昭和20年代当時、野球を職業とする選手(プロ野球選手)は、現在のような
「憧れの職業」ではなかった。いや逆に、世間からは卑下して見られることが多かったし、その職業を得た選手たち本人からして、あまり気の進まない
「就職」のようだった。
いくつかの文献で、往年の名選手たちが、自身の職業野球への「就職」当時
について心情を語っていた。それらを特集「職業野球選手になった頃」と題して
紹介します。
■特集「職業野球選手になった頃」の第2回は、 関根潤三
氏。
(元・ヤクルト監督、日大三中-法政大-近鉄バファローズほか)
東京六大学リーグでは、法政大のエースとして活躍した関根潤三氏。通算成績
は41勝30敗、通算最多勝利数は現在でも歴代4位を誇る。
関根さんは大学卒業を控え、すでに社会人の八幡製鉄所に就職が決まっていた。
ところが、あることが関根さんの運命を大きく変えてしまう。中学・大学時代の恩師
にして野球部の監督だった 藤田省三
さんが近鉄の初代監督に就任したのだ。
それは1950年(昭和25年)のこと。
「当時、新しく近鉄ができて、藤田さんが『来い』というわけです。その時分は、大学
の監督に呼ばれたら『ハイ、ハイ』ですから。お金も条件も何も聞いていないの。
命令だったからね。仕方なしに行って・・・。親は反対しましたけどね」
「一流企業に入った方が将来的に安定しています。3年ぐらい野球やって、あとは
普通の業務に就けばいいんだから。プロ野球は安定するわけないってね」
「プロに入っても喜びはなかったねぇ。プロ入りに当たっての覚悟も何もないですよ。
だって藤田監督の命令に従いながらね、心ん中じゃ、『プロ? あぁ、行ってやるよ』
って感じ。
職業野球選手
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「職業野球選手の社会的地位」
(2009.7.8) →
こちら
へ
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) →
こちら
へ。
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。→ (第5期) 1946年(昭和21年)、戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降
(第5期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクの日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちらへ。
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