローマの慣習になじみ、キリスト教を受け入れ、ローマ人が作った街や道路、法律や商業システムを利用して、大陸とも交易していました。ブリトン人たちの遺跡からは、ギリシアやトルコで作られたアンフォラ(ワインやオリーブ油を入れる陶器)や、ローマや北アフリカの遺物が多く出土しています。しかし一方のサクソン人たちの社会は閉鎖的でした。彼らはローマの法律にもキリスト教にも興味を示さず、交易をしようとはしませんでした。そもそもブリテン島に来たのも生存圏を広げるためであり、それ以外のことに関心はなかったのです。当時、ブリトン人の聖職者だったギルダスという人物は、サクソン人を、「恐ろしい爪を持ったならず者」「凶暴で人間と神から憎まれている連中」と書き残しています。ブリトン人からみると、文明的な付き合いに関心がないサクソン人たちは、異様で野蛮な部族だったのでしょう。この見解は恐らく彼だけでなく、多くのブリトン人たちの共通認識だったと思われます。6世紀頃、ブリトン人とサクソン人はしばし戦争を繰り返しましたが、双方の間には深い森が緩衝地帯の役割を果たしており、また勢力も拮抗している上に、両者とも部族を統合した強力な王がいなかったこともあり、戦争は膠着化、小競り合いに専念していました。その均衡を崩したのが、西暦535年の大災害でした。「ガリア(現在のフランス)に彗星が現れたが、非常に巨大だったので、空全体が燃えているように見えた。同年、雲から本物の血が落ちてきた。そしてその後、恐ろしいことが次々と起こるようになった」とは、イギリス歴史家ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー(生年不明~1236年没) が著書の中で書いた一節です。彼は現在には現存していない6世紀の資料を基に書いたようです。ロジャーは恐るべき災害が起きた年を541年としていますが、暦の修正(当時のヨーロッパは太陽暦ですがユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦とは誤差があります)で、この記述の出来事は、535年か536年ではないかと考えられています。また、ロジャーより約400年前の、イギリスの歴史家ベーダ(生没年不明)は、その著書『アングル人の教会史』の中で、538年と540年の2回、「暗い太陽」という奇妙な皆既日食が起きたことを記録しています。530~540年代、イギリスでは13回の皆既日食が見られたはずなのに、『アングル人の教会史』に記録されている皆既日食はこの2回だけです。ベーダがこの2回だけをわざわざ載せたのは、通常の日食とは違う異様なものだったからでしょう。ロジャーとベーダの記録した異常気象がなんだったのか、正確には分かりません。しかし西暦535年の災害が、火山の破局噴火であったと仮定すると、多くのことを説明することが出来ます。巨大噴火により放出された大量の火山灰、硫酸などの大気エアロゾル粒子が、成層圏にまで達してオゾン層を破壊し、硫酸エアロゾル層を形成します。それらは太陽光を遮断して地表の温度を下げ、「火山の冬」と呼ばれる現象を引き起こしますが、他にもエアロゾル粒子や塵埃によって太陽が暗く見えたり、逆に真っ赤な太陽を作り出したりします。事実1991(平成3)年のフィリピン・ピナトゥボ山(1486メートルの成層火山)噴火の際、日本でも太陽が一段明るく、真っ赤に見える現象が目撃されています。これと同じ事が6世紀のイギリスでも起きたとすれば、「空全体が燃えているように見えた」のも、「暗い太陽」のように見えたことはあり得る話かと思います。あと、「雲から本物の血が落ちてきた」という所は、雨に大量の火山堆積物が混ざった場合(特に鉄などの金属が大量に含まれた場合)、血のように赤く見えることがあるようですので、それが理由かも知れません。そしてイギリスでの災厄は1年で終わりませんでした。箇条書きにすると、「トゥイード川(スコットランドから、イングランドに向かって流れている川)で何度も発生し、大勢の死者が出た(536年)」「ロンドンが暴風雨に襲われて250名が犠牲になり、多くの家屋が倒壊した(548年)」「スコットランドで鶏卵ほどの大きさの霰が降った(550年)」「スコットランドで5ヶ月間にわたって大雨が降った(552年)」「冬は霜と雪だらけで、凍りつくように寒い。鳥や野獣はおとなしく、人の手で捕まえる事が出来るほどだった(554年)」「ブリテン島全域を激しい雷雨が襲った(555年)」という感じで、535~555年ぐらいの間に、多くの異常気象に関する記述が出てきます。ブリテン島は大寒波と大雨に見舞われ、ブリトン人もサクソン人たちも、共に苦しんでいたようです。しかし次にやってきた災厄は、ブリトン人たちを中心に降りかかりました。ここまでご覧くださった方はすぐお分かりいただけると思いますが、それはペストでした。次回は、ペストがブリテン島にどのような影響を及ぼしたかを見ていきたいと思います。
2015.06.24
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イスラムが何故こうも強かったのかは、いくつかの原因が挙げられます。まず、唯一の神(アラー)の戒律に従えというイスラムの教えは、軍事的にみれば、「指揮官の命令はアラーの言葉」と言う形で置き換えることが出来、指揮系統の一本化に利用できました。「彼らを殺したのは汝ら(ムスリム)ではない。アラーが殺したもうたのだ。射殺したのはお前でも、実はアラーが射殺しもたもうたのだ(第8章第17節)」と言う言葉もコーランに出てきますが、 これらは兵士たちの心理的な負担を軽減する効果もあったことでしょう。それに戦闘後の戦利品の分配を手厚くしたことは、兵士たちの戦意高め、為政者たちの思惑どおりに、次の戦闘を欲する渇望へと繋がりました。戦死者の遺族にも戦利品を分配したのも有効でした。兵士たちは自分たちが死んでも、家族が餓え死にすることはないため、後顧の憂い無く戦い、死ねばアラーの御許に行けると勇敢さを維持できたのです。あと地中海地域に、キリスト教とユダヤ教の終末論が蔓延していたのも大きな助けになりました。規律正しいイスラム軍の将兵を見て、双方の信者とも、イスラム軍を神が使わした軍勢と見なして交戦意欲を失い、むしろ歓迎する者が多かったのです。この頃のイスラムは、キリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民(聖書はイスラム教の聖典のひとつです。したがってイスラム教とユダヤ教、キリスト教は、同じ神という考え方なのです)」として、改宗を要求せず手厚く遇した事も、住民たちの支持を集められました(一方で、仏教や多神教の信者たちは、弾圧され、改宗を強要されました)。そして最大の理由は、何と言っても東ローマ帝国とペルシアが、共に弱体化していたからです。もしこれが100年前の東ローマ帝国の力があれば、このような無様な敗戦はあり得なかったでしょう。ペルシアも同様です。その意味では西暦535年の大災害がイスラム教の登場を促し、100年の及ぶ戦乱と混乱が、イスラム教の世界宗教への道を助けたと言えるかも知れません。その後イスラム共同体は、661年に第4代カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブ(ムハンマドの父方の従弟で、ムハンマドの娘ファーティマの夫)が暗殺されて正統カリフ時代が終わり(4人のカリフの内、初代のアブー・バクルを除く3人が、アラブ族内の対立から暗殺によって命を落としています。当時がどういう時代であるかを表していると言えそうです)、世襲王朝ウマイヤ朝(661~750年)が成立します。ウマイヤ朝は、709年頃までに北アフリカ全土を制圧し、711年にはジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼしました。そしてピレネー山脈を越えて、今のフランスへ侵攻しましたが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)でフランク王国のカール・マルテル(686~741年)に破れ、西ヨーロッパ征服には失敗しました(この後イベリア半島では、約800年に及ぶレコンキスタ(昔は国土回復運動と意訳されていましたが、現在では再征服運動と訳されています)の戦争が、キリスト教徒とイスラム教徒によっておこなわれることになります)。こうして、正統カリフ時代からの領土拡大路線を受け継いだウマイヤ朝ですが、国内では矛盾が拡大しつつありました。領土の拡大につれ、イスラム教はアラブ人だけの宗教ではなくなり、ペルシア人やベルベル人(北アフリカに住む白人)、ソグド人(中央アジアに住んでいる人々)にも広まっていましたが、彼ら非アラブ人イスラム教徒は、アラブ人至上主義(非アラブ人には、シズヤと呼ばれる重い人頭税が課せられていました)のウマイヤ朝の中では、被征服者の地位に甘んじなければなりませんでした。この事は国内に広く不満を生みました。なぜなら、教祖ムハンマドは、無神論者や多神教信者こそ批判しましたが、アラブ人を選民視する考えを持っておらず、信徒の平等を説いていましたから、特権階級化したウマイヤ朝支配者層は、「預言者ムハンマドとコーランの教えに背くもの」と、アラブ人たちの間からも批判されるようになっていったのです。そこでアッバース家(ムハンマドの叔父アッバースの子孫の家系)を旗頭として革命が起こり、アッバース朝(750~1258年)が興りました(敗れたウマイヤ朝の王族の1人アブド・アッラフマーンは、イベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝(756~1031年)を建国します)。こうしてアラブ人以外の人種の政治参加も可能になったアッバース朝のもとで、イスラム帝国は最盛期を迎えることになります。イスラム帝国の領域は、現在のスペインから北アフリカ中東全域、パキスタンから中国西域(新疆ウイグル自治区)に及び、後年のモンゴル帝国に次ぐ大帝国となります。そして領土の拡大につれ、イスラム教も世界中に広まり、三大宗教のひとつへとなっていきます。イスラム帝国の成立は、人類の歴史に大きな転換期をもたらしました。北アフリカから中央アジア地域の多民族、多言語社会に、アラビア語が現在の英語のような国際言語の役割を、イスラム教は統一価値観としての役割を担いました。これによって、出自がどの民族であっても、アラビア語とイスラム教を理解できれば、身を立てられるようになったのです(イスラムの勢力圏外、例えばイタリアや中国の長安などでも、アラビア語は通用しました)。交易の効率は飛躍的に向上し、東西交流は盛んになっていきました。7世紀から数百年にわたって、ユーラシア大陸東西を結びつけたのは、イスラム教とアラビア語だったと言っても過言ではないのです。私たちが普通に使っている紙も、発明された中国(後漢時代西暦105年頃、宦官の蔡倫によって発明されたとされています)が、中東からヨーロッパまで広がるきっかけとなったはこの時代であり、イスラム帝国が関わっています。西暦751年、イスラム帝国は中国唐朝の勢力圏だったイリ地方(現在のキルギス共和国)へ侵攻し、タラス河畔で両者は衝突しました(タラス河畔の戦い)。この戦いで唐朝は大敗し、捕虜となった唐人の中に紙職人がいたことが、中東に紙が生産・使用されるきっかけとなり、さらにヨーロッパへと広まっていくことになったのです(ヨーロッパで伝わって生産されはじめたのは12世紀頃)。もしイスラム帝国が存在しなければ、紙の欧州への伝播はもっと遅くなり、科学技術の発達にも大きな影響が出ていたかも知れません。さて、これで長々と書いてきた地中海世界の話は終了です。次からは西ヨーロッパに目を向けてみたいと思います。
2015.03.14
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632年にムハンマドが世を去ったとき、後継者となるべき男子がいなかったことは、イスラム共同体の運命を大きく変えました。後継者は、ムハンマドの友人でもあったアブー・バクルがなりましたが(彼は自らの地位をカリフ(「アラーの使徒ムハンマドの代理人」と言う意味です)と称しました。ムハンマドが死んだ632年からウマイヤ朝が出来る661年までを、正統カリフ時代と言います)、ハーシム家出身ではない彼に反感を持つ者は多く、内部紛争に発展しました。ただ反対派は一枚岩というわけでもなく、他に担ぎ出すべき人物もいなかったため、アブー・バクルは敵対勢力を各個撃破して反対派を一掃しましたが、同時に厄介な問題を抱え込みました。敗れた反対派は、東ローマ帝国やサーサーン朝ペルシアに逃亡したからです。もし彼らが、これらの国の力を借りて攻撃してきたら大変なことになります。実を言うと、イスラム共同体はアラビア半島を統一したものの、それでアラビアの人々の状況が好転したわけではありません。食糧難は相変わらずで、住民の多くは飢えに苦しんでいました。東ローマやペルシアの攻撃に備えて、軍を維持する必要もありましたが、その財源もありません。反対派粛清の混乱もくすぶっており、このまま手をこまねいていれば、ムハンマドというカリスマ性に富んだ指導者のいないイスラム共同体は、瓦解してしまう可能性があったのです。それを防ぐためアブー・バクルがとった手段は、簡単に言えば、「外に敵を作る」「自分たちに不足するものは外から奪う」という方法でした。イスラムを脅かす(かもしれない)敵を悉く滅ぼしてしまえばよい。財源や食糧も敵から奪い続ければ、アラブの民が飢えることないし、次の戦争のための資金にもなる。つまり戦争によって戦争を養うという考えでした。戦争を始めるには大義名分がいりますが、丁度良い口実がありました。マッカ攻略の2年前の628年、ムハンマドは東ローマ帝国とサーサーン朝ペルシアに、イスラムへの改宗を求める親書を送っていました。「私はただ一介の警告者、そして信心深い人々には、嬉しい便りを伝えるだけのこと(コーラン第7章188節)」ムハンマドはイスラムの教えこそが、混沌とした世界を救うものと考えていました。したがって両国とも、ムハンマドに教えを請いに来ると思っていたようです。しかしこの時点のイスラム教は、メディナ1都市を中心とした1新興宗教に過ぎません。そんなこともあって、両国ともイスラムの教えに関心を持たず、相手にしませんでした(無視されたことがムハンマドは悔しかったようで、「ギリシア人(東ローマ帝国人のこと)の知っているのは現世の上面だけ。来世のことなどまるで頓着無し(第30章2節)」と批判しています)。この時イスラムは、マッカとの抗争に忙しく、そのままになりましたが、アブー・バクルと幹部たちは、これを戦争の口実に利用することにしたのです。唯一の神アラーとその預言者の言葉を無視したのは、東ローマ帝国とペルシアが無神論者の国だからである(実際には、東ローマ帝国はキリスト教、ペルシアはゾロアスター教を国教として無神論者の国ではありませんでしたが)。無神論者は討伐しなければならない。これはアラーの威光を世界に広げるジハード(聖戦)である。と主張したのです。「無神論者」というと、今の日本でも多く当てはまりそうですが、イスラム教の考えの中では、この言葉は特別な意味を持ちます。生前、ムハンマドが痛烈に批判したのが無神論者でした。彼の考えによれば、誤った神を信じる者は、それが誤りであり唯一の正しい神のことを教え諭せば、正しい神を信仰するようになるだろう。しかし元から神を信じようとしない者は救いようがない。つまり死をもってしか救済は出来ないという考えでした。「これ、預言者よ。信者たちを駆り立てて戦いに向かわせよ。汝ら、忍耐強い者が20人もおれば、200人は十分打ち負かせる。もし汝らに100人もおれば、無神論者の1千人ぐらい十分に打ち負かせる。何しろ全く頭の鈍い者どもなのだから(第8章65節)」「それで、悪いことをした彼らの最後も酷いものになっただけのこと。アラーのお徴を嘘呼ばわりして、馬鹿にしてかかったために。いよいよその時が到来する日、不義の輩は声も出せずに立ちすくんでしまうであろう(第30章10節、12節)」「道楽するばかりで、一向にアラーのお徴を信じようとせぬ者は、我々がこのように報いてやる。だが来世の責め苦はそれよりさらにつらく、さらに長い(第20章127節)」と、コーランには、無神論者に対する過激な言葉が並びます。633年、イスラム軍は東ローマ帝国とペルシアへ、同時に侵攻を開始しました。20年に及ぶ戦乱で疲弊しきっていた両国は、この新しい敵の攻撃を支えきれず敗退しました。東ローマ領では、ユダヤ教徒はムスリム(イスラム教徒)を歓迎して迎え入れました。彼らユダヤ教徒の多くは、東ローマとペルシアの戦争時にペルシアに味方したため、戦後迫害されていました。そのため東ローマ軍を破ったムスリムを、メシア(救世主)の使わした使徒と考えたのです。636年、東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオス1世はシリアに親征しますが、ヤルムーク河畔の戦いで敗れ(この時、ヘラクレイオス率いる本隊はまだ到着しておらず、戦いは前哨戦にすぎませんでしたが、イスラム軍が降伏した東ローマ兵約1万3千名を全て処刑したため、動揺した後方の本隊のアラブ兵たちが逃亡し(遠征軍の9割近くがアラブ人の傭兵だったといわれています)、軍は瓦解しました)、シリアとパレスチナの大半を失いました。敗戦の衝撃でヘラクレイオス帝は倒れ、「シリアよさらば。なんとすばらしい国を敵に渡すことか」と嘆いたと言われています。彼は、シリアの失陥で、東ローマ帝国がエジプトを永遠に失い、地中海世界の覇権を失うことを悟ったのです。事実東ローマ帝国はこの後もイスラムと戦い続けますが、領土奪還はおろか、形勢を立て直すことが出来ずじりじりと敗退し、641年、失意の内にヘラクレイオスは世を去ることになります。東ローマ帝国中興の祖と言われるヘラクレイオス帝ですが、暴君フォカスの打倒から32年、治世の大半を戦場で過ごさねばならず、コンスタンティノーブルの玉座で安穏と過ごすことは最後まで出来ませんでした。そして東ローマ帝国は、地中海世界の一地方国家、歴史区分上で言うところのビザンツ帝国(ギリシア人の帝国)へと転落していくことになります。一方のサーサーン朝ペルシア帝国も、636年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァントの戦いでイスラムに敗れ、国土の大半を失いました。そして651年、ペルシア皇帝ヤズデギルド3世は部下の裏切りで殺害され、サーサーン朝ペルシアは滅びました。そしてイスラム帝国は、東は今のインド・パキスタン国境から、西は北アフリカ全土とイベリア半島(スペイン)まで征服していくことになります。
2015.02.21
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・・・タイミング的に触れにくい話なんですが・・・。ともかくここでお話しすることは、歴史の話であって、現代の話ではないと言うことで、ご容赦いただければと思います。世界三大宗教(誕生した順に仏教、キリスト教、イスラム教です)について、簡単に触れてみたいと思います。宗教というのは、どの宗教であっても大雑把に言って、平和と博愛、日々を清く正しく生きることを説いています。これは私の独断と偏見ですが、「信じないと地獄に堕ちます!」とか、「この壺を買わないと幸せになりませんよ!」と言っているものは、宗教の名に値しません。そう言うのは逆に神様の罰に当たるものだと思っています。と、そちらにはあまり踏み込まないようにして、話を元に戻したいと思います。宗教は、大きなメッセージは同じでも、宗教思想の成り立ち、性格はそれぞれ異なります。立ち位置で見ると、仏教は「魂の不滅」であり、キリスト教は「愛」、イスラム教は「戒律」というカラーの違いを見ることが出来ます。これらは教祖の考え方の違いもあるでしょうが、宗教が誕生した時代の社会的背景も、大きな要素だと思います。イスラム教が何故「戒律」を重視した宗教なのか、順を追って見てみたいと思います。ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフは、西暦570年頃誕生しました。生まれた時、父は亡くなっており、母も彼が幼い頃に没したため、祖父や叔父に育てられました。成人後は一族の他の者と同様商人となり、シリアへのキャラバン貿易に参加しています。恐らくその過程で、中東全域で吹き荒れていた戦乱と貧困の現実を、つぶさに見ることになったのでしょう。彼を悩ませたのは、本来人々を救うはずの神が争いの火種となり、世界に戦乱と無秩序をもたらせている矛盾した現実でした。神とは何なのか、何故戦乱と貧困に人々は苦しんでいるのかという問いは、ここから始まったのだと思います。610年頃、ムハンマドはマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたところ、大天使ジブリール(キリスト教世界ではガブリエルと言います。ちなみにユダヤ教でも天使とされています)に出会い、唯一の神(アラー。アラビア語で「神」と言う意味です)の啓示を受けたとされています。自身を預言者と考えるようになったムハンマドは(彼の立ち位置は最後にして最大の預言者です。つまり彼は神ではなく、神から啓示や預言を与えられる人間という立場なのです)、イスラムの教え(イスラムの意味は、「神への帰依」です)を説き始めました(最初に入信したのは、15歳年上の妻ハディージャでした)。こうしてイスラムの布教が始まりましたが、その教えは多神教社会のアラブ社会では過激すぎるものと受け止められました。なぜなら彼の説くアラーの神は、唯一絶対の神であり、その戒律に従うことを求め、他の宗教、特に偶像崇拝する宗教や多神教を、全て否定するものだったからです。ちなみに、偶像崇拝は、キリスト教にユダヤ教、仏教も実は禁止しています(正確に言えば「禁止していた」という過去形です)。ですが信者を増やすには、人形(ひとがた)の神像や仏像があった方が説得力があり、布教の手助けになるので、なし崩し的に作られるようになりました。教会に行けばキリスト像やマリア像が、寺院に行けば仏像があるのはそのためです。しかしイスラム教はこの戒律を今も守って、神の像も、教祖ムハンマドの像も肖像画もありません。世紀末的風潮に悲観していた人々にとって、イスラムの教えは魅力的でした。イスラムの教えは簡単に言えば、戒律(六信五行といいます。六信とは、神、天使、啓典、預言者、来世、天命を信じること、五行とは、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼をおこなうことです)を守ることで救われると説いたからです。キリスト教の愛の概念や、仏教の魂の普遍と言った曖昧な考え方とは異なり、あたかも法律を守るかのように、アラーの戒律を守れば救われるという考え方は、非常に分かりやすく実践しやすいものでした。また元々商人だったムハンマドは、他の宗教のように商業活動で財産を持つことを批判したりしませんでした。他の宗教、例えばこの時代のキリスト教のように、「金儲けは悪いこと、不浄なお金は神に全て寄進しなさい」なとど、言わなかったのです。キリスト教世界で、財をなすことが神の御心に反しないという思想が登場するのは、この900年後の事ですから、イスラム教は思想的にかなり先進性があったと言えます。この柔軟な考え方は、マッカやヤスリブの商人たちに広く受け入れられたました。財産を持つことを容認したムハンマドですが、それだけに落ち着いていたわけではありません。富める者の責任について言及しています。財産を持つ者は、持たない者を助ける責任があるとして、貧しい人々への奉仕、社会福祉を求めたのです。もちろん自分の財産を、ムハンマドは自らの教義どおりになげうっています。そう言った行動は、貧しい人々からも絶大な支持を受ける一因になりました。一方、急速に信者を増やしていくイスラム教に、マッカの多神教関係者たちは警戒感を持つようになりました。キリスト教やユダヤ教には理解を示したムハンマドですが、彼は多神教に関しては、神はアラーただ1人であるという考えから、その考えを否定し、神が複数いるという考えが、世に戦乱や貧困を蔓延られている原因だと、激しく攻撃したからです。そのためムハンマドは、彼らから刺客を何度も送られることになります。かろうじて暗殺の手を逃れたムハンマドですが、これ以上マッカに留まる事は危険でした。かくして622年、ムハンマドはマッカを脱出して、ヤスリブに移住しました。これを聖遷(ヒジュラ)といいます。そして預言者の苦難のはじまりであり、飛躍のきっかけとなるこの年を、イスラム暦(ヒジュラ暦ともいいます)元年とし、彼が逃れたヤスリブの町をメディナ(「預言者の町」と言う意味です)と改名して記録にとどめることになります。ムハンマドに続いて、メディナにはムスリム(イスラム教徒)たちが迫害の続くマッカから次々に逃れてきたため、ムスリムのコミュニティが築かれました(便宜的にこの時期のことを、イスラム共同体と呼ばれています)。結果、マッカの多神教関係者とイスラムの対立は、マッカとメディナの2都市間抗争へと変化していきました。メディナに移ったイスラム共同体は、ベドウィン(アラブの遊牧民)に信者を増やしながら、勢力を拡大させていきました。これに対してマッカは何度かイスラム討伐軍を送りますが、イスラム側に敗れ、両者の力関係は逆転していきました。そしてヒジュラから8年後の630年、ムハンマドは1万の軍を率いてマッカに侵攻し、無血占領しました。ムハンマドは敵対した者に対して、当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員を許しています。しかしカアバ神殿に祭られていた数百体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊されました。彼からみれば、多神教の神々こそ、アラーの戒律を乱し人々を苦しめる元凶であり、祭ることなど許せない話だったのです。イスラム共同体のマッカ占領は、政治的な空白が続いていたアラビア半島の勢力地図を一気に塗り替えました。マッカとメディナの二大都市を支配したイスラムに、大小部族のほとんどが傘下に入り、アラビア半島はイスラム共同体のもと統一されたのです。こうして統一されたアラビア半島ですが、632年にムハンマドが亡くなると、イスラム共同体は存続の危機に陥る事になります。次回はイスラム共同体が、イスラム帝国へと変貌していく過程に触れてみたいと思います。
2015.02.01
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