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珠子の気持ちを察したように、正樹が小声でささやいた。
「・・・しかたないよ。 ミケばあさんも、もう年だったしね。 オレたちも、ミケばあさんに助けられたことはいつまでも忘れないし、いつも心の中で手を合わせて冥福を祈ってる。 だから、珠子もあんまり悲しむなよ。 珠子が泣くと、ミケばあさんも悲しいんだぞ」
正樹の向こうで、同じようにカウンター席に座っていた虎雄も、しょんぼり肩を落として珠子を見た。
「・・・ほんとに、厳しくて、でも優しくて、頼りになる、かっこいいばあさんだったよな。 オレも、もっとばあさんに優しくしてやればよかったな」
大鍋の前に戻った昇一さんのそばで、温めたラーメンどんぶりを3つ並べたおばさんが、きょとんとした顔を虎雄に向けた。
「やだよ、虎雄くんたら。 まるでご近所の知り合いでも亡くなったような言い方をして」
だって、ほんとにご近所の親しいお付き合いをしてたんだよな、ついこの間まで、と、虎雄が目だけで珠子に告げ、つられて珠子も小さく笑った時、後ろのガラス戸がガラッと勢いよく開いた。
「あっ、やっぱり、3人ともここにいた!」
元気な声とともに店の中に駆け込んできたのは、珠子の妹、美緒だった。
「おっ、美緒ちゃん、いらっしゃい! 大盛りラーメンひとつ追加かな?」
声をかけながら、昇一さんが、小さな手付きザルで、麺を一人前ずつ鍋から上げる。
シャッ、と小気味よい音を立ててザルを振り、湯を切った麺を目にもとまらぬ速さでどんぶりの中へ移す ――― 一連の動作は、あの、『大食い競争』の、てんてこまいの間にすっかり板について、今ではもうおじさんに負けないくらいよどみなく、自信に満ちている。
「こら、美緒! よその家に入るときは帽子を脱ぎなさい!」
珠子の叱責に肩をすくめて、美緒が真新しい若草色の帽子を脱いだ。
「おおこわ! こないだまで、どんなドジ踏んだんだかあっちこっち怪我して熱出してうーうーうなってた人が。 あの時はほんとに静かで良かったのに、元気になったとたんに、またもとの口うるさいお姉ちゃんに戻っちゃったよ。 あーあ、あたしってば、こんなお姉ちゃんのために死ぬほど心配して損しちゃった。・・・ねえ、あたしだってあの『大食いバトル』のときには、寝込んでるお姉ちゃんの代わりにこの店で正樹お兄ちゃんたちと一緒に一生懸命ラーメン運びを手伝ったんだからね。 ちょっとはあたしに感謝して、ガミガミ言うのは控えてよねっ」
確かに、珠子が長い悲しい夢から覚めたとき、あの汚れくたびれたピンクの帽子を両手でぎゅっと握り締めて珠子を見つめていた美緒の、真っ赤に泣き腫らした目は、たぶん一生忘れられないだろう。 珠子が眠っている間、どれだけ泣いたかわからない、充血したその目から、また、ポロリと涙をこぼして、美緒はかすかに唇を動かし、ああ、お姉ちゃん、目が覚めてよかった、と、絞り出すような声でつぶやいたのだ。
その横で、目に涙をいっぱいためて珠子を見下ろしていたママも、次の瞬間、珠子にすがりついてわっと声を上げて泣き出した。 急に熱を出して倒れるなんて、珠子いったい何があったの?そんなふうに体中あちこちに傷をこさえて、今までどこで何をしてたの?ママはさっきあなたを『龍王』までお使いに送り出したばかりのはずなのに、どうしてこんなに長い間あなたと離れていた気がするの?
矢継ぎ早の質問で、珠子にもようやく、猫から人間に戻れた実感が、しみじみと沸いてきたのだった。