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後編は、江戸の被害状況や、その後の影響について簡単にまとめてみたいと思います。元禄地震の被害は、江戸や甲府など、関東近辺の天領にも及んでいます。江戸市内は町奉行の領分ですが、関東一円に散らばる天領の復旧は、関東郡代の領分となります。従って伊奈忠順が対応にあたっています。元禄地震の時は、江戸に水を供給されていた用水路に破損が発生していたため、用水路沿いや、多摩川周辺を中心に、忠順と家臣たちは飛び回っています。と、ここで余談ですが、江戸は海辺に近い湿地帯で、徳川家康入府後に埋め立てられて発展しました。そんな土地柄のため、井戸を掘っても塩水しか出ませんでした(相当深く掘り、海水がしみこまないよう側面に被いを作れば、真水が出ましたが、莫大な経費かがかかる上に量が少ないため、とても一般庶民に供給できるものではありませんでした。そのため「井戸がある家は金持ち」と俗に言われていたそうです)。そのため河川などから用水路から水を引き、江戸中に供給していました。当時は今の一般家庭にある蛇口タイプの加圧式の水道を作る技術はなかったため、自然流下式の井戸形式の水道でした。テレビの時代劇で、長屋などで出てくる井戸は、実は井戸ではなく地中に埋められた木製の管を通して供給された水道水なのです。意外に知らない人がいいのかなと思います。現地の状況を、常に的確に把握しようと努めた伊奈忠順は、被災地までは馬で出向きますが、村内は歩いて見て回り、名主や豪農だけではなく、小作農に至るまで声を掛けたと言われています。そのため他の奉行や役人と異なり視察は時間がかかって、数日がかりになる事も珍しくなかったようです。関東郡代の家臣たちは、視察の際は大量の草鞋をもって歩いたと言われています。今でも災害時、よく新聞などで批判される「大臣の形ばかりの短時間視察」は、忠順にはあり得ないものでした。「背の小さいお殿様だったと伝えられています。村内は歩いて見回り、出会った村人に気さくに声をかけて話を聞いていたそうです。(災害で心がささくれ立った者から)荒げた声を浴びせられても、決して怒る事はなかったと聞いております」とは駿東郡に残る忠順の伝承ですが、この光景は、4年前の元禄地震の際でも変わりはなかったのです。用水路の修復や、橋・道路の復旧、倉の再建に、伊奈忠順は奔走しています。次に江戸市内の様子ですが、新井白石の自叙伝『折たく柴の記』から見てみたいと思います。「我はじめ湯島に住みしころ、癸未の年、十一月廿二日の夜半過ぎるほどに、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこの戸障子皆たふれぬ。妻子共のふしたる所にゆきて見るに、皆々起出たり」「湯島に住み始めてまもなく、癸未の年(干支の一つで元禄16(1703)年の事)11月22日の夜半(現在日付概念では23日)過ぎに、地震があった。驚いて目を覚まし、刀を取ってすぐに家族の安否を確かにいくと皆目を覚ましていた」という意味になりますか。白石は、主君である甲府藩主徳川綱豊(のちの六代将軍徳川家宣の事。最近の説だと、宗家・御三家以外は徳川姓を名乗れなかったため、甲府藩主時代は徳川の姓を名乗らず、松平姓だったとも言われています)の安否を確認すべく、日比谷にあった藩邸を目指して湯島から向かっています。「道にて息きるる事もあらめと思ひしかば、家は小船の大きなる浪に、うごくがごとくなるうちに入て、薬器たづね出して、かたはらに置きつつ、衣改め著しほどに、かの薬の事をば、うちわすれて、走せ出しこそ、恥ずかしき事に覚ゆれ。かくてはする程に、神田の明神の東門の下に及びし比に、地またおびただしくふるふ。ここらの空き人の家は、皆々打あけて、おほくの人の小路ににあつまり居しが、家のうちに灯のみえしかば、「家たふれなば、火こそ出べけれ。灯うちけすものを」とよばはりてゆく。おほくの箸を折るごとく、また蚊の聚りなくごとくなる音のきこゆるは、家々のたふれて、人の叫ぶ声なるべし。石垣の石走り土崩れ、塵起りて空蔽ふ。かくて、かの火出しところにゆきて見るに、たふれし家に、圧れ死せしものどもを引出したる、ここかしこにあり。井泉ことごとくむつきて水なければ、火消すべきやうもあらず」「道中息切れを起こすだろうと薬を用意したのに、地震で家が小舟のように揺れるのに気を取られて、着替えの間に薬の事をすっかり忘れて外に飛び出してしまった。とても恥ずかしい。神田明神の東門下のあたりにつく頃に余震が来て、周囲を見ると灯りをつけた家(電気のない時代ですから当然蝋燭です)があったので、「家が倒れたら火事になる。火を消せ」と叫びながら進んだ。うなるような地響きと共に余震が来、家の倒壊する音、人の叫び声が上がり、石垣が崩れ塵が舞い上がっている。あちこちから火の手が上がり、倒壊した建物につぶされて死んだ者の遺体も引き出されている。水道は水は枯れ、火を消す事が出来ない」という意味でしょうか。この白石の記録も、今回の震災の話と重なる点が多いように思います。また上記の他に液状化現象を思わせる記述も残されています。冷静な新井白石らしく、客観的な視点で状況を観察しています。その彼ですら、地震に動揺して用意した薬を持ち忘れてしまった位ですから、江戸市民の動揺はどれほどだったかが察せられます。幸いにも江戸の倒壊家屋は少なく(全倒壊22戸。半壊等は不明です)、死者も340人あまりと言われていますが、用水路の破損などから、白石が懸念した火災は、至る所で発生しています。震災翌日、本郷追分より出火した炎は谷中までを焼き、その後再び小石川より出火、北風にあおられて上野、湯島、筋違橋、向柳原、浅草茅町、神田、伝馬町、小舟町、堀留、小網町と焼きつくし、さらに本所へ飛び火して回向院から深川、永代橋までを焼いて、両国橋は西の半分が焼け落ちました。これは言うまでもなく震災後の二次災害です。大正12(1923)年の関東大震災(M7.9)の「一つ前の地震」と言われ、規模も元禄大地震の方が数倍大きかったのに、人的被害が少なかったのは、震災直後に大火災が発生せず、当時の江戸は緑地が多くて逃げられる場所が多かった為と言われています。幕府は治安回復にあたり流言を取締り、大寺大社に天下安全の祈祷を命じて人心の動揺を防ぐ一方、「生類憐れみの令」により町方に負担させていた「犬扶持」を免除するなどの対策を講じています。五代将軍徳川綱吉というと、「生類憐れみの令」や『水戸黄門』『忠臣蔵』の影響で悪評の方が高いですが、福祉に力を入れた政策も多数おこなっており、視覚障害者のために職業訓練所を作って、鍼師や按摩(マッサージ)師の育成も積極的におこなった、当時の政治家としては世界的にも先進的な人物でもありました。しかし皮肉な事に、その先進的な福祉政策が幕府の財政を悪化させ、経済の減退、デフレに突入させる羽目に陥っていました。幕府は勘定奉行萩原重秀の献策で貨幣改鋳(貨幣の金銀含有率を下げて、貨幣の供給量を増やしました)に踏切り、財政赤字を減らしつつ、経済成長をプラス転換させつつありましたが(年次インフレ率は3パーセント前後で、急な政策転換のせいもあってやや過熱気味な水準でした)、道半ばで元禄大地震の打撃を被る事になってしまいました。復興のための莫大な資金の支出に、幕府の財政は再び急速に悪化していきます。市民生活も、江戸は魚の供給が激減して高騰して手に入らなくなるなど、深刻な影響が生じます。江戸にとって主要産地であった房総地域が津波で壊滅したからです。震災時イワシ漁のシーズンだったため、漁師の多くが海辺に仮小屋を造って漁の準備に勤しんでおり、津波で船もろとも壊滅してしまった事がその後も大きな影を落とす事になります。魚の高騰はその後も進み、他の食品や物資も高騰し、高物価時代に突入します。この後は、新井白石による貨幣改鋳(貨幣の・金銀含有率を元に戻し、貨幣の供給量も萩原重秀の改鋳以前に戻しました)により高インフレが一転、デフレ不景気時代へ逆行し、八代将軍徳川吉宗による享保の改革まで、幕府は財政難、庶民は物価高に苦しむ事になります。最後に、元禄大地震後の元禄16(1703)年12月29日(旧暦)から4日間にわたり、富士山が鳴動したと言われています。富士山近辺の住人達は、山が崩れるのではと心配しましたが、この時は鳴動だけで終わっています。そのためこの事は忘れ去られてしまいますが、鳴動は地震の影響で富士山直下の浅い部分にマグマが上昇してきたためなのは間違いありません。この時点では力不足で噴火に至らなかったのです。しかし4年後の東海・南海・東南海連動型地震、宝永大地震の発生により完全に箍か外れた富士山は、地震の49日後大噴火を起こす事になります。こう見ていくと、元禄大地震は繁栄を誇った元禄時代の終わりを告げる最初の災害だった事がわかります。そして4年後の宝永大地震、富士山宝永大噴火で命脈を絶たれ、大消費時代としての元禄文化は完全に終焉を迎えることになります。
2011.04.23
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千葉県房総半島南端に野島崎という岬があります。温暖な南房総の風光明媚な中、東京から近い事もあって観光の名所にもなっています。この野島崎、昔はその名の通り島でした。岬となったのは、今から308年前の元禄大地震(M8.3)の結果です。海底が隆起して、房総半島と地続きになったのです。驚く方も多いかも知れませんが、自然界では珍しい話ではありません。火山の話になりますが、鹿児島県の桜島も、大正3(1914)年の桜島大噴火によって、大隅半島とくっついて地続きになるまでは鹿児島湾の中にある島でした。この元禄大地震、富士山噴火史を書いた時はさらっとしか触れませんでしたが、・江戸時代の繁栄期の一つ、元禄時代を終わらせた大災害として歴史に記憶されるものだった。・発生場所が北アメリカプレート最南端相模トラフで発生した海溝型地震であった事から、大正12(1923)年に起きた関東大震災(M7.9)の「一つ前の地震」だった。・元禄地震の4年後の富士山宝永大噴火(宝永4(1707)年)に繋がる呼び水となった。という、多くのインパクトを持った地震でした。地震が起きたのは、元禄16(1703)年11月23日 (旧暦)の深夜0時頃の事です。「元禄一六年赤十一月廿二日夜九ッ子ノ時、前代未聞之大地震、大地夥敷破レ倒屋不和数、同八ッ半刻津波、出水神明ノ先壱丁死人ヌハ肴ヲ拾フ、内宿サツダ坂下迄家ヲ流ス、安房上総之内ニ而死人都テ一万人余、諸国ノ死人不知数」とは、千葉県勝浦市にある高照寺の過去帳にある記録です。簡単に訳せば、「元禄16年11月22日深夜12時頃に、前代未聞の大きな地震があった。大地は大きく裂け、数えられないほどの家屋が倒れた深夜3時頃には津波が押し押せ、人や家が押し流された。安房(千葉県房総南部)上総(千葉県房総中部)だけで死者は1万人に上り、日本中の死者は数え切れない」となるでしょうか。ここで余談を一つ。記録では11月22日となっているのに、なぜ私が11月23日と書いたかですが、現在と当時では日付変更の時間が違うからです。現在は深夜0時で日付が変わりますが、当時は午前4~5時頃に日付が変わります。現代の定義では深夜0時過ぎなので11月23日ですが、当時の人たちの概念では深夜0時頃は11月22日なのです。さらに余談ですが、忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件は、12月14日深夜に吉良邸に討ち入りしています。しかし歴史の本によっては、現代の時間の概念を適用して、12月15日未明と書いてあるものもあります。確かに現在の時間に直せば15日が正しいのですが、赤穂浪士達が討ち入りを12月14日を選んだのは、主君浅野内匠頭が元禄14(1701)年3月14日に切腹させられた、月命日を選んで主君の仇討ちをしたわけですから、現代人の間隔で「15日に討ち入り」と書いてしまっては、彼らも浮かばれないだろうと思います。他の現地の記録を見てみます。「高崎浦津波記録」は富山町高崎浦(現在の南房総市)の名主が記録したものです(地震後いつ記録したかは不明です)。深夜の大地震、大津波とその後の描写が生々しく書かれています。以下簡単な現代語訳です。「日も暮れて夜の12時頃、突然の地震が来た。家中寝静まっていたところを、起きては転びながらやっとたちあがり、部屋の戸を開け後ろへ出た。親子みんな無事に門口に廻った」「浜台の老若男女が皆円正寺山の西にある平地に上がって小さな松の木にすがった。寝静まった時の出来事なので、あわてて帯も締め忘れ、裸で出ている男女もあった」「杢兵衛が家に戻ってみると、庭の中に波が押し寄せて腰くらいの深さになって、井げた(四角に組んだ井戸の枠)の縁が少し見えるほどであった。何もかもが海になってしまい、恐ろしいので早く家の中に入り、伊勢神宮のお札を持ってまた寺山に戻った」「12月1日まで岡の庭で寝起きした。その日、午後四時ごろ浜の家に戻った。痛ましい事に、親は子を亡くし、また子は親を亡くし、夫婦もはぐれ、さらに幼子も波にさらわれ、親兄弟嘆き悲しむ有り様は、なんとも心痛む思いであった。目も当てられず、言葉も消えうせるほどのはかなさであった」「地震後、10日から15日の間、浜に多くの死人が打ち寄せられた。昼夜犬がその死体を食いちぎって、家の門口までくわえてくるので恐ろしくて外に出られない」また長柄郡小母佐村(現在の白子町)の医師池上安闊が書き記した覚書(池上家文書「一代記」)も残っています。「元禄16年11月22日の夜、子の刻(深夜12時ごろ)に突然大地震が襲った。山崩れで谷は埋まり、地割れで水は吹き出るし、また石壁が崩れて家は倒れるし、とてもこの世の出来事とも思えなかった。こんなときは津波がくるので、早く逃げれば助かる。昔から、津波が来るときは井戸の水が干上がると云われているので、井戸を見たがいつもと同じである。海辺を見れば潮が大きく引いていた。そして、丑の刻(午前2時ごろ)になって、大山のような潮が九十九里浜に打ち寄せてきた」「数千軒の家が流され、また数万人の僧俗男女のほか、牛、馬、鳥、犬まで溺死した。木や竹に捕まっても寒さで死んでしまった。自分も流されて五位村(現白子町五井)の十三人塚の杉の木に取り付いたが既に寒さで仮死状態であった。しかし、情けある人が焚き火で暖めてくれたので奇跡的に助かった。家財はすべて流されてしまった。明石原の上人塚の上では多くの人が助かったが、遠く逃げようとしても市場の橋や五位の印塔では多くの人が死んだ」「これからは、大地震の時は必ず大津波が襲ってくると心得て、家財を捨てて早く岡へ逃げること。たとえ近くても高いところだったら助かるのだ。古所にある印塔の大塚や屋根に上った人も助かっている。このことよくよく心得ることだ」いずれも今回の震災と重なりそうな描写がありますね。津波の大きさは南房総市や館山市相沢では10メートルを超えたと言われています。震度は現在の千葉県館山市、南房総市で震度7相当、他の房総半島地域は震度6相当、江戸や上総国(現在の千葉県北部、茨城県南部)で震度5相当だったと思われています。房総での死者は6534人(どの程度が津波による死者かは不明)に上り、地震による倒壊家屋は9610戸、流出家屋は5295戸に及びます。房総半島以外でも相模湾地域が津波被害は大きく、鎌倉では鶴岡八幡宮二ノ鳥居まで津波が押し寄せ、600人以上の死者が出ています。小田原では、後北条氏の居城として名高い小田原城の天守閣や櫓などが多数倒壊し、市内の大半は地震後の出火で焼け、東海道の箱根付近は崖崩れが多数発生して、交通が寸断されています。いずれも小田原藩(大久保家11万3千石)の所領であり、一連の復旧で藩の資金を使い果たした事が、4年後の宝永大噴火の際、何の対策も講じる事が出来なくなった原因となります。小田原藩領の被害は、死者2291人、倒壊家屋は8007戸に及び(津波の流出家屋の記録は無し)と、房総に次ぐ被害となっています。また伊豆半島の伊東では、津波が川を遡上して約2キロ上流で堤防を乗り越え(この時の津波の高さは10メートル近くになっていたと思われています)、163人の死者を出しています。前に津波は川をさかのぼるので川辺には近づかないようにとブログで書いた事がありますが、津波の恐ろしさをまざまざと見せつける話ですね。津波は伊豆大島にも押し寄せています。大島北端の岡田港では流出家屋58戸、死者56人を出しています。また南端に押し寄せた津波は、火口湖(9世紀に伊豆大島三原山の側火山が、マグマ水蒸気爆発して火口湖が出来ていました)の外縁を破壊して火口湖と海は繋がりました。その後周囲の崖を切り崩して整備して出来たのが、天然の良港として名高い波浮港となります。火山噴火と大津波という、自然の造形によって作られた波浮港は、波が静かで大型船も停泊できるため、風除けを待つ船が安心して使える良港として、この後繁栄していく事になります。と、話が長くなりました。後編に続きます。
2011.04.22
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宝永大噴火を書いたブログで、色々登場人物が出てきました。簡単ですが、その後の人生の足取りを書いてみたいと思います。・伊奈忠逵・・・関東郡代職の他に勘定吟味役(今で言うと会計検査院にあたりますか)も兼任し、被災地復興の他に、幸手領用水(現在の埼玉県)の助水路を開発、見沼代用水(現在の埼玉県、東京都)の開削などに業績を上げています。ただ配下の不正問題も出て厳封させられるなど、父忠順とは異なった意味で苦労もあったようです。また五代将軍徳川綱吉の時代に廃止された鷹場制度の復活にも尽力しています(鷹狩りは外を自由に出歩けない将軍や大名にとってはスポーツであり、家臣共々武士として弓馬の武術を鍛える軍事教練、民情視察の意味合いもありましたから、侍としての立場を理解するための職務の一つでもありました)。関東郡代としての忠逵は、農民思いの信賞必罰の人であったと言われています。悪事に関しては見て見ぬふりをしない怖い人だったそうですが、逆に筋が通れば誰の意見でも隔てなく聞いたと言われています(そのため幕府の政策を批判することもあって、4回謹慎させられています)。寛延3(1750)年に、養子伊奈忠辰(伊奈忠順の実子)に家督を譲り引退、6年後、66歳で死去します。関東郡代としての在職は最長の38年に及んでいます。・徳川家宣・・・伊奈家の相続問題解決の後、病気で職務の大半を取れなくなります。実質的に伊奈家相続、亡所取り消しが、彼の最後の政策決定になりました。死を悟った彼は後継の将軍問題を憂いて、幼少の我が子家継(この時4歳)では政務をこなすことが出来ず、政治が混乱するからと、御三家尾張徳川家の吉通に将軍位継承をさせたい旨を表明します。この時家宣の脳裏には、五代将軍綱吉の急死後、慌ただしく将軍となった自分の耳に、富士山麓の被災地の情報が入らず、政策不在になったことを後悔する所もあったのかも知れません。そのため自分の子、徳川宗家の嫡流に拘らず、分家である御三家から将軍を迎えようと考えたのです。しかし新井白石の反対にあって断念しています(死の間際でも、実子家継への継承を声高に主張する白石に、渋々折れる形で終わっています)。儒教道徳の権化たる白石からすれば、嫡男がいるのに分家に将軍職を継がせるようとするなど、許されざる背徳行為だったのです(「幼い主君を頂いて家臣一同が支えていきます」という主張は、必ずしも間違った意見ではないのですが・・・)。白石は家宣が何を危惧していたかを理解できなかったのです。結果的には家継は早世してしまったため、将軍位継承問題は先送りされてしまっただけで、再び幕府は後継問題で揺れることになってしまいます(もっとも、家宣が推した徳川吉通も正徳3(1713)年に25歳で急死してしまうので、どちらにしても後継は揉めたのでしょうけど)。家宣は、忠順と同じ正徳2(1712)年、51歳で病死します。治世が3年間と短かったこともあり、かつては評価の低かった家宣ですが、現在では江戸幕府の中興の名君は、八代将軍徳川吉宗ではなく、家宣の力量によるところが大きかったとされています。・柳沢吉保・・・大老引退後は政治的な口出しをせず、幕府の要人とも滅多に会わず、来客が政治の話題をふっても、笑って答えなかったと言われています。彼が唯一口出ししたのは伊奈家の相続問題のみであり、吉保が伊奈忠順をどう評価していたかが伝わってきそうな話です。正徳4(1714)年、57歳でひっそりと世を去ります。・新井白石・・・六代将軍家宣の死を利用して、宿敵荻原重秀失脚させる事に成功しますが、その後彼の改革は挫折を余儀なくされます。白石は高い倫理観と知識を持ち合わせていましたが、現実をしっかりと見据えた政治を行うタイプではなく、いうなれば理想論に終始してしまったのです。彼の理想とする古代中国、孔子の時代は、すでに3千年以上昔の話です。社会も経済も大きく変わっていましたが、白石はそれを理解していませんでした。そのため白石のおこなった政策の大半は、形式ばかりを追い求めて、組織の実運用をおこなう点では不合理なものになってしまいます。特に経済面では、荻原重秀のおこなった貨幣改鋳の意味を完全に理解できず(長くなるので詳しい話は別の機会にと思います。一言で言えば、重秀は貨幣の流通量をコントロールする事で物価を統制しようとする現代の変動相場制度に通じる政策だったのですが、白石からすれば、貨幣の価値を貶め大商人を儲けさせるだけという考えだったようです)、中途半端な政治改革は莫大な経費を発生させて、幕府の財政をさらに悪化させる事になります。七代将軍家継が死ぬと、将軍侍講(将軍の家庭教師)という立場で要職に就いていない白石は後ろ盾を失い、側用人間部詮房と共に失脚し、彼の政策はことごとく覆されることになります。むしろ白石を現代で有名にしたのは失脚後の話です。自叙伝『折たく柴の記』を執筆し、諸大名の家系図を整理した『藩翰譜』、日本政治史・歴史観をまとめた『読史余論』を書き、それが後世に多くの影響を与えています。最も有名な彼の主張には、邪馬台国の近畿説であります(九州説はこの少し後の時代、国学者の本居宣長によって主張されます)。この白石の主張は、現在まで続く邪馬台国論争の火付け役になります。享保10(1725)年、68歳で死去。・大久保忠増・・・伊奈忠順の死後も老中職に留まり、在職中の正徳3(1713)年に58歳で死去。やむを得ないとはいえ、藩独力での復興は無理と領地を返上したことから、駿東郡・足柄上郡の農民達からの評価は今ひとつです。この辺は駿東郡では今も神様、足柄地方では不評という両極端の忠順と、どちらが幸せかは判断に苦しみますね。・土屋政直・・・伊奈家の相続問題が無事に終わり、駿東郡59ヶ村の亡所が取り消されると、自分にすべきことは済んだとばかりに引退を表明しますが、将軍家宣の慰留により老中の地位に留まります。後に八代将軍吉宗からも信任を得て老中職に留まり(吉宗が将軍就任時、唯一評価した老中が政直でした)、享保4(1719)年にようやく引退を許されます。性格も器量も異なる綱吉・家宣・家継・吉宗という4人の将軍に老中として仕えて信任を得て(家継は子どもなのでよくわかりませんが)、職を全うした唯一の老中となります。「狸親父」と揶揄されることが多かったと言われていますが、学識があり世情にも通じていてため、政治スタンスは異なっていても、家宣、吉宗とも、政直と話すのを楽しんだと言われています。引退後も首席老中の礼遇をもって遇され享保7(1722)年、82歳の高齢で亡くなっています。そして300年の時が流れた今日、当然ここにあげた人たちは皆旅立ってしまっています。この時代に生まれ今も残っているのは、富士山の噴火口(宝永噴火口)と、噴火の際隆起した古富士火山の残滓宝永山の2つでしょうか。この富士山の宝永山部分をご覧になっている方で、その名付け親を幾人の人がご存じでしょうか。宝永山の名付け親は伊奈忠順その人です。
2011.04.18
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伊奈家の家督と関東郡代・砂除川浚奉行の役職を継いだ伊奈重蔵忠逵(『徳川実紀』では十蔵とありますが、正しくは重蔵です)はこの時21歳。亡父と同じく酒匂の関東代官陣屋に進出、被災地復興の指揮をとります。忠逵が忠順と比べて幸運だったのは、幕府が全面的な支援があり、自身が金策に走る必要がなかったこと、そして養父忠順が残した田中休愚などの人材を、活用できたことです。田中休愚は武蔵国多摩郡出身の名主で、治水・土木に通じた逸材です。彼を抜擢した伊奈忠順とは、同じ技術屋同士通じるものがあったのかも知れません。忠順時代は資金も無く、江戸のゼネコンが作った堤防が破れるのを、口惜しく眺めるだけの休愚でしたが、忠逵の時代、特に八代将軍徳川吉宗の治世になると(享保元(1716)年以降。六代将軍徳川家宣は忠順と同じ正徳2年に死去し、跡を継いだ七代将軍徳川家継も、在位3年わずか8歳で早世して、御三家紀州徳川家の吉宗が八代将軍となりました)、将軍吉宗、大岡忠相(かの大岡越前です)の信任もあって、ようやく手腕を発揮できるようになります。被災地に配られた扶持米も、享保元(1716)年は男は1日五合、女は1日三合と定められ、1日一合有るか無いかだった忠順時代とは雲泥の差で、被災地の農地復興は急速に進んでいました(もっとも焼き砂の量が莫大だったので、すべて処理するのに30年以上かかっていますが)。焼き砂に埋まった一次災害の被害が大きかった駿東郡は、淡々と砂よけを進めていけばいい形となり、大きな懸念材料はなくなました。一方足柄地方は、焼き砂による土石流災害、いわゆる二次災害の被害が大きく、大雨のたびに酒匂川は大きな氾濫を繰り返していました。忠逵は復興の重点を足柄地方におきました。すでに多摩川の治水で実績を上げていた田中休愚が酒匂川堤改修を担当し、忠逵が全般的なサポートをする役割分担も出来たようです。これにより、伊奈忠逵は赤山陣屋に戻って、本来の関東郡代の職務も滞りなくできるようになりました。しかし酒匂川堤改修は一筋縄にはいきませんでした。なんと言っても焼き砂(火山灰)の量が多く、山林は火山灰で枯れ積もり、平野部は灰の山、川底にも大量に溜まっており、いかに頑丈な堤を作ろうと、大雨のたびに大量の焼き砂が土石流を引き起こし、甚大な被害をもたらし続けました。さらに足柄地方は、「富士山噴火史 9 」でも書きましたように、関東郡代伊奈家への不信感が強く、関東郡代の手の者である休愚に対しても、当初手を貸そうとしなかったようです。休愚は酒宴を開くなどして、積極的に農民と接することで、徐々に友好関係を築いていく方法をとります。これは彼が名主であったことからできた手でした。いかに伊奈忠順が農民と気持ちを近づけようと努力しても、旗本で身分ある忠順には、村人達と酒宴という方法は思いつかないものでした。身分から来る文化の差は存在したのです。足柄地方の農民達は次第に休愚に心を許し、酒匂川堤改修は、農民達の協力のもと積極的に進められていきます。しすしそれは自然との飽くなき闘いでした。いかに強固な堤を作っても土石流で度々押し流され、また作り直す試行錯誤の連続だったのです。休愚渾身の大堤防は、享保21(1736)年に完成し、土石流を完全に封じ込めることは出来なかったものの、大幅な被害軽減に成功しました。ようやく足柄地方に、雨のたびに怯えずにすむようになったのです(完全に土石流災害が無くなるまで、この後40年近くかかります)。しかし休愚自身は、大堤防の完成を見ることはありませんでした。 6年前の享保14(1730)年、休愚は病死しています。彼もまた、伊奈忠順同様、被災地復興に人生を捧げたと言えそうです。大堤防の完成でようやく足柄地方は、復興に向けたたスタートラインに立ちました。この頃、被害が甚大だった駿東郡は、幕府の食糧支援を必要としない程の自立復興を遂げましたが、二次災害の酷かった足柄地方は、これから農地の回復に挑む必要がありました。砂よけに専念すれば良かった駿東郡と、砂よけだけでなく川の氾濫にも立ち向かわなければならなかった足柄地方では、被害の内容が異なるので仕方ないのですが、この点も現在も続く両地域の確執の原因になっているのはやるせない気がします。酒匂川大堤防が着々と建設されていた頃、伊奈忠逵は駿東・足柄両地方に面白い試みをしています。それは甘藷(さつまいも)・馬鈴薯(じゃがいも)の栽培です。芋類は土壌の悪い土地や、火山灰土の所でも育ちます。連作障害の大きい作物ですが、生産性の良さと栄養価の高さは、その点を差し引いても魅力がありました。日本では江戸時代、薩摩藩島津家77万石(薩摩・大隅国(現在の鹿児島県)は、約2万5千年前に姶良火山の噴火で出来た火砕流大地シラス台地の上にあります)を中心に栽培されていた作物ですが、同じ火山灰に覆われた駿東・足柄地方でも栽培が可能なら、田畑の砂よけが完全に終了するまでの間、農民達の貴重な食糧となると考えたのです。しかしこの頃の日本では、甘藷・馬鈴薯は、「毒がある」として(実際ジャガイモは芽や茎に毒があり食べるのは危険です)、一般的な食べ物ではありませんでした。芋類が抵抗なく食べられている現代人からすれば信じがたい話ですが、当時は土の中に出来て泥だらけの作物で、形が不格好、味やにおいも独特に芋類は、敬遠されたのです(他にも牛乳・チーズも嫌われました。日本の牛乳文化は、石器時代から奈良時代までで一端終わり、その後明治維新後に再び食用されるようになりました)。この辺の事情は欧州でも同じで、イギリスやプロイセン(ドイツ)では、比較的早くに普及したのに対し、フランスではジャガイモを「犬も食べない」と嫌い、小麦の飢饉が続く中でも中々普及せず、農村が疲弊・荒廃したことが、パリなどでの食糧事情の大幅な悪化と王家に対する不信を生み、フランス革命の原因の一つになっていくことになります。残念ながら伊奈忠逵の試みは、根強い反対もあって、実験的な試みだけで終わりました。芋類の普及は、享保の大飢饉(享保17(1732)年。西国を中心に長梅雨と冷夏のため発生し、西国48藩の総生産高は1/4程度に激減し、餓死者約1万2千人、困窮した者約250万人と言われています)後、八代将軍徳川吉宗の肝いりで、青木昆陽が栽培を実用化した元文元(1736)年以降を待たねばなりません。ゆっくりとしたペースですが着実に被災地の復興は続き、駿東郡と足柄上郡が関東郡代伊奈家の支配を離れることになったのは、延享4(1747)年のことです。まだ酒匂川では氾濫は続き、長期間焼き砂に埋まった田畑の生産力は低いものでしたが、幕府の支援を必要としないほどの復興は遂げました。伊奈忠逵は砂除川浚奉行を解かれ、40年に及ぶ伊奈家の統治は終わり、両郡は小田原藩に復帰しました。小田原藩復帰後も、農地再建と堤防補強は続き、最終的に足柄地方が復興を遂げたのは、天明3(1783)年の事です。宝暦大噴火から76年、ようやく被災地の戦いは終わりました。この事は火山災害がいかに長期災害になるかという事実と、未曾有の大災害も、人の地道な努力と忍耐で克服出来ることの2点を、考えさせる話だと思います。もちろん災害からの復興という点では、地震も津波も同じです。現代の私たちから見ても参考になる点が多いのではと感じます。復興ということの考え方を、改めて考えてみる必要があるかもしれません。 それではまた。
2011.04.15
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前回の「富士山噴火史10」のままですと悲壮感漂う話なので、忠順死後の相続問題、亡所に対する幕府の政策の方針転換を見てみたいと思います。 伊奈家からは病死と届け出されますが、幕府は受理せず保留しています。お救い米の書類不備問題は、被災民を救うためであったとしても、勝手に国の税金を私用するのと同じ意味ですから、突然の「重要参考人」の死に、慎重な対応を取ったのでしょう。言うなれば政治家の収賄や汚職問題で、事情聴取しようとした秘書が突然死して騒ぎになるのと同じ感覚だったと思います。忠順の死は切腹だったという噂は早くから幕閣内でも知れたようで、「切腹したのなら罪を認めたと同じ。即刻絶家(家を取りつぶすこと)にすべし(主に勘定奉行中山時春、大目付横田由松等)」「切腹は噂、病死なのだから子に父の職を継がせよ(老中大久保忠増)」という議論で、大揉めだったのです。このため忠順が死んだことは将軍徳川家宣に伝えられていません(本来なら一代官の死の報告など、将軍に言上しなくてもいい話ですが、伊奈氏と関東郡代は別格のため、伝えられるのが自然なのです)。さらに連署した一人、勘定奉行萩原重秀が新井白石が衝突し、伊奈家の問題から両者の権力闘争へと変化していってしまいます。重秀は己の地位を守るために、白石はこれを機に「柳沢派の残党」土屋政直と萩原重秀を、幕閣から排除を意図していました。もちろん被災地のことなど2人の頭に無かったと思われます。そんな折、唐突に動いた人物がいます。政界から引退した大老柳沢吉保です。彼は将軍家宣へのご機嫌伺いのため江戸城に登城しました。それは忠順の死から約1ヶ月が過ぎた時でした。「美濃守(柳沢吉保のこと)、何か困っていることはないか? 遠慮無く申せ」「さればひとつ。関東郡代伊奈忠順急死の件、上様はご存じでございますか?」「なに関東郡代が? 余は聞いておらぬ」「ひと月前のことと聞き及んでございます。さらに相続が滞っておるとの噂を耳にいたしました。なぜかようなことになったか存じませんが、伊奈家は神君(徳川家康のこと)以来、関東郡代の職にあって功績並ぶものがないほどの家柄。富士の山焼け(噴火)以来の忠順の働きも、真に民百姓のため尽くした徳行の士でございます。何卒よきようお取りはからいくださいますようお願い申し上げます」家宣は眉をひそめたと言われています。吉保の話が彼の知らない話ばかりだったからでしよう。家宣はその場で近習に調査を命じ、吉保には「よきよう取りはからう。安心いたせ」と答えています。この頃から、家宣は死病にとりつかれはじめていました。次第に病臥に伏せって政務を執れない日が多くなっていきます。ですが彼の知性と判断力が落ちていなかったことを物語るのは、この件の諮問を新井白石にしなかったことです。通常この手の話は、白石から進んで家宣の耳に入れてくる種類の話なのです。ですが話してこない以上、白石は当事者の1人で、自分に何か隠している大きな話があると気がついたのです。徳川幕府も、五代将軍綱吉のあたりから、将軍に情報が入りにくい風通しの悪い体制になりつつあります。皮肉な話ですが、世の中が平和になって常に将軍の決断が要るような重要議題が無くなりつつある事と、幕府の官僚体制が円熟して、最高権力者の不在でも、政務が滞らない体制になったことが大きな理由です。高度に完成された官僚システムとは、柔軟性を欠く組織の裏返しでもあるのです。この辺は今回の震災での政府や行政の対応を見て頷かれる方も多いのではと思います。話を元に戻します。近習たちも口の重い関係者からの聴取に手間取り、家宣の体調不良もあって、報告がなされたのは、柳沢吉保の来訪から2ヶ月近く過ぎてからだったようです。この時家宣は、かつて江戸で実施した公共事業の予算の出所が、富士山麓の救恤金であることもはじめて知ったと思われます。家宣周辺の動きを、注意深く見守っていたのは老中土屋政直でした。彼は忠順の死後、連署の件をのらりくらりとはぐらかし続けていました。これは己の保身もあったでしょうが、亡所の話など一気に言上するタイミングを計っていたと見るべきなのでしょう。機は熟したと見るや、彼も行動を起こします。将軍家宣の所に候うすると、「上様、今生の別れにまかりこしました」と切り出しました。これは「切腹します」という意思表示です。「この老いぼれは、連署を免ぜられたのを忘れ、公文書に署名いたしました。故に関東郡代伊奈半左衛門が腹を切ったと聞き及びました。もはやこの老いぼれに老中の大役は務まりませぬ」政直の言葉を聞いた家宣は、苦笑いを浮かべたといいます。「忘れることは誰でもある。余もずっと忘れていたことがあった。一度ぐらい忘れたからと腹を切ることまかりならぬ。今までどおり出仕せよ。それと関東郡代病死の件、余も聞き及んでおる。相続が滞っておるのは余の手落ち。早急に良きにはかろう」切腹したと聞いたと発言した政直に対して、家宣は病死と聞いたと答えています。一見するとかみ合っていない会話ですが、家宣は言外に忠順の行動に罪とするものはないことを明言したのです。これは鶴の一声でした。さらにこの後、家宣は亡所の件を審問し、幕閣は狼狽したと言われています。家宣がいう「忘れていたこと」が何であったかは、言うまでもないでしょう。駿東郡59ヶ村の亡所は、ひっそりと解除されました。「関東郡代伊奈半左衛門忠順死ければ、養子十蔵忠逵に家をつがしめ、父の原職を命ぜられる。忠順実子造酒助忠辰幼稚なれば、忠逵が子となすべしと仰下さる」とは、徳川幕府公式記録『徳川実紀』の正徳2(1712)年5月26日(旧暦)の記述の一節です。公式記録はなぜ伊奈家の相続が3ヶ月も滞ったかについて何も触れていません。被災地の状況を見てみたいと思います。忠順急死の報は、十日の内に駿東郡に達したと言われています(被災地には、忠順が病死したとする幕府の公式発表は届きませんでした)。伝承では領民は皆慟哭したと伝えられていますが、公的な文書は沈黙したままです。しかしここから奇妙な事が起こります。忠順が死んだ正徳2(1712)年から正徳5(1715)年までの3年間、駿東郡から食糧支援を求める嘆願書が一通も出されていません。嘆願が再開されるのは享保元(1716)年からで、内容は前とほぼ同じです(ただし農地回復率は3割近くまで上昇しています)。飢餓に苦しんでいたのは変わらないのに、なぜ3年間嘆願しなかったのか。また農地回復率が急速に進んだのかについて理由は分かりません。作家の新田次郎氏は、無言の3年間は伊奈忠順の喪に服する期間だったのではないかと推測しています。事実、御厨地方では、「幕府の要人達は、伊奈半左衛門様が切腹されたことで考えを改め、その後御扶持米を下されるようになった。被災地の農民達は、伊奈様の死を悼み、しばらくは何も言わずに砂よけに精を出そうと申し合わせた」という伝承が残っているそうです。伝承は、砂よけを急速に進められるほどの、大きな食糧支援の再開があったことを匂わせますが、御扶持米の量などは記録が無く詳細は不明です。さらに伊奈忠順の死後、隣接地域からの支援、いわゆる民間支援も活発になったと言われています。震災後、被災者が大挙頼ってくることを恐れた近隣の村々は、駿東郡の村々と絶交していました。非情な話ですが、数万の被災者が頼られても分けられる食糧がないため、被災地と共倒れしないよう、絶縁していたのです。しかし忠順が被災民のために切腹したという話を聞いて、「お殿様(忠順のこと)に腹を切らせて、知らん顔しているわけにいかない。百姓にも百姓の仁義がある」と、方針を改めたと言われています。伊奈忠順の死因が何であれ、その死は幕府も被災地に隣接する村々にも大きな影響を与える事件となったのでした。最後に、駿東郡の村々では伊奈忠順の徳を慕って、小祠が建てられひっそり祀られます。忠順を祀っているのが知れて、伊奈家の方々が幕府に睨まれては大変と、小祠のいわれは口伝のみ、参拝は村人一人ずつでおこなう秘祭だったと言われています。59ヶ村でそれぞれ祀られたそれは、幕末までに4つの祠に合祀され、さらに昭和32(1957)年に一つの神社に合祀統合されます。駿東郡小山町須走にある伊奈忠順を祀ったそれは伊奈神社と言います。・・・なんか小説の最終話みたいな終わり方ですが、ブログは終わりませんよ(汗)
2011.04.12
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正徳元(1711)年、宝永大噴火から4年が過ぎた頃になると、幕府の富士山麓の被災地に対する関心はますます低くなっていました。前年まではどうにか1万両単位で行われていた支援が、千両単位に減らされ、それすら滞るようになっていきます。関東郡代伊奈忠順は金策に走り回る一方、自身も6千両もの私財をなげうって、復興資金に投じています。この頃幕府は、29年ぶりにやってくる朝鮮通信使(徳川家宣の将軍就任祝賀のため)の饗応準備に追われていました(ちなみに伊奈忠順も饗応役の1人に選ばれています)。接待費用は60万両。財政難の幕府は、この多額の出費に経費を切り詰めて準備する必要がありました。当然富士の被災地のことなど頭から消え去っています。当時の日本で、政府間で国交があった国は李氏朝鮮とオランダだけでした(海禁政策をとって鎖国していた清国(中国)とは、琉球(現在の沖縄県)を介した限定的な貿易だけでした)。外交に失態は許されないのは、今も昔も同じです。幕府が力を入れていたのは無理からぬ事だったでしょう(韓使(朝鮮通信使のこと)接待方法を巡る新井白石と老中土屋政直の対立は、ここでは関係ないので触れません)。そして正徳元(1711)年末、農地回復率は1割程度と遅々として進まず、人口も大噴火前の3割弱まで激減しています。復興資金も食糧は底をつき、被災住民総雇用体勢は崩壊、駿東郡59ヶ村は餓死を待つだけになりました。もはや資金・食糧調達は万策尽きていました。忠順は最後の決断をすることになります。ここから先の話は、当時の幕府の行政機構などを理解していないと、とても分かり難い話になります。断片的な史料を繋いでまとめようとしても謎が多く、小説を書く感じになってしまいます。ですので簡潔に結果を書き、一般的に流布されている説と史実で確認できる部分や補足を書くという感じにしたいと思います。伊奈忠順は、正徳2(1712)年2月29日(旧暦)、突然の死を迎えます。死の直前、亡所となった駿東郡59ヶ村に忠順の命で合計1万3千石ものお救い米が配られていた事、米が幕府の正規の命令を介さずに独断でおこなわれた可能性が高いとして、伊奈氏の処遇を巡って、幕府全体を巻き込んだ大騒動に発展します。これが結果です。一般に広まって定説化した話をあげます。餓死していく被災地の農民達を見て見ぬふりが出来ず、忠順は独断で駿府の幕府米倉を開き、駿東郡59ヶ村に1万3千石ものお救い米が配られた。この違法・脱法行為を幕府から咎められた忠順は、すべての職を解かれ、切腹を命じられた。定説化された話は、忠順の突然の死とその後の騒動を四捨五入して出された結論で、大筋の方向性は間違っていないと思われます(被災地のみならず、当時の江戸市民の認識もほぼ同じだったことが当時の記録から窺えます)。しかし、事実の誤認も多いと思われます。まず幕府が忠順に切腹を命じたり、職を罷免した記録はありません。幕府側で残っている記録は「書類に不備がある」という大目付横田由松から、伊奈忠順への問い合わせだけです。江戸時代は切腹に限らず死刑を命じる場合、全老中が完全に意見が一致し、将軍の裁可を受けなければ許可されませんでした(将軍裁可は形式的なものですが)。テレビ時代劇でよくあるような、町奉行がポンポン死刑を命じる事はありえません。忠順に関しては、常に老中の土屋政直と大久保忠増が擁護的な立場にあり、彼が謀反を起こしたわけでない限り、死刑に同意する可能性は小さかったと思われます。また将軍徳川家宣が忠順の死を知るのは、彼の死の約1ヶ月後であるため、切腹を命じられた可能性はほぼ無いと思われます。余談ですが、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭が即日切腹させられたのは、江戸城内で刀を抜いたためで、将軍に対する謀反と見なされたからです。伊奈家側の届け出は、「急な卒中による死」となっています。実際、かなりのオーバーワーク生活を送っていた忠順の体調は、舅の折井正辰が心配するほど悪く、突然の脳卒中による急死の可能性も十分に考えられます。しかし無断で米を配った件は、ほぼ間違いない話と思われます。上記に書いた理由で、この頃の幕府は富士山麓の被災地のことは全く忘れ去っていました。食糧支援も放置しており、現場にいる忠順が、次々と飢えで倒れていく農民達を見て見ぬふりが出来なかったのは間違いありません。正規のお助け米ではない事を象徴する話として、駿東郡の村々はこの時の米だけ、受取書・明細を提出していません。今でも同じですが、救援物資などでも受領明細はきちんと残します。例えば米10トンを送ったのに、現地には5トンしか届かなかったなどということがあったら大問題だからです。これは一般家庭の宅配でも受け取りにサインするのは同じですよね。頼んだ品、数、到着日時、いずれも重要な記録です。記録が無いのは残せない理由があったと考えるのが自然です。ただし彼一人の独断で米倉を開くことは出来ません。駿府の米倉を管理するのは駿府代官であって関東郡代ではないからです。他人の倉をあけさせるには共犯者が必要です。今回は老中土屋政直、勘定奉行萩原重秀、そして駿府代官能勢権兵衛の3人です。幕府の規定では、老中2人もしくは勘定奉行2人以上の連署が無ければ、幕府の倉を開けることは出来ません。ただし非常時に限り、老中1人と勘定奉行1人の連署でOKという不文律がありました。もちろん署名は月番老中(幕府では、老中はひと月ごと交代で通常政務を担当処理するシステムです)であることが暗黙の了解です。忠順の死後、幕府で問題となった事の一つは、月番、連署を免ぜられた窓際老中土屋政直の署名は無効ではないかという議論でした。ですが不文律に関する規定は当然無く、恐らく忠順も政直も、その辺の「法の抜け道」を利用して米倉を開けたのは間違いないと思われます。共犯者の構図としては、土屋政直は大老柳沢吉保引退後、数少ない忠順の味方、被災地復興策の支持者であったため協力し、勘定奉行萩原重秀は政敵新井白石との政争から、白石のダメージになるねと見て与し、能勢権兵衛は恐らく忠順と政直に考え方が近く、書類の問題を知りつつ見て見ぬふりをしたと思われます。能勢権兵衛は忠順の死の前後に「流行病で急死」、もしくは失脚したとも伝えられており、彼の不遇な点も、忠順切腹させられた説を定着化させることに一役買っているでしょう。史料・記録から見る結論は、忠順が切腹を命じられた可能性は小さい。職も解かれてはいません。しかし違法行為を押し通した責任を取って自害した可能性は高い。でも伊奈家の届け通り、急病死の可能性もある。という感じでしようか。どちらにしても、伊奈半左衛門忠順は、宝永大噴火の復興に文字通り命を捧げた最期であったことは間違いないでしょう。そしてこの後、伊奈氏の処遇と、亡所の問題を巡って、幕府は大きく政策を転換していくことになります。次回はその点に触れたいと思います。
2011.04.09
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宝永6(1709)年5月、砂除川浚奉行を兼任する関東郡代伊奈忠順は、酒匂に設けられた関東代官陣屋に進出し、以後死ぬまで、関東郡代本拠地である赤山陣屋(現在の埼玉県川口市)にはほとんど戻ることなく、酒匂と江戸で大半の業務をこなすことになります。忠順は駿東郡と足柄上郡・下郡の被災地をつぶさに視察して、対策を講じていきます。この時点で幕府は駿東郡59ヶ村を亡所とする決定を覆していませんが、「駿東郡は伊奈家の所領」というスタンスを貫き、軽視することはありませんでした。深刻な問題となっていたのは、焼き砂(火山灰)の処分方法でした。被災地では、村内の空き地、窪地に砂捨て場を作り処分していましたが、膨大な量のためすぐ満杯となり(御厨地方では、2~3メートルも積もっていた訳ですから、当然ですね)、焼き砂を積み上げた小高い山がいくつも出来上がりました。しかし雨が降るたびに、焼き砂の山は崩れ、野ざらしの焼き砂を巻き込んで、掘り起こした田畑を再び押しつぶしました。また川に流れ込んだ焼き砂は、土石流を引き起こし、下流地域に甚大な被害をもたらしました。土石流の問題は、被災地同士である駿東郡と足柄上郡・下郡との間で深刻な確執を生んでしまいました。足柄地方側は土石流の原因を、「駿東の者たちが焼き砂を川に捨てた。そのため土石流が起きた」と考えたのです。もちろん、駿東郡の村々はそのようなことはしていません。彼らからすれば理不尽な言いがかりでしたが、下流では雨のたびに土石流で田畑を滅茶苦茶にされ、大勢の人死にが出ていましたから、上流に住む人々を恨まずにはいられなかったのでしょう。両地域のしこりは21世紀を迎えた今日でも消えていないと言われています。さらに、酒匂川堤普請の失敗の責任がいつの間にか伊奈忠順のせいだというデマに転嫁されていきました。前にブログで書きましたとおり、堤普請の件は忠順と無関係なのですが、忠順が領主、最高責任者であったという事もあって、責任を押しつけられる形となってしまったのです。足柄地方では忠順が視察の際、石を投げつけられることが度々あったと伝えられています。さらに後年彼が死んだとき、他の関東郡代の所領では忠順の死を聞き領民達は嘆き悲しみましたが(特に駿東郡では絶望の涙に暮れたと言われています)、足柄地方では喝采が上がったといわれています。その傾向は現在でも続き、足柄地方では今も伊奈忠順の評判は芳しくありません。と、話がずれました。大量の焼き砂問題解決に、忠順は思い切った奇策を使います。それは「天地返し」という手法です。天地返しは、耕地を深く掘り、表層と深層を入れ替える手法です。連作障害の回避にも繋がるもので農業をされている方にとっては珍しい話ではありません。しかしこの時おこなった天地返しはの規模は桁違いです。なにせ、2~3メートル積もった焼き砂を掘り下げ、田畑の土を掘り起こし、空いた穴に焼き砂を捨てるという方法ですから、労力も時間も桁違いでした。ですがこれにより焼き砂の処理場所を確保しつつ、農地を復活させるという一石二鳥の効果を得ることが出来ました。田畑回復の手段は出来ましたが、やはり深刻だったのは食糧問題です。幕府が支援した食糧は常に遅く、そして少なすぎました。復興資金も48万両も救恤金が集められたのも関わらず、実際に駿東・足柄の被災地に使われた額は16万両にしか過ぎませんでしたから、食糧も資金も乏しいのは当然です。「砂よけは重労働であるため、米を1日三合は供給するべき」と、忠順は進言していましたが、幕府の支援量ではどうにか1日一合が限界でした。これではとても天地返しの労働をおこなうことは難しく、作業は遅々として進みません。忠順は現地視察先で村人が饗応のため、なけなしの食糧を差し出しても食べることはなく、村人達と同じ薄い糊のようになった冷たい粥しか口にしなかったと言われています。さらに被災者の心身の荒廃が深刻な影を落としはじめていました。先の見えない復興にあきらめの気持ちが芽生えてきたのです。土地を捨て被災地に一番近い都市、駿府(現在の静岡市)へ逃げる者も多発します。ですが世は無常で、道中餓死せず(たどり着けず餓死する者も多かったようです)駿府にたどり着いても、被災者と言うだけで足元を見られ、多くの者は低賃金で重労働がまっていました。危機的状況と見た忠順は、ここでも思い切った荒療治をとります。それは今まで「お救い米」として農民達に無条件で配っていた食糧を廃止し、労働に対する賃金という方法にします。いわば復興資金を使った被災地住民の総雇用です。細かい考え方ですが、「農地を回復させる間、食い扶持を保証してやる」のではなく、「農地を回復するのが仕事。きちんと働くなら賃金を払う」とすることで自立再建に向けた意識を住民が持つよう工夫したのです。この辺の逸話は、島原大変肥後迷惑後の島原藩の行動と重なる部分があって興味深いなと思います。方針転換は徐々に実を結び、農民たちは少しずつ労働意欲を取り戻して行くことになります。また忠順は、村を捨てた住民達にも目を向けています。この時代は後の田沼時代のような、人口が増え農村であぶれた者達が大挙して都会を目指す時代ではありません。本来なら領地から農民が逃亡するなど、領主失格を領民側から突きつけられる不名誉な話です。ですが、生きるために土地を捨てざるをえなかった農民達の苦悩を、技術官僚として彼らに接することの多かった忠順は理解していたのでしょう。異例の要請を駿府三官(天領である駿府は、駿府城代、駿府町奉行、駿府代官の3つの権力に分散統治される方針を取っていました)に対しておこなっています。それは「被災住民にまともな職を斡旋してほしい。また被災者を食い物にする悪徳業者を規制し処罰する旨を布告してほしい」というものでした。格式が上の関東郡代からの異例な要請に、駿府三官は驚嘆したと言われています。この件に関しては駿府代官能勢権兵衛は、積極的に被災者問題に関わっていくことになります。しかしいかに忠順が奮戦しても、彼は金のなる木は持っていません。乏しい復興資金は徐々に被災地に暗い影を落とし、伊奈忠順に最後の決断を強いることになります。・・・ホント小説みたいに手を広げた話になってしまったなぁと、思いつつ、次回に続きます。はい。
2011.04.07
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最近、なにやら小説っぽくなってきたブログです(苦笑)。亡所の決定は、被災地駿東郡の農民達を絶望の淵に追い立てるものでした。亡所となった以上、もはや食糧支援はなく、土地を捨てるか、餓死するか、二つに一つの道しかない状況になりました。この状況を覆すべく1人奮戦したのは、関東郡代伊奈忠順です。彼は幕府要人に亡所の取り消しと、食糧支援を得るべく幕閣に粘り強く交渉をしていました。しかしこの時、彼を今まで応援していた大老柳沢吉保(忠順の正室が吉保の側近で、大目付折井正辰の娘であったことが縁で、親交がありました)はこの時政界から引退が決まっており力になることは出来ませんでした。余談ですが柳沢吉保というと、時代劇(特に「水戸黄門」や「忠臣蔵」)では五代将軍徳川綱吉と一緒に悪役として描かれることが多いですが、実際には個性の強い有能な政治家で、徳川家宣からも高く評価されていました(家宣のブレーンたる新井白石からは嫌われていました)。彼が引退したのは綱吉が死んで失脚したのではなく、持病の中風が悪化して政務を執れなくなりつつあったからです。吉保同様忠順を応援していた老中土屋政直も、政直は新井白石から柳沢派と見なされ、吉保の引退と同時に連署を免ぜられて実権を失っており、被災地の旧領主である小田原藩主、老中大久保忠増も、被災地を気を掛けていたものの、「積極的な救済をしろ」と意見できず(そんな発言すれば、「おまえが放り出した領地だろ」と言われて面目を失ってしまうため)、他の要人の反応は冷ややかで忠順に賛同する者はいませんでした。さらにこの時、江戸では重大な出来事が進行していしまた。それは江戸城の改修です。このプランを立ち上げたのは、新将軍徳川家宣でした。彼がなぜそのような決定をしたかというと、江戸もまた広い意味で被災地であったからです。2センチ以上の降灰に見舞われた江戸は、飲料水の確保や焼き砂の処理(もちろん駿東郡などとは比較になりません量ですが)に苦慮します。さらに火山灰は江戸市民に呼吸器系の病気(喘息、肺炎等)を蔓延させ死者も出てました。加えて宝永地震の被害も色濃く残っており、経済活動は低迷し人心の動揺が激しかったのです。この事態を深刻に受け止めた家宣は、江戸の町に大規模な公共事業を実施することで、動揺を鎮めて経済を刺激しようと考えたのです。この方針は成功し、江戸は平静を取り戻し、都市機能の大半は回復しました(呼吸器系の病気は変わらずでしたが・・・)。さらに綱吉時代に制定され、悪評高い「生類憐れみの令」廃止を断行したこともあって、江戸市民からは喝采をもって迎えられたと伝えられています。興された公共事業の予算は17万両、この時の資金の出所が富士の救恤金であったことを、家宣が知り愕然とするのはまだ先の話です。こんな中、伊奈忠順はようやく新政権内に、交渉の糸口をつかんでいました。相手は新井白石です(会見をセッティングしたのは柳沢吉保のブレーンだった儒学者荻生徂徠。彼はかの赤穂浪士の切腹を主張した人物で、小説などでは吉保の「御用学者」と、悪役で描かれることが多いです。白石とは政敵同士ですが、儒学者同士だったことから親交がありました)。新政権の中での新井白石の立場は将軍侍講(将軍の家庭教師と言えばわかりやすいですかね)というもので、要職についているわけではありません。しかし将軍家宣、側用人間部詮房の信任厚く、いわば政策ブレーンとして大きな影響力をもっていました。2人の会見は宝永噴火の約2年後、宝永6(1709)年の暮れ頃だったようです。当初、白石は忠順に偏見を強く持っていたと言われています。彼を血縁関係から柳沢派と見なしていた点、そして「老中達は世に言うところ大名の子であって、先祖は武功があったかもしれないが、その末になるとただ先祖が偉かったと自慢するしか能が無く、学問もなく世情も疎い(『折りたく柴の記』より)」という考えの持ち主だったからでしょう。白石の目から見れば、老中ではありませんが、忠順もまた先祖の武功を誇るだけの輩だったのです。もし彼がただ被災地の窮状を訴え、食糧や資金の支援を主張するだけなら、「勘定奉行のところへ行きなされ」とそっぽを向く気でいたようです。しかし忠順がまず差し出したのは一冊の報告書でした。「困窮者調べ」と書かれたそれは以下のような事が書いてありました。「萩原村名主 次左衛門 組頭 新之丞 人数 三百七十三人 内訳 百四十二人 他所へ罷出候者又は餓死人 二十四人 吟味の上余人 弐百七人 餓人」それは亡所とされた駿東郡59ヶ村の詳細な現状報告でした。上は萩原村だけの記述ですが、これが59も連なったものです。忠順は会見前、最新の被災地状況をまとめ、一気に斬り込んできたわけです。読んだ白石は蒼白になったと言われています。萩原村の部分だけですが、村人373人中、村を捨てた者もしくは餓死者142人、なんとか自活できる者24人、飢え死にしそうな者207人。噴火後2年で村人の約4割が餓死するか村を捨て、さらに5割以上の村人が餓死しかっている訳ですから、凄惨さに目を覆いたくなったのでしょう。他にも積もった火山灰の量、農地の回復状況の報告書も差し出しました。忠順は、白石が報告書に目を通してから、はじめて亡所の取り消しと食糧支援を要請します。さらに再試算した支援額の見積もりを提示します。その額は17万両。それだけの支援がなければ駿東郡の農民は死に絶えると告げたのでした。白石は逃げ口上をせず、あっさり側用人間部詮房に言上することを約束しました。この時彼の脳裏には、家宣が江戸の公共事業で使った17万両が頭をよぎっていたかのかも知れません。白石は約束を守りますが、壁は厚いものでした。「亡所の取り消しは時期尚早」として逃げられ、支援額も2万両を捻出するという半端なものに終わりました。すでに48万両もの救恤金は一般予算に組み入れられて消化されており、もはや存在しないものだったのです。次回の話からいよいよ伊奈忠順が被災地入りします。
2011.04.06
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「神様、仏様、伊奈様」この言葉は御厨地方に古くから住んでいる方なら、ほとんどの方がご存じの有名な言葉です。意味は宝永大噴火のブログが、最終章まで終わる頃にはご理解いただけることかと思います。幕府から災害復興の責任者、砂除川浚奉行に任命された伊奈半左衛門忠順ですが、現地入りするのは宝永大噴火の約1年半後の宝永6(1709)年5月になってからとなります(彼を描いた小説として、故新田次郎氏の名著『怒る富士』があります。小説では噴火後すぐに現地入りしていますがあくまでもフィクションです。内容も史実とはかなり異なりますが、被災地の悲惨な状況と忠順の苦悩をリアルに描いているため、火山災害の凄まじさを理解するのは良書です)。「遅すぎる!」とお思いになる方もいるかと思いますが、彼は砂除川浚奉行専任ではなく、関東郡代という天領全般を預かる職務もこなさねばなりませんでした。さらに宝永大噴火前に起きた宝永地震(1707年10月)の復興業務も抱えていたため、早急に現地入りができなかったのはやむを得ない話だったでしょう。しかし彼は富士山麓の被災地が天領となるや、すぐさま腹心の部下を送って詳しく調査させています。忠順は富士山噴火の1月以内、つまり宝永4(1707)年の内に、被災地の現状を的確に把握し、災害復興に向けた意見書を幕府に提出していますから、かなりの能吏だったことがうかがえます。彼の意見書の要点は以下の通りです。・被災地は小田原藩が配った食糧は春には尽きる。至急食糧支援をする必要がある。・焼き砂が厚く積もり耕作ができない。復興は焼き砂を除去するところからはじめなければならない。また耕地可能になるまでの農民達の食糧は、幕府が与えねばならない。・酒匂川は梅雨になれば焼き砂が流れ込んで、土砂崩れを起こす可能性がある。至急堤防を強化する必要がある。・住民の生活保障、工事費用には最低45万両が必要。忠順の意見に対して、幕府は大筋でその案を了承します。ただし幕府の財政事情は悪く、45万両もの大金を工面することができないため、諸大名・旗本から禄高100石に付き2両という高額の臨時増税をして集めることが決められ、総額48万両もの大金が集められました。この決定に諸大名・旗本衆は渋面ですが(臨時増税を揶揄して、「富士の根の 私領御領に 灰ふりて 今は二両ぞ かかる国々」と詠われています)、忠順は安堵したろうと思います。しかしここで3つの凶報から、復興策は暗礁に乗り上げます。まず酒匂川堤普請に、江戸のゼネコン和泉屋半四郎と冬木屋善太郎が選ばれたことです。忠順は堤普請には、実情を理解している現地の業者を使うべき、それが田畑を失った農民達の収入にもなると意見していましたが、完全に無視されました。双方とも堤防工事などおこなったことはなく、いわゆる救恤金ねらいでした。彼らが落札出来た理由も、幕府要人との癒着が背景にありました。この頃から官民の癒着、汚職は深刻な弊害があったことを物語っていますね。本来の見積もりの倍以上で落札した両者は、現地労働者を低賃金で雇い手抜き工事をし、必要経費は御手伝諸藩(津藩藤堂家27万石、浜松藩松平家7万石など)に被せるという不正のオンパレードをすることになります。完成した堤は、忠順の危惧通り梅雨になるやひと支えもできずに決壊し、大勢の人命を飲み込んで酒匂川下流へと土石流被害を拡大させていくことになります。「富士山の砂の難にかかりし相州酒匂川入は、人民お救いとして砂除け、砂浚い、郷村田地のための御普請ありしに、諸侯大夫に命令下り、その国その領の人民を費やし集め、夥しき金を出して、曾てその験なし。金空しく商客の有となりて、こ慈愛の御心、民中へ届かざる事口惜しけれ」とは忠順の死後、酒匂川堤改修をおこなった施政家田中休愚の言です。堤普請は、被災地住民を助けるどころか、江戸のゼネコンを太らせるだけで終わりました。酒匂川はの土石流は、噴火後約70年にわたって足柄地方を苦しめ続けることになります。次の凶報は、将軍徳川綱吉の死(宝永6(1709)2月19日(旧暦1月10日)でした。これにより忠順の意見を大筋で承認した復興案は白紙に戻されます。さらに驚くべき事は、次の六代将軍徳川家宣(綱吉の養子で、叔父甥の関係)に、宝永大噴火の復興計画が引き継ぎされなかったことです。政権交代時の常として、政策や事業が見直しされることがあるのは、昔も今も変わりません。家宣は綱吉の政策で問題があるものは変更していくことを表明しており、幕府要人は事が落ち着くまで、不用意なことを言うまいと保身に走り始めたのです。中興の名君として現代では名高い家宣ですが(彼の治世は正徳の治と呼ばれる安定期の一つです)、彼に被災地の正確な情報が届けられるのは、将軍就任より2年以上後の話になります。そして最大の凶報は、将軍交代のどさくさに紛れて決定しました。被災地の内、被害の甚大な駿東郡59ヶ村を亡所とするというものです。亡所とは、その土地の所有を放棄するという意味です。納税の義務を負いませんが保護される権利もありません。「住みたければ勝手にしろ。年貢を払はなくていいが、支援など求めるな。自分の力だけで生きていけ」と言うわけです。被災地への食糧支援は停止され、焼き砂に覆われた数万の農民達は事実上見捨てられました。これ以降、被災地駿東郡は深刻な飢餓に覆われていくことになります。そして伊奈忠順もまた、「幕府の命令は絶対」「代官の責務は領民を護ること」という2つの責務の狭間で苦渋の決断をしていくことになります。・・・と、なにやら小説のような様相になってきていますね(汗)。
2011.04.05
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今日はガンダムとの写真です。・・・本文に入ります。宝永大噴火が収束すると、避難していた駿東郡(ここで言う駿東郡は当時の領域です。現在の駿東郡は村が3つぐらいのエリアですが、当時は現在の御殿場市をはじめとする御厨地方が含まれています)、足柄上郡の村人達は次々と村に戻ってきます。しかしそこで待っていたのは、想像を絶する光景でした。「御殿場、二橋、深津、西田中、六十町の用水砂に埋り水なし、仁杉村百姓家軒まだ降積り、家の内一面砂押込、家二三軒潰る。水上新田百姓家屋屋根計り少し見る、須走村高札場砂にて埋まり、札覆の屋根計り少し見る、浅間神社鳥居半分過砂にて埋り見へず、拝殿は屋根計り少し見へ、御本社軒際まで埋まる」とは『大久保家記』の記述です。一面焼き砂(火山灰)で埋め尽くされた村の状況が目に浮かびます。須走村では3メートルあまり、他の駿東郡の村々は1~2メートル位も覆い尽くされていました。江戸ですら2~10センチの灰が積もった訳ですから、駿東郡の被害は推して知るべしだったでしょう。被災地は家は潰れ、田畑も埋まり、井戸も涸れて食糧も無く、たちまち飢餓に直面しました。この事態に小田原藩の反応は鈍いものでした。というよりすでに手も足も出ない状況でした。元禄大地震(元禄16(1703)年)と宝永地震(宝永4(1707)年)の対策で力を使い果たしていたのです。小田原藩主で老中だった大久保忠増は、家宝の宝刀を担保にして1万石の米をかき集めて被災地に配りますがそれが限界でした。被災地の5万を超す農民達を養うのはあまりのも少ない量でした。さらに、富士の焼け砂は、小田原藩の所領11万3千石の内、約6万石分の所領を破壊し尽くしていました。小田原藩の経済は完全に壊滅したといっても過言ではありません。財政が破綻した小田原藩は、復興策をたてることが出来ず、最初に配った米以上の援助岳で限界でした。そして不安に駆られた足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村が幕府に直訴する構えをみせたことで、自力復興を断念しました。小田原藩は足柄上郡と駿東郡の領地返上を幕府に願い出ます。幕府はこれを聞き入れ、小田原藩に代替地を与え、足柄上郡と駿東郡を天領(徳川幕府直轄領)とします。そして復興のため、関東郡代伊奈半左衛門忠順を災害復興の責任者たる砂除川浚奉行(すなよけかわざらいぶぎょう)に任命します。ここで話がずれますが、関東郡代職と伊奈氏について簡単に書きたいと思います。伊奈氏は徳川氏三河以来の譜代家臣となります。武辺者が多い三河武士の中で、伊奈氏は官僚的な職務や兵站業務での功績が多かった家柄で、この手の後方業務の重要性を正しく認識していた江戸幕府初代将軍徳川家康から大切にされた家臣でした。江戸幕府成立後は、伊奈氏は天領の内、関八州約30~40万石の行政・裁判・年貢徴収などを取り仕切り、警察権も得た事実上の天領の支配者である代官職、関東郡代という地位を世襲します。三河以来の譜代家臣、そして天領の実質的な管理を行う伊奈氏の関東郡代は、他の代官とは格が違い、官位・地位こそ高くないものの、将軍家も幕閣も一目置く存在でした。収入面でも、旗本としての禄高は1千石程度と、旗本(徳川将軍家直属家臣)の中でも特に高いものではありませんが、関東郡代の役料(役職手当)4千石、さらに管理する天領の内、新田開発分の1割が関東郡代の取り分になっていたため、30万石クラスの大名よりも裕福だったと言われています(これは出費の多い参勤交代がある諸大名に対して、旗本である伊奈氏は参勤交代がなかったためもあります)。こうすると、「勝ち組」(古い表現かな?)かと思われるかも知れませんが、職務は大変なものでした。なにせ幕府直轄領の年貢を徴収する以上、期日までに幕府の倉に年貢が納められなければ、伊奈氏は、お役怠慢で取りつぶしの憂き目を見ます。それは年貢の徴収から輸送計画、道路や橋、港の管理にいたるすべての責任を、伊奈氏が負っていました。そのため一端災害や事故が起きれば現地視察に工事の手配、すべて迅速にしなければなりません。それらはすべて関東郡代の自腹であったことを考えると、高い収入は必要経費代わりとして認められていたものだとわかります。そういう事情もあり、歴代伊奈氏当主は、ゆっくり陣屋で書類仕事をするより、現地視察や橋の建設、土地の測量などに飛び回っていることが多く、技術官僚としての色彩が濃かったことがうかがえます。有名な伊奈氏の事業は、・利根川の東遷事業・・・家康の江戸入り時は、今の中川あたりから東京湾に流れ込んでいた利根川を、現在の千葉県銚子市と茨城県神栖市の境を通るようにしました。これは坂東太郎の異名を持つ暴れ川利根川の洪水から江戸を護り、東北・北関東の物流を円滑にするためです。初代伊奈忠次から三代60年にわたる大事業でした。・清水港(現在の静岡県静岡市)の拡張工事・・・江戸と近畿地方を結び、また甲斐(現在の山梨県)や信濃(現在の長野県)の天領からの物流も統制する拠点として、家康が大御所として駿府に隠居したあと整備されました。があげられます。またこれから話の中心になっていく伊奈忠順は関東郡代7代目に当たり、隅田川にかかる永代橋の架橋や、当時は人のほとんど住んでいない湿地帯だった深川(現在の東京都江東区)の埋め立て事業に功績をたてています。このような実務官僚だったからこそ、災害復興の責任者に任命されたのです。宝永噴火時(宝永4(1707)年)、伊奈忠順は40歳位(生年不明のため正確な年齢は不明です)、彼にとっても壮絶な闘いが始まることになります。・・・と伊奈氏と関東郡代の説明書いていたら、字数が多くなっちゃいました(汗)。重い話は次回からとなります(多汗)。
2011.04.04
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いよいよ富士山噴火のクライマックス、宝永大噴火の話に入っていきたいと思います。しかし今回は前段階の大災害からお話しする必要があります。それは地震です。まず時代は江戸時代、「生類憐れみの令」で有名な第五代徳川綱吉の治世です。徳川幕府の支配体制は揺るぎないものとなり安定期を迎えていました。そんな宝永4(1707)年10月28日(旧暦10月4日)、宝永地震と呼ばれる巨大地震が発生します。この地震は、よく地震特集の番組などで盛んに21世紀中に起こる可能性が高いと言われ続けている東海・南海・東南海連動型地震でした(100年から150年周期で発生しています)。 連動型地震と言っても、数日もしくは3年ぐらいの時間差がある場合が多いのですが、この宝永地震は、東海地震の震源地である駿河湾、東南海地震の震源地である紀伊半島沖から遠州灘にかけての海域、南海地震の震源地紀伊半島の熊野灘沖から四国南方沖の3カ所でほぼ同時に発生したと考えられています。マグニチュードは8.4~8.7と言われており、東日本大震災が起きるまでは、日本最大規模の巨大広域地震でした。津波は伊豆半島から九州までの太平洋岸一帯を襲い(最大は土佐(現在の高知県)を襲った約8メートル)、地震の被害は、関東から九州までの太平洋沿岸はもとより、越前(現在の福井県)、信濃(長野県)、出雲(現在の島根県)にまで達する凄まじいものでした。倒壊家屋6万戸、流出家屋2万戸、死者2万名を越す大災害でした。地震の起きた場所こそ違え、東日本大震災を彷彿とさせてしまいます。この宝永地震は、人的・経済的な被害はとても甚大で、幕府も諸大名も財政状態は芳しくなかったこともあり、多額の復興資金の捻出に苦慮することになります。富士山の南側に位置する足柄上郡・下郡(相模国。現在の神奈川県)と駿東郡(駿河国。現在の静岡県)に領地を持つ小田原藩(大久保家11万3千石)も例外ではありませんでした。小田原藩にとって「弱り目に祟り目」だったのは、4年前の元禄大地震(元禄16(1703)年。マグニチュードは8.1。震源地は千葉県野島崎と思われています)の痛手から回復しておらず、二重の災害復興に文字通り体力を使い果たしてしまいました。この宝永地震だけでも日本は未曾有の大災害であったわけですが、ここに追い打ちをかける災害が襲いかかります。言うまでもなく富士山の大噴火でした。宝永4(1707)年12月16日(旧暦11月23日)午前10~12時頃、富士山南東側斜面5合目付近に亀裂が発生し(宝永火口)、そこから爆発的噴火が始まりました。49日前の宝永地震が、富士山宝永大噴火の引き金であったことはまず間違いないでしょう。実際宝永地震の後も、上記の足柄上郡・下郡と駿東郡を中心に、小田原、遠く江戸に至る地域では、余震が頻繁に続いていました。富士山麓の地震は、マグマの上昇に伴う火山性地震であったと考えられています。 この時の爆発の衝撃がいかに激しかったかというと、噴火と同時に発生した空振(火山の噴火などに伴って発生する空気の振動。簡単に言えば衝撃波です。大きい場合は窓ガラスは簡単に割れ、瓦も吹き飛びますし、数百キロ離れたところでも爆発音が聞こえます)が、江戸や下伊那(長野県南部)でも観測されている点です。この時点で噴火を知らない江戸市民は聞き慣れない爆発音に怯えきったと言われています。富士山山麓の駿東郡などでは、焼き砂(火山灰)、焼き石(火山弾、火山礫)が絶え間なく降り注ぎ、火災が発生します。噴火は昼過ぎに一端収まりますが、同日夕方再び大規模な噴火を起こします。これをみて、今まで避難をためらっていた村人は大挙して脱出を始めました。特に甲斐国(現在の山梨県)忍野村の村人達は、夜の暗闇の中三度にわたって避難し、富士吉田付近にまで逃げています。翌日には小田原、江戸でも降灰が始まり、小田原では少数の留守番だけを残して、大部分が東海道を北東へ、江戸に向かって避難をはじめたと言われています。この噴火の状況を江戸で目撃していた新井白石は、自叙伝『折りたく柴の記』にこう記しています。「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす。西城に参りつきしにおよびては、白灰地を埋みて、草木もまた皆白くなりける。・・・やがて御前に参るに天甚だ暗かりければ、燭を挙て講に侍る(地震があり、雷鳴のようなものが聞こえた。家の外に出ると、まるで雪が降っているようであった。よく見てみるとそれは灰だった。西南の方を見てみると、真っ黒な雲があって雷が光るのが見えた。白い灰が地を覆って、草木も白くなった。・・・綱豊様(後の六代将軍徳川家宣)の所に参上したが、昼なのにとても暗かったため、燭台にあかりともして講義をしなければならなかった)」という意味になります。また白い灰と白い軽石が降ったのは初日だけで、その後は黒い灰と黒い軽石が降ったという記録も残しています。富士山の噴火は16日間にわたって続きました。この時の噴火の特徴は、溶岩流の噴出を伴わなかったことです。正確に言えば、上昇してきたマグマは爆発して粉々となり、火山礫・火山灰となって表に現れ、噴煙となって降り注いだことです。なぜ爆発的な噴火であったと断言出来るかは、最初に白い灰や軽石が降り、そのあとに黒い灰と軽石が降ったという新井白石の記録、被災地の記録などからです。火山堆積物の灰や軽石が白っぽい場合ですが、これは爆発の勢いで氷点下70度ぐらいの成層圏まで打ち上げられた軽石が、そこで急速に冷やされた場合になる傾向があります。黒い灰や軽石の場合は、成層圏まで達せず、もう少し時間を掛けて冷やされた場合になる傾向があるのです。実際宝永噴火の火山灰層は、下が白で上が黒になっています。史料にある順番と実際の地層の状況は一致しています。こうして16日間に及んだ宝永大噴火は、1708年1月1日(旧暦だと宝永4年12月9日)に終わりました。この時点での被災地の犠牲者はほとんどありませんでした。しかし真の災害はここから始まります。・・・次回からとっても重い話になっていきます。それにしても位置こそ今回の震災とは違いますが、北アメリカプレート沿いの地震の数年後に東海・南海・東南海連動型地震、富士山噴火が起きたというのは嫌な感じです・・・。
2011.04.03
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フルスロットルで書いている富士山がらみのブログですが、やっぱ書く時間が取れるっていいですね。なんだか目から水が止まりません(苦笑)。歴史史料で見ると、富士山の噴火記録は、大きな噴火を伝えているものは平安時代の延暦と貞観、江戸時代の宝永の3つしかありません。他にも信頼できる史料上、噴火は7つありますが、いずれも「噴火した」という程度の記録しか無く、大きな噴火はなかったのだと思われます。富士山は、鹿児島県の桜島火山のように、毎日噴煙を上げる火山ではないので、少しでも大きな噴火があれば記録は残されているようです。しかし被害がなかった場合などは、素っ気ない記述で終わってしまうのは、仕方ないのかも知れません。ですが、史料はなくても、富士山の動向を残したものがあります。それは和歌や文学作品です。富士山噴火史第4弾は国文学、古典文学の世界から見る富士山の話しです。「ふじのねの たえぬ思ひを するからに 常磐に燃る 身とぞ成るの」この歌を詠んだのは飛鳥時代の歌人柿本人麻呂(660年頃-720年頃)です。記録に残る限り、この歌が富士山を詠んだ最古の歌であり、最古の「記述」となります。残念ながら彼がいつ頃この歌を詠んだか定かではありませんが、仮に700年頃とすると、延暦噴火の100年前の事となります。富士山のことだけ注目してみると、人麻呂がみた富士山は、噴煙を上げている山だったことがわかります。また人麻呂と同時期、もしくはひと世代後の歌人高橋虫麻呂(生没年不明)は、「不尽(富士)山を詠む歌一首」と題した長歌を詠んでおり、『万葉集』におさめられています。「なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲(あまくも)も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の つつめる海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」歌の意味はさておきまして(ヲイ)、虫麻呂の歌には、富士山の場所(甲斐国と駿河国の間にある点など)や富士の見たままの情景(飛ぶ鳥も越えられない、雲を突きぬけた山であるなど)をきれいに歌っています。また虫麻呂の歌でも、「燃ゆる火」すなわち火山活動が盛んだったことがわかります。『万葉集』には他にも富士山の噴火を記した歌は出てきます。「吾妹子に 逢ふ縁を無み 駿河なる 不尽の高嶺の 燃えつつかあらむ」「妹が名も 吾が名も立てば 惜しみこそ 布士の高嶺の 燃えつつ渡れ」これらは東歌、防人の歌などに類する歌のため作者も年代も不明です。そのためもしかしたら人麻呂の歌より古い可能性もあります。二首とも恋人や妻への思いを、富士山とそこから上がる火柱になぞらえたいわばラブレターです。恋人達の熱い思いを表すのに燃え上がる富士山はうってつけの素材だった訳です。ということは、延暦の噴火の約150年前~約100年前の万葉時代(『万葉集』は西暦650年頃から750年ぐらいまでの歌が集められています)の富士山は大規模な噴火こそ無いものの、山頂に活発な火山活動があったことがうかがえます。貞観大噴火以降の富士山を詠んだものにも、富士山の様子がわかる歌は多くあります。「けぶり立つ 富士のおもひの 争いて よだけき恋を するがへぞ行く」と詠ったのは平安末期鎌倉初期の人物西行法師(1118~1190年)です。詠んだ時期は不明ですが、12世紀後半の晩年に近い頃の作だと思われます。貞観の大噴火からすでに300年近く経っていますが、まだ噴煙上がる富士山の様子が伝わってきます。次は文学作品を見てみたいと思います。学問の神様菅原道真の子孫である菅原孝標女が、13歳頃から晩年までの半生をまとめた回想録である『更級日記』には興味深い内容が載っています。書き始めの13歳(寛仁4年(1020年頃)の時、ちょうど彼女の父菅原孝標が上総(現在の千葉県北部・茨城県南部)での任官を終えて都へ帰る際、駿河国(現在の静岡県)で見た富士山の様子をこう描いています。「富士の山はこの国なり。我が生ひ出でし国にては西おもてにみえし山なり。その山のさま、いと世に見えざるなり。さまことなる山の姿の、紺青に塗りたるやうなるに、雪の消える世もなくつもりたれば、色濃き衣に、白き衵着たらむやうに見えて、山のいただきの少し平らぎたるより、けぶりは立ちのぼる。夕暮は火の燃えたつも見ゆ」「富士山はこの駿河の国にある山で、私の育った上総の国では西側に見えた山だ。その山の様子は、この世のものと思えない姿だ。一風変わった山容で、紺青色を塗ったようなところに、雪が消える時もなく積もっているので、濃い紫の衣の上に白い衵(短い衣で膚着と上着の間に着たもの)を着ているように見えて、山の頂上の少し平になっている所から、煙が立ちのぼっている。夕暮は火が燃え立つのも見える」という意味になるでしょうか。彼女が見た「夕暮は火の燃えたつ」は、噴火ではなく、恐らく火映現象だったと思われます(上の万葉集の歌や人麻呂、虫麻呂の歌の時もそうでしょうね)。火映現象とは、火口のマグマや火山ガスの火炎などが、噴煙等に反射して火口の上が赤く照らし出される現象のことです。現在の日本では、浅間山や阿蘇山によく見られます。噴火ではないのですが、高温ガスが吹き出していて危険なため、火映現象が起きている時の火山は、夜間は専門家以外は立ち入りが制限されます。なぜ火山噴火でないと判断できるかと言えば、噴火時にありがちな降灰や鳴動の記載がありません。彼女の文章の書き方、鋭い観察力からすれば、もし灰や揺れがあればそのことも書いていたよう思われるからです。またもう一点、忘れてはいけない文学は『竹取物語』です。内容については有名すぎるので大きく触れませんが、物語のラストを簡単に書けばこういう感じだったと思います。「かぐや姫が月に帰ってしまったあと、落胆した帝は、彼女が残した不老長寿の霊薬を「天に近き山」で焼くように命じます。不老長寿の霊薬もかぐや姫がいなければ帝にとって価値のあるものではなかったわけです。こうして駿河国にある山がふさわしいと言うことで、命を受けた武士(つわもの)らが大勢山へ登り、山頂で霊薬を並べて燃やされます。その煙はいつまでも尽きず雲を突き抜けて天に昇っていきました」さらに駿河国の山は、武士たちが大勢登ったことから「士に富む山」、「富士山になった」という富士山銘々秘話もついてきます。ここで注目すべきは、霊薬を燃やした煙がその後も尽きずに上り続けたという部分です。察しの良い方はもうおわかりかと思いますが、これは物語が書かれた時の富士山の噴煙活動が巧みに取り入れたオチであったという点です。これがもし現在の噴煙一つ上がっていない今の富士山でしたら、「天に一番近い高い山で燃やしました。終わり」という今ひとつしまらないラストになっていたのではないでしょうか。火山活動があったからこそ、「帝のかぐや姫への思いと共に、今日も富士山は煙を上げている」という情緒あるラストに仕上がっているわけです。『竹取物語』も惜しむらくは成立年が不明な点ですが(作者も不明です)、恐らく10世紀頃と言われています。『更級日記』より若干時代が古いか、同年代ぐらいという感じでしょうか。今回は富士山の噴火という視点からみた古典文学ですが、かつて授業でやった(やらされた)ものの中に、意外な事実が含まれているものがあるなと感じます。こう考えると、文学作品の中にある記載は馬鹿に出来ません(ある程度創作や大げさに書かれている可能性はありますが)。時には色々アンテナをのばしながら、古典文学読んでみるのもいい刺激になりそうです。それではまた。
2011.04.02
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さて今日はお仕事でした。・・・て、嬉しそうに書かなきゃいけないなんて、何か切ないです(涙)。 また例によって写真は、陸軍五式戦闘機と写ってますが、気にせんとくださいませ。富士山噴火史第三弾です。延暦の噴火から62年後の貞観6(864)年、富士山は再度の大噴火をします。いわゆる貞観の大噴火です。貞観の大噴火は、噴火場所も特定できていない延暦の噴火とは異なり、富士山のどの側火山(ちなみに富士山は60個の側火山を持っています)が噴火したかもわかっています。また大噴火の痕跡を目に見える形で今も残しています。まずは噴火した場所から書きますと、富士山北西斜面にある長尾山からです。貞観6(864)年5月25日(現在の暦だと7月2日)、駿河国(現在の静岡県)から急報が都に届けられています。「富士郡正三位浅間大神大山火、其勢甚熾、焼山方一二許里。光炎高二十許丈、大有声如雷、地震三度。歴十余日、火猶不滅。焦岩崩嶺、沙石如雨、煙雲鬱蒸、人不得近。大山西北、有本栖水海、所焼岩石、流埋海中、遠三十許里、広三四許里、高二三許丈。火焔遂属甲斐国堺」(平安時代の史書「日本三代実録」より)要約すれば、「10数日前から富士山が噴火し、溶岩流は7、8キロメートルを焼き払いながら、本栖湖に流入した。これは甲斐国(現在の山梨県)側で起きている災害である」となるかと思います。しかし災害当事国である甲斐国からの報告は遅く、駿河国の急報から2ヶ月後の貞観6(864)年7月17日(現在の暦だと8月22日)になってからです。これは甲斐国の国司や役人達が、職務をいい加減にしていたわけではありません。噴火はおよそ2ヶ月に及び、拡大していく被害の対策に追われて報告する暇が無かったためだったと思われます。甲斐国からの報告は以下の通りです。「駿河国富士大山、忽有暴火、焼砕崗巒、草木焦殺。土鑠石流、埋八代郡本栖并?両水海。水熱如湯、魚鼈皆死。百姓居宅、与海共埋、或有宅無人、其数難記。両海以東、亦有水海、名曰河口海;火焔赴向河口海、本栖、?等海。未焼埋之前、地大震動、雷電暴雨、雲霧晦冥、山野難弁、然後有此災異焉」(こちらも「日本三代実録」より)「膨大な量の溶岩流が山野を焼き尽くしながら流下し、本栖湖と?の海(せのうみ)に流れ込んで熱湯に変え魚を死滅させ、多くの農家を埋没させた。溶岩が本栖湖と?の海に流れ込む前激しい地震と豪雨に見舞われ、周囲は深い煙霧に覆われて山野の区別も出来なかった」という意味になるかと思います。人的被害には触れていませんが、かなり大規模な噴火であったことがうかがえます。ここで?の海(せのうみ)という聞き慣れない名前が出てきますが、これは当時富士山北側にあった湖の名前です。当時富士山北側には、本栖湖、?の海、河口湖、山中湖の4つの湖が存在していました。?の海は淡水湖ですが、かなり大きな湖だったようで、琵琶湖と同様に海にたとえられていたようです。また有史以前、3000年ぐらい前は本栖湖とも繋がっていたと思われています。貞観噴火の溶岩流は、本栖湖の一部と?の海の大部分を埋め尽くし焼き尽くして、消滅させてしまいました。特に?の海の方は現在の精進湖と西湖として生き残った部分を除いて完全に埋め立てられてしまいました。湖の面影はありません。かくして富士四湖は富士五湖に変わり、現在に至っています。そして溶岩で埋め立てられた?の海の跡地には、木々が多い茂り原生林が形成されます。これが青木ヶ原樹海です。よく「青木ヶ原樹海では方位磁針が効かない」という俗説がありますが、これは溶岩流に磁鉄鉱が多く含まれていることから生まれてものと思われます。もちろん方位磁針が狂うほどの磁力はありませんから大丈夫です。つまり今も見る事の出来る貞観噴火の痕跡とは、富士五湖(本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖)と、青木ヶ原樹海の二つです。山梨県で人気の観光スポットである富士五湖と青木ヶ原樹海(森林浴などで人気があります。別段稲川〇二さんの専売特許の場所というわけではありません・笑)ですが、まさか1200年前の貞観噴火で出来たことは知らない方も多いのではと思います。私も何度か行ったことありますが(樹海は怪談系のネタを恐れる友人の圧力もあって素通りです。まぁ「君子危うきに近づかず」が一番ですが)、何度行っても素晴らし景色と自然です。火山は、人間も周囲の自然を容赦なく破壊する破壊神である一方、慈悲深き豊かな自然をもたらす神でもあります。温泉などは火山の恩恵としてメジャーなものですね。理屈はさておき、ここは富士五湖に行って火山が作り出した豊かな自然を満喫するというのも、正しい火山の認識をつけるには最適かなと思います。・・・あれ、微妙に話しがずれたような?
2011.04.01
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写真、富士山ではなく零戦写ってますが、気にしないでやってください。たまには違う写真をと思ったんですがなかったもんで(苦笑)。さて明日は強制休日なので夜更かしだぞーと開き直って、早速の更新、「富士山噴火史 2」です。富士山の噴火が古文書にはじめて出てくるのは、天応元(781)年の記述です。しかしこれは「富士山が噴火した」という程度のもので、被害の状況も、火山堆積物も不明でよくわかっていません。このことはいかに当時の朝廷が不破の関(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)より先の東国に関心がなかったかを示しているかと思います。富士山ではありませんが、浅間山も天仁元(1108)年に大規模な噴火を起こしますが(参考までに、江戸時代、天明3(1783)年に起きた有名な大噴火よりも規模が大きなものでした)、朝廷の関心は薄く、火山灰で大きな打撃を受けた上野国(現在の群馬県)など北関東諸国は、田畑を豪族達が私有地化して勢力を拡大させます。鎌倉時代、いわゆる武士の時代へと繋がる強力な武士団がなぜ東国に誕生したかは、この朝廷の東国軽視の風潮が延長線にある当然の帰結だったといえそうです。で、話を富士山に戻します。多少なりとも噴火の記録が出てくるものは、この約20年後、延暦19(800)年から延暦21(802)年までの噴火の記録となります。俗に言う延歴の大噴火です。史書の「日本紀略」には、「自去三月十四日迄四月十八日、富士山巓自焼、昼則烟気暗瞑、夜則火花照天、其声若雷、灰下如雨、山下川水皆紅色也」とあります。「延暦19(800)年の3月14日から4月18日までにかけて富士山が噴火し、昼は噴煙で薄暗く夜は火柱で明るく、火山噴火の轟音が鳴り響き、灰は雨のように降り、溶岩流が流れた」という内容になるかと思います(意訳が入っていますが、意味はそれほど間近っていないかと思います)。噴火活動はいったん収まりますが、この2年後の延暦21(802)年1月8日に再度、大きな噴火を起こします。「駿河国富士山、昼夜恒燎、砂礫如霰者、求之卜筮、占曰、于疫、宜令両国加鎮謝、及読経以攘災殃」「五月、甲戌、廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也」と、再び富士山が噴火したこと、噴火を沈めるための祈祷が行われたこと、相模国(現在の神奈川県)に至る東海道足柄路が閉鎖に追い込まれ、筥荷(箱根)路を新しい東海道として使用した話が「日本紀略」に記載されています。これは当時としてはかなりの大事件だったのは言うまでもありません。今回の震災でもそうですが、寸断された道路を回復させるのかがいかに重要で、また困難であるか、盛んに報道されています。道路が無ければ、食糧物資を運ぶことも出来ませんから、当然といえます。被災地で苦しんでいらっしゃる方々も、被災地でない人たちもそのことを深刻に考えて推移を見守っている訳です。ましてや、1200年前は ブルドーザーなどの土木機械や、電気も照明機材もない時代です。道路を作る(正確に言えば、箱根路は前から支道としてあったもののようで、この延歴の噴火を見て、急遽主要幹線道路にすべく拡張工事を行ったというのが正しいようです)ことが大変であったか、その苦労は現在よりも大きかったかと思います。残念ながら朝廷の関心事は、東海道の復旧のみに注がれていたため、被災住民に対して、どのような対策を講じたかについては記録がありません。また火山堆積物の情報も記載はありません。そのため、被災して田畑失った上に、賦役で箱根路の建設にかり出され、大勢の人々がたおれたのではないかという嫌な考えが頭をよぎってしまいます。東国に関心の薄い朝廷に、ここまで記録を残させた延歴の噴火ですが(日本史に大きなインパクトを与えたという意味では、この延暦の噴火が一番となります。イメージとしては、災害で東北太平洋側道路も鉄道も壊れたから、日本海側に迂回路を突貫工事で造って新幹線も高速道路も造ってしまうみたいな、かなりの労力と費用がかかった話しだと思います。実際この時の箱根路工事は数ヶ月で工事が完了しており、かなり強引な手法がとられた可能性があります)、地質学上の調査の結果、江戸時代宝永大噴火(宝永4(1704)年)の1/20程度の規模だったことがわかっています(そのため大噴火という表現はふさわしくないようです)。また火山堆積物は北側に集中しており、足柄路が火砕流や火山堆積物に襲われることもなかったようです。この噴火規模が小さい割に、一大土木プロジェクトを立ち上げたという事情は、矛盾があるため、整合性つけようとすると非常に頭を悩ませます。苦労して考えると以下の事情があったのでは? という感じになります。箱根路に関しては、当時陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)では蝦夷軍と官軍の激しい戦争が続いていました(かの有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍だった頃です)。東海道は都と陸奥を結ぶ重要な軍道であり、通行出来ないなどということは許されなかったという事が考えられます。新しい東海道筥荷(箱根)路は、戦争遂行のために必要な道路と位置づけられていたのは間違いないでしょう。そして実際には被害の出ていなかった足柄路については、火山堆積物が富士山北側であった点から、甲斐国(現在の山梨県)側で、大勢出たであろう被災住民の避難路として使用されたのではないかなと私は考えています。そう考えるとつじつまは合うんですけどね。どうでしょうか? この辺は私の頭を何年も悩ませて何とか思いついた仮定なので、何とも言えないのですけどね。もしそうだとしたら、被災住民への復興支援は、記録に残っていないだけで行われていたと言えるのですが・・・。
2011.03.30
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・・・近日中に噴火噴火したりはしないと思います。はい。日本のシンボルとも言うべき富士山の噴火史をまとめてみたいと思います。話が長くなるのは確実ですので(途中何度か別の話を書いたりするかと思います)、おつきあいのほどをお願いいたします。私事ですが、震災で仕事が強制休日となってしまうことが多くなりまして、執筆時間、好きなだけ取れそうじゃないかと、喜びのあまり目から水が止まらない感じです(意味不明)。被災地の方々の苦労を思えばたいしたことありませんが、まだまだ寒い時代は続きそうです・・・。と、気を取り直しまして、富士山は阿蘇山と異なり、有史上何度かの大噴火を起こしていますので、有史以前はさらっと通り過ぎて(出来れば有史以前は今回のブログだけで終わりにしたいと思っています)記録に残る噴火を中心に書きたいと思います。富士山の位置をプレートで言うと、北アメリカプレートとフィリピン海プレートがせめぎ合っている地点にあります。プレートがせめぎ合っている部分は地震や火山噴火の起きやすい地点となります。富士山が現在の位置にあるのは自然の気まぐれではなく、地盤が弱く、マグマが上昇しやすかった地点であったことが大きな理由だったと考えるのが自然なようです。この付近では、約40万年前から約10万年前まで、愛鷹山、箱根山、小御岳火山の活動が盛んでしたが、地盤のより弱い地点、小御岳火山と愛鷹山の中間あたりに古富士火山の活動が活発になると、マグマの主力は噴火しやすいそちらに移ったようで、活動は低迷していきます。そして今から1万年ぐらい前になると、小御岳火山と古富士火山の中間あたりが、今度は噴火のターゲットになっていきます。これが現在の富士山のベースとなる新富士火山です。これも度重なる噴火でその付近の地盤がもろくなったのと、古富士火山の地盤が逆に強くなってきたため、噴火地点が少しずれたのだと思われます。水が低いところを求めて、海や湖に下っていくように、マグマは、外に出やすいもろい地盤を目指して、上へ上へと目指すイメージなのです。ですから逆説的に言えば、山の高さは地盤の弱さに反比例して高くなっていると言えるかも知れません。そうして、新富士火山の活動は活発になり、4000年前位までに、近くにあった小御岳と古富士火山をのみこみ現在の人たちが知る大きな山へと成長していきます。しかしこの頃の富士山は今の姿とはかなり異なります。小御岳火山の方は、山梨県側北側斜面の五合目付近にひょっこり顔を出しているだけで埋没してしまいましたが、古富士火山の方は、新富士火山に抵抗して、どうにか一つの峰を作ることに成功しました。ですからこの頃の富士山をもし見ることが出来るとすれば、今の単峰の富士ではなく、新富士火山と古富士火山の二つの峰が存在するツインピークの富士山を見ることが出来たはずです。現在のような一つの峰の円錐形の見慣れた姿に近くなるのは、2900年前に東斜面で発生した山体崩壊(古富士火山部分)と岩屑なだれ(御殿場泥流)の結果です。御殿場泥流は、東側に向かった泥流は御殿場市を飲み込んで足柄峠に激突し、南側に向かった泥流は現在の三島市を押しつぶして駿河湾に達しています。同じ災害がもし現在に発生したら、とても恐ろしいことになりますね。この結果、峰の一つが無くなり、新富士火山の峰を唯一頂点とする現在の円錐形のきれいな姿になりました。新富士山の火山活動は、阿蘇山や加久藤火山(現在の霧島連山)、姶良火山(現在の鹿児島湾北部)とは異なり、大規模な破局噴火したことはありませんが、溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、側火山の噴火(こと御殿場泥流の起きた時期あたりからは、なぜか山頂部での噴火がなくなり、その後の噴火はすべて側火山の噴火となります。この理由については、現在の火山学では解明されていません)など、多彩な火山現象が発生しており、「噴火のデパート」と呼ばれています。さてこうして現代とほぼ同じ姿になった富士山ですが、御殿場泥流から1000年以上の間噴火状況は、不明な点が多いようです。この時代、日本列島にはすでに人が住んでいましたが、文字が無かったため、文献史料を残すことが出来なかったからです。次に続きを書くときは、いよいよ文献資料の出てくる時代の富士山をまとめてみたいと思います。
2011.03.30
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