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2012年03月01日
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カテゴリ: カテゴリ未分類

今回から月が替わって、 平成24年(2012年)3月 。いつも、私の ブログ チューさんの今昔ばなし 」 を見てくださって有難うございます。

この ブログ では、昭和の初めから、私が見たり、聞いたり、体験したり、したことを、ほぼ年代順に書いています。今は、 昭和48年(1973年)10月 から始まった 第一次オイルショック の時代に入っています。

このブログは、私の想い出日記ですが、同時に一庶民が体験し見てきた、 日本国の移り変わり

歳とった者には、もはや力はありませんが、国の盛衰、世の中の移り変わりは、充分に見てきました。過去を振り返りながら、資料を調べながら、さらに続けて行きたいと願っています。



私は、 ブログ とは別に、 チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド という ホームページ を開設しています。ぜひご覧ください。

このブログ各ページの画像や文章には著作権があります。無断転載転用はお断りします。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

さて、 昭和48年(1973年)10月 から始まった オイルショック は、当初勢いのよかった 田中角栄内閣 に強烈なダメージを与えました。

日本列島改造論 オイルショック で多くの生活物資が隠匿され、 トイレットペーパー・パニック に象徴される 生活用品不足 物価の急上昇 を招きました。 電気料金 は50パーセントも値上がりしました。

そこへ、 田中角栄首相 政治資金 の出どころが問題となりました。いわゆる 田中金脈問題 です。 田中首相 金権政治 に対する批判が自民党(自由民主党)内でも噴出し、 三木武夫 副総理、 福田赳夫 大蔵大臣 が辞任して、閣外に去る事態となりました。

田中首相 は記者会見などで 金脈問題 の弁明に努めましたが、これを徹底的に調べ上げる評論家などもいて、疑惑はいっそう広がりました。


記者会見で弁明する田中首相
記者会見で金脈問題を弁明する田中首相

マスコミは自民党内の内紛を “ 三角大福大戦争 ” と名づけて報道しました。 三角大福 とは、 三木武夫 田中角栄 大平正芳 福田赳夫 のことです。


田中角栄・三木武夫・大平正芳・福田赳夫

この4人に 中曽根康弘 を加えて、この時期から、自民党はこの5人を領袖とする、およそ 5つの派閥 から構成されるようになったと記憶しています。このうち 田中派 は、群を抜いて多数の国会議員を擁する大派閥でした。

自民党は保守合同で成立した政党なので、成立当初からいくつかのグループがありました。

しかし、昭和30年代から政権を担当して来た 岸信介・池田勇人・佐藤栄作 のいずれもが旧帝国大学卒の官僚出身で、 岸信介 佐藤栄作 は実の兄弟、 池田勇人 佐藤栄作 は ともに 吉田茂 に引き立てられた、 吉田学校の優等生 という間柄で、深刻な対立関係はなかったと思います。

そこへ全く毛色の異なる 田中角栄 という人物が政権担当者となり、自民党の内情は大きく様変わりしました。そのうえ、日米の 中華人民共和国との国交回復 オイルショック で、世情も転換しました。

第一次オイルショック で諸物価が高騰し、“ 日本列島改造論 ” の施策も大幅後退・延期せざるを得なくなりました。

国会で 政治資金 の 金脈 を鋭く追及され、 昭和49年(1974年)7月 の 参議院選挙 で自民党は大敗、これで党内の他の派閥に背を向けられ、田中退陣要求のデモが全国で起こる状況となって、 田中角栄 昭和49年(1974年)11月26日 に辞意を表明。

後任の自民党総裁には、椎名副総裁 の裁定で 三木武夫 に決まり、 田中内閣 は総辞職。12月に 三木内閣 が発足しました。

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田中角栄 は、新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)の出身。父の事業不振で貧困の中、高等小学校卒業。東京に出て、夜間の中央工学校に通い、1級建築士の資格を得て、土建会社を創業。戦後に衆議院議員を志して2度目に当選。佐藤派に属して頭角を現し、30歳代で岸内閣の郵政大臣。

田中角栄 は、この経歴のとおり、立志伝中の人物で、人心収攬(じんしんしゅうらん)の術に長けていました。議員の病気見舞いに行くときには、200万~300万円の見舞金を持参したといわれます。

人心収攬術は金だけでなく、議員の祝祭行事には自身が出向き、他の派閥や他の政党の議員にも労を惜しまなかったそうです。

総理大臣辞任から1年余りのちの 昭和51年(1976年) になって、アメリカ上院外交委員会 で、 ロッキード社からの献金事件 が表面化し、同年7月に東京地検は 田中角栄 を収賄容疑で 逮捕 しました。全日空 が購入機種を決めるに際して、 田中角栄 が5億円の収賄を受けたという疑惑です。


ロッキード社のL-1011トライスター
全日本空輸が購入したロッキード社のL-1011トライスター

しかし、 田中角栄 が刑事事件被告人となってからも、田中派 の勢力は衰えず、以後の自民党総裁・総理決定の主導権を握り、 田中角栄 は、政界の隠然たる存在であり続けました。

昭和60年(1985年)2月 田中角栄 は脳梗塞で倒れ、行動と言語ともに不自由となり、政治活動ができなくなりました。 平成2年(1990年) 政界を引退。 平成5年(1993年)12月16日 、75歳で死去。 ロッキード事件 は、上告審の審理途中で 公訴棄却 となりました。


田中真紀子
田中真紀子

田中角栄 の選挙地盤は、長女の 真紀子 が引き継ぎ、 真紀子 は、のちに自民党で 外務大臣 を勤めました。その後 民主党 に移り、現在は 真紀子 の夫の 田中直紀 が 防衛大臣 となっています。







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最終更新日  2014年06月12日 17時21分14秒
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