全19件 (19件中 1-19件目)
1
(つづき) 姉弟悲傷の巻 ;2 大津皇子は大海人皇子(のちの天武天皇)の皇子として、 天智二年(663年)に女那大津(博多)で生まれる。 二歳上に同母姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)があった。 母は、天智の女であり、大海人の妃大田皇女だった。 わが国は、ヤマト朝廷時代を通じて、朝鮮半島の外交、軍事 に介入して、しばしば出兵した。 中大兄皇子(のちの天智天皇)は、斉明女帝や大海人を伴って 難波から九州に向かった。そのとき大海人は大田皇女と盧鳥野 讃良(うののさらら)皇女を連れて行った。大田は盧鳥野の姉で あった。 661年、百済救済に向かった斉明天皇が筑紫で亡くなると、 中大兄は引き続き百済救済を指揮するが、結果的に は、663年白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗北を喫する。 九州に向かった中大兄の船団が、いまの岡山県の邑久(おおく) の海を越えたあたりで、大田皇女に生まれたのが大伯皇女で あった。二年後に大津も大田を母として九州の地で生まれる。 姉大伯と、弟大津は、こうして父の兄である中大兄の戦いの場 において生を享け、のちのちも国内の骨肉の争いのなかに、生涯 身を置く運命を背負うことになるのだった。 幸薄い大津皇子ではあったが、その短い生涯のうちには、きらめく 恋の一瞬があったに違いない。 大津は、天武の皇后盧鳥野讃良の姉大田皇女が生んだ天武に とっては第一皇子であった。 にもかかわらず、大津は天衣無縫、全く自由に振舞っていた。 そして、自分の周囲に集まってくる人物たちと身分の差を忘れて 付き合った。 大津は狩猟を好み、漢詩、和歌にも秀でた才を持っていた。 大津は、盧鳥讃良の皇子である年下の草壁皇子と一人の女性を めぐって争ったことがあった。 その相手は、畝傍山の傍らの大和石川で育った女人で石川郎女 (いしかわのいらつめ)とも大名児(おおなご)とも呼ばれていた。 大津皇子、石川郎女に贈る歌 (万葉集 巻二) あしひきの 山のしづくに 妹(いも)待つと われ立ち濡れぬ 山のしづくに 石川郎女、和(こた)へ奉(まつ)る歌 (万葉集 巻二) 吾を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに 成らましものを 大名児の歌には生々しい情感と、大津の身に対する危惧の念と 深い捨て身の愛情が読み取れる。 そのころすでに、大津には正妃の山辺皇女(やまべのひめみこ)が あった。そのことにへの配慮もあったろう。 また、この頃父天武天皇は病み、草壁皇子と大津皇子との間に 生ずるであろう対立の構造が、その萌芽を見せていた。 大名児は、こんな大津の立場をもよく弁えていたに違いなかった。 (つづく)
2006.10.31
コメント(0)
寅さんは詩人だった ふうん 寅さんって 例の葛飾柴又の? そうよ なにせ 寅さんは いまごろの 歌人や 俳人や 文士よりも 遥かに 泣かせる 抒情詩人だったなあ とかく 現代文芸の上では 抒情は 浪花節的 演歌的だとして 排除される そして 浪花節や演歌は 伝統芸能やクラシック音楽とは一線を 画して 一段格下のものとされるが 果たしてそうなのだろうか まずは 寅さんの口上を聞いてみてほしい <泥棒の始まりは石川の五右衛門 助平の始まりは小平の義雄 ね 二つ 仁木の弾正 お芝居の上では憎まれ役 三つ 三々五々六方で引け目がない 三で死んだか三島のおせん おせんばかりが女子でないよ かの有名な小野の小町が 京都極楽坂の門前で 三日三晩飲まず食わずで野たれ死んだのが三十三 まだあるよ 四谷 赤坂 麹町 チャラチャラ流れるお茶の水 イキな姐ちゃん立ち小便> (16 葛飾立志編) (四谷 赤坂 麹町 チャラチャラ流れる御茶ノ水) なんて (水道管はうたうよ 御茶ノ水は流れて 鵠沼に溜まり 荻窪に落ち・・・ ・・・・おおそれみよ 瀬田の唐橋 雪駄のからかさ ) (大岡信 「地名論」) と比べてそんなに遜色があるとも思えない そして 寅さんはこんなことも言っているよ <ふるさとは遠くにありて思うもの とか申します ・・・・ ゆきずりの旅の女の面影に 故郷に残した妹を思い出しては 涙をこぼす意気地なしでございます・・・> (6 純情編) ここでは室生犀星の「小景異情」を思い出してのこと 詩人寅さんの面目躍如たるところ <ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの ・・・ 一人都のゆふぐれに ふるさとおもひなみだぐむ そのこころもて 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや> 何せ寅さんは てきや稼業に身をやつして放浪の旅を続ける のだから かの西行や芭蕉にも似た心根を持つ 西行は こよなく桜を愛し 桜狂いの歌人ともいわれた 西行の和歌総数二千首のうち 桜の花をうたったものが二百 三十首にのぼるという 寅さんにしてもそうである シリーズ第一作「男はつらいよ」から最終48作「寅次郎紅の花」 まで 妹さくらを思わない日はなかったであろう 兄寅次郎と妹さくらの間には いつもお互いを思いやる心情が 流れている たとえ口喧嘩をすることがあっても <さくら> 「お兄ちゃんは カラーテレビもステレオも持ってない けど そのかわり誰にもないすばらしい物を持って るものね」 <寅> 「何だ それ えっ? 俺のかばん開けて見たのか」 <さくら> 「違うわよ 形のあるものじゃないわ} <寅> 「なんだよ屁みたいなものか?」 <さくら> 「違うわよ つまりさ 愛よ 人を愛する気持ちよ」 (11 寅次郎忘れな草) 西行の桜 寅さんのさくら 正に好一対ではないか 寅さんとさくらは兄と妹の愛 恋愛感情として寅さんが愛していたのはリリー(浅丘ルリ子)だ ったろう 寅さんの 愛に関する持論はこうである <あけみ> 「愛ってどういうこと?」 <寅> 「めんどうくせえこと聞くなあ」 <あけみ> 「だって分かんないんだもん」 <寅> 「ほら いい女がいるとするだろう 男がその女を見て あーこの女を大事にしたいなあ そう思うだろう それが愛じゃねえのか」 (36 柴又より愛をこめて) という寅さんなのだが・・・ リリーと寅さんは 会えばいつもこんな調子なのであった <リリー>(浅丘ルリ子)「かっこうなんか悪くったっていいから 男の気持ちをちゃんと伝えてほしいんだよ 女は 大体ね 男と女はどっかみっともないものなんだ 後で思い出して顔から火が出るような恥ずかしい ことだってたくさんあるんだ でも 愛するっていう のはそういうことなんだろう きれいごとなんかじゃ ないんだろう」 <寅> 「ちょっと待て 俺はな 男は引き際が肝心だと言って るんだ それが悪いのか」 <リリー>「悪いよ バカにしか見えないよ そんなのは 自分じゃ かっこいいつもりだろうけど 要するに卑怯なんだよ 意気地がないんだ 気が小さいんだ 体裁ばかり考え るエゴイストで 口ほどにもない臆病者で ツッコロバシ で グニャチンで トンチキチーのオタンコナスだよ!」 (48 紅の花) 寅を愛していればこその悪態であり ふたりの口論は夫婦喧嘩に 近く 親しいからこそ 歯に衣を着せない激しいものになる いっぽう 恋の方はといえば 新珠三千代 若尾文子 池内淳子 吉永小百合 八千草薫 岸恵子 京マチ子 藤村志保 木の実ナナ 大原麗子 桃井かおり 松坂慶子 竹下景子 秋吉久美子 三田佳子 夏木マリ かたせ梨乃 その他大勢 それこそ「もったいない」マドンナに ゆきずりの恋・片想いの恋・勘違いの恋 恋のバリエーションを すべてこなしたが 「たわむれの恋」は一度もなかったし失恋を しなかったことも一度もなかった あまたの失恋をし最後の「紅の花」ではリリーとは 11 忘れな草 15 相合い傘 25 ハイビスカスの花 以来の再開を果たすのだが 恋愛至上主義者の寅さんとは ついに結ばれることはなかった これは余談だが 寅さんこと 渥美清は本音のところ 漂泊の 俳人 尾崎放哉 や種田山頭火をやってみたかったらしい しかし放哉はNHK松山によって 橋爪功主演で先をこされるし 山頭火の方はこれもフランキー堺で製作され果たされなかった でもこのエピソードは 淋しき放浪の旅人としての寅さんこと 渥美清 渥美清こと車寅次郎の真骨頂を示すにふさわしい話 ではないか
2006.10.30
コメント(0)
蜩 たしかこのへんにあったはずだが 住宅街の家並みの奥 ちかくに神社もあったような いちまいの表札 そこには「蜩」と書かれていた その読みをそのときは知らなかったのです なんと読むのだろう ずっと気になっていた あるとき北原亜以子の時代小説を読んでいた その小説の題が”慶次郎縁側日記”のうちの「蜩」 「ひぐらし」だったのだ ひぐらしさんを探して ふたたび住宅街を訪ねてみたけど 記憶の迷路は奥の方でぼーっとかすんで ひぐらしさんの家は二度とみつからなかった
2006.10.27
コメント(0)
三題噺 <時間と夢とが お互いを 裏切るとか裏切らないとか> 詩人Aさんの場合はこうだった 『 渓川で カワセミが ホバーリングしているのを見た 』と 友人に聞いたAさんは いたく感動した もしかしたら そのとき時間は 停止していたのではないか と思ったほどだったらしい 『 夢を見たのだが 夢のなかの時間には 色がついていたよ 』 友人からこの話を聞いて A さんは 再び感動した ・・・・そうか 時間は彩色されていたのか・・・・ 停止した時間やら カラー印刷された時間やら あるとき 『<真理>を補正する概念は何ぞや』と ノーベル賞を受賞した理論物理学者の ボーア博士が弟子に訊かれたとき 『それは <純粋>だよ』と即座に 答えが返ってきたというエピソードを読んで 三度び Aさんは感動し 夜も眠れぬ位に悶えた そして Aさんは感動を一編の詩に書き上げた それは まさに言葉のタペストリーのようだった カワセミ・時間の色・真理を補正する純粋 (すべての道はローマに通ずる) 三つをリンクするチェーンの役目を果たすのが道ならば チェーンの先にあるものは栄光のローマならぬ 一編の詩に相違ないのだが・・・ タペストリーのなかで カワセミも時間も真理も 道に迷っているようだった 可哀想なカワセミは いつまでホバーリングを続ければいいのか Aさんは 詩と真実のタペストリーの前で一時は呆然自失したが いまも模索をやめることはないようだ
2006.10.27
コメント(0)
( 姉弟悲傷の巻 ;1 ) 金烏臨西舎 金烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み 鼓声催短命 鼓声(こせい)短命を催(うなが)す 泉路無賓主 泉路(せんろ)賓主(ひんしゅ)無し 此夕誰家向 此の夕べ 誰が家にか向かわん (大津皇子 「臨終」 懐風藻) 日は西のやかたに傾き、時刻を告げる太鼓の音はわが短い命を せきたてる。 迎えてくれる主人もない黄泉路(よみじ)のひとり旅、今宵このわれ はいずこに宿るやら。 ( いまはのきわに詠んだ大津皇子の辞世の詩として漢詩集「懐風藻」 に収載されている ) 平均寿命が80歳近くにまで延びた現代にあって、何気なく『生き急ぐ』 などという言葉を口にすることがある。 古代の人々の人生は、四十五年であった。 人々は絶えず死と接しており、生きてある限りは全てのエネルギーを 生に向けていた。 人生は短かかったが、それだけに強烈であったと言える。 現代人が口にする『生き急ぐ』などとは、全く次元を異にする緊張感が あった筈である。 大津皇子の短い生涯のなかにその典型を見る思いがする。 朱鳥(あかみとり)元年(686年)、大津皇子は、亡き天智帝の后であ る盧鳥野讃良(うののさらら)により、謀叛の嫌疑から死を賜り、従容として 首をくくられて死んだ。25歳であった。 当時は遺体が血に塗れることを恐れる考え方があり、貴人の死刑は、 おおむね絞首刑であったとはいうが、あまりにも悲しい最期であった。 大津皇子の悲劇的な死に至る道程には、いくつもの物語があった。 (つづく)
2006.10.25
コメント(0)
有間皇子(ありまのみこ)のこと それは 愛というべきでもない それは 恋というべきでもない そこはかとなく こころの琴線に響きあう 張りつめた糸だったのだろうか 飛鳥の宮廷において、額田女王(ぬかたのおおきみ)は、 孝徳天皇の御子である有間皇子に、何故か心惹かれる ものがあった。 皇子は父帝崩御のあと、父帝と同じように孤独な立場に 置かれていた。 父帝を失ったのは十五歳のとき。 難波津から飛鳥へ遷ったのは十七歳のとき。 額田は、先帝に仕えた関係から、有間皇子の許に伺候 する機会がしばしばあり、聡明怜悧な若い皇子に接する ことが多かった。 異性に惹かれる思いとは違ってはいたが、全く別個のも のとも言いかねた。 鏡のように研かれた玉を掌中で慈しむような気持ちでも あったろうか。 額田は、歌ができたら見せて戴きたいと皇子に言った ことがあった。 皇子は、「自分は悲しみが深い時でないといい歌が生ま れないような気がする」と告白した。 額田はこのとき、皇子を見舞うであろう将来の運命を予感 し、暗然たる思いに胸をふたがれた。 34代舒明天皇亡きあと、その皇后宝皇女が皇極天皇とし て即位(642年)したが、在位4年で弟の軽皇子に譲位した。 それが、36代孝徳天皇であり、有間皇子の父でもあった。 孝徳帝は、飛鳥から難波に遷都する。 そして、この頃から中大兄皇子との対立が深くなる。 舒明天皇とその皇后宝皇女(=皇極・斉明天皇)の御子で ある中大兄皇子は、難波宮から倭京に戻ることを孝徳帝に 奏上したが、拒否されると、先帝皇極や、孝徳の皇后である 間人(はしひと)をはじめ、百官を引き連れ、孝徳を置き去り にして飛鳥に戻ってしまった。653年のことだった。 孝徳は恨みを残し失意のうちに病死する。在位10年にして 孝徳帝が亡くなると、皇極帝が重祚し、斉明天皇として即位し (655年)、都は難波から再び飛鳥に遷ったのだった。 658年、孝徳の遺児有間皇子は、蘇我赤兄(そがのあかえ) の計により、謀叛の疑いにより捕えられる。 皇子は、牟婁温泉に滞留中の女帝斉明とその皇太子である 中大兄皇子の許へ引き立てられて行った。 そして、皇太子の訊問をうけての帰路、紀の国の海岸にある 藤白坂(海南市藤白)で、無残にも絞殺されたのだった。 額田は、牟婁からやって来た女官の一人によって、皇子が死 を前にして作ったという歌二首を示された。皇子が牟婁に引き 立てられて行く途中、岩代というところを過ぎる時に作った歌で あるということであった。 磐白(いはしろ)の 浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見む (万葉集 巻二) <岩代の浜に生えている松の枝を結んで行くが、身の 潔白が証明され再び還ってくる日があったら、この 地を過ぎる時、自分は自分が結んだ松の枝を見る ことであろう。そのような日は果たして来るのであろ うか、来ないのであろうか。> 家にあれば 筍(け)に盛る飯(いい)も 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (万葉集 巻二) <家に居れば食器に盛って食べる飯であるが、こうして 旅にある身は、いま椎の葉に盛って食べている。> 額田は、悲嘆と感動に涙した。 有間は、この二首の歌を詠むために、この世に生を享けて 来た。また、この歌を生まんがために、悲運は皇子を襲った のだと額田は確信した。 歌の心は悲しみで満たされていた。悲しみは深く、凛として 澄み切ったまま額田の胸中に染み渡った。
2006.10.24
コメント(0)
『菊花賞』の日 お父さんといっしょに 競馬場行きの電車に乗っていたら 途中でとなりの席に どこかのおじさんが掛けた おじさんは少し匂いがしたので <お酒とも違う変な匂いだな>と思いながら おじさんのズボンの膝のあたりを見ると 魚の鱗が一つくっついていた <おじさんは魚屋さんなんだな> 「いわし」やら「さんま」やら 「まぐろ」やら「かれい」やら <いろいろな魚の匂いをブレンドすると おじさんみたいなな匂いができるんだ> でも馬なんかの場合は 優秀なサラブレッドの遺伝子が うまくブレンドされて もっと速く走る子供が 産まれるのだそうですから 魚屋のおじさんにしみこんだ匂いからも 何か産まれるかもしれない 仕事の匂いだから きっとお金がいっぱい産まれるのかもしれないな かつて、こよなく馬を愛する詩人がいた。 名馬に寄せて多くの詩を詠んだ。 ( テンポイント 今 われらと別れを告げ その魂は北へと帰る 一羽の白鳥 悲しきこの使者は 野をこえ 山をこえ ひた翔ける ああ 津軽の海を渡り 勇仏原野の遅い春 母のもとに死を告げんと ) ( そのむかし テンポイントという素晴らしい馬がいました その馬はみんなの真珠の涙をあつめて 千羽の鶴と共に天翔けて行ったのです そして 遥かに日高の方を見やりながら トウショウボーイさらば と云ったということです ) 志摩直人; 「テンポイント栄光の記録」より
2006.10.23
コメント(0)
朱色の砂子ちりばめて 誰が名付けた水引草 さてさて 釣瓶落しに陽が沈む
2006.10.20
コメント(0)
秋の奢り つわぶき花つけ 三日見ぬ間の黄金色
2006.10.20
コメント(0)
大輪の「ひまわり」 ゴッホの季節は移ろい いまは ひとり ミレーの「晩鐘」を聴いています 秋の夜長を あなたはいかがお過ごしでしょうか 山の端の こぬれのはるか彼方 中天に輝くあまた綺羅星の眷属 カシオペアは美しさを誇るあまり かのポセイドンの怒りをかったというが この和名錨星をば眺めやり 一編の詩を詠ずることかなえば 安らかにこころの投錨もできるというもの 降りしきる落ち葉 どんぐりの落果 幽かな音にも あなたの聴覚は研ぎ澄まされ 今宵も眠れないのでしょうか わたしは せめて今日一日の小康をめでて 眠りにつくこととしましょうぞ あなたも どうか 御身ご自愛のうえおやすみください 中国 中唐の詩人「韋応物(いおうぶつ)」の五言絶句を 自由詩に脚色してみた。 原詩は次のとおりです。 秋夜寄丘二十二員外(秋夜、丘二十二員外に寄す) 懐君属秋夜 君を懐(おも)うは秋夜に属し 散歩詠涼天 散歩して涼天に詠ず 山空松子落 山空しゅうして松子(まつかさ)落ち 幽人応未眠 幽人応(まさ)に未だ眠らざるべし * 韋応物=(736~?)長安の人。名門の出身だったが、若いころは 任侠を好み、玄宗の近衛兵として仕えた。安禄山の乱で職を失って から勉学に努め、地方官を歴任した。詩風は王維・孟浩然の流れを くみ、柳宗元とあわせて「王孟韋柳」と呼ばれている。詩は技巧を用 いず天衣無縫、当時比肩するものがいなかった。 小説家で詩人の井伏鱒二は、この詩を洒脱なスタイルに訳している。 < ケンチコヒシヤヨサムノバンニ アチラコチラデブンガクカタル サビシイ庭ニマツカサオチテ トテモオマエハ寝ニクウゴザロ > フランス文学者であり、晩年は日中文化交流に尽力した故中島健蔵氏 は、若いころから井伏さんの親友で、井伏さんは彼を「ケンチ」と呼んで いた。韋応物が友人の丘丹に送った詩をそっくり自分とケンチのことと して自由闊達に訳したのだった。 * 二十二 = 一族中の同世代の男子を年令順に並べたとき、その順番 が二十二番目にあたること。 * 員外 = 員外郎の略で、定員外の官職につける称号。
2006.10.19
コメント(0)
(つづき) ピースなく セブンスターなく 紫煙流れず 紫苑咲く秋を ひとりさびしむ (草丸) このへんで、「たばこ」乃至は「喫煙者」受難の歴史を、簡単に 振り返っておかなければならない。 2006年、厚生労働省は生活習慣病対策の一環として、喫煙率 引き下げの数値目標設定など、一連の禁煙対策を打ち出した。 これは、厚労省の「健康日本21」に盛り込む予定だった。 ところが、9月になって、JTはこれに反論書を提出、攻勢に出た のだった。反対意見はおおよそ次ぎのように要約される。 曰く; 「嗜好品への判断に国家権力が介入すべきではない」 たばこ増税による財源を健康づくりの特定財源とする案に対しても 曰く; 「財政の硬直化を招く」と批判。 また、健康被害に関して 曰く; 「過去50年間に喫煙率が減少する中、肺がんは10~15倍 に増えた」 と病気との因果関係に疑問を示したうえで、 「世界保健機構(WHO)が示す健康への影響は喫煙が4,1% で、アルコールは4,0%。なぜたばこだけを狙い撃ちするのか」 と反発した。 厚労省は「数値目標は、韓国のほか米国、英国、フランスでも導入さ れている」と例によって例の如く、外国の場合を引き合いに出す芸の無さ。 喫煙者は、「だからどうしたというのさ、わたしは日本国民なんだけど」と 言いたくなったことだろう。 そして、10月に入るや、厚労省は2010年度までに達成すべき喫煙率 の引き下げの数値目標を新設する方針を固めた。 (04年現在) (1案) (2案) (3案) 男性 43,3% → 30% 35% 25% 女性 12,0% → 10% 10% 5% 以下に引き下げる3案を検討したのだった。 1案は喫煙者で「たばこをやめたい」と考える人がすべて禁煙出来た場合。 2案は禁煙の自信のない人を除き、禁煙したい人が全て禁煙出来た場合。 3案は1997年調査の喫煙率を半減させた場合。 から導き出したのだそうな。 いかにも、偏差値至上主義教育を受け、かつマニュアルがないと何事も 判断できない、硬直思考のお役人が考えそうなケッサクな案ではあった。 スモーカー(ヘビーではないが)である筆者は、禁煙論を目にし、耳にする たびに、刷り込み(インプリンティング)理論を思い出すのである。 これは、オーストリアの動物行動学者、コンラート・ローレンツが唱えた 理論である。 <孵化したアヒルの子が最初に出会った動く対象が、アヒルの母親ではなく 白鳥や人間の女性、もっといえば自転車であっても、その動くものを母親 と思ってしまうという現象がある。 たとえば、自転車を見たら、「あらお母ちゃんだ」と走っていく。 頭の中で「自転車=お母ちゃん」と刷り込まれてしまったからだ> 喫煙者にとっては、「たばこ=慰藉」「一服=たばこ」と刷り込まれてしまっ ている。 「喫煙=有害なる悪事」という事後の刷り込みは通用する筈がないのだ。 (つづく)
2006.10.18
コメント(0)
( 遥かなる越の姫 4.) 葦辺行く鴨の羽がひに霜降りて 寒き夕べは大和し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻一) 石(いは)走る垂水の上の早蕨の 萌え出づる春になりにけるかも (志貴皇子 万葉集巻八) 持統天皇は、草壁皇子の遺児軽皇子への直系継承を推進 しようとした。 そして、軽皇子が長成するまでの皇位を埋めるべく、あえて 即位したのである。 持統天皇の十一年(697)、彼女は譲位して上皇となり15歳 の軽皇子を文武天皇として即位させた。しかし文武は在位十一 年にして25歳の若さで没する。 707年;草壁皇子の妃(軽皇子の母)阿閇皇女(あべのひめみこ) が43代元明天皇として即位。在位9年。 715年;元明天皇の譲位により、天武・持統の直系の孫娘であり 草壁を父とし、阿閇を母とする氷高皇女が元正天皇として即位。 在位10年。 724年;文武天皇の子、首(おびと)皇子が聖武天皇として即位。 在位26年。 749年;聖武天皇の子、阿倍皇女が孝謙天皇として即位。 在位10年。 758年;天武天皇の子、舎人親王を父とする大炊(おおい)王が 孝謙天皇の譲位により淳仁天皇として即位。在位7年。 764年;孝謙天皇が重祚により、称徳天皇として即位。在位7年。 称徳天皇には配偶者がなく、皇位継承をめぐって疑惑と悲劇が 繰り返された。 このように、ここまでずっと天武系の天皇即位が続いたのであったが、 770年、皇嗣を定めないまま称徳天皇が崩御すると、にわかに天智系 の志貴皇子の子、白壁王が立太子することとなった。 正三位大納言、すでに62歳であった。諸王のなかでも年長で、祖父 天智帝の功績も顕著であるからと理由づけられれたが、天武系の人材 不足もあった。また、藤原氏一族が結束し、権勢挽回を目指して強引に 推進したものともいわれる。 いずれにしろ、白壁王は父志貴親王と似た境遇にあって、天武系の 皇親たちが、政争に巻き込まれて次々と命を絶たれていく中を、禍を 避けるため、律令官人として、身を酒に託して淡々と過していた。 そして770年、立太子の二ヶ月後、光仁天皇として即位した。 光仁天皇は、父志貴親王に「御春日宮天皇(春日ノ宮ニアメノシタ シラシメシシオオキミ)」と追尊した。 また、光仁天皇即位から15年後の延暦4年(785)、息子である 桓武天皇は、曾祖母である越道君伊羅都女に「太皇太夫人(タイコウ タイブニン)」の称号と朝臣(あそん)の姓を贈った。 遥かなる越の姫は、幾多の山坂、谷を辿った末、曾孫の代になって 漸く明るい陽の目を見ることが出来たのであった。 (この項 おわり)
2006.10.17
コメント(0)
(遥かなる越の姫 3.) 吉野の盟会は、天武天皇が後継者として草壁皇子 を擁立し、天智天皇の皇子や天武の他の皇子らに, そのことを周知させた上で安定した政権を樹立して 行こうという狙いだったのだが・・・。 天武天皇十年、草壁皇子は皇太子に指定されたが 翌々年には、大津皇子も朝政に参画することとなり、 結局どちらが天武の後継者なのか判然としない状態 が続いた。 686年は、元号では朱鳥(あかみどり)元年である。 実際は天武十五年だが、7月病気回復を祈願した 天皇が、祥瑞の象徴とされている赤鳥にちなんで付け た元号だった。 天皇の病が篤くなるに従って、皇后の発言力が強く なって来た。それに伴って、皇后は大津を政治の中枢 から遠ざけようとしていた。 そして、9月天武は没した。 天武が没すると、皇后は即位することなく称制の形で 執政し、草壁皇子の即位をはかった。 そのため、政権の継承に意欲を見せる大津の発言を 捉えて謀叛の嫌疑をかけて処刑した。 しかし、そうまでして政敵を排除した甲斐もなく、草壁 皇子は28歳の若さで死没してしまった。 690年、皇后は正式に持統天皇として即位し、独裁的 な権力を握ったのだった。 その頃、志貴皇子は大和の高円山の西側にある離宮 を訪ねては、心身の疲れを癒していた。 天武天皇の皇統が勢力を得ていることとて、天智天皇 の皇子としての立場は容易ではなく苦労が多かった。 少しの不用意な言動が、即座に不穏な情勢を生ずる のだった。 そういう状況にあったればこそ、皇子の詠む歌は自ず から巧みさのなかに心の抑制を秘めていた。 むささびは木末(こぬれ)求むと あしびきの山の猟夫(さつを)に あいにけるかも (万葉集 巻三) 神なびの石瀬(いはせ)の杜のほととぎす 毛無しの岡にいつか来鳴かむ (万葉集 巻八) 夜行性のむささびが昼間おびき出されて、梢に逃げよう として姿を現し、猟師に捕まる。そんなむささびになっては おしまいだった。 だから皇子はひっそりと生きるしかなかった。 (つづく)
2006.10.16
コメント(0)
(遥かなる越の姫 2.) 草壁皇子と大津皇子は、石川郎女(大名児)をめぐり 相争っていた。 <草壁皇子の石川郎女に贈る歌> 大名児(おおなご)を おちかた野辺に刈る草(かや)の 束の間も我れ忘れめや (万葉集 巻二) <大津皇子の石川郎女に贈る歌> あしびきの 山のしずくに妹(いも)待つと 我れ立ち濡れぬ山のしずくに (万葉集 巻二) <石川郎女の大津皇子への返し歌> 吾を待つと 君が濡れけむ あしびきの 山のしずくに成らましものを (万葉集 巻二) 679年、天武天皇は、皇后と十五歳以上になる草壁、大津 高市、河嶋、忍壁、志貴の六人の皇子を率い、群臣を従え て、吉野の離宮に向かった。世に知られた吉野の盟会である。 この時天皇は49歳、皇后は35歳。 諸皇子のうちの年長者は、壬申の乱に功績のあった高市皇子 で26歳になっていた。大津や草壁と違って、母がやや卑母に 近(胸形君徳善の娘 尼子娘=あまこのいらつめ)かっただけに 皇太子になれる可能性が少なかったが、父天皇の命令とあれば 欣然として死地に赴く忠誠心を抱いていた。 志貴皇子は、河嶋皇子と同様に天智天皇を父とし、18歳になる 大津皇子にともに心を寄せていた。 河嶋は、23歳、天武の娘泊瀬部皇女(はつせべのひめみこ)を 妃にしている。 志貴皇子は、河嶋の異母弟で16歳、河嶋と同じく天武の娘である 託基皇女(たきのひめみこ)を妃としていた。学識もあり、歌にも長 じ大津皇子とは話が合った。 河嶋、志貴とも天智の皇子だったが、天武の娘を妃としていたので 盟会に呼ばれたのである。 もう一人の忍壁(おさかべ)皇子は天武の皇子だが、志貴と同じ16 歳、立太子の問題を真剣に考える年齢ではなかった。 天皇は、皇后が生んだ17歳になる草壁を皇太子にしたかったが、 草壁は身体が弱く凡庸な皇子であった。衆望は大津皇子に集まっ ていた。天皇は草壁が皇太子になったとき、せっかく軌道に乗りか けている政治体制が乱れるのではと危惧した。 そこで、今日の盟会となったのだった。 天皇は長い間、天神、地祇に祈りを捧げた後皇子たちに、 「ともに誓いを立て、千年の後々まで、ことを起こさないように」した いと考えている旨を述べた。 そして、皇子たちを代表して誓いを述べたのは草壁だった。 「天神、国神、および天皇に申し上げます。我々兄弟、長幼合わせ て十王は、それぞれ母を違えています。しかし、同じ母であろうと なかろうと、天皇のお言葉に従ってお互いに助け合い、争いは 致しません。もし今より後この誓いに背くようなことがあれば生命 は滅び、子孫は絶えまする。このことを吾は忘れません。過ちも 犯しますまい。」 草壁が代表して天皇に誓約する形をとったことによって、いちおう 草壁の優位は明瞭になった。 父天皇は、六人の皇子を抱いた後、叫ぶように宣誓した。 「天神、国神、もし朕がこの誓いにたがわば、ただちに朕が身を 滅ぼし給え。」 (つづく)
2006.10.13
コメント(0)
(遥かなる越の姫 1.) 高円(たかまど)の 野辺の秋萩いたずらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (万葉集巻二 笠金村 志貴皇子への挽歌) 古くは、日本海沿岸の敦賀湾以北を「越(こし)」と総称 していた時代があった。 七世紀末には、越前、越中、越後の三国に分立。 八世紀には越後から出羽が、越前から能登が、 九世紀には越前から加賀が分置された。 『日本書紀』の国生み伝説では、「大日本豊秋津洲(おお やまととよあきつしま)」とは別に「越洲(こしのしま)」を あげることが多く、かなり遅くまで畿内との直接的かかわり の薄い地域だったのである。 天智天皇の二年(663年)朝鮮半島の錦江の河口で起った 「白村江(はくすきのえ)」の戦いは、百済の遺臣とともに、 唐や新羅の連合軍にわが国が挑んだ海戦であったが、 結果はわが国の惨敗であった。 わが国では、都を近江国の大津宮(おおつのみや)に遷す などして、防衛体制を固めなければならなかった。 そのような緊張関係につつまれていた大津宮に、越の国 から、一人の女性がやって来た。 彼女は、越道君伊羅都女(こしのみちのきみのいらつめ) という名の女性で、天智天皇に仕えるために、はるばる 越の国から差し出されたのである。 天智天皇には、皇后をはじめとして多くの妻があった。 皇后 倭姫(やまとひめ)の他に 嬪(ひん)の位の女性が4名、 采女(うねめ)、宮人(くにん)として、 伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ= 大友皇子の母)を含め4名。 嬪は、王臣の娘から選ばれ五位以上の位を授けられた。 嬪の上位には、内親王から選ばれる妃(ひ)、王臣の娘から 選ばれる夫人(ぶにん)というような序列があった。 そして、その下位には、後宮に奉仕する采女や宮人と称ば れる女官がいた。 采女には、地方豪族、国造(くにのみやつこ)や県主(あが たぬし)、郡の大領・少領(長官・次官)の娘や姉妹で容姿 に優れた女性が、朝廷への忠誠の証として貢進されたという。 越道君伊羅都女は、采女にも所属せず、その下位の宮人 として送られて来たのであった。 父親である越道君は、地方(現在の金沢市近辺)の豪族で はあっても、当時の地方行政の組織の上では、まだ中央に それと認知されるべき地位を得ていなかったのであろう。 それだけ、越の国は遠国だったのである。 そんな、権力の背景からは隔てられていた越道君伊羅都女 が、天智天皇の寵愛を受けるには、それ相応の才覚、美貌 情愛のこまやかさに富む魅力を具えていただろうことが想像 される。 そして、天智天皇と越道君伊羅都女との間に七番目の末皇子 として誕生したのが志貴皇子(しきのみこ)であった。 (つづく)
2006.10.12
コメント(0)
(悲恋の十市皇女 3.) 旗幟野をかくし 埃塵天につらなる 鉦鼓の音 数十里に聞こゆ 列弩みだれ発して 矢の下ること雨の如し (日本書紀) 瀬田川の西岸と東岸に対峙した両軍。 近江朝廷側は総力を結集して瀬田橋の決戦に臨むが 大敗を喫する。 大友は、左右大臣らと一度は戦地を脱出するものの、 従うものは舎人二三人のみとなり、ついに山前(やまざき) の地で自刃したのであった。大友の近江朝廷での在位は 僅か八ヶ月余であった。 一ヶ月余の戦闘で、大海人は勝利し、飛鳥浄御原で天武 天皇として即位した。 十市皇女は、近江の都から飛鳥の父のもとに帰った。 675年4月、父天武帝の命をうけて、十市皇女は倉梯川 の河上に建てられた斎宮(いつきのみや)に赴くことにな っていた。 しかし、天皇の車駕がまさに発しようとしている時、にわか に宮中で病を発して薨じたのだった。 皇女は自ら命を絶ったのではないかという見方が一部に あったのも、ごく自然なことであった。 十市皇女の遺骸は赤穂(奈良市郊外)に埋葬された。 高市皇子の十市皇女への挽歌が三首「万葉集」に収めら れている。若くして死した十市皇女への抑えがたい思慕の 情が溢れている。 三諸(みもろ)の神の神杉夢にだに 見むとすれどもいねぬ夜ぞ多き <三輪山の神杉を見るように、あの今は亡き美しい 人にせめて夢のなかで会いたいと思うが、悲しみ で眠れない夜が多くて会うことができない。> 三輪山の山辺真麻木綿(まそゆふ)短木綿 かくのみ故に長くと思いき <三輪山の山辺に生えた苧(からむし)からとれる 木綿は短いが、そのようにまた十市皇女の生命 も短かかった。せめてもう少し長くあったらと思っ たのに。> 山振(やまぶき)の立ちよそいたる山清水 酌みに行かめど道の知らなくに <山吹の花の咲きかかっている山の清水は、 そこへ行けば亡き皇女が居ると思うのである がそこへ行く道が判らない。> 壬申の乱の殊勲者として高市皇子の声望は高かった。 しかし、天武と皇后は、高市が十市に近づくことを好まな かった。そのことで、高市の宮廷での地歩がいっそう上昇 するのは必然だったからである。 草壁皇子の立太子を想定する天武天皇と皇后讃良皇女 は、十市と高市の仲を断ち切らねばならなかった。 そこで、決定されたのが皇女の斎宮入りだった。十市皇女 はそのことを峻拒し出立直前に自殺し果てた。 高市もまた、自殺の原因が、おのれと皇女の仲にあること を自認して、三首の挽歌を作らないわけにはゆかなかった のであった。 哀切きわまりない、二人の悲恋は、歴史の波にはばまれ、 花開くことはなかったが、長く人々の記憶から消えることは ないだろう。 (この項 おわり)
2006.10.11
コメント(0)
(悲恋の十市皇女 2.) 671年12月、ついに近江の宮で天智天皇が没した。 そして、翌年6月大海人は吉野を脱出し、近江攻略を 決意する。いわゆる壬申の乱が起こる。 大海人の挙兵は、近江の宮の額田王と十市皇女の許 にも伝わる。 高市皇子は、すでに近江を出て吉野に赴いていた。 高市皇子は、、近江方に有利、吉野方は敗亡に終わる と見ていたけれども、父大海人皇子の馬前で死ぬのを 覚悟で吉野に行ったのだと、十市皇女は信じていた。 十市皇女は、高市皇子と別れなければならない自分の 立場が悲しく、そのことを多少の恨みを籠めて額田王に 訴えたことだろう。口には出さなくても、十市皇女は言い たかったに違いない。 ・・・・母であるあなたが、大友皇子さまの妃となる ようにおっしゃったので、わたしはそのように いたしました。でも本当は高市皇子さまのこと を忘れることができないのです。 母であるあなたに全部責任があるとは申しは しませんが、しかしあの時、あなたの言葉で 決まってしまったのです。 その高市皇子さまとも、もうお別れしてしまい ました。あんなにわたしのことを思っていてくだ さった高市皇子さまと再びお会いすることはで きないのです。・・・・・ しかし、母額田王の言葉はこうだった。 『大友皇子さまの妃であることをお忘れにならぬ ように。__こう伝えて貰いたいと吉野に赴か れるに際して、父皇子さまは仰せになりました。』 そうこうしているうちに、まだ十歳の大津皇子(おおつのみこ)が 吉野方に加わるために、都を出たらしいという噂が立った。 その噂はやがて大津皇子を奉じて、大勢の朝臣、武臣らも行を 共にするという事実となって現れた。 7月半ば、近江の王宮内には、亡き天智天皇の皇后倭姫王を はじめとして、7人の妃らが集まっていた。 また、大海人皇子の妃たちと幼い皇子たちも肩を寄せ合って いたし、高市皇子の母である尼子娘(あまこのいらつめ)も、 大津皇子の姉でまだ十二歳の大来皇女(おおくのひめみこ) <母大田皇女はすでに亡くなっていた>の姿もあった。 盧鳥野讃良皇女がこの席にいなかったのは、ただひとり許されて 大海人に同行して吉野に赴いていたからだった。 大友皇子は、予測できない合戦の勝敗の帰趨によって、敵味方 に分かれざるを得ない妃や皇子たちに何を語ったことだろうか。 恐らくは、それぞれを見舞うであろう悲喜こもごもの運命に従順 に生きてほしいと願ったのではないだろうか。 そして、大友は、全軍を率いて王宮を出、瀬田に向かった。 (つづく)
2006.10.10
コメント(0)
(悲恋の十市王女 1.) 額田王は、若いころ、天智天皇の同母弟大海人皇子 (おおしあまのおうじ=後の天武天皇)の思い人となり 十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだ。 天智天皇は、大海人皇子に自分の娘二人、つまり 盧鳥野讃良皇女(うののさららのひめみこ) 大田皇女(おおたのひめみこ) を嫁がせているが、大海人の側からすれば、恋人の 額田王を兄に譲り渡したその代償として兄からもらった と表現しても、あながち誤りではなかった。 額田王は、天智天皇の後宮に迎え入れられ、大いに 文才を発揮し、宮廷人の注目を浴びる。 一方、大海人はのちのちまでも額田王への想いを捨てる ことができなかったのであった。 「天皇(天智)蒲生野に御猟したまう時額田王の作れる歌」 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る <茜色の匂っている紫野を行き標野を行く、 遠くで君が袖を振っている。その大胆な 仕種を森番は見ていないであろうか> 「皇太子(大海人)の答えましし御歌」 紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆえにわれ恋ひめやも <紫草からとれる美しい紫色のように 匂うような君を憎く思っていたら 人妻でもあるのだから、どうして恋い慕い ましょう。憎くないからこそ、人妻であろうと なかろうと、そんなことにお構いなく、 このように恋しているのです。> 大海人と額田王との間に生まれた十市皇女は、 そのころ、大友皇子の妃となる。 それは、天智天皇のはからいで、大海人皇子が うけいれたからには、政略的な婚儀ではあっても 従うほかに方途はなかった。 十市皇女は、母のもとを離れて若い大友の愛を うけ、まもなく葛野王(かどののおおきみ)が誕生する。 それ以前、十市皇女には、高市皇子(たけちのみこ) との間に浅からぬ恋の想いがあった。 671年正月、大友皇子は太政大臣に任ぜられ、 天智天皇の実質的な後継者となった。 天智天皇は、皇后倭姫王(やまとひめのおおきみ)との 間に男子がなかった。 大友皇子は天智天皇の皇子ではあったが、母が 伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ) という、血の尊貴性の弱さと、天智の同母弟である 大海人の存在から、その地位は磐石ではなかった。 しかし、同年末天智の重病に際し、大友皇子と皇位 を争うことによる生命の危険を敢えて避けた大海人 は、出家し吉野に隠棲する。 母である額田王、それはまた父の兄天智の妻でもあった。 父であり、同時に夫大友の政敵でもある大海人。 必ずしも意に添わぬ結婚相手である大友皇子、それは また父の兄天智の子でもあった。 そして、十市皇女には葛野王という子があり、高市皇子 という恋人があった。 こんな複雑な人間関係の中に生きるしか道のなかった 十市皇女の悲劇は、それだけには留まらなかった。 (つづく)
2006.10.07
コメント(0)
『諸国の天女』 永瀬清子 < 諸国の天女は漁夫や猟人を夫として いつも忘れ得ず想っている、 底なき天を翔けた日を。 人の世のたつきのあはれないとなみ やすむひまなきあした夕べに わが忘れぬ喜びを人は知らない。 井の水を汲めばその中に 天の光がしたたってゐる 花咲けば花の中に かの日の天の着物がそよぐ。 雨と風とがささやくあこがれ 我が子に唄えばそらんじて 何を意味するとか思うのだらう。 せめてぬるめる春の波間に 或る日はかづきつ嘆かへば 涙はからき潮にまじり 空ははるかに金のひかり あゝ遠い山々を過ぎゆく雲に わが分身の乗りゆく姿 さあれかの水蒸気からみどりの方へ いつの日か去る日もあらば いかに嘆かんわが人々は きづなは地にあこがれは空に うつくしい樹木にみちた岸辺や谷間で いつか年月のまにまに 冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる。> ころは7世紀、皇極4年(西暦645年)中大兄皇子が 中臣鎌足と謀り、専横を恣にしていた蘇我入鹿を斬 った。これから約50年、天皇の御代は第36代孝徳 から斉明・天智・弘文・天武・持統と推移し、都も飛鳥 から難波へ、難波からまた飛鳥へ、さらに近江へと 遷った。このころの日本は古代国家の成立期であり、 国の形がまだどのように固まるかもわからない青春 にあたる。権力者の間では、骨肉相食む悲劇が次々 に起こる暗殺と策謀の時代であった。 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 額田王のこの歌は、大海人皇子への献歌ではあっても 皇子の実の兄天智天皇をも意識したものでもあった。 額田王には、すでに大海皇子との間に十市皇女があった が、此の頃天智天皇の後宮に入っていたのである。 額田王は、大和の郷里の家を出て、宮中の祭事に関係 する額田郡の額田氏に引き取られて育った。 天皇に仕える侍女であり、神事に奉仕する巫女であり、 ときには、天皇の命によって、天皇に代わって歌を詠む こともあった。 そして、額田王の姉鏡王女(かがみのみこ)もかつては 天智天皇の恋人だった。 姉が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらしも (中大兄皇子) 秋山の 樹の下隠り 逝く水の 吾こそ益さめ 御思よりは (鏡王女の返し歌) 男性が、国造りのためとはいえ、闘争に明け暮れるなかに あって、それを取り囲む女性には、自分の意思ではどうに もできない翻弄する運命がつきまとっていた。 このようにして、時代の狭間にあって垣間見ることが出来る 人々はまだ恵まれた方だったろう。その陰に流れ星の光芒 のように、一瞬の輝きを誰に注目されることもなく消えた生命 も数多くあったに違いない。 額田王の時代を中心に、そんな男女の哀歓と愛と恋のドラマ を見ることができないだろうか。 (つづく)
2006.10.02
コメント(0)
全19件 (19件中 1-19件目)
1