書評日記  パペッティア通信

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Feb 26, 2005
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カテゴリ: 歴史




その衝撃もあるのかこちらの書評子の方々もえてして好意的である。かなり前に読んで放置していたのだが、そういう訳にもいくまいと、勝手に思いこんで執筆することにした。やれやれ、正直書くのがつらい。

アウトラインは、表題からほぼ自明であろう。近代に輸入された恋愛は、優生学の理想の推し進めるものとして、近代のほぼ全期間にわたって積極的に語られてきた言説であったことを筆者は明らかにしようとする。優生学のもつ人種改良の夢…西欧人へのコンプレックスを抱いていた当時の人々の気持ちは、今の我々にも十分すぎるくらい理解できるものであろう。なにしろ我々は、つい近年、ワールドカップで「ベッカム様」ブームのすさまじさを目の当たりにしたばかりではないか。

もともと、恋愛と結婚は結びつくものではない。結婚は恋愛の堕落、と捉えられてもいいはずである。ところが、「恋愛」はいつしか結婚へと結びつき、幸福とともに語られるような言説へと変容をとげてしまう。そこには、家業の再生産単位「イエ」の維持と発展を目的とした、日本型の結婚の変革も意図されていた。大正年間、一世を風靡したエレン・ケイの母性保護思想と恋愛至上主義と平和主義の裏にある、恋愛の究極目標としての「優生生殖」。与謝野晶子と平塚雷鳥の間で戦わされた「母性論争」の裏にある「国家のための恋愛結婚」「国家的母性」の摘出。筆者の丁寧なメスは、国家社会に優良な小国民を育成するため、優生学の理念「優生生殖」を推し進めるものとして積極的に称揚されていく、恋愛結婚にまつわる言説を明らかにしていく。そこにみられる、個人と個人の恋愛こそが、男女にとって当然優生生殖をえらばせ、そして優良な子孫をもつことの「幸福」が実現されるのだ、とする論理。そしてその夢は、ファシズム崩壊後の戦後になって廃棄されるどころか、むしろ恋愛結婚の定着という形で完成されていった。そして、「血」をもって語られた優生学の言説はナチスやファシズムの崩壊とともに影を潜めたものの、今度は「民族のDNA」などにかわって現代日本に通行しているとして、石原慎太郎などのネオナチ的言説への警鐘を打ち鳴らして本書は終わる。

幸福という、人間の内面から、訓致せんとする近代国家。
女性を優生生殖の道具として国家に奉仕させる仕掛け。
恋愛を通じた自我の目覚めは、
国民国家という大いなる<全体>の一部であった…
自分の夢、自分の欲望という幻想に浸りきっているとき、


著書の強烈な問題意識からくる、印象的な言葉は多い。本書は、たしかにそうした箴言を読みたい人にも、そしてポストモダニズムが問いかけた近代国民国家の「問題系」を理解したい人にとっても、格好のテキストといってよいだろう。しかし、評者自身は、こうした「ちょっと捻っただけ」の近代国民国家の告発というのは、正直いっていい加減うんざりなのである。

そもそも考えてみればいいのだ。恋愛結婚も優生思想も近代の産物である。そして優生学は、生殖という意味で「結婚」を重視しないわけにはいかない。なら近代日本において、恋愛と優生学が結婚を通じて媒介され、同居した言説があらわれることなど、あまりにも必然ではないか。マニアックに探していけば、この2つを関連づけたものはいくらでも現れるはずである。問題は、それが「恋愛」「優生学」においてどれくらいの比重をしめる言説であったか、であろう。むろん、筆者はそんな都合が悪いことを語ろうともしない。それどころか、恋愛結婚を称揚する女性の文章と、優生学からの立場から恋愛結婚をもとめる男性の文章とが、一緒に配置された「雑誌」をみつけてきて、恋愛結婚がこうした甘い言葉とともに「優生学に回収」され染み渡っていく危険性を語るのだ。ほとんど「詐欺」としか言いようがない。

恋愛結婚は優生学を必要としないが、優生学は恋愛結婚を必要としていた。このあまりにも自明な非対称性について鈍感すぎるのである。優生学は社会改造のプログラムであった。ならば、社会改造をもとめる他のプログラムと容易に結合するであろう。断罪された優生学とともに、他の社会改造のプログラムを葬りかねない。その最大の被害者は、大正期母性論争の当事者である、フェミニスト平塚雷鳥である。

「国家の母」的な観点から、子育てをになう女性について社会の保護を与えるべきだと訴えた平塚雷鳥。加藤秀一は、国家・種族に回収される全体主義であることをもって、「自称」細心の注意を払って、嫌々ながらも弾劾をくわえる。さも、本意ではないかのように。しかし、我々は知っている。明治から大正にかけて、徳富蘇峰から平塚雷鳥にいたるまで、強烈な「公」意識に裏打ちされた、いささか辟易させられるような「公」優先の言説がメディア空間に横行していたことを。そして、我々は知っている。松本治一郎、婦人運動家、社会主義者、社会改造を夢見たあまたの人間が、平等をもとめて昭和ファシズムにおいて国家に参画していったことを。

むろん評者も、「私」を断固として守り抜かねばならないことに異議はない。「公」が「私」に浸透する全体主義について、その恐怖を共有し抵抗しなければならないことに、いささかの躊躇もない。ファシズムの時代、「私」の領域にたてこもり抵抗した人々に敬意を払おう。しかし、そのファシズムの時代、「私」の領域を重視し、抵抗した人たちとは、どういう人間であったのか?。そしてこの時代の「私」とは、そもそもなんであったのか。粛軍演説で有名な斎藤隆夫は、たしかに抵抗した。しかし、民政党は退職金積立法案といった内務省の革新官僚が作成した社会政策をつぎつぎ国会で葬り去った、貧しき人々に関心をしめさぬ人たちでもあった。そもそも明治・大正・昭和期にあって「私」とは、女性の、部落民の、労働者の「抑圧の当事者」だったのではないのか?。そのような「私」を隠蔽し、「公」による救済をもとめたものを、嫌らしいとしかいいようがない筆致で攻撃する加藤秀一。そこには、平塚雷鳥個人を内在的に理解していこうとする、思想を語る上での最低限のマナーがかけている。

つくづく思う。
政治思想史研究とは、所詮「自分語り」にすぎないのではないか、と。
適当な理論にもとづいて、適当に史料をみつけてきて、社会と切り離して政治思想史を語る。そもそも政治思想史という学問の創設者、丸山真男の徂徠学にしてもそうなのだから、致し方ないのかもしれない。一体、彼の儒教に公私概念の萌芽をみつけて、それが丸山以外になんの意味があるのか、評者にはまったく理解できない。そこにあるのは、研究者の問題意識から「切り出された徂徠」であっても、決して「徂徠本人」ではないからである。最近著名な原武史にしても、『鉄道ひとつばなし』(講談社新書)、『「民都」大阪対「帝都」東京――思想としての関西私鉄』(講談社選書メチエ)以外、読んでいて感心した試しがない。加藤秀一のこの本もまた、その列に加わったというだけのことにすぎないのかもしれないが、こうした「自分語り」でしかないような本の濫造しか生み出さない、政治思想史とはいったいどういう学問領域であるのか?評者にはさっぱり理解できない。

長々と書いてしまって申し訳ない。
とりあえず羊頭狗肉でしかない書名は変更されるべきであろう。『<優生学>は何をもたらしたか』以外のなにものでもないのだから。いや、そもそも評者にとっては、『<政治思想史>は何をもたらしたか』を考えさせられる書物でしかなかったというのが、いつわりのない正直な感想である。

価格: ¥756 (税込)


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Last updated  Nov 12, 2005 10:15:10 PM
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