昭和20年代当時、野球を職業とする選手(プロ野球選手)は、現在のような
「憧れの職業」ではなかった。いや逆に、世間からは卑下して見られることが多かったし、その職業を得た選手たち本人からして、あまり気の進まない
「就職」のようだった。
いくつかの文献で、往年の名選手たちが、自身の職業野球への「就職」当時
について心情を語っていた。それらを特集「職業野球選手になった頃」と題して
紹介します。
■特集「職業野球選手になった頃」の第3回は、 豊田泰光
氏。
(元・西鉄ライオンズ、水戸商高-西鉄ライオンズほか)
1950年代初め、関東地方の野球少年、とくに茨城の少年には独特な野球
に対する考え方があった。それは「まず、六大学野球ありき」。理由は簡単で、
早稲田野球の大功労者・ 飛田穂洲
が地元・茨城の出身だったから。
「六大学が一番エライ存在だった。次いでプロ野球の巨人、あとはパ・リーグ
の選手。神宮での早慶戦や早明戦の切符が手に入ったらウキウキ、ワクワク
で東京に行ったものですが、パ・リーグの試合の切符なら『そんなのいらねぇ』
で終わり」
後に入団することになる「西鉄ライオンズ」のことは、 三原脩
監督の名前以外
は何も知らなかった。
1952年(昭和27年)夏、豊田さんは甲子園に出場し、選手宣誓もやった。
関東地方では『水戸商に豊田あり』といわれる存在だった。立教大への進学
も99%決まっていたが、父親が体を壊して進学を断念。声をかけてきた西鉄
ライオンズに入団が決まった(1953年)。
「初めて西鉄本社の建物に入ってみると、オンボロのボロ。廊下は歩くたびに
うるさいほどギイギイと音を立てる。球団事務所の中も、なんか陰気くさくてねぇ」
「入団が決定後、東京にある西鉄の宿舎を訪ねたことがあるのですが、 大広間
ではマージャンの真っ最中でした。ガラガラゴロゴロ。大きな体のオッサンたちが、
四人一組でワケのわからんものに熱中している。当然、お金が行ったり来たり
するわけですから、これは人間関係がギスギスしてきます。当時の西鉄では
イカサマトバクまでが横行していたのです」
(以上、『プロ野球を殺すのはだれだ』豊田泰光著、ベースボールマガジン新書より
一部を引用)
◇ 職業野球選手
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「職業野球選手の社会的地位」
(2009.7.8) →
こちら
へ
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) →
こちら
へ。
「関根潤三、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) →
こちら
へ。
◇ 豊田泰光
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「元西鉄・和田博実氏、死去」
(2009.6.30) →
こちら
へ。
◇ 三原脩
と 飛田穂洲
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「早慶戦のホームスチール」
(2009.5.4) →
こちら
へ。
◇ 西鉄ライオンズ
の関連記事「あま野球日記」バックナンバーより。
「西鉄ライオンズ「黒い霧」事件」
(2009.7.10) →
こちら
へ。
この記事は『ボクにとっての日本野球史』の中で、次の期に属します。→ (第5期) 1946年(昭和21年)、戦後、東京六大学リーグ・職業野球が復活した時以降
(第5期)に属する他の記事は以下のとおり。
◇ 「ボクの日本野球史」
(2009.7.1) → こちら
へ。
「西本幸雄、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
へ。
「関根潤三、職業野球選手になった頃」
(2009.7.18) → こちら
へ。
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