両校の応援がヒートアップしたことで06年に中止されたが、それまで9試合が
行われた。その内容を以下に記します。
1903年(明治36年)11月22日、於・慶應綱町球場
×早稲田 9-11 慶應○
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
敗れたとはいえ接戦に持ち込むことができ満足感溢れる新興・早稲田。勝つには
勝ったが危機感をもった慶應。両校は翌年以降、春と秋に1試合ずつ行う約束を
した。
◇関連記事
「1903年、早慶戦始まる」
<2戦目>
1904年(明治37年)6月4日、於・慶應綱町球場
○早稲田 13-7 慶應×
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
この当時は一高全盛時代だった。この2戦目の直前、早慶両校ともに一高に金星
を挙げ一高の牙城を崩した(早稲田は同年6月1日、慶應は同年6月2日)。その
余勢をかっての対戦だった。
<3戦目>
1904年(明治37年)10月31日、早稲田戸塚球場
○早稲田 12-8 慶應×
投手:(早)河野安通志、(慶)湧川泉次郎
慶應はエース・桜井が肩の故障で、本来は中堅手の湧川が先発せざるを得なかった。
結果は明白で、早稲田が勝利し通算成績2勝1敗と勝ち越した。
<4戦目>
1905年(明治38年)3月27日、於・慶應綱町球場
×早稲田 0-1 慶應
○
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
約1週間後の4月4日に米国遠征を控えた早稲田に対し、慶應は「餞別」として対戦
を申し込み実現した。いわゆる壮行試合として行われた。
<5戦目>
1905年(明治38年)10月28日、於・早稲田戸田球場
×早稲田 0-5 慶應○
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
早稲田、米国遠征から帰国後の初戦だったが敗戦。この試合から、現在も続いている
3回戦制を採用するになった。
<6戦目>
1905年(明治38年)11月9日、於・慶應綱町球場
○早稲田 1-0 慶應×
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
この試合が3回戦制の2回戦になった。早稲田は慶應に雪辱、1勝1敗のタイに
持ち込んだ。また両校の応援席が一層熱気を帯びてきたのは、この頃からだった。
<7戦目>
1905年(明治38年)11月11日、於・早稲田戸田球場
○早稲田 3-2 慶應×
投手:(早)河野安通志、(慶)桜井弥一郎
この3戦目に勝利しなければ、わざわざ米国まで遠征した甲斐のない早稲田。接戦
を制し、どうにか面目を保つことができた。
<8戦目>
1906年(明治39年)10月28日、於・早稲田戸田球場
×早稲田 1-2 慶應○
投手:(早)河野安通志、(慶)青木泰一
この年の1戦目に当たる試合。両校は応援歌を作り試合に備えた。加熱する応援
合戦に備え、事前に早稲田・押川清主将と慶應・桜井弥一郎主将が協議した。
そして「いずれも応援団は250名とする」また、「楽隊をもって応援する時は予め相手
に通知し承諾を得る」ことを決め、試合に臨んだ。
<9戦目>
1906年(明治39年)11月3日、於・慶應綱町球場
○早稲田 3-0 慶應×
投手:(早)河野安通志、(慶)青木泰一
この年の2戦目に当たる。早稲田が雪辱した。そして雌雄を決する第3戦は11月
11日、慶大三田綱町グラウンドで行われる予定だった。だが早稲田が1万人もの
応援団を動員する計画のあることが露見。一方の慶應も試合当日の朝5時から
3500人の応援団で観客席を占拠するとの情報もあり、混乱を避けるため両校の
話し合いにより中止が決定された。
◇関連記事
「1906年、早慶戦中止へ」
(参考)
『日本野球史』(国民新聞運動部編)
『早慶戦百年 激闘と熱狂の記憶』(富永俊治著、講談社刊)
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