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佐々木譲(ささき・じょう)佐々木譲の本、右奥の奧にもある。彼の本は45冊ぐらいある。まだ読みたくて、欲しいものがある。佐々木譲は小説家で、本名が佐々木譲(ささき・ゆずる)と言う。「廃墟に乞う」で、2010年第142回直木賞を受賞した。我らが母校”北海道札幌月寒高校”の同級生である。譲(ゆずる)は高校1年のとき、席は1番後ろで自分の斜め後ろだった。「地学が悪くて、赤点なんだ」と、いつも言っていた。彼は、山岳部と絵画部に入っていて、東京にいる自分の親友と南区の”空沼”(1249m)を紹介してくれた。彼は普通の人で、目立つ人ではなかった。卒業してから、大分経ってから札幌大通公園でデモがあったとき、偶然会ったら「やあ」と自分を覚えてくれていた。それからは会わなかった。1979年に「鉄騎兵、跳んだ」で、オール讀物新人賞を受賞した。まさか、作家になるとは。著書は約70冊で、それでテレビ化は10本、映画化は6本である。何年だったか、STV(北海道テレビ放送)のラジオで、土曜日に放送している「日高晤郎ショー」の日高晤郎と、道新の元旦の新聞対談をしていた。彼は夕張市出身で、札幌、東京、アメリカ、北海道の俱知安町に住み、今は道東の中標津町に住んで、今だに小説を書いている。(最近は警察物が多い)自分の親友も、東京でサイン会があったとき彼に会ったと言う。
2020年01月31日
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いなくなった友達前に書いた「突然いなくなった3人の友達」(7月29日)の内の1人。自分と同じ年で、メガネを掛けていて、雰囲気が吉幾三に似ていて、身長173cmでガッチリとしている体格である。学生時代は応援団に入っていて、声が大きくてガラガラの声だ。函館高専出身で、札幌の測量事務所に勤めていて、自分がそこにアルバイトをして、もう1人の慶応大学の医学部を中退した友達と3人で親しくなった。3人であちこちに飲みに行き、そのころは彼はへべれけに飲んでいた。「いまの自分がどうしても許せない」と、何とかしようといしていた。「今の世の中では、子供は作れない」と激しく言ったりしていた。彼の家には本がたくさんあったけど、何もかにも進んでいた、24歳のときだった。彼はすぐ不動産屋に入り、前から結婚していたのだけど、北区から中央区すすきのに住んだ。その理由は忘れてしまったが、変わっている。ジッとしてはいられない性格で、まるでしょっちゅう変わって激しい。そこで1年半経って、「1年間ダメだったら離婚しよう」と奧さんに言って、1人で東京へ行った。それで、もう1人の彼がちょっとした嘘で、仲違いをした。東京へ行って、何かをしていたんだが。結局ルポライターをしてしていたが、仕事に有り付けるまで2~3年掛かり、奧さんとは離婚した。その後、”ひろたみを”と言うペンネームで児童読物を書いていた。彼に教えられて、本屋でひろたみをの本があった。何遍か、本が出る度に教えてくれる。彼は何遍か札幌に来てうちに泊まったり、居酒屋で酒を飲み交わした。自分も、彼のところに女房と新婚旅行で横浜市港北区日吉に行き、よく出来た彼女といっしょに飲んだ。その彼女はいい人だったが、しばらくしてまた別れた。まあ同棲だったが、その後彼女と自分とは5年ぐらい年賀状をやり取りした。15冊ぐらい本を出したけど(児童読物とルポルタージュ)、どういう訳か小田原市で別の彼女と2人で居酒屋を始めた。「本を書くのは少し休んで、居酒屋を始める」と、電話が来た。飲みに行こうかなと思っていたが、2年で辞めてその後はどうなったかわからない。最近小田原市に行ったが、もう何も無くなっていた。年賀状をいつも欠かさずに出していたのに、もう来ない。年賀状が戻ってきたときは、どうしたんだろうかと思ったが。もう20年経つけど、ヒョッとしてまた来るんじゃないかなと思っている。彼は強烈な人で、そういう人だ。(こちらも引越したのでダメか)彼が”動”ならば、自分は”静”だ。自分は気が小さいけど、彼は気が大きい。「何もかにもやってみなきゃと分からない」と、すぐやると言う人だった。彼は、突拍子もないことを言うが、彼は前に進んで行くタイプだ。彼の言う通りにしなかったが、彼の言葉がいい。「考えている暇があったなら、何かをするべきだ」と。
2020年01月30日
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最近読んだ本(その15)「「男はつらいよ」50年をたどる」(ポプラ社 2019年 都築政明著)「寅さん」は、この正月に映画を見て、買ってきた「寅さん」の本をたくさん読んでいる。。その中で、この本はおもしろかった。3分の1が山田洋次のことだが、中々いい内容だった。「美しい女性に恋をして、苦しみ、悩み、遂には絶望して涙する。情けなさまでをも含めて、自分の感情を大事に見つめるなかで、人間は心を豊かにしていくのである」「誰も見ていない書斎の松本清張」(きずな出版 2020年 櫻井秀勲著)元編集者で、松本清張のことを書いている。家族付き合いで、松本清張の見えないところを書いている。松本清張は英会話が堪能だった。訳も知らない編集者にも分からずに、こっそり英会話を勉強していたという。「一度に三つ覚えなさい」例えば「始祖」の字を国語辞典で引くとしたら、その前の「自然淘汰」と、その後ろの「紫蘇」の字も覚えてしまえ。こうすると、人の三倍の知識量になるという。「明治の日本」(彩図社 2018年 熊谷充晃著)日本の明治時代のころを書いている。中々おもしろい。福沢諭吉は、政界とは一線を引いていた。乃木希典は、気弱で病弱だったので軍人になりたくなかった。「日本初のミスコン優勝者の悲劇」「明治時代の野球はこんなだった」などが、書かれている。「清張地獄八景」(文春ムック 2019年 みうらじゅん著)みうらじゅんの、松本清張のファンブックである。奥さんの松本直子が、雑誌で松本清張のことを書いている。みうらじゅんが「因果応報、そんな自然の摂理も分からなくなるほど、どうかしている状態が続くと人は犯罪に手を染める。人は驕る(おごる)なかれ。決して他人の芝生を青く見るな」「”見とるぞ見とるぞ”と、どこかで呟く声がする」と言っている。
2020年01月29日
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年賀状年賀状は、お年玉年賀が発表になったので、年賀状をまた4回目を見た。年賀状は毎年切手が1~2枚当たるのだが、去年と今年は当たらなかった。今まで、年賀切手とその上のが当たった。うちの元女房は、1等の折り畳み自転車が当たったけど(結婚前に)、大して当たりはしないのでサッと見る程度だ。昔の親父の年賀状は150枚だけど、年賀切手が4~5枚だった。年賀状は今まで90枚も書いていたが、仕事を辞めてからは70枚、そして60枚になった。このところ50枚で間に合っているが、亡くなる人や年賀状を辞める人が多くなってきている。来年は喪中も入れて、45枚でいいかなと思っている。自分からは、年賀状を出すのを止めることはないが(2年続けて来ないとなると)、最終的には30枚になるだろうな。年賀状は、人がどうしているのかということの発見のことだ。それで元気だといいが、そして最後には死がある。(年賀状が来なくなる)自分は”孤独死”になるが、それはそれでいい。親父が亡くなったときの葬式は300人ぐらい集まった。オフクロは、あまり来ないなと思っていたところ、約100人で会場が狭かった。1番上の姉は旦那が取締役で約150人である。2番目の姉は現役の学校の先生をしていた所為か、生徒など350人も集まった。自分は、誰にも知られずに孤独死だ。年賀状右は今年、左は去年の年賀状。
2020年01月28日
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解体屋昔”解体屋”と言うのは、初めて知った。物を作るのはあるが、物を解体するのはあるはずだ。今まで、解体屋に気が付かなかったが、あちこちで解体が行われている。解体は、アルバイトで5~6回した。埃まみれで、重機(ユンボ)が主で、その埃が全身に被る。壊したゴミは、ガラスやベニヤと分けなければならない。あちこち釘が出ているし、もう汚い。1日で全身真っ黒になるし、こんな仕事は自分にとって出来ればやるべきじゃないと思った。脳溢血で、十分に力が発揮出来ない。(疲れる)1軒屋なら1日で、アパートなら3~4日掛かる。うちの豊平区美園の家を壊したときは、解体屋に頼んで1日で大体100万円掛かった。現金で払ったのだが、借りていた土地を返すとき、更地にして返す。解体後で、大家にそのままでいいのにと言われて、100万円をゴミに捨てたものだった。そのころは、ヨーロッパに家族旅行をしたり、新車を現金で買ったり、大型テレビを買ったりして金は持っていた。今は、貯金は0である。アルバイトは、今まで1日のを含めて約100件近くやった。アルバイトは、賃金の高いひどい物を選んでしていた。解体屋やひどい物をやった。(もう辞めた)ユンボで、ガラをトラックに積む。
2020年01月27日
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除雪車による除雪雪掻きは、小学生のころからしていた。雪掻きは雪が積もる所為で、どうしても遣らざるを得ない。今は市営住宅住で、自分は10年ぐらい雪掻きをしていない。仕事で、除雪車による除雪は3回した。市が発注するものだが、毎年土木会社が受ける。10cm積もると、夜10時から除雪を始める。一期限に15回ぐらいは出る。その後、パートナーシップと言って一区間の除雪をする。圧雪になったところをグレーダーで掘る。一回の出動で、車が5台で10人必要だ。自分は指揮を執って、休んでいるときは3日に2回ぐらいだ。休んでいるときは、いつ雪が積もるのかと気が気でない。頭に来たのは責任者(総指揮者でいつも出ている)で、何かあったら電話を入れろと言う。夜1時ころ雪が降っているとき、用事があり、探したが何処にもいない。本人の自宅に電話を入れるといた。朝になって、「どうして、うちに電話を入れるのだ。うちの家庭を壊すつもりか」と非常に怒っている。自分は、アッケに取られて物が言えなかった。昼間、パートナーシップで出ているとき、自分の車を脇に置いていた。タイヤショベルを運転していた人が、自分の車をひっかけてしまった。運転していた人は謝ったが、その責任者は「そんなところに車を止めて置くからだ」と言い、事故費があるのに事故費を出さなかった。これには頭に来たな。そんな具合で、辞めてしまった人もいた。自分も、春に雪掻きが終わったら辞めた。雪掻きには、いろんな思い出がある。タイヤショベルは、必ず助手が付くのだが助手の代わりをしたこともある。助手と言ってもただ座っているだけだ。朝4時ころ、非常に眠たくなって参ったよ。歩道の除雪には、車に乗らないで道に人が来ないようにしなければいけない。それも2~3回やらされた。雪が降っているし、もう寒くて堪らない。写真を撮ることになっているが、まず施工前、施工中、施工後の3枚の写真を撮る。一晚に、その一式を撮らねばならない。そんなことは、施工をしている人達を邪魔をしてはいけないし、容易にはいかなかった。一苦労だった。除雪車のいろいろタイヤショベル除雪クレーダー大型ロータリ除雪車小型ロータリ除雪車(歩道用)
2020年01月26日
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手稲駅での雪掻き50歳のころ年末に仕事を辞め、年明けから3か月雪掻きのアルバイトの募集をしていたのを、手稲駅のホームで見つけ応募した。まだ結婚していて、手稲区曙に住んでいるときであった。1日2回に分けて、6人掛かりで作業を始める。朝9時から夜9時まで、夜9時から朝9時までで1日休む。常にスコップが必要だ。雪が降ったときは大変だが、雪が降らないときは3時間作業して2時間休む。休み場は暖かくて、ちゃんと用意されている。雪掻きは、雪が重くて大変だ。夜に当たると、11時から3時ころまで仮眠する。始めは寝ていてが、段々そのころはうちに帰って本を読んでいた。仲には嫌な奴がいる。誰か、中心になってくれる人がいればいいのだが。皆60歳ぐらいで、自分のことで精一杯だ。駅員さんはいい人なんだけど、いつも付いている訳じゃない。仕事はきついけど、何とかやっている。仲間がしっかりしなければならない。数年前、貨物列車に跳ねられてしまって亡くなった作業員もいたらしい。皆、知っているようだ。仲間は、皆何年もやっているようだ。駅員がアルバイトが終わって次の日に、皆で駅員と20人ぐらいかな、居酒屋で飲んで労ってくれた。(もちろん只で)只だから参加したけど、駅員は「来年もやらないか」と聞かれたが、「本のアルバイトのつもりでやったので、自分は本職をする」と答えた。何しろ作業員が嫌な人がいる、自分の本職じゃないからな。手稲駅北口
2020年01月25日
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真白き富士の嶺1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学の生徒12人が学校のボートで乗り出し、七里ヶ浜で遭難して全員が死亡した。この遭難は、社会的事件として新聞で大々的に扱われた。この悲報に接した鎌倉女学校の教諭・三上錫子(1872-1921)が「七里ヶ浜の哀歌」を作詞し、この歌は全国で愛唱された。作曲者は、ジェレマイヤ・インガルスである。江の島に2回行ったけど、そういう悲惨な思いは全然ない。七里ヶ浜に碑が建っていると言うが。いい詩で曲もいい。「真白き富士の嶺」(七里ヶ浜の哀歌) 歌ミス・コロンビア(YouTubeにて検索)江の島(右に富士山)
2020年01月24日
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測量の疲れ40歳のころ、脳溢血で1年半リハビリをして、やっと測量のアルバイトをする。1件目は、十勝の池田町の山奥で、電力会社の鉄塔の測量だった。5人で、山の奧に立っている鉄搭を見て歩く。1日で、何軒も見て歩く”歩兵”だ。歩き疲れて、もうグッタリだ。2件目は、4人で木が生えている小さな丘を何度も、非常に急な坂を張って行かねばならない。これも、非常につらい仕事だ。そういう測量は、都市測量と違うし病み上がりにはきつかった。測量設計士から土木技術者として、生きることにした。(つらい仕事はしないけど)もう金は安くてもいい。嫌な汚い仕事はいくらでもあるし、そういう仕事もかなりやってきた。今はこうして机の上で物を書いているが、もう2度とやりたくないことはたくさんある。
2020年01月23日
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フェリーの遅れ大洗フェリーターミナルこの前の旅の帰りの大洗フェリーターミナルで、自分の遅れじゃなくフェリーの遅れだった。自分がフェリーの着いたのは、出港の30分前だった。いつも30分前なら大丈夫だったが。(自分の遅れかな)”遅れ”になって、係員に自家用車で乗せてもらって船に乗った。入口じゃなく、自動車を入れているところに入って入れられた。まあどうでもいいけど、ひどいところから入れられたと思った。まだ自動車が入っているところに、船の乗客は少なかった。今まで、2回程車でフェリーに乗ったことがあるけど、ワンフロアで背丈が広い。車を何十台も押し込まれて、すごいものだと思った。
2020年01月22日
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東京東京には48回、葛飾柴又には24回行っている。自分の手帳には、今までのことが毎年書かれている。毎年の手帳を見て、それで回数を知らべている。昔のことで1,2回違っているかもしれないが、回数はほぼ正しいと見ている。東京から離れて行く特急”北斗星”の窓から、「結婚しているから、何遍も東京に来れない。もう来れないかも知れない」と感傷的になったけど、53歳で離婚をしてからは、もう何遍も東京に来ている。離婚して自分1人で旅に出てから44回で、そのうち東京(新宿を含む)には18回、葛飾柴又には10回も来ている。行こうと思えばすぐ行くと、独り身でいい気なもんだよ。政令指定都市の行った都市 人口(万人) 行った回数 1 東京 965.4 48 2 横浜 374.9 4 3 大阪 274.3 11 4 名古屋 232.8 10 5 札幌 197.0 - 6 福岡 159.5 4 7 川崎 153.1 3 8 神戸 152.2 4 9 京都 146.6 1310 さいたま 131.3 411 広島 119.9 312 仙台 109.0 313 千葉 98.0 314 北九州 93.9 215 堺 82.7 116 浜松 79.1 417 新潟 78.8 718 熊本 73.9 219 相模原 72.2 120 岡山 70.9 721 静岡 69.0 5 2019.10.1現在 政令指定都市(東京は特別区部)
2020年01月21日
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新宿での夕飯25歳のとき、東京都豊島区巣鴨に出張した。合計で3か月かな。最初に泊まったのは営業の人の家で、その人のうちの鳩ヶ谷市(現川口市)に住んだ。年は自分より10歳上で、1人者で酒が好きな人だった。1か月して、酒の上での本のちょっとしたことでケンカをして、自分は宿無しになった。すぐ様2か月、新宿で暮した。新宿で、ヤクザに絡まれたり、サウナ風呂でホモに出逢ったりと、いろんなことに出くわした。新宿で深夜喫茶に何回も入り、今は無い新宿駅東南口の安い宿屋に泊まったり、土曜日になると映画の深夜興行に入った。仕事が終わると、一目散に新宿の安い食堂に入ったものだよ。それで、新宿は45年ぐらいの時を過ごしていた。何も無いけど、新宿の歴史を辿ってきたね。今は、新宿もビルだらけだけど。出張して3か月経って、足も爛れてしまって、社長に「もう帰ります」と言うと「札幌に帰っても仕事はないぞ」と言われ、「東京で働いてみたらどうだ」と。(仕事は擁壁の設計)もう暑くて(7月になって)、「暑くて働けない」と言って帰って来た。東京で働くか、それとも札幌で働くかとなると、やっぱり暑くゴミゴミした東京よりも札幌で働くことにした。どういう訳か新宿はいい町でもあるし、悪い町でもある。東京は遊ぶのはいい町だが、住むとなると別に嫌である。今は、自分にとって東京というと、上野駅周辺である。最近、前の事務所はどうしているかと行ったところ、ビルがあったけど事務所は無くなっていた。そのころの友達(今でも年賀状をやり取りしてる)に聞いたところ、営業の人はその後結婚して50歳で亡くなり、自分と同じ年の札幌の人もこちらの海で溺れて亡くなったようだ。札幌の人とはいっしょに巣鴨の町で、飲みに連れて行かれたのが3回もある。その店も、今は無くなっている。まあいい人だったが、物事は”諸行無常”である。
2020年01月20日
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新宿新宿駅東口東京に来たときは、新宿に必ず寄る。今回、今まで東京には48回は来ているので、その回数は来ている。まず新宿駅東口の前に立つ。新宿駅前のアルタ。元「笑っていいとも」の舞台である。遠くにコマ劇場靖国通り西口の前靖国通りから見た西口の前靖国通りコマ劇場(スターウォーズの看板)歌舞伎町一番地アルタ前から見た新宿駅東口西口商店街新宿バスターミナルルミネとミローネの間新宿駅南口新宿駅東南口新宿駅の周りを、ザッーと回った。朝早いので人もまばらである。
2020年01月19日
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タコ部屋北海道や樺太の炭鉱などで、監禁同様にして働かせた飯場を言う。そこに拘束された労働者を「たこ」と言った。自分が大学1年のとき、夏休みに南区定山渓の山奥で、草刈りのアルバイトをした。住み込みで、だけどやさしい人だらけだったが、1週間で漆(ウルシ)に負け、両手両足が爛れてしまった。それはつらいものだった。給料は良かったが、漆の治療に大分掛かった。始めは、タコ部屋に入れられたと思ったね。”北海道開拓の村”にある昔の飯場と大して変わらない。自分が自由に出来る範囲は、寝るところだけだった。監禁同様ではなく、つらいものだけど、それが”タコ部屋”だった。タコ部屋とは、そんな生易しいものじゃなく、生死に関わるものだった。アルバイトで、チョコッとやるものじゃなく、だけどきつい仕事は”たこ”と言っていた。自分は土木科を出たが、下部の”土方”というきつい仕事がある。自分は、何遍もアルバイトで土方をした。(給料が高いので)きつくて、仕事が終わったら疲れて何も出来ない。そんなきつい仕事があるなんて、皮肉にも測量設計士から土木技術者になったとき、”おっさん”に「仕事はきついだろう」と言うと「俺たちは慣れているから」と言う。後は、何も言えない。自分らがアルバイトでやるのとは違うと思ったね。仕事ならやると言ったようだね。昔はタコ部屋もかなりあったが、今は死語になってきている。
2020年01月18日
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1月16日は”藪(やぶ)入り”の日だ。”藪入り”とは”何だろう。藪入りとは、住み込みで働く人達が実家に帰ることだ。この日と7月16日だけ、実家に帰ることが許されていた。藪入りは、旧家が家々の先祖を祭る大切な日が起源とされ、単なる慰労休暇ではなかった。現代では週休二日制が当たり前で、この言葉も死語となりつつある。その起源は藪深い里へ帰ることからと、宿下がりの意味があるとか諸説ある。自分は、もちろん藪入りの世界には入らない。映画、テレビや小説などには藪入りが書かれている。友達が故郷を離れて、そういうのはあったそうだけど。違うかな。それにしても、そういうこともなくなる。当然、”死語”になるようだ。昔の遊びや行動も、死語になってくるようだ。
2020年01月17日
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明治村(その2)尾西鉄道蒸気機関車1号名古屋衛戍病院の中歩兵第六聯隊兵舎の中小泉八雲避暑の家(駄菓子屋八雲)左奥に金沢監獄正門囚人の朝、昼、夕飯金沢監獄中央看守所・監房帝国ホテル中央玄関村営バス川崎銀行本店からの内閣文庫「食道楽のコロツケー」の店の前の休憩所札幌電話交換局67ある建物や機関車など、19を写真に載せた。3時間半掛かって一回りした。えらく、昔の建物がそびえている。
2020年01月16日
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明治村(その1)昔のいろんな建物がある。ゆっくり見て3時間半も掛かって、建物は70ぐらいある。そのうちの20ぐらいを載せる。”明治村”は、”北海道開拓の村”を大きくしたものだ。明治村地図正門前三重県庁舎第四高等学校物理化学教室から東松屋住宅北里研究所本館・医学館東松屋住宅の中東松屋住宅市電京都七条駅京都七条駅長崎居留地二十五番地神戸山手西洋人住居品川燈台
2020年01月15日
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猫たち自分の”謹賀新年”の写真は、”寅さん”と”さくら”の像である。「男はつらいよ お帰り寅さん」第50作を、旅から帰って来て、年が明けてから2回見た。なつかしくておもしろかった。この正月は、自分の旅の留守番をしてくれた猫(ゆりな、はなこ)がいた。いつもながらの留守番をしてくれる猫に感謝しているよ。両方共に11歳で、いつもでも長生きして欲しい。眠いのか。目が覚めたか。また寝る。猫達は眠いのか、また寝る。
2020年01月14日
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名古屋近辺の旅(その7)東京には48回来た。(仕事では10回で、後は遊びで)東京は、毎年変わっている。上野駅には300回ぐらい来ているだろう。朝早いので、人もまばらである。上野駅構内、広小路口より。広小路口よりの上野駅前だ。御徒町駅より東京駅新宿駅、東京に来る度に新宿に寄る。名古屋から苫小牧に行くのを、船の都合で茨城県の大洗港から行く。それで東京に寄ることになった。そこで、東京に住んでいる高校時代の親友が「会おう」と言ったので、こっちも都合を付けて会う約束をした。上野駅の交番前で、午前10時に会った。もう1人は、嫁さんの実家四国に行った。帰りは、上野駅発17::00からの水戸駅に、特急で行くことにした。フェリー、鈍行列車で行くのを特急で行く。浅草のROXビルのサウナで湯を浴びて、ビールを飲んだ。2人で、小中学生のころどうしていたかと言うことを話した。また、両親が中学生のころに病気で亡くなったことを、自分は何で亡くなったか始めて聞いた。(亡くなったのは聞いているが)それで、ちょいと眠りに就いた。目覚めると浅草はすごい人で、浅草寺にちょっと寄って行こうとなって、それがすごい人で並んで途中迷子になってしまった。”神谷バー”で飲みに行くと言ったので、神谷バーの前で30分も待った。30分して、やっと会えた。慌ただしい人で、4年前に銀座で歩車道もびっちり埋まって、どうしようもなくなったのが1番目のころであった。その次が、浅草の今のことだ。帰りの汽車の時刻が迫って来たので、神谷バーも混んでいるし、近くのそば屋に入った。左は、神谷バーの”電気ブラン”を買った。25度ときついよ。そして、上野駅で別れた。水戸駅、大洗駅を通って、19:45に大洗港を出港した。夜が明けて、朝いい天気だ。商船三井フェリーの”さっぽろ”に乗ってきた。フェリーの後部だ。苫小牧フェリーターミナル猫と明治村の写真を載せる。今度は、4月下旬に旅をする。
2020年01月13日
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名古屋近辺の旅(その6)名鉄、JR名古屋駅窓の風景名古屋から東京まで鈍行列車で行く。途中、何遍か汽車を降りる。岡崎駅家康公ゆかりの史跡蒲郡駅豊橋駅駅前浜松駅、4回目駅前静岡駅、5回目徳川家康像熱海駅汽車駅前商店街上野駅浅草口上野駅の前、カプセルホテル北欧カプセルホテルの中
2020年01月12日
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名古屋近辺の旅(その5)カプセルホテル”ウェルビー栄”に泊まった。名古屋市の”栄”にある。カプセルホテルで4630円するし、1000円ぐらい高い。普通のカプセルホテルである。名古屋タワー東京タワー、札幌テレビ塔と同じ作者だ。名古屋タワーは、前に登ったけど札幌テレビ塔と似ている。名古屋市の夜の繫華街”栄”である。栄から地下鉄で、JR名古屋駅に来た。名鉄名古屋駅から犬山駅へ。時刻表を見て、”明治村”へ行こうと思った。明治村は”北海道開拓の村”と同じだ。いつか行って見ようと思っていたが、北海道からは遠すぎる為行くのを止めていた。今は、名古屋市から名古屋鉄道で犬山市まで行き、後はバスに乗って行くだけだ。約1時間半か、山の中だ。名鉄犬山駅明治村入口明治村の沿革明治153年1月1日 明治村 自分が写っている。入口を入ったところ。「長崎居留地二十五番地」から見た入鹿池。「金沢監獄正門」まだザッと70ぐらいの建物があるのだが、最後に建物の写真をいくつか載せるよ。名鉄名古屋駅の前。明治村は、順番に見て3時間半掛かった。帰りは、明治村から名古屋まで、名鉄バスで1時間で行けた。名古屋駅から15階の窓から見た風景。ニュー松竹梅ホテルニュー松竹梅ホテルは3000円で、名古屋駅の直ぐ裏にある。始めは3000円だったから、ビジネスホテルかカプセルホテルだったかなと思った。ビジネスホテルだと安いが、カプセルホテルだと普通の値段だが、ビジネスホテルだった。安いホテルで、3畳の部屋でトイレと洗面所が外にある。以前に泊まったビジネスホテルは、2500円でひどいところだった。今回は、暖房は大丈夫だった。3畳の部屋
2020年01月11日
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名古屋近辺の旅(その4)朝、暗いうちにJR鳥羽駅を出る。途中、伊勢神宮の前を通ったが、以前に行ったことがあるのでそのまま素通りした。いつも混んでいる。松阪駅津駅津駅の前亀山駅亀山駅の前亀山駅は、関西本線と紀勢本線とぶつかる交通の要所だ。だけど、町は寂れている。町の目の前のビルは潰れてしまうし、町を歩いても活気がない。忍者の里甲賀駅甲賀駅の前に、忍者の里を印象付けようとしているのだけど、バスが無いし、タクシーも無い。結局、何処にも行かれない。以前は甲賀の他の伊賀は、交通機関が発達しているので2回見に行った。そうこうしているうちに名古屋駅に着いた。名古屋駅の丸い高いビルには圧倒される。前に来たときに登った。次ぎは何処でどの汽車に乗るのかと、書いた紙が見えなくなった。幸い時刻表を持って来たので、喫茶店に入りこれからの行動を確認した。駅のホームの”そば屋”に入る。そばを食べる。JR、名鉄の金山駅名古屋の新都心に寄ってみる。金山駅の前夜の繫華街、名古屋の”栄”である。きょうは、汽車に乗ったものだ。
2020年01月10日
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名古屋近辺の旅(その3)名古屋フェリーターミナル小雨が降っていた。名古屋フェリーターミナルの側。あおなみ線野跡駅に行く。JR名古屋駅名古屋市に来たのは、もう10回目だ。ひさしぶりに、名古屋にいる娘に会いたいと思った。この後、「また名古屋に来るから会わないかな」と、携帯電話に入れたところ、看護婦をやっているので「会えない」と言う。正月も、仕事と家族がいるので会えないのだろう。「赤ん坊は元気かい」と言うと、「赤ん坊は、もう5歳になるよ」と言う。「写真を送るかい」と言い、赤ん坊じゃなく5歳で早いものだよ。名古屋は2時間ばかりいて、知多半島を回ってきた。名古屋鉄道は、えらく分かりにくい。2回乗り換えて河和駅に着いた。名鉄河和駅河和港観光総合センター名鉄海上観光船で、河和ー伊良湖まで行く。船上で伊良湖フェリーで、伊良湖ー鳥羽まで行く。途中、三重県の”神島”を通った。神島は、三島由紀夫の「潮騒」のモデルになったところだ。ちょっと行けないところだ。鳥羽フェリーのりば鳥羽フェリーのりば近鉄鳥羽駅着いたところが近鉄志摩線中之郷駅で、1つ行ったところが近鉄鳥羽駅である。ロードイン鳥羽鳥羽駅から歩いて15分のところにある、きょうの宿”ロードイン鳥羽”である。飯無しのサービスも普通で、8200円もする何の事もない普通のビジネスホテルだ。カプセルホテルなら2泊も出来る値段だ。宿は、3千5百円から4千5百円を標準にしている。だけど他に安いところもなかった。この日は、別に見るところもなかった。
2020年01月09日
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名古屋近辺の旅(その2)朝は天気が良かった。風呂を浴び、清々しくなった。”仙台港フェリー埠頭”に2時間50分の停船で、素早く船を降り立った。乗ってきた”きそ”号である。歩いて30分のところに、JR多賀城駅がある。多賀城駅の前に市立図書館がある。そこに蔦屋書店がある。中々変わった図書館で、コーヒー屋もありコーヒーを注文した。近くに東北学院大学があり、大学は休みだけど学生が多かった。2階は学生で大賑わいだった。船に戻り、昼寝をして休んでまた晩飯だ。映画を上映していたが、あまりおもしろくなかったので行くのは止めた。また劇場で、昨夜のバンドが歌を演奏している。前の日とは、がらりと違ったものを演奏していた。この日は、満員であった。きょうは何事もなかった。いつものように、また眠りに就いた。
2020年01月08日
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旅から帰って来てからは、さっそく「男はつらいよ お帰り寅さん」第50作を見て来た。パンフレットは売り切れていた。自分は、この上映で14冊の本を買っていたので、パンフレットがなくてもいいか。映画は、なつかしい映画でそれでいい。自分は、「男はつらいよ」の第1,2作を映画館で100回以上見ているのでなつかしいばかりだ。また見に行くよ。ところで、冬の旅「名古屋近辺の旅」に行って来た。12月28日より1月4日まで、7泊8日の旅である。フェリーで、苫小牧ー仙台ー名古屋に乗る。”太平洋フェリー”の”きそ”号である。バスを降りて、苫小牧フェリーターミナルに着いた。早速、晩飯を食べた。少し飲んでから、劇場に行った。180席ぐらいある。劇場では、夜8時から1時間歌を演奏していた。加山雄三、寺内タケシ、ベンチャーズを演奏、「津軽海峡冬景色」などを歌っていた。席は開いていて、それでも100人ぐらいの人だった。その後、夜10時から映画を上映した。観客は60人ぐらいだ。自分は以前に見た「ミッション:インポッシブル フォールアウト」だった。トム・クルーズが主演で、また見たが結構おもしろかった。夜12時を過ぎて、心よい気持ちで眠りに就いた。夜、12時を過ぎたころ。
2020年01月07日
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